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問題児ハスラーとの決別の続きとなる今回はデリカの下取り価格と次の車となる予定のフリードとシエンタの商談について。そもそもこの二車選択に当たって、実家の両親の乗り降り、かみさんが運転する場合を想定すると4駆と大きな車体は無理、しかも自分やかみさんが高い座席へ上るのに「よっコラショ」と声が出るようになった。上は某デーラーの下取り価格算定根拠として出してきたもの。ハスラーは71万で売却済み。残るは21年乗ったデリカが下取りとなる、そのデリカも20万とのこと。ここでハスラー同様に一括見積に出したところ、下はこの20万で上は某社で41万で、この先乗っても下落する事は少ないと出た。所謂付加価値と希少性が評価されているようだ。ならばこの下取り額を指標にメーカーと交渉するが、なかなか40万までは届かない。現行フリードは2024年のモデルチェンジで最新のもの。候補はクロススターHEVモデル。試乗しましたが、セカンドシートをフラットにした場合、荷室はフラットになるものの、座面が全席後方に立って残り室内長が狭められる、後部荷室とシートの隙間を埋めるためのボードを付けなければならず、完全なフラットではない。気になる点車椅子の収納を念頭に入れているため、床が低くリアゲートの開口が大きく、慣れないと体にあたる。良い点荷室のボード下の床面に窪みがあり、テントやタープくらいなら縦に収容できる空間がある。装備としては最新式のため電子サイドブレーキが運転席中央に付くので、万一の時は助手席で車が止められる。outdoorをイメージさせるCM作りですが、荒れたキャンプ場などでは気を遣うので普通の乗用車。この車種は3ナンバー登録となります。フリードクロススターHEV見積。(下取りはハスラー金額)この車とにかく後付けするものが多く、それら部品代・取付工賃がプラスされるので合計金額は400万近くの車になる。課長クラス対応の値引きは一声3万。ここに先程のハスラー下取り50万が加わり、それでも330万の出費となる。ハスラーは既に買い取り業者に71万で売却済みなので、デリカの場合360万となる。結論として価格に見合う程、外観・内装に優位さがなく、値引きも渋いので、しばらく待った方がいい。現行シエンタは2022年のモデルチェンジ。そろそろこなれて不具合は抽出された車と思われ、グレードは3グレードあり、上級グレードZ、G、Xがあり、街中でもよく見られ大半がZグレードのようだ。我が家は中間グレードのG・HEVを候補にしています。ZとGのどちらを選択するかは、外観のフロントのキラキラやテールランプのデザインを好むかどうかだと思います。かみさんはそれら受け入れられないのでGグレードで交渉。アルミホイールのデザインも好みでないのでノーマルホイールとした。シエンタの良い点セカンドシートがフラットに収納されるので凸凹は少ない事。荷室は若干狭くなるが、全席と荷室に余裕があるので、その空間を板等で埋めれば就寝スペースが広がる。全車は5ナンバー登録となります。気になる点前席のドア開閉ノブが使いづらそう、オプションのカーテンが後席以外マジックテープ。サイドブレーキが今もフット式。余程整備されたキャンプ場でなければ行けないかもしれない。落石ゴロゴロの林道も相当気を遣いそうな車。両車に通じるマイナスポイントがスペアタイヤなし、最低地上高が低い、あと2センチ高いと有難い。評価できるのは、女性を対象とするためか両車ともに運転もしやすく、ハンドル操作はどちらも軽く、特にフリードは軽すぎる印象すらあった。街乗りではなんら不満はないと思う。結論として、マイチェンの噂もあり(その際電子サイドブレーキになるとも)、値引きもそこそこ期待できる。拘りが無く二車を選択するなら、シエンタかと思います。一方のシエンタは同じ内容を求めた場合、既に標準で付いているものもあり、取り付けるものは減る。値引きは一声53000円、2年経過しているが強気の価格だ。一般営業職の値引き枠上限は10万で線が引かれています。見積当時の値引きが5万。ここに同じデリカ下取り20万の相場価格が加わる事になり。総額は約260万となる。車両総額でフリードとはざっくり100万の差がある。そうして見ると外観からクロススターにその差があるかと言えば、値段の割にチープに感じてしまうのは自分だけか。今は値引きの渋いクロススターはしばらく待った方がいいのかもしれない。購入候補としてクロススターはここで対象外となり、シエンタ1本で交渉を行い、最終的に下取り値引き込みで50万を車両総額から割り引いてもらいシエンタG・HEVで契約しました。因みに同クラスの中古車価格が250万前後なので頑張ってくれたと思います。長年ノントラブルでどんなところでも連れて行ってくれたデリカ。スタックする車を助けた台数は2台。そんな相棒ともあと少しの付き合いとなり、20年の出来事が浮かんでくる。納期は来年春、その間はデリカで野山に出かけられる。本音はまだ〃乗りたいが、部品供給も難しくなり、長年乗るなと云わんばかり、ストックで買っておいたパーツを最後の御奉公で交換してやるかな。今の税制や部品供給体制は長年乗らず、買い替えろと云わんばかり。脱炭素・エコと称して大陸の安価なEVにまで補助金を垂れ流し買換えを促すが、EVはまだ未成熟。車が変わると、キャンプや山岳路、雪道では意識を改めないと痛い目に遭いそうですが、20代から続いた4駆とオフロードも卒業する時がきた。二回に別けて記載しましたが、この二車の新車を選択している方、愛車を手放す方、なにかの参考になれば幸いかと。関連記事・問題児ハスラーと決別
2024.09.30
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名古屋市守山区森孝3「三十三観音堂と道標仏」前回の天王社から7分程西に向かった山口街道沿いに鎮座します。幅員の狭い交差点の南東角に鎮座する三十三観音堂全景。左の道を直進し、東名高速をくぐってしばらく行けば天王社が鎮座する西山町に至ります。この辺り、明治頃は東春日井郡大森村大字森孝新田で、昭和に入り守山市大字森孝新田、昭和38年に名古屋市に編入された地域で、矢田川左岸沿いは一面田んぼの広がる地域でした。昭和に入り急速に宅地化が進み、それとともに田畑も減少し、今ではあまり見かけなくなりました。交差点から見た三十三観音堂。左の小さな覆屋と観音堂が西向きに連なり、右手の建物も観音堂のお務めするため建物だろう。左の覆屋には一体の馬頭観音が祀られています。光背に「右せと 左のふらい 」と刻まれており、山口街道り道標として祀られたもので、年号までは分からなかったが、風貌から江戸時代後半のものだろうか。右手の観音堂。三十三体の観音像が安置され、西国三十三所の観音霊場の本尊が安置されている。今のように誰もが簡単に巡れなかった時代、地域の代表が霊場を巡拝する講が組織され、地元に戻るとその証として像を安置、巡礼に行けなかった者はそれを拝むことで遠い霊場を巡拝した気持ちを得た。これらの像の銘が見えず、年代は分からなかったが、素朴な顔立ちの三十三体の像が収められ、今も地域から崇敬されているようで、堂内も綺麗に維持されていました。ここの細い路地を南に進むと弘法堂や八劔神社などあり、守山区森孝・四軒家地区散策コースになっているようです。周辺は細い路地が入り組んでおり、駐車余地はありません。三十三観音堂と道標仏創建時期 / 不明所在地 / 名古屋市守山区森孝3-1509関連記事・天王社(尾張旭市西山町)過去記事・名古屋市守山区森孝『八劔神社』
2024.09.29
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人生最後を飾る車の選択長い人生、無駄とは知りながら何台も車を乗り継いできました現在、2003年式の三菱デリカスペースギヤと2014スズキハスラー(4WDノンターボ)は2台所有してきました。ゆくゆく息子にと思っていましたが、独り立ちした息子達は車を所有しない方針(正解!)なので一人で乗り回してきましたが、軽の車検も迫り、車を一台に整理する事にしました。まずは真っ先に手放す2015スズキハスラーについて。『2015スズキハスラー』この車は新車(下取り除く150万)で購入した時から問題が多かった。・製造年月日の虚偽(今契約すれば今月中に納車可能)と云われるが、急がない翌月でよいとした。 これは後の原因不明のトラブル究明のおり、製造ロット調査依頼の際に製造日が契約半年前に製造され、モータープールで眠っていた在庫車と判明。【原因不明のエンジンかからない件】 1.新車として納車され2週間目、自宅でエンジンが始動せずスズキを呼び現認の上で要因調査と対応を求め引き取らせる。 2.1か月後、何の要因も分からないまま、瑕疵がないので安心して乗って欲しいとして納車される。 3.再び再発(二回)、1.2の繰り返し。 4.再発、要因究明を依頼、判明するまで受け取りを拒否。 5.4.の報告の際、調査結果・ロット調査の際に半年前に製造された在庫車両と判明、車交換を申し入れるも、瑕疵がないの一点張りで拒否。(要因も突き止められず瑕疵無し、再発を繰り返す事実もある中、スズキアリーナの姿勢と営業マンに不信感) 6.全ての整備・保険・営業のポイント稼ぎにJAFなど加入したが、アリーナから別の業者に切替、縁を切る。【その後】営業所は統合し東区に移転・新店舗となるが、所長やセールスマンは現在もいるようだ。その他トラブル、シフトレバー切替不具合で交換・安全センサーの過剰な反応・コンピュータ交換など山や電波の通じない遠出には使用できない車として扱って来た。【長所】・小回りが利き維持費が安い・燃費はCM公表値の半分程度だがデリカよりまし。【短所】・軽にしては燃費は想定値以下、満タン450㌔程度。・情報パネルの情報が馬鹿(不要な安全運転ポイントやhaloの表示) 燃料残量一目盛りになると、後続可能距離を表示しない、オドメーターは画面を変えないと出ない。 ドアを開けると画面も切り変えられない。 無意味な表示より時計やオドメーターの常時表示が欲しい。・一般的になってしまったがスペアタイヤがない、バーストすれば戻ってこれない。・安全装置の感度が敏感で誤作動多く、ワンボックスが割り込むだけでブレーキが作動し、次の加速が抑制され、後続の車から見るとぎくしゃくした危ない動きをする。・純正タイヤサイズが市販でも高い。・安全装置精度が低く誤作動が多い、制御を切っても、エンジン切ると再びONになる。・軽ゆえか車間を取らず詰められる、被せるように車線変更される。・積雪5センチ降雪しただけでドアミラーが展開できない。総括・人生初めてスズキを買ったが二度と買う事はない。・普通車も高騰するなか、200万近いが軽の価格の安さは魅力かもしれない。・・・が軽以外の選択肢もある・それなりに装備も付くが、センサーの精度が悪く信頼度に欠ける、ナビの画質も悪いので後方画像が不鮮明。CMのイメージからoutdoorで使用するのであれば、最低地上高の低さは行動制限、慎重な運転が求められ、用品一式積載し二人乗車時の山道は騒がしくて辛い。ヤリスの方が燃費も走行安定性も上回る。2015年式、車検1ヶ月を残したハスラー4WD Xノンターボ、走行72,000km買取業者の一括査定は以下大阪 A業者 即決なら 40万H社新車デーラー下取り 50万新聞を賑わした買取業者 70万ということで某モータースへ冬用タイヤ付71万で売却。一般的に売却する場合の残価率は3年で50〜60%、5年で40〜50%、7年で20〜30%とされるようです。この200万の車、9年乗って71万、35%なので良い条件とは思います。この金額が妥当なのかはともかく、30万の差が生じる事は事実です。即決なら幾らと煽られますが、下取する前に調べて見るべきでしょう。また中古車相場は年式・走行距離考慮すると高騰しており、中古のお値打ち感は過去の話の様ですね。この車、130万浪費し、これ以外に任意保険9年分、車検・点検、消耗品交換、燃料、自動車税諸々約170万を合算し、日割り計算で一日1000円が消え、1㌔移動に40数円掛かった事になる。 息子達にやると云っても「いらん」と云われる様に「車は無駄な消耗品」が正解だろう。デーラー・サービスマンの当たりが悪かった事例だが、短所が分かったうえであれば車自体は悪くはないと思いますが、自分は今後スズキはお断りだ。漸く問題児と縁が切れた。1台にするための候補車はかみさんが決めますが、フリードかシエンタの二択になりそうだ。そのあたりの商談、デリカの下取りについては改めて記載します。
2024.09.28
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来る9月28日、近鉄電車の観光列車「つどい」に乗って「三重の地酒 ほろよい列車」が名古屋から運行されます。運行区間は名古屋➡鳥羽間を結ぶもの。車中では三重の7種の地酒の試飲ができ、蔵元の商品紹介を聞きながら、三重の食材で作られたアテを味わいながら鳥羽まで揺られていくもの。往復の乗車券付なので鳥羽到着後は好きな時間で帰ります。残念ながら車中でお酒の販売はなく、試飲も飲み放題ではないので、つまみや酒類の持ち込みは自由。運行日時:24年9月28日(土曜)運行時刻:名古屋10:06 → 鳥羽12:37、帰路は各自旅行代金:¥85008月に駅西の神社を巡ったのはこのイベントの参加申し込みの為だった。近鉄のイベント申し込み・チケット受け取りはアナログで、営業所に行かないと手続きができず、面倒と言えば面倒。改良の余地があるが、自分には神社を探す(歩く)動機にもなるのでアナログで助かっている。これが鳥羽まで運んでくれる観光列車「つどい」近鉄と言えば「近鉄マルーン」と呼ばれるシックな茶色がイメージカラー。上は近年リニューアルされる前の「つどい」、シックな色合いは個人的に気に入っていた。下がリニューアル後の車体色、「どうしたぁ」と思わせるほどポップな色合いにイメチェンされた。いまどきの流れなんだろうが、あすらろう鉄道の絵と重なってくるのは自分だけか。車内も内装・床・テーブルなど刷新されたようなので乗るのが楽しみです。試飲できる酒蔵は上の7蔵で、試飲と聞くと量的な部分が気になる、蔵開きで良くある30mlのあのカップか? やはり酒を持っていくか。車内で即売をしないのはやや残念だね。鳥羽で土産用の酒を探すしかないか・・・秋風も吹き出し、車窓の景色を眺めながらのんびりと行ってみよう、ひょっとして彼岸花も見られるかもしれない。
2024.09.27
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いつか息子たちに譲ろうと長年所有してきた2台の車。しかし、息子たちには車を所有する気もなく、軽自動車が5回目の車検を迎えることになりました。これを機会に我家の車を一台にするため、車検が迫った問題児の軽自動車を手放す事にしました。車の下取りのやり取りや、新車商談については機会を見て独り言として紹介するとして、その買い取り先が四軒屋だったので、引き渡しを済ませ、最寄りの引山バス停まで歩くことにしました。尾張旭市西山町の西山公園の東で天王社を見つけたので、今回はそちらを掲載します。尾張旭市西山町、この所在地表示の北側が天王社の鎮座地になります。上は大正9年(1920)の尾張旭市西山町界隈と現在の比較になります。鎮座地は少し前まで東春日井郡印場村の一部で、昭和53年(1978)印場の一部より成立した町で、北に矢田川、南に香流川と二つの河川に挟まれた地域。当時と比較して水田はなくなり、周囲は舗装された道ばかりの造成された住宅地となり、体感温度は名古屋市中心街と変わらない。むしろ大きな影を落とすビルがない分だけ暑く感じる。西山公園南東角から公園の眺め。大きな樹も聳え日陰を作ってくれているので熱波から一時避難するには有難い存在だ。天王社は公園東側のビルの北側に鎮座します。この辺りの天王社というと守山では赤い社の印象が強いけれど、こちらの社はそうではなかった。西山町の天王社全景。大きな覆屋の中に板宮造り小さな社が祀られています。社標などはなく、赤くもないので天王社感を感じないけれど間違いなく天王社です。覆屋正面全景。大きな覆屋の中の小さな社。この神社の由来や地図から創建時の推測は分からなかった。覆屋内の社の扉に天王社の社名があり、祭神は恐らく素戔嗚尊と思われます。田んぼが広がっていた森孝新田の北東の小さな集落の守り神、或いは住宅街となった西山町の守り神として祀られたものか定かでなく、境内に寄進年など刻まれた寄進物もないので推測が出来ません。西山公園から眺めた覆屋。覆屋や社など手入れが良く、社頭に提灯櫓もあることから、地域では知られた社と思われます。天王社創建 / 不明祭神 / 不明祭礼 / 不明所在地 / 尾張旭市西山町2-6-4参拝日 / 2024/09/17公共交通機関アクセス / 基幹バス2で四軒屋西口バス停降車、北へ徒歩10分
2024.09.24
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貝津神社から南の県道58号線を右折、一本目を左折して伊保川を越えた右側に赤い幟のはためく小さな堂を見付け立ち寄ってみました。赤い幟が立つお助け地蔵から南の眺め、伊保川沿いの田んぼが広がる一帯に貝津町、猿投山の眺め。この道を更に南に上ると高台の伊保原町に至ります。緑の看板は貝津町リサイクルステ―ション。上は明治頃と現在の周辺の比較です。これまでは伊保川左岸を巡って来ましたが、今回は貝津神社から車で2・3分程の伊保川右岸にやってきました。大きく変わっていないように見えますが、山にはゴルフ場、丘陵地は造成され里山は住宅地へ姿を変えている事が分かります。お助け地蔵全景。祠はリサイクルステ―ションの入口左に鎮座しています。たくさんの赤い奉納幟がはためくお助け地蔵、これがなければ素通りしていただろう。切妻の拝所と開けっ放しの堂で、左に緣起が刻まれた石碑が立っています。地蔵堂としては奉納旗の数が多く、それだけ地元で親しまれている証だろう。「地蔵尊の緣起大正の中頃、詠歌講六人あり、その中の深見はま女、霊夢の中に「湧き清水のほとりに地蔵を祭って人々の幸せを守るように」とのお告げを受け、講の人々と相談して地蔵尊を建立した。 その前に、きれいなおいしい清水が滾々と湧いて桶からいつも流れ出ていた。通行人、村人たちは、この清水に喉をうるおし、 お地蔵様にこの清水をおかけしては、お参りして幸せをを願い「水かけ地蔵さん」と呼んて親しんでいた。 重病で食物が喉を通らないとき、この清水て命をつないだとも伝えられている。時移り第二次世界大戦起り、伊保原に海軍飛行場が建設され、このあたりもその一部となった。 終戦時、世は混乱し、お堂も傾き清水の桶もなくなったが気にとめる人もなかった。 昭和24年、渡辺広吉氏夫妻が当地に来住され、ここに休むおり、草むらの中に放置されている地蔵尊に気づき、ほこらを起して清掃し信仰をしていた。 昭和37年水野元夫氏や渡辺広吉氏が中心になり、村人や少年院の方々の援助によってお堂は完成した。 人々、尊像の多くのお助けに誰いうことなく「お助け地蔵」と呼ぶようになった。雨来益々参詣する者多く「祈願してかなえられざることなし」と信者いや増し村人そのお慈悲に感謝している。平成6年六月吉日 お助け地蔵奉賛会 」ここにあった伊保原の海軍飛行場の場所について、過去の地図や航空写真で調べて見たが地図には現れなかった。ここから南の愛知少年院の南側に、東西に2㌔程の直線道路が延びており、このあたりが滑走路の跡と言われています。(右の地図の赤線部分)お助け地蔵の鎮座地も基地の一部とあるので、かなり大きな規模だったと思われます。終戦が昭和20年、草むらの地蔵尊が見つけられたのが昭和24年、終戦直後の混乱の時代、人々の記憶から地蔵が忘れ去られるのも当然かもしれない。お助け地蔵祠の正面全景。大きなおたすけ地蔵尊の額の先には二体の石像が安置されています。手前の椅子に腰かけ、内に抱えた悩みを聞いてもらうのだろう。堂内の石像。左がお助け地蔵で、右の像の詳細は良く分からなかったが、戦前、戦後の混乱の中で野に打ち捨てられていた地蔵。お告げを受け人々の救済のために地蔵を祀ったその思いは、その後もこうして受け継がれている。悩める人を助ける地蔵と人々の助けにより護られているお助け地蔵、ともに助けられ存続している。お助け地蔵創建 / 大正中頃祭神 / お助け地蔵境内社 / ・・・所在地 / 豊田市貝津町西向畑参拝日 / 2024/09/06貝津神社から 車移動 / 貝津神社から南へ県道58号線を右折、一本目を左折、伊保川を越えた右側移動時間2・3分程関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社
2024.09.23
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貝津神社。貴船神社から南東へ5分程の伊保川左岸鎮座し、社地裏側には愛知環状鉄道が横切っており、道路を隔てた西側に栄岳寺と隣接しています。江戸時代は三河国加茂郡殿貝津村で、明治11年西加茂郡に属し、同22年伊保村の大字殿貝津となる。その後も保見村大字殿貝津、猿投町大字殿貝津、豊田市大字殿貝津など編入を繰り返し現在の住所となる。周辺一帯には当地の盟主を埋葬したと思われる6世紀頃の根川古墳群があり、猿投山南部のこの平野には古くから人が居住する地域で、その後も飯田街道(下街道)が作られるなど、物資移動の要衝地となり古城も点在する地域です。社頭は県道58号線の貝津町鉄砲迫信号を左折し一筋目を右折した左にあり、貝津町区民会館と敷地を共有しています。社頭は石造の明神鳥居と右側に村社貝津神社の社号標が立っています。上は明治24年と現在の鎮座地の比較で、当時の地図にも鳥居の記が見られます。集落周辺は水田の広がる一帯で、当時の殿貝津集落の中心に鎮座します。社頭右から境内の眺め、左の寄棟の建物は栄岳寺。社号標は大正11年、鳥居は昭和17年に寄進されたもの。鳥居前を守護する狛犬。鳥居扁額は貝津神社。鳥居から境内の全景。左に手水舎、右に社記があり、正面の社殿と本殿左右に境内社が祀られています。手水舎と龍口。三本指で凛々しい姿の龍ですが、口元は苦しそうでもある。境内右の由緒。「貝津神社社記。鎮座地 豊田市貝津町柚ノ木83番地祭神 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命 、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市寸島毘売命、多岐都毘売命。 社殿には、天照大御神と建速須佐之男命との誓約の際になした、五男三女神が祀られている。社格 旧村社、十二等級由緒 社伝によれば、今から871年前、75代崇徳天皇の御代、平安時代後期の天治元年(1124)に八王子が勧請されたとある。 又、仁孝天皇の御代江戸時代後期、天保13年(1842)に神祇官により八王子大明神が奉幣、八王子様として住民から親しく呼ばれ、殿貝津の氏神として崇拝されている。 明治5年、郷社定則令により村社に列するとともに貝津神社へ改名された。社殿 昭和3年に改築、翌年に神門、玉垣、社務所を改築。 現社殿は昭和43年神明造へ、社務所は平成3年に改築。境内神社 白山神社・御鍬神社・津島神社・天山祇神社・神明社。神事 10月12日(または第二日曜日)」猿投周辺には八王子を祀る神社が多く、この神社もその一つのようです。「隣村が祀ったからうちも」なんて動機ではなく、数々ある神の中から、八王子を祀った背景は自分自身未だ分かっていません。拝殿正面全景。一対の狛犬と入母屋瓦葺の鉄筋コンクリートの拝殿。拝殿前を担当する狛犬。寄進年は見忘れましたが、社頭のものに比べ新しいように見えます。拝殿右側から社殿全景。左が社務所になります。貝津神社拝殿額。拝殿内の眺め。拝殿内には五三桐と丸に十字紋が見られ、中央の蟇股にも丸に十字紋が入れられており神紋は十字紋だろうか。拝殿鬼や軒丸瓦にも丸に十字紋が入る。本殿側面。本殿後方から拝殿方向の眺め。本殿は鰹木4本、外削ぎの置き千木が載り、鬼板には五三桐の紋が入れられています。本殿の裏は一部公園で本殿後方に境内社の覆屋あります。覆屋右側の社。他の社には木札が掛けられていたが、こちらにはなく社名は定かではない。右が吉野の行者、左が稲荷と書かれた木札が掛けられています。右から「ちゅうき」、「金毘羅」、「愛宕神社」、「秋葉神社」、「稲荷大明神」。これらの神社は平成26年、秋葉神社一本化に伴い愛宕山より移設されたものといいます。京都の愛宕山とも思えず、周辺地図から愛宕山を探して見たが、御船町の愛宕神社を指すのだろうか特定できなかった。覆屋から本殿後方の眺め。本殿右側に神明造の社が祀られています。本殿後方から行くことができず、拝殿左に向かう。拝殿左から先程の社に通じる参道。右手の神明造の社は津島神社、左手の社の常夜灯に社名が刻まれている。貝(具かも?)渓(?)神社とも読め、調べて見たが詳細すら分からなかった。二社の左から覆屋方向の眺め。すぐ後方には愛知環状鉄道の線路が続く、電車で訪れるなら貝津駅が最寄り駅になります。境内西側の道路から北の眺め。そろそろ彼岸花を見かけるようになる時期、この土手沿いにも彼岸花が彩りを添えるのかもしれません。こう暑いと彼岸花は花の成長を止めると聞きます。未だ熱風が吹き抜け、秋風とは程遠く、彼岸花の花期はいつもより遅れるのかもしれません。貝津神社創建 / 天治元年(1124)祭神 / 五男三女神境内社 / 白山神社・御鍬神社・津島神社・天山祇神社・神明社所在地 / 豊田市貝津町柚木34 参拝日 / 2024/09/06貴船神社から貝津神社 車移動 / 南へ進み県道58号線で左折、貝津町鉄砲迫信号を左折、一筋目を右折移動時間5分程関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社
2024.09.22
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琵琶湖西岸の大津市南部の長等山中腹に鎮座する天台寺門宗の総本山。山号を長等山と号し、正式名は園城寺で三井寺として知られ、三井寺は西国三十三所第14番札所でもあります。先に掲載した三尾神社から、北へ3分程の園城寺前交差点を左折すれば三井寺になります。三井寺総門。駅から訪れるとこの総門にたどり着きますが、私達はこのまま直進し園城寺前交差点から仁王門に向かいました。石垣沿いの歩道を歩いて行くと、左手に三井寺の鎮守社のひとつで鬼子母神を祀る護法善神堂へ続く小さな門が現れます。更に直進し園城寺前交差点を目指します。交差点を左折すると仁王門が現れます。左が駐車場で、更に進むと護法善神堂に至ります。ここでひとつ、護法善神堂の参拝は仁王門をくぐる前に済ませておかないと、後回しにして観音堂まで行くと戻るのが厄介になり、結局参拝せずに終わてしまいます。三井寺境内マップ。マップのように広大な境内には多くの伽藍が点在するので、帰りの電車を気にしながらだと回り切れないかもしれません。西国14番札所園城寺(三井寺)表門の大門(仁王門)。宝徳4年(1452)の建築とされ、もともと湖南市西寺鎮座の常楽寺の門で、秀吉により伏見城に移築、後の徳川家康が慶長6年(1601)に園城寺に寄進した入母屋檜皮葺で三間一戸の楼門。両脇の間には康正3年(1457)に制作された金剛力士像が安置されています。門前から境内の眺め。左右の間に安置されている金剛力士像は、運慶作ともされるようですが、康正3年(1457)制作となると運慶は作れないような。作者はともかく、網の向こうの像の表情は力強く、一部に彩色の跡も残っています。参道右の食堂。桁行七間、梁間四間の入母屋檜皮葺の建物で、正面からの眺めは安定感のある姿をしています。解説には本尊は清涼寺式釈迦如来立像を祀り、須弥壇は室町時代のもので、建物は文政13年(1830)に唐破風向拝が増築されたもので現在は釈迦堂と呼ばれています。宮中の清涼殿を三井寺に移築したものとされます。清涼寺式釈迦如来立像解説。清涼寺式とはなんぞやと思ったが説明されていました。「着衣は袈裟を通肩に着し、上半身は首元からさざなみが広がるかのように同心円状に衣文を表し、下半身は大腿部の隆起に沿って茶杓状に衣文を交互に配しています。下半身には裳を二段に着しています。右手を施無畏印、左手は与願印とし蓮華座上に直立しています。このような図像を持つのが京都市清涼寺に伝わる木造釈迦如来立像です。東大寺僧然が入宋中にインド伝来という釈迦如来を模してさらに我が国に請来した像で三国伝来として有名な像です。この生身の釈迦ともいわれるこの像を模刻したのが「清涼寺式 釈迦如来」とよばれる。」堂前から堂内方向の眺め。正面が清涼寺式釈迦如来立像。食堂左の辨財天社。天和三年(1683)の建立、学問・技芸の御利益がある。食堂から先の参道は石段の左に手水舎、正面の石段の先が三井寺金堂。手水舎。金堂水由来園城寺金堂は白鳳8年、天智弘文天武勅願により建てられ、本尊は弥勒菩薩で、金堂畔の閼伽井屋には三井の霊泉が今も湧き続けている。龍口。天智、天武、持統の3代の天皇の産湯として三井の霊泉が用いられたことから「御井(みい)の寺」と呼ばれ、後に智證大師円珍が三部灌頂の法水に用いたことから「三井」と呼ばれ三井寺と変わっていったようです。石段の脇には城壁のような石垣が続き、この石段を上れば金堂です。境内右手の金堂後方にある教待堂。教待和尚の御像を安置しており、教待和尚は智證大師入山まで当寺を護持していた老僧で、 大師を迎えるとともに、石窟に入り姿を隠したといいます。のちに大師はこの石窟上に一宇を建て廟としたもので、この堂は慶長四年に再建されたものという。境内左手に近江八景「三井の晩鐘」で知られる鐘楼があります。切妻檜皮葺で、周囲は腰板で囲われ、その上には縦格子が入れられた特徴のある建物です。吊るされる梵鐘は、慶長7年(1602)に当時の園城寺道澄師の発願によって「弁慶の引き摺り鐘」を模鋳した二代目という。この梵鐘には弁慶に纏わる伝説や不思議な言い伝えが残ります。金堂(本堂)。現在の金堂は慶長4年(1599)、北政所により再建された、入母屋檜皮葺で三間の向拝を持つ重厚な建物で、内部は外陣・内陣・後陣の三区画に別けられています。本尊の秘仏弥勒菩薩は内陣に安置されています。伽藍は金堂の西側に閼伽井屋、一切経蔵、唐院潅頂堂、裏側に教待堂、熊野権現社。南に微妙寺、西国14番札所観音堂と鎮座します。三井寺の創建は定かではありませんが、7世紀に大友氏の氏寺としてはじまったようです。平安時代の第五代天台座主・智證大師円珍和尚により、天台別院として中興され、源平の争乱、南北朝の争乱等の焼き討ちに遭いましたが、都度復興され不死鳥の寺として今日に至ります。現在の金堂は、豊臣秀吉の正室・北政所によって慶長4年(1599)に再建されたもので、重厚さのなかに檜皮葺の屋根が美しい建物で、堂内は、外陣・内陣・後陣に区切られ、秘仏の本尊・弥勒仏を祀る内陣中央は、床を張らず一段下げて土間にするなど、天台系密教仏堂の形式を伝えています。金堂の正面に建つ石灯籠「堂前灯籠」天智天皇が大化の改新で曽我氏一族を滅亡させ、その罪を消すため天皇自らの左薬指を切り、この灯篭台座に下に納められている。燈籠の別名を円城寺金堂無名指燈籠というようです。金堂左から閼伽井屋(左)の眺めと金堂向拝の意匠。金堂左の閼伽井屋。閼伽井屋正面の蟇股に施された左甚五郎作の龍の彫刻と霊泉。耳をすませば、ボコッ・ボコッと地下深くから湧き出る霊水の音が今も聞こえます。金堂後方の智證大師円珍像。 弘仁5年(814)、現在の香川県善通寺市に生まれ、弘法大師空海の姪にあたります。15歳で比叡山に登り、延暦寺の義真に師事、12年間の籠山修行にはいられ、後に延暦寺の学頭となる。 仁寿3年(853)、新羅商人の船で入唐、同年8月に福州の連江県に上陸。以後、天台山国清寺に滞在しながら求法に専念。斉衡2年(855)には長安を訪れ真言密教を伝授された。 天安2年(858)、四百四十一部一千巻の貴重な経典をたずさえ唐商人の船で帰国。帰国後、一時故郷の香川県に居住、後に比叡山の山王院に居住し、貞観10年(868)に延暦寺第5代座主となる。 これに先立つ貞観8年(866)に三井寺の長吏に補任され、三井寺を伝法灌頂の道場とした。寛平3年(891)10月29日、78歳をもって入滅される。 24年間の長きにわたり仏法の興隆に尽くされました。その門下には5百余人の弟子が育ち、教えを受けた人々は三千余人といわれています。 三井寺には国宝の智證大師像など多くの像を所蔵しています。金堂後方から大日如来坐像の眺め。像高は約95㌢、ヒノキの寄木造の像で、以前は境内の長日護摩堂に安置されていたといいます。堂内は拝観できますが撮影禁止で間近で拝観でき、天眼鏡はOKです。拝観後金堂後方に廻ってみたところ、開け放たれ扉の先に大日如来坐像を眺められました。熊野権現社。檜皮葺で桁行3間、張間2間で正面に3間の向拝が付くもので、神仏習合時代の名残を留めています。「智證大師が入唐求法され法華、密教の奥儀を究め、大峯・熊野三山の入峯練行された事跡に則り、平治元年(1159)当地に熊野権現を勧請、三井修験道の鎮神とされた。現社は天保8年(1837)の再建」とあります。霊鐘堂。熊野権現社から左に進んだところにあり、奈良時代に鋳造された初代梵鐘(弁慶鐘)が公開されています。この鐘には伝承があり、その昔、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したいう。その後、山門との争いで弁慶が奪い比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると「イノー・イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたそうだ、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒り、鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。霊鐘堂から南に進んで石段を上ると一切経蔵に繋がります。三井寺唯一の禅宗様建築で、慶長7年(1602)に毛利輝元により、山口県の国清寺(現在の洞春寺)の経蔵を移築したもの。宝形の檜皮葺で二層のように見えますがひとつの空間になっており、内部に一切経を納める八角形の輪蔵が据えられています。一切経蔵から南を眺めると目の前に三重塔が聳えています。慶長6年(1601)に徳川家康が寄進したもので、もとは奈良県吉野の比蘇寺(現世尊時)の東塔で、豊臣秀吉が伏見城に移したものを再び移建したもの。高さは25㍍で高欄が付き、組物は三手先。唐院潅頂堂(手前)と長日護摩堂。唐院は、三井寺の開祖・智證大師の御廟として三井寺のなかで最も清浄な聖域です。その名称は、大師が唐からもたらした経典・法具類を納めるため、清和天皇(850-881)から御所の仁寿殿を下賜され、伝法潅頂の道場としたことに由来するという。現在の建物は慶長年間(1596-1615)に大師堂の拝殿として、また密教の奥義を伝える伝法潅頂の道場として再建された入母屋檜皮葺で、正面に軒唐破風が付く。後方には唐門を構えた太子堂があり、潅頂堂はその拝殿的役割を持つようです。長日護摩堂は灌頂堂と渡廊下でつながる3間四方の瓦葺宝形造りの小堂で、後水尾天皇(1611-1629)の寄進により、寛文6年(1666)に建立されたもの。堂内に不動明王二童子像を祀り、人々の所願成就を祈願し護摩法が行われる。唐院潅頂堂の四脚門。解説板の内容は以下。「江戸時代(寛永元年1624) 檜皮葺。 現在の唐院は、正面に土塀をめぐらせた区域に四脚門を建て、西側の山手に向かって潅頂堂、唐門、大師 堂が一直線上に建ち並びます。四脚門は、寛永元年(1624)に建築され、当初は棟門形式でしたが造営後に控柱を添えて四脚門に変更したものです。 門前の石畳の参道に配された探題灯籠とともに聖域への入口として清浄な雰囲気をかもし出しています。」とある。上四脚門から潅頂堂の眺め。下参道に配された灯篭は歴代探題によって奉納されたもの。村雲橋。唐院潅頂堂の参道前から南に向かったところにある石橋。智證大師がこの橋を渡っている時に、中国の青龍寺が焼けていることを悟ったとされ、閼伽井の水を撒いたところ、橋の下から村雲が湧き、中国に向け飛び去ったという。翌年、青龍寺から鎮火御霊の使者訪れたという。携帯もSNSもない時代のことだ。参道突き当りの微妙寺。正暦5年(994)、慶祚阿闍梨による開基で本尊に十一面観音を祀る。「微妙寺は三井別所のひとつ。 別所とは、平安期以降広く衆生を 救済するため本境内の周辺に設けられた別院で、水観寺、近松寺、尾蔵寺、常在寺があり総称して「三井寺五別所」という。 往時に、除病、滅罪、開運の利益を求める参詣者が境内には溢れ、頭にかぶる笠が破れ脱げるほどであったことから「笠ぬげ観音」、「ばづれ笠の観音」として知られる。」創建時は本堂、薬師堂、三重塔の伽藍を有し、後に園城寺南院の別所寺院となる。現在の本堂は安永5年(1776)に再建された入母屋瓦葺の建物で、昭和54年(1979)長等公園の頂から三井寺境内のこの地に移転されたもの。本尊の十一面観音は平安頃のものとされる。秘仏金色不動明王は承和5年(838)、比叡山で修業中の智證大師の前に出現したもので、日本三大不動のひとつとされます。向かいの三井寺文化財収蔵庫(@600)では、十一面観音はじめ勧学院客殿障壁画や訶梨帝母倚像、智證大師坐像などの重要文化財の絵画や仏像が収蔵されている。本家力軒。微妙寺から観音堂に向かう途中にある創業1810年の茶屋。写真はこちらで出されている辨慶力餅。かみさん曰く「これを食べるため…」という事らしい。求肥餅にきな粉と抹茶、和三盆糖をまぶした柔らかい餅で、見た目ほど甘々ではなく二本は無理かなと思っていたが、ペロリとたいらげられる。タップリとまぶされた抹茶がポロポロ落ちるので食べ方には要注意。茶屋から右手に向かい西国三十三所14番札所観音堂に向かいます。毘沙門堂。観音堂に向かう参道の右側には、写真の毘沙門堂と十八明神社が鎮座します。毘沙門堂は境内の伽藍の中では珍しく、朱塗りで色鮮やかに彩色された建物。正面一間 側面二間の桧皮葺の宝形造で本尊は毘沙門天。元和2年(1616)に三井五別所のひとつで、尾蔵寺の南勝坊境内に建立され、明治42年(1909)に三井寺南院に移され、昭和31年(1956)に解体修理に伴いこの地に移築されたもの。桟唐戸の花狭間などの意匠が桃山時代の様式を留めており、現在の彩色は平成元年(1989)に復元されたもの。上十八明神社。三井寺の鎮守社のひとつで「ねずみの宮」とも呼ぶこともあるようです。その由来は、三井寺が戒壇道場の勅許を得たところ、比叡山延暦寺の宗徒の横槍により取り消されてまった。これを怨んだ頼豪阿闍梨が21日間護摩を焚き、比叡山に向って強く念を送り続け遂には果ててしまった。その後、この怨念が8万4千の鼠となり比叡山を駆け上り延暦寺に押し寄せ、多くの堂宇や寺宝、経典などを食い荒らし、いつしか、十八明神社をねずみの宮と呼ぶようになったと伝えられています。現在の社は天保7年(1836)に再建されたもので、社の正面は延暦寺に向け建てられています。下参道の先に写真の石段が現れればその先が観音堂です。石段上り口から見上げると左側に見えるのが百体観音堂で舞台造りの建物は観月舞台。樹々で隠れていますが右手に鐘楼があります。上、手水舎。石段を上り切ると正面に6角形の手水舎があります。明治14年(1882)に建てられたもので、屋根の上の露盤から下は水鉢を含めて全てが6角形。下、絵馬堂。絵馬堂は寛政13年(1801)に建てられた桁行3間、梁間2間の入母屋瓦葺で、四方は吹き放しの建物。名の通り絵馬を掲げるための建物で、ここから東には大津の街並みの先に琵琶湖が一望できる。上石段の右側に建つ鐘楼。文化18年(1814)の建立で、入母屋檜皮葺きで腰袴の付く立派なものです。下鐘楼内から梵鐘を見上げる。 かつては「童子因縁之鐘」と呼ばれる、不思議な伝承が伝われ梵鐘が釣られていました。「その鐘を鋳造する際し、当時の僧たちは大津の町々を托鉢行脚しました。 とある富豪の家に立ち寄り勧進を願ったところ、その家の主は「うちには金など一文もない。 子供が沢山いるので子供なら何人でも寄進しよう」との返事、しかたなくそのまま帰ってくるということがあった。いざ梵鐘が出来上がると、不思議なことにその鐘には三人の子供の遊ぶ姿が浮かび上がっており、 その日に富豪の子供三人が行方不明になったという伝説が伝わっています。 その童子因縁之鐘は先の大戦で供出され武器に姿を変えていった。上、百体堂。宝暦3年(1753)に建立された瓦葺の宝形造で、右手回廊で観月舞台と繋がっています。三井寺観音堂の本尊と同じ如意輪観音像を安置し、左右に西国礼所の三十三観音像が二段に祀られています。また、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の本尊を安置する事から、百体堂と呼ばれるそうです。下、観月舞台。嘉永3年(1849)の建立された檜皮葺の入母屋造で北側は舞台造りになっていますが普段は立ち入りできません。桜の時期には予約が取れさえすれば舞台に上がることができ、床のアクリル板に写り込む桜と眺望が美しい所でライトアップも行われます。予約制の瑠璃光院の事を思い出すと、ハイシーズンに訪れる踏ん切りがつかないところです。傍らには謡曲「三井寺」と観月舞台なる解説が立てられていました。「駿河の国清見が関の女が京の清水観音に参籠し、行方知れずになった我が子千満丸との再会を祈るうちに霊夢を得て近江の三井寺に来た。 折しも中秋名月の夜、鐘の音にひかれて夢中で鐘楼にのぼり、鐘をつきながら鐘の功徳をうたい、月に浮かれてたわむれつつ、 子を求めて心乱れる母親を、はからずも寺僧に伴われて月見に来ていた我が子に見出され共に郷里に帰ることが出来た。」という物語が謡曲「三井寺」である。観音の加護による仏法の尊さを、湖水を渡る鐘の音に月を配して創られた詩情豊かな曲として名高い。 観月舞台は月見の絶好の場所で、謡曲 「三井寺」を謡いながらその脳裡に様々な場面を描くことであろう。」西国三十三所第十四番札所 観音堂。解説は以下。「江戸時代(元禄2年1689)札堂 桁行9間、梁間5間、二重入母屋造、向拝3間、本瓦葺。合の間 正面14.3㍍、奥行5.9㍍、一重、両下造、桟瓦葺。正殿 桁行3間、梁間3間、一重、宝形造、桟瓦葺。西国三十三所観音霊場の第十四番札所です。 琵琶湖と大津市街を一望する景勝地にあり、古くから文人墨客に親しまれ てきました。観音堂は、南院札所伽藍の中心建築で、 後三条天皇の病気平癒を祈願して延久4年(1072)に創建されたと伝えます。 その後、現在地への移築と焼失を経て、元禄2年(1689)に再建されました。本尊で重要文化財の如意輪観音坐像は三十三年ごとに開帳される秘仏です。 本尊をまつる「正堂」と外陣に相当する「礼堂」を「合の間」で繋ぐ本瓦葺の大建築で、堂内には元禄期の華やかな意匠を施しています。」内部には多くの絵馬が奉納されており、その中には観音堂再建の様子を描いた「石突きの図」や、その「落慶図」も残されています。上観音堂境内からは眼下に大津の町と琵琶湖の眺望が広がります。下世継地蔵堂。絵馬堂から下に続く石段の途中に鎮座する宝形の堂で、文政2年(1819)に建てられたもの。内部には子授け、安産祈願に御利益があるされ、庶民から崇敬を受ける中坂世継地蔵が祀られています。この石段を下ると右側に馬身神社、長等神社の横に至ります。三井寺の全てを巡拝できていませんが、石段を下って大津の町に向かいました。園城寺(三井寺)山号 / 長等山宗派 / 天台寺門宗創建 / 7世紀中興 / 貞観元年(859)、智證大師円珍開基 / 大友与多王本尊 / 弥勒菩薩札所 / 西国三十三所第14番所在地 / 滋賀県大津市園城寺町246 関連記事・西国三十三所霊場13番札所 石山寺・14番札所 園城寺(三井寺)・石光山 石山寺・湖南の大社 長当(ながら)神社・三尾神社
2024.09.21
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射穂神社から東へ5分程車で走った保見町根川地内に鎮座する貴船神社。今回はこちらの神社を訪れます。貴船神社社叢。大きく伸びた樹々に包まれ、その隙間から日差しに照らされた社殿が姿を見せている。猿投山の南に位置し、社叢の南に集落、集落の周囲は田畑が広がる一帯。駐車場のある西参道へは突き当りを右折します。上は明治24年とほぼ現在の地図の比較。かつての愛知県西加茂郡の一部で、明治22年伊保堂村、下伊保村、殿貝津村、上伊保村、田籾村が合併し伊保村となった地域で、鎮座地は当時の伊保堂村集落の北外れにあたります。社叢から覗く社殿の眺め。社殿はコンクリート造りのようです。西参道の鳥居と参道。社標はなく、参道は境内の西側に繋がっており、鳥居左に駐車余地があります。鳥居右の保見ウォーキングマップ。射穂神社から東に向かい、中間ポイントの貴船神社を経て、東の北野天満宮付近をゴールとする約3㌔のコースができているようです。西参道の石の明神鳥居。この参道には「秋葉山」や「貴船神社」と刻まれた燈籠が立っています。ここから右に進んだ憩い家の横に社頭を構えています。社頭。左が憩い家で、その前に「村社 貴船神社」と刻まれた社号標が立っています。石の大鳥居の先に境内が広がっています。鳥居から境内の眺め。昭和45年健之の鳥居の脇には一対の狛犬と像が安置されています。大正13年(1924)に寄進された愛嬌のある顔の狛犬と台座に社司 宮川増太郎と刻まれた像。社殿全景。左に手水舎、右手に役行者の像を安置した祠があり、正面の拝殿右に境内社が鎮座します。手水舎、手水鉢には龍の姿はなかった。西参道はこの手水舎の横に通じています。上境内から西参道の眺め。下参道脇の石灯籠の竿に秋葉山の文字が見える。境内入口にも燈籠があり、こちらの竿には「貴船神社」と刻まれていました。境内左側の祠。祠の前には陶器の狛犬が置かれ、内部には役行者(左)と石仏の二体が安置されています。右の石仏はマップによると弁財天とあった。彫られて月日が経つのか、頭部周囲の輪が弁財天の衣なのか、光背なのか像容が良く分からなかった。貴船神社社殿全景。コンクリート造りの入母屋平入の拝殿に唐破風向拝が付くもので、拝殿右には境内社一社が祀られています。向拝には菊花紋章が入れられています。上拝殿額は「貴船神社」とあり、ここにも菊花紋章が入る。下拝殿内の眺め。懸垂幕には五三の桐の紋が入っており、こちらが神紋かと思われます。拝殿左の由緒と手作りので分かりやすい境内マップ。由緒内容は以下。「十四等級 貴船神社 村社鎮座地 豊田市東保見町根川556番地【祭神】 闇龗神(くらおかみのかみ)【由緒】創建は明らかではないが、棟札に寛文8戊申年(1668)2月に、家内子孫繁昌、息災延命、守護所として奉建再御設とあり。 元禄11寅年(1698)2月二日、奉新地春 井戸田赤羽根へ移し奉るとある。明治6年(1873)5月村社に列す。 同42年(1909)8月31日、字柵口58番 子守神社と本社の境内社 元貴船神社を本社に合祀合霊した。昭和45年本殿、幣殿、渡殿、廻廊、手水舎、社務所を改築する。 例祭日 10月第一日曜日、祈年祭 4月第二日曜日、新嘗祭 12月第一日曜日。【社殿】本殿流造、神門、拝殿、神饌所【境内社】【琴平神社】祭神 大物主命・木花咲也姫命 勧請不詳 明治42年8月31日富士浅間神社境内社を合祀。祭神2柱となる。【秋葉神社】祭神 迦具土命 勧請不詳 境内神社牛天神 祭神不詳、明治42年8月31日合祀。【八劔社】祭神 日本武命・伊佐波登美命 勧請不詳 境内神社 御鍬神社 祭神 伊佐波登美命明治41年8月31日合祀、祭神2柱となる。【津島神社】祭神 須佐之男命・大山祇命 勧請不詳 境内神社 山神社 祭神 大山祇命明治41年8月31日合祀、祭神2柱となる。【養蚕社】祭神 天照皇大御神。 大正8年(1919)4月20日、養蚕守護神として合祀。」京都の貴船神社から分霊されたものと思われますが、祭神の闇龗神は水を司る神で農業に水は不可欠なものです。拝殿左から本殿の眺め、昭和45年の改修されたもので綺麗な印象を受けます。本殿域に境内社が祀られているのかは定かではありません。この辺りに置かれている古い手水鉢、今も現役の様です。拝殿右の境内社。一間社流造で境内マップによれば、琴平神社、八劔社、養蚕社の三社相殿。大きな社ではないですが、各所に手の込んだ意匠が施されています。脇障子には瀧を遡る鯉が描かれています。昔から出世を象徴する縁起のいい柄ですが、鮎や鮭のように登るこの姿、実際の鯉はこうはいかない。さて、これで境内は参拝したつもりでいましたが、この社の右の斜面の先にも境内社があったようで、鳥居の右から上に続く細い「観音道」を奥に進むと石仏や稲荷社などに繋がっています。貴船神社本殿の大棟。造りは良く分からないが5本の鰹木と外削ぎの置き千木が施されています。写真は社頭から南の眺め、田畑の先に愛知環状鉄道、伊保川へと続きます。鳥居の先に瓦葺の建物があり、一部見落としていた事に気も付かず、神社を後にしてそちらに向かう。入口が開け放たれた堂は根川集落の弘法堂で、堂内には弘法大師はじめ4体の像が安置されていました。街にはない田畑が広がり開放感のあるこの地域、道端に彼岸花が咲き出すのも間もなくか。村社 貴船神社創建 / 寛文8年(1668)の棟札が残る祭神 / 高龗神境内社 / 琴平神社、秋葉神社、八劔社、津島神社、養蚕社所在地 / 豊田市保見町根川556 参拝日 / 2024/09/06射穂神社から貴船神社 車移動 / 東へ4分程で西参道参拝者駐車場関連記事・賀茂郡7座 射穂神社
2024.09.18
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大津市園城寺町鎮座「三尾神社」既に掲載した長等神社から、琵琶湖第一疎水を右に見て、北に2・3分程進むと今回の三尾神社に至ります。琵琶湖から導かれた疎水は、三尾神社のすぐ南から長等山を貫く第一トンネルを経て京に導かれます。三尾神社はそのトンネルの入り口鎮座します。三井寺への近道として境内を横切りましたが、三尾神社の唐門や神楽殿を見て足を止める事にしました。神楽殿の右手に社頭へ続く参道が伸び、その先に大鳥居を構えています。神楽殿西側の唐門。左に手水舎、正面に拝殿が望める。手水鉢に清水を注ぐのは龍ではなく兎。常夜灯の竿にも兎の姿。銅葺の屋根の唐門は、左右の透塀が連なり、門の先に拝殿が眺められる。提灯にも兎の紋の神紋が入れられています。兎で思い出すのは、鳥取の白兎神社や埼玉の調(つき)神社で、境内のいたるところに兎がいた。この神社も兎と所縁がある神社のようで、境内の「三尾神社とうさぎの由来」には以下のように書かれていました。「三尾明神が太古 卯の年・卯の月・卯の日・卯の刻・卯の方より出現されたという古い伝えから、昔から「うさぎ」が神様の使いとされ、それ故御神紋は「真向きうさぎ」とされた。卯年生まれの方の守り神として崇められている」手水の兎の姿は、波の上を飛ぶ因幡の白兎に通じるものがある。兎は子宝に恵まれる縁起のいい動物として知られていますが、三尾神社もまた安産・縁結びの神社として知られるようです。唐門から先の境内。社殿の左右に境内社が祀られています。三尾神社のはじまりは太古、伊弉諾尊がこの地に降臨され、長等山の地主神として鎮座されたのがはじまりとされ、後の園城寺(三井寺)初代長吏の円珍が、園城寺の鎮守として祀ったことが神社のはじまり。後の神仏分離により神社は独立するも、社殿西側には園城寺(三井寺)につながる神門が神仏混合の名残を留めています。境内の由緒。「太古、伊弉諾尊がこの地に降臨され、長等山の地主神として鎮座されたのを創始とする。伊弉諾尊は常に赤、白、黒の腰帯を身に着け、その形が、三つの尾を引くのに似ていたことから三尾明神と呼ばれ、社名が付いた。貞観元年(859)、園城寺(三井寺)開祖の智証大師(円珍)が琴尾谷(琴緒谷)に社殿を復興した。応永年間、4代将軍・足利義持が現在の社殿を再興。慶長年間、豊臣秀吉により社殿の修理、社領を寄進される。明治9年(1876)、本社を園城寺琴尾谷(琴緒谷)から現在地に遷座。明治22年(1889)、内務省保持資金下賜明治43年(1910)、縣社に昇格。御神紋 真向きの兎」神紋の真向きの兎は、本体の伊弉諾尊の赤・白・黒の三つの腰帯が、赤尾神、白尾神、黒尾神の三尾明神となり、赤尾神が卯の年、卯の月、卯の日、卯の方角から出現した事から「真向きの兎」が神紋とされています。拝殿右の境内社。右から白山神社と愛宕神社の相殿。左へ天満宮、 蛭子神社と白髭神社相殿、日御前神社と続く。白山神社(結びの神)と愛宕神社(火除けの神)の相殿全景。白山神社の祭神は菊理媛神、愛宕神社の祭神は伊弉冉尊を祀ります。右が学問の神、菅原道真を祀る天満宮、左が延命長寿の白髭神社と商売繁盛の蛭子神社の相殿。後方の一間社流造の社殿は子授け・安産、夏虫に御利益のある日御前神社。祭神は天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神。手前は拝殿右手の狛犬(阿形)。拝殿全景。入母屋平入で軒唐破風が付く。拝殿左で守護する狛犬(吽形)。拝殿右手にこちらにも卯の姿。拝殿から本殿域の眺め。祭神は本体の伊弉諾尊の他、三尾明神を祀り、本殿前には二対の狛犬と随神の姿が見える。拝殿左の本殿解説。「三尾神社本殿は桁行三間、梁間二間の三間社流造の檜皮葺。正面に縁を廻らせ背面柱筋に脇障子が立つ。内部は梁間中央の柱筋で二分し、前方の外陣と後方の内陣に二分、内陣は三室に区分けされている。本殿は応永33年(1426)の建立で、慶長14年(1609)全体的に修理を受けた。室町時代中期に建立された本殿は、木太い軸部や簡素な意匠による古風かつ雄大な形態を保守している事から、中世神社建築を理解するうえで高い価値を有する事から、平成26年(2014)国の重要文化財に指定された。」拝殿左から見る社殿の眺め。日御前神社側から眺める本殿。社殿左の境内社は阪下茂畑稲荷神社。 五穀豊穣、商売繁盛、家業繁栄、産業降盛の神稲荷神を祀る。阪下茂畑稲荷神社本殿柵面の全景。三尾神社創建 / 貞観元年(859)祭神 / 伊弉諾尊、三尾明神境内社 / 白山神社・愛宕神社、天満宮、白髭神社・蛭子神社、日御前神社、阪下茂畑稲荷神社所在地 / 滋賀県大津市園城寺町251 参拝日 / 2024/08/22祭礼日 / 5月 2日 例祭、3日渡御、7月2日 朝瓜祭り長等神社から三尾神社 / 北へ徒歩約5分又はJR東海道線大津駅石山駅から京阪電鉄石山線で三井寺駅降車、琵琶湖第一疎水沿いに徒歩7分関連記事・西国三十三所霊場13番札所 石山寺・14番札所 園城寺(三井寺)・石光山 石山寺・湖南の大社 長当(ながら)神社
2024.09.17
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豊田市保見町北山鎮座「射穂神社」矢草ICから国道248号線を南下し保見地内の保見塚原交差点を左折、一つ目の信号のない交差点を左折しひたすら直進します。上は明治の頃とほぼ現在の保見町の比較。鎮座地は伊保川左岸の猿投山から連なる山並みの南端に位置する標高131㍍程の三祖山(現在の北山)の頂に鎮座します。これまでも猿投山周辺の神社を巡って来ましたが、ようやく保見町周辺の神社を巡る事になります。西古城地内の住宅街に立つ射穂神社大鳥居。右手に熱田神宮宮司の揮毫による社標「射穂(いぼ)神社」があり、鳥居前に一対の狛犬と常夜灯を構えています。射穂神社はここから更に先になります。鳥居は昭和53年(1978)に寄進された明神鳥居で扁額の揮毫は愛知県知事によるもの。狛犬も昭和53年に寄進されたものでした。鳥居の先は緩やかな上りとなり、ニノ鳥居を越え先に進むと道は突き当り、社殿前の駐車場に続きます。杜の入口にニノ鳥居が立っており、地味に上りが続きます。道に迷ったら、右手に見える保見町公民館の鉄塔が目標になるかも。ニノ鳥居の先は、杉が生い茂る杜となり木陰のなかを参道が続きます。左手の射穂神社由緒。「射穂神社1、創祀沿革 白鳳元年9月(672)創建 永承7庚午年(1052)再建上伊保村領主松平左兵衛尉定勝建立 永正7年(1510)戦焼後再建、松平右兵衛佐建立2、社格 六等級社 昭和52年9月(1977)認証 明治の制(郷社)3、祭神 広国押武金日皇命(安閑天皇) 春日山田皇女(欽明天皇二女) 神前皇女(安閑天皇御妹)4、御末社 八幡神社、津島神社、秋葉神社、他十社5、宝物 伊保郷印、仏像、鏡6、例祭日 10月(第2日曜日)7、特殊神事 豊年祭「おためし」(5月) 左儀長祭(1月)」ニノ鳥居、こちらも明神鳥居、寄進年は未確認。地味に上る参道、聳え立つ樹々が容赦のない陽射しを遮ってくれます。右手の斜面に保見神社の社標と鳥居が立っているが、参道から鳥居に向かう事は出来ない。参道の先から右に分かれる参道があり、この鳥居の先に繋がっています。保見神社鳥居方向へ。鳥居は昭和25年(1950)の寄進。鳥居の先は社殿はなく、二つの石碑が立てられています。左は昭和38年(1963)に建立された平和の礎で、右の石碑には当地出身の戦没者の名が記されていた。この辺りは南に保見の町並み、そこから先は稲田が広がり伊保川に続き、この高みから故郷の繁栄を見守っている。また、この辺りは飯田街道があり、交通の要衝であったため、北山周辺には幾つか城址も残ります。参道に戻り正面を見れば射穂神社の社殿が広がります。参道右に神馬像、左に手水舎があり、一段上がって社殿が建てられています。射穂神社は延喜式神名帳に賀茂郡7座のひとつで「射穂神社 三河国 賀茂郡鎮座」とあり、三河志や西加茂郡誌にも記される古社で神社HPから抜粋した内容は以下。 「古い伝えによると、三河国賀茂郡高橋の庄伊保郷は和銅6年(713年)に開発されました。村の名前は「射穂」または「伊穂」とも書かれ、後に「伊保村」となり、御獄市場と合併して「上伊保」と呼ばれるようになりました。 神社の土地は藩政時代に城主の戦国地とされましたが、火災が多く発生し、鎮座地を池之坊洞から御獄山頂に移し、さらに三祖山に移し、明治維新の際に「北山」と改称されました。境内地は1170坪で、祭神は左相殿に春日山田皇女、中殿に安閑天皇(廣国押武金日尊)、右相殿に神前皇女が祀られています。 延喜式内の3132座のうち、三河国加茂郡伊穂之神社の祭神は蔵王大権現とされ、通称「伊保天神」と呼ばれていましたが、享保年間に「蔵王宮」と称され、その後「射穂神社」と改称されました。和漢三才図絵によると、蔵王大権現の祭神は不明ですが、社伝によると清見原之皇子大友皇子が征伐の際に勝利を祈願し、白鳳年間に即位し神社を建立したとされ、古代の創建であることがわかります。明治5年(1872)8月に郷社に列せられ、明治43年(1910年)には末社の八幡宮、八柱神社、秋葉神社、津島神社、武稲神社、神明社、伊豆社、御鍬社を合祀しました。 昭和18年(1943)8月に県社昇格の申請を行い、内定を得ましたが、大東亜戦争の終息により実現しませんでした。旧氏子区域は上伊保村、田籾村、伊保堂村、殿貝津村、下伊保村、挙母町、宮口村、本地村、千足村、土橋村、梅坪村、金谷村、下市場村、下林村、長興寺村、今村、山室村、福谷村、黒笹村、莇生村、三好村、西一色村、福田村、明知村、打越村の25町村でしたが、明治15年(1882)頃に挙母町ほか10余町村は挙母神社の氏子に分区されました。例祭は陰暦9月10日でしたが、明治維新以降は陽暦10月15日に変更されました。特殊神事として鎮火祭や御粥占豊年祭があります。 例祭には奉納献馬棒ノ手や空砲などの行事が行われ、氏子の各村は提灯を持って参拝します。今回、氏子一同より本殿再建の提案があり、昭和39年(1964)11月に仮遷宮が行われました。昭和40年(1965)3月23日の夜に御殿入りし、翌24日に完了しました。」境内社については以下。「八幡神社は寛永14年(1637)丹羽式部少輔氏信公奥方の建立。 神明社、伊豆社は元禄2年(1689)、御鍬社は寛保2年(1742)、八柱社は元禄10年(1672)、津嶋社は宝暦2年(1752)、秋葉社は宝暦13年(1763)に創立」ここに出てくる賀茂郡7座とは以下の七社。 野見神社 豊田市野見山町 野神社 豊田市野口町水別日面 兵主神社 豊田市荒井町松島 済 射穂神社 豊田市保見町北山 狭投神社(三河国三宮) 豊田市猿投町済 広沢神社 豊田市猿投町小黒見 灰宝神社 豊田市越戸町松葉神馬像。社殿全景。右手に手水舎、石段り先の境内に拝殿、社殿が建てられている。手水舎の龍。ここから後方斜面を100㍍程下りると雷石があるらしい。しかし下草も生い茂り、嫌な予感しかしないので今回は下りなかった。石段を上がり切った境内の拝殿。入母屋瓦葺で四方吹き抜けのもので、明治26年熱田神宮より社殿を譲り受け拝殿としたとされ、明治32年竣工。均整の取れた外観の拝殿だと思います。拝殿から本殿域の眺め。中央の本殿は昭和40年に改築されたコンクリート造で3本の鰹木と内削ぎの千木が載せられています。築地塀に囲まれ本殿域は、本殿の左右に相殿があり其々に中門が付く。中央の八幡神社本殿の左右に二つの社が祀られています。右手の相殿。八幡神社本殿。八幡神社を守護する小さな狛犬。右の社は秋葉神社、金刀比羅社、八王子社。左が津島神社、天神社、武稲種社。中門の社名札から右相殿だけで7社が祀られています。射穂神社本殿の中門の棟には鯱が載り、狛犬が躍っている。中門前の狛犬は昭和に入って寄進されたもの。射穂神社本殿の中門。中門両側の柱には龍の彫が施され、左右の中門とは差別化しているようです。社名札がないので良く分からないが、この本殿に広国押武金日皇命、春日山田皇女、神前皇女の三柱が祀られている。本殿域全景と左手の相殿の中門。コンクリート製の本殿の全体像は今一つ見えなかった。左相殿の中門正面全景。社名札から本殿は千穂稲荷社と神明社の相殿で、本殿前は狛犬が守護する。6本の鰹木と内削ぎ千木が付く神明造のようです。本殿右の板宮造りの境内社。伊豆社、山神社、社宮司の相殿。左に御鍬神社が祀られています。左相殿にはこれら6社、右相殿に7社、中央が1社の14社、由緒の「八幡神社、津島神社、秋葉神社、他十社」とあったが数が合わないような・・・、由緒が書かれた後に合祀された神社がなにか、それは分からない。社殿域から下の境内の眺め。ここまでは車で入ってこれるので、駐車も転回も支障はないと思います。参拝を終え、ニノ鳥居から保見の街並みの眺め。射穂神社創建 / 白鳳元年(672)祭神 / 広国押建金日命、春日山田皇女、神前皇女境内社 / 八幡社・御鍬社・津島社・秋葉社など所在地 / 豊田市保見町北山26 参拝日 / 2024/09/06矢草ICから射穂神社車移動 / 国道248号線を南下し保見地内の保見塚原交差点を左折、一つ目の信号のない交差点を左折直進12分程。公共交通機関 / 愛知環状鉄道保見駅から北西に徒歩20分関連記事賀茂郡7座・猿投神社境外摂社 廣澤神社
2024.09.16
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長当(ながら)神社。琵琶湖西岸の長当(ながら)山の南西の麓の大津市三井寺町に鎮座する神社。三井寺町の地名が示す様に三井寺境内の観音堂から東に降りたところに鎮座しています。写真は三井寺町内の東西に延びる長当神社に続く参道で、道路を跨ぐように大鳥居を構え、その先の朱の楼門へ続いています。鳥居扁額は「長当神社」とある。背の高いビルが聳え、視界は効かないが、昔なら鳥居の先には琵琶湖が望めたはずです。朱も鮮やかな楼門正面全景。左右の間には随神の姿も見えます。楼門脇の長当神社社歴。「長等神社社歴 御祭神 建速須佐之男大神、大山昨大神、宇佐若宮下照姫大神、八幡大神、市杵島姫大神由緒「例祭日 五月五日」 天智天皇が近江大津宮へ遷都(西暦667年)の際に都の鎮護として、須佐之男命を志賀の長等山岩座谷 の地に祀られたのが始まりである。天智天皇(669)5月5日、天皇か宇治山科から帰途のおり当神社へ弓矢を奉納され、これにより大友興多王(天智天皇の御孫)かその日を祭日と定められて以来、今も5月5日を例祭としている。 貞觀2年(860)2月、三井寺一山を開祖された智証大師(円珍)が日吉山王神を勧請し、一山の守護神として祀られ、新日吉社又は新宮社と称するようになった。天喜2年(1054)4月、現在地に遷宮され、その地を神出と称することとなった。 永保元年(1081)4月、白河天皇は勅使を参向せられ、平安を祈願された。延元元年(1336)正月、南北朝の戦乱によって社殿や楼門その他の建物を消失した。 興国元年(1340)足利尊氏によって再建され、社殿壮麗にして十二の廻廊や楼門その他多くの建造物があり、湖南の大社といわれ、皇室を始め武将や多くの民衆から深く崇敬され隆盛をきわめた。明治16年(1883)現在の社号(長等神社)となった。 明治37年(1904)鎌倉様式を基本として、平安、室町時代の和様建築の枠を取り入れて 現在の楼門を復興した。明治43年(1910)1月、県社に列せられる。 昭和47年(1972)1月一日、楼門が中世の優れた社寺建築様式の再現を評価され、大津市指定文化財の指定を受けた。この様に当社の歴史は古く、1350有余年の幾多の変遷を経て今日に至っている。」個人的に、大津から京は離れていると感じるが、一山超えればすぐそこなのだ、京の鎮護を担って創建された長等神社は、三井寺からの帰り道にササッと写真に収めるだけの神社ではないのが今更ながら分かった気がする。「大津市指定文化財 建造物 長等神社楼門一棟。大津市三井寺町。 この楼門は、三間一戸、屋根入母屋造、檜皮葺の構造をもっています。技師安藤時蔵、技術員青池安太郎の設計のもと、明治37年5月起工され、同38年2月に竣工した。 この楼門は、比較的小型ながら、上・下の均斉が美しく、左右の広がりも適度に、また各部の曲線も美しくとられ、すぐれた姿をしています。室町時代(1336-1573)頃の様式にのっとった秀作で、明治時代の楼門の代表作とされている。 また、建築にかかわる棟札や図面などの資料もよく保存されています。昭和47年7月1日大津市の指定文化財となる。大津市教育委員会」楼門の先の拝殿。左右の間の随神。この像も明治の再建の際に造られたものだろうか。境内から見る楼門、内側の間に像は安置されていなかった。右手に手水舎があり、その後方に笠森神社が鎮座します、帰りに参拝するつもりで忘れていました。社殿から少し離れて建てられている入母屋妻入りの拝殿。狛犬の寄進年は未確認です。初見では神楽殿にも見え、賽銭箱や鈴はありませんが、神社HPのマップによれば拝殿でいいようです。長当山を背にして鎮座する社殿。社殿右には馬神神社、左に榮稲荷大明神などの境内社が鎮座しています。神門は本殿を取り囲む様に廻された回廊と一体になったもの。神門前には青銅製で凛々しい姿の狛犬が守護する。鈴や賽銭箱は神門にあり、こちらで参拝します。本殿。檜皮葺で唐破風向拝の付くかなり大きなもので、少なくとも三つの扉が見えます。祭神が建速須佐之男大神、大山昨大神、宇佐若宮下照姫大神、八幡大神、市杵島姫大神の五柱を祀る事から五間あるのかもしれない。本殿左の境内社。右から栄稲荷神社、末春稲荷神社、権平稲荷神社、駒竹稲荷神社。栄稲荷神社。詳細は不明、祭神は栄稲荷大明神。二つの鳥居の右が末春稲荷神社、権平稲荷神社のようですが、社はなく、注連縄が巻かれた御神体の岩が台座の上に安置されています。左の鳥居が駒竹稲荷神社とありますが、台座の上に社はなかった。長等神社社殿の右に鎮座し、参道の先には二社祀られています。右手が大津馬身神社。社名のとおりで馬の守護神として、古くから崇敬されてきた神社。車の無い時代、農耕・移動・運搬に馬は必要不可欠、古い民家には母屋のなかに厩があり、共に生活する程大切にされていました。馬が病気にかかると人々は病魔を妖怪(馬魔)とと捉え、家族の一員ともいえる馬の健康や安全を祈願するため当神社に訪れたそうです。生活スタイルが変わった現在は、競馬ファンが馬の名の木札や馬の形の絵馬を奉納し祈願するようです。以前は大津の町中に鎮座していたそうですが、明治34年に境内に遷座されたようです。両御前神社。社名から二柱が祀られているようですが、長等神社の本殿域に添うように鎮座し、祭神と縁の深い方が祀られているのだろう。調べて見たが詳細は分からなかった。長い歴史を持つ長当神社、三井寺参拝の帰り道、電車の時間を気にしながら参拝する神社ではなかった。長当神社創建 / 天智天皇6年(667)祭神 / 建速須佐之男大神、大山昨大神、宇佐若宮下照姫大神、八幡大神、市杵島姫大神境内社 / 笠森神社、栄稲荷神社、末春稲荷神社、権平稲荷神社、駒竹稲荷神社、馬身神社、両御前神社所在地 / 滋賀県大津市三井寺町4-1 参拝日 / 2024/08/22公共交通機関 / JR東海道線大津駅から徒歩で北西に約20分又はJR東海道線大津駅石山駅から京阪電鉄石山線で三井寺駅降車、琵琶湖第一疎水沿いに徒歩10分関連記事・西国三十三所霊場13番札所 石山寺・14番札所 園城寺(三井寺)・石光山 石山寺
2024.09.13
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名古屋市中村区権現通に鎮座する熊野社。前回掲載した神徳稲荷神社から南東に400㍍、徒歩で5分程の距離になり、鎮座地の権現通も熊野権現に由来するものです。鎮座地は名古屋駅から直線距離で南西1㌖程の住宅が広がる地域に鎮座します。住宅地にありながら、この日巡ってきた神社と比較するととても開放感があります。この開放感は社頭南側の米野公園が大きく貢献しているようです。土が露わになり、風の通りを遮る建物がないので熊野社の社叢は風が良く通り、外回りの仕事に従事する人には癒しの場になっています。また、熊野社は先に掲載した西米野町の若宮八幡社とは深い関わりがあります。そのあたり、境内の由緒の所で記載します。熊野社には3つの参道があり、其々に鳥居を構えています。写真は社地の北側の鳥居で常夜灯、社標が立ち、当初はこちらが正参道と勘違いしていました。上は明治31年とほぼ現在の地図の比較から鎮座地の変貌ぶりを見ています。古くは愛智郡薦野郷の一部で、昭和14年(1939)中村区米野町の一部から権現通が生まれました。明治の地図では周囲を田園地帯に囲まれ、海抜1.7と記された辺りが鎮座地。地図上に鳥居の記載はありませんが、何か対象物がありここで測ったと思います。この場所に鳥居が現れるのは大正9年になってからでした。北側社頭全景。右手の社標は明治42年(1909)健之のもので、そこには「熊野社、若宮八幡社」の二社の名が刻まれています。幟旗を立てる石柱は明治期に、白い神明鳥居は昭和49年に寄進されたもの。常夜灯の元号を見忘れましたが、石の色合いから明治時代のものに見えます。境内は参道正面の舞殿と白明龍神社へ続き、参道右側に南向きに熊野社社殿、境内社が祀られています。参道から熊野社社殿の側面と境内社(子安社)の眺め。子安社右の石碑。「明治百年記念 明治天皇御製あさみどり 澄みわたりりたる 大空の 廣きをおのが 心ともがな」広く澄み渡る大空を見て、自分の心も広くありたい、明治天皇の心境を歌ったものだろうか。子安社正面全景。一対の狛犬と参道の先に提灯櫓、拝所の先の本殿と続く。子安社の狛犬(昭和2年)。拝所と赤い門の先の本殿域。拝所のなかに子安社の扁額は見られなかった。神明造の本殿。内削ぎの千木、6本の鰹木が載り、所謂女神を祀る神社となるが、社名札はなく、赤い門の印象から秋葉社に見えなくもない。本殿右の由緒から子安社の実感が湧く。子安社由緒は以下のようなもの。「祭神 木花之佐久夜毘売命由緒 享保18年(1733)8月御鎮座 安産の守護神である木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃であり、一夜の契りで妊娠しました。しかし、他の神々に疑われたため、恥ずかしさと悔しさから戸のない室を作ってその中にこもりました。 そして、「もし他の神の子ならば無事に生まれないだろうが、天神の子であれば無事に生まれるだろう」と誓い、無戸室に火を放ちました。火の中から火闌降命(ほすそりのみこと)、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、火照命(ほでりのみこと)の三柱の子供を無事に生みました。 このような縁起から、妻が妊娠した時にはどんな苦労や障害があっても負けず、心の妄想や邪念を払い除け、良い子宝を授かるように神前の箒(ほうき)を借りて出産まで日々心の塵や垢を払うことを念じ、子の安産を祈ります。そして、出産後には感謝の気持ちを込めて新しい箒を添えてお納めします。 毎年7月に行われる茅の輪禁厭行事は、子供の虫封じや悪病除けを祈念する行事です。昭和43年10月吉日」我が家は妊娠の際には八事の塩竃神社で御祈祷をあげて頂きました。息子達が無条件に可愛かった頃は最寄りの神社で茅の輪くぐりや赤丸神事御世話になったものです。境内東に常夜灯の火袋が並べられていました。拝殿前には火袋のない常夜灯が立っており、おそらくその火袋なんだろう。天災・戦災?なぜこうなったのか興味は湧いてきます。舞殿と白明龍神社全景。白明龍神社境内には大きなイチョウの樹が聳え、その根元には樹洞があり、主が潜んでいそうな雰囲気が漂う。舞殿左の東参道。明治42年に寄進された神明鳥居で北側の社標と同時期のもの。白明龍神社。詳細は掲げられておらず、由緒や創建時は不明。御神木の樹洞、中に小さな社が収められている様に見えます。本殿は内削ぎの千木と5本?の鰹木が載せられています。白明龍神社から熊野社社殿の眺め。境内にはイチョウや楠木、欅の大木が聳え、大きな杜を形作っています。杜にも鬱蒼とした暗い印象の杜もあれば、程よく木漏れ日が入る明るい印象の杜がありますが、熊野社の杜は後者の印象を受け、炎天下から境内に入ると居心地がとてもいい。社殿は切妻妻入りの拝殿と幣殿・本殿が連なる。土間の拝殿と奥幣殿。妻壁には大ぶりの熊野社の扁額が掛けられています、拝殿の床は土間打ちで四方は吹き抜けになったものです。拝殿前の狛犬、こちらも明治42年に寄進されたものでした。拝殿額。熊野社由緒は以下。「祭神 伊邪那美大神由緒 尾張志に正徳2年(1712)御鎮座明治4年村社に列格 昭和3年神饌幣帛神社に指定例祭10月13日」鎮座地の笈瀬村米野は、古くは愛智郡薦野郷の一部で村の歴史は江戸時代以前、室町時代にまで遡るようです。熊野社の由緒が「尾張志の正徳2年(1712)」とあることから、それ以前からなにかしら祀られていたものと思います。先に記載した仁徳天皇を祭神とする若宮八幡社は、明治42年(1909)にこの熊野社に合祀され、昭和26年(1951)に再び分離されました。分離後の熊野社には祭神の仁徳天皇は祀られおらず、境内の熊野社由緒にも祭神仁徳天皇は記されていません。北側社頭の社標の寄進年が明治42年(1909)なので、熊野社合祀の際に建てられ、アップデートされなかったものでしょう。境内西側から見た社殿全景。左側にも境内社が祀られています。御霊社。内削ぎ千木、6本の鰹木が乗りますが、社標や常夜灯の寄進年を見忘れ詳細は未確認。御霊社と熊野社本殿。拝殿から南側の正参道と米野公園の眺め。竿だけの二対の燈籠はなにを語っているのだろうか。南参道の手水舎。龍はいないが清水は澄んだもので、鉢も明治42年寄進のものでした。南参道の鳥居の先には神馬像と手前に子安社と熊野社の由緒があります。熱田神宮宮氏による揮毫で、熊野社の祭神に仁徳天皇は記されておらず、伊邪那美大神一柱となっています。南側の米野公園から眺める参道。石の神明鳥居は昭和13年の寄進で、右の「村社 熊野社」の社号標は村社の文字が消され、若宮八幡社の社名は刻まれていません。江戸時代からこの地を見守り続けてきた熊野社、かつて合祀された若宮八幡社の仁徳天皇が今も祀られているとするものは、由緒書や寄進物からは見つけられなかった。今回の炎天下の笈瀬村神社巡りは熊野社含め六社で終わる事にしました。また名駅に来る予定もあり、ここから南はその時に巡る事にします、今は早く冷たいビールが飲みたい。熊野社創建 / 正徳2年(1712)祭神 / 伊邪那美大神境内社 / 子安社、御霊社所在地 / 名古屋市中村区権現通3-37参拝日 / 2024/08/02神徳稲荷大神から熊野社 / 南東の米野公園まで移動時間5分程。関連記事・須佐之男社・迦具土社・牧野神明社・厳島神社・若宮八幡社・神徳稲荷大神
2024.09.12
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滋賀県大津市石山寺。琵琶湖を源にする瀬田川の右岸に鎮座する真言宗の大本山、本尊は如意輪観世音菩薩。枕草子、源氏物語、浮世絵、近代文学を育む舞台ともなり、養老2(718)に開かれた西国三十三所観音霊場の第13番として古くから崇敬される古刹。広大な境内には東大門や舞台造りの本堂、多宝塔など多くの伽藍が建てられ、内陣や豊浄殿を拝観し伽藍を見て回るだけでも相当の時間を要します。「朗澄大徳ゆかりの庭園」石山寺東大門の右手にあり、石山寺の玄関口と言ってもいいかもしれない。ピンクの花を付けたサルスベリの先に、小さな泉と鬼の姿が彫られた石碑が立てられています。この鬼は石山寺中興の祖 朗澄律師(1131-1209)。亡くなる際に「一切経を守護し万民の降魔招福の為鬼の姿になる」と誓い石山寺を護ると宣言し自ら鬼になったといいます。寺には朗澄律師が画いた多くの絵や書写が残ります。また、本堂東に天狗杉と呼ばれる杉の巨木が聳えており、鬼と化した朗澄律師が寺を見護る姿が見られたという。石山寺東大門も視界に入り、先に進みたいところですが、間口も小さく素通りしそうな「朗澄大徳ゆかりの庭園」立ち寄ってみたいところです。西国13番札所石山寺東大門。瀬田川右岸沿いに建つ入母屋瓦葺の八脚門。寺伝によれば、建久元年(1190)に源頼朝が寄進したとされ、幾度か焼失・再建を繰り返し現在の門は豊臣時代の淀君により修理されたという。両の間の仁王像は運慶・湛慶の作と伝わるもの。東大門扁額。東大門から眺める石山寺参道。石山寺は聖武天皇の勅願を受け良弁が開いた事にはじまります。石山寺境内マップ。仁王門をくぐった参道の両脇に明王院・密蔵院・大黒天等の塔頭寺院が連なり、チケット販売所から右側に本堂、多宝塔などの主要伽藍が集まっており、最深部の豊淨殿や光堂、紫式部像や八大龍王社など見て回るだけでも2時間程要し、主要伽藍以外の大河館や他の見所を見ていくと半日コースとなるのでは。石山寺は古来より文学作品に登場し、紫式部が源氏物語を起筆した寺で、松尾芭蕉や島崎藤村なども滞在するなど文学の寺として知られています。東大門から先の石畳の参道。新緑やさつき、紅葉時期は鮮やかに彩られるだろう。大黒天堂。参道右側に山門を構え、堂内には万寿元年(1024)の頃、石山寺の三人の僧の夢の中にお告げがあり、琵琶湖より出現した拳印大黒天を安置したのがはじまり。右手親指をうちにして拳を握る、秘仏の拳印大黒天像は福招きの神として崇められ、子年の年に公開されるという。左から大黒天堂の全景。鎌倉時代の再建とされる入母屋瓦葺の妻入りで、幾度かの補修を受けながら現在に至る。堂の左には苔庭があり、その中央に七宝を入れた大きな袋を担ぎにこやかに微笑む大黒様の像が安置されています。袋の中身は物質的な七つの宝物が入っているといわれます、一方で内面的な幸福をもたらす寿命・裕福・人望・清廉・愛嬌・威光・大量の七つの宝が入っているとも云われます。参道脇の案内図。緑濃い境内は四季折々に彩りを添える樹々が植えられ、特に苔が多く自生する寺の印象を受けました。公風園。参道左に山門があり、その先に和傘と牛車が置かれ、絵巻に描かれる雅な世界が広がっています。オープンカフェとして開かれることもあり、運がいいと中に入れるようです。参道先の志納所の前に手水舎があり、そこには見事な髭を持つ龍の姿がある。必死の形相で清水を注ぐ龍、その後ろで仕事ぶりを監視する不動明王の姿。手水舎から右の石段を上れば堂宇のある境内が見えてくる。境内正面の眺め。手前が天然記念物の硅灰石(けいかいせき)。石灰岩が地中の花崗岩を含むマントルと接触して変質したもの、後方に日本最古の多宝塔が聳えています。人が作り出した造形美と、大自然が作り出した石庭が見事に一つになり美しい光景を魅せています。境内右側の観音堂(奥)と毘沙門堂。毘沙門堂は瓦葺の入母屋造で、堂内には兜跋毘沙門天、吉祥天、善膩師童子を祀ります。安永2年(1773)棟札が残る。境内の各所には上の写真のように石山寺縁起絵巻とともに、縁起が紹介され実物を眺めながら往時をイメージすることができる。下は毘沙門堂の解説。方形瓦葺の観音堂には西国三十三所霊場の観音像が安置されています。御影堂。毘沙門堂の左にある方形造の建物で、堂内には真言宗の開祖弘法大師と石山寺第三代座主淳祐内供の像が安置されています。境内左の眺め。左の入母屋の建物は蓮如堂。慶長7年(1602)に建てられ、文化8年(1821)に手が入れられ桟瓦に変更されたもので、堂の左側が傾斜地となっており、一部舞台造りになっています。本堂に続く参道を挟んだ右側に三十八所権現社があり、蓮如堂は拝殿として使われていたようです。参道正面の大きな屋根が石山寺本堂になります。蓮如堂向かいの硅灰石の岩山に鎮座する三十八所権現社。木造の両部鳥居とその先に本殿が建てられていますが、鳥居に続く参道は見当たらない。鳥居の額には三十八社とある。石段の手前から本堂の舞台造りの眺め。左は本堂の解説。「桁行七間、梁間四間の寄棟造の本堂と、桁行9間、梁間四間の礼堂を相の間が結ぶ檜皮葺の建物。本堂は天平宝字5~6年(761-762)に拡張され、その後、承暦2年(1078)に消失した。現在の建物は永長元年(1096)に再建されたもので、慶長7年(1602)淀君により建て替えられたもの。」石段を上ると石山寺縁起絵巻の一場面が掲げられており、当時の姿を今も留めていることが分かります。上石段を上った正面の火灯窓の小さな間が紫式部源氏の間。寛弘年間(1004-1012)、紫式部はここに参篭し源氏物語が生まれた。紫式部が愛用した硯は豊淨殿で見ることができます。下礼堂縁から礼堂方向の眺め、本尊は勅封秘仏二臂如意輪観世音菩薩で、安産・福徳・縁結び・厄除けにご利益があり。観音は33の姿で人々を救済することにちなみ、33年ごとに御開扉が行われ、直近は2016年に行われています。内陣は有料ですが、本尊を安置する厨子を取り囲む様に安置された仏像を間近で拝むことができます。御朱印は礼堂内で頂けます。縁から下を見下ろすと、この建物が舞台造りなのが実感できると思います。石山寺本堂。県内最大の木造建築物で右側の火灯窓が源氏の間。本堂から右に参道を進むと三十八所権現社の本殿に至ります。鳥居の下には先程通った参道と蓮如堂を見下ろす、鳥居はどう見てもくぐれない。天智天皇までの歴代天皇を祀る石山での鎮守社。本殿は一間社流造の檜皮葺で、苔むした硅灰石の岩山の頂に鎮座しています。現在の本殿は慶長7年(1602)の蓮如堂建立時のもの。三十八所権現社から更に上に進んだ先の経蔵。いかにも重要なものを保管していた事を思わせる高床式の校倉造の建物で、以前は石山寺一切経、校倉聖教等の経典が収蔵されていた。建立年代は定かではないが、長い間経典を収蔵してきた趣を感じさせる。解説によれば滋賀県では数少ない校倉造で、切妻造の校倉も類例が少ないとある。自分の過去の写真を遡ってみると確かに寄棟や宝形ばかり、切妻は珍しいのかもしれない。「全体を見せて」となりますが、団体客にかち合ってしまい、後回しにしたまま撮り忘れていた。経蔵の裏側。苔生した一画に2基の宝篋印塔があります、こちらについて解説はなかった。余談になりますが、気象の変化と乾燥化に伴い、こうした苔も種類が変わったり、減少していると聞きます。陽射しが入り、人が踏み荒らすと自然のダムも消えるのは早いだろう。紫式部供養塔(左)と松尾芭蕉句碑(右)。句碑には「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」とあり、碑は寛永2年(1849)に建立されたもの。上経堂の正面に見える鐘楼。入母屋檜皮葺で白漆喰の袴腰が付くもので、優雅な外観の鐘楼です。建物は源頼朝が寄進したとされ、吊るされる梵鐘は金属類回収令を免れ、平安時代のものが残る。下この辺りから観音堂などが鎮座する境内の眺め。上を見上げると優美な反りの軒を持つ多宝塔が聳えています。日本最古といわれ、もっとも美しい姿の多宝塔と称賛され、国宝に指定されています。建久5年(1194)、源頼朝の寄進と伝えられます。一層部分は桁行3間、梁間3間の方形で、二層は廻り縁の付く円形で、白漆喰と檜皮屋根のコントラストが美しく、安定感を感じる均整の取れた塔です。内部の須弥段には大日如来坐像を安置し、四天柱には金剛界の諸尊や五大尊が色鮮やかに描かれているそうです。石山寺は長い歴史の中で、戦禍に巻き込まれ伽藍を焼失することがなかったため、紫式部や頼朝などが見て、踏みしめた当時の姿がそのまま継がれています。本尊は鎌倉時代の仏師快慶作。この日は下層の扉は閉ざされ、内部は拝めなかった、運が良ければ扉は開けられ、四点柱の絵も遠目に見れるようです。多宝塔の横に鎮座する若宮。解説には「祭神に天照大神拝し、大友皇子(弘文天皇)を崇る。壬申の乱の折、この地に葬られ、古来より寺僧により密かに手厚く供養されてきました。三十八所権現社が親神に当たります」とある。月見亭。多宝塔の右奥にあり、平安時代後期の保元年間(1156-1158)、後白河天皇行幸に合わせ建てられたとされます。現在の建物は貞保4年(1687)に建てられた寄棟の建物で当時は萱葺だったようです。舞台は迫り出した崖の上にあり、袴腰で覆われた舞台造りで、四方吹き抜けの高欄が廻らされたもの。月を愛で和歌を詠むための建物で、歌川広重の近江八景「石山秋月」にも描かれている。やはり晩秋の名月の夜に見るべきものかもしれない。多宝塔の後方に鎮座する心経堂。檜皮葺の宝形屋根の建物で、朱塗りが鮮やかな堂。建立は平成2年と新しいもので、内部に如意輪観世音菩薩と写経を収める輪蔵が安置されている。豊淨殿で所蔵する宝物や美術品を拝観し、光堂方向の帰り道に向かう。境内最深部の光堂と紫式部像。光堂は鎌倉時代には存在したとされ、平成20年に新たに建立された舞台造りの建物、内部には阿弥陀如来像を安置する。光堂から下に続く参道脇に写真の像が安置されています。世界的な文芸作品「源氏物語」を創作した紫式部、書き連ねた道具は紙から始まり、筆や墨など当時は貴重なものだっただろう。エアコンも冷感素材もない時代、十二単はいかにも暑そうだ。参道を下った谷筋に鎮座する八大龍王社。周囲は濃い緑に包まれ、龍穴の池から流れ出た沢が流れ、それまでの乾燥した雰囲気から、木陰と一面に苔が広がる空気感の違いを感じる場所です。龍穴の池と中島に鎮座する八大龍王社本殿。「石山寺の暦海和尚がこの池の畔で孔雀経を読むと、池の中から龍王たちが現れ、経を聞いたとされる」その様子は石山寺縁起絵巻にも残されています。西国札所観音霊場補陀洛山の石碑。八大龍王社から沢沿いに本堂方向に進むと、右側に苔に包まれたこの碑が建てられています。天智天皇石切り場。天智天皇の御代の石切り場で、切り出された石は瀬田川、淀川を経て大和川を遡り、飛鳥の地まで運ばれ礎石に使われたという。天狗杉。本堂の礼堂下あたりに聳える大杉で、中興の祖朗澄律師が鬼と化して寺を見護る姿が見られたという。石山寺水車。石山寺縁起絵巻に瀬田川の水を汲み上げる水車の絵が描かれ、水田の傍らの水車小屋で脱穀した記録がある。石山寺の縁起を記した石山寺縁起絵巻は全7巻、33段に及び、正中年間(1324-1326)にはじまり、全巻完成までに500年を要したとされます。その絵巻の世界が今も残るのが石山寺です。ここまでが今回石山寺を訪れて巡った所で、境内には今回スルーしたところや、大河ドラマ館もあり実に見所が多い。石山寺山号 / 石光山宗派 / 東寺真言宗創建 / 天平19年(747)開山 / 良弁開基 / 聖武天皇中興 / 朗澄律師本尊 / 如意輪観音札所 / 西国三十三所第13番所在地 / 滋賀県大津市石山寺1-1-1公共交通機関 / JR東海道本線「石山駅」乗り換え、京阪電鉄石山坂本線「石山駅」降車、東大門まで徒歩10分参拝日 / 2024/08/22関連記事・西国三十三所霊場13番札所 石山寺・14番札所 園城寺(三井寺)
2024.09.11
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9月に入っても猛暑の勢いは衰える気はさらさらないようですこうも暑いと地方遠征や街中の神社を巡ろうなんて気が起きない。そろそろ撮り貯めていた写真も底をついてきて、出ない訳にもいかなくなり、豊田市郊外の稲刈りがはじまった一帯の神社を巡って来ました。そこまでは良かった帰宅してカメラのデータを切り取ったところで、固定電話が鳴り、やむなく電話を取る。もしもし、お名前と御用件は?「5月に送付した保険の・・・延滞金が・・・」所謂サギ電話だった、しかも随分古い手口それは御迷惑お掛けしています、ではもう一度お名前・所属・電話番号・御用件をお願いしますと言った途端「ブチッ!」腹立つぅー、せっかくマニュアル通り話させてあげようと思っていたのに#9110警察に連絡したりしてたもんだから、データの貼り付けを忘れてしまい猛暑の中、一日歩き廻った成果は残っていなかった、あーァ、もう一度撮り直しのようだ最近、前にもましてこうしたさぎ・セールス電話が多いかみさんはこうした電話には全く出ない片や自分はどこかに話を聞いてやろうと思うところがある以前警察にはおとりになるから逮捕しないかと持ち掛けるも、こうした案件が多く消極的な姿勢。携帯・Eメール・ライン・訪問者・・・警察だとか、滞納だとか上からの話し方してきても冷静に一番は出ない、出ても名は名乗らない、誰宛の要件なのか、先方の素性を問いただす(もっとも詐欺電話ですとは言わないが)一番なのは電話を取らないお国ならばほっといても別の形でコンタクトがきます、ある意味詐欺電話より執拗相手はマニュアルに従って話してきます冷静な対応を取るためにも応対マニュアルを作って貼っておくといいのかもしれません警官やいろんな格好して訪れてきますが玄関は開けない身分証の提示を求めるなにもかも疑ってかかるしかない悲しい時代になったものですくれぐれもサギの餌食にならないで
2024.09.10
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中村区黄金通2神徳稲荷大神。この日、携帯は熱中症。予定していたコースは全く確認できず、若宮八幡社に向かう前に参拝予定だった神徳稲荷大神をスルーしていた事に気付き、若宮八幡社から戻る事になった。彷徨いながらの神社巡りとなり、無駄に歩くことが多かった。黄金通1丁目の歩道橋で環状線を越えて南下、ほどなく神徳稲荷大神に到着。環状線沿いの稲荷鳥居、何度か車で通るたびに気になっていた。まずはいつもの様に鎮座地を明治頃と現在で比較してみると。鎮座地はもともとは米野の一部でしたが、昭和に入り現在の黄金通1丁目になった。黄金の由来は稲穂の黄金色からきており、地図からもイメージできる。当時の地図では水田意外に何もみられない。環状線から神徳稲荷大神の全景。右は御嶽教 神徳教会本部の建物で、神社は本部のオーバーハングの下に建てられています。社頭には門等はなく、通りすがりの参拝者を拒むものではないようです。この神徳稲荷大神、神徳教会含めて調べて見たが、教会が2015に法人番号を取得していること以外、創建時期など分からなかった。なので、見た事のみお伝えするものになります。鳥居の額は「神徳稲荷大神」境内にはこの稲荷鳥居と扁額以外、狛狐など稲荷を感じさせるものは見られません。鳥居脇の地蔵。本殿は流造で外削ぎの千木と5本の鰹木がのるもの。狐の姿がないと書きましたが、向拝頭貫の透彫りに、向かい合う二匹の狐の姿が彫られていました。狐感の乏しい神徳稲荷大神にあって、唯一稲荷らしさが漂う部分です。神徳稲荷大神創建 / 不明祭神 / ・・・境内社 / 神徳稲荷大神所在地 / 名古屋市中村区黄金通2-10 参拝日 / 2024/08/02若宮八幡社から / 名古屋環状線黄金通1丁目歩道橋を東に渡り、南に進む、移動時間6分程。関連記事・須佐之男社・迦具土社・牧野神明社・厳島神社・若宮八幡社
2024.09.07
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若宮八幡社と社名だけ聞くと中区栄に鎮座する名古屋総鎮守 若宮八幡社がすぐに思い浮かびますが、今回の若宮八幡社は中村区西米野町、駅西に鎮座する若宮八幡社。上は明治31年当時とほぼ現在の笈瀬村大字米野。一面に田畑が広がる中に、東西に柳街道が続き街道沿いを中心に米野、牧野集落があります。若宮八幡社の鎮座地は赤枠部分にあたり、当時は田畑以外になにもない。かつては薦野郷と呼ばれ、笈瀬川の右岸、現在の地下鉄桜通線太閤通駅から西側を西米野、近鉄米野駅西側の下米野、太閤通駅の東に上米野があり、鉄道用地の米野が残っている。現在の米野の由来は定かではなく、薦野が転じたものか、一面の稲から付いたものかよくわからないが、米野駅西側の長松寺付近には米野城もあったとされ、古くからの地名なんだろう。今では広大な水田の姿はなく、住宅の連なるアスファルト化された街に変貌しています。若宮八幡社社頭から名駅方向の東の眺め。杜は見えているのですが、社頭が見つからずひと回りした。地下鉄太閤通駅4番出口から右に進み、一筋目を右に進むとこの通りに出るはずです。とはいっても鳥居や、社標などの目印がなく、写真中央の「若宮八幡社」の看板が入口です。住宅街の細い路地の先に、若宮八幡社の杜と鳥居の姿があります。社頭全景。石の明神鳥居と右に社標は、鳥居が昭和7年、社標は昭和12年に寄進されたものでした。鳥居から境内の眺め。参道左に手水舎、正面に社殿、社殿の両脇に境内社が祀られています。境内は杜が作る大きな木陰に包まれており、境内の龍ヶ池には流水が注がれていることもあり、汗もスッと引いて行く。境内の木陰を作っているのは二本の楠の御神木。拝殿は木造切妻造の妻入りで一間の向拝が付き、向拝の額は「若宮八幡社」、破風や鬼には橘紋が入る。当神社の由緒書きは探したが見つけられず詳細は分かりません。応神天皇の第四皇子仁徳天皇が祭神と思われます。尾張志5(1898)に目を通すと「若宮八幡社 くまのの社 金山社 サグジノ社 辨天社並米野村にあり」と書かれているがそれ以上の記述はなかった。web情報によれば「明治42年、米野公園の北の熊野社に合祀、戦後の昭和26年に元地に戻る」とあったが明治31年の地図だけ捉えれば、記載されていてもいいような気もする。また、境内には「昭和7年境内地寄付」の碑が残り、一歩の線に繋がらず空っぽの頭を尚更混乱させる。ひとつ確かなのは、開発される以前の米野集落から現在に至る迄氏子により継がれて来た神社だということくらいか。境内右に龍ヶ池に浮かぶ龍輝辨戝天。龍ヶ池。池の中央に龍輝辨戝天が祀られており、水が動いていることもあり涼しい。池の後方には開運白龍王の鳥居があります。拝殿左の境内社。鳥居の先が開運白龍王、左手には祠が祀られています。社標は昭和35年、鳥居は昭和25年健之とありました。白龍王・・・水辺もある、聳える古木もある、龍なの、蛇なの・・・とぐろを巻いた重軽石?なにかはいるのだろう。檜皮葺流造の開運白龍王本殿。・・・いない。左の祠の中、重軽石よりリアルなものが安置されていた。比較的新しいのでこの主が境内のどこかにいると思うと、一気に暑さが吹っ飛ぶ。独身時代、金運を授かると云われて財布に忍ばせたものだが、あまり効果はなかった記憶がある。拝殿右には霊石、境内地寄付の碑、軍神像が安置されています。これが昭和七年境内地寄付の碑。碑は石臼にプレートが付けられたもので随分と使い込まれたものに見えます。今や蕎麦屋くらいしかお目にかからないが、この地で挽かれたものはなんだろう。軍神像から右の境内。龍徳辨戝天。という事はこの先にも水辺がある。境内には水に纏わる神様が多く祀られていますが、こちらもその一つ。いつから鎮座するか分からないが、成長した幹が燈籠(寄進年不明)を巻き込む様に聳えていたのが印象に残ります。龍徳辨戝天。周囲に堀が巡らされていましたが、水源がなく当日は干上がっていました。遅々として動こうとしない台風が上陸している今なら水を湛えているだろう。龍徳辨戝天の左から見た若宮八幡社の本殿。大きな覆屋の下に流造の本殿、左手に幣殿・拝殿と連なっています。拝殿方向の眺め。拝殿から社頭の眺め。ありゃ、こうして見ると狛犬がいるじゃないか、見落としていたな。この木陰から体温越えのあそこに出たくなくなる、若宮八幡社は街中のオアシスかもしれない。若宮八幡社創建 / 不明祭神 / 仁徳天皇境内社 / 龍輝辨戝天、開運白龍王、龍徳辨戝天所在地 / 名古屋市中村区西米野町1-79-2 参拝日 / 2024/08/02厳島神社から若宮八幡社 / 西に向かい、名古屋環状線の黄金通1丁目歩道橋を渡り徒歩12~13分関連記事・須佐之男社・迦具土社・牧野神明社・厳島神社
2024.09.06
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中村区太閤5に鎮座する嚴島神社。名古屋駅から南西900m程の中村区太閤5に鎮座する嚴島神社。名古屋駅西側は駅近の好立地ながら、こうした住宅が立ち並び下町の趣が漂う所が多い。嚴島神社はそんな町並みの中に埋もれるように鎮座します。上は明治31年の地図で右はほぼ現在の地図。笈瀬村牧野集落の南西に位置し、当時集落の周囲は田園地帯で、吹き抜ける風も心地よかっただろう。今や水田は姿を消し、アスファルト化された街を吹き抜ける風は熱波でしかない。水辺でもあれば少しは違うのだろうが、河童が出没した笈瀬川も今はありません。柳街道沿いの河童がいた須佐之男社から西の通りにあたり、西向きに写真の社頭があります。社頭右に昭和33年寄進の「嚴島神社」社標と正面に提灯櫓、左に由緒書きが建てられています。社頭由緒の内容は以下。「嚴島社御祭神 市杵島比賣命祭事1月 元旦祭10月 甘酒祭10月 秋季例大祭12月 大祓由緒延享4卯年(1747)9月16日当地に御鎮座あり。古くより宮裏神明社、椿神明社と共に牧野三所社の一なり。明治初年無格社と定められる。後年昭和37年(1962)椿神明社と合併、椿神明社境外末社となる。毎年10月16日執り行われる甘酒祭は、往古悪疫流行の際、御伊勢川(簗瀬川)の清流を汲みて作りし甘酒を神前に供し悪疫を鎮めたりとの口碑あり。」見た目から長い歴史を有する神社に見えないかも知れないが、古くからこの地の守護神として崇敬され、この地の移り変わり見てきた神社。境内に入ると一対の常夜灯があり、参道先の左に南向きに鳥居が建てられています。竿の一部が欠損した常夜灯、寄進年は明治32年(1899)と読めました。太平洋戦争以前からここに立っている燈籠です。鳥居に続く参道は幅が狭く、鳥居正面から本殿の姿を入れて撮影できないほど。本殿域は全周を水路で囲まれており、鳥居から本殿へは神橋が架けられています。鳥居から嚴島社本殿と狛犬。望遠もなく、狛犬にはここまでしか寄れず寄進年など読み取れなかったが、外観に欠損・罅など見られず空襲や震災の影響は受けていないようです。見世棚造りの本殿。延享4卯年(1747)創建の当神社、現在の社殿が何代目かは不明ですが、氏子により現在に至る迄受け継がれて来たものです。街中にあって、人の目が届かない水路で囲われた無人の神社、リスク管理の対応でしょう、鳥居から先は立ち入り禁止となっています。その昔は笈瀬川の流れを引き込んでいたと思われ、大きな金魚や鮒が泳ぐこの水源、どうなっているのか興味のあるところです。参道東側から社頭の眺め。正面から見た神明鳥居と本殿の姿は到底望めるものではない。駅近の小さな神社かもしれませんが、牧野集落を見守り続けてきた三社のひとつです。厳島神社創建 / 延享4年(1747)祭神 / 市杵島比賣命所在地 / 名古屋市中村区太閤5-1-13参拝日 / 2024/08/02牧野神明社から厳島神社 / 西へ徒歩10分関連記事・須佐之男社・迦具土社・牧野神明社過去記事(牧野三社)・椿 神明社・稲穂社
2024.09.05
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青春18切符を利用し日帰りで京都市内の西国33所札所を巡って来ましたが、ここ17番札所 補陀洛山 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)をもって今回は終了となります。鎮座地は鴨川左岸の京都市東山区轆轤町になります。六波羅蜜寺は西国三十三所第十七番観音霊場、日本最古の都七福神の一つ弁財天の札所として古く人々の信仰を集めています。補陀洛山 六波羅蜜寺門前。正面に鎮座するのが福寿弁財天堂。行願寺でも都七福神について書きましたが、都七福神巡りとは、草創以来六百年を越える日本最古の 七福神信仰、室町時代の民間信仰として以下の七社寺を参詣し御利益をいただくもの。1.寿老神 不老長寿 革堂(行願寺) 寺町通竹屋町上ル。2.ゑびす神 商売繁盛 ゑびす神社 大和大路通四条下ル3.大黒天 開運招福 妙円寺 松ヶ崎東町4.毘沙門天 七福即生 東寺(教王護国寺) 南区九条町5.福禄寿神 延寿福楽 赤山禅院 修学院赤山町6.弁財天 福徳自在 六波羅蜜寺 東山区ロクロ町7.布袋尊 諸縁吉祥 萬福寺 宇治市五ケ庄三番割今回の行程に上記七神の内、偶然にも寿老神と弁財天の二神を巡った事になる。建物は近年修復されたようですが、外陣の上の祥寿院と書かれた扁額は、以前のもののように見受けられます。内陣には恵愛堂と書かれた額が掛けられており、内陣中央にシャタールを持った福寿弁財天が安置されています。境内右の重要文化財リスト、こちらに訪れた動機は西国33所札所であるのは勿論ですが、最大の目的は右手の空也上人立像を拝観する事にありました。CMや書籍などでこの像が取り上げられ御存知の方は多いと思いますが、この目で実物を見ておきたかった。境内右の手水鉢から北側の本堂・銭洗弁財天の眺め。六波羅蜜寺の創建は定かではないようですが、醍醐天皇第二皇子 光勝空也上人(903-972)により天暦5年(951)に開創されたと云われます。当時の京都は疫病が蔓延し、悪疫退散を願う空也上人は、自ら十一面観音像を刻み、観音像を車に安置して都を曵いて廻り、先々で小梅干と結昆布を入れた茶を仏前に献じ、それを病者に授けて病魔を鎮めたという。現存する空也上人の祈願文には、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を招いて、金字大般若経を書き写し、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って盛大に諸堂の落慶供養を営んだ。これが当寺の起こりである。平安時代末期には平正盛が、付近に阿弥陀堂(現・常光院)を建立して以来平家との繋がりができ、平忠盛が当寺の塔頭に軍勢を駐屯させ、境内の隣に六波羅殿と呼ばれる館が建築され、平清盛によって六波羅蜜寺は平家の屋敷群に取り込まれてしまい、寺の内外一帯に5200棟余りの平家一門の邸館が栄えたという。しかし、寿永2年(1183)に平家没落の際に炎上し、本堂を除いた伽藍を焼失した。其の後は源頼朝、足利義詮による再興修復や火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉による修復や徳川歴代将軍から朱印を与えられた。上の挿絵は花洛名勝図会(1864)に描かれた当寺の伽藍。現在の当寺と比較すると大きな寺域を誇り、北側の六道之辻に表門を構え、南に向かい参道が続いていたようです。やがて寺域は縮小、参道は道路となり周辺には民家が建てられ現在の姿となっています。現在の伽藍は本堂を中心に、左に福寿弁財天、右に銭洗弁財天、本堂後方の令和館が主なもの。本堂全景。現本堂は貞治2年(1363)の修営で、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)の開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかな外観となっています。本堂は寄棟瓦葺の平入で、三間の向拝が付くもので本尊は十一面観音。本堂裏側の令和館には多くの仏像や平清盛像などを所蔵し、冒頭の空也上人立像もこちらで公開されています。絢爛豪華に彩色された向拝は、安土桃山時代に関白豊臣秀吉により増設されたもので、いかにも秀吉の好みそうなもの。本堂正面全景。現在の本堂は貞治2年(1363)の修営で、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)に解体修理が行われたものという。外陣は板張りで内陣の中央の厨子に本尊が安置されています。本堂向拝に架けられた額は「六波羅蜜寺」寺号にある六波羅蜜とはなにか、ということになります。HPによれば「この世に生かされたまま仏の境涯に至る六つの修行」を指すようです。成仏の境涯を得るためには、憎しみや貪欲の心を和らげ、煩悩から解き放ち、全ての命に感謝し慈悲心を育み仏に近づくことを目標とするもので、それを達成するための六つの修行として、布施(貪欲の気持ちを抑える)・忍辱(堪え忍ぶ)・禅定(自分自身を見つめる)・持戒(自らを戒める)・精進(不断の努力)・智慧(実践)があるという。自分なりに要約すると「人として資質(成長)を高めよ」という事かと勝手に解釈する。煩悩まみれの自分が現代風に置き換えると、給与・忍耐・自己分析・コンプライアンス順守・努力・実践となり、サラリーマン人生そのもののようにも思え、これらバランスよく実践すれば昇進や平穏な家庭も自ずとついてくるものと理解する。到底仏の境地には辿り着けないが、人として幸せな人生を全うするにも、これら精進を欠いてはならないものかも知れない。後付けとは思えない向拝ですが、本堂に対し向拝の装飾が浮いているような。ここから右奥が令和館入口になります。令和館。2022年、六波羅蜜寺の宝物を保管展示するために建てられた近代的な建物。右手に真新しい朱塗りの社が祀られています。弁天社・地主天王。挿絵を見るとこの場所に小さな社の姿が描かれていましたが創建・祭神の詳細は不明。挿絵が描かれた当時の寺域と現状を比較すると、約半分ほどに縮小したように見えます。空也上人像(HPより)。令和館の拝観時間は8:30~16:45、拝観料は600円、館内は撮影禁止ですが単眼鏡は可。館内には平安・鎌倉時代の国宝・重文に指定された薬師如来坐像、鎌倉期の平清盛坐像など17体の仏像や像が拝観できます。最大の目的、六波羅蜜寺を開創した空也上人像は二階に展示されています。HPは空也上人について「南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わした。」とあった。特徴のある鹿の角の杖の経緯も書かれており、「上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を愛した鹿を、定盛なる猟師が射殺したと知り、大変悲しんでその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を杖頭につけて生涯我が身から離さなかったという。定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子となり、瓢をたたき、法曲を唱し、寒い夜もいとわず京中を巡行して衆生の能化につとめた。」とある。この像は運慶の四男康勝の作で胸に金鼓、右手に撞木、左手には友だった鹿の杖をつき、草鞋をはいて、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承を再現したもの。実に写実的で今にも南無阿弥陀仏と唱える空也上人の声が聞こえてくる。少しはこの像容の意味が分かった。館内は椅子がなく立っての鑑賞になりますが、空也上人像の前でずっと見入っていました。また、鎌倉時代に作られた平清盛像座像は、自分がイメージする清盛とは思えぬ実に穏やかな表情をしたもので印象が少し変わったように思える。その他の仏像も時が過ぎるのを忘れるほど見応えがあり、六波羅蜜寺を参拝の際に令和館を拝観される事をお勧めします。これら仏像のポストカード、当日だけかもしれませんが販売されておらず、そこはやや心残りだが、心の中の迷いや怒りの気持ちで満ち溢れた時には、鈍行列車に乗って空也上人に会いに来ればいいことだ。・・・長椅子がほしい。6/11巡拝。補陀洛山 六波羅蜜寺開山 / 空也開基 / 村上天皇宗派 / 真言宗智山派山号 / 補陀洛山院号 / 普門院本尊 / 十一面観音創建 / 天暦5年(951)西国三十三所 / 十七番札所所在地 / 京都市東山区轆轤町81-1参拝日 / 2024/08/06関連記事 ・京都市内の西国33所巡り『17番・18番・19番』・下御霊神社・霊麀山 革堂 行願寺・紫雲山 頂法寺
2024.09.04
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8月22日、滋賀県大津市の石山寺と園城寺(三井寺)の西国三十三所霊場を訪れてきました。今月初めに青春十八切符を利用し、『17番・18番・19番』を回り、利用回数も残っているので、13番・14番も回ろうという事。当日の天気は晴れ時々曇りで、猛暑は一服と想定していたが、現地は強い陽射しの降り注ぐ快晴。いつもの様にJR金山駅から7:00過ぎの列車に乗り、米原で乗り換え、9:30頃にJR石山駅到着。最初の目的地石山寺へは京阪電鉄石山坂線で終点石山寺駅まで向かいます。丁度到着したばかりでしたが、ダッシュは諦め一本見送る。610京都橘ラッピング電車。2両編成の可愛い電車、側面の「滋賀のみんなに、しってホシーノ!!」が印象に残る。今日の移動はこの電車で移動します。約5分程で折り返し駅の石山寺駅到着。折しも大河「光る君へ」が放送され、紫式部が取り上げられていて、今回訪れる札所の中で混雑を想定しましたが、電車で訪れる方は意外に少なく混雑とは程遠い状況で一安心。駅から13番札所石山寺東大門までは瀬田川右岸沿いに15分程、影を探しながらの徒歩移動です。川沿いなんで少しは良い風が吹くかと思いきや、日陰は少なく暑いものは暑い。左手に「朗澄大徳ゆかりの庭園」が見えてくれば東大門は近い。石山寺中興の祖と言われる朗澄律師(1131-1209)、亡くなる際に「一切経を守護し万民の降魔招福の為鬼の姿になる」と誓い石山寺を護ると宣言したといいます。小さな庭園の池の先に青鬼となり石山寺を守り続ける朗澄律師の姿がある。石山寺には律師の画いた多くの絵や書写が残ります。10:00西国13番札所石山寺東大門。瀬田川右岸沿いに建つ入母屋瓦葺の八脚門で、寺伝によれば源頼朝が寄進したとされ、幾度か焼失を繰り返し現在の門は豊臣時代の淀君により修理されたという。両の間の仁王像は運慶・湛慶の作と伝わるもの。石山寺境内マップ。仁王門をくぐった参道の両脇に明王院・密蔵院・大黒天等の塔頭寺院が連なり、チケット販売所から右側に本堂、多宝塔などの主要伽藍が集まっており、最深部の豊淨殿や光堂、紫式部像や八大龍王社など見て回るだけでも2時間程要し、主要伽藍以外の大河館や他の見所を見ていくと半日コースとなるのでは。石山寺は古来より文学作品に登場し、紫式部が源氏物語を起筆した寺で、松尾芭蕉や島崎藤村なども滞在するなど文学の寺として知られています。公風園の牛車。絵巻に描かれる雅な世界が浮かんでくる。石山寺手水鉢の龍と不動明王。石山寺本堂。礼堂(外陣)と正堂(内陣)を合の間で繋いだ檜皮葺で県内最大の木造建築物。礼堂の下部は舞台造りとなっており、結構な高さに建てられています。右側の火灯窓が源氏の間。源氏物語はこの間から生まれた。紫式部が愛用した硯は豊淨殿で見ることができます。月見亭。本堂の右手の高台に建つ多宝塔の右にあり、平安時代後期の保元年間(1156~1158)、後白河天皇行幸に合わせ建てられたとされます。現在の建物は江戸時代前期の貞保4年(1687)に建てられた寄棟の建物で当時は萱葺だったようです。迫り出した崖の上に、袴腰で覆われた舞台造りの建物は、四方吹き抜けで高欄が廻らされたもの。月を愛で和歌を詠むための建物で、歌川広重の近江八景「石山秋月」にも描かれている。11:30境内最深部の光堂と紫式部像。世界的な文芸作品「源氏物語」を創作した紫式部、書き連ねた道具は紙から始まり、筆や墨など当時は貴重なものだっただろう。エアコンも冷感素材もない時代、十二単はいかにも暑そうだ。石山寺山号 / 石光山宗派 / 東寺真言宗創建 / 天平19年(747)開山 / 良弁開基 / 聖武天皇本尊 / 如意輪観音札所 / 西国三十三所第13番所在地 / 滋賀県大津市石山寺1-1-1手打ち蕎麦 蕎麦屋すみ蔵。東大門から石山寺駅方向徒歩2分程の蕎麦屋。当初昼食はカツ丼か蕎麦を予定していたが、暑さからカツはパスして冷たい蕎麦一択となる。予定した蕎麦屋が定休日のため、石山寺参道沿いのこのお店に立ち寄った。写真はもりそば(1000円)とお任せ3種盛り(900円)+黒ラベル(570円×2)。評価 / 良く冷えていて暑い日には嬉しかった、店内の雰囲気程蕎麦に拘りを感じなかった。蕎麦湯がサラサラで蕎麦の風味は感じられなかった。ビールが良く冷えていてとても嬉しかった。所在地 / 大津市石山寺1-3-1712:47石山寺駅到着。616「ひかる君へ」ラッピング電車で次の目的地14番札所園城寺に向かいます。くねくねと何度も曲がりながら、市街地を走り最寄り駅の三井寺駅まで約20分程の移動時間。三井寺駅から琵琶湖第一疎水沿いに園城寺に向かいます。京都の飲用水や農業用水等の水事情の改善、発電や物資輸送ルートとして明治45年(1912)に完成した人口水路で幾つものトンネルをくぐり、京都南禅寺の蹴上に繋がっています。この疎水が地下に潜る辺りから、北へ5分程進んだ園城寺町交差点の左側に園城寺大門が現れます。13:45西国14番札所園城寺(三井寺)表門の大門に到着。宝徳4年(1452)の建築とされ、もともと湖南市西寺鎮座の常楽寺の門で、秀吉により伏見城に移築、後の徳川家康が慶長6年(1601)に園城寺に寄進した入母屋檜皮葺で三間一戸の楼門。両脇の間には康正3年(1457)に制作された金剛力士像が安置されています。三井寺境内マップ。三井寺は琵琶湖南西の長等山の中腹に鎮座する天台寺門宗の総本山で、正式名称は長等山園城寺といいます。創建は定かではありませんが、7世紀に大友氏の氏寺としてはじまったようです。平安時代の第五代天台座主・智証大師円珍和尚により、天台別院として中興され、源平の争乱、南北朝の争乱等の焼き討ちに遭いましたが、都度復興され不死鳥の寺として今日に至ります。通称三井寺の呼称の由来は、境内に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」が転じて三井寺となったようです。その霊泉は、大門をくぐって正面の金堂左側の閼伽井屋と呼ばれる小さな堂の中で今も湧き続けています。金堂(本堂)と閼伽井屋(左)。現在の金堂は慶長4年(1599)、北政所により再建された、入母屋檜皮葺で三間の向拝を持つ重厚な建物で、内部は外陣・内陣・後陣の三区画に別けられています。本尊の秘仏弥勒菩薩は内陣に安置されています。伽藍は金堂の西側に一切経堂、唐院潅頂堂、南に微妙寺、西国14番札所観音堂と鎮座します。閼伽井屋正面の蟇股に施された左甚五郎作の龍の彫刻と霊泉。耳をすませば、ボコッ・ボコッと地下深くから湧き出る霊水の音が今も聞こえます。金堂右側に近江八景「三井の晩鐘」で知られる鐘楼があります。切妻檜皮葺で、周囲は腰板で囲われ、その上には縦格子が入れられた特徴のある建物です。吊るされる梵鐘は、慶長7年(1602)に当時の園城寺道澄師の発願によって「弁慶の引き摺り鐘」を模鋳した二代目という。この梵鐘には弁慶に纏わる伝説や不思議な言い伝えが残ります。奈良時代に鋳造されたとされる初代梵鐘は閼伽井屋の左の霊鐘堂で公開されています。微妙寺から観音堂に向かう途中の力軒、創業1810年の茶屋。写真はこちらで出されている辨慶力餅。かみさん曰く「これを食べるため…」という事らしい。求肥餅にきな粉と抹茶、和三盆糖をまぶした柔らかい餅で、見た目ほど甘々ではなく二本は無理かなと思っていたが、ペロリとたいらげられる。タップリとまぶされた抹茶がポロポロ落ちるので食べ方には要注意。茶屋から右手に向かい西国三十三所14番札所観音堂に向かいます。参道の先に写真の石段が現れればその先が観音堂です。石段上り口から見上げると左側に見えるのが百体観音堂で舞台造りの建物は観月舞台。南院の伽藍の中で一番の見所だと思っています。嘉永3年(1849)に造られた入母屋檜皮葺きの舞台は普段立ち入りは出来ません。桜の時期には予約が取れさえすれば舞台に上がることができ、床に写り込む桜と眺望が美しい所でライトアップも行われます。予約制の瑠璃光院の事を思い出すと、ハイシーズンに訪れる踏ん切りがつかないところです。観音堂境内からは眼下に大津の町と琵琶湖の眺望が広がります。15:10観月堂右手から石段を下り、大津の町の散策しながらJR大津駅に向かいました。園城寺(三井寺)山号 / 長等山宗派 / 天台寺門宗創建 / 7世紀中興 / 貞観元年(859)開基 / 大友与多王本尊 / 弥勒菩薩札所 / 西国三十三所第14番所在地 / 滋賀県大津市園城寺町246長等商店街。観音堂から石段を下り5分程東の大津市長等にある商店街。こから東にかけて昭和レトロな雰囲気が漂う商店街が連なり、雰囲気のみならず、BGMも昭和世代には懐かしい曲が流されています。こちらで赤こんにゃくや麩、この通りに軒を連ねる平井商店で地元の酒を何本か買い求め、大津駅から16:00頃の電車で帰途に着きました。平井商店創業万治元年(1658)の小さな酒蔵で代表的な銘柄は浅茅生、利き酒は行っていません。所在地 / 滋賀県大津市中央1-2-33剣呑。このラベルを見て怖いもの見たさで買ってみました。文言通り迂闊に開けると大変なことになる濁り酒で、爽やかな飲み心地のお酒。他に浅茅生銘柄を何本か手に入れたのでしばらく楽しめそうです。参拝日 / 2024/08/22
2024.09.01
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