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八坂神社(田向村観音堂)
祭神:素戔嗚神、疱瘡神
札所本尊:十一面観音(現在は御神体となり秘仏)
根城 龍源寺 から沢里・中居林を通って是川に入る。石手洗団地入り口に、ひっそりと、 杉におおわれた丘がある。その参道は、自動車がやっと一台通れる程の細い道で、村がその参道に沿って流れている。この一帯は、ほとんどが畑で、その中にこんもりと見える森が、梨木平の観音堂である。
佐々木恭岑上人の八戸御城下巡礼札所の中には「田向村観音堂」とあるが、田向には毘沙門堂跡はあっても、観音堂があったという記録・伝承は残っていない。そして、田向村は、天明の飢饉の際、農民たちは、みな逃散してしまい廃村となった部落である(『大館村誌』)。その道を挟んだ隣村の石手洗村梨木平に古くから信仰を集めている観音堂が鎮座している。おそらく、田向村観音堂とは、この御堂のことを指したのであろう。
『梨木平観世音縁起』の中に書かれている伝説によると、藤原有家という京の公家が、この地を訪れた時、家臣の北島兵衛が病に倒れ帰らぬ人となった。それを悲しんだ有家卿は「十一面観世音・南無阿弥陀仏」と卒塔婆に書き、北川清蔵に墓守りを命じた。そして、 赤城山 金峰寺 を建立したのである。これが梨木平観音堂で、代々御堂を管理してきたのは北川家である。
八戸藩の記録によれば、天然痘平癒の神として「梨木平疱瘡神堂」とも呼ばれ、寛政2年(1790年)正月に御堂が建立されたという(『御勘定所日記』)。また、享保15年(1730年)4月には「亀之助様卸疱瘡御立顔」と全快祈願の絵馬を奉納した記録もある(『八戸藩日記』)。このように八戸藩でも信仰していた十一面観音であった。
境内には、杉の葉がたくさん落ちており、夏には最適の避暑地である。そして、数基の古めかしい石燈籠には、確かに「十一面観音」と刻まれ、その中には「文政十二巳丑年(1829年)五月十七日十一面観世音菩薩」とか、「文化十四丁丑年(1817年)九月十九日十一面観音」と刻まれている。ちょうど文化・文政期は、岩井重良兵衛らが八戸城下を巡礼した、いわば何回目かの巡礼ブームの時期である。
御堂は四間四方のトタン入母屋屋根で、土台の礎石が傾きかけ、歴史の古さを感じるせる。御堂の内部には、江戸時代からの古びた絵馬が数枚掛けられており、中央には、文政10年(1827年)に、糠塚村の六助が奉納した賽銭箱が置かれている。六前とは、田向の吉田家一族であったが、宝暦の飢饉に際し、母に連れられ、糠塚へ定住した大久保家のルーツである(『六助家譜』)。
従って、梨木平は、田向村と共同体として結びついていたのである。御簾の奥には、3基の神棚が安置され、中央が十一面観音を祀っている。いわば、神仏混合の名残である。従って、御神体の観音を見ることは出来なく、固く御扉に錠がかけてある。左右の神棚には、それぞれ牛頭天王・不動明王が祀られ、その3基の神々を守るように、五尺ほどの大きな、木彫の鬼神像が両脇に安置されている。
明治初期の神仏分離の際には、 長者山下の牛頭天王 を分祀し、「八坂神社」と改名している が、地元の人々の間では「観音サマ」で通っている。同社奥の院の棟札には「白素戔ノ嗚尊八坂神社・明治四辛末年五月吉日・社守清五郎・祭宦大宮司中居嘉次満藤原道成」と書かれ、神社であることを証明している。そして、当時は、旧6月15日に大祭を執行し、八戸神明宮が兼務した(『明治初年神社調』)。
御堂は、度々泥棒に入られ、放火にもあっており、現在の御堂は明治になってから改築したものである。その昔は、疱瘡神として信仰を集めていた十一面観音であったが、今では、年に1度旧9月19日、地元の老人たちが集まり、ささやかな例祭を催している。御堂の中に掛かっているたくさんの蜘蛛の巣に、観音堂の今昔をみる思いである。



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