奇   知   外   記

奇  知  外  記

PR

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Category

カテゴリ未分類

(328)

天の父母様聖会_世界平和統一家庭連合

(874)

天の父母様聖会

(41)

文鮮明先生み言葉選集(講演文)

(683)

天心苑TV[CheonShimWonTV]

(21)

天心苑特別徹夜精誠

(69)

独生女考

(108)

真の父母論

(6)

天一国摂理史

(126)

韓鶴子総裁御言選集

(101)

平和の母・平和を愛する世界人として

(428)

自叙伝で歌を!~「平和の母」オリジナルソング集

(34)

宗教/天地創造

(655)

ブログ村

(235)

UCI、サンク

(374)

分派(祝福権委譲と異端者・爆破者宣布ほか)

(360)

虚偽「ONE TRUHT」

(21)

夜昼の神様

(6)

石川能登地震

(20)

統一運動

(251)

国際勝共連合 UNITE(ユナイト)

(42)

天の父母様聖会_世界平和女性連合

(5)

日韓トンネル・ピースロード

(87)

日韓関係

(108)

韓国

(310)

米国

(29)

人権・拉致

(166)

ネット拉致・不正アクセス関連記事

(150)

龍辰憲院長真の父母様の生涯路程

(11)

原理本体論

(1)

天の父母様聖会 希望前進礼拝

(1)

文鮮明総裁聖誕100周年

(22)

PeaceTV、U-ONE News

(219)

ユナイト

(5)

平和

(173)

世界情勢

(5)

環境保護

(8)

郷  土

(86)

家庭・家族

(58)

ドラマ

(17)

仕事

(6)

驚くほどの古今東西の予言書

(34)

韓流サッカー

(388)

サッカー

(231)

ピースクィーンカップ

(63)

ピーススターカップ

(46)

城南(ソンナム)

(68)

ソロカバ

(2)

MIRAIOH TV

(4)

PeaceLinkTV

(88)

天苑宮天一聖殿入宮式

(16)

光言社キャラクター・こうたん

(1)
2025.06.29
XML
   お母様は知恵深いおかた

 今回の真のお母様の還暦で、お母様は六十一歳(数え年)になります。先生は、お母様に苦労をさせず、清らかに育てようとしました。まだ分別のつかないお母様を連れて来て、育てたのです。

 では、わたしの代わりに、天地の位置を任せても従順に従うことができるお母様に育てあげることが、簡単だったでしょうか、難しかったでしょうか? (「難しいです。」)

 それでは、お母様が認めることのできるメシヤ観というものがあるでしょうか、ないでしょうか? (「あります。」)(お母様は)知っています。個人として、こうでなければならず、家庭の主人は、こうでなければならず、国の主人は、こうでなければならないということを、先生が教えた本の骨子だけを、きちっと抜き出しているのです。

 お母様は知恵深いので、そのようなことをノートにきちっと書いて、第一条から約百いくつまでの条項を中心として、記憶しているでしょうか、記憶していないでしょうか? 記憶していなければ、愚か者でしょう?

 お母様は、知恵深いお母様です。一言言えば、二言分を測定するのです。先生が約束したことを、“すべてそのとおりにするか、しないか?”というわけです。





​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
「神様王権即位式」二周年記念式典における御言(前編)



 記念行事は午前八時半から、聖燭点火、祈祷、敬礼式、「家庭盟誓」唱和、代表祈祷、真のご父母様によるケーキカット、「万歳」四唱、花束贈呈、「訓読会」の順に進行し、その後、真のお父様が、み言を語られました。


 (揮毫のための大きな筆を持たれながら)記憶するに足る揮毫を持つことを願います。分かりますか? それは何かというと、皆さんが、統一教会の歴史の実績を、心に再び記憶することが重要であるということです。分かりますか? (「はい。」)

 時間が、かなり過ぎました。今、何時間たちましたか? 八時半からなので、二時間二十分ですか? (「はい。」)二時間二十分たちました。わたしたち統一教会の集会では、二時間二十分は、序論も終わっていない時間です。(笑い)

 先生は、み言を長く語ることもできますが、み言の骨子を抜き出すすべも知っています。分かりますか? (「はい。」)ですから、皆さんが絶対的に必要な、その内容を簡単に話すこともできるのです。

 先日、いくつか示唆したことの具体的な内容を話そうと思えば、一時間以上かかりますが、十分間で終わらせましょうか、それとも一時間以上、話しましょうか? (笑い)

 皆、性根が悪いのです。“昼食時間になりつつあるのに、一時間以上、話をして、十二時が過ぎても昼食も食べさせないようにしようと、あのようにされている。”と、思っているのです。一時間話せば、もう、二時間、三時間話すことは普通です。

 ですから、“先生は、昼食も食べさせずに追い払おうとして、あのようにされるのだな。ありとあらゆる複雑な事情を抱きながら、夜を明かして遠い道を来たのだから、今日は、何かの大きな意義のある日ということで、福の包みでももらって行こう。そのようにして村に帰れば、褒めてもらうことのできる贈り物でも分けてあげ、み言も語ってあげよう。”と思っていたのに、そのように期待していたことが外れれば、不平不満を持って帰るようになるのです。

 ですから、そのように思って、少しの間、話をします。

   “一つの님[ニム]”

 ここに立っている人は、だれですか? ここに立っている人は、どのような人ですか? 言うまでもありません。韓国人であり、ありもしないのに、世界で悪いことをたくさん行ったと言われ、韓国の八代政権がすべて追い出して、悪口を言った代表的な人です。



 この国に主人がいません。この国の主人は、だれですか? 皆さんが主人ですか? 大統領が主人ですか? 皆さんのおじいさんが主人ですか? お父さんが主人ですか? ここにいる夫が主人ですか? 妻が主人ですか? 息子、娘が主人ですか? 主人がいません。すべて失ってしまったのです。

 「主人である。」と言って、天地に掲げることのできる内容を知らないうえに、手本とすることのできる人がいないのです。

 そのような師がいないのであり、そのような父母がいないので、父母の真の息子、娘として、そのような位置に立つことができず、真の師として、そのような位置に立つことができません。また、王であるならば王となることができる真の王がいないので、そのような位置を立てることができないのです。

 ですから、すべてが暗黒の世界であり、渾沌とした世界です。それが終末の時代です! 嘆息と絶望の時代です!

 韓国語で、「主人」の中の最高の「主人」を代表している言葉は何かといえば、「一つしかない님」という言葉です。言ってみてください。(「一つしかない님。」)だれもが、“님”(おかた、主、あるじ、いとしい人の意)を慕わしく思うでしょう? (「はい。」)

 この地上の女性たちは、“一つの님”を願いますか、それとも、さまざまな、くだらないにおいを放ち、漂わせるおかしな“님”を願いますか? “一つの님”ですか? (「はい。」)

 家庭では、お父さんとお母さんが“一つの님”になっていますか? 息子、娘たちが“一つの님”になって、一つの父母を愛することのできる家庭になっていますか?

 そうして、そのようなわたしたちの家庭が“님”の基になり、天も“一”を捜し、世界も一列になって、「わが家に訪ねて来なければなりません。」と言うことのできる家庭になっているでしょうか? “一つの님”に侍はべって生きる、そのような家庭を持っていますか、いませんか? 答えてみてください。

 相対的立場において、ありえますか、それとも絶対にありえませんか? どちらですか? 相対圏を認めれば、ありえますが、死んでから生き返っても、そのような世界は、昔からも絶対にありえず、永遠にもありません。主人がいません。“一つの님”です! 言ってみてください。(「“一つの님”。」)

 例を挙げるならば、右目にとって、“一つの님”とは何ですか? 右目ですか、左目ですか? そのようなことも考えたことがない人々を教育して、何の役に立つでしょうか?

 それでは、鼻があれば、この左の鼻にとって、“一つの님”が必要であるとすれば、それは左の鼻ですか、右の鼻ですか? 唇が“一つの님”を願うとすれば、この唇の中で、二つの唇のうちの下の唇ですか、それとも二つの唇ですか?



 いくら見た目の悪い女性であったとしても、その女性にとって、“一つの님”とは、もう一人の美しい女性の“님”でしょうか、それとも、夫という見苦しい男性の“님”でしょうか? (「夫という男性です。」)

   主人の中の主人

 おじいさんとして、わたしが……。今、わたしは何歳ですか? 今日を超えれば、何歳になりますか?

 世の中には、悪いことがたくさんあります。皆さんが暮らしている国は、別々の国です。日本人には日本という国、韓国人には韓国という国、米国人には米国という国があります。

 しかし、本物の国、一つしかない“님”の国はあるのか、というのです。同じ道理ではありませんか? ありますか、ありませんか? (「ありません。」)考えてみたことがありますか、ありませんか? (「ありません。」)

 自分の国が一番になることを願うのが、せいぜいのところであって、ほかの国が一番になることを願う人がいますか? 愚かな人であっても、自分が、たとえ優れた美男美女でいっぱいの町の真ん中に立っていたとしても、そのすべてを否定し、“私は愚かであるが、世界を代表した王様の息子になりたい。”と、考えるのです。“一つの님”です。



 山は変わらないので、だれもが中心として見詰め、記憶の表題として残したいのです。そのようにして、なくてはならない一つの中心存在の“님”として記憶するようになれば、山河は世界最高の名勝になることができるということは、事実です。

 それでは、そのようなことを考えれば、この宇宙の万象全体、個人家庭全体、宇宙全体を見て……。太陽系を中心として見れば、その太陽系が、一説によれば一千億個も入るのが、この大宇宙です。ですから、宇宙を創られた神様は、どれほど偉大なおかたでしょうか? 千個だけでも大変なのに、一千億個です。ひゅー! (驚いた表情で口笛を吹かれる)年を取った老人は、口笛の音も出ませんね。ひゅー! ひゅー! (笑い)

 さあ、最も良い“님”とは、何でしょうか? 黄金の山があるとして、二十四金の中で一番になることができる標準とは、二つでしょうか、一つでしょうか?

 ダイヤモンドの鉱山に行けば、そこでは、ダイヤモンドがお互いに「自分が美しさでは一番である。」と言うのですが、一点のきずもないという、そのダイヤモンドの横にきずがあれば、それは、どのようになると思いますか? 王は、完全に純潔でなければなりません。そのみ言を話しましょうか?

 主人の中で一人しかいない主人、また、“님”の中で一人しかいない“님”、宝物の中で一つしかない“님”、すべてにおいて一つの標準となることができ、その全体をもって主人の役割を果たすことができる、そのような“님”が世の中にいるとすれば、どれほど良いでしょうか? そのようなことを考えてみたことがありますか?

 そのような“님”がいるとすれば、一般世界の優秀な文総裁のような人も、その“님”の代表、世界の代表的な中心の“님”の価値を持っていると思いますか、持っていないと思いますか? なぜ、答えずに黙っているのですか? それでは、文総裁は、神様よりも優れた文総裁ですか、神様よりも劣った文総裁ですか? (「優れています。」)

 先ほど訓読したみ言の中にもあるように、愛する人とは、自分よりも何千万倍、何億万倍、素晴らしくても良いのであり、さらに一層、素晴らしければ良いと思うのです。

 そのような相対とは、父にとっての息子であり、息子にとっての父であり、夫にとっての妻であり、妻にとっての夫です。自らの愛の相対は、より高くなければならないのです。

 ですから、神様よりも文総裁が劣っているという話は、することもできません。そのような言葉も、見る立場によって異なるのです。

 東側から見れば、日が沈むときの夕日、美しい夕焼けを誇り、赤い光でこの世界に花を咲かせて沈む日の光は、朝日よりも、もっと美しいのです。

   愛が絶対の表象

 さあ、それでは、だれが最高になるのでしょうか? 世の中で最も良いものとは、何でしょうか? 最も良いものとは、何ですか? ここにいる欲深い、何大使ですか? (「平和大使です。」)

 ここにいる人々が足りないので、間違って呼んで来て、平和大使としても座ることができるのです。そのような人が本当の中心であるとすれば、その人に従って行けば、滅びるでしょうか、栄えるでしょうか? (「栄えます。」)何ですか? だれが、その返事をしましたか? 滅びるのでしょう?

 そのようなことを比較することができる“原器”、最も中心的な基準として、材料を測定することができる“原器”、または中心とは、何でしょうか? お金ですか?

 ここ(大聖殿)に、何人集まりましたか? 六千人ですか? 六千人と言ったでしょう? 六千人を超えているはずですが。ここにぎっしり座れば、一万二千人が入ります。

 それは、知識でしょうか? ここにいる平和大使たち。“あー、私は◯◯をしてきた人物なのに、統一教会の人たちを見れば、皆、子供のようであり、皆、私の年下のいとこ、年下の七親等、八親等、十二親等にもならない人たちで、そこに行っても、皆、その程度のものだろう。ふふふふ……。”と、そのようになりがちなのです。

 知識をもって、追従するのですか? それとも力ですか? 力でしょうか? 肩に力を入れて、無理に押し切って、「一度やってみよう!」と言うような、ありとあらゆる人がいるのでしょう。

 知識でもなく、力でもなく、それから何ですか? お金ですか? 「トン(お金)」と言えば、それは「トンダ(回る)」ですか、「ト ラ ガンダ(帰る)」ですか?

 それは良いことですか、悪いことですか? お金と言えば、これは、“回る”という事実にもなり、“帰る”という事実にもなるのです。最も悪い所と近い所にあるものが、お金です。

 愛の中で、回ることができるものとは、何でしょうか? 心は丸いですか、平たいですか? 「丸いです。」なぜですか? 回ろうとすれば、丸くなければなりません。心は、まん丸であってこそ、回ることができるのです。そのようなことを考えると、教えてあげれば、答えることは、だれでもできるのです。

 それでは、天地において、わたしたちが、“一つの님”として尊敬することのできるおかたとは、どなたでしょうか? 知識に狂った人でもなく、お金に狂った人でもなく、権力に狂った人でもありません。何に狂った人でしょうか?

 男性にとって、“님”になることができるのは、それ以上にハンサムな男性であるという話は、正しいですか? ハンサムな男性にとって、その“님”になることができるのは、醜い女性であったのです! 目の不自由な人であっても、それは、私の“님”です。

 昔、出会ったときには、相手を“天下一である。”と思って、そのまま一心に侍ってきたならば、たとえ死んだとしても、また、四肢五体が不自由になったとしても、体一つあれば、その人が“님”です。自分のポケットに入れて歩いたとしても、愛が変わらなければ、その人が“임[イム](님)”の中の“임[イム](님)”です。そうですか、そうではありませんか?

 ですから、男性たちにとって、“님”となりうる、その主体とは何でしょうか? 何ですか? (「女性です。」)女性ですか? それでは、男性たち。そうだと思いますか? 女性が必要ですか? (「はい。」)どれくらい必要ですか? (「絶対的に必要です。」)

 絶対的ということだけではいけません。絶対的であり、自分にとって唯一でなければなりません。絶対的に自分の元を離れることができない、“唯一”です。それから何ですか? “不変”です! その次には、何ですか? (「“永遠”です!」)

 わたしよりも優秀ですね。よく知っていますね。(笑い)それゆえに、主人を選んで、自分の“님”を訪ねて行くときには、失敗せずに、しっかり訪ねて行くのです。

 ですから、その絶対の表象となりうるものは、男性にとっては女性であり、女性にとっては男性です。なぜ、そうでなければならないのでしょうか? 何ゆえに、そのようになっているのかというのです。お金ゆえにですか? 男性と女性に、お金がありましたか?

 最近では、嫁に行くときには、やれ婚礼家具であるとか、何億の家がついてくる、何々をしてくるなどといって、大騒ぎをしていますが、お金が貴いのですか、何が貴いのですか? (「愛が貴いです。」)

 愛は平たいですか、丸いですか? (「丸いです。」)愛の家は、どこにありますか? 心にありますか、てっぺんにありますか、足の裏にありますか? (「心にあります。」)わたしには分からないので、尋ねるのです。(笑い)

 女性のてっぺんにありますか、足の裏にありますか、それとも中心にありますか? (「中心にあります。」)男性は、どうですか? てっぺんにあるでしょう? (「中心にあります。」)中心にあるのですが、それは何ですか? 閉じますか、閉じませんか? どうですか?

 女性は、静かに考えなければならないでしょう? ここにいる男性たちは、じっとしているのに、なぜ「ひひひひ。」と、笑うのですか? 「めんどりが鳴けば家が滅びる。」と言いますが、どうですか? 同じですか、同じではありませんか? 同じですか? (「はい。」)この者たち! (笑い)

 関心を持ちましたか? 平和大使たち、関心を持ちましたか? 平和大使たちだけ、拍手をしてみてください。どこにたくさん座っているのか分かりません。拍手してみてください。(拍手)なぜ、平和大使たちが皆、四方に集まっているのですか? こちらには、いませんね? 日本人たちですか、韓国人たちですか?

 このようになれば、韓国人は右側に行き、日本人は左側に座っているのですが、日本人をもてなしてあげませんでしたね。このように、細かいことにも厳しい先生です。

   生殖器は愛の王宮

 それでは、神様にも“님”が必要でしょうか? 人には“임[イム](님)”が必要かも知れませんが、神様にも“님”が必要でしょうか? (「はい。」)それは、どのような“님”ですか? 文総裁のような醜い男性ですか?

 それは、(文総裁のように)千年間、悪口を言われても、聞いているのか聞いていないのか、知っているのか知らないのか、(悪口を言われたことを)忘れてしまうような男性でしょうか? それは、醜い男性ではありませんか?

 神様にも、一つしかない“님”がありますか、ありませんか? (「……。」)これでは、幼稚園児にもなることができませんね。そのようなことを初めて聞くので、そうなのでしょう? このようなことを常識であると思って、それを求めて歩く人がいれば、その町内に来て、一番になり……。

 神様にも、そのような“님”がありますか、ありませんか? (「あります。」)神様は男性でしょうか、女性でしょうか? (「男性でいらっしゃると思います。」)(「男性と女性です。」)また、それは何ですか? (笑い)「男性と女性です。」と言うときに、「男性」という言葉が、先になるにはなっていますね。

 統一教会では、神様の属性を中心として、神様は、どのような存在であられると言っているでしょうか? 二性性相の中和的存在です! それは、どういうことでしょうか?

 それでは、二性性相の中和的存在の二性性相とは何であり、中和とは何ですか? どちらが標準となるのですか? 中和です! そうでしょう?

 二性性相の中和とは何かというと、二つが一つになって、アンテナが、ぴょこんと立っているということです。ですから、中和的存在です。

 また、格位においては、どうですか? 男性格位です。男性格主体となられるので、二性性相や女性性相を中心として、男性と女性の中和的存在であられ、その格位においては、最高の男性格主体であられます。最高の頂に上がって行くのです。

 最高の頂の男性的主体とは、だれでしょうか? 神様です。神様が最高の主体になられるとすれば、そのおかたの“님”になることができる存在とは、何でしょうか? それは、「二性性相の中和の中にあるものである。」と、このような結論が出てくるのです。

 その中和の中にあるものとは、何でしょうか? また、先ほど話しましたが、男性は、絶対的に女性が必要であり、女性も、絶対的に男性が必要ですが、それは、何でしょうか? 愛ですが、愛の器官は何ですか? (「生殖器です。」)

 生殖器であるとすれば、その生殖器とは、生まれる「生」という字に、植える「植」という字に、入れ物の「器」という字の「生植器」ですか? そのようになれば、その名前は、今の「生殖器」という言葉よりも良いでしょう? “生命を植えて育てる器”という意味の「生植器」です! 生殖器が好きですか?

 その生殖器とは、何ですか? 生殖器で何をしますか? (「愛を広めるものです。」)生殖器、凹凸で何をするのか、というのです。(「愛の王宮です。」)愛を行って、どうするのですか? 生殖器は愛の器官ですが、その愛の器官は、何をするためのものですか? (「血統を残します。」)血統、結実です!

 なぜ、結実が必要なのでしょうか? そこから家庭の結実が生じ、国の結実が生じ、世界の結実が生じるのです。神様までも、とても喜ぶことのできる天国が、そこから始まり、神様が暮らされることのできる家庭も、そこから始まるのです。それは、天地で一つしかない、愛することのできる自分の“임[イム](님)”をつくり出すことができる製造工場です!

 それでは、男性の器官のほうが貴いでしょうか、女性の器官のほうが貴いでしょうか? (「男性のほうが、より貴いです。」)なぜですか? (「種を持っているからです。」)男性には、種なのか何なのか分かりませんが、骨があります。韓国の歌に、「お父さんから骨を受け、お母さんの血を受けて、このような美男美女になった」と、感謝する歌もあるでしょう? 分かりますか?

 生殖器という器官がありますが、この人間世界を神様がごらんになるとき、神様が男性格主体であられるとすれば、女性のほうを、より愛されるでしょうか、男性のほうを、より愛されるでしょうか? (「女性を、より愛されます。」)女性の何をですか? (「生殖器です。」)

 生殖器とは、何をするものですか? 生殖器とは何ですか? 国の宮があるのですか、何があるのですか? (「愛の王宮です。」)生殖器は、愛の王宮、生命の王宮、血統の王宮ですが、男性の生殖器も皆、そのようになりうるのです。

 宮がなければなりません。女性には何もありません。体を見れば、女性は平たく、男性は突き出ていますが、女性の中の深い所にあって、実を結ぶことができるものが子宮です。子宮、知っていますか? (「はい。」)子宮を見たことがありますか? (笑い)

 最近では、手術や解剖をして、すべてを実際に見て知っていますが、昔は、子宮なのか何なのか分かりませんでした。古代人も、“動物も子を持ち、春になって、一度カップルをつくれば、子種が入っていった後に、何か月かすれば、父親に似たものも生み、母親に似たものも生む。それは、何の器官だろうか?”と、不思議に思ったでしょうか、関心を持ったでしょうか、知りたいと思ったでしょうか? (「知りたいと思いました。」)

 男性には、いくらそのようなものを探してみても、すべてが見えているので、ありませんが、女性には、秘密があります。おなかの深い所に子宮があります。ここで、神様の息子が育つことができ、神様の娘が育つことができるという事実があるのです!

   愛の主人のいない世の中

 この世界は、主人のいない世の中です。それは、何の主人でしょうか? お金の主人は、いくらでもいます。分かりますか? 力の主人や知識の主人は、いくらでもいます。

 市場に行けば、互いに「私の品物を買ってください。」と言って、大騒ぎしていますが、宇宙において、希望の“一つの님”しか残ることができない、そのような本物の愛の主人がいるのか、ということです。皆さんの父母が、そうですか? また、皆さんが、そうですか?

 父と母の心と体は、闘っていますか、闘っていませんか? (「闘っています。」)毎日のように闘わない心と体があれば、傷つかないはずですが、毎日のように闘う父と母の胸の中、闘う心の世界の心情の真ん中には、傷、ひびが入るでしょうか、入らないでしょうか?

 そのひびを見詰めるとき、息子、娘が、「ああ、お母さんには、ほかの人よりも、一つでも多くの傷があればよいのに。」と、思うでしょうか? そのひびが多いほど、関係が遠ざかるのです。分かりますか? そのような見本となることのできない者が残るので、目自体がねじれ、鼻自体がねじれ、口自体がねじれ、耳自体がねじれるのです。

 頭全体に、五官すべてがあります。五官だけではなく、十官が入っています。それはすべて、何のために動くのでしょうか? 愛の“一つの님”のために存在するのです。

 それで、皆さんの目、鼻、耳、口、五官が、統一されて動くようになるときは、手が行けば、手が行く所に目が集まり、鼻、耳、すべてのものが行くのです。愛する人の手を握ろうとするとき、手が行きますか、五官がすべて行きますか? 愛の表題の前には、五官、十官が、すべて動員されます。それ以上のものも、すべて動員されます。分かりますか?

 それでは、なぜ、この五官が生じたのでしょうか? 目は、何を見るために生じたのですか? 相対のどこを見るためですか? その目が、最後に訪ねて行くものは、何ですか? (「心です。」)心が、最後に訪ねて行くものは、何ですか? (「生殖器です!」)

 それでは、教主であるという人が、そのような話をすれば、卑しい人の中の卑しい人、その親分であると言いますか? 卑しい人なのか良い人なのか、それを味わってみれば、料理の中で世界最高のものです。見た目はいいかげんに見えますが、味がそれくらいならば、天下にうらやむものは、何もないのです。分かりますか? (「はい。」)

 目が願う最高の秘密の場所も、それであり、手が願う最高の秘密の場所も、それであり、においをかぐのも……。女性たちは、香水を振りかけるでしょう? なぜ、それを振りかけるのでしょうか?

 それは、“ついて来なさい。”、“においをかいで、重要な場所に訪ねて来なさい。”ということであり、案内の信号弾です。また、耳もそうでしょう? 耳は、何を最も好みますか? 女性が、「訪ねて来なさい。」と、ささやく言葉を最も好むのです。

 五官全体、男性全体が、何ゆえに僕としてふるまいながら、最も喜ぶのでしょうか? 真の愛の主人と結合することができる道の前では、すべてが万歳です。すべてが、愛ゆえに喜ぶのです。女性も同じです。

   寡婦の心

 女性が美しく化粧するときは、“男性の視線が集まればよい。”と、そのようなことを考えながら、それを願って化粧(화장[ファジャン])するのですか? とは、死体を燃やしてしまうことが火葬(화장[ファジャン])なのですが、そのファジャンと女性が……。

 寡婦が、化粧をよくしますか、男やもめが、化粧をよくしますか? 男性で、においを漂わせながら歩く人の十人中に三人は、男やもめです。男性が、自分を目立たせるようになれば、愛に失敗したか、愛の世界の落第者です。そのような人が、においを漂わせて歩くのです。

 寡婦も同じです。寡婦は、“良い服を着たい。”と思うでしょうか、“悪い服を着たい。”と思うでしょうか? 寡婦(과부・クァプ)は、どこにいますか? 과부とは、財物世界のことを過富(과부)というのですか、それとも、男性もなく、独りで孤独に暮らす女性のことをいうのですか?

 売春婦を「寡婦」と言いますか? (「言いません。」)そうではなく、一人の夫を慕わしく思いながら、世の中で孤独に暮らす人、目が泣き、鼻が泣き、唇が泣き、五官が泣き、この身の四肢五体が泣いているのが、寡婦です。

 それでは、昔、死んだ夫が(再び)来て、その寡婦と初愛の婚姻をして、愛する初夜に訪ねて来るとすれば、その寡婦は、死んでもよいでしょうか、生きてもよいでしょうか? どちらがよいですか? 死んでも恨はないというのです。

 寡婦は、(夫が亡くなって、)最初は、わけが分からずにすべてを送るのです。そうして、共同墓地を見詰めるときは、青い春の季節であり、昨年の春に、自分の夫を埋葬する時には何もなかったのに、今年の春には、その墓の後ろにつつじの花が咲いているのです。

 そのとき、美しいちょうやはちたちが飛んでいるのが、すべて見えるのですが、(亡くなった)自分の夫の目には、そのちょうやはちも見えず、つつじも見えません。なぜでしょうか? 夫の目は、(死んで)すべてなくなっているからです。

 そのようにして、約三年間が過ぎれば、自分の夫の墓よりもその園、周囲の環境が慕わしくなり、夫の墓を訪ねて行くことよりも、春を迎えること、夏を迎えること、秋を迎えることが慕わしくなるのです。それで、周辺を訪ねて行くための環境をよくして、かわいそうな寡婦は、(自らを)慰安しようとして、墓を飾るのです。

 ですから、兄弟たちが、それをよく飾ってあげなければなりません。そのようなときは、その兄弟の中で、姉ならば姉、弟ならば弟が、「私が、お供いたしましょう。」と言い、行って、「来年は、もっと美しく、よい花でも植えましょう。」と言うのです。そのようにすれば、それを喜ぶでしょうか? 三度もすれば、最も近い兄弟になるのです。分かりますか? (「はい。」)

 寡婦自身のために美しく飾ることはしませんが、環境を飾ってみれば、友達になることができるのです。神様も同じであり、すべてのものが、そのようになっているのです。愛の世界では、そのような天理の道が、自らの四方に三百六十度の方向を備えているのです!

 韓国人は、韓国人だけを好みますか? 三百六十度が十二方向であるのか分かりませんが、それが十倍ならば、三千六百数に拡大されるのです。韓国人十二人だけを愛すれば、それでよいのでしょうか? ですから、もっと大きな愛、そのもっと大きな愛を成すことを学ぶことのできるおかたが、神様であられるというのです。

   “님[ニム]”のモデル

 神様は、自分個人にとっても必要であり、十二人兄弟ならば、長兄にとっても必要であり、三千六百兄弟の代表の位置にとっても、また必要です。三億六千万双の人々を中心としても、その神様は必要であるというのです。

 ですから、「一から全体までが必要となりうる、その代表的主人であられるおかたが、神様であられる。」という名前は、妥当な名前です! アーメン! アーメンの「ア!」とは、感嘆すべきことであり、“ナンバーワン・メン”になるためのエイ(A)メンが、「アーメン」です。良いですか、悪いですか? (「良いです。」)

 神様を見たことがありますか? 神様に触ってみたことがありますか? 神様のにおいを、かいでみたことがありますか?

 水ににおいがありますか? 水に色がありますか、ありませんか? 水は透明であり、色がなく、においもなく、触っても、温かい手で冷たい水を触れば、水と分かりますが、同じ温かい手でも、四度以上の温度の違いがなければ、感じることができません。

 そのように、水は色もなく、透明ですが、だれもが、いつ飲んでも好むことができるものです。ですから、水という存在は、人間にとっては、飲む“임[イム](님)”の中の“임[イム](님)”です! 偽物ではなく、本物です。

 先生は、監獄にいた時、水の味を本当に知りました。水は、本当に甘いのです。だ液が、どれほど甘いか分かりません。それで、一杯のご飯を、水を飲みながら、一粒、二粒と数えながら、十二時間かけて食べることができます。

 ですから、ほかの人々は消化してしまって、「おなかがすいた。」と言いますが、昼食を食べなかったとしても、朝食を食べて、昼食の時間の後まで過ごしたとしてもおなかがすきません。そのような訓練も、すべて受けたので、監獄で死なずに生き残ったのです。分かりますか?

 良いものを訪ねて行く人は、その“임[イム](님)”が永遠なので、永遠の標的として、自分も永遠の存在として残ることができるという事実は、理論的な良い答えです! 分かりますか?

 それで、そのような主人が、モデルの中のモデルです。そうして、千年、万年の間、変わらず、自分の愛するものよりも果てしなく愛し、もっと愛し、もっと「님、님、님、님、님、님。」と言う途中で死んだとしても、「恨はない。」と言って生きる人がいるとすれば、神様は、そのような人を願われるのです。

 この地球星の歴史において、数千億の民が、地上と天上にいたとしても、神様は、そのような“님”お一人を捜し続けてこられ、出会うことを願われるのです。そのようなおかたが、永遠に、本当の標的になることができるのであり、人間たちが願う“님”のモデルであるというのは、妥当な結論です! 拍手! (拍手)

 八十歳の老人が話すのに、水も持って来ないで、「話だけしなさい。」と言えば、失礼でしょう? それで、何の相対になりますか? 拍手! (拍手)水を持って来なさいということです。

 文総裁には、名前が四つあります。文総裁の名前は、何種類ですか? 文鮮明、統一教会の教主、それから、聖人たちが決議大会をしたときは、何と言いましたか? 文総裁は何であると言いましたか? 救世主です。

 救世主とは、何ですか? (「世の中を救う人です。」)世の中を救うことができ、だれもが、「私のものである。」と言って、訪ねて行って、一つになることができるモデルです。そうではありませんか?

 東西南北、四方の中心になっていれば、一つになってこそ、自分も球形になるのです。それと一つになってこそ、善の前に球形自体となるのです。ですから、(メシヤの元に)行って、一つになることを願うのです。

   愛をはめて暮らす女性

 神様に会いたいですか? (「はい!」)どのように会うのですか? 男性が神様に会うとすれば、男性のような神様に会いますか、女性のような神様に会いますか? (「女性のような神様です。」)(笑い)先生が答えてあげようとしているのに、なぜ、笑うのですか?

 女性の中で、美しい唇を持ち、鼻が整い、すべてにおける美人がいて、「すべてのものが美人でないところがない。」と言って、称賛に次ぐ称賛をしている途中で死んだとします。その女性が、「それでもよい。」と言ったとしても、その女性が訪ねて行く所は、愛の園を訪ねて行かなければなりません。そうですか?

 男性は、何を持って行きますか? 男性は、何を持って行きますか? 男性は、何かぶら下がっているものがあるではないですか? ぶら下がっているものを誘致するために、女性は、ぶら下がっているものを好むのです。なぜでしょうか?

 暑い時に、冷たい所は何かというと……。皆さんの手が熱ければ、すぐに感じるでしょう? 女性の愛の器官は熱いのですが、男性は冷たいのです。それを知っていますか?

 女性は、なぜイヤリングをするのでしょうか? それから首飾りです。

 女性は、いくら飛び跳ねたとしても、上に上がって行こうとすれば、男性の背中に回って、男性の首に手をかけなければならず、前になっても、男性の首に手をかけなければなりません。女性は、夫の背中に乗って、上に上がって行こうとするでしょうか、夫の首に手をかけて、体を支えてくれることを願うでしょうか?

 行くべき道とは、横道に行くのではなく、夫の首に乗って、上がって行かなければなりません。“上がって行きたい。”と思い、良い“임[イム](님)”と出会おうと思えば、女性は、慕わしい夫の所に走って行かなければなりませんが、夫と対等な立場でキスしようとしても、どうにもなりません。

 ですから、男性が、女性の首をひねって、しっかりと首をかき抱けば、女性の口が上に上がって行って、キスすることができるのです。首は、そのような便利な器官なので、間違いなく首に引っかけて遊ぶものが最も良いので、女性は首飾りを好むのであり、首飾りが必要なのです。その話は、正しいですか?

 それから、また、指輪は右手にはめますか、左手にはめますか? 左手を使う人は、右手にはめなければならず、右手を使う女性は、左手にはめなければなりません。

 それでは、東洋の女性、韓国の女性たちは、左手を多く使いますか、右手を多く使いますか? (「右手を多く使います。」)

 では、女性が、最も便利なものは、右手の何番目の指ですか? (親指から順に数えて)一つ、二つ、三つ、四位基台(薬指)。これ(小指)は、皆、好みません。手を握っても、外に出ます。この三本(人さし指、中指、薬指)は、手を握れば、中に入ってしまいます。

 これ(小指)は、一番あとになって、最も良いものであり、これ(親指)は神様を象徴し、これ(小指)は息子、娘を象徴し、お母さんとなることができるものが、これ(薬指)であり、四番目(薬指)は、息子、娘をよく生むための夫の愛……。

 ここで見ると、(親指から順に数えて)一つ、二つ、三つ、四つ、四位基台の対象となることができるので、この指(薬指)に指輪をはめるのです。いくつの峠(指の節)を越えて行きますか? 一つの峠、二つの峠を越えて行き、三つ目の峠の所に(指輪を)入れるのです。

 ですから、なぜ、指輪をして暮らすのでしょうか? それは、愛を象徴したものだからです。父を愛することができ、息子を愛することができる指の、その間にはめ、夫の愛、息子の愛をはめて、この手を……。

 二つの峠を越えて行きます。二つの峠を越えて行かなければなりません。蘇生、長成、完成の世界を越えて行ってこそ、母の位置が理想的位置であるというのです。そこに、指輪をはめるのです。毎日のように、指輪をはめて暮らすのと同じように、毎日のように、愛をはめて暮らしたいと思うのです。分かりますか? (「はい。」)

 男性の世界は、これ(鼻の下に人さし指を当てられる)が蘇生であり、(手を下の方に下ろされながら)長成ですが、完成は何ですか? 五番目の生命線が、これなのです。そうですか? あなたの男性の生殖器は、睾丸の後ろにありますか、睾丸よりも離れていますか? いちばん深い所にあるでしょう?

 なぜ、変な顔をして聞いているのですか? 平和大使ですか? どこから来ましたか? (「日本から来ました。」)日本のどこですか? 統一教会のメンバーですか?

 “なぜ、先生は、あのような話をするのか?”と思うかもしれませんが、これが、どれほど貴い話であるか分かりますか?

   宝物のつぼ

 それでは、皆さんのそこが壊れ、お金で買うことができるとすれば、鼻を切って売ってでも、それを買いたいと思いますか? それとも反対に、それを切って、鼻を買いたいと思いますか? (笑い)聞いているではないですか? なぜ、笑うのですか? (「鼻を切って、それを買います。」)

 鼻も切り、口を縫い合わせて、口を使うことができなくても、それを使うことを願うのです。口を売ったとしても、鼻を売ったとしても、それを買うのですか、買わないのですか? (「買います。」)目は、どうですか? 見ることのできない盲人は、「見えない愛は嫌いだ。」と言いますが、見えない愛を、もっと好みますか?

 顔に四官があり、この皮膚(触官)を加えた五官まで、すべてがなかったとしても、愛を残し、血統を残すことができれば、首を切って売ったとしても、血統さえ通じることができるならば、五官の形態だけ残し、それを切って売ってもかまわないというのです。

 かにの足も、切れば、また出てくるでしょう? それと同じように、そのようにすることができるのならば、何度でも切って売りたいという考えを持つことができますか、持たないことができませんか? (「持つことができます。」)

 「持つことができますか、持たないことができませんか?」とは、また何ですか? 同じです。答えは同じということです。居眠りしている人は、何の話か分かりません。よく考えて聞かなければならないでしょう? 分かりましたか?

 宝物のつぼは、どこですか? 宝物のつぼとは、何ですか? 愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮です。家庭の王宮です! それが、国の王宮になり、宇宙の神様の国を完成させることができる基になるのです。それ以上に貴いものが、どこにありますか? そこから血統が連結するのです。

 いくら夫婦同士で楽しく暮らし、はとのように、「クックックッ。」と鳴いて、大騒ぎして暮らしたとしても、その種がなければ、一代で終わるのです。世の中から退いていくのです。歴史と関係がないのであり、その国とその世界とは、関係がありません。悲惨な生になるのです。

 近ごろ、大学院を出て、学士や博士になる女性たちで、「三十五、三十六歳になってから、嫁に行こう。」と言っている女性は、正気ではない女性ですか、正しい女性ですか? (「正気ではない女性です。」)大学を出た青年で、「四十歳近い美人の判事を嫁にもらおう。」と言う人がいますか? 唾棄すべきです。

 皆さん(父母)が、女性たちを大学に行かせることができなかったとしても、(その女性たちが)二十四歳前に大学に行き、大学院に入学した後に結婚して、赤ん坊一人を生んでから、ゆっくり大学の博士をさせたとしても、その夫は、どれほど喜ぶでしょうか?

 登ることもできない木は、見詰めてもならず、飲み込むことができない果物を欲張って食べれば、死んでしまうのです。切って、少しずつ食べることができる余裕しゃくしゃくの男性となり、子供たちを育てて、よく教育して、希望に満ちた未来の家庭の王となることをお祈りします。アーメン。(「アーメン。」)拍手しなければならないでしょう? (拍手)


   救世主、メシヤ、再臨主、真の父母

 聖人たちが決議大会をするとき、文総裁の最初の名前は、何でしたか? 「文総裁は救世主、メシヤである。」と言ったのです。日本語でいうと、「メシヤ」とは、食堂の主人のことです。

 その次に、「再臨主」と言いましたが、それは、“離婚して去って行ったが、再び来る”という意味の再臨主です。結婚しようとして来て、結婚することができず、再び来るのが、再臨主です。

 それから何ですか? 「真の父母」です! 偽りの父母によって追い出された後に、再び、哀れに訪ねて来る真の父母です。偽りの父母の息子、娘から冷遇されるのが常ですが、耐えなければなりません。その峠を越えなければ、真の父母と再び会うことのできる道がないのです。

 ですから、神様は、「怨讐を愛しなさい。」と、おっしゃったのです。怨讐を愛するのですが、何の怨讐でしょうか? 世界の怨讐、宗教の怨讐、追い出したイスラエル、第一、第二、第三イスラエルの怨讐、それから天国の怨讐まで四代です。

 ですから、真の父母という人は、この世の国の主人がいたとしても、また、教派間で闘いながらも、闘わない平和の王以外としては、来ることができません!

 真の父母が来れば、自分たちの何かがなくなるということを知っているので、彼らは軍隊を立て、幾重にも境界線を作って、守っているのです。国もそうであり、宗教もそうでしょう? 宗教の壁が、どれほど高いでしょうか?

 それから、再臨主は、愛の約婚をしなければなりませんが、その再臨主を、町の勇ましい青年たちが追い出してしまうのです。彼らが、再臨主が再び来ることを願ったりするでしょうか? 捕まえて殺すのです。聖書に、そのような話があるでしょう? 再臨主には、それを一つにしなければならない責任があります。

 その次には、神様の前で追われ、地獄をつくってしまった世界において地獄を撤廃し、真の父母の位置を還元させるために来られるのです。そのおかたが、文総裁です。

 文総裁は、「そのようなすべての面の救世主であり、メシヤであり、再臨主であり、真の父母であるという言葉を与えよう。」と言われたとき、喜んだでしょうか、「嫌だ。」と言ったでしょうか? 先生が、皆さんに「真の父母になりなさい。」と言えば、一度、してみますか? (「はい。」)易しいですか、難しいですか? (「難しいです。」)

 皆さんは、国に行き、一番後ろに立つこともできずに、逃げて行くことでしょう。国の主人になりますか? 宗教の主人になれると思いますか? 名家の一人娘と約婚したのに、その国の青年たちから追われ、彼らが金城鉄壁の境界線を作って守っているというのに、また行って、再臨主になりますか?

 再び来る主人が、再臨主です。そうでしょう? そのようなことをすることが、できますか? 真の父母になることができますか? 神様が、そうです。

 神様は、何をなさなければならないのかというと、救世主の王にならなければなりません。皆さんが、救世主の王(=神様)の息子、娘になろうとすれば、その道を行かなければなりません。神様は、メシヤの王になられなければなりません。再臨主の王になられなければなりません。真の父母の王になられなければならないのです。

 いくら真の父母になろうと思ったとしても、国の王であるメシヤを知らずに、国の主人になることができますか? 宗教世界の王となる主人を知らずに、宗教世界の王になれますか? その町の入り口に入る前に、追い出されるのではありませんか? 王となることができる救世主を知らず、王となることができる神様を知らなければ、絶対になることはできないのです。

 なぜでしょうか? 数多くの金城鉄壁の境界線を築いているからです。個人的境界線、家庭的境界線、氏族、民族……と、八段階の境界線があるのです。

 家庭に入って行くときは、十人ならば十人が反対しただけですが、一族といえば、その家庭の百家庭、千家庭分となるので、どれほど多いでしょうか? 何十万という人の峠を越えなければならないのです。国にも、数多くの家庭、氏族、民族が入って行くので、何億にもなるのです。

 そのような塀を消化し、それらを導いていき、天国を解放することができますか? 国を超えて世界、世界を超えて天地、天地を超えて神様の秘密の地に、影も見えないように、サタンをすべて埋めておいたのに、そこに訪ねて行くことができますか?

 わたしたち統一教会の周りでは、メシヤがよいと思って、「文総裁は洗礼ヨハネのような立場で、私がメシヤである。」と言う者たちが出てきたのです。そのようにして、何年もせずに逃げて行った者がいます。一族が、すべて逃げてしまいます。

 (メシヤの道を)行ってみなさいというのです。一つの峠も越えることができずに、死んでしまいます。おいしい食べ物ばかりが、立て続けに現れたりするでしょうか? 行けば行くほど、最も嫌うものをますます積み上げられ、それが境界線になって、そこにとどまらざるをえないのです。

 それなのに、欲深いままで、それを越えることができますか? 逃げて行くのです。そのような者が、たくさんいたでしょう? 最近でも、そのような者たちがいるでしょう?

   神様にもできないこと

 メシヤになることが、易しいことですか? 神様ご自身が、「やー、お願いします、お願いします。わたしの代わりに、世界の王の王になってほしい!」と、おっしゃっているのです。神様も、ご自身ではできないのではありませんか? エデンの園でできるのであれば、なぜ、アダムとエバを追い出したりされたのでしょうか? 神様が、宗教をお立てになったといっても、争いを繰り広げ、大騒ぎしているのです。

 ですから、神様にはできないので、「やや、あなたがメシヤになれば、難しくても、一度、わたしの代わりに宗教を一つになるようにしてほしい!」と、このようにおっしゃっているのです。分かりますか?

 神様が、「再臨主ならば、再び、その主人として臨み、過去に迫害された、その何十倍を加えられたとしても、再び続けてほしい。」とおっしゃるとき、「嫌だ。」と言えるでしょうか?

 ペテロ、ヤコブ、ヨハネのようなイエス様の弟子たちは、イエス様が十字架にかかって亡くなられる前に、皆、逃げて行きましたが、「いくつもの死の峠が、波を打って襲って来たとしても、それを耐えて越えて行き、メシヤの主人になり、王になってほしい。」とおっしゃるとき、「うれしい。」と言わなければなりませんか、「嫌だ。」と言わなければなりませんか? (「『うれしい。』と言わなければなりません。」)神様も、できないのにですか?

 なぜ、神様は、できないのでしょうか? サタン世界で共に生き、そのサタン世界の境界線を越えて行くことができる愛を成すことができないからです。

 それは、なぜでしょうか? (アダムとエバの)結婚二日前に、サタンが自分の愛する天国の母、ファースト・レディーを盗んで行き、子を生んで、数千億の人類をつくってしまったのです。

 その数千億の人類をつくり、神様をとらわれの身にしてしまい、その挙げ句に、悪の親玉になって訪問するようになるとき、神様が、「よく来た。助けてくれ。」と、そのようにおっしゃるでしょうか? 神様の威信上、体面上、そのようにおっしゃることができるでしょうか?

 そのようなとき、雷を落とし、その妻と息子、娘を、音のしない銃でバババッと撃って、一度に殺してしまいたいという考えが、神様にはあるでしょうか、ないでしょうか? ここにいる堕落した(世界の)皆さんは、どうですか? あるでしょうか、ないでしょうか? (「あります。」)

 堕落した人々にも、そのように復讐したい心があるというのに、なろうと思いさえすれば、復讐の王の中の王にもなりうる神様に、“それを殺してしまいたい。”という考えがあるでしょうか、ないでしょうか? (「あります。」)

 それでは、どのようにすれば、失ってしまったアダムとエバの本然の園を取り戻すことができるのでしょうか? 憎みながら取り戻すことができますか?

 カイン世界のすべてのカイン、全世界の人類、何千億になる人が、「神様を打ち殺せ!」と言ったとしても、全能なる神様が、雷のような力で、さーっと一度に殺してしまえば、終わりです。

 そうであるというのに、なぜ、それをなさることができないのでしょうか? 神様は、堕落した世界をごらんになるのも嫌であり、相手にされることも嫌なのです。夢にも考えたくないというのです。

 皆さんも、そうでしょう? 学校の同窓生の中に美人がいても、自分がプロポーズして恋愛もできないでしょう? 何度か会ったのに、別の相手が現れるようになれば、夜も眠ることができず、“その人が死ねばよい。”と祈ったりするでしょう?

 そのような人々が、この世の中の人々ですが、神様は、その思いよりも何百倍、何千倍も強くありうるのです。怨讐に対して、何千倍も反対して嫌った神様が、彼を愛することのできる立場に立つことはできません。絶対に立つことができないのです。

 それでは、その息子、娘を殺してしまうことができるでしょうか? そのようなことをすれば、宇宙をすべて破壊してしまうことになります。神様は、 絶対愛、絶対信仰、絶対服従 を中心として、創造理想を出発されたのです。

 この三大標準の前で、神様の属性である絶対愛、唯一愛、不変愛、永遠愛を中心として、これをすべて合わせ、個人、家庭、氏族、民族、国家に連結し、宇宙に連結し、一つの宇宙全体を抱いて愛することができる主人の位置に立つためには、どれほど投入しなければならないでしょうか?

 絶対信仰の標準とは、何でしょうか? 人は、限りなく小さな所から限りなく高い所まで、“主人になりたい。”という考えを持つことができる立場にありますが、そのような関係を結ぶために、最も貴いものが愛です。すべての万物世界において、真の愛が、最も貴いのです。

 個人で連結された真の愛、家庭、氏族、民族……。これが主流になっています。それゆえに、これが個人時代、家庭時代、氏族時代へと、ずーっと、このように行くようになれば、個人時代、家庭時代へと大きくなって、世界時代へと、すべて……。この中心は、ここに行っても、個人時代、家庭時代……。どこでも、中心にぴたっと合うのです。

   「怨讐を愛しなさい」

 神様が救援されるうえにおいては、アダムとエバの家庭、本然の一組(の家庭)だけを救援されればよいのです。そのようにすれば、よいのではありませんか? (神様は、)そのようなことをご存じなのですが、神様にはできません。すべて奪われたからです。

 サタンは、堕落する前と同じように、神様に侍り、アダムを主人として侍らなければなりません。アダムを主人として侍り、 絶対信仰、絶対愛、絶対服従 することのできる、その位置まで行き、そこに堕落の恨を加えて赦しを請い、腹ばいになって、自分で三段階以上、境界線を越えなければならないのです。

 そのようにして、三段階を越えてから見たとき、(サタンが)どぶに落ちて、ぐったりして動くことができなくなれば、「生きているか、死んでいるか?」と言って、足で蹴飛ばし、(そのようにしてサタンは、)ご飯も食べることができずに栄養失調になり、脱水状態になって、だらんとなり、そのままにしておけば、死んでしまうようになります。

 ですから、そのような状況において、愛の神様の愛の心が動くとき、昔、(サタンが)罪を犯したことを、神様は忘れてしまわれなければならないというのです。その悪く思っていたことを忘れてしまわなければ、救ってあげることができる道は、永遠にありません。

 それゆえに、救援摂理において、神様が役事されるときは、「怨讐を愛しなさい。」と言われたのです。それは、どの程度にでしょうか?

 永遠の天国の女王となり、その夫となることができる神様の相対を奪い、一家、一国、神様が創造されたものを、サタンがすべて滅ぼしたとしても、彼が悲惨な立場から悔い改めて帰って来て、腹ばいになって、神様の近くに来て赦しを求めるようになれば、雷が落ちて、サタンが倒れてあえぐようになるとき、神様は、そのような立場においては……。

 死ぬことを好まれる神様ではありません。そのような立場において、同情の思いがあって、堕落したことを忘れてしまうことができる心情、正してあげることができ、心から赦してあげることができる心情から、復帰の道が始まるということを知らなければなりません。分かりますか? (「はい。」)

 それゆえに、神様は、「怨讐を、だれよりも、もっと愛しなさい!」と、おっしゃったのです。それは何かというと、皆さんの家庭における愛する妻と息子、娘を怨讐に譲り渡す立場に立ったとしても、福を祈ることができる人でなければ、神様の救援を受けることはできないということです。

 僕からそのようになったので、僕から息子、娘、実子、天国の直系皇族の相続権を受ける息子、娘になろうとすれば、千尋にも万尋にもなる、そのような距離において、そこから忘れて整理してきなさいということです。

 数多くの境界線がありますが、その境界線を一度に超えることのできる方法とは、何でしょうか? 「神様以上にサタンを愛した。」ということでなければなりません。神様は、個人的に峠を越えるために、そのような事情において赦して、救援の手を伸べられたのです。

 いくら死の境地において、神様以上の境界線、世界的な境界線を越えて来たといっても、それを一時に忘れてしまい、その怨讐を自分の愛する息子、娘よりも、もっと愛することができるようになしうる方法とは、何でしょうか? 神様は、そのようなことを考えられたというのです。

 それが何であるのかというと、怨讐を愛さなければならないということです。怨讐を血族以上に、自分の体以上に愛し、自分の愛する妻を怨讐に譲り渡す立場に立ったとしても、福を祈ることができる雅量を持ち、“それは、蕩減の祭物になったので、蕩減復帰時代においては、それ以上のものを、神様は再び創ってくださるであろう。”と、このような考えを持って生きる人の前に、天国の相続の道は開かれるのです! アーメン! (「アーメン!」)(拍手)

   サッカーの訓練

 それでは、文総裁は、欲が深いように見えますか、欲がないように見えますか? 自由に見えますか、さっぱりしているように見えますか? 目が小さいでしょう? それは、絞りを狭めて、遠くを見詰めるのです。鼻梁が大きいので、頑固です。唇が薄いので、話が上手です。分かりましたか?

 耳を見ると、長生きするようになっているのです。頭を見ると、脳(の量)が、並ではありません。普通の人の一・五倍は、入っています。考えも複雑であり、行っていることが多いのです。そのようにすることができる多くの素質を持っています。運動において、わたしができない運動はありません。

 わたしは、サッカーをこの国で……。ヨーロピアンサッカーよりも、南米のブラジル(的な)サッカーよりも……。文総裁は、二つのプロサッカー・チームを持っていますが、人が七十年間、努力しても行くことのできない領域に、一年ですべて上がって行ったのです。

 一和サッカーチームが、韓国で一番でしょう? それは何かというと、一心、一体、一念、一和です。最後なのです。(笑い、拍手)目も願い、鼻も願い、耳も願い、口も願い、手も願うので、それでも……。一和サッカー。

 サッカーは、ボールを足で蹴るのです。蹴れば、サッカーボールは、まっすぐに飛んで行きます。アメリカンフットボールや、イギリス式の何と言いましたか? ラグビーのように、ボールがあっちに行ったり、こっちに行ったりしますか?

 サッカーボールは、蹴れば、間違いなく垂直に(まっすぐに)飛んで行きます。九十度です。九十度に合わせなければなりません。狙いを合わせて蹴れば、ゴールの隅に、さーっと飛んで行きます。ゴールの隅に、さーっと入って行くようになれば、いくらゴールキーパーが飛びついても、絶対に入るようになっています。そのような訓練をさせなければなりません。

 朴判男氏は、来ていますか? 朴判男氏! 来ていますか、来ていませんか? 十メートル、二十メートル、三十メートル、三十五メートルの距離から蹴るようになれば、もう(サッカーグラウンドの)センターラインを越えるようになります。

 そのようにして、ボールを百回蹴れば、間違いなく百回入って行くことができるようになります。そこまで行くようになれば、相対的な面において、コーナー(キック)を中心として、それだけを行って訓練するのです。そうして、それさえ入るようになれば、目をつぶってボールを蹴ったとしても、ひゅーっと入って行くことができます。そのような訓練をしなさいということです。

 ですから、一番になることができるでしょうか、できないでしょうか? (「できます。」)なぜでしょうか? 訓練が、できているからです。それが、趣味だからです。

 趣味なので、やってもやっても楽しく、疲れても、一度勝っておけば、十倍(練習)したとしても問題がないので、四十年以上かかっても、千年以上の運動選手のチャンピオンの権力を持つことができると考えるのです。(一和)天馬です。天馬とは、何ですか? (「空を飛ぶ馬です。」)

 以前、済州島において狩りをしましたが、日本人は六十人しか行きませんでしたね。「六百人行きなさい。」と言ったのにです。

 そのような趣味も感じてみることができずに……。神様のみ旨が、それよりも良いならば、従って行きますか、従って行きませんか? (「従って行きます。」)死んだとしてもですか? (「はい。」)そのようにすることができる可能性はありますか、ありませんか? (「あります。」)

 そのような可能性は、日本人には、ないでしょう? 韓国人にもなく、米国人には、もっとないでしょう? しかし、文総裁の弟子たちは、そのように決意することができます。

   宿命的な課題は子女としての公認

 それでは、「私は、間違いなく文総裁の弟子である。」という人は、手を挙げてください。弟子に勝るものは、子女です! 弟子から子女になることが、宿命的な課題です。運命的な版図から宿命的な課題へと、千年、万年の間、その子女であると公認を受けることができる“私”にならなければなりません。

 弟子は、誤って引っ掛かれば、荷物をまとめて逃げて別れることができますが、子女は、千年、万年、あの世に行っていたとしても、そのようにすることができません。

 ですから、良い父母の血統に生まれた子女は、霊界に行っても……。皆さんが地獄に行っていれば、先生が通り過ぎるとき、皆さんは、先生を見て、「先生! 私は、ここにいます!」と言って、呼ぶでしょうか、呼ばないでしょうか? (「呼びます。」)

 呼ばれたときに、わたしは、このように言います。

 「なぜ、ここに来ているのですか? わたしが、『天国に行きなさい。』と、きちんと教えてあげましたか、あげませんでしたか? 答えなさい。わたしは、詐欺を働きましたか、本ものを教えてあげましたか? 個人完成、家庭完成、国家、世界、天宙解放の道理をすべて教えてあげたのに、また、愚かで知識がなくて、まっしぐらに、ただひたすらにそれを超えようとした人たちは天国に行くのに、あなたは、その皮をむいて、そのようにしているうちに、ここに来たのですね。」

 玉ねぎの皮を百回むけば、食べる部分がありますか? それと同じです。びわの皮をむいて、おいしい部分を食べようと思っても、食べることはできません。苦いものしかありません。

 霊界に行って、先生を呼べば、「やあ、あなたは苦労したのですね。あなたの分相応に来ているのですね。」と言って、「福を受けなさい。」と言うでしょうか、「罰を受けなさい。」と言うでしょうか? (「『福を受けなさい。』とおっしゃいます。」)

 「福を受けなさい。」と言うということは、助けなければならないということですか、ほうっておくということですか? (「助けなければなりません。」)それは、ただで福を受けなさいということです、この者。言葉は、正確に言わなければならないでしょう。

 祝福家庭の天国、天のお父様の家に行って暮らすのが原則ですが、そこに行くことができなくて、堕落した世の中の楽園のように、祝福家庭の楽園ができ、祝福家庭の地獄ができるのです。それを、どのようにするつもりですか?

 数千人が皆、共に真の父母のみ言を聞き、天国にまっしぐらに、急ぎ足で一列に入って行くために準備して一緒に行くというとき、その一緒に行く中で、祝福された息子、娘、孫の三代までになっているのです。

 そのとき、おじいさんが教育することができなくて、自分たち(孫たち)が霊界に行って、神様の本郷の家、宮殿で暮らすことができずに地獄に入って行った場合、その孫たちは、おじいさんにかみつきますか、かみつきませんか?

 「この悪いおじいさんめ。あそこのおじいさんの家では、皆、(神様の本郷の家に)行くのに、(自分たちの)この姿は何ですか?」と言うのです。「あの家のお母さんは、あの世に行くのに、お父さんとお母さんは豊かに暮らして、この姿は何ですか?」と言うのです。

 そのような場合、そのお母さんとおじいさんは、そこに共にいられるでしょうか、逃げて行くでしょうか? その訴えの前に、逃げるしかありません。

 しかし、逃げて行った後に、再び来なければなりません。東側から逃げて行き、西側に来なければなりません。西側に行けば、南側に行かなければなりません。

 南側に行けば、ぐるっと回って、この境界線を越えて、天上の城の外で、独り流浪する身になるのです。浮いた雲のようにです。千年たっても、水のない浮き雲のようになるのです。冬の雲に、雨が降りますか? 先月、十二月だというのに雷が落ち、雷鳴もとどろきましたが……。

 ここにいる人々にも、そのような千態万象の系列が展開します。

 大学を卒業して、学士や博士という肩書きを持った、平和大使といわれる、そのような人々、(汚れて)まだら模様の人々が、天国にたくさん行くでしょうか? それとも、純真で、先生のみ言を、ただあるがままにのみ込み、ひるのように足にへばりついて、はがすことができないようにくっついて行く、そのような統一教会の人が、たくさん行くでしょうか?

 また、何もなくても、そのような人々が、天国の一番の主人になるでしょうか、それとも、利口に批判して、「やあ、この愚かな者たち、見ていなさい。私が上手にやって見せよう。」と言う、そのような人々が天国に行きますか? どちらですか?

 一方通行ですか、多方通行ですか? (「一方通行です。」)絶対的に一方通行です。行った後には、行った道を再び帰って来ることはできません。霊界に行った後に、帰って来ることができますか?

 ですから、文総裁は、欲が深い人ですか、欲のない人ですか? (「深い人です。」)過ごしてみれば、欲が深いように見えますか? (「はい。」)どれほど「十分にやりました。」と報告しても、「よくやった。」と言って、賞を与えたことがありません。先生から賞状をもらった人がいますか? (「いません。」)女性の中には三人くらい……。

 私も、その名前は、すべて忘れてしまいました。なぜでしょうか? その人々が、行ったり来たりするのです。(北緯三十八度線の)北側に行った後に南側に行き、南側から……。三つの峠を通る途中でいなくなったので、すべて忘れてしまったのです。

   お母様は知恵深いおかた

 今回の真のお母様の還暦で、お母様は六十一歳(数え年)になります。先生は、お母様に苦労をさせず、清らかに育てようとしました。まだ分別のつかないお母様を連れて来て、育てたのです。

 では、わたしの代わりに、天地の位置を任せても従順に従うことができるお母様に育てあげることが、簡単だったでしょうか、難しかったでしょうか? (「難しいです。」)

 それでは、お母様が認めることのできるメシヤ観というものがあるでしょうか、ないでしょうか? (「あります。」)(お母様は)知っています。個人として、こうでなければならず、家庭の主人は、こうでなければならず、国の主人は、こうでなければならないということを、先生が教えた本の骨子だけを、きちっと抜き出しているのです。

 お母様は知恵深いので、そのようなことをノートにきちっと書いて、第一条から約百いくつまでの条項を中心として、記憶しているでしょうか、記憶していないでしょうか? 記憶していなければ、愚か者でしょう?

 お母様は、知恵深いお母様です。一言言えば、二言分を測定するのです。先生が約束したことを、“すべてそのとおりにするか、しないか?”というわけです。

 (この世の中の男性が女性に、)最初、プロポーズするときは、黄金やダイヤモンドなどと、あることないことを言って誇るのですが、一年が過ぎ、時が過ぎれば、三年間、七年間もたたずに、その妻から、「邪悪なこの詐欺師男、どろぼう男……。」と、そのようになりかねないのです。

 あなたの夫は、だれですか? この人ですか? (「昇華しました。」)そのような顔をしています。活動しませんでしたか、活動しましたか? 星回りが悪いので、町じゅうの寝ている人を夜明けに起こして、「私の話を聞きなさい。」と言うほどに、そのような活動をしなければ、事故が起きます。息子、娘のほうをより愛し、み旨はすべて後回しにしたので、問題が生じたのでしょう。

 それでは、ここにいる文総裁という人、「総裁(チョンチェ)」を逆さに言えば、何ですか? 「チェ チョン」です。それは、「再銃」ということで、“修理した銃”ということです。逆さに言えば、“修理した銃”ということではありませんか? ですから、修理工場の王にならなければなりません。

 平和大使というのは、修理工場の王の役割を果たさなければなりません。文先生ができなければ、その上に立ち、今まで責任を果たすことのできなかったことを蕩減復帰する召命的責任が、自らにあるということを知るべきです。

 そうして、文総裁に残されたことや、天国に不備なものを補充しなければなりません。そのようにするためのものが平和大使であるということを考えている人は、恐らく一人もいないでしょう。

 神様の救援摂理とは、怨讐を愛することですが、文総裁も、そのように怨讐を愛するのならば、ここにいる平和大使の中に悪党がいて、野党や与党がいて、国を売る詐欺師がいたとしても、それを許してあげることのできる心がなければなりませんか、復讐する心がなければなりませんか?

 こちらは、女性のほうが多いですね。こちらは、男性のほうが多いです。(笑い)どうして、このようになったのですか? 男性は、右側に座るようになっているのですが、寝る時も、男性が右側に行くようになっています。

 なぜ、そのようになっているのかというと、右側に寝て、左側に妻を寝かし、右手で保護しなければならないのです。それを知っていますか? すべての道理を知ってこそ、今後、主人の役割も果たすことができるのです。

 文総裁を信じたい人は、いないと思います。どこが偉いというのでしょうか? 言葉も早いでしょう? わたしが早く話せば、聞き取ることができません。(北朝鮮の)平安道からソウルに来ると、平安道の人は、言葉が遅いのです。

 「オーモーニー。」と、わたしが一言言う間に、ソウルの人は、五つのことを言います。ですから、文総裁の気性から考えれば、言葉をそのようにゆっくりと話して、話すときに押さえつけられて負けることを喜ぶでしょうか、死んでも耐えることができないでしょうか?

 (ある人に対して)あなた、来ましたね? 夫のことを思いますか? 夫の代わりに、わたしの話をよく聞いているので、一つ歌を歌ってください。(拍手)

 (歌が披露される)

 それから、(朴正敏)おばあさんは……。(「九十歳〔数え年〕です。」)九十です。そう、九十、九十。九十です、九十。さあ、一つ歌を歌ってください。きょうは、み言よりも、歌を歌って、宴をしましょう。もう、集会は、すべて終わりました。

 (歌を歌う)


(後編につづく)



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。
奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵
世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
​↓↓ ​ にほんブログ村 ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓​

にほんブログ村 にほんブログ村へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 奇知外記 - にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.06.29 18:21:54
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: