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更新も怠りがち。今日は2週間ぐらいぐずぐずしていた風邪がついにはっきりと姿を現し、久しぶりに熱を出した。ごほごほ、ずるずる、くしゃんくしゃん!!日曜日はヨガをしに行きたかったのだけど、この状態では周りに迷惑をかけるだけで私は半分以上のこともできないでしょう・・・、ってなわけでおサボり。ついに熱が出て、なぜか腰が痛い。なんでここで腰が痛くなるのか良くわからないんだけど。とりあえず私の場合、熱が出てしまったほうが楽になる、という体質の人なので(睡眠時間は異常に増えるが、起きている間はものが普通にできる。)熱が出てしまった今のほうが体は楽は楽なんだけど・・・・。やっぱりねぇ~。ちょっち辛い。(笑)考えることもないわけではないんだけど、ちょっと文章にできるほどまとまったことは考えてないかも。とりあえずにんにくティーを飲んで乗り切ろうとしてる。昨晩にんにくティーを飲んだら、普段はすごく辛く感じるのに、昨日はそう感じなかった。多分口がそれだけ麻痺してるのと、にんにくがちょっと古いのとが原因。(にんにくがみょうがになりかけてるの。笑)それでも二杯飲んでしまったあかつきにはお腹がしくしく痛み出した。にんにくティーの飲みすぎね、これは、って感じ。でもそのおかげか、今朝起きたときには熱が下がっていた。やった!本当はショウガもあればいいんだけど、外出するのはちょっと億劫だわ。
2005年02月28日
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手結川中マロさんの日記に書いてある名前のことで、長いこと思っていたことをやっと文にまとめてみようかな、と言う気になった。私には「かぐや」という日本名があるとすれば、「う~や」と言う英語名がある。どっちも物心ついたときから呼ばれていた名前で、どちらのほうがより本物、って感覚はない。しいて言えば、「かぐや」が日本語を話すときの本名で「う~や」が英語を話すときの本名だ。でも欧米人、特に「先進的・国際的な」欧米人でよくあるのが、「う~や」という英語名を私が文化的植民地主義に屈して、英語名を取ったと勝手に解釈して、「う~やなんて英語名をつけたりしないで、かぐや、という自分のホンマモンの名前を誇りにしなよ。私は『かぐぅ~や』って呼んであげるからね」という考え方。大きなお世話だ。よりエキゾチックなほうを勝手に「私の」「本物の」文化・伝統だと思われても困る。日本人から見たら、アメリカ人な私は小さいころからしつこく「英語名もあるの?かっこいい!!今度からそっちで呼んでもいい?」と言われてきたのをはねのけてきたのだ。今度は欧米人から見たら、「日本人」だからって勝手に「欧米風でない」ほうの私の名前を「本物」と思われて、「だめだよ、自分の文化(=日本文化)にちゃんと誇りを持たないと」なんて説教されても頭くるだけだ。私は自分の名前にも文化にもじゅうぶん誇りを持っている。いまさら「相手側の文化も尊重してあげなきゃ」=「よりエキゾチックな名前が本物」なんて図式を立てられて、欧米人の犯した罪(さまざまな植民地主義)を償わしてくれ、という態度を示されても迷惑千万。単純に「かぐや」って名前のほうがきれい、とか「う~や」ってのがより親しみやすい、とかそういうのだったらいいんだよね。それだったら、どうぞどうぞ、って感じ。でもね、名前と言う個人的なものに、その裏にある個人史を聞かずして、紋切り型の政治史を勝手にくっつけて、それに基づいた結論を出して、自己満足にひたるのはどうなの?と思う。
2005年02月27日
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ぶっちゃけ、この人(A)とは楽しく子育てできそう、と思ったからだ。私はあまり結婚と言う形態にこだわってはいない。そもそもが独身主義。子供は欲しいけど、そのためだけに結婚する、と言うことは嫌。同時に、パートナーのいない子育ての大変さもいろいろと見聞きしていた。が、反対に「子供のため」だけに結婚生活を続けた夫婦を見たり、そういう家庭から来た人たちに会うたびに、「やっぱり結婚しとけばいいってもんじゃないんだよな」とも思った。だから納得できる相手に出会えないのだったら、いっそのことずっとシングル・ライフを謳歌しよう、と思ってたわけ。子供はどうしても欲しくなったら、養子をもらうなりすればいいわけで、自分で産むことにこだわらなければいい、と思っていた。子供ができれば、シングル・ライフとは全く違った生活をすることになることはわかってて、住むコミュニティの理解と助けも必要になるから、そのときにはいろいろと考え直すことも出てくるだろうとは思ったが、そんな先の心配は今しても仕方がない、と気の早い(心配性の?)私には珍しくあまり深く考えていなかった。今までにも、何度となく、「君って複雑すぎる・・・」と言われ続け、そう言わない相手は、「なんか私のこと勘違いしてる・・・」と感じ続けてきた私には、そんなぴったりの人なんて、出会えればすばらしいけど、出会えない確立のほうが高いし、そんなに確率の低いことにかけるよりも、もっとやりがいのある仕事にかけよう、と思ってたのだ。私は欲張りだから、将来は自分で納得のいく、やりがいのある仕事に就きたいし、30後半までには、今まで住んだ中で一番居心地のいいニューヨークに住んでいたい。そして願わくば、東京・ソウル・ニューヨークと密接な関わりあいを持って暮らしたい。そんな生活を築き上げるには人一倍努力も、運も必要だけど、それにかけてみるだけの価値はあると思う。でもこんな夢を共有してくれるどころか、私がまじめに夢見ることですら、嫌がるのが多いのが世の男衆。それに加えて「複雑すぎる・・・」という評価。誰ともなかなか恋愛関係にならずにここまで来てしまったわけです。そこに現れたのがA。一気に恋愛関係に発展してしまうだけでなく、この人と子供を育てられたら楽しいだろうなぁ、ととても自然に思えた。生活能力的にいろいろと不安を感じたにも関わらず。(笑)というわけで、それまでは理想、一人~二人だった子供の数が一気に三~四人へとアップ。(笑)お互い子供の教育において何が大切かって点も、養子をもらうことに積極的であるところも、早速意見が一致してて嬉しいねぇ。遠(中)距離状態を早いこと解消するためにも、早いところ家族計画を推し進めるためにも、結婚するのが一番、ってなわけ。
2005年02月25日
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帰ってまいりました。ちょっとまだまだやらなきゃならないことが山積みなので、返事や新しい書き込みは明日か明後日まで待ってくださいね。
2005年02月23日
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最近なぜだか、この場で自分自身をさらけ出したい衝動にかられてしまってる。でも、8年間ブログをつけてきて、ついには実生活に支障をきたし出し、ちょっと自分と自分の生活を取り戻すためにブログを一時休止しなければならなくなった某J氏のようにもなりたくないので、ここはちょっと我慢、我慢。それでもばらしてしまいたいので、今日は部屋の片隅をちょっとご披露。ついでにこっそりとプロフィールの写真を変えたこともお知らせしておこう。それから、それから、本業がわかっちゃうところも教えてしまおう。(おいおい。汗)最近参加したブログランキングに行けばわかる仕組みになっている。ほっほっほっ。私の職業はさまざまな誤解が多いので、普段はばらしてませんがね。(わかる人にはわかるってウワサですが・・・。)そんなこんなで徐々にかぐやの全貌が明かされていってるぅぅ~。ぎゃあああ~~~・・・・
2005年02月18日
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引き続き、結婚式とAの家族ネタ。実はA、母親に「ニューヨークで挙式するんなら、こっちは結婚費用、一銭たりとも出さないからね!!」と言われたらしい。私はそれを聞いたとき、ちょっと信じられなかった。そもそもAの地元で挙式しようということになっていたときには、家は家で「じゃあ、日本でも披露宴をするから、結局挙式代は折半ね」と言う感じだったのに、日本で挙式することになったら、突然Aの地元ではAの実家で両親の友人・知人向けのちんけなハウス・パーティーのみにする、ということになってしまったのだ。・・・あのぉ~~~、かかる費用が桁違いなんですけど・・・・。なんでそうなるわけ?と納得いかなかったけど、そんなのでいちゃもんつけたくないから、いいや、って感じだった。そもそもAの母が思い描いていた結婚式は私たちが思い描いていた質素な結婚式とはかけはなれた、派手で、無意味に無理の多い結婚式になりそうで恐かったのだ。それをしたいなら、披露宴でどうぞ、って感じだったのに、「モノホン(=結婚式+披露宴)をやるか、何もしないか」のどっちかしかやりたくなかったらしくて、結婚式をしないなら披露宴もしない、と決めていたらしい。ニューヨークで挙式ってことになったら、うちの親がそれでも出費するのは変だ、おかしい、非常識、と納得がいかず「(本筋は「我々のテリトリーの」アメリカで挙式するならば、私たち―A両親―も結婚式費用を出すべきだろうけど)一銭たりとも出さんぞ!」と言うことに発展したらしいよ。私は前々からA両親の子供とお金に対する態度が気に入ってないが、今回はショックのあまり絶句した。本当にお金をだしに子供をねじ伏せようとしてる・・・・。これで子供と良い関係を築こうと思ってるのか?本当に。自分が相手に愛さえ感じてれば良いってもんじゃないのに。ちゃんとその愛情を相手に表現できてなきゃ、良い関係なんて築けるもんじゃないでしょうよ。お金で人、特に家族や自分の大切に思ってる人に言うことを聞かせるのは卑怯なことで、精神的にも不健全だ、と私は子供のころから親に叩き込まれている。母は昔から、世の中にはお金を使って自分の言うことを聞かせようとする親が本当に多いけれども、家では絶対にそうしない。お金はお金よ、って言っていた。だから、学校で友達が「テストの点数が良かったからお小遣いが上がった~」と言うのを聞いては、「いいなぁ~。うちもそういう条件にしてくれる?」と聞いても、答えはいつもノーだった。お金で子供を操ろうとしたのは母方の曾祖母で、祖母は自分の母親を反面教師にして悟ったことらしい。そしてその教えは私の母を通して、私に伝えられている。父は父で、「金はしょせん金。人間関係に金を持ち込むのは非常に危険なことだ。できればそういう事態は避けるべし。特に関係が近しければ近しい相手とほど。」という信念を持って今まで来てる。と言うわけで、お金をえさに親に操られようとしたことが私にはない。結婚資金も、「これなら出せる」と親が出すと約束してくれた金額があって、その範囲内でやりくりできなかった分は自腹を切ることになっている。なので、価格を抑えることにも本腰が入る。ウワサによると、日本では足りないぐらいなようだけど、幸い、ニューヨークでの穴場情報をすべて流してくれる、4年前に結婚した友人の情報筋に頼れることになってるので、予算内に収められる予定。というか、収める。大切なのは結婚式がいかに派手かではなくて、いかに思い出に残るような式にできるか、ということなので。
2005年02月17日
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右往左往しましたが、結局、結婚式はニューヨークでやることに。日本でやることになると、日程調整とか、宿泊所の手配とか、わざわざ来てくれる人たちの出費がただごとでなくなる、などなど・・・頭の痛くなるような要因が多すぎるため、結局ニューヨークでやるのが一番楽で値段も抑えやすい、と二人で判断した結果。で、これで双方の両親も友人たちも来れるね、とひと安心したのもつかの間。Aが思わぬ親兄弟からの反対にあってるらしい。私はもう家の親に確認済みで、何を聞いても「何だって良いよ。好きなようにして。あなたたちの結婚式なんだから」と言われるばかりで手ごたえがなさすぎるぐらいなのに好対照。父は単に「その日なら空いている。よし、それではその日ということで」と多くは語らないが、結構嬉しそう。母はどこでやる、と言っても、「それなら~~~というメリットがあって、~~~というデメリットがあるわね。でも~~~なら~~~だから私は楽しみ!」とどこであろうが良い理由を見つけては喜んでいる。考えてみれば、うちの両親が結婚するときも、母はすべてが手配されたところに現れただけで、結婚式や新居の準備なんかは父が全部一人でやったのだった。だから母に「お母さんとお父さんが結婚式したときはどういうことをやったの?誰に気を使ったの?」と聞いても「そんなの知らないわよ。お父さんに聞いて」と言われてばかり。はは。でもお父さんとはなかなか電話をしないんだよね。何を聞いても「どうだったかなぁ~。よく覚えてないや」と言われそうだし。(汗)代わってAだけど、ニューヨークにいるときから「ニューヨークにするかも」と母に言ってたときから「そんなの非常識!」と言われ、かつ「それならこっちは一銭たりともお金は出さないわよ!」と言われてたらしいので、それはすでにわかってたことなのだが、どうやら今日空港まで迎えに来てくれた弟にまでニューヨークで挙式するなんていかに身勝手で非常識なのか、と車の中でとうとうと説教されたらしい。あちら側から見ると、ニューヨークには私もAも縁も所縁もないのになぜ!?と言うことらしい。それとホテル代がかかるとか・・・。でもさ、日本に来て、アメリカに比べたらとんでもなく高い交通費や宿泊費を払って(家の実家はA一家を長いこと泊められるような広さじゃありませんから。そもそもあんなに「広さ」になれてる人たちに家を見せるのが恐ろしいほど。あとでどう思われるのかあまり考えたくない。)、とかやってるよりも半額以下になる予定なんですけど。ニューヨークなら一泊だけすることもできるし、結婚式にかこつけて観光したければそれもできるし。日本まで着ちゃったら渡航費も半端じゃないし、時差の関係もあって、一週間以上いないと無駄な気がする上に、海外から来る人たちで日本語のできる人はひとりもいない。そういう人たちを案内して回れるほどの余裕もこちらはある予定じゃないしね。どうせ私の招待したい友人たちの半分はニューヨークで半分は日本。A側はみんなアメリカ。そしたらアメリカ国内にするほうが良いに決まってる。でも、Aの地元でやろうとしたら、日程を決める時点でものすごいことになっちゃったから、いったん日本にしようってことになってたんじゃん。それなのに、私にとってもA家族にとってもルーツのあるところで挙式するのにそこまで反応するのはどういうことなんだろうなぁ、と思う。
2005年02月16日
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昨日と今日はなんとなく気分もやっと落ち着いてきたのですが、おとといまでの落ち込みようはすごかった。いや、恐ろしかったです。原因はうすうす感づいていましたが、ホルモンバランスの崩れ。思春期からホルモンバランスの崩れが影響を与え続けたこの体、まだまだこれから、というところ?(やめてくれ~~)苦しみましたよ~。もうそれこそうつ状態?って思うぐらい。もう、ほんっとに些細なことでぼろぼろ泣き出すし、関係ないことでもう決着ついたはずの心の傷が思い出されるし・・・。さんざんでした。こんなこと毎月やってられんない!っちゅうわけで、来月からはちゃんと予防法を実行します、横着せんで。いろいろあるけど、一説にはビタミンB群(特にB6)の不足とビタミンEの不足がよくないらしい。だから今度はこれを錠剤として摂取してみるように、とのお達しを受けた。はい。あと、月見草油(Evening Primrose Oil)と亜麻油(Flax Seed Oil)がブレンドされてるものを一日大さじ一杯ほど飲むようにする。(しっかしオイルの名前がきれいねぇ。)前回気分が落ち込み始めたときにはこのオイルブレンドを飲んでしのいだのよね。そしたら心持ち、気持ちが軽くなった。それなのに今回は横着したから・・・。苦しかったです、ものすごく。避けられるものなら、もうあんなのは二度と経験したくないなぁ、ほんとに。と、いうわけで、その2週間ほどの間に書いたもの、日にちを追うごとに暗くなっております。ならないように気をつけてみたんだけどね、ちょっと難しかった・・・。ついには何も書かない方法で行ってみました。でもね、しっかりネットジャンキーの私なので、チェックはそれこそやめられず。でも明日からは最愛のニューヨークへ行くので、(ついでに最愛のAとも一緒。やたっ!!)しばらくは更新できないと思うので、よろしく。帰りは一週間後ぐらいですが、私、帰ってきてもすぐに復活できない場合もあるので、そのせつはどうぞご容赦くださいませ。それでは、行ってきまぁ~す!!
2005年02月15日
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もし自分の付き合ってる人や結婚してる相手に「異性の親友」とか「仲のいい異性」がいたらいやですか?私は逆にいたほうがいい、と思うタイプ。それにはいろんな理由があるんだけど、ひとつには本当に惹かれあう相手がいるのであれば、そのときに一緒にいる人がいようがいまいが、惹かれあってしまうもの、と思ってる。(そういう相手とはそうそう出会うわけじゃないけど、もし出会ってしまったら、それはそれで仕方がないと思う、っていうかね。)ふたつ目には、異性・同性って分けてて安心できるものではない、っていうこと。だったら誰とも仲良くするな、とは私には言う権利はないと思うし、そもそも相手に言われたくない。(ある知人の父親が何年にも渡って「(同性の)友達のところに泊まってくる」と言っていたのが実はその時々の「お友達」と恋愛関係にあったと言うことが発覚し、離婚したケースがある。)みっつめには、私がもし先立つことがあったとした場合、相手に一人で取り残されて欲しくないから。仲が良い夫婦の場合、一人が亡くなると、もう一人があとを追うようにしていってしまったり、すごく力落ちしてしまう場合がある。そういうのはただかわいそうだと思う。そういうときに昔からの友人は心の支えになるものだ。ちゃんとした恋愛関係にいたらなくたって、茶飲み友達くらいの近さにしかならなくても、年月を超えて付き合ってきた友人というのは心強い。それに恋愛関係にいたるかもしれない相手からしか感じ取れない特殊なエネルギーというのはある。伴侶がいなくなってしまったときには特にそれを感じさせてくれる相手が必要だと思う。もちろん、私は相手が浮気とか不倫とかをしないと絶対的に信用してるからこういうことが言える。私は逆に自分のことのほうが心配なぐらいだ。相手を信用できる理由と言うのは、単に相手を信用してる、ということもあるが、自分の父親も、相手も「付き合ってる相手・結婚してる相手に忠誠を誓うのは当たり前」と思っているような人たちだから。父親もそういう人であるというのは鍵だ。子供のころ、最初に「男」と認識した人がどういう人であるか、というのが重要だと思うから。父親がそうでなければ、たとえ自分の付き合ってる相手がどういう人であろうと疑ってしまうだろう、と思う。
2005年02月14日
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最近、篠田節子氏の『絹の変容』と『インコは戻ってきたか』と短編集『レクイエム』を読んだ。あっ、最近と言っても『インコは戻ってきたか』以外は1月に読んだのだけど。『絹の変容』は父曰く、「救いようのない話だな。厳しすぎる・・・」と。私は「そ?篠田節子らしい、最後まで安易な結末を許さない終わり方」と思っただけだったけど。しっかし、彼女は生粋のホラー作家ね。社会派モンスター・パニック小説家とも呼ばれるけれど、その本領が発揮されてる作品。『レクイエム』は本当に切なくなる話がいっぱいで・・・・、実は細かいことは全然覚えてない。ただ、代表作(だったと思う)に出てくる戦時中の日本の話が妙に現実味を帯びてて、史実よりも現実味あふれる、「虚構(フィクション)を通じて、現実をあぶりだす」パワーのある作り話の強さを一番色濃く出してる作品のような感じがした。『インコは戻ってきたか』は今日読み終えたばっかりだったけど、なんか安心した。キプロス島を舞台とした内戦や地域紛争に関しての社会派小説だったんだけど、素晴らしかったと思う。全然私が恐れていたような安易な結論に至っていなかった。篠田氏の頭の切れや観察力は最初から尊敬していたのだけど、日本ではそういう人でも「戦争」と名のつくものには突然「善悪ははっきりしている」という立場を取る人が多いので、篠田氏もその口かもしれない、と思って恐かった。でも、あの『インコは戻ってきたか』を読んで、篠田氏本人はどうか知らないけれど、少なくとも、あの小説を通して送ってきたメッセージはそんなに簡単に割り切れたものでなくてとても安心した。「外」から見れば、簡単な問題に見えるものでも、本当にいろんな要素が絡まって、それがいろんなふうに利用されて、「当事者」同士が辛くて身動きの非常に取れにくい結果になっている、ということを書いていた。これをここまで書き込むのに、どれだけ取材をしたのだろうか、と思うと同時に、取材だけではわからない部分を本当によくここまで把握して書き込めたな、と感心するばかり。それとやっぱり篠田氏の作品で抜かせないのはあの、女性の「自分探し」の部分。好きです、やっぱ。元気が出ます。「強い女」がいいって、いいなぁ~。女がこびなくていい世界っていいなぁ。フィクションのホラーものは「救いようのない」ものを書くかもしれないけれど、社会派ものは逆に最後に希望を持たせる書き方をする篠田氏。そういうところにも厳しいなりの暖かいまなざしが見えて好きなんです。現実が甘くないことは伝えてるけど、同時に希望も持たせてくれてる。う~~ん、いいわぁ~~。さて、表題の谷崎潤一郎著『陰翳礼讃』ですが、なかなか面白かった。やっぱり谷崎の文章はきれいでいいわ。そしてこれを読んでて何度もつぶやいたせりふ。「わかるぅ~~」・・・まずいと思った。『陰翳礼讃』って、まあ、いろいろ言われてるんだけど、ようは谷崎の「わたしはこれが好き。日本はこういうところだと思う。日本人はこういう人たちであると思う。日本のいいとこは・・・」って言うエッセイみたいなものなんだけど、描写や説明がとにかく微に入り細に入り、延々と続いたりする。羊羹を食べたときの描写が1~2ページぐらいにわたってるわけよ。それを見て、「ああ~~、わかるぅ~~」と思ってしまった。そう、そういうことを延々と話せちゃう、ワタシも。そこまできれいに描写できる、とかそういうことではなくて、それぐらい「羊羹を食べる」と言う行為自体に関して言うことが見つかってしまうのね。気づくことが細かいのね、彼は。でも私も人が気づかないような細かいことに気づいてしまう性癖があるわけよ。そこでまた「わかるぅ~」となっちゃう。でも、こうやって自分に似た性癖を他人に認めてしまうと、「ああ、こんなにいろんなことに気づいて、人生疲れるんじゃないだろか」って思う。2年近く前にひょんなことで知り合った占いのおばあさんに「あなたの将来はどんどん大変になるでしょう」と予言されたことがあるが(基本的に言葉の通じない相手だったので、幸か不幸か、情報はそれと「運命の相手には来る6ヶ月から1年以内に会う」と言うこと以外はわからなかったんだけど。)それをAに話したら、「かぐやぐらい敏感な人は、そりゃあ、予言されなくたって、人生どんどん辛くなるなんて、当然わかりそうなものだよなぁ」と言われたようが、確かにそうだろうなぁ、と妙に納得してしまった。いや、よくない、よくないぞ。それなりに自分を鍛錬しようとしてるのだよ、これでも。感じやすい心をもう少しタフにするために。生きていくために必要な術なので。で、また谷崎に戻るけど、う~~~ん、ワタシ、物書きでないくせに、物書き的な性格をしてるようで、どうもねぇ~~~~。「物書き的な性格」ってさ、別に物書きだけがなるわけでなくて、逆に物書きだとそう、ってものでもないんだよね。でもさ、やっぱり自分的にイメージしてる芸術肌系物書き的性格をしてる人はあまり幸せになれないような気がする。だから嫌で・・・。でも自分はやっぱりその気がある・・・、ってことをなんとなく『陰翳礼讃』を読んで思ってしまって・・・。やっぱり谷崎のきれいな文章は読むのが好きなので、それだけでも良かったのだけど、あまり自分のそういう部分は知りたくなかったかな、と読後感がちょっと複雑でした。
2005年02月13日
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私は頭の中で常に何かをぐるぐる考えている。脳の休まるときがほとんどない。しかも何かを考えてるときに、ひとつのことだけを考えていることはまれで、たいていはひとつ以上のことを考えているのだ。「考えている」と言っても、四六時中たいそうなことを思っているわけではなくて、今日のこれからの予定とか、今月やらなきゃならないこととか、今晩何を食べよう、とかそういうことと合わせて、「何で私はほにゃららに過剰に反応するのかな」とかなんとなく一緒くたに考えている。そもそも人と話をしているときに相手の言ってることに最初から最後まで100%集中して耳を傾けてるってこと自体がほとんど無理だ。どんなに相手の言ったことだけに耳を傾けようと思ったって、必ず相手の言った何かに反応して私の頭はまたまたぐるぐるめまぐるしい運動を始めている。落ち着きがないのです、私の頭は。だから、高校生になって過度の寝不足になるまで「なんとなくぼぉ~っとする」という感覚もわからなかった。なんとなく頭が空っぽになる、とか言われても経験したことがないので、わからかなったのだ。それまでは友達が「ぼぉ~っとしちゃって」といっても「目の前のことに集中できない」(=私の場合は別のことを考えていて気が散ってる状態)ってことなのかなぁ~、ぐらいに思っていた。もちろん、本当は別のことに気を取られてて、それを言いたくない場合は「ぼぉ~っとする」という言い方をする場合もある。でも本当に頭が空っぽになることだってあって、それを自発的に誘発するのが「瞑想する」ってことらしい。いつも頭がぐるぐる回ってる私は、考えすぎて疲れてしまうことがよくある。そうすると眠りが浅くなってしまったり、イライラしだしたり、考えすぎて気分が落ち込んでしまったりする。でも逆にそういう時は気分が高揚してたりもする。自分の頭の動きについていけなくてなって疲れて追い詰められた気分になったりすることもあるのだ。そういうときにAに言われるのは「瞑想しな」だ。難しい。すごく難しい。この間、頭を空っぽにしようとしたら、空になりそうなその瞬間に心臓がギューッとつかまれてるような感覚に陥った。「考える」ということを手放すのがものすごく恐かったのだ。結局、あと一歩、というところに来て、その境地には至れなかった。でもこれができなかったら自分の心の平静も自分で保てなくなるのだろうと思うと、その壁を乗り越えようとする努力はしたくなる。自ら「考える」という行為を見捨てることで自分の心の平静を保とうとする。欲を捨てる、ということで欲を満たす、という逆説的なことかなぁ。
2005年02月11日
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最近よくこのトピについて書いてるなぁ。理由はわかってるんだけどね。全部、とあるここのサイトを読もうと思っても読めない友人に宛ててる言葉。本人にも同じことは言ってるからここでまた繰り返すことに罪悪感はないけれど・・・。私の言ってることは聞こえてないようで悲しい。だからとりあえずここでもう一回繰り返してみる。今日、MSNの記事でバレンタインに何をしてあげたら彼氏は喜ぶか、という記事があっておかしかった。「これをすれば男は喜ぶ」「あれをすれば男は喜ぶ」「こんなことをしたら喜ばれない」などなど・・・。笑っちゃうと思ったのが、記事は一応女性向けに書かれてるんだけど、半分ぐらいはA(男)に宛てて、私(一応女)に関して書いたような内容で、半分ぐらいはちゃんとAに関して、私に宛てたような内容になっていたってこと。恋愛はマニュアル化できないなんて、当たり前すぎて言うのも申し訳ないぐらいなんですが、そういう記事は恋愛をマニュアル化しようとしてるんだよね。で、そういう記事を読んで「ふむふむ。なるほど」って思ってる人はどれだけいるんだろぉ~~ってか、きっとたくさんいる、って思った時点で、う~~ん、と思い悩んだ。一応、適当に「誰か」と付き合っていたいだけなら、そういうマニュアルはすごく大切だと思う。「誰か」って逆に言えば(ある特定の)「この人」じゃなくていいってことだから、多数の中の「誰か」になればいいんだよ。だからできるだけ周りと比べたときにわかりやすいように秀でてる人がいいんだよね。そうしたらマニュアルは大切だよね。でもさ、「誰か」じゃなくてまだ出会ってないかもしれない、自分とぴったりくる「この人」を探しているのだったら、一般受けするように自分を鍛えていても仕方がないし、今まで努力してもうまくいかなかった恋愛関係を教訓にしようとしても仕方がないと思う。友人は最近いろんなことがあるのだが、何かがうまく行かなかったり、人間関係がうまく行かなかったりすると、決まって「これじゃあ、将来結婚する相手ともうまくやっていけない!」と言っては落ち込む。本人は結婚できる「誰か」がいればいい、というのだけど、その実はお互い結婚したいと思うような「この人」を待ち望んでいる。「誰か」を探してると言ってるわりには、マニュアル化はプライドが許さないとばかりに「マニュアルどおり」の外見を整えることはすべて否定。でも「マニュアルどおり」の完璧な内面は作り上げようと非常な努力をしている。そして周りがどんどん「この人」を見つけて結婚していくのをとてもいい人なので心底嬉しそうに(そして羨ましげに)見ている。結婚して子供が生みたいばっかりに、余計イライラが募って人の衝突とも多くなるし、どんどん付き合いにくい人になっていって、どんどん人を遠ざけている。とても暖かい、いい人なのに・・・。カップルの周りにいるのは辛いからと私がAと一緒にいるときもあまり長時間一緒にはいたがらない。いつも「誰か」である「この人」を待っている。私の周りには昔から「結婚したいしたい」と言って何年も経っている友人がたくさんいた。いつも結婚を念頭に置いた付き合いをしているので、安定したまじめな付き合いができるのはいいのだが(私はそういうのをことごとく避けてましたが、苦笑。)困ったことに「結婚」に一生懸命になって余計にがめつくなってきてしまってる。「誰か」でない「この人」に出会ってしまば、がめつかろうが何だろうが、関係ないのでいいのだが、とりあえず「誰か」と一緒にやっていきたいのだったらそれではまずい。逆にキャラが強い人のほうが「この人」に会って幸せになってしまう人のほうが多かった。やっぱり個性が強いと合うか合わないかがわかりやすいからなのかなぁ~、と自分にも照らし合わせて考えてしまう。話がずれたけど、こんなに「結婚結婚」と色めきたって、その望みがかなえられないことで、どんどん哀しみとあきらめのうちに沈んでいってしまう友人たちを見て思うのはこの結婚中心社会がうらめしい。結婚なんてどうでもいいじゃないか。愛し合っていても結婚できない人たちだっているのに。結婚制度、くそくらえ、ってことだ。
2005年02月10日
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最近疲れがひどい。でもちゃんと寝てるんだよね。どうしてなんだかよくわからない。四六時中だるい。多分、花粉症か何かだとにらんでるんだけど・・・。この間、アボカドを見て、なぜかマンゴ風に三つ切りしてしまった。トロピカル・フルーツ、と思って、そこでマンゴーだとカン違いしたんだよね。ちゃんとブツは手に持ってるのにさ。おかしい、と思ったのはマンゴだったら、あの中心の平たい種から十分遠いところから切り出したはずなのに、ナイフが種に当たったとき。「あれ?」と思って、「あ~、方向を間違えたかな?」と思ったんだけど、どうも手ごたえがマンゴーの平たい種風でなくて、丸っこい形なんだよね。「あれ?あれ?」と思ってまじまじとアボカドを見て、「あ~、これ、アボカドじゃん。じゃあ、真っ二つに切んなきゃいけないのに」とやっと気づいたしだい。なんか自分のボケぶりがちょっと恐かった・・・。で、昨日はそのアボカドにレモン醤油をたらしていただき、今日は甘くて脂っこい、クッキーもどきが食べたい気分だったので、クッキーを焼こうかとも思ったんだけど、残ってるアボカドを見て、ちょっと実験をしてみた。アボカドを皮から出して、適当につぶす。で、そんなかにちょっとレーズンを入れて混ぜる。さすがにこれだけではしつこいかと思ったのでレモン汁をちょっとたらしてみたんだけど、ちょっといれすぎで苦かった。多分、香辛料は脂っこさをちょっとカットする狙いでわからないぐらい塩(か、しょうゆ)少々とかシナモンとか入れるといいのかも。よくわからんが。とにかくおいしかった。新発見!あ、「ゲテモン・・・」と思った人、ごめんねぇ~。(笑)それと最近またはまり出してるのが、黒蜜のようなものである液状黒糖(モラセスmollases)。甘いんだけど、ちょっと酸っぱくて過度に甘くないのがいい!しかも独自の味が強くてねぇ。今朝はバタートースト(もちろん全粒粉よ!)につけて食べてみました。今日で野菜も切れてしまったのでいい加減買い物に出なきゃいけないんだけど、あまり買い物に出たくない気分。締め切りがせまっていてそれどころじゃない!と思っちゃってるのと、あと一週間弱でどうせお家を一週間近く留守にしちゃうのよね。それを思うと・・・って感じでサ。
2005年02月09日
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中学校のころはうちからチャリでウルトラ速度12分(普通速度20~25分)だった学校にたまに車で父に送ってもらうことがあった。そのわずかな時間でいろいろと話すこともあったが、一番よく話したのは人間関係のこと(私にとっては永遠のテーマよ。笑)と授業でわからないことについてだったような気がする。そのときのことで思い出に残ってるのは、父が一番よく言っていた、人のことはうわさで判断しても仕方がない。ウワサなんて、どこからどこまでが本当でどこからどこまでが嘘だかなんてわかんないんだから、結局は自分にどう接してくれるかで人を判断するしかないんだよ、ってこと。確かにそうだと思う。私はデマ(ってのも一種のウワサ)を流されいじめられた経験だってあるし、それがなくても、幼なじみがデマを流されいじめられたことがあるのも知っている。ウワサで誰かがいい目にあったなんて話、私は一度も聞いたことがない。せいぜい芸能人が知名度をあげるために利用することがあるってことぐらい?でもそれじゃあ、もう商売の一部としての情報操作みたいなもんだなぁ、と思う。そういうわけで、なるべく人のウワサも流さないようにしているが、聞いてもあまり相手にしない癖も身についた。そういうのって話しててつまんない相手かもね。
2005年02月08日
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のろけさせてって感じです。(照)今週末は実は連続でAと過ごせた週末。普段は一週間おきだったりとかするから、結構珍しいし、とても嬉しい。今日は気分も穏やかで、やっとAのショートカットに慣れた今はもうちょっと普通にAと接せる。そう、Aはあのフサフサのロングヘアーを切ってしまったんです、ばっさりと。切った髪はLocks of Loveという癌で髪を失ってしまった子供たちのためにかつらを作る団体に寄付したもよう。 髪を切ったAはヒッピー系から爽やか青年に早変わりしてしまって、ヒッピーヘアーしか知らない私は、サワヤカ・ボーイ、Aになかなか慣れなかった。なんだかちょっと離れたところから見るたんびに目を見張って、「髪型変わっちゃったねぇ~。印象変わっちゃったねぇ。昔の写真のころのまんまだよぉ~」って言いながら髪の毛をぺたぺた触ってたような気がする。(うるさいか??笑)でも今回はとりあえずその頻度も半分くらいに減り、もっと普通の週末だったかもしれない。私もやっと本調子に戻り、遊び心満載になってきて、結構わたしたちの間では流行る、インスタント寸劇を始めたりする。どうってことないときに突然別のキャラになりきっちゃうのだ。さすがに大学時代、演劇を専攻していたAはそういうときにその雰囲気を読み取るのが私より早い。私はたまに「え?何?どうしたの?」と馬鹿正直に混乱してしまったりする。だから、私が始めたときのほうがスムーズに寸劇世界に移行できることのほうが多い。で、何が、ってわけでなくて、単に他人になりきってるだけなのだが、これが楽しいのだ。ほかの人になりきるって楽しいよね?私はなんだか楽しんじゃうんだけど。それでどちらかが飽きるとその世界は自然消滅。まじめな話をすることもあるけれど、これは長くなるので会うと一テーマぐらい。そしてまじめな話は間に不穏な空気がちょっと流れがち・・・。そこは温厚なAがうまくフォローしてくれる場合が多い。あとは私があまりにいらいらしだすと、私から話題転換をしたり。それからぁ~、同じ食べ物が好き。これはいいことよねぇ。好みが全く一緒ではないんだけれど、ほどほどに似てるので一人が「うまいうまい」と食べてればもう片方も感じている可能性大。最近よく話題にのぼるのは子供。結婚式の計画もまだちゃんと立ててないのに気の早いこって。でも結婚式のほうはねぇ、まだ日程も立てられないような状態だし、二人とも招待客以外のことでは話し合いたいことも少ないような気がする。多分私のほうが率先していろいろやることになるような気配。で、それがいいような気がする。私はAと最初に出会ったころ、何が良かったって、なぜか波長が合ったのよ、ってわけわかんないか・・・。なぜかわからないけど、Aと会って帰ってきた日っていうのは、自分の精神のバランスが良くなってたの。仕事ができるぐらいに脳が適度に刺激されてるんだけど、なぜか足もちゃんと地に着いてる、そういう感じがした。私は人の(特に自分が好意を持ってる人の)放出するオーラっていうか、雰囲気にものすごく敏感なんだけど、Aの放出してるエネルギーって言うのは、今までになくすごぉ~~~く心地よかったのね。はまっちゃってました。あまり言わないようにしてたんだけど、M氏にだけは「Aってね、すごくいい人なんだよ」ってにかにかしながら話してました。何が良いかとは良くわかんない。でも、一緒にいて居心地が良くて、私に好影響を与えてくれる、良い存在だ、とそういう感じはした。と、いうようなことを話してみたりして。二人でするノロケ話、ちょっぴりだけ公開。(つーか、こんなことしてる間にさっさと仕事再開しろ!って噂。)
2005年02月07日
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普段から自己主張の激しい私ですが、今日はいつにもまして激しい(と自分で思う)のでちょっと火傷にはお気をつけくださいまし。さて、本題。20代になると、妊娠中、あるいは子育てに興味を持ち始めている人たちに「同志」だと思われ、子育てに関する世間話を持ち出されることがある。婚約してしまった今なんて、なおさらそうだ。私は子供が無条件に好きなわけではない。特に赤ちゃんなんてどうしていいか全くわからないし、母性本能が女特有のものであるとか、若い女の子は無条件に赤ちゃんや子供が好き、という考え方自体がはなはだうさんくさいと感じる。でも別に子供嫌いなわけでもない。単に子供を「子供」というカテゴリに当てはめて、それに基づいて好きと嫌いとか決めてしまってもしょうがないじゃないか、と思うし、実際そういうふうに自分が反応してしまうだけだ。子供の中には突然惹かれあって仲良くなった子だっているし、憎ったらしいと思って終わった子だっている。ごめん、突然話がずれた。これについてはまた別件で・・・。さて、同じぐらいの年齢の人に同意を求められたときに困ること。それは「わたしは専業主婦よ。だって子供を他人に預けて育てるなんてかわいそうじゃないの。デイケアなんてもってのほか。」「体に悪いからって、お菓子やジャンクフードを全く与えないのもちょっと極端よねぇ。ハンバーグとかアイスクリームぐらいはどういうものだか知っておかないと、ちょっとかわいそうよ。」こういうコメントに同意を求められて「そうねぇ」なんて愛想笑いして一応うなずいてる私がいる場合は、もう面倒くさくなって相手とまともに会話をしていないとき。だって私はそういう子供がかわいそうだとはなから思っちゃいない。私が保育園育ちの健康食育ちだからだ。そういうことを言ってくる人には「主流」から外れまくっててすみませんね、どうせアタシは変わったやつですよ、と言いたくなる。私の保育園時代の仲間はいまだに連絡を取り合っていて、何人かまだとても仲のいい子もいる。それって出会ってから20年以上の正真正銘の幼なじみだ。中学・高校のころの辛いことがあったときなんかも保育園時代の友人を中心とした小学校時代の友人たちに救われたものだった。保育園時代の仲間は気心が知れていて、仲のいい子は兄弟姉妹みたいなもので、一番縁遠くなったって親戚みたいなものだ。私にとっては一種の擬似家族的役割を果たしたと思う。そもそも子育てなんて家族だけでするものではないし、もちろん母親一人でするべきものではない。昔だったら親戚ぐるみで、今の都市部だったらコミュニティぐるみでやるのが当たり前だ。今考えてみれば、私の通った保育園というのは、そういう場所を提供してくれたと思う。それと健康食育ちのことだけど、前にも書いたけど、私は精製された粉類、糖類を含んだものは食べちゃいけないことになっていた。それって何が当てはまるかというと、菓子パンとか、飴とか、チョコレートなんかのお菓子類。今考えたら給食で出るパンなんかも当てはまるのだろうけど、別に給食とかで出るもので「あれはだめ、これもだめ」と言われることはなくて、そこは完全に自分の(もとい、学校の。笑)判断に任されていた。うちにいるときはそういったものがないから特別欲しいとも思わなかったし、給食ででるものが食べられなくても別に不満はなかった。周りの大人は飴をあげようとしても親と一緒にいると親が懸命に「うちはそういうものは食べないんです」というと、一様に「それじゃあ子供がかわいそうだ!」と抗議したらしいが(私は知らない)別に私は自分がお菓子を食べられなくて自分はかわいそう・・・・なんて思ったこともない。それに友達同士で遊ぶときには少ないお小遣いをためてお菓子を買ってみんなで食べたって叱られたりしたわけでもないから、自分で責任をもてるぐらいの年齢とともに徐々にお菓子にだって触れていけたわけだ。お年頃になってダイエットだの何だのと試し始めたときほど親の健康食中心の教育方針に感謝したことはなかった。もともと一般の市販品ほど甘いものを与えられて育たなかったおかげで本当に体が必要とするもの以外は、むやみに甘いものが欲しいと思わない味覚に育ったのだ。だから「甘いものを食べない」とかいうことがそんなに苦痛にならない。別に我慢してるからとかそういうわけではなくて、本当に素の基本の味覚に戻ってみると、いかにもいろんな化学物質・製品を混ぜて作った製造されたうそっぽい味のたべものや見かけばかりきれいに整ってる食べ物がおいしく感じられない。ああ、そういえば化学調味料や「かんすい」の入ってるものも家には持ち込んじゃいけないことになっていたので、今でも化学調味料入りの食べ物を食べるとわかることがある。アメリカのダイエット記事とか広告とかを見てて思うのだが、いわゆるジャンクフードに対する執着心が激しくて、栄養価値とかが全く関係ないところで食べ物が製造されてるようなところがある。そしてそういう「タベモノ」を食べる物として育った人たちのダイエットはまさに食事生活を矯正するところから始めなければならなくて本当に大変、かつ辛そうだ。そういうのを傍目でみてて、「良かった~、私はあんな苦労をしなくてすんで」と思ってる。でもそんなのほほんと構えてられるのも「かわいそうに普通の子供なら誰でも与えられている食べ物を与えられずに」育ったからなのだ。保育園も賛否両論、健康食中心生活も賛否両論あるみたいだけど、何もそういう環境に育ったからって「かわいそうな境遇」と決め付けなくたっていいじゃん、と思う。私は逆にそれがまたとない救い&強みになっている。別に一時期はそんな自分をかわいそうと思ったけれども・・・、とかそういうことなしにだ。最初から「こんな友達がいて幸せだなぁ」と思ってて、もっとずっとあとに「保育園育ちはかわいそう」という意見を聞き、驚き、健康食中心生活も別になんとも思ってなかったら後に「そういうのを押し付けるのは親のエゴ」とか「子供がかわいそう」とか言う意見を聞いて、またびっくり、という感じ。そうですか?家族並みに仲のいい幼なじみがいたり、自然と体にいいものを食べたくなるような大人に育つような食生活を子供のころからしてたらかわいそうですか??ま、人それぞれなんだよ。自分が専業パパやママになりたいのだったらそれでいいし、自分が健康食中心の生活したいのだったらそれでいいじゃん。何もがんばって子供を「周りと外れないように」育てなくてもいいと思いますが・・・。ま、こんなのも周りからちょっとぐらい「外れ」ても大丈夫な環境に住んでることが大前提ですがね。
2005年02月06日
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日本の朝鮮半島支配時代のことで気になること。それは「いい思い出」がおうおうにして教育者関連の話であること。それで思ったのが、教育関係者というのはリベラル派の人道主義者が多い。大正時代の日本といえば大正デモクラシーというように、ある意味今の東京よりもリベラルだったくらいだ。そして教育者のほとんどはその雰囲気が満ち満ちていた東京で教育を受け、その風潮に感化されたものも多かっただろう。だから教育の場ではいい思い出が多かったのもある意味うなづけるかも。逆にいやな思いをする場といったら、警察や兵士などとの接触の中でだろう。警察や兵士などになるには特別な教養は必要ない。言われたことを遂行できるための訓練が必要なわけだから。ここで友人に聞いた、「統計的には教育程度が上がれば上がるほど、差別的な考えを持たなくなる」という論が(私にとっての)裏づけとなる。だから学校や教育機関にうまく組み込まれた人たちの生活が(思想的な弾圧を感じていなければ)そういうものとは無縁な人たちとの生活と体験がぜんぜん違って当たり前だ。私は今まで「高等教育を受けられる」=階級が高い?だから体験が違う?と疑ってたけど、どういう現場でどういう人との付き合いが多かったのか、という点でもまた体験やその後の感情の違いも説明できるのかもしれない。
2005年02月04日
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左にあるフリーページのHito項目、A。のところにもちょこっと書いてあるけれど、私は18のときに当時の恋人と別れてからAと付き合いだすまで恋人と呼べる相手はいなかった。でもそれは、たまにデートしたり、定期的に泊まりに行く相手がいなかった、というわけじゃない。絶え間なくそういう人がいた期間はなくて、フリーであった大部分の期間は本当に独り身だったのだけれど、しばらくそういう相手がいた期間だってその相手を「恋人」と呼ぶ気がせず、そう呼ぶ理由も見つからなった。そもそも私にとってはすでに別れが予感できる相手を「恋人」と呼んで、「ちゃんとお付き合いする」理由がない。どうせ別れるとわかってるなら、「ずっと一緒にいようね」なんて口先だけの約束は聞きたくないし、したくもないし。一時だけの恋人とわかってる相手と付き合ってて、本当に合うと思った人との出会いを見逃すのももったいない。それに自分にとってそれぐらいの意味しか持たない人とお互いわかりあおうとする時間を費やすのがもったいない。別れた後も友人としてとっておきたいぐらいの人材なのだったら、別れてお互いを傷つけてから友人としてやり直せるかどうかを試すよりも、最初から大切な友人関係を育む努力をしたい。私にとっては、適当に付き合う恋人を作るよりは、長年付き合える友人一人を探すことのほうがよっぽど大切だと思える。でもここまで自分の思い通り生きていけるのもいろんな好条件がそろっているから。ひとつには、将来結婚する相手の経済力を頼りにしなくてもいい。それに周りに「結婚するまで操を守らない女はあばずれ」という意識が薄い。それと「未婚の女」=社会的に一人前でないという風潮も希薄。出かけるときにカップルであらわれないと恥ずかしかったり、不便な場面に(私は)あまり遭遇しない。家族からも「早くいい人を見つけなさいね」というプレッシャーも皆無。本当に友情を私と同じくらい大切に考えてくれてる人がいる。結果的には、自分がそうしたいから、という以外は誰かと「ちゃんとお付き合い」したり、結婚したくなるような外的要因がいっこもない。(実は結婚までいってしまうといろいろな法的利点もあるけれど。)そんなわけで、私、こんなにハードル高くて好き勝手できるんだったら、次の「恋人(男性)」は「結婚相手」になってしまう可能性大有りじゃん!と思っていたのです。そしたらやっぱりそうだった。(笑)そんな私の恋愛観は、(まだ年齢的に若いこともあって)好きな人が見つからない間は一生懸命友情を育てたり、自分磨きに励もうよ!もう別れを予感しちゃう相手とはさっさと別れれば、とも思う。(私はあきらめが良すぎるって噂もありますが。笑。関係が悪くなっても完全にダメだとわかるまでは別れようとしない系のAはそんな私のあきらめの良さをちょっと恐れてるかもしれません。一年ちょっとの短い付き合いではありますが、私らだって別れそうになったことはある。)ってな感じですが、まあいくら考えても一種の理想論でもありますね。結局は恋人とか結婚相手とかっていろんな要因が重なって一緒になるんですもんね。
2005年02月03日
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久しぶりに風邪をひいてしまいました。原因のおよその見当はついている。日曜から月曜にかけて、101号線で、Aのいる南方から私の住む北方まで一人運転したから。多分。そもそも17で運転免許を取得してから、南方生活中に車を購入する26なりたての間、ほぼ完全にペーパードライバーだったアタシ、運転そのものに慣れてない。それなのに「必要に駆られて」南方から北方のドライブを決行。しかも車はほこりいっぱいのポンコツ車。多分その中で長時間過ごしたのが原因ではないかと。途中、居眠り運転しそうになったり(一回だけ)、エンジンがオーバーヒートしてしまったり(これも一回だけ)、いろんなできごとがありましたが、無事到着。疲れました。二日に分けたは分けたけど、睡眠が十分取れてなくてしかも運転慣れしてない状態で計7時間半はちょっと辛かった。途中、友達に会いに行ったら一日の運転時間が減るからいいと思ったのだけど、これぐらいだったら逆に一気に運転してしまったほうが良かったかもしれない。とにかく・・・、こういう状態なので今日あった予定もキャンセルしてしまい(本当はそんなに気軽にキャンセルしてはいけないものだったんだけど、ちょっとしんどい)今日はこれから寝る予定。それだけでもだいぶ良くなるのでは・・・、と踏んでみてる。
2005年02月02日
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