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Dec 31, 2005
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30日の日記だが、じつはもう午前零時も30分をまわって大晦日。この『山田維史の遊卵画廊』を7月に開設し、以来、毎日お客さんをお迎えしてきた。楽しんでいただけましたでしょうか。ほんとうにありがとうございました。 さて今日は家の外まわりを掃除したり、午後は家人の買い物につきあったり。 この機会にと、柱時計を購入した。いままで長年使用してきたものが調子が悪くなっていたのだ。小型の時計を代用していたが、やっぱりなにかと不便を感じる。それで「新しいものに取り替えよう」と云うことになった。買ったのは本物の木製枠の長方形のシンプルなデザインである。居間の柱に掛かって、静かに時を刻みはじめた。 例年だと御節料理の準備を29日あたりから始めるのだが、ことしはとてもあわただしかったのでこれからだ。全部手作りなので、キッチンはおおわらわになる。 御家庭によってそれぞれ伝統の御節料理があるだろう。我家も我家なりの伝統がある。長年のあいだに、純和風からすこしづつ変ってきているのだが、しかし現在の型はもう20年以上変っていない。ちょっとそれを御紹介しよう。 (1)煮染め(大根、人参、牛蒡、八頭、筍、蓮根、椎茸、銀杏、栗、慈姑、蒟蒻、鳴門巻蒲鉾、結び干瓢、結び昆布、鶏ささみ肉)、(2)昆布巻、(3)紅白なます、(4)酢蛸、(5)海老、(6)数の子醤油漬、(7)紅白蒲鉾、(8)伊達巻き、(9)豚肉立田揚げ、(10)豚肉角煮、(11)スコッチ・エッグ、(12)松前漬、(13)栗きんとん、(14)黒豆の煮豆、(15)和生菓子。 以上15品。そして三が日の朝に御雑煮をいただく。 31日の午後は食器を準備するので、またまたおおわらわ。祝い膳用の器を来客分も準備するから、その数は相当のものだ。年に一度、この日のために使用するものも少なくない。食器戸棚の奥から次々と箱を出し、荷解きをしてゆく。何年も使っていない物もあり、今年は使おうか使うまいか、盛りつけを考えながら思案する。益子焼の巾10cm、長さ60cmの渋い色合いの皿は、わざわざ益子に行って買い求めたのだが、2度ほど使ったきりだ。萩焼の小さな高坏揃いも、酒をふくんでほんのり赤らんだ女性の肌のような美しさにひかれて購入したが、これもいままで使う機会がなかった。----食器選びは私の役目なのである。ことしは来客を御遠慮願ったので(じつは喪中)、家族の分だけでよい。それが少し淋しくもあるが、ここにくるまで多忙だったので、ことしの正月は家族だけでのんびり過そうと思う。 みなさま、良いお年をお迎えください。
Dec 30, 2005
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本日、『悪夢百一夜』の著者用の刊本が届いた。ながらく待ったがようやっと完成し、ほっとしている。店頭お目見えは年明け。 A5版で厚さが7cmもある本を手掛けたのは、私の経歴のなかでも初めてのこと。造本の手順に違いはないのだけれど、やはり様々なチェック・ポイントがあって、私の意志が製本現場にどのように伝わるか、こうしてできあがって来るまでは気が安まらないものである。 じつはこの本を出版した「ウチヤマ出版」という会社は、出版事業に進出したばかりで、『悪夢百一夜』が第一回の文字どおり処女出版なのだ。したがって私も、これまでのようにベテラン・スタッフの協力のもとに仕事を進行するのとは、気配りの点でもおおいに違っていた。以心伝心とは行かないのだ。しかもこういう状況でこそ水準以上の仕事をしてみせなければならないし、誰も口には出さないけれどそれを要求されている、と私は思った。 世間の評価が出るのはまだこれからである。読者には是非ウチヤマ出版に声援をおくっていただきたいと願っている。
Dec 28, 2005
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午後4時過ぎに外出から帰宅。郵便物のなかに、このブログを通じて知己を得た釈迦楽さんのお名前がある。 御著書『紙表紙の誘惑----アメリカン・ペーパーバック・ラビリンス』(研究社、2002年5月刊)をプレゼントしてくださったのだ。ありがたいことである。 釈迦楽さんは名古屋の大学の教授。専門は英米文学だそうであるが、どうやらいわゆる学際派の傾向がおありのようで、旧来英米文学研究者が閑却してきた分野に鋭敏な感覚で斬り込んでおいでのようだ。 本日拝受した著書は氏の処女作とのことだが、標題が示すようにアメリカのペーパーバックの表紙絵を通じての出版史と、表紙絵というものが文学的内容とどのように関わり、何を表現し、販売戦略の何を担ってきたかを詳細に検証している。私は書物愛好家として、また自らが職業人として表紙絵を制作してきただけに、このような真っ向勝負の研究が大学研究者から出てきたことに驚く。そして非常な喜びを感じる。これからじっくり拝読させていただく。そしてふたたびこのブログ日記に読後感を書かせていただこうと思う。れっきとした研究書だけに、釈迦楽さんの御本名を明かして書影も掲載したいところだ。御許可くだされば、それも後日のお楽しみだ。 本日はとりあえず目次だけを書き出しておこう。 『紙表紙の誘惑』目次 序章:オコナーの扉、第1章:アメリカン・ペーパーバック事始め、第2章:「チープ・ライブラリー」と「小さな、青い本」、第3章:新書判ペーパーバックの確立、第4章:ペンギンブックスの登場、第5章:ロバート・ド・グラフの野望、第6章:ライヴァルたちの饗宴、第7章:戦場のペーパーバック、第8章:ペンギンブックス大分裂、第9章:横溢の修羅場、第10章:1952年の分水嶺、第11章:オコナーの扉、ふたたび、第12章:そして魔界は続く;あとがき;参考文献;索引。
Dec 27, 2005
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ここ2日間、この日記の更新を休み、年末の郵便物のかたづけに集中。返事が必要なものは書き、どうやらすべてを完了。さきほど午後3時に大量の郵便物を局に運んだ。ブログをご覧くださったお客様への拙作絵葉書プレゼントも含んでいる。御希望のメールを寄せてくださった皆さん、ありがとうございました。どうぞお受け取りください。楽しんで下さるなら幸いです。 郵便局へ行ったついでに、30分ほど自転車で通りを走ってみた。八百屋がもう正月用の野菜を店頭にならべていた。慈姑(くわい)、八つ頭、三浦大根、蓮根、どんこ(椎茸)----等々。店の裏手では新たな荷解きをする活気のある掛け声がする。アルバイト学生らしい青年が、「人参は冷蔵庫に入れるんですかー?」「だめだ、だめだ、人参は冷蔵庫にいれないんだ!」「わッかりましたー!」 私はそれを聞いて、[あっそうなのか、人参は冷蔵庫に入れないのか]と思いながら、自転車のペタルを踏み込む。 花屋の前は葉牡丹の鉢がずらりと並んでいる。昨日までのクリスマス商品としてのポインセチアは、もう見当らない。ポインセチアはもともと木なので、skillful(上手)に育てれば2m丈にもなるのだと聞いたことがある。花のように見える真紅の葉が何段にも重なって、不思議な塔のようになるらしい。もっともそこまでにするには、相当の園芸技術が必要らしいのだけれども。 遥かな西空がピンクに染まって、手前の枯れ木がまるで満開の桜のようだ。風が吹いているので、空気が澄んでいる。そのため幻の桜花は一層くっきりと鮮やかに見えた。
Dec 26, 2005
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ここにきて種々雑多な連絡事が出たり入ったり。 作品の絵葉書ができあがってきた。年賀状として元旦から少なくとも三が日の間に配達されるように、この週末になんとか済ませてしまいたい。 --------------------------------------- 年賀状としてではなくただ私からのプレゼントとして、表無地の私の絵葉書12点ひと組を、もしこのブログをご覧のお客様でほしいという方がおありならお送りいたします。いつもアクセスしてくださることへのささやかな御礼です。メール(このブログの私書箱)で御住所とお名前をおしらせください。先着20名様分を用意させていただきます。個人情報はプレゼントをお送りしたのちに削除いたします。 ---------------------------------------- 花輪莞爾氏から年末恒例の季刊『現代文学』第72号を頂戴した。大学でフランス語を教えておられる教授仲間が36年の長きにわたって刊行してきたいわゆる同人誌である。私は花輪氏の知己を得てすでに23年、そのときから欠かさずプレゼントされている。ありがたいことだ。花輪氏が届けてくださるのは他にも、『国学院雑誌』や『ワルプルギス』がある。『ワルプルギス』というのは国学院大学外国語研究科紀要である。 私はたぶん花輪莞爾著作品をすべて読了している者の一人にちがいない。眼光紙背に徹すというが、私も精読するほうなので、自慢じゃないが花輪氏の文体における癖や文字使いについては、校正者の読みちがいさえ指摘できる。日本語の文章では時に全く意味違いの言葉でも、文章として成立してしまう場合があるのだ。こんなことは他の言語にあるのかどうか。 ところで『現代文学』が面白いのは、現在7人の同人がみな書きたいものを書くという方針を堅持し、したがって商業出版の時流とはかかわりないという点だろうか。同人は饗庭孝男、朝比奈誼、奥本大三郎、加藤民男、倉智恒夫、中山眞彦、花輪莞爾の各氏。 以前、マルセル・プルーストを特集したことがあったが、その各論文がどれも書きたくてウズウズしている感じがみなぎっていて、私はとても楽しく読んだ。朝比奈誼氏が三島由紀夫や谷崎潤一郎のフランス語訳を原文と比較検討した論文もおもしろかった。花輪氏の短篇小説「悪夢百一夜」シリーズはこの雑誌を舞台に発表されてきた。 今日届いた72号の編集担当は饗庭氏だが、その編集後記にこんなことを書かれている。氏は最近大学を定年退職されたようで、そのことにふれたあとで、「同人の多くは大学を去り、私と似たような生活をはじめている。膨大な二万冊にのぼる本を私は整理しはじめている。単純な分類法、つまり死ぬまで読む本と読まない本、後者は古本屋に売りはらおうと考えている。買ったままで頁を切らなかった洋書は前者に入る。前者の本と医者と仲よくなること、これが残された人生である。」 こういう文章を熟読玩味するようになったのだ、私も。----
Dec 23, 2005
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北海道爾志(にし)郡熊石村に逆川(さかさがわ)という川があった。熊石村はいまでは町となっているが、逆川が現在もあるのかどうか。この川がなぜこのように呼ばれるようになったか、その謂われを知っている人はいるだろうか。事は延宝6年(1678)12月22日であるから今から327年前の話である。 と書いて、じつは私はいささか驚いている。今日はまさに12月22日、まもなく23日になろうという時間。この話を書こうと思うまで、偶然とはいえ同月同日の符合にまったく気がつかなかった。327年前の事件をいまさらながら書いてみようと思ったそもそものきっかけは、弟が「昔の雑誌に関する情報で、その中に兄さんの奇妙なインタヴューが載っているよ」と報せてくれたからだった。そのインタヴューで私は、「私の祖先は怨霊寺の住職」と言っているらしいのだ。 「はて、何という雑誌だろう?」と考えて、「そういえば20年以上前に----」と思いだしたのは怪奇作家の故佐藤有文氏のことだった。 佐藤氏が電話をかけてきて、「山田さんの御先祖は、北海道松前藩の有名な怪談『門昌庵騒動』にゆかりがあると言ってらしたけど、その話を聞かせてくれないかなァ」と言う。私は手短かに江戸時代の事件の顛末を話した。後日、佐藤氏はポートレートがほしいとカメラマンを私の家に派遣してよこした。氏は何でもコレクションしなければ気がすまない人なので、怪談の話し手としての私の写真もほしくなったのだろうと思ったのだった。 雑誌に載ったインタヴュー記事というのは、おそらく書き手は佐藤有文氏にちがいない。---- というわけで、その記事の内容は知らないが、ことのついでに私自身が『門昌庵騒動』について書いてみようと思ったのだ。松前藩の御家騒動だから、詳しく話すと長くなる。ざっとかいつまんで話すことにしよう。 松前藩は短命の君主がつづき、十世松前矩廣(1659-1720)が、22歳で夭折した父高廣のあとを襲い五代目藩主の座についたのはわずか6歳のときであった。君主幼少のため藩政の実権は家老職蠣崎廣林が掌握していた。寛文12年(1672)に蠣崎が死去すると、13歳になっていた矩廣は親族で江戸家老の松前泰廣の後援をえてようやく実権を奪還する。しかしいまだに少年君主を意のままに操ろうと画策する者があとをたたなかった。 奸臣(かんしん)たちは下級藩士の美貌の娘を殿中に入れて侍女とした。矩廣はたちまち彼女に目をとめ、幾江と命名して寵愛した。若盛りの藩主は日夜の酒色におぼれた。 これを耳にした江戸家老松前泰廣は、下級藩士より正室を迎えることは後日のわざわいの元と懸念した。即座に国家老と相談して、矩廣19歳の秋、京都の公卿、唐橋侍従菅原在庸(ありつね)の姫君、雪を奥方に迎えた。 しかし雪の方は翌年7月に急逝する。毒殺されたといわれている。 新婚の閨房の夢さめやらず、多趣味にして放恣な矩廣は、悶々とした気持をかかえながら一日郊外の海辺を微行する。そしてその帰りに、藩士丸山久治郎兵衛清康の妹喬子(たかこ)を目にする。喬子は丸山小町と評判の美しい娘だった。矩廣はただちに彼女を召し出し侍女とした。 喬子には亡父が決めた許嫁がいた。といってもその男は江戸勤番中に他藩の士と口論になり、あげくのはてが2人を殺害して逐電しまっていた。喬子との婚姻の約束は無効になっていたのだが、喬子は忘れることができないでいたのだ。藩主の厳命とはいえ、御殿奉公は兄清康の栄達をおもえばこその承諾であった。 矩廣は彼女を松江と命名して寵愛した。しかしそれが幾江の嫉妬をかうこととなったのは当然である。また奸臣たちにとっても幾江が遠ざけられては謀略の遂行に支障をきたす。彼等の松江に対する陰湿残忍な虐待がはじまったのだ。 松江(喬子)の兄丸山清康は、殿中で妹が受ける仕打ちを仄聞するにつけても、妹があわれで堪え難かった。思いあまって、殿が深く信任する法憧寺の柏厳禅師をたずねて事の次第をうちあけた。法憧寺は松前藩主歴代の菩提寺である。 延宝5年10月20日、蛭子講の日、矩廣は侍女たちを引き連れて専念寺浄玄をたずね、歌会を催して興をつくした。その後、菩提寺の柏厳禅師を訪れた。四方山話に花が咲き、すでに日没におよんでいたが、矩廣はすこぶる満悦であった。柏厳禅師はこの機会にと、尾張の清秀寺の故事を引いて諄々と注言したのである。また、さらに一歩進めて、悪事をたくらむ近臣達の讒言を信じて松江を損なうようなことがないようにと述べた。 矩廣は禅師の諌言を深く感謝した。しかし一方で、かつての許嫁を忘れることができず一途に純潔を守る松江に、矩廣の情炎はいやましに煽られるのである。 この若い油照りのような炎を老獪な奸臣達が気がつかぬはずはない。柏厳禅師のもとを辞して帰館した矩廣の前に、「御内密に申し上げたき一大事に御座りますれば、畏れながら御人払いを願い奉ります」と進みでた者たちがいる。「まことに申し上げにくき事にて御座りまするが、じつは松江のことについてで御座ります。松江は微録の身の上ながら殿のお引き立てにて殿中第一の栄華身にあまりながら、なお他に心を移す不届者めに御座ります。その者は人もあろうに、当家歴代の御霊を預かりまする、菩提寺の和尚柏厳にござります。松江は仏参に事よせ、柏厳和尚のもとへ通いしことしばしばにて、人目もひき、噂にも立ちいる次第にて、尋常一様の交際とは誰の目にも受け取れもうさず、はなはだ怪しからざる仕儀と存じまする。----もし万一、殿の御身の上に宜しからざる謀りごとなど御座りましてはと、我等一同、心痛のあまり、ちょっと殿のお耳にお入れ申したく、夜中推参致せし次第にござります」 恋の闇路に迷っている矩廣である。耳もとで囁かれた悪魔の言葉は、打ち消してもたちまち勢いを盛りかえして胸にせまってくる。矩廣は鈴を振り鳴らして松江を呼んだ。 何事かと急いで駆けつけた松江が、敷居際で平伏していた頭をあげた瞬間だった。「おのれ不義者め!」と、いきなり白刃が松江の頭上に落ちて来た。矩廣の構えが不安定だったのであろう、切っ先は空を斬った。松江はよろめきながら廊下へ走りでた。矩廣はあとを追い、表広間の口で走りながらふたたび一太刀を浴びせた。松江は悲鳴をあげてその場に倒れた。騒ぎを聞き付けた御守役が矩廣を抱きとめた。 松江は傷を負ったものの命はとりとめた。しかし殿の怒りはおさまらず、松江は臣下にお預け、柏厳禅師は熊石の海辺に流罪となった。上使に対して柏厳は「上意畏まりました」のみ応えた。このとき禅師が原因を糾明していたなら、おそらく当時松前藩の紊乱醜情はことごとく世上に暴露され、藩の存在さえ危ぶまれるに至ったにちがいない。 が、事件はこれだけで終わらなかったのである。 矩廣はまもなく江戸詰めになった。そのころから体調を崩し、病床に呻吟する日が多くなった。侫臣どもがまたぞろ矩廣の耳に囁きかけた。「殿の御悩みは、熊石に流されたる柏厳の呪いの祈祷によるものに相違御座りませぬ。かの柏厳在るかぎり、殿の御悩みの治るときはありませぬ」 矩廣の心はすでに乱れていた。「おのれ柏厳! 早々あいつめの首を打ち取れ!」 時に延宝6年(1678)12月22日早暁、細界貞利、松村昌次、酒井好種等を首班とする検使一行16人が、柏厳禅師の配流されている草庵の外に立った。雨戸をたたく音に目を醒ました禅師が急いで戸を引きあけた。「どなた様に御座りまするか」「御上意だッ!」「それは遠方のところ、お役目ご苦労に存ずる。さて、拙僧に如何様の御上意に御座りましょうか」「汝柏厳、初め侍女松江と不義密通なし、すでに打ち首に相成るべきのところ、寛大の思し召しをもって、当熊石に配流申し渡されしを御慈悲とも心得ず、なおかつ主君の不祥を祈り奉る由不届き至極、その罪許すべからず、よって斬首を申し渡すべきもの也」「委細畏まって御座ります」 柏厳禅師は静かに平伏し、やがて言葉やわらかに、「出家のたしなみも御座りますれば、暫時御猶予のほどを願いとう御座います。首をお渡し致します前に、衣服を改め、最後の読経をいたしたく存じますれば、この儀、なにとぞ御許し下されたく存じます」 禅師は急いで仕度をととのえ、それからは常のごとく日頃信奉する『大般若理趣分経』一巻を読み終えた。「ひどく御暇をとらせて相済み申さぬ。いざ存分にお討ち取りくだされい」 庭前の小川のほとりに端座して首をさしのべた。 電光一閃、禅師の首がころがり落ちた。そのときである、小川の水が轟音をたてて逆さまに流れはじめたのである。検使の一行は首を桶に納め、あわてふためくようにその場を立ち去ろうとした。暁の明るい光がわきでた黒雲の陰に消え、激しい雨が降り出した。雨は風を巻き起こし、唸りをあげて石を吹き飛ばした。 突然の暴風雨のなかを恐怖に震えながら、それでも一行は首桶を担いで上の国村(現・檜山郡上ノ国町)天の川までやってきた。川は濁流となって氾濫していた。とても渡れるものではない。やむなく江差まで引き返した。 その夜は、江差の円通寺に泊ることになり、首桶は御堂の内陣に安置し、一行はそのそばで通夜をすることにした。怪異がおこったのは深夜にはいってからだった。 禅師の首桶の周囲から一抹の炎がチョロチョロとたちあがった。通夜の番をしていた者たちがギョッとして声をあげたときには、火焔は勢いを増してメラメラと燃え、たちまち天井を舐め尽した。紅蓮の焔は波打ち、風を呼び、降りしきる雨のなかで大伽藍が焼け崩れた。首桶は跡形もなく消失してしまった。が、火焔のなかに柏厳禅師の首が生けるがごとく立っていた。眉毛一本焦げていなかった。 この火事と怪異の顛末は急使をもって福山城に知らされた。城中では重臣総登城して評議をした。「罪なき高徳の出家を斬首せる天罰ならん。さればとて、かくのごとき首を城中に入れなば又いかなる障害の起らんもしれず。ここはすみやかに首を熊石に送り、遺骸とともに厚く葬りてその罪を謝するに如かず」 こう議決して首を熊石に送ってもとの庵のそばに丁寧に葬り、さらに一宇を建立して門昌庵と名付けた。 以後、250有余年にわたり、代々の藩主は春秋2回、必ず門昌柏厳禅師の菩提を帛(とむら)い、慇懃なる法要を勤めた。 以上が松前藩の『門昌庵騒動』である。 ところで焼失した円通寺は浄土真宗東本願寺別院であった。私の家との縁は、曾祖父顕月が寺名を再興すべくもとの場所から数里離れた土橋という地に新しく寺を建立したのである。松前藩の家老職であった二家とそれぞれ姻戚関係にあったので、あるいはその縁も与っていたかもしれない。私が以前この日記で「伯父の寺」と言っているのは、この円通寺のことである。そうそう、いつだったか私が19歳のときの僧形の写真を掲載したけれども、あれもこの寺の本堂で撮影したものだ。あの写真はそのころまだ元気だった祖母を喜ばせるために撮影した。祖母はカメラの横に坐って、僧形の私にむかって合掌していたのだった。
Dec 22, 2005
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午後、仕事絡みの打ち合わせ後、ある営業マンと1時間ほどコーヒーを飲みながら気楽なおしゃべりをした。私の画業の背景にあるもの、----つまり世の中や人間を見る「視点」と言ってもいいし、あるいは大きく世界観と言ってもよい、もっと平たくさまざまな事柄に対する旺盛な好奇心をどのように統合しているのかということに関心があるらしかった。 こういうことを一言で話すのは難しい。 けれども私の考えには、どのような人にも説明できなければ、じつは自分自身がその問題(主題)をほんとうに理解していないのだという思いがある。また他人と話をしているうちに、論理の矛盾に気がつき、またはその論理の正当性を確信することができる。それは自他の確認の作業でもある。古代ギリシャ哲学における対話の重視は、まさにその点にかかっていたはずだ。 自他をはっきり弁別し、異質なる互いの存在を容認する。先日私はこの日記に「リアリズム」について少しばかり触れた。私の考えでは、リアリズムとはまさに自他をはっきり弁別して異質なる互いの存在を容認すること、それに尽きるのである。 このことはしかし決して容易なことではない。誰しもが自己愛(ナルシシズム)をもっていて、もちろんこれがなくては生物的生命を維持できないのであるが、じつにやっかいなもの、認識をくもらせてしまう大本でもある。人間の場合認識はひとえに思考や心の問題ではなく、身体的なことでもあるので、簡単に言うなら「頭でわかっていても、身体がだめ」ということは日常的である。幻想がうまれるのはそこである。しかしまた幻想も一つの認識であり、さらに意識のあたらしい扉をひらく鍵ともなる。まったく人間とはやっかいな生き物だ。 文化論的視点からおおざっぱなことを言えば、西欧キリスト教文化圏においてはカトリックがナルシズムのいわば捌け口を吸収してきた。日本の場合はさしずめ右翼であろう。成熟と未成熟。老獪と幼稚。知性と無知。清浄と汚濁。博愛と排他(暴力)----そうした対立的でありながら一体となっているものを全面的に引き受けてきた、と私は考えている。 さて、私の画業の背景にある視点である。 世界を構成するユニットの単体として自己を認識することと、自己が世界を内包している存在であると認識することは、リグヴェーダが語るプラジャパティの宇宙創造のように、孵化を孵化するという意味で哲学的になんら矛盾するものではない。私性と普遍性とのインタラクティヴな関係、----私が関心をもっているのはそのことである。 それでは私はその関心をどのような世界観と結びつけているのか。「天網恢恢疎にして漏らさず(てんもう かいかい そにして もらさず)」というのは老子の言葉だ。本来の意味は倫理的なもので、「天にひろがる網は、非常に目が粗いけれども、どんな悪事をも見のがすようなことはない」というような解釈がされている。古めかしい倫理観といってしまえばそれまで。しかし私はこれを本来の意味から解放して、宇宙論・存在論・文明論としてとらえ直すならば、人間中心主義(Human-centralism)から脱却した生態学的倫理観を反映する新しい世界共生の哲学が見えてくるのではないかと考える。いわば、ゆるゆるとして緊密な関係ということ。 この成句が大変形像的(imagerily)なので、画家としての私の創造力を刺激するのである。 と、こんなことを考えながら、営業マン氏とコーヒーを飲みながら午後のひとときを過したのだった。
Dec 20, 2005
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この冬一番の寒波だそうだ。東京も氷点下を記録したとのこと。しかし昼過ぎの日射しはまぶしく、青空に雲のかたちがくっきりと浮かんでいた。 そんな日射しをあびながら、『悪夢百一夜』のカバーの再校刷りがでたというので出張校正に向った。刊行日程も押し詰まっているので、私が出かけたほうが早い。 先日、2種類の用紙を指定したが、どちらも良い刷り上がりだ。違いは素人目にはわからないだろう。 そのなかからMという紙を選択した。PP加工したときの万分の一の色調の澄み具合による。用紙を決定したうえで、さらに部分的な色補正を指示。やりすぎると危険なのだが、私と現場技術者との感覚をどこまで擦り寄せることができるか、ここまでくると一種の賭だ。 校正用語というのは、文章校正の場合はまだしも、色校正に関しては感覚的な領域だけに未成熟なのだ。昔と違い現在は、デザイナーと現場技術者とのやりとりはコンピューターのデータによっているので、それほど感覚を問題にしなくてもよくなった。しかしもう一段踏み込んだ表現を望めば、ことはディジタルからアナログ的感覚になってゆく。その感覚をどのようにディジタル処理するか。現場の技術者が鋭敏な感性をそなえているにこしたことはない。3校に期待。 扉の初校刷りも出た。黒い紙に金刷り。こちらは校了とする。 帯もできあがった。故大岡昇平氏と椎名誠氏の推薦の辞を載せた。その他の付き物もできた。来週には見本の本ができあがる。 年賀状に使う絵葉書1000枚が、22日にできあがると連絡があった。今年は父が亡くなったので本来なら喪中なのだが、父は生前この私の絵葉書を楽しみにしていたので、あえて作った。棺のなかにも過去につくったすべての絵葉書を入れてやった。今年の絵は父の死後にできあがったので、原画を見せることはできなかった。父が最後に見た作品は6号正方形のちょっとエロティックなもので、病床で「ホウー」とか「フーム」とか言いながら眺めていた。
Dec 19, 2005
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家人が就寝してしまった夜中に私はキッチンに入った。先日ちゃれさんがおしえて下さった林檎のコンポートを作ろうというわけ。おしえてもらってすぐに作ったのがとてもおいしかった。作り方もいたって簡単。それで明日は土曜日なので、こっそり作ってタッパーにいれておき、おやつにジャーンと出してやろうと考えたのだ。たくさん作っちゃえ!とばかり、大きめの鍋を用意して、手順どおりに作業をすすめた。ガスを点火。そして---- そしてです。私は仕事場に入った。しばらくすると甘い良いかおりが漂ってきた。おいしそうなコンポートが目の前にうかんでくる。どの皿に盛りつけようかな。あれでもなし、これでもなし。想像をふくらませながら、仕事の手をうごかしていた。 と、どのくらい経っただろう。甘いかおりが一段とつよくなって、キャラメルのにおいがまじっている。何だろう?「何だろう?」というのもヘンだが、じつは仕事に熱中するあまりコンポートを作っていることもすっかり忘れてしまっていたのだ。「ワオー、ワオワオ、ワオー」 私は奇声を発しながらキッチンへ駆け込んだ。煙が充満している。ガスを止め、窓を明け、鍋の蓋をとった。大量に作ったので上のほうは大丈夫だが、下の林檎はみごとに焦げていた。「やっちゃった、やっちゃった!」 夜中にひとりでキッチンで奇声をあげているので、目をさました家人がやってきた。キッチンをのぞきこんで、無言で去っていった。オオ、この無言! まあ仕方がない、明日は「林檎のコンポートこげ味」を上等な皿に盛りつけて無理矢理食べさせよう。
Dec 16, 2005
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午後1時間ほどテレビで映画を観た。非常にめずらしい作品で『松之助の忠臣蔵』という。制作年代はあまりはっきりしていなくて、1910~17年頃、すなわち明治43年から大正6年の間に制作されたらしい。私が所持している日本映画史に関する資料にはそれらしい記述がみつからない。 この作品の1910年という推定年は、この年、日本に初めて映画の撮影所らしきものができたからだ。京都の横田商会の横田永之助が建てた。建てたといっても、二条城の西南櫓下と呼ばれている広場に板敷舞台をつくり、書割りの背景を建てて野天の自然光線で撮影したのだという。 横田永之助は活動写真業者としては日本の草分けの人物で、日露戦争を実写した活動写真を持って全国を巡業して財を成した。映画研究家の故田中純一郎氏によれば、横田はこの財力を駆使して、当時、京都西陣の劇場主だった牧野省三に映画製作を請け負わせた。牧野は岡山地方のいわゆるドサ回りの役者尾上松之助を専属俳優として、1本の上映時間が2,30分のチャンバラ活動写真をたてつづけに製作した。尾上松之助はたちまち日本で最初の映画スターになった。「目玉の松っちゃん」という愛称は、小柄でギョロリとした目を剥いて見得をきるからだった。 『松之助の忠臣蔵』は、そのタイトルがいうとおり「目玉の松っちゃん」こと尾上松之助の主演作品である。忠臣蔵映画は現在まで数知れず制作されているが、本作品が最も古いものらしい。 おもしろいのはまず浪曲師が紹介される。浪曲の語りにのせて映画が進行するのである。この方法は初期活動写真の常法だったらしく、私はほかの作品でも見ている。さらにおもしろいのが出演者の紹介だ。いわゆるタイトル・ロール。なんと「尾上松之助とその一党」とあった。 先に述べたように、板敷舞台に書割りを建てたセットだから、大名たちの御詰之間も松之廊下も同じもの。野天で撮影しているので、邸内の床の間の掛け物が風でめくれたりする。歌舞伎を田舎芝居風にしてそのまま撮影したような具合で、映画的な演出らしきことは影が薄い。演技も、「芸」というにはほど遠い。歌舞伎の「型」を模倣しているにしても、役の「性根」などは微塵も無い。もちろん私は映画初期の作品を現代の視点で批評するつもりはまったくない。いま書いていることは、画面に映っている事実を述べているのだ。 それでも、後の時代劇と見比べて私が感心したのは、匠之守刃傷を赤穂へ報せる早飛脚たちの風俗である。それはじつにリアルだ。私たちが幕末の写真として知っている資料から抜け出したようだ。つまりその風俗は、この映画が撮影された時代からさほど遠くない時代の庶民生活として、わざわざ考証する必要がないほどまだ身近なものだったにちがいない。 このシーンはロケーション撮影されている。ロケーション撮影されたシーンは他にもあるが、早飛脚があまりにもリアルなので映画全体のなかでやや異質な感じがする。 さて、ここで私は考えこんでしまう。 私たちは日頃リアリズムということを口にするけれども、映画や舞台芸術をふくめ総じて美術作品においてリアリズムを見据え、それを定着することは、じつは大変難しいことなのではないか。 『松之助の忠臣蔵』のなかの早飛脚のシークエンスはきわめてリアルであったが、この映画の製作者たちはそれに気がついていないのだ。道の真中で大見得をきったり、討ち入りの山鹿流の陣太鼓の音を吉良邸内の廊下で指折りかぞえて「おっ!あれは!」などという用心棒のかたわらに、すでに赤穂浪士が立っている。そういうばかばかしさをものともせず押し通す。結局は様式にとらわれているのであって、意識はそこを抜け出すことができないのであろう。それはたとえばバスター・キートンの様式に対する意識とも別なような気が私はする。 以前私はこのブログの日記で、パリで展覧会を開催したときに観客にとりかこまれてちょっとしたレクチャーをしたことを書いた。そのきっかけというのが、美術大学の学生がたまたま会場に立ち寄った私をつかまえて、「なぜ日本人のイラストレーターの描く作品は、どれもこれも幻想的なのか?」と聞いてきたことにある。この質問を誰かほかの日本人イラストレーターが聞いていたなら、あるいは「何を言っているんだ!?」と面喰らったかもしれない。というのは、そこに展示してあったのは、日本ではリアリズムと称される作品であったからだ。特にフランス側の主催者が制作したポスターに使用されていたのは、当時日本では克明な写実描写で人気がたかかった某氏の作品で、白足袋をはいた男の片足が大きく描かれ、むき出しの臑に血が流れていた。 1970年代の後半から1980年代前半にかけて、日本のイラストレーションや絵画は、アメリカで流行した「スーパー・リアリズム」もしくは「フォト・リアリズム」と称す画法に影響された。アメリカではいわば物質文明の行き詰まりや息苦しさを感じた芸術家がアンチテーゼもしくは一種のパラドックスとして、とことん「物」に執着してそのそらぞらしい外見を描出してみせたのである。日本ではそうした思想や哲学的側面はともかく、特に商業美術としてのイラストレーションは流行の先端を敏感に先取りする分野だけに、明けても暮れてもスーパー・リアリズムという具合だった。しかもイラストレーションに関して言えば、日本のグラフィック・デザインが世界のリダーシップをとるまでに重要視されたのに併せて、日本発のスーパー・リアリズムが世界へ出ていっていたのであった。パリで開催された私たちの展覧会の背景にもそうした事情があったのだ。 そんな状況下での先の美術大学生の質問であった。 この質問は、そのころすでに幻想画家と言われ始めていた私にとっても、少なからぬ衝撃であった。つまり日本人がリアリズム絵画と思っているものと、フランス人がリアリズムと考えるものの実体に相違があるということだ。日本人のリアリズムをフランス人は幻想的と指摘しているのだ。 私は、これは何としても答えなければならないと思った。画廊の職員が私に椅子を持ってきた。30人ほどの観客が人垣をつくり、およそ90分におよぶレクチャーが始まった。その詳細をここに述べる余裕はないし、25年も前のことだから記憶も薄れている。しかし、このできごとがそれ以後も私の思考に大きな影響をおよぼした。 まず私の考えのなかに、「日本文化史においてヨーロッパ的なリアリズムがあるかないかを検証しなければなるまい。もしかしたら日本文化史はリアリズムを通過していないかもしれない」という命題というか、疑念がうまれた。たとえば日本にレオナルド・ダ・ヴィンチのリアリズムに匹敵するものはあるか? アルブレヒト・デュラーのスケッチに匹敵するものはあるか?等々。 この検証はまだ終わっていない。 『松之助の忠臣蔵』を観て、またぞろその問題を思い出したのである。
Dec 15, 2005
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『悪夢百一夜』の発刊は26日の予定だが、書店に並ぶのは諸般の事情で年明けにするとの連絡があった。 カバーの色校刷りがあがってきた。用紙に問題ありか。想定していたよりインクの吸収率がおおきい。発色が沈みすぎの感あり。特殊紙なので使用量をすべて購入済みとなれば、ちょいと処理が面倒になる。さっそく現場に電話連絡。 紙は購入済みとのこと。----ウ~ン!(冷静にならなければ----と内心の声)「しかしですね」と電話の向こうから担当者が言う。「交換に応じると言っています」「そうですか、それは良かった。私の勘違いで、今の紙はインクを吸い過ぎることが分りました。アート紙系かコート紙系に変えます。すみませんが△△△と□□□と2種類の色校をとってください」 じつは私が最初に指定した紙には「雲母(きら)引き」という種類が別にあって、文字どおり表面に雲母がコーティングされている。つまりインクの吸収がすくなく、なおかつ仕上りに華麗な光沢をつけるのである。しかし高価である。このたびの装幀はA5版で厚さが7cmもある本で、造本を堅牢にするため糸綴じという製本方法を採用した。また本体の背表紙に金箔押しを用いたりしたため、コスト的にカバーに「雲母引き紙」を使うことができなくなったという事情があった。「アート系もしくはコート系の紙を使って艶をだしましょう。PPは----」「薄いPPをかけさせていただきます」「そうしてください。紙のキロ数はあらためて指定しませんが----」「承知しています。いいもの作りますから」「ありがとうございます。それでは2種の色校があがるのを待っています。よろしく」 PPというのはポリプロピレンの極薄いフィルムを印刷面に熱圧着する加工のことである。表紙というものは輸送や店頭の取扱いで損傷が思いのほかはげしい。それを幾分でも軽減するためにする加工である。フィルムの厚さに種類があり、厚くすると丈夫になるが、反面、印刷の色味に黄味がかってくる。またしっとりした手触りや渋さを出すとなれば、選択した紙の風合いを活かしたほうがよく、PP加工しない場合もある。商品としての書籍をどのように扱ってゆくかという、出版社と装幀家の判断が重要になってくるところだ。つまり損傷してもよしとすることは、カバーの場合は、発行部数の50%増しくらいで予備の作り置きをしておかなければならないということになる。 ----そんなわけで、今日はいささか冷や汗ものだった。 今日あがってきたカバーをこのブログに掲載するのは見合わせます。まあ、新旧の違いをお見せしてもいいのですが、私としてもそこまで捌けた気持にはなれません。なにしろ依頼主の出版社の問題もありますし。
Dec 14, 2005
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会津若松の清水先生からひさしぶりのお電話を頂戴した。過日、市の文化功労賞を受賞され、つぎつぎ催される祝賀会が昨日でようやく一段落したとのこと。御病気をかかえておられるので心配だが、お声はいたってお元気そうだった。このブログで御紹介しましたよと申し上げると、照れていらした。 やはり同市におすまいのEさんからもメールを頂戴した。去る土曜日に猛吹雪にみまわれ氷点下5度まで下がったのだという。初冬とはいえまだそのような厳寒を予想していなかったので、寒さが一層身に滲みた様子が書かれていた。 今年のはじめにEさんが鶴が城(会津若松城)の雪景色を写真に撮って送ってくださった。それは濠端から西出丸をのぞむものだったが、私が13歳から15歳まで住んでいた所のごく近くだった。写真の西出丸石垣の角に写っている雪をかぶった老松が、昔のままの姿をとどめていた。比較的若い松はどんどん姿を変えて成長するが、その老松はもう成長を止めて45年間ずっとそこに立ちつづけてきたのだ。実際、夏に同市を訪れて私の知っていた街ではなくなっていたので、その老松が昔のままの姿であったことは感慨深かった。 濠の手前の私が住んでいた街区は、その昔、会津藩士の子弟が学ぶ日新館という藩校があったところである。白虎隊の少年達もここで学んでいた。彼らが水泳の訓練を受けた水練場の跡が一部、私がいたころは某氏宅の広大な池として残っていた。私はその池のそばに住んでいたのだ。窓から釣り糸をたらして大きな鯉を釣り上げて、某氏の大目玉を喰らったことがある。あるいは築山の松の陰にかくれて手製ロケットを池をめがけて飛ばして遊んだ。また、池の浅瀬から三つに割れた江戸時代の古銭をひろったこともある。 この8月にEさんと連れ立ってその場所に行ってみた。水練場の跡は埋め立てられてアパートが建っていた。そこが藩校日新館の水練場の名残りだとは知らなかったかもしれない。会津若松で生まれ育ったEさんさへ御存知なかったのだから。13歳の私は、初めて住む城下町に興味をもって、当時、いろいろ調べたのだった。友人の父が所蔵する城下の古地図をひそかに持出してもらい、こっそり原寸大に書き写しもした。それは現在でも私の資料保存箱のなかにあるはずだ。 私が知っている会津の冬は厳しい。17歳のときの私の詩にこんなのがある。 漂泊 淋しい心で 魂魄となり 午前零時の 窓を出れば そとは雪颪 街は瞑目し 死相表われ 大地氷結し 遠々に哭く 仏神よ聞け 地球が哭いているのだぞ 環境の一切が凛冽として せつない感動をよぶから 俺は泣きながら焦がれて 死んだ街から街を漂おう 帰る当なく蹌踉とすれば 宇宙の瞳の慈愛も凍てる 仏神よ地球を去るがいい 淋しい心で 魂魄となり ほとほとと ほとほとと 尸柩を尋ね 大路を駆け 小路に蹲る 闇だまりに 雪霏霏たり ついに悔恨の裸体を焚く 東京も今夜は冷え込む。 夜9時、郵便局に深夜の配達をお願いした。配達員が顔見知りだったので、ねぎらいの声をかけると、「今夜は一段と冷えます。バイクに乗っていると、顔が痛くなります。これを着ていてもだめですね」とパーカーの胸をたたいた。 「悪かったですね、こんな遅くに配達を頼んで。仕事の急ぎだったもので」 「いえいえ、いつでも電話ください。出すものがあれば、とりに伺いますから」 そんな寒い夜の夕食は「フグちり」。福岡産だから「フクちり」と言ったほうがよかろう。もちろん専門家に捌いてもらってあるものを使用。昆布出しを煮立て、春菊、白菜、葱、大根、豆腐をいれ、フグを入れる。薬味はピリリと辛味をきかせて、モミジおろし。ふうふう湯気を立てながら食べた。
Dec 13, 2005
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花輪莞爾夫妻から熱海に招待された。いまの私にはそのスケジュールを入れる余裕がない。奥さんが電話口で、2日くらい一緒にすごしてお話したいのに、とおっしゃってくださる。そうしたいのは山々、しかし折角だが、おことわりした。 仕事のスピードをあげなければ----。
Dec 12, 2005
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一段落した仕事もあるので、少し整理しようと取りかかったが、思いのほか大仕事になってしまった。いくつかの仕事を平行してやっているから、それぞれの資料や材料や道具類がゴチャゴチャ山のようになって目も当てられない。私の仕事場は「美」などとはほど遠い感じだ。我ながらあきれてしまう。これで何がどこにあるかが分るのだから、これにもまた我ながら感心する。そんなわけで、仕事場に家人がはいることは厳禁だ。自由気侭に出入りするのは猫たちだけである。 私は単行本の装幀装画でも雑誌の挿画でも、仕事に取りかかる前にかならず本文原稿を精読する。初校用のゲラ刷りをとどけてもらうのだが、ゲラというのは両面印刷ではないので、単行本1册となるとかなりの分量になる。このゲラは書店に本が並ぶまで捨てることはしない。捨てるときがくると、それなりの注意をはらって処理をする。仕事を請け負った者の暗黙の信義の問題だと私は考えるからである。だから、まだ捨てどきにないゲラや、処分を忘れていたゲラがどうしても溜ってしまう。 一日中そんなことをしていたのでもないが、あんまりひどくて作業がはかどらない。残りは明日だ。 残りは明日と書いて、気持のなかに何となくわだかまりがある。20年以上前に亡くなった祖母の言葉を思い出すのだ。 私が小学校5年生のときだった。伯父の寺をたずねたときのこと。夕方、祖母とふたりで廊下づたいに本堂に行った。脇陣の正面に親鸞上人と蓮如上人の画幅がかけてある。祖母と私は本堂のあちこちを見てまわってから、その画幅の前に来た。すると祖母が上人たちの話をしてくれ、そのときこんな歌をくちずさんだ。 「明日ありと思うこころのあだ桜 夜半に嵐の吹かんものかは」 そしてつづけてこう言った。「明日があるからまあいいと、勉強でも仕事でもやり残してしまうと、その夜のうちに何か一大事がおこってしまうかもしれない。今日できることは今日やってしまうと、何が起っても安心しておれる。何かが起ってしまってから、ああ、きのうあれを勉強しておけばよかったと思っても、間にあわない。この歌はそういうことを言っておるのですよ」 私はその歌をくちずさんでみた。 「そう、そう。よく覚えた、よく覚えた。忘れなさんな」 以来、私のこころのなかで、そのときの祖母の話はいきつづけてきた。もっとも確実に実行したかというと、おばあちゃん御免なさいなのだが。そしてきょうも、片付けにうんざりして、あしたに延ばそうとしている。
Dec 11, 2005
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さきほど夜9時過ぎ、サンダルをつっかけて郵便物を投函しに外に出た。家からほんの100mほどの距離。ふと空をあおぐと上弦の月である。雲ひとつない漆黒の空に、オレンジ色の月が輝いていた。真円を半分にスッパリ斬ったようだ。弦が張りつめている。 きょうは8日。上弦の月は太陰暦の7日か8日だから、おそらく太陽暦とたまたま一致したのであろう。「上(かみ)の弓張月か----」 私はひとりごちた。 記憶のなかから横尾忠則氏が製作した三島由紀夫の戯曲『椿説弓張月』のためのポスターが蘇ってくる。国立劇場で初演されたときのものだ。翌年三島は自死しているので、この初演は1969年ということになる。 私は小田急線の成城駅のプラットホームにたたずんでいた。そのとき私は悲劇的な事故死をした知人の子供の通夜にむかうところだった。いささか茫然として電車を待っている目に、その『椿説弓張月』のポスターが映っていた。 ----おかしなものだ、そんな時にたまたま目にしたものが、36年後の今夜、上弦の月を見たことによって鮮やかに眼前に浮かんできた。私はプラットホームに立っているかのように、ズボンの裾に次第に冷え込む夜気を感じながら、弓張月を見やっていた。
Dec 8, 2005
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札幌にお住まいのTさんから蟹を頂戴した。そこで夕食に予定していたメニューを急遽変更、蟹三昧となった。 伊万里の大皿を出して盛り付けると、それだけで食卓が華やぐ。友人を招いてミニ・パーティーといきたいところだが、あまりにも急なことなので無理を言っては気の毒だ。結局、家族だけで大盛り上がりの夕食となった。いや旨いのなんのって、こころの中は大盛り上がりなのだが、皆無口。プリプリしたほの白い肉を口にはこんで、おのずと笑みをこぼしている。 Tさんありがとうございました。本当においしかったです。 こんな至福をあじわった後は、何にもせずにノホホンとしていたいが、そうもゆかない。仕事場にひっこんで、机に向う。返事を書かなければならない手紙もたまっている。1年がアッという間だ。私は年をとっている暇がない。
Dec 7, 2005
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午後3時半、新橋のスタジオ。昨日撮影した作品のポジ・フィルムを受取る。ふたつのヴァリエーションを作ってくれている。こういう気のまわしかたが嬉しい。ありがとう。 帰りにしばらくぶりに銀座まで足をのばす。クリスマスのウィンドー・ディスプレーを楽しみながら伊東屋に行く。 イタリヤのタッソティの美しい装幀のブランクブック(いわゆる何も書いていないスケッチブックのような白い本)を買う。A5判ハードカバー。これを買ったのは訳がある。昨夜、limeさんのブログを拝見したところ、御自分の顔が好きだと書いておられた。自分の生き方が気に入っているので顔も気に入っている、と。私はとても面白く感じた。とくに女性の自己表明として、様々なことを思いめぐらしつつ心に深くうけとめた。女性は男性より鏡のなかの自己とむきあう回数が多いだろう。いわゆる素顔のほかに化粧した顔というものを持っている。化粧が女性にとって精神的な健康療法になっていると聞いたことがある。また、某有名化粧品メーカーの研究所の方が、「女性に対して、あなたは醜いと言いつづけるのが私の仕事です」と私に告白したことがある。鏡のなかの女の顔とはその女性自身にとって如何なるものなのか、これは私にとって興味あることだ。近頃は、美容整形と称して、ファッションのように自分の顔をかえる人が少なくないらしい。女性ばかりでなく男性にもそういう傾向があるのだと聞く。そういう風潮のなかで、limeさんは自分の生き方と顔をむすびつけて、はればれと自己確信を表明している。私はそこに感じ入るものを発見するのである。 一方、私は画家としては、長い間、私個人の問題を絵の主題にすることにはまったく関心がなかった。私の関心はもっぱら自己を超越したところに向っていた。ムンクについて論文を書いているが、私とはまったく異質な画家を標本観察のように考察したのだ。ムンクは自己愛者で、終生、自分自身にしか興味がなかった画家である。私はといえば、日常生活のなかで鏡を見ることもあまりしない。仕事場にとじこもっていることが多いので、不精髭を伸し放題。頭髪もストレート・ヘアなので、鏡を見なくても櫛を入れることができるのだ。ヘアスタイルにも関心がない。 ----ところがである。7年くらい前に、突然作品のなかに自画像を描きたくなった。自分でびっくりした。この衝動は何だ、と思った。それを探るために『自画像日記』の制作を始めた。制作というほどおおげさなものではなく、たんなる素描である。まあ、これを描いたから何かが解明されたのでもないが、とにかく長い期間にわたってほぼ毎日、鏡のなかの自分の顔をみつづけたわけである。 『自画像日記』から7年が経ってしまった。昨日limeさんのブログを拝見して、もう一度あらたな『自画像日記』を制作してみようかなと思ったのだった。しかしこれは意外にシンドイことなのだ。いまこのモチヴェーションを維持するために、以前からほしかったタッソティのブランクブックを買うことにしたのである。何か特別な環境をつくればそれに引き摺られてモチヴェーションがたかまり、いったん手をつければドンドンやってしまうだろう。これは私の自己操縦術である。 伊東屋を出てから教文館(書店)に行く。釈迦楽さんが教えてくださった『アンダスン短編集』を買うため。が、あいにく無かった。現行本として探すのは無理かもしれない。 映画のDVDを購入。1925年のルバート・ジュリアン監督『オペラの怪人』と、ヒッチコックが独立プロデュサーとして製作・監督した1945年の『山羊座の下に』。 『オペラの怪人』はサイレント映画の傑作として知られている。名優ロンチャニーが主演している。私がカバー絵を担当した文春文庫『ミステリー、サスペンス洋画ベスト150』の背に、このロン・チャニーの怪人を描いている。しかし、じつは私はこの映画をまだ見たことがなかった。1925年のサイレント映画なので見たいと思って簡単に機会がめぐってくるわけでもない。今日はじめてDVD化されているのを見つけたのだ。 『山羊座の下に』は日本未公開作品。この映画、ヒッチコックが失敗作と自認しているものだ。名作『レベッカ』の焼き直しといったような作品らしい。見るのが楽しみだ。 DVDを買ったはいいが、時間がないのでまだ見ていないものが随分たまってしまった。弟がその山をみて、「全部見るのにザッと200時間かかるな」と言った。
Dec 6, 2005
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午後2時に渡す約束のデザイン3点をかかえて午前11時半に家を出た。ほかにもスケジュールがあるので、私の都合で四谷で会うことにしていたのだ。 この季節になって初めてコートを着た。元来暑がりの私は、まだコートはなくてもよいのだ。しかしそれにしても、あまり薄着で歩き回ることもできない。昨日の雨はカラリと晴れて、しばらくすると汗ばんできた。雨無しの日が長くつづいていた。空気にすこし湿りができた。落ち葉の下に雨溜りがあり、濡れた枯葉の匂いをたちのぼらせている。 四谷駅の前で待ち合わせていたので、そこから新宿通りを渡って近くの喫茶店に入る。 MOに入れたデータと指示書を渡し、アイデアを練るときに作った1/6大のダミーも渡す。 このダミーは最終案とは少し違うのだが、基本線はまったく同じなので、こういう物を見せたほうが完成品を正確に把握してもらいやすい。意見の異なる人々が関わっている場合は余計な詮索をされずにすむし、現場の職人さんの理解が早くなり、時間の無駄が出ないのである。 デザインの仕事はほとんどが何にもないところにイメージを立ち上げるものなので、説得力がないと混乱が出来(しゅったい)するのだ。四の五の言わせない。相手の要求を如何に論理的にイメージとして昇華しているかを、言葉よりはやく現物で納得させてしまう。そのために私は、時に、仕事のやりかたの手の内をあかすようなダミーを提示することがあるのだ。 アイデアのスケッチをたくさん提示する人があるけれども、人それぞれにしても、このやりかたはあまり説得的ではない。こっちの迷いが相手にも伝染して、何しろ金がからんでいるから、迷いに迷い出すのだ。あげくの果て、提示したアイデアのなかから選ぶことができず、別なアイデアを要求されることになる。もうそうなるとアイデアの良し悪しではない。 さて、以前の仕事のゲラがあがってきていた。喫茶店のテーブルで校正をすませてしまう。 出版事業に進出したいのだがと、意見をもとめられた。1時間ばかりその話をしたが、内容についてはここに書くわけにはゆかないので悪しからず。 帰りがけに歩きながら「何か趣味はおありですか?」と聞かれたので「ありません」と応えた。「たとえばゴルフとか----」「やりません」「釣りは?」「やりません。趣味がないんです」「----どうやって、あんなイメージが出てくるんですか?」「さあー、こまったなァ、どうしてでしょう。自分にもわかりません」 へんな会話をして別れ、わたしは次に新橋の写真スタジオに向った。作品の撮影を依頼するためである。これは年賀状として毎年お送りしている絵葉書用の撮影。 ことしで12年目になるが、私はその年に制作した作品のなかから選んで、本格的なオフセット美術印刷で絵葉書をつくって年賀状にしている。結構楽しみにしていてくださる方もいて、つくる私も気を入れてきた。ところが今年はまだ何の準備もしていなかった。忘れていたのだ。先日、釈迦楽さんのブログを拝見したら、年賀状についてお書きになっていたので、いささかあわててしまった。入稿してから製品が届くまで10日は見なければならないので、逆算するとギリギリの日数だ。そこで急遽、本日スタジオ入りということになった。明日の夕方までに仕上げてくれるという。大助かり。 帰りに「三松寿司」に寄って、夕方に30食限定販売の特選ちらし寿司の折詰を家人への土産に買う。ほどよい酢加減の飯のうえに鮭のそぼろを敷き、その上に錦糸玉子、さらにその上を区分けして蟹、イクラ、ウニ、シシャモの卵と玉子焼きが盛られている。夕食はこれにお吸い物と白菜の漬け物にしてもらおう。お吸い物は豆腐と椎茸と三つ葉がいいな。 想定どおりの夕食をすませ、ちょっとテレビを見ていたら、どうやら居眠りしていたようだ。なんだかヤケに眠いでおじゃる~。明日もまた外出。画家走る月だ。
Dec 5, 2005
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きょうは一日中仕事場にとじこもりきり。月曜午後2時渡しのデザインを3本作らなければならない。当日はかけもち2件のスケジュール。 そんなわけで身辺波風なし。 昨日林檎を送ってくださったEさんに、昔の私の顔を思い出していただくために、その頃の写真を掲載します。高校3年生。Eさん、あの頃の私ですよ。思い出しましたか?
Dec 2, 2005
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昔なじみのEさんから大きな箱にはいった林檎が送られてきた。 数カ月前に、「秋になったら林檎を送ります。おいしい林檎なので、受取りを断らないほうがいいですよ」とメールがとどいた。そのザックバランな申し出に感謝して、「ありがたく頂戴します。たのしみに待っています」と返事した。 さっそく箱を開けると、甘い芳香があたりに漂った。見事な林檎である。 我家では母が高血圧症のため減塩食とあわせて、体内の塩分(ナトリウム)を排出するためにカリウムを含有する食品として、林檎が欠かせない果実となっている。ほかにも味覚を敏感にするため、マグネシウムを含む食品もあわせているが、林檎は調理してもいいし無論そのまま手軽に食べられるのでとても重宝している。 いまの季節だと新鮮な白菜を小口からできるだけ薄く千切りにし、銀杏切りにした林檎と合わせ、オリーブオイルとワインビネガーと胡椒、ほんのわずかな塩をくわえただけのドレッシング・ソースでサラダをつくる。じつに簡単だが、おいしいサラダだ。白と薄緑色と林檎の皮の赤で、見た目にもさわやかで美しい。オリーブオイルはよく撹拌して乳化させるのがポイント。 ところで現在制作中の新作に、林檎を登場させようと思案していたところだ。仕事場の窓辺に林檎がひとつ置いてある。ときどき手にとって、鏡に映して林檎と手のポーズを見ている。今日Eさんが送ってくれた林檎も窓辺に置いてみよう。別なアイデアと構図が見つかるかも知れない。 Eさん、ありがとうございました。仕事が一段落したら連絡します。
Dec 1, 2005
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