全27件 (27件中 1-27件目)
1
去る9月27日、猫のミケが家出した。以来2ヵ月の間、帰りを待っていたがおそらく何処かで行き倒れになてしまったであろう。家族のものは、この思いがけない出来事をそれぞれ胸の内にたたみこんで、だれひとり口にださないできた。私もまたこの日記にさえ書かずにいた。しかし今日にいたって、もはや帰ることはあるまいと、諦めができた。それで家出前後のことを書いてみようという気持になった。 あれは9月21日の夜のことだったと思う。夕食のテーブルの周囲に猫たちもあつまって、それぞれに食事をすませた。猫の習性かもしれない、食べおわると一旦腹ごなしの運動をしに庭に遊びにでてゆくのである。二階への階段をかけあがり、ベランダへ行くものもいる。おのおの好きな遊びをするのである。 ミケも庭へでていった。ところがその夜、ミケは帰ってこなかった。家人たちは誰も心配しなかった。遊びに夢中になっていることは日常的なことだったからだ。しかしそれが翌日も、まる1日姿をみかけなかった。私のこころにすこし不審がきざした。 姿をみかけなくなって1日半たった早朝、まだ寝床のなかにいた私の眠りのなかにかすかに、そしてとぎれとぎれに猫の鳴き声が聞こえてきた。ミケが鳴いているなァ、と思った瞬間、目がさめた。私は寝床のなかで耳を澄ませた。しかし何の物音もしなかった。それでもしばらく聞き耳をたてていた。すると、今度ははっきりとミケの鳴き声がしたのだ。それもすこし異常な声だった。私は飛び起きて身繕いをした。と、階下のガラス戸が開く音がして、同時に母が私を呼んだ。 「ちょっと来てちょうだい。お隣の垣の向こうにミケがいるんだけど、なんだか様子がおかしいのよ」 私はサンダルをつっかけて外にでてみた。少し高くなった隣家の裏の垣のかげに、こちらに背をむけてミケがうずくまっている。私はそっと近づき垣の隙間にすばやく両手をさしいれてミケを捕えた。おびえたような異常な声で鳴いた。抱きかかえたまま、「家の戸を全部閉めて鍵をかけて!」と私は家人に言った。猫たちは引き戸であろうとドアであろうと、自分で開けて出入りをする。おびえたミケがまた外に飛び出さないようにあらかじめ準備させたのである。 ミケは、わずか1日半の外出にしては衰えがはげしかった。食事を与えると貪るように食べた。しかし固形物を咀嚼するのが困難のようだった。私は解き卵をつくり飲ませた。それから私の寝室に運び、寝床をつくって寝かせた。しかしすぐに飛び出し、狭いところにもぐりこみ躯をかくそうとする。私はその狭い空間に敷物をいれてやり、そのまま長い時間頭をなでていた。そのうちに緊張がほぐれたのか、喉を鳴らし眠った。 ほぼ半日そんな状態で眠りつづけ、それから小便をもようしたらしく立ち上がろうとしたが、衰弱のため思うように躯が動かせず、その場でしてしまった。 「いいよ、いいよ。敷物を取り替えればいいんだから。心配しなくていいよ」 猫は粗相をするとすまなそうな、恥ずかしそうな表情をするものだ。私は抱き上げて、さきに作った寝床にミケを移した。ミケはそのままそこに横たわった。 そうして少しづつ体力が回復し、26日には、階下におろしてやるとあちらこちら探検していた。居間を一巡し、キッチンをよたよたと歩きまわったりしてから座布団に坐った。しかし階段を自分で昇り降りはまだ困難なようだった。 その夜、ミケは突然異常な行動をした。寝床に横たわっている頭をいつものように撫でようとしたときだった。ミケは私にむかって「フー」と、怒りをあらわに吠えたのだ。はじめてのことだった。 「どうしたの、ミケ。何を怒っているの。可愛い可愛いミケだよ」 1日半、帰宅しない間に、ミケの身に何が起っていたのだろう。私はじっとミケを見つめた。それから再び頭を撫でるために手をのばした。こんどはそのまま撫でらせていた。あまつさえ喉を鳴らし始めた。 翌27日。昼過ぎミケを抱きかかえて階下につれていった。今朝は食事をいやがって食べていなかった。ミルクを与えたがそれも飲まない。しかし目には光が戻ってきている。しばらく居間を歩き回っていたが、他の猫たちが庭にでてゆくのを見て、自分も出てゆきたくなったのかガラス戸を引っ掻いた。鍵をかけてあるので、いつものように自分で開けることができなかったのだ。家人たちが同時に顔を見合わせた。「どうしようか? 庭にだしてやる?」と言うように。 私は立ち上がり、ガラス戸の鍵をはずし開けてやった。ミケは濡れ縁にうずくまって様子を見ていた。それから庭にとびおりた。玄関前のアプローチから門扉の傍にゆっくり歩いて行った。 10分ほどして覗いてみると、ミケはまだ門扉のそばにいた。門扉は1mほどの高さのブロック塀につづいていて、普段なら猫たちは難無くそこに跳びあがるのである。ところが今、ミケはそれさえも出来ずに、ただいつまでもその場にうずくまっているのだろう。「ミケ!」と呼ぶと、こちらを見た。 私はそろそろ内に連れ帰ったほうがいいと思った。玄関から顔を出すと、またミケがこちらを見た。私は近づいていった。そのときだった、ミケはヒョイと塀にとびあがったのである。そして私がその背中にふれるかふれない一瞬に、街路につながるポーチにとびおりた。「ミケ!」 私はちょっとあせって、急いで門扉を開けた。ミケは街路に走り出た。私も走った。ミケは隣家の玄関前の石段をあがろうとして一瞬立ち止まった。が、とっさに思い直したらしくそこを通り過ぎてゆるやかな上り坂の街路を走った。そして坂の上で立ち止まって、振り返った。私は、おいでおいでと手招きをした。ミケは遠くから私の顔をながめていたが、たちまち姿を消した。 1995年6月に生まれたミケは、ちょうど10歳と3ヵ月である。家を出ていってから2ヵ月余が過ぎた。ミケの心身に何が起ったのかまったく見当がつかない。謎を残していなくなってしまった。10年目の家出である。
Nov 30, 2005
コメント(2)
夕食後からずっと、テレビで木下恵介監督の『喜びも悲しみも幾歳月』を観ていた。録画してあとから見るつまりだったが、始まるとついつい最後まで観てしまった。 昭和32年の作品である。私はリアルタイムで観ているのだが、ちょうどこの翌年に親許を離れて会津若松の中学校に入学した。お昼休みの時間になると、誰がレコードをかけるのか、校内放送のスピーカーからこの映画の主題歌が毎日のように流れてきた。私はすっかり覚えてしまった。 おいら岬の灯台守りよ 妻と二人で沖行く船の 無事を祈って 灯をかざす灯をかざす 木下恵介監督の実弟、木下忠司氏の作詞作曲。 この映画のなかで、新婚まもない主人公夫妻の2番目の赴任地となる北海道の石狩灯台に、私も行ったことがある。映画は雪深い原野のような浜辺に赤と白とのだんだら縞に塗られた灯台をみせている。まるで童話のキノコのようだ。しかし映画のなかでは灯台守り職員の住宅が軒廂の高さまで雪に埋もれ、霏々(ひひ)として吹雪いていた。昭和8年の設定である。 私が訪れたのは昭和39年か40年のやはり冬、もうしばらく耐え忍べば春のきざしがあろうという頃だった。それでも車は、車高の3倍以上もある雪のトンネルを走った。昭和8年頃は馬橇でなければ行けなかっただろうが、私が行った当時はすでに北海道の幹線道は完璧な除雪がなされるようになっていた。札幌のような都市部ではロード・ヒーティングが敷設されている。それはともかく、灯台が近づくと道はしだいに雪の谷間のようになっていった。 灯台は、職員住宅もふくめて映画そのままの情景であった。住宅は深い雪に埋もれ、遠くからは屋根だけが見えた。雪穴をのぞきこむように職員住宅の玄関を見下ろし、私は見学させてもらえないかと尋ねるために降りていった。戸をたたいたが、おりあしく不在のようであった。 海は荒く、鉛いろをしている。砂を掘ってみると、その下は凍っていた。晴れていれば見えるであろう左手前方の小樽港とそのさきの高島岬灯台は、冬曇りの暗い色のなかに埋没していた。私はしばらく浜辺にたたずんでいた。 その頃、私の心はゆえしらぬ不安と憂鬱に鉛色をしていたのだ。いつも悲しみに胸ふさがれていた。どうしてよいか分らないので、ときどきのべつまくなく駄洒落をとばし、狂躁的に笑ったりしていた。 冬が来たぞと海鳥なけば 北は雪国 吹雪の夜の 沖に霧笛が 呼びかける呼びかける テレビ画面に重ねあわせるように、私は13歳のころや18,9歳のころの光景を思い出していたのである。
Nov 28, 2005
コメント(11)
きのう今日と、しばらくコンピューターのそばを離れて仕事をしていた。 午後、プリンターのインクを補充するため買い物に出た。ついでにDVDの映画コーナーに立ち寄ると、ワゴンセールをしていた。ざっと眺めて、特別な作品は見当らなかったが、クロード・ルルーシュ監督『男と女』の新品がたった一本、半額で売っていた。例の「♪ダバダバダ、ダバダバダ、ララララ、ダバダバダ♪」というフランシス・レイ作曲の主題曲がよみがえってきた。懐かしい。手に取ってライナーノートを読む。そうか1966年の作品か。私が大学3年のときだ。 買って帰ろうと思い、ほかにも何かないかと念入りに見るため『男と女』をいったんワゴンに戻した。ワゴンの中身はそれほど数が多いわけでもない。たちまちすべてのタイトルを見てしまった。やはりさしあたり欲しいものはない。では、『男と女』、----おや、ない!? 私は戻したところが違ったかと思い、また一点づつ指でなぞるように確かめた。やはり、ない。客は私ひとりだ。不思議におもいながら、ふと右を見ると、若い女性が澄ました顔で天井のほうを見ている。その顔から視線を下におろしてゆくと、なんと彼女の手のなかに『男と女』があるではないか。いやァ、やられたな、タッチの差で獲物をさらわれてしまった。ものの一分、よそ見をしていたばかりに! 古書売立てなどの心得がある。掘り出し物があり、購入の決心がつかなかったら、とにかくそれを手中にしたまま会場を探索せよ! 私の経験がみずからに教えたことである。それをつい失念していた。客がいなかったので安心していたかもしれない。男の客のようにガサツにふるまうのではなく、いともしとやかに彼女は私のわきから手をのばしたにちがいない。 まあ失った獲物を嘆いてもしかたがない。私はいたって気持の切り替えが早いのだ。しかしいったん買うつもりだったので、その腹づもりした金額で他の作品を買おう。ワゴンを離れ、DVDの棚をしばらく探索。特に食指がうごかない。もう帰ったほうがよさそうだ。 そうきめて踵(きびす)を返した。ふたたびワゴンの前を通りすぎた。「あれッ?」 私は足をとめた。目のかたすみにさきほどの『男と女』があった。手に取って、さきほどの女性の姿をさがした。店内にはもういなかった。どうしたのだろう、買うのをやめたのか? 私はそれをレジに持ってゆき、はれて我が物とした。帰り道、思いをめぐらしてみて、あのとき彼女は私がじっくりライナーノートを読んでいるのを見て、その商品に興味をいだいた。私が取り置くつもりで一番はじにもどしたとき通常の半額の商札が目にはいった。そしてひとつの心理がはたらいた。購入をきめかねたらとりあえず手中にせよ、というあの私のモットーと同じ心理である。「そうだ、あれは心理的な衝動だな」----そう思うと、私は歩きながら微笑がこぼれてきたのだった。
Nov 27, 2005
コメント(3)
私が見せていただくブログには、かなりの頻度で現代日本の社会的文化的貧困をあばき、あるいは疑問視し、また何等かの提議をしておられるのが目につく。日常的感覚でこれはいかにも異常だ、と思える現象を適確にとらえている。そして、それらの問題意識は、個人的な嗜好によるとばかりはみなせないものである。 私たち多くの者が、そのように嘆くが、しかし何故その嘆きのもとである問題の事態は改善されないのだろう。何故、私たちは、不快な文化的状況のなかで生きつづけなければならないのだろう。 もしかして、私たちの日本文化には、新しい地平に向って文化を開拓してゆくモチベーションを阻喪させてしまうような何かがあるのではないだろうか。日本文化には「蟻地獄」のような「仕組み」があるのではないだろうか。 ----この視点の設定は、非常に難解だ。いまとりあえずの答さえ出すことはできない。しかし私の考えの緒(いとぐち)だけは示しておけるかもしれない。それは次のような考察である。あらましを述べてみよう。 「文化とは何か」という主題は、すでにどれほど多く論じられてきたか分らない。あらためて議論するとなると如何にも陳腐な感じさえする。しかし、それではその定義が本当にゆるぎないものであり、衆知のことかというと、いわゆる「文化人」と称する人でさえ、政治・経済・文化という領域区分をし、文化を芸術や学術の周辺に限定して議論をすすめているのを目にする。政治や経済を文化論としてまともに論じているのは極めて少ない。 政治は文化ではないのだろうか。経済は文化ではないのだろうか。総じて、「制度」は文化ではないのだろうか。 おそらく誰しもが、アメリカやイギリスやフランスやドイツ等々の政治が、それぞれまったくといってよいほど異なった意識のもとにあることを認めるであろう。経済もまたしかりである。ということは、それらは明らかにそれぞれの文化意識の作用であると考えなければならないはずだ。 政治・経済・文化という領域区分をするのは、一つには便宜的なのである。本来はひとつの文脈のなかにあるはずなのだが、そのような巨視的な問題提起はストーリー(物語)を作りにくいのだ。 だがもっと重大なことは、じつは意識のずっと奥深いところで、そのような「状態」観をもっているということだろう。そして、「状態」観をもつことを培(つちか)い、意識の奥深いところに「規制」や「禁止」の操作をおよぼす----それこそが、文化というべきものの正体なのだ。 人間関係が介在した制度はすでにカルチャーによって個性的な差を帯びる、と喝破したのは丸山真男である。これを噛みくだいて言えばこういうふうに言えよう。 つまり、人間ははるか遠い時代に本能が破壊され、以後、生まれながらに本能が破壊された生物として人間は存在する。文化とはその失われた本能と引き換えに人間が手にしたものである。文化無しに、人間は生命を維持しえないのだ。人間はその肉体すら、もはや「自然」ではないということだ。言語という文化の共有財産が、人間の肉体をつくっているのである。我々は、生まれてから死ぬまで、文化によって加工された肉体を生きるのである。 言い直せば、我々は社会内存在として、たとえ孤独に沈潜していようと、好むと好まざるとにかかわらず、文化によって規制されているということである。昔々、はるか昔、人間は「共に居る」ことを始め、その時をもって「文化」を離れることはできなくなったのである。 それでは固有な文化とはいかなる意味なのだろう。それを考えるには次のような視点に立つのがよい。 ある文化に対する反文化は、じつはその文化自体が許容しているものである。文化に対するには非文化しかない。ここで私が「非文化」と言っているのは、ある固有の文化と相容れない他の文化という意味である。決して「文化的ではない」という意味ではないが、固有の文化というものは時に相容れない他の文化を「野蛮」と規定することがある。それゆえ、私はそのような文化というものの「罠」を暗示するために、「非文化」という言葉を使うのである。 だが、文化概念とその文化のもつ「罠」の間の事情を言語化しようとすると、言語は文化の共有財産であるから、その言語体系というものは非文化を峻厳に排除してゆく。つまり、Pという社会(民俗)の文化に対抗する非文化(Pではない文化)の本質をPという文化がもっている言語で解き明かすことができないのである。このことは外国語に精通している人なら、容易に納得できるだろう。非文化とは、「決して網に掬い取ることができない事情」ということだ。 以上のことは、文化を根底から変質させる契機は、内からはやってこないということを意味している。 例をあげてみよう。 日本国憲法をめぐる議論がぎくしゃくするのは、つまり「押しつけられた憲法」という意識に苦悩するのは、「デモクラシー」という理念が日本自発のものでないからである。外からやってきた非文化である「デモクラシー」を受容するか、内にないものを断固排除するか。ありていに言えば、それが無意識の葛藤になっているのである。 あるいは対抗文化というものを次のような事例に仮想するとわかりやすい。 一企業や官公庁等の腐敗を内部告発するのが大変困難であるばかりか、ときに告発者が自滅するにいたることがある。なぜだろう。一企業といういわば文化体制がそれに対抗する文化(つまり告発するということ)をあらかじめ排除しているからなのだ。文化というものは自分の身をあやうくするような事態(言語、制度、身振り、習慣等々あらゆるもの)に対して、厳しい排除規制がはたらく仕組みなのである。 それでは、我々はついに絶望から脱出できないのであろうか。 脱出できないかもしれない。けれども、それはあくまで「かもしれない」のである。できようと、できまいと、考えながらやってゆく。その文脈は、悪しき現状の日本文化のなかにもあるのである。 私は文学の世界でひとりの先駆者をもっている。大江健三郎氏である。この文学者は、この日本でなんと多くの名指しの誹謗を受けていることだろう。まさに日本文化を新しい地平にむかって切り開くために、つまり対抗文化を受け入れるために、日本語で静かな戦いをしている、と私は見ている。誹謗されるのは当然なのだ。 この文学者ほど、「へたくそな悪しき日本語」の使用者といわれつづけて来た人もいないかもしれない。 それも当然である。叙情的で曖昧な日本語を使って、欧米言語の論理性に伍す構文をしようとしているのだから。 この人が託す未来への希望に対して顰蹙する者がいる。 しかし、私が述べたように、希望の文脈はいまの日本文化にもあるのだ。そこに託さなくて何に託す。 この文学者の小説への信頼をあざわらう人がいる。 だが、おのれの生涯を掛けた仕事を信頼しなくて何を信頼する。 私は大江健三郎氏のような態度こそ、現代日本の貧困なる文化状況を打開するためのひとつの有効な策ではないかと考えるのだ。
Nov 25, 2005
コメント(0)
現在25日の午前0時45分。いままで仕事をしていた。もう少しやっておきたいが、ちょっと休憩。インスタントのコーヒーをいれ、この日記を書いている。 きのう午後、1時間半ほど外出した。通りを歩いていると、男子高校生が5人、賑やかなおしゃべりをしながら私を追い抜いた。「オレ、小説読むことにした」と、一番背の高いひとりが言った。「漫画じゃねえのかよ」「漫画はやめた。小説をどんどん読んでやる」「どんな小説だよ」「セツナイ系だな」「本買う金あんのかよ」「ない。オレ、みんなに小説読むこと宣伝するんだ」「そんで、借りんのか」「どんどん読むからな」 聞くともなしに聞くというより、大声で元気に話しているので、おのずと耳にはいった話である。私はなんだか微笑がうかんできた。年寄りじみた説教臭い感想など書くまい。 じつは私の外出は、85歳の老母のための本の買い出しにでかけたのだった。 以前にも書いたが、母は20年ほど前に高血圧症による目の毛細血管出血により片目の視力をまったく失い、もう一方の目も視野が極度に狭くなってしまった。数度の手術で、完全失明はまぬがれたものの非常に不自由なことは無論である。しかしどういう心境か知らないが、目が健常だったころよりも一層の読書家に変身した。普通の単行本1册をだいたい3日で読了しているようだ。読み終わった書名をノートに記録している。初めのうちは私の蔵書から適当なものを抜き出して読んでいた。「このあいだの読みおわったから、別のを貸してちょうだい」と催促するので、私は活字のあまり小さくない本を小説中心に渡していた。 それが200册をすぎると、私の3000册有余の蔵書も、母の興味をひくものを探しだすのが難しくなってきたのである。ことしの夏ごろからは、母用の本を古書店などに買い出しにゆくようになっていた。過日、東京薬科大学の学園祭のガラクタ市で買ってきた本も、私が忙しくしているので母が先に読んでしまった。塩野七生女史の『聖マルコ殺人事件』は、推理小説なのだが、よほど面白かったばかりでなく、主人公に同情して泣きながら読んでいるのを私は目撃してしまった。 そんなわけで少し時間があいたので本の買い出しに古書店にでかけたというわけだ。 購入した本はつぎのとおり。 宮尾登美子『春燈』 同 『天涯の花』 連城三紀彦『萩の雨』 高橋治『秘伝』 伊集院静『眠る鯉』 同 『冬のはなびら』 竹田真砂子『白春』 杉本睛子『穴』 梅原猛『中世小説集』 松本清張『隠花の飾り』 同 『黒い空』 同 『彩霧』 久世光彦『逃げ水半次無用帖』 平岩弓枝『御宿かわせみ』上、下 広瀬仁紀『河原町三条下ル、龍馬暗殺』 京極夏彦『嗤う伊右衛門』 以上17册。 これで今年いっぱいもつかどうか。
Nov 24, 2005
コメント(4)
午後、散歩がてら八王子駅周辺の商店街をぶらぶら歩く。ちょうど大陶器市とかの最終日。有田、萩、それに塗り物の根来などのテントが40張りほどならんでいた。ふと目をやった最初の店の手捻り長楕円形の焼き物皿がなかなかいい。手描きの蔓草のような二つの花も悪くない。手にとってみると、かなり持ち重りがする。買おうかな、どうしようかなと迷うが、欲しい枚数が揃わないとのこと。日用雑器だから一枚買ってもしょうがない。やめにする。 最初の店で興味をさそわれたので、後ろ手しながら一軒一軒見てゆく。萩にはいいものが出ていない。私はずっと以前、萩の小さな高坏の揃いを買い求めた。やわらかい人肌色が美しいものだ。その頃、私はしょっちゅう客を招いてパーティーを開いていたので、日本酒の会のときに小付けに使おうと思ったのだ。やはりそのころニューヨークで朝顔の花をかたどったグイ呑みを12個買った。ニューヨークで東洋趣味の磁器というのも、へんな話とお思いだろう。じつはクーパーヒュイット美術館のミュージアム・ショップでみつけたのだ。レギュラーのミュージアム・グッズではないらしかった。しかも2個しかなかったのだ。私はショップの主任を呼んでもらい、しばらく滞在しているから、もしもう10個取り寄せることができたら取り寄せてほしいと頼んだ。主任は承知してくれ、1週間ほど経ってホテルに電話が入った。同じものが10個揃ったと言う。それは純白の磁器で、朝顔の形だけで美を主張している。 主任が品物を丁寧に梱包してくれている間、若い女性店員が興味深そうに「あの小さな器を何に使うのですか」と聞いてきた。「サケ・パーティーに使うんです」「サケ?」「そうです。ジャパニーズ・ライス・リカー」「まあ、いいわねー」 彼女は、わたしも招待してくれないかしら、というような表情をした。「東京に帰ってから開くつもりのパーティーです」と私がいうと、彼女は笑った。 そんなグイ呑みと萩の高坏だった。私は鬼萩も欲しいなと思っているのだが、これはと感じいるものにまだ出逢っていない。 さて、陶器市をあとにして、次は某古書店に立ち寄る。ここは知る人ぞ知る古書店なのだが、あえて名前は伏せておく。3册購入。19世紀ドイツ最高の抒情詩人エデュワルド・メーリケの『旅の日のモーツァルト』、フィンランド民俗学のカールレ・クローンの『民俗学方法論』、室町末期から元禄時代の民衆歌謡を集めた『松の葉』。なかなかの発掘本と、嬉しくなる。 最後に「そごうデパート」ヘ行き、「新杵」で季節の和菓子を買う。老母への土産なり。
Nov 23, 2005
コメント(2)
昨日にひきつづき新橋へ行くため午後3時に家を出る。出がけに家人から玉木屋に寄って買い物をしてくるように頼まれる。 新橋交差点の角にある玉木屋は、天明2年(1782)創業の老舗。その昔、「ざぜん豆」が評判となり、その後、佃煮と煮豆を商ってこんにちに到っているという。私の今日の買い物は「秋刀魚の山椒煮」と「鰊の天明漬」。夕食はこの秋刀魚の山椒煮を中心にした和風メニューになるはず。 なぜこれを思い付いたかというと、私が家を出る直前にやっていたテレビの料理番組がヒントである。漫才師の西川きよしさん母娘が出演し、鯛の胄煮を紹介していた。そこに西川家の庭で採れた山椒の実をたくさんいれていたのである。鯛の胄煮は、我家では先日夕餉の食卓にのぼったばかり。そこで新橋玉木屋特製の秋刀魚の山椒煮を思い付いたというわけ。「近くまで行くのですから、ついでに寄って来て下さい」と、私は玄関を送りだされたのだった。 玉木屋の秋刀魚の山椒煮は、一匹丸ごとの姿煮。身崩れもなく美しい姿のまま、頭から残すところなくガブリといける。砂糖と味醂の甘さはほどほどの品のよさ。山椒の香り付けでオツな味に仕上っている。 で、今夜はこれに熱々の「ふろふき大根」と、シャッキリ「みず菜のお浸し」、「里芋と油揚の味噌汁」。 ついでに書き添えると、玉木屋さん、店員の教育がゆきとどいていて、いまどきこのように自然な礼儀をわきまえた店はなかなかない。ひとりふたり客が待っていると、「お待たせいたします、お茶をどうぞ」と茶をすすめ、皿に牛肉の佃煮などを盛って、商品見本なのだけれどもまるで茶受けのように出してくれる。食べろ食べろとせっつくでもなく、皿を置いてひっこんでゆく。代金を受取っても、ごく自然。「1万円からオアズカリシマ~~~ス」などと、胸くそわるいニホンゴは言わない。店構はむしろ小さいのだが、店員の礼儀のなかに老舗の格式がうかがえるのだった。
Nov 22, 2005
コメント(4)
午前11時から午後3時まで、作品撮影のため新橋のスタジオにでかける。いわゆるCM用の商品撮影と同じようなセッティング。4×5インチ判のポジ撮りである。ポイントだけ説明して、あとはカメラマンまかせ。過去100点ちかい私の作品をこのスタジオで撮影してきたので、安心してまかせられる。仕上りは明日夕刻。 新橋から新宿にもどり、しばらく街を散策。しかし何だかこころが落着かない。「帰ろう、帰ろう」と囁きが聞こえるのだ。結局、画材店で絵の具を補充し、紀伊国屋書店で新刊書の棚と洋書の棚をざっと見ただけで帰路についた。
Nov 21, 2005
コメント(4)
午後、チューリップの球根の植え付けをする。 チューリップは2年前から作りはじめ、当初わずか5個の球根が今年は60個ほどにふえていた。3~4月ころに花をつけるが、散り際に花を摘む。茎が黄ばんできたら球根を掘り起こす。丁寧に土を落して消毒し、日陰で乾かして、今の時期まで保存する。花壇作りの場合は、9月に石灰や腐葉土や堆肥をいれて土を耕しておく。私は鉢作りなので、土を全部入れ替えている。 長さ70cmほどの鉢をひとつ作ったら、買い置きの土が足りなくなってしまった。近くのホームセンターに行き、園芸用の堆肥入りの土25リットル袋を2個と赤玉土14リットルを買ってくる。 2時間ほどで5鉢作った。先日、東京薬科大学の薬草園からもらってきたクロッカスも一鉢。チューリップは2種。白い花をつけるホワイトエンペラーと、ピンクの花のラッキーストライク。 たっぷり水をやる。このまま戸外で寒さに耐えて、来年の春はきっと5,60本の花をさかせてくれるだろう。 ついでに庭の落ち葉掃きをする。柿の葉がいっぱいだ。今年は頑張って実をつけていた。過日、赤く熟れたのを試しに食べてみると、渋柿のはずが、とても甘いので驚いた。どうしたことだろう。2年間、実をつけられないでいるうちに、性質が変化したのだろうか。不思議不思議。 家のなかからテレビの音が聞こえている。東京女子マラソンで高橋尚子選手が優勝したという声。彼女もたしか2年ぶりの競技出場のはずだ。
Nov 20, 2005
コメント(0)
今日、ネット・オークションで落札した私の作品を掲載している雑誌2册が届いた。1977年と78年に発行されたものだ。 これまでにも昔の仕事をネットで探して何冊か購入している。雑誌はそれほど高くないが、単行本や文庫本はいい値がついているものもある。探索に苦労したのはサンリオ文庫だった。この文庫は出版社が刊行をやめたときからちょっとした稀覯本扱いだったが、私も昨年ようやく自分のやったものを見つけることができた。沖縄の古書店から購入したのである。文庫一冊が4000円だった。それでもインターネットがなかったら見つけることはできなかったかもしれない。古書価格とは別な問題だが、発見できたことを幸いと思って4000円で購入した。 じつは5万円以上するものもあり、さすがにこれは二の足を踏んでしまった。この本はA社が刊行したものを数年後にB社が私に無断で刊行した。もちろん原稿料も印税も支払われていない。私はそのことを最近知ったのである。刊行後20年以上経っていた。 このような例はほかにもある。雑誌に使用した作品を無断で単行本化され、しかもサイズが変更されていた。この本は現在探索中なのだが、まだ発見されていない。出て来たときに、いったいどんな値段がついているやら心配である。 なぜ、自作を掲載する本や雑誌を探して買っているか。 国際グラフィック・ビエンナーレ展やアニュアル・ブックへの出品は、プロフェッショナルの場合、「実際に使用された状態であること」という条件がついていることがほとんどなのである。そのためついつい手許に保存していたものを切り取ったり、一冊まるごと送ったりする。あとで買えばよいと思っているうちにすっかり忘れてしまう。気がついたときには雑誌はもちろん入手困難、単行本は絶版になっているというわけだ。 出稿記録があるので作品の制作年代などは調べがつくのだが、やはり刊行物があったほうが何かと便利だ。原画をコレクターに売却してしまう場合もある。また逆に、原画の売却を申込まれたときに、せめて刊行物として手許に残るものがあれば原画を手放しやすい。 自分のつくった本が高い値で取り引きされているのは嬉しくないわけでもないが、それを私自身が購入するとなると心中複雑なのである。
Nov 19, 2005
コメント(0)
今日は本の扉のデザインにかかりきり。 黒い紙に金刷りするアイデア。コンピューターで作業しているが、もちろんモノクロ画面である。頭のなかでモノクロを金色に変換し、なおかつ黒い紙に印刷するイメージを空想しながら仕事をすすめていく。ときどき色紙にモノクロ階調でテスト・プリントしながら細部を修正している。 こういうデザインはモニター画面に再現できないので、経験と勘に頼るしかない。午後6時に終了。プリント・アウトしたものを本の大きさに裁断し、手近の本にはさみこんでみる。なかなか良いじゃないかと自画自賛。一晩経てば、また違った目になるだろうと、今日はこれでおしまい。 少し疲れた。 夕食後、テレビでお笑い番組をさがす。私はお笑い番組が大好き。テレビで見るのはもっぱらそんなものだ。ひとりで大声で笑って家人の顰蹙をかっている。しかし今日は見るべきものがない。残念。本も読みたくないので、もう寝ることにする。 おやすみなさい。
Nov 18, 2005
コメント(2)
鉢植えのシャコバサボテンが緋櫻色の莟をふくらませてきた。力強い美しい色だ。 こういう色を油絵の具でつくりだすのはなかなか難しい。ピンク系だとマジェンタとかローズ・マダーやピンク・マダー、ルビー・マダーがある。天然染料のマダーは茜の根から抽出する。主成分のアリザニンを用いるのである。しかし天然のものはパープリンという成分が含まれていて、これが黄味のある色相をつくりだす。今日一般に市販されているものは天然のものではなく人工有機染料である。マジェンタは軽油からつくるアニリン染料。マダー類は重油からつくる合成アリザリン・レーキを使っている。耐光性があり不変色だが、乾燥が遅い。土性顔料と混色すると不変性を失ってしまうので避けなければならない。土性顔料とは、イエロー・オーカー、ロー・シエナ、ロー・アンバー、テル・ベルト、ネープルス・イエロー、バンダイク・ブラウン、ベネチアン・レッド等々である。 私は女性の肌を描くときに、オーロラ・ピンクを少し忍ばせている。 それにしても植物の固有の色彩をみずみずしく再現するのは難しいものだ。 さて今日の仕事は手のデッサン。良いポーズがみつからないで苦労している。手の表情と、ほしい形態が結びついてこないのだ。 身体部位のなかでも手の形態を美しく捉えるのは難しいものだ。私は人物画を鑑賞するとき、手がうまく描かれているかどうかで、その画家の技量を判断する。手がうまいとほんとうに感嘆してしまう。「目は口ほどに物を言う」という諺(ことわざ)があるが、「手は口よりも画技を語る」である。 もう15年くらい前になるかもしれない。花輪莞爾夫妻がネパールのマンダラ絵をお買いになった。見にこいと言うのでお宅に出かけていった。そのころお互いが近所住まいだったのだ。それは25号(約80cm×65cm)ほどの絵で、ブラウン調に胡粉と金彩のすばらしいものだった。1cm丈の仏たちがたくさん描かれていた。私は花輪夫人からルーペを借りてその仏像を見た。おどろいたことに手がいきいきと描かれている。「ホー!」私はおもわず讃嘆した。「これは良いものをお買いになりましたねェ」「そう? そうお思いになる?」「ええ、この仏画師はとても良い腕をしています」「どこでそれが分るのかしら」「手です。この小さな仏像の手です。奥さん、ご覧になってください」 私はルーペを夫人に渡した。夫人はそれをのぞきこんだ。「こんなに小さいのに手のデッサンが見事です。つまり不格好じゃないでしょう?」「まあ、ほんと! これで見ると良く分るわ!」 花輪氏は、どうだ俺の眼力も満更じゃないだろう、と少し得意な顔をしていた。 これには後日の話がある。 ある出版社のベテラン編集者が花輪氏を訪ねた。話がこのマンダラに及んで、その購入金額を聞いて驚いてしまった。驚いたというより、あきれてしまったらしい。その購入価格はもちろん私も知っていたが、編集者氏のたぶん2ヵ月分の給料をうわまわるものだった。花輪氏は即金で支払ったのである。花輪夫妻はその絵をいわば通りすがりに見てその場で買ってしまった。絵が夫妻を呼んだのであろう。編集者氏にはそれ事態が信じがたい愚挙と思われたらしいが、さらに花輪氏が言ったその絵に対する評価の見定め方が気にいらなかった。「手の描きかただと山田さんが言っていた」と花輪氏は語ったのだ。 このベテラン編集者、じつは私とも旧知のなかだった。彼が花輪宅を訪問してからしばらくたって、私は仕事の打ち合わせで彼と会った。仕事の話が終わると、「ちょっとコーヒーいっぱいの時間はありますか」と言う。あると応えると、近くの喫茶店に連れ出して椅子に腰をおちつけるとおもむろに煙草に火をつけた。「花輪さんのマンダラ、見ましたよ」「いい絵でしたでしょ」「山田さんがほめたって言ってました。手がうまく描けていると言ったらしいじゃないですか」「そう。じつに上手い」「そんなことで画家の腕のよしあしが分るんですか?」「そりゃァ分ります」「手の描き方でですか?」「ごまかしがきかないんですよ、手は。関節が14箇所、手首をいれると15箇所。扇形にひろがった骨と筋が意外に自在な形態をつくりだす。デッサンの基本は長立方体の組み合わせなんですが、くせものは手の甲というか掌というか、この部分で、じつに複雑な表情をつくりだす。ほんのわずかなデッサンの狂いが手を不格好なものにしてしまうんです。それと人体におけるバランスですね。顔のおおきさの2/3くらいあるんですが、たとえば素人が描くとたいてい大きすぎたり小さすぎたりしてしまいます。----人物描写で手がうまく描けたら、その画家はいい腕をしているとみて、まあ、まちがいないでしょう」「そうかなァ、信じられんなァ」「そりゃ、あなたが、絵などというさしあたり生きるに必要ないものを、通りすがりに高い金を払って買ってしまった、そのことに何か忸怩たる思いがあるのでしょう」「ズボシだけれどもさ----、でも----」「こんどから手の表現を見て下さい。たくさん見ているうちに納得しますよ」 私自身が描けないだけかもしれない。こんなことを書くとますます手が描けなくなってしまう。ちょっと口をすべらせてしまったな。 手の表情をもとめて、ああでもない、こうでもないとスケッチブックの上を私の手がさまよっていた一日。
Nov 17, 2005
コメント(4)
新作用のキャンバスの下地作りにとりかかる。 市販の画布は織方によって細目、中目、荒目とあり、普通はセリューズ加工してある。セリューズ加工というのは、麻布の織目(縷眼;Grain)が伸縮しないように目止めをし、また油が浸みこんで酸化することを防止するために、鉛白をリンシードオイルでペースト状に練って薄く一回塗ることをいう。あるいはクレミニッツ・ホワイトと鉛白とをポピーオイルでペースト状にして塗ってもよい。市販のものはすでにその加工をすませてあるのである。 今回、私は荒目を使う。が、セリューズ加工した表面に一度紙ヤスリをかけて油膜を取って荒らしてしまう。埃をきれいに払ってから、ゆるゆるに水溶きしたアクリル・ジェッソを大刷毛で塗る。むらなく塗ってから、さらに素手で円を描きながらなすり込む。それから再び大刷毛でなでつけ、自然乾燥させる。 完全乾燥後、ふたたび水溶きジェッソを塗る。細密画を描く場合は、ジェッソを塗布した表面に紙ヤスリをかけ、この工程を何度か根気良く繰り返して表面を平滑にするのである。 今度の新作は別な手法を用いるつもりなので、紙ヤスリはかけないでおく。ジェッソは次第に水の量を減らしてゆく。これで今日の作業は終了。カンバスの裏側まで湿った状態になっているので、このまま寝かせて乾燥させる。 こういう初期の作業をしていると、体に力がみなぎってくるようで嬉しいものだ。長年同じ事をやっているのだが、その楽しさは変らない。 私は作品の写真撮影するときなど、自分で大きなカンバスをかかえて移動する。これも楽しいのだ。完成したものが自分から切り離されてゆくその第一歩なのだが、我が手でその道に運んでやる。物理的な作品の重量が、私の手につたわってくる。その苦労させられる重さが、なんとなく嬉しいのである。ああ、またひとつ作ったぞ、という感じだろうか。作者だけが知る喜びかもしれない。
Nov 16, 2005
コメント(1)

昨日の日記でふれた『童劇プーポ』の舞台写真をすこしばかり掲載します。「おんにょろ盛衰記」は私が16歳のとき、「アンクルトム物語」は17歳です。「おんにょろ盛衰記」より。婆様の左、後ろ向きの腰に手拭いをぶらさげている村びとが私です。中央の高札をかついでいるのが清水先生。右端の腰をかがめているのが私。おんにょろ様と庄屋さま。「アンクル・トム物語」より。中央のフロックコートの青年が私。昔、こどもの頃に別れたトムを買い戻しに来たのですが、トムはすでに死に瀕していた。その場面です。左が私。黒人少年と。
Nov 15, 2005
コメント(4)
中学校時代の体育の先生である清水和彦先生から封書がとどいた。会津若松市教委が文化芸術・体育振興などに功績のあった個人を表彰する功労賞を、先生が受賞されたという知らせである。 今年の8月、42年ぶりに会津若松を訪ねた。じつは清水先生の喜寿の祝賀会に出席するためだった。 私は13歳のときに親許を離れ、会津若松市の中学校に入学した。清水先生はその学校の体育教師。私は教科のなかで唯一体育が苦手だったのだが、先生は新聞部の顧問をされていて、どういう経緯かしらないが私を新聞部によんでくださった。 この学校新聞は、写真も掲載するタブロイド判の本格的印刷の新聞だった。1年生のとき、全会津中学校新聞コンクールで第1位を受賞した。その記念写真が残っている。このとき私はすでに帰宅していたのだが、外でキャッチボールかなにかしていたら、清水先生が自転車でやってきて、有無をいわさず私を後ろに乗せて学校に引き返した。玄関前に椅子を並べて、校長や教頭先生が待っていた。写真を見ると、私の前髪は風にあおられたまま逆立ち、何がなんだか分らなくて少ししょぼくれた顔をしている。 卒業後、高校合格がきまって、春休みに両親の待つ家に帰るため駅に向っているときだった。中学のグラウンドの前を通りかかると清水先生がいらした。私のほうを見ているので、私はちょっとおどけて学生帽子をヒョイととってみせた。先生は「おッ、やったな」というように笑った。私は坊ちゃん刈りの頭を丸坊主にしたばかりだったのだ。照れくさかったので、おどけてみせたのであった。 高校に入ってから、思いがけない誘いが清水先生からあった。先生が団員として活動していた『童劇プーポ』という劇団に団員として招かれたのである。 先生の演劇活動は、このたびの表彰におおいに関わっている。先生は昭和20年代から演劇活動を始めた。教員のかたわら、昭和32年に『童劇プーポ』の創設メンバーとなり、爾来48年間、会津の演劇の振興に寄与してこられた。『童劇プーポ』は現在も同市で活躍しているのである。 私が先生に招かれたのは昭和36年のこと。第10回目を迎える記念公演として木下順二作『おんにょろ盛衰記』を準備中であった。私はすぐに役がついた。村びとの役だ。先生も村びとだった。私のセリフのなかに先生に向って「ドあほ!」だったか、なんでもそんなような悪口を飛ばす場面があった。稽古中からこの場面がやりにくくて困ったおぼえがある。先生はしらんぷりしていた。 その後ミハルコフ作『いばりや兎』の主役をもらい、また『アンクル・トム物語』にも出演した。 この日記を見て、ときどきコメントを寄せてくださる「えっちゃん」は、この劇団の女優さんである。先輩なのだが、彼女とのラブシーンの写真が残っている。台本にはないシーンだ。ふたりでイタズラして急遽創作してしまった。カメラの前でいろいろポーズをとっていると、ステージ横でそれを見ていた清水先生が突然ダメ出しをした。「そんなラブシーンじゃだめだべ。もっとくっつけ。何やってんだ。山田クンは、えっちゃんの肩を抱いてみろ。そうだ、そうだ、それでいい」 『童劇プーポ』の活動は全国的に高い評価を受けている。久留島武彦翁文化賞、福島民友新聞みんゆう大賞、サントリー地域文化賞などかずかずの賞を受けている。 清水先生も演劇教育賞、全国児童演劇協議会賞を受賞。また創作戯曲『第三反抗期』が福島県知事賞を受賞している。 老いてますますご盛んといっても、先生はお怒りにならないだろう。なにしろ御自分が病気がちなのに、すこし体調がよいと得意のハーモニカを持って老人会へ慰問に行くという。 この夏、お会いして、2年後の『童劇プーポ』50周年記念のパンフレットの表紙絵を私が描くことを約束した。 かならず描きますから、お元気でおまちください。 このたびはおめでとうございました。
Nov 14, 2005
コメント(2)
良く晴れた菊日和。しかし時折強い風が吹いていた。仕事場に坐っていると、家並を風が渡ってゆく音が聞こえる。猫のフクがやってきて机に跳びのると、自分で窓をあけて外へ出ていった。冷たい風が吹きこんでくる。 昨日今日、気温が一段と下がっているようだ。灯油の移動販売車がおおきな音量で童謡を流しながら住宅街を回っている。「母さんのうた」「ペチカ」「山から小僧がやってきた」と、三軒の店がそれぞれの童謡を流して巡回している。いやでも耳にはいるので、聞くともなく聞いているのだが、どうも音楽のテンポが正しくないようだ。いやに早い。そのせいだろう、次第に気分が悪くなってくる。冬が終わるまでの数カ月、私はこの微妙に狂ったテンポの音楽に悩まされることになるのだ。 一日中、仕事をしていた。新作のためのデッサンを始める。といっても最初のアイデアを紙のうえでいじくりまわしているだけ。いろいろやっているうちに、何が悪いかがわかってくる。それとともに次のアイデアが生まれ、またそれをいじくる。繰り返しているうちに、考えや気持のなかで、どうしても変えられないものが見えてくるのだ。そうして捉まえたイメージから下絵つくりにとりかかるのである。しかし、それまでにはまだ時間がかかりそうだ。気が急くけれど、じっくりやるしかあるまい。
Nov 12, 2005
コメント(0)
仕事場にとじこもってばかりいたので、午後2時過ぎに久しぶりに自転車で近所を走ってきた。すっかり菊の季節になっていて、あちらの家、こちらの家の籬の間からさまざまな種類の菊花がのぞいていた。たいていは小菊だが、私は野花のようなこのてのものが好きだ。厚物咲は人工のおもしろさはあるが、それだけのもの。植物本来の風情に欠ける。 菊日和ということばがある。11月のさわやかな晴の日をいう。虚子が編んだ『季寄せ』には、10月の「菊」の項にまとめてある。どうやら俳句では、10月までが秋、11月からは冬のようだ。 ところで菊で思い出したことがある。昔、1978年11月から翌年1月まで『130人の日本のイラストレーター』という展覧会がパリで開催された。その当時日本のイラストレーションをリードしていた作家たちが出品していた。私の出品作についてはこの遊卵画廊の詩画集『遊卵飛行』のあとがきに述べている。 私はオープニング・パーティーに出席するためパリにでかけた。会場がマドレーヌ寺院の近くだったので、パーティーの翌日、マドレーヌ寺院の近辺を散策したついでに会場に立ち寄ってみた。そこで私はたまたま、観客の美術学生につかまり、作品の説明をもとめられたのである。私の作品ではない。他人の作品である。 それは御料車を描いたものだった。そこに菊の紋章がついていた。それについて説明してくれという。彼は、それが紋章だとは思わなかったらしい。「随分もったいぶった装飾だが、これは何をあらわしているのだ」と彼は言った。私はフランス語で説明できなかったので英語で‘The crest of the Emperor of Japan’と答えた。すると、「太陽をデザインしたのか。たとえばルイ14世のように」と聞く。‘No. This is a chrysanthemum.’菊だ、と私は言った。すると彼は絵から目を離し、私をまじまじと見て、‘Chrysanthemum?’と鸚鵡返しに聞きかえした。私が言い間違えたのではないかと思ったらしい。‘Yes, I said. A kind of flower, a chrysanthemum.’ 彼は信じられないというように首をふった。彼の言うところはこうだ。 フランスでは、デージーは別として、菊といえば一般的に「葬式の花」なのだそうだ。墓に捧げることはあっても、家のなかに飾るひとはいないかもしれない。だからその菊が日本のエンペラーの象徴であるとは驚きだ。だいいち香があまり良くないではないか、と。 この美術学生の指摘は、私にはとても面白いことだった。 日本文化においては、菊の香は「清浄」と感覚されている。甘さのない、苦味を感じるような独特のツンとする匂がさわやかさのイメージと重なっている。菊膾のように料理して食し、菊酒として長寿を祈願する。菊にまつわる言葉がたくさんある。「百菊」「初菊」「菊畑」「菊の宿」「菊作り」等々。 デージーは別と彼が言うように、同じキク科でもデージーはヨーロッパで古くから愛されて来たらしい。名前の由来がいかにも愛された花であることを示している。‘day's eye’すなわち「日の目」が語源であるらしい。おそらく春を告げ、春を言祝(ことほ)ぐ花なのであろう。 私は拙い英語で日本文化のなかの菊について彼に話したのだった。興味深そうに聞いていた彼は、最後に‘I'm glad to talk with you. Merci beaucoup.’と言って去っていった。 じつはこの日、この展覧会場で20人ほどの観客に囲まれて「現代日本のリアリズムと幻想」について1時間以上におよぶ講義をすることになった。そして、それがきっかけで美術学校から講演の依頼までくるのだが、その話はいずれまたの機会にすることにします。
Nov 11, 2005
コメント(0)
ただいま夜の10時をまわったところ。いままでこまごました仕事をしていた。区切りがついたところで、コーヒー・ブレイク。ついでにこの日記を書いている。今日はこの後、もう少し仕事をする。 仕事場にとじこもっているので、身辺波風なしというところだ。こういうときは、ひとに見せる日記を書くことに正直なかなかしんどいものがある。 午後4時ころ、小説家の花輪莞爾(はなわ かんじ)氏から電話。進行中の『悪夢百一夜』について打ち合わせをする。束見本が出来ていない、すなわちページ数が確定していないので、私の仕事としてはカバー・デザインができない。絵、文字入れ、版下等すべてを私がやり、印刷所にはMOでデータ渡しということにしてある。以前、この日記に掲載した表紙絵の撮影もやり直す必要がある。あのときは印刷所専属のカメラマンが撮った取り敢えずの写真を掲載したが、本番用としては使い物にならない。フォトグラファーを変えなければならない。いつも私の作品を撮影してきたスタジオに依頼することにする。二度手間になってしまった。 フォトグラファーにも絵を読める人とそれができない人がいるのだ。わかっているけれども、これだけはやらせてみないと分らない。印刷所専属というので安心していたのが失敗だった。 大型カメラを買おうかなァ。でも、100万以上するんだよなァ。照明設備やバック・スクリーン等々、かなりの出費だし、やっぱり面倒でもスタジオにまかせたほうがいいか----。 それはさておき、花輪氏としばらくぶりに20分ほど話をした。今度の収載作のなかに『お穴様の村』という一篇がある。これは傑作だ。もしかしたら花輪文学のなかでの最高傑作かもしれない。 そのことを本人に直接言うと、花輪氏は、私を小説読みの名手と思っていてくださるので、私の高評価にひどく喜んでいらした。 話しそのものの面白さ、文章の切れのよさ、リズム、場面転換のうまさ、登場人物のキャラクターの明確さ、なかんずく狂言回しのように出てくる庄六という男のセリフ回しのよさ。ジョギング・パンツに提灯をぶらさげ、酒の匂いをかぎつけながら村中を聞き耳たてながら走っている。長州方言をまるで江戸の幇間のようにあやつる男だ。 この話、村のあちこちの地下にズボズボと穴が出現して、家屋や樹木をのみこんで行く。村びとは「お穴様」と称し、そのふるまいを止めようと様々な画策をするのだ。 幻想性、批評性、諧謔性、それらが申し分なく練れている。けだし第一級の幻想短篇というべきである。 さて、11時を過ぎた。もうひとがんばりしなければならない。
Nov 10, 2005
コメント(0)
昨夜は10時頃まで机に向っていたが、そのまま机につっぷして眠ってしまった。目覚めたら午前1時半を過ぎていた。いつのまにか膝のうえに猫のマスクがよじのぼって、彼女も眠っている。 猫を膝に眠らせたまま、かたわらのメモを読む。内容を頭にいれて、次にこの日記を書こうとコンピューターを起動させる。コメントを書き込んでくださっている方に返事を書き、また他の方々のページを幾つかたずねる。 それから新作のための取材に出かけなければならないか、既存の資料はないか、ファイルを調べる。そろそろ手を動かして、アイデアのサムネイルを作ったり、デッサンを始めなければならない。やらなければならないことが沢山ある。ああ、それにしてもやけに眠い。またコックリコックリしそうだ。----覚悟して寝室にひきあげ、ふたたび眠ってしまった。日記は書かずじまい。
Nov 10, 2005
コメント(4)
拙作『花と礫(つぶて)のなかのアダム』をご覧くださった作曲家の新実徳英氏のお葉書に、「画風がかわったような----」とあった。さすがに御目が早い。そうなのだ、この作品ではいろいろな試みをしてみた。 まず印刷で原画を再現するのはかなり難しい。というのは背景は波状の浅彫りになっていて、その上に超極薄のアルミ箔を貼ってある。そこにグラッシするように油絵の具でおつゆ描きしている。そのため色調が金属質の輝きをしているのだ。これは写真で撮影できないだろうし、したがって印刷で再現もできない。実際撮影環境をととのえて試行してみたが、金属質の輝きある色調をとらえることはできなかった。肉眼で見るということはどういうことか、すなはち原画の意味を強調するねらいである。 次に試みているのは、パースペクティヴ(遠近法)の消去。長い間私の絵を特徴づけてきた、緻密な遠近表現を排してしまおうというわけだ。この試みは以前から目立たない程度に実施してきた。『石を握るダヴィデ』ではそれをデザイン的な処理のしかたで臆面もなく実行した。この作品に対しては、遠くドバイやアメリカの美術関係者から間接的な反応があった。 遠近法を消去する試みは、じつは琳派を現代的にやってみようという試みと連繋している。つまり和の装飾性と私の資質のなかに抜きがたくある西洋的ともいえる象徴的写実性を融合できないか、というわけだ。こういう和洋の融合については、先日のコラージュの『富士の夕映え』のなかでもやっている。数分でつくってしまった気楽な作品だが、言えることは、あれはヒマラヤではだめ、マッターホルンもだめ、キリマンジャロもだめ、おそらく富士でようやくなりたっている。きわめてデザイン的であり西洋技法なのだが、どことなく和風だ。なぜ和風なのかを理論づけて説明はできない。純粋感覚の問題なのである。とても微妙だ。お遊びなのだが、そこに画家としての私の意識がはたらいている。----私がやろうとしている和洋融合というのは、理論づけが不可能な純粋感覚における試みなのである。 今日は午前9時から夜8時までこまごました仕事をし、ときどきヒラリと新作のアイデアが頭をかすめると、それにまつわる資料を調べたりしていた。まだまったく構想はないのだが、もはや頭のなかはそれについての想念でいっぱいだ。断片も断片、ただ細い光の矢がヒューヒュー飛び回っているにすぎない。風呂にはいっていても、食事をしていても、テレビでニュースを見ていても、こうしてコンピューターのキーボードを打っていても、光の矢が飛び回っている。しかしこういう状態がいいのだ。たぶんなんとかなる。
Nov 8, 2005
コメント(2)
おそらく今年最後になるであろう50号(117cm×91cm)の作品の準備をしなければならない。まだ構想がまとまらず、精神状態が不安定だ。かたづけておかなければならない雑事もある。いつものことながら、この時期、自分の肉体のなかに別のもうひとりの自分がいて、26時中、私自身の哲学や思想を確認しながらイメージを探っている。 私の作品は、描く対象が外部に存在しているのではない。つまり写生をするわけではない。哲学なり思想なりがイメージを引き連れている。しかしそれは未だ様式をそなえてはいず、何と言ったらよいか、どこかしら曖昧なアミーバーのようにふわふわグニャグニャしてい、ときどき鮮やかな半身を現わすのである。私は自分の目を自分の内部にひっくりかえし、それを見つめながら、様式や技法と相談しているのだ。 幾人もの私が幾とおりものことを同時に考えている。だから、精神状態が不安定なのだ。できるだけ家族との接触を避けていたくなる。家族がもっとも疎ましくなるのがこの準備段階初期だ。時にはその声さえも聞きたくない。 そうしてある日、私の脳天に衝撃が走るのだ。「来た!」っと、私は思う。ミューズ女神が御出でになったのだ。1ヵ月に及ぶであろう制作の活力と、不断の集中力をお恵みくださる女神の降臨である。私はありがたい気持でいっぱいになりながら、あとはただ手を動かすだけでいい。なんのためらいもなく、システィマティックに日々の仕事をするだけでよい。やがて仕事は終わり、作品が完成する。 その準備の時がきた。
Nov 7, 2005
コメント(2)

10月28日から10日間の予定で開始した日替りコラージュも今日で最終回となりました。新聞のチラシを利用するという、ちょっとタイトなルールを設定してのお遊びでした。いかがでしたでしょうか。ご覧くださりありがとうございました。最後に番外の一作をトップに掲載しました。
Nov 6, 2005
コメント(1)
東京薬科大学でのセミナー、第2部は細胞機能学の山岸明彦教授による『地球最古の生命を探る』。先生のご研究は、第1部の神藤教授のゲノムをめぐる研究と密接な関連がある。 先生ご自身の紹介によれば、次のようである。 今から45億5千年前、地球は誕生した。そして、今から約40億年前に生命が誕生した。38~35億年前の岩石中に、生命の痕跡が見つかっている。ただし、当時の生命がどのような生き物であったのか、当時の化石からは良くわかっていない。化石からは明らかにならなかった最古の生命の痕跡が、海底熱水噴出孔周辺にすむ生物や最古の生物の遺伝子を調べることにより、全生物の共通の祖先は80℃以上の熱水中に生育する超好熱菌であることがわかってきた。なんとか当時の生き物を生き返らせることはできないか。----これが、現在山岸教授が国家プロジェクト‘Archaean Park Project’の一員として研究されていることである。 地球に原始海洋が形成されたのは40億年前と推定されているが、それがわかるのは、最古の岩石の発見による。カナダ北西部の40億年前の地層から採集されたアカスタ片麻岩がそれである。この片麻岩は40億年の間に変質をこうむっているのであるが、花崗岩と堆積岩からできていて、この2種の岩石ができるためには水が必要なのである。そこで海が存在したであろうと推定されるのだ。 最も古い生物細胞の化石は35億年前の岩石から採取された。深海底に生き物がいた証拠であるとされたが、しかしはたして深海底であったのか。そこで深海底の地層を調査された。第1期層-第2期層-第3期層といわば水平に堆積する岩盤に枕状溶岩(変質玄武岩)に添って垂直方向に立ちのぼるシリカ岩脈と呼ばれることになる岩脈が発見される。これは深海底のさらに深いところにある熱水の噴出孔の痕跡であった。350℃以上の深海底熱水には玄武岩に含まれる鉄やマグネシウム、マンガンや硫黄、カルシウム、銅、水素などが溶解していて、もしこの熱水を好み、硫黄を好む生命が存在していたとしたらどうか。 先に述べた国家プロジェクト‘Archaean Park Project’は、この仮説を検証し、超好熱菌を採集するためのもの。地球物理学、地学、地球化学、微生物学の共同研究である。 このプロジェクト・チームは現在、マリアナ海溝と日本海海溝で深海底熱水孔を調査している。日本海溝は七曜海底火山のうちの水曜火山口(深度1400m)に掘削孔をあけ、掘削孔から湧き出る熱水を採集するのである。この熱水をフィルターで濾過して微生物を集める。さらにDNAを抽出して〈16S rDNA〉の連続解析をするのである。 この調査により熱水中には非常に古い菌がたくさんいることが判明した。マリアナ海溝から取れた超好熱菌は1mmの1/1000。これらは熱水のなかで水素と硫黄を食べているのである。 しかしながら、これらほとんどの菌は培養できないので、どういう条件で生育するかがわからないのである。山岸明彦教授の研究室では深海底熱水孔と同じ環境をつくってみようというコンセプトにもとづいて、研究室内に熱水環境を再現。超臨界熱水循環装置を使って培養実験をしているという。 山岸教授はこの結果が、失敗と出るか成功と出るか、1年後になるか10年後になるか、その結果を私たちに報告する機会をもちたいとおっしゃていた。 ところで先に述べた今から35億年前の最も古い生物細胞の化石(約40ミクロン;4/100mm)は現存するシアノバクテリアにかなりよく似ているのだが、じつはシアノバクテリアか化学合成細菌か、はたまた非酸素発生型光合成細菌か、どれだか分っていない。しかし遺伝子を調べると昔のことが分る。つまり、生物の体はタンパク質でできている。タンパク質は精密機械のような物質で、人間の場合約2万種のタンパク質からできているが、これが厳密にちがった形をしているのである。しかもタンパク質はアミノ酸が並んでできているが、そのアミノ酸はわずか20種なのだ。2万種のタンパク質それぞれが20種のアミノ酸の決まった順序で構成されているのである。 ちょっと山岸教授が例示したタンパク質(ヘモグロビン)のアミノ酸配列を掲げてみよう。 ヘモグロビン遺伝子:アルファベットはアミノ酸の種類ヒト VLSPADKTNVKAAWGKVGAHAGEYGAEALERMFLAFPTTKTYウマ VLSAADKTNVKAAWSKVGGHAGEYGAEALERMFLGFPTTKTYコイ SLSDKSKAAVKIAWAKISPKADDIGAEALGRMLTVYPQTKTY この3種の生物のヘモグロビン遺伝子を縦に見比べてゆくと、どのアミノ酸の種類が違っているかがわかる。たとえばヒトとウマを比べてみると、4番目に違いがある。それからずっと同じで15番目でまた違っている。19番目でまた違い、35番目でも違う。この4カ所の違いがヒトとウマとを分けているのだ。 ところでこの共通と差違を多種類の生物で比較してゆくと、全生物の進化系統樹ができあがる。つまりアミノ酸配列がどこで違ったかをたどってゆくと共通の祖先に行きつくというわけである。その祖先PからあるときコイとPXとに分岐し、次ぎにPXからウマとPXXとに分岐し、次いでPXXからヒトが発生したと考えられる。 山岸明彦教授の研究にタンパク質工学という分野がある。これはどういう研究かというと、いろいろな遺伝子のアミノ酸配列を比較して、祖先型アミノ酸配列を推定する。そしてその祖先型のアミノ酸配列を持つタンパク質(祖先型タンパク質)を作り出そうというのである。 どういう方法でそれをするのか? 教授によれば次のようにするのだそうだ。 1,元になる遺伝子を祖先型にする。 2,祖先型の遺伝子を大腸菌に入れる。 3,大腸菌に祖先型遺伝子からタンパク質を作らせる。 4、大腸菌をすりつぶす。 5、祖先型のタンパク質を分けてきれいにする。 教授によればこの実験において、最終過程の祖先型タンパク質を分離する技術は、学部の4年生だともうできるようになっているそうだ。 これは簡単に言い換えれば、教育成果が非常に高いということで、優秀な学生たちであるということだろう。新聞報道などによれば、一方で教育成果の底レベル化が進行しているという。国際比較の結果もあまりかんばしくないらしい。そういう一般の教育成果と、医学・薬学をふくむ理工系の較差はいかなるものなのだろう。私が直接見聞したある大学生は、リットル(l)ということばが容積を表わす単位であることを知らなかった。1l(ワン・ライン;1行)をワン・リットルと読んでいたのには仰天してしまった。こういう例を見聞するのが日常茶飯事なのだ。どうなっているのだろう、この国は。 と、余計なことを考えてしまったが、そういうわけで、地球生命の起源と初期進化をめぐる研究は、現段階では、全生物の共通の祖先は超好熱性であった可能性が高いことが分った。しかし化石と共通の祖先が同じかどうかは分らない。したがって生命の起源はまだわからないのである。 一昨日の山岸明彦教授の講義を復習してみたが、先生ありがとうございました。時間が足りなく感じたほど面白かったです。
Nov 6, 2005
コメント(0)
きょうも昨日に引きつづき東京薬科大学へ行く。セミナーへ参加するためである。いやァ、面白いのなんの。時間制限が非常に残念というところ。 まず構造生物分析学の神藤平三郎教授による『ヒトゲノムの解読とその衝撃』 ヒトゲノムの解読問題の前に、DNA発見史をひとくさり。1940年代の遺伝子は蛋白質かDNAかという論争はアメリカのイリノイ大学のM・デルブルックのファージグループが「遺伝物質はDNA」であると発表したことで火がつく。そしてデルブルックが「遺伝子は量子」であると、ふともらしたらしい一言をききつけた、あの量子力学者E・シュレーディンガーがそれでは私も調べてみにゃならんと生命科学の分野にシフトして『生命とは何か』を著す。これがまた大きな影響をおよぼす。そして1952年にハーシーとチェイスという二人組が放射性同位元素をもちいて、遺伝の実体はDNAであることを実証し、容認される。翌53年、J・ワトソンとF・クリックが、有名なDNA二重らせん構造を発表(MOLECULAR STRUCTURE OF NUCLEIC ACIDS: Nature;April 25,1953)。この論文には前年のハーシーとチェイスの実証が故意にはぶかれたらしく、ひとことも引用されていないそうだ。それはともかく、R・フランクリンという女性学者がDNAのX線像の撮影に成功。この写真を盗み見たクリックが、数学的にこれが間違いなくラセンであることを表明。 神藤教授はここでX線回析像とそのパターン原理を図示したが、なるほどそれは逆平行2本鎖の回転対称つまりラセンでしかありえない。 このあたりから講義は俄然おもしろくなる。それではなぜDNAはラセンを巻くかというと、核酸を構成する塩基対の性質によるのだそうだ。塩基対にはC-G塩基対とT-A塩基対があるが、いずれもその構造は平面的な板状で、しかも塩基は水を嫌うのである。塩基の板の厚さは0.33ナノミクロン。この板状の塩基対を重ねてゆくと0.27ナノミクロンの隙間ができる。そこにじつは水がはいりこんでいるのだが、水を嫌う塩基は水との接触面を最小にしようとする。つまり、「すべり」と「ねじれ」でそれをおこなう。するとおのずとラセンを巻く、というわけである。 ところでなぜ薬学部でこのDNAの研究をするかといえば、抗癌剤や抗生物質はDNAに結合するのだそうだ。たとえばシスプラチンという薬物は癌細胞の遺伝子のラセンの隙間に入り込んで化学結合し、細胞の複製(増殖)を阻止する。あるいはアクチノマイシンDという抗生物質を投与すると、薬物は病原菌の遺伝子の塩基と塩基の間にもぐりこんで、二重ラセンを破壊してしまう。こういうことらしい。 さていよいよゲノムだ。ゲノム(Genome)とは一つの生物種の全遺伝情報の1セットのことである。つまり生命の設計図である。この解読については現在、国家レベルの国際プロジェクトが進行している。 じつはこのプロジェクトの重要性をいち早く認識したのは日本のある科学者だったが、彼の提案を日本政府は拒否してしまった。だれも研究していないからというのがその理由。日本の政治家はそのバカさ加減を世界に喧伝しているわけだ。どうしてこう無知、無教養な人間ばかりが政治家になるかね。選んでいる我々がバカなんだけどさ。こんなのが愛国などというから、歪んでくるんだね。真の愛国者を蹴散らしておいて。----と、そういうわけで、クリントン大統領とブレア首相が固い握手をしてこの国際プロジェクトは出発した。20年かかるか30年かかるか、はたまた100年かかるかわからないが、とにかく莫大な予算をつぎこんで出発した。イニッシアチヴをとりそこねた日本も人の尻にくっついて仲間入りさせてもらったが、ねえ、日本の政治家よ、こういう長期のヴィジョンを推進できないなら政治家なんかにならないで別なところでゴロ巻いていなよ。 このプロジェクトの目標と研究による波及効果はつぎのとおり。 1、ヒトゲノム塩基配列の完全解読。 2、遺伝子の機能解析。----蛋白質の働きの解明。 3、生命40億年の進化の足跡を追求。 4、病気の遺伝子レベルでの理解。 5、人の個性と体質の理解、およびテーラーメイド医療について。 6、新しい医薬品の開発(ゲノム創薬の誕生)。 7、生物情報科学の確立。新しい学問分野の勃興。 以上のうち5番目についてであるが、これは個人個人の体質にあわせた医療が可能ではないかということである。テーラーメイドという意味は、洋服の仕立てを個人の体型にあわせておこなうように、ヒトゲノムが完全解読されれば、そのような医療の方向をめざせるだろうという思想だ。個人の体質の違いというのは、じつはヒトゲノムのパラドックスといわれる問題にからんでいる。ヒトゲノムのパラドックスとはこうだ。 1、ヒト遺伝子の数はハエの約2倍しかない。 2、ヒト遺伝子の数は植物の1.5倍ほどだ。 3、ヒトとチンパンジーの間で、ゲノムの違いは1.4%しかない。 4、マウス、チンパンジーとヒトとの間で、遺伝子や遺伝子の構造と機能の違いはほとんどない。しかしヒトとヒトとの間では0.1%もの違いがある。 5、ヒトゲノムの非翻訳領域75%の存在意義は何か。 6、35%にもなる繰り返し配列の起源と役割は何か。 ここで4番目のヒトとヒトとの間に遺伝子の違いが0.1%もある、というのがテーラーメイド医療思想の根拠である。 つまり別な視点から私が思うに、それだけ個性が人間にとって重要だということであろう。たとえば文化意識や教育制度のなかで個性を無視するようなものは、人間として相当「無理」なことをしていることになろう。いや、冗談じゃないよ、これは社会制度を考えるうえですごいことだよ。 というわけで神藤教授のお話は、つい先頃Nature誌に発表された最新論文にまでおよんだ。その論文というのは、DNAの多様性をめぐり B-DNA とZ-DNA とのjunctionについて論じている。つまりB型といわれるDNAとZ型といわれるDNAのまじりあってくっついた構造のDNAがあるという発見である。 また、家族性パーキンソン病原因タンパク質ParkinのN末端ドメインの構造についての概説と、まあ、これでは時間がいくらあってもたりない充実した講義をしてくださった。おもしろかたです。先生ありがとうございました。 そんなわけで、山岸教授の『地球最古の生命を探る』の講義内容については、またあしたにしよう。こちらもおもしろかったです。
Nov 4, 2005
コメント(1)
昼過ぎ、八王子の東京薬科大学の大学祭へ行ってきた。「東薬祭」という。毎年でかけてセミナーに参加してきた。生命科学の最先端をめぐる講演を聞くためである。今年は構造生物分析学の神藤平三郎教授による『ヒトゲノム解読とその衝撃』と、細胞機能学の山岸明彦教授による『地球最古の生命を探る』である。ただしセミナーは明日開催される。あしたも出かける予定だ。で、今日は薬草園見学。 この大学の薬草園は東洋一の規模をほこる。非公開の自然林一帯と、ときどき一般公開する見本園とをあわせもつ。見本園には118種の薬用植物が栽培されている。またそれとは別に、規模は小さいが、熱帯植物を栽培している温室がある。普段目にする機会のない猛毒植物もあるので、なかなか面白い。残念なのは今の季節だと花期を過ぎているものがほとんどなのだ。しかしさすが薬科大学だけあって、キャンパス内のすべての植物にネームプレートが添えられ、そこには薬効が記されてある。あんまり多いので目移りしてしまうが、花や実をつけているものだけ見ていてもなかなか楽しい。じつは東薬祭のときに薬草園を訪ねると、球根や株分けしたハーブを無料で分けてくれる。ここで貰ったものは、手入れがよいので、素人の私でも立派な花を咲かせてくれるのだ。それがお目当てでもある。きょうはクロッカスとアイリスの球根、そしてチャイブというハーブの株、サツマイモの種芋をもらってきた。アイリスはナショナル・ベルヴェットという種類。 我家の庭ではまもなくチューリップの球根の植え付けをするが、そのとき一緒に今日もらった球根を植えることにしよう。チューリップもクロッカスも冬の低温にあてると良い花をつける。来年の春が楽しみである。 薬草園を出て、キャンパス内の学生たちのイベントを見てまわる。陶芸クラブの焼き物市に立ち寄り、「絶対完売してみせます」と上級生に宣言している下級生のことばを耳にしながら、ひとつ目についた作品を買う。どの作品も既成品の模倣なのに、ただ一人だけ、おかしな物をつくっていた。土を厚さ6cmほどの板にして、上部を何か浅彫りの波状の板で叩き、周囲を篦や指でザクザクと掻き落して岩を砕いたような感じにし、上部中央に丸い穴を掘ってその部分はろくろを使って器にしてある。つまりグイ呑みを板状の岩の中に埋め込んで、岩と一体にしてしまっていると言えばよいか。ネープルスイエローの粘土にそのまま透明釉をかけている。 たぶん灰皿を作ったのだろうが、煙草呑みではない私はもちろん灰皿に使うつもりはない。オブジェとしてもいいが、まめ剣山を入れて、野花を小さく活けてみようか。この作品、400円なり。 その後、名物ガラクタ市を一巡し、古本コーナーで4册購入。いずれも小説本。池波正太郎『梅安影法師』と、同じく池波氏最後の著作本『梅安冬時雨』。後者は追悼写真集と親しかった方々による追悼文が付属している。そして、塩野七生の推理小説『聖マルコ殺人事件』。彼女の最近のマキャベリズムを援用しての日本現代社会論はまったくいただけないが、まあ、それはそれだ。私はだいたいが、古い時代の思想や制度を現代社会の規範としてもとめるような論を、ばかばかしく思うほうなのだ。歴史はそこをのりこえるためにしか用はない。と、息巻いておいて、最後の一冊は阪東眞砂子『神祭』。阪東氏の著作はこれまで一度も読んだことはない。ちょっと目を通したところ、失礼ながら、同人誌出身作家のような文章で私の好みからするとカッタルイが、しかししっかり読まずにこんなことを言うのも馬鹿なので、一度きちんと読むことにする。 この古本(と言っても、まったく汚れがない)が、一冊100円。しめて400円也。 帰宅すると、いささか疲れた感じだ。夕食後しばらくしたら、なんだか眠くなってしまった。寝室にひっこんで、枕元に雑然と積んだ本のなかから英語版のレイモンド・カーヴァー『WHERE I'M CALLING FROM』を取り、ひろげて読み始めたが、1,2ページもしないうちに眠ってしまった。目が醒めたら午前0時すこし前だった。起きだしてコーヒーを入れ、この日記にむかった。
Nov 3, 2005
コメント(6)

先日この日記を利用してみんなの『コラージュ展』を開催してみようか思案中とおしらせしたところ、さっそく良次さんが送ってきてくださいました。こんなんでいいかな、と言っていますが、イインジャナ~イ!良次さん作 《大漁少年》 コラージュ 2005年--------------------------------------------羽幌町回想記4 私の家には綿羊がいた。農家に預けて世話してもらっていたのだ。私は父につれられてしばしばその綿羊を見に行った。塩を食わせるのを見て驚いた記憶がある。昭和26年の6月には長野県川上村に引越してしまうので、おそらくこの綿羊はそのまま農家にくれてしまったのだろう。 羽幌港祭りには賑やかな大漁祝い行列が街を練り歩いた。行列の出発前に役場で準備をしている人たちのなかに天狗がいた。高さ2,30cmもある一本歯の足駄(高下駄)をはいて、金色の楓の葉の団扇を持っていた。私はその扮装がおもしろくて興奮して見ていた。行列が始まると揃いの法被を着たひとたちが地引き網をひろげてハンモックのように四方から持って、掛け声をあげながら網を上下に振った。すると網のなかで作り物の色とりどりの魚が空中に舞った。銀紙や金紙の鱗が日の光に反射して輝いた。 家族揃って山車を見にゆくことになっていたが、父がなかなか役場から帰ってこない。私はまちきれず、母をせきたてて街にでていった。もう遠くに山車行列がやってくるのが見えた。おおぜいの見物人にまじって待ち構えてていると、私たちの前に山車が来た。見上げると、高欄をめぐらした高みに、お囃子や芸者衆にかこまれて父がいた。 家族旅行したおり、列車が田舎駅に停車中に私が美しい草花をみつけると、父はとびおりてそれを採ってきてくれた。私と母は、車窓から見ていて、汽車が発車してしまうのではないかとハラハラしたものだ。しかし父はいつも上手に飛び乗って、私に草花を手渡してくれた。 曼珠沙華のことを書いたときに、羽幌映劇の火災にふれた(2005年10月14日)。その劇場が煙草の火の不始末が原因で火事になったのは真夜中のことだった(*)。随分遠いはずの火が、闇の中に真近く窓から見えた。下宿人の学生(学生服を着ていたけれど役場の給仕だった)と父が窓を占領して、私は見たくてもなかなか見ることができなかった。 後日、やはり役場に勤めていた男性がその火事で大怪我をしたことを知った。その人は兄弟で劇場の近くに住んでいたのだ。弟は頑健で、決断力もあったが、役場勤めをしていた兄のほうはマニキュアをしたりする少し女性的な人だった。ふたりは逃げるために二階から飛び下りたのだという。しかし弟のほうは思いきりよく無事にとびおりたが、兄のほうはためらいがちが災いしたのか大怪我をしてしまったらしかった。私はこの火災以前に一度、兄のほうには会ったことがあった。女性的であるということは別にどうということもない話として私は受けとめていたのだが、自分が遠くから眺めていた火焔のなかに見知った人がいたのだと思うと、子供心にある感慨を抱いたのであった。 (*)昭和24年9月22日。南三条一丁目、羽幌劇場から出火し17棟全焼21世帯が被災した大火。(後日記) 怪我といえば、下宿人のお兄さんが私を自転車の前にのせてどこかに出かけたことがある。ただ家の周辺をぐるぐる回遊していたのだったかもしれない。私は素足だったらしいが、補助椅子に坐り、脚をぶらぶらさせていたのではないだろうか。前輪のスポークのあいだに右足の親指をつっこんでしまったのだ。バリバリとスポークがはじける音がして私は絶叫した。お兄さんが私をかかえて家に走った。それからのことはすっかり忘れてしまったが、なんでも肌色をした粉薬を塗って繃帯でぐるぐる巻きに固定したことは憶えている。指がほとんど取れかかっていたらしいのだが、子供の活力ある再生力のためであろう、まったく障害もなく完治してしまった。 祖母や母と一緒にまちがってアメリカ軍専用列車に乗った前後のことだが、私は祖母にせおわれて玩具屋に行った。その頃は玩具屋といっても、ほとんど商品がなかった。店の棚はガランとしていた。ショーケースのなかにエナメルを塗ったブリキ製の大きなオートバイが1台飾ってあった。ヘッドライトが電池で明るくつくのである。ただそれだけの仕掛けだったが、最新式の玩具であった。私は迷わずそれが欲しいといい、祖母は買ってくれた。 私はあまり既成の玩具を欲しがる子供ではなかった。幼児期はこのオートバイと赤バットとお土産にもらった〈いろは〉カード。そして雑誌付録の紙製の組み立てキットくらいだった。小学生になると、自分で作って遊んでいた。そんなだったから、祖母が買ってくれたオートバイは唯一の高級玩具だったのである。
Nov 2, 2005
コメント(3)
裁判所の前は堀になっていて、その水門のコンクリートの壁をたくさんな蝦(えび)が這い上がってくる。体長3cmくらいだった。細い透明な蝦だった。それは容易に採ることができた。堀には蓮の花が咲いた。その水底の泥のなかにある根が蓮根なのだと母がおしえてくれたことを憶えている。 堀を渡った裁判所の隣地を私の家では畑として借りていた。小さな畑だったが、ジャガイモをつくっていた。母が畑仕事に出るときは、私もついて行き、缶詰の空缶に蝦を採ったりジャガイモの収穫を手伝った。あるとき、私が掘り起こしたジャガイモが食べられない青い色をしていた。ちょうどそのとき、松の枝に止っていた鴉が糞を落して鳴きながら飛び立った。「アオー、アオーッて飛んでいった!」と私は悔しがった。 アメリカ軍の飛行機が来て、夥しいほどのパラシュートを上空にまきちらした。もちろん兵隊が身につけているのだが、彼らは黄色っぽい服を着てい、飛行機からとびおりるのも見えた。私はおとなの人たちにまじって、どこか橋の上でそれを見ていた。もしかすると橋でなかったかもしれない。その道路の下に家屋があったのを憶えている。 おなじころアメリカ兵が専用列車でやってきて、ぽつりぽつりではあるが羽幌駅におりることがあった。子供たちが見に行くと、彼らは赤い表紙の小冊子を私たちにくれた。8cm×6cm程度の薄い冊子だった。私はそれを茶箪笥の抽出に何冊ももっていた。何が書いてあったのかは分らない。いつのまにか一冊もなくなってしまった。 (この冊子について御存知のかたはお教えください。) 私はアメリカ軍の専用列車に祖母や母と一緒に乗ったことがある。たぶん日本人の一般車輌と連結していて、私たちは間違えてしまったのであろう。別段、追い立てられもしなかったように思う。ドアに濃いグリーンのカーテンが掛けられていた。 昭和25年の7月、レッド・パージ(red purge;赤狩り、共産主義者追放)が開始された。私はこのことを〈クビキリ〉という言葉で記憶している。役場勤めをしていた父が、宿直が明けて帰宅したのだと思うが、帰ってきた途端に母にクビキリの話をしたのだ。私はクビキリというのが、人間の首を切断することだと思い、恐怖にふるえた。母が、仕事をやめさせられることだと言ったので、私はクビキリの意味を理解し、ようやく安心したのだった。 父と一緒にどこか奥深い山へ行ったことがある。そのとき父は全長30cmほどの山刀を携えていた。柄に鹿の角をもちい、真鍮で補強された革の鞘におさまっていた。自転車に乗った私たちは、道々熊の話をした。もし熊が出たらどうするのと私が言うと、父は山刀を指して「もし熊が出てきたときには、勇敢に戦うのだ」と笑った。私はまぶしいほど父が強く立派に思えたのだった。 父は真面目さと放埒とを合わせもつ人だった。馴染みの芸者と料亭にいりびたって、何日も家に帰らないことがあった。ある日、思いあまった母が私を連れてその料亭に父を迎えに行った。丸太という料亭だったと記憶する。二階の座敷の襖をあけると数人の芸者に囲まれて父が上機嫌で騒いでいた。母と私のすがたを見ると、手招きして「おいでおいで」と言った。すると京子という父の馴染みの芸者が、「坊ちゃんこちらにおいでなさい」と廊下に私をつれだした。両手を自分の背中にまわして、何かを隠しもっていた。 「坊ちゃんにいいもの差し上げましょうね」 私が黙っていると、彼女は「はい、これをさしあげますわ」と一冊の絵本を出した。それは講談社の『虫のいろいろ』という絵本だった。幼児用の昆虫図鑑といえばよいだろう。見開きで草むらの絵が描かれ、あちこちにいろいろな昆虫がいた。それぞれに仮名で名前がそえてあった。私はもう文字が読めたので、その思いがけないプレゼントが嬉しかった。 彼女としてはまず子供から手なずける作戦だったのだろう。いつかこういう日がくると考えて、絵本を用意しておいたにちがいない。私はそれで篭絡されたわけではないが、じつのところこの芸者は彼女の意図とはことなる大きな影響を私におよぼしたのであった。『虫のいろいろ』は私のもっとも大切な宝物になったのだ。私の自然科学や博物学への関心は、もとはといえばこの絵本に発しているのである。繰り返しくりかえし読んだので、背は破れ、ページは抜け落ちそうになっていたが、私は自分で糸でかがって大事にしていた。もちろん母はそれが私の宝物になっていることは良く知っていた。母の気持は知らないが、絵本については何も言ったことはなかった。
Nov 1, 2005
コメント(6)
全27件 (27件中 1-27件目)
1
![]()
![]()
![]()