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*13 能因法師 能因は、永延二年(988)に生まれ、永承五年(1050)、あるいは康平元年(1058)に亡くなっていますから、前回に記述した藤原実方とはほぼ同じ世代の人になります。能因は26歳の時、養父が家来に殺害されたため官への望みがなくなり、幼い子もいましたが、妻の死をきっかけにして、官職より歌の道と自由を求めて出家を決意しました。歌は、中古三十六歌仙の一人として名声を博していた藤原長能(ながとう)の屋敷の前で、たまたま能因の乗った牛車が壊れ、代わりの牛車を取りに遣っている間に、長能(ながとう)と対面し、入門の望みを訴えて弟子になったということです。家集の『能因法師集』には、長能の屋敷での歌会や詠み人のグループとの交流、小野小町と唱和した作品などもあるそうで、歌道の師承(ししょう)、つまり師から受け伝えるということは、長能・能因に始まると言われます。後世の西行法師や松尾芭蕉などからも深く敬愛されています。歌の学問に熱心で、とくに歌枕に強い関心を持ち、歌枕の収集家としても有名です。 能因は法師となった後も寺院に定住せず、旅に暮らしています。諸国を旅して歌を詠む、わが国最初のさすらいの歌詠み人として、陸奥や中国、四国などを旅しています。能因法師は、陸奥への旅で、白河の関へ立ち寄っています。奥州三関の1つとされる白河の関ですが、その創設の時期は不明です。関と名が付きますが、実際には国境の警備をおこなう防衛施設の性格が強いとされています。そのため、おそらく大和朝廷の勢力が関東にまで広がった5世紀頃には、北の防衛のために作られていたのではないかと推測されています。ここで能因法師は、 『都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関』 という歌を詠んでいます。能因法師が詠んだこの歌によって、白河の関は歌枕として一躍脚光を浴びることとなりました。『白河の関跡』は、白河市旗宿字西山に残されています。 能因法師はこの歌の出来映えに満足してはいたのですが、白河に旅をしたことはなかったそうです。そこで自分は旅に出たという噂を流し、家に隠れこもって日焼けをし、満を持してから発表したという逸話の持ち主です。それにしても、古今著聞集や能因家集に馬の記事が多く見えることから、馬の交易のため各地を旅していたとみる説もあります。このように旅をしていたという説を裏付けるかのような歌が、郡山にも関連して、三首ほどが残されています。 きみがため なつかし駒そ みちのくの 安積の沼に あれて見えしを。 別るれど あさかの沼の 駒なれば 面影にこそ はなれざりけれ。 花かつみ 生ひたるみれば 陸奥の あさかの沼の 心地こそすれ。です。これらの歌から、郡山でも馬を飼育していたことがわかりますが、しかし和歌として残されているため、当時の郡山の生活などの様子は、あまり良く分かりません。ところでこの能因法師の歌に、 武隈の 松はこのたび 跡もなし 千年を経てや 我は来つらむ というものがあります。この詩の題に、「陸奥の國にふたゝび下りて後の旅、たけぐまの松も侍りざりければよみ侍りける」。つまり、陸奥国に再び下向したところ、武隈の松が無くなっていたので詠んだ、とあります。竹駒神社縁起によりますと、小野小町の父の小野篁が陸奥の開拓の神として武隈明神の社殿を建立、以後、竹駒神社と呼ばれるようになったとあるそうです。私があえてこの話を持ち出したのは、篁と娘の小野小町が、小野町に住んだという言い伝えがあるからです。ところでここに出てくる『武隈の松』、いまの岩沼市二木二丁目にあった松の木と、その近くにあったとされる『阿武の松』が、阿武隈という名の語源であるとの説もあります。この『阿武の松』については、宮城県出身の私の知人が、「『武隈の松』の近くに『阿武の松』があった」と教えてくれたことによるものです。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2022.01.20
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*12 曾禰好忠(そね の よしただ) 曾禰好忠は、平安時代中期の歌人ですが、その出自については、ほとんどわかっていません。いずれにしても、前回の清原深養父と同時代の人であり、彼の作品『由良の戸を 渡る舟びと 梶をたえ 行方もしらぬ 恋の道かな』が百人一首にあります。その曾禰好忠の詠んだ歌に、次のようなものがありました。 浅ましや 浅香の山の さくら花 かすみこめても 見えずもあるかな 神世より人の心の浅き影さへしるき山の井に ここにも、『浅香の山』と『山の井』が出てきます。曾禰好忠は中古三十六歌仙の一人で官位は六位。当時としては和歌の新しい形式である『百首歌』を創始し、さらに一年を360首に歌い込めた『毎月集』を作っています。百首歌とは、数を定めて詠む和歌のひとつで、100首を単位として詠まれるもので、一人で100首を詠んだものと、複数の歌人が詠んだものを100首集めたものに分けることができます。一人で詠んだ百首歌は、天徳四年(960)年、曾禰好忠の家集『曾丹集』の中の『百ちの歌』に始まるとされます。曾禰好忠は、当時の有力歌人であった源順(みなもとのしたごう)や源重之らと交流があったのですが、偏狭な性格で自尊心が高かったことから社交界に受け入れられず、孤立した存在であったと言われます。 この曾禰好忠の詞書によれば、古今和歌集の前書きである仮名序にある「安積山の歌」と「難波津の歌」は、今日の「アイウエオ」か「ABC」のように、当時は誰もが口で覚えていたものであったそうです。したがって、2015年になって京都市中京区の平安京跡から出土してニュースになった、『難波津の歌』の木簡の裏から発見された『安積山の歌』は、万葉集の歌とは限らず、『大和物語』の155段の歌かも知れないとも考えられています。 この2つの歌の書かれた歌木簡が、平成九年(1997)度に実施された宮町遺跡(甲賀市信楽町宮町にある古代宮殿遺跡。国の史跡に指定されている)第22次調査の西大溝から出土しました。以下は、甲賀市教育委員会の発表を簡略化したものです。『この木簡の捨てられた時期の上限については、紫香楽宮の造営が開始された天平十四年(742)以降に基幹排水路として西大溝の開削が始まったと考えられ、下限については、天平十七年(745)五月の聖武天皇の平城京移動の頃に捨てられたと考えられている。『あさかやまの歌』が掲載されている『万葉集』巻16は、天平十七年(745)以降の数年の間に成立したと考えられているから、今回出土した歌木簡の年紀を、捨てられた時期の下限と考えている天平十六年末〜十七年以前としても、『万葉集』の成立よりも早いと考えられる。つまり今回の木簡は、『万葉集』を見て、そこに載っているあさかやまの歌を書き写したものではなく、それ以前にあさかやまの歌が流布していたことを表し、一方では歌木簡に書かれ、他方では『万葉集』に収められたと解釈できる。』 つまり、これから考えられることは、歌木簡に書かれ時と同じ頃、万葉集に収められたというのです。つまりこのことは、郡山にとって、大きな問題になるのかも知れません。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←こ 曾禰好忠(そね の よしただ)
2022.01.10
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*11 清原深養父(きよはら ふかやぶ) 清原深養父の生没年は不明ですが、第38代天智天皇から8代目の子孫で、光孝天皇より50年ほどのちの人です。詳細は良く知られていませんが、古今集に18首の歌が採用されている歌人で、紀貫之や藤原兼輔と親交があり、琴や笛の名手でした。深養父の奏でる琴の音を聞いて、兼輔と貫之が歌を詠んでたたえています。『後撰和歌集』 第4巻に、「夏の夜、深養父が琴ひくを聞きて」という詞書があり、兼輔が、 『短か夜の ふけゆくままに 高砂の 峰の松風 吹くかとぞ思ふ』(短い夏の夜が更けてゆくにつれて、ますます趣深く響く琴の音を、まるで高砂の峰の松に風が吹きつける音かと聞いてしまいます。)また紀貫之は、 『あしびきの 山下水は 行き通ひ 琴のねにさへ 流るべらなり』(山のふもとを流れる涼やかな水が、まるで琴の音にのってこちらまで流れてくるみたいだ。)と詠んでいます。琴の名手であった清原深養父の演奏を聴いて詠んだ歌です。また深養父の作品『なつのよは まだよひながら あけぬるを くものいづこに つきやどるらむ』が百人一首に入っています この深養父の作品に、 『あさか山 かすみのたにし ふかければ わがものおもひは はるるよもなし』(あさか山の霞のこめた谷が深いから、その谷底にいるようなわたしのもの思いは、深く閉ざされて晴れるときもない) 『みちのくに あぶくまがはの あたなにや 人わすれずの 山はさがしき』(阿武隈川を渡ると向こうには忘れず山、その山道は険しいのであろうか。逢って後に人に忘れられないというのは、難しいことなのであろうか) と言うものがあります。深養父の住まいは京都・大原に近い小野の里にあり、『やぶ里(さと)』と呼ばれていたそうです。また、『源平盛衰記』によると、晩年にはこの小野の里の近くに補陀落寺(ふだらくじ)を建てて住んだということです。補陀落寺は、深養父の山荘を寺に改めたのが始まりとされますが、この寺は小町寺とも呼ばれ、境内に小野小町の供養塔があります。大原は京都駅の北東、左京区にあり、千年も前から天台宗の修行の地として賑わっていました。 お茶の水女子大付属図書館発行の『古今和歌六帖第二』によりますと、『この歌は、『延慶三年(1310)ごろ成立した私撰和歌集である夫木抄(ふぼくしょう)にあるが、「詠み人知らず」となっている。ただしこの歌と並んで、まったく同じ、 あさひ山 かすみのたにし ふかければ わがものおもひは はるるよもなし が深養父の作として収められているので、同一人の作ではないかと推測している』とあります。ともかくこの二つの歌は、『あさか山』と『あさひ山』が違うだけで、あとはまったく同じなのです。 私は、葛城王が詠んだのではないかという『安積山の歌』は郡山が舞台であると鵜呑みをしていたのですが、『それは間違いである』と言えるのかも知れません。以後、『安積山の歌』については、この点を考慮しなければ、と思っています。なお、清原深養父は、清少納言の曽祖父になります。いずれにしてもこの歌には『安積山』が出てくるのでここに記載してみました。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー
2022.01.01
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