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我が家の記憶 あのことがあったのは、大分昔のことになる。 我が家には、三つの土蔵があった。それらは母屋から近い順に、『前の蔵』、『中の蔵』、『裏の蔵』と呼ばれていた。ある夜、その『前の蔵』の扉を開けると、すぐ左に、地下室へ行く階段があったという夢を見た。気になった私は、翌朝起床するとすぐ、『前の蔵』へ行ってみた。扉を開けた左には、いつも見慣れていた半間四方ほどの押入れが鎮座していた。夢で見たのはここかと思って押入れの戸びらを開いてみたが、何の変哲もない様子である。周辺をよく観察してみたが、押入れの背後の板は土蔵の壁にピッタリ付いており、人が入り込めるような隙間は見当たらなかった。押入れの床も叩いてみたが、それも開くような様子はなかった。 「やっぱり夢だったな」 そう思いながら蔵の中を見渡した。すると今まで気にも留めなかったが、床の中央部に、空気穴として使われている半間四方ほどの平らな格子状の床が目に入った。そこを上から眺めてみると、格子を透かして下の土が見えていた。「ん…?」 私はそこに、何やら妙なものがあるのに気がついたのである。 格子を外してみると、籾殻が富士山の形に整えられていた。再び、「ん…?」、である。これはどう考えてみても、これを作った本人以外の人が手をつければ、すぐに分かるようにしていた方法としか思えない。すでに祖父・父ともに亡くなっていた私は、今やこの家の当主である。調べたとしても、誰に文句を言われることもない。そこで私は、その富士山の真ん中を、傍にあった木の棒で刺してみた。富士山が大きく崩れ、刺した棒が下の木の板に当たる音がした。そこで今度は思い切って、富士山を掻き払ってみると、何かの蓋になっているような木の板があった。またしても「ん…?」、である。私は恐る恐る、その蓋を除けてみた。するとそこには陶器の壺というよりは土器のような壺の首が見え、壺の中には、何やら油紙で包まれたようなものが見えていた。壺は、半分以上が土に埋まっていたので、中身だけを取り出してみた。それは体積の割には、重いように思われた。薄暗い土蔵の中で開いたその包みの中からは、細い縄が通された結構な量の古銭が出てきたのである。しかし残念ながら、大判小判の類は入っていなかった。「うーん…」。 私は思わず唸った。これは曽祖父か先祖の誰かが、埋めたものに違いなかった。 あれから幾星霜。 平成十年、私は先祖伝来続けてきた営業の全てを整理した。長年の取引先により受けた取り込み詐欺、そして2004年におきた大水害の被害から立ち上がることは出来ないであろうという危機意識が、その根底にあった。しかし営業を止めるということには、大変な労力を要するものであった。全社員への退職金と銀行借り入れの返済。それだけでも大変なのに、約束手形を受取っていた取引先の一部は不渡りとされるのではないかと恐れ、暴力団に安く売った会社も現れた。これら暴力団からは、支払期日を守ることへの脅迫も受けていたのである。 これら一斉に襲ってきた多くの支払いに対して、当然ながら資金不足となった。実家の売却のことを聞きつけた当時の三春町長から、「三春の町屋資料館にしたいので、是非譲り受けたい」との打診を受けた。当時、三春歴史民俗資料館や三春人形館などを作って町興しに力を入れていた町長は、我が家が明治期の建築物ではあったものの、江戸期の様式で間口が狭く、京都の町屋のように奥行きが長かったのである。町長の提案に応じることは、建物が自分の手から離れても、建物自体は長く残るかも知れないという安堵感もあった。三春に住む親戚などの、賛意も得られた。私は、実家の売却の申し入れを受け入れた。私の実家は町の所有となったが、それもあって借財のすべてにピリオドを打つことが出来たのである。 建物の明け渡しに際し、家財ともう使われなくなった諸道具などを運び出し、空になった建物を確認していて、『中の蔵』の梁の上に、何か黒いものを見つけたのです。ハシゴを使って登り、降ろしてみると、それは意外に軽い箱状の物であった。それは埃にまみれてはいたが、丁度モーターなどのコイルのように、麻紐でグルグル巻きになっていた。ともかく、丁寧に解(ほど)いてみた。その麻紐のコイルの下は、油紙で包まれていた。この油紙を取り除いてみると、また麻紐のコイルが表れたのである。それでこのコイルを、丁寧に解いてみると、また油紙に包まれていました。この油紙を取り除いてみると、黒い和紙が貼られた30センチ平方の平面に1メーター20センチほどの長さの箱が出てきたのです。しかも開けてみると、その箱は長〜い引き出しだったのです。引き出しの引き手を引いてみました。すると中には、やはり油紙に包まれた長い物が二つ入っていました。「一体、何が?」その思いで二つの包みを開いてみると、なんと、刀が二振り出てきたのです。引き抜いてみました。薄暗い土蔵の光の中で、それは鈍く光っていました。このように厳重に保管されていたせいか、錆一つなく輝いていたのです。 「この刀は、何時の時代に、誰が保管したものであろうか?」 そしてこの保管されていた状況から考えて、後の世代の誰かが開けることを予想したものに違いないと思われた。それがなんと、私だったのです。 ところでこの話を私から聞いた叔母が、次のような話をしてくれたのです。 「(太平洋)戦争中に、おじいさん(8代目・私は10代目)が、『裏の蔵』の『上がりがまち』に、何か一人で埋めていたのを見た覚えがある。何を埋めたかは知らないが、もし何かあったら忘れずに掘ってみるといい」と言われたのです。そうは言われても既に三春町の物になってしまった今、勝手に掘り返す訳にもいかなかったし、本当かと思ってその気にもなりませんでした。忘れた訳ではなかったが、そのまま時間が経っていった。そしてある日、三春へ行った時、愕然としました。あの実家の全てが取り壊され、ポツン、ポツン、ポツンと三つの土蔵だけが取り残されていたからです。しかもすでに土蔵の改造はほとんど済み、床も綺麗に貼られ、土蔵を利用した新しいカフェの開店準備が進んでいたのです。もう、どうすることも出来ません。私は黙って帰ってきました。 私は今でも、「本当におじいさんは『裏の蔵』の床下に、何かを埋めて隠したのであろうか」と疑問に思っています。そしてあの夢は、本当は『前の蔵』ではなく『裏の蔵』の夢であって、おじいさんが夢で、孫の私に何かを伝えようとしたのではないだろうか」とも思っています。叔母も亡くなってしまった今、それを確認する方法はなくなってしまいましたが、自分が所有しているうちに掘り返してみなかったことに、今でも若干の悔いが残っています。
2023.01.20
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大日本帝国の埋蔵金 日本は戦争継続のための資金不足に対処するため国債を発行し、国民から貴金属などの提供を求めました。そして戦後、終戦処理に必要な国庫収入を確保するため、昭和二十一年三月三日時点の財産の総額から負債の総額を控除した金額が十万円を越える者に、25%から90%という超累進税率による富裕税を課したのです。富裕税が課税されたのは約四万八千人で、国内総世帯の0・2%弱でした。富裕税における財産評価額の70%から80%は土地・家屋という不動産と株式等の経済資本でした。納税にあたって、彼らは自己の邸宅や不動産、さらには貴金属などで対処したのです。そのような中で、M資金というものがありました。 M資金とは、連合国軍最高司令官総司令部、いわゆるGHQが、占領下の日本で接収した財産などを基に、現在も極秘に運用されていると噂される秘密の資金です。Mは、GHQ経済科学局の第二代局長であったウィリアム・マーカット少将の頭文字とするのが定説となっています。しかしM資金の存在が、公的に確認されたことは一度もありません。そのためもあって、M資金に関係して、様々な秘密資金詐欺が発生しました。著名な企業や実業家がこの詐欺に遭って自殺者まで出したこともあり、一般人の間でも有名になりました。終戦時の混乱期に、大量の貴金属やダイヤモンドなどの宝石類を含む軍需物資や、一般から強制的に提出させた刀剣類、また90パーセントもかけられた富裕税が払えず、物納された貴金属類などが保管されていた日銀地下金庫から秘密裏に流用されていたということ、そしてこの日銀地下金庫にマーカット少将指揮の部隊が調査・押収に訪れた際に、彼らによる隠匿があったのではないかということなどがあったのです。 GHQの管理下に置かれたこれらの押収資産は、戦後復興・賠償にほぼ費やされたとされるのですが、その資金の流れには不透明な部分があり、これがM資金に関する詐欺の噂の根拠となったようです。M資金の詐欺師は、虚実織り交ぜた話で、被害者の欲求につけ入り、そしてからめ取って行ったのです。話を信じ、M資金の恩恵に与ろうとした被害者が金を用意して仲介者である詐欺師に渡した後、その人物はそのまま行方不明になる、というケースが典型的でした。ともあれ戦後の混乱期でしたから、アメリカの息がかかった資金があっても、不思議ではなかったのかも知れません。このM資金詐欺は、昭和三十年代から平成を超え令和の今に至るまでの60年以上、ほぼ同じ手口・内容の詐欺が繰り返されていると言われます。どうぞ皆さん、引っかからないようにしてください。 ところで昭和二十一年四月十九日の新聞に、『旧日本軍の金塊発見』の活字が躍っていました。そこに載せられていたのは、103本の金塊、当時の金額で92万7000円、2021年の価格で280億円というものでした。本土決戦のために軍が国民から徴用した貴金属や軍需物資が国民には返還されず、さらには食料品の入った缶詰などが高級軍人や官僚などの特権階級に横領され、それが戦後のヤミ市に横流しされていました。その一部である金塊が、GHQにより引き揚げられたというのです。これは終戦直前に、旧日本軍が陸軍省用地に隣接した東京湾の越中島海底に隠匿していたものでした。戦後まだゼロ年、飢餓やインフレは戦争中より深刻でした。もし、隠匿物資が国民を救うために使われていたら、どれほど多くの戦災者が救われていたか分かりません。それらを憂えた関係者によって、GHQへの『たれ込み』により見つけられたものと推測されています。 そしてもう一か所、場所は福井県敦賀市。終戦までここには陸軍の敦賀連隊が置かれていたのですが、日中戦争下の昭和十五年に大陸から持ち込まれた相当な数の貴金属や美術工芸品を、昭和十九年に山中に隠したというのです。その価値は約3億円(当時)。この話は、旧陸軍の将校の一人が下宿先の旧家の主人に伝えたことから、戦後しばらくしてから捜索が始まったというのです。それから苦難の調査が続き、あともう少しだというのですが、実はそこで作業が中断しているというのです。理由は、落盤と酸欠の危険に加えて、付近にクマが出没するようになったからだそうです。 げに『キン』とは、人の心を惑わすものですね。
2023.01.10
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徳川の埋蔵金 ところで規模の大きな埋蔵金伝説に、徳川の埋蔵金があります。大政奉還で徳川幕府が政権を朝庭に返上した翌・慶応四年(1868年)三月、新政府軍は東海道を下り、まさに江戸を総攻撃しようとしていました。その緊迫した情勢の中で、新政府軍の西郷隆盛と幕府の勝海舟との交渉によって『江戸城明け渡し』が決定されて江戸の町は戦火を免れ、徳川慶喜の江戸退去をもって城は新政府軍に接収されました。江戸城に入った新政府軍は、蔵の扉を次々と開けて鉄砲など武器弾薬を押収したのですが、肝心の幕府の御用金の入っているはずの蔵はもぬけの殻、どこを探しても御用金は見つかりませんでした。財政難に喘いでいた新政府は、その資金源として、幕府の御用金を当てにしていたのです。御用金は金360万両、今の金額で約200兆円と見積もられていました。幕府が隠したと判断した新政府軍は、蔵番の役人25人を厳しく尋問したものの誰も白状しなかったため、彼らは全員処罰され、御用金探しが始められました。その探索の手は、大政奉還当時、勘定奉行であったが、今の群馬県高崎市にあった権田村に隠棲していた小栗忠順に及んだのです。 安政五年(1858年)、幕府が開国したのち小栗はフランスと手を結び、横須賀製鉄所、のちの横須賀造船所、そして現在はアメリカ軍横須賀基地になっていますが、これを建設した人物です。勝海舟、榎本武揚、大鳥圭介らと並ぶ開明的な幕臣で、新政府側が最も警戒した人物と言われています。小栗が捕らえられて斬首される直前、小栗は母と身重の妻と養女を、以前から面識のあった旧会津藩家老の横山主税を頼って会津に脱出させました。一行は身をやつし、新潟を経て会津に着いたとされています。彼女らは、松平容保の計らいで旧会津藩野戦病院に収容され、無事に赤ん坊を出産しました。そして、翌・明治二年の春まで、彼女らは会津に留まり、東京へ出たのですが住む家がなく、三井財閥中興の祖である三野村利左衛門に庇護されたと言われます。三野村は、小栗家の奉公人だったのです。 小栗が幕府勘定奉行であったことから、「小栗が幕府の軍資金360万両を持って逃げた」という噂が噂を呼び、更には「利根川をさかのぼって来た舟から何かを降ろし、赤城山中に運び込むのを見た」と言う者まであらわれ、加えて小栗が、江戸開城に伴う幕府側の処分者の中で唯一斬首とされていたことも重なり、「幕府の御用金が赤城山に隠されていることは事実である」と信じた人々が赤城山の各所で発掘を試みたのですが、その中でも発掘に情熱を傾けた家に、赤城山の水野家がありました。親子3代に渡って私財を投げ打って徳川埋蔵金発掘作業にあたってきたのです。この水野家の初代・智義が埋蔵金発掘に目覚めたのは、明治十六年、今から120年前。一世紀以上も前の話です。それはかつて、幕府の武士だった男から、一通の手紙を受け取ったことから始まったそうです。そこに記されていた内容こそ、幕府再興のために隠された軍資金・金360万両の手がかりだったのです。元々、武家の生まれで、幕末は薩長と死闘を繰り広げた智義。その命を賭して奉公した幕府が、最後まで守り抜きたかった宝のありかを記した情報が、図らずとも、彼のもとに舞い込んできたのです。そして明治二十三年には、黄金の徳川家康像を発見し、その後も、近所にある寺の縁の下で、埋蔵金の在りかを記したとされる銅板を入手するなど、手がかりになりそうな遺物はいくつか発見されたのですが、肝心の金貨は一枚も見つかっていません。 時はさらに流れて、1990年代の初頭。徳川埋蔵金発掘は、テレビ番組のプロジェクトによって、再び脚光を浴びることとなりました。企画が組まれたのは、大橋巨泉がMCを務めたTBSのエンターテイメント番組『ギミア・ぶれいく』。火曜・ゴールデンタイムの2時間番組でした。コピーライターの糸井重里を中心に発掘チームが結成され、バブル期のテレビ局ならではの莫大な資金をもって実施されたのです。作業開始にあたって番組は「水野家」という祖父・父・子の三代に渡って埋蔵金の発掘に挑戦する一族と手を組みました。 この番組での発掘調査は7度にも及び、視聴率20%を超える人気番組となりました。ご覧になった方も、多いのではないでしょうか。それには自称超能力者の助けを借りるなどし、すでに赤城山で。3代100年以上に渡って埋蔵金を探し続けていた水野家の敷地内にある『源次郎の井戸』を埋蔵場所と推定し、作業に取り掛かったスタッフは最大90名。7台もの重機を駆使し、総額3億5000万円の費用が投じられたと言われます。番組では「正体不明の空洞が!」とか、「幕末のものと思われる重要な証拠が次々と!」など、ちょっとした発見でも過度に煽り、その動向に視聴者は興奮。終わりには発掘のために、最大60メートルの深さまで穴を掘ったり、水野家の一部を取り壊したりもしました。しかし、どんなに手を尽くしても埋蔵金は出てきません。結局、人気を博した徳川埋蔵金プロジェクトでしたが、大きな成果を挙げられないまま終了してしまいました。一説に、徳川御用金の隠されていると言われる赤城山はダミーであって、実際に埋められたのは別の場所ではないか、と囁かれています。番組は手を引きましたが、今でも水野家は発掘作業を続けているそうです。果たして、夢の200兆円は本当にあるのでしょうか。
2023.01.01
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