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「西洋史を勉強するのならギリシア哲学とキリスト教思想の二つをまず読みなさい。その二つがわからなければ、ヨーロッパの「歴史」はおもしろくならないよ。」もう三十年以上も前、進学するときに高校の先生からもらったアドバイスの言葉です。結局、まじめに勉強しなかったった結果、何故か国語の授業をしているのですが、最近、「あのころこんな本と出合っていたら・・・」と思うような入門書を読みました。
「私は、私の話を聞いているおまえたちに言う。おまえたちの敵を愛しなさい。おまえたちを憎む者たちに善いことをしなさい。おまえたちを呪う者たちを祝福しなさい。おまえたちを侮辱する者たちのために祈りなさい。お前の頬を打つ者には別の頬をも向けなさい。」 ここまで読んで、キリスト教の「善行」と「自由」にどんな関係があるんだろうといぶかる人もいるかもしれませんね。あせらず次の引用を読んでみてください。
これは、イエスの教えとしてあまりにも有名な「敵を愛せ」のくだりである。イエスは明確に復讐を禁止している。たとえ殺されるようなことになってもである。
しかし、これはただの無抵抗主義ではない。無抵抗主義という言葉のうちには、嫌だけれども我慢するというニュアンスがある。イエスの言っていることは、そうではなくて「私たちを攻撃するものたちに善いことをせよ」ということなのである。
「愛せよ」には「アガペー agapate 」という言葉が使われているが、この言葉は、相手の善悪にかかわらず、相手に善行を贈り続ける神的な愛について用いられる言葉である。ところで、このことは、じつは、善行の本質から言われていることなのである。
「おまえたちを愛する者たちを愛したとしても、おまえたちにどんな善意 ( charis ) があるのか。なぜなら、罪人でさえ自分たちを愛してくれる者たちを愛するからである。たとえ、おまえたちに善いことをしてくれる者たちに善いことをしたとしても、おまえたちにどんな善意があるのか。罪人もまた同じことをしている。取り返すことを期待して貸したとしても、おまえたちにどんな善意があるのか。罪人もまた同じものを取り返すために、罪人に貸している。だが、おまえたちはおまえたちの敵を愛しなさい。何もお返しを期待しないで、善いことをなし、貸しなさい。」 この引用部分で著者が「善意」と訳した charis の意味について「新訳共同聖書」は「恵み」と訳しているそうです。しかし、岩田靖夫は「善意」と訳すべきだと主張しています。「恵み」と訳すと神から差し向けられた好意という意味になってしまうのですが、ここでは互いに対等な関係をあらわす言葉である善意と訳すべきだとというのです。
ほんとうに、もし神が存在するとしたら、神はなんと忘恩者に親切なことか。実際、この世界には、神は存在しないと考えている人びとは山のようにいるし、戦争をおこしたり、大虐殺を犯したり、他者を奴隷化して搾取したりする人々で満ちあふれているというのに、神はまるでどこにも存在しないかのようにすっかり姿を隠し、復讐もせず、「善人にも悪人にも、太陽を昇らせ、雨を降らせて」善意を贈りつづけているのである。 おわかりいただけたでしょうか。生きている人間の根源的なありさまとは、こんなふうに「自由」であるということなのです。ヨーッロッパの思想はこの自由との格闘の道を歩んできたという訳です。
神は、なぜヒトラーに復讐しなかったのか。なぜ、神の名を用いて驚くべき人殺しをした人々にさえ復讐しなかったのか、それは神が極限の無力だからである。
ではなぜ、極限の無力なのか。それは、自由なものを殺すことはできても、同化したり支配したりすることは、誰にもできないからである。自由なものには呼びかけることができるだけだからである。
そういう意味で、善行は常に一方的でなければならないのである。他者に向かうこの善行が応答を呼び起こすか否かは、他者の自由にかかっている。応答は他者の自由の深淵から湧き上ってくるもので、私たちが外側から強制できることではない。
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