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久しぶりにこれだという本に出会いました。
とりあえず、次の引用群を読んでみてください。
考えることが得意でないふうに見える人々がいる。たとえばほとんど口をきかず、毎日ニコニコと店でトンカツばかりあげているような親父は、そう見えるかもしれない。
しかし、このオヤジのトンカツが飛びきり美味いとしたら、この人ほどものを考えている人間は少ないかもしれない。とりあえずは、そう仮定しておく必要がある。
トンカツ屋のおやじは、豚肉の性質について、油の温度やパン粉のつき具合についてずいぶん考えているにちがいない。いや、この人のトンカツが、こうまで美味いからには、その考えは常人の及ばない驚くべき地点に達している可能性が大いにある。
このことを怖れよ。この怖れこそ、大事なものである。こうした怖れを知らぬものの考え出すことが、やがて人間を滅ぼすだろう、そのことは今、いよいよはっきりしてきているのではないか。
ここに中学生の男の子がいるとしよう。この子は、学校の勉強意外、学ぶということを一切したことがない。したがって、トンカツ屋のおやじを怖れるだけの知恵がない。だから、怖れ気もなくこう尋ねる。おじさん、なぜ人を殺してはいけないの ? おやじは、まずこんな質問には耳を貸さないだろう。邪魔だから、あっちに行ってろと言うだけだろう。
怖れのないところに、学ぶという行為は成り立たない。遊びながら楽しく学ぶやり方は、元来幼稚園の発明だが、今の日本の学校では、それが大学まで普及してしまった。
遊ぶことと学ぶことが、どう違うのかわからない。子ども達は何も怖くないから、勝手に教室を歩き回るようになる。怖れることが出来るには、自分より桁外れに大きなものを察知する知恵がいる。ところが、この桁外れに大きなものは、桁が外れているが故に、寝そべっている人間の目には見えにくい。トンカツ屋の見習い坊主になってパン粉をつけてみるしかない。それは、始めはちっとも面白い仕事ではないだろう。怖れる知恵がまだ育っていないものに、心底面白い仕事などあるわけがない。だが、知恵は育つのだ。豚肉やパン粉があり、怖いおやじがいるかぎりは。 すべて、 前田英樹「倫理という力」(講談社現代新書)
年端もゆかない娘が、小遣いほしさに売春する。親は当然驚愕、激怒して、何とかやめさせようとする。すると、自分も楽しみ、相手も喜ぶ、それでお金になるのだから、こんないいことづくめはないじゃないか。なぜやめさせるのと。 余計なお世話ですが、ぼくなりの注釈を加えるとすれば、娘の反論の幼いが、実に、今風な功利的な問いに答えることのできる考えこそが道徳であり、倫理であるということですね。
こう言われて絶句するのは、あながち今の日本の親たちだけではない。経験や習慣からでてくるお説教は、みな一様に絶句する。道徳の成立は、ただ娘が反論するか、しないかにかかっている。
カントが親なら、もちろんすかさず言うだろう。売春は、自分をひたすら単なる「手段」にし、相手もそうすることである。これは、互いから「理性的存在者」としての自由を奪い、互いを「物件」として利用しあうやり方ではないか。場合によっては、それは詐欺よりも、盗みよりも、殺人よりも悪いやり方になる。 文中の カント とは、もちろん、十八世紀ドイツの哲学者 イマヌエル・カント です。ここでは哲学用語が使われているので難しそうに見えるのですが、要するに、自らの「人格」を「目的」にし、「理性的存在者」として生きる人間としての「義務」をはたそうとしているのが上記のトンカツ屋のおやじだと考えればいいわけです。
君は君自身の「人格」となり、「目的」となる義務を負っている、なぜそれを果たさないのか。また、君の「人格」がそうであるためには、他人の「人格」もまたそうでなくてはならない。他人は「手段」としてだけでなく「目的」としても扱われなくてはならない。その義務が、君には断固として絶対にあるのだ。
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