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2024/02/21
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カテゴリ: 詩吟




「シクラメンのかほり」で一世を風靡した歌手の布施明さん、最近の歌い方をyoutubuで拝見してビックリです、フルオーケストラをバックにオペ歌手顔負けの声量で朗々と歌う姿に圧倒されました。かつては美声を聴かせる歌い方ではありましたがあんなに声量は無かったはずです。いったいどんなふうにして身に付けたのかわかりませんが、私もあの声に近づけるものなら近づきたいとふと思ってしまったわけです。

布施明氏現在、76歳。私まもなく72歳。3〜4年後位までにあの声を手にいれたいと考えたわけです。体幹を鍛えながら、果たしてどんな方法であの声に近づけるのか今のところまったくわかりません。暗中模索しながらこれから探し出してゆくわけです。新たな課題ができました。目標、課題をもたないとチャレンジもしないわけです。工夫もしない訳です。探さないわけです。

未知なる領域に踏みこんでゆく覚悟というほどのものはさほどありませんが、できたらいいな、できるようになりたい。チャレンジしてゆくのは面白い。どうやって達成するかを探りあてる楽しみ、わが道をゆく楽しみというところでしょうか。





       ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆





今日は雨の一日でした。こんな日はあったかいうどんを近所の丸亀製麺で❗️
竹輪天とさつまいも天で私にとっては贅沢なランチです。
割安感で美味いと得したような気分に❗️
天ぷらを汁に浸して置いてから食べるのが私流の食べ方です。




次回は、天ぷらを自分で揚げてうどんも手打ちうどんで食べてみましょうか。調理に90分位はかかりそうだね。たまにはしれもいいだろう。時間はたっぷりあるのだから面倒がらずに楽しんでやればいいのだ。



旗手たちのアリア フェイスブック市長の野望

佐賀県武雄市長 樋渡啓祐    2011.12.12

ユニークな市政を連発し、佐賀県の小さな地方自治体を全国区に。その行動力には、大阪市長の橋下徹も一目を置く。「 混沌こそ活力の源泉」。その信念で地方から日本を変えようとしている。

 初めて会う者はまず、180cmを超す長身と、眼鏡の奥から射られるような視線に気押される。

 「それはね、こういうことなんですよ」

 「だから、これは間違っている」

 やや早口の甲高い声で、矢継ぎ早に言葉が飛んでくる。極めて断定口調だが、不躾ではない。時に黙り込み、長身を折ってこちらの話にじっと耳を傾ける。冗談で笑いを誘われ、気がつくと会話の主導権は握られている。

 佐賀県武雄市長、樋渡啓祐42歳。その迫力と決断力、そしてユーモアは、話しぶりに最も表れている。

 佐賀では、古くからの温泉街として親しまれている人口約5万の地方都市、武雄。樋渡は約6年前、市長村合併に伴う武雄市長選に立候補し、36歳で当時の全国最年少首長となった。武雄と言われても在京の人間は、その名すら聞いたことがないかもしれない。事実、樋渡が市長に就任するまではそうだった。

 ところが今では、武雄市役所には毎週のように、全国から市町村の職員や議員が視察に訪れる。その数、年間60件以上。通常の地方自治体が受ける視察は年に数回が相場だから、その頻度の多さが分かる。東京都や神奈川県など首都圏からの訪問者も少なくない。彼らの目当ては、樋渡が次々と打ち出す、ユニークな政策の調査にある。それらがいかに突き抜けたものかは、以下の代表例を見れば一目瞭然だろう。

 ●「佐賀のがばいばあちゃん課」の設置(2006年)…島田洋七原作の『佐賀のがばいばあちゃん』のテレビドラマのロケ地誘致に成功。ロケハンなどの自治体側の作業を一手に請け負う専門部署を立ち上げた。同ドラマは高視聴率を記録、武雄市も観光客が前年比で倍増した。

 ●名産品「レモングラス」(2007年)…武雄市のユニークな名産品を生み出そうと、縁もゆかりもないハーブのレモングラスの栽培を始めた。産地のタイに職員を派遣し、その栽培のノウハウを取得。今では武雄市を代表する名産品になった。

 ●「日本ツイッター学会」「日本フェイスブック学会」(2010年、2011年)…インターネットでの情報発信を促進するため、職員全員がツイッターアカウントを所有し、発言を可能にした。著名なツイッター利用者を全国から集めたイベントを「日本ツイッター学会」と銘打って開催。2011年8月には、武雄市のホームページをフェイスブックページに全面的に移行。開設から約4カ月でアクセス数は、1000万を突破した。

 これらはほんの一例にすぎないが、いずれも世間の耳目を集め、新聞やテレビの取材が殺到した。中でもフェイスブックの反響は大きく、樋渡と武雄の名はネットを通じて全国に知られることになった。今では、「フェイスブック市長」の異名も持っている。

 とはいえ、樋渡は単なる目立ちたがり屋ではない。2008年には、赤字続きの市民病院の経営改革を断行した。累積で5億円超の赤字を垂れ流していた市民病院の経営を解決すべく民営化を掲げたが、市民グループと対立する。結局リコールの動きを受け、任期途中で辞職。出直し選挙に出馬し、市を二分する戦いに勝利した。

 「誰に何と言われても、曲げない信念がある。時に強情で困ってしまうほどに」。武雄市議会議員、山口昌宏は樋渡の性格をこう表現する。

 今年3月に発生した東日本大震災では、ソフトバンク社長の孫正義と連携し、福島県の住民を武雄市へ避難させるプロジェクトを主導した。最終的には実現しなかったが、その行動力と意思決定の速さには孫も感心し、「ベンチャー経営者のような市長だ」と言わしめた。先の大阪市長選で圧勝した橋下徹も「樋渡さんのような首長が、地方を変えるリーダーのロールモデル」と評価する。

 「本来なら市長は、何でもできる力を持っている。要は、行動力と決断力。多くの市長には、それが足りないだけ」。樋渡はそう言ってはばからない。

 前例踏襲主義と合議制、リスク回避志向が根強い自治体組織でも、トップが将来を描く力と指導力を備えていれば、いくらでも変えられる。「地方自治体初」を次々と連発する樋渡は、結果でそれを証明した。

学生時代の挫折と転機

 樋渡が政策を形作るうえでこだわるのが、「場」作りである。人々が集い、議論し、交流できる場所を、あらゆる形で追求する。「レモングラス」も「日本フェイスブック学会」も、独特の政策は、多くが職員や市民との意見交換から生まれた発想だ。そこには、こんな信念がある。

 「組織も自治体も、異なる考えの人間が集まり、自由に意見を交わすことで活性化する」。組織の活力は、多様性が担保されてこそ。逆に、どんな大きな組織であっても、人の交流や自由な意見が途絶えれば、やがて衰退の道をたどる。これは、画一的な政策で地方を統制する中央政府に対する、強烈なアンチテーゼでもある。

 樋渡がこうした考えに至ったのは、多感な幼少期の体験が大きい。樋渡の祖父は、地元の農協の組合長を務めていた。打ち合わせと称して、家にはいろいろな人間が出入りする。談笑する者、喧嘩をする者、酔って横になる者、泣き言を垂れる者。多種多様な人間模様の混沌。樋渡はそこに不思議な居心地の良さを感じた。

 逆に、皆が同じ考えで、集団で小さくまとまることには今も強烈な違和感を覚える。その意味で、皆で机を並べ、一斉に同じ授業を受ける小・中学校時代は、樋渡にとって苦痛の毎日だった。中学校時代、樋渡は望んで入った野球部を、数日で辞めてしまう。「後輩は先輩に挨拶する」というルールに反発し、先輩と大喧嘩をしたのである。

 結局、最後まで学校になじめなかった樋渡は中学時代と同じ生活を高校でも続け、半ば引きこもりのようになってしまった。朝から晩までローリング・ストーンズを聞き、漫然と本を読むだけの日々が過ぎていった。

 「このままではダメだ」。樋渡は心機一転、上京を決意する。東京になら、自由があるのではないかとの期待があった。親に相談すると、許された受験先は東京大学と東京芸術大学のみ。樋渡は、東大を受験するも、不合格となってしまう。

 失意の中、樋渡は当時千葉県船橋市にあった駿台予備学校の寮に入り、予備校生活を送る。打ちひしがれていた樋渡だが、寮生活では思わぬ環境が待っていた。「昔の多様性を思い出した」と樋渡は振り返る。全国から集まった予備校生は、価値観も出身もばらばら。そこに樋渡は喜びを覚えた。やる気を取り戻した樋渡は仲間とともに勉強に励み、翌年東大の合格を決める。

 ところが、大学の授業に樋渡は愕然とする。どれも、高校時代と同じ、画一的な講義ばかり。樋渡は失望し、下宿先で再び引きこもり生活に戻ってしまった。

 そんなある日、転機が訪れる。

 昼間に不躾にノックしてくるドアを開けると、立っていたのはNHKの集金担当者だった。担当者は樋渡を一瞥するなり、「合格」と告げると、集金業務を手伝わないかと誘ってきた。聞けば、少しでも回収率を上げるため、暇な学生を集め、集金部隊を組織しているという。時間を持て余していた樋渡は、この突然の勧誘に応じ、引きこもりから一転、アルバイトに精を出すことになる。

 やってみると、面白い。戸別訪問による集金業務は難しい作業だったが、樋渡は様々な作戦を立て、回収成績を上げていく。その後、あまりの過激な集金ぶりが週刊誌で話題になり、「学生集金部隊」は解散の憂き目に遭うが、樋渡はこの体験を通じ、2つの財産を手に入れた。1つは、自分の組み立てた計画を実行に移し、結果を出すことの楽しさ。もう1つは、アルバイトでたまったお金だった。樋渡は、この資金で世界中を旅して回り、寿司からフランス料理まで、美味を食べ歩き、芸術に触れていく。

 人間の進路とはおおよそ、不思議なものだ。なぜ自分がそのような道を選んだのか。当の本人もうまく説明できないこともある。樋渡にも、それが当てはまるかもしれない。1993年、樋渡は総務庁(現総務省)に入る。あれほど嫌っていた、画一的な価値観を求める組織。その権化とも言える省庁を就職先に選んだのである。「将来何になるにしても、その過程として、公務員の経験はよい勉強になると思った」と樋渡は言う。

運命を決定づけた痛烈なスピーチ

 樋渡は場作りの人であると述べた。だが逆に、場が人をつくることもある。公務員時代、樋渡は役所によって人物が磨かれていった。その1つが、沖縄での経験だった。96年、沖縄開発庁の出先機関に1年ほど出向していた。与那国島と沖縄での仕事に当たった樋渡は、沖縄の基地問題を通して、国と地方の関係に向き合うことになる。明治以来、地方は中央に頼ってきた。頼られるのをよいことに、中央は補助金をエサに地方を思いのままに動かしてきた。国全体が成長していた時代は機能していたこの仕組みは、今では逆に地方を弱体化に向かわせている。樋渡は沖縄でその現実を直視した。

 もう1つの経験は、大阪府の高槻市役所での仕事だ。当時、樋渡は持ち前の企画力を発揮し、ネットオークションを使った、放置自転車の競売策を発案する。これが新聞などで話題になった。前例のない仕事でも、手順さえ守れば実現できる。役所であっても関係ない――。自信を深めた樋渡は、高槻市への大学誘致というさらに大きなプロジェクトを企画する。2005年、関西大学が新キャンパスを同市に設置することが発表された。

 「彼は磁力の人」。関西大学の理事長を務めた森本靖一郎は、樋渡をこう表現する。人を惹きつけるだけでなく、1つの方向に人を導く力を備えているという賛辞だ。

モットーである「場」作りへのこだわりは、そんな役人時代を通して、少しずつ育まれた。まず現場に出て、人と会い、話を聞く。 そこにしか、沖縄問題を理解するきっかけも、高槻市での放置自転車問題を解決するヒントもなかった。 だから、今でも樋渡は時間があれば、毎日のように市民が集う「場」に出かけていく。


肝に銘じているのは、 「100の議論より1の実行」。時間があれば、とにかく現場に出向き、市民の声に耳を傾ける
 樋渡が武雄市長へと転身したのは2006年。佐賀県議会議員の稲富正敏は、樋渡を武雄市長に担ぎ上げた1人である。知人の息子の結婚式で聞いた樋渡の挨拶に感心し、「こいつを立てよう」と決めたという。そのスピーチは、当時の首相、森喜朗が発言した「神の国」を痛烈な皮肉で笑いを取る内容だった。

 仮にも、一国の首相である。それをスピーチで笑いのネタにして、聴衆の心を一気につかんだ。稲富は感動すら覚えたという。そして何度目かの面会の時、稲富は出馬を要請した。その時、樋渡は「うれしかあ」としみじみつぶやいたという。公務員が、出身地から選挙への出馬を要請されることは、名誉でもある。自分自身が認められたことに対する、本音だったのかもしれない。

「常に見られているから輝く」

 樋渡が、常に世間の注目を集める施策を打ち出すのには、理由がある。そのきっかけは、「佐賀のがばいばあちゃん」のロケで撮影に訪れたある女優との会話だった。その女優に、樋渡は「なぜそんなに美しいのか」と尋ねた。すると、その女優は一言、こう言った。

「常に見られているからよ」

 人は、見られることで当事者意識が芽生え、行動が変わっていく。
武雄市も、全国から注目される施策を打ち出せば、中で働く人の意識も変わっていくはず。樋渡はそう考えるようになった。6年経ち、その考えは役所の職員にも浸透しつつある。当初こそ、樋渡の手法についていけず、辞職する人が続出したが、今では職員の中から主体的に政策のアイデアが出るようになった。

 もっとも、まだまだ軋轢はある。「話の分からない人間には、樋渡の言動についていけない」と武雄市議会議員の山口が指摘するように、既存の地方自治体の手法に慣れ親しんだ人間にとっては、樋渡の手法は強引で独断的で、拙速に映る。それでも、当の本人は涼しい顔だ。「風は吹いていてなんぼ。逆風(批判の声)であっても、吹かないよりは全然いい。同じ意見を持つ人ばかり集まっても、進歩なんてないんだから」。

 「市長が天職」と繰り返す樋渡だが、周囲が期待するのが、より大きな政治の舞台での活躍だ。実際、原子力発電所の問題で進退が注目される佐賀県知事の後任として出馬するのでは、といった噂がささやかれるほど、樋渡に対する期待は、本人が考える以上に高まっている。本人はきっぱり否定するが、今後も、事あるごとにこうした誘いは続くだろう。

 樋渡自身は、どんな形であれ、目立つことは良いことだと思っている。注目されるところから、すべてが始まる。そのために、いろいろな人間が交流する、活力ある場を作り続けていく。本当の意味での地方の自立を、武雄市の政策を通して実践する̶̶。変化はいつの時代も、辺境から起こる。樋渡はそう信じているし、自分なりの手法でそれを証明しようとしている。

樋渡 啓祐(ひわたし・けいすけ)
1969年   佐賀県武雄市に生まれる
1993年   東京大学経済学部卒業、総務庁に入庁
1996年   沖縄開発庁振興局に出向
1997年   内閣官房に帰任
2003年   高槻市に市長公室長として出向
2006年   佐賀県武雄市長選に立候補。当選、当時の全国最年少市長に
2008年   武雄市民病院の経営形態を巡る対立から、市民グループが市長のリコールの方針を固めたことに対し、即日辞職。出直し選挙で再選
2010年   市長選で3選目を果たす
2011年   民営化した新武雄市民病院が開院



























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最終更新日  2024/02/21 08:08:40 PM
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