殿上人日記

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2011年02月22日
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テーマ: 京都。(6101)
カテゴリ: 京都の旅

京の雅18

  最初に「三条大橋」がかけられた時期はハッキリしない
  けれど、天正18(1590)年に、豊臣秀吉の命により
  増田長盛が奉行となり、五条大橋と共に「石柱の橋」に
  改修がされたそうである


京の雅1

  江戸時代になると五街道の代表格にある「東海道」に
  つながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ
  多くの旅人でにぎわった

  橋の脇に「東海道中膝栗毛」の主人公の弥次郎兵衛と
  喜多八の像があり、像の側にある「撫で石」を撫でると
  縁起が良いそうだ


京の雅3

  三条大橋の西詰めに、藩や幕府のお触れが知らされる
  「高札場跡」があり、慶応2(1866)年には、土佐藩士と
  新選組が切り合いをした「三条橋詰制札事件」が起きた

  また大正6(1917)年には、ここ三条大橋から日本初の
  「駅伝競走」がスタートをしたとか


京の雅2

  元治元年(1864)年に、京都三条木屋町(三条小橋)の
  旅館「池田屋」に潜伏をしていた長州藩や土佐藩などの
  尊王攘夷派志士を、京都守護職配下で治安維持組織の
  新選組が襲撃した「池田屋騒動」の時に付いたとされる
  刀傷が、三条大橋の北側と南側の2か所に現存をしている


京の雅4

  新選組の山崎烝、島田魁らの探索で炭薪商の古高俊太郎が
  捕えられて、土方歳三の拷問で「祇園祭の前の風の強い日
  御所に火を放ち、中川宮を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを
  暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」という不逞浪士らの
  密談が、池田屋か四国屋で行われるのが判った


京の雅6

  そこで二手に分かれ四国屋には土方隊で、池田屋は近藤が
  率いての沖田総司永倉新八、藤堂平助など10名程で突入

  そんな血なまぐさい京都では、その付近で元治元(1864)年
  一橋慶喜に招かれて入洛し、公武合体と開国論を説いた
  「佐久間象山」が尊王攘夷の志士らに暗殺をされた


京の雅5

  更に明治の世になっても・・・・。幕末期には長州藩の医師で
  西洋学者、兵学者で長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮をし
  勝利の立役者となり、明治政府では兵部省における初代の大輔
  を務めて、事実上の日本陸軍の創始者である「大村益次郎」が


京の雅15

  明治2(1869)年に軍事施設視察と建設予定地の下見の為
  京阪方面に出張した大村は、三条木屋町の旅館での会食中
  兵制を中心とした急進的な変革に対して、強い反感を持った
  元長州藩士らにより襲われ重傷を負った。治療のかいも無く
  敗血症により、高熱を発して様態が悪化し亡くなったそうだ


京の雅11

  気分を変えて。新京極や寺町通、三条通よりも私が好きで
  このあたりに来ると用もないのに、ついつい通り抜けたく
  なるのが、鴨川と木屋町の間にある細~い、細~い路地の
  「先斗町(ぽんとちょう」で、以前にもこのブログで紹介
  した事がある 


京の雅8

  江戸時代に護岸工事で埋立てられて、茶屋や旅籠などが
  置かれたのが始まりで、芸妓や娼妓が居住する「花街」と
  なり、明治5(1872)年に華やかな「鴨川をどり」が初演
  され、今も春の京都の風物詩だ


京の雅7

  そんな鴨川をどりが上演をされる「先斗町歌舞練場」は
  大阪松竹座や東京劇場などを手がけて劇場建築の名手と
  された、大林組の技師である「木村得三郎」の手により
  昭和2(1927)年に創設をされた


京の雅9

  今は飲食店が多くあり、東側の店は鴨川に面しているので
  夏場には「納涼床」を設ける店も多い。お店の前にこんな
  京野菜のディスプレイ


京の雅10

  一説によると「先斗」という地名の語源は、ポルトガル語の
  先という意味の「ponto」であるとか、鴨川と高瀬川に挟まれ
  「堤」であると捉えて、「鼓」がポンと鳴る事からだとか


京の雅13

  あまりの狭さに「電柱」すらもがひんまがる


京の雅12

  そんな店の合間から、木屋町に抜けそうな路地もあって
  通り抜けられるとか、行き止まりなどと表示があるのも


京の雅17

  先斗町を抜けると、永治2(1142)年に勧進によってかけ
  られ、八坂神社の参拝にも使われた「四条大橋」があって
  その向こうには、顔見世興行に出演をする歌舞伎役者の名と
  紋が記されたまねき看板をあげる「まねき上げ」でも有名な
  「京都南座」も


京の雅19

  室町時代の頃から鴨川の河原では、田楽や猿楽の勧進
  興行が常設的に催されていたそうだが、慶長8(1603)年に
  出雲の阿国(おくに)が「かぶき踊り」を演じたのが、今の
  歌舞伎の発祥とされているそうで、その銅像も四条大橋の
  たもとにあった


京の雅16

  その反対側には、北京料理の「東華菜館」本店のレトロな
  建物があって、大正15年に新しいビアレストランにと
  近江八幡の洋館でも紹介をしたヴォーリズの生涯唯一の
  レストラン建築で、スパニッシュ・バロック様式のものだ


祇園6

  そして、いよいよ祇園に潜入。それを代表する建物がこの
  祇園の中でも最も由緒のある「お茶屋」のひとつである
  「一力亭」である。忠臣蔵の大石内蔵助が豪遊をしたとか
  近藤勇や大久保利通、西郷隆盛も出入りをしていたという


祇園の老舗

  流石に歴史に彩られた京都。祇園にも老舗は多く、こちらは
  享保年間(1716-1736)に創業をした祇園の「老舗」の
  和菓子屋「鍵善良房」。葛切りで有名で、京都四條南座にも
  近く、歌舞伎役者や芸能人の利用も多いので、テレビなどで 
  ご覧になった方もおいでになるかも


京の雅20

  どんどん焼きが進化したもので、大正時代より関西地方で
  水で溶いた小麦粉を焼き刻みネギなど乗せて、ソースを
  かけた「壱銭洋食(いっせんようしょく)」の食べれるお店
  だけど、前に紹介をしたランチで、お腹が一杯で葛きり
  同様に、食べれなかった


祇園5

  「祇園(ぎおん)」は、八坂神社(祇園社)の門前町として鴨川から
  東大路通、八坂神社までの四条通沿いに発展をした京都を
  代表する花街であり、北側にあたる新橋通から白川沿いは国の
  重要伝統的建造物群保存地区に、南側の花見小路を挟んだ
  辺りは京都市の歴史的景観保全修景地区に選定されている


祇園1

  その日もあでやかに、芸妓さんが四条大橋を渡っていた


京の雅14

            平成23年1月13日に京都で撮影







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最終更新日  2011年02月22日 17時25分21秒
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