殿上人日記

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2019年03月11日
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テーマ: 海外旅行(7536)
カテゴリ: 旅のいろいろ


視聴率は、一桁になってしまったそうだけど
大河ドラマ「いだてん」、私的にはキャラが
面白いし、地元の中津川出身の可児徳先生が
出てるので見ている。特に人間味があるのが
嘉納天狗、柔道の嘉納治五郎校長なのだけど




唐突に挿入がされたエピソードに、母国で
清朝が倒れ、中華民国が建国をされた辛亥
革命が起きたので、清国の留学生の留学
費用を、嘉納治五郎校長が私費で肩代わりを
する事となり、莫大な借金を追ったという
のがあった




嘉納治五郎は教育者として東京高等師範
学校(筑波大学)の校長を長年にわたり
務め、旧制第五高等中学校(熊本大学)
校長、旧制灘中学校(灘中・高等学校)や
日本女子大学の設立にもかかわっている
そうだが、更には




ウィキペディアによれば
>1882年には英語学校「弘文館」を
>南神保町に創立し、また1896年には
>清国からの中国人留学生の受け入れ
>にも努め、留学生のために1899年に
>牛込に弘文学院(校長・松本亀次郎)を
>開いた




>後に文学革命の旗手となる魯迅も
>ここで学び、治五郎に師事した。魯迅の
>留学については2007年(平成19年)
>中華人民共和国国務院総理・温家宝が
>来日した際、温の国会演説でもとり挙げ
>られた




1月下旬に娘と出かけた上海、無錫、蘇州の
2泊3日旅行の日記の中でも、周恩来や孫文が
若い頃に、日本に留学をしたと書いたけれど
100年前には、中国人が日本へ留学をする
大ブームが起きていた。ピーク時には年間で
1万人弱とも言われる




欧米諸国がこぞってアジアへ進出した19世紀
日本は太平の世であった江戸幕府が揺さぶりを
受け、開国に傾くのを良しとしない攘夷派らが
尊王思想と結び付け討幕派となり、なぜか欧米の
兵器などを手に取って幕府を倒し、明治政府を
うちたてた




幕末より、若い優秀な人材を欧米へ留学させて
更に欧米の技術者を数多く招聘し、近代国家へと
確実に足を進めていた中で、かつて世界の中心
とまで豪語していた中国大陸は、清王朝が健在
古い伝統や権威が災いしてか、近代化への道は
遠く、不穏な空気が渦巻いていた



前にも紹介をした浅田次郎原作の「蒼穹の
昴」においても改革派の皇帝派と、保守派の
西太后派の壮絶な政権争いを描いており、
敗れた改革派の指導者らは、命からがら
日本へ亡命をしていた




国力の衰退につけ込まれ、先進諸国の軍事力に
よる植民地化の動きに翻弄され、混迷が続き
内乱時状態にもなっていた中で、一刻も早い
先進化を目指し、欧米への留学を希望するが
費用が高いのがネックとなり、近くて費用も
安く済み、文化習慣も近い日本への留学が
人気となっていった




日清戦争後に本格化をした日本への留学生は
年々増えていき、1905年に科挙の制度廃止が
された事と日本の評判の高まりから、急激に
増えて年間1万人弱にもなり、様々な分野で
学んでいたが、困窮や様々な事情から帰国を
した者も少なくなかったそうである




京城(ソウル)駐在の初代総監に伊藤博文が
就任すると反日的な空気が本国や留学生の間に
広がり始め、辛亥革命で中華民国が生まれると
留学生たちの多くが帰国し、留学生の数は次第に
減っていった




1931(昭和6)年の満州事変、翌年の上海事変で
一斉に帰国した学生が、翌年秋には再び戻り始め
満洲事変後の日本研究熱の高まりや、為替相場の
好転、新満洲国での就職の期待といった事の他に
抗日救国の為に、まずは日本を見極めようという
様々な意味合いも




私ごとになるが
私は親が40歳の時に生まれた末っ子で
私が生まれた時に兄姉は高校生だったが
大正末に生まれた父親もやはり末っ子で
兄姉は明治生まれだったそうだ。そんな
明治期に生まれた伯父(次男)は、私が
生まれる前に、結核で亡くなったけど




この伯父はかなり優秀だったそうで、戦前に
鉄道省に勤めていたが、東京の鉄道局教習所に
通っていたそうで、運動会や、白馬登山、満鉄
での満州への修学旅行の写真が残されているが
その中には、箱根で行われた日華学生親和会の
写真もあった。たぶん昭和に入ったばかりかな




早稲田大学は清国留学生部を設けて、約300坪
2階建て、44室の寄宿舎を設けるなど本格的に
受け入れをしており、その当時に多かった短期
速成の教育を排し、予科、本科3年制を目標とし
多くの要人を育成した。その為に中国において
早大の知名度は高く、今も中国からの留学生が
多いようである




孫文、魯迅、周恩来、郭沫若、陳寅恪、王国維
李叔同、郁達夫、秋瑾、陳独秀、張聞天、夏衍
田漢、周作人、蒋介石・・・あまたの人物がこの
ように、日本で学び近代中国を作り上げたのだが
帰国後に武装蜂起で戦死をしたり、暗殺や処刑で
志半ばで亡くなった者も多い




「蒼穹の昴」に登場する主人公の梁文秀のモデル
である梁啓超は、吉田松陰と高杉晋作を敬愛して
日本では「吉田晋」、前にも紹介をしたが孫文も
「中山樵(きこり)」と名乗っていたとか。そして
それまでには中国になかったり、今までとは全く
違った、日本的な意味合いを持つ「和製漢語」が
広がって、今の中国にも広く根付いているという




ウィキペディアによれば・・・
>和製漢語は特に近代以降、中国に逆輸出された
>ものも少なくない中国が近代化を遂げる過程で
>特に日清・日露戦争前後に、中国人留学生に
>よって日本語の書物が多く翻訳されたことが
>大きいともされる




>中国語になった和製漢語の例として、「意識」
>「右翼」、「運動」、「階級」、「共産主義」、
>「共和」、「左翼」、「失恋」、「進化」、「接吻」、
>「唯物論」など種々の語がある。中国でも自ら
>西洋語の翻訳を試み、華製新漢語(中国語版)なる
>ものを作り出していた。しばしば和製漢語と競合
>するようになることもあった




>「中華人民共和国」の「人民」「共和国」も和製
>漢語であり、国名だけでなく中国の体制に必要
>不可欠な概念までも和製漢語には含まれている。
>また、同じく漢字文化圏である台湾、大韓民国、
>ベトナムでもこうした和製漢語を自国語漢字音で
>取り入れている。




>文化、文明、民族、思想、法律、経済、資本、
>階級、警察、分配、宗教、哲学、理性、感性、
>意識、主観、客観、科学、物理、化学、分子、
>原子、質量、固体、時間、空間、理論、文学、
>電話、美術、喜劇、悲劇、社会主義、共産主義
>など。このように、東北アジア各国で使われる
>漢字でできた近代的な概念語の大半が日本製と
>なっていると高島俊男(中国文学者)は主張
>している




>これら和製漢語の語彙は明治維新以後、中国人
>留学生らによって、中国に逆輸出された。「社会
>主義」「共産党」「幹部」などの常用語を筆頭に
>800語を超えるという。(中略)現在の中国語に
>多くの和製漢語が使われるようになり、その
>端緒を開いたのは梁啓超であったと言われる




>魯迅は自著で「万年筆」など和製漢語を多用の
>ほか、日本語の「紹介」「写真」を多く使用
>していた

1月下旬に出かけた上海、2日目と3日目の朝の
街の風景だが、泊まったホテルのある虹口には
戦前に共同租界の一角に作られた日本人街があり
一時は10万人もの日本人が住んでいたようである




日本から帰国し、蒋介石軍閥から追われていた
魯迅を匿ったのが、虹口で書店を営んでいた
内山完造で、彼は晩年の魯迅の第一の友人で
理解者だった。1936年に魯迅が持病の喘息で
急逝した際の絶筆は、内山への日本語のメモで
日本人主治医への連絡を依頼するものだった




日本帝国の軍閥による戦時中の行為が歴史
認識のずれを起こし、昨今は島の領有権に
揺れる日中の関係であるが、近代中国を作る
過程において、日本や日本人が少なからず
中国の若者や政治活動家を教え導き、支援
していたのも紛れもない事実である。孫文を
支えた宮崎滔天しかり




中国の商業、金融、工業、交通などの中心地
として香港や北京と並ぶ上海は、世界的にも
著しく発展をしており、雨後の筍のように
高層ビルがどんどん建てられているが、その
用地として、かなり古い建物が町並みごと
姿を消している




これもまた仕方もない事であるが、できたら
古い町並みが、今より多く残っていた時期に
上海で、そんな町並みをぶらぶらと歩いて
みたかった。日本は小さな土地も個人の所有
だったりするけど、中国は国の土地なので
区域を再開発をするのは安易かもしれない




そんな不夜城のごとき上海シティに、蘇州から
戻っての旅行2日目の夕食です。その日の夜も
多くのツアー客がナイトクルーズ(オプション)を
控えているので早めの食事であったけど、家で
ゴロゴロしながら、おやつを食べているという
のと違って間食がないので、お腹も空いていた




こうやって円卓を囲んでの食事もこれが最後だ
明朝はホテルのブッフェをそれぞれ食べて、午後
早くには空港に到着だ。今夜のメイン料理はアレ
ですよ、アレ。チュウゴクモクズガニ・・・漢字で
書くと中国藻屑蟹ですわ




いわゆる、日本でいうところの「上海蟹」ですが
長江流域を中心にして遼寧省から広東省まで広い
地域の川に分布し、最も有名な産地は、蘇州市に
ある陽澄湖(ようちょうこ)で、他にも洪沢湖や
高宝湖、白馬湖、射陽河などでも養殖が盛んだ
そうです




地元では「大閘蟹(ダージャーシエ)」という
そうで、海の蟹と比べると小さくて、足の肉も
少ないのだが、蟹味噌の味は格別で、栄養価も
高いといわれている。前もってネットで殻の
外し方とか見たけど、今いち解体作業がうまく
いかず、ちょっと食べただけで終了。もともと
蟹みそが苦手なので




うちはホテルに戻ってから、また個人的に
お出かけ予定があるので、飲まなかったが
お隣のご夫婦が頼んだビールを、写真だけ
撮らせて貰った。今夜はサントリービール
ラベルには富士山だ




食事が終わると、オプショナルのツアー客と
ガイドさんを、乗船場近くの繁華街で降ろし
バスは残りのツアー客を乗せてホテルへと
むかった。車窓から眺める夜の上海の街角も
見所がいっぱい




ふと思ったが、江戸末期に寺子屋をしていた
先祖がいて、父も姉も叔父も従弟も姪も教員
だらけの家系だけど、今回紹介をした伯父は
内勤とはいえ鉄道省に勤務したし、兄は一般
企業に勤めているが船乗りに憧れ、鳥羽商船
高等専門学校に通学していたし、甥も超大手
旅行会社に勤めてる




伯父の満州の写真を見ていて、うちってやっぱ
旅行好き?なんて思ったりもする。山に囲まれ
都市部にも遠い田舎暮らしでは、はるか遠くの
綺麗な景色や、美味しいものに憧れを抱くのも
当然と言えば当然のような




ホテルに戻ると、ちょっぴり休憩をしてから再び
地下鉄を利用して、今夜も娘とやってきたのは
上海一の繁華街の「南京東路」です。今夜もまた
賑わってますよ~~




昨夜は外灘もいったり観光面が大きかったけど
今夜は地元の人みたいに、商業施設をぶらぶら
したり、お土産もここで買っておきたいし




日本資本の「上海新世界大丸百貨」のデパ地下で
お土産のお菓子を購入。あと上海のあちこちにも
あった土産店の「上海市第一食品商店」でも買い
足しました。幾つか大きなお店の中をウィンドウ
ショッピングして疲れたので




地元の人で賑わっていたデザート店で、おやつ
なんぞを食べようと・・・後で調べたらここって
「満記甜品(ムン・ゲイ・ティンパン)」という
香港スイーツの有名なチェーン店らしいです




マンゴーやココナッツ、ナタデココ、タピオカ
とかの具材がいろいろ使われており、お味の方も
とても美味しかったですし、ボリュームの割に
価格もお手頃でしたよ




実は2泊3日で食事&観光も付いた旅行で、お高い
行程内のお土産屋さんも、オプション旅行も利用を
する気がなかった旅のお小遣いを幾らにするか迷い
それでも14000円を外貨にしましたが、結局は
半分も使いませんでした。 旅は、最終日にと続く 




          平成31年1月27日、28日に上海で撮影

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最終更新日  2019年03月11日 20時16分34秒
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