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今年も「金田政宗の旅の記録」を沢山見て頂いてありがとうございます。2024年もどうぞよろしくお願いします。金田政宗↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.12.31
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毎年恒例の年末年始旅行。今年の年末年始は少し足を伸ばして京都へ行くことに。京都に渡るのは人生で3回目、京都は人生で何度でも行きたい場所の一つでもある。楽しみ。2泊3日の旅で、1日目は京都の小さな魅力を探しに長岡京市と向日市へ行く予定。時間が余れば京都市へ戻りぼちぼちと観光、もしくは京都タワーへ行こうと思う。2日目の大晦日は上賀茂神社、賀茂御祖神社(下鴨神社)、北野天満宮へ参拝し、夕方は錦市場へ買い物しに行く。元旦は石清水八幡宮へ初詣に行き、時間に余裕があれば他の神社へも参拝、出来れば三社参りして帰りたい。我ながら大雑把な計画だが、京都は街中に神社仏閣が点在するし神社好きの自分であればハズレ旅には絶対ならないだろう。年末年始であっても神社は自由に参拝できるし。旅行中の天気も良好な模様。雪の京都も見てみたかったが、雪は降る気配もないようだ。ちょっぴり残念。2024年(令和6年)、今年も「金田政宗の旅の記録」をありがとうございました。皆さま良いお年を。例によって旅先の写真はXに投稿します。X(旧Twitter)→金田政宗X↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.12.29
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鎌倉時代より由緒のある八幡宮で、紅葉の時季になると境内のイチョウが美しい神社。御祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。宇治皇子、難波皇子、玉依姫(タマヨリヒメ)、高良大明神、住吉大明神を配祀する。鎌倉時代の1243年(寛元元年)に佐々木四朗高綱が源頼朝より命を受け、鶴岡八幡宮の分霊として祠を川上村立野に建立したのが始まり。翌年に椿の木部に祠を移し、1314年(正和3年)に地頭の三好康久が現在の地に小宮を建立。その後2回の再造営が行われている。古くから守護や地頭の崇敬が篤く、多くの神田や神領が寄進され、江戸時代には毛利氏からも崇敬され、1659年(万治2年)に長州藩2代藩主の毛利綱広の造営により本殿や楼閣が備わった。廃藩置県後は領地が没収され、1873年(明治6年)に県社となった。1946年(昭和21年)に県社の格を廃して神社庁の所属となり現在に至る。第9代宮司の青山上総介(後に青山清に改名)は高杉晋作、山縣有朋、伊藤博文らと共に下関の桜山招魂社(現櫻山神社)の創建に尽力。明治維新後に上京し、東京招魂社の祭事などを務め、1879年(明治12年)に東京招魂社が靖国神社に改称された際に同社の初代宮司に就任している。毎年4月25日に例祭が行われている。正面鳥居から少し離れて見た椿八幡宮の全体像。境内のイチョウの巨樹は大変立派で、遠くから見るとその大きさを実感でき、葉に夕日が当たると黄金に輝いて見えた。正面鳥居の石鳥居。手水舎。水は張られていなかった。神楽殿。140枚の花鳥木の天井絵が描かれている。狛犬。拝殿。木造で屋根は銅板葺。八幡造に近い様式になっており、拝殿と本殿は合いの間で連結している。本殿。境内社の清神社(須賀社)。御祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)、大国主命(オオクニヌシノミコト)、稲田姫命(イナタヒメノミコト)。かつては祇園社と称されていたが、1871年(明治4年)に改称された。社務所。裏の鳥居。小さな鳥居の周辺は紅葉が綺麗だった。丘の上に鎮座していた稲荷社跡。鳥居は柱が傾き社殿は崩壊しており、残念ながら信仰は忘れ去られてしまったようだ。椿八幡宮のイチョウの巨樹。訪れた時は黄葉が見頃だった。境内を包み込むようにして、黄金色の葉が付いた枝を大きく広げている。黄金色のイチョウの落葉は境内の地面を覆い尽くし、まるで絨毯のようになっていた。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.12.26
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撮影地:福岡県北九州市 『リバーウォーク北九州』 小倉クリスマスマーケット2024↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.12.24
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撮影地:山口県長門市 『長門湯本温泉』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.12.14
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熊本県中部を流れる緑川の水源一帯の流域にある峡谷。峡谷内にある緑川水源はくまもと名水100選に選定されている。九州山地を水源とする緑川の上流に広がる峡谷で、峡谷の幅は100~200m、深さは50m~200m。一帯の森はツガ、モミ、などの針葉樹やナラ、ブナ、カエデなどの広葉樹が広く分布する原生林となっており、渓流にはヤマメなどが生息している。四季折々で多彩な変化を見せ、夏は新緑が綺麗で避暑地として人気があり、秋は紅葉の名所として知られている。峡谷には緑仙峡キャンプ場が整備されており、ヤマメ釣りが楽しめる釣り堀もある。緑仙峡キャンプ場。緑仙峡の大自然に包まれたのどかなキャンプ場で、テントサイトの他にバス・暖房・キッチン付きのキャビンとバンガローが5棟ずつある。バーベキューセットなどの貸し出しもあり。釣り堀池。ヤマメ・マス釣りが楽しめる。橋の上から見た緑川。緑川清流。峡谷にある緑川水源から続く渓流は非常に透明度が高く、水深の深いところはエメラルドグリーンに輝いて見え、辺りの紅葉や川辺の落葉とのコントラストが見事。夏は避暑地となり、川遊びを楽しむ人も多いんだとか。キャンプ場から見た山の紅葉景色。キャンプ場のある場所からしばらく上っていく。道路は一本道となっていて、離合スペースもあまりないので車の運転には注意。途中で車が2台ほど停められる駐車場があり、その近くに穿の洞窟へと続く道が伸びている。穿神社。穿の洞窟を御神体とし、かつては緑の宮と呼ばれていた。穿の洞窟。中は鍾乳洞となっており、日向国(現宮崎県)まで続いているという伝えがある。また肥後国誌には「緑川の水源はこの穿の洞窟より出る」と記されており、毎年11月に地元の人々により祭礼が行われている。かつては洞口にしめ縄が張られていたようだが、訪れた時は無くなっていた。内部の探検はできなくなっているので注意。紅葉で岩壁が鮮やかに染まった岩山。緑川沿いの道を外れて山の方へと続く道路の途中、高台から見た景色。綺麗な紅葉に彩られた緑仙峡を一望できた。道は崖沿いの一本道となり、更に狭くなっていて車で上るのは危険なため、上り口の駐車スペースに車を停めて歩いて上がって見るといい。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.12.13
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九州中央山地を水源とする五ヶ瀬川の上流に位置する峡谷。一帯は阿蘇の南外輪山に連なる高原で、阿蘇溶結凝灰岩が台地を作っている。五ヶ瀬川の水流が長年にわたって台地を削って形成したU字型の峡谷で、幅は200~300mあり、深さは150~200mで切り立った絶壁が14kmにもわたって続く。日本では珍しいU字型の緑が深い峡谷の間に、五ヶ瀬川が流れる雄大な景色から「九州のグランドキャニオン」と呼ばれている。長崎鼻展望台から峡谷の景色を一望でき、特に紅葉の時季になると山肌が赤色に染まり一段と美しくなる。GoogleMapsを使って行く場合は目的地を「蘇陽峡駐車場」に設定推奨。「蘇陽峡展望台」に設定すると滝下地区を通るルートとなり、駐車場までカーブの多い非常に狭い道路を通って行く必要があるため危険。紅葉の時季。多くの観光客が訪れ、駐車場の近くでは露店が出ていた。駐車場から少し歩いて長崎鼻展望台まで。展望台まで向かう途中で見かけた、燃ゆるように紅葉したモミジの木。長崎鼻展望台。ここから蘇陽峡が一望できる。展望台から一望した峡谷。訪れた時は紅葉が少し色褪せてしまっていたのが残念だったが、晩秋と初冬の境目、紅葉景色と冬枯れの景色が共に写る様子はなかなか見れないのかもしれない。地形は最下層が6500万年前の白亜紀の地層で、最も新しい最上層であっても約9万年前の阿蘇火砕流堆積物となっていて、この雄大な峡谷がどれだけ長い年月をかけて形成されたかがうかがえる。峡谷を流れる五ヶ瀬川の奥の方に見える建造物は桑野内ダム。峡谷のパノラマ写真。展望台から左手の方に見えた山はまだ紅葉が色褪せておらず、山肌が綺麗なグラデーションを描いていた。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.12.07
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その名が示す通り、福岡市の紅葉の名所として知られる神社。獅子祭りは市指定無形民俗文化財、三十六歌仙額絵馬が市指定有形民俗文化財にそれぞれ指定されている。御祭神は神功皇后、應神天皇、菟道稚郎子命(ウヂノワキノイラツコノミコト)。他に玉依姫(タマヨリヒメ)、大己貴命(オオナムチノミコト)、事代主命(コトシロヌシノミコト)、菅原神、金山姫命(カネヤマヒメノミコト)、稲倉魂命(ウカノミタマノミコト)など十二柱の神が祀られている。安産、子守り、厄除け・災難除け、縁結び、開運出世の御神徳があり、その他にも子孫繁栄、疫病除け、武運長久など多数の御神徳がある。平安時代後期の治暦時代に、陸奥国より来住した柴田氏が産土神である八幡宮の御分霊を勧請したことが創祀とされ、その子孫である柴田蔵人佐繁信が橋本村(現西区橋本)に来住し、1482年(文明14年)に社殿を創建したと伝えられる。江戸時代初期には黒田藩(福岡藩)3代藩主黒田光之に篤く崇敬され、1666年(寛文6年)に橋本村から百道松原に遷座し、32000坪の広大な境内と社領百石が寄進される。その後も歴代藩主から篤い崇敬を受け、荘厳な社殿や能舞台などが建立され、大祭の日も藩主が定めた。1910年(明治43年)に境内に北筑軌道が横切るようになったため、1913年(大正2年)に現在の地に遷座した。現在は早良の総守護として崇敬され、秋は紅葉の名所として多くの参拝者が訪れている。年間を通して様々な祭事や行事が行われており、8月に紅葉八幡宮獅子祭り、10月に秋季大祭、11月にもみじ祭が行われている。中でももみじ祭が有名で、舞や太鼓が奉納され出店も多く出ている他、夜間に紅葉のライトアップも行われている。大鳥居。1666年(寛文6年)に黒田藩3代藩主の黒田光之から奉納された鳥居を再建したもので、大きさは県内最大級。神額は梶井宮親王(承仁法親王)真筆のもので、奉納当初は金色に輝いていたという。神楽堂。大正時代に建築されたもの。地面から少し高い場所に建てられており、神楽や筑紫舞が奉納される時には多くの参拝者が見られるようになっている。訪れた時は沢山の和傘が飾られていた。二の鳥居。御影石製獅子頭。除災、感染症終息祈願、獅子祭りの伝統を繋ぐシンボルとして、青と赤の御影石で造られた獅子頭。手水舎。利生の水。黒田藩4代藩主の黒田綱政がこの地に訪れた際に急な腹痛に悩まされ、山に鎮座していた稲荷神社を守る山伏(山に住んで修行をする僧)に祈祷させ水をいただくと腹痛が治ったという。綱政は大いに喜び、この地に利生庵という庵を建て、山伏を住ませたという。夫婦松。地中で根が絡まり、お互い寄り添うようにして立っている松の木。夫婦和合、恋愛成就の御利益があると言われている。子安石。安産を祈願する人はこの石を預り、無事出産したら子供の名前を書いた新しい石と共に奉納する。神功皇后が三韓征伐の際に皇子(応神天皇)を身籠られており、戦が終わった後に無事に出産できるようにと戦に臨むときに腰に巻かれたと伝えられる鎮懐石が由来となっている。歯固石。丈夫な歯が生えるように、食べ物に困らないようにと赤子のお食い初めで用いられる石。拝殿。モミジの木に囲まれていて、訪れた時は拝殿の色と同じく葉が真っ赤に染まっていた。もみじ祭りが行われていた最中で、すぐそばでは和太鼓が奉納され大いに賑わっていた。本殿。流破風造で、古くは木造だったがそちらは宝物と共に焼失してしまい、現在はコンクリート造りとなっている。神輿庫。地元の有志によって奉納されたもので、神輿や獅子頭などが納められている。宇賀稲荷神社。御祭神は宇迦御魂神(ウカノミタマノカミ)。前述の利生の水でもあった、かつてこの地に住んでいた山伏が守っていた神社。古くは宇賀神社、稲荷神社の2柱が鎮座していたが、紅葉八幡宮が当地に遷座した際に合祀され現在の社名になった。家内安全、商売繁盛の御利益の他に、神社を守っていた山伏が黒田藩4代藩主の黒田綱政の体調を癒したことから病気平癒の御利益もある。紅葉山山頂。モミジ、松、桜の木が植えられており、市民の憩いの場となっている。昔は展望台もあったそう。祖霊殿。所謂神道式の納骨堂。もみじ祭りの夜。赤く紅葉したモミジの木はライトアップされ光を纏い、飾られていた和傘や提灯にも灯が灯り、境内が鮮やかに染まる。宇賀稲荷神社は社殿に狐の影絵が映されていた。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.12.02
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