旬 0
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バスのところまで戻ってランチのレストランに移動ですリューベック名物のマジパンを紹介しましたがここリューベックにはもう一つ名物があります赤ワインですリューベックはワインの産地ではないのになぜ赤ワインが名物なのか?昔々ハンザ同盟の頃リューベックの帆船がニシン用の塩をフランスのボルドーに運び帰りは空の木樽にボルドー産の赤ワインを詰めて持ち替えりましたこれをリューベックのワインセラーで熟成して飲んでみるとなんとフランス本国のものより美味しくなっていたとロートシュポンと呼ばれるワインでロートは赤・シュポンは木樽という意味からきています現在でもリューベックのロートシュポンはフランスの赤ワインを熟成させて瓶に詰めて売られていますレストラン(ZUN RATSMERRN)赤ワインのロートシュポンとビール・・ロートシュポン(赤ワイン)赤ワインって渋みがあって苦手だったんだけど口当たりがまろやかで優しいお味・・美味しい!!こんなにもまろやかな赤ワインは初めてでした・・マッシュルームのスープ見た目は・・なんじゃ????だけど・・マッシュルームの風味が口の中に広がって美味しかったぁ・・たっぷりのお野菜とニシンの塩焼き・・リューベックといえばニシンだよねぇ・・待ってました・・と一口・・(「・・)ン?脂がのってなくてパサパサ・・( ̄‥ ̄;) マ、マズイ・・殆ど残しちゃった・・デザートはチョコレートムース・・生クリームも甘すぎなくていい感じ食事が終わると北ドイツのリューベックにお別れして旧東ドイツのシュベリーンまで約68km・・約1時間のバス移動です・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/11/16
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マリエン教会を見学した後はマルクト広場で解散30分のフリータイム・・ペトリ教会の上に登るとリューベックの町が見渡せるのですがフリータイムは30分しかない・・時間的に無理と判断リューベック名物のマジパンで一番有名なニーダーエッガーに行くことに・・リューベック市庁舎前にある1806年創業の「ニーダーエッガー(Niederegger)」はドイツ全土にその名を知られるマジパンの名店ありとあらゆるマジパン菓子が揃うショップで2階にはケーキやお茶がいただけるカフェやマジパンの歴史を学べるミュージアムが併設されたまさに「マジパンの殿堂」マジパン=マルチパンとはアーモンドの粉で作った砂糖菓子のことでチョコレートの中に入っていたり人形や動物の形をしていたり色んな種類がありリューベックのお土産として人気・・1階のショップでは定番商品のチョコレートコーティングされたマジパン果物や動物やリューベックの名所などをかたどったカラフルなマジパン・プラリーネ(一粒チョコレート)バウムクーヘンにシュトレンなど様々なマジパン菓子のほかマジパンのリキュールやコーヒーなど約300種類ものオリジナル商品がずらり食べるのがもったいないほど☆':.*メチャンコヾ(´∀`ヽ)可愛ぃ*.:'☆マリエン教会でみかけた草の王冠がこのお店にも飾られています「幸運を呼ぶ子豚」・・これお土産にするといいかも・・下見だけして2階のミュージアムへカフェの奥まった所にミュージアムがありましたコーヒータイムを楽しんでいる方のそばを通り過ぎてミュージアムに薄暗い照明の中に浮かび上がるマジパンで作った作品ゾクゾクするほど素晴らしい・・いろんな賞も獲得しているようですたまたま職人さんが通りがかってクマさんとのツーショットお願いしました(≧∇ノ■ゝハイ、チーズ♪トイレもお借りして男性用と女性用のマーク?とっても可愛くて思わず・・パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)1階に降りてお買い物・・マジパンが中に入ったチョコ1個売りのものを買ってクマさんと味見・・これは初めての食感・・箱売りもあったのですがあえて・・色んな種類のものを買ってきてラッピングをしてお土産に配りました精算を済ませるとフリータイムはあっという間(*・・)ヾ^☆しまった・・・・・ 子豚さん・・買うの忘れたぁ・・・・・写真整理してて思い出した・・▼▼”⌒☆o(_ _o)ドテッ集合場所のマルクト広場はニーダーエッガーの前の道路を横切ってこの回廊をくぐるとすぐです・・市庁舎市庁舎では結婚式もあげられるそうです風を通すための大きな丸穴もここからだとよくわかりますね11時集合でしたので朝・来たときにはなかった市がひらかれていました新鮮な野菜・果物・チーズ・・キロあたりの金額が表示されていますコーヒーメーカーに目が釘付け【壁】ョω-)+ スゴイヮ…と見ていると中から男性が・・・思わず写真いいですか?と聞くとにっこり微笑んでくださってOKしてくださった・・コーヒー・・めっちゃいい香りぃ・・・飲みたかった・・なぁ・・・時間がぁ・・・・(;´д`)トホホ…FC2・・はこちらから
2018/11/14
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マリエン教会リューベック(北ドイツ)の有名な市庁舎の横に立つマリエン教会は1250年~1350年にかけて建てられました(画像はお借りしました)教会の建物は北ドイツによく見られるレンガゴシック様式の母と呼ばる巨大な教会ですバルト海沿いの都市にはこの教会を手本として建てられた教会が数多くあります第二次世界大戦時にはリューベックも他の都市と同様に爆弾攻撃を受け市の5分の一が破壊されマリエン教会や他の教会も大きな被害を受けました教会の再建は1947年から始まり12年後の1959年には完成式が行われました瓦礫の山となったリューベックに立つマリエン教会屋根が焼け落ちています(画像はおかりしました)リューベックの建物の中はどこも壁がきれいな模様で装飾されていますマリエン教会も例外ではなく中は白を基調としたデザインで柱や天井が可愛い模様で飾られていますマリエン教会には8512本のパイプをもつ世界最大級のパイプオルガンがありかつて音楽家のバッハは当時この教会でオルガニストをしていたブクステフーデの演奏を聴くために遠いチューリンゲン州から400キロの道のりを徒歩でやって来たとか・・そして魅了されたバッハは4ヵ月もリューベックに滞在したと・ステンドグラスも戦争で破壊されてしまいました当時のまま残ったのがこちらですドクロが描かれているのが非常に珍しいですいろんな教会のステンドグラスを見てきましたがドクロは初めてです再建時に作られたステンドグラスは簡素な物が多く再建に寄付した町のワッペンが入れられています髑髏の頭を持つ「死」がたくさん描かれていますがこれは戦争で破壊された「Lübecker Totentanz(リューベックの死のダンス)」をモチーフにしています「死のダンス」は1463年に教会の中のチャペルに描かれた有名な壁画で14世紀に流行ったペストの脅威を髑髏の死神として表していましたが戦争時の火事で破壊され現在は残っていません「死のダンス」は今年の5月に訪問したエストニアのタリンでも見ていましたのですぐに分かりましたその時のブログはこちら死の象徴のペストがモチーフのステンドグラス戦争時には教会の貴重なものがたくさん破壊されました16世紀に作られた天文時計もそのひとつで戦後にリューベックの時計職人によって復刻されました元々は凝った装飾だったようですが現在のはシンプルになっています月の満ち欠けも分かるカレンダーは緻密で素晴らしいものでした草(?)で作られたものが気になって吉田さんに聞くとクリスマスに飾る王冠だと・・祭壇の後ろ手のほうに1941年(第二次世界大戦)の英軍の空襲で破壊され2本の塔の真下に地面にめり込んで割れたままの鐘が平和への願いを込めて今もそのままの姿で残されています奥にひっそりと置いてある20本の十字架・・現代アートで・・なんの意味もないそうです・・教会からでると何気ない風景の中に見事なレンガ建築の建物が・・続くFC2・・はこちらから
2018/11/11
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旧市街のマルクト広場に出ると繁栄していた当時の威厳を面影として残す市庁舎があります市庁舎の建設は13世紀前半リューベックが帝国直属都市となってまもなく始まりましたほとんどの部分がレンガ造りのゴシック様式ですがマルクト広場に面した白いアーチ部分や東側の外階段はルネッサンス様式で建てられていますまず目を引くのはバルト海からの強風を通すための円形の風穴があけられているファザード緑色のとんがり帽子を被ったような姿の複数の細い尖塔・・独特な雰囲気を放っていますさらに光沢のある黒緑色のレンガがリューベック市庁舎の個性を際立たせています他のドイツ諸都市を見てみてもこのような色のレンガは非常に珍しいです 市庁舎の裏側から・色の秘密はレンガに牛の血と塩を混ぜているからだと・・これらはリューベック特有の建築と言われていますマリエン教会マリエン教会の前に愛嬌のある悪魔が座り込んでいますこの悪魔の像には教会建設にまつわる次のような有名な言い伝えがあります聖マリエン教会の建設が始まったとき悪魔はブドウ酒酒場ができると勘違いし嬉々として建設の手助けをしました悪魔のお陰で建設は驚くべき速さで進んだのですが実はそれが酒場ではなく教会だと気付くと怒った悪魔は完成間近の教会を破壊し始めてしまったそれを止めるために教会のすぐ近くに酒場を建設することが約束されると悪魔は上機嫌になり教会を壊すのをやめ無事に聖マリエン教会が完成しましたこうして教会のすぐ向かいの市庁舎にブドウ酒酒場がつくられたのだそうですクマさんとツーショットで(-p■)q☆パシャッパシャ(「・・)ン?☆似てるぞ・・手の小さいとこなんかもそっくりやん!ヾ(≧▽≦)ノギャハハ☆いつも観光客でいっぱいで近寄るのも大変らしいですこのときは私達だけだったのでじっくりお顔を拝見できましたラッキー!続く・・FC2・・はこちらから
2018/11/09
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リューベック(1972年旧市街が世界遺産に)13世紀~14世紀のハンザ同盟が栄えた頃にその中心として最も繁栄を極めたのがリューベックですバルト海や北海から荷揚げされたニシンなどの海産物の取引所だったこの町へ各地から商人が訪れましたここから南へ80kmほどの所にある塩の産地リューネブルグから海産物を運搬するための塩が運ばれその塩はリューベックを経てロシアや北欧へと輸出されました塩がたどった通商路は古い塩の道とも呼ばれていますリューベックの旧市街はトラヴェ川とトラヴェ運河に囲まれた中の島にありますホルステン門どっしりとしたふたつの塔からなる市城門で1464年~78年に建てられました厚さが3.5mにもなる部分がある壁の重みで建築中からすでに地盤の弱い地面にめり込んでしまって・・よく見ると塔が傾いているのがわかります・・真ん中が凹んでますね・・どこの国にいっても落書きが目に付きますドイツの信号機で使われている「アンペルマン」をご存じですか? 帽子をかぶり今にも歩き出しそうにつま先をあげる緑の「進め」思い切り両手を広げた赤の「止まれ」ほかの国の無機質な信号機とは違いその愛らしい姿はとても印象的でキャラクターを使ったグッズはベルリン名物となっています上が東のアンペルマン・下が西の普通のものですこうして比べてみるとアンペルマン可愛いですねアンペルマンは1969年に東ベルリンの都心に登場し1970年には公的に歩行者用信号として認められ次第に東ドイツ各地へと広がっていきましたドイツ再統一に伴い当初は西ドイツで使用されていた信号機に置き換えられる予定でしたがかわいらしいデザインに親しみを感じまた歩行者信号機として優れたデザインであることから現在ではドイツの首都ベルリン州の正式な信号機となりました旧西ベルリンも含めベルリンの80%以上の信号機が東生まれのアンペルマンになっていますまたリューベック・ハイデルベルク・シュトゥットガルトなど旧西ドイツ各地でもアンペルマンを使用した信号機が設置されていますだからここリューベックでアンペルマンを見ることができたのですアンペルマンはステッカーやマグカップなど600種のグッズがアンペルマン・ベルリンから販売されていてベルリンや旧東ドイツ各地のお土産として世界的な人気だそうです・・後ろを振り向くとホルステン門・・左側に赤レンガで作られた建物が立ち並んでいますハンザ同盟時代の塩倉庫です塩は富や権力と結びついていたといわれ重要な資源でした内陸地のリューネブルクから仕入れられてここで保管されハンザの商人たちはバルト海で捕れたニシンを塩漬けにしそれらを諸都市へ売りさばくことでリューベックは繁栄していきました・・旧市街に入るとすぐ右側に(右上画像)・・聖ペトロ教会の緑の尖塔が見えてきます更に進むとマルクト広場(右下画像)続く・・FC2・・はこちらから
2018/11/07
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2018年10月18日(木) 小雨・・曇り・・晴れ昨夜は飛行機でほとんど寝てなかったのでベッドに入るとすぐに爆睡目覚めたのは4時半窓から外を見るとまだ真っ暗ドイツの夜明けは7時前・・窓を開けてお天気と寒さのチェック・・日本より1ヶ月季節が早いので寒い・・ユニクロのウルトラライトダウンとストールをリュックに・・朝食は6時から・・身支度を整えて荷物の整理をし階下へ降りてホテルの外へ出てみる思ったより寒くない・・ホテルの前の大きな木が印象的・・足元は落ち葉の絨毯・・朝食のレストランへ行くとすでに私達のツアーの方が・・35年前に義父と来た時のヨーロッパホテルの朝食はパンとコーヒーだけの簡単なコンチネンタルだったと・ふと思い出す・・今まで気にもしてなかったのにと不思議に思う・・普段の朝食はコーヒーとヨーグルトにシリアル・・旅に出ると彩りが綺麗でついつい食べてしまう・・コーヒーがとっても美味しい・・そういえばルフトハンザ航空の機内で飲んだコーヒーもとても美味しかった・・機内のコーヒーは不味いものと思っていたから嬉しかった・・食事が終わってお部屋へ戻ろうとしたら添乗員の吉田さんとばったり・・ウエルカムドリンクの前でツーショット・・吉田さんの笑顔・素敵ですね・・ホテル8時30分出発昨日のバスと違うバスが来ていましたドライバーさんはベルナーさんガッチリした50才前後の男性・・ノイシュバンシュタイン城の近くに住んでるそうですハンブルグは泊まっただけで観光はなし・・素通りなんて勿体ないなぁ・・・・・・・ここから68kmあるリューベックまでバスで約1時間の移動です車窓からの画像ですが曇ってますね朝降っていた小雨は上がってくれました道路に落ち葉が沢山積もってる・・これは掃除しても掃除してもキリがないからしないそうです落ち葉の絨毯・・綺麗・・・・バスは2人席を1人で座れますので凄く楽でした・・今回のツアーは普通なら2週間はかかる日程らしくかなり強行なスケジュールだと・・参加者18名全員がシニア世代・・ご夫婦が私達を含めて2組・・妹さんご夫婦とお姉さんの3人組が1組・・男性1人参加1名・4人連れの女性が1組・2人連れの女性が3組・・今までずいぶんたくさんのツアーに参加してきましたがシニアばかりでお若い方がいないツアーは初めてだからかなぁ・・今回のメンバーは独特の雰囲気・・吉田さんの話も聞いてる風で聞いてない・・さてさて・・どうなることやら・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/11/05
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今回のドイツの旅は総勢18名・・添乗員さんは超ベテランの吉田さん(50代の女性)いよいよドイツへ出発です関西国際空港 10時05分 LH741(ルフトハンザ航空)フランクフルトへ約11時間55分の飛行です定刻どおりに出発満席・・飛び立って1時間くらいしてスナックと飲み物・・機内映画だけが唯一のお楽しみなのに日本語訳が少なく最新の映画がほとんどなかったのが残念・・昼食前菜ポテトサラダ・ビーフパストラミ・・蕎麦・・主菜鶏もも肉のソテートマトクリームソース・・ブロッコリー・フライドポテトまたは・・豚と野菜の味噌炒め・ご飯・・デザート新鮮な果物・・私は豚と野菜の味噌炒めに・・まずお蕎麦を食べてメインに一口食べただけで・・( )ノ_...オエェ...またまたあの悪夢が蘇って一口でギブアップ・・落ち着いてからパンとデザートを食べて終わりクマさんはなんとか食べれたみたいです軽食にサンドイッチか鮭おにぎり鮭おにぎりが美味しかったぁ・・夕食・・主菜ブルートヴルストソーセージ・キャベツ・・グレービー・カラメルオニオンとマッシュポテト添え・・または・・牛肉照り焼き丼デザートアップルシュトゥルーデル・アングレーズソース私はソーセージに・・なんとか食べれました・・フランクフルト21時35分着(現地時間14時35分)時差7時間フランクフルトで国内線乗り継ぎハンブルグへ時計は現地時間に直してしまいますこれが時差ボケにならない一つの方法です日本なら夜中だなぁ・・なんて思わないこと・・=^-^=うふっ♪小腹が空いていたのでクマさんとサンドイッチとコーヒーでまったりしていると同じ飛行機で来られたご夫婦と出会うここからスペインへ行かれるそうです・・旦那様は仕事でドイツにはよくきているそうです奥様は旦那様がいるから会話は安心だとおっしゃってましたご夫婦とお別れしたあとやはりここからスペインへ向かう女性と出会い・・しばしおしゃべり・・ツアーに一人参加だそうで・・先程のご夫婦と同じツアーのようでした話が弾んで時間があっという間に・・お互いに旅を楽しみましょうと声を掛け合って別れましたフランクフルト発 17時40分 LH026ハンブルグへ約1時間5分の飛行です予定より25分遅れで出発スナックと飲み物のサービス外は夕焼けが綺麗でした18時55分 ハンブルグ着10分遅れで到着です空港では日本人のサナエさんが待っていましたバスに乗って空港から近いホテルへバスの中で簡単にドイツの説明をしてくださって便利な言葉を教えてくださいましたビッテ・・挨拶にも・ありがとうにも・ごめんなさいにも・・これ見せてくださいにも何にでも応用できる便利な言葉表情と身振り手振りで使い分けるといいそうですレオナルド・エアポートホテルホテル着・・19時50分ウエルカムドリンクがおいてありますお水にオレンジのスライスを入れたものでしたお部屋は角部屋で広かったですお風呂はシャワーだけ・・添乗員の吉田さん・・一人部屋の人はシャワーでお連れ様のある方はバスアブ付きと言ってましたすぐに私達のお部屋に来て一人部屋の方にバスタブが付いてるから交代しましょうとそのお部屋を覗いてみると狭い・・そのお一人の方は3人連れの一人でお隣同士だったので離れるのがいやそうだしそのままでいいですと吉田さんに伝えて元の部屋に・・吉田さん・・私達のお部屋を見てこちらのほうが広くていいですね・・良かったぁ・・不公平があってはいけないと気をつかってくださったんだけど結果オーライで良かった・・良かった・・さっとシャワーを浴びて明日の準備をしてその夜は爆睡・・続くFC2・・はこちらから
2018/11/02
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2018年10月17日(水)午前4時40分神戸ベイシャトルに向け出発6時着・・6時30分発で関空へ海は穏やか・・関空7時着カウンターへ行き受付出国手続きを済ませるユニクロへ向かい私・・関空にユニクロがあるなんて全く知らなかったんです添乗員さんが出発3日前に最後の案内の電話をしてくださったときにユニクロのウルトラダウンが軽くてコンパクトで便利ですよ関空にもユニクロありますからと教えてくださって・・二人でウルトラダウンコートをゲット・・小さくて軽くて本当に購入してよかったです持っていったコートは出番なし・・o(*^▽^*)oあはっ♪免税店だから8%offだしさらににKIX-ITMカード をゲットすると5%off一応欲しいものをゲットしてほっとしているとクマさんがボールペンが欲しいということでお店を回ってみたのですが免税店に普通の文具はない・・クマさんの求めるボールペンはありませんでしたそんな時見る間にクマさんの顔色がパスポートがない・・ユニクロに忘れた・・私の静止する言葉も全く耳にはいっていませんクマさんユニクロで精算してないからパスポートだしてないのに・・ユニクロまで行きクマさんをみつけるとない・・(@Д@; アセアセ・・・あのね・・クマさんユニクロで精算してないからパスポートだしてないよ・・もう一度カバンの中を探してみて・・クマさんカバンをひっくり返してチェックありました・・私にパスポートを渡したあといつもと違うところに入れてたのをすっかり忘れてたようですあってよかったぁ・・無くしてたらと思うとゾッとします・・今日のクマさんなんか変・・いつもはクマさんがパスポートの管理をしてくれているのですが今回は私が管理することに・・クマさんもそうして・・と・・搭乗ゲートで椅子に腰掛けてまったりしているとお隣の男性がとっても綺麗なルアーをチェックしています思わず綺麗ですね・・と声をかけてしまった・・神戸の元町にある会社で作っていてスペインへ商売しに行かれるそうで・・このお品は今回・初お目見えのお品だとか・・あちらの方はルアーが主流だそうでとても人気があるようです・・日本製のルアー・・あのキラキラした綺麗なルアーが目に付きついてますフランクフルト乗り換え・・私達はハンブルグ・・彼はスペイン・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/11/01
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13時24分ヘルシンキ・ヴァンター空港着それぞれ荷物をもって移動ですチェックインが機械になっていてガイドさんと添乗員の前田さんが使い方を説明してくださいますまず・・言語に日本語をチョイスしパスポートも自分で機械にかざしてチェックイン荷物につけるタグも自分で枚数を指定して出します・・機械はたくさんありました・・その機械の真ん前に陣取ったのが迷子になった女性・・全く前田さんのはなしを聞いてなくてわからへん・・わからへんといいながらもたもたして時間ばかりすぎる前田さんのところでしてもらえば?私も自信がなかったからそう声をかけて・・クマさんと一緒になんとかチェックイン座席は10A・10B・・今回は並び席・・・前の方の窓側です・・それにしてもこれ慣れないとできないわ・・但し・・どの国の方も機械でできるわけでなくできる国とできない国があるそうです日本は信用できるからできますよ・・と・・カウンターは長蛇の列・・17時25分発関空行き時間があるのでお土産物屋さんをうろうろしたりお茶を飲んだりして時間をつぶす座席につくと( ̄ー ̄?).....??アレ??ここ・・エコノミーコンフォート席だ・・ノイズキャセリングヘッドホンとマリメッコのポーチに入ったアメニティーセットが・・エコノミーよりも8=13cm広いレッグルーム食事はエコノミーと同じです行きが最悪だったからこれは嬉しい・・この席・・ツアーの中では私達だけでした前田さんに小声で伝えるとしーっd( ̄ε ̄;)私達は3席の窓側と真ん中・・前が2席だったので通路側の小柄な日本人男性の前は何もないですトイレに行くのも気を使わなくてよかったです食事は嬉しいご飯・・フィンエアーの食事は食べれました帰りは映画三昧ブラックハンサー・・ジュマンジ(ウェルカム トゥ ジャングル)グレイテスト・ショーマン・・メイズランナー・・エンバーもう一度の食事これは半分だけ食べました・・関空まで約9時間半の飛行・・2018年5月26日(土)殆ど寝ないで関空へついたのが8時40分Kキャット行きのバスにのり・・船で神戸空港まで・・今回のバルト三国の旅・・本当にお天気に恵まれて最高の旅でした帰国して友人に報告するとシャウレイの十字架の丘・・大丈夫だった??彼女の知り合いの感性豊かな(霊が見えるらしい)劇団の方がそこを訪問・・ちょっと違和感を覚えながらその夜のホテルに・・ホテルで・・なんと・・出たらしい・・しかも一人でなく数人の方が訴えたと・・ついてきたようですそこに何も埋まってなくても人間の思いがたくさん集まったところ・・目に見えない思いがこもった場所・・あるのですね・・終わり・・FC2・・はこちらから
2018/09/10
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2018年5月25日(金) 快晴今日は最後の日・・フェリーにのってヘルシンキへ向かいますホテルにて最後の朝食・・ホテル出発9時車窓より太っちょマルガレータが町の最も重要な出入り口を守るため1529年に建てられた砲塔直径24m・壁の厚さは4.7mにもなりまさに「ふとっちょ」そのものそこから砲弾が発射されなくなってからは倉庫や兵舎・監獄としてつかわれました1917年のロシア革命の混乱時に火災に遭い廃墟となりましたがその後修復され現在は海洋博物館になっていますここが監獄に使われていた頃囚人の食事を切り盛りする太ったおかみさんがいて彼らから尊敬と畏敬の念をもって慕われていたそうです彼女の名前がマルガレータ塔の愛称も彼女に由来すると伝えられています9時10分タリン港ターミナルB到着10時20分出港です来るときは疲れてしまって船内の椅子に座り込んで寝てしまったから帰りは外に出て撮影ですクマさんも椅子に腰掛けてまったり・・時間通りに出港たくさんの思い出をいっぱいもって遠くに見えるタリンの町にお別れ・・免税店を覗いてみるとカラフルなお土産がたくさんヘルシンキとタリンをつないでいるのでムーミンのマグカップも置いてますピンクサルトが売ってる画像右下・ピンクの瓶・・海外に来るといつも自然塩を買う私・・日本だと高いからね・・スーパーでもピンクサルトをゲットしていたのですがお値段が・・違いすぎる・・添乗員さんがスーパーのピンクサルトのお値段を見てあまりにもやすいので偽物?!かなって呟いてたから念のためここでもゲットして味比べをしてみよう・・免税店はお酒売り場コーナーがすごく広いですヘルシンキの酒税はめちゃめちゃ高い・・アルコール度数によって高くなります・・北欧の方はよく飲むそうでフェリーの免税店に買い出しに来るんだって・・皆さん箱で爆買い!!お昼はハンバーガーで簡単に・・ハンバーガー・大きかったわ・・お味は普通に美味しかったです12時40分ヘルシンキに到着・・2時間ちょっとの船旅・・私たちの乗るバスピカチューって表示してる・・☆':.*メチャンコヾ(´∀`ヽ)可愛ぃ*.:'☆ドライバーさんのサービスかしら・・これから空港へ移動です・・ちょっと嬉しい・・続くFC2・・はこちらから
2018/09/08
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すべての観光が済13時ホテルにこの後はフリーとなりますちょっとお部屋で休憩して駅までやってきました日本の駅とは全く違いフリーになっています・・ヨーロッパの郵便局のマークはラッパのマーク正確にはラッパの一種でホルンの仲間18世紀から19世紀頃のヨーロッパで乗馬による郵便輸送やメールコーチと呼ばれた郵便馬車がその出発到着を知らせるため用いていたそうです地下道を通って駅の向こう側に 大きな市場・・マーケット・・キロいくらと表示されています日本でもおなじみのスイカも並んで・・中に入るといろんなお店が入っています1階は食料品・・2階から上はレストランや洋服店・アクセサリー店など・・食事にはまだ早かったので旧市街に移動ガイドさんと回ったところと違うコースで坂道には絵描きさんがお土産物屋さんは殆どお店を閉めてしまっていて閉めるの早いなぁ・・ほしかったお土産物屋さんも閉まってたぁ・・ショック☆☆ショックここでかなり迷ってしまって・・何度も同じところに戻ってきてしまう・・迷路やん・・・・・・・広場にでられへん・・o┤*´Д`*├o アァーなんとか広場にでて(´▽`) ホッ外の席に座って冷えたビールを飲みたかったけどすでに満席・・仕方なくお店の中で冷えたビールで(*  ̄▽)o□☆□o(▽ ̄ *) カンパァーイッ♪パスタで軽く食事ウェイターのお兄さん・・イケメン・・や・・20歳の学生さんだそうで英語を選択して勉強してると・・エストニアの学校は小学校(1年生~3年生)中学校(4年生~9年生)高等学校(10年生~12年生)に大別され中学校までが義務教育となっていて他のヨーロッパ諸国とほぼ同等の教育を受けることが可能です特に語学と理系の授業が多くレベルも高いそうですまたほとんどの学生は自国語であるエストニア語以外に2~3の外国語(英語をはじめフランス語・ドイツ語・ロシア語・スウェーデン語など)を勉強するとか・・英語を選択する学生さんが多いようです閉めかけていたお店を覗いてみる可愛い袋ものやストール・・可愛い柄物の生地などが並んでいます・・日本にはない色使いや柄が素敵・・数点お土産用にゲット・・トーンペア城とのっぽのヘルマン塔1227~1229年にドイツ騎士団がここに初めて石の要塞を建ててからトーンペア城は常に権力の座そのものそれが現在の国会議事堂と・・・トーンペア城の南西にそびえ建つのは背の高いヘルマン塔でエストニア国民の大変重要なシンボルです最初の建築は1371年で1500年に46mの高さに建て替えられましたホテルに戻ってOさんご夫婦とコーヒーを頂きながらお喋り・・ゆっくりした時間を過ごし部屋へ今日の歩数22300歩・・約16km・・登った階段15階・・続くFC2・・はこちらから
2018/09/03
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隣にある大統領官邸へドアに三頭の獅子のマークエストニアの国章は金地に青い3頭の正面を向いた獅子を描いたもので金の楢の枝に囲まれたデザインとなっています青い3つライオンの起源は13世紀にまで遡ります元来はタリンの市の紋章であり楢はエストニアの人々にとって聖なる木とされています1925年に正式に議会において国章と定められましたがソビエト連邦期には使用が禁じられマツとコムギが共産主義を表す赤い星の下朝日と鎌と槌を囲む国章が使われていました現在の国章は1993年より再び用いられるようになっています官邸が見えてきました大統領官邸は1930年代に建設されました白とピンクの可愛い建物です門の前には衛兵が・・広い園内を徒歩で移動ベンチもあるのでゆっくりお散歩・・いいですねぇ・・長閑な風景に癒やされながらも歴史を考えると・・辛いものがあります・・バスにて15時・・ホテルに戻り・・ここでフリータイム・・続くFC2・・はこちらから
2018/08/31
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無事迷子さんとも合流でき移動です若い女性の作業員さんがスリ注意のマークを・・この先からバス移動です向かったのは静かで緑豊かなカドリオルグ公園大北方戦争(1700年~1721年)後バルト地域を手に入れたロシアのビョートル大帝が皇后エカテリーナのために離宮と公園を造らせたところです地元の人々はエカテリーナに対応するエストニア女性の名を使いカドリの谷と呼びました白鳥の池皆さんゆったりとした時間を過ごしています池の畔に文学者クロイツヴァルトの像台座には彼が書いた子供向けのお話の一場面が・・とにかく広いです綺麗に整備されていて無料で入れますので皆さんの憩いの場に・・カドリオルグ宮殿が見えてきました宮殿の建設は1718年から5年の歳月を費やして完成イタリアの建築家による後期バロック様式の宮殿です現在はカドリオルグ美術館となっています白壁の一部が窪んでいて下地のレンガが見えている部分はビョートル大帝が自らレンガを組んで手掛けた部分として残されていますが完成時にはビョートル大帝はすでにこの世を去っていたと・・宮殿の周りには警備室やアイスセラーといった宮殿付属の建物がありましたそれらの建物は現在カフェやミュージアムとなっています18世紀当時にあった屋根部分の手すりも復元されたそうです続くFC2・・はこちらから
2018/08/28
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30分のフリータイムが終わり薬局前で集合添乗員の前田さんがみなさぁ~~ん・・お連れ様はいらっしゃいますかかぁ~~~いない方はいませんかぁ~~いらっしゃいますねぇ~~~( ̄ー ̄?).....??アレ??前田さん・・人数をかぞえなかったな・・と・・ふと思った・・移動を初めて10分ほど歩いたところで連れがいないんです・・シニア女性・3人参加のお二人の口からエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?あんなに何度もお連れ様いますかってきいてたやん・・あのときいないって言わなかったよね・・前田さん・・どの方かしっかり確認して私達を英語ガイドさんに託しここを絶対に動かないでくださいと走って戻りましたツアーの初日に前田さんの電話番号を書いたメモを渡されもし迷子になったら電話してください・・そしてその場を動かないで探しにくるのを最低30分まってくださいと口が酸っぱくなるほど何度も言われていました40分後集合場所のあたりを探したけどいなかったと前田さんが戻ってきた仕方がないのでランチのスリーシスターズに向かいます12時05分・・レストラン到着日本や各国の王室貴族が訪れたホテルのレストランです前田さんは飲み物の注文を聞くとすぐにガイドさんに後を任せて探しにでかけました私達は何もできないのでまずはビールを頂いてゆっくり食事をしながら待つことに食事をしている間・・ふと窓の方に目をやるとカメラを向けた人が次々と・・1時間30分後・・息をはずませて前田さんが戻ってきましたホテルにも戻っていないし集合場所のあたりにもいない・・電話もかかってこないと困り果てていますその直後・・本人がレストランに現れたんですみんなの前にくるのが恥ずかしいとガイドさんや前田さんのいる奥の方へ前田さんホッとして食事したいからあと少し待ってくださいと・・待ってる間にトイレをすませてフロントの方を(≧∇ノ■ゝハイ、チーズ♪三人姉妹15世紀に建てられた住宅(商家)の集合体で美しく飾られたファサード(建物正面の壁面)が女性的な雰囲気を持つことから三人姉妹と呼ばれています中世タリンの住宅はすべてハンザ都市リューベックの法律に従って建物の正面部分が道路に面するように建てられています上部にはクレーンが設けられ(上にあるのわかりますか?棒のようなものが出てるでしょ)屋根裏の倉庫に物品を引き上げられるようになっています1階はDiele-Dornseと呼ばれる2部屋の造りが一般的で入り口に近い大部屋(Diele)は事務所や作業所に奥の小部屋(Dornse)が住居になっていました現在三人姉妹はホテルとなっています今回の食事の場所はガイドブックにも載るような有名な三姉妹のホテルのレストランだったから迷子になったかた・・必死で探してたどり着いたのだと・・とにかく見つかってよかった・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/08/24
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ここで30分のフリータイム真っ先にむかったのは市庁舎64mの塔に上ることが目的です馬をつないだのでしょうか・ここで料金を支払って勿論エレベーターは無いので自力で上ることになります段差が高くかなりきつい階段を頑張って登るとてっぺんからの眺めは旧市街が一望・・Oさんご夫婦と一緒に登ったのですが大人4人でいっぱいいっぱい・・かなり狭いですあそこに集合場所の薬局が見えます正面の一番低い建物・・左奥に見えるのが市議会薬局です現役の薬局ではヨーロッパで最も古いもののひとつです1422年に記録に現れたときにはすでに3人目の主人が経営していたと・・1580年から10代にわたし主人を努めタブルヒャルトは有名でロシアのビョートル大帝の死の床にも呼ばれたほどとか現在も薬局として営業していて通常の薬のほかにハーブティーや15世紀のレシピで作られたスパイス入りのワインクラレットなども売られているそうです奥には中世の奇怪な薬品類や危惧などを集めた小さな展示室があり彩色された梁や壁画なども残っていると・・塔の上に登ったから時間がなくて中に入る時間がありませんでしたガイドさんとこの薬局のこともガイドさんの説明がほとんどなくフリータイムのほとんどを塔に登るのにつかってしまったこの薬局は午後からのフリータイムに覗いてみることに・・続くFC2・・はこちらから
2018/08/22
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これから向かうのはラエコヤ広場下町の中央に位置するラエコヤ広場この辺りではデンマーク王がトームペアに城を築く以前からスカンジナビアの商人たちが市を立てていました それ以来1896年まで市場として機能しこの広場を中心として町が広がっていきましたラエコヤ広場は祭りや結婚式などの行事が行われる場所でもありました今も野外コンサートやクリスマスマーケットカーニバルなどが催されています11月に入るとクリスマスマーケットが・・その時期も綺麗でしょうねぇ・・旧市庁舎の塔が見えてきましたこんなところにトーマスおじいさんが旧市庁舎北ヨーロッパに唯一残るゴシック様式の市庁舎14世紀半ばに最初の建物が建てられ1404年の増築後に現在の姿になりました65mの塔の上からは有名なタリンのシンボルトーマスおじいさんが町の変遷を眺め続けています現在の塔の上にいるのはコピーで1530年に作られた初代おじいさんは旧市庁舎内に・・1695年には広場で公開処刑が行われたという記録もありますオムレツの味をめぐって僧侶とウェイトレスの間で論争になり僧侶がウェイトレスを殺害してしまったとか・・広場の北東にあるL字の敷石は僧侶が処刑された場所だとされていますバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)の旧市街の中でもタリンの旧市街は見ごたえがありとても気に入りました広場を取り囲むかつての商人たちの館は色とりどりで綺麗です・・今は・・カフェやレストランに・・オープンテラスの席で冷えたビールを頂きながら中世の時代にタイムトリップ・・なんて・・想像してたら中世の姿をした男性が・・思わず∑((*゚д゚*))ドキッここから汽車の形をした電気自動車に乗って旧市街を一回りすることもできますここでちょっとフリータイム・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/08/19
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「タリン」とは「デンマーク人の町」の意・・1219年デンマーク王ヴァルデマール2世がリガの司教アルベルトの要請に従いタリンに上陸 トーンペアの丘に築城したのがこの町の始まりとされますドイツ騎士団の影響の下住民のキリスト教化(後に騎士団の世俗化によりルター派に改宗)が進めら れ1285年のハンザ同盟への加盟を機に商業都市として発展ヨーロッパ風の町作りが進みました・・タリンは中世ハンザ同盟都市の面影を最もよく残している町のひとつであると言われています坂道を登って門?をくぐると・・デンマーク王の庭1219年・・エストニア人との戦いで窮地に陥ったデンマーク王がここで神に祈ると空から赤地に白十字の旗が舞い下りその旗を掲げればデンマークは勝利するという神のお告げに従いデンマークはエストニアに勝利しました その旗が後にデンマーク国旗となったとのことです1219年6月15日・・国旗の起源がはっきり記録された珍しい例です・・ふっと横を見るとマヂ!!! ギク!ξ(*〇o〇*)ゞ顔のない黒い修道士が・・顔がないって気味悪い・・な・・あっ!あっちにも・・オオーw(*゜д゜*)wこっちにも・・ガイドさんの説明ではここに三人の顔のない修道士がいますということだけでどうしてここにいるのか説明はありませんでしたここに説明らしきものがありましたが全く読めず・・ガイドさんはすでにずいぶん先に進んでて聞けず・・人( ̄ω ̄;) スマヌいろいろ検索してもでてこないし気になる・・な・・・・・( ̄  ̄;) うーんこんなの見つけましたこのあたりには修道士の幽霊が出るという噂があると・・だからかなぁ・・夜見ると絶対に怖ッ!!!Σ(ll||д゚ノ)ノまたまたアレクサンドル・ネフスキー聖堂が・・アレクサンドル・ネフスキー聖堂を右に見ながらどんどん進みます城壁沿いに進みます・・ちょっと覗いてみたりトンネルをくぐったりトンネルを抜けて後ろを振り返ると・・またまたアレクサンドル・ネフスキー聖堂どんだけ目立ってんねん・・ロシア・・恐るべし・・キーク・イン・デ・キョク (台所を覗く塔)トームペアの南側にそびえる高さ49mの円錐形の堅牢な塔・・15世紀末に町を防衛するために造られ16世紀初めに補強されて今に残っています外壁をよくみると9つの砲弾が壁に埋め込まれているのがわかりますおかしな名前は低地ドイツ語で「台所を覗 け」という意味で・・かつてこの上からは下町の家々の台所が手に取るように覗き見えたと・・この塔の見張り台からならば台所でも覗けるほどに見晴らしが利くことを意味しています現在は博物館として使われ最上階にも上がれます何が見えるか確かめると楽しそうだけど時間がなくて登れず・・フリータイムにこれるかな・・隣の四角い塔がネイツィトルン (処女の塔・乙女の塔)中世には売春婦の牢として使われたので乙女の塔という皮肉な名がつけられました裏側(内部側)は顔のない3人の修道士がいたところで現在小さな博物館になっていますまたカフェも併設していました・・旧市街から出てきました城壁沿いに移動してバスに乗り込みます続く・・FC2・・はこちらから
2018/08/09
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パットクリ展望台から約100m南東の小道を3分ほど歩いていくと・・コフトウッツァ展望台14~15世紀に建築された赤い切り妻屋根がひしめく下町を一望できますその背景には近代的なビル群が林立する風景が広がり新旧の町並みのコントラストが面白いです・・旧市庁舎の塔が見えますその尖塔の先ににいるのがタリンのシンボル「トーマスおじいさん」・・昔タリンでは貴族のみが参加できるアーチェリーのコンテストが行なわれておりポールの先につけた木製のオウムを撃ち落とす競技だったそうです誰もオウムを撃ち落とせなかったある年群衆の中にいた貧しい家庭のトーマス少年が一発でオウムを撃ち落すことができ彼はその後の戦争でも多くの手柄を残したそうです後年タリンの市民が市庁舎の上にある衛兵の形をした風見を見てトーマスに似ていることから「トーマスおじいさん」と呼ぶようになったそうで現在ではタリン市のマスコットにもなっていますクマさん・・何見てるのかなぁ・・写真を撮ったら移動ですこの道を進むと・・大聖堂(トームキルク)戻ってきたみたいですさらに進むとアレクサンドル・ネフスキー聖堂・・左に沿って移動です「玄関先に猫ちゃん・・☆':.*メチャンコヾ(´∀`ヽ)可愛ぃ*.:'☆センスいいよねぇ・・トンネルをくぐって・・坂道を下りて下りたら登ります・・ここ・・“(・・ *) (*  ̄ ̄)” ドコドコ狭くて入り組んだ路地をぐるぐるまわっています遅れるとまじでヤヴァィ~ヾ(●≧Д≦●)〃続くFC2・・はこちらから
2018/08/06
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タリンの旧市街は入り組んでいて本当に迷子になりそうタリン旧市街の2つの地域 トーンペアの丘と下町を地図で紹介しますタリン旧市街の2つの地域はだいたいこんな感じです トーンペアの丘(上の地図でピンクで囲まれた部分) 下町(上の地図で黄緑で囲まれた部分)トーンペアの丘は小高い丘の上にありその昔貴族や支配階級が住んでいた地域です対して下町は職人や商人など一般の人たちが住んでいた地域・・昔は貴族や支配階級が下町を文字通り「見下ろして」いたのかもしれませんねしかし現在は2つの地域はどちらもエストニアの主要観光スポットとして旅行者に人気の場所となっています2つの地域はピッケヤルグ(長い脚)とルヒケヤルグ(短い脚)と呼ばれるふたつの小路で結ばれ多くの訪問者はどちらか一方の脚を通ってトーンペアへ上がりもう一方の脚を通って下町に戻ってくるとのことですが・・私は何が何だか・・ガイドさんの後をついていくだけっていうのは凄く楽だけど道がわからん・・(´ε`;)ウーン…首相官邸を過ぎてトンネルみたいなのを通り過ぎていくとパットクリ展望台パットクリ展望台は北端にあり旧市街の向こうは港の景色が広がっていますニコンの一眼で撮ってらした私の今回の旅のカメラの師匠になってくださったOさんが撮ってくださった写真トーンペアの丘にはコクトー通り展望台とパットクリ展望台の2つの展望台が・・もう一つのコクトー展望台へ向かいますなんだ??甘そうなお菓子だ・・気になるぞ・・後ろ髪をひかれながらガイドさんの後をついていきますこの子達の表情も素敵・・お店の中に入りたかったけどやはりガイドさんはどんどん進む・・フリータイムで来たい・・展望台が見えてきました・・どんな風景が広がっているのか((o(∇^*o)ワクワク(o*^∇)o))FC2・・はこちらから
2018/08/04
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エストニアの首都タリンは13世紀前半デンマーク人によって築かれた街・・タリンという名もエストニア語で「デンマーク人の街・要塞」を意味しています狭い路地がたくさんあってどこをどう歩いているのかさっぱりわかりませんなんと・・建物から顔が飛び出してる・・このお顔・・どこかで見たような気が・・アラーキーさん(写真家)にそっくり!! 調べてみたところこの人はヴォルデマール・パンソ(Voldemar Panso、1920-1977)というエストニアのプロデューサー・俳優・演劇教師・映画批評家で・・今は博物館となっているかつての彼の演劇学校でした・・クマさんしっかりメモをとってくれています大聖堂(トームキルク)1219年にデンマーク人がトームペアを占領してすぐに建設したエストニア本土では最古の教会です聖母マリアの大聖堂とも呼ばれ創設以来タリンにおける中心的の地位にあります1684年にトームペアを襲った大火災により一度は焼失しましたがその後約100年の歳月を賭けて現在の教会が再建されましたこの教会の特異差は教会であると同時に大規模な”墓所”であることです教会の壁には無数の墓碑銘や紋章墓標や石棺があり教会の床には墓石(最古のものは13世紀から)が横たわっています動物が描かれた肉屋のギルドや靴屋のギルドの墓石など・・大聖堂(トームキリク)の反対側入り口の階段を下りたすぐ先に葬られたのは1696年に死んだ貴族「オットー・ヨハン・トゥーヴェ Otto Johann Thuve」相当の女たらしだったようでここで礼拝に来た人々に踏まれることで生前の罪が許されることを願ったようです・・どんどん進んでいきます方向感覚なし・・エストニアの国旗は1881年にエストニア学生会のシンボルとされた青・白・黒の横三分割旗が現在の国旗の原型となっていますソ連時代に一度廃止されましたが独立運動によってよみがえり独立前の1990年に国旗として制定されたそうです青は・・空と自由を黒は・・抑圧された民族の歴史を白は・・雪と明るい未来などを表していると正面黄色い建物が首相官邸です・・言われなければ通り過ぎちゃうね・・ガイドさんについてどんどん歩きます・・石畳がきつい・・入り組んでてここで放り出されたら迷子になるな・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/08/01
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2018年5月24日(木) 快晴このホテルは2連泊なので昨夜出かけずに荷物の整理を・・朝食をとって・・ホテル9時出発・・といっても・・乗ってすぐに降ります・・ドライバーさんバスで行くの?!って・ちょっとびっくりしてたくらいです・・バスを降りて坂を登っていくとアレクサンドル・ネフスキー聖堂・・1901年に支配者の帝政ロシアによって建てられたロシア正教教会ですタリンの町並みとの調和を考えるとこの教会は異端児的存在・・エストニアが最初に独立を果たした時代には移転する計画があったそうですが実現しなかったようです今もなおロシアの脅威を感じているエストニアの人々の心情からすると道路を挟んで目の前にたつ議会(トームペア城)のすぐ前にロシア正教教会が立ちはだかっているのは気持ちのいいことではないようですトームペア城貴族階級や騎士団が住んでいた「山の手」にあるトームペア城はかつてエストニア人の砦があった場所に13世紀から14世紀にかけてデンマーク軍が建てた騎士団の城です外城の中に修道院型の内城がある強固な城で支配者が変わるたびに補強改築されました現在の姿になったのは18世紀後半のこと・・当時の権力者エカテリーナ2世は知事官邸として使うための改築を命じたので正面から見ると城というよりは宮殿に近いものになっています現在の建物のうち北側と西側の外壁と3つの塔が15世紀の姿をとどめています南側の50.2mの塔「のっぽのヘルマン」はエストニアの三色旗を誇らしげに掲げ今は国を象徴する存在に・・トームペア城は現在・エストニア国会の議事堂として使用されています続く・・FC2・・はこちらから
2018/07/31
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グートゥマニャ洞穴を後にして11時52分ホテルでランチまずは冷えたビール・・暑かったから美味しい”(*>ω
2018/07/30
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裏側に回ってo(゜ー゜*o)=3=3ウロウロε=ε=(o*゜ー゜)oちゃちゃっと写真を撮って塔の上まで登ることに・段差のある急な139段の螺旋階段を登るのですが階段が狭くて人とのすれ違いが難しい・・トゥライダ城跡はトゥライダ博物館保護区の南へ半島状に突き出た断崖上にあります焼失後遺棄されたそうですが本丸の赤レンガ造りの居館や塔城壁などの多くが良好に残り見応え満点です塔に登ると真下に本丸全体を見下ろすことができその向こうには「ラトビアのスイス」と称される豊かな緑と渓谷が広がって・・ちょっとしんどいけど登るだけの価値あり・・集合場所の入り口までゆっくり風景を楽しみながら戻ります観光客も少なくてゆっくり散策・・お土産物屋さんもちょこっと覗いて・・ここでバス移動・・乗ってすぐに到着・・目的の場所はこの先・・グートゥマニャ洞穴ガウヤ国立公園内のガウヤ川西岸に位置し奥行き19m幅12m高さ10mのバルト海諸国で最大・・バスの中でバルト海諸国で最大の洞窟って聞いていたのでσ(゜・゜*)・・ん??1万年前に氷河期が終わった後の溶けた水が砂岩を侵食してできたものだそうです奥の方から清水が湧き出し流れ出しコインを投げ込んでいる人もいますこの水で顔を洗うと美人になるとか・・で・・頬にピチャピチャ・・天井や壁面は書き込みで一杯・・ここで紹介した「トゥライダのバラ」ここがその洞穴・・グートゥマニャ洞穴・・ラトビア版・ロミオとジュリエット・・恋人たちのメッカとして人気があり・・岩壁は恋人たちの名前で埋め尽くされています16世紀の古いものもあるようですがみつけられませんでした続く・・FC2・・はこちらから
2018/07/24
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13時35分レストラン出発シャウレイまで145kmの移動シャウレイは北部リトアニアの経済・文化の中心地町の名はヴィキンタス率いるサモギティア人が帯剣騎士団を破った1236年の”サウレの戦い”に由来します当時プロシアを占領しつつあったチュートン騎士団とリヴォニアを占領した帯剣騎士団の連結を阻む位置にいたのがリトアニアでしたリトアニアの存続を賭けた戦いでこの勝利以降リトアニアは驚異的な発展を遂げることになります16時・・十字架の丘十字架の丘はリトアニアを代表する巡礼地としても知られ2001年にリトアニアの十字架の手工芸とその象徴の一つとして無形文化遺産に登録されていますバスの中からだだっ広い小高い丘に見つけたとき正直いって小さいなと思いましたが・・近づくに連れその大きさに衝撃・・気持ち悪いという方もいらっしゃるようですがお墓のもつ雰囲気とは全く違って命を尊ぶ心に溢れてるような・・穏やかな気持になれる空間でしたリトアニアはしばしば”十字架の国”と呼ばれたりもするそうですここを訪れてみるとそれも納得・・大小無数の十字架が立ち並ぶさまはまさに壮絶という言葉に尽きます高さ5m以上の芸術的な十字架から鈴なりに賭けられたロザリオまでその数はリトアニアの生者の数よりも多いただ・・ここは墓地ではありませんので死体は埋められていません古い記録によれば最初の十字架は1831年のロシアに対する蜂起の後処刑や流刑にされ犠牲になった人々の家族がここに十字架を置き出したのが始まりだと・・それからは十字架の丘は抑圧された民族・宗教の象徴として扱われてきましたソ連時代にこの丘は禁域とされKGBと軍はブルドーザーを使って何度も十字架をなぎ倒し焼き払いましたしかしそのつど人々は夜陰に紛れて新たな十字架を建てましたそのため川をせき止めて水没させる計画や発掘調査と称して丘を壊してしまうことも命令されましたがリトアニアの当局内の人間さえも様々な理由をつけてここに手をつけることをためらったといわれています近年は十字架建立がますます盛んになって・・遠くアメリカやオーストラリアなどからも移民の人々がかの地から運んだ十字架を残していきます十字架の丘は訪れる者すべての思いを吸収し現在も膨らみ続けているのです左側に見えている赤い屋根の祭壇は1993年9月7日教皇ヨハネ・パウロ2世がこの丘を訪れここが希望と平和・愛・そして犠牲者のための場所であると述べた場所です入り口のところにはお土産物屋さんがあり地面に突き刺させるようになった大小様々な十字架が売っていましたここで買って十字架の丘にもっていき置いてくる方が多いようです・・ここでちょっとお勉強・・十字架とは古代地中海世界で十字架は磔刑(たっけい・はりつけのけい)の際に用いられ最も残酷な重刑の一つでしたローマ人は奴隷や凶悪犯人以外はあまりの残酷さに磔刑に処さなかったと言われています旧約聖書においては磔刑に処されたものは呪われるとも言われていましたそんな中キリストは大罪人として十字架にかけられましたその後キリスト教を公認したコンスタンティヌス一世によって磔刑は禁止され贖罪の犠牲になったキリストの苦難人類救済のための自己犠牲罪や死に対する勝利・愛などのシンボルとしてキリストの復活や死や地獄に対する勝利を象徴する存在になりましたガイドさんから十字架にはいろんな形があると聞いて正直驚きましたそんなこと恥ずかしながら考えたこともなかったから自分なりに調べてみましたラテン十字イエス・キリストの処刑のさいにこのように組まれたとされ主に西方教会で使用されています教皇十字3つの水平な横木がついたラテン十字で教皇行列のときに使用されますクローバー十字十字架の四隅に三位一体を象徴する形を結合したものですアンデレ十字 家師の弟子聖アンデレがこの形の十字架につけられて殉教したと言われていますY型十字この十字架はロマネスク様式の木彫り十字架に多く見られますエルサレム十字大きな十字架の間に4つの小さな十字架がありイエス・キリストの傷を象徴した十字架です十字軍が紋章として使用・・族長十字小さな横木は銘文版を示しラテン語でINRI(Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum)ナザレのイエス・ユダヤの王と書かれています東方十字ロシア正教で用いられる十字架上の横木は銘文版下の横木は脚の支えと考えられていますケルト十字ケルト民族が使っている十字架ですタウ十字(エジプト十字)モーセがエジプト脱出の際入り口の柱と鴨居に描いたしるしで青銅の蛇をかけた十字架の形をしていますエジプトの聖アントニウスが使用ギリシャ十字東方正教で多く使われています横木と軸木が中央で交差するのが特徴です16時46分出発17時25分・・エストニアからラトビアへ国境越え・・18時40分DA ROBERTAレストランまずはビールで☆゚-お疲れ-。(●´∀`人´∀`●) 。-さま-゚☆ライ麦パン・・どこで食べても美味しくてちょっと酸味のある味がくせに・・かぼちゃのスープにハンバーグ・・デザートのアイス盛り付けも綺麗でしょ・・ツアーでヨーロッパに来るといつもなんでこんな盛り付け?!ツアーだから手を抜いてるのか?!なんて思ったことが多々あったから嬉しい・・見た目・・・大事だものねぇ・・20時20分ホテル・・ベルビューパーク・リガ着清潔で綺麗なホテルバスタブもついてるのでゆっくり湯船につかってリラックス・・窓から見えた夕日あまりの美しさに(-p■)q☆パシャッパシャ☆この日の歩行距離・・約6km8794歩でした・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/07/14
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12時フリータイムがすむと歩いて移動です見えてきましたぁ・・カウナス城13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐために造られたお城ですネムナム川は当時騎士団とリトアニアとの国境になっていたため何度もここで戦闘が行われました1363年には騎士団に占領され破壊されましたが15世紀にヴィタウタス大公の時代になって再建されました騎士団との戦いに勝利した後は城としての重要性を失い外賓を接客する際などに使われたそうです城はもともと台形の城壁に4つの塔をを持っていましたが現在残っているのは修復された塔と城壁の一部城郭の名残のみとなっています内部の観光はなし外からみるだけで移動です面白い看板発見・・工事中の建物が可愛い模様で覆われていますホテル・メトロポリス杉原千畝が領事館を出た後リトアニア出国の日までビザを書いたホテルですホテルの前には杉原千畝のプレートが駅舎にもありましたね・・今回は赤ワインで・・たっぷりのサラダ・スープとリトアニア風パイ料理のキビナイ・・これ案外お腹にこたえて1つだけ食べました残りの1つはクマさんのお腹に・・入り口に酔っ払った男性が・・お顔が(||゚Д゚)怖ァ...バスを呼んだので大急ぎでと外にでたのですがバスが来ないその間に撮った写真あちこちで工事をしていますやっとバスが来て移動です続くFC2・・はこちらから
2018/07/09
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聖ペテロ&パウロ大聖堂聖ペテロと聖パウロに捧げたカトリック教会現在リトアニアのカトリックの司教座聖堂になっていますローマ教皇・ヨハネ・パウロ二世の祭壇ですポーランド出身のヨハネ・パウロ二世はリトアニアでも崇拝している人が多かったそうです1993年にこの大聖堂を訪れています2013年の大聖堂600周年記念で設置されたそうです内部は 18世紀後半ポーランド=リトアニア共和国の最後の国王・スタニスワフ2世アウグストにより 彫刻やフレスコ画の装飾が残されていますまた聖書台や聖歌隊席も設けられ現在の形態になったのは19世紀からの再改築によります・・主祭壇には磔刑のキリスト像を中心として上部と周囲に13体の聖像が祀られています振り返ると素敵なパイプオルガンが・・少し奥まったところにあったこの祭壇は木造・・戦争時この教会が火事になった時この祭壇だけは持ち出されて無事だったそうです15世紀に建設されましたがその後何度となく改築を重ねたことから現在ではルネッサンス様式・バロック様式・古典様式・ネオゴシック様式・ネオバロック様式と様々な建築様式を取り入れた建物になっています先に見てきたヴィリニュスの聖ペテロ&パウロ教会は白一色でしたが こちらは壁や柱に彩色され所々に金箔があって 華やかに見えますヴィリニュスの聖ペテロ&パウロ教会ここ・・↑気がつくと皆さんがいません・・慌てて追いかけて出ようとしたときに目に飛び込んできたのがこのキリスト・・なぜか一瞬動けなくなって・・ここでフリータイム可愛いお土産物屋さんをみつけ狭い店内を物色o(- ̄*o))))...ウロウロ...((((o* ̄-)o可愛い小物がたくさん左下の画像のお洋服手編みなんですよ・・凄く繊細に編んでて綺麗・・お値段もお高かったです・・このお店で目に止まったのがこの子達一枚上の真ん中画像の右の方に座ってるの見えますか・・お目々がとっても可愛いでしょ・・右上画像の布でできた猫ちゃんも連れて帰りました・・フリータイムが済んで外にでるとクマさんがガイドさんと一緒に写真撮ってと・・クマさん若くて可愛いガイドさんとツーショット鼻の下のびてますけど・・ヾ(≧▽≦)ノギャハハ☆続くFC2・・はこちらから
2018/07/03
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11時・・カウナスの旧市街へ歩き始めてまず目に飛び込んできたのがヴィタスタス大公教会15世紀前半に建てられた赤煉瓦造りのゴシック様式の建物で別名「聖母被昇天教会」15世紀初めにリトアニアの最盛期を築いたヴィタスタス大公がタタール征伐に赴いた際「ボルスクラ川の戦い」で奇跡的に難を逃れたことを神に感謝するために捧げられたカトリック教会・・ネムナス川の河畔に建てられていて大戦直後の1946年にカウナスを襲った大洪水でこの教会も水に浸かったそうです入口にはその時の最高水位を記したプレートが掲げられていますペルクーナスの家雷神ペルクーナスを祀った神殿跡で現在は図書館となっています15世紀にハンザ同盟の商人によって建造された赤煉瓦造りのゴシック様式建築の傑作・・さらに石畳の坂道を歩いて移動です カウナスは両大戦間の22年間ポーランドに占領されたヴィリニュスに代わってリトアニアの首都となりましたそのためなのか今もヴィリニュスに対抗する意識が強く残っているようですカウナスがリトアニアの首都だったのは1919~1940年・・リトアニアが独立したのは1918年ですが翌1919年にヴィリニュスがロシアに占領されたためリトアニア政府はカウナスに移転さらに翌1920年にヴィリニュスがポーランドに併合されカウナスが臨時に首都となりましたそれでもなお憲法上の首都であったヴィリニュスは中部リトアニア共和国という別の国になってしまいカウナスを首都とするリトアニア共和国とは国交断絶していました1939年にソ連がポーランドに侵攻してヴィリニュスがリトアニアに返還されたものの翌年にはリトアニア全体がソ連領にされてしまいます杉原千畝氏がユダヤ人を助けたのは丁度この頃・・だからヴィリニュスではなくカウナスに日本領事館があったのです市庁舎広場と旧市庁舎 カウナスで最も広大で歴史のある市庁舎広場その中心にそびえ立つ旧市庁舎は16世紀に建設され当時の白い外装と特徴的な尖塔から「白鳥 White Swan」と呼ばれていますリトアニア臨時政府が置かれていた際には政権の中枢としてその他シアター・消防署・ロシア人クラブ・収容所などリトアニアが歩んだ歴史とともに様々な用途で使用されてきました現在内部は市の結婚登記所に・・恰幅のいい紳士がこちらに向かって歩いてきます・・ 市長さんでした・・イエズス会教会1660年から1720年にかけイエズス会が市庁舎広場にバロック様式で建設したカトリック教会で1722年正式にイエズス会教会として奉献されました・・ソ連統治時代には技術学校の体育館として使用されましたがリトアニアの再独立により1989年に再度イエズス会教会に戻されています・・広場は360度歴史的な建物に囲まれそこにレストランやカフェ博物館などが入っていることから夏場には市民や観光客で最も活気あふれる広場になるそうです私たちが行ったときは観光客も少なくてゆっくり観光できました・・また・・中世には市場がたった場所でもあります続く・・FC2・・はこちらから
2018/07/02
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杉原記念館をあとにして向かった先は杉原千畝が出国時に利用したカウナス中央駅駅舎自体は大戦中に破壊されその後再建されたものですが杉原千畝が1940年9月4日にリトアニアを発った際に利用した駅として現在では記念碑が設置されています杉原千畝はユダヤ人たちへのビザを寝る間も惜しんで書き続けたのですがソ連からの退去命令を受け1940年9月4日列車でカウナスを後にすることになりますビザを求めるユダヤ人は途切れる事なく杉原千畝は列車の中でさえもビザを発行し続け列車が動き始めてもうビザが書けなくなった時・・許して下さい私にはもう書けない皆さんの無事を祈っていますと頭を下げたそうです記念館のビデオで思わず涙したのはこの場面でした・・ホーム側の駅舎の壁には2015年9月に杉原千畝を讃えるプレートが75周年の節目に合わせてカウナス駅とメトロポリスホテルに設置されましたメトロポリスホテルは車窓からみただけでした・・続くFC2・・はこちらから
2018/06/28
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2018年5月22日(火) 雨のち晴れ朝・目覚めると曇ってて今にも雨が降ってきそうな空朝食のレストランに向かう前に外にでるとパラパラと・・今回の旅はじめての雨・・長期予報では数日は雨になる予報だったのでしかたない・・8時・・ホテル出発カウナスへ・・約102km・・1時間30分のバス移動途中雨が本降りになってきたカウナスに入ると少し小ぶりに9時31分旧日本軍領事館であった杉原記念館杉原記念館は狭い道路を入った小高いところにある高級住宅街の中に・・すでに日本のツアーが来ていて狭い道路にバスを止めるのが大変・・その頃には雨はすっかり上がって・・希望の門・・命のヴィザ・・と書かれています中に入るとまず杉原千畝の生涯をまとめた15分ほどのビデオを鑑賞・・杉原千畝が1939年に領事館代理として赴任した時ドイツではユダヤ人排斥の機運が高まっていました1940年7月・・朝6時という時間にも関わらず領事館の門前に人だかりができていました彼らはポーランドから逃れてきたユダヤ人・・オランダ領の島やアメリカ大陸へソ連を経由して行こうとしていた彼らは日本の通過ビザを必要としていたのです領事代理であった杉原はビザ発行許可を得るため日本本国へ打診したのですが日独の協定があったためユダヤ人にビザを発行することは問題であったため「否」と突き返されたそうです当時の外交官執務室を再現した執務室しかし日々増えていくユダヤ人をみて杉原は日本に背いてビザを発行する決断をしました私を頼ってくる人々を無視するわけにはいかないでなければ私は神に背くことに・・その後約半月の間彼は昼夜を分かたずペンが折れ腕が動かなくなるまでビザを書き続けたのですそのような中リトアニアへのソ連の侵攻や大使館の閉館通達といった緊迫した情勢となっていきました杉原はベルリンに向かうことになったのですがその列車の中でまでもビザを書き窓から手渡したと言われています発行されたビザの数も1600に及びました・・これによって実際に日本を経由し第三国に渡ることのできたユダヤ人はビザは1家族につき1枚あればよかったため6000人を超えると伝えられていますイスラエル政府による「諸国民の中の正義の人賞」を受賞した杉原氏は外交官としては問題だったけれど間違ってはいなかったとのコメントを残していますカウナスの杉原記念館では日本語のガイドブックや解説本を販売していましたまた包装紙に杉原氏の写真が印刷された板チョコレートを売っていました いろいろ調べていましたらこんな記事を・・一部抜粋いたします杉原千畝氏の息子さん杉原伸生氏・・父に「なぜユダヤ人助けたの?」と聞いたことがありますすると「かわいそうだから」その一言です別に自分が英雄になろうと思って人を助けたとか手を貸したとか、そういうことではなかったんです ある日突然、ユダヤ人が20人、30人領事館の前に来て立っていた「自分の家族はみんな殺されて、自分たちも殺される。どうにか助けてください自分はよその国に逃れなければならないけれどもまずお金もビザも発給してくれない今残っている方法はシベリア経由で日本に渡り日本から他の国に逃げることだけです」 そこで父は外務省に何回も電報を打って聞きましたがいつも条件を付けてきてそれから日本に保証人がいないといけないその次に日本のビザを持ってなきゃいけない それを全部持っている人なんて、もうとっくに逃げてますからわざわざ父の所に来ないです外務省は、無理難題を突きつけて、ビザを出せないようにしているわけです そこで、もう自分の判断で2,139枚のビザを書いたんですですから本当に「かわいそうだから」の一言しかないんです命がかわいそうだから助けてあげたんです それで、自分がどうなるかと言うと、日本に帰ればクビになる実際、父は1945年の終戦のあとにソ連に抑留されて2年ぐらいシベリアに行きました そのあと日本に帰り、外務省に呼ばれ「お前わかってるだろう? なんで辞めてもらうか」と退職をすすめられました 外務省は人員整理と言っていますけど本当は「役人のいうことを聞かない人間は外務省ではやっていけない」という理由なんです自分が信じること、信念、正義を貫くことが杉原千畝です非常に人間として頑固ですが、一度思ったことは必ずやり遂げる一度言ったことは必ず守るそういう昔のサムライというか古武士。そんな人間でしたイスラエル大使館から「杉原千畝という人を探しているからちょっと大使館まで来てくれ」と電話がありましたしかも、その人は父からビザをもらった家族の子供だったんですその時のスタンプがあるので杉原千畝という人を探していたでも、外務省に何回聞いてもそういう人はいないと言われやっと見つけたらしいです 当時、助けられた子どもですが、その人が外交官になり東京のイスラエル大使館に務めるようになったそれで初めてその人から私たちは何千人もいてポーランドから逃げてきたけど他の家族もみんなナチに殺された でも「この杉原さんのビザのおかげで命を救われた」とそのことは僕も初めて聞きましたですから、父や母から子供の時はそういう話は聞かされなかったです一応外交官であることだけは聞いてましたけど。私は2007年4月20日(金)~5月1日(火)友人とクマさんと4人でポーランドへ行きましたその時アウシュビッツやビルケナウで・・人間ってここまで残虐非道になれるんだ・・人間をゴミのように扱えるんだと自分の目で見て感じてきました・・その時のブログは・・ここ・・ご興味のある方はご覧になってください・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/06/26
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聖アンナ教会をあとにしてバス移動です車窓から丘の上に3つの十字架が見えます17時30分夜明けの門・・城外から見た夜明けの門元来9つあった城門のうち現在残っているのは夜明けの門だけです夜明けの門の城外側のファサードにはリトアニアの紋章である白い騎馬像を中央にギリシャ神話に登場するグリフィンをモチーフとしたルネサンス様式の装飾が施されていますリトアニアの紋章は今でこそ珍しいものではありませんがソ連時代にはここでしか見られなかったものです・・城門らしく防衛に使われた5つの丸い銃眼がいまだに残っています夜明けの門はヴィリニュスに現存する旧市街の城門で聖母マリアに捧げた美しい礼拝堂と祭壇を有しています・・1993年にはローマ法王ヨハネ・パウロ2世も祈りを捧げました左に入り口があります門の内部に入ってすぐのところに十字架が・・内部はカメラ禁止階段を上がって行くと小さな礼拝堂になっていて一心に祈りを捧げている信者がここにある聖母のイコンは奇跡を起こす力があると今も信じられています正面の丸い窓から聖母のイコンが見えます奇跡を起こす聖母のイコンイコンは1363年にアルギルダス公がクリミア半島に遠征したさい持ち帰ったものだといわれていますまた別の説ではバルボラ妃をモデルにして描かれたものだともされています壁一面には治癒や幸福を願って捧げた銀細工が・・バスに戻って夕食のレストランへ画像の中に座り込んだ男性の足が写ってるのわかりますか・・手や足がなかったり酷い皮膚病にかかったりした方があちこちにこうして座っているのを見かけましたほとんどが男性だった・・17時53分・・レストラン・・BASILICOまずは麦酒で(≧∇≦)/□☆□\(≧∇≦ )カンパーイ!!よく冷えてて美味しい・・”(*>ω<)o"クーーッたっぷりのサラダ・サーモン・デザートデザートは甘すぎず美味しいですパンがない・・何故か夕食にはパンがついてきません・・それでもお腹いっぱいになる・・カロリーが高いのかなぁ・・19時・・ホテル・エコテル・ビィリニュスお部屋は狭いけど清潔ですバスタブ付きのお風呂だし・・でも・・でも・・なんで???????洗面所の鏡高すぎて見えへん・・うーん・・(〃 ̄ω ̄〃ゞ踏み台が欲しい・・このあとホテルから徒歩8分くらいのところにあるショッピングモールに広い通りに出てまっすぐ・・通り沿いにありましたEinkaufszentrum Europa大きくて綺麗なモール・・ブランドのお店もはいってました・・中にあるスーパー目指して進みます店内をo(- ̄*o))))...ウロウロ...((((o* ̄-)o何が欲しいということもなく地元の食材を見て回る・・これが楽しい・・チョコレートもたくさん並んでいましたが連日の暑さ・・とけるのを懸念して最後にすることに物価は平均してお安いかな・・お野菜や果物はキロいくらの量り売りでほしいだけ袋に入れてレジへ・・今日・歩いた距離・・11キロ15700歩・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/06/23
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聖ヨハネ教会に別れを告げて移動です歩いてるだけでワクワク・・路地を覗いてみたりちょこっと入ってみたり・・ここで40分のフリータイム・・お天気が良くて日があたるところにいるとε-(´o`;A アチィ日陰に入るとひんやりして気持ちいい・・アイスをゲットして・・クマさん一休み・・レンタサイクルもカラフルで可愛いね・・この街の石畳・・リガより歩きやすかった・・あまり凸凹してないでしょ・・フリータイムはあっという間さあ・・歩くよぉ・・見えてきたのは・・右側に写ってる赤レンガの教会はベルナルディン教会今回はベルナルディン教会の見学はなし・・聖アンナ教会15世紀末に建てられた後期ゴシック様式の教会です建設には33種類もの異なった形のレンガが使われていて炎のような躍動感あふれる外観はフランボワイアン(火焔式)ゴシック建築の傑作と・・長い歴史の中で破壊と再建が繰り返されたヴィリニュスにおいて建設から500年以上たった今も当時の美しい姿を留めている珍しい教会です1812年・・ロシアは攻め上がるナポレオンがヴィリニュスに入城した際この教会を見て我が手に収めてフランスに持ち帰りたいと言わしめたとか・・隣接した鐘楼は19世紀に建築されたものです続くFC2・・はこちらから
2018/06/21
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聖ヨハネ教会大学の構内にあります旧市街で最も高い鐘楼(63m)を持つ教会です1387年にリトアニアがキリスト教を受け入れてすぐに建設が始められました16世紀の終わりにイエズス会に与えられ18世紀には大学の教会と・・現在のバロック様式の教会は1737年の火災のあと改築されたものです内部には6つの礼拝堂があり本堂の東側にある18世紀の祭壇は「視覚的音楽」とも言われるくらい複雑で非常に美しく観る者を一瞬で魅了します一見すると一つのまとまった祭壇ですが実際には10の独立した祭壇が組み合わさった複合的な構造をしているバロック装飾の傑作ですこの圧倒的な迫力を前にすれば「音楽」にたとえられるのも納得・・祭壇付近から振り返ると青いパイプオルガン・・ヴィリニュスで最も有名だそうですソビエト時代に破壊されその後修復・・シャンデリアが素敵・・この教会もソ連の占領初期には食庫として使われ大きなダメージを受けました後に科学思想博物館となり今も大学に属していた著名学者の肖像画が飾られています美しい祭壇です下部の棺には 殉教者聖ヴィンセントの遺物が入れられているそう・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/06/19
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大聖堂をあとにしてどんどん歩くと見えてきました大統領官邸16世紀頃はヴィリニュス司教の住居でした18世紀にロシア帝国に支配されたときにヴィリニュス総督の住居となりロシア皇帝アレクサンドル1世やフランス王ルイ18世・・ナポレオンなどがこの宮殿に訪問したと言われています1997年に改装されそれ以降はリトアニア大統領の官邸となっていますリトアニア国旗にEU旗一番上はリトアニア紋章旗で大統領が執務で滞在中のときは掲げられているようですこの日は滞在中のようですちなみに大統領は女性・・更に移動してヴィリニュス大学リトアニアの国立大学で1579年に設置されましたこの地方ではクラクフのヤギェウォ大学ケーニヒスベルクの大学に次いで創立された最も古い大学の一つでそれに対抗してイエズス会が招かれました彼らによって1570年に高等学校が設けられ1579年に大学へと帝政ロシア時代には抵抗運動の根拠地となったため88年間閉鎖されたことも大学通りの入り口から入って最初の中庭サルビエヴィユスの中庭はこの大学の表通り大学の書店も・・大学の書店中に入るとビックリ! ここが大学構内にある本屋「LITTERA」です中に入り上を見上げると美しいフラスコ画に思わず声がオォォ♪((*゚゚∀゚゚*))一見すると昔からありそうなフラスコ画ですが描かれたのは意外と新しく1978年のことリトアニア人の画家、Antanas Kmieliauskasの作品ですちょっとしたお土産もおいてました・・大学構内の見どころの一つが言語学部の講堂の2階ホールにあるフレスコ画です「四季」と題された壁から天井まで覆われた不思議なフレスコ画・・四季はヴィリニュスがキリスト教化される以前の自然崇拝時代の生活を描いた素晴らしいものです命の木・・命の木だけがモノトーン壁から天井までを覆う見事な作品に圧倒されます・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/06/17
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大聖堂車窓からだから色がいまいちですね・・大聖堂のあるカテドゥロス広場ヴィリニュスの中心に立ちヴィリニュスのシンボルともされる主教座教会ですもともとこの場所には雷(ペルクーナス)を祀る神殿が・・最初の教会は13世紀に十字軍騎士団の圧力から逃れるためキリスト教を受け入れたミンダウガス王によって建てられましたミンダウガス王は智勇に優れた名君でしたが猜疑心が強い一面がありその反動から一族や重臣を粛清することも少なくなかったようでその恨みにより1263年・暗殺され・・この場所も自然崇拝の聖地に戻されましたしかし1387年にヨガイラ公によってリトアニアは再びキリスト教化され教会が建て直されました後に大聖堂の地下から最初の教会跡が発見されましたがロマネスク様式だったそうです15世紀の火災後リトアニアを最盛期に導いたヴィタウタス公が改築し以降・歴代の大公の戴冠式がここで行われていたようです旧下の城(大公居館)と大聖堂とは屋根つき廊下でつながっていたそうです大鐘楼は当時の下の城の城郭の跡に建てられています大聖堂はその後も王家の力で改築が繰り返されその時代に応じてルネッサンス様式・・バロック様式と・・現在の6本のドーリア式円柱をもつクラシック様式の建築は18世紀の大改築によるものです正面の屋根にある聖スタニスラウス・聖ヘレン・聖カジミエルの3聖人の像はソビエト時代の1950年に撤去されましたが市民の強い要望により1996年に再び設置されました教会前の広場にあるプレート(右下画像)中心に踵だけを付けてくるりと3度回ると願いが叶うそうですこの足型(左下画像)は1989年8月23日に独立運動の一環として実施された「人間の鎖」の起点になった場所で・・バルト3国の人口の半分がこの運動に参加しこの石からエストニアの首都タリン(約600キロ)まで200万人の「人間の鎖」がつながったのだそうですこの運動が世界で取り上げられ国際社会で知られるところとなり1991年に3国ともに独立・・人の力って凄い!声を上げなきゃ何も変わらない・・んだよね・・壮麗な古典主義様式の建築で・・側廊との間にたつ清楚な柱には12使徒の絵が飾られていますこのほか大聖堂側廊にはイタリア画家の絵が数多く展示されています中央祭壇の柱はドリス式の大理石でファサードの柱と同じ姿ですまた祭壇画は「聖スタニシラスの死」で作家は側廊柱の絵と同様プランティクス・スムグレーヴィチェスこれらは18世紀末の美術気風を反映したもので西ヨーロッパに劣らぬすばらしいもの・・祭壇を背にするとパイプオルガンをみることができます息をのむ美しさ・・正面彫刻は「隣人の愛」と名づけられたリッジの作品クマさん必死でメモをとってくれてますねありがと・・聖カジミエル礼拝堂大聖堂の中には11のチャペルがありますその中のひとつが聖カジミエルのチャペル・・リトアニアの守護聖人となったカジミエラス王子(1458~1484)が安置された17世紀バロック様式の聖カジミエルの礼拝所です母親はハプスブルグ家の神聖ローマ帝国アルベルト2世の娘エリザベータ大理石と砂岩で造られ壁画は8体の王の像・漆喰彫刻・・フレスコ画などで飾られています正面に置かれた聖カジミエルの聖画・・銀製の枠で飾られた聖カジミエルの絵には3本の手を見ることができますこれを作った画家は現れた3本目の手を消そうと絵の具で塗りつぶしましたしかし少し経つと再び3本目の手が現れるのだとか消しては現れ・消しては現れる手を奇跡だと思った画家はそのまま残すことにしたそうです柱にはいろいろなものが貼ってます足が悪かった人がお祈りをして治ったことを感謝して付けたと・・ちなみに右手が2本・左手が1本です・・右手の横にもう一つあるのがわかりますか・・側面左側の絵画は120年後に棺を開けた際に遺体に変化がなかったという聖カジミエルの奇跡を描いたものです側面右側の壁画は聖人の棺のそばで少女スウラが死から蘇るという奇跡が描かれていますこの礼拝堂の4隅にピンク大理石のニッチ(壁を凹ませて彫像などを入れる場所)が作られ中にはリトアニア大公とポーランド王(リトアニア・ポーランド共同国時代)の8体の木彫の銀鍍金像が置いてますドーム天井このような丸天井をクーポラといいます四角な礼拝堂の上に8角形化粧リブで支えられ窓の間の化粧漆喰の装飾が白く明るいため少々暗めで重厚な感じの堂内を和らげる役割を果たしていますクーポラの下の扉上部に特別席がありリトアニア大公とポーランド王は大聖堂の裏側にあった下の城から屋根つきのパサージュを歩いて大聖堂まで来て特別席で説教を聴いていたそうです・・大聖堂の地下には墓室があり見学できたようですが時間がなかったからでしょうか・・ガイドさんからの案内はありませんでした見たかったぁ・・残念・・大聖堂広場には53mの高さの鐘楼がありますかつては「下の城」と呼ばれる王宮の防衛塔だったものが1522年に鐘楼に改築され2006〜2008年に修復されています土台部分は13世紀の城壁の塔がつかわれていますその上に八角形の3階建ての塔が乗っています・・下の二段がバロック様式・上の一段が古典主義様式でヴィリニュスで最も古い建造物のひとつですカテドゥロス広場全体にもこの城壁の基礎部分が残っています現在は城跡は残っていませんが塀がめぐらされていた跡が敷石の色の違いで城壁があったところが確認できます・・わかりますか色の違い・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/06/14
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14時25分ガイドさんと合流して観光ですヴィリニュスの中心を流れるネリス川ネリス川沿いにはガイドブックにも載っていない杉原桜公園があります(川沿いの右側)・・(車窓から・・)14時32分・・杉原桜公園桜は杉原千畝の生誕100周年を記念して植えられました天皇陛下も訪れたことがあります緩やかな坂を登っていくとこんな像が・・女性と鳥が春を告げている・・ということでした「日本のシンドラー」「命のビザ」で知られる故杉原千畝氏の碑・・碑と桜は杉原氏の母校である早稲田大学によって設けられたもので春になると地元のリトアニア人も満開の桜を楽しみに訪れるそうです写真をとっても全く読めませんね・・こう書かれています故杉原千畝氏は1900年に日本に生まれ早稲田大学在学中の1919年に日本外務省の留学試験に合格してハルピン学院に学ぶ・その後外交官になった1940年リトアニア共和国領事代理の時代に身辺に迫る戦争の危機の中にありながら必死の覚悟と信念を以って亡命ユダヤ人6000名に対して1ヵ月にわたって査証を発給し続け彼らの命を救ったこれは戦争時における輝かしい人道的行為として歴史に記憶され永く語り継がれるべき物であるここに早稲田大学は校友として世界に誇るべき氏の功績を称えて記念碑を建立するとともにリトアニア共和国との学術交流による友好関係がさらに深まり開花くことを祈念して桜の木を植樹するものである2001年10月20日 早稲田大学 旧市街の外れネリス川沿いに東にあがっていくと聖ペトロ&パウロ教会聖ペテロ & パウロ教会は愛の女神ミルダがかつて祀られていた場所にあります1655年~1661年の対ロシア戦争後反乱軍に追われた将軍パツァスが廃墟になっていた修道院に身を隠して助かったことの返礼にこの教会を造り寄進したの事・・バロックの町と呼ばれるヴィリニュス歴史地区を代表する建物でロシアからの解放を記念して建造された記念碑的な建築です1668年から始まった作業は外観に7年・内装には30年もの時間がかけられていますなかを見ればその理由がわかります教会に入ったとたん息をのむほどの彫刻群に圧倒されますここにある2000以上の漆喰彫刻にはひとつとして同じものがないといわれています聖人から始まって天使や想像上の獣・植物など多彩でなかにはリトアニアの戦史を描いたものもあります意匠は多岐に及び建築に関わった人々の技術と想像力が集約されているといっても過言ではありません制作にはイタリアから招かれた彫刻家たちがあたり数百人もの地元の職人がアシスタントに加わったと・・正面に見える絵画は聖ペテロと聖パウロの告別を主題とするものです教会建設の資金を出したのは当時の将軍パツァスで入口右側の壁に彼の墓石が見えます見事な教会を自らの廟として残すことは当時最も名誉なことと考えられていたようですノアの方舟をかたどったシャンデリア・・彫刻のテーマの多くは聖書や神話からとられていてリトアニアの歴史を表したものもあります女性の姿が多いのが分かりますが彼女たちの表情は太陽から差し込む光の加減によって変化して見えますこれも職人がすべて計算し製作にあたった結果です逸話を・・聖ウルスラのチャペルには4人の聖女の像が飾られていますが薬瓶を持った聖マリア・マグダレナだけは他の3人と違って現代風(当時の)衣装を身に着けていますこれは彫刻家のひとりペレッティのリトアニア人の奥さんがモデルになったためだといわれています聖ペテロ・バウロ教会が「リトアニアバロックの真珠」と呼ばれるのは彫刻の数が多いのはもちろんのこと一つひとつの完成度が際立っているからなのですこの光景を目の当たりにすれば「バロックの凍れる音楽」との異名にもうなずけます出口付近に対象的な像が・・向かって左に 死をイメージする外套を羽織り大鎌を持った死神である骸骨が・・中世はコレラやペストなどが流行り死が特別なものではなく「死を思え」というような言葉が流行ったそうです・誰にでも死は平等に訪れるという 死神や死のイメージとしてのドクロそういうものにも祝福をというのがフランシスコ派の精神だそうです・向かって右に幼子を抱く守護者・聖クリストファーある日・小さな男の子が川を渡りたいとレプロブスに言いました彼があまりに小さかったのでお安い御用と引き受けたレプロブスでしたが川を渡るうちに男の子は異様な重さになりレプロブスは倒れそうになりましたあまりの重さに男の子がただものでないことに気づいたレプロブスは丁重にその名前たずねると私はイエスであるおまえが運ぼうとしているのは私一人の命でなく全人類の命なのだ・・と話しましたキリストは全世界を背負っていた為に重かったのですレプロブスはキリストに仕えることを約束し「キリストを背負う者」という名のクリストフォロスという名前に改名しました彼は交通安全の聖人として多くのキリスト教徒に信仰されていますどんな言葉をもってしても表現しきれませんただただ圧倒されて・・百聞は一見にしかず画像から想像していただければと・・続くFC2・・はこちらから
2018/06/11
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2018年5月21日(月) 快晴窓の外が明るくなるとどうしても目が覚めてしまいます今朝も5時前起床・・レギンスは乾いていましたε-(´∀`*)ホッそうとう乾燥してますね唇もガッサガサでずっとリップ塗ってましたホテル7時55分出発リトアニアのヴィリニウスへ向かって走ります走行距離約295km9時11分国境越え9時12分トイレ休憩15分国境を越えてすぐのところですクマさんがコウノトリの巣を見つけましたクマさんこういうのに目ざとくてすぐ見つけちゃいますここでリトアニアについてちょっと説明リトアニア共和国の首都はヴィリニュス人口は約300万人そのうち100万人以上が海外へアメリカのシカゴには50万人が・・リトアニア人(84.3%)ポーランド人(6.2%)ロシア人(5.0%)その他ベラルーシ人・ユダヤ人・カライメ人などが住んでいますリトアニアはバルト3国の中で最も大きな国で面積は約6.5万平方キロメートル北海道の約78%に相当します北にラトビア・東にベラルーシ・南にポーランド・・南西はロシアと国境を接しています海岸線の長さはおよそ100キロうち38キロがバルト海に面しています国土の約30%が混交湿地林で覆われヴィスティティス湖を初めとする多くの湖が点在しています地形はほぼ平坦で一番高い地点でも海抜292メートルしかありません11時14分・・2度目のトイレ休憩は30分ドライバーさんには途中30分の休憩が必要だそうですこのあたりはきっちりしてていいですねでね・・私達・・バスに戻ってくると( ´ ▽ ` )ノ タダイマァ・・と挨拶しちゃう・・お帰り・ただいま・行ってきます・は日本独特の言葉らしくて英語には訳す言葉がないドライバーさんに英語でどういうのって聞かれて添乗員の前田さんどう説明すればいいのか困ってました13時・・旧市街にあるレストランに到着まずはビールピンク色のはリトアニア名物のビーツ(赤カブ)の冷製スープ見た目でびっくり!( ̄□ ̄;)ギョッ食べてみるとさっぱりしてて美味しかったですサワークリームが入っているのでピンク色に・・このスープには必ずじゃがいもがついてくるそう・・ついてますねぇ・・左下の画像はツェペリナイ(飛行船)の形をしたもっちもち食感のいもだんごで中にひき肉が入っています10センチくらいのスイートポテト・・くらい・・かな・・そんなに大きくなかった・・これだけ???なんて舐めてたもん・・それが・・めちゃめちゃお腹にきます・・1つ食べるだけで必死・・残った1つをクマさんに食べる?いらん無理や・・腹にくる・・クマさんでも2つで限界・・見た目小さいけど舐めたらあかん・・このあともなかなかお腹が空かなくて腹持ちが良かったわ・・ヾ(≧▽≦)ノギャハハ☆続くFC2・・はこちらから
2018/06/09
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ラトビアンライフル部隊像 旧市街の中心部にあり赤レンガで作られた共産国チックな雰囲気を出しているライフル部隊像ラトビアが旧ソ連に支配されていた当時にレーニンの護衛についていたライフル部隊がモチーフになっています現在ではラトビアが共産主義であった当時の記憶としてあるいは第一次世界大戦で戦った勇敢なラトビア人へ栄光を讃える等様々な意味を持っているモニュメント・・さっき中央市場に行った時バスの中から見たな・・歩いても近いってことね・・・・……(-。-) ボソッ市庁舎広場にはひと際目立つ赤茶色に豪華な装飾が施された建物があります未婚の貿易商人の友愛会であったブラックヘッド・・ブラッグヘッド会館基礎の発掘から7年後リガの創設800週年を記念して1999年に再建が完了・・15世紀から1941年にドイツ人の空襲で破壊されるまで数百年の時間をかけて獲得されてきた個性的な姿の建物がほぼ完全に再現されています彫金細工と彫刻で飾られた外観で目立つのが月・日・時間と月齢を刻む大時計言い伝えによればその時計を作った職人は二度と同じものが作れないよう目をくり抜かれてしまったと・・時計の下には4つのハンザ都市リガ・ハンブルグ・リューベック・ブレーメンの紋章が浮き彫りにされギリシャ神話の神々の像が置かれています聖ペテラ教会13世紀の初めに最初の教会が建てられ18世紀にほぼ現在の姿に改築されました塔は第二次世界大戦後に改修されたもので高さ・123.25m72mの所までエレベーターで登れます残念ながら時間がなくて登れず・・この塔はこれまで何度も火災に遭って倒れ何度も建て直されてきました17世紀には倒れた塔が近所の家を押しつぶし8人の死者がでたことも・・塔が建て直され雄鶏が上に取り付けられると建築責任者がその上にまたがってワインを飲み干しグラスを下に投げ落とすという習慣が・・落ちて割れたグラスには教会の未来を占う意味が1746年にグラスが投げられた時たまたま通りがかった荷馬車の藁の上に落ちグラスは一片が欠けただけで残ってしまった割れた破片の数は塔が存続する年数を表すと信じられていたので町の人は青くなったそうです実際には第二次世界大戦まで200年近く何事も起こらず・・ソ連時代塔が直されたときにもこの儀式は行われその時はグラスも粉々に砕けて安心したそうです聖ペテロ教会の横にブレーメンの音楽隊がありますリーガとドイツのブレーメンは姉妹都市だそうでブレーメンからロバ・犬・猫・鶏の音楽隊が贈られましたロバの鼻を触ると幸福になると言われ多くの人が触るためピカピカしていますたまたま可愛い少女が遊んでいて(-p■)q☆パシャッパシャ☆皆さんこぞって鼻を触っています少女は何度も飛んで触ろうとするのですがあと少しで届きません・・クマさん・・少女を抱きかかえて鼻に触らせてあげてました・・もっと高く上げてあげてあげたのですが残念ながら一番上までは届かず・・ここで45分のフリータイム添乗員の前田さんおすすめの手作り石鹸のお店ステンダース中を覗いてみました・・添乗員の前田さんもいます・・手作りだそうです・・綺麗な石鹸が並んでいます・・日本に帰って検索したら日本にも店舗を出していましたなんと・・・現地の3倍のお値段・・私・・使ったことない石鹸は買いません・・特に海外のものはお土産にも買いません肌に合わなかったら最悪だから・・でもぉ・・・・・日本のお店のお値段見たら・・(*・・)ヾ⌒☆しまった・・・・・前もって調べておくべきでしたねぇ・・ラトヴィアのチョコ・・Laimaお店の中はショーケースでチョコを1つずつ選ぶと思い込んでいた私(*゜・゜)ンッ?普通のお土産物屋さん・・これならどこでも売ってる・・買いませんでした後々スーパーでまとめ買い・・しかもプライスダウンで・・(= ̄▽ ̄=)V やったね18時20分集合時間になったので集合場所へ・・18時33分レストランへまずはビールで【☆;:*:;☆オツカレサマ☆;:*:;☆ 】>c=( *^▽^)ゝライト・・3ユーロ=約405円ダーク・・3.5ユーロ=約480円サラダにはドレッシングがかかってますが薄い・・添乗員の前田さんがドレッシングを自前で持ってきて回してくださいました・・豚肉・・美味しかったぁ・・・ちょっと甘めのソースも(o^-')b グッ!デザートも甘すぎなくてこれまた(゜∇^d) グッ!!ゆっくり食事をして外にでてもまだ明るい・・今夜のホテルに向かいますコローナ・ホテル・ブリジータ ★★★20時01分着ホテルから徒歩5分のところにスーパーがありましたまだまだ明るいのでちょっと覗いてみることに・・お部屋に戻って歩数をチェックしたら16357歩・・11キロ以上歩いてました・・それから私はレギンスの洗濯・・クマさんが渡してくれたコーヒーの蓋がしっかりしまってなくて思いっきりこぼしちゃったからね・・お湯で洗ってバスタオルに挟んでクマさんと両方からぎゅ~~~と絞って干した・・乾くといいんだけど・・続く・・FC2・・はこちらから
2018/06/08
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旧市街の観光を一時中断してバスで移動5分ほど走ったらすぐに止まった向かった先は中央市場16時25分・・中央市場着リガの台所を支える巨大な市場屋外・屋内を含め敷地は広く売っている品物もさまざまです屋外はもう閉まってました・・市場には肉屋・魚屋・乳製品などが入った大きなドームが5つ並んでいます20世紀初頭に建てられ当時はヨーロッパにも例がない大きさと設備を備えたものだったそうです中央市場私達の来た時間が遅かったからか鮮魚店は片付けてしまってて殆どが加工品魚の燻製・魚の開き・缶詰・・鮮魚が並んでるところも見たかったな・・海外の市場って見慣れないお魚とかが並んでて面白いんだよね・・( ^ω^)おっ蜂蜜売り場に集中していますね・・蜂蜜は安いですよ・・お土産に買う方が多かった・・クマさんの大好きなナッツ発見ここで干しぶどうとナッツを味見させていただいてクマさん・・干しぶどう買おう・・( ̄ェ ̄;) エッ?Σ(=゜ω゜=;) マジ!?干しぶどう食べへんやん・・ナッツにしたら・・ナッツ買いましたぁ・・このお店も私達の買い物が済むと閉めてしまいました他に気になったお店が惣菜屋さん・・現地の方は味見をしてからお買い物してました・・私も味見したかったけど買えないから・・我慢・・[壁]¬ェ¬=)oジィー・・・建材には当時ラトヴィア領内にあったドイツのツェペリン型飛行船の格納庫が移築されて使われていますこうして見上げるとよくわかりますね・・お買い物タイムが済んで再びバスで旧市街へ戻ります・・でね・・あっち行ったり・こっち行ったり・・で・・方向感覚が全くない・・ひたすら添乗員の前田さんについていくのみ・・地図・・持ってます・・でも・・よおわからん・・(; ̄ー ̄川 アセアセ続く・・FC2・・はこちらから
2018/06/07
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火薬庫リガの火薬塔は14世紀に建てられ上部をスウェーデン軍に破壊されました1650年に修復され火薬の保管に使われていた塔です高さ・25.5m、外壁の厚さは3mになります外壁には17~18世紀にロシア軍の攻撃により受けた7つの砲弾が埋め込まれたままです以前は”砂の塔”ともよばれていましたかつてこの塔の下から城外に続く道は郊外に出る主要路となっていて砂丘を横切って延びていたからです当時リガの町はぐるっと砂丘に囲まれていましたが15世紀に町を囲む稜郭と堀が築かれたときに砂が使われ消えてしまったそうです塔は現在はラトヴィア軍事博物館となっています猫の家リーヴ広場の北側に屋根の上で伸びをする猫がこの猫は以前は反対の方向を向いていたそうですリガには当時ドイツ人の作ったギルドがありましたリガの旧市街は12世紀にドイツ人によって作られたものでドイツよりドイツらしい町並みとよばれることももともとこの建物は裕福なラトビア人商人の住宅として使われていましたが当時リガにあった商人大ギルドへ入会可能だったのはドイツ人のみそんなラトビアの商業を牛耳っていたドイツ人に抗議するためにこの猫はギルド会館にお尻を向けて設置されましたその後ラトビア人商人もギルド入会が認められるようになり猫は向きを変えたとされていますギルドとは中世から近世にかけてヨーロッパの商工業者で結成された組合のことで排他的な組合をつくり営業の独占をはかるためにメンバーが集められた・・17世紀以降は自由化の流れによってギルド文化は衰退・・ここはアマトゥ通り”職人”の通りです交易で財をなした商業者たちの建物大ギルド・小ギルドがあります写真上右が大ギルド・・小ギルドは????(*゜・゜)ンッ?画像がない・・ここでもう何がなんだかわからなくなってどれやねん!?o(- ̄*o))))...ウロウロ...((((o* ̄-)o説明がすむとどんどん進んでいくから撮れてません人( ̄ω ̄;) スマヌ大ギルドは建物にギルドってかいてあったので確認できました現在はコンサートホールとして利用されています小ギルドは大ギルドの左側にあったようです・・ちょこっと見えてるか・・な・・木で隠れてますねぇ・・さまざまな装飾で飾られたアマトゥ通り4番地の建物には昼夜を問わず屋根に座って難しい本に取り組んでいる住人の姿が・・前ばかり見ていては気づかないです上を見て歩いていると面白いですが足元が危ない・・ドーム広場リガで一番大きな広場でテラス席のカフェやバー・レストランが立ち並んでいますとってもいいお天気で暑い・・冷たいビール飲んでるぞ・・”(*>ω
2018/06/06
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13時40分やっとランチにありつけますバルト三国はパンが凄く美味しい・・特にライ麦パン(黒い色のパン)これはちょっと酸味があって私の一番のお気に入りいっぱい歩いて喉がカラカラだったからビールの大ジョッキ・・4ユーロ=約540円お野菜いっぱいのスープ・・優しいお味で(o^-')b グッ!メインは・・( ̄ω ̄;)エートォ...あまり覚えてません半分残した記憶が・・店内はこんな感じで地下に降りていきます・・皆さんお腹一杯で満足なお顔してますね・・お腹もいっぱいになったしラトビアの世界遺産「リガ歴史地区」の観光です・・歩きますよぉ・・14時55分・・リガ城一眼の広角とコンデジの写りの違いがよくわからないという方がいましたのでこれが広角で撮ったもの・・下の画像がコンデジで撮ったものです・・広角は広がりがあるでしょう・・リガ城は1297年から1330年にかけてリガ市民とリヴォニア帯剣騎士団との間で激しい衝突が起こっていました14世紀初頭リガ市民が騎士団の城(現在の聖ヨハネ教会近く)を破壊します長い抗争の結果・市民側の敗北で終わり破壊した城の代償としてリガ市民は、現在の場所に城を建てさせられました騎士団長は1470年までここに住みその後ヴィリヤンディ(南部エストニア)ツェースィスに居を構えましたこの頃のリガ城は軍事目的の要素が強かったため石造りの厚い壁で覆われたシンプルな造りでした周囲は堀で囲まれ城壁で囲まれた市街からも分離されていましたリヴォニア戦争後はポーランド・スウェーデン・帝政ロシアとそれぞれの支配者が住むところとなり最初のラトヴィア大統領の官邸にもなりました18世紀から19世紀にかけ増改築が繰り返され創建当時の面影を見ることはできません聖母受難教会リガ城の建物を見て移動中に白亜の尖塔部分が淡い水色をした教会らしき建物を発見思わずシャッターを押してました・・ガイドさんの説明もなくガイド・ブックに記載されていないので詳細は不明・・帰ってから調べると聖母受難教会だとわかりました素敵な教会なのに・・なぜスルーなの・・・・でしょう・・どんどん歩くよぉ・・・・聖ヤコブ教会が見えてきました1225年に最初の記録に登場する古い教会です15世紀に建て直され・塔は80メートルの高さ・・塔の中ほどに突起物があるのが見えますか・・ここには”哀れな罪人の鐘”と呼ばれた鐘が吊るされています市庁舎広場で罪人の処罰が行われる時この鐘がそれを市民に知らせる役をになっていたそうです言い伝えによるとこの鐘は傍らを不貞な婦人が通ると自然に鳴り出したそのため女性たちに嫌われ夫たちに圧力をかけて・この鐘を外してしまったそうです2001年リガ800年祭を機に鐘は再び取り付けられたそうです三人兄弟三連を成すリガの典型的な建物です外観は建てられた当時の姿をほぼ保っていて3つそれぞれその時代を反映した特徴を備えています向かって右端の建物は15世紀に建築されたリガ最古の石像住宅で階段式の切妻屋根とゴシックの壁龕で装飾されていますこの住宅が建築された時代はリガの土地問題が深刻ではなかったため玄関を石のベンチで飾っていたりします中央は淡い黄色の外壁が印象的な建物です17世紀に建築され正面はオランダのマニエリスム様式となっています最後に向かって左端17世紀末に建設されたグリーンの外壁の末っ子は他の2軒に比べ幅の狭い建物でバロック様式の破風が特徴的です画像では一番小さいグリーンの末っ子が大きく見えますね人( ̄ω ̄;) スマヌラトビア国会議事堂1867年に建てられ1903年にかけて拡張されたそうですかなり大きな建物で入り口には白い包帯の両サイドが血に染まったというデザインのラトビア国旗が掲げられていました聖ヤコブ教会裏側に三角形のバリケード記念碑が・・「バリケード1991」 農民や一般の人々が力と知恵を結集し当時のソ連から平和に独立を勝ち取った1991年1月現在では旧市街観光の中心となっている大聖堂前の広場へ農民たちはトラクターや農機具とともにリガへ乗り込み市民は続々と駆けつけバリケードを作りソ連の攻撃から国を守ろうとして夜も火を灯し続け暖をとり食事も提供し合いそのときに備えたそうです美しい国ラトビア絵本のように美しい街でたった25年前にあった本当の出来事です・・これ・・消火栓???車止めだそうです・・スウェーデン門リガに唯一残るかつての城門です1698年に城壁を利用して住宅が建てられたときに付け加えられたもので当時向かい側のヤコブ兵舎に住んでいたスウェーデン兵がよく利用したのでこの名前がつけられたそうですこの門にも悲しい伝説が残っていますかつてリガの娘たちは外国人と会うことを禁じられていたのですがひとりの娘がスウェーデン兵と恋に落ちこの門で密かに会うようになりましたしかしある時スウェーデン兵を待っていた娘は捕らえられ罰として門の内側に塗り込められてしまいましたそれ以来真夜中にここを通ると娘のすすり泣きが聞こえるようになったということですスウェーデン門を抜けるとリガ旧市街の城壁が現れます旧市街の北東スウェーデン門と火薬塔の間に有る長さ100mほどの赤茶色の城壁・・リガの旧市街も13世紀から18世紀まではタリンのように城壁によって囲まれていたそうですが敵に攻められる心配が無くなって来たため建材を節約するため城壁の多くが新築の建物の建材に使われたそうですその後ここは再現されて作られた物でいわばレプリカ・・その昔はこのような城壁と塔がぐるりと町を取り囲んでいた・・続くFC2・・はこちらから
2018/06/03
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バスを降りて歩くよぉ~~~~!ラトビアの首都リーガは人口約70万人地理的にはバルト三国の中心に位置し経済的にも他の都市をリードする存在です1201年・ブレーメンの僧正アルベルトが上陸し要塞を築いたことから始まりますその際彼らは住民たちに牛の皮1枚で囲める土地を要求し同意が得られるとそれをひもにして広大な土地を占領してしまったと伝えられています彼らはすぐに帯剣騎士団を組織しリーガはドイツ人によるバルト地方征服の根拠地となったのです13世紀末にはハンザ同盟に加盟し町は急速に発展していきます教会や商家など旧市街を彩る建築はこの頃に建てられたものが多いですバスティオン・ヒル・パークその後16世紀~19世紀にかけてポーランド・リトアニア連合国・・スウェーデン・帝政ロシアの支配下に入り特に帝政ロシア期にはヨーロッパの窓としてロシア第三の大都市に成長します新市街にはユーゲントシュティール様式の優雅な建築が次々と建てられましたかつて”バルトのパリ”と呼ばれた町並みもソ連時代には手荒く扱われついには”零落した貴婦人”とまでいわれましたしかし独立後の復興は目覚ましく修復されて美しい微笑みを取り戻した建築も少なくないです中世からの時を刻む旧市街もその魅力を失っておらずハンザ商人たちの活躍した舞台へと観光客をいざない続けていますひたすら添乗員の前田さんのあとをついて歩く石畳のゴロゴロ道はかなり辛い・・写真を撮りながら後ろを追いかけていた私の目に杖をついた70代の女性の後ろ姿が・・追い抜きざまに大丈夫ですか?と声をかける迷惑をかけられないので頑張ります・・ありがとう・・(*^▽^*)元気な声に安心する・・日本よりちょっと遅れてくる春緑がとっても綺麗です・・寒くて日照時間の短い季節を抜けて迎えた春を目一杯楽しんでいます・・マラソン大会に参加した方と出会い☆;:*:;☆;:*:;☆“Congratulations”☆;:*:;☆;:*:;☆握手をしたり・・写真を撮らせていただいたり・・おいてかれそうになりながら(-p■)q☆パシャッパシャ☆美しい旧市街を通り抜けて歩くこと40分・・13時40分にやっとレストランに到着・・皆さん一斉にトイレへ・・お腹空いたぁ・・・ヾ(≧▽≦)ノギャハハ☆FC2・・はこちらから
2018/06/02
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2018年5月20日(日) 晴れ昨夜は10時過ぎまで明るかったし今朝は4時過ぎには窓の外が明るくなってきて目が覚めた・・朝食前にホテルの前でクマさんぐっすり眠れてすっきりしたお顔・・朝食はバイキング・・私・・バイキングのとり方がめちゃくちゃ下手・・同じツアーの方全部取ってのせてるだけ・・っていうけど明らかに盛り付けが違う・・私の雑だよねぇ・・・(; ̄ー ̄川 アセアセヨーグルトはプレーンがなくて甘いものだけでしたが濃厚で美味しかった・・フロントの女性・・お二人とも笑顔がとっても素敵だったのに真面目なお顔・・惜しい!ホテル8時出発ラトビアのリガへ向かいます街を出るともう田舎って感じ車窓から見える風景はこんな感じです緑が綺麗・・9時21分・・HALINGA MOTELで30分のトイレ休憩トイレは50 0.5ユーロトイレおばさんいませんカウンターで支払います・・クマさんがコーヒーが飲みたいというから・・コーヒーを買ってからトイレへ戻ってくると美味しいよ・・飲み・・ヾ( ´( ェ )`)ノ フッと渡されて・・口に運んだ瞬間ざざぁーーーーーーーーーーーー!と・・私のパンツにこぼれた・・*゚Д゚)*゚д゚)*゚Д゚)エエエエェェェΣ(=゜ω゜=;) マジ!?右側ビシャビシャ・・慌ててトイレに行ってハンカチを濡らして拭いたけど・・壁|〃´△`)-3ハゥー第一発目からやらかしてくれました・・幸いコーヒーはぬるくなっていたので火傷はしなかったけど今日一日・・コーヒー臭いパンツで過ごさないといけません( #` ¬´#) ノコラ!私達のバスが見えますねぇ・・とっても綺麗なバスですよ・・トイレもついてますが基本使えません・・緊急時には使わせてくださるようですちょっと安心だね・・最後まで使った人はいませんでした・・ドライバーさんのブラチスラバさんブラチスラバってスロバキアの首都やん・・長い名前なので略してバディーさん・・(*゜・゜)ンッ?どう略したのかわからんけど本人がそういうからそれで良し・・とする・・男前・・サングラスかけてるともっと男前だけど外してもらった・・ここからちょっと走るとエストニアとラトビアの国境です10時46分に国境へ・・真ん中の右の画像が国境です・・ラトビアにはいると菜の花畑・・春はいいね・・最高!!ドライバーさん電話でずっと話していますリガでマラソン大会してて街に入れないそうで他のドライバーさんと入れる道を探しているみたいでした12時45分リガ市内・・どこに行っても通行止め・・ポリスのいうとおりに進んでも通行止め・・どうしても市内に入れません仕方がないからここでバスを降りてランチのレストランまで徒歩移動です続くFC2・・はこちらから
2018/06/01
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16時06分ヘルシンキ大聖堂と元老院広場ヘルシンキ大聖堂はキリスト教ルーテル派の総本山であり高台から街を見下ろすようにそびえるその堂々とした佇まいはヘルシンキの街のシンボル的存在・・ここで2時間のフリータイム北欧は2012年5月に訪問して以来・・北欧のブログはこちら・・↑カラフルな二階建てバス・・時間があれば二階に乗って観光も楽しそう・・路面電車が走っていますどこにいくという目的もなく街をo(゜ー゜*o)=3=3ウロウロε=ε=(o*゜ー゜)oイッタラのお店を覗いてみるお洒落な食器が並んでます・・2012年に来たとき孫のお土産に買ったアラビアのマグカップもたくさん並んでいました今回は通過点なので何も買いませんでした・・元老院広場に戻り階段に座り込んでまったり・・日差しは強いのですが日陰に入るとひんやりします・・2時間のフリータイムが済むとバスでフェリー乗り場に移動です18時15分・・西ターミナル到着19時15分発のSTAR号にてタリンでバルト海クルーズをしながらタリンへ・・夕食がついていないので関空で仕入れてきたおにぎりやパンを船内で・・その後・・飛行機で一睡もしていなかったので・・o(__*)Zzz時々横を通る人から強烈な体臭と香水の匂いΣ(=゜ω゜=;) マジ!?(; ̄y ̄)c●~~クサイ、、、うつらうつらしては強烈な匂いで起こされてを繰り返す・・乗船して椅子に座ってから動いてない・・2時間あまりのクルーズでエストニアのタリンに遠くに見えるタリンの街が綺麗です21時30分タリン着・・待っているバスに乗ってホテルへ移動・・21時50分・今夜のホテル メトロポール着22時前だというのに明るい・・日本時間AM4時・・お風呂はバスタブなしのシャワーだけさっと汗を流して爆睡・・続く・・FC2・・はこちらから今回の旅行で持っていったカメラはソニーのRX-100(コンデジ)とCANONの eoskiss X9(世界最軽量の一眼)ですソニー Cyber-shot DSC-RX100価格:38260円(税込、送料無料) (2018/5/31時点)5枚目のかもめが写ってる画像このコンデジで撮りました・・1.0型センサーとF1.8レンズを小型ボディに搭載広角28mm(35mm判換算)側の開放F値はF1.87枚羽根円形絞りと開放F値1.8の大口径レンズとの組み合わせにより美しいボケ味や夜景などの点光源も美しく撮れます・・しかも・・手のひらサイスで小さいからカバンにいれても楽ちん・・暗い教会の内部・・フラッシュなしで綺麗に撮れますよ・・【在庫有り翌営業日発送OK A-8】canon キヤノン EOSKISSX9-L1855KBK デジタル一眼カメラ EOS Kiss X9 EF-S18-55 F4 STM レンズキット ブラック EOSKISSX9 L1855KBK価格:58560円(税込、送料無料) (2018/5/31時点)つい最近購入したX9・・大きい・重いという印象のある一眼レフカメラの中でも重さ453gで「世界最軽量」を達成した一眼カメラです自由に角度を変えられるバリアングル液晶モニターを搭載画面を見ながらのライブビュー撮影では撮りたい瞬間に画面をタッチするだけでピントが合いそのままシャッターが切れますWi-Fiでスマホに画像転送もすぐできますのでインスタやってる方にも便利です・・海外に行くと撮りたいものは大きくて高くて横が切れたり縦が切れたりで悩んでいましたそこをカバーするために広角レンズをつけての出番です今まで持っていた一眼は重くて持って歩くのが辛くて・・どんどん出番がなくなってましたこのx9は本当に軽くて・・ずっと持ち歩いてましたが苦になることは一切なかったです・・EF-S10-18ISSTM キヤノン EF-S10-18mm F4.5-5.6 IS STM ※EF-Sレンズ(APS-Cサイズ用) [EFS1018ISSTM]【返品種別A】価格:32970円(税込、送料無料) (2018/5/31時点)CANON純正超広角レンズ・・フルサイズには使えませんがお安くて私には上等なレンズです・・今回・大活躍してくれました・・
2018/05/31
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2018年5月19日(土) 曇り昨夜からの風と雨が朝がた上がる5時40分・・車で自宅を出発・・6時57分・・神戸ベイシャトル着・・7時15分発で関空へ船はあまり揺れることなく30分で関空へシャトルバスに乗り換え第一ターミナル8時着受付をすませ・・フィンランド航空でチェックイン・・今回はツアー参加なので座席の事前指定ができませんいくとすでにすごい列・・やっと順番が回ってきてお二人並びのお席がご用意できません・・三人席前後の真ん中が一番近いですが・・9200円追加していただいてECONOMY COMFORTにしていただくと窓側二人並び席でご準備できます・・クマさんと顔を見合わせて・・どうする?安いツアーできたのに一人9200円追加する???前後の真ん中で我慢するか・・チケットを受け取って・・ユーロにチェンジマネー・・いつもここで食事をとるのですが今回はパス・・出国して免税店を通過し・・時間までにゲートへ・・関空・・10時45分発・AY-0078・ヘルシンキ行き27Bと28B・・窓側は日本の若い女性・・通路側は海外のでっかい男性(半端ないでかさ)・・肘掛け占領しちゃってるし・・イヤホンマイクつけたまま寝ちゃったからトイレにも行けない・・お隣の女性は今回はじめての一人旅・・と言っても4日後には彼と合流だそうです・・彼とは8年のお付き合いで二人でバックパッカー旅を楽しんでいるということでしたいろいろお喋りして楽しいフライトになったのが幸いでした真後ろのクマさんは海外の男性2人に囲まれてそれでも私のお隣の男性ほどでかくなかったのが良かった・・今回はブロともさんから飛行機乗ったことないから中ってどうなってるのか興味があるということでこれ・・アップしておきますよくご存知の方はスルーしてくださいね・・機内では・・ソフトドリンク・・ビール・・赤白ワイン・・コーヒー・・紅茶・・日本茶・・お水と自由に飲めます・・私は機内食は匂いがだめで基本たべれません・・特に肉や魚を全く受け付けません試しに少し口にするだけで|電柱|ヽ(_ _|||)))) おえぇぇぇ!!ってなります昼食は付け合せのパスタとパンだけ口にして軽食はお雑炊とパスタの選択・・パスタはトマト味ということでパス・・特にトマト味が(>< )oダメーo( >
2018/05/30
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5月26日(土)無事帰ってきました・・昨日は何度洗濯機をまわしたことか・・バラも強風で折れたり花がらが散ったりでひどいありさま庭の片付けもしないといけないし・・画像の整理も全くできていませんのでアップできるのはいつになるか・・とりあえずちょっと立ち寄った・・ヘルシンキ大聖堂&元老院広場をアップします・・o(*^▽^*)o~♪FC2・・はこちらから
2018/05/28
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唐招提寺唐招提寺は・南都六宗の一つである律宗の総本山です多くの苦難の末・来日をはたされた鑑真大和上は東大寺で5年を過ごした後新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を賜り天平宝字3(759)年に戒律を学ぶための修行道場として開いたことが始まりです当初はあくまでも和上の私寺として講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵・宝蔵などがあるだけでしたが徐々に寺としての体裁が整ってきました8世紀後半に鑑真和上の弟子の如宝が金堂を完成させました中世の兵火や明治時代の廃仏毀釈を経ても寺観を失わず多くの天平時代の伽藍や文化財を今に伝えています入り口の南大門をくぐるとまっすぐ延びる参道の正面に金堂が見えます金堂2009年に平成の大改修を終えました天平時代の姿を伝える金堂としては大きさも含め貴重な建造物です画像はお借りしています内陣には像高3mに及ぶ盧舎那仏(ふしゃなぶつ)を中央に巨大な三尊・乾漆造(かんしつづくり)国宝が並び厳粛な空間を生み出しています本尊・盧舎那仏坐像は宇宙の中心釈迦の本地仏として中尊にその東方に現世の苦悩を救済する薬師如来立像西方に理想の未来へ導く十一面千手観音菩薩立像が配されていますちょっとお勉強乾漆造とは唐から伝わった技法で奈良時代の仏像に盛んに用いられた技法です麻布を貼り重ねた原型の上に漆を塗り細部を形作っていくのですが木造よりもお金や手間がかかるため平安時代には衰退していきました乾漆造には「脱乾漆造」と簡略版の「木芯乾漆造」があります唐招提寺・金堂の3体の巨像は奈良時代の乾漆造りを代表する貴重な文化財です金堂の背後には教義を説く為の建物である講堂が建てられています講堂は和上が当寺を開創するにあたり平城京東朝集殿を朝廷より賜り移築したもので平城宮唯一の宮殿建築の遺構です画像はお借りしています本尊弥勒如来坐像(鎌倉時代・木造・重要文化財)は釈迦牟尼仏の後継で将来必ず如来として出現し法を説くとされますそのため通常は菩薩像ですが本像は如来像として表現され金堂の三尊とあわせて顕教四仏となる古式で配列されています持国天立像(画像右上)・増長天立像(画像右下)の二天(奈良時代・重要文化財)も講堂内部に共に配されます礼堂・東室(重要文化財)・・画像右の長い建物鎌倉時代・弘安7(1284)年建てられました南北に長い建物で従来は僧坊でしたかつては講堂を中心に西と北にもそれぞれ同様の建物があったようですが東室・礼堂のみ現存しています南半分の礼堂は毎年10月21日~23日に行われる釈迦念仏会の会場となっていてこの時のみ内部が公開されます清涼寺式釈迦如来立像が安置されています舎利殿(鼓楼-ころう)画像右鎌倉時代・仁治元(1240)年に建てられました瀟洒な重層の建物で本来は経楼とみられますが鎌倉時代に再建された後鼓楼と呼ばれたようです1階に和上将来の三千粒の仏舎利を安置しているところから舎利殿ともよばれます毎年5月19日には鎌倉時代戒律を復興した大悲菩薩覚盛上人(かくじょうしょうにん)のうちわまき会式が行われ法要後・楼上からハート型の宝扇がまかれます教蔵(画像上)唐招提寺創建以前より存在していた最古の校倉造です校倉造とは校木(あぜぎ)と呼ばれる三角形の断面を持つ横材を井桁状に積み重ねて壁とした倉庫建築のことです建材であるスギやヒノキの特性により温度や湿度の調節に優れ古代より収蔵物を良好な状態で保存しておくことができる倉庫として利用されてきました壁の端には鼠返しと呼ばれる下向きに反った板が付けられていて鼠などの侵入を防いでいますがこれは校倉が米などの食糧貯蔵庫として利用されていた名残でもありますまたこの鼠返しは・雨水を流す為の雨切の役目も担っています唐招提寺経蔵の規模は・桁行三間に梁間三間屋根は寄棟造りの本瓦葺きですかつては垂木が一段の一軒(ひとのき)でしたが改修により二段の垂木を持つ二軒(ふたのき)へと変えられています宝蔵(画像下)経蔵の隣には同じく校倉造の経蔵よりも一回り大きい宝蔵が・・こちらは経蔵とは違って新田部親王邸時代からのものではなく唐招提寺が創建された時に新しく建てられたものです宝蔵も経蔵と同じく寄棟造りの本瓦葺きで垂木は二軒柱間数も桁行三間・梁間三間と経蔵と同様ですが宝蔵は経蔵よりサイズが一回り大きく作られていますまた経蔵は比較的質の低い木材を用いて建てられていますが宝蔵は樹心部分を含まない良質の心去り材を用いて建てられている点も異なっていますこのように校倉造が二棟並んで残る例は他に無く極めて貴重な遺構であると言えます現在は宝蔵の奥に鉄筋コンクリート造の新宝蔵が建てられていて寺宝の多くはこちらに移されています新宝殿唐招提寺が伝える多くの文化財を管理・収蔵するために昭和45年(1970)に建てられた鉄筋コンクリートの収蔵展示施設です金堂に安置されていた木造大日如来坐像(重文)のほか旧講堂木彫群と呼ばれる奈良時代末期に制作された多数の木彫像が収められています開館期間:3月1日~6月30日、9月1日~11月30日、12月31日~1月3日(※8月10日頃に数日間の臨時開館があります。)開館時間:9:00~16:00 画像はお借りしています右上から薬師如来立像・・重要文化財 奈良時代(8世紀)木造獅子吼菩薩立像・・重要文化財 奈良時代(8世紀)木造衆宝王菩薩立像・・重要文化財 奈良時代(8世紀)木造十一面観音立像・・重要文化財 奈良時代(8世紀)木造如来形立像・・重要文化財 奈良時代(8世紀)木心乾漆 漆箔金堂の鴟尾(しび) 奈良時代(8世紀)のもので金堂の屋根に上げられていた2体の鴟尾のうちの西側(向かって左)のものこの鴟尾は天平時代に作られてから使用されている現役の道具瓦としては唯一のもので鑑真和上に同行した技術者が制作を指揮したと考えられるものですもとは東側のものだったといわれていますが正面に亀裂ができたため西側に移されたようです画像はお借りしています勅額木製 奈良時代縦1.48m、横1.17m、材質は桧寺伝では・講堂もしくは中門に掲げられていたものです東大寺西大門のものともに今に残る奈良時代の扁額でその文字は孝謙天皇の宸筆と伝えられていますその書風は東晋の書家・王羲之(おうぎし)の書風にならった行書で周囲に飾りがついていたといわれます(現在の南大門のものは複製)開山堂と鑑真大和上御身代わり像 開山堂は元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立されその後明治14(1881)年に鑑真大和上の尊像を安置するため現在の位置へ移築されました国宝の和上像が御影堂へ移されたのち覚盛上人・聖武天皇・徳川家康を安置した本願殿として参拝されていましたが御堂の老朽化をうけて改修工事を行い鑑真大和上円寂から1250年になる平成25(2013)年大和上のお姿を写した「御身代わり像(おみがわりぞう)」がつくられ再び開山堂として落慶しました 画像はお借りしています 御身代わり像(御影像)は年間数日しか開扉しない国宝の和上像に代わって毎日参拝していただく目的で製作したものですこの像は奈良時代の脱活乾漆技法(特に国宝和上像)を忠実に踏襲した模造です終わり・・仏教のことたくさん世古さんから教えていただき仏教には凄い世界観があるってことに気付かされました・・本当にいい旅でした・・FC2・・はこちらから
2017/12/29
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どんどんお天気が悪くなってきて・・向かった先は薬師寺天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を願い発願したのが始まりで藤原京に完成平城遷都に伴い養老2(718)年・現在地に移築されたと伝わっています奈良移転当初は金堂・東西両塔・講堂・回廊が立ち並び「竜宮造り」と呼ばれるほどの華麗さを誇ったこの寺も16世紀に兵火に焼かれて灰となり東塔(国宝)を残して創建時の姿を失い荒廃していましたが昭和40年代からお写経納経による勧進を全国で行い復興が始められました現在はきらびやかな建物が並ぶ壮大な伽藍が蘇りつつあります雨は本降りになるし・・修学旅行生とかち合ってしまうし・・写真撮るのも見学するのも大変でした大講堂2003年に復興された正面41m・奥行き20m・高さ17mという巨大な建物で薬師寺の中では最大の建造物です大講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則でこれは南都仏教が数学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したためです 画像はおかりしています大講堂の本尊には弥勒三尊像(重要文化財・白鳳時代)後堂には仏足石・仏足跡歌碑(国宝・天平時代)が安置されています仏足石の両脇に釈迦十大弟子も祀られています西塔(画像左)享禄元年に兵火で焼失し昭和56(1981)年・白鳳時代の姿に復興高さ約36m・・高い基壇・反り上がった屋根など東塔とは異なる箇所もあるようです東塔は現在修復中で見ることはできませんでした金堂(右上)金堂は薬師寺縁起によると二重二閣・五間四面・瓦葺の建物で各層に裳階をつけた美しい堂で竜宮造りと呼ばれています享禄元(1528)年に焼け落ちてのち豊臣家が仮のお堂を建てたのですが同家の滅亡により約400年間仮の金堂のまま時が過ぎました昭和51(1976)年に復興された現在の金堂は白鳳時代の様式を再現した壮麗な建物となっています画像はお借りしています薬師如来を中心に向かって右が日光菩薩・左が月光菩薩あわせて薬師三尊と言います薬師如来は・東方浄瑠璃浄土の教主でまたの名を医王如来ともいい私達の身と心の病気を救ってくださる仏様です天平時代頃までの特徴で薬壺を持っていません脇侍の日光・月光両菩薩様は動きのある美しい姿で理想的な写実美を完成した仏様ともいわれています一度外へ出て玄奘三蔵院へ・・ちょうど玄奘三蔵院と大唐西域壁画公開中・・玄奘三蔵院経典を求めて17年間も旅をした法相宗の始祖で「西遊記」のモデルとして有名な玄奘三蔵の遺骨を守るお堂です画像はお借りしています伽藍内には長さ49mの平山郁夫作「大唐西域壁画」も祀られています「大唐西域壁画」は平山画伯の30年に及ぶ取材旅行の集大成として4千枚を超えるスケッチを基に約20年かけて描かれた・・7場面・13壁面・・の超大作です続くFC2・・はこちらから
2017/12/28
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春日大社をあとにして向かったのは東大寺ではなく若草山山頂標高342メートル面積33ヘクタールの芝生に覆われた山で年に一度の山焼きで有名ですボランティアガイドの世古さんから是非・若草山山頂からの眺望をと言われていたですお天気はどんどん曇ってきて花嫁さんが前撮りをしていました遠くから一枚・・徒歩で登ってきた方がたくさんお弁当を開いていましたこの頃からパラっと雨がきてお天気がよければ興福寺や東大寺がみえたのに残念!鶯塚古墳(うぐいすづかこふん)若草山の頂上に築かれた全長103mの前方後円墳で枕草子にも登場する「鶯塚古墳」南側を向いた、標高300m以上の山頂にある古墳としては我が国でも最大級に属しているそうです通説で仁徳皇后の墓といわれているそうです続くFC2・・はこちらから
2017/12/28
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春日大社いまから1300年ほど前の平城京遷都の頃国の繁栄と国民の幸せを願って国譲りを達成した武甕槌命を御蓋山に迎えたのが始まりの神社この時白い鹿に乗ってきたことから奈良公園周辺の鹿が神の使いとして大切にされていますのちに称徳天皇の勅令で藤原氏が社殿を造営し以降は式年造替制度により20年毎に建物や調度品が新調または修繕されてきました2016年11月20年に一度の「式年造替」で新たな姿に・・境内には本社以外にも数々の霊験あらたかな神社が点在神々が集まってお住まいになるまさに聖地・・中門・御廊(ちゅうもん・おろう)国宝の御本殿を参拝する高さ約10メートルの楼門左右約13メートルにわたり鳥が翼を広げたように御廊が延びています御廊の内側一帯は通常は非公開の神域になっています中門を本殿と間違える方がいらっしゃいますがここは本殿ではありません・・ここで注目中門前の柵(一番手前の柵)は「稲垣」と呼ばれ神前にお供えする稲穂をかけておくためのものです・・御本殿をぐるりと取り囲む長さ約52mの東回廊長さ約81mの西回廊には約800年にもわたって様々な人から奉納された釣灯籠約1,000基がずらり昔は灯籠と一緒に油料も奉納しその油が続く限り毎日火が灯されていたそうです御蓋山浮草峰遥拝所奈良時代の初め平城京守護のため鹿島の武甕槌命様が白鹿の背にお乗りになり天降られた神蹟御蓋山の頂上浮雲峰の遥拝所神護景雲2年(768)に御本殿が創建される以前から神様がお鎮まりになる神奈備として崇められ現在も禁足地として入山が厳しく制限されています御本殿屋根が曲線を描いて反り正面に片流れの庇を付けた「春日造」と呼ばれる神社建築様式の御社が四棟並んだ御本殿右から第一殿 武甕槌命(たけみかづちのみこと)様第二殿 経津主命(ふつぬしのみこと)様第三殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと)様第四殿 比売神(ひめがみ)様が祀られていますふだんは直接目にすることはできませんが神様が移殿に遷っておられる式年造替の期間中は特別に参拝が叶います現在御本殿の祭典では神職の座る場所ですが昔は興福寺の僧侶が御経をあげる場所でした興福寺のところで説明しましたね・・大杉春日大社を見守り続けてきた樹齢約800年~1000年の大杉目通り周囲7.94m・高さ23mの大木鎌倉時代の「春日権現験記」には幼木の姿で描かれています大杉の根元から斜めに延びている木はイブキ(柏槙 ビャクシン)で直会殿の屋根に穴をあけてまで木を生かしているのは春日独自の信仰によるものだそうです藤浪之屋(ふじなみのや)春日大社は灯籠が沢山あることで有名で平安時代から現在まで奉納された灯籠がおよそ三千基あります春日の灯籠は数が多いだけでなく歴史的な資料としても重要で現存する室町時代以前の灯籠の六割以上が春日大社にあると言われております2月の節分・8月14・15日の年2回計3日間すべての灯籠に浄火をともす春日万灯籠が行なわれていてこの万灯籠神事を感じていただこうと江戸時代まで神職の詰所であった藤浪之屋を開放・・由緒ある建物の中で万灯籠の幽玄の美を体験できます鹿みくじ・・可愛いですね・・クマさん・ひいたら・・って言うといいわ・・(* ̄(エ) ̄*)どこへいってもそういうのぉ・・だから・ひいてません・・o(*^▽^*)oあはっ♪御間道(おあいみち)御本殿と若宮社の間の道を尊んで御間道(おあいみち)と呼んでいます 850年以上も神官や崇敬者が往復した道で本殿と若宮の間を百度千度万度と往還する祈祷も盛んでしたこの道沿いには・古い石燈籠が立ち並びます 康暦2年(1380年)の燈籠を始め室町時代から江戸初期の燈籠が多く古くから信仰の道であったことを物語っています東側は御蓋山の神聖な森で道の中ほどに御蓋山山頂の本宮神社の遥拝所のしるしとして小さな鳥居が立っています 真昼にも濃い影が落ち・石燈籠と共に森厳な景観を形作っています若宮神社正しい知恵を授けてくれるという神様天押雲根命(あまのおおしくもねのみこと)を祀る神社です若宮15社巡りご本社にお鎮まりになる4柱の神様のほか霊験あらたかな神様が摂社・末社として合わせて61社お祀りされていますその中でもとりわけ境内南側には若宮様がご鎮座されその周辺は昔参詣に訪れた人々が様々な思いを胸に神めぐりをした場所として伝えられておりますこの辺りは人が生涯を送る間に遭遇する様々な難所をお守りくださる神々が若宮様を中心にお鎮まりになられておりますご参詣の皆様にもぜひこの若宮十五社を巡拝していただき人間の一生をたどりながら自身の生涯の安泰を心を込めてご祈願ください日本で唯一ご夫婦の大國様をお祀りした夫婦大國社は古く平安時代に出雲大社のご神霊をお迎えして2体のご神像を彫刻したことに始まります以来900年間、霊験もあらたかにお鎮まりになり良縁・夫婦和合を願って叶えられぬことなしと参拝大いに賑わってまいりましたこのように各お社にはそれぞれにご由緒があり素晴らしいご神徳を拝することができるのですどうか一人でも多くの方がこの15社のお社とご縁を結ばれ神々様のご神徳によって幸多き素晴らしい人生を歩まれますことを祈念し「若宮15社めぐり」のご案内をいたします(春日大社ホームページより)夫婦大国社大國主命(おおくにぬしのみこと)様須勢理姫命(すせりひめのみこと)様夫婦円満・良縁・福運守護の神様佐良気神社蛭子(ひるこのかみ)神様(えびす神)商売繁盛・交渉成立金龍神社金龍大神(きんりゅうおおかみ)開運・財運をお守りくださる神様後醍醐天皇ゆかりのお宮ですさらに奥に進んでいくと新薬師寺まで「ささやきの道」を通って徒歩15分・・なんと・・徒歩で行ける距離だったんだ・・ささやきの小径はもともとは「下の禰宜道(しものねぎみち)」という名前だそうです禰宜というのは春日大社の神官のことささやきの小径をぬけたところにある高畑はもとは神官が住んでいた町そこから春日大社に「出勤」するときに通った道が禰宜道です次回に来たときは・・禰宜道をつかって散策したい・・な・・パーキングに戻って・・移動です・・続くFC2・・はこちらから
2017/12/26
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チェックアウトをして荷物を預け・・猿沢の池を散策猿沢の池は・・興福寺が行う「放生会」の放生池として天平21年(749年)に造られた人工池です放生会とは万物の生命をいつくしみ捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式のこと猿沢の池の七不思議 澄まず 濁らず 出ず 入らず 蛙はわかず 藻は生えず 魚が七分に水三分猿沢池の水は決して澄むことなくまたひどく濁ることもない水が流入する川はなくまた流出する川もないのに常に一定の水量を保っている亀はたくさんいるが・なぜか蛙はいない・藻も生えない毎年多くの魚が放たれているので増える一方であるにもかかわらず魚であふれる様子がない水より魚の方が多くてもおかしくないような池猿沢の池の九重石塔と絹掛の柳碑(采女が衣を掛けた)猿沢池の西北の隅に鳥居を背にした珍しい後ろ向きの神社がありますこれが采女神社で奈良時代に帝に仕えていた采女(後宮で帝の給仕をする女官の職名)が帝のご寵愛が衰えたのを嘆いて猿沢池の池畔の柳に衣を掛け入水したので・その霊を慰めるために社を建てたしかし采女は我が身を投じた池を見るにしのびないと一夜のうちに社を後ろ向きにしたと伝えられていますお天気が気になります・・ちょっと・・パラパラとふってきた・・興福寺へ向かいます右がよしだやさん・・この階段を上がるとすぐです五重塔高さは50メートル県内一の高さを誇る塔です藤原不比等の娘であった光明皇后が天平2(730)年に創建したあと焼失などで5度にわたって再建され現在の姿は室町時代・応永(33)年の建築軒下は太い木が複雑に組み合わされていて技術の高さがう伺われます全国の古塔のうち京都にある東寺の五重の塔に次いで2番めに高い塔です豆知識明治時代初期・・廃仏毀釈の影響で僧侶は春日神社の神職にさせられ興福寺は廃寺同然に・・その時期五重塔はわずか25円で売りに出され買主があらわれたそうです購入理由は薪にして転売し利益をあげるのが目的だったとしかし解体費などから採算が取れないことがわかりこの買主は撤退売却することができなかったと・・当時この寺が存続の危機に立たされたことは確かなようですが寺のウェブサイトによると塔の売却については「あくまでも伝承の域を出ない」とあります実際のところはどうだったのか分かりませんが今日のように文化財保護という観点が未だ確立していなかった頃貴重な建築物や彫刻工芸品の数々を守った人々の努力には本当に頭の下がる思いです東金堂(とうこんどう)神亀3(726)年創建現在の建物は応永22(1415)年に再建されたものですが正面に丸柱が並び奈良時代の様式をよく伝えています堂内には国宝の仏像を多く安置しています往時は中金堂・西金堂・東金堂とあり中金堂は現在修復中・・南円堂弘仁4(813)年の創建で現在の建物は寛政元(1789)年に創建されたものです西国三十三箇所観音霊場の第9番札所でもあります中には国宝の不空羂索観音菩薩坐像と四天王立像が安置されています国宝館2017年は耐震工事のため休館通常非公開の仮講堂にて阿修羅像〈国宝〉をはじめ八部衆立像〈国宝〉など国宝館の主要な国宝が公開されていましたが秋:2017年9月15日(金)~11月19日(日)まで・・それも承知で観光・・阿修羅様を拝観することはできませんでしたが仏頭を拝観することができました・・685年に蘇我倉山田石川麻呂37回忌供養のために造立された本尊の頭部です1187年に東金堂本尊薬師如来像として迎えられましたが1411年に堂とともに被災幸い残った頭部が1415年に再興された現東金堂本尊台座の中に納められ1937年(昭和12)の東金堂解体修理時に発見されました発見後仏頭は帝国奈良博物館(現奈良国立博物館)にしばらく寄託されていましたが国宝館が1959年に竣工したのを機に収蔵安置されました国宝館の耐震にかかわる建物の大規模改修工事のため一年間休館することになりその間・東金堂へ還座・・その後・・車で向かったのは新薬師寺南門から入ると入母屋造の本堂(奈良時代、国宝)なだらかな曲線のお屋根と大きな白壁が堂々とした天平建築を表しています当初は本堂ではなく修行を行うためのお堂だったようです本堂の西側から入ります画像はパンフレットから国宝に指定されている本堂の中には同じく国宝に指定されている薬師如来像・十二神将が安置されていますここでお勉強仏の世界は大きく4つのグループに分かれています「如来」「菩薩」「明王」「天」「如来」は修行を終えて悟りを開いた仏さま修行中の仏さまは「菩薩」如来の分身として悪を砕く「明王」仏の教えの守護神が「天」薬師如来は文字通り「如来」に属し十二神将は「天」に属します・四天王たちと同じ四天王は東西南北の四隅に位置して如来や菩薩をまもっていますが十二神将は干支と結びついてもっと細やかな配置で薬師如来をまもる役割を担いました苦行中の薬師如来を妨害する悪魔との闘いに挑んだ十二神将は12の方角に分かれ・それぞれが7千の兵を率いて総勢8万4千の大軍団を組織したのですそして悪魔を追い払った後も薬師如来に二度と悪魔を近づけないために絶えず防衛に務め12年周期の1年交代で総大将を決め万全の体制で護衛を続けているのですまだ紅葉がのこっていて綺麗でした・・観光客も少なくて凛とした空気感がとても清々しい気持にさせてくれました・・続くFC2・・はこちらから
2017/12/25
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