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前回まで、新渡戸稲造の「武士道」について書いていたのですが、その続きです。「キリスト教」や「武士道」にあって、現在の日本にない「世界観」のようなものが一つあるような気がします。一言で言うと、「自分はこの世の中に生かされている」「意味があって自分は生を受けた」という世界観です。世の中には自分よりも大きな存在が自分が生まれる以前からあり、その「自分より大きな存在」との関係性で自分の人生を解釈する、という考え方です。「自分より大きな存在」とは、キリスト教で言えば「神」でしょうし、武士道でいえば、自分の家柄・名誉・武士道を極めることみたいなことが渾然となったものです。「自分は、その『自分より大きな存在』によって、たまたまこの世に生を受けた存在である」だから、「自分が生を受けた理由を追求し、それを極めることが自分の役割である」という考え方です。英語のCalling(天職)もこの考え方でしょうし、名誉を守るために切腹を行う武士もまさにこの思想で生きていると思います。翻ってぼくらの世代、およびそれより若い世代の世界観は、一言で言うと「ドラクエ的世界観」ではないか。と思います。ドラクエの世界は、「ロールプレイングゲーム」と銘打ってますが、基本的には「自分だけのために世の中が存在する」世界です。世界が都合よく自分のために用意されている。(なぜ武器屋と道具屋と宿屋が都合よく一つずつその町にあるのか?とか)その用意された世界を、用意されたのルールにのっとって、いかに効率的に(あるいは効果的に)エンディング(ゴール)を目指すか?というゲームです。そのシナリオ上の進み具合を「敵をどれだけ倒したか(=経験値をどれだけ稼いだか)」や「シナリオのどの段階まで進んだか」ということで表します。「点を稼ぐ」「自分にとっては未知だが、既に用意されてるシナリオを自分にとって既知のものにしていく」という作業は、要するに、主人公が「いかに多くをGetできたか」という発想です。より多くのものをGetできたらそれだけGoodということになります。そこには、「価値観の葛藤」とか「ここは(ギブ&テイクで)ギブする場面だが、気に入らない」とか「自分に与えられた『役割』は何か」みたいなことで悩む余地があまりないわけです。あるいは、世界と(他者と)の相互作用も無いですね。自分が世の中に対して影響を与えるとか、世の中から影響を受けるとか、そういう発想にならない。で、コンサル時代も含め多くの就職活動中の学生や、転職希望の若手の話を聞くと、この「ドラクエ的世界観」の発想の域を出ない人が本当に多いと思います。「自分はコンサルで知識や知識をつけて(=経験値をためてレベルアップして)、ゆくゆくは起業したい」とか「IPOして金持ちになりたい」そして、「事業会社とコンサルでは、どちらが起業するのにいいですか?」という発想になる。自分は世の中に対してどういう貢献をしたいのか?とか、自分の生きがいは何なのか?とか、自分にとって(お金より)重要な価値観は何なのか?とか、何に自分のプライドを感じるのか?という話があまりでてこない。倫理、とか、高貴さが出てくる幕が無い。「なぜ起業したいの?」「お金持ちになって、そのお金をどう使うの?」と聞くと、答えられない人が多い。ドラクエで「なぜ『ロトの剣』を探さないといけないの?」とか「なぜレベル上げしないといけないの?」という質問をされたかのような感覚なのだと思います。じゃぁ「ドラクエ」に変わる世界観・価値観に当たるものは何か?というと、実際的に機能するものとしては、なかなか無いなぁ・・・。と思います。一番近いのは、社会人になったときの、新人教育、ですかね?それも会社によって濃淡がありそうです。自分に子供ができたとして、子供にどういう世界観のもとに、価値教育・倫理教育が出来るのかな?と考えてみると、何も浮かばないですね。。難しい問題だなぁ、と思います。
2006/09/14
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武士道の続きですね。(本日の内容は、書いてみて日本史の教養が少しでもある人には当たり前の内容の気がしました。ぼくにとっては断片的な知識の整理にもなりましたし、「なるほど」というのは多かったのですが。)『士農工商が分かれていても、それほどの「階級闘争」が起こらずに済んだのはなぜか。士農工商の中で、「商」が一番下に来て、「士」と「商」が分離していたのはなぜか。というあたりのヒントになりそうなことも書いてありました。』の続きですね。これについては、武士道が「名誉」を何よりも重んじており、「名誉」を「富を得る」ことようりもはるかに大事なものと、考えていたため、ということになろうかと思います。「武士道」の本の中に、『武士道は非経済的である。それは貧困を誇る。』あるいは、『武士の徳たる名誉心は、利益を得て汚名を被るよりむしろ損失を選ぶ』あるいは『金銭なく価格なくしてのみなされうる仕事があることを、武士道は信じた』といった言葉が出てきますその結果、モンテスキュー指摘した「貴族を商業より遠ざくることは権力者への富の集積を予防するものとして、賞賛されるべき社会政策」が実現したのだと思います。重要なのは、「名誉」が「富の集積」を伴わずに、維持された、ということだと思います。「富」や「権力」よりも「名誉」を重んじる思想は強く、武士の特権であり名誉の象徴である刀についてすら、その濫用は不名誉なこととされました。『場合を心得ずに刀を用いたものは、卑怯者・大法螺吹きと蔑まれた』そうです。刀を持つという「権力」よりも、刀をうまくつかう「技」よりも、適切な場面で刀を使う「倫理」を重んじた、ということですね。このように、「金銭よりも大事な守るべきもの(=道徳・倫理規範)」を持っていて、それを厳格に守っていたから、武士が「支配階級」ではなく、一つの役割としてうまく機能していたのだと思います。つまり、武士は「支配階級」ではなく、「道徳・倫理を受け持つ」階級という位置づけが機能していたのではないかと。(ちょうど農民が「食い扶持を作る」役割を担う階級であったように)それぞれの受け持つ範囲が違ったので、階級闘争が起こらなかったのではなかったのではないかと。その中で、商業は、「自由な状態(=最も倫理・道徳から遠い状態)」の職業だったために、富が集まっても最も蔑まれた、ということですね。自由である=狡猾さ・駆け引き等が是とされる、と考えられていたようです。と、武士についての倫理・体系について読んでみて感じたのは、「今の日本をどう考えればよいか?」ということです。現在は「商業の時代」といえるかもしれません。武士なる身分もなくなっています。騎士道も武士道も実態として機能しなくなっています武士道の終焉とともに、日本人の「道徳観」「倫理観」も失ってしまったのではないか?と、思わず考えてしまいます。新渡戸氏が指摘するように、「ヨーロッパの騎士道は、封建制度から乳離れしたときに、キリスト教の養うところとなって寿命を延ばした」が「日本においてはこれを養育する大宗教が無い」ということになります。つまり、騎士道はキリスト教に引き継がれたのに、武士道は何にも引き継がれなかった。ということですね。現在の日本に、「武士道」に変わる、道徳観、倫理教育の体系があるのか?もともとの武士道の興り・騎士道の興りは、人間の社会が、弱肉強食で武力の強い人々が弱い人々を支配する世界に対して、「それでは獣と変わらないではないか。人間としての高貴さはどこにあるのか」ということで、力を持つものこそが、従うべき規律・道徳観があるのではないか。ということが発端だろうと考えられます。武力を持ったものが偉いのではなく、武力を持ちながらそれを濫用しない、高貴な精神を持つ、ことが尊敬を集める。という考え方ですね。(ノブレス・オブリージュの考え方ですね。)で、現在の社会を見ると、「武力による弱肉強食」が、「商売による弱肉強食」に変わっただけで、基本的な「人間の高貴さ」については、「武士道」が有効に機能していた時代に比べて、かえって退行しているのではないか。とも言えます。武力が強いものが弱いものを従えて、弱いものの生きる尊厳を奪う。という行為と、ビジネスで成功したものが、ビジネスで成功しなかったもの(もしくはチャンスを与えられないもの)を従えて、彼らの生きる尊厳をうばう。という行為に、本質的になんら変わりはないのではないかと。(ホリエモンが、あれだけ露出度が高くても、殆ど尊敬を集めなかったのは、かれの価値観に「高貴さ」が全く感じられなかったからではないかと思っています)結果的に、新渡戸氏の著作が出てから約100年を経て、冒頭のラヴレー氏の「日本には宗教教育は無いのか。宗教教育が無いとすれば、どうやって道徳教育するのか」という問いに対して、今の日本は再び答えを持ち合わせなくなってしまったのではないか。。そんなことを感じました。
2006/09/05
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今年後半に読んだ本については、年末か年明けにまた、まとめて総括をすることにしますが (案の定、グロービスが始まってから読書ペースがガタ落ちです。仕方無いですが。)最近読んで、特に考えさせられた本を紹介しようかと思います。ご紹介といいつつ、誰もが知っている作品だと思いますが、「武士道」新渡戸稲造です。5千円札の顔になったときも、「ラスト・サムライ」が流行ったときも、それ以前も、恥ずかしながら「武士道」を手に取ることがなかったので、今回初めて読みました。(ちなみにきっかけは、続けざまに全く別の2人の知人「武士道」の話が出た+読んでいた本にも出てきた、ということです。こういう偶然・きっかけがあると、ぼく自身は「これは、『武士道を読め』ということだな」と勝手に解釈してしまうようです)で、読んでみたのですが、これは実に良い。ビジネスに携わる全ての日本人にオススメです。(ちょっと飛躍した感想ですが)日本人の「道徳観」「倫理観」を再度確認し、日本人であることに少し誇りを持てる本だと思います。(少なくともぼく自身はそう感じました)そもそもこの本が書かれたきっかけが奮ってます。新渡戸氏が、外国人(ベルギーの法学の大家、ド・ラヴレー氏)と話をしていて宗教の話になったことをきっかけにしています。ラヴレー氏に、「日本には宗教教育は無いのか」と聞かれ「無い」と答えると、「では、どうやって道徳教育をしているのか」(どうやって『倫理』を教えるのか、と言い換えてもよいかもしれないですね)と聞かれた。(日本に道徳教育が無いとすれば、日本は野蛮国ではないか、という考えがその質問の根底にあるわけですが)その疑問に対して、日本では特定の宗教教育は無いが、日本には武士道というものがあり、それが道徳教育の根幹をなしている。ということを答えるために書かれたものです。驚くべきは、原著は英語で書かれたものである、という点です。新渡戸氏が英語で書いたものを日本語訳したものが岩波文庫等から出ているわけです。書かれている内容は、■武士道が大事にする価値観・道徳観はどのようなものか。■それが、欧米のキリスト教に基づく道徳観と、どの点で同じで、どの点で異なっているのか。■欧米人には、一見奇異に見える日本人の行為(切腹、仇討ち、公の場で自らの家族を卑下すること、へりくだること、贈り物をするときに「つまらないものです」と言うこと)にどのような意味があるのかということを明快に、キリスト教の教えなどと比較しながらといていきます。本書に書かれている内容を一言で言うと、■武士道は、道徳観という点で欧米にとってのキリスト教と同じような役割を果たしている。欧米人にとって一見奇異に見える日本人の振る舞いについても、実はキリスト教等の欧米の道徳観と同じような思想が、日本独特の形で現れているに過ぎないケースが殆どである。ということになろうかと思います。例えば、(これは言い古された例かもしれませんが、『武士道』に出てくる事例なので)贈り物をするときに、欧米的には、「これはすばらしい贈り物です」ということを言いながら贈る。「これは善い贈物です。善いものでなければ、私はあえてこれを君に贈りません。善き物以外の物を君に贈るのは侮辱ですから」」という考え方です。武士道では、「つまらない贈り物です」と言いながら贈る。「君は善い方です、いかなる善き物も君にはふさわしくありません。君の足下にいかなる物を置いても、私の好意の記(しるし)として以外にはそれを受取りたまわないでしょう。この品物をば物自身の価値の故にでなく、記として受取ってください。最善の贈物でも、それをば君にふさわしきほどに善いと呼ぶことは、君の価値に対する侮辱であります」という考え方です。相手を立てる、ということでは両者全く同じなのですが、相手の立て方がまったく逆なわけです。そんな感じで、「このくらいのことは、日本人として当然知っていて、外国人に対して説明できてしかるべきだね」という考え方がたくさん出てきます。もう一つ。士農工商が分かれていても、それほどの「階級闘争」が起こらずに済んだのはなぜか。士農工商の中で、「商」が一番下に来て、「士」と「商」が分離していたのはなぜか。というあたりのヒントになりそうなことも書いてありました。これについては次回、書こうと思います。
2006/09/03
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