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昨日は自分の結婚記念日でした。夫婦揃って、全く忙しい11月だったので、お互いに「はたと、結婚記念日が今日であることに気がついた」という感じでした。仕事もとりあえずはひと段落したということで、早めに会社を出て、家路につく。妻は、本日夜遅くなるというので、せめて花でも買おうかと考える。で、帰りの電車の中で、「ビジネスマンに贈る最後の言葉」という、末期ガンになった経営者が、死を迎えるまでの本を読んだ。今日、この本を今日読もうと決めていたわけではなく、たまたま「未読本」の中から一冊ピックアップしてカバンに入れた一冊。末期ガンの経営者ということは、「未来のために」「今やるべきこと」を「とにかくめまぐるしく」仕事をこなしていくという生活から、「未来のことは考えず」「今を精一杯味わい、楽しみ」「穏やかに」その日を迎える、という生活に突如として変わることを余儀なくされたということだ。筆者はその変化を受け入れ、これまでの生活で味わったものと別の種類の充実を味わう。例えば、こんな言葉が出てくる。・時の流れは緩めることも、速めることもできない。まわりの環境にしても全てを変えるのは無理である。だが情熱は自分でどうにでもなる。何にどれだけの情熱を傾けるか、まわりからの働きかけに対してどれだけの情熱で応えるか、すべて自分で決められるのだ。このような発想をよりどころにすれば、何が大切かを見極め、そこに意識を集中できるだろう。・あなたも自分のスケジュール帳を眺めてほしい。これから先、極上の日々を迎えられそうだろうか?それともそのような機会はどこかに隠れていて、見つけ出す方法を探る必要があるのだろうか?三十日分の極上の時間を作り出そうとしたら、できるだろうか?どれだけかかるだろうか?・極上のひとときは、一瞬、一時間、あるいは昼下がりの贈り物である。時間の長さはまったく問題ではない。大切なのは、極上のひとときを受け入れ、楽しもうとする気持ちがあるかどうかである。読みながら自分の母を思い出す。母は亡くなるまでの最後の時間に、何を思っていたのだろうか?とても心配性で、寂しがりで、いつも人の心配ばかりしていて、家族のことを何よりも気にかけていた母も、最後の3ヶ月は不思議なほど穏やかだった。母は肺に水がたまり、日々呼吸が苦しくなっていく恐怖と戦っていたはずだが、息苦しさを訴えることはあっても、取り乱すことが全く無かった(少なくともぼくの前では)。この本の著者のように、おだやかに「今を楽しむ」ということができていた、ということだろうか。「ビジネスマンに贈る最後の言葉」の著者は、余命3ヶ月となった段階で、これまでの人生をともに過ごした人々に、順番に別れを告げていく。最初は、「知り合い」次に「仕事仲間」「親友」「親族」「娘」で最後に「妻」。読みながら、母との「別れ」について思い出す。母の無くなるちょうど一週間前に、家族みんなで、近くの公園に花見に出かけたことを思い出す。(その時も母は、みんなは寒くないか、何か着なくても大丈夫かと、家族の心配をしていた。)満開の桜を見ながら、家族みんなで交代で車椅子を押しながら、公園を回った。ぼくが最後に母の車椅子から手を離し、父親(だったと思う)に渡したときの手の感触をよく覚えている。そのときに、母と最後の別れをしたのだと思う。自分に人生のカウントダウンが始まったときに、母と同じように、あるいは「ビジネスマンに贈る最後の言葉」の著者のように、穏やかに日々をすごすことが出来るのだろうか?取り乱すことなく、その日を迎えることができるのだろうか?そんなことを思いながら、家の近くの花屋で結婚記念の花を買い、帰宅した。11月は、亡くなった母の誕生日があり、自分の結婚記念日であり、両親の結婚記念日であり、妹の結婚記念日にもなった。そんな11月を実に慌しく過ごしてしまったので、今週はのんびりしようかなと、考える。そんな結婚記念日の帰り道でした。
2006/11/28
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昔どこかで聞いて、とても気に入っている言葉です。「ダイヤモンドの鑑定士の訓練は、偽物と本物を見分けるのではなく、ひたすら本物のダイヤモンドを見続けること」だそうです。本物のダイヤモンドを見続けていると、「本物でないダイヤモンド」は、すぐにわかるそうです。つまり、偽物と本物の違い、に注目するのではなく、とにかく本物を深く深く理解する、ということで、結果として偽物を見分けられる、ということです。(これが実際のところ本当なのかどうなのか、知らないのですが・・)ビジネスの世界でもホンモノ体験、って非常に重要だな、と最近とみに痛感します。どんな仕事にも「ホンモノの仕事」と「ニセモノの仕事(=妥協の産物のような仕事・魂のこもっていない仕事)」があります。ホンモノの仕事とは、例のお宝鑑定番組の鑑定士の言うところの「いい仕事」というヤツです。で、「ホンモノの仕事」がどういうものかわからない人に、「これはホンモノの仕事ではない」と、100万回言っても、そのことを理解させることがとても難しい。また、同じ仕事を見ても、「この仕事は、ニセモノの仕事だよね。この仕事を認めてはいけないね」という人もいれば「いや、この仕事はすばらしい」と言う人もいる。人物評価においても、「彼はホンモノだ。」という人もいれば、「彼は信用できない。」という人もいる。でも、企業は、組織として、こういう「ホンモノ価値観」を共有しなければならない。こういう価値観が共有されていると、話は非常に早いし、話もまとまります。特に「これはダメな仕事だよね」「我々の企業として、これは容認できない水準の仕事・成果だよね」という水準感・危機感を共有できると「じゃぁどうすればよいのか?」という議論に入ることができます。。逆にこの価値観が共有されていない組織は、「悪貨は良貨を駆逐する」ということが起こってしまいます。なぜなら、「これはホンモノではない」「ホンモノである」ということは、議論して認識をあわせることが非常に困難だからかです。その結果、「この仕事の何が問題なのか?」という”居直り”に対抗できないわけです。この場合たちが悪いのは、「何が問題なのか?」と言っている本人は、”居直り”だとは感じていなくて、「本当に問題がない」と思っていることです。ホンモノ体験が大事、ということで「会社のお金で一流のレストランに行き、ホンモノのサービスを体験することを研修にしている」企業もあるそうですが、この気持ちはすごくよくわかります。さて、自分自身は今の会社で、『ホンモノ鑑定眼』をどうやって共有していくか。結局は、一つでも多くのホンモノの仕事に触れること、ですね。そのためには、自分自身も『ホンモノの仕事』をアウトプットし続けなければならない。そもそも、自分の仕事が本当に「ホンモノの仕事」か?と問い直してみると、恥ずかしい・・・・ということも非常に多い。。まずはそこから、ですね。そんなことを感じています。
2006/11/24
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だいぶ日にちがあいてしまいましたが、続きです。「愛国心教育」というと、胡散臭いものを感じるということを前回書きましたが、それでも「従来の科目(国語とか算数とか理科とか・・ではない教育が必要である」という点については強く賛成します。少し前(だいぶ前・・・)に書いた「武士道の感想」のところでも書きましたが、「お金を稼ぐ・食っていく」ための教育と「倫理観を作る」ための教育は両方ともに必要である、と思うからです。従来の科目(国語・算数など・・)は、多くの人にとっては、「お金を稼ぐ・食っていく」ために身につけるものとして位置づけられます。ですので、これらの科目が「出来る」人は、「優秀な人」である可能性は高いかもしれませんが、「立派な人」である可能性を保証するものではありません。(もちろん、「国語・算数」といった科目でさえも、暗記型の詰め込み式では、「優秀さ」が保証されないという議論はできますが、それはここでは割愛)「優秀さ」の尺度としての、学校の成績については、「数値化」が避けられません。いくら、「ゆとり教育」などといってオブラートに包んでみても、企業も大学も官公庁も「優秀な」人を取りたい。学生も「優秀である」ということを証明したい。従って、お互いに「優秀さ」を数値化するニーズがあるわけです。「品質を上げるためには、数値化して管理しなければならない」というのはトヨタの思想です。それを「人間の優秀さ」にも適用する、というのは自然な流れです。なので「学校成績の『優秀さ』は、世の中でも求められる『優秀さ』とは違うので、教育カリキュラムはおかしい」という議論はあっても、「そもそも人間の『優秀さ』を測定するという行為そのものがおかしい」という議論には、多くの人は賛成しないのではないかと思います。でも「優秀な人間」≠「立派な人間」だから、「立派な人間」としての教育も必要だよね。というのが、「倫理観を作る」ための教育だと思います。そうしないと、ホリエモンみたいな人間が「成功者」ということになってしまう。というところまでは、「愛国心教育」の問題についても賛成します。では、「愛国心」ではないとすれば、「倫理観」を教育するために日本人には何を教えればよいのか?これはものすごく悩ましいですね。欧米人のように、宗教が「家族の道徳教育」の重要な要素になっている、ということはありませんし、それに変わる「家族の倫理教育」ってなかなか思いつかないですし。。その中でも「なるほど」と思ったのは、「カリスマコンサルタント」の神田昌典氏が取り組んでいる「死生観教育」です。生徒と老人のふれあいの場を作る。戦争経験者の体験を聞く。彼らが、どういう気持ちで当時の日本を生きていたか。どんな日本になってほしいと思って生き延びてきたか、ということを聞くことができる。それから、高齢者との触れ合い方は、今後否応なしに身に着けなければらないものになっていく。戦争体験が日本人の価値観に及ぼす影響はとても大きいと思いますし、日本は世界最速のスピードで高齢化社会に突入する。そんな中で、一つの「倫理観を形成する柱」にはなると思います。ちょっとこれだけでは、「宗教」と同等の倫理観にはならないですが。。。(中途半端なオチですみません。。)
2006/11/21
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今回は、愛国心教育の問題について。愛国心教育の問題について、多くの人がある種の「胡散臭さ」を感じているのではないか、と思います。少なくともぼくは、非常に胡散臭いものを感じていて、自分の子供が出来たとして、自分の子供が「愛国心教育」を受けることに、諸手をあげて賛成するか?と言われると、「うーん、モゴモゴ・・・」と言葉を濁してしまうと思います。その胡散臭さをなぜ感じるのか?うまく説明できませんが、ぼく自身の小学校時代の体験が下敷きになっていると思います。ぼく自身は、5歳から10歳まで、アメリカに住んでいました。アメリカでは、月曜日から金曜日までは現地の学校に通い、土曜日に日本人補習校に通っていました。というわけで、小学校時代に、アメリカの現地校での、「愛国心教育」(らしきもの)について。アメリカの小学校では、毎日、朝礼があり、朝礼で「星条旗への誓い」を全員唱えるというのがありました。ちなみに、「星条旗への誓い」の文章は、以下。歌ではなく(メロディーはありません)、文章です。これを全員が起立して、星条旗を見ながら(人によっては胸に手をあてながら)ぶつぶつと唱えるわけです。-------------------------------Pledge to the Flag「星条旗への誓い」I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the Republic for which is stands, one ntion under God, indivisible, with liberty and justice for all.(アメリカ合衆国国旗とそれがあらわす共和国、神のもと1つの国家として、不可分であり、すべての人に自由と正義を与える国に忠誠を誓います。)-------------------------------考えてみれば、アメリカ国籍ではない人が、クラスの1/3程度いましたから、みんなでこれをぶつぶつ唱えることに何の問題もなかったのか?と問われると自信が無いのですが、おぼろげな記憶ではみんな結構素直にやっていたと思います。ぼく自身も、これに対して「やらされ感」「何らかの思想を押し付けられている感」というのは全く無く、割りに素直に、特に疑問も持たずにやっていました。それはなぜか?まぁもちろん、子供だったのでそんなに深刻に考えなかったというのもあったんだと思いますが、この「儀式」(あるいは、アメリカ国旗・アメリカという国に忠誠を誓うこと)が、非常に緩いものであった、ということが一番大きいと思います。星条旗に誓うときの基本的なスタンスは、人種もいろいろ、宗教もいろいろ、個人個人の信念もいろいろ、みんな自由である。というんがアメリカの良いところである。ただ、そんないろいろな人を束ねる上での最低限のルールとして、「いろいろな人がいて成り立ている国」なりの共通認識は持ちましょうね。それが星条旗への誓いであり、この国に対する忠誠ですよ。というものでした。つまり、「基本、個人個人はバラバラですが」「基本、自由ですが」という前提が付いた上で、「自由を認める上で最低限の共通事項」としての、星条旗への誓いがあったことが理由だと思います。(子供心にそういう意識があった、というのは、おそらく学校でそういうことを教わったんでしょうね。この辺は記憶が曖昧です)つまり、道徳・倫理・信念の大部分については、個人(及びその家族)の自由にゆだねられており、学校教育は基本的にその部分に関知しないというスタンスがあったように思います。もちろん、星条旗にちゃんと忠誠を誓ったかどうかが、成績につけられる、なんてことは全くなかった。では、同じことが日の丸でできるのか?難しいな、と思ってしまいます。まず一つには、「星条旗への誓い」が、『基本自由だが、最低限これだけは守って』というスタンスであるのに対し、「日の丸」が求める日本人がかなり「全人格的」ものを要求するような雰囲気を感じてしまう点です。「ここまでは自由・ここからは共通の了解事項です」という線引きが非常に難しいと思います。これは、アメリカと違って日本は単一民族であることから、避けられないことではないかと思います。また、「日本人であること」を理由に国家が国民を間違えた方向に導いた過去がある、というトラウマがあります。国家に忠誠心を持たない人を「非国民」と称して多くの日本人が不幸に陥れられた、という歴史を実体験として知っている人は少ないですが、それでも何となく「愛国心」という言葉に胡散臭さを感じるくらいの「刷り込み」は受けているように思います。で、最後の理由は、「日本人であること」のコンセプトって何?ということが、共有されていないことだと思います。数十年前までは、「資源も無くて、国土の狭い日本が成功するには、とにかく身を粉にしてせっせと働くしかない」という共通了解事項があったように思います(実際にその時期に社会に出ていたわけではないので、本当のところはわかりませんが)。なのでそういう、「せっせと働く人」を量産する教育も社会の要請にマッチしていたし、「せっせと働く人」を量産する教育システムに乗っていけばある程度の成功が保証される、という暗黙の了解事項があったんだと思います。ところが、今はせっせと働いても「勝ち組と負け組み」がいるし、いつの間にか「実力主義=自分の身は自分で守れ」という価値観が強くなっているし、「日本人として、どんな価値観を選択すべきか」(=「何をすれば、国として・個人として成功するか」「国として何を世界に発信するか」)が、非常にファジーなわけです。格差社会の中で、自分がどう生き延びるのか?と言うことの方が切実で身近な課題である、と言う人が多いのではないか?なので、「愛国心」と言う言葉がもたらすメリットが不明であるのに、トラウマだけがある。そして「わかった。愛国心を持ちます」と言った瞬間、何を了解したことになるのかがわからない。ということが、何となく感じる胡散臭さの正体ではないか。そんなことを感じました。続きはまた。
2006/11/10
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今回は、履修漏れ問題について。本件についてもいろいろと考えるべき点は多いのだと思いますが、私が一番気になっているのは、「高校3年生に補講を受けさせる」という対応策についてです。今回の場合「高三生に補講を受けさせる」というのは、考えられる対応策の中でも最低の対応ではないか、と思います。自分が高三生だったとしたら、補講を受けなければならない理由を全く納得できないにではないかと思います。高三生が、受験前の11月という微妙な時期に、受験前の貴重な時間を費やして、受験には全く使わない科目に数十時間奪われてしまうことで受験準備の計画が全く狂ってしまいます。しかも、「そもそも卒業できるのか?」という、「受験どころではない」心配事を抱えることになってしまいます。しかも、生徒には何の責任もありません。この時期の高三生にこの出来事は、精神的に「ちょっときつすぎる」と思います。また、現時点で統一の対応策が決まっていないということは、「未履修科目に対する対応」をまじめにすればするほど、受験では不利に働くという、「正直者がバカを見る」結果になってしまう点も、結局生徒にしわ寄せが行ってしまう結果になってしまい、生徒の立場からすると到底納得できません。では、現在の高三生に、今からあわてて強制的に補講をさせることで、何が得られるか?というと、実は何も得られないと思います。「必修科目を履修していない生徒を卒業させるわけにはいかない」という大義名分を守るための取り繕いだとしたら、全く意味が無いと思います。なぜなら、履修問題は、「たまたま今年発覚したが、以前からあったことがほぼ間違えない話」だと考えられるからです。ということは、「今年の高三生に無理やり必要な科目を履修させる」ということをしたとしても、それ以前の生徒では「必修科目を履修せずに卒業」している人が世の中に大勢いるわけで、「必修科目を履修していない生徒を卒業させない」という原則はとっくに崩れているわけです。「既に卒業した人は必修科目を履修していなかったとしても、卒業証書を渡してしまっているので、卒業を認めるより仕方がない」ということであれば、「今年の高三生についても、必修科目の履修の有無についての確認が遅れてしまい、対応する時間が取れないため、卒業を認めるより仕方ない」という理屈も成り立ちそうです。「必修科目を履修しなければ、社会にとって有害な人間が輩出されるか?」というと、過去の卒業生がそうであるように、全くそのようなことはありません。「必修科目を履修することで、現在の高三生の人格や知識が豊かになるか?」というと、慌てて取り繕って、間に合わせのように数だけ行う授業に得られるものがあるとはとても思えません。そもそも、今から慌てて授業をやっても、カリキュラムすら満足に用意できずに見切り発車で行っているはずで、そんな授業が生徒のためになるはずがありません。また、現在の高三生への場当たり的な対応に追われれば追われるほど、現在の高二・高一の生徒への対応が後手に回ります。来年の4月から、履修問題を完全に解決して、万全のカリキュラムを組んで、授業の出来る講師を確保して・・・、ということをやるだけでも相当な準備が必要なはずです。今から準備に取り掛かっても間に合うかどうか?というくらいあわただしくなるのではないでしょうか?ということを考えると、「高三生に補修を受けさせる」という対応は、得るものが何も無く、混乱だけが大きい対策ではないかと思います。今の高校三年生は、これまでの卒業生と同じ扱いにして(つまり、見なかったことにして)、その次の代(高二・高一)に対するクラスの対応(カリキュラム作り・教師の確保など)・再発防止策(履修漏れの有無をどうやってチェックするか、再度同じ問題が起こった場合の罰則・責任分担をどうするか等)を考えることを最優先にすべきではないかと思います。
2006/11/05
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引き続き、教育関連の問題について。今回は、いじめによる中高生の自殺者が、1999年から2006年まで一人もいない、という統計を見て感じたこと。これについては、「おっと、この問題はどの企業にも起こりうるな。自分が勤めている会社で、同じ問題が起こっても全く不思議はないな。」と思いました。これも、「なぜ0件という報告がずっと容認されてきたか?」ということを考えると、構造的なおかしさがあると思います。(もちろん、だからといって文部科学省を擁護するつもりはありませんが)この統計がこのようになってしまう理由は「この統計を重要だと思っている人」「この統計をの数値を減らしたい人」「この統計を集計する人」が、全て同一組織である、ということだと思います。どの学校も、どの教育機関も、「いじめによる自殺」を非常に重要な問題としてとらえており、「いじめによる自殺」を「あってはならないこと」と強く思っているはずです。毎年成人の自殺者が3万人近くいるのに、それを誰も「自分のこと」として考えないのと比較するとずいぶんと「いじめによる自殺」については重要な問題だと思っているわけです。重要な問題だと思っているから、この数値を可能な限り減らしたい、という強い欲求が働きます。逆に、自殺者を出してしまう学校(なり市なり県)は、「教育体制に問題がある」と見られると考えるのも当然のことです。ですので、「自殺者をなるべく減らそう」と考え、それを「目標」にすること自体は、間違ったことではないと思います。問題は「いじめによる自殺かどうか」の定義を自分でいかようにでも操作できてしまうことだと思います。「いじめによる自殺者を実際に減らす」ということと「いじめによる自殺者を定義するルールを自分で変えてしまう(=成績表を自分で書き換えてしまう)」ということでは、自分でルールを設定できる人であれば、当然後者の方がはるかに容易です。『明日からダイエット』と同じ理屈ですね。(いや、ダイエットという目標を自分に課したが、今日はカウントしないことにしよう。)そうすると、100人いれば、その中に一人くらい、本質的な問題(=いじめによる自殺を実際に減らす)に取り組まずに、安きに流れる(=成績表そのものを変えてしまう)人がいてもおかしくないでしょう。で、一人がそうやって「抜け駆け」すれば、他の人もやらなければ自分の成績が不利になってしまいます。そうやって集団で成績表の書き換えを行うようになります。これは、「目標を達成したい」と思う組織のある意味自然な行動かと思います。(もちろん、だからといって文部科学省を擁護するつもりはありません。)この事態を避けるためには、「成績表をつける人」と「成績を上げようと努力する人」を分ける必要があります。考えてみれば当たり前のことなんですけどね。自殺の原因を文部科学省ではなく、死亡統計をつけている機関(厚生労働省?警察庁?)が集計するべきなのだと思います。例えば、交通事故による死者数を自動車会社が集計していたらどうなるか?タバコが原因と考えられるガンの死亡者数をタバコ会社が集計していたらどうなるか?トヨタやホンダやJTのように、消費者に支持され、株式市場でもまれている企業でも、「正しい統計」を出す可能性は低いのではないでしょうか?例えば、「三菱自動車」が「三菱自動車による交通事故の死者数は0人です。」という統計を発表し、「だから三菱自動車は安全ですよ」宣伝をしたら、果たしてトヨタは「トヨタによる死亡者数は3000人です」という統計を発表できるでしょうか?やはり「トヨタも0件です」という統計を発表して、後付の理屈を一生懸命考えるのではないか?と思います。やはり、警察庁のようにある程度の客観性を担保できる組織が発表する統計だから、妥当性のある統計が出ているのではないかと思います。こういう、「成績を評価される人が、成績表自体を書き換えることが出来る」という状況は、結構一般の企業内にも多く存在するのではないかと思います。例えば、営業マンを「訪問件数でノルマ評価をする」という目標を設定し、厳しい厳しいノルマ管理をした場合、訪問件数の集計を完全に営業マン任せにしてしまうと、ノルマを達成できずに苦しんでいる営業マンは、訪問件数の虚偽申告をする強い強い誘惑にかられるでしょう。この辺りの組織目標・個人目標管理のしっかりしている企業は、「統計を集計する人」と「その統計によって評価される人」を相当厳密に分けているように思います。考えてみれば、企業の決算報告で、監査法人の承認が必要なのも同じ理由で、監査法人がいなければ、全ての企業が勝手な理屈で決算をいじくりまわしてしまい、決算書が何ら信憑性のないものになってしまいますね。ちなみに「いじめ」の件については、”自殺統計「いじめ」追加 警察庁見直し”という動きがあるようですね。(個人的な感想としては、はじめから警察庁が統計を管理すればよかったじゃん、と思いますが。。)上記とは別のぼくの雑感としては、本件については、マスコミに「0件はおかしいでしょう」という以上の踏み込んだ分析をしてほしかったなぁと思います。「中学生・高校生の悩みの大部分は、家庭に関すること・友人に関すること・異性に関することなんだから、いじめによる自殺件数はXX件と推定される」とか、「●●の推定によると、××県のいじめによる自殺者数は全国平均の2倍である」とか、「全国でも●●県の●●市は、自殺者が異常に多い」とか、何らかの『仮説』を文部科学省にぶつけてほしかったと思います。(ニュース報道が面白くない理由として、マスコミは人の『説明責任』を追求するときには非常にしつこいのに、マスコミ自身が『説明責任』を追うような分析や対抗意見を戦わせる、ということが非常に少ないことがあるように思います。今回のテーマとは関係ありませんが)ちなみに、人口10万人当たりの自殺率の地理的分布状況を見ると、北高南低の傾向があるそうです。国際比較での自殺率(10万人あたりの自殺者人数)ランキングは、1.リトアニア:44.72.ロシア:38.73.ベラルーシ:33.24.ウクライナ:29.6…10.日本:24.1…46.米国:10.4…70.ブラジル:4.1…90.ジャマイカ:0.3各国の統計の基準が異なる可能性はありますが、何となく直感に合います。何となく死にたいな、と思っているときにジャマイカに行くのと、ロシアに行くのでは大きな違いがありますもんね。自分に子供が出来て、子供の「生きるエネルギー」が何となく弱くなってるなと感じたら、とりあえずハワイに連れて行く。・・・・という単純な話ではないですが、冬の日本海には連れて行ってはいけないんでしょうね。
2006/11/03
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最近、教育関連の問題が、立て続けにニュースになっていますね。○履修問題 しかり○”愛国心”問題 しかり○いじめによる自殺問題 しかり教育問題は「何が正しくて何が正しくないのか」を論じるのが非常に難しいのですが、(ある意味宗教について議論するのに非常に近く、個々人の価値観に影響する部分が極めて大きいと思いますので)それぞれの問題について自分なりに感じたことをまとめておく必要があろうということでまとめてみます。現在取り組んでいる仕事との関わりで、あるいは最近まで書いていた武士道との関わりで、書くことになると思います。したがって、目線は、「こういうことも考えなくてはならないのでは?」ということになると思います。『教育問題の本質をえぐる』みたいなことを期待される方は肩透かしを食うと思います(予めお詫びしておきます)まず、”いじめによる自殺問題”について。北海道や岐阜ので、校長がいじめを認めたとか認めてないとか、ということがニュースになっています。で、基本的なマスコミの論調は、「この期に及んで自己保身に走る校長はけしからん!遺族がかわいそうではないか!」ということになっています。確かに、校長がテレビを見る限りでは「誠意のある対応をしている」ようにも見えませんし、「じゃぁ、今の言葉をそのまま亡くなった少女にいえますか?」と聞かれたら、たぶん「ごめんなさい」ということになるでしょう。どう考えても人として見本になるような対応ではないですし、一言で言うと見苦しい。そういう見苦しさも手伝って、マスコミの論調は、『人が亡くなっているのに自己保身に一生懸命なのは、教育に携わる人間として許せない』という具合に、校長一人を悪者にしているようなところがあるように感じます。マスコミは全般的に、教師・国家公務員・国家資格を必要とする職業(医師・弁護士など)に対して非常に厳しいものがあって(当たり前のことで、そのことは否定するつもりは全くありませんが)、こういう『他の模範となるべき職業の人』が、人としておかしいことをすると、その特定の個人を責めて終わってしまうようなところがあるような気がします。確かに「校長のやっていることは、人として許せない。ましてや教育に携わる人間のやるべきことではない」という主張はその通りなのですが、校長も教師である前に人間なわけで、『教育に携わる人間が、揃いも揃って皆さんああいう見苦しい対応になる』ということには、構造的な理由があるんではないかと思います。構造的な理由とはつまり、『普通の人間(ぼく自身も含め)が不幸にして校長と同じ立場に立たされたら、やはり同じような対応をしてしまう可能性がかなり高いのではないか』という要素があるのではないか、ということです。今回の校長の対応を見ていて感じるのは、「校長って、校『長』でありながら、まったく『長』じゃないんだな。」ということです。一般企業で言えば「課長」と同じ構造を抱えているんだな、ということです。つまり、●立場的にはある一定の数の部下を預かる●しかし、業務の内容や方針は、自分の上司の上司の・・・(企業で言えば経営陣・社長)が決める●しかも、自分自身はその上司に査定をされて将来が決まる●人の性として、上司に気に入られたいという構造は、一般事業会社の課長と全く同じです。今回の一連の出来事を企業におきかえるとこういうことだと思います。●ある人が、ある企業の製品を使って亡くなってしまった。●その人が亡くなった原因が、製品に欠陥があったためなのか、そうではなくて純粋な事故なのか微妙である。●遺族は憤慨しており、「この会社けしからん」と思っており、「欠陥製品のせいだ!責任者出せ!」と言っている。●その製品を販売した営業マンの上司である営業3課のA課長が、マスコミや遺族への対応をしている。さて、ぼく自身が、営業3課のA課長だったとして、誠意ある対応が出来るか?という問題だと思います。おそらく、ぼく自身の頭の中では、以下のような思いが去来するのではないかと思います。■自分自身が、欠陥製品であることを認めることは、会社全体が欠陥製品を認めるということである。■この瞬間(仮にそれが正しい判断であったとしても)自分が引き金を引いて、会社が欠陥商品があることを認めることになる。■上司がどう考えているのかは知らない。(知らないが少なくとも、「欠陥製品でなければいいなぁ」という願望は持っていることはわかる)■ホンネでは、亡くなった方や遺族に申し訳ないと思う部分は少なからずある。■でも一方のホンネでは、欠陥製品を作ったのは開発部門であり製造部門であり、営業ではないと感じている。さて、この状況を全て踏まえて、「ごめんなさい、私が悪かったです」「これは当社の問題です」と言えるだろうか?言うべきなんでしょうが、相当勇気がいるな、と思うわけです。(もちろん、だからと言って、「言わなくてもよい」と思っているわけではありません。)今回のケースが企業の場合よりも、さらに性質が悪いのは、「企業の社長に相当する人間がいない/いるのだろうが、誰なんだかわからない」ということです。上記の営業3課のA課長は、実際には「これは会社の問題なので社長対応してください」と言えます。しかもかなり正当な主張として言えるでしょうし、そういう対応をしてもマスコミはそれほどA課長を責めないでしょう。責めの矛先を社長に向けるだけです。しかし、校長にはそれが言えない。校長先生の「上司」が誰なのかわからない。最終的な責任の所在が極めてグレーで曖昧である。そこに一番の構造的な問題があるんではないかと思います。■社長は、全て自分で決められる、その代わり責任は自分で取る。■一方、校長は課長くらいの権限しかない。誰が社長なのか、曖昧模糊といてよくわからない。このことが、「この校長許せない」と思う一方で、「この校長も『小物』なんだな。この校長を責めても何も出てこないんだな」という、ニュースを見たときの虚しさにつながっているのではないかと思いました。いったん曖昧になった責任は曖昧のままにしておいた方が当事者にとっては都合が良いので、この状態は当分続くのでしょうね・・・。こういう状況を見ると、自分の子供が出来たら、ムリしてでも子供を私立に入れたいな、と考えてしまいますね。。
2006/11/01
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