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久しぶりに神戸電鉄に乗った。神戸電鉄は、いわゆる神戸のイメージとは遠く郊外の住宅地をつなぎ駅から駅へ、山あいを縫って走る。普段は遠く山を見上げながら暮らしているからせっかくなのでぼんやり風景をながめてみる。六甲山の上の方(?あんまり神戸の地理に詳しくないんですが)を走っているのでさすがに空が近い、と言いたいところだが、実際には山が近い。。。見ると、山の輪郭から不自然にはみ出た木が一本。そういえば子どものころ山の緑は実は一本一本の木だという事を初めて知った時とても衝撃だった。それまではぼんやりと山の形ってああいう形のものが「つるん」か「ほわっ」かわからないけど単純に一個の個体としてあるんだと思っていた。一本一本、木が植わっていると知ってとてもこわかった。というのは、山の上に落ちる=木を通り越して地面に落ちるだから。今は、木を通り越した方が衝撃が少ないから安全と知っているけど木の葉や枝の、あのがさがさしたものを通り抜けるのっていかにも痛そうだし何より落ちきってしまったら表面からは見えない。誰にも見つけてもらえない。。。普通は山の上に落ちるなんてことはないしその時はもっと重大な危険の中にいるはずだびびりどころがちがうよ?って当時の自分に指摘したい。
2005.10.28
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きのうテレビで携帯電話のマナー講座みたいなんをやってて何気なくみていたら電話を受けるときのマナーとして電話に出にくい状況でもマナーモードでブーッブーッって何回も鳴らせてるよりは同席の人に断って出た方がましただ、電話に出ても同席の相手にも気を遣って電話相手には「ご用件を手短になら承ることができます」と言い(もちろん丁重に)、後から掛けなおすべしとのことでした。まあ、確かに。でも「手短に」っていう言い方にひっかかる。「てみじかに」ってなんだか命令的だし相手にプレッシャーだし相手が何を言ってくるか確信がないままにそういう言い方はしにくい。ごめん、話の要領が悪くって、って相手が思いやしなかったかとちょっとひやひやもする。留守録が苦手な人もいるから電話に出た方がいいとも言ってたけど苦手だったら切ってもらったらいいし留守電が相手なら言われなくとも簡潔を心がけるだろうし留守録で事足りないなら何も言わないで切るだろうし。どうせ掛けなおすんだったら機械に甘えるのがいいと思う。と、テレビの前でひとり「はあ?てみじかにぃ!?」ってつぶやいた。いただけない。
2005.10.26
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昨日はあまりの寒さにうろたえて予定外に日記を更新してしまいました。日記を書いた後、押入れから秋冬用のふとんを引っ張り出してみたけど圧縮袋でぺちゃんこになっていたそれはいかにも圧縮されてましたーというたたずまいだったためにとても掛ける気になれず夜じゅう部屋のすみにうち捨てられておりました。今日は朝からさっそくそれを干しました。ばんばん叩いてふっくらの仕上がり?と思いきやまだ足りない。よく思うんだけど子どもの頃に母親に干してもらったふとんのようにならない。ほんのり日光のにおいがするような、あったかくてちょっと香ばしいあの感じに。ヒケツは何だ??しかたないのでこれからふとん乾燥機にかけようかな~ふとん乾燥機でぬくぬく。お手軽なのにしあわせ。想像するだけで喜び。今日も早く寝よう。
2005.10.24
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寒すぎやしませんか?つい最近まで散々暑い暑いと方々で書き散らしておりましたが寒い(ワガママ)。寒い顔して寒いというのもそのまんまでいやだけどそんなこと言ってられず寒い。何も考えられない。しばらく微熱が続いていたので念のため熱を測ってみたらやっぱりあった!(イエ、微熱が、、、)冷え性でもないのにキーボードを打つ手がかじかむ。なのにまだふとんが夏仕様だ。さっき食べたごはんが全然消化されてない。これから冬眠か?もうだめだ~寝る~。顔洗って~、目外して~、同居のはなごりょうにごはんあげて~、、、レポート用の参考書も借りてきたけど、、、あ、暖房入れたらいいですよね。まだ早いけど、寒いもんね。そうだった。あ、ちょっと、立て直ってきました。
2005.10.23
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来月上海へ行けそうなのでとりあえず航空券を取りに行った。単なる観光旅行なのだけど小泉さんが靖国神社に参拝したりするもんだからもしかして危ないかな、と思っていたので。小泉さんがあくまで個人的参拝だと主張するなら個人的なのねって私としては思ってもいいけどまあ、その考えは通りにくいだろうなと思う。どうして日本はずっとずっと隣国から責められ続けるんだろうとそのことについて考えてみたいと思ったりする。先日、映画「ヒトラー最期の12日間」を観に行き何年か前には「朗読者」(ベルンハルト・シュリンク 新潮社)という小説を読んだけれど(どちらも第二次大戦を扱ったドイツの作品だ)ドイツではヒトラーやナチスやホロコーストのことを現代の芸術や思想の中でとらえようとしているんだなあと思った。もちろん日本にもそういうのはあるんだろうけど一般に広く流れるようなものって・・・??世間に受け入れられやすいものの大勢は原爆や空襲を扱ったものだろうと思う。ドイツのこの2作品はどちらも世界的にヒットしている。靖国神社に祀られているA級戦犯の人たちのことをもっと知りたいなあと思う。なんでそういうことになったのか何を考えていたのかもちろん本当のところはわからないかもしれないでも今それをどういう風に解釈するか、または解釈しようとすること自体が足りてないように思う。教科書にどう書くかとか、何回謝ったかとか全然本質的じゃないと思う。今の視点でとらえなおしてみようということがあってこそ隣国の方々とその話ができるように思う(政治的な思惑は別として)のだけれども少なくとも私には、まだ足りていない。
2005.10.22
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ようやく涼しくなってきた。いつまでも暑かったためによく服装を間違えさらに暑い思いを何回もした。そんな日は有無を言わさず機嫌が悪い。ようやく涼しくなってきた、と今書いたばかりだけど今日も昼間は暑かった。仕事中、別の事業所に用事ができたので2時ごろ出かけたが着いた時には相当不機嫌になってしまった。しかし私は、暑そうな顔をした人が「暑い」というのはちょっとどうか、という信念があるのでなるたけさわやか風に訪れた。が、そこにいる人たちがみんなとても良い人たちなので、不機嫌ながらもつい世間話をしなくてはというモードに切り替わってしまい、かと言って口がぺれぺれとうまい方でもないために「まだまだ暑いですね」などと暑い顔して言ってしまい、人知れず唇をかんだ。天気話は偉大だ。ようやく涼しくなってきた、けれども油断すると蚊が今年最後の力をふりしぼってよろよろ飛んでくる。今年最後、といってもやつらに来年はないはずなので死ぬ間際の種の保存本能がなせる技かもしれないが単に迷惑だ。ごく個人的に、虫さされ痕のある手足は生活苦を連想させるとの激しい思い込みがあるためなるたけ蚊にはかまれたくないものだが、私自身も非常に蚊に好まれる体質かつ虫さされ跡がもれなく残る体質で今年もめいっぱいかまれたのはわりと一目瞭然である。何しろしょっちゅう顔までかまれている。よく不思議がられるが気づかないものは仕方がない。「蚊がとまってるよ」って周りの人に注意してほしいくらいだ。今日訪れた事業所は窓を開けていたために蚊が何匹もふら~ふら~と飛んでいたが誰も気にする様子がない。?と思ってよく見るとほとんどみんなパンツスタイルあるいはロングスカートにハイソックスという防御万全!スタイルなのであった。蚊に備えてるわけじゃあないと思いつつも軽く謀られた気分だ。そんな中で係長が一人だけ私より短いスカート姿だったが、この人は映画女優的な美人であるせいかもったいなくて蚊の方でも寄りつけないらしい。ひとりかまれ放題。何だかオッサンな気分を味わってしまった。いつか貧血になってやる、と誰へともなく毒づく。(inspired by ko-tanuki)
2005.10.19
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うちの同居人としてメスのハムスターがいるのだけど彼女の背中に最近黒いたてがみみたいなのが出ていてこれって冬毛なんだろうか…。そこだけつやつやしていて妙に毛並みがよいのが妙に不自然。名前は「はな」と言います。その前に飼ってたハムスターが死んでしまってもうしばらく飼うまいと思っていたのだけどとある百貨店のペットショップにいた彼女がおそろしくかわいくてつい買ってしまって一年。百貨店出身の気品漂うお姿。その姿に似合わず食べ物の好みはオッサン。あま~い果物より煮干しが好き。よって愛称「はなごろう」。転じてニックネーム「ニャホ・ニャホ・ハナゴロー」(ガーナサッカー協会会長にちなむ)。あまりのかわいさにさらに転じて現在の愛称「はな御寮」(「御寮」=上流階級の女の人につける敬称)。よそのペットの話はおおむね飼い主のバカ話にしかならないとは思うんですが。
2005.10.17
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小説すばる新人賞受賞作品。しばらく前からの話題書だ。主人公の「僕」は、「となり町」との戦争において、町の偵察員に任命される。といっても「僕」にはいったいどこで戦争が行われているのか、どんな風に行われているのか、まったく見えず実感がわかない。物語の途中、「僕」もある程度は戦争らしきものの存在を感じ、恐怖や痛みの感覚を知るが、戦闘を体験するわけではなく、知らないうちに多くの人が死んでいく。結局戦争の実態が「僕」にはわからないままに戦争は終わる。作者が意図しているかどうかはわからないが全体的に村上春樹の文体や作品世界と似ている。現実と微妙にずれた作品世界を淡々とした文体で着々と進める。文体に乗って前半は書き進めていった、そんな感じ。主人公にとってこの戦争は現実感のないものだった。見えないもの、わからないものは、その人にとって、存在しないと同義だ。いつのまにか戦争が始まり、いつのまにか終わる。そのこと自体、考えさせられるものがなくはないがそんな風に無自覚にものごとを終えてしまうのではなく本当に大切なものを意識して失おうとする主人公の姿が印象的だった。喪失を自覚することで、喪失を得ることができる。それは単なる終わりではない。その喪失と一緒に、これからずっと行くのだ…。その選択だと思う。共感。
2005.10.16
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今日、とある仕事をしていて、業務上使う専門用語を外の人にも分かるように簡潔に定義する、というのがあった。これが存外に楽しくてまず第一に「簡潔に」というのが快感だ。何ごとも多くの言葉を並べるのは好まない。その時々で一番しっくりくる言い回しというのがありそれを探し当てられた瞬間、というのがたまらない。そして「探し当てられた」と思うためには今日のように受け取り手がある程度想定されていると話が早い。私の仕事は一定程度の専門職ということもあり、学問上定義された用語を使うことも多いのだけど、でも、学問的に正しく説明することと人に分かるように表現することは違う。受け取る人が千差万別だと書くにあたっての想定問答が増えすぎて困難になる。ここで話はそれるけど言葉で何かを表現するとはイメージなり考えなりを言葉を使って形にすることだけれども書かれる時にどのくらい受け取り手を想定されているんだろう。定義ということを考えるときには、多くの人の気持ちにすとんと落ちるようなそれでいて簡潔な詩の形態にとても心が惹かれる。ひとつひとつの言葉をイメージとして使って新たにイメージを紡ぐそれが詩なのであれば使おうとする言葉について多くの人の持っているであろうイメージをとらえそれと自分の語感とを的確に比較できなければならない。理屈でなく感覚で。とても難しそうだ。そしてそういうのが大好きだ。
2005.10.14
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アメリカ在住のまるとくさん(ここの日記にも登場していただいたことある)が仕事で一時帰国されたので一緒に梅田でお寿司を食べた。まるとくさんは私が以前学生をしていた時からの友人だ。先日ここにも書いた通り私は引越しが多かったので長く付き合ってる友達というのが極端に少ない。そんな中で人生の約半分を友達として過ごしてきた計算になることにさっきお風呂で気づいてびっくりした。昔からの友達、というものがどういうものなのか長い間ずっと実感として不明だったけど何となく思うのは付き合いの長い友達は、いわゆる“友達”っぽくないということ。友達というよりあんまり気遣いがいらない、相手が何をしていて何を考えていても構わない、ふ~ん、そうなんだって流せて、またいつでも話ができる、そんな適切に疎遠な感じ。まるとくさんは友達というより単なるまるとくさんで、そんな心地よい人たちのひとり、one of them である。(と、いちおう、アメリカナイズされておく)
2005.10.12
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においには相当敏感な方と自負しているんですがドラッグストアで○○製薬の「紅葉の香り」なる芳香剤を見かけて「は?紅葉のかおり??」と思いイメージしようとしたけど何もでてきませんでした。紅葉ににおいあったっけ?新緑ならともかく。なのでその商品のサイトを見てみた。「秋の紅葉の彩りをイメージした優しいフローラルの香りです」とのこと。ナルホド。嗅覚に限らず視覚から入ったわけですな。楽しそうなお仕事だなあ。
2005.10.10
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先日からリンク友の日記に方言の話題が出てきてて女子高生の間で流行ってるっていうのをテレビでも見て驚いた。方言的にいえば私は長い間バイリンガルでした。父は転勤のある仕事だったので高校卒業までの12年間、家の中では京都弁(のゆるいやつ)を、一歩表に出ればその土地土地の方言を完璧に使い分けてた。人と違う言葉を話すのが恥ずかしかったので、新しいところに引っ越したらまずヒアリング。ひたすら聞いて覚えるまであんまり話さない。こどもだったからかあんまり時間はかからなかった。でもそうすると困るのが電話で友達と話していてもその土地の方言で話すのが違和感ありまくりであれはなんだか家族の手前恥ずかしかったなあ。今はもう関西弁以外は話せません。関西に戻ってきて言葉の使い分けがなくなってその時まで予想もしなかったけど言いたいことが言いやすくなった。その時から主張の強い人柄になったかも(口にするかどうかは別として)、、、と思うくらいに。不思議です。で、その経験を生かして(?)英語をマスターしたいんですがこれがなかなかです。英語ができて車が運転できれば世界中いろんなところにふらっと行けると思うのでいつか必ず、と思うんですが、、、やはり方言はしょせん日本語。英会話のよい勉強法があったら教えてほしいです!どなたかご存じの方~??
2005.10.08
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職場の方から見せてもらった雑誌に原稿用紙に書く、ということをパソコンのソフトで実現することについての記事があった。いわく、原稿用紙を使って書くとは・枚数により原稿料が計算できる・枚数の規定が暗黙のうちに、内容のある程度のめやすになっているという一般の人にはあまり意識されてない意味合いがあるそうだ。書きものを生業とする人たちの中に、今後は、原稿用紙に書いた経験を持たない人の割合が増えていくのでは、との予測もあった。原稿を書く上で原稿用紙に替わるものはたいていの場合、ワープロやパソコンソフトでの入力だ。どちらを使ってきたかは、おおむね世代の違いと言えるのかもしれないけど私は原稿用紙に書いた経験がまったく珍しくない年代だ。キーボードで文章を書くことには随分慣れたけどやっぱり手で書くのとは違う。手で書く時には、あんまり「書く」という動作は意識されない。片やキーボードで書く時はどうしても間に運動神経が介在してるんだなあと感じる。例えば、思考の速さでキーを打つ、それは可能だけどそうすると手の動きに頭がついていかず一瞬頭痛を感じる(特異体質?)。思考より運動神経が速いんだと思う。そしてつい流されて、ありがちな言い回しを使ってしまう。筆がすべるというかキーがすべる。けれどももう長い間、手で書くよりキーボードで書く機会の方が圧倒的に多い。すると、文字を書き慣れないのでどんどん書くのが遅くなりそのために思考が滞る。さらに悪いことに漢字を忘れている。キーボードでも手でも満足に書けない、という中途半端な状況
2005.10.06
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今日は月一回の狂言のお稽古だった。お稽古中の演目は「萩大名」。まだ台詞を覚えてる最中なので先生が台詞をおっしゃる、それをまねる、またおっしゃる、またまねる、の繰り返し。でも、かんた~ん、でもなく台詞を覚えると同時に、イントネーションもまねねばならずともすると聞いたばかりの台詞なのに「え?なんておっしゃいました?」ってことになる。帰りに先生と狂言の台本について話す。狂言の一番の特徴は場面転換が自在なこと、と承る。戯曲では(たぶん)場面転換に四苦八苦するのだろうだけどなんせ狂言では「いや、何かと申すうち」とか「いろいろあり」っていうひと言で時間も場所もぐーんと飛ぶ。それで観客が不自然を感じないのはやっぱり定型の芝居だという前提があるからか・・・?便利だ。。。そして現代劇にはたぶん応用できない。。。
2005.10.03
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