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同年代の友達からは信じられないといわれそうだけど大晦日だというのにスケートに行こうと試みる。車にて30分あまり。街中はひっそりしていて、たまにジョギングするおじさんを見かけるくらい。手伝いはいいのか?おじさん。それとも逃げているのか?おじさん。 スケート場は今日明日と休みで がっくりして帰る。夕食後、紅白と漫才とおいしいとこ取りをしながら見て合間に年越しそばを食べる。 ハムスターのはなごろうにも1.5センチほどあげてみたら 非常に気に入ったらしく興奮状態になり駆け回る。テレビでは山崎まさよしが、one more time, one more chanceを歌っている。10年近く前の曲だと思うけどなぜ今頃になって?ヤマザキ。この曲の過剰にセンチメンタルなところが私は好きだけどなぜに??ヤマザキ。ヤマザキが横浜で歌っていたので横浜にいるであろう友を思いまた子どもや親戚と過ごすであろう友を想像し猫や家族とあったかく過ごしているかなあと友を想像しある友はカウントダウンライブなんかに行ってるんだろうかとか 心に浮かぶ人を想う。そうするとなぜか頭の中の街の景色が雪景色に変わる。もうしばらくしたらきっとテレビから除夜の鐘が聞こえてきて床についてもその残響か現実の鐘の音かわからないままに眠ってしまうだろう。 雪のまちに鐘が響く。明日はきっとお雑煮の白味噌の香りの中で目を覚ますだろう。 う~んお気楽。そしてこれがうちのスタンダード。
2005.12.31
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先送り先送りにしていた村上春樹についてのレポート。どうやって話を運ぶかなかなかまとまらなくてたぶんつまり好きすぎるのだ。参考文献を読むのも楽しく、きりがないけどやめられない。しかも小説論は詩論とともにいちばん楽しみにしてた科目。力も入ってますます手がつかない。でもきのうようやく意を決して完成。書く前にあれこれメモを作ったけど書き始めたらほとんど見ることはなかった。一気書きをして終了(こんなんで大丈夫か?)。次は海外小説について書かねば。日常多忙の予測があるのが心配だけど書けたら4年生だ。そしたらあとはいつでも好きなときに卒業できる。といっても単位が足りてるという意味では全然なくて最高学年にさえなっておけば卒業までの必要科目を全部ひとつのお皿に入れてどこから手をつけようと自由になれる、ってことですが。海外小説についてのレポート。誰を取り上げるか迷って二転三転した結果カフカにしようかな、と思ってきた。ただこの作家も結構好きなのがまた問題だ。でも好きなことしかやりたくない。
2005.12.30
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きのうフィギュアスケートの全日本選手権(女子フリー)があった。ふだんあんまりスポーツを熱心に見るわけではないけどフィギュアスケートは別だ。トリノオリンピック代表の最終選考会を兼ねていたのでなんだか見る方も力が入る。候補者全員にオリンピックに行ってもらいたいくらいだけど個人的には村主選手の滑りが好きだ。派手なジャンプはないけど全体の流れにうまくおさめるのが上手だと思う。何より雰囲気がある。この人の演技はほんの数分では飽き足りない。もっともっと見ていたい、ずっと見ていたい、と思う。演技がひとつの世界になっている。芸術的なもの、どこか心を揺さぶられるものに触れたときこんな風にもっと見たい、もっと聴きたい、という心の動きが起こる。自然と心が昂揚し、内的快感に変わる。それは表現するときの前提でもある。これがきっと芸術の原動力だ。この快感を求めて、人は芸術表現を行いそしてまた鑑賞するのか、と思う。、、、スケート見ながら。そしてこの感じは恋と似ている。ずっとそこにいてほしい。ずっとそこにいたい。姿を見るだけでうれしい。声を聞くだけでうれしい。何はなくとも。そんな感じが。、、などと、スケート見ながら思う。めくるめく4分間。村主選手の滑り、偉大だ。(4分間はM1だったっけ?)
2005.12.26
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今日はクリスマスだしはなごろう(ハムスター・メス・1歳ちょっと)も何かおいしいものをと思いアイスクリームを買って帰る。しばらく彼女は好きなものしか食べず体によいはずのハムスターフードは食べたフリしてこっそり隠している。すぐばれるのに。そこで2・3日、好きそうな食べ物は避け「えさ箱にハムスターフードのみ補充大作戦」を展開していたのだけどまあ、今日はいいか、ということで。バニラのアイスクリームにいちごの切れ端を添えてみました。アイスクリームは甘いのでよろこんで食べましたが食べすぎもよくないので、口を離して毛づくろいを始めたところで撤去。いちごは口をつけなかったけどあとで洗っておいといてあげよう。ジャンガリアンハムスターは2~3年が平均寿命だ。はなごろう、来年のクリスマスもアイスクリーム食べようね。はなごろうここにもいます
2005.12.25
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このところのキーワードは「文脈」だ。斎藤孝さんが文脈力云々と言う本を書いておられるようだけどもちろんそれとは関係なくごく個人的に。それにつけて思うことはいわゆる「ら」抜き言葉のことだ。こう言ってはなんだけど、この「ら」抜き言葉が私は大嫌いだ。「食べれる」「来れる」「出れる」書くのも嫌だ。などと言うと反論として「ら」を抜かずに「られる」という活用を行うと尊敬と可能と受身と自発とが混同され意味を取りにくくなるので「ら」を抜くことにより可能の意を強調することは合理的だと言われる。この「合理的」というのもまた、実は嫌いなキーワードだ。しかもそこに意味合いの合理性を求めるならば無責任な推量形などといった、追放されるべき曖昧表現が他にもあると思うのだ。人が人に何かを伝達するにあたっては多くの場合文脈が存在する。それは必ずしも言語表現であるとは限らない。気配とか人間関係の流れとか全部ひっくるめて。それは言葉に頼らず感覚で世界を見ることだ。いかに言葉に敏感で、言葉が巧みであったとしても外せないポイントだと思う。文脈を取れるならば「ら」を抜かなくても問題はないはずだ。もし、可能か自発か尊敬か受身か、どの意味にも取り得る微妙な発言なのであればそんなものはないと思うけど百歩譲って、すべての意味を取っておけばいい。日本語の便利な冗長性として。間違っていたら後で抜けば良いのだ。そういうのを読み判断する感性なしに意味の通りやすさを採ることは怠慢だと思う。ごくごく個人的に。だけど先日ある人と話をしていて「ら」抜き言葉とは一種の音便化だと思う、と言われた。音声的に「られる」というより「れる」と発する方が自然なのでそちらに偏っていくのは自然なことだと、そのように言われた。確かに実際に使っている人は意味がどうとか言う以前に、ごく自然に使っているのだろう。言葉が時を経て変化することは仕方ないと思う。だとすればあとは好みの問題だ。古風な日本語を話すも良し。変化に敏感でも良し。それならば当面思うことは“「ら」抜き言葉の使用は暫く遠慮させて戴きたく候”「好みかどうか」は、万事に優先される条件だ。ますます譲れない。
2005.12.23
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今夜は野菜不足を解消しようということで白菜をたくさん食べるぞと決心して帰宅。ちょっと遅かったのでめんどくさいからレンジにかけて温野菜にしていただこうと思い葉を外しかけたところで青虫どの発見。詳細に描写するとぞぞっとするので端的に書くと・緑色・わりと大きい(想像するのも嫌だけど3センチくらい?)・食い破った葉の間で丸くなっている(うっ、さむっ)・死んでる、たぶん3枚ほど外したところで遭遇し青虫どのには残りの白菜(4分の1カットのうち、まだ3分の2ほどある)を譲っていただこうか、お譲りしようかなどとはただの一瞬たりとも迷わず袋の口をぎゅうぎゅうにしばってさようならする。差し上げます残り全部。どうぞ。いえいえ、どうぞ。外した葉さえ気持ち悪い。野菜に虫がいるのはわかるけど、くれぐれも私の目だけは忍んでほしい。または誰かがこっそり葬って何ごともなかったかのように調理してくれればいい。ごくごく個人的には、虫のついてる野菜より農薬たっぷりの野菜でいいと思う。かく言う私は健康志向だ。折しもテレビでは旬の野菜ということで白菜特集をやっている。最も内側にたんぱく質やでんぷんが凝縮されているそうだ。しかししばらく白菜を買えるだろうか、、、葉っぱ外して洗って売ってほしい、、、。
2005.12.21
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映画『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』を観る。うん、おもしろかったです。原作を読んだのは随分前だけど原作の連作もここまではおもしろかった記憶あり。この次のは私としてはちょっとテンションが落ちます。当面。ハリー・ポッターの映画を見ると子どもたち(といってもみんなだいぶん大きくなってる)が魔法使いらしく黒い服を着てるのが非常に印象に残る。第一作・賢者の石、が公開されたころ魔女風のコートがほしくなって黒いフードつきコート(この場合決してダッフルではない)を探して買った。4年たった今でも、ひと冬を通しての活用度は20%くらいだけどお気に入りの1枚。黒い色は、似合わないとは言わないけど、ぴったり似合う色ではない。いっとき、黒い服が心底似合いたかったけれど同じく似合う色でありたい白と比べれば白の方が似合うと言われることが多い。どちらも万人が身に付けてはいるけれど実はそんなに人を選ばない色ではないと思う。はまった時には身につける人の雰囲気を引き立たせる色と思い、それぞれその色に負けない個性あってこそのものと思う。黒も白も、そういう意味で決して一色ではない。黒。ところが案外和服ではぴったり似合ったりする。いえ、決して姐さん風なのではなくかといって留袖風でもなく。たぶん衿元に白(なり他の色なり)を差すせいもあるかと思うけどそれは形の問題もあるだろうか。。。和服と洋服とで、身に付けることに関する色の感じがずいぶん変わるのも不思議だ。
2005.12.19
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村上春樹の短編。1980年。壁に囲まれた街がある。壁は圧倒的な完璧さで人々の暮らしを囲む。この街に暮らす人は影を持たない。数日前にこの街にやってきた僕は門番に影を切り離される。そして図書館で古い夢を読むことを仕事とする。この街は僕の意識の中にある街だ。そこでは僕は現実世界で別れてしまった彼女と会うことができる。そこは時間の流れもない場所だ。影を持たない人は心を持たない。壁の中の街は、そんな風に規定され、と同時にそんな風に自由だ。街の外界(つまり現実世界)は「ことば」の支配する世界だ。外界には「ことば」しかないが、僕の意識下であるこの街には、全てがあるといえる。物語の最後、僕は影とともに街から脱出する。「ことば」の世界へ、時間の支配する世界へ、あらゆるものが消失から逃れ得ない世界へ、戻ってくる。この街の物語は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に引き継がれ、そこではまた別の結末を迎える。そしてこの街への出入りの経験はさらに『海辺のカフカ』へ引き継がれていく。『街と、その不確かな壁』(「文学界」1980.9)『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社 1985)『海辺のカフカ』(新潮社 2002)thinking about a paper on the contemporary Japanse literature
2005.12.18
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自称専門分野の文芸・文学はさておきいわゆる芸術分野では演じることとデザインに興味がある(できるできないは別で)。というわけで音楽は全く詳しくないのだけどこれまた私の好きな、歌うということを考えなければクラシックを聴くのが意外と好きだ。交響曲のパパァーンっていう感じではなくて室内楽であったりピアノ・ソロであったりそういうひとまとまりな感じが好みだ。数少ない父の思い出に(イエ、まだ存命しておりますが)休日の朝にクラシックのレコードを聴く、というのがある。父は音楽が好きで今でも合唱団に入ってせっせと練習に通っている。今ごろになってこんなことを書くくらいならもすこし音楽に興味を持って子どものころに習っていた鍵盤楽器を極めるなりせめて学生の時に吹奏楽でもやっておけばよかったと思うけどま、これからおとーさんと音楽の話でもできればいいなと思う。まさに今フジ子・へミングのアルバム「憂愁のノクターン」を流している。その中ではありきたりだけどドビュッシーの「月の光」が好きだ。高校生の時から好きなんだけど当時の友達で音大に進んだ子にお願いした、いつか結婚する時には、この曲を演奏してもらうっていう約束は、果たされず久しい。しかもかなり久しい。おそろしく久しい。そんなこんなを含め含めず音楽は流れている。たゆたっている。ああいいなあって単純に思う。
2005.12.14
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芥川龍之介、『文芸的な、余りに文芸的な』を読みかける。なんでも、谷崎潤一郎との間で「話らしい話のある小説」と「話らしい話のない小説」について論争があったとのことで、興味をひかれて読んでみ、、、つつある。その論争とは、と言いたいところだけどなぜか多用される否定形の文章に気分もそぞろになっている。それでしばらく否定文が私の中で流行っている。芥川の言うことがわからないような気がしないとは思わない。しばらく寒くないとはいえない気温が続くけど負けない自信はない。とか。普通、二重否定は単なる肯定より断定的な性質が出てくるものだけどこの作品の場合、二重否定とともに推量文が多く使われていることが余計話をややこしくしている。そこで推量形+否定形がひそかにブームになる。彼の言ってることは間違っていないのではないかという気は否めない。彼女の理屈が多くの人に理解されないことは論をまたないと言えないだろうか。瑣末なことにとらわれてなかなか本題に入れない、ということしか書けない。あ、ここの例文は芥川さんの本文ではなくて私の創作です、なんてことは言わないでもわかっていただけなくはないでしょうか。言わなくてもよいことかも知れないとは思いますが、念を入れないことはよいことではないので入れないではいられない。とにかく、影響されやすい。
2005.12.13
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このところ玄関先にパンくずが落ちている。最初は、風が強いから飛んできたかな~、とか思って見過ごしていたが連日。パンの耳まで落ちてる。誰か玄関先でごはん食べてるんだろうか。チェーンかけて寝よ。うちのマンションではごくまれに変わった人を見かける。一度は中学生らしき子供たちがエレベーター前に集ってシンナーを吸っていた。今も昔も中学生はシンナーを吸うのだな、と思いつつ間を通ってエレベーターに乗ろうとしたら中にヒカクテキ分別のありそうな子がいて私の通り道をふさいでることに気づいたらしく「おい、邪魔やで」と、シンナーの袋を口に当ててる子に注意した。注意するのはそこか?とか、、、ある冬にはその同じエレベーター前に犬がいた。以前飼ってた犬によく似た笑顔のかわいいやつで「(エレベーターに)乗る?」と聞くと、いかにも「乗ります!」みたいな感じでついてくるので一緒に乗って上がった。しかし再びエレベーターの扉が開いて一歩踏み出したところ、「ここどこ!?」って顔になりフロア中を全速力で駆け回ったあげく階段を猛スピードで下りていった。おやつあげようと思ったのに。。。パンの主はこの犬みたいにかわいいやつだったらいいな。・・・忘れずチェーンかけて寝よ。
2005.12.09
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地下鉄でこんな広告を見た。“誰かの役に立ちたい ○○大学薬学部”役に立ちたいの「ヤク」は薬学部の「ヤク」にかけてるんだろうか???としばし悩む。だとしたら何だか陳腐だなあ、若い学生さんとはミスマッチだと思いながら、「いえ、本校では別にそのようなことは考えておりません」って言われたら途端に陳腐なのはこちらだ。くだらない駄洒落を口にすることは一般に場を凍らせる。それを多発すると、いわゆるオッサンとみなされる。でも駄洒落のないところに駄洒落を発見するのも口にするのと同じように駄洒落体質だ。気づかないところに駄洒落はない。にもかかわらずこないだはこんなのがあった。「新年に向けて酉年の絵馬を取り外しました」そして今日はこれだ。「和歌山銀行と紀陽銀行は経営基盤を強化するために云々…」それは無理やろう!って心の中で言いながらも(イエ、間違いなくそんなつもりじゃないでしょうけど)ちょっと「プ」だ。駄洒落を発見するココロ根、はまると何もないところにも無理からに駄洒落を作り上げてしまう。この心根は、駄洒落を自発的に言うことよりも実はひそかに恥ずかしい。
2005.12.06
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行きつけの美容院に行く。人に頭を洗ってもらうのがわりと好きだ。大きな洗面台に仰向けになってぬるま湯の中に髪を広げる。髪と髪の間にお湯が通って、一本一本の髪の毛がたゆたう。昔読んだ小説に「グリーン・レクイエム」というのがある。詳細は覚えてないけど主人公の女の子は髪に神経が通っている。感情によって髪が動く。長い髪で光合成をして生きている。だいたい私も髪が長い方だが美容院のシャンプー台でいつもこの小説を思い出す。束ねていない髪をお湯の中でのびのびさせることは、他ではできない。髪と頭がうれしがっている気がする。最後にトリートメント剤を溶かした中に髪を浸す。ここで思い出すのはこどものころのリンスのことだ。当時は、洗面器に少しだけお湯を溜め、その中にキャップで計量したリンスを溶かし込んで使うというのが主流だった(と思う)。シャンプーやリンスのふたを回し開けるというのも今となっては懐かしいがリンスを溶かしたお湯のやわらかくてぽてっとした感触とかそれを掬って髪につけていって最後にめんどくさくなって洗面器に頭を入れてしまってたこととか思い出して些細なノスタルジーに浸る。
2005.12.03
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12月。生まれ月ということもあり、私の大好きなひと月が始まった。12月、冬の始まり。まだそんなに寒くはないけれどこれからどんどん空気が澄んでいく。濁りもも汚れもリセット、そんな気がする。誕生日は17日。12と17、この微妙に重い組み合わせがけっこう気に入っている。以前、学生のころにある先輩にお誕生日を尋ねたら「9月27日。クサンニジュウシチやねん」と言われた。今でも覚えているくらいだから確かに覚えやすいけど、「3」ってなんやねん、と思った。そんな風にどちらかがどちらかの倍数であるようなそんな組合せでないことさえ、17が素数であることを含めて、悪いけど気に入っている。12月生まれの困ったことはクリスマスと混同されることだ。お祝いをもらっても包装がクリスマス仕様であったりケーキを頼んでもサンタが乗っていたり。何より街が「クリスマス盛り上げムード」満載なことにがっくりする。私の場合は「ちがうもん。先に誕生日やもん」と思う。誕生日ということで、友達が食事に誘ってくれてもクリスマス万歳風潮に押され、どの店も満員だったり。以前何かの占いで「17日生まれは、幸も不幸も人一倍大きく深い」というのがあった。まるまる信じるわけではないし客観的には波乱万丈な人生では全くないけど個人的には、かすかにその風情あり、と思う。なので何月生まれであろうと17日生まれを見つけると嬉しくなる。誕生日が過ぎるとそうねクリスマスねみんな楽しいしねって思える。クリスマスも終わったらいかん、年賀状だ、と思う。そして新年。年の終わりの12月に向けてまたいろんな人の誕生日を見送っていく。そんな感じが心地いい。
2005.12.01
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