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先日、胃カメラで検査して貰った結果を聞きに病院に立ち寄った際に、その庭先に白梅が一輪開花しているのに出会いました。 年末から年明けにかけて胃に痛みがあり、検査を受けたのであるが、結果は異状なしでありました。(梅一輪) 若草読書会の新年会が今月27日に予定されている。 毎年、新年会はヤカモチが万葉集に関連した話をするというのが恒例になっている。昨年の新年会ではこの恒例を変更して凡鬼さんに俳句の季語についてのお話をしていただいたのであるが、今年は恒例を復活させることとなり、山上憶良をとり上げてヤカモチが話をすることになっている。 山上憶良は、斉明天皇6年(660年)頃に生まれ、天平5年(733年)頃に没したとされる万葉歌人であるが、彼が天平2年(730年)正月13日、大宰の帥・大伴旅人邸で開催された「梅花宴」で詠んだ歌がこれ。春されば まづ咲く宿の 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ(巻5-818)<春になるとまず咲く庭の梅の花をひとり眺めて春の日を過ごすものだろうか。> 下二句は反語表現になっていて、「ひとりで見ようか、いや皆で梅の花を楽しもう。」という意味。 ところで、万葉集の梅花の宴で詠まれた梅の歌32首の冒頭の序文の一部、「初春の令月、気淑しく風和らぐ」が元号「令和」の出典であるというのは周知のことであるが、この序文の作者は、普通には大伴旅人と考えられるところ、山上憶良の作だとする説もあるとのこと。<参考>「天平二年正月十三日、帥そち老らうの宅いへに萃あつまり、宴会を申のぶ。時に初春しょしゅんの令月、気淑うるはしく風和やはらぐ、梅は鏡前の粉に披ひらき、蘭は佩後はいごの香かをりに薫かをる。加以しかのみならず、曙の嶺に雲移りて、松は蘿うすものを掛けて蓋きぬがさを傾け、夕の岫くきに霧結びて、鳥は縠こめのきぬに封とざされて林に迷ふ。庭に新蝶しんてふ舞ひ、空に故雁こがん歸る。ここに於て、天を蓋きぬがさにし、地を座しきゐにし、膝を促ちかづけ觴さかづきを飛ばす。言ことを一室の裏うちに忘れ、衿ころものくびを煙霞えんかの外ほかに開く。淡たん然ぜんとして自みづから放ほしいままにし、快然くわいぜんとして自ら足る。若し翰かん苑ゑんに非ざれば、何を以もちてか情こころを攄のべむ。詩に落梅の篇を紀しるす。古今それ何ぞ異ならむ。宜しく園梅を賦して、聊いささかに短詠を成すべし。」 梅の花は、萩の花に次いで多く詠まれている花であるが、古代中国では、梅、蘭、菊、竹を四君子として重んじたことから、万葉貴族たちもこれに倣って、梅を大陸伝来の文雅の花として重んじたのだろう。 さて、ここからは、言葉遊び。 オクラは、幕末の頃に我が国に伝来した植物であるから、万葉の頃には存在せずで、当然にその万葉歌などは存在しない。 秋の七種の花を指折り数えた憶良さんであるから、当時オクラが存在していたら、ヌルヌルねばねば七種の歌を詠んでいたかもしれない。 モロヘイヤ オクラ納豆 山芋めかぶ つくね芋 なめこ明日葉 根昆布ぬなは 七種ではなく十種になってしまいました。 最後の「ぬなは」とはジュンサイのことで、万葉の頃は「ぬなは」と呼ばれていました。 ヤカモチはイクラは駄目ですがオクラは、そう好きでもないが普通に食べることができます。そして、サクラは西行さんほどではないが、好きな花であります。しかし、憶良には桜を詠んだ歌はなさそうです。梅の花 楝の花は 詠みつれど 憶良は桜 詠まずもあるか (御蔵家持) さて、冒頭のウメの花に戻って・・。 スズメとナツメの写真でブログ未掲載のものがあるので、〇〇メつながりで、便乗掲載させていただきます。載せるならカメかサメの写真だろうという声も聞こえて来そうですが、ない袖は振れません。(花園中央公園の雀)(墓参の道の辺の棗の実) ナツメの実は季節外れでありますが・・。<参考>万葉関連の過去記事はコチラ。 梅花の歌32首の序文掲載の記事 梅花の歌32首の序文 2020.2.21. 梅花の歌32首全文掲載記事 梅の花咲き始めにけり枚岡の・・ 2013.2.21. 若草読書会関係の過去記事はコチラ。
2024.01.13
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今日は、久々の雨。 昨夜からの雨が降り残り、昼過ぎまで雨でありました。(梅一輪の・・) 上の写真は、先日(10日)、銀輪散歩のついでに立ち寄った馴染みの喫茶店・ペリカンの家の向かいの病院の前庭に咲いていたもの。ウクライナ 春まだ遠けど わが里に 梅一輪の 春咲きにける (偐家持)Spring in Ukraine is still far away,but Spring with a plum blossom has bloomed in our village. 梅は、萩に次いで数多く万葉集に詠まれている花。 正確に数えてはいないが、120首程度あるかと。 梅の万葉歌と言えば、万葉集巻5の「梅花の歌32首」であるが、これは過去記事でも取り上げているので、それをご参照いただくこととする。〇梅花の歌32首の序文掲載の記事 梅花の歌32首の序文 2020.2.21.〇梅花の歌32首全文掲載記事 梅の花咲き始めにけり枚岡の・・ 2013.2.21. ヤカモチも梅の花の歌は結構詠んでいると思うのだが、作った歌は作ったしりから忘れてしまうというのがヤカモチなので、過去記事を調べてみて目についたものを並べてみましょう。コロナ禍を 障つつみ隠こもりて 梅の花 ひとりし見れば 春日はるひ悲しも (偐家持)梅の花 咲きたる庭に 若草の どちみな今日は 楽しきを積め (偐家持)梅林は 名のみしありて 枚岡の 春かたまけど 花の見えなく (偐家持)妹と見し 北山の辺の 梅の苑 今か盛りか 思ひつつぞ居り (偐家持)病棟の 庭に咲きたる 梅の花 春のさやぎを 何とてや告ぐ (偐家持) 人みなは 春は桜と いふなれど まづ咲く梅を 春とや言はむ (梅郎女)冬ごもり 春さりくれば 梅の花 見せばや妹に 今しぞ咲ける (偐家持) 朝鳥の 声のとよみて 白梅の 花は咲きたり 一輪二輪 (偐家持)くれなゐと 真白にぞ咲く 梅の花 春の競きほひの 見らくしよしも (偐家持) いくら並べても、これという歌はありませんな(笑)。これといふ 歌もなくあり 梅の花 並べることも たいがいにせよ (偐家持)でありますかな。<参考>参考関連過去記事枚岡梅林 2010.2.22.梅の花咲きてぞ春は 2014.2.9.太宰府銀輪散歩(1)・わが園に梅の花散る 2015.1.13.同 (2)・ひとり見つつや 2015.1.15.同 (3)・世の中は空しきものと 2015.1.16.同 (4)・大野山霧立ちわたる 2015.1.17.同 (5)・かもかもせむを 2015.1.18.同 (6)・筑紫なるにほふ子ゆゑに 2015.1.19.第10回ナナ万葉の会・わが園に梅の花散る 2015.1.31.梅の花ひとり見つつや 2022.2.7. さて、梅一輪の春よりも先に目にしたのは、同じく10日の花園中央公園の菜の花。(菜の花)菜の花を 見ればこの身は 紋白蝶 花から花へ 飽かず飛び行く (偐白蝶)(同上) この日は整体院でマッサージをしてもらった後、近隣の公園などを銀輪散歩しただけでありましたが、その折に撮影の写真がいくつかありますので、併せ掲載して置きます。(加納公園) 加納公園の北西にあるのが加納北公園。(加納北公園) 下掲は、加納北公園で見かけたナンキンハゼの実。(ナンキンハゼの実)(同上)<参考>万葉関連の過去記事はコチラ。 花関連の過去記事 花(5)・2022~ 花(4)・2020.4.~2021 花(3)・2017~2020.3. 花(2)・2012~2016 花(1)・2007~2011 近隣散歩関連過去記事 近隣散歩(その1) 2009~2013 近隣散歩(その2) 2014~
2023.01.14
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今日は、月例の墓参。 今まで気が付かなかったが、我が家の墓の近くのお墓に立派なケイトウの花が咲いていました。(墓地に咲くケイトウの花) ケイトウは鶏頭で、ニワトリのトサカに似ていることからの呼称であり、鶏頭草、鶏冠草などとも表記する。 この花は古来から日本にある花ではあるが、万葉集などでは「韓藍(からあゐ)」と呼ばれているから、韓の国(古代の朝鮮、中国)からやって来た外来の植物である。 万葉の頃は、韓藍という呼称が示すように、舶来の珍重すべきエキゾチックな花であったのだろう。(同上) その墓前に供えてある花にもケイトウの花が混じっていたから、ケイトウはこのお墓に眠る人が生前こよなく愛した花であったのか、それともお墓を守っているお方が好きな花であるというに過ぎないのかなどと想像したり。 まあ、何にしても、墓石よりも草丈が高く、立派に育って、いかにも目立って咲いているのでありました。 万葉の歌でも、恋心を顔に出して目立ってしまうことの比喩としてこの花のことを詠っているものがある。(同上) ケイトウの万葉歌を記して置きましょう。我がやどに 韓藍(からあゐ)蒔(ま)き生(おほ)ほし 枯れぬれど 懲りずてまたも 蒔(ま)かむとそ思(おも)ふ (山部赤人 万葉集巻3-384)(我が家の庭に鶏頭を蒔き育てたけれど枯れてしまった。しかし、懲りずにまた種を蒔こうと思う。)秋さらば 移しもせむと 我が蒔(ま)きし 韓藍(からあゐ)の花を 誰(たれ)か摘みけむ (万葉集巻7-1362)(秋になったら移し染めにもしようと、私が蒔いた鶏頭の花を、誰が摘んでしまったのか。)恋ふる日の 日(け)長くしあれば 我が園の 韓藍(からあゐ)の花の 色に出(い)でにけり (万葉集巻10-2278)(恋しく思う日々が長くあったので、我が家の庭の鶏頭の花のように顔色に出てしまいました。)隠(こも)りには 恋ひて死ぬとも み園生(そのふ)の 韓藍(からあゐ)の花の 色に出(い)でめやも (万葉集巻11-2784)(人知れず恋い死にすることがあっても、お庭に生えている鶏頭の花のように、色に出したりしましょうか。) 前二首は、男性の歌で、韓藍の花を女性に喩えている歌である。 山部赤人さんは、春には女性をスミレに喩えて「一夜寝にける」と詠んだけれど、秋には「鶏頭の花」に喩えて「もう一度恋を仕掛けよう。」と詠んでいる。まさに懲りぬ人である(笑)。 二首目のそれは、恋人を横取りされてしまった男の歌ですな。 後二首は、女性の歌でしょうか。 恋心を顔色に出してしまいました、という歌と、顔色には出しません、という歌であるが、どちらも切ない自身の恋心を相手に訴えかけている歌であるから、歌の意は同じである。 まあ、何れの歌も、墓参に関連付けて取り上げるには、いささか不適切な歌でありました(笑)。 さて、墓参の際の恒例の「門前の言葉」であるが、これは1日の朝ということでもあった所為か、前月の墓参の時の掲示のままでありましたので、撮影はせず、でありました。(今日の墓地からの眺め) 朝のうちは台風の影響もあってか、上の写真のように、雲の多い空。 午後になって雲の切れ間が大きくなり、日差しも。 時折、強い風が北から吹いて、午後の銀輪散歩で恩智川沿いを北方向に走っている時などは、いつもより強くペダルを踏むも、風の抵抗で速度はかなり減殺されました。まあ、これは朝の墓参とは関係のない話。 墓地の一番高い位置にあるシンボルツリーのクスノキ。左半分が枯れ始めていることは、以前の記事で紹介しましたが、更にそれが顕著になって来ている気がします。(今日のクスノキ) 道の辺の民家の庭先にあるナツメの木の実が茶色に色づいているのを撮影しましたが、帰宅してPCに取り込んでみると、ピンボケ。実に焦点が合っていなかったようで、没に。 帰途、そのお宅の前を通ると、奥さんがナツメの枝を高枝ハサミで剪定して居られました。お声がけすると「枝に棘があるので、迷惑になってもいけないので、伸びすぎたのを摘んでいます。」とのこと。そうか、ナツメには棘があったのか、と今頃気づいた次第。 また、もう少し自宅寄りの位置にある大きな池の土手にオキザリスの花が群れ咲いていたので、撮影。(オキザリス・ボーウィ) 学名がOxalis bowiei。 和名は、セイヨウカタバミまたはハナカタバミとのこと。 園芸種が野生化して土手に群生するようになったのでしょう。 在来のムラサキカタバミより花も大きく、色も濃いのでよく目立つ。 カタバミと呼ばずオキザリスなどと呼ぶ点などは、万葉の頃、ケイトウを韓藍と呼んだのと同じ感覚であるのかもしれない。 ジョロウグモの写真も撮りましたが、これは虫カテゴリの記事用に取って置くこととし、当記事には掲載しないこととします。 ジョロウグモは女郎蜘蛛というのが普通であるが、上臈蜘蛛が語源だという説もある。 韓藍も、「み園生の」とあるように、貴族の邸宅の庭である「園・苑」に咲く花であり、庶民の庭や野に咲く花ではない。 従って、それが比喩される女性も韓風に装った官女や貴族の女性であるから、上臈で、上臈蜘蛛と相通じる。よって、この記事にその写真を掲載しても違和感がないのでは、などと考えもしましたが、それはヤカモチ的屁理屈に過ぎず、一般の理解、感覚とは遊離したものであるだろうと、思いとどまったという次第。<参考>万葉関連の過去記事はコチラ。 墓参関連の過去記事はコチラ。
2021.10.01
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今日も雨。 甲子園の球児たちも雨に泣かされているようです。 銀輪家持も蟄居を余儀なくされての雨障(あまつつみ)にて、脚力が衰えて行くに任せるのほかなしであります。 先日(13日)の墓参は雨間を利用してのものでしたが、この「雨間」というのは、雨と雨との間、雨の合間という意味。 万葉の頃から使われている言葉であるが、万葉の頃は「雨の降っている間」という意味で、現在のような意味で使われるのは平安時代以降ということらしい。卯の花の 過ぎば惜しみか ほととぎす 雨間(あまま)も置かず こゆ鳴き渡る (大伴家持 万葉集巻8-1491)(卯の花が散ってしまうのを惜しんでか、ホトトギスは雨の降る間も休みなくこちらあたりから鳴き渡ってゆく。)ひさかたの 雨間(あまま)も置かず 雲隠(くもがく)り 鳴きそ行くなる 早稲田(わさだ)雁(かり)がね (大伴家持 万葉集巻8-1566)(<ひさかたの>雨の降っている間も休みなく、雲に隠れて鳴いて行く声がする、早稲田の雁が。)雨間(あまま)明けて 国見もせむを 故郷(ふるさと)の 花橘は 散りにけむかも (万葉集巻10-1971)(雨が止んで国見もしたいのに、故郷の橘の花は散ってしまったことだろうか。)十月(かみなづき) 雨間(あまま)も置かず 降りにせば いづれの里の 宿か借らまし (万葉集巻12-3214)(十月の雨が止む時もなく降り続くとしたら、どのあたりの家に雨宿りをしたらいいのだろうか。) 雨間の訓は「あまま」とか「あまあい(あまあひ)」であるが、「あまあい」の方は「雨の合間」という平安時代以降の意味になってからの訓であろう。 以下は閑人家持の「イマジン」ヒマ論であるが、ヒマ(暇・隙)というのは「合間・あひま」の「あ」が脱落して「ひま」となったものなんだろう。 物事と物事との時間的な間が「暇」で、空間的な間が「隙」である。 ヒマとは仕事(なすべきこと)と仕事の間の何もすることのない時間、何をしてもよい時間だとすると、閑人家持のように、そもそも仕事・なすべきことが何とてもない365日連休の人間にとっては「合間」としての時間という意味でのヒマとはちょっと意味が違って来るから、別の言葉で表現する方がいいように思うが、そんな奴のために新語を考えるほど世間はヒマではないから、ヒマでよかろうと言うことなんだろう。 ヒマがマ(間)に由来するとして、日本人は「間」というものを大切にする民族である。 あやまち(過ち)、あやまり(誤り)を「間違い」とも言い、「間」を間違うと「間抜け」と馬鹿にされることでも、それが分かるというもの。 「間」とは、人と人との距離感或いは物事と人との距離感のようなものと言っていいだろうか。 この距離感に応じて、言葉表現も使い分けなければならない。 丁寧語、尊敬語、謙譲語などと複雑な敬語表現のある日本語の由縁もここにあるのだろう。 伝達すべき内容の正しさもさることながら、この距離感に相応した言葉表現がそれ以上に大切にされるのである。 そして、もう一つは「和」。 聖徳太子が「和を以て貴しとなす」と言って以来、日本を大和(大いなる和)と表現して以来、「和す」ことを第一と考えて来た日本人。 それは、「行間を読む」とか「言外を知る」とか、相手の意を先んじて汲み取り、それに相応しい行動をとる「忖度」という美風ともなった。 しかし、一方では、それは、近時の官僚の「忖度」によって、忖度の意味も堕落したものとなったように、また「空気を読めない奴」という蔑視的表現が成立する同調圧力の強い社会という負の側面を持つことでもあった。 まあ、何であれ、この「間」というのは、何とも微妙で曖昧なもので、論理性とか正確性とかとは対極のもの。 「和」も同様にて、「間」によって保たれているに過ぎない「和」というものは危ういものである。 雨間の話から脱線して、だんだんと「間」の抜けた方向に話が進んでいるようですから、雨間に戻ることにします。 外の雨脚がひと際強くなりました。 昨日、鳴いていたツクツクボウシも、さすがにこの雨では鳴かず、泣いていることでしょう。 雨間も置かず鳴いているというホトトギスはもちろん、カラスもハトもスズメも皆、どこかで雨宿り。 雨間を縫っての13日の墓参の折に見かけた蛾の夫婦は今頃はどうしているものやら。(ノメイガの一種 ホシオビホソノメイガかも知れない。) 墓参の折に、木の葉が散ったのかと足元を見たら、小さな蛾の夫婦でありました。 ツトガ科ノメイガ亜科に属する蛾も色々ですが、これはそのうちの一種、ホシオビホソノメイガだろうと思われます。 今日は、雨間のお話でした。
2021.08.17
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今年初めて蝉の声を耳にしたのは、7月10日。 この時は、アブラゼミとニイニイゼミの声。 翌日の11日の朝には自宅に居て、クマゼミの鳴く声が聞かれました。 今朝も鳴いています。 ヤカモチ気象台は10日に梅雨明け宣言を発しましたが、大阪の気象台は未だ梅雨明け宣言をしていません。(今朝の空 午前10時頃) 肉眼では青色がもっと薄く、薄曇りといった感じでしたが、カメラの方がヤカモチ気象台の宣言を忖度したのか、青色が濃くなっています。気象台 言はぬ梅雨明け しかすがに 我家の庭に くまぜみ鳴くも(偐家持)(本歌)うち霧きらし 雪は降りつつ しかすがに 我家わぎへの園に うぐひす鳴くも(大伴家持 万葉集巻8-1441) 大伴家持さんは貴族、偐家持は庶民。 貴族の庭は「園、苑」であるが、庶民のそれは「庭、屋前」である。 「しかすがに」は、相反するものを並べて言う場合に使う語で、「そうではあるけれど」、「だが、しかし」というような意味である。 副詞「しか」に、動詞「す」の終止形、接続助詞「がに」がくっついて一語化したもの。現在、「さすがに、それは無理だろう。」などと使う「さすがに」は、この「しかすがに」の「しか」が「さ」に変化したものである。 九州、中・四国は今日梅雨明け宣言したようだから、「さすがに大阪もそろそろ梅雨明け宣言だろう。」という風に言うべきか(笑)。(追記訂正:2021.7.16.)上記文中の「九州、中・四国」の「四国」は誤りで、四国は未だ梅雨明け宣言されていません。本日(7月16日)現在、梅雨明けが宣言されていないのは、四国、近畿、東海のみであります(関東甲信、東北は本日16日梅雨明け)。
2021.07.13
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「雪の万葉歌」短歌111首を書き出すということをしていて、気付いたことがあります。 今月2日の若草読書会で、梅花の歌32首とその序文を話題ににしたことは、既述の通りであるが、この宴が行われたのは天平2年正月13日(730年2月4日)のことである。 天平に改元されたのは、神亀6年(729年)8月5日のことであるから、天平2年の正月というのは、天平に改元されて初めての正月であったのだということでした。 令和に改元されて初めての正月が今年の正月であったのだから、令和2年の正月と天平2年の正月は、その点でも共通しているということ。 まあ、改元が年の途中で行われると、その元号の下での最初の正月が新元号2年のこととなるのは当たり前のことであるから、これに気付かなかったというのは不正確で、そのことに思いが至らなかった、と言うべきか。笑止のことであります。 時すでに梅の花も多くは散り出しているが、今頃になってこんなことを言い出しているのは間の抜けたことである。しかし、間抜けついでに、遅まきながら、梅花の歌32首の序文を、ブログに書きとどめ、今後の資料とでもして置くか。<梅花の歌32首の序文(万葉集第8巻)>天平二年正月十三日、帥老(そちらう)の宅(いへ)に萃(あつ)まり、宴会(えんかい)を申(の)ぶ。時(とき)に初春(しょしゅん)の令月(げつ)、気(き)淑(うるは)しく風和(やは)らぐ。梅は鏡前の粉に披(ひら)き、蘭は佩後(はいご)の香(かをり)に薫(かを)る。加以(しかのみならず)、曙の嶺に雲移りて、松は蘿(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結びて、鳥は縠(こめのきぬ)に封(とざ)されて林に迷ふ。庭に新蝶(しんてふ)舞ひ、空に故雁(こがん)歸る。ここに於て、天を蓋(きぬがさ)にし、地を座(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(ころものくび)を煙霞(えんか)の外(ほか)に開く。淡(たん)然(ぜん)として自(みづか)ら放(ほしいまま)にし、快然(くわいぜん)として自ら足る。若し(もし)翰(かん)苑(ゑん)に非ざれば、何を以(もち)てか情(こころ)を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古今それ何ぞ異ならむ。宜しく園梅(ゑんばい)を賦して、聊(いささ)かに短詠を成すべし。(天平2年<730年>正月13日、帥老の宅に集まって宴会を開く。あたかも初春のよき月、気はうららかににして風は穏やかだ。梅は鏡台の前の白粉のような色に花開き、蘭は腰につける匂い袋のあとに漂う香に薫っている。しかも、朝の嶺には雲が移り行き、松は雲の薄絹を掛けたように傘を傾け、夕べの山洞<又は「山の峰」か>には霧が立ち込め、鳥は霧の縮緬に閉ざされたように林に迷い飛ぶ。庭にはこの春に現れた蝶が舞い、空には去年の秋に来た雁が北へ帰って行く。さてそこで、天空を覆いとし、大地を敷物としてくつろぎ、膝を寄せ合っては酒盃を飛ばす如くに応酬する。一堂に会しては言葉を忘れ、美しい景色に向かっては心を解き放つ。さっぱりとして心に憚ることなく、快くして満ち足りている。詩歌によるのでなければ、この思いを語ることはできない。詩に落梅の篇を作る。昔も今もどんな違いがあろう。さあ、園梅を詠んで、ここに短歌を試みに作ってみようではないか。)※蘭=フジバカマのこと。葉に芳香がある。 佩=中国の君子たちが印章や香袋を懸けるためのベルトのこと。 翰苑=「筆の苑」。ここでは詩歌のことをさす。 詩に落梅の・・=六朝時代の古楽府に「梅花落」を題とする諸作のあることを言っている。(坂本八幡宮 帥老・大伴旅人の邸宅があった辺りとされる。再掲載)<参考>太宰府銀輪散歩(4)・大野山霧立ちわたる 2015.1.17.
2020.02.21
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(承前) 前頁の続編です。 雪の万葉歌全111首(但し、短歌に限る。)のうち第1巻~第10巻所収のもの73首は前頁の「雪の万葉歌(上巻)」に掲載しました。 本頁では第11巻~第20巻所収の残り38首を以下に掲載します。 まあ、自身の「資料用」みたいな記事ですから、ご訪問いただいたお方には、「単なる万葉集の歌の羅列に過ぎないではないか。」と失望させてしまう内容ですが、お赦しを。 雪の写真などで誤魔化して置きましょう(笑)。(京都・小塩山での雪。古い写真<2012年2月17日>の再掲です。)<参考>小塩山登山 2012.2.27.第11巻(なし)第12巻み雪降る 越の大山(おほやま) 行き過ぎて いづれの日にか 我(わ)が里を見む (巻12-3153)第13巻み雪降る 吉野の岳(たけ)に 居(ゐ)る雲の よそに見し児に 恋ひわたるかも (巻13-3294)第14巻筑波嶺(つくばね)に 雪かも降らる 否(いな)をかも かなしき児ろが 布(にの)乾さるかも (東歌 巻14-3351)第15巻(なし)第16巻ぬばたまの 黒髪濡れて 沫雪(あわゆき)の 降るにや来ます ここだ恋ふれば (娘子 巻16-3805)第17巻み園生(そのふ)の 百木(ももき)の梅の 散る花し 天(あめ)に飛び上がり 雪と降りけむ (大伴家持 巻17-3906)降る雪の 白髪(しろかみ)までに 大君(おほきみ)に 仕え奉(まつ)れば 貴(たふと)くもあるか (橘諸兄 巻17-3922)天(あめ)の下 すでに覆(おほ)ひて 降る雪の 光を見れば 貴くもあるか (紀清人 巻17-3923)山の峡(かひ) そことも見えず 一昨日(おとつひ)も 昨日(きのふ)も今日(けふ)も 雪の降れれば (紀男梶 巻17-3924)新(あらた)しき 年の初めに 豊の稔(とし) しるすとならし 雪の降れるは (葛井諸会 巻17-3925)大宮の 内にも外にも 光るまで 降れる白雪 見れど飽かぬかも (大伴家持 巻17-3926)庭に降る 雪は千重(ちへ)敷く 然(しか)のみに 思ひて君を 我(あ)が待たなくに (大伴家持 巻17-3960)立山(たちやま)に 降り置ける雪の 常夏(とこなつ)に 見れども飽かず 神(かむ)からならし (大伴家持 巻17-4001)立山(たちやま)に 降り置ける雪の 常夏(とこなつ)に 消(け)ずてわたるは 神(かむ)ながらとそ (大伴池主 巻17-4004)婦負(めひ)の野の すすき押しなべ 降る雪に 宿借る今日し 悲しく思ほゆ (高市黒人 巻17-4016)立山(たちやま)の 雪し消(く)らしも 延槻(はひつき)の 川の渡り瀬(ぜ) 鐙(あぶみ)漬(つ)かすも (大伴家持 巻17-4024)第18巻雪の上(うへ)に 照れる月夜(つくよ)に 梅の花 折りて送らむ 愛(は)しき児もがも (大伴家持 巻18-4134)第19巻わが園の 李(すもも)の花か 庭に降る はだれのいまだ 残りたるかも (大伴家持 巻19-4140)この雪の 消(け)残る時に いざ行かな 山(やま)橘(たちばな)の 実の照るも見む (大伴家持 巻19-4226)ありつつも 見(め)したまはむそ 大殿の このもとほりの 雪な踏みそね (三方沙弥 巻19-4228)新(あらた)しき 年の初めは いや年に 雪踏み平(なら)し 常かくにもが (大伴家持 巻19-4229)降る雪を 腰になづみて 参り来し 験(しるし)もあるか 年の初めに (大伴家持 巻19-4230)なでしこは 秋咲くものを 君が家の 雪の巌(いはほ)に 咲けりけるかも (久米広縄 巻19-4231)雪の山斎(しま) 巌(いはほ)に植ゑたる なでしこは 千代に咲かぬか 君がかざしに (蒲生娘子 巻19-4232)うち羽振(はぶ)き 鶏(かけ)は鳴くとも かくばかり 降り敷く雪に 君いまさめやも (内蔵縄麻呂 巻19-4233)鳴く鶏(かけ)は いやしき鳴けど 降る雪の 千重に積めこそ 我(わ)が立ちかてね (大伴家持 巻19-4234)白雪の 降り敷く山を 越え行かむ 君をそもとな 息の緒に思ふ (大伴家持 巻19-4281)言(こと)繁(しげ)み 相(あひ)問(と)はなくに 梅の花 雪にしをれて うつろはむかも (石上宅嗣 巻19-4282)梅の花 咲けるが中(なか)に 含(ふふ)めるは 恋ひや隠(こも)れる 雪を待つとか (茨田王 巻19-4283)大宮の 内にも外(と)にも めづらしく 降れる大雪 な踏みそね惜(を)し (大伴家持 巻19-4285)み園生(そのふ)の 竹の林に うぐひすは しば鳴きにしを 雪は降りつつ (大伴家持 巻19-4286)うぐひすの 鳴きし垣内(かきつ)に にほへりし 梅この雪に うつろふらむか (大伴家持 巻19-4287)川渚(す)にも 雪は降れれし 宮の内に 千鳥鳴くらし 居(ゐ)む所なみ (大伴家持 巻19-4288)第20巻松が枝(え)の 地(つち)に着くまで 降る雪を 見ずてや妹が 隠(こも)り居(を)るらむ (石川内命婦 巻20-4439)高山の 巌(いはほ)に生(お)ふる 菅(すが)の根の ねもころごろに 降り置く白雪 (橘諸兄 巻20-4454)消(け)残りの 雪にあへ照る あしひきの 山(やま)橘(たちばな)を つとに摘み来(こ)な (大伴家持 巻20-4471)初雪(はつゆき)は 千重に降りしけ 恋ひしくの 多かる我(われ)は 見つつ偲はむ (大原今城 巻20-4475)み雪降る 冬は今日(けふ)のみ うぐひすの 鳴かむ春へは 明日(あす)にしあるらし (三形王 巻20-4488)新(あらた)しき 年の初めの 初春(はつはる)の 今日(けふ)降る雪の いやしけ吉事(よごと) (大伴家持 巻20-4516) 以上、38首。 第1巻~第10巻 73首第11巻~第20巻 38首 合計111首 雪の万葉歌の数は、梅のそれよりもやや少なく、桜のそれよりもずっと多い、ということが分かりました。
2020.02.19
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今日は、西日本中心に広い地域で雪が降ったようだが、わが大阪は、少なくとも東大阪市平野部はチラとも雪は「降りも来ずけむ」でありました。 当地は雪は降らなかったのであるが、因みにと、雪を詠んでいる歌、雪という詞が含まれる歌は万葉に何首あるのだろうと、手許の万葉集をパラパラとめくって調べてみると111首ありました。 見落としている歌がもしあるなら、その分これよりも多くなる。 長歌で雪が登場する歌は、知っているだけでも5首あり、これら長歌も含めると雪の歌は百十数首あるということになる。 今後の参考にと、これを記事に書きとめて置くことにします。第1巻には雪の歌が見当たらず、第2巻の天武天皇と五百重娘(藤原鎌足の娘にして、天武天皇の夫人、新田部皇子の母でもある。)との軽妙なやり取りの、あの有名な歌が万葉集最初の雪の歌のようです。そして、最後の雪の歌は大伴家持の万葉集掉尾の歌、新しき年の始めの初春の・・の歌である。(注)上記は、長歌を度外視してのことです。長歌では第1巻25番の天武天皇御製の吉野での歌に雪が詠われている。また、霰も雪の内と考えれば、同じく第1巻65番の長皇子の歌に「霰」が登場している。第1巻(なし)第2巻わが里に 大雪降れり 大原の 古(ふ)りにし里に 降らまくはのち (天武天皇 巻2-103)わが岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪の摧(くだ)けし そこに散りけむ (藤原夫人 巻2-104)降る雪は あはにな降りそ 吉隠(よなばり)の 猪養(ゐかひ)の岡の 寒からなくに (穂積皇子 巻2-203)第3巻田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける (山部赤人 巻3-318)富士の嶺(ね)に 降り置く雪は 六月(みなづき)の 十五日(もち)に消(け)ぬれば その夜降りけり (高橋虫麻呂 巻3-320)第4巻道に逢ひて 笑(ゑ)まししからに 降る雪の 消(け)なば消(け)ぬがに 恋ふといふ我妹(わぎも) (聖武天皇 巻4-624)第5巻わが園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも (大伴旅人 巻5-822)梅の花 散らくはいづく しかすがに この城(き)の山に 雪は降りつつ (大伴百代 巻5-823)妹が家(へ)に 雪かも降ると 見るまでに ここだも紛(まが)ふ 梅の花かも (小野国堅 巻5-844)第6巻奥山の 真木の葉しのぎ 降る雪の 降りは増すとも 地に落ちめやも (橘奈良麻呂 巻6-1010)第7巻(なし)第8巻沫雪(あわゆき)か はだれに降ると 見るまでに 流(なが)らへ散るは 何の花そも (駿河采女 巻8-1420)我が背子に 見せむと思ひし 梅の花 それとも見えず 雪の降れれば (山部赤人 巻8ー1426)明日よりは 春菜摘まむと 標(し)めし野に 昨日(きのふ)も今日(けふ)も 雪は降りつつ (山部赤人 巻8-1427)沫雪の ほどろほどろに 降りしけば 奈良の都し 思ほゆるかも (大伴旅人 巻8-1639)我が岡に 盛りに咲ける 梅の花 残れる雪を まがへつるかな (大伴旅人 巻8-1640)沫雪に 降らえて咲ける 梅の花 君がり遣らば 寄(よ)そへてむかも (角広弁 巻8-1641)たな霧(ぎ)らひ 雪も降らぬか 梅の花 咲かぬが代(しろ)に そへてだに見む (安倍奥道 巻8-1642)天霧(あまぎ)らし 雪も降らぬか いちしろく このいつ柴(しば)に 降らまくを見む (若桜部君足 巻8-1643)我がやどの 冬木(ふゆき)の上(うへ)に 降る雪を 梅の花かと うち見つるかも (巨勢宿奈麻呂 巻8-1645)ぬばたまの 今夜(こよひ)の雪に いざ濡れな 明けむ朝(あした)に 消(け)なば惜しけむ (小治田東麻呂 巻8-1646)梅の花 枝にか散ると 見るまでに 風に乱れて 雪そ降り来る (忌部黒麻呂 巻8-1647)十二月(しはす)には 沫雪降ると 知らねかも 梅の花咲く 含(ふふ)めらずして (紀女郎 巻8-1648)今日降りし 雪に競(きほ)ひて 我がやどの 冬木の梅は 花咲きにけり (大伴家持 巻8ー1649)池の辺(へ)の 松の末葉(うらば)に 降る雪は 五百重(いほへ)降り敷(し)け 明日さへも見む (巻8-1650)沫雪(あわゆき)の このころ継ぎて かく降らば 梅の初花(はつはな) 散りか過ぎなむ (坂上郎女 巻8-1651)松陰(まつかげ)の 浅茅(あさぢ)が上の 白雪(しらゆき)を 消(け)たずて置かむ ことはかもなき (坂上郎女 巻8-1654)高山の 菅(すが)の葉しのぎ 降る雪の 消(け)ぬとか言はも 恋の繁けく (三国人足 巻8-1655)我が背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しからまし (光明皇后 巻8-1658)真木(まき)の上(うへ)に 降り置ける雪の しくしくも 思ほゆるかも さ夜(よ)問へ我が背 (他田広津娘子 巻8-1659)沫雪の 消ぬべきものを 今までに ながらへぬるは 妹に逢はむとそ (大伴田村大嬢 巻8-1662)沫雪の 庭に降り敷き 寒き夜を 手枕(たまくら)まかず ひとりかも寝む (大伴家持 巻8-1663)第9巻御食(みけ)向かふ 南淵山(みなぶちやま)の 巌(いはほ)には 降りしはだれか 消え残りたる (柿本人麻呂歌集 巻9-1709)み越路(こしぢ)の 雪降る山を 越えむ日は 留(と)まれる我を かけて偲(しの)はせ (笠金村 巻9-1786)第10巻うちなびく 春さり来れば しかすがに 天雲(あまくも)霧(き)らひ 雪は降りつつ (巻10-1832)梅の花 降り覆(おほ)ふ雪を 包み持ち 君に見せむと 取れば消(け)につつ (巻10-1833)梅の花 咲き散り過ぎぬ しかすがに 白雪庭に 降りしきりつつ (巻10-1834)今さらに 雪降らめやも かぎろひの 燃ゆる春へと なりにしものを (巻10-1835)風交じり 雪は降りつつ しかすがに 霞たなびき 春さりにけり (巻10-1836)山のまに うぐひす鳴きて うちなびく 春と思へど 雪降りしきぬ (巻10-1837)峰(を)の上(うへ)に 降り置ける雪し 風のむた ここに散るらし 春にはあれども (巻10-1838)君がため 山田の沢に ゑぐ摘むと 雪消(ゆきげ)の水に 裳の裾濡れぬ (巻10-1839)梅が枝に 鳴きて移ろふ うぐひすの 羽白たへに 沫雪そ降る (巻10-1840)山高み 降り来る雪を 梅の花 散りかも来ると 思ひつるかも (巻10-1841)雪をおきて 梅をな恋ひそ あしひきの 山片付(かたづ)きて 家居(いへゐ)せる君 (巻10-1842)山のまに 雪は降りつつ しかすがに この川楊は 萌えにけるかも (巻10-1848)山のまの 雪は消ざるを みなぎらふ 川の沿ひには 萌えにけるかも (巻10-1849)雪見れば いまだ冬なり しかすがに 春霞立ち 梅は散りつつ (巻10-1862)あしひきの 山かも高き 巻向(まきむく)の 崖(きし)の小松に み雪降り来る (巻10-2313)巻向の 檜原(ひばら)もいまだ 雲(くも)居(ゐ)ねば 小松が末(うれ)ゆ 沫雪流る (巻10-2314)あしひきの 山路も知らず 白橿(しらかし)の 枝もとををに 雪の降れれば (巻10-2315)奈良山の 峰なほ霧(き)らふ うべしこそ 籬(まがき)のもとの 雪は消(け)ずけれ (巻10-2316)こと降らば 袖さへ濡れて 通るべく 降りなむ雪の 空に消(け)につつ (巻10-2317)夜を寒み 朝戸を開き 出で見れば 庭もはだらに み雪降りたり (巻10-2318)夕されば 衣手寒し 高松の 山の木ごとに 雪そ降りたる (巻10-2319)我が袖に 降りつる雪も 流れ行きて 妹が手本(たもと)に い行き触れぬか (巻10-2320)沫雪は 今日はな降りそ 白たへの 袖まき乾(ほ)さむ 人もあらなくに (巻10-2321)はなはだも 降らぬ雪ゆゑ ここだくも 天つみ空は 曇らひにつつ (巻10-2322)わが背子を 今か今かと 出(い)で見れば 沫雪降れり 庭もほどろに (巻10-2323)あしひきの 山に白きは 我がやどに 昨日(きのふ)の夕(ゆふへ) 降りし雪かも (巻10-2324)雪寒み 咲きには咲かず 梅の花 よしこのころは かくてもあるがね (巻10-2329)八田(やた)の野の 浅茅色づく 愛発山(あらちやま) 峰の沫雪 寒く降るらし (巻10-2331)降る雪の 空に消(け)ぬべく 恋ふれども 逢ふよしなしに 月そ経にける (柿本人麻呂歌集巻10-2333)沫雪は 千重に降りしけ 恋ひしくの 日(け)長き我(あれ)は 見つつ偲はむ (柿本人麻呂歌集 巻10-2334)吉隠(よなばり)の 野木(のぎ)に降り覆ふ 白雪の いちしろくしも 恋ひむ我(あれ)かも (巻10-2339)一目(ひとめ)見し 人に恋ふらく 天霧(あまぎ)らし 降り来る雪の 消(け)ぬべく思ほゆ (巻10-2340)思ひ出づる 時はすべなみ 豊国(とよくに)の 木綿山(ゆふやま)雪の 消(け)ぬべく思ほゆ (巻10-2341)夢(いめ)のごと 君を相見て 天霧(あまぎ)らし 降り来る雪の 消(け)ぬべく思ほゆ (巻10-2342)我が背子が 言(こと)うるはしみ 出でて行かば 裳引(もび)き著(しる)けむ 雪な降りそね (巻10-2343)梅の花 それとも見えず 降る雪の いちしろけむな 間(ま)使(つか)ひ遣らば (巻10-2344)天霧らひ 降り来る雪の 消(け)なめども 君に逢はむと ながらへわたる (巻10-2345)うかねらふ 跡見山(とみやま)雪の いちしろく 恋ひば妹が名 人知らむかも (巻10-2346)海人小舟(あまをぶね) 泊瀬(はつせ)の山に 降る雪の 日(け)長く恋ひし 君が音(おと)そする (巻10-2347)和射美(わざみ)の 峰行き過ぎて 降る雪の 厭ひもなしと 申せその兒に (巻10-2348) 以上73首(第10巻まで) 第11巻~20巻は、ページを改め「雪の万葉歌(下巻)」として記事アップすることとします。(雪の浅間山)
2020.02.18
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友人から電話があって、話をしている中で、このところブログの更新が無いが、どうしたのかという話になった。 別に、どうもしていない、ネタが無いだけと答えたが、ネタが無いからと何日も更新しないでいると、「何かあったのか」というご心配をお掛けするというか、不審を招くようであります(笑)。 さりとて、ネタが無ければ記事の更新も出来ない相談、ということで、無理矢理に記事を書いてみることに。 年賀状に万葉集などから新年に相応しいと思われる歌を記すというのが、ここ何年かのわが年賀状のお決まりのパターンである。 で、過去の年賀状に取り上げた歌を羅列してみようと思い立ったものの、気が付けば、もう分からぬこととなっている年度も多くあることに気が付きました。 わかる範囲で書き留めれば以下の通りである。1994年新(あらた)しき 年の始の 初春の 今日ふる雪の いや重(し)け吉事(よごと (大伴家持 万葉集巻20-4516)(因幡国庁跡の4516番歌碑)※鳥取銀輪散歩・因幡万葉の里へ(2011.10.28.)からの再掲。 この歌の歌碑の写真は、次の記事にも掲載されています。 氷見銀輪散歩(1)・家持歌碑めぐり(2012.11.7.)1995年新(あらた)しき 年のはじめに 豊の年 しるすとならし 雪の降れるは (葛井諸会 万葉集巻17-3925)1996年あたらしき 年の始に かくしつつ 千年(ちとせ)をかねて たのしきを積め (古今和歌集巻20-1069)1997年不明1998年新(あら)たしき 年の初めは 弥(いや)年に 雪踏み平(なら)し 常にかくにもが (大伴家持 万葉集巻19-4229)1999年不明2000年不明2001年霞立つ 春のはじめを 今日のごと 見むと思へば 楽しとぞ思(も)ふ (大伴池主 万葉集巻20-4300)2002年山の際(ま)に 雪は降りつつ しかすがに この河楊(かはやぎ)は 萌えにけるかも (万葉集巻10-1848)2003年時は今 春になりぬと み雪ふる 遠山のべに 霞たなびく (中臣武良自 万葉集巻8-1439)2004年睦月立つ 春の始めに かくしつつ あひし笑みてば ときじけめやも (大伴家持 万葉集巻18-4137)2005年うちなびき 春来たるらし 山のまの 遠き木末(こぬれ)の 咲き行く見れば (尾張連 万葉集巻8-1422)2006年父の喪中2007年不明2008年不明2009年風まじり 雪は降りつつ しかすがに 霞たなびき 春さりにけり (万葉集巻10-1836)2010年不明※下記の歌かもしれない。昨日(きそ)こそは 年は極(は)てしか 春霞 春日(かすが)の山に はや立ちにけり (万葉集巻10-1843)2011年不明※下記の歌かもしれない。浅緑 染(し)めかけたりと 見るまでに 春の楊(やなぎ)は もえにけるかも (万葉集巻10-1847)2012年不明※下記の歌かもしれない。 山の際(ま)の 雪は消(け)ざるを みなぎらふ 川の楊(やなぎ)は もえにけるかも (万葉集 巻10-1849)2013年あしひきの 山の木末(こぬれ)の 寄生(ほよ)とりて 插頭(かざ)しつらくは 千歳寿(ほ)ぐとぞ (大伴家持 万葉集巻18-4136)2014年不明2015年不明※下記の歌かも知れない。たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞ思ふ (大伴家持 万葉集巻6-1043)2016年不明 ※下記の歌かもしれない。門ごとに 立つる小松に かざられて 宿てふ宿に 春は来にけり (西行 山家集上春5)2017年母の喪中2018年ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし 天の香具山 かすみたなびく (後鳥羽院 新古今和歌集巻1-2)2019年袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ (紀貫之 古今和歌集巻1-2)2020年いつしかと 春来にけりと 津の国の 難波(なには)の浦を 霞こめたり (西行 山家集8) 次の歌も過去に使用した記憶があるが、何年のことかは定かではない。 上の不明とある年度のどれかに該当するのだろうと思う。初春の 初子(はつね)の今日(けふ)の 玉箒(たまばはき) 手に執るからに ゆらく玉の緒 (大伴家持 万葉集巻20-4493)<追記> 年賀状と言えば、ブロ友となった後に、ご縁があって、年賀状を交換することになったお方が何人か居られます。そんな中のお一人で、2012年5月7日の記事を最後にブログの記事更新をお休みされている木の花桜さんから年賀状を頂戴しました。賀状によると、別の分野でお元気にご活動されているようで、何よりと嬉しいことでありました。
2020.01.19
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例年通り、ヤカモチの正月は寝正月でありました。 二日に、家族と枚岡神社、石切神社、瓢箪山稲荷神社と地元の三社を散歩がてらに歩いて回ったのを別にすれば、概ね「寝正月」という次第。(枚岡公園から大阪平野を望む)(同上) 若草読書会の新年会が来月・2月3日(日)にある。新年会は、いつの頃よりか、ヤカモチが万葉関連の話をすることになっている。 いつもは、早めにテーマを決めて、歌に関連した土地を訪ねて「取材」まがいのこともするのであるが、今回はなかなかテーマが思いつかず、年末ぎりぎりになって「万葉集から聞こえて来る音100選」と決めました。万葉集から「音」を感じる歌を100首選び出して資料を作成し、当日は、その中から適当に任意の歌何首かを鑑賞しようという趣向。 このテーマだと「現地取材」も必要なかろうという次第(笑)。 そんなこともあって、家でゴロゴロしつつ、万葉集から100首を選び終えましたが、その中にこんな1首もありました。隠(こも)りのみ居ればいぶせみ慰むと出で立ち聞けば来鳴くひぐらし (大伴家持 巻8-1479)(屋内に引きこもってばかりいると鬱陶しいので、気を晴らそうと外に出て立って聞いていると、来て鳴くヒグラシの声よ。) この歌に追和して歌を作れば、こうなるか。こもりのみ居ればブログのネタもなし銀輪駆けて出で立つべしや(蜆家持)こもりのみ居ればいぶせみ出で立ちて呼子鳥鳴く声をし聞かむ(鳥家持) ネタが無いのもネタのうち、ということで、呼子鳥に「かこつけて」記事をし書かむ、という次第。 万葉集に登場する呼子鳥の歌と言えば、この歌が先ず思い起こされる。大和には鳴きてか来(く)らむ呼子鳥(よぶこどり)象(きさ)の中山呼びぞ越ゆなる (高市黒人 万葉集巻1-70)(大和で鳴いてから来たのだろうか。呼子鳥が象の中山を鳴きながら飛び越えて行くのが聞こえる。) 呼子鳥については一般的にはカッコウのことと解されているが、ツツドリ説、ホトトギス説、ウグイス説などもあって未詳の鳥である。 万葉の頃は、ホトトギスとカッコウの区別はなかったという説もあるから、余り真剣に議論しても始まらない気もする。まあ、今でもヤカモチなんぞはツツドリとカッコウの区別などはできないのであるから、人を呼ぶように鳴く鳥は全て呼子鳥でいいという立場であります(笑)。 カッコウという鳥の名は「カクコフ(かく恋ふ)」と鳴く、その鳴き声に因んでの名らしい。 ワンワンとかニャーとかチュンチュンとか動物の鳴き声の擬声語、サヤサヤとかザーザーとか風や雨など物の音の擬音語、ペコリ(頭を下げる)、ポッカリ(月が出る)、(肌が)スベスベなど物事の様子・状態を表す擬態語などを総称してオノマトペと言うが、カッコウはそのオノマトペであるという次第。牛をモー、犬をワンワン、猫をニャンニャンと言ったら、幼児ならいざ知らず、いい大人なら馬鹿にされるのであるが、カッコウについてはそういう心配はない。ミンミン蝉、ツクツクボウシなども同じである。 これらオノマトペに意味を与えるのが「聞きなし」である。 ホトトギスは「テッペンカケタカ」と鳴く、ウグイスは「法華経」と鳴くなどがそれであるが、カッコウの「かく恋ふ」はロマンチックでいい。 万葉歌での「聞きなし」では烏のそれもある。烏とふ大をそ鳥の真実(まさで)にも来まさぬ君をころくとそ鳴く (万葉集巻14-3521)(烏という大馬鹿鳥が本当にはお出でにならない貴方であるのに「来る」と鳴く。) 「ころく」は「児ろ来」、「自(ころ)来」または「此ろ来」である。 古代の人は、鳥は自由に山を越えて飛んで行くことから、遠い空間を自由に行き来する存在ということで、恋しい妻や夫に思いを伝えてくれると考えていたようであり、また空間のみでなく時間をも飛び越え、過去や常世(死者の世界)へも自由に行き来するとも考えていたようです。ゾロアスター教などの鳥葬もそのような考え方があってのものであり、神武天皇を熊野から大和へと道案内したのも八咫烏という鳥でなければならなかったのでありました。古(いにしへ)に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし我(あ)が思(も)へるごと (額田王 万葉集巻2-112)(昔のことを恋い慕っているであろう鳥はホトトギス。その鳥が鳴いたのでしょう、私が昔を恋いしく思っているように。) ホトトギスは原文では霍公鳥と書かれている。音読みすればカッコウドリである。万葉人はホトトギスもカッコウも区別しなかったという説に従えば、ここでのホトトギスは「かく恋ふ」(このように恋しく思っている)と鳴くカッコウのことであろう。テッペンカケタカ(てっぺん駆けたか)と鳴いたのでは、下記のように銀輪家持風になってしまって、締まらないことになる(笑)。銀輪に恋ふらむ鳥はホトトギス けだしや鳴きし銀輪駆けたか (銀輪家持) そろそろ銀輪始動と参りますかな。(注)ホトトギスは、杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、子規、田鵑などとも表記す る。 ホトトギスの異称のうち「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の故事や伝説に もとづく。長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこ に杜宇とという男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼 ばれた。 後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中 に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始め る季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くよ うになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った 杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、 などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようにな った。(Wikipediaより)<追記>ホトトギスの「聞きなし」の例(下線部分)(近藤信義「万葉からの視線ー桓武天皇歌のホトトギスー」より、但し現代語訳はヤカモチによる。)ほととぎす来(き)鳴(な)き響(とよ)もす卯の花のともにや来(こ)しと問はましものを(巻8-1472)(ホトトギスが来て鳴き声を響かせている。「ウノハナノトモニヤコシ(卯の花と一緒に来たのか)」と尋ねたいものだ。) 暇(いとま)なみ来(こ)ざりし君にほととぎすわれかく恋(こ)ふと行きて告げこそ(巻8-1498)(暇がないからとお出でにならない君に、ホトトギスさん、「ワレカクコフ(私はこんなに恋しく思っています)」と行って知らせておくれ。) 木(こ)の晩(くれ)の夕闇なるにほととぎす何処(いづく)を家と鳴き渡るらむ(巻10-1948)(木の下陰の夕闇なのに、ホトトギスは「イヅクヲイヘ(何処が<自分の>家か)」と鳴き続けている。) わが衣(ころも)君に着せよとほととぎすわれをうながす袖に来(き)居(ゐ)つつ(巻10-1961)(「ワガコロモキセヨ(私の衣を君に着せよ)」とホトトギスが私を催促して鳴きます。来て袖にとまりながら。) 春さればすがるなす野のほととぎすほとほと妹に逢はず来にけり(巻10-1979)(春が来るとすがる蜂がブンブン翅音を立てる野のホトトギス、「ホトホト(ほとんど)」彼女に逢わずに帰って来るところだった。) 信濃なる須賀の荒野にほととぎす鳴く声聞けば時すぎにけり(巻14-3352)(信濃の須賀の荒野でホトトギスの鳴く声を聞くと、それは「トキスギニケリ(時が過ぎたなあ)」だった。) 橘は常(とこ)花(はな)にもがほととぎす住むと来(き)鳴かば聞かぬ日なけむ(巻17-3909)(橘がいつも咲いている花であればなあ。そうなら、ホトトギスが「スム(<此処に>住む)」と来て鳴くだろうから、毎日その声を聞かないという日はないのに。)
2019.01.05
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花園中央公園に荻の群落がありました。 ネットフェンスで囲まれた区域で立ち入ることはできないのだが、ネットフェンスの隙間から、これを覗き見ることができるし、フェンス近くに生えているものにはその穂に触れたりもできる。 このネットフェンスには以前は葛(クズ)が繁茂してその内側が全く見えない状態であったのだが、最近になって、この葛が全て除去されて囲いの内側が見えるようになった結果、内側に群生している荻が見えるようになったという次第。 銀白色の豊かな穂が風に靡く姿が美しい。(荻)(同上) ススキが群生していると思っていたが、よく見ると荻であった。 オギとススキの違いは、茎を1本ずつ立てて、ススキのように株立ちはしない、花穂がススキよりも大きい、などであるが、ノギ(芒)がススキの穂にはあるが、オギにはこれがないということが区別する上で一番手っ取り早い方法である。(注)ノギとは「イネ科の植物の小穂を構成する鱗片(頴)の先端にある棘状の突起のこと。」(Wikipediaより)<参考>ススキとオギの見分け方(同上 穂にはノギが見られない。) 爪と瓜の漢字を混同しないために「爪にツメなし。」と言ったりするが、ススキとオギの区別についても「オギにノギなし。」と言うようです。(同上) 荻は万葉集に登場する万葉植物でもあります。神風(かむかぜ)の 伊勢の浜荻(はまをぎ) 折り伏せて旅宿(たびね)やすらむ 荒き浜辺に (碁檀越(ごのだんをち)の妻 万葉集巻4-500)(畏き風の吹く伊勢の浜の荻を寝床代わりに折り敷いて、旅の宿りとしようか。荒々しい浜辺で。) 南北朝時代の連歌集に「草の名も所によりて変はるなり難波の葦は伊勢の浜荻」(菟玖波集)というのがあり、伊勢の浜荻とは難波で言う葦のことだと言っている。 葦と荻とは名前を異にする同じ草だと言う訳である。 万葉でも、次の東歌では同じ草だと見ていたことが覗える。妹なろが 使ふ川津の ささら荻あしと人言(ひとごと) 語りよらしも (東歌 万葉集巻14-3446)(あの子が使う船着き場の小さな荻葦のことを、悪いと人々は語り合っているらしいよ。) 一方で、「葦辺の荻」と「葦」と「荻」とを別の植物と認識している歌も存在するから、やはり荻は「荻」であって、「葦」の別名という訳ではないのである。葦辺なる 荻の葉さやぎ 秋風の吹き来るなへに 雁鳴き渡る (万葉集巻10-2134)(葦辺の荻の葉が音をたて、秋風が吹いて来るのにつれて、雁が鳴き渡って行くことよ。)(同上)(同上) 姿形はススキに似て、生息場所は葦のそれと似ている。 で、ススキと間違えられたり、葦とごっちゃにされたり、と些か影の薄い植物である。 もう一つ、漢字の「荻」というのも「萩」に似ていて、一瞬「萩」と読み違えたりもする。訓も「オギ」と「ハギ」は似ている。名前からして紛らわしいのもこの植物にとっての不運であったかも知れない(笑)。 銀白色の美しい穂を靡かせても「ススキ」と見てしまわれ、「荻だ!」と主張したら「ナニ、萩?」と見間違えられる、という次第。 我々は生まれた瞬間の第一声が「オギャー」、つまり「オギや」と叫んでいるのに、その後、オギのことは忘れてしまうのである。 まあ、そんなことには少しも気にとめず、今日もあの銀白色の美しい穂を秋風に靡かせて、オギは我々の目を楽しませてくれるのであります。(同上)萩尾花 それこそ秋と 人は言へ 荻の花穂を 秋とや言はむ (荻家持)<参考>万葉関連の過去記事はコチラ。
2018.11.03
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(承前) 一昨日(9日)の堺市少林寺銀輪散歩の続きです。 少林寺を後にし、付近を銀輪散歩。与謝野晶子が最初に恋をした男性、河野鉄南が住職をしていた寺、その鉄南の紹介で彼女が与謝野鉄幹と出会った寺でもある、その寺はこの付近にあるのではないか、と思い付いての散策でしたが、その寺の名が思い出せないので、探しようもない(笑)。 大安寺や南宗寺などを覗いて写真も撮りましたが、今日の記事では取り上げないこととします。帰宅して、寺の名前を調べたら、覚応寺でありました。後日、機会があれば訪ねることとし、その折には南宗寺の写真なども使いましょうかね。覚応寺は南宗寺から北へ2kmほど行った処にある寺にて、全く見当はずれの地域でそれを探していたことになる(笑)。尤も、名前も思い出せないのであるから、それほど真剣に探していたというのでは勿論ない。 既に、時刻は正午を過ぎていたので、昼食をとるべしで、堺東駅前方向へと走る。これは、帰途方向でもあり、もう一つの目的地、方違神社のある方向でもある。 南海堺東駅の北側、県道12号の高架下を潜った先にあるレストランが目に入ったので、そこで昼食とする。店の建物は道路から少し奥まった場所にあり、前が広い駐車場になっていて、駐輪にも都合のいい立地。ヤカモチが昼食場所に選ぶ店の決め手は食べ物がどうと言う前に、適切な駐輪場所があるかどうかにかかっているのである。 店の名はと見ると「floresta キッチンコドモ」とある。 「コドモ?」、子ども向けの店?と思ったが、駐輪して、ロックして、店に入ろうとして「コドモ」に気付いたのであってみれば、子ども向けでも何でもいい、という次第で、店の中に。普通のレストランでした。気のせいか子ども連れの客が多いようにも感じたが。 ブロ友のひろみの郎女さんなら、ここで食レポとなるのだろうが、ヤカモチ・ブログでは、この部分はカットとなるのがお決まりなのであります。 昼食後、少し後戻りして、南海電車の線路を越えて反対側にある方違神社へ行こうとするが、踏切ではなく地下通路となっていて、階段である。階段を下りようとすると、下からご老人が自転車を押しながら上って来られる。 見ると階段の中ほどで悪戦苦闘、手が震えて何やら足許も覚束ない感じ。MTBを上に停めて、手助けに入る。「手伝いましょう。」ご老人に代って彼の自転車を上まで運ぶ。「助かりました。」とご老人は人の好さそうな笑顔。情けは人のためならず、というのは「他人に情けをかけると、回り回って自分にもいいことが巡って来る」というような意味のようだが、相手の笑顔によって既にこちらが幸せを貰っているのだから、回り回ってを待つまでもないのである。 この地下通路、線路に直角ではなく斜めに通じている。線路を渡る側は「直角に渡るもの」という潜在意識が働くので、反対側の地表に出た時は、一瞬、方向感覚が狂うのである。方違神社への道としては、これほど適切な道もあるまい、と言うものである(笑)。(方違神社)(同上・説明碑) 上の説明にある通り、この付近は摂津、河内、和泉の三国の境に位置し、それが三国丘や堺の名前に繋がっているという訳である。 この神社を訪ねる気になったのは、今年7月14日に阪大OB・OG九条の会に参加した折に、同期の永〇君と席が隣り合わせとなり、雑談する中で、三国山の万葉歌の話になり、三国丘のことを詠った歌だと彼が言ったからである。小生は、この歌は福井県の三国の山だと思っていた。三国山は所在不詳としながら、福井の三国港東北の山か、とする注釈や解説しか目にしていなかったからだ。<参考>三人会と九条の会 2018.7.15. 三国山というのは北海道から九州まで全国に18あるという。ここ三国丘はこれに含まれていないから、このようなのも含めればもっと多いのだろう。 三つの国が接する地点を言う普通名詞であるならば、固有名詞とは無関係に候補地はもっと多くあって何の不思議もなく、この歌が誰によって、何処で詠まれたものなのか、その詠まれた背景や事情が如何なるものなのか、が不明であるのだから、北海道などは除くとしても、全国、何処の三国山であってもいいことになるというものである。「ここでは福井県の三国の山か」などと言っている注釈書も、その根拠は示されていない。 この神社には、その万葉歌碑もあるとのことだから、大阪・堺の三国丘説もあるのだろう。同期の永〇君は三国丘高校の出身。三国丘高校は、この神社の南側にある反正天皇陵の更に南側にある。彼にしてみれば、母校の名前でもある三国丘こそが万葉の三国山という大阪・堺説は譲れないということであるのかもしれない。(同上・手水舎) 手水舎にある井戸の枠石にも大きく「三国山」と刻まれている。 歌碑は何処に、と探したが見当たらない。 探索と撮影を諦めて、帰宅して調べると、歌は、冒頭の写真に写っている社名標石に刻まれていることが判明した。 自転車・MTBを駐輪させている側の面に刻まれているので、生憎と歌碑文言の面は写真には写っていないという次第。三国山 木末(こぬれ)に住まふ むささびの 鳥待つごとく 我待ち痩せむ (万葉集巻7-1367)(三国山の梢に住んでいるムササビが鳥を待つように私はあなたを待ち焦がれて痩せることでしょう。)(同上・拝殿) 神功皇后御馬繋之松というのもありました。(神功皇后御馬繋之松) 神功皇后に因む伝承遺蹟は北九州から瀬戸内にかけて色んなものがあるようですが、これもその一つでしょうか。 方違神社の境内から南隣の反正天皇陵を撮影。レンズに微小の埃が付着していたか、中央に何やら亡霊が現れてしまいました。皆さんのPCまたはスマホの画面が汚れている訳ではありませんのでご安心下さい。(反正天皇陵) 反正天皇は、父・仁徳天皇と母・磐之媛皇后との間の子。 同母兄の履中天皇亡き後即位した第18代天皇である。 神社の境内の柵越しにご挨拶、立ち寄らずに帰ることとする。 帰途は、再びあべの筋に出て、北上。長居公園通りで右折しこれを東に。長居公園に立ち寄って、ぐるり一周。(長居公園) あびこ筋に戻り、今度はあびこ筋を北上。勝山通りに出た処で右折、これを東に。後は適当にジグザグしながら中央環状道路に。 時刻が未だ早かったので中央大通りまで出て、馴染みの喫茶店・ペリカンの家に立ち寄り、珈琲休憩。暫しブロ友でもある店主のももの郎女さんと雑談してから帰宅でありました。(完)
2018.10.11
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今日は、堺市まで銀輪散歩して参りましたが、その記事は追々に書くとして、大和川を渡る際に、河原に居た鵜を撮影しましたので、取り敢えず、これを記事にします。 天王寺駅経由あべの筋を南下、というコースで堺市へと走りました。遠里小野橋で大和川を渡ることとなる。(遠里小野橋北詰) 橋を渡ると大阪市から堺市となる。おりおの駅行きの路線バスと抜きつ、抜かれつしながらの並走。(信号待ちは平等であるが、バスはバス停での停車というハンディがある分、不利となるので)途中からはこれを振り切ってのMTBの独走となりました。まあ、バスはどこかで脇道へと進んだのかも知れませんので、「レース」に勝ったとは言えない可能性もあります。 それはさて置き、遠里小野橋を渡りながら、河原を覗き見ると、黒い鳥が目に入りました。鵜である。橋の欄干にカメラを置いてズーム撮影。(鵜)(同上) 鵜は万葉集にも登場する。 鵜そのものを詠っていると言うより、鵜飼のことを詠っている歌ではある。万葉の頃から鵜飼という漁法があったことが、この歌から知れるのである。婦負川(めひがは)の 早き瀬ごとに かがりさし 八十伴の男は 鵜川立ちけり (大伴家持 万葉集巻17-4023)年のはに 鮎し走らば 辟田川(さきたがは) 鵜八頭(やつ)潜(かづ)けて 川瀬たづねむ (大伴家持 同巻19-4158) 万葉集に詠まれた鳥は、他にどんな鳥がいるかと言えば、ウグイス、オシドリ、カラス、カモ、カモメ、カイツブリ、カッコウ、カリ(ガン)、キジ、サギ、タカ、ツバメ、ツル、チドリ、ニワトリ、ヒバリ、ホトトギス、モズ、ワシなど。その他では、水鳥、白鳥(ハクチョウ、シラサギ、ツルなど)、都鳥(ユリカモメ)、呼子鳥(カッコウの他にヒヨドリ説もある。)、鵺鳥(トラツグミ)、あぢ(トモエガモ)なども。<参考>鳥関連の過去記事はコチラ 万葉関連の過去記事はコチラ カワウとウミウの見分け方
2018.10.09
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既に開花宣言の出された地域もあるようですが、わが大阪でも、桜(ソメイヨシノ)の開花する日が近づいているようです。 早咲きの桜はもう見頃になっているが、ソメイヨシノが咲き匂ってこそのお花見である。今年はどうやら3月中に満開になってしまいそうな感じである。 ということで、今日は、桜の万葉歌を拾い出してみました。 長歌は引用が大変なので、割愛し、短歌のみ対象としました。 単に「花」とあるものも「桜の花」だろうと思われるものは拾い出すこととしました。ただ「桜田に鶴鳴き渡る~」など地名を指すものは除外。「山桜の板戸」はどうするか迷いましたが、桜の木の加工品も桜には違いないので、これは採用としました。桜餅などは幸い万葉時代にはなかったので歌には登場せずで、取捨で悩まなくてもいいこととなり、助かりました(笑)。(ヒガンザクラ) 桜の万葉歌全40首ご紹介申し上げます。 お気に入りの歌がありましたら、お花見にお連れ下さい。あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり (小野老 巻3-328)(<あをによし>奈良の都は咲く花がかがやくように、今盛りである。)あしひきの山さへ光り咲く花の散り行くごときわが大君かも (大伴家持 巻3-477)(<あしひきの>山までも照り映えて咲く花が散り行くようにはかなく散って行ってしまわれた我が皇子さまよ。)梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや (張氏福子 巻5-829)(梅の花が咲いて散ったら、桜の花が続いて咲くようになっているではないか。)足代(あて)過ぎて糸(いと)鹿(が)の山の桜花散らずもあらなむ帰り来るまで (巻7-1212)(足代を過ぎてさしかかった糸鹿の山の桜花よ、散らずにあってくれ。帰って来るまで。)(注)足代=和歌山県有田市周辺の地。 糸鹿の山=有田市糸我町の雲雀山。うちなびく春来たるらし山のまの遠き木末(こぬれ)の咲き行く見れば (尾張連 巻8-1422)(<うちなびく>春が来たらしい。山の間の遠くの梢に<桜の>花が咲いて行くのを見ると。)あしひきの山桜花日(け)並(なら)べてかく咲きたらばはだ恋ひめやも (山部赤人 巻8-1425)(<あしひきの>山の桜が何日もこのように咲くのであったなら、こんなにひどく心惹かれることはないだろう。)去年(こぞ)の春逢へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも (若宮年魚麻呂 巻8-1430)(去年の春にお逢いしたあなたに恋い惹かれている桜の花が、迎えに来たのですね。)春雨のしくしく降るに高円の山の桜はいかにかあるらむ (河辺東人 巻8-1440)(春雨がしとしと降り続いているが、高円山の桜はどんな様子だろう。)この花の一枝(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)の言(こと)そ隠(こも)れるおほろかにすな (藤原広嗣 巻8-1456)(この花の一枝の中には数え切れぬほどの言葉がこもっているのだ。おろそかにはするな。)この花の一枝(ひとよ)のうちは百種(ももくさ)の言(こと)持ちかねて折(を)らえけらずや (娘子 巻8-1457)(この花の一枝の中に沢山の言葉を持ち切れなくて、折れたのではありませんか。)(同上)屋戸(やど)にある桜の花は今もかも松風疾(はや)み地(つち)に散るらむ (厚見王 巻8-1458)(家に咲く桜の花は、今頃は松の風がはげしくて地に散っているだろうかなあ。)世の中も常にしあらねばやどにある桜の花の散れるころかも (久米女郎 巻8-1459)(世の中も常ではないので、家にある桜の花が散っているこの頃です。)妹が手を取りて引き攀(よ)ぢふさ手折(たを)り我がかざすべく花咲けるかも (巻9-1683)(<妹が手を>取って引き寄せて束にするほどにも枝を折って私の插頭にすることができる花が咲きました。)(注)妹が手を=「取り」に掛かる枕詞。春山は散り過ぎぬとも三輪山はいまだ含めり君待ちかてに (巻8-1684)(春山の桜は散り果ててしまっても、三輪山はまだ蕾みの状態です。あなたのお越しを待ちかねて。)わが行きは七日(なぬか)は過ぎじ龍田彦(たつたひこ)ゆめこの花を風にな散らし (高橋虫麻呂 巻9-1748)(我々の旅は七日以上にはなるまい。だから龍田彦よ、けっしてこの花を風に散らすな。)暇(いとま)あらばなづさひ渡り向(むか)つ峰(を)の桜の花も折らましものを (高橋虫麻呂 巻9-1750)(時間に余裕があるなら、何とかして対岸に渡り、向かいの峰の桜を手折りたいものだ。)い行(ゆ)き逢(あ)ひの坂のふもとに咲きををる桜の花を見せむ児もがも (高橋虫麻呂 巻9-1752)(行合坂の麓にたわわに咲いている桜の花を見せてやるおとめが欲しいものだ。)(注)行合坂=国境の坂絶等寸(たゆらき)の山の峯(を)の上(へ)の桜花咲かむ春べは君を偲(しの)はむ (播磨娘子 巻9-1776)(絶等寸山の嶺の上の桜花が咲く春には、あなたのことをお偲びしましょう。)(注)絶等寸山=播磨の山であるが所在不詳。 姫路市の手柄山説、姫路城のある姫山説などがある。うぐひすの木伝(こづた)ふ梅のうつろへば桜の花の時かたむけぬ (巻10-1854)(鶯が枝を伝って鳴く梅は散ってしまったので、桜の花の咲く時が近づいた。)桜花時は過ぎねど見る人の恋の盛りと今し散るらむ (巻10-1855)(桜の花の盛りは未だ過ぎていないが、見る人の恋の盛りの今こそと散っているのだろう。)あしひきの山のま照らす桜花この春雨に散り行かむかも (巻10-1864)(<あしひきの>山あいを照らして咲く桜の花はこの春雨に散って行くのであろうか。)うちなびく春さり来(く)らし山のまの遠き木末(こぬれ)の咲き行く見れば (巻10-1865)(<うちなびく>春がやって来たようだ。山と山の間の遠い梢に花咲いて行くのを見ると。)雉(きぎし)鳴く高円(たかまど)の辺(へ)に桜花散りて流(なが)らふ見む人もがも (巻10-1866)(雉の鳴き声が響く高円山のほとりに、桜が散り流れ続ける。見ようとする人がいたらいいのに。)阿保山(あほやま)の桜の花は今日(けふ)もかも散り紛(まが)ふらむ見る人なしに (巻10-1867)(阿保山の桜の花は今日もまた散りしきっているのだろうな、見る人も無いのに。)(注)阿保山は所在不詳。春雨に争ひかねてわが屋戸(やど)の桜の花は咲き始(そ)めにけり (巻10-1869)(春雨に抗いかねてわが家の桜の花は咲き始めたことだ。)春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも (巻10-1870)(春雨はひどくは降るな。桜の花は未だ見ていないのに散るようなことがあっては惜しい。)見渡せば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも (巻10-1872)(見渡すと春日野の辺りに霞が立ち込め、色美しく咲いているのは桜の花だなあ。)春日なる三笠の山に月も出でぬかも 佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく (巻10-1887)(春日の三笠山に月も出てほしい。佐紀山に咲いている桜の花が<夜でも>見えるように。)あしひきの山桜戸(やまざくらと)を開(あ)け置きて我(あ)が待つ君を誰(たれ)か留(とど)むる (巻11-2617)(<あしひきの>山桜の板戸を開けたままにして私が待っているあなたを、誰が引き留めているのでしょう。)桜花咲きかも散ると見るまでに誰かもここに見えて散り行く (柿本人麻呂歌集 巻12-3129)(桜の花が咲いては散るかと見るほどに、誰だろうか、此処に見えて散って行くのは。)春さらば插頭(かざし)にせむと我(あ)が思(も)ひし桜の花は散り行けるかも (壮士 巻16-3786)(春になったら插頭にしようと思っていた桜の花は、散って行くのだなあ。)妹が名にかけたる桜花咲かば常にや恋ひむいや年のはに (壮士 巻16-3787)(妹の名にゆかりの桜の花が咲いたらそのたびに毎年恋しく思うのだろうか。)山峡(やまかひ)に咲ける桜をただ一目(ひとめ)君に見せてば何をか思はむ (大伴池主 巻17-3967)(山間に咲いている桜の花を一目だけでもお見せしたら、それ以上何を思いましょうか。)あしひきの山桜花一目だに君とし見てば我(あれ)恋ひめやも (大伴家持 巻17-3970)(<あしひきの>山の桜花を一目だけでもあなたと見ることができたら、こんなに恋しく思うでしょうか。)桜花今そ盛りと人は云へどわれはさぶしも君としあらねば (大伴池主 巻18-4074)(桜の花は今が盛りだと人は云いますが私は寂しい。あなたと一緒ではないので。)わが背子が古き垣内(かきつ)の桜花いまだ含(ふふ)めり一目(ひとめ)見に来(こ)ね (大伴家持 巻18-4077)(あなたの旧屋敷の庭の桜の花は未だ蕾のままです。一目見にいらっしゃいな。)今日(けふ)のためと思ひて標(し)めしあしひきの峰(を)の上(へ)の桜かく咲きにけり (大伴家持 巻19-4151)(今日の日のためにと標をした<あしひきの>峰の上の桜はこんなにも咲いたことだ。)桜花今さかりなり難波(なには)の海おしてる宮に聞こしめすなへ (大伴家持 巻20-4361)(桜の花は今が盛りだ。<天皇は>難波の海の照り輝く宮でお治めになるので。)竜田山見つつ越え来(こ)し桜花散りか過ぎなむ我(わ)が帰るとに (大伴家持 巻20-4395)(竜田山を越える時に見た桜の花は散ってしまうのだろうか、私が帰る頃には。)含(ふふ)めりし花の初めに来(こ)し我(われ)や散りなむ後(のち)に都へ行かむ (大伴家持 巻20-4435)(まだ蕾だった花の初めに来た私は、散ってしまった後で都に帰ろう。)
2018.03.17
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昨日の日記に銀輪散歩でこれまでに見掛けた鳥の写真のいくつかを掲載しましたが、その他にも、先日のケリ(鳧)を始め、雀や烏や鳩は言うに及ばず、青鷺、白鳥、オオヒシクイ、バン、鵜、カイツブリ、ヒヨドリ、セキレイ、カワセミ、ヨシキリ、トンビなども写真に撮って掲載したかと思うのだが、総じて鳥の写真は余り出来のよくないものが多い。そんな中で、先日雉を撮影することができたのは幸運でした。(雉) 雉は、万葉では「きじ」ではなく「きぎし」である。(同上) 万葉集には雉の歌は9首ある。(同上) うち4首が大伴家持の歌である。 家持の好きな鳥と言えばホトトギスが先ず思い浮かぶのであるが、どうやら雉もお気に入りの鳥であったようだ。 ということで、今日は雉の万葉歌をご紹介して置きます。 海神(わたつみ)は くすしきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊予に廻(もと)ほし 居待月(ゐまちづき) 明石の門(と)ゆは 夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干(か)れしむ 潮騒の 波を恐(かしこ)み 淡路島 磯隠(いそがく)り居て いつしかも この夜の明けむと さもらふに 眠(い)の寝(ね)かてねば 滝の上の 浅野の雉(きぎし) 明けぬとし 立ち騒くらし いざ子ども あへて漕ぎ出(で)む 庭も静けし (万葉集巻3-388)(海の神は神秘なものだ。淡路島を中に立て置いて、白波を四国の海岸にぐるりとめぐらし、<居待月>明石海峡からは、夕方になると潮を満たし、明け方になると潮を干させる。潮鳴りがする満潮の波が恐ろしいので、淡路島の磯に隠れて、いつになったらこの夜が明けるのかと、潮の様子をうかがい待機して、眠ることもできないでいると、早瀬のそばの浅野の雉は、もう夜が明けたと立ち騒いでいるようだ。さあ、船人たちよ思い切って漕ぎ出そう。海面も静かだ。)(注)居待月=十八日の月。満月に近く明るい月ということで、明石に掛かる枕詞。かけまくも あやに恐(かしこ)し 我が大君 皇子(みこ)の命(みこと) もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)を 召し集(つど)へ 率(あども)ひたまひ 朝狩に 鹿猪(しし)踏み起こし 夕狩に 鶉雉(とり)踏み立て 大御馬(おほみま)の 口(くち)抑(おさ)へとめ 御心(みこころ)を 見(め)し明(あき)らめし 活道山(いくぢやま) 木立の茂(しげ)に 咲く花も うつろひにけり 世間(よのなか)は かくのみならし 大夫(ますらを)の 心振り起こし 剣太刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き 梓弓 靫(ゆき)取り負ひて 天地(あめつち)と いや遠長(とほなが)に 万代(よろづよ)に かくしもがもと 頼めりし 皇子の御門(みかど)の 五月蠅(さばへ)なす 騒く舎人は 白栲(しろたへ)に 衣(ころも)取り着て 常なりし 笑(ゑ)まひ振舞(ふるま)ひ いや日異(ひけ)に 変(か)はらふ見れば 悲しきろかも (大伴家持 万葉集巻3-478)(心にかけて思うことも、まことに恐れ多いことである。我が大君、安積皇子さまが、あまたの臣下のますらおたちを、呼び集め、引き連れて、朝の狩に獣を踏み立て起こし、夕べの狩に鳥を踏み立て、飛び立たせ、ご愛馬の手綱を取り、眺めてはお心を晴らされた、活道の山の、木々の茂みに咲く花も散ってしまった。世の中はこのようにも無常のものであるようだ。ますらおの心を奮い起こし、剣大刀を腰に取り佩き、梓弓を手に、靫を背に負い、天地とともに永久に、万代までもこのようであったらなあ、と頼みにしていた皇子の宮殿の、<五月蝿なす>活気に満ちてお仕えしていた舎人たちは、真っ白に喪服を着て、いつもの笑顔も振舞いも、日ごとに変って行くのを見ると、悲しいことだ。)(注)安積皇子の急死を悼んで大伴家持が作った歌6首のうちの1首。春の野に あさる雉(きぎし)の 妻(つま)恋(ごひ)に おのがあたりを 人に知れつつ (大伴家持 万葉集巻8-1446)(春の野に餌をあさる雉が、妻を恋うて鳴き、自分の居場所を人に知らせている。)雉鳴く 高円(たかまと)の辺に 桜花 散りて流らふ 見む人もがも (万葉集巻10-1866)(雉の鳴く高円の辺りで、桜の花が散って流れるようだ。誰か一緒に見る人が居たらなあ。)あしひきの 片山雉(きぎし) 立ち行かむ 君に後れて うつしけめやも (万葉集巻12-3210)(<あしひきの>片山に住む雉のように、発って行くあなたに取り残されて、正気でいられましょうか。)(注)片山=片方が山の斜面になっている場所。崖地のこと。隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の国に さよばひに 我が来たれば たな曇り 雪は降り来(く) さ曇り 雨は降り来(く) 野つ鳥 雉(きぎし)は響(とよ)む 家(いへ)つ鳥 鶏(かけ)も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寝む この戸開(ひら)かせ (万葉集13‐3310)(<こもりくの>初瀬の国に妻問いに私がやって来ると、一面に曇って雪は降って来る。空が曇って雨は降って来る。<野つ鳥>雉は鳴き声を響かせ、<家つ鳥>鶏も鳴く。夜は明るくなり、この夜は明けてしまう。中に入って共寝をしよう。この戸をお開けなさい。)武蔵野(むざしの)の をぐきが雉(きぎし) 立ち別れ 去(い)にし夕(よひ)より 背ろに逢はなふよ (万葉集巻14‐3375)(武蔵野のくぼ地に住む雉のように、立ち別れになって、行ってしまわれたあの晩から、夫には逢えないでいることよ。)(注)をぐき=窪地の意か。 上二句は、「立ち別れ」を導くための序詞。杉の野に さ躍る雉(きぎし) いちしろく 音(ね)にしも鳴かむ 隠(こも)り妻かも (大伴家持 万葉集巻19‐4148)(杉の野で跳ねまわる雉がはっきりと声を立てて鳴くのだろう。隠り妻がいるのだろうか。)あしひきの 八つ峰(を)の雉(きぎし) 鳴き響(とよ)む 朝明(あさけ)の霞 見れば悲しも (大伴家持 万葉集巻19‐4149)(<あしひきの>峰々の雉の鳴き声が響き渡っている、朝方の霞は見ていると物悲しくなる。)
2018.03.05
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大伴家持は養老2年(718年)の生まれなので、今年が生誕1300年に当たる。尤も、養老元年(717年)生まれという説もあるが、当ブログは養老2年説であります。 718年の干支は戊午(つちのえうま)であるから、大伴家持さんはウマ年の生まれである。因みに、偐家持は戊子(つちのえね)の年の生まれ、つまりネズミ年の生まれである。今年は戊戌(つちのえいぬ)で、イヌ年ですから、両者共に十二支で言うところの、所謂「年男」ということにはならない。しかし、「干」の方は「戊」で今年と一致しているから、十干で言えば「年男」とも言える。特に大伴家持さんの方は、生誕1300年という節目の年であるから、こちらは「年男」と言うのが相応しいのではないか。 ということで、今年の若草読書会は「大伴家持の女性関係」というテーマで話をすることになっている。目下、その資料作りをして居りますが、下記の年表もその一つ。何かの参考になるかとブログ記事にアップして置くこととします。大伴家持関連年表718年(養老2)家持1歳 家持誕生。父・旅人54歳 藤原不比等、養老律令撰進719年(養老3)家持2歳 首皇子朝政に参画720年(養老4)家持3歳 日本書紀成る。 右大臣藤原不比等死去。724年(神亀元)家持7歳 首皇子即位(聖武天皇)726年または727年(神亀4)家持9歳または10歳 旅人、大宰府長官(大宰帥)拝命、赴任 (この時家持も同行したか。) この当時、山上憶良は筑前守であった。(筑紫歌壇)728年(神亀5)家持11歳 旅人の妻、大伴郎女死去。 夫(大伴宿奈麻呂)を亡くしていた坂上郎女は、 娘の坂上大嬢(7~9歳)を連れて大宰府に下向。729年(天平元)家持12歳 長屋王事件 10月7日旅人、藤原房前に手紙を添え、琴を贈る。 (巻5-810~2)730年(天平2)家持13歳 1月13日梅花の宴(巻5-815~846) 6月旅人重病 10月旅人、大納言に昇進、大宰帥の任を解かれ帰京。 家持も共に帰京。731年(天平3)家持14歳 7月25日旅人死去。732年(天平4)家持15歳 処女作の歌(巻8-1441)733年(天平5)家持16歳 家持、この頃から仕官したと見られる 初月の歌(巻6-994) 坂上大嬢との歌の贈答始まる。 笠女郎との恋愛 山上憶良死去。734年(天平6)家持17歳 坂上大嬢との仲は中断、その他の女性との歌の贈答始まる。737年(天平9)家持20歳 天然痘の大流行。藤原4兄弟相次ぎ死去。 橘諸兄、右大臣に就任。738年(天平10)家持21歳 内舎人任官(養老元年生誕説では737年とする。) 10月17日橘奈良麻呂の宴席で内舎人として歌を詠む(巻8-1591)。739年(天平11)家持22歳 蔭位により正六位下に初叙? 6月亡妾悲傷の歌(巻3-462、464~74) 坂上大嬢との歌の贈答再開(大伴家持と坂上大嬢の像)※この像は高岡市万葉歴史館にあるもの。 写真はブロ友のあすかのそらさんの ブログ記事に掲載の写真を転用させ ていただきました。740年(天平12)家持23歳 9月3日藤原広嗣の乱 10月23日広嗣捕縛。斬首(11月1日) 10月29日聖武天皇、東国行幸(彷徨の5年が始まる。) 家持も内舎人としてこれに従う。 11月伊勢国河口行宮(巻6-1029) 狭殘行宮(巻6-1032~3) 美濃国多藝行宮(巻6-1035) 不破行宮(巻6-1036) 12月15日恭仁京造営開始743年(天平15)家持26歳 7月26日聖武天皇紫香楽離宮に行幸。 家持は供奉せず、恭仁京にとどまっていた。 8月16日恭仁京讃歌(巻6-1037) 橘諸兄、左大臣に就任。 大仏造立の詔、墾田永代私有令発布。744年(天平16)家持27歳 1月11日家持、活道岡で市原王と宴(巻6-1043) 閏1月安積皇子急死。 家持、安積皇子の薨去を悼む歌を詠む(巻3-475~7、478~80)。 難波京が皇都と決まる。745年(天平17)家持28歳 平城京遷都。 1月7日家持、従五位下に叙される。746年(天平18)家持29歳 1月元正上皇の宴に参席、応詔歌を詠む(巻17-3926) 3月10日家持、宮内少輔に就任 6月21日家持、越中守に転任。 8月7日家持、越中での最初の宴席。(巻17-3943~55) 9月25日弟・書持死去。家持、挽歌を作る。(巻17-3957~9)747年(天平19)家持30歳 家持、病臥。(巻17-3962) 3月30日二上山之賦(巻17-3985~7) 4月24日布勢水海遊覧の賦(巻17-3991~2) 4月27日立山之賦(巻17-4000~2) 5月家持、税帳使として上京748年(天平20)家持31歳 1月29日「あゆの風」連作4首(巻17-4017~20) 2月出挙のため越中諸郡を巡行。(巻17-4021~9) 3月23日橘諸兄の使者・田辺福麻呂が来越、宴席(巻18-4032~55) 4月21日元正上皇崩御。749年(天平勝宝元)家持32歳 2月22日陸奥国より黄金貢上。 4月1日聖武天皇、東大寺に行幸、廬舎那仏に黄金出土の報告。 この折に、大伴・佐伯両氏を「内の兵」と称賛。 同族と共に家持も昇叙され、従五位上となる。 4月14日天平感宝に改元。 5月5日東大寺の占墾地使の僧・平栄らを迎えて宴席。(巻18-4085) 5月12日陸奥国出金詔書を賀く歌(巻18-4094~7) 5月15日尾張少咋を教え諭す歌(巻18-4106~9) 6月1日雨乞いの歌(巻18-4122~3) 6月4日降雨を賀く歌(巻18-4124) 7月2日安倍皇女天皇に即位(孝謙天皇)、天平勝宝に改元。 藤原仲麻呂、大納言に就任。紫微中台を創設。 家持、秋(7月)に大帳使として上京し、 初冬(10月)に坂上大嬢を伴って帰任。750年(天平勝宝2)家持33歳 1月2日ほよの歌(巻18-4136) 2月18日墾田検察の時の歌(巻18-4138) 3月1日から三日間で「越中秀吟12首」を詠む(巻19-4139~50) 3月9日憶良の歌に和する歌(巻19-4165) 3月27日大宰府の梅花宴に追和する歌(巻19-4174)751年(天平勝宝3)家持34歳 7月17日家持、少納言に任ぜらる。 8月5日京に旅立つ。旅中、諸兄を言祝ぐ歌を詠む(巻19-4256) 11月懐風藻成る。752年(天平勝宝4)家持35歳 4月9日東大寺大仏開眼会 11月8日聖武上皇、橘諸兄邸にて宴(巻9-4269~72)753年(天平勝宝5)家持36歳 2月23日・25日春愁絶唱3首(巻19-4290~2) 8月大伴池主、中臣清麻呂と高円山に遊ぶ(巻20-4297)754年(天平勝宝6)37歳 4月5日家持、兵部少輔転任。 11月1日山陰道巡察使就任。755年(天平勝宝7)家持38歳 2月家持、防人閲兵のため難波に赴く。 防人歌採集し、これに和する歌作る。 (巻20-4331~6、4360~2、4398~4401) 10~12月橘諸兄、上皇誹謗と謀反の意図ありと密告される。756年(天平勝宝8)家持39歳 2月諸兄辞職 3月家持、聖武上皇の堀江行幸に従駕。 5月2日聖武上皇崩御、遺詔により道祖王立太子。 6月大伴古慈斐出雲守解任 6月17日家持、一族を諭す歌を詠む(巻20-4465~7)757年(天平宝字元)家持40歳 1月6日橘諸兄死去。 4月大炊王立太子。 6月16日家持、兵部大輔に昇任。 6月23日家持、三形王宅での宴席で歌を詠む(巻20-4483) 7月4日橘奈良麻呂の変 12月18日家持、再び三形王宅の宴席で歌を詠む(巻20-4490)758年(天平宝字2)家持41歳 6月16日家持、因幡守に転任。 7月5日大原今城が家持のため自邸で餞の宴を開く。 家持、別れの歌を詠む(巻20-4515) 8月1日大炊王即位(淳仁天皇)759年(天平宝字3)家持42歳 1月1日家持、因幡国庁での新年の歌(巻20-4516)762年(天平宝字6)家持45歳 1月9日家持、信部(中務)大輔に転任。間もなく帰京。763年(天平宝字7)家持46歳 3月または4月藤原良継の乱。家持、乱に連座、現職解任。 京外追放となるが、 良継が自分一人でやったと言い張ったので、 間もなく放免となる。764年(天平宝字8)家持47歳 1月21日家持、薩摩守転任(左遷)。 9月11日藤原仲麻呂の乱 10月9日淳仁廃帝、称徳天皇重祚。道鏡を重用。765年(天平神護元)家持48歳 2月5日家持、薩摩守解任?その後2年間の消息不明。767年(神護景雲元)家持50歳 8月29日家持、大宰少弐就任。770年(宝亀元)家持53歳 6月16日家持、民部少輔転任。 8月4日称徳天皇崩御、道鏡失脚。 9月16日家持、左中辨兼中務大輔転任。 10月1日白壁王即位(光仁天皇) 家持、正五位下に叙位、749年以来21年振りの昇叙。771年(宝亀2)家持54歳 11月25日家持従四位下に叙位。二階級特進。772年(宝亀3)家持55歳 2月16日家持、左中辨兼式部員外大輔に転任。774年(宝亀5)家持57歳 3月5日家持、相模守に転任。 9月4日家持、左京大夫兼上総守に転任。775年(宝亀6)家持58歳 11月27日家持、衛門督(宮廷守護の要職)に転任。776年(宝亀7)家持59歳 3月6日家持、伊勢守に転任。777年(宝亀8)家持60歳 1月7日家持、従四位上に叙位。778年(宝亀9)家持61歳 1月16日家持、正四位下に叙位。780年(宝亀11)家持63歳 2月1日家持、参議昇任、議政官の一員となる。 2月9日家持、右大辨兼任781年(天応元)家持64歳 4月3日山部王即位(桓武天皇) 4月4日早良親王立太子。 4月14日家持、右京大夫兼春宮大夫に転任。 4月15日家持、正四位上に叙位。 5月7日家持、左大辨に転任(春宮大夫兼務のまま)。 8月8日家持、母の喪により解任されていた職に復任。 11月15日家持、従三位に叙位 12月23日光仁上皇崩御。 家持、山作司(山陵を造る官司)に任命さる。782年(延暦元)家持65歳 閏1月19日家持、氷上川継の謀反に連座して解任、京外追放。 5月17日家持、参議従三位兼春宮大夫に復任。 6月17日家持、春宮大夫兼陸奥按察使鎮守将軍に転任、 ほどなく多賀城に向かう。783年(延暦2)家持66歳 7月19日家持、陸奥駐在のまま中納言就任(春宮大夫兼任)。784年(延暦3)家持67歳 1月17日家持、持節征東将軍兼任 11月11日長岡京遷都785年(延暦4)家持68歳 8月28日家持、死去(785年10月5日)。 9月23日藤原種継暗殺される。 9月24日種継暗殺事件の首謀者として、家持の生前の官位剥奪。 9月28日早良皇太子、廃太子となり、淡路へと流される途中で死去。794年(延暦13) 10月22日平安京遷都800年(延暦19) 7月19日早良親王に崇道天皇号を追贈し、 井上内親王を皇后位に復位、 その墓を山稜とする。806年(延暦25) 3月17日桓武天皇崩御、 病床にて、 天皇が種継暗殺事件関係者を本位に復する詔を発し、 家持も従三位に復する。 以上の年表は、2009年に「大伴家持の生涯」というテーマでお話をした時に作成したものがPCのマイドキュメントに残されていたので、これを再編集すればよく、比較的簡単に行きました。 今回は、大伴家持さんの女性関係がテーマであるから、彼と歌をやり取りした女性をとり上げなくてはならない。万葉集から知ることのできるそれらの女性は、名前が判明する女性が10名(追記注参照)、妾とのみ記されている女性1名、その他「娘子(をとめ)」とか「童女(をとめ)」と記されている女性が数名あり、家持が彼女らに贈った歌や彼女らが家持に贈った歌を全て書き出すとなると結構面倒な作業である。(追記注:2018.1.11.)10名というのは間違いで、数えてみると、正妻の坂上大嬢を含めて12名でした。坂上大嬢、笠女郎、巫部麻蘇娘子、日置長枝娘子、山口女王、大神女郎、中臣女郎、河内百枝娘子、粟田女娘子、紀女郎、安倍女郎、平群女郎。 目下、その作業中であるが、気が向いた都度の作業にて、なかなかはかどらない。いつ完成するのやら(笑)。まあ、今月27日が読書会の日であるから、まだ十分な日数はある。
2018.01.06
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今日は、母の一周忌、父の十三回忌の法要でした。母が亡くなったのは昨年の12月3日、父が亡くなったのが12年前の2005年11月24日。ということで、母の一周忌と父の十三回忌を併せて、今日これを執り行うことといたしました。 母のカラオケ友達の嶋郎女さんもご参列下さいましたが、昨日わが家にお供えをお持ち下さった折にお持ち下さった封筒の中に、彼女が母の霊前にと詠んで下さった和歌が1首したためてありました。野や山に 匂ひかぐはし 四季の花 それ思ひ出の 花も匂へと (嶋郎女) 席を変えての食事会の場でのご挨拶の中で、この歌をご紹介させていただき、そのあと皆さんにもご唱和をお願いし、犬養節でこれを皆で詠って、母に捧げることとしました。昨夜のうちにPCでこれを打ち込み、出席者人数分を印刷に打ち出したものを用意して居りましたので、これはハプニングではなく、小生の予め考えたシナリオでありました。勿論、嶋郎女さんに事前のご了解を得てのことであったのは言うまでもありません(笑)。父母を しのぶこの朝 わが庭の 山橘は ひとつ実をつけ (偐家持) 法事の会場へと出かけるべしで、家を出る時、勝手口の前の庭の片隅の藪柑子が赤い実を一つ付けているのが目にとまりました。早朝の雨に濡れた赤い実は、ぽっちりと照り輝いているようでもありました。 (ヤブコウジ) (同上) ヤブコウジは万葉ではヤマタチバナである。山橘、夜麻多知婆奈、山地木などと書く。<追記> 読み返してみて、ヤブコウジの万葉歌を記載していないことに気付きましたので、何首かある中の一番有名なこれを追記して置きます。 この雪の消(け)残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む(大伴家持 万葉集巻19-4226) 話は変わるが、大伴家持の長歌に「知智(ちち)の実の 父の命(みこと) 柞葉(ははそば)の 母の命・・」(万葉集巻19-4164)というのがある。「ちち」というのはイチョウ説やイチジク説など諸説ある未詳植物であるが、一説にはイヌビワだとも言う。「ははそ」はコナラ、ナラガシワ、カシワ、クヌギなど、これも諸説あるが、コナラやクヌギなどのブナ科の落葉高木のことである。 防人の丈部真麻呂(はせべのままろ)の歌、「時時の 花は咲けども なにすれそ 母とふ花の 咲きで来ずけむ(巻20-4323)」という歌は「四季折々に花は咲くけれど、どうして母という花は咲いたことがないのか」と言っているが、母という名の花が無い訳ではないらしい。貝母(ばいも)とも呼ばれるアミガサユリがそれである。この花は古くは「母栗(ははくり)」と呼ばれていたそうな。 ということで、今日は父と母に関連した草木をとり上げてみました。 このアミガサユリとイヌビワは過去の記事でもとり上げているので、その折の写真を参考までに再掲載して置きます。写真をクリックすれば、拡大サイズの写真を、写真下のキャプションをクリックすれば、当該過去記事をご覧になれます。 (アミガサユリ) (同上) (イヌビワ)
2017.11.23
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新古今集に大伴家持の歌として掲載されているものは全部で12首ある。また、「よみ人知らず」とされているが万葉集の方で大伴家持の歌となっているものが1首あるので、これを合わせると13首ということになる。しかし、うち2首は、万葉集では、ひとつは柿本人麻呂歌集の歌となって居り、もうひとつは大伴像見(かたみ)の歌となっているので、正確には11首ということになる。尤も、万葉集に登場しない歌は果たして大伴家持作の歌であるのか極めて怪しいのであるが、一応、新古今集の顔を立てて大伴家持さんの歌ということにして置きます。 いずれにせよ、当ブログは偐万葉田舎家持歌集であるから、大伴家持の歌でないものも大伴家持の歌として掲載しても一向に差し支えないということにはなるのである(笑)。ということで、その13首を書き出して置くことといたします。(注) 新古今集の歌は太字表記です。 岩波文庫「新訂新古今和歌集」よりの抜粋です。 万葉集に元歌があるものは、参考までにそれを併記しました。 現代語訳は小生が適宜に付けたもので、正確性は保証しません。 新古今と万葉の双方の歌の意味が同じものは、現代語訳は両歌兼用としました。まきもくの檜原のいまだくもらねば小松が原にあわ雪ぞ降る(巻1-20)(巻向の桧原はまだ曇ってもいないのに、ここ小松が原には淡雪が降っている。)巻向の檜原もいまだ雲居ねば小松が末(うれ)ゆ沫雪(あはゆき)流る(柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-2314)(巻向の桧原はまだ雲もかかっていないのに、松の梢からあわ雪が流れるように降って来る。)(桧原社)行かむ人来む人しのべ春がすみ立田の山のはつざくら花(巻1-85)(往く人も来る人もみな思いえがきなさい、春霞が立つ、立田の山の初桜の花を。)ふるさとに花はちりつつみよしののやまのさくらはまださかずけり(巻2-110)(わが里の花は散りつつあるのに、吉野の桜はまだ咲かないでいる。)からびとの舟を浮べて遊ぶてふ今日ぞわがせこ花かづらせよ(巻2-151)(唐の人々が舟を浮かべて遊ぶという今日、皆さんも花かずらをお付けなさい。)漢人(からひと)も筏浮かべて遊ぶといふ今日こそわが背子花かづらせな (大伴家持 万葉集巻19-4153)(唐の人々も筏を浮かべて遊ぶという今日こそ、皆さんも花かずらをお付けなさい。)郭公一こゑ鳴きていぬる夜はいかでか人のいをやすくぬる(巻3-195)(ホトトギスが一声鳴いて飛び去って行った夜は、人はどうして安らかに眠られようか。)神なびのみむろの山の葛かづらうら吹きかへす秋は来にけり(巻4-285)(甘南備の三室山の葛の葉をうらさびしく風が吹き返す秋がやって来たことだ。)(注)万葉で「みむろ・みもろ」の山と言えば三輪山であるが、新古今では立田の三室山のことと考えられるので、三室山としました。みむろ、みもろは神のいます処という意味で、カンナビと同じ意味である。 (三室山)さを鹿の朝立つ野邊の秋萩に玉と見るまで置けるしらつゆ(巻4-334)さを鹿の朝立つ野邊の秋萩に玉と見るまでおける白露(大伴家持 万葉集巻8-1598)(牡鹿が朝に立つ野辺の秋萩に、玉かと見まがうばかりに置いている白露だ)今よりは秋風寒くなりぬべしいかでかひとり長き夜を寝む(巻5-457)(今からは秋風が寒くなるだろう。どのようにして一人で長い夜を寝ようか。)今よりは秋風寒く吹きなむをいかにかひとり長き夜を寝む(大伴家持 万葉集巻3-463)(今からは秋風が寒く吹くだろうに、どのようにして一人で長い夜を寝ようか。)わが宿の尾花がすゑにしら露の置きし日よりぞ秋風も吹く(巻5-462)(わが家のススキの穂先に白露が置いたその日から秋風も吹くようになった。)(尾花)鵲のわたせる橋に置く霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける(巻6-620)(宮中の階段に霜が降りて白くなっているのを見ると、もうすっかり夜が更けてしまったのだ。)(鵲森宮の大伴家持歌碑)はつ春のはつねの今日の玉箒手にとるからにゆらぐ玉の緒(よみ人知らず 巻7-708)初春の初子の今日の玉箒(ばはき)手に取るからにゆらく玉の緒(大伴家持 万葉集巻20-4493)(初春の初子の今日の玉箒は手に取るだけで揺れて音がする玉飾りの緒だ。)秋萩の枝もとををに置く露の今朝消えぬとも色に出でめや(巻11-1025)(秋萩の枝もたわわに置く露が今朝消えてしまうとも、それを顔に出すことがあろうか。ない。)秋萩の枝もとををに置く露の消(け)なば消(け)ぬとも色に出でめやも(大伴像見 万葉集巻8-1595)(秋萩の枝もたわわに置く露のように消えてしまうなら、消えてしまってもいい。そうだとしてもそれを顔に出すようなことがあろうか。ない。)足引の山のかげ草結び置きて戀ひや渡らむ逢ふよしをなみ(巻13-1213)(<あしひきの>山陰に生えている草を結び置いて恋慕って居よう。逢うすべがないので。)
2017.08.18
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ほととぎす 待てど来鳴かず 菖蒲草 玉に貫く日を いまだ遠みか (大伴家持 万葉集巻8-1490)という歌がある。 歌の意は「ほととぎすを待っているが、いっこうに来て鳴いてくれない。あやめ玉を薬玉にさし通す日がまだ遠いからだろうか。」というもの。 大伴家持さんは、余程ホトトギスの声が好きであったようで、「玉くしげ二上山に鳴く鳥の声の恋しきときは来にけり」(万葉集巻17-3987)という歌なども詠んでいるが、それはさて置き、この「あやめ草玉に貫く日」というのは5月5日、端午の節句の日のことである。 あやめ草はショウブのこととされる。セキショウ説やカキツバタ説もあるが、一般には、サトイモ科の植物、ショウブのこととされている。 ショウブの香には邪気を祓う力があると信じられていたよう。古代の人は香の強いものには邪気を祓う霊力があると考えていたようで、橘の実やヨモギなども同様である。 端午の節句には、麝香や沈香など香料や香草、薬草を袋に入れて、橘の実やショウブやヨモギで飾り付けをし、五色の糸を垂らした玉にして、これを身に付けるということをしたようです。今日、薬玉と言えば、祝い事やイベントなどの折の割玉のことを言うが、その原型はこの邪気祓いの薬玉なのである。 旧暦の5月と言えば梅雨に入る時期。暑気と湿気でものが腐敗しやすい季節である。病気になりやすい季節の入口ということで、この夏も無事に乗り切れますようにと、この薬玉を身に付けたり、ショウブを頭にかざしたりしたのである。粽を食べるというのも、茅(ち)で巻いたものを食べることで、茅の邪気を祓う霊力を身に取り込もうということであったのだろうから、同じ趣旨の行為である。 今のような近代医学というもののなかった時代にあっては、単なる習俗、儀式というのではなく、薬玉を身に付けたり、ショウブをかざしたり、粽を食べたりすることは、もっと切実な行為であったと言える。 ショウブは漢字では菖蒲でアヤメと同じ漢字であるのでややこしいが、アヤメとは別の植物である。 大伴家持は、他にもあやめ草の歌を詠んでいる。白玉を 包みて遣らば 菖蒲草 花橘に 合へも貫くがね (大伴家持 万葉集巻18-4102)(真珠を包んで贈ったら、菖蒲草や花橘に合わせて通して欲しい。)ほととぎす 今来鳴き始む あやめ草 かづらくまでに 離るる日あらめや (大伴家持 万葉集巻19-4175)(ほととぎすが、やっと来て鳴き始めた。菖蒲草をかづらとする5月5日まで、飛び去ってしまう日がどうしてあるものか。) 芭蕉さんもあやめ草の句を作っている。あやめ草足に結ん草鞋の緒 (松尾芭蕉 おくのほそ道) で、ショウブの写真は、とマイピクチャを探せど見当たらず。 鯉のぼりの写真でお茶を濁して置きましょう。(鯉のぼり)<参考>ショウブ・Wikipedia 本日は、端午の節句特集でありました。
2017.05.05
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一昨日からの風邪は相変わらずの状態。 「風光る」というのは「春」の季語ですが、「風邪ひかず」は季節に関係のない語。この語、「風邪引かず」なら元気な状態、「風邪退かず」なら、風邪がなかなか治らない状態で、音は同じなるも意味は正反対となるという、紛らわしい語でもありますが、現在のヤカモチさんは「退かず」の方の「ひかず」であります。 ということで、以前に撮ってストックとなっている鴨の写真で、万葉のお勉強といたしましょう。 鴨と来て、先ず思いつく万葉歌と言えば、次の2首でしょうか。 志貴皇子と大津皇子の、どちらも有名な歌であります。葦辺ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜降りて 寒き夕(ゆふべ)は 大和し思ほゆ (志貴皇子 万葉集巻1-64)(葦辺を泳ぐ鴨の翼の重なる処に霜が降って、この寒い夜は大和が思われる。) (注)羽交=左右の羽が交差する鳥の背中の部分。 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠(がく)りなむ (大津皇子 同巻3-416)(磐余の池に鳴く鴨を今日を限りに見て、私は死んで行くのか。) (鴨1) その他の鴨の歌も以下に記して置きます。吉野なる 夏実(なつみ)の河の 川淀に 鴨ぞ鳴くなる 山かげにして (湯原王 同巻3-375)(吉野の夏実の川の淀みに鴨が鳴いている、その山陰で。) (注)夏実=吉野宮滝の上流にある地、菜摘のこと。 軽の池の 浦廻(うらみ)行き廻(み)る 鴨すらに 玉藻の上に ひとり寝なくに (紀皇女 同巻3-390)(軽の池の浦に沿って泳ぎまわる鴨でさえ、玉藻の上でひとり寝などしないのに。) (注)軽の池=日本書紀応神天皇11年10月の条にこの池を造ったという記載がある が、所在は不明。鴨鳥の 遊ぶこの池に 木の葉落ちて 浮きたる心 我が思(も)はなくに (丹波大女娘子 同巻4-711)(鴨が遊ぶこの池に木の葉が落ちて浮いている。そんな浮ついた気持で思って居る訳ではありません。) (鴨2)外(よそ)にゐて 恋ひつつあらずは 君が家の 池に住むとふ 鴨にあらましを (大伴坂上郎女 同巻4-726)(離れて恋い慕っているくらいなら、あなたの家の池に住むという鴨であった方がましです。) 磯に立ち 沖辺を見れば 海藻(め)刈り舟 海人漕ぎ出(づ)らし 鴨かける見ゆ (同巻7-1227)(磯に立って沖の方を見ると、和布刈り船を海人が漕ぎ出すらしい。鴨が飛び立つのが見える。) (注)め=海藻の総称。水鳥の 鴨の羽色の 春山の おほつかなくも 思ほゆるかも (笠女郎 同巻8-1451)(水鳥の鴨の羽の色の緑の春山のようにぼんやりとして、あなたのお気持ちがはっきりしないので気がかりです。) (注)おほつかなく=おぼつかなく。 (鴨3) 埼玉(さきたま)の 小埼(をざき)の沼に 鴨ぞ羽(はね)霧(き)る おのが尾に 降り置ける霜を 掃(はら)ふとにあらし (同巻9-1744)(埼玉の小埼の沼で鴨が翼を振ってしぶきを散らしている。自分の尾に降り置いた霜を払っているのだろう。) (注)小埼の沼=埼玉県行田市埼玉付近の沼。 577577の旋頭歌体の歌 水鳥の 鴨の棲む池の 下樋(したひ)なみ いぶせき君を 今日見つるかも (同巻11-2720)(水鳥の鴨の住む池の下樋がないので、ふさぐ思いで恋しいと思ったあなたに今日お逢いできました。) (注)下樋=地中に埋めた導水管。吾妹子に 恋ふれにかあらむ 沖に住む 鴨の浮寝(うきね)の 安けくもなし (同巻11-2806)(あなたに恋しているからなんだろうか、沖に住む鴨の浮き寝のように心が安まらないのは。) (注)浮寝=頼りなく不安なさまの譬え。葦鴨の すだく池水 溢(はふ)るとも 設(まけ)溝の方(へ)に 吾(われ)越えめやも (同巻11-2833)(葦鴨が沢山集まる池の水があふれることがあっても、あらかじめ用意した別の溝の方へ、私は越えて行ったりするだろうか。そんなことは致しません。) (注)葦鴨=葦辺に居る鴨 すだく=多集(すだく)。多く集まること。 (鴨4) 葦べゆく 鴨の羽音の 聲(おと)のみに 聞きつつもとな 恋ひわたるかも (同巻12-3090)(葦辺を行く鴨の羽音のように、音、噂に聞くだけで、むしょうに恋い続けることだなあ。) (注)上二句は「おと」を導くための序詞。 もとな=よい結果もないのに強いて、訳もなしに、の意。鴨すらも おのが妻どち 求食(あさり)して 後(おく)るるほどに 恋ふといふものを (同巻12-3091)(鴨でさえも妻と連れ立って餌を探し、相手に後れた時には恋しがるというのに。人である私は尚更のことです。)眞小薦(まをごも)の 節(ふ)の間(ま)近くて 逢はなへば 沖つ眞鴨の 嘆きぞ吾がする (同巻14-3524)(薦の編み目のように間近にいるのに逢えないので、沖の鴨のように嘆いています。) (注)眞小薦の節の=「間近く」の序詞。 沖つ眞鴨の=嘆きの序詞。 水久君野(みくくの)に 鴨の這(は)ほのす 子ろが上(うへ)に 言(こと)緒(を)ろ延(は)へて いまだ寝(ね)なふも (同巻14-3524)(水久君野に鴨が這うようにあの子に長らく言葉を掛け続けているが、いまだに共寝をしないことよ。) (注)水久君野=所在不詳の地名か。 (鴨5) 沖に住も 小鴨(をがも)のもころ 八尺鳥(やさかどり) 息づく妹を 置きて来(き)のかも (同巻14-3527)(沖に住む鴨のように、長いため息をつく妻を残して来てしまった。) (注)八尺鳥=潜水の後に長く息をつく鳥の意で、「息づく」の枕詞。葦の葉に 夕霧立ちて 鴨が音(ね)の 寒き夕(ゆふべ)し 汝(な)をば偲はむ (同巻14-3570)(葦の葉に夕霧が立ち込めて、鴨の声が寒々と聞こえる夜は、お前のことを恋い偲ぶことだろう。) 鴨じもの 浮寝をすれば 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に 露ぞ置きにける (同巻15-3649)(鴨のように浮き寝をしていたら、黒髪に露が降りていました。) (注)鴨じもの=鴨でもないのに鴨のように、の意で、「浮寝」の枕詞。 蜷の腸=タニシなどの巻貝の腸、で「か黒き」の枕詞。 沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来(こ)ば 也良(やら)の崎守(さきもり) 早く告げこそ (山上憶良 同巻16-3866)(鴨という名の船が帰って来たなら、也良の防人よ、早く知らせてくれ。) (注)也良=博多湾口にある能古島北端の岬の地名。沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎 廻(た)みて漕ぎ来(く)と 聞(きこ)え来ぬかも (同上 同巻16-3867)(鴨という名の船が、也良の崎を廻って漕いで来たと、誰か知らせに来ないものだろうか。) (注)聞こえ来る=知らせに来る。 (鴨6)水鳥の 鴨の羽(は)の色の 青馬を 今日見る人は 限りなしといふ (大伴家持 同巻20-4494)(水鳥の鴨の羽色の青馬を今日見る人は、その寿命に限りがないと言う。)(注)青馬=灰色の馬。正月七日に宮廷行事として青馬を見て一年の邪気を払う人日の節 句があった。平安時代に入ると「白馬(あをうま)の節会(せちえ)」と呼ばれた。
2017.02.19
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今日は雨なので、一日中家に籠っていました。 こういうのを「雨つつみ(雨障み)」と言いますが、万葉の頃は、男が女のもとに通って行けないことの口実に「雨つつみ」を利用したとか。 ヤカモチさんには通って行くべき女性もありませんので、「雨つつみ」ではなく、単に「雨ごもり」と言うべきですかね。 雨つつみ、で思い出す万葉歌はこれ。以前にも紹介しているが、大伴家持のこの歌である。荊波(やぶなみ)の 里に宿借り 春雨に 隠(こも)り障(つつ)むと 妹に告げつや (大伴家持 万葉集巻18-4138)(荊波の里に宿を借り、春雨に降り込められていると、妻に報せてくれたか。) この歌の題詞には、墾田地の検察に出掛けていた越中守・家持さん一行は砺波郡の主帳(郡の四等官)である多治比部北里という人の館に宿をとることとなった。すると「たちまちに風雨起こり、辞去すること得ず」ということになってしまって、作った歌である、と書かれている。 この時既に、家持さんの妻である坂上大嬢が越中に来ていたとする説もあれば、未だ都に居たとする説もあって、定かではないが、この歌は、おそらく宴会の席で詠まれたか、随行の部下などに聞かせるための余興として詠まれたものと考えられるから、妻が越中に来ていて家持さんの帰りを待っているという状況を前提としたものではないだろう。家持さんとしては、随行の部下たちに、お前たちも「今夜は雨で行けない、帰れない」と、妻や恋人に報せを出したか、という冗談を言ったものではないか、と思う。家持の妻が遠く離れた都に居る方が冗談としての面白味は増すと言えるかも知れない。 何れにせよ、これがジョークとして成立するためには、「雨つつみ」というのは、他の女性のもとに通うための男側の口実の常套的手法であるということが、共通の認識として成立していなければならないだろう。 この歌の歌碑は富山県高岡市の荊波神社にある。 <参考>高岡銀輪散歩(その5)2012.6.27. さて、「雨つつみ」か「雨ごもり」かは別として、雨にてあれば銀輪散歩もなしで、ブログネタもない。手持ちの写真の中から、ちょっとほっこりするものを紹介して置くこととします。(退院のご老人とお孫さん 病院の玄関先で) これは、少し古い写真になりますが、母が生前入院していた病院の、或る日の風景です。この頃は、殆ど病院に居ることが多く、病院の庭先の花や木を撮ったり、飛来する雀を撮ったりしてブログにアップしていましたが、そのような中で撮った1枚です。基本的に人物の写真はブログに馴染まないので撮らないのですが、後ろ姿ならよかろうとカメラを向けました。迎えの車を待つ、退院されるご老人とそのお孫さんの姿に微笑ましいものを感じたからであります。 この日も雨が降り出していて、「雨つつみ」のお二人でしたが、程なく、少年の父親と思しき男性が運転される車がやって来て、それに乗車。ご自宅へと帰って行かれました。
2017.01.08
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「アンデスのトマト」と言えば、智麻呂さんがデイサービスで通って居られる施設の名前であるが、ヤカモチが最近朝食や昼食でお世話になっているのが「ペリカンの家」である。これは何もヤカモチがペリカンになったという訳ではない。喫茶店の名が「ペリカンの家」なのである。ペリカンの家という店の名の由来などは伺っていないので知る由もないのであるが、店にペリカンが居るからと言うことでないことだけは確かである。 ペリカンは居ないが蜂は居る。居ると言っても店の中に居るのではない。店先に停めてあるモーターバイクのミラー辺りにいつも蜂が居るのである。前ページ・昨日の日記の末尾にその写真を掲載したが、それは今月22日の午後に撮影した写真。今日のお昼にも居ました。(ペリカンの家の蜂) この蜂はスズメバチの仲間だろうか。オオスズメバチに比べればずっと小型で温和しい感じなのであるが、蜂の種類などはよく存じ上げないので何という蜂かは申し上げ兼ねるのであります。コガタスズメバチというのがスズメバチの仲間に居るから、或はそれかも知れない。足が長ければアシナガバチと申し上げるところであるが、普通の蜂に比べて特段に足が長いという感じでもない。何だか少し茶色っぽい感じでもあるのでチャイロスズメバチかも知れない。などと岡目八目にもならぬ駄目押し蜂談義はこれまでとします。 ハチのムサシのご尊顔を拝したき向きもござりましょうから、少しカメラをずらして見てみましょう。(同上) モーターバイクのミラーがお気に入りと見えて、カメラを近づけても逃げようとはしない。その横顔なかなか精悍な感じで、ひょっとするとイケメンかも。正面に回ってみましょう。(同上) う~ん。微妙。と言うか、むしろ余り人相が良くない。はっきり言って悪人面である。何やらヤカモチ君に脅しをかけているような目つきであります。 しかし、よくよく見るとそれは見かけに過ぎず、左前肢がミラーのふちからすべり落ちているなど、いささかズッコケの体たらくなのでありますな。こんなことではヤカモチ君に因縁をつけるのは10年早いというものであります。(まごころ喫茶・ペリカンの家) さて、この蜂君の居る喫茶店「ペリカンの家」とは、上のような佇まいなのであります。店内が禁煙であることは昨日の日記でも申し上げましたが、煙草が吸える店の前のベンチというのが、上の写真の通りなのであります。赤い四角い缶が吸い殻入れ兼灰皿であります。蜂さんお気に入りのモーターバイクは看板と電柱に遮られて少し見辛いですが、一応写ってはいます。 ところで、万葉で蜂と言って思い浮かぶ歌は、高橋虫麻呂の珠名娘子の歌でしょうか。この歌に「すがる」という蜂が登場している。「すがる」というのはジガバチのことである。ジガバチというのは黒い蜂で特に腰が細い蜂である。その蜂になぞらえ、腰のキュッとくびれた若い女性を「腰細のすがる娘子」と形容しての登場にて、蜂そのものではなく、蜂のような腰細の美女の登場なのであります。しなが鳥( 安房(あは)に継ぎたる 梓弓(あづさゆみ) 周淮(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むなわけ)の 広き我妹(わぎも) 腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)の 花の如(ごと) 咲(ゑ)みて立てれば 玉桙(たまほこ)の 道往(ゆ)く人は おのが行く 道は行かずて 召(よ)ばなくに 門(かど)に至りぬ さし並ぶ 隣の君は 予(あらかじ)め 己妻(おのづま)離(か)れて 乞(こ)はなくに 鍵さへ奉(まつ)る 人皆(ひとみな)の かく迷(まと)へれば うちしなひ 寄りてぞ妹は たはれてありける (高橋虫麻呂 万葉集巻9-1738) ということで、万葉集には、蜂女の「すがる娘子」は登場するものの、残念ながら、雀同様にスズメバチも登場しないのでありました。 何やらハチの話なのに尻切れトンボとなったこの記事、キリもないからこの辺でアップです。ギブアップという意味では勿論ありません。
2016.11.29
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何と言ってブログのネタも是無くあれば、雀の写真でも撮ってみるかと思ったのが昨日のこと。息抜きに裏庭に(と言っても我が家の庭ではないが)出て煙草を一服つけていると、目の前のクスノキの大木の下に雀らが群れているのが見えたのでありました。(群雀) 雀の所作を眺めるともなく眺める。 一体何をついばんでいるのだろう。 稲田でもあるまいに、大きな楠の木の下、餌になるようなものが落ちているようには思えないが、草の実などが飛んで来ているのだろうか。 雀と遊ぶ。 まるで一茶か良寛さんにでもなった感のヤカモチでありました。 (同上) 雀はまことに身近な小鳥。 で、万葉集に雀の歌はあるのかと調べてみたら、雀を詠った歌は1首も存在しない。 これはどうしたことであるか。 万葉貴族たちが雀を詠わないのは肯けるにしても、一般庶民の歌や民謡に雀が登場しない筈もなく、そうした歌謡をも収録しているのが万葉集であるのだが、何故か雀の歌はない。 となれば、自らこれを作るのほかないのが偐万葉である。ほととぎす 雁鴨鴬 鶴(たづ)はあれ 雀は見えず 万葉の歌 (偐家持)百舌鳥千鳥 雲雀雉(きぎし)に 鷲鷹も あれど雀の なきが万葉 (偐家持) くすのきの 根方に雀 群れたるを 見つつや今日も すべなかりける (偐家持)(本歌)呉竹に ねぐらあらそふ 村雀 それのみ友と 聞くぞさびしき (二条院讃岐 「正治初度百首」)(雀A) 上に記載の、ホトトギス、カリ、カモ、ウグイス、ツル、モズ、チドリ、ヒバリ、キジ、ワシ、タカの他に、万葉に登場する鳥と言えば、鵜、鳰鳥(カイツブリ)、呼子鳥(カッコウ)、家鶏(かけ、ニワトリ)などが思い浮かぶが、坂鳥、朝鳥など何の鳥とも定め難い鳥や単に「鳥」と言っている歌もある。それらの鳥には雀も含まれると解せるものもあろうから、まあ、雀が詠われていないとも言えないのだ、と雀らは言って居りますな(笑)。(雀ABC) (雀BC) (雀A) (雀AB) (同左)
2016.11.19
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今日は3日。正確な月齢の程は知らねども、3日ならば三日月で文句あるめえ、と夕刻に南西の空に三日月と金星が見えました。(三日月と金星) 一番星・宵の明星の金星が月の斜め左下に輝いている。 二番星の木星は何処にあるのか、見えない。 いつであったか、三日月と金星と木星が二等辺三角形のような形に接近して並び、人の顔のように見えたことがあり、それを写真に撮ってブログに掲載したことを思い出しました。調べてみると、2008年12月1日のことでした。<参考>若草読書会 2008.12.1. ニッコリマークは昨夕のみ 2008.12.2.(同上) ところで、星のマークと言えば☆であるが、日本では古来星は〇で表して来た。相撲の白星、黒星などがその例である。これは、空気中の水分、つまり湿度の高い我が国では、星はキラキラと尖って輝くことが少なく、丸く見えることによるのだそうな。 尤も、我がカメラでは☆でも〇でもなく、なにやらへしゃげたような形に写ってしまっていますが、手ぶれの所為で、湿度とは関係ないようです。(同上)(三日月) 三日月で思い浮かぶ歌としては、小生の場合は先ずこれですかね。大伴家持さん15歳の時の歌であったかと。ふりさけて 三日月見れば ひと目見し 人の眉引 思ほゆるかも (大伴家持 万葉集巻6-994)(振り仰いで三日月を見ると、一度逢っただけのあの人の美しい眉が思い浮かぶことだ。) (注)眉引=まよびき(同上) 大伴家持に歌の手ほどきをしたのは、叔母の大伴坂上郎女だろうと言われている。その彼女の歌で三日月の歌と言えばこれでしょうか。月立ちて ただ三日月の 眉根(まよね)掻き 日(け)長く恋ひし 君に逢へるかも (万葉集巻6-993)(月がまた生まれ出て来る時の三日月のような私の眉を掻いたからでしょうね。長らく待ち焦がれたあなたにお逢いできたのですもの。) (注)眉根掻き=眉を掻くと恋しい人に逢えるという俗信があった。 <参考>大伴家持の母 2012.9.17.
2016.11.03
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今朝は青空も覗いていたが、午後になってすっかり雲に覆われて、空は無表情になりました。無表情も一つの表情であるから、表情が無いわけではない。 では、無表情とは何? これと言って名付けることの出来ない表情、単に名の無い表情ということに過ぎないのですかね。それは見ている側の問題で、表情を作って居る側である、空の問題ではないのである。 こういう議論を「空論」と言うのでしょうな(笑)。 或は、雲を掴むような話、とも言う。(2016年10月11日の、今朝の空) 先日のTVでイマソラという空の写真の投稿が流行っているというようなことを言ってましたが、吾輩の「イマソラ」はこんな風でありました。 <参考>#イマソラ 万葉人も「空」に様々な思いを馳せて歌に詠んだようです。空の万葉歌を列挙して置きましょう。小生が、これまでに撮った空の写真などを添えて、イマサラのイマソラであります。み空行く 月の光に ただ一目 あひ見し人の 夢(いめ)にし見ゆる (安都扉娘子 巻4-710)(空を行く月の光のもとでただ一目見ただけの人が夢に現れます。) み空ゆく 月讀壮士(つくよみをとこ) 夕(よひ)去らず 目には見れども 寄るよしもなし (巻7-1372)(空を行く月讀おとこよ。夜にはいつも目には見るが近寄るすべがない。) さ夜中と 夜は深(ふ)けぬらし 雁が音の 聞ゆる空ゆ 月渡る見ゆ (巻9-1701)(真夜中かと思うほどに夜が更けたようです。雁の声が聞こえる空を月が渡って行くのが見える。)蒼天(おほぞら)ゆ 通ふ吾(われ)すら 汝(な)がゆゑに 天の川路(ぢ)を なづみてぞ来し (巻10-2001)(大空を行き通う私ですら、あなた故に天の川の道を苦労して来ました。) この夜らは さ夜ふけぬらし 雁が音の 聞ゆる空ゆ 月立ち渡る (巻10-2224)(今夜はもう更けたらしい。雁の声が聞こえる空を月が渡って行く。)こと降らば 袖さへぬれて とほるべく 降りなむ雪の 空に消(け)につつ (巻10-2317)(どうせ降るなら、袖まで下に濡れ通るほど降って貰いたい雪が、空で消えている。)はなはだも ふらぬ雪ゆゑ こちたくも 天(あま)つみ空は 陰(くも)らひにつつ (巻10-2322)(ひどくも降らない雪なのに、こんなにも大空は曇りわたっている。) ふる雪の 空に消(け)ぬべく 恋ふれども あふよしなくて 月ぞ経にける (巻10-2333)(降る雪が空で消えるように、身も心も消えんばかりに恋い慕っているけれど、逢うすべがなくて月日が経ってしまった。) たもとほり 往箕(ゆきみ)の里に 妹を置きて 心空なり 土は踏めども (巻11-2541)(往箕の里にあなたを置いて、心は上の空だ。足は土を踏んでいるが。) (注)往箕=所在不詳の地名東細布(よこぐも)の 空ゆ延(ひ)き越し 遠みこそ 目言(めごと)疎(うと)からめ 絶(た)ゆと隔てや (巻11-2647)(横雲が空を通ってはるか向こうへ越えて行くように、遠いからこそ逢うことも、言葉を交わすことも途絶えがちになっていますが、絶えてしまおうとして隔てているのではありません。) (注)東細布の=よこぐもの、しきたへの、など様々の訓があって定まらない。 この山の 峯に近しと わが見つる 月の空なる 恋もするかも (巻11-2672)(この山の峰に近いと私が見た月のように、こころ空なる恋をすることよ。)み空行く 名の惜しけくも 吾は無し あはぬ日数多(まね)く 年の経ぬれば (巻12-2879)(大空に広がるように名が立つことになっても、私には惜しいことはない。逢わない日が多くなって年月が経ってしまったから。) 立ちてゐて たどきも知らず わが心 天つ空なり 土は踏めども (巻12-2887)(立ったり座ったり、どうしていいかわからず、私の心は上の空です。地面は踏んでいるけれど。)うたがたも いひつつもあるか 吾ならば 地(つち)には落ちず 空に消(け)なまし (巻12-2896)(きっと言っているに違いない。私ならば、地面に落ちず、空に消えてしまいたい。) 吾妹子が 夜戸出(よとで)のすがた 見てしより 情(こころ)空なり 地(つち)はふめども (巻12-2950)(あなたが夜、戸の外に立つ姿を見て以来、心は上の空だ。地面は踏んでいるけれど。)ひさかたの 天つみ空に 照れる日の 失(う)せなむ日こそ わが恋止まめ (巻12-3004)(大空に照る太陽がなくなる日にこそ、私の恋も止むのでしょうが。) (注)照れる日の=照る月の、とする訓もある。 下毛野(しもつけの) 安蘇(あそ)の河原よ 石踏まず 空ゆと来(き)ぬよ 汝(な)が心告(の)れ (巻14-3425)(下野の安蘇の河原を石も踏まず、空を飛ぶ気でやって来たんだよ。お前の気持ちを言ってくれ。) み空行く 雲にもがもな 今日行きて 妹に言問ひ 明日帰り来む (巻14-3510)(大空を行く雲であったらなあ。今日行って妻と語らい、明日には帰って来ようものを。)み空行く 雲も使と 人はいへど 家づと遣らむ たづき知らずも (巻20-4410)(大空を行く雲も使者になると人は言うけれど、家への土産を託する方法がわからない。)
2016.10.11
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8月28日の日記で、コナラの木に「クヌギ」という名札が掛けられていたことを記しましたが、それがこれです。 <参考>青雲会囲碁大会・秋の気配 2016.8.28.(「クヌギ」と書かれている「コナラ」の木) 確かに、コナラとクヌギはよく似た木であるから、花園中央公園のこの名札について小生も長らく疑うということもなく来ました。 しかし、先日、見上げると実はコナラのそれであったという次第。(クヌギ)(コナラ) 花園中央公園の桜広場の一角に、コナラとクヌギが並んでいる場所がある。ホットケーキみたいな茸が生えている切株のスグそばがその場所。 こちらは、何の木とも表示はないのであるが、上の2枚の写真を見比べて戴いてもお分かりのように、殆ど区別がつきません。葉の方も下の2枚の写真のようによく似ています。クヌギの葉の方がコナラのそれよりも幾分細長く大きいのであるが、別々に見て区別できる人はそんなには居ないでしょう。 (左:コナラの葉、右:クヌギの葉) しかし、実は一目瞭然。全く違う。 友人の小万知さんは、コナラの実はベレー帽を被っている、と仰っていましたが、それに倣うなら、クヌギの実はアフロヘアーのカツラを被っていると言うべきでしょうか。 (左:コナラの実、右:クヌギの実)(コナラの実とクヌギの実) コナラもクヌギもシイタケの原木になるほか、薪炭その他様々に利用され、古来から生活に密着した樹木である。そういうこともあってか、コナラもクヌギも万葉に登場する。〇コナラの歌下野(しもつけの) 三毳(みかも)の山の 小楢(こなら)のす まぐはし兒ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ (万葉集巻14-3424)(下野の三毳山に生えるコナラのように美しいあの子は、どんな男を夫として、その笥を持つのだろう。)〇クヌギの歌紅(くれなゐ)は 移ろふものぞ 橡(つるばみ)の 馴れにし衣(きぬ)に なほ及(し)かめやも (大伴家持 万葉集巻18-4109)(紅色は華やかだけれど、すぐに色褪せるもの。地味なつるばみ色に染めた衣にどうして及ぶことがあろう。) コナラは、若い可愛い娘の比喩として使われているのに対して、クヌギ(つるばみ)は(それで染めた衣のことであるが)、古女房の比喩として使われているところが面白い。(クヌギの実) クヌギは「国木・クニキ」の転訛だとも言われている。 (同上) クヌギの実の落ち方も、アフロヘアーのまま落ちる奴、ヘアーはそのまま残し丸坊主で、つまり「実(身)一つ」で落ちる奴とそれぞれであるが、どちらが正規の落ち方なんだろうか(笑)。上の右の写真の実は蓋の中で反転しているから、この後は丸坊主で落下するのだろう。それに対して左の写真のように蓋を付けたまま落ちている奴もいる。発芽ということで言えば、丸坊主で地面に落ちた方が有利かとも思うが、これはどちらにせよ「ドングリの背比べ」に過ぎないのかも知れない。
2016.09.10
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このところ、ゆえあって遠出の銀輪散歩もままならず、ブログのネタも途切れがち。偐万葉シリーズでつないでいましたが、昨日は恒例の墓参(本来は9月2日にすべきであったのですが、2日、3日が不都合となり、4日になりました。)でありましたので、その道すがらのことなどを記事にして置きます。(墓地からの眺め)※フォト蔵の大型写真で見るにはココをクリック。 我が家の墓は生駒山系の山の西麓の高みにある。もう、何度となく墓参のことを記事にしているので、ブロ友諸氏その他以前からご訪問戴いて居る皆さまには先刻ご承知のことかと存じますが、上の写真のような眺望にて、大阪平野が一望であります。 そのため、自宅からは徒歩15分程度の距離ながら結構な急坂を上るので、この時期は汗、汗なのである。 さて、墓参恒例の寺の門前の言葉はこれ。(今日の言葉) われわれは、大なり小なり人に迷惑をかけ、大なり小なり人のお世話になり生きている。そのことを自覚するだけで、世の中の景色が違ったものに見えて来るというものであります。樫の実の ひとりになくば われらみな 他に迷惑を かけるほかなし (偐団栗) (注)樫の実の=「ひとり」「ひとつ」などに掛かる枕詞。(樫の実) 道端の樫の木にドングリがなっていました。樫にもアラカシ、シラカシ、ウバメガシなどと色々種類があるようですが、ヤカモチにはこれが何の樫であるのかまでは分かり兼ねることであります。 そして、ナツメの実も。既に少し色づいている実もある。秋ですね。(棗・ナツメ) 道教では、棗を久しく食すると神仙になれるとされる。 「続日本紀」聖武天皇の神亀3年9月15日の条には「内裡(うち)に玉棗(しぼ)生ひたり。勅して、朝野の道俗らをして玉棗の詩賦を作らしめたまふ。」とあり、同27日の条には、「丈人一百十二人玉棗の詩賦を上(たてまつ)る。」とあり、内裏に棗の実がなったので、聖武天皇は棗の詩賦を作って奏上せよと勅を出している。棗の実は神仙の薬と考えられていて、これが実ること自体が瑞祥と見られていたのであろう。 それはさて置き、万葉集には棗の歌は2首ある。玉掃(たまははき) 刈り来(こ)鎌麻呂 室(むろ)の樹と 棗(なつめ)が本(もと)と かき掃かむため (長意吉麻呂(ながのおきまろ) 万葉集巻16-3830)(注)玉掃=コウヤボウキ 室の樹=ネズ (玉掃を刈り取って来い、鎌麻呂よ。室の木と棗の下を掃除したいので。)梨棗(なしなつめ) 黍(きみ)に粟つぎ 延(は)ふ田葛(くず)の 後もあはむと 葵(あふひ)花さく (万葉集巻16-3834)(梨、棗、黍に粟がついで実り、つるをはわせのびる葛のように、後にもまた逢おうと葵の花が咲くよ。) 道すがらに見掛けた花はケイトウとタマスダレ。 (ケイトウ) (タマスダレ) 見掛けた虫は、ショウリョウバッタ。 (ショウリョウバッタ) 毎度代わり映えのせぬ墓参関連の道すがら・お粗末日記でありました。
2016.09.05
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昨日の銀輪散歩で見掛けたクマゼミです。 大和川へと向かう恩智川べりの小さな公園の桜の木にとまっていました。 木陰のベンチでパソコンのキーボードを打っている青年が居て、少し言葉を交わしましたが、作業のお邪魔をしてはいけないので、水分補給の休憩の後、蝉を撮影して、その場を離れました。(クマゼミ)(同上) クマゼミは午前中に鳴き、午後からは殆ど鳴かない。これに対してアブラゼミは午後から夕方にかけて鳴く。これを「蝉時計」と言うそうだが、時計にしては実に大雑把なものではある。 (アブラゼミ) 我々が子供の頃は、クマゼミは少数派でアブラゼミが隆盛であったように思うが、温暖化の所為か、近頃は逆転して南方系のクマゼミが圧倒的に多数である。この蝉は大型で飛翔力も優れているから、ニイニイゼミやアブラゼミが飛び越えられない大きな川も飛び越えて容易にその繁殖の場所を拡大することができる。 近頃は、熊が人里に現れ、熊に注意、という看板がやたら目に付くが、蝉の世界もクマが席巻しているようだ。アブラゼミなど蝉の世界でも「クマに注意」が囁かれているそうな(笑)。 ところで、万葉集に蝉が登場しているのかと言うと、登場しているのであります。しかし、「蝉」という言葉というのもあるが、他は全て「ひぐらし」という言葉である。このことから、万葉の頃は蝉はヒグラシしかいなかった、という論も成り立つのだが、虫の分類などに関心のなかった万葉人にとっては、蝉の種類などはどうでもよく、全て「ひぐらし」と呼んでいたかも知れないから、何とも言えない。 秋に鳴く虫を全て「こほろぎ」と呼んでいた万葉人のことであるから、ありえないことではないだろう。 それはさて置き、「ひぐらし」の歌を見てみると、アブラゼミやクマゼミの鳴き声では歌の感じにそぐわず、ヒグラシの「カナカナ・・」という鳴き声でなくてはならないという感じの歌が殆どではある。隠(こも)りのみ をればいぶせみ 慰むと 出で立ち聞けば 来鳴くひぐらし (大伴家持 万葉集巻8-1479)(屋内に引きこもってばかりいると、うっとおしいので、気を晴らそうと外に出て立って聞いていると、やって来て鳴くヒグラシよ。)黙然(もだ)もあらむ 時も鳴かなむ ひぐらしの 物思ふ時に 鳴きつつもとな (万葉集巻10-1964)(何の物思いもない時に鳴いてほしい。ヒグラシが、物思いしている時に鳴いてしようがない。)ひぐらしは 時と鳴けども 恋ふるにし 手弱女(たわやめ)我は 時わかず泣く (万葉集巻10-1982)(ヒグラシは今が時だと鳴くけれど、恋のせいで、かよわい私は時をかまわず泣き続けています。)暮影(ゆふかげ)に 来鳴くひぐらし ここだくも 日ごとに聞けど 飽かぬ声かも (万葉集巻10-2157)(夕方の光の中に来て鳴くヒグラシは、こんなに毎日聞いても、飽きない声だ。)萩の花 さきたる野辺に ひぐらしの 鳴くなるなへに 秋の風吹く (万葉集巻10-2231)(萩の花の咲いている野辺にヒグラシが鳴いている折、その折に秋の風が吹く。)夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてぞ吾が来る 妹が目を欲り (秦間満(はたのはしまろ) 万葉集巻15-3589)(夕方になるとヒグラシが来て鳴く生駒山を越えて、私はやって来たのだ。妻に逢いたくて。)石走(いはばし)る 瀧もとどろに 鳴く蝉の 声をし聞けば 京都(みやこ)しおもほゆ (大石蓑麻呂 万葉集巻15-3617)(岩の上をほとばしり流れる激流が音をとどろかせているように、響き渡って鳴く蝉の声を聞くと都のことが思われる。)恋繁み 慰めかねて ひぐらしの 鳴く島かげに いほりするかも (万葉集巻15-3620)(恋の思いがいっぱいで、慰めようもなく、ヒグラシの鳴く島陰に仮廬を結んで旅寝することだ。)今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松かげに ひぐらし鳴きぬ (万葉集巻15-3655)(今から秋らしくなるようだ。山の松の木の陰でヒグラシが鳴いたよ。)ひぐらしの 鳴きぬる時は をみなへし 咲きたる野べを 行きつつ見べし (秦八千島(はたのやちしま) 万葉集巻17-3951)(ヒグラシが鳴く頃には、オミナエシの咲いている野辺を行きながら、見るのがよろしい。) この日は大和川畔まで走ったのみで、引き返しましたので、左程の距離を走っていません。往復路の途中の恩智川沿いにあった喫茶店、かつては不思議なご縁で、万葉ナナの会などという集まりを持った喫茶店、Cafe de nanaも閉店になった後、これをつぐ新しいテナントも入っていないようで、シャッターは下りたままでありました。(大和川、石川との合流点。中央、奥から流れ込んでいるのが石川) (大和川を渡る近鉄大阪線。写真奥に河内国分駅がある。)(元、喫茶ナナ) ヤカモチの南方面への銀輪散歩では珈琲休憩によく利用した喫茶店であるが、今はそれも叶わず、毎度素通りである。これに代わる喫茶店は未だはっきりとは決まっていない。恩智川沿いの道から少し外れると喫茶店も色々とあるにはあるが・・。 本日は、蝉と万葉のお話でした。
2016.07.24
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養老2年(718年)1月29日の生まれ。本日は、小生の誕生日。1298歳と相成りました。 偐家持。大伴氏とは縁もゆかりもこれなくあるが、大伴氏の祖先として思い浮かぶ名はこの二人。アメノオシヒ(天忍日)とミチノオミ(道臣)のご両人である。〇天忍日・・天上からの天孫降臨に際して先導役を務める。「天津日子番能迩々藝命(あまつひこほのににぎのみこと)に詔(の)らして、天之石位(あまのいはくら)離(はな)ち、天之八重多那雲(あめのやへたなくも)を押し分けて、伊都能知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天ノ浮橋に、宇岐士摩理(うきじまり)、蘇理多々斯弖(そりたたして)、竺紫(つくし)ノ日向(ひむか)之高千穂之久士布流多気(くしふるたけ)に天降(あも)り坐(ま)さしメたまひき。故(かれ)しかして、天忍日命(あめのおしひのみこと)・天津久米命(あまつくめのみこと)ノ二人、天之石靭(いはゆき)を取り負ひ、頭椎之大刀(くぶつちのたち)を取り佩き、天之波士弓(あめのはじゆみ)を取り持ち、天之真鹿児矢(あめのまかこや)を手挟み、御前(みさき)に立ちて仕へ奉りき。」 (古事記上巻)〇道臣命・・神武東征の際に先導者となる。「是の時に、大伴氏の遠祖(とほつおや)日臣命、大来目(おほくめ)を帥(ひき)ゐて、元戎(おほつはもの)に督将(いくさのきみ)として、山を蹈(ふ)み啓(みちをわ)け行きて、乃(すなは)ち烏の向(むか)ひの尋(まま)に、仰(あふ)ぎ視(み)て追ふ。遂に菟田下県(うだのしもつこほり)に達(とほりいた)る。因りて其の至りましし処を号(なづ)けて、菟田の穿邑(うかちのむら)と曰(い)ふ。時に、勅(みことのり)して日臣命を誉めて曰(のたま)はく、『汝(いまし)忠(いさをしさ)あり且(また)勇(いさみ)あり。加(また)能(よ)く導(みちびき)の功(いさをしさ)有り。是(ここ)を以て汝が名を改めて道臣(みちのおみ)とす』とのたまふ。」(日本書紀巻三 神武紀 戊午年六月の条) 天忍日に始まり、道臣を経て、道臣の六世の孫の武日の息子の武持の時に大伴の姓を賜っているから大伴氏は武持に始まるのである。家持は、武持から数えて9代目となる。 武持ー室屋ー談(かたり)ー金村ー咋子(くひこ)ー長徳(ながとこ)ー安麻呂ー旅人ー家持ー永主 上の記事から、天孫降臨では同格であった大伴氏の祖「天忍日」と久米氏の祖「天津久米」であるが、神武東征では久米氏は大伴氏の配下になっているのが分かって興味深い。 久米小楯が山部の姓を賜り、久米氏から山部氏が派生したこと、その子孫が山部赤人であることなどは、この処の山部赤人歌碑を訪ねての銀輪散歩に関連して知ったことであるが、同様に、大伴金村の弟の大伴歌(うた)は佐伯の姓を賜り、軍事氏族の佐伯氏が大伴氏から派生している。その大伴改め佐伯歌の子孫・佐伯真魚(まお)が空海である。 参考までに大伴家持関連の年表を下記して置きます。718年(養老2) 大伴家持誕生(1歳)父旅人54歳719年(養老3) 首皇子朝政に参画(家持2歳)720年(養老4) 日本書紀成る。藤原不比等死去(家持3歳)724年(神亀元) 首皇子即位(聖武天皇)(家持7歳)727年(神亀4) 10月旅人大宰府長官拝命・赴任(家持10歳)728年(神亀5) 旅人の妻・大伴郎女死去(家持11歳)729年(天平元) 長屋王事件(家持12歳) 旅人、藤原房前に手紙、歌と琴を贈る。 (巻5-810~2)730年(天平2) 1月梅花の宴(巻5-815~846)(家持13歳) 6月旅人重病 10月旅人大納言に昇進・帰京731年(天平3) 旅人死去・享年67歳(家持14歳)732年(天平4) 家持(15歳)処女作の歌(巻8ー1441)733年(天平5) 家持(16歳)初月の歌(巻6-994) 家持はこの頃より仕官したと見られる。 坂上大嬢との歌の贈答始まる。 山上憶良死去734年(天平6) 笠女郎ほかの女性との歌の贈答始まる。737年(天平9) 天然痘大流行。藤原4兄弟相次ぎ死去。(家持20歳) 橘諸兄右大臣に就任738年(天平10) 家持(21歳)内舎人任官 家持、内舎人として橘奈良麻呂邸での宴で歌を詠む。 (巻8ー1591)739年(天平11) 家持(22歳)亡妾悲傷の歌(巻3-462、464~74)740年(天平12) 9月藤原広嗣の乱、10月広嗣捕縛、斬首。 12月恭仁京造営開始・遷都743年(天平15) 家持(26歳)恭仁京讃歌(巻6-1037) 橘諸兄左大臣就任。大仏造立の詔。744年(天平16) 安積皇子死去。難波京遷都745年(天平17) 平城京遷都。746年(天平18) 家持(29歳)3月宮内少輔就任。 6月越中守転任。9月弟・書持死去。748年(天平20) 家持(31歳)2月越中諸郡を巡行(巻17-4021~9) 3月田辺福麻呂が来越し宴席(巻18ー4032~55)749年(天平勝宝元) 2月陸奥国より黄金貢上 7月孝謙天皇即位 藤原仲麻呂大納言就任。751年(天平勝宝3) 家持(34歳)7月少納言就任 8月帰京の旅に立つ。 11月懐風藻成る。752年(天平勝宝4) 4月大仏開眼会(家持35歳)753年(天平勝宝5) 2月春愁絶唱3首(巻19-4920~2)754年(天平勝宝6) 家持(37歳)4月兵部少輔就任 11月山陰道巡察使就任755年(天平勝宝7) 家持(38歳)2月防人閲兵のため難波に赴く。756年(天平勝宝8) 2月橘諸兄辞職 5月聖武上皇崩御。遺詔により道祖王立太子。757年(天平宝字元) 1月橘諸兄死去。 4月道祖王廃太子、大炊王立太子。 6月家持(40歳)兵部大輔に昇任。 7月橘奈良麻呂の変。大伴古麻呂、大伴池主獄死。758年(天平宝字2) 6月家持(41歳)因幡守に転任。 8月大炊王即位(淳仁天皇)759年(天平宝字3) 1月家持(42歳)因幡国庁で新年の歌を詠む。 (巻20-4516)762年(天平宝字6) 1月家持(45歳)信部(中務)大輔就任。763年(天平宝字7) 藤原良継の乱。家持(46歳)も連座したとして解 任、京外追放に処せられるが、間もなく放免となる。764年(天平宝字8) 1月家持(47歳)薩摩守に転任。 9月藤原仲麻呂の乱。 10月淳仁廃帝、称徳天皇重祚。767年(神護景雲元) 8月家持(50歳)大宰少弐就任。770年(宝亀元) 6月家持(53歳)民部少輔就任。 8月称徳天皇崩御 9月家持、左中辨兼中務大輔就任。 10月白壁王即位(光仁天皇)772年(宝亀3) 2月家持(55歳)左中辨兼式部員外大輔就任。774年(宝亀5) 3月家持(57歳)相模守に転任。 9月左京大夫兼上総守転任。775年(宝亀6) 11月家持(58歳)衛門督に転任。776年(宝亀7) 3月家持(59歳)伊勢守に転任。780年(宝亀11)2月家持(63歳)参議に昇任、議政官の一員となる。 右大辨兼任。781年(天応元)4月山部王即位(桓武天皇)、早良親王立太子。 家持(64歳)右京大夫兼春宮大夫就任。 12月光仁上皇崩御。 家持、山作司(山陵を造る役所)に就任。782年(延暦元) 閏1月家持(65歳)氷上川継の乱に連座して解任、 京外追放。 5月家持、参議従三位兼春宮大夫に復任。 6月家持、春宮大夫兼陸奥按察使鎮守将軍に転任、多賀 城に向かう。783年(延暦2) 7月家持(66歳)陸奥駐在のまま中納言に就任(春宮大 夫兼任)。784年(延暦3) 1月家持(67歳)持節征東将軍兼任。 11月長岡京遷都785年(延暦4) 8月家持(68歳)死去。 9月藤原種継暗殺事件。家持が関与したとして生前の官 位官籍剥奪、息子・永主ら一族が隠岐へ配流となる。 早良親王、廃太子となり、淡路へ流される途上で死去。794年(延暦13) 10月平安京遷都800年(延暦19) 7月早良親王に崇道天皇号を贈り、井上内親王の皇后 位を復し、その墓を山陵とする。806年(延暦25) 3月桓武天皇崩御。病床にて、天皇から種継暗殺事件 関係者を本位に復する旨の詔が発され、家持も従三位に 復する。 万葉とも大伴家持とも直接の関係はありませんが、写真が無い記事というのも寂しいので、先日、銀輪散歩で姫路に出掛けた折に撮った姫路城の写真を掲載して置きます。 その心は、1298歳ともなれば姫路城と同様に修復工事が必要であるという点で、些かの関連が無いこともない、というものでありますが、もう手遅れという声もあるようにて、姫路城のような甦りは期待できそうにもない妖怪、静かに溶解して行くの他ありませぬかな。(姫路城)
2016.01.29
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ブログ更新を3日間サボっていましたが、今日も更新しないでいると「いかにかあらむ」とご心配いただくことになってもよくないので、記事を更新することとします(笑)。 今朝は、首都圏・関東方面で大雪。交通などかなりの混乱もあったようですが、こちら大阪は事もなしでありました。もっとも、明日は雪がチラつくかもしれないとか。ところで、先日、自宅の庭の片隅にヤブコウジ(藪柑子)が赤い実を付けているのを見付け、写真に撮りました。この赤い実と雪で連想する歌と言えば、大伴家持さんのこの歌であります。この雪の 消(け)残(のこ)る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226)<この雪が消え残っているうちに、さあ行こう。この雪に山橘の実が照り輝くのを見よう。>(注)山橘=ヤブコウジ(藪柑子)。(有磯高校の万葉歌碑)2012年11月7日記事掲載写真の再掲載。 上の歌は大伴家持が越中守であった時、天平勝宝2年(750年)の12月、家持33歳の時の歌である。家持が越中守を拝命したのが天平18年(746年)6月、29歳の時であるから、越中で迎える5度目の冬ということで、すっかり越の雪の冬にも慣れて、季節を楽しんで居る風でもあります。 大伴家持は6年後にも「山橘」の歌を作っている。天平勝宝8年(756年)11月5日の夜の作である。雷が鳴り、雪が降って庭が雪に覆われた。それを見て感興を覚えて作った歌という。きっと、越中時代に作った上の歌のことを思い出して即興で作ったのであろう。消(け)残(のこ)りの 雪にあへ照る あしひきの 山橘を つとに摘み来(こ)な (大伴家持 万葉集巻20-4471)<消え残る雪に照り映え合っている(あしひきの)山橘をみやげに摘んで来よう。>(注)あへ照る=「あへ」は「一緒に」の意。照り合って。 つと=つと、づと。土産のこと。(庭のヤブコウジ)ヤブコウジ・Wikipedia<追記>1月19日の銀輪散歩で、京都府城陽市寺田正道にある正道官衙遺跡公園にも山橘の家持歌碑があるのを見付けましたので、掲載して置きます。
2016.01.18
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春は花、秋は紅葉であるが、もう一つ別の感じ方というのが我々にはある。春は光によってそれを感じ、秋は風の音によってそれを感じる、というのがそれである。光の春は花咲きて 風の音秋は葉ぞ匂ふ このフレーズは何年か前に「万葉調の歌に曲を付けたい」という友人の箏曲家・和麻呂氏からの依頼で、「万葉孤悲歌」と題して春夏秋冬の恋歌4首を作ったことがあるが、その時の副題として作ったフレーズである。「風の音」は「かぜのおと」ではなく「かぜのと」と訓む。 このフレーズを作る時に小生の頭にあったのは、ひさかたの 光のどけき 春の日に しづごころなく 花の散るらむ (紀友則 古今集84)秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる (藤原敏行 古今集169)などの歌である。 万葉集で秋風の音を詠った歌と言えば、この2首であろう。わが宿の いささ群竹(むらたけ) 吹く風の 音のかそけき この夕(ゆふべ)かも (大伴家持 万葉集巻19-4291)君待つと わが恋ひをれば わが宿の 簾動かし 秋の風吹く (額田王 万葉集4-448) ここで言う「風の音」は、風そのものが立てる音ではない。唸り立てる強風や吹き続ける強風ではなく、そより吹く風、或は一瞬にやや強く吹き抜ける一陣の風であり、その音は風そのものの音ではなく、風にそよいで何かが立てる音である。それを風の音と捉えて我々はそこに「秋」を感じるのである。 光の春は外へ外へと心が向かうのに対して、風の音秋は内へ内へと心が沈潜して行くのであり、沈潜した心が外界の音に対してハッと気づく、そういう形で我々は秋を感じたりもするのである。従って、それは「かそけき」音であったり、あるかなきかの「簾のゆらぐ」音でなければならないのである。 しかし、風の音を詠った歌は、調べてみると多くはない。殆ど無いと言ってもいい。それは、色や形で表現される視覚的な言葉の豊富さに比して、音を表現する聴覚的な言葉の少なさに起因しているのだろう。言葉がもっぱら音声によってのみ伝えられるものであった時代はそうでもなかったのかも知れないが、文字化されて音を伴わず視覚のみによって伝達されるということが主流となったこととも無関係でないのかも知れない。 そういう中で上の大伴家持の歌と額田王の歌は、見事に「音」を捉えて表現した名歌と言うべきだろう。そして、それは共に「秋」の歌であるというのも我々の心の向き方と関係しているのだろう。 尤も、こういうのは「ニワトリと卵の何れが先か」と同じで、「感じ方」が先か「歌」が先か、と考え出すと何とも分からなくなって来るのではある。我々はものを見て何かを感じるが、それは既に内側に蓄積されたものとの照射によって生まれるもの。上の藤原敏行や大伴家持や額田王の歌を知ってしまったら、それらの歌と無関係で「秋の風」の音を感じることが難しくなるだろう。そのように、個人個人の感覚もその者が立つ風土や歴史に培われた文化によって色付けされて行くのは不可避であるからです。 我々は、先人たちの歌や俳句などを心の襞にうち重ねて何層にもなる豊かな感受性を育てて来たと言うことでもあるでしょう。 秋と風の音ということで何とはなしに書き始めたこの記事、何処へ吹いて行けばいいのか迷走し始めています(笑)。 さて、ブログ記事も亦、視覚的な構成を取っていますから、音を表現するのは難しい。ということで、「葉ぞ匂ふ」の方でまとめることとしましょう。 わが里の本格的な紅葉の時期はまだ先であるが、それでもよく見ると既にチラホラともみじする木もあって銀輪散歩の目を楽しませてくれるのである。そして、サアーッと一陣の風が吹きも来て草や木々の葉がさやぐと更にも秋なのである。(サクラの紅葉)春花の 桜も良けど もみつ葉の 桜の秋も 見らくしよしも (花園紅葉) (同上)(同上) さて、ついでに昨日の大阪城公園で見たガマの穂も「秋」の景色でありますので掲載して置きます。(ガマ) (同上) 花園中央公園では、エゴノキの実が弾ける。(エゴノキの実・種子三態) しかし、ひょっとするとこれはエゴノキの実ではないのかも知れない。小生の記憶では、エゴノキの実の皮はもっと薄いもので、剥がれるように割れて、もっと真っ黒になった種子が顔を出す、というものであるからです。この実は表皮が厚く、皺が寄って来て弾けるように割れて茶褐色の種子が現れる。こういう種類のエゴノキもあるのだろうか。17日の記事ではないが、ウリカワのようになってもいけないので、断定は避けて深入りはしないこととします(笑)。(アキニレ) こちらでは、楡の実が風に揺れている。(アキニレの種子) ニレにはハルニレとアキニレとがあり、春に花咲き実を付けるのがハルニレ、秋に花咲き実をつけるのがアキニレ、とまことに分かり易い。 (同上) 楡に秋楡、春楡があるように、銀輪散歩にも銀輪春散歩と銀輪秋散歩がある。光と共に走るのが春散歩で風の音と共に走るのが秋散歩であるが、こちらの方は何やらよう分かりまへんなあ。まあ、銀輪は春もよし、秋もよしで、額田王のように秋に軍配を上げたりはしない。野に出でよ 光の春は 花咲きて 風の音(と)秋は 葉ぞ匂ふ 絶えず通はな をちこちの 万花千葉 銀輪の道 (偐家持) 結局、何やら訳の分からぬ記事のままに本日はこれまで。
2015.10.20
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本日はナナ万葉の会の第13回例会の日でした。 喫茶ナナは女主人「ナナの郎女」さんこと小〇さんのご都合で閉店となりましたので、ナナ万葉の会も打ち切りにしてもいいのですが、今回の「崇福寺跡へのウオーク」は、3月に実施する予定であったのが雨で中止となり、順延となっていたものなので、一応実施することとしたものであります。小〇さんは生憎と足の不調で不参加となるなどもあって参加者は少数となりました。男性3名(植〇氏、中〇氏、ビッグジョン氏)、女性2名(松◎氏、松〇氏)で、案内役の小生を含めて全6名の少数精鋭でありました(笑)。 今回のウオークの下見を3月1日にして居り、それを記事にしている他、2012年にも崇福寺跡を訪ね記事にしていますので、併せご覧戴くこととし、それを前提に写真などはかなり省略して居りますのでご容赦を。 <参考>「近江神宮・志賀の山寺」2015.3.1. 「崇福寺跡へ」2012.1.26. 京阪・石山坂本線の近江神宮前駅に午前11時集合・出発。コースは、近江神宮前駅~大津京シンボル緑地~近江神宮~南滋賀廃寺跡~榿木原遺跡~千躰地蔵堂~百穴古墳群~崇福寺跡~滋賀里駅である。6km程度の行程である。 JR京都で湖西線の普通電車に乗り換えると松◎さん、松〇さん、中〇さんと車内で一緒になりました。近江神宮前駅に着き、既に到着されていた植〇さんと合流。一つ後の電車でビッグジョン氏も到着、10時52分には全員集合、出発となりました。 大津京錦織遺跡などを見学した後、大津京シンボル緑地へ。此処には、天智天皇、額田王、藤原鎌足、柿本人麻呂、平忠度の歌碑がある。それぞれの歌碑については、下記ブログ記事で紹介していますので、それをご参照下さい。 <参考>「大津京歌碑散歩(その2)」2013.1.8. 近江神宮の参道に入る。(近江神宮鳥居) 近江神宮境内にある、大友皇子詩碑(吟友之碑)、柿本人麻呂歌碑、高市黒人歌碑、保田與重郎歌碑、芭蕉句碑、天智天皇歌碑などを巡る。 ゆっくりペースであった所為で近江神宮を出る前に正午を回ってしまっていたので境内域内でお弁当タイムとする。 昼食後、南滋賀町廃寺跡に立ち寄る。地元の方であろうか数名の方が草刈の作業中でありました。(南滋賀町廃寺跡) この寺は発掘当初は、崇福寺か梵釈寺ではないかとも見られたが、崇福寺跡がその後発見され、梵釈寺は崇福寺に近接して建立されたものであるから、その何れでもないということで、寺名不詳・南滋賀町廃寺と呼ばれている。 廃寺跡から南志賀ランプに向かう。下鴨大津線バイパス沿いに榿木原遺跡という窯跡がある。この南滋賀町廃寺の瓦などは此処で焼かれたものとのこと。 (榿木原遺跡)(同上説明板) バイパスに沿って北へ。最初の信号でバイパスの下をくぐり、川沿いに行く。滋賀里駅から上って来る道に突き当たった処で左折、少し坂を上ると千躰地蔵堂。更に上ると百穴古墳群である。(百穴古墳群説明板※)(百穴古墳群入口※) 百穴古墳群に隣接して竹林があり、葉洩れ日が竹林を煙らせているような不思議な風情。 サラサラと砂のごとにも光降り・・でありました。 かぐや姫は何処におはしますか(笑)。(百穴古墳群の竹林) 百穴古墳から少し上ると志賀大仏。更に上ると本日の目的地の崇福寺跡である。 (志賀大仏※) (同左※)(同上説明板※)(崇福寺跡伽藍位置図※)(崇福寺跡説明板※) 崇福寺にまつわる万葉悲恋のご紹介。 但馬皇女と穂積皇子との悲恋物語である。 母、氷上娘(鎌足の娘)に早くに死なれ<天武11年(682年)正月没>た但馬皇女は、同母の兄弟姉妹もなく庇護者もなかったので、異母兄の高市皇子に引き取られ、後に妻の一人となったと見られている。尤も、これは万葉集の歌からの推量で確証はなく、兄として高市が面倒を見ていただけという説もある。穂積皇子と許されぬ恋愛関係となるが、露見し、二人の仲は引き裂かれる。穂積皇子は志賀の山寺へ追いやられる。 万葉集の歌から、但馬との恋愛・密通事件で左遷されたと推測されている穂積皇子であるが、彼の志賀山寺派遣は、別の何らかの理由による左遷であるとする説や藤原京遷都の報告をするため持統天皇の命によって崇福寺に派遣されたに過ぎないなどの説もあって、真相は「藪の中」である。そして、その崇福寺跡は「山の中」である(笑)。 <参考>「ふる雪はあはにな降りそ・・」2011.12.25.(崇福寺跡・金堂跡) 但馬皇女の歌2首を記載して置きましょう。秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛(こちた)かりとも (巻2-114)おくれゐて 恋ひつつあらずは 追ひ及(し)かむ 道の隈廻(くまみ)に 標(しめ)結(ゆ)へ吾背(あがせ) (巻2-115)(ウオーク参加者のスナップ。松〇さん、ビ氏、松◎さん)うしろ姿もながめてみるか (志賀山中火) 帰途は、皆で滋賀里駅前の喫茶店「大受」に入り、冷たい飲み物で体を冷やしながら5時少し前まで歓談でした。(注)上記掲載の写真のうち、キャプションに※印のあるものは本日撮影のもので はなく、以前の訪問の折に撮影したものを流用しています。
2015.05.27
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フォト蔵への写真アップが出来なくなっていたので本日はブログ更新をお休みとする心算でしたが、今朝にはもう正常に復していました。 ということで、蕪村銀輪散歩の記事が長引いて、フォト蔵へのアップをしないままでいた、先日(20日)実施の倉橋池銀輪散歩の折の写真をフォト蔵に本日アップロードしました。しかし、その記事を始めると長くなるので、それは追って後日にするとして、本日は、その倉橋池畔で撮った蝶の写真のみ掲載してお茶を濁して置きます。 倉橋池というのは、奈良県桜井市にある。桜井駅から談山神社へと行く道の途中にある大きな溜池である。池の周囲を廻る遊歩道(約4km)があって散策には手頃である。自転車だと更にも簡単に回れてしまって少し物足りないが、トンボ池広場、野鳥の森広場などと名付けられた芝生広場が処々にあって、池の景観もなかなかによく、快適な散策を楽しめる。 倉橋池は、高山池、白川池、斑鳩池と並び奈良県の四大溜池とされているとのこと。 白川池は北・山の辺の道銀輪散歩で立ち寄っているが此処は今回初めてである。高山池と斑鳩池は知らない。何れ機会があれば、です。 桜井駅前で買って来たお弁当で、この池の畔の「トンボ池広場」で昼食としたのであるが、その折に飛来した蝶というのが今日の写真です。 トンボ池広場なのにトンボが居なくて蝶が来た、というのが面白くて写真に収めたのであるが、小生のそのような心を察してか、程なくトンボが一匹飛来しました。尤も、これは撮影に失敗しました。(イチモンジチョウ)(同上)(注)フォト蔵へのアップは出来たものの、ブログへ貼ろうとすると「アップロー ド処理」が完全には済んでいないようで、出来ない。結局、楽天写真館を利 用してのブログ貼り付けとなりました。 万葉集に蝶は出て来るのかと調べたら、蝶を詠った歌はありません。歌の題詞の中に登場するのみです。 一つは、万葉集巻5の天平2年正月13日の大伴旅人の館で催された梅花の宴の歌32首の題詞である。「・・庭には新しき蝶舞ひ、空には故つ雁帰る。・・」とある。 もう一つは、巻17の、病に臥した大伴家持とそれを見舞う大伴池主との間に交わされた歌群の中の、大伴家持の天平19年2月29日の歌(下記)の題詞である。「・・紅桃灼灼として戯蝶囘りて舞ひ・・」とある。 花鳥風月であって花蝶風月に非ずという訳で蝶はあくまで脇役であったのですな。蝶に言わせれば、鳥無き里の蝙蝠ならぬ、鳥無き里の蝶にもあらまし、でしょうか。山峡(かひ)に 咲ける桜を ただひと目 君に見せてば 何をかおもはむ (大伴家持 万葉集巻17-3967)うぐひすの 来鳴く山吹 うたがたも 君が手触れず 花散らめやも (同上巻17-3968) 一方、トンボの方や如何にと尋ぬれば、これもトンボそのものを直接に詠った歌はありません。トンボの古称は蜻蛉(あきづ)。雄略天皇が狩をしていた時にふくらはぎに虻がとまって刺すがそれをトンボが捕まえて飛び去る、で、それをよしとした天皇がその地を秋津(あきづ)と名付ける。やがて秋津は「秋津嶋やまと」などと使われるようになり全国区の名称となりますが、万葉では、もう一つ「あきづ羽の袖」とか「蜻蛉領巾(あきづひれ)」というのが出て来る。これは女性の衣や領巾など薄い布をトンボの羽になぞらえた美しい表現である。あきづ羽の 袖振る妹を 玉くしげ 奥に思ふを 見たまへ吾君 (湯原王 万葉集巻3-376)つぎねふ 山城道を 他夫の・・蜻蛉領巾 負ひ並み持ちて・・ (万葉集巻13-3314)
2015.05.26
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昨日(23日)はナナ万葉の会の第11回例会でした。 今回は、大伴家持の生涯と歌をざっと概観してみようというもの。季節柄「桃の花」をということで「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女」の歌を取り上げ、これを講義のタイトルとしました。 自宅から、八尾市恩智の喫茶ナナまで自転車で約30分。雨でもない限りは銀輪散歩を兼ね愛車MTBで走るというのがヤカモチ・スタイル。 この日もMTBで出掛ける。恩智川沿いではなく、山沿いの「上つ道」を走ることする。こちらの方が坂道アップダウンもあって恩智川沿いのそれよりも少しハードな道になる。(東大阪市と八尾市の境界付近から見る生駒山系の山。)(心合寺山<しおんじやま>古墳) 上つ道だとこの古墳の前を通る。(梅) 道の辺の畑に梅が咲いて居たので畑に侵入、撮影。 農作業をされていたおじさんが上の畑では桃が咲いて居ると仰るので、MTBで坂道を上り、その畑へ。(同上) 予想したよりも背の低い木であったが、確かに咲いていました。(桃の花) 低い木なので、「下照る道に出で立つ少女」とは参らぬが、早くも咲き匂う桃の花と出会えたのはラッキーでした。 (同上)(同上) 畑の畦には、春の七草のナズナも咲いていました。(ナズナ) (同上) これは、別の場所ですが、菜の花も。春ですねえ。(菜の花) (同上) 少し時間が早いので、大和川まで走ってから喫茶ナナに向かうこととする。(恩智神社の鳥居前の民家) (大和川) 大和川畔で小休止して、恩智川沿いを引き返す。 15分程度でナナに到着である。 (柏原市安堂付近見取図) (ナナ万葉の会例会案内チラシ) 当日の例会出席者は植〇氏、中〇氏、石〇氏、吉〇氏、武〇氏(以上男性)と小〇氏、松〇氏、高〇氏、永〇氏、谷〇氏、A氏(以上女性)の11名。講師の小生を加えて全12名。偶然にも男女6名ずつとなりました。初参加は中〇氏と武〇氏とA氏(名前をど忘れしてしまったのでA氏としました。)であるが、中〇氏は小生の大学の後輩にて、これまでにも小生が案内役を務めた万葉ウォークに何度もご参加戴いているので顔馴染みである。武〇氏とA氏とは初対面。 講義は、桃の一般的な話(Wikipedia・桃参照)から、桃を取り上げた万葉歌7首の紹介。大伴家持の生涯を年表に従って追いながらその折々の歌を鑑賞。 取り上げた歌の一部を以下に記して置きます。春の苑 紅(くれなゐ)にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ少女(をとめ)(巻19-4139) 15歳処女作うち霧らし 雪は降りつつ しかすがに 吾家(わぎへ)の園に 鶯鳴くも(巻8-1441)振仰(ふりさ)けて 若月(みかづき)見れば 一目見し ひとの眉引(まよびき) 思ほゆるかも (巻6-994)かからむと かねて知りせば 越の海の 荒磯(ありそ)の波も 見せましものを(巻17-3959)もののふの 八十をとめらが くみ亂(まが)ふ 寺井の上の かたかごの花(巻19-4143)朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝こぎしつつ 唱(うた)ふ船人(巻19-4150) 春愁3首春の野に 霞たなびき うらがなし この夕影に うぐひす鳴くも(巻19-4290)わが屋戸の いささ群竹(むらたけ) ふく風の 音のかそけき この夕(ゆふべ)かも(巻19-4291)うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり 情(こころ)悲しも 独りしおもへば(巻19-4292)新(あらた)しき 年の始めの 初春の 今日ふる雪の いや重(し)け吉事(よごと) (巻20-4516) 大伴家持は養老2年(718年)に生まれ延暦4年8月28日(785年10月5日)に没しているが、彼の生涯も亦陰謀渦巻く中央政界の波に翻弄されたものであった。729年長屋王の変(家持12歳、以下は家持の数えの年齢)740年藤原広嗣の乱(23歳)756年橘諸兄失脚事件(聖武を誹謗したとの密告)(39歳) 大伴古慈斐出雲守解任事件(朝廷誹謗との密告)757年橘奈良麻呂の変(40歳)758年家持、因幡守に左遷(41歳)763年藤原良継の乱(46歳)764年家持、薩摩守に左遷(47歳) 藤原仲麻呂の乱772年井上皇后廃后・他戸皇太子廃太子事件(55歳)782年氷上川継謀反事件(65歳)785年家持没(8月28日・68歳) 藤原種継暗殺事件(9月23日) 家持の生前の官位剥奪(9月24日) 早良皇太子廃太子・淡路配流の途中で死亡(9月28日) 講義の後は小〇さんが料理や茶菓子を出して下さって、暫しの懇親パーテイー。暮れなずむ頃に帰途につきました。 次回第12回例会は、3月29日志賀の山寺・崇福寺跡へのハイキングと決まりました。<参考>喫茶ナナ、ナナ万葉の会関連の過去の記事はコチラから。
2015.02.24
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今日はナナ万葉の会の第10回例会の日。昨年4月から始めた月1回のナナ万葉の会も10回目となりました。 今回取り上げた万葉歌人は大伴旅人。山上憶良などと並ぶ万葉第3期を代表する歌人にて、大伴家持の父である。旅人の大宰府赴任の事情や当時の政治状況、長屋王の変などを交えながら、大宰府で妻を亡くした旅人の心にも寄り添いつつ、彼の歌を鑑賞。そして、天平2年(730年)1月13日、太宰帥大伴旅人邸で開かれた観梅の宴での歌32首の中のいくつかを解説、鑑賞致しました。 喫茶ナナ(cafe de nana)に行く前に近くの和菓子屋さんに立ち寄りました。会のお茶休憩の折に参加者の皆さんに召し上って戴こうと考えてのものでした。「我が園に梅の花散る」が講義のサブタイトルであり、観梅の宴の歌を取り上げるので、「梅」をモチーフにした和菓子があれば「落ちがつく」のだが、という小生の目論見でした。 しかし、世間はそうは都合よくはできていないもの。梅関連の菓子はなし。仕方がないので桜餅と苺大福を買い求める。桜と苺で「埋め合わせ」で「ウメ」になるだろうと苦しい駄洒落。 今日の参加者は男性3名、女性5名。小生を含めて全9名でした。会終了後はママさんから「おでん」の振舞もあって、ちょっとした新年会の風情。風雅の点では、旅人らの「観梅の宴」には及ぶべくもないが、小生も含めて皆さん「おでん」をペロリ完食。こちらも「完食の宴」にて、語呂的にはヒケを取らないのでありました。(ナナの店先には本日の案内チラシも) 本日の例会のタイトルの「わが園に梅の花散る」は、観梅の宴で主人役たる大伴旅人が詠んだ歌「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」という歌の一節を取ったものである。 白梅の咲き散る様を降る雪に喩えるというのは常套的なことで目新しくもない、陳腐なこととも言えるが、「天より雪の流れ来るかも」とゆったり歌い上げている処は、なかなかなもので、小生の好きな歌の一つでもある。 となれば、梅の写真を添えなくてはブログ的には点睛を欠くというものと、ナナへと向かう途中の道すがら、梅は咲いているかと探しつつ銀輪を走らせたのですが、ありました。八尾市垣内5丁目にある小さな公園(善光寺の北東裏手)の入口に白梅が咲き始めていました。(梅の花) 梅を雪になぞらえたように、万葉に登場する梅は白梅であるから、これでよし、である(笑)。 取り上げた梅の歌のうちのいくつかを記して置きましょう。春されば まづ咲くやどの 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ (山上憶良 万葉集巻5-818)青柳 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし (沙弥満誓 同巻5-821)わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも (大伴旅人 同巻5-822)梅の花 散らくはいづく しかすがに この城の山に 雪は降りつつ (大伴百代 同巻5-823)万代に 年は来経とも 梅の花 絶ゆることなく 咲きわたるべし (佐伯小首 同巻5-830)梅の花 今盛りなり 百鳥の 声の恋しき 春来たるらし (田氏肥人 同巻5-834) 次回第11回例会は2月23日午後2時からと決まりました。今回は「梅」であったので、次回は「桃」とします。タイトルは「くれなゐにほふ桃の花」です。今回は大宰府でしたが、次回は越中高岡になりますかな。 但し、今回のように「取材」をしている余裕はなさそうです(笑)。 本音では2月は飛ばして3月にと思っていたのですが、2月もやれとのことでありました。では、どちらさまもご免なさって下さいませ。<参考>ナナ万葉の会関連の記事はコチラ。
2015.01.31
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本日は第9回ナナ万葉の会例会でした。 前回の例会が大学同窓会の青雲塾万葉ウォークとの合同開催となったことで、そのご縁で、大学の先輩、植〇氏も今回はご参加下さることになったほか、新しくお二人の女性がご出席となり、参加者は11名(女性9名、男性2名)となりました。 今回、初めてご参加の女性お二人は、小生の友人でもある岡本三千代(万葉うたがたり会代表)さんが講師をなさっている万葉講座にご参加されているとのことで、不思議なご縁でした。 さて、植〇先輩は喫茶ナナの東方の山麓にある恩智神社に行ってみたいと仰っていたので、早めに喫茶ナナに行って、同氏を神社へご案内することとしました。ご案内したのは、恩智神社、恩智城趾、八尾第一万葉植物公園、恩智左近墓などですが、写真は撮っていません。当ブログの過去記事にそれらを紹介したものがありますので、興味ある方は下記<参考>の記事をクリックしてご覧下さい。 <参考>万葉歌碑・八尾第一万葉植物公園 2014.1.12. 恩智城趾と恩智神社(上) 2014.1.14. 恩智城趾と恩智神社(下) 2014.1.15. 今回の例会のタイトルは「野にかぎろひの立つ見えて」でありました。タイトルからもお分かりのように、柿本人麻呂の有名な歌からの文言です。次回のテーマは何にしようかと決め兼ねていたら、我妹曰く「今の時期なら’’かぎろひ’’でしょう。」と一言。なるほど、とこれを採用。10歳そこそこの少年、軽皇子(草壁皇子の子息、のちの文武天皇)に供奉しての阿騎野遊猟の歌を取り上げることとしました。 併せて柿本人麻呂の生涯やその死などにも触れ、人麻呂のその他の歌も少しばかり鑑賞という内容にしました。 この辺のことも過去の銀輪散歩の記事で一部取り上げていますので、興味ある方はそちらをご参照下さい。 <参考>かぎろひの丘銀輪万葉(その1) 2011.1.7. かぎろひの丘銀輪万葉(その2) 2011.1.8. かぎろひの丘銀輪万葉(その3) 2011.1.9. で、面白い偶然は、今回初参加の女性お二人は、共にその「かぎろひの丘」のある大宇陀のご出身ということであり、また、常連のお一人の女性は来年1月7日に、その宇陀の地で行われている「かぎろひを見る会」に、友人に誘われて参加することになっていて、現地での旅館を予約したばかりだというのでありました。そういう意味では、今回のテーマはまことに当を得たものであったということになりますかな(笑)。 いつもは2時間以上も色々と脱線しながらお話するのですが、今回は3時からクリスマス会をやることとなっていて、ギター演奏などのアトラクションやワインや大根炊きなどの食べ物も出るということなので、それまでには話を切り上げるべしで、少し端折った説明となり、1時間で切り上げました。最後に皆で人麻呂の歌を何首か朗誦して締めと致しました。 次回第10回例会は来年1月31日(土)に開催と決まりましたので、翌日2月1日の若草読書会での「万葉の話」と同じテーマでやることとし、大伴旅人を取り上げることにしようかと思っています。取り上げる角度は少し変えてと思っていますが、資料作りがその方が楽なので。ヤカモチ流という奴です(笑)。 さて、次の部は楽しいクリスマス・ギターコンサート。(nanaクリスマス会 ギター演奏風景) 演奏下さったのは、喫茶ナナのママさん、小〇さんのお知り合いの方たち。ボランティアであちらこちらで広く演奏活動をなさっているとのこと。グループのお名前は、とお聞きすると、ダンディーズだったが、「男爺爺ズ」に変えたとか本当とも冗談ともつかぬことを仰っていました。リーダーの男性と小〇さんとはお住まいがご近所のようでありました。 クリスマスソングや懐かしい歌を演奏下さり、楽しませて戴きました。楽しい演奏有難うございました。 植〇先輩のシャンソンは残念ながら今回はお預けとなりました。 ご本人曰く「酔って歌詞が思い出せなくなった」。是非に及ばず、でありますな(笑)。(同上) 最後に、銀輪家持の相棒の銀輪影持君をご紹介申し上げます。 これは、昨日の花園中央公園での写真です。 どうぞ、みなさま、良いクリスマスを。(銀輪・影持登場)<参考>ナナ万葉の会関連記事はコチラから。
2014.12.23
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本日はナナ万葉の会の日。4月から始めたこの会も早くも6回目を数えることとなった。台風の影響による雨も心配されましたが、幸い、雨に降られることもなく、MTBによる自宅から喫茶ナナまでの往復も何ら支障のないものとなりました。いつもの通り、午後2時からの開催であるが、午後1時になるかならない位には、もうナナに到着。喫茶店の前に駐輪してから、少し近くを散策。目にとまったものを撮影しましたので、それらを紹介して置きます。(東大阪市と八尾市の境界付近) 上の写真は、小生が「上ツ道」と呼んでいるコースをとった時に通る道の辺の景色。今日は、恩智川べりなどのコースをとらず、一番山に近いコース、つまり「上ツ道」コースを走りました。奥に見えている白い建物は大阪経済法科大学の建物である。 さて、喫茶ナナの前を流れている恩智川には大きな鯉が沢山泳いでいる。(恩智川の鯉)(同上・うじゃうじゃといる。) (山芋のムカゴ) ナナの店の前の橋を西に渡ると倉庫とも作業場ともつかぬ建物と広い前庭のある敷地がある。この敷地の垣根に山芋の蔓が這わせてありました。以前にピンクの花のノウゼンカズラを見たことを当ブログでご紹介したが、同じ垣根である。ノウゼンカズラに混じって山芋の蔓もあったのでした。ムカゴが沢山なっていた。 ムカゴというのは実ではなく、山芋の茎(蔓)が肥大化して肉芽となったもので、こういうのを栄養生殖器官と呼ぶそうで、種子と同様に、これが本体から離脱して地に落ちると根が生え、芽が出て、新しい植物となるとのこと。 山辺や山中でなく。川辺の垣根で山芋のムカゴに出会うというのも面白いことであります。(同上) その前庭に少し侵入させて戴くと、入口近くには大きなヘチマがなってもいました。最近はヘチマも余り見かけなくなったので、珍しく、撮影させて戴きました。(糸瓜) 国道170号・外環状道路の方へと歩いて行くと民家の前に鮮やかな花が咲き匂っていました。見たことのある花なのだが、名前が思い出せない。 <追記>早速にひろみちゃん氏からブーゲンビリアだとご教授戴きました。 外環状道路に出た処で陸橋があったので上ってみる。南方向には近鉄大阪線の恩智駅が見える。(恩智駅)(国道170号・外環状道路) 陸橋から北東方向の眺めはこんな感じ。道路の右に見えている奥の赤い看板がパチンコ屋の看板。この付近で恩智川と外環状道路が交差している。(高安山 白い気象レーダーのある山がそれ。) 東方向を見ると高安山が見える。 ということで、喫茶ナナ(Cafe de nana)のある恩智駅付近の様子をご紹介申し上げました(笑)。 散策を終え、ナナに戻り、万葉の会開催。 今日の参加者は遅れて来られた方も含め、男性2名、女性7名の9名でした。うち5名は初参加の方。雨の予報でもあったので参加者は少ないのではと思っていましたが、予想に反して、でありました。雨も予想に反して降りませんでしたが。 採り上げた歌を例によって下に列記して置きます。長歌は省略して短歌のみ記載します。会の最後には皆で犬養節でこれら短歌を朗誦致しました。芦屋の 菟原娘子の 奥津城を 行き来と見れば 哭のみし泣かゆ (巻9-1810)墓の上の 木の枝靡けり 聞きしごと 千沼壮士にし 寄りにけらしも (巻9-1811)古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥つ城ぞこれ(巻9-1802)語り継ぐ からにもここだ 恋しきを 直目に見けむ 古壮士(巻9-1803)処女らが 後のしるしと 黄楊小櫛 生ひかはり生ひて 靡きけらしも (巻19-4212)葛飾の 真間の井見れば 立ち平し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ (巻9-1808)吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城どころ (巻3-432)葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ (巻3-433)無耳の 池し恨めし 吾妹子が 来つつ潜かば 水は涸れなむ(巻16-3788)あしひきの 山かづらの児 今日ゆくと 吾に告げせば 還り来ましを (巻16-3789)あしひきの 玉かづらの児 今日のごと いづれの隈を 見つつ来にけむ (巻16-3790)春さらば かざしにせむと 我が思ひし 桜の花は 散り行けるかも (巻16-3786)妹が名に かけたる桜 花咲かば 常にや恋ひむ いや年のはに (巻16-3787)<参考>喫茶ナナ関連の過去の記事はコチラからご覧下さい。
2014.09.24
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本日は第5回ナナ万葉の会で、近鉄大阪線恩智駅前の喫茶店「カフェ・ド・ナナ」まで行って参りました。と言っても勿論、電車で、ではなく、自転車(MTB)で、です。 今回の参加者は男性2名、女性6名の8名。講師役の小生を含んで総勢9名の「こじんまり」とした会です。今回は男性の畑〇氏が「神」を詠った歌を紹介して欲しい、というご要望であったので、そのような歌を拾い出すこととしました。歌はそもそもが神に捧げるもの、或は神との問答、神の言葉として発生し、存在し得たものなのでもあるが、神そのものを詠んだ歌というのはそれほど多くはなく、神にかこつけての恋の歌とか天皇を神と讃える歌などの方が目に付くというのが万葉の歌である。ということで、ともかくも「かみ・神」という言葉を含む歌をランダムに万葉集から拾い出すということで「神の歌」ということとしました。畑〇さんのご期待には沿えていないかと思うが、万葉集がそのようであるのだから仕方がない(笑)。 で、小生の独断・勝手裁量で取り上げた本日の歌は次の通りでした。1.香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくなるらし いにしへも しかなれこそ うつせみも つまを 争ふらしき (巻1-13)2.香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原 (巻1-14)3.渡津海の 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 清明こそ(巻1-15)4.近江荒都歌<略>(巻1-29)5.ささなみの 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の 船待ち兼ねつ (巻1-30)6.楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またもあはめやも (巻1-31)7.おほきみは 神にしませば 天雲の 五百重が下に 隠りたまひぬ (巻2-205)8.おほきみは 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬らせるかも (巻3-235)9.皇は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海をなすかも (巻3-241)10.大君は 神にしませば 赤駒の はらばふ田居を 京師となしつ (巻19-4260)11.大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 皇都となしつ (巻19ー4261)12.住吉の 野木の松原 遠つ神 わが王の いでましどころ (巻3-295)13.今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は (巻3-295)14.天地の 神を祈りて 幸矢貫き 筑紫の島を さして行く吾は (巻20-4374)15.佐保過ぎて 寧楽のたむけに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞ(巻3-300)16.周防なる 磐国山を 越えむ日は 手向けよくせよ 荒しその道 (巻4-567)17.ちはやぶる 神の御坂に 幣奉り 斎ふいのちは 母父がため (巻20-4402)18.ちはやぶる 神の社し 無かりせば 春日の野辺に 粟蒔かましを (巻3-404)19.春日野に 粟蒔けりせば 鹿待ちに 継ぎて行かましを 社し留むる (巻3-405)20.わが祭る 神にはあらず ますらをに 著きたる神ぞ よく祭るべき (巻3-406)21.大船に 真楫繁貫き この吾子を 韓国へ遣る 斎へ神たち (巻19-4240)22.春日野に 斎く三諸の 梅の花 栄えて在り待て 還り来るまで (巻19-4241)23.白雲の 龍田の山の<略>高橋虫麻呂の長歌(巻9-1747)24.わが行きは 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし (巻9-1748)25.島山を い行きめぐれる<略>高橋虫麻呂長歌(巻9-1751)26.い行相の 坂のふもとに 咲きををる 桜の花を 見せむ兒もがも (巻9-1752)27.山川も よりて奉れる 神ながら たぎつ河内に 船出するかも (巻1-39)28.玉かづら 実ならぬ樹には ちはやぶる 神ぞ著くとふ ならぬ樹ごとに(巻1-101)29.わが岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ(巻2-104)30.大汝 少彦名の いましけむ 志都の石屋は 幾代経ぬらむ (巻3-355)31.大穴道 少御神の 作らしし 妹背の山は 見らくしよしも (巻7-1247)32.天地の 神も助けよ 草まくら 旅ゆく君が 家に至るまで (巻4-549)33.思はぬを 思ふといはば 大野なる 三笠の社の 神し知らさむ (巻4-561)34.住吉に 斎く祝が 神言と 行くとも来とも 船は早けむ (巻19-4243)35.味酒を 三輪の祝が いはふ杉 手触れし罪か 君に逢ひがたき (巻4-712)36.石上 布留の神杉 神さびし 恋をもわれは 更にするかも (巻11-2417)(カフェ・ド・ナナと我がMTB) ということで、本日は写真がありませぬ。今日、店先で撮った1枚を掲載して置きます。右側の喫茶店がカフェ・ド・ナナ。左側の川が恩智川。手前の自転車が我が愛車のMTBであります。
2014.08.27
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前頁の「であいのみち」公園で見かけた植物の写真で未掲載のものがありましたので、余禄としてアップして置くこととします。また、歌碑も4件掲載洩れとなっていることに気付きましたので、これも掲載することとします。 ヤマガタ、ヤマナシ、ヤマグチ、ヤマブキ、異質なのはどれか。ということで、まずヤマブキです。山吹と言えば橘諸兄が植えたことに始まると伝えられる京都府綴喜郡井手町の玉川堤のそれが有名であるが、花の季節は過ぎて、今は実の季節です。玉藻刈る 井堤(ゐで)のしがらみ 薄みかも 恋の淀める わが心かも (万葉集巻11-2721)(ヤマブキの実) 山吹の実は4個で1セットのようですね。栗は3個セットでイガの中に納まっているので、なか(中、那珂)の枕詞として「三つ栗の」が使われる。また、樫の実は1個ずつ生るので、「樫の実の一人行く児に・・」などと「ひとり」の枕詞に使われる。 これに倣うなら、「山吹のよたり集へば・・」などと「四人」の枕詞に「山吹の」を使ってもいいのかも(笑)。(同上)(同上) であいのみち公園の東隅に児童公園があり、そこに地元の子供たちのそれでもあるか、誕生記念樹としてヤマモモの木が3本植わっていました。そのヤマモモがたわわに実を付けて色付き始めていました。(ヤマモモの実)(同上) ヤマブキ、ヤマモモと「山」の付く木が続きましたが、同様に「山」の付く植物は結構ある。思い付くだけでも、「ヤマタチバナ」(ヤブコウジのこと)、「ヤマゴボウ」(洋種山牛蒡のほかアザミの根も山牛蒡と呼ばれる。)、「ヤマヂサ」(万葉集巻11-2469の歌に登場するが、エゴノキ、イワタバコ、アブラチャンの3説がある。)、「ヤマブドウ」(古名・エビカズラ)、「ヤマイモ」、「ヤマスゲ」(ヤブランのこと)など。 この雪の 消(け)残る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226)山ぢさの 白露おもみ うらぶれて 心に深く わが恋やまず (万葉集巻11-2469)ぬばたまの 黒髪山の 山菅に 小雨降りしき しくしく思ほゆ (柿本人麻呂歌集 万葉集巻11-2456) 山に対する語は里。山は神の住まう処、里は人間の住む場所。その中間が野ということになるか。サト→ノ→ヤマ。人間の領域に取り込まれた山が里山、神の領域のそれが奥山。 山に美称を付けて「みやま」などと言うが、これは山の神への畏敬によるものか。どうやら、同じ美称でも「サ」と「ミ」には大きな違い、使い分けがあるようです。 「サ」は「小、狭、早」などの漢字が使われるが、親近感を表す愛称と言うべきものであるのに対して、「ミ」は「御、美、深」などが使われるように、畏敬・賞賛を表す敬称と言うべきもののようです。サト(里)も原型は「さ」の「と(処)」、つまり「おらが場所」ということであったのでしょうかね。 さて、掲載洩れの歌碑は下記の4件です。 (こうぞ) (ひおうぎ)春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天の香具山 (持統天皇 万葉集巻1-28)(注)たへ(栲)=こうぞ(楮)のこと。樹皮が和紙の原料となる。佐保川の 小石踏み渡り ぬばたまの 黒馬の来る夜は 年にもあらぬか (坂上郎女 万葉集巻4-525)(注)ぬばたま=ヒオウギの種子。真っ黒なので、黒、夜、夢、髪などの 枕詞で使われる。 (すすき) (やぶかんぞう)婦負の野の 薄おしなべ 降る雪に 屋戸借る今日し 悲しく思ほゆ (高市黒人 万葉集巻17-4016)(注)婦負(めひ)=富山県婦負(ねい)郡。神通川中下流域。忘れ草 我が下紐につく 香具山の 古りにし里を 忘れむがため (大伴旅人 万葉集巻3-334)(注)忘れ草=ヤブカンゾウのこと。 本日は大学の同窓会(青雲会)の幹事会です。もう少ししたら出掛けます。青雲会囲碁の例会としてこのブログでは度々取り上げている囲碁の例会の会場としても使っている、青雲会交流センターまで出掛けます。幹事会の後、懇親会もありますので、MTBではなく、不承不承電車で出掛けます。 また、喫茶ナナから電話があって、7月も8月も万葉の会を持つこととなりました。取り敢えず7月は16日(水)午後2時から、と決まりました。何をテーマにしますかね。 というようなことで、本日はここまでとします。では、どちら様もご免下さいませ。
2014.06.23
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本日は第3回ナナ万葉の会の日。 生憎と雨のパラつく空模様でありましたが、雨具を着用して、MTBで近鉄恩智駅近くの喫茶ナナまで出かけて参りました。幸い雨は大したことはなく左程濡れることもなくナナに到着しました。到着したのは1時過ぎで、開始時間の午後2時までは随分の時間がある。ナナのお店の方と雑談したり、付近を散歩したりして時間を潰して居りました。 (本日の喫茶ナナ) 喫茶ナナの直ぐ前が恩智川である。大きな鯉が何匹も泳いでいる。岸辺に黄色い花が咲いていました。ナナの松〇さんはこの花が何の花かお気にされていましたが、花音痴のヤカモチにはもとより分かる筈もない。隣のカヤツリグサなら分かるんですがね。(恩智川辺に咲いていた黄色い花) また、川を挟んでナナのほぼ向かいにあるお宅の庭先の黄色い花はシロタエギク。これはその葉が特徴的であるから見間違うことはない。しかし、花だけを示されるとシロタエギクと判別できるかというと、これは自信ありませんですね。(白妙菊・シロタエギク)(同上) さて、そのシロタエギクのお宅の北隣の垣根にはピンクの花が咲いていましたが、これは初めて目にする花のような気がする。名前の見当が付かない。蔓を見るとアケビとかムベを思わせるのであるが、花は全く別物。花はノウゼンカズラのピンク種といった感じなのだが、ノウゼンカズラのそれのように肉厚な花ではない。(蔓性のピンクの花)(同上)(同上) そうこうしているうちに、参加者の皆さんも集まって来られました。と言っても今回はお天気も雨模様という所為でもあったか6名と少な目でありました。 今回のテーマは「相聞歌」。ナナの小〇さんは何やら違うタイトルを店先の張り紙に表記されていましたが、これは小生がきちんと連絡しなかったからでしょう。まあ、話のタイトルは何であってもいいというのがヤカモチの話ではあります。 相聞歌は男女の間に交わされる歌に限るものではないが、多くは男女間に交わされ、必然的に「恋」の歌または「恋」に仮託した歌ということになる。万葉には多くの相聞歌があるので、どれを取り上げるか迷う処であるが、今回取り上げた歌は次の通りです。 1.額田王と大海人皇子 巻1-20、21 2.鏡王女と藤原鎌足 巻1-93、94 3.大津皇子と石川女郎 巻2-107、108 4.天武天皇と藤原夫人 巻2-103、104 5.湯原王と娘子 巻4-631~641 6.大伴家持と娘子 巻4-705、706 7.坂上大嬢と大伴家持 巻4-737~740 8.藤原広嗣と娘子 巻8-1456、1457 9.紀女郎と大伴家持 巻8-1460~1463 10.作者不詳 巻11-2816、2817 11.作者不詳 巻12-3101、3102 12.藤原麻呂と坂上郎女 巻4-522~528 それぞれの歌を全文掲載しようとしたら、制限文字数を大きくオーバーすることとなってしまったので、歌番号だけの掲載に変更しました。 先般、PCを新しく買い替えましたが、どうもこの新しいパソコンは画面の安定性が悪く、何かした拍子に画面サイズが変化したり、画面が切り替わってしまったりする。小生が操作に慣れていないということもあるのかも知れないが、ブログを書いている場合など画面が切り替わってしまうと、それまで書き上げたものがすべて消滅してしまうので、ガックリである。実は今回の記事も2回途中でそのようなことがあったので、アップが一日遅れになってしまったのでありました。何ともはや、腹立たしい限りである。
2014.06.18
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昨日(21日)は先月27日に続いて2回目のナナ万葉の会でした。 今回は、身近な万葉歌を、ということで、地元の生駒山に因む歌や弓削の川原の歌などを取り上げ、解説・鑑賞する傍ら、遣新羅使や防人のことなどを説明し、ついでに弓削ということで、弓削の道鏡の関連で孝謙(称徳)天皇誕生の経緯や仲麻呂の乱など長屋王の変から光仁天皇即位までの歴史の流れをざっと説明させていただきました。 出席者は、男性2名、女性8名の全10名。午後2時過ぎに開始、途中休憩を挟んで4時半頃に講話終了。質問などの雑談時間を持って5時頃に終了。その後、お時間の許す方はどうぞということで、参加者の中の一人の男性が自らの体験を通じての「神と神ながらの生き方」のお話を30分余されました。小生も拝聴させて戴く。全てが終って帰宅の途についたのは5時45分位になっていたでしょうか。勿論、往復の足はMTBです。(2014年5月21日の喫茶ナナ) 上の写真は、男性がお話しされている途中で、店に一般のお客様が二人入って来られた合い間を利用して、煙草休憩のため店の外に出て撮影したものです(笑)。 撮影を済ませて店内に戻ると、男性のお話が丁度終ろうとしている処でした。 さて、本日、取り上げた歌は下記の通りです。1.・・平城(なら)の京師(みやこ)は かきろひの 春にしなれば 春日山 三笠の野辺に 桜花 木(こ)の晩(くれ)隠(がく)り かほ鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋去り来れば 射(い)駒(こま)山 飛火(とぶひ)が岳(をか)に 萩の枝(え)を しがらみ散らし さ雄鹿は 妻呼びとよむ 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし・・(巻6-1047)<・・奈良の都は、かぎろいの立つ春になると、春日山の三笠の野辺で、桜花の木陰に隠れてかお鳥が絶え間なく鳴く。露や霜の置く秋になると、生駒山の飛火が岡で、萩の枝を身にからませては散らしながら、牡鹿は妻を呼んで鳴き声を響かせる。山を見ると山は魅力的である。里を見ると里も住みよい様子である。・・>2.妹がりと 馬に鞍置きて 射駒(いこま)山 うち越え来れば もみち散りつつ (巻10-2201)<妻の許へと、馬に鞍を置いて、生駒山を越えて来ると、紅葉がしきりに散っている。>3.君があたり 見つつもをらむ 生駒山 雲なたなびき 雨はふるとも(巻12-3032)<あなたが居られる辺りを眺めながら過ごしましょう。生駒山には雲がかからないで欲しい。雨は降っても。>4.夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてぞ吾(あ)が来る 妹が目を欲り (秦間満(はたのはしまろ) 巻15-3589)<夕方になるとひぐらしが来て鳴く生駒山を越えて私は大和に来ている。妻に逢いたくて。>5.妹にあはず あらば術(すべ)なみ 石根(いはね)ふむ 生駒の山を 越えてぞ吾(あ)が来る (巻15-3590)<妻に逢わずにいるとどうしようもなくたまらないので、岩のごつごつしている生駒山を越えて私はやって来たよ。>6.難波津(なにはと)を 漕ぎ出(で)て見れば 神(かむ)さぶる 生駒(いこま)高嶺(たかね)に 雲そたなびく(大田部三成(おほたべのみなり) 巻20-4380)<難波津を船で漕ぎ出て見やると、神々し生駒の高嶺に雲がたなびいている。>7.おし照る 難波を過ぎて うちなびく 草香の山を 夕暮に わが越え来れば 山も狭(せ)に 咲けるあしびの 悪(あ)しからぬ 君をいつしか 往きてはや見む(巻8-1428)<押し照る難波を通り過ぎて、うちなびく草ではないが、その草香山を夕方にわたしが越えて来ると、山を狭しと咲いているあしびの花よ。そのあしびのように素敵なあの方のもとに行って早くお逢いしたいものです。>8.難波潟(なにはがた) 潮干(しほひ)のなごり 委曲(つばら)に見む 家なる妹が 待ち問はむため(神社忌寸老麻呂(かむこそのいみきおゆまろ) 巻6-976)<難波潟の潮の引いたあとの様子をよく見て置こう。家に居る妻が私の帰りを待っていて尋ねるだろうから。>9.直越(ただご)えの この道にして 押し照るや 難波(なには)の海と 名付けけらしも(同上 巻6-977)<この日下の直越えの道だからこそ、昔の人は「押し照るや難波の海」と名付けたらしいよ。>10.真鉋(まがな)持ち 弓削(ゆげ)の川原の 埋(うも)れ木の あらはるましじき ことにあらなくに(巻7-1385)<ま鉋を持って弓を削る、その弓削ではないが、弓削の川原の埋もれ木が現れないということがないように、われわれの仲もやがては人に知られてしまうことでしょう。>11.家にあらば 妹が手まかむ 草まくら 旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ(巻3-415)<家であったら妻の手を枕にするだろうに、草を枕の旅先で倒れ臥しておられるこの旅人はお気の毒なことである。>12.級(しな)照る 片足羽河(かたしはがは)の さ丹(に)塗りの 大橋の上ゆ 紅(くれなゐ)の 赤裳すそびき 山あゐもち すれる衣(きぬ)着て ただひとり い渡らす兒は 若草の 夫(つま)かあるらむ かしの実の ひとりか寐(ぬ)らむ 問はまくの ほしき我妹(わぎも)が 家の知らなく (高橋虫麻呂 巻9-1742)<級照る片足羽河の赤く塗った大橋の上を、紅の赤裳の裾を引いて山藍で摺り染めにした衣を着て、たった一人で渡っている、あの娘は、若草のような夫がいるのだろうか。それとも樫の実のように一人で寝ているのだろうか。尋ねてみたいと思うあの娘の家が何処なのか知らないことだ。> 反歌大橋の 頭(つめ)に家あらば うらがなしく ひとりゆく兒に 宿かさましを(同上 巻9-1743)<大橋のたもとに私の家があったなら、もの悲しい様子で一人行くあの娘を泊めてあげたいものである。>13.明日香川 もみち葉ながる 葛城(かづらき)の 山の木葉(このは)は 今し散るらし(巻10-2210)<飛鳥川に黄葉が流れている。葛城山の木々の葉が今まさに散っているらしい。>14.この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に わが見し草は もみちたりけり (孝謙天皇 巻19-4268)<この里はいつも霜が降りるのでしょうか。夏野で目にした澤蘭(さはあららぎ)(ヒヨドリグサのこと)は色づいていました。> なお、次回3回目は6月18日午後2時からです。参加はどなたでもご自由です。ご希望のお方はどうぞ当日直接、喫茶ナナまでお越し下さいませ。<参考>「cafe de nanaでの万葉の集い」2014.4.27.
2014.05.22
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小生の銀輪散歩の道すがらによく立ち寄って珈琲タイムを取ったりしている馴染みの喫茶店 cafe de nana のお店の方に万葉に関する話をしてくれと頼まれたことは、以前の日記にも書きましたので、ご記憶のお方も居られるかも知れませんが、そのお話をする日が今日でありました。(本日のcafe de nana) (参考)「弓削の川原の埋もれ木の・・そして新生ナナ」2014.2.26. 「風邪が治ったらMTBが入院」2014.4.1. 「民族笛とカンクレス」2014.4.16. 午後2時から4時まで約2時間のお話でした。万葉集と小生との出会いの話から始めて、今回は有間皇子の話と大津皇子の話をし、関連の歌を鑑賞するというか紹介するという、まあ言わば万葉入門編のようなお話をさせて戴きました。少しでも万葉集、万葉歌に興味を持って戴けたら、という気持ちでなるべく分かり易くお話をした心算ですが、はてさて皆さんのご感想や如何にであります(笑)。 参加者は男性が3名、女性が6名。講師の小生を含めて総勢10名ですから、アットホームな雰囲気でありました。 本日、取り上げた歌は以下の通りです。万葉ファンならどなたもご存じの有名な歌ばかりであります。新(あらた)しき 年の始の 初春の 今日ふる雪の いや重(し)け吉事(よごと) (大伴家持 巻20-4516)籠( こ)もよ み籠(こ)持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜摘ます兒 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾(われ)こそをれ しきなべて 吾(われ)こそませ 我こそは 告(の)らめ 家をも名をも (巻1-1)有間皇子の歌磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸(まさき)くあらば また還(かへ)り見む (巻2-141)家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (巻2-142)大津皇子の歌百伝ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠(がく)りなむ (巻3-416)あしひきの 山のしづくに 妹待つと 吾(われ)立ちぬれぬ 山のしづくに (巻2-107)石川郎女の歌吾(あ)を待つと 君がぬれけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを (巻2-108)草壁皇子の歌大名兒(おほなこ) 彼方(をちかた)野辺に 刈る草(かや)の 束(つか)の間(あひだ)も 吾(われ)忘れめや (巻2-110)大伯皇女の歌わが背子を 大和へ遣(や)ると さ夜ふけて 暁(あかとき)露に わが立ちぬれし (巻2-105)二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ (巻2-106)神風(かむかぜ)の 伊勢の国にも あらましを いかにか来(き)けむ 君もあらなくに (巻2-163)見まく欲(ほ)り わがする君も あらなくに いかにか来(き)けむ 馬疲るるに (巻2-164)うつそみの 人なる吾(われ)や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 兄弟(いろせ)とわが見む (巻2-165)磯の上(うへ)に 生(お)ふる馬酔木を 手折(たを)らめど 見すべき君が ありといはなくに (巻2-166)(参考)本日のお話に関係する当ブログ記事有間皇子関係藤白坂・岩代から白浜へ 2009.3.16.藤白坂・岩代から白浜へ(続) 2009.3.17.大津皇子関係磐余銀輪散歩(2)・今日のみ見てや雲隠りなむ 2012.10.11.磐余銀輪散歩(3)・ときじくの花 2012.10.12.草壁皇子関係ほか明日香小旅行下見 2009.11.24.
2014.04.27
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一昨日(2日)は月例の墓参でありました。 墓参の折に通る寺の門前に掲示の言葉を写真に撮るというのが、最近の恒例になっているが、この日は、坂村真民氏の言葉でした。(坂村真民「一雨ごとに花がふくらみ、一雨ごとに芽がのびる」) 坂村真民という方の名は存じ上げなかったのですが、ブロ友のビッグジョン氏の記事でその名を知りました。同氏が何度かブログに取り上げてご紹介されて居られましたので、この掲示を見た時は「やあ、やあ、お久し振り・・」という感じでもありました(笑)。 参考までに、同氏の、坂村真民関連の記事をご紹介して置きます。 下記URLをクリックすると、その記事をご覧戴けます。 1.しんみん五訓(坂村真民) 2013.12.12. http://plaza.rakuten.co.jp/kansonaikikata/diary/201312120000/ 2.せいさんだからといって 2013.9.3. http://plaza.rakuten.co.jp/kansonaikikata/diary/201309030000/ 3.坂村真民の詩 《飯 台》 2013.8.26. http://plaza.rakuten.co.jp/kansonaikikata/diary/201308260000/ 4.砥部、今治から高松へ 2013.8.14. http://plaza.rakuten.co.jp/kansonaikikata/diary/201308140000/ 墓は、このお寺(教覚寺)から更に2~300m坂道を上った処にある。 墓の場所から西方向を眺めやると、下のような風景である。大阪平野が一望である。(墓からの眺め・クリックすると拡大写真でもご覧になれます。) この日は夜来の雨が止んでの朝にて、雲が垂れ込めていましたが、よく晴れた日には遠く淡路島や六甲の山並みも望まれるのであります。 万葉の頃には、ここに大きな河内湖とも呼ぶべき水面が広がっていて、日が西に傾くと一面銀色に或いは夕照の色に輝いたのであろう。 難波の枕詞は「押し照る(や)」である。 これは、そのような光景から生まれた言葉である。 万葉時代に同じ感想を持った老麻呂さんが既にこのように詠って居られます。直越えの この道にして 押し照るや 難波の海と 名付けけらしも (神社忌寸老麻呂 万葉集巻6-977) 山に囲まれた大和盆地から生駒山を越えて難波へとやって来た万葉人にとって、難波は「海」が光る、明るい土地、そんなイメージであったのだろう。 それは、難波津から瀬戸内海を通じて先進文化の地、大陸へとつながっている、という「明るさ」でもあった。<参考>「直越えの・・・」の歌を記載している過去の記事一覧 1.直越えのこの道にして・南生駒まで 2013.6.29. http://plaza.rakuten.co.jp/yakamochi35/diary/201306290000/ 2.生駒山あれこれ 2012.7.10. http://plaza.rakuten.co.jp/yakamochi35/diary/201207100000/ 3.府民の森・紅葉散歩 2009.11.14. http://plaza.rakuten.co.jp/yakamochi35/diary/200911140000/ 4.暗(くらがり)峠 2009.1.29. http://plaza.rakuten.co.jp/yakamochi35/diary/200901290000/ 5.枚岡神社 2008.7.12. http://plaza.rakuten.co.jp/yakamochi35/diary/200807120000/ <注>間違って3日の記事になっていましたので、4日に転記しました。 この関係で、転記以前に頂戴したコメントなどもそれぞれコピーし転記さ せて戴きました。
2014.03.04
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本日は、偐家持の1296回目の誕生日。 養老2年(718年)の生まれであるが、元年(717年)の生まれだという説などもあったりするので、実の処はよくは分からない。まあ、この歳になると1年や2年の違いはどうでもよろしい、という気が致しまするな。 今年の節分。豆1297個食べ切れますかな。この年になると、毎年のこの行事が恐怖でありますな(笑)。 小生が生まれた時、父の大伴旅人殿は53歳。正妻大伴郎女との間には子がなく、父が丹比家の娘との間にもうけたのが小生であった。ようやくにして生まれた男子ということで、大伴家に引き取られ、大伴郎女殿によって養育されたのであるが、その養母は小生が10歳の時に亡くなった。以後は叔母の坂上郎女殿が母代りとなって何かと面倒を見て戴いたのでありますな。 さて、小生が生まれた718年、父、旅人が53歳と申し上げたが、その他の今日までその名を残して居られるお方がその時何歳であったかと調べてみたら、次の通りでありました。(年齢は、718年に誕生日を既に迎えたものとして、満年齢で表示)柿本人麻呂 58歳位山上憶良 58歳位 上ご両名は660年頃の生まれとされているので、それによりました。山部赤人 40代後半から50代前半 この御仁は生没年不明であるが人麻呂よりは少しお若いかと。藤原不比等 59歳(659年生~720)藤原武智麻呂 38歳(680年生~737)藤原房前 37歳(681年生~737)藤原宇合 24歳(694年生~737)藤原麻呂 23歳(695年生~737)長屋王 34歳(684年生~729)橘諸兄 32歳(684年生~757)聖武天皇 17歳(701年生~756)<首皇子>光明皇后 17歳(701年生~760)藤原仲麻呂 12歳(706年生~764)吉備真備 23歳(695年生~775)安倍仲麻呂 20歳(698年生~770)孝謙天皇 0歳(718年生~770)<安倍内親王・称徳天皇>光仁天皇 9歳(709年生~782)<白壁王>道鏡 18歳(700年頃生~772)春立つ日 近づくならし 吾が生(あ)りし 今日(けふ)の日晴れて 梅咲き始(そ)めば (偐家持)(枚岡梅林の梅・2014年1月29日) 枚岡梅林の梅はまだどれも固い蕾であるが、一本の若木だけが花を咲かせ始めていました。 東京オリンピックは2020年でありますが、それよりも早く2018年は家持生誕1300年の年でありますれば、どうぞ皆さまお忘れなく。<参考>梅の花咲き始めにけり枚岡の・・2013.2.21.
2014.01.29
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(承前) 今回の銀輪散歩は、山上憶良の万葉歌碑が近くにあるかと調べていたら、この八尾第一万葉植物公園にある、ということでやって来たもの。 他には、万博公園の「万葉の里」に1基、春日大社の北参道に2基あるようだが、思った以上に歌碑は少ないようだ。大伴家持は和歌のことを「山柿の門」と呼んだが、その「山」とは山上憶良のことだともされる歌人にしては少ないのは「社会派」と称されるその歌風によるのだろうか。 それはさて置き、八尾第一万葉植物公園は、国道170号(旧道)脇の恩智神社一之鳥居を潜って東へ、恩智神社への参道の坂道を上って行く途中、右に少し入った処、恩智城趾公園の東側に隣接して、ひっそりとある。 恩智城趾や恩智神社は別のページで取り上げることとし、歌碑の未掲載分を紹介して置きます。 17.もも<モモ>春の苑 くれなゐにほふ 桃の花 した照る道に 出で立つをとめ (大伴家持 万葉集巻19-4139)18.をばな<ススキ>人皆は 萩を秋といふ よし吾は 尾花が末(うれ)を 秋とはいはむ (万葉集巻10-2110) 19.つつじ<ツツジ>水伝ふ 磯の浦廻の 石(いは)つつじ もく咲く道を また見なむかも (草壁皇子の舎人 万葉集巻2-185)20.やなぎ<ヤナギ>うちなびく 春立ちぬらし わが門の 柳の末(うれ)に 鶯なきつ (柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-1819) 21.つばき<ツバキ>巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ思(しの)はな 巨勢の春野を (坂門人足 万葉集巻1-54)22.まゆみ<マユミ>南淵の 細川山に 立つ檀(まゆみ) 弓束(ゆづか)まくまで 人に知らえじ (万葉集巻7-1330)<参考> カテゴリー「万葉」の記事はコチラからどうぞ。
2014.01.12
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本日は銀輪散歩。八尾第一万葉植物公園の万葉歌碑をご紹介することとします。 この季節ですから花もなし。うらぶれた様ですが、歌碑に刻まれた歌でその花の姿などを想像して戴くことと致しましょう。(八尾第一万葉植物公園・大阪府八尾市恩智中町5丁目)この苑も 冬は寂しさ まさりける 人目も花も かれぬと思へば (偐家持)(本歌)山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬとおもへば (源宗于 古今集315 小倉百人一首28) 1.さなかづら<サネカズラ>あしひきの 山さな葛(かづら) もみつまで 妹に逢はずや わが恋ひ居らむ (万葉集巻10-2296)2.はねず<ニワウメ>山吹の ひほへる妹が はねず色の 赤裳のすがた 夢(いめ)に見えつつ (万葉集巻11-2786) 3.さきくさ<ミツマタ>春されば まず三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあらば 後(のち)にも逢はむ な恋ひそ吾妹(わぎも) (柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-1895)4.たまばはき<コウヤボウキ>始春(はつはる)の 初子(はつね)の今日の 玉箒(たまばはき) 手に執(と)るからに ゆらく玉の緒 (大伴家持 万葉集巻20-4493) 5.もみち<モミジ>もみちする 時になるらし 月人の 桂の枝の 色づく見れば (万葉集巻10-2202)6.あし<アシ>葦辺ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜ふりて 寒き夕は 大和し思ほゆ (志貴皇子 万葉集巻1-64) 7.あじさゐ<アジサイ>あぢさゐの 八重咲くごとく やつ世にを いませ吾背子 見つつしのはむ (橘諸兄 万葉集巻20-4448)8.まつ<マツ>磐白の 浜松が枝を 引き結び まさきくあらば またかへり見む (有間皇子 万葉集巻2-141) 9.うめ<ウメ>春されば 先ず咲く宿の 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ (山上憶良 万葉集巻5-818)10.ゆづるは<ユズルハ>いにしへに 恋ふる鳥かも ゆづる葉の 御井の上より 鳴き渡り行く (弓削皇子 万葉集巻2-111) 11.ふぢ<フジ>藤波の 花は盛りに なりにけり 平城(なら)の京(みやこ)を 思ほすや君 (大伴四綱 万葉集巻3-330)12.ヒサキ<アカメガシワ>ぬばたまの 夜の更けぬれば 久木生(お)ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く (山部赤人 万葉集巻6-925) 13.ねぶ<ネムノキ>昼は咲き 夜は恋ひ宿(ぬ)る 合歓木(ねぶ)の花 君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ (紀女郎 万葉集巻8-1461)14.あふち<センダン>珠に貫く あふちを家に 植ゑたらば 山ほととぎす 離(か)れず来むかも (大伴書持 万葉集巻17-3910) 15.しきみ<シキミ>奥山の しきみが花の 名のごとや しくしく君に 恋ひわたりなむ (大原今城 万葉集巻20-4476)16.さかき<サカキ>ひさかたの 天の原より 生(あ)れ来たる 神の命 奥山の 賢木(さかき)の枝に白香(しらか)つけ 木綿(ゆふ)とりつけて 斎瓮(いはひべ)を 斎ひほりすゑ 竹玉(たかだま)を 繁(しじ)に貫(ぬ)き垂れ鹿猪(しし)じもの 膝折り伏し 手弱女の おすひ取り懸け かくだにもわれは祈(こ)ひなむ 君に逢はぬかも (坂上郎女 万葉集巻3-379) 文字数オーバーで1回には入り切りませんでした。 残りは次回とします。 (つづく)
2014.01.11
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今年の漢字は「輪」と決まったようですな。 東京五輪の「輪」、応援の「輪」とか人の「輪」とかの意味なんでしょうが、こちらも銀輪散歩、銀輪家持にてあれば、やはり「輪」でありますので、喜ばしいことにて御座候(笑)。 さて、万葉集に「輪」があるかと言うと、思い付くのは「面輪」という言葉でしょうか。こちらは、五輪とも銀輪とも関係なく「顔面」のことである。今でも「顔の輪郭」などと言いますな。桃の花 紅(くれなゐ)色に にほひたる 面輪(おもわ)のうちに 青柳(あをやぎ)の 細き眉根(まよね)を 笑(ゑ)みまがり 朝影見つつ 娘子(をとめ)らが 手に取り持てる まそ鏡 二上山(ふたがみやま)に 木(こ)の暗(くれ)の 茂き谷辺(たにへ)を 呼びとよめ 朝飛びわたり 夕月夜(ゆふづくよ) かそけき野辺(のへ)に はろはろに 鳴くほととぎす 立ち潜(く)くと 羽触(はぶ)れに散らす 藤波(ふぢなみ)の 花なつかしみ 引き攀(よ)ぢて 袖(そで)に扱入(こき)れつ 染(し)まば染むとも (大伴家持 万葉集巻19-4192)<桃の花が紅色に輝いている、そのような顔に、青柳のような細い眉根を下げて微笑し、朝の姿を写し見つつ、少女たちが手にしている鏡の、箱のふたではないが、その二上山に、木陰が暗くなるほどに茂った谷のあたりを鳴き声を響かせて朝に飛び渡り、夕月の光がかすかに照らす野辺に遠くはるかに鳴くほととぎすが、その下を飛びくぐっては、羽が触れて散らす藤の花がいとおしくて、それを引き寄せ袖にたくし入れた。袖が花の色に染まるなら染まってもよいと。> 万葉集巻9-1807の、高橋虫麻呂が「葛飾の真間の手児奈」を詠んだ長歌にも「・・望月の 満(た)れる面輪(おもわ)に 花のごと・・」と「面輪」が出て来るが、全文引用は「面倒」なので、止めて置きます。 「輪」にかこつけての記事でした。 こういうのを「我輪引説」と言いますな(笑)。<追記>(2013.12.15.) 若草メールを確認したら、小万知さんが「輪」の写真を送って下さっていました。下のコメントにもありますように、当日は墓参の続きで清水寺にお立ち寄りになられ、撮影されたようであります。 当記事に恰好の写真でありますので、下記に追加で掲載させて戴きました。これは、「我田引輪」ですな。(今年の漢字「輪」 写真提供:小万知氏)
2013.12.12
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本日は友人の和麻呂さんこと大嶽和久氏が副会長を務める関西邦楽作曲家協会の第35 回作品発表会に行って参りました。 会場は淀屋橋の朝日生命ホール。いつもの癖で、天気も好しでMTBで出掛けました。住友銀行の前付近の駐輪場にMTBを駐輪して会場へ。会場には早く着き過ぎたが、お陰で関係者の方々とくつろいで居られた和麻呂さんと顔を合せることができ言葉を少し交わせたのは幸いなことでありました。 今回、和麻呂さんが発表される曲は「布留の里」という曲。この曲は天理大学の邦楽部の依頼で作曲されたもので、曲のタイトルを決めるについては確か小生が相談を受けたように記憶します(笑)。 天理市にある石上神宮付近の地名が布留(ふる)。この布留の地を含み、神宮付近から西方一帯の地が石上(いそのかみ)である。石上も布留も万葉に登場する地名にて、和麻呂さんも万葉の古代に思いを馳せて作曲されたのでもあるでしょう。 演奏を聴きながら、「石上 布留の神杉 神さびし 恋をもわれは 更にするかも」(万葉集巻11-2417)などの万葉歌を思い起こしたりと、心地良い気分に浸ることが出来ました。(朝日生命ビル)(開演前の朝日生命ホール) 演奏中の写真があれば臨場感があってブログ的にはいいのですが、撮影禁止でありますから、これ亦、是非に及ばず、で開演前の愛想もない写真でお茶を濁すしかありません。(パンフレット表紙)(大嶽和久作曲「布留の里」の説明文<パンフレットより>)<参考>和麻呂氏のブログはコチラからどうぞ。 同・ホームページはコチラからどうぞ。 石上神宮から北へ、奈良に至る山裾の道が「北・山の辺の道」、南へ、桜井市へと至る道が「南・山の辺の道」である。小生は若い頃から何度となく歩いたり、銀輪散歩したりしている道であるが、何ということもない小川に、畑中の細道や道の隈に、田の面を吹き来る風に、野辺に咲く花に、万葉の昔が偲ばれる道なのである。 邦楽については、小生、法学部卒業なれど、殆ど知識がありません。こういうのを「方角違い」と言うのですかな。 と言うことで、「布留・ふる」の出て来る万葉歌を以下にご紹介することと致しましょう。石上(いそのかみ) 布留(ふる)の山なる 杉群(むら)の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに (丹生王 万葉集巻3-422)未通女等(をとめら)が 袖布留(ふる)山の 瑞垣(みづがき)の 久しき時ゆ 思ひきわれは (柿本人麻呂 同巻4-501)いにしへも かく聞きつつや 偲(しの)ひけむ この古川の 清き瀬の音(と)を (同巻7-1111)石上 布留の早田(わさだ)を 秀(ひ)でずとも 縄(なは)だに延(は)へよ 守(も)りつつをらむ (同巻7-1353)石上 布留の早田の 穂には出ず 心のうちに 恋ふるこのころ (同巻9-1768)布留山ゆ 直(ただ)に見渡す 京(みやこ)にぞ 寐(い)も寝ず恋ふる 遠からなくに (同巻9-1788)石上 布留の神(かむ)杉 神(かむ)びにし われやさらさら 恋に逢ひにける (同巻10-1927)処女(をとめ)らを 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけりわれは (同巻11-2415)石上 布留の神杉 神さびし 恋をもわれは 更にするかも (柿本人麻呂歌集 同巻11-2417)石上 布留の高橋 高高に 妹が待つらむ 夜ぞ更けにける (同巻12-2997)とのぐもり 雨ふる川の さざれ波 間(ま)なくも君は 思ほゆるかも (同巻12-3012)吾妹子や 吾(あ)を忘らすな 石上 袖布留川の 絶えむと思へや (同巻12-3013) 現代語訳を付けようかとも思いましたが、歌の数が多くて、全部付けるのは字数制限で無理。これ幸いと手抜きヤカモチを決め込みました(笑)。これを歌にすれば、石上 訳ふることの 手のはぶけ 字数に限り あるもよきかな (物草守屋) 石上神宮は物部氏ですから、作者名は、物部守屋に因んで「ものぐさの守屋」と致しました。~~~~~~~~~~~~~~~~<脚注・追記> メールBOXを見ると偐山頭火氏から、この日の演奏会のパンフレットの表紙と、「9.布留の里」の部分の写真が届いていました。 小生撮影の掲載写真がイマイチなので、これに差し替えたらどうか、ということでしょうか。何の通信文も付されていないので、その意図を忖度するしかないのでありますが、上のように理解し、同氏提供の写真に差し替えることと致しました(笑)。写真ご提供有難うございます。
2013.12.07
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クヌギの黄葉も日に照りて輝くと、なかなかに美しいが、カエデやイチョウなどのように、この「もみぢ」をわざわざ見に行く人は居ないだろう。 美しいと言っても、それは夜目遠目の類で間近くで見るとそれ程美しくもなく、いかにも地味なのであるから、致し方のないことである。 そんなクヌギであるが日に照らされて美しく輝く一瞬もあるので、今日はそのようなクヌギの黄葉をご紹介して置くことと致しましょう。もみぢなるは かへでいてふと 人は言へ われつるばみも よしとや言はむ (偐家持) (クヌギの黄葉) クヌギの実(ドングリ)のことを万葉では「つるばみ」と言う。 もっとも、「つるばみ」については、クヌギではなくトチノキやイチイガシのことであるとする説もあるようですが、此処ではクヌギ説を採用して置きます。 クヌギは炭焼きの炭の材料になったり、薪として利用されたり、椎茸栽培の原木に使われたりと人々の生活に密着した樹木である。里山にこの木が多いのも古来人々に利用されて来た有用な木であるからだろう。クヌギという名も「国木」が訛ったものだという説もある。 (同上) (クヌギの巨木) そのような生活に密着した木は万葉歌には相応しい木であるというべきであるが、古女房とかの喩えにも使われたりしているのは、まあ、この地味な木ならではと言うべきですかね。橡(つるばみ)の 衣(きぬ)は人皆 事無しと いひし時より 着欲しく思ほゆ (万葉集巻7-1311)<つるばみ染めのように目立たない衣が無難であると皆が言うので、それを聞いた時以来それを着たいと思うようになったことだ。>橡の 解濯衣(ときあらひぎぬ)の あやしくも 殊に着欲しき この夕(ゆふべ)かも (同巻7-1314)<つるばみ染めの粗末な衣の、それもほどいて洗い直したのを、不思議にも、とくに着たいと思われるこの夕暮れであることだ。>橡の 袷(あはせ)の衣(ころも) 裏にせば われ強(し)ひめやも 君が来まさぬ (同巻12-2965)<つるばみの袷の衣を裏返しにするような態度ですから、来て欲しいと無理強いなど、どうしてわたしが致しましょうか。それにしてもあなたはいらっしゃらないのですね。>橡の 一重の衣(ころも) うらもなく あるらむ兒ゆゑ 恋ひ渡るかも (同巻12-2968)<つるばみの一重の衣のよいうに裏もなく無邪気に私のことを気にもかけていないあの娘なので、私は恋続けることだ。>橡の 衣(きぬ)解き洗ひ 真土山(まつちやま) 本(もと)つ人には なほ如(し)かずけり (同巻12-3009)<つるばみの衣を解いて洗って打つ槌の真土山ではないが、元々の人がやはり一番いい。>紅(くれなゐ)は 移ろふものそ 橡の 馴れにし衣(きぬ)に なほ及(し)かめやも (大伴家持 同巻18-4109)<紅色は華やかだが直ぐに色褪せてしまうものだ。つるばみ染めの慣れ親しんだ衣に及ぶものではない。>
2013.12.03
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<承前> もみぢの万葉歌、第10巻の途中までという中途半端な形になりましたので、第20巻までの残り41首を掲載して置きます。(但し、文字数制限の関係で3首はコメント欄に掲載してあります。)大坂を わが越え来れば 二上(ふたがみ)に もみち葉流る 時雨ふりつつ (万葉集巻10-2185)妹が袖 巻来(まきき)の山の 朝露に にほふもみちの 散らまく惜しも (同巻10-2187)もみち葉の にほひは繁し しかれども 妻梨(つまなし)の木を 手折りかざさむ (同巻10-2188)露霜の 寒き夕の 秋風に もみちにけりも 妻梨の木は (同巻10-2189)わが門の 浅茅(あさぢ)いろづく 吉隠(よなばり)の 浪柴(なみしば)の野の もみち散るらし (同巻10-2190)吾背子が 白たへ衣 往き触れば 染(にほ)ひぬべくも もみつ山かも (同巻10-2192)雁がねの 来鳴きしなへに 韓衣(からころも) 立田の山は もみち始(そ)めたり (同巻10-2194)雁がねの 声聞くなへに 明日よりは 春日の山は もみち始(そ)めなむ (同巻10-2195)風ふけば もみち散りつつ すくなくも 吾の松原 清からなくに (同巻10-2198)九月(ながつき)の 白露負ひて あしひきの 山のもみたむ 見まくしも良し (同巻10-2200)妹がりと 馬に鞍置きて 生駒山 うち越え来れば もみち散りつつ (同巻10-2201)もみちする 時になるらし 月人の かつらの枝の 色づく見れば (同巻10-2202)秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経去(へゆ)けば 風を疾(いた)みかも (同巻10-2205)まそかがみ 南淵山は 今日もかも 白露おきて もみち散るらむ (同巻10-2206)秋萩の 下葉のもみち 花に継ぐ 時過ぎ行かば 後(のち)恋ひむかも (同巻10-2209)明日香川 もみち葉ながる 葛城(かづらき)の 山の木葉(このは)は 今し散るらむ (同巻10-2210)妹が紐 解くと結びて 立田山 今こそもみち 始(はじ)めてありけれ (同巻10-2211)さ夜ふけて 時雨なふりそ 秋萩の 本葉(もとは)のもみち 散らまく惜しも (同巻10-2215)ふるさとの 初もみち葉を 手(た)折り持ち 今日ぞわが来(こ)し 見ぬ人のため (同巻10-2216)君が家の 初もみち葉は 早くふる 時雨の雨に ぬれにけらしも (同巻10-2217)秋山の 木葉(このは)もいまだ もみたねば 今朝吹く風は 霜もおきぬべく (同巻10-2232)もみち葉を 散らす時雨の ふるなへに 夜(よ)さへぞ寒き 一人し寐(ぬ)れば (同巻10-2237)あしひきの 山さな葛(かづら) もみつまで 妹にあはずや わが恋ひをらむ (同巻10-2296)もみち葉の 過ぎかてぬ兒を 人妻と 見つつやあらむ 恋(こほ)しきものを (同巻10-2297)もみち葉に おく白露の 色葉(いろは)にも 出でじと思へば ことの繁けく (同巻10-2307)祝部(はふり)らが 斎(いは)ふ社(やしろ)の もみち葉も 標縄(しめなは)越えて 散るといふものを (同巻10-2309)ひとりのみ 見れば恋(こほ)しみ 神名火(かむなび)の 山のもみち葉 手(た)折りけり君 (同巻11-3224)兒毛知(こもち)山 若かへるでの もみつまで 寝(ね)もと吾(わ)は思(も)ふ 汝(な)はあどか思(も)ふ (同巻14-3494)もみち葉の 散りなむ山に 宿りぬる 君を待つらむ 人し悲しも (葛井子老 同巻15-3693)あしひきの 山した光る もみち葉の 散りの乱(まがひ)は 今日にもあるかも (阿倍継麻呂 同巻15-3700)竹敷(たかしき)の もみちを見れば 吾妹子が 待たむといひし 時ぞ来にける (大伴三中 同巻15-3701)竹敷の 浦廻(み)のもみち 吾(われ)行きて 帰り来るまで 散りこすなゆめ (遣新羅使人 同巻15-3702)もみち葉の 散(ち)らふ山べゆ こぐ船の にほひに愛(め)でて 出でて来にけり (対馬娘子玉槻 同巻15-3704)秋山の もみちを挿頭し わがをれば 浦潮満ち来 いまだ飽かなくに (大伴三中 同巻15-3707)もみち葉は 今はうつろふ 吾妹子が 待たむといひし 時の経ゆけば (遣新羅使人 同巻15-3713)この時雨 いたくなふりそ 吾妹子に 見せむがために 黄葉(もみぢ)採りてむ (久米広縄 同巻19-4222)あをによし 奈良人見むと 吾背子が 標(し)めけむもみち 地(つち)に落ちめやも (大伴家持 同巻19-4223)あしひきの 山のもみちに しづくあひて 散らむ山道(やまぢ)を 君が越えまく (大伴家持 同巻19-4225)
2013.11.26
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