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この小説は、男女関係もからんでいて、テレビドラマにすれば視聴率が取れるだろう。主人公の片瀬画廊社長・片瀬真治をコテンパンにするファンドマネージャーの江波志帆は、北川景子さんに演じてもらおうか。 ドラマ制作の過程で、小説の設定に出てくる数多くの美術品(日本画、油画、現代アート)を美術さんがアーティストに下請けに出すから、アーティストにも仕事ができる。 美術という、価格があってないような一点ものにまつわりつくドロドロを描くが、その一方で現代アートへの世間の関心を高めて、マーケットに金持ちを誘導もしそうだ。マーケットの一部は活性化して、いいものが動くだろう。 著者・里見蘭さんはアートのことをよく勉強しているし、アートへの愛が端々に感じられるね。≪現代アートはもはやたんに美しさを鑑賞するための美藝ではなく、哲学的な内容を持ち社会状況を反映したコンセプト抜きには語れない知的なゲームという側面のほうが大きくなっている。コンセプチュアルな部分でのプレゼンテーションは必須。≫ (128頁)≪よくもわるくも美術史は彼ら(=西洋)が作ってきたんです。そこで勝負するなら彼らのルールを理解するしかない。〔中略〕コンテクストへの理解やコンセプトの裏打ちなしに美術史にインパクトをもたらすことはできない。〔中略〕欧米の研究家や評論家に“発掘”されることで、それまで忘れ去られていたムーヴメントや作家の価値が再評価され、マーケットに火がつくという現象も起こり得る。≫ (132頁)≪中国人はマネーの力でマーケットに既成事実を作り、それによってコンテクストにまで働きかけているが、作品そのものが欧米に評価されていればこそマネーも影響力を発揮できるのだ。アジアのアートの価値を決めるのはアジア以外の評価システムであり、アジアにおいてそうしたインフラを確立できないかぎり今後もそうした状況は変わらないだろう。アーティストもコレクターもアートワールドでこれほどの存在感を見せる中国の国内には、美術批評が存在しない。アーティストや美術館は批評家に金を払って自分たちに都合のよい記事を書かせている。美術館に権威はなく、資金も不足していて、アーティストは金さえ払えばそこで展覧会を開くことができる。美術館が日本の貸しギャラリーのようになっているのだ。≫ (133頁)
Mar 30, 2016
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このひとは、カラヴァッジョが好きにちがいない。個展初日の画廊にご本人がいらして、聞けば、そのとおりだった。仙石裕美個展「いくつもの空をつなぐ人たちの話」 @ Niche Gallery(銀座三丁目3-12) 扉を開けて目に跳びこむこの作品に圧倒された。仙石裕美 「空と海が溶け合うところ」 “Where the sky meets the ocean” 人類は、人間のからだをこの姿勢で、この角度から描いたことが、これまでなかったのではなかろうか。 思い切りのよさが、四肢の末端のかたちにくっきりあらわれて、この女性の左手のかたちなど、ほれぼれする美しさだ。手をこの角度から描くことも稀だろう。 手と足が赤みを帯びているのも、人間の「気」が満ちていることを連想させて、健康美なのですね。 空間全体は白い雲の存在によって大空になっているはずなのに、絵のそこここで白い波浪に変わる。雲から波へ、波から雲への遷移が巧みで、見る側をみごとに だましてくれる。 ぼくにとって「きれいに だましてくれる絵ですね」は最高の褒め言葉。 跳び込む女性がまとう白い雲の色のスキャンティに行きつくまで、作家は試行錯誤を重ねたのだそうだ。 最初は赤い水着だった由。紆余曲折を経て白いスキャンティ姿に行きつくわけですが、では現実に海で白いスキャンティ姿で跳び込むかというと、それはないわけです。 跳び込む彼女の姿がいきなり「ありえない姿」だからこそ、そしてそれでいて描かれた雲や白浪、女性の四肢がリアルに「写実」されているからこそ、「ありえなさの写実」は見る者の脳を一気にワープさせる。仙石裕美 「空と海が溶け合うところ」 [右側中央部分]仙石裕美 「空と海が溶け合うところ」 [左下部分] 泳ぐ男の水面下のからだの見え具合の描きっぷりも、おみごと。 ものをよく見ながら、それを写真的に写実するのではなく、油画の筆致に落とし込むにはどうするか、作家が研鑽を重ねているのがよくわかります。 「空と海が溶け合うところ」は美術館入りしてほしいですが、お金持ちになったら買いたい作品リストの上位に載せました。仙石裕美 「胸に世界の果てをもつ者は、世界の果てまでいかねばならぬ」“You should go to see the world's end, if you have it in your heart” 鎌近(かま・きん)所蔵の 松本竣介 「立てる像」 を即座に想起しました。 すっくとした思い切りのよさ。すがすがしさ。 松本竣介「立てる像」も仙石裕美「胸に世界の…」も、人物のスケール感が見る者を「だまして」くれる。 どちらも人物が巨人のように見えるけれども、では「巨人」として描いているかというとそうではない。 「巨人じゃないのに、なんで巨人に見えるんだろう」という自問が尾をひく。仙石裕美 “Good shoes take you to a good place” 白い靴のなかに大空。立体作品です。すてきな遊び心。靴は廃品利用ではなく、紙粘土で制作したもの。仙石裕美個展は平成28年4月2日まで Niche Gallery で開催。10時~6時半。日曜休廊。* 仙石裕美さんは平成26年12月にも同じ Niche Gallery で個展を行っていて、そのときの作品+シェル美術賞展の作品を画像紹介したブログがあるので、併せてご覧ください:仙石裕美個展 @ Niche Gallery(銀座三丁目)~12/27 フォルムとしての純粋肉体http://plaza.rakuten.co.jp/yizumi/diary/201412270000/
Mar 24, 2016
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「李」の日本語読みはあくまで「り」だから、「李承晩ライン」は 「りしょうばんライン」が正しい。 「李承晩」は、ソウル朝鮮語では “イ・スンマン” のように読まれ、平壌(へいじょう)朝鮮語では “リ・スンマン” のように読まれる。 もともと朝鮮語は語頭の「ラ」行が苦手で、「離別」は “イビョル” となる。語中では「ラ」行への抵抗がなく、「距離」は “コリ” となる。しかし北朝鮮では、朝鮮語表記の漢字使用を建国早々に全廃した際、「離」は語頭でも語中でも「リ」と読むように言語を人工的に変えてしまった。 語頭「イ」・語中「リ」のままだと、漢字の裏付けをなくしたら語源をたどれなくなるからだ。だから「離別」は “リビョル” となった。 「利益」も、韓国では昔ながらに “イイク” だが、北朝鮮では “リイク” と なった。 「李」の読み方が韓国と北朝鮮で異なるのは、そういう経緯である。 「李」姓を英語で書くとき韓国では、朝鮮語での読みが “イ” であるにも かかわらず、ローマ字では Lee と書くのが一般的。ごく少数が Yi と綴る。Wikipediaに説明あり: https://en.wikipedia.org/wiki/Lee_(Korean_surname) 「李承晩」は Syngman Rhee と書かれ、「李明博」は Lee Myung-bak と 書かれる。これはもう変更不可である。
Mar 18, 2016
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鹿児島でがんばっている純朴なパンダ絵師、あごぱん さん。ぼくは個展で6回ほどお会いしているのですが、まだご本名を聞けずじまい。六本木七丁目6-5 の Shonandai MY Gallery で 3月22日まで「あごぱん展 ―神輿をかつぐ―」が開かれています。今回はこれを購入。ブロードウェイ・ミュージカルのような華やぎが気に入りました。あごぱん 「飛ぶ神輿」販売価格の 35,400円は、神輿の「ミ・コ・シ」に引っ掛けた由。今回の個展で「神輿」をモチーフに据えたきっかけは、昨年あごぱんさんが宮島に行ったときに、建物がお神輿を彷彿とさせてイメージがふくらんだのがキッカケだそうです。そこで、個展のメイン作品はこちら。販売価格は「ミ・コ・シ」に引っ掛けて 354,000円となっております。あごぱん 「パンダ宮島の神輿祭り」絵のそこここでいろんな出来事が起こっていて、おもしろいです。曼荼羅といいましょうか、人生双六といいましょうか。あごぱん 「パンダ宮島の神輿祭り」 [左上部分]あごぱん 「パンダ宮島の神輿祭り」 [左下部分]窓にうつるシルエットがなかなかおもしろい効果をあげています。ぼくが買った「飛ぶ神輿」もビル群の窓にシルエットが浮かんでおりますな。昨年の「あごぱん展」@ The Artcomplex Center of Tokyo で、あごぱんさんの ある作品に描かれた窓のシルエットがおもしろく思えて 褒めたことがあるのですが、それが今回、あごぱんさんの背中を押したそうです。あごぱん 「パンダ宮島の神輿祭り」 [中央部分]パンダたちは燕の背に乗って空を飛んでいます。ぼくが買った「飛ぶ神輿」も、ご本尊が燕さんです。さてこちらは対照的に、珍しくモノトーンの「和」の作品。じつは、これも買いたいなァと心が動いていました。あごぱん 「おばけみこし」いっぽうこちらは、西洋のテイスト。あごぱん 「おはなみこし満開」あごぱん作品は総じて色彩がじつにヴィヴィッドですが基本は和のテイスト。「おはなみこし満開」のような西洋の花卉の色は、じつは あごぱん作品には珍しいものです。あごぱんさんに帝国劇場ロビーのステンドグラスを作らせたら、これはもう、みんなアッと驚くだろうなぁ。世界でも あごぱん さんだけのユニークな世界が、パブリックアートの場で展開されたら、どんなに楽しいことでしょう。
Mar 17, 2016
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ギャラリーじゅう全部買いたくなる作品に時たま出会う。山際マリさんの幻想画は、そういう作品。ぼくのストライクゾーンど真ん中に来ました。日本橋三丁目2-9 の Masataka Contemporary で3月19日まで2人展が開かれています(新、アーティスト展 vol.3 FROM WEST: 八太栄里(はった・えり)+山際マリ)。ぼくが購入したのは、この作品。今のぼくとしては、かなり奮発しました。山際マリ Fragment of Nostalgiaサービス精神いっぱいの丁寧なコラージュ。えてして、画面上でやりすぎてしまう作家がいるものですが、山際さんはちゃんと止めどころを知りつつ、あふれるような多彩なイメージで心を満たしてくれる。それでいて作品の奥には、はるかかなたまで広がる空虚が感じられる。オモテの華やぎと、そのウラにある切ないほど虚しい渇き。そのふたつが、ひとつの平面上に展開しています。山際マリ Grow into Yourself山際マリ作品を見ていると、ダークなミュージカルの世界にも入っていけそうです。山際マリ Daydreamコラージュが平面にとどまらず、キッチュなモノたちの饗宴をつくりだしています。モノたちの立体感は画像では伝わりにくいですが、左のほうにロマ人(びと)の色糸の房も見えますね。山際マリ Connection with the New World細部までおろそかにしない丁寧なお仕事です。山際マリ Plastic Dolls異なる作風。Trevor Brown さんのウィットを感じます。トレヴァーさんほどグロテスクに走らない、しずかな きれいさが好きです。山際マリ Into the WoodsInto the Woods は、有名なミュージカルです。この作品を公演ポスターにできたら、なんとすてきでしょう。山際マリ Banquetこの女の子の表情・仕草、好きです。ステンドグラスのような背景もすてきです。山際マリ Sacrifice左腕のタトゥーの色味は、タトゥーにありそうでない色です。こういう細部が幻想感を高めてくれるのです。山際マリさんは昭和46年生まれ。美大出身ではなく、キルト作家として活動したあと(絶妙のコラージュのセンスはキルト制作の修業が育てたものなのかも)33歳で絵画制作を本格的に始め、37歳のときニューヨークで個展を開きます。最近は大坂の乙画廊やアートスペース亜蛮人で個展をなさってますね。今回、すばらしい作品に東京で出会うことができて、とてもしあわせです。
Mar 17, 2016
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日本軍兵士による朝鮮少女らの拉致・運送、慰安所直営、暴行、虐殺・焼却 ── とんでもない大ウソを映像化し「史実にもとづく」と標榜する反日映画「鬼郷」が韓国で大ヒットしている。 こういうノイズは脳から即座に消し去ってしまいたいところだが、いったい如何なる映画なのか、予告篇映像をネットで探してみた。 「鬼郷」と漢字で検索して出てくるのは、2チャンネルのコメントを編集したような文字映像ものが多い。そこで朝鮮語のハングル文字で「クィヒャン」を検索したところ、予告篇は簡単に見つかった。■ 黒田勝弘さんの切ない嘆き節 ■ 予告篇のYouTubeサイトをご紹介する前に、産経新聞ソウル駐在特別記者・黒田勝弘さんの嘆きを引用させていただく。産経・平280305・5面から。≪慰安婦を主人公にした映画「鬼郷」が人気を集めている。1週間足らずで早くも観客動員100万人突破!などとニュースで大いにもてはやされている。もともと7万人以上の個人募金を集めて制作された独立プロダクションのキャンペーン映画だが、いわば“時流”に乗り、マスコミの宣伝が加わって大衆映画として大ヒットしている。しかしこの映画はひどい。1970年代から韓国の映画やテレビ、舞台で数多くの反日ドラマを見てきたが、これは最悪である。「慰安婦として強制連行された可憐な韓国の少女たちと極悪非道の日本兵」という図式で、日本兵による少女たちに対する殴る蹴る引き裂く…の残虐な暴行、拷問場面の連続は正視に堪えない。客席からは悲鳴が上がるほどで、暴行によって少女たちはいつもみんな顔が腫れ上がり、唇は切れ、体は血だらけ、傷だらけだ。しかも驚くべきことに、日本兵は慰安所から脱走しようとしたとして少女たちを野原に引き出して全員銃殺し、死体は穴に蹴落とし石油をまいて焼いてしまう。映画はわざわざ「元慰安婦たちの証言による事実にもとづく」と銘打っている。荒唐無稽なストーリーもさることながら、マスコミや識者、文化人から異論や批判はまったく出ず、絶賛一色という知的現実が実に切ない。≫ これを「切ない」で終わらせる、黒田勝弘さんの武士の情けが実に切ない。■ 予告篇 ver.1 ■ まずは、この予告篇をご覧ください:https://youtu.be/N195hUscuRI ん? 拉致も暴行も出て来ないじゃないか。 そうです。これはまだ撮影が進んでいない頃の予告篇で、詩的映像のみから成り立っています。 末尾に出てくるテロップがふるっている。≪日本軍慰安婦強制動員被害者少女たちの実話にもとづいて作られた映画「鬼郷」は、他郷で亡くなられた20万人の無念の英霊たちをはじめとして、魂だけでも故郷のふところにお祀りし、あたたかいご飯のひと口なりとも差し上げようという映画です。現在まで(2014年10月30日)1万人以上により韓国・米国・日本各地で募金された後援金で1場面1場面を制作しつつあります。映画が作られて1度上映されるたびに、ひとりの魂が故郷に戻ると思いつつ、鬼郷制作陣は最善を尽くします。≫ こういう言い草に、ころりと騙されてきた日本人は多かった。韓国人の洗脳は今も刻々と進行中だ。■ 予告篇 ver.2 ■ では、拉致・暴行が次々と出てくる予告篇 version 2 をご覧ください:https://youtu.be/Bpt5JBjBQJA 仮にこれが本当に起き、朝鮮総督府がほったらかしにしたなら、総督府は連日にわたり何十万人もの 怒りで捨て身の朝鮮民衆に取り囲まれ、朝鮮統治そのものが重大な危機に陥ったろう。 20万人の朝鮮少女が日本軍に拉致されたとなれば、父母・親族は百万人単位である。それが京城に押し寄せる。 そうならなかったのは、これが真っ赤なウソか、朝鮮人がよほどの腰抜け揃いだったかの、どちらかである。 後者でないことは確かだ。 「鬼郷」には、貧しい家から親の合意の上で少女らを連れ去った朝鮮人の女衒(ぜげん)は出てこない。慰安所を経営した朝鮮人業者も出てこない。 慰安婦さんらに兵士が暴行したら、真っ先に怒るのは、高いカネを払って少女たちを調達した朝鮮人業者のはずだ。カネがかかった慰安婦さんらを無駄死にさせることなど、朝鮮人業者が絶対に許さない。 慰安婦の大半を占めた日本出身の慰安婦も出てこない。 もうこうなったら、本当は居合わせたはずのそういう人たちを映像の中に据え直した、ちゃんとしたホントの慰安婦映画を日本人が作るしかないのかもしれない。■ 北朝鮮の手のひらの上? ■ 制作現場の映像も含めた予告篇 version 3 もある:https://youtu.be/iuJdBaZhjSs それにしても映画「鬼郷」は、日・韓・米の精神的離反にみごとに貢献する。 韓国人は、昨年末の「最終的かつ不可逆的解決」を反故(ほご)にしたくなる。 うぶな米国人はこの映画を観てドキュメンタリーと思い込み、ホロコーストだ! と叫び声をあげる。 日本人は、史上最低の反日映画を作り広めるトンデモない韓国など、いっそ中国・北朝鮮に併呑されて結構! と思いたくなる。 慰安婦問題でなぜか静かな北朝鮮のほうがよほど可愛く見えてくる。 そこで出てくるのがわたしの全くの私見だが、この「鬼郷」もまた北朝鮮の工作員らが上手に仕組んだものではないかなぁと。
Mar 16, 2016
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「ジキル&ハイド」は、平1904日生劇場公演(鹿賀丈史さん最後の渾身のジキル)、平2403日生劇場公演(石丸幹二・笹本玲奈のジキル&エマ)を2度ずつ観てきた。英語版・ドイツ語版のCDを何度も聴いた、思い入れの多い作品です。 今回の平2803東京国際フォーラム公演、3月5日に初日を観ました。 石丸幹二さんが魂を素っ裸にして自分のジキル&ハイドを作り上げ、のびのびとした心境が歌のハリにもすなおに表れ、1曲目の「闇の中で」から背筋をぞくっとさせてくれました。石丸ジキルはより端正にそして悩み深くなり、ハイドは茶目っ気のある罪ないたずら小僧になった。 人間がむき出しになった石丸ジキルに呼応して、笹本玲奈さんのエマもひとりの慈しみ深い女性として立ち現れた。前回の笹本エマは「お嬢さま」を演じていて、やや硬かった。今回のエマは、なぜあのわがままなジキルを女性として全面的に受け入れることができるのか、納得のいく役作りでした。 濱田めぐみさんの娼婦ルーシーには、無邪気な少女ぶりを残した愛すべき女性の繊細さを感じました。初日公演でとても緊張していたのか、ミュージカルの女王にして最初の歌で歌詞をとばしてしまったけど。 石丸さんも濱田さんも4年前には、あまりにも偉大だった鹿賀ジキルと豪快なマルシアルーシーの舞台を「継承」することを意識せざるを得なかったでしょう。今回は完全に吹っ切れた。新鮮で完成度の高い初日でした。 助演の役者さんもそれぞれにみごと。 ジキルの盟友のアターソン弁護士役の石川禅さんは、快活で誠実な人間味あふれる友人を一歩踏み込んで演じた。 畠中洋さんのサイモン・ストライドは、やりすぎかと思うほど憎たらしくなった。 そしてエマの父であるダンヴァース・カルー卿は今井清隆さんが理想の父親像をごく自然に演じきった。 エマの父役は前回、中嶋しゅうさんを当てるというかなり冒険の配役で、それはそれで味があったけれど、やはり今井清隆さんがぴったりはまった。 初日公演なので、カーテンコールには演出の山田和也さんも登場し、役者さんたちをねぎらって「初日として上々の出来。ダメ出ししなきゃいけないところもまだあったけど(劇場内に笑い)、でも、とてもいい出来だったよ」 そしてビックリしたのが、そのあとに登場した作曲のフランク・ワイルドホーンさん。とてもにこやかに「世界各国でさまざまなヴァージョンの Jekyll & Hyde を観てきたが、その中でも今回の公演は出色の出来。皆さんはいまa happy composerを目にしている。これからこの公演がさらなる adventures を繰り広げることを祈ります」 ミュージカルの包容力とスリルに満たされた夕べとなりました。
Mar 8, 2016
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ことしの藝大卒展(第64回東京藝術大学卒業・修了作品展、平280126~31)に行って収穫だった作家のひとり。京橋三丁目の Gallery b. Tokyo で3月5日まで個展を開いている。 藝大卒展では彫刻棟に足をのばすか逡巡した。しかし、一室を漆黒の暗闇にし部屋の中央と壁面にステンドグラスの立体人物像を置いて内部から照らし出した佐宗乃梨子(さそう・のりこ)さんの作品展示を見て、来てよかったと思った。佐宗乃梨子 “KAGUTSUCHI” (修士課程修了作品。カグツチは記紀神話の火の神)佐宗乃梨子 “UTERUS” (修士課程修了作品。「子宮(uterus)」の形が産みの神となったか。) Gallery b. Tokyo に作家本人がおられたので、ステンドグラスの彩色について聞いた。ガラスの一片一片に手作り感があり、色も単色ではなくまるで絵具で裏から着色したように見えるが。「着色ガラスは輸入品を買いました。平面やランプシェード型のステンドグラス作りをしているひとはそれなりにいるので、その人たちのために着色ガラスが売られています」 着色ガラスが買い物だからといって、佐宗作品の価値が下がるわけではない。 油絵だって、いまどき鉱物の粉を練るところから絵具づくりをする作家は稀だろう。それと同じで、着色ガラスはもちろん買い物でよろしい。佐宗乃梨子 “Half man” 個展で床の中央に置かれた酒飲み男は、渋谷の路地裏のバーに置いてみたいね。 こんなところに置いてみたいなと あれこれ想像がふくらむすてきな作品群だ。佐宗乃梨子 “Half man”佐宗乃梨子 “Half man” 下の作品は、学部卒業作品だそうだ。ステンドグラスの表面にウジ虫がわく、ちょいと「おどろ」な作品。佐宗乃梨子 “Living Dead” 佐宗乃梨子さん、今後ともご活躍を!
Mar 1, 2016
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