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情報短信 3月:山火事と花粉、瓦礫それに雪解けに対する注意福島におけるセシウムの再飛散は、原発事故による影響が新しい局面に入ったことを意味しています。つまり、私たちの身の回りにある放射性物質が再飛散して、繰り返し人体の中を通る可能性が出てきたからです。背の低い子供、活発にあそぶ子供に注意してあげましょう。雨の日は再飛散が少ないようで、風がなかったり雨が降ったときにはたまにはマスクを外して自由な生活を楽しんでください。また日本海側のサカナは安全ですから、それが手に入ったり、旅行に行ったりしたときにはたっぷりと食べて日頃のうさをはらしてください。これを防ぐためには、(原因が土壌からの再飛散なら)除染、(原因が焼却なら)瓦礫などの焼却の禁止、(原因が樹木等なら)薪ストーブの禁止などをしなければなりません。このほか、3月になると新たな注意を必要とすることがあります。その一つが「花粉」で花粉には放射性物質がついていますから、むやみに花粉に触れるのは望ましくありません(被曝はできるだけ少ない方が良いという原則は、医学的にも法律的にもはっきりと認められています)。しかし、具体的に計算をしてみますと、花粉の量、花粉についている最大放射性物質量、人の呼吸量などから(計算はかなり複雑でしたが、何回もやって確認しました)、花粉からの放射線量は他の被曝に加算しても(加算することが大切です)、問題にならない量です。この理由は「花粉症」というアレルギーの疾患がかなり感度が高く、私たちが問題にしている花粉の量がかなり少ないということです。でも注意する場合は、花粉の粒径(粒の大きさ)が比較的大きいので、花粉用のマスクが苦痛無くできるならこしたことはないでしょう。・・・・・・・・・雪解けはかなり注意を要します。というのは放射性物質は樹木の葉に着きやすいので、雪解けの水が汚染されている可能性が高いからです。今年はことのほか雪が多かったので、雪解け前後に土壌の線量率が上がるとか、地下水が汚染されるかどうか、特に山形、宮城、茨城、栃木の人たちは注意をしておいた方が良いでしょう。雪解けで判るように「樹木の葉」で遊ぶ、たき火、落ち葉プールなどはしばらく控えておいた方が良いと思います。山火事も同じで、樹木の葉が燃えますから、山火事があったらマスクをすることが必要と思います。また、焼却炉をご担当の人は、これまで「何%除去」というのを一つのメヤスにしていたと思いますが、放射性物質はごく少量でも汚染が厳しい場合があるので、ベクレルで煙の管理をしてもらいたいと思います。私たちの日常生活は、キログラム、グラムというかなり重たい「重さ」の世界で、化学や廃棄物ですと、ミリグラム、マイクログラムなどを問題にしますが、放射線のベクレルという単位は一ヶ一ヶの元素を問題にします。これはアボガドロ数、つまり「ベクレルに対して、普段は1兆倍の1兆倍ぐらいの数を問題にしている」といことを焼却炉の管理をする人は判って貰いたいのです。・・・・・・・・・相変わらず地方自治体は東京からのお金が欲しくて「瓦礫処理」をしようとしていますが、これについてはまたまとめて書きます。東北の瓦礫量は、阪神大震災の時とそれほど変わりませんし、また東北自体が瓦礫処理施設を求めていて、「瓦礫の引き受けは被災地を苦しめる」ということだけまず書いておきます。また「瓦礫の放射線量を量っても安全だった」といいますが、瓦礫の汚染を測定する方法はまだ確定していません。なにしろ固体でさまざまなものが入っていますから、平均的にどのぐらい汚染されているかを測定する方法はないのです。「takeda_20120227no.430-(8:33).mp3」をダウンロード(平成24年2月27日)武田邦彦
2012年02月29日
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教育は戦前の暗黒時代へ・・・教育関係者の魂に期待する福島では小学校教育でまるで戦前に戻ったかと思う教育関係者の発言が見られる。ある小学校では、福島から避難することを口にした児童を教諭がみんなの前で名前をよび、「あなたは日本国民ではありません、裏切り者です」と言った。さらにある小学校(特定しています)では登校時にマスクをした児童に対して、先生が、「マスクを取りなさい! その様な行為が風評被害を招くのです!」と叱った。・・・・・・・・・こんなことが今の時代にあるのか?!とビックリするが、これに類したことは原発事故以来、かなり多く、私も直接(校長先生からのメールなど)、間接(読者の方からのご連絡)に接してきた。戦後、「日の丸、君が代」も拒否し、ひたすら「民主教育」、「個人の尊厳」を中心にしてきた学校はどうなってしまったのだろうか?また、朝日新聞をはじめとしたマスコミもおおかたは「個人の尊厳、民主的教育」を支持してきたのではなかったか? 今回の原発事故は、そのものが「原子力安全審査における不誠実」が一つの原因になったのは間違いない。私たちはここで「福島原発事故の教訓を活かして、どんな場合でも誠実な日本人であること」が求められており、さらに教育、医学、行政などの分野でより強く意識しなければならないのは当然でもある。福島の汚染地帯にいる子供たちは「違法に滞在している状態」である。子供たちは法律を知らないが、教師は法律や規則を勉強して子供たちを守る立場にある。ここに上げた二つの例は、いずれも土壌汚染が1平方メートルあたり4万ベクレルを超える地域であり、学校の先生は法律の規定に従い、学校の放射性物質を除去することを東電に求めて子供を守る必要がある。法律の制限を約40倍超える外部被曝をさせた文科省、法律の制限を約40倍超える被曝をさせた給食担当者、短い期間だから問題ないといって汚染された地域へ生徒を修学旅行に連れて行った校長先生・・・今回の福島原発事故は教育界の腐敗を示したとも言える.・・・・・・・・・「原発は危険だから東京には作れない」といって、東京の電気を福島で作っていた。なぜ、福島の人がそれを受け入れたのだろうか? 東京にはA級国民が住んでいて、福島の人はB級国民だからだろう。お金を持っている東京の人は「電気は欲しいけれど子供は被曝させたくない」と言い、貧乏な福島の人は「ご主人様がそう言われるのだから我慢しよう」と言う。この先生方の言葉を聞いて、私は福島の先生が子供たちに「被曝は受け入れなさい。ご主人様のご命令だよ」と言っているように聞こえる。「絆」という字がいかにも欺瞞に聞こえるのはその所為だろう。被曝を避ける子供に「裏切り者、非国民、風評被害」となじる先生の姿は鬼にしかみえない。政府、マスコミも野蛮人に見えたが、実は福島の先生も野蛮人で、被曝を良しとするなら、仕方が無い。しかし、残念だ。そんな日本に住んでいると思うと残念だ。今まで、なんで先生の言うことを聞き、新聞を読んできたのだろう・・・・・・・・・・・・・・・昨日、「医師と被曝の限度」について記事を書いた.記事に対するご意見を医師の方からいただき、今、また深く考えている.医師、教師など社会的に尊敬され、また尊敬されなければいけない職業が危機に瀕していることは確かだ.福島の保護者も先生も児童を被曝させたいなら、それもそれでよいのだろうか?今、教育の本を執筆している.どう考えるべきだろうか? 何が起こって、また起ころうとしているのだろうか? 拝金主義の蔓延というそれだけだろうか? このことについて深い考察をすることもまた、将来の日本社会にとって必要なことだろうと思う.「takeda_20120227no.433-(11:50).mp3」をダウンロード(平成24年2月26日)武田邦彦
2012年02月28日
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医療崩壊か?・・・医師の自重を求める 「被曝は健康に良い」、「1年100ミリまで被曝しても良い」、「被曝を心配するより心理的ストレスが問題」などの医師の発言が続き、はっきりと違法行為を勧める本を医師が書いている。 さらに、被曝による疾病が医師によって隠されているとか、被曝の疾病について週刊誌の記事が問題になったり、混乱が続いている。日本の医療はTPP問題どころか、医師の人格の欠落と倫理違反よって崩壊の危機に瀕している。直ちに正しい医道にもどる必要があるので、ここで医師の倫理の解説と医師の自重を求めたい。 ・・・・・・・・・ このブログで再三、指摘しているように「医師」は「医学者」ではない。特に、社会に対して医師が情報を発信する場合、「治療行為を行い得る特別な職」であること、医師は「聖職」であることを明確に認識していただきたい。 社会には正義を保つために法律を定め、裁判官はそれを執行するが、場合によっては他人の命を奪う決定をすることがある。このような職にある場合、「自らの価値観や判断」をできるだけ後退させ、法律や判例など確たる根拠をもった言動が必須であり、かつ職は聖職であり、人は高い人格を求められる。 医師の場合、「治療行為」は他人の身体を傷つけることもあり得る特別な行為であり、それが医師に許されているのは、医師が社会との約束を厳密に守ることが前提である。医師は「関連法を守ること」、「医師会などの公的な機関の同意がある治療を行うこと」などが前提になる。 また、もちろん場合によって人の体を傷つけるので、職は聖職であり、医師は高い人格が求められるのも、当然である。医師と医学者を兼務している人は、医師としての社会的な責任と制限に十分な配慮が必要であることもまた当然である。 ・・・・・・・・・ 被曝は、大きく分けて、1)自然放射線によるもの、2)人工放射線によるもの、3)医療行為によるもの、の3つに分かれていて、2)と3)は厳密に区別される。医師は3)について医師会などの合意の元に全権をもって社会に対することができるが、2)については法律の規定を守るのは当然であり、また一般的な指導を行う場合は、法律にそって社会の規定にそった「安全側」の言動に制限される。 一般人の被曝の法律の1つで昨年(事故後)10月に改正された厚生労働省の「電離放射線障害防止規則」を示す。この法律は放射線の障害を防止するために厚生労働省が定めている法律だから、医師は社会との約束という点で、「医師免許を返納しない場合」、この法律の規定に反する言動をすることはできない。 第一条に「被曝をできるだけ少なくする」ことを事業者のもっとも大切なこととして定めている。このように明確に厚生労働省の規則に書いてあるのに、医師が「被曝して良い」とか、「外部被曝、内部被曝の合計の限度は1年1ミリシーベルト」を否定することは医師の社会的責任からいって「不可能」である。 また、任意団体であるICRPや「政府の暫定基準値」などより「国内の法律や規則」を尊重しなければならないのも、先に示した裁判官、医師など社会において特別の仕事を任されている人の社会との約束であり、倫理であることを再認識すべきである。 また、この法律が「事業者と労働者」の関係を規定しているから、一般人には無関係であるとの見解をとってはいけない。ここに示されているのは「被曝」と「健康」に関する社会の規定であり、医師がこれに反する言動をすることは禁止される。もし厚生労働省の規則に反するのが医師本人の信念である場合、医師免許を返納し、医療行為を止める必要がある。 規則に違反する医師が存在すると、国民は安心して医療をうけることが不可能になる。医師のもとに行くと、その医師が「いくらでも被曝しても良い」という信念のもとに1日中、レントゲンやCTスキャンなどで診察や治療をされる可能性があるからである。 また、第28条に基づき、1平方メートルあたり4万ベクレルを超える地域に居住している患者については、「直ちに退去するよう」勧告を行うべきである。医師は、自らのもつ独自の「被曝と健康」の見解を患者に適応してはならない。 さらに、第42条に基づき、1年15ミリシーベルト以上の被曝を受ける可能性のある成人について、直ちに居住地および職から離れるように勧告する必要がある。また、医師が「成人より子供に対する影響が3倍程度ある」と判断する場合、1年5ミリシーベルト以上の被曝を受ける可能性のある場合、その保護者に対して生活環境を変えるように強く求めるべきである。 医師は社会において自由な活動を許されていない。医師は人の健康に関して万能な治療行為、もしくは言動を許されていない。そして、法を守る誠実さ、お金や待遇、社会的名誉に影響されず、出身医局や指導教授の脅迫に屈せず、ただひたすら患者と社会の健康のために誠心誠意、奉仕するべきである。 「法律の規定を守るよりストレスを減らす方が有効」などと言う権利は医師に与えられていない。各医師会は日本の医療を守るために、医師に対して警告、除名などを行うべきである。 また、これまでの医師の違法行為によって発生するであろう一般人の疾病について、その補償を医師会にて積み立て、準備をしておく必要がある。違法なアドバイスや治療によって発生した疾病に関する全責任は医師にある。 「takeda_20120226no.432-(9:14).mp3」をダウンロード (注) 記事には書いていませんが、音声の方で「札幌の医師」とした方はよく調べてみると医科大学の教授ではありますが、物理の人のようです。はっきりわかりませんが、ネットを見る限り医師免許は持っておられないようです。テレビでご一緒したときに「福島の人の発症の状態」をお話になったので、医師以外に病気の診断はできないので、医師とおもいました。間違っていたらお詫びして訂正します。 (平成24年2月26日) 武田邦彦
2012年02月27日
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情報短信 瓦礫処理のウソ:環境省とはなにものか?読売新聞の2月21日に環境省の全面広告が乗りました。瓦礫処理について、「広域処理をお願いする岩手県と宮城県の沿岸部は福島第一原発から100キロ~250キロ以上離れており、空間放射線量は他の地域とほぼ同等です」とあります。まず事実として宮城県南部は福島原発から100キロを切るところがあります。第二に汚染は原発からの距離ではなく(放射線が原発から来るわけではなく)、放射性物質が降った場所ですから、それも誤魔化そうとしています。また、瓦礫が汚染されていても空間線量率にそれほど影響はありません。 瓦礫の処理では細野環境相が「(被災地以外の地域が瓦礫を)受け入れられない理屈は通らない」と言っていることで、泉田新潟県知事が「どこに市町村ごとに核廃棄物場を持っている国があるのか」、「国が環境整備をしないといけない。国際原子力機関(IAEA)の基本原則で言えば、放射性物質は集中管理をするべきだ」としているのはもっともである。もともと、環境省は経産省などの他の官庁が「生産優先」で仕事をすると環境が悪化するのでそれを食い止める役割を負っていましたが、リサイクル、温暖化と続く利権に飲み込まれ、今ではすっかり「国民の健康を損ない、環境を悪化させる役割」を追い、このところ15年、ウソばかりついています。そういえば、IPCC(地球温暖化政府間パネル:国連機関)が「温暖化すると南極の氷が増える」と報告しているにも関わらず、日本人が英語を読まないことを考えて「増える」という英語を「減る」と訳した前科を持つ役所です。これでずいぶん多くの人がだまされました。リサイクルや温暖化についての環境省のウソは「お金」だけのことですが、被曝となると「健康」に直接関係があるので、早く環境省をつぶす必要があります。マスコミも長い間、環境省にダマされていたのですから、この際、国民側に立ってください。東北では「瓦礫処理施設が欲しい」と言っているのに、環境省が審査を遅らせ「3年間は許可を出さない」と言っているのですが、その理由は「瓦礫は放射線を含むから審査を慎重にしなければならない」というらしい(伝聞)のですからすでに「公僕」としての役所ではないと考えられます。(平成24年2月25日(土))武田邦彦
2012年02月27日
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セシウム・・・再飛散の恐ろしさ(瓦礫と同じ新しい危険)福島を中心にセシウムの「降下量」が12月から増え、2月になっても一日あたり100ベクレルをこえる日が続いています。これについて政府、自治体、マスコミが報道しないのは、その重要性について理解していないものと思います。3月に東北南部・関東北部の国民は被曝の一撃を受けました。それは徐々に減少し、6月から7月頃には「空から降ってくる放射性物質」は減り、ようやく打撃を受けることが少なくなったのです。10月、11月になるとセシウムの定時降下物は1日あたり10ベクレルを切るようになり私もホッとしていました。ところが12月中旬からセシウムが増え始め、1月には400ベクレルを超えることや、100ベクレルを超える日が多く出てきました。2月も15日に300ベクレルに達するなど、むしろ増加傾向が続いています。この問題の危険性は上の図に示したように、「3月、4月の一撃だけ」から「あちこちから来る放射性物質で、100年間繰り返し被曝する」という状態へと変わったことを示しています。つまり、放射性物質は100年は無くならないし、人の体を何回も通り過ぎてもその量は変わりません。つまり、1月の被曝量が規制値の10分の1でも、1年(12ヶ月)では規制値の1.2倍になってしまうという「繰り返し被曝」が発生するからです。初期の除染が大切なのはこれも心配だったからです。つまり、地面に降った放射性物質が土にしみこみ、そこからの放射線で被曝するばかりではなく、空気中に飛散したもので呼吸から内部被曝を受けます。良く原理を知らない人が「セシウムの降下物が増えていると言っても、空間線量が変わらないから大丈夫」のように言っていますが、空間線量の主力は地面からで、セシウムが空気中にあればそれを呼吸で吸い込んで3ヶ月分、被曝するからまったく別なのです。また、福島県が1月2日の432ベクレルについて、「被曝量は規制値の500分の1」という発表があり、私の計算とかなり違っていたので、「100ベクレルはとれた野菜が危険なレベル」という表現にしておきましたが、よくよく検討すると、福島県の説明はおそらく間違いと思います。つまり、福島県の「500分の1」というのは、空中に飛散する放射性物質を呼吸で体内に取り込むことはなく(福島県の人は呼吸しないという仮定)、地面に落ちた放射性物質からの空間線量のことを言っていることがわかったのです。「福島の人は呼吸しない」という県の仮定もかなり大胆で、セシウムが降下するというのは、降下する前に空中に漂っていたからですから、もっとも注意を必要とするのは呼吸、つまり「マスクをかける」ということだからです。瓦礫やゴミの焼却、薪ストーブがすべて危険なのは、日本人がドンドン内部に放射性物質を貯めてしまうからで、政府発表の80億ベクレルという数値は、日本人が平均的に被曝すれば日本に誰も住めないという数字であることを再確認し、また県は県民の健康を守ることを第一にして欲しいと思います。内部被曝量は、降下する物質が5ミクロン以下か、以上かで肺に入るか、胃に行くかなど難しいところがあり、さらに降下しているものは、5月頃まではヨウ素も含み、現在は少ないとはいえストロンチウムやプルトニウムも含んでいます。また人間が一日に呼吸する量は約20立方メートルですから、どのような粒がどのよに飛散しているかによって違いますが、おおよそ、100ベクレル(平方メートルあたり)なら、一日に100ベクレルの被曝を受けることになり、これを毎日続けていると、100で割るとミリシーベルト(年間)になりますから、100ベクレルのところに住んでいれば、マスクをしなければ1年1ミリの被曝になります。これは福島県発表の500倍ですから、もしできれば福島県と計算を検討したいと思いますが、おそらく応じてくれないでしょう。これまで、福島の原子力センターや放射線防護の機関に度々、質問をしているのですが、返事がありません。専門家が個別のデータを出すのではなく、考えや計算の違う人ほど、相互によく計算をつきあわせて国民に迷惑をかけないようにするべきと思います。「takeda_20120225no.430-(7:33).mp3」をダウンロード(平成24年2月25日)武田邦彦
2012年02月26日
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科学雑誌と「学問の自由・倫理」東京化学同人というところが出している「現代化学」という学術誌は、学会誌などとは違いやや一般人も興味を持って読むことができ、かつ学術的にも高度で、日本の科学雑誌としては価値が高い伝統のある雑誌である。この雑誌の2012年3月号に、馬場宏先生のご執筆になる「食品放射能の許容値を考える」という論文が掲載された。著者は東大理学部を卒業後、原子力研究所に勤務、その後大阪大学の教授で、この道の専門家(以下で定義する)か学者(以下の定義)である。雑誌の記事の情報を読者からいただいた。内容は、放射線の基礎、人体との関係、ICRPの勧告、食品の暫定基準値などを説明した後、セシウムを中心として人体に対する影響と許容値、事故時における許容値について学術的に詳細に述べている。そして、文章の終わりには、この論文で一貫して述べているように「規制値が厳しすぎる」、「反原発グループが危機を煽っている」ということを総まとめして締めくくられている。論文に書かれた内容には著者自身の問題と、この論文を掲載した東京化学同人の見解の問題の二つを含んでいるが、学術内容の適否ではなく、学問の自由と専門家の倫理という視点から本論文と論文掲載の犯罪性と倫理違反の有無について論じる。日本国憲法第23条は学問の自由を、また同第21条には表現の自由が基本的人権として規定されている。しかし、これは社会の公序良俗を前提としたものであり、「殺人の勧め」や「脱法行為の教唆」などを含むものではなく、そのような内容の論文を発表、あるいは出版することは逆に学問や自由な言論に対して脅威となる。日本の法律では、一般人に対して「外部被曝と内部被爆を合計して1年1ミリシーベルトの被曝を限度とする」とされており、原子力安全委員会指針では「1万年から10万年に一度の事故の場合、1年5ミリシーベルトまで上げうる」(法律や規則の改定は必要であるが)とされている。しかし、本論文では日本の法律(現在までの公的に認められた数値)について明確に解説をせず、また基準値が低いことについて批判的見解を述べている。また、ほぼセシウムのみに限定し、事故直後の放射性ヨウ素の被曝についての加算も明確な計算値が示されていない。・・・・・・・・・これらの論調はこの論文ばかりではなく、事故後に発表された多くの新聞、雑誌などでの識者のものと同じであるが、この際、このようなものは「学問の自由」にも「表現の自由」にも入らず、犯罪性や倫理違反の可能性があることを指摘し、関係者の熟考に期待したい。【結論】 被曝限度は法律で明確に決められており、事故時の上限も指針が存在する。従って「1年1ミリ以上被曝しても良い」という論文は、現に福島県を中心として被曝中の多くの人が存在する現時点では、「酒酔い運転をしても良い」という論文と同じ法律違反と倫理違反の可能性がたかい。血中のアルコール濃度が0.15(ミリグラム/リットル)以上が検出されると法律違反で罰せられるが、世界各国が0.15に統一されていることもなく、学問的にはさまざまな考えがある。しかし「0.15以上であっても運転しても良い」とか「酒を飲んでいる方が決断力が高まるから運転には望ましい」という「呼びかけに近い論文」を出すことについては注意を要する。このような見解は学会などの専門家集団の中で検討され、専門家集団の合意を得たら社会に発信できるものとするべきであろう。【第一:学問の自由との関係】 学者は「人の健康や命、財産に直接、関係の内場合に限って」、学問の自由のもとで自由な著述が許される。直接、人の健康や命、財産に関わる場合、発表形式、文章表現に制約が加わる。つまり、研究者は直接、社会に呼びかけることができず、教師、啓蒙家などのように社会に科学的なことを伝える役割を持つ専門家は「自らの意見を控え、社会の合意を説明する。必要に応じて若干、諸説を紹介するのは許される」と考えられる。これは安楽死が社会的に認められていない時に、医学的に学者が安楽死の研究を行っても良いが、医師は患者に安楽死を施してはいけないことと同じである。この図はこのブログで再三、紹介しているが、社会に直接的に影響を及ぼす行為には制限があり、裁判官は自ら法律を作らず、牧師は聖書を改編してはいけない。今回の論文に同意し、1年1ミリ以上被曝し、病気になった人は著者および出版社に賠償を求められると考えられる。【第二:表現の自由】 表現の自由はきわめて重要で、安易に制限するべきではないが、放送法第3条の2に示されているように、「議論のある論点については、考えが異なる双方の意見を示すこと」、「公序良俗に反しないこと」などが求められていて、今回の場合は著者に法律で定められた数値やその内容の解説を求めるか、もしくは法律の数値を決めた委員会の委員に執筆を依頼するかが必要である。また、「どのぐらい被曝したら5歳の子供が15歳で発症するか」が不明な現状で、このような論文が公序良俗に反さないかについての出版元の見解表明がいると考えられる。・・・・・・・・・いずれにしても、学問の自由や表現の自由を守り、育てていく上において、「論理を詰めず、まあまあ、なあなあでいく」や「反論を無視する」というのではなく、真正面からこの問題に取り組む真摯な態度を要すると考えられる。(平成24年2月25日(土))「takeda_20120225no.429-(13:26).mp3」をダウンロード武田邦彦
2012年02月25日
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情報短信 原発再開・・・同じ不真面目さ今回の福島原発事故は、これまでの原子力の安全についての政府と電力、それにマスコミの「不真面目さ」に原因しています。そしてそれが結局事故に繋がり、多くの人を苦しめています。でも、まだ同じことが行われていて、地震も津波もなく、ほとんどが内陸にあって淡水で冷却している原発の「ストレステスト」というのを急に出してきて、それも安全審査は推進側と独立した安全委員会がやるのに、経産省の「保安院」と名前をつけた隠れ蓑でやるなど、不真面目さが目立ちます。さらに、本日の朝日新聞には「原発防潮堤 整備進まず」という大見出しの記事が1面トップにでましたので、多くの方が見られたと思います。大新聞のトップにしては実に不見識な記事で、もともと上の写真にあるように福島原発事故は「5.7メートルの防潮堤に15メートルの津波がきて、原子炉を襲った」ということに「形式的」になっているだけで、本当は、下の写真で判るように、津波は原子炉建屋の前にあるタービン建屋(高さ37メートル、標高6メートル)で完全に止まっていて、建物の隙間からわずかに原子炉の方にいった流れと、原発の南側の防潮堤の無いところから進入した海水が原子炉の後ろから回り込んだもので浸水して爆発したのです。つまり、「津波で破壊した」のではなく「浸水で電源が止まり、破壊した」のですから、原因を科学的に判断すれば防潮堤を高くしても安全にならないのは小学生でも判断できることです。原発の関係者は「とにかく再開する」というのではなく、今回の事故を職業倫理として深く反省し、真なる原因を突き止め、それを改善して、正直に国民に説明し、同意を得て進めないと、さらに混乱が続くでしょう。真面目にやって欲しいものです。しかし、政府も専門家もマスコミもないも同然なのですから、私たち自身が再開の意見交換会に出て行って、「防潮堤は関係ない」ことを表明しなければならないでしょう。(平成24年2月23日)「takeda_20120223no.429-(4:04).mp3」をダウンロード武田邦彦
2012年02月24日
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考える練習(2) 1年1ミリ問題この1年。「どのぐらいの被曝まで大丈夫なの?」ということが、さまざまなことで報道され、多くの人が迷いました。でも、この問題は「医学」でもなんでもないのです。被曝の知識が何もなくても、正しいことが判るという練習をしてみたいと思います。・・・・・・・・・解説者:「基本的には放射線の被曝はそれほど危険じゃないんだね。これまでの研究では、1年100ミリシーベルトまで大丈夫というデータもあるんだ。」視聴者:「そうですか?! でも、今まで放射線はとても怖いって聞いていたのですが?」解説者:「世の中にはバカもいるからね。特に反原発の人なんかはなにも判らないのに、危険だ、危険だと騒いでいるんだ。」視聴者:「なにか、1年1ミリとか聞いたことがあるのですが? 日本では国民を被曝からまもる法律もあるとか?」解説者:「人体と健康の関係はね、LNT仮説、閾値仮説、ホルミシス効果など多くの学説がある。LNT仮説を採れば1年1ミリもあるが、閾値仮説なら1年100ミリもあるし、ホルミシス効果から言えば被曝した方がよいということになる」視聴者:「世界的にも被曝量で合意した量があると聞いていますが?」解説者:「その通りだ。ICRPという機関が合ってね、国債放射線防護委員会という公的な委員会なのだが、そこで1990年に国際的に合意している。原発の事故が起こったときには、1年100ミリまで認めようという機運もある。」視聴者:「なんだか判らなくなってきたので、最初の質問に戻らせていただくと、日本の法律で決まっている量はあるのですか?」解説者:「ある。原子炉の作業員は1年20ミリだし、医療に携わる人の場合はそれぞれ決まりがあって、厳格に守られている。」視聴者:「私はどのぐらいですか?」解説者:「えっ?あなた?あなたは関係がない。放射線の法律は放射線を出す人は機関を規制するものだから、放射線を出さない普通の人の規定はないよ。車だって運転している人には最高速度の規定はあるけれど、歩行者にはないのと同じだ。」視聴者:「なるほど??判ったようでどうも判らないのですが、そうすると、私たちは被曝から守られていないということですか?」解説者:「そんなことはないよ。最高速度の制限があるように、守られているんだ・・・(困ったな。ついに言わなければならないか・・・でも、時間かせぎをしている間に、放射性ヨウ素は半減期が8日だからもう無くなっているから、ごまかせたかもしれないな)・・・1年1ミリだね。法律では。」視聴者:「えっ!1年1ミリなんですか? 法律?! 被曝量は法律で決まっているのですか?」K:「当然じゃないか。日本は法治国家だよ。それに50発以上の原発はあるし、医療関係でも放射線をずいぶん使うのだから、国民を被曝から守る法律はあるよ。決まってるじゃないか。」S:「その法律を決める人は誰ですか?」K:「最後に決めるのは国会だけれど、最初は医者や被曝の専門家が委員会で決めて、それを官僚が法律の形にするんだ。もちろん、委員会の医師や専門家は大きな機関の長や責任者が多いね。その意味では当たり前だけれど法律の数値を決めるのだから「権威ある専門家が決めた」と言っても良いんだ。」S:「その人たちが決めたのは1年何ミリシーベルトですか?」K:「ん? 1年1ミリだよ」S:「えっ! 1年1ミリ?! さっき、1年100ミリと教えていただいたと思うのですが?」K:「それは君。そういうデータもあるという意味だ。学問だからね。いろいろな学説があるんだよ。」S:「福島の原発事故の後、NHKを見ていても「法律で1年1ミリと決まっている」ということはまったく聞いたことがないのですが」K:「福島の原発事故は非常時だからね。法律より学問の方が大切と思ったんだろう」・・・・・・・・・1年1ミリ問題の場合は、政府、自治体、マスコミ、専門家は国民に真実を知らせることをできるだけ先に延ばし、放射線が減少してきたところで正しいことに移るという作戦でした。それは放射線が高いときに被曝させることになったのです。専門家のごまかしの一つにこのように「ポイントになることを言わずに、その周辺を解説する」というのも常套手段のようです。でも、論理的に少しずつ追い詰めることはできます。この場合は「法律はあるのですか?」の一発です。なお、政府が盛んに「従わなければならない上司」のように口にしていたICRPという組織はグリーンピースやシーシェパードなどと同じようなNPO(任意団体)です。政府がICRPに従うなら、シーシェパードに従って捕鯨を中止する必要があります(実にバカらしい!)。「takeda_20120223no.431-(4:17).mp3」をダウンロード(平成24年2月22日)武田邦彦
2012年02月24日
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情報短信・・・ご質問に答えて・・・CO2読者の方などからのご質問などには共通のものがあり、時間があれば個別にもご返事していますが、「短信」という形で書きます。「樹木はCO2を吸収しない」ということと「地球のCO2が減ったのは樹木などの生物の活動が原因の一つ」という一見して矛盾しているように見えますが、これは「量的関係」にあります。今、温暖化で問題になっている「CO2の増加量」はほぼ100年に100ppm、つまり100年で0.01%のCO2が増えているということです。一方、生物の影響で減少しているCO2はほぼ1億年で1%ぐらいですから、100万年で0.01%となります。つまり、人間が100年で0.01%増加、生物が100万年で0.01%減少ですから、森林でCO2を減らそうとすると、[0.01(増加)-0.000001(減少)]で、まったく効果が無いと言って良いレベルであることが判ります。もちろん、このことを専門家は承知ですが、「自分が儲かれば、都合の良いことだけを言う」ということなので、「森林はCO2を吸収するから温暖化防止に役立つ」と言い、「1万分の1ではないですか?」と聞かれると、「少しでも減らすことが大切だ」と言い逃れるという仕組みです。(注)学問的に厳密に言えば、(1)数億年単位で見れば「樹木はCO2を蓄積する効果を有する」、(2)数100年の単位で議論するときには「樹木はCO2を蓄積しない」として人間活動の関係を考えることが必要ということになります。「takeda_20120223no.430-(3:57).mp3」をダウンロード(平成24年2月22日)武田邦彦
2012年02月23日
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食品被曝の規制値について・・・お母さんが安全に買える規制値とは?原発事故以来、主に食品の専門家を中心に今までの「健康を第一とする食品規制」を変更し、「食糧を確保するためには、被曝も認める」という考え方に変えた学者が目立ちました。マスコミはそれに追従して、「牛肉が汚染されたが、毎日**グラムしか食べないので、1年間食べ続けても・・・」という報道をしたので、多くの人が本当にそのように考えるのだと思ってしまったのです。「知」というのは理論もあるが、今までの「経験の知」を活かして少しずつ前進し、人間の知という財産を殖やしていくものです。その点では、あれだけ中国の食材に苦情を言えるぐらい、これまで築き上げてきた日本の食品の安全性が大きく後退したことは残念です。・・・・・・・・・まず、素人的に考えてみます。あるお母さんがスーパーに買い物に行って、「普通に食べても規制値に達しないほうれん草」を買ったとします。そのほうれん草には、「普通の人が普通に食べても、規制値の5分の1(0.2)にしかならない「十分に安全な量」の農薬が含まれていました。そのお母さんの家族は特にほうれん草が好きで、厚生労働省が「日本の家庭の平均的なほうれん草の摂取量」の3倍を買いました。もともと、「平均的なこと」を計算するときには{(ほうれん草の販売量)÷(日本人の数)}で計算しますが、この「日本人の数」には「ほうれん草を食べない人」も入っています。本当は{(ほうれん草の販売量)÷(ほうれん草を食べた人)}で計算するのが正しいのですが、「ほうれん草を食べた人」の数はわからないので、「日本人の数」で割ることになります。だから、どうしても統計で示された「1日で食べる量」というのは小さめにでます。次に、そのお母さんはリンゴを買ったとします。そのリンゴにも農薬が含まれていて、「普通にリンゴを食べる量」では規制値の5分の1(0.2倍)でしたが、そのうちはミカンやバナナなどはあまり食べず、リンゴが好きだったので、ここでも厚生労働省の摂食量の3倍を買いました。そうすると、そのお母さんが買った食品の中に含まれる農薬は、ほうれん草から0.2×3=0.6と、リンゴからの0.2×3=0.6の合計、1.2の農薬を家族がとることになって合計では規制値を超える。このほかに、お母さんは牛肉を買い、そこには紅い色をつける添加剤が入っていて、それはほうれん草やリンゴの農薬と反応して、弱いけれど毒物を発生することという論文が出ていました。でもお母さんは牛肉にそういう表示もしてないし、研究論文を読んでいるわけではないので、牛肉を買ってしまい、その結果、家族はさらに有害物を口にすることになります。・・・・・・・・・このことで判るように、特定の食品の安全性は、その食品を「平均的に口にする人」だけを考え、さらに「その食品だけに毒物が入っている」としてはいけないということがわかります。あくまでも「添加側」の論理ではなく、「被害を受ける側」に経たなければならない、それは当然です。そうなると、食品中の毒物の規制はどのようにしたらよいのだろうか? 家庭によって食べる量は違うし、何種類の食材を買うのかわかりません。でも、お母さんがそんなことを考えずに、家族が楽しく食卓を囲むように、「これも食べさせたい、あの子はあれが好きだから」ということだけを考えて食材を選ぶことができないのでしょうか?そこで、これまでのさまざまな経験を活かして、動物実験などで「無毒量」を決め、その「100分の1」を規制値にするという原則を使っています。無毒量は「これまでの実験結果から、信頼できる結果を取り出し、そのうち、もっとも厳しい(低い)値を採用するということになっています。また、100分の1とは、「数や学問的な誤差も入れて10分の1」、「個人差を入れて10分の1」ということで、多く食べる人、小さいお子さん、病気がちの人なども安心できるように「規制値の100分の1」で管理すればよいというのが経験的な知なのです。この図は健康を守るのに重要なものなので、ネットからお借りしましたが、このように一般的によく使われている考え方なのです。この原理原則を放射性物質による食材汚染に適応した場合、1年1ミリが「無毒量」とするとその100分の1が限度になり、1年100ミリが「無毒量」とするとその100分の1の1年1ミリが限度となります。しかし、農薬などと違い、外部からの被曝も受けますので、食材を0.4ミリとすると、1年0.4ミリとなり、これはおおよそ1キロあたり(1日の食材量が1キロとして)40ベクレルが限度になるということです。つまり、これまでの食品安全の知見との関係では、1年40ベクレルを超える食材が出回ったら、専門家もマスコミも大騒ぎしなければならないということです。それなのに、このような考え方を捨てて「牛肉は1日に**グラム食べるし、毎日、食べるわけではないから大丈夫」などという計算値をまともに出すのですから、政府や専門家が一貫性が無いことが判るとおもいます。文句を言っていてもダメなので、1キロ40ベクレルを基準にして生活をすることでしょう。また、「牛肉は一日に**グラムしか食べないから・・・」などという自治体があったら直ちに具体的に間違いを直さなければなりません。(平成24年2月21日)武田邦彦
2012年02月23日
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考える練習(1) (明るくなる話) 石油の寿命40年?そういえば、かなり前から「日本政府」というのは無かったのかも知れません。でも長い自民党政治の中で、なんとなく「政府」というのがあるような錯覚襲われていたような気がします。でも、原発事故で「国民を守ろうとする政府」がすでにいないことがハッキリしました。かくなる上は国民が一人一人で自分と自分の家族を守らなければならない時代が日本にもきたということになります。そこで、このシリーズ(三日坊主にならないように!)では、「政府無し、NHKがウソをつくとして、自分で考えて正解を見つける」という練習を「知識を増やさずに、今のまま判る練習」を目指したいと思います。「知識がなければ正しい判断はできない」というのが普通ですが、どうも今の日本はそれ以前のことが多いように思うからです.知識は小学生でも良く頭を巡らすことができれば、かなりのことまで判るし、それから質問するとその質問もかなり的を得たものになるからです。・・・・・・・・・解説者:「石油会社が確認している油田の量を「確認埋蔵量」と言うが、それはわずかに40年分なのだ。だから、確実な石油の寿命は40年で残りが少ない。」視聴者:「えっ!あと40年しか無いのですか?! ところで、むかし石油の会社は大きくて「メジャー」と言われていたような気がしますが、大きな会社が油田を持っているのでしょう?」解説者:「そう、かつてはセブン・シスターズなどと言っていが、今は、エクソン・モービルやロイヤル・ダッチ・シェルなどを「スーパーメジャー」と言っている」視聴者:「大きな会社ですから、歴史も古いんですね?」解説者:「そうだ。ロックフェラーが作ったスタンダード石油が1911年だから、今年でちょうど100年になるな」視聴者:「創立100年の会社なのに、これから石油が40年しかないということになると、会社が40年しか持たないのですから、不安ではないのですか?」解説者:「ん? 会社が40年しか持たないって?」視聴者:「だって、石油が40年しかないんでしょう? 石油が無くなったら石油会社は売るものがなくなるんじゃないですか?」解説者:「えっ?石油が40年しかない? 何で?」視聴者:「さっき、そういわれませんでしたか?」解説者:「ああ、それは「確認埋蔵量」だよ。私は確認埋蔵量って言ったはずだが」視聴者:「だって、石油はあと40年って言われたでしょ」解説者:「慌てちゃだめだよ。私は「確認埋蔵量」の解説もしたはずだ。確認されている石油は40年っていうことだよ」視聴者:「それじゃ、今から石油ショックの時に「石油があと40年」と言っていたのも「確認埋蔵量」ということですか?」解説者:「そうだ。無くなるわけじゃない。」視聴者:「それじゃ、石油が無くなって、そのスーパーメジャーとかいう会社が仕事ができなくなるのはいつ頃なのですか?」解説者:「スーパーメジャーが別の仕事をしだしたということも聞いたことがないから、まだかなり先なんじゃないか。第一、スーパーメジャーは40年先の油田しか探していないし、もしそれで無くなるというなら先を争って探すから、かえって確認埋蔵量は増えるだろうから」視聴者:「確かにそうですね。40年までしか油田を探していないということは、探せばすぐ見つかるという自信があるからでしょう。それにしても「石油が無くなるから節約しろというのはどういうことなのでしょうね」・・・・・・・・・石油は探査を始めてから生産まで30年ぐらいかかります。でも、石油はたっぷりありますので、メジャーはギリギリにならないと新しい油田を探査しません。つまり、油田の候補地は多いし探査をし始めたらすぐ見つかるので、他の会社に先を越される心配もないからです。でも、この解説者はそれを説明するのを巧みに逃げ、日本人に「石油はまもなく無くなる」という錯覚を与えているのに成功しています。こういう解説者を「頭が良い」と言うことがありますが、頭というのはそんなことに使うのですか?・・・用語解説・・・「確認埋蔵量」:すでに石油会社などが開発している油田にある量。寿命は40年ぐらいが普通で、40年前からずっと40年と言われている。「究極埋蔵量」:確認埋蔵量などから推定した最終的に人間が掘ることができる石油で、その寿命は550年から600万年(600万年であることに注意)。「takeda_20120219no.430-(8:11).mp3」をダウンロード(平成24年2月18日)武田邦彦
2012年02月22日
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被曝防止情報被曝を少しでも減らすために最近の重要なニュースを読者の方のご協力も得て、ピックアップしました。全体としてはそれほど危険な状態ではありませんが、食材の種類を多様にしたり、西日本、日本海側、外国のものをできるだけいれることが大切。キノコ、外食のコメ、東日本太平洋側のサカナ、乳製品は避けよう。•1) 埼玉県の上田知事は2月13日の記者会見で東電に逮捕者や自首する人が出ないことに怒りを示した。中小企業ならすぐ警察が逮捕することと比較しての発言だが、マスコミも相手が東電であれば敬語を使ったり、報道を弱めたりしている。日本人を差別せず「法の下の平等」の精神をあらゆるところで実現して欲しい。•2) 東京の公園から高い放射性物質を含む植物が見つかり密かに処分したことが伝えられているが、ネットによると国分寺の落ち葉が750ベクレル(1キロ、以下同じ)、町田市の牛フン120ベクレル、練馬区の剪定枝200ベクレル、多摩市の落ち葉400ベクレルなどが測定値として出ている。•3) (すでによく知られていますが)南相馬で放射線量の高い粉(黒い)が見つかりました。セシウムで110万ベクレル(1キロ)という途方もない数字で、普通ならすぐ警察が駆けつけ、マスコミが大騒ぎするのが普通ですが、「国民が被曝する方向」の時には政府の目が怖く、責任のあるところはなにもしないという状態が続いています。政府はないも同然なので、自衛する必要がある。•4) 2月16日茨城県生活環境部原子力安全対策課は土壌中のストロンチウム、プルトニウムの分析結果を発表し、いずれも検出限界内であること、その多くが福島原発由来ではないことを強調した。しかし、原子炉の中ではセシウムとストロンチウムが同じ量発生し、3号機はプルトニウム9%の燃料を使っていた。それとの関係は国の責任者はなにも発言していない。私たちは「散っているかも知れない」という警戒を続けなければならない。•5) 1月31日、農林水産消費安全技術センターに堆肥の分析によると、福島市1300ベクレル(1キロあたり、以下同じ)、伊達市1900ベクレル、桑折町3700ベクレル、郡山市8700ベクレル、いわき市600ベクレルである。高いものは出荷を自主規制しているが、堆肥は危険。•6) 2月19日の報道によると、福島の医師は71人が他県に移り、医師の減少に歯止めがかからない状態が続いている。•7) 原発に近いところの野菜を使うと表明している企業:イオン、セブンイレブン、イトーヨーカドー、華屋与兵衛、ビッグボーイ、モスバーガー、サイゼリア、リンガーハット、マックなど(注)モスバーガーは自主検査しているとしているが検査結果は公表していない。原子力予算4500億円の10分の1ぐらいを補償に使えば、汚染された野菜をすべて買い取ることができる。そのことを報道せず、ベクレル表示をしていないで販売する流通が多い。「セシウムを含む野菜を出荷する農家は誠意ある国日本の「農家」ではなく、消費者の被曝を増やす商品を売る流通は誠意ある国日本の「流通」ではない。」•8) 1キロ1500ベクレルを超えるシイタケが静岡で加工。(注)セシウムが入っていてもカリウム(放射性)もあるということを言う人がいるが、セシウムは筋肉に入る。もともと法律の規制を決めるときに臓器ごとに検討して決めている(日本は法治国家だ)。•9) 汚染された食材が沖縄に流れているという噂が絶えないが、沖縄で未使用の薪で1キロ500ベクレル、焼却灰で4万ベクレルを検出。この放射性物質は30年消えずに沖縄に蓄積する。放射性物質が入った農作物、瓦礫、薪などを持ち込むが危険なのは「煮ても焼いてもなくならず、繰り返し人体が被曝する」からで、1つ1つを計算して「基準値以下」であるというのでは安全ではない。•10) 横浜市瀬谷区の二ツ橋小学校の校庭に隣接する水路の跡地で、1時間あたり7マイクロという高い放射線量を想定。土砂を取り除く。ヤブ、水路、くぼみ、枯れ草には子供を近づけないように。子供を被曝から守るためには、大人が子供を1年1ミリ以下にするように注意するしか方法がありません。すでに日本には政府や市民を守ろうとする自治体はないので、アメリカ人が銃を持つように、日本人は「自分と家族を守るための知識」を持たなければならない時代です。次の選挙では「汚染されたものを国民に提供しない」、「放射線を持ち込まない」という人に投票しなければなりません。国を取り戻すために。(平成24年2月19日)武田邦彦
2012年02月21日
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知の侮辱(11)・・・野蛮人?2011年の原発事故から約1年が経ちました。この大きな事件でさまざまな面で日本の後進性、知に対する侮辱が見られました。その中で「日本って、こんなに野蛮だったか!」と驚くことも多かったのです。私は自分でつけたタイトルですが、「野蛮人」という言葉に抵抗があります。この言葉はヨーロッパ人の思想に近く、「文明が人間を人間らしくする」という基本的な仮定があるのですが、自然の中でゆったりと暮らしている人と、競争に明け暮れて訴訟ばかりしているアメリカ人とどちらが「人間として」優れているかは判らないからです。でも、ここであえて野蛮人という言葉を使ったのは、街角で犯罪人の首をくくり見せしめにする、災害があると普通のおばさんを捕まえて魔女として火あぶりにする・・・こんな現象はやはり野蛮な行為ではないかと思うからです。その点ではここで言う野蛮人というのは、中世のヨーロッパなどの野蛮な行為を意味しています。・・・・・・・・・福島原発事故で私がもっとも野蛮だと思ったのは、「被曝に負けない子供」という言葉です。県民税、市民税が減ると生活に影響があると心配しているとしか思えない人たちは地域から人が逃げていくのをいやがり、「被曝に負けない子供」という奇妙な発想をしたのでしょう。水俣で水銀中毒事件が起きたときでも、「水銀に負けない子供」という標語を作り、水銀で汚染されたサカナを食べさせるようなことはしませんでした。新型インフルエンザが流行した時も、「新型インフルエンザに負けない子供」ということで学級閉鎖をしない、隔離しないということもありませんでした。科学が進み、魔女がいなくなった今の日本で、まさか「被曝に負けない子供」という言葉を作って、子供たちの被曝をそのまま放置する方法の一つとして活用したのは野蛮な行為であり、私は気分が悪くなります。これに似たのが「農家の人を助けよう」という言葉で汚染された野菜、牛肉を売ったことです。確かに汚染された農作物を食べたいという人はいませんが、「農家の人を助ける」と聞くと「私の食べないといけないかしら」と思うのは、「こころ優しい日本人」のような気がしますが、決してそうではないと私は思います。被曝した農作物を出荷するという行為は農家の信用を落としますから「農家の人を助ける」ことにもなりませんし、それを食べる人の「健康を損ねる」ことにもなります。もともと「人が食べるのにはふさわしくない」というものを出荷する人は「農家」ではないでしょう。「農家」という名称は「そこから出荷される農作物を食べて命をつなぐ」というのではないでしょうか。あまりにも当然ですが・・・・・・これと似た野蛮な言動が「風評被害」という言葉でした。風評被害というのは実質的に被害がないのに、噂を立てて被害を生じさせることを言いますが、1年1ミリ以上の被曝が法律上許されないのに、セシウムだけで1年5ミリシーベルトの被曝を認めた暫定基準を決め、おまけにセシウム量も測らずに出荷する農作物を買わない人に対して、政府が「風評被害だ」といったのには、これも気分がわるくなりました。ある東北の知事さんが「県民はベクレルなどと言っても判らないから、安全か危険かだけ言うのが良い」と発言したのはびっくりしました。民主主義ですから、知事は「公僕」ですから、県民の召使いです。それが「主人はバカだから数字はわからない」と公言するのですから、なぜ知事になりたいのかも理解できません。原発事故の直後、「直ちに健康に影響は無い」と政府は繰り返し、1年経ったら、「被曝の影響がすぐ現れることはないのは常識だ」と原子力安全委員長が会見で発言するのですから、これも驚くべきことです。・・・・・・・・・このようなことはここ1年で数限りないほどあり、それは多くの人の心をかなり痛めたような気がします。「自分の住んでいる日本、こんなに誠実で学問を尊重してきた日本、子供を大切にしてきた日本。それが本当の姿はこんな社会だったのか!」と残念に思います。「takeda_20120216no.428-(7:44).mp3」をダウンロード(平成24年2月16日(木))武田邦彦
2012年02月20日
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好きな言葉・・・今日も朝時間というのは実におもしろいものです。東京から大阪に行くと、大阪から東京に帰ることができるのに、昨日から今日になると、今日から昨日に戻ることができないのです。時間が過去から未来へ流れて元に戻れないのは、宇宙が爆発して膨張しているからと考えられています。望遠鏡で宇宙を見ると、今から1万年前にでた光を見ることができるのですから(1万光年の彼方の星の光は1万年前に出た光)、1万年前に宇宙が合ったことが判ります。でも、宇宙のどこを見ても未来の光はありません。だから、「過去はあったし、目で見ることもできるのに、未来は見えない」ということです。地球上に住んでいると「過去を見ることができない」と思いますが、もし地球から10光年離れたところに受光器があり、そこで光を受けて増幅し、そのまま地球に送り返す装置があったら、自分の20年前の姿が、20年後の自分と同じように見ることができるでしょう。ところが、未来はどこにもないのです。「どこにもない」のではなく、「まだ、未来は誕生していない、存在しない」のではないかと思います。つまり、「明日が来るかは判らない」ということです。今の物理学の計算では、「宇宙の膨張の力」は150億年後に無くなるとされていて、そこからは時間が逆転する可能性が高いのですが、この計算が間違っていて、明日、宇宙が膨張する力がなくなると明日という日は来ないはずなのです。「明日は当然のように来る」と思うと、欲がでますが、明日の朝、起きたとき、「ああ、今日もあったか。宇宙も俺も生きていたか! ありがたい」と思えば、またその一日を大切にすごそうと思うような気がします。だから、本当は「今日も朝があったか」と色紙に書きたいところですが、すこし前で止めて「今日も朝」と唱えることにしています。「takeda_20120216no.427-(5:59).mp3」をダウンロード(平成24年2月16日)武田邦彦
2012年02月18日
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知の侮辱(10)・・・コンピュータ君は悲観論者コンピュータ君にはなにも悪いところはないけれど、お金が欲しいという研究者に適当に利用されて、不名誉な計算結果を出し続けている。● 1970年代初頭、アメリカ・MIT(マサチュセッツ工科大学)のメドウス博士が「地球方程式」を作り、それをコンピュータで解いて「成長の限界」という本を出した。「人間の成長には限界があり、2010年頃から文明は破壊される」という結果だったが、見事、外れている。その原因はコンピュータにあるわけではなく、コンピュータに数値を入れる人間が間違っていたからだ。● 1988年6月23日、アメリカ・NASA(航空宇宙局)のハンセン博士が「地球温暖化方程式」を作り、それをコンピュータで解いて「地球は温暖化する」とアメリカ上院の公聴会で証言した。「人間活動ででるCO2によって温暖化し、2010年には地球の平均気温が1℃あがる」と言う結果を述べたのだが、見事、外れている。下のグラフでハッキリわかるようにハンセン博士が演説した年からほとんど気温は上昇していない。まったく人騒がせだが、なにしろ「コンピュータ」で計算したというのだから、多くの人がダマされて信じ込んでしまう。でも、方程式を作るのも、コンピュータに近似式を入れるのも(厳密には解けない)、そこで使う数値を入れるのも、みんな人間だから、コンピュータというけれど、人間と言っても良いのだ。今から5年ほど前、ある専門的な地球温暖化の研究会に出たときに、基本方程式や熱バランスなどの詳しい式の説明があったが、雲の発生、海洋との熱のやりとりなどについて、かなりおおざっぱな数値を使っていた。質問したが、「そこのところは研究が進んでいないので」というお答えだった。その答えが不誠実であるということではない。研究はその途上で不完全なところを多く含んでいるもので、完璧になってから研究されるものは少ない。だから、研究途上というのはいい加減なものだ。なにしろ、メドウスの計算もハンセンも、意欲的ではあるし、学問の発展にも寄与したと思うが、結果は間違っていると考える方が普通だ。研究を始めた頃の結果は普通の場合、間違っているものだ。でも、この頃はマスコミがいるので、「研究の結果はすべて正しい。特に自分の新聞が売れる方向の結果は正しくなければならない」という奇妙な確信を持っている記者が多い。だから、発表から2年も経つと、社会ではすっかり「コンピュータで計算した結果」が正しいことになってしまう。コンピュータ君にとっては不本意だろう。それに加えてもう一つ、残念なことがあるはずだ。それは「科学の性質から一般的に結果が悲観的になる」、「悲観的な結果しか新聞にでない」という二つの原則があるからだ。科学は「これまでに判ったこと」から構成されているので、「将来」については無力である。その科学が将来を予測する時には、「過去のことがそのまま続くとして将来は」ということを明らかにしようとするので、もともと原理的に無理がある。だからメドウスは「この計算結果は、現在の状態が何も変わらない場合だけ」と断っているが、それをマスコミが伝えるときに省いた。コンピュータは人類の発展に役に立つ。だからといって使い方が悪くても役に立つわけではない。将来、コンピュータが自らプログラムを作り、物理や学問を勉強し、自分で入力して計算をするまで、「コンピュータを使って」という表現は慎重にした方が良いだろう。悲観的な結果で社会が右往左往するのは良いことではない。「takeda_20120215no.425-(5:37).mp3」をダウンロード(平成24年2月13日)武田邦彦
2012年02月18日
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「学問」と「学説」・・・副流煙と野菜に思うタバコのことをブログに書き始めて、今回、初めて「感情的ではない反論」を多く寄せていただきました。次回は反論を十分考慮して副流煙のことを書きたいと思います。今、準備中です。 また、野菜についてもいろいろなご意見をいただきました。これも、前進しそうです。 ところで、私のブログの書き方に不十分な点があることに気がつきました。それは「学問」、「学説」、「知」などを少し曖昧に使っていたことです。私が今まで「学問」と言って来たのは広辞苑などの広く用いられる定義で、「確実な理論やデータで体系化された知識と方法」であり、「学説」は「学問的手法である結論が得られたものだが、まだ学問としては認められていないもの」で、「学問としての知」とは「学問として体系化された人類に財産としての知」という感じだった。 ところが、「学説は学問の中に入るのか?」と言うと、一般的な受け取り方であれば、入るような気がする。というのは、実は「確実な理論やデータで体系化された知識や方法」を学問とすると「学説」はまだ「学問を取り扱う学会などで広く認められていない段階」のものがあるので、「学問になりかけている学問の仲間」となってしまうからである。 ・・・・・・・・・ たとえば、ガリレオが「地動説」を唱えたとき、「天動説」が学問としては主力であったから、「天動説」が学問で、「地動説」は学説だった。地動説は「科学的手法を用いて厳密に証明されていた」から、その意味では学問だったが、宗教家ばかりではなく当時の天文科学者もただちには「地動説」を認めなかった。 そのうち、地動説と天動説が同じぐらいの認知度になると、2つの学説と呼べるようになり、現在では「地動説」は学問であり、「天動説」は歴史的に存在した間違った学問であったことが明らかになっている。 「学者」というのは「学問を扱う専門家」を言うとされているので、学者は「体系化された学問」を知っており、「それと違うか同じかは別にして自らの学説」を持っている場合がある人ということになるだろう。 ・・・・・・・・・ 学者が学者として直接、社会と関わることはそれほど無かった。時に、啓蒙家として「体系化された学問を社会に伝える」ということはあっても、自らの学説だけをそのまま社会に伝えても混乱を呼ぶばかりだからである(混乱を与えることが良い悪いではなく、混乱するという事実は間違いない)。 考えてみると、私は学者だからと思うけれど、学説が直接、社会に発信されるときに抵抗するような気がする。たとえば「リサイクルが資源を節約できる」というのは「資源学、熱力学(エントロピー)、分離工学」などと真っ向から対立する新概念なので、私は強く抵抗した。 自らの計算結果が「リサイクルは資源を浪費する」というものだったので、余計に激しく反論したのだが、私の呼びかけは「学者の皆さん、これまでの学問と反することだから、これまでの学問を否定してください」と言った。私は学者なので、学問的な論理と方法にもとづく論文は理解でいるはずだが、リサイクルが資源を節約できるという論文は理解できなかった。 被曝も同じである。これまでの「学問」では「もっとも確実と考えられる被曝の被害の防止方法は1年1ミリを限度とすることだ」という定説があり、各国がそれに従っている。学説としては1年20ミリもあるが、それは学説であり、いつの日か学者の間でそれが定説になるかも知れないが、今はそうではない。 その時に、社会に直接「学問」に反することを「その学問に携わる人(たとえば放射線に関係する学者)」が自らの学説だからと言って学説を社会に直接、言いうるのか? または、社会的に学問の決定に基づいて決まっている法律に反することを国民に勧めることができるのか?という疑問を呈しているのが私である。 ・・・・・・・・・ ところで、副流煙について従来の学問があったかというと、これは難しい。これまでの学問では「植物の幹や葉を燃やしてでる煙の中に猛毒なものは含まれていない」とされていた(正しかったかどうかは別である)。これに対して副流煙が健康に著しく影響を与えるということになると(正しいかも知れない)、「植物の幹や葉を燃やしてでる煙の中でも特殊な植物の場合は猛毒物質を含むことがある。たとえばタバコの葉である」と修正する必要がある。 そのように学問が変わるとすると、一般の植物の幹や葉の成分とタバコの成分の比較、それが燃焼したときにできる物質の同定と定量などが必要である。 でも、メールをいただいた方の反論を読むと、このような学問を問題にしているのではなく、「煙のほとんどない社会では、煙は不快である。もしくは病気の原因になりうる」ということのように思う。つまり、副流煙の是非は学問の問題では無く、社会の変化に伴う容認性の問題の様に感じられる。 この種の問題に、スギの花粉による花粉症、清潔な環境下におけるアトピー、臭いの少ない街角における汚穢回収などがあり、これらは社会問題としてとらえるべきであろう。 ・・・・・・・・・ 次に野菜と健康の問題だが、野菜は健康に良いという「学説」は多くある。また、野菜をとることによって健康になったり、病気が治ったりする人も多数おられる。だから「野菜をとると健康になる」という可能性はあるが、同時に「野菜を増やすと情緒不安定になる」とか、さらには「野菜を多く食べると成績が悪くなる」などの可能性は残る。 野菜を取ると健康に良いかどうかは主として「コホート研究」という手法が採られる。これは大勢の人を2群などにわけて、その結果を整理する疫学的な方法で、広く学問の一つの手法として認められている。しかし、この方法には注意すべき点がある。それは、第一に「何かを変数にしたときに、それ以外の変数が同時に変わっていないか」ということ、第二に「結果の整理が特定の影響だけに限られていないか」ということである。 かつて「ベッドに寝ている時間が長いほど寿命が短い」というコホート研究の結果があったが、後に「ベッドで長く寝ている人には病人が多い」ということで否定され、「病人を除いた研究」が行われている。 このような極端な例は別にしても、人間が生活するパターンは多種多様であり、多数の人間を調べたからある結果だけ取り出せるという手法はどのような制限をおかなければならないのか、まだ結論は出ていないように思う。 もう一つは「野菜を食べると健康になるか」ということで、確かにその時の「健康」というのが「高血圧」を指標にすると改善されているかも知れないが、同時に「頭が悪くなる(血の巡り)」とか、「情緒不安定になる」という欠点があるかも知れない。私が学生に注意することだが「自分が考えている因果関係に囚われていないか?」というのは学問ではもっとも大切なことと思う。 また、個人差をどのように考えるかもある。たとえば特定の野菜の中に含まれる元素を取りにくい体質の人が野菜を食べると体調が良くなるということはあっても、その元素を取り込みやすい人にとっては野菜は害になるからだ。 ・・・・・・・・・ そんなことを言っていたらキリがないと思われるかも知れないが、実は社会の片隅で苦しんでいる人がでる一つの原因として、あまりに単純な現象を社会全体のように複雑な対象に無批判に使うということがある。 「野菜を食べると健康になる人がいる、もしくは多い」、「タバコの煙で障害を起こす人がいる、もしくは多い」と言うことはある。しかし、「だから野菜を食べろ」とか「副流煙に接しなくてもタバコを吸うこと自体が悪い」ということになるのか、そこをこれからも慎重に検討していきたいと思う。「takeda_20120215no.424-(13:24).mp3」をダウンロード (平成24年2月14日) 武田邦彦
2012年02月16日
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福島2号機と4号機、それにセシウム(速報)【結論】原発に危険はありません。セシウムは問題です。【簡単な説明】2号機の燃料は、もともとの場所、炉の下、格納容器の下の3つに分散しているが、水に浸っていて水にはホウ素が含まれている。このことから、核爆発、水素爆発、水蒸気爆発のいずれもが起こらない。水は中性子を減速して臨界に達する働きをするが、ホウ素が溶解している時には中性子の吸収が大きくなり臨界にならない。このことは東電も計算ができ、大きな核爆発は東電の社員を著しい危険に陥れることになること、ホウ素は準備されていることからも問題は無い。もし水蒸気爆発をするようなら2号機からもうもうと蒸気がでているはずだが、蒸気は見られない。さらに2号機はすでに孔だらけなので、水素が滞留して爆発限界に達する可能性はない。4号機は燃料プールの崩壊があり得る。このときに、少しの放射性物質が飛散する。その理由は落下する途中で、燃料棒から若干の放射性物質が飛散するからである。さらに燃料棒同士が落下途中で特別な立体配置になり、小規模核爆発が起こる可能性がある。東電が燃料プールに十分な量のホウ素を入れているかどうか不明だが、入れていると推定できる。4号機の燃料プールが崩壊したら、燃料は原子炉建屋下部に落ちるが、そこで再び水で覆われるので、放射性物質が飛散するのは少量にとどまる。また、10月頃からの福島原発付近の線量率からみると、4号機や2号機から新しい放射性物質が出た形跡はない。定時降下物のセシウムは2月に入っても多く、危険な状態が続いています。下に表を出しましたが、1平方メートルで100ベクレルぐらいは危険です。1平方メートルにたとえばキャベツが4ヶ植わっていると、4日で規制値を超えるからです。何とか早く原因を突き止め、減らさないと被曝が増えて心配です。・・・・・・・・・【見解の差異について】私は専門家なので、自分で事実を確認して、政府、東電、他の専門家、外国人などのコメントに左右されずに、自らが事実と思うことを、自分の力で判断しています。その点で、日本の専門家、外国の専門家のコメントは一応目を通したり、動画は見たりしましたが、上記の結論で、それらと違う場合もあります。専門家以外の人はやむを得ないのですが、「誰がこういっている」ということでご判断されている方が多いのですが、私は科学的に見て自分で事実を判断しています。その点をご理解ください。データが不十分なので、間違いもあるとおもいますが、私の家族が福島、あるいはその付近にいても原発が危険だからという理由で移動することはしません。しかし、セシウムと空間線量が高いところで生活するのはお勧めできません。(平成24年2月15日(水))「takeda_20120215no.423-(7:47).mp3」をダウンロード武田邦彦
2012年02月15日
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まともな日本に03 その年暮らしの年金制度年金問題はのどに刺さった骨のようなものですが、これを明るく解決することができます!!1970年代の記憶をそのままにして役人が「社会保険庁の不祥事」を起こし、「後期高齢者なる言葉」を使ったために、年金問題は大混乱に陥ってしまいました。現在は、その混乱を整理することなく「高齢化社会は必然だ」という変な理屈のもとで増税が叫ばれています。しかし、この問題は将来の日本社会の根幹に関わるので、役人の悪さに引きずられないでしっかりした考え方を作ることが大切です。・・・・・・・・・人間は集団性の動物ですから、平均寿命が43歳(今から90年前の1920年の日本)の場合も、現在も、そして平均寿命が100歳になるころも、「教育専業年限」も「引退後期間」も一定で、その比率は若干の議論があるでしょうが、教育専業比率が20%、引退後期間が20%、働く期間が60%というのが常識的でしょう。平均寿命が70歳の時には、15歳で働きにでて、55歳ぐらいで定年を迎えるという感じですし、寿命が100歳になったら、20歳まで勉強、80歳で引退するということで合意が得られると思います。健康状態によっては25歳まで勉強し、85歳まで働くということになる可能性もありますが、5歳ぐらいの差をあまり過度にいわずに、おおよその概念を決めておく方が大切でしょう。今後は女性のほとんどが仕事に参加するでしょうし、電子化も進みますので、60%の就労率なら、「年金問題での増税」はまったく不必要なことがまず判ります。そして、80歳で引退ですから、「高齢者問題」などは存在しません。繰り返しますが、「ある年齢を区切って「高齢者」と決める」のではなく、「平均寿命に合わせて仕事を引退しても良い年齢を決める」ということで「どんなに平均年齢が伸びても高齢化社会は来ない」ということになります。従って、「増税」も「高齢者」の問題も存在しません。・・・・・・・・・もう一つ、年金の問題を解決するために、決定しておかなければならないことがあります。それは「年金に役人を入れない」ということと、「日本人なら誰でものたれ死にしない」という原理原則を決めておくことと思います。その理由は拙著「国債は買ってはいけない(東洋経済新書)」に載せています。年金が破綻する理由が3つあります。一つが役人が悪さ(中間マージン、運用失敗を含め)をすること、二つ目がインフレが避けられないこと、三つ目が国民が甘い夢を見ることです。一つ目は当然ですから説明をはぶくとして、二つ目は「インフレにならないこと」もありますが、「インフレになったら俺の老後は破綻する」と思っていると、気が気ではないからです。現在の政府はインフレをコントロールすることができませんので、弱いインフレが来ると、50歳までの年金の積み立ては無意味になります。このことは過去の実績から前出の拙著に詳細に解析してあります。三番目は政治家が国民に甘いことを言うから、それに期待して失望するということです。この3つを克服するには、わたしはたった一つの方法しか無いと思います。それを下に示します。ここから先は「年金」という文字が消えますので、頭を少し切り換えていただく必要があります。•1) 現在の65歳から将来の80歳まで、「年齢比率」に合わせて、定年と無条件生活保護資格年齢をスライドする。•2) 生活保護費はすべて「税金」でまかない、無条件生活保護資格年齢に達した人で生活保護の申請があった人に支給する。•3) すべての生活保護費はその年の内に決算する(積み立てゼロ)。同時に、20歳から仕事をするべき人も含めて「人生はできるだけ生活保護を受けないように自分で計画する」という教育を20歳までに行う。•4) 生活保護費の上積みは「銀行預金」などで個人がしておく。「役人がタッチしない」、「その年の内に決算してインフレの危険を避ける」、「よりよい生活は本人の貯金で」というのが基本的な考え方で、要するに「年齢に関係なく、何かの事情で働くことができなくなったら生活保護費を貰う」ということです。病気(心の病気も含む)、体力などの理由で自分で生活ができない人について、国家が生活保護をするというのが原理原則で、そのうち、「無条件資格取得年齢」を決めて、それ以下の場合は生活保護の審査を、それ以上の年齢の人は無審査というだけの違いです。「老人は尊敬し、いたわるが、社会の一員である」というハッキリした立場をつくり、合わせて「働ける内に生活保護を受けるのは恥だ(乞食は恥だ)=国民の誰かは働かないと日本は成立しない」ということを学校で明確に教育しておくことが良いとおもいます。幸い、憲法には「勤労の義務」があり、それを免れるのは20歳までだけで、20歳になると親も扶養を止め、本人が勉学したい場合は、返済しなければならない奨学金や生活費の支給を受けるという制度を念頭に置いています。・・・・・・・・・このような社会を実現するためには、役人の数を減らし、補助金を止め、**財団などの建造物を民間に売り渡すなど「自分で働いたお金で自分が生活する」、「非常時は必ず国が助ける」という二つの基本思想を明確にするということです。私はエコポイントや太陽電池のような「乞食政策」をすると、年金も破綻するという考えです。これについてはまた機会を見て詳しく説明したいと思います。「takeda_20120213no.424-(10:17).mp3」をダウンロード(平成24年2月13日)武田邦彦
2012年02月15日
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知の侮辱(9)・・・知に働けば角が立つ?「知に働けば角がたつ。情に棹させば流される」とは夏目漱石の小説に有名なものですが、確かに理屈を言うと角がたち、そうかといって情に訴えると流されると言われるとさすが漱石!という感じです。でも、私のこれまでの人生のいろいろな場面を振り返ってみると、知に働いたから角がたつのではなく、知に働いているのに情が絡むと角がたつという感じです。たとえば、原発の問題で、原発推進派と反原発派の間で「知に働いたこと」は無かった様に思います。原発推進派は政府や権力者からの豊富な資金と権限をもって強引に原発を進めようとしましたし、それに対して反原発派も「知は要らない。運動だけ」ということで反原発運動を繰り返しました。どちらが正しかったかというと、押し切ろうとした推進側が強引だったのが最初です。本当は国民が主人公なのですから、隠し事をせずに民主的手続きを貫く必要がありましたし、反原発側も民主主義の手続きを求める必要があり、その結果を尊重しないのは問題がありました。日本では長く自民党が政権をとっていて、原発についてはハッキリと推進でした。ですから、全体として原発が推進されるのは民主的な国家として適切だったと思います。しかし、原発は作るけれど「核廃棄物の貯蔵所」はどこにも作れないという状態でした。奇妙なことです。ある人がアパート経営を志して営業を開始したとします。その時に「部屋は快適ですが、トイレがついていません」と宣伝したら入居する人はほとんどいないでしょう。家主にとっては部屋は貸してもトイレがなければずいぶん、管理は容易になりますし、アパートも汚れません。でも、「家賃は欲しいけれど、トイレを作るのはイヤだ」と言ったら、アパート経営アドバイザーから「それでは入居する人はいないでしょう。お金は欲しい。損はしたくないでは・・・」というでしょう。大人なら原発を作って電気を買うなら核廃棄物の貯蔵所は必要です。私は「トイレの無いマンション」というのは反原発のスローガンとしては適切ではないと考えています。原発はトイレがないからダメというのではなく、原発も電気も核廃棄物貯蔵所も一緒に考えて賛否を言うようにしないと、いかにも子供のようです。・・・・・・・・・原発推進派と反原発派の人は「知に働くと角が立つ」ということで、まったく議論をせず、妥協点を探ることもしませんでした。この過程で原発の安全議論は硬直化し、「安全だ」という人と「危険だ」という人が感情的にいがみ合い、それが今度の福島の子供たちを被曝させる原因の一つになったのです。かつての日本は社会が単純で、純情な人がほとんど、それにまれに見るほど庶民のことを考えるお殿様・・・という構成でした。だから、政治も人生もお殿様に任せておけば良かったのですが、今は違います。選挙と代議員制度をとっている日本で、「何が民意なのか?」ということもハッキリしていないと感じます。歴代の首相の交代を見ても、マスコミが世論を形成するために特定の人の人気をあおり、その人が首相につくと突然マスコミが態度を豹変させて、悪いことばかりを報道するというのが続いています。首相を選ぶときも政策的ではなく、選ばれた首相は直ちに考え方が変わるわけではないのに、マスコミは1ヶ月も経つと叩きにたたきます。今の原発再開問題も、「原発を再開するべきかどうか」についてのエネルギー、環境、安全性、温暖化などの主要な課題を議論することなく、「ストレステスト」なる用語だけが宙に浮いて活字が踊っているのでは、また同じことの繰り返しでしょう。ここらへんで日本も「知に働いても角がたたない」という社会風土を作りたいものです。「takeda_20120212no.422-(9:36).mp3」をダウンロード(平成24年2月12日(日))武田邦彦
2012年02月13日
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まともな日本に02 東大廃止のチャンス組織が腐敗するのは、その組織にいる人が悪いからではありません。第二次世界大戦の後、あれほどの戦争をし、敗戦国は焦土と化して優れた人の多くが命を落としたのに、負けた日本とドイツが30年もしないうちに世界一になり、勝ったイギリスやソ連は没落したのはなぜでしょうか。人間の心には「今を良くする改善の心」と「老廃物を捨てられない未練の心」があります。人間に今を良くする改善の心があるかぎり、人間社会は将来に向かってさらに良くなっていくのは間違いありません。それと同時に老廃物を捨てられない未練の心が強く、それが社会を腐敗させます。日本やドイツは敗戦という現実によって否応もなく未練を捨てましたが、イギリスやソ連はそれを捨てられませんでした。・・・・・・・・・人類の歴史を見ると、国の大きさにもよりますが、おおよそ50年で老廃物がたまりはじめ、100年でその老廃物(ゴミ)のために没落します。超大国は面積が大きいので時間の過ぎるスピードがルートの法則で遅いので、50年が100年ぐらいになることもありますが、結局は老廃物のために没落します。でも、それが歴史的教訓なら、人智を活かして没落する前に老廃物を整理してしまったらどうでしょうか? 老廃物の中にいる人は自らを整理することができませんから、外から整理する必要があります。選挙で自民党が没落しました。その数代前の自民党総裁が「自民党をぶっつぶす!」と言いましたが、やはり内部からは老廃物を捨てることはできませんでした。まして、東大などのように外部からの打撃を受けない組織は老廃物がたまるばかりです。東北大震災と福島原発事故で東大教授がウソを連発したのは、その人の責任というより東大に蓄積した老廃物の力です。東大の先生方も心の奥底では「東大をつぶしてくれ!」と叫んでいるに違いないのですが、哀しいことに本人たちではどうにもならないのです。東大が「9月入学」を実施しようとしています。これで東大の命運は尽きるでしょう。そして入学者ゼロのもとで東大が瓦解してくれれば、日本の老廃物組織の一つが無くなります。それが日本の子供たちの希望でしょう。「takeda_20120212no.421-(7:50).mp3」をダウンロード(平成24年2月9日)武田邦彦
2012年02月12日
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知の侮辱(8)・・・副流煙(結論が先にある罵倒合戦)これまでこのブログを10年ほど書いてきましたが、その中でもっとも読者の方の反撃が厳しかったのが「タバコ」の問題です。日本人の40%がまだ喫煙しているというのに、タバコのことを話そうとすると、猛烈なバッシングを受けるのですから、これも異常な社会現象の一つでしょう。タバコを忌避する人には2種類があって、一つは日本人を健康にしなければならないという強い使命感を持った医師で、この人たちは他人が「不健康」な生活をするのに異常なほどの嫌悪感を持っています。私の知っている医師で、大きな病院に勤めていて「タバコを吸っているような人は健康に注意をしていないのだから、診察は断る」と言っている先生がいます。そこまでになると、職業倫理としてもやり過ぎと思います。もともと医師というのは戦場でも負傷兵を治療しますが、「戦争など、人殺しをやる人の治療はしない」というのではなく、「医師は患者がどんな状態であっても、治療する」というのが医師の大切な倫理なのです。もう一つは、「煙が臭い」、「タバコを吸う人は図々しい」ということで喫煙を嫌っている人たちです。確かに日本人はきれい好きで臭いのない国で生活をしていますし、タバコの臭いはタバコを吸う人が少なくなればなるほど敏感になりますから、気持ちはわかります。また、タバコを吸う人は確かに図々しく見える人が多いようです.特に人混みでタバコを吸って、プーッと息を吐いているときなど実に図々しい人に見えるし、こちらがタバコも吸わずに仕事をしているのに、「タバコを吸わないと続かない」などと言って仕事中にサボってタバコを吸っている集団を見るとイヤな気がしない方がおかしいと思います.でも、それだけでは社会的にタバコを排斥する理由にはなりにくいと思います。臭いについては人によって違いがありますし、体質的に臭いのきつい人もいて、うっかりすると差別になります.現在の日本のようにタバコを吸うところが限定されていて、日常的にはそれほどたばこ臭いところが無いのですから、問題は無いように思います。また、「図々しい」というのは人の感じですから、これも排斥しようとすると危険でしょう.日本国憲法で保証された基本的人権とは、過度に人に迷惑をかけなければその人の自由な人生を保証しているのです。多くの人が一緒に住んでいる日本、この素晴らしい規定の精神も尊重したいものです。・・・・・・・・・ところで、タバコの問題を「知」として取り扱う場合、喫煙が吸う人の健康に関わるかという問題と、タバコを社会から追放しなければならないほどの毒物かという疑問の二つがあります。喫煙と吸う本人の健康の問題については少し前に整理して、まだ未完成ですが、ここでは「副流煙」を取り上げます.副流煙の人体への害を最初に証明したと言われる有名な平山論文を読んでみましたが、すでに多くの人が指摘しているようにこの論文で「副流煙が肺がんの元になる」ということはまったく言えません.ただ、平山先生が意欲的なご研究をされたことに敬意を表します.この論文を読むと、タバコを吸う人と長年、一緒にいると脳腫瘍になる可能性が高いことは判りました。しかし、この脳腫瘍が一緒に暮らしてきた方のタバコの煙によるものか、別のものが原因かはわかりません。先日のブログに書きましたが、私が学生に注意すること「なにかが原因ではないかと考えて、それで整理をするとほとんどのものが何らかの関係があることになる」という原理原則があるからです.肺がんは脳腫瘍よりかなり少なく(タバコを吸わない人と一緒に住んでいる場合に比較してですが)、副流煙での影響は肺より脳に強いようです。実験結果を忠実に整理して「肺より脳」と言いますと、「そんなことはない。タバコが脳に影響があるはずがないじゃないか」という反論があるのですが、それならもともと「実験や調査」をする必要はありません。人間の脳は不完全なので、実験や調査を行います。その時には、「自分はタバコを吸う人と一緒に住んでいたら肺に影響を受けるとおもうが、(それは自分の浅はかな考えなので自然に聞いてみるという意味で)実験や調査をしよう」ということですから、意外な結果がでるのが大切なのです。その他の資料にも目を通しましたが、現在のところ科学の心を持った人はこの問題に近づかない方が良いように感じました。というのは、どれもこれも非常に感情が高ぶった論文や調査、論評が多く、先入観や最初から「タバコの副流煙は肺に悪いに決まっている」という前提で行われているからです。まるで「魔女狩りとその対抗勢力」のような状態です.ことは人の健康、子供の健康に関することですから、もう少し冷静に議論できないのでしょうか? データは不十分で先入観に満ちていますし、あまりに攻撃が激しいので、反論もまた科学とは言えない状態にあります.私たちがもし「知」というものを尊重するなら、それは相手を誹謗することでも、自分の得になることでもありません。あくまでも人間の「知」を信じて、お互いに憎しむことなく、少しでも前進することです。日本に住む誇るべき民族:アイヌは平和を愛し、戦争をしなかった民族ですが、人間が戦争をしないというのはかなり大変なことで、それを達成するためにアイヌはタバコを愛しました。ケンカをしそうになると相手にタバコを勧め、一服して争いを収めたのです.人間には体の栄養とともに、頭脳の情報を整理するための栄養が必要です.多くのタバコを吸うかたの随筆を読むと、タバコが情報整理の栄養になっていることを否定することは難しいように思います.人間は理解しがたいものであり、体は複雑で、人は多種多様です.その中で、このタバコというものをどのように考えるのか、それを冷静に進めることで人間の「知」を一つ高める方向に行けばと願うところです.「takeda_20120211no.419-(11:54).mp3」をダウンロード(平成24年2月9日)
2012年02月12日
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好きな言葉 ・・・向こうからの幸せ・・・紫式部の時代、今から1000年も前だからテレビもなければ瞬間湯沸かし器もない。冬の寒い日にはパックリと赤く口を開けたアカギレの手をさすりながら冷たい水でお椀を洗った。たびたび、飢饉がきて多くの農家は家族を身売りしなければならない辛い日々が続いた。今年も凍てつく大地と格闘し、身も心もぼろぼろになった。それでも神様に感謝し、幸福な人生だった。今から1000年後の日本人は私たちの生活に驚くだろう。えっ!傘がオチョコになるってなに? えっ!雨や風の中ですんでいたの?! えっ!交通事故って車同士が衝突することなの? 何でそんな車が販売されていたの?! ひどい生活だったのね!・・・・・・・・でも、1000年前も、今も、そして1000年後も私たちは幸せな人生を送ることができる。人間の幸せというのは、「こうなれば」ということはないからだ。幸せと思えば幸せ、不幸と思えば不幸。人生には希望や目標がある場合もある。したいことはやまほどある。でも、幸せはこちらから望むことではなく、向こうから来るものだ。私は彼女を愛する。だから明日は彼女に告白しよう。「愛しているから結婚してくれ!」 3回言おう。それでもダメだったら諦めてお酒を飲みに行く。幸福は求めるものではない。自分は真心だけで、向こうから幸せは来る。こなければそれが自分の幸せなのだ。(平成24年2月9日)武田邦彦
2012年02月11日
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まともな日本に01 「高齢化社会」の間違い「高齢化社会」とか「超高齢化」とかいう用語があります。60歳、あるいは65歳以上の人が多い社会を「高齢化社会」というのが一般できですが、この用語はいかにも視野が狭く、適切な用語ではありません。なぜ、60歳、65歳以上の人を「高齢者」と言うのかというと、平均寿命が70歳の頃、年金制度ができ、大家族制が無くなったころの社会を基準にしているからです。平均寿命が短いのですから、当然、60歳、65歳の人の数は少なく、若い人を基準にすると「高齢者」と感じられたのでしょう。でも、かつて中学校を卒業したら勤めに出ていたのに、今は高校全入、大学の進学率も半分ぐらいになりました。就職の平均年齢は15歳が20歳になっています。また女性の結婚年齢は20歳ぐらいから30歳になり、35歳を過ぎた出産もそれほど珍しくない時代です。さらに閉経年齢も明治時代の40歳から50歳代半ばすぎになっています。つまり年齢とその人の一生という点では、おおよそ1.5倍になっているとしてもそれほど間違いでは無いでしょう。今後、平均寿命は21世紀末に95歳から100歳になるのは間違いありません。そうなると80歳以上が「高齢者」で、定年も80歳になります。つまり20歳まで教育、20歳から80歳までが仕事、80歳から100歳までが引退後の晩年とするのが適当でしょう。80歳以上の人の数は少し少ないと思いますが、医療費などがかかるので、簡単に予測すると、人生20年が教育、60年が仕事、20年が晩年ですから、他人の世話になるのが40年、自分が稼ぐのが60年ですから、年金ができた頃とあまりかわりません。それに加えて、女性の職場進出、電子化による労働生産性の向上、社会システムの効率化などが進みますから、むしろ仕事をする人の負担は「重くなる」のではなく「軽くなる」と考えられます。増税の必要なし!!・・・・・・・・・私のエッセイに「老婆の時間」というのがありますが、縁側でひなたぼっこしている老婆が家の前の道を忙しく走り去る若い学生を見送って、「ああ、私の人生いも・・・」と思う情景を書いています。本当はまだまだ人生の時間を楽しめる老婆が、社会の「常識」に押しやられて人生を諦めているように思われたからです。老婆でも若い学生でも人生の時間は同じく貴重であり、それを社会的に封殺することは良いことではないと思います。・・・・・・・・・私がテレビで「50歳以上の男性は意味が無い」と言っているのも同じことで、現在のような停滞している社会では、比較的年齢が高い人の権力が強くなり、若い時代に活躍する芽を取られることがあります。仕事をする時間はかつては15歳から55歳までの40年だったのに、これからは20歳から75歳までの55歳になるのですから、50歳以上の男性は30年の仕事の前半生に区切りをつけて、若い人の人生の時間を考える方がよいという意味です。つまり、一見して「老婆の時間」と「50歳以上の男性は意味が無い」というのは矛盾しているように見えますが、私が言いたいことは「どの人も年齢によらす、同じ価値を持つ時間を過ごすように日本人全体が考えた方が良い」という意味なのです。・・・・・・・・・人間の人生は、若い頃は20年ぐらい自分を鍛えるのに使い、その間に、兵役、ボランティア、外国生活なども2年ぐらいは経験した方が良いでしょう。でも、若い頃は長い間、教育を受けるより、少し早めに社会に出た方がよいので、平均はやはり20歳ぐらいというところでしょう。一方、仕事を辞めて引退が今のように65歳とすると、100歳までの35年、することがないのはやはり歪んだ人生のように思います。そこで80歳を定年にすることになりますが、体力的には今の70歳が100年後の80歳になるでしょう。明治の人の随筆などを読むと、当時の50歳の人は今の80歳と同じぐらいの体力の衰えを感じています。人間のように集団性の動物は全体の動きに合わせて個人の体力まで変わるのです。今、消費税率を上げるために、「高齢化社会」が問題になっていますが、私はその前に、日本会の50年後、100年後のイメージを作るべきでしょう。1960年に始まった年金を考えた社会はあまりに「その時」だけを視野に入れていたので、破綻をしました。今度、改めて日本国民の人生を考えるときには、「高齢化社会」という言葉を使わないことが大切と思います。従って、「高齢化社会がきて大変になる」と暗くなるのではなく、「長く人生を楽しむことができるようになるぞ!」と考え、「どんなに寿命が延びても高齢化にはならない」とするのがまともな日本にする第一歩を思います。「takeda_20120210no.418-(9:16).mp3」をダウンロード(平成24年2月9日)武田邦彦
2012年02月10日
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知の侮辱(7)・・・「野菜と健康」に関する知の偽装福島の被曝の問題が出てくると日本の医療関係者、特に国立のガン研究の医師たちは一斉に「被曝はたいしたことはない。それより野菜の不足の方が発がんには危険だ」と奇妙なことを言い出しました。野菜とガンの関係については、今から20年ほど前から研究が始まり、初期のころには次の表にあるようにどちらかというと「野菜はガンを防ぐ」という研究報告が多かったのです。それを受けて、マスコミなどを中心として「野菜を食べよう!」という運動がはじまりました。でも、もともと人間のガンの発生というのは非常に複雑なことなので、「野菜とガン」などという簡単な関係はおそらく存在しないのではないかと思われます。その証拠に、その後、調査人数が増えてくると必ずしも野菜不足がガンをもたらさないという大規模な調査が2005年以後は増えています。ある程度、学問や科学というものを研究した人ならわかることですが、ガンというのは非常に複雑な反応ですし、一口に「野菜」といっても内容はさまざまですし、また「野菜を食べたので、相対的に食事が減り、その中に発がん性のものがあった」ということもあり、その場合は「野菜」というのは要因の一つにはなりません。だから、仮に初期の研究のように「野菜を多く食べる人にガンが少ない」と言うことが判っても、それ故に「野菜はガンを防止する」ということにはならないということです。また、「それでも事実、ガンが少ないのだから」というのも学問ではなく、最近の野菜の研究の中には、カリフォルニア等の20万人の調査で、野菜をとると病気の比率が高いという研究もあります。・・・・・・・・・私は科学者として、少し別の見方をしています。先回、「相関関係」だけでは何の結論もでないことを示しましたが、科学では「因果関係」についても常に同時に考えておかなければなりません。人間は雑食性の動物ですが、主として「肉、穀類(実)」などを食べる動物で、「草」の類はそれほど取りません。人間が野菜を食べるようになったのは農耕文化に変わってからで、日本ではさらに10世紀から15世紀になってから意識的に野菜をたべるようになってきました。草食動物ではない人間は草は消化できませんが、コメ、麦、イモ、豆、リンゴのような「実(種)」は主食や副食として積極的に食べてきました。そして、多くの研究が示しているように、動物の体は「数万年間の環境の中でもっとも適切な防御系になっている」ということですから、500年前頃から食べ出した「葉物野菜」などが人間の体に良いということになると、かなりこれまでの学問とは異なる結果と言えます。・・・・・・・・・現在の日本ではほとんど宗教ではないかと思われるほど「野菜主義」のようなものが常識化していて、「野菜は健康に良い」というのを疑う人はいません。そしてそれが「科学」や「学問」の裏付けがあると錯覚をしています。でも、そのような情報の伝え方は「知の侮辱」でもあります。私は学生(研究生)に対して、「「Aを変えればBがどうなるか」という実験の整理は危険です。自分ではBに対してAが一つの因子として関係があると考えていると、どんな物でもある程度の相関性がありますから、間違った結論が得られます」と指導します。このようなことは「科学者の基礎教育」ですが、現代の社会はあまりにも「知の初歩的制限」を無視したものが多く、お医者さん、科学者や学者の方は注意をされた方が良いと思います。「takeda_20120208no.420-(9:33).mp3」をダウンロード(平成24年2月8日)(注)記事のデータに一部に(財)食生活情報サービスセンターのものを使わせていただきました。武田邦彦
2012年02月10日
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2号機や4号機、それにセシウム2号機、4号機を含む福島原発の再爆発について心配している方が多く、何回か検討しました。その結果をご説明しますが、まったく違う方も多くおられます。また政府や東電、それに福島県や専門家の方は「物事が終わった後に解説する」ことが多く、それも不安を創り出しています。たとえば1月に福島でセシウムが増えましたが、その解説が1月末に福島県から出されました。でも、被曝してからの解説ではダメで、被曝しそうになったら事前に国民に見通しを知らせる必要があります。その点では、3月11日夕刻には原発の爆発が予想されていたのに国民に知らせずに東電と政府で隠していたり、スピーディーという被曝予想の土地を示す結果を示さなかったりと「それでも信頼しなさい」と言っても到底、普通の人間なら不可能です。それに加えて御用学者、御用評論家などが国民に知らせない方がよいとか、知らせると不安になるとか、到底民主主義とは言えないことを言っていますので、これも不安を拡大する結果になっています。これらは「子供の被曝より自分の責任逃れ」が主となっているからで、未来の見通しはそれなりに難しいのですが、それこそ専門家の役割であり、日本のお父さんとして少しの間違いはあっても、家族を思って予測をすることにします。・・・・・・・・・2号機の温度が上がったのは、冷却の問題で避難する必要なないでしょう。4号機は倒壊によって放射性物質がもれると思いますが、これも避難の必要はないと考えられます。理由は単純で、原発が動いている時に比べると、現在はすでに崩壊熱は、原発が動いている時から見ると500分の1、止まって一日後から見ると80分の1ぐらいになっています。たとえば100分の1としましょう。この熱は燃料棒の中、あるいは燃料棒が融けていたらその場所にある放射性物質が崩壊することによっています。その分だけ「水で冷やす」ことが必要ですが、事故直後に比べると冷却するための水の量は100分の1で良いということです。また、最初は水を流しっぱなしだったのです、今では循環しようしていますので、6月頃に比べれば、少なくとも冷却能力に2倍以上の余裕があるはずです。つまり最初は半減期が何秒とか1日などの短寿命の核種が崩壊するので、熱がものすごいのですが、それが終わるとヨウ素のように8日前後のものの熱がでて、今ではセシウム、ストロンチウムのような数年から数10年という元素が熱を出しています。プルトニウムのような長い半減期のものは崩壊量が少ないので、それほど熱を出しません。また、もし冷却水が100℃以上になると、福島原発から「湯気」がもうもうと立ち上るはずです。その時、蒸発熱が水1キロあたり500キロカロリーが必要ですから、水(液体)の状態で50℃上げる量の10分の1で同じ冷却ができます。そこで一段落すると考えられます。従って、まず第一結論は、「崩壊熱が少なくなっているので、冷却能力はまずは大丈夫。東電がヘマをやったら、福島原発から蒸気があがるようになるので、逃げる準備をする」ことになります。その時にはこのブログでも警戒を呼びかけます。次に「再臨界」ですが、まず科学的には4%程度の低濃縮ウランなどは臨界になりにくいということです。ですから、今、原子炉の中や燃料プールにあるものが核爆発(小規模)が起こるためには水(減速材)が存在することと、特別な配置になることが必要です。ごく小規模の核爆発(若干の中性子の放出を伴うもの)は起こりえますが、大規模な爆発の可能性はきわめて低いと言えるでしょう(可能性が高いと言っておられる方が多いのは知っております)。それはすでに固くバインドされていない燃料同士が臨界に達するとその間にある水が沸騰して燃料が離れ、また気体(蒸気)ができて中性子が減速しなくなるからです。このこと(4%と空間の状態)について、爆発することを警告しておられる方のネットを再度、勉強したのですが、以前と同じように爆発の可能性が高いという科学的な理由(具体的な理由:たとえば濃縮度4%のウランがどのような状態で臨界に達することを想定しているのかとか、4号機のプールが崩壊して地下に落ちたときに、東電が水をかけられない理由や、その時の崩壊熱、また2号機の水循環系が故障していて修理が不可能などの状態を想定しているのか、それともまったくそれと違っているのか)を見いだすことができませんでした。従来の知見からは大規模爆発の可能性が低いと言えます。【結論】福島原発から蒸気が噴き出すか、4号機の燃料プールが倒壊することが起こったら、そこで警告を出し、逃げる準備をするべきである。あらかじめ逃げなくても良い。ということになりました。なお、3月の段階では崩壊熱、放射線ともに強かったこと、燃料が原子炉内にあることなどから、ホウ素の注入は大きな問題でしたが、現在ではホウ素の注入は「万が一の微小な核爆発を避けるため」という意味しかないので、あまり危険ではありません。すでに原子炉の中の状態が変化しているということです。・・・・・・・・・それよりむしろセシウムの量が問題です。1月の終わりに少し減りましたが、2月にまた100ベクレルを超えることもありました。これについての危険なことは自治体が「事後に発表」することで、被曝を予防するという視点がないことです。セシウムについてはまた高くなるようならこのブログでも書きます。「takeda_20120209no.419-(10:36).mp3」をダウンロード(平成24年2月9日)武田邦彦
2012年02月09日
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「ストレステスト」の保安院の審議は法律違反大飯原発3号機と4号機の再開のために経産省の原子力保安院というところが、「ストレステスト」をして「安全を審議した」とニュースは伝えています。伝える方も問題だが、政府も政府です。日本は原子力基本法の成立と原子力政策を作るときに、「日本は被爆国であり、原子力の安全を保つために、原発を推進する方が安全を審査してはいけない」としている。つまり、原発推進は原子力委員会と経産省が行い、それとまったく違う組織(原子力安全委員会)で安全を審査することになっています。安全の審査を独立の機関でしないと安全は保てない・・・これは原子力というものを日本でやるときに政府が国民に約束したことです。でも、現実的には保安院というのが経産省にでき、約束を実質的に反故にしてその結果として福島原発事故がおこったにも関わらず、またそれを繰り返しています。それに加えて、ストレステストというテストは地震も津波もなく、ほとんどの原発が内陸の川で冷却しているというヨーロッパで使用されているもので、その点でも日本で無批判に使えるようなものではありません。でも、もっと基本的なこと、原子力の安全を保つためには、原子力を現実にやっている人が絶対に安全を審査してはいけないという基本方針がこれほど無視されていても、それを政府も、専門家も、報道もなにも言わない社会は気持ちが悪いほどです。「takeda_20120208no.420-(4:13).mp3」をダウンロード(平成24年2月8日)武田邦彦
2012年02月09日
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知の侮辱(6)・・・温暖化すると南極の氷は増える地球温暖化はそのスタート自体がアメリカ農業団体の作戦で、学問とか環境問題ではないので、その中に知の侮辱があっても当然かも知れません。むしろ、世界中で日本がCO2を実質的に削減しようとしている唯一の国であることを考えると、「知の問題」として温暖化を取り上げること自体、知の侮辱のようにも思われます。でも、人間の排出するCO2が地球の温暖化の主要な原因だと考えている科学者が日本に多いことも確かで、それが子供の教育や生活に大きな影響を与えていることも間違いはありません。たとえば、NHKが映像を流したように「ホッキョクグマが暑いと苦しんでいる」とか「南洋の島、ツバルが沈みかけている」などというような「知の侮辱放送」は日本の子供に大きな影響を与え、結果的には「科学的事実など問題にしなくてよい」という思想を植え付けることになっています。・・・・・・・・・温暖化報道では科学の基礎的な原理に反することが多かったのですが、その中でも特に「温暖化したら南極の氷が融ける」ということを聞いたとき、私は本当にガッカリしました。そして、「融ける」と思っている人にその理由を聞きましたら、「温度が上がったら氷は融けるんじゃない」と言われて、2度、ガッカリしました。理科の時間に「融点」というのを教えるのですが、これは「物質は温度が上がったら融けるのではなく、融点で融ける」ということを理解させるのです。ある意味では、この現象は常識外れでもあります。なんとなく普通に考えると「温度が上がると氷は融ける」と思いがちですが、水(氷)は0℃で、アルミニウムは660℃でというように物質によってある温度で融けるのであり、温度が上がっても融けないという基本的な概念だからです。また、この場合はIPCCという国連の気候変動(温暖化)の機関が正式な報告書(わずか25ページぐらい)で、「南極の氷の温度は低いので(マイナス40℃)、温暖化しても融けない」と記載しているのに文献も見ないという二重の「知の侮辱」になります。・・・・・・・・・私がある関西のテレビにでて「IPCCの書いてあることを紹介」したところ、「異端児・武田邦彦」と言われました。アナウンサーが「申し訳ないですね。異端児なんて言って」と謝ってくれましたが、私は「いえ、学者にとっては異端児はほめ言葉でもあります」と言いました。しかし、「温暖化すると南極の氷が融ける」というのは、基礎科学から言っても間違いで、IPCCの文献でも否定されているのに、日本ではすでに「赤信号をみんなで渡ったので、それが正しい」ということになっているのです。恐ろしい社会ですね。そしてやがて、科学的にも文献でも異なることが日本社会に定着すると、今度は科学的に正しいこと、知を尊重する人、文献をしっかり読んでいる人を「異端児」として社会から排斥しようとする・・・それが私がこのシリーズで言いたい「知の侮辱」なのです。「takeda_20120208no.419-(8:13).mp3」をダウンロード(平成24年2月7日)武田邦彦
2012年02月08日
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知の侮辱(5)・・・被曝:現代人の知恵の彼岸最近の原発の事故に関係することで、もっとも大きな「知の侮辱」は「被曝と健康の関係が学問的に判っている」という「学者」が多かったことです。学問というのはそれを専門とする人がデータや理論で論理的に納得し、定説となったものをくみ上げて作るものですから、ある学者は1年0.1ミリ(ドイツの学者が中心)、ある学者が1年100ミリと1000倍の違いがあって、学問とは言えないのです。学問と言えない段階のものは、学問的には不明と言うのが学問です。学問は、社会の利害、自分の思想、反原発派が憎らしい、神経質な人がいる・・・などと言うこととは全く無関係で、学問的に被曝と健康の関係が判っていれば明確に答え、判っていなければ判らないと答えるものだからです。放射線が外部から体を貫くと、たまには遺伝子や体の重要な部分を損傷する可能性があります。また放射線が活性酸素を作り出し、それが体のどこかを酸化する可能性があります。さらにはヨウ素やセシウム、ストロンチウムが体の一部に蓄積し、それが病気の引き金を引く場合もあります。自然放射線は1年1.5ミリですが、それに何ミリぐらいが加算されると健康にどんな害があるか、カリウムには放射性を出す物もありますが、それとセシウムが入った牛肉とを単にベクレルで比較できるのか?そんなことは学問的には判っていません。研究例があり、調査結果があるに過ぎず、それは相互に大きく異なった結果を与えているからです。このような場合、「環境を守る」という点では世界での合意があります。この合意は水俣病などの辛い経験をもとに人類が築き上げてきたもので、それを「予防原則」と言います。予防原則はそれ自体が学問と言えるものですが、「科学的に判らないが、危険の可能性もある場合、社会的合意によって規制することができる」というもので、論理的には立派な学問的成果です。被曝と健康の関係は学問的に判っていないのですから、社会的に必要なら予防原則で規制するわけで、それが「1年1ミリ」です。もちろん、1年1ミリでも「膨大な実験データと調査結果」に基づいて「詳細な被曝計算」をするのですが、実はそれらは「学問」ではなく、「技術」に属することなのです。つまり、1年0.1ミリまで安全という学者のグループと、1年100ミリまで安全というグループがいるのですから、当然、学問として結論が出ていないのですが、たとえば、それらのデータの平均値を取るとか、安全側を採用するなど、一応のデータに基づくことはできるのです。・・・・・・・・・科学が社会の信用を得るためには、科学者の発言が信用できるものでなければなりません。それは若干、慎重なことになるかも知れず、生産現場や医療現場はそんなことは言ってられないと思いますが、それは現場に限ることで、現場でもないところに非科学的なことをそのまま伝えるのは誤解を招く原因になります。現在、被曝を心配している一般の人に対して、原子力や放射線の学者は次のように言わなければならないでしょう。「残念ながら多くの学説はありますが、まだ学問の段階には至っていないので、どのぐらい被曝したらどうなるということは判っていないのです。そこで、社会的には予防原則を採用して「外部被曝と内部被曝の合計が1年1ミリ」を被曝限度としています。それが現在の人間の限界で、日本の法律もすべてこの基準を適応していますし、それから食品や土壌などの1キロ何ベクレルという基準も作っています。」学問は圧倒的な数のデータがあり、再現性があれば「相関関係(何かの変数を変えると結果が変わる)」だけでも、なんとか学問になることがありますが、普通は「相関関係」だけではなく、その関係が何らかの科学的な「因果関係(原因と結果が論理的に明確であること)」を持たなければなりません。その意味で、被曝と健康の問題は私たちの現在の学問が及ばざるところで、まだ「彼岸」にあると言えるでしょう。私が原子力委員会の研究開発部会で原子力の安全研究を促進するように進言したのはこの様な認識だったからです。「なんだか判らないけれど、このような傾向だ」というのはまったく学問ではないので、「どのぐらい被曝したら、患者さんがこの程度でた」というデータはあまり役に立たないのです。このことを温暖化の時、「CO2が増加すると気温が高くなる」という科学者が多かったので、それなら「武田の年齢が増加すると気温は高くなっているのですが」と冷やかしたことがあります。今度の福島の事故で、私は多くの方が学問とはどういうものか、なにが科学的でなにが非科学的かということを考えていただいたのはとても良かったと思っています。でも、学問的な結論もないのに「大丈夫」などと言い、5歳の子供が大人を信じて被曝して15歳で発病したら私たちはどうしてそれを償うことができるのでしょうか? 私たちは判らないのですから、謙虚で慎重でなければなりません。子供は私たちを信じているのです。「takeda_20120207no.417-(8:17).mp3」をダウンロード(平成24年2月6日)武田邦彦
2012年02月08日
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知の侮辱(4)・・・イエス・キリストの怒り若い頃、聖書を読んでそのどこにも珠玉のような言葉が満ちあふれていることにビックリしたことを思い出します。まさに神の言葉なのでしょう。その中に、普段は穏やかなイエス・キリストが怒りに燃えることが書かれています。それは「神を心から信じるか、それとのよい子のフリをするためか」が問われる場面で、腐敗した祈りの場などがそれにあたるようです。聖書のその場面に強い印象を受けた私は、その後、なにか自らの学問や教育の信念に反することが目の前で行われているのに、腹が立たない自分を情けなく思うことが多くなりました。たとえば、前々回に書いた「栄のCO2測定」ですが、このように科学をトリックに使うことを知った限りは、担当室長を罵倒し、自分が一人でいって栄のCO2測定器を取り外し、警察から器物損壊で逮捕されなければならない・・・そうしないと私の学問や教育の信念はなんだったのか?という疑問がわくからです。このシリーズを「知の侮辱」と名付けて始めました。確かに、現代の日本には「知」を侮辱することが白昼堂々と行われ、それは科学者である私には大きなストレスになっています。でも、そう言う私も「知の侮辱」に対して徹底的な行動を取っているわけではなく、イエス・キリストのように知を侮辱する人や物事に対して、自らを捨てて行動にでなければならないと恥ずかしく思います。いつも、さらにもう一歩激しくでるべきか?と迷うのですが、あるところで引き返します。その点では所詮、自分も人間だから利権をあさって知を侮辱している人とそれほど変わらないと恥ずかしく思うこともあります。・・・・・・・・・この頃の学生はおとなしくなりましたから、先生にくってかかるような勢いのある学生はあまりいないのですが、それでも時々、「先生っ!そんなこと間違っていますっ!」と激しく迫る学生もいます。そんな学生がいるとうれしくなります。そんなとき、事実や論理、科学としての考え方を説明するのが普通ですが、あまりに激しく納得しないときには、イエス・キリストやソクラテスの話をすることがあります。「確かに君の言うことは正しいかも知れない。でも、現代人が誕生してから1,2を争う立派な人といえばイエス・キリストやソクラテスだが、その人たちはいずれも死刑にあっている。君の言うことが正しいのかも知れないが、世の中とあまりに違うときには死刑になるのだろうね」・・・・・・・・・でも、思い返せばそれが人間ですし、人間社会の中でしか生きることはできないのですから、ここは東洋的にお釈迦様の「中庸」で行くのが良いのでしょう。「知」を盲目的に信じるのでもなく、「知」を侮辱するのでもなく、尊敬し、利用していくのが私たちの知恵というものだと思います。私が重要だと思う順序があります。第一に「日本の子供」、第二に「日本の土地」、そして第三に「日本のコメ」です。子供、土地、コメの上に「日本」とつけているのは私の力量によるもので、到底「人類」というのは私の視野に入れることができないからです。イエス・キリストは「神の思し召しのまま」と十字架につき、ソクラテスは「悪法も法なり」と弟子に教えて毒杯を口にしました。科学者である私は「私が正しいと思っていることは間違っている」と言うことが唯一の信念なので、到底、それほど強い行動に出ることはできません。このシリーズではイエス・キリストやソクラテスの影を遠くに拝みながら、なんとか一つ一つの侮辱を、明日の子供たちのために整理をしていきたいと思っています。「takeda_20120206no.415-(8:07).mp3」をダウンロード(平成24年2月6日(月))武田邦彦
2012年02月07日
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2号機2号機の温度があがり、ホウ素の注入ということもあります。いま、気をつけて見ていますが、まだ避難の必要はありません。変化があったら書きます。(平成24年2月6日(月))武田邦彦
2012年02月07日
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知の侮辱(3)・・・ゴミの量は環境に無関係学問というのはそれほど簡単なものではなく、一つの法則や現象が認められるためには、厳密な観測や理論、考察を経て専門分野の人が繰り返しても同じ結果が得られることが確認されたものが、一つ一つ組み立てられていきます。もちろん、学問は常に新しいものですから、これまで体系化された学問に対してそれと異なることが出てきた場合は、従来の学問と比較して、これまた厳密に検討されるのです。ところで、「ゴミの量と環境」に関わるもっとも基礎的な知は「質量保存則」です。人間が生活するには色々なものが必要ですから、それを生物や鉱物、それに空気や水から得ます。たとえば「暖炉で薪をくべる」という比較的単純なことでも、空気中のCO2と根からの水を使って樹木が育ち、それを伐採して薪にするのですが、その時でも山に入るための道路、道路に敷く砂利、そこを走るトラックなどすべてのものを考える必要があります。また薪をくべると灰がでたりCO2がでたりしますが、それ以外に暖炉を使えば暖炉は少しずつ劣化していきます。これら普通には「無数」とも思われる膨大なことをすべて計算すると、「暖炉で薪をくべる」ということが、環境にどのような影響を与えるかが判ります。このときの計算の大原則が「質量保存則」で、「地球上にあるものは、何をしても増えも減りもしない」ということです。・・・・・・・・・・さて、国家が経済成長をはじめて、そこに生活する人が使うものが増えると、それと同じゴミが発生します。成長をはじめた直後には、社会に投入されるものは「ストック」という形で蓄積されることもあるのですが、成長が一段落すると「フロー」、つまり社会に滞留しているものの量は変化せずに、入ったものだけ社会から出るという状態になります。これを学問的には「定常状態」と表現するのが普通です。江戸時代の日本は定常状態であり、現在の日本も定常状態です。ただ、そこに蓄積されているものがかなり違うのと、物質の流れが大きく異なります。これを一言で言うのはなかなか難しいのですが、江戸時代を基準とすると現代は約2000倍といったところです。一つ前の定常状態から、次の定常状態に移るときには、物品の生産量、蓄積量、廃棄物の処理量などが増えていくので複雑な状態になります。その時に、いろいろ思いがけないことが起こります。その一つが「ものが増えると環境が悪化する」ということです。ヨーロッパでは1950年、日本では1970年、中国では1990年にこのことに基づく環境破壊が見られました。この原因は簡単に言うと、「ゴミが増えたのに、かたづけない」と言うことが原因しています。社会が経済成長していく過程で、人間はそれまで自分たちのゴミを誰が片付けていたのか忘れてしまいます。もちろん片付けていたのは自然で、自然は人間がゴミを増やしてもそれに合わせてゴミを片付けてはくれないので、その結果、環境が破壊されます。それは大気、水質、ゴミ・・・何でも同じです。つまり、「ゴミが増えたら環境が悪くなる」というのは間違いで、「ゴミが増えても人間が片付けなければ環境が悪くなる」ということで、「部屋に物ばかり持ち込んで、さっぱり片付けないどら息子」ということです。・・・・・・・・・「ゴミが増えると環境が悪くなる」というのではなく、「ゴミが増えた時に片付けなければ環境が悪くなる」ということですから、経済成長の過程で痛い目に遭うと、人間はゴミを片付けるので、現在のヨーロッパや日本のように成長が一段落するとかつてより環境は良くなるのが普通です。これは人間も同じで、成長の過程で思春期(反抗期など)を迎えますが、これは「歳を取ったから」ではなく「歳を取る過程で、身体と心の成長にアンバランスが来るから」です。だから「思春期が来るから歳をとるな」というのが間違えであることは誰もが判ることです。教育では「論理性」というのはとても大切で、子供には「情緒」ばかりではなく、「論理的思考力」も同時に身につけさせる必要があります。「ゴミが増えたら環境が悪くなる」のか、それとも「ゴミが増えた時のひずみで環境が悪くなる」のかを見分ける力は日本人が持つべき力の大切な一つです。また、質量保存則は「目に見えるところだけを考えずに、総合的に見る」という心を持つためには無くてはならないことで、工業では「マスバランス」、エネルギーでは「エネルギーバランス」、経済では「マネーバランス」などすべての面で大変、重要な概念です。道徳的に「ゴミを出さない方が良い」ということと、「ゴミを出したら環境が悪くなるか」ということは違うので、その点でも子供たちに「思想と科学」を混同しないように教育する上でも大切なことです。でも、現代の日本では「思想と科学」を混同する子供がほめられ、キチンと科学の心を持っている子供が、時に先生に怒られていることがあり、残念です。(平成24年2月5日)「takeda_20120206no.414-(14:17).mp3」をダウンロード武田邦彦
2012年02月06日
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知の侮辱(2)・・・森林はCO2を吸収しないこのことを「知の侮辱」の最初に書こうと思ったのは、理由があります。今から10年ほど前でしょうか、小泉純一郎内閣の時です。当時、政府に「科学技術戦略会議」というのがあり、ノーベル賞学者や東大教授が多く名前を連ねていました。ある学問のシンポジウムで、私が環境と国際関係の話をしたのですが、それをお聞きになっている人の中に科学技術戦略会議の議員の先生がおられました。実直な先生でしたから、私が「森林はCO2など吸収しないのに、このような科学的な間違いが蔓延するのは科学者として残念だ」ということを言いましたら、話の後で真っ先に手を上げられて「森林がCO2を吸収しないって本当ですか?!」と言われました。その時、私は懇切丁寧にその理由を説明しましたが、十分には理解されなかったと思います。それでも、「これは大変なことだ。本当に武田先生の言われることがただしければ・・・、科学技術戦略会議では吸収すると言っていた!!大変なことだ!」と言われました。「科学技術戦略会議」とは「正しい科学技術の認識のもとで日本国家の方針を決める」という会議ですから、そこで科学技術に反することが前提になるとは考えてもおられなかったのでしょう。・・・・・・・・・1997年の京都議定書で、日本は国際的に大きな不利を被りました。このことを少しでも回復しなければならない環境省は、日本が削減すべきマイナス6%(6%は形式的な数値で本当はマイナス19%)を実質的に減らすために国際会議で「森林吸収分を参入する」という交渉をしました。ヨーロッパ勢は日本だけが不利だったのですから「ま、しかたないか」ということで「科学的には無関係だが認める」というコメントを出しています。いわば国際的にも日本の恥をさらしたことになります。これに基づいて政府は国際的な間違いを国内に持ち込まざるを得なくなり、「森林の働きでCO2を減らす」という非科学的方針を打ち出したのです。これに乗ったのが、森林関係のお金を取ることができる林野庁や森林総合研究所、森林関係の学者などでした。すべてはお金で動く時代ですから、その人たちが一斉に「森林はCO2を吸収する」と言い始め、マスコミはそれに追従し、ついに子供たちまで科学的な間違いを教え始めたのです。学問的に間違ったことが社会的な常識になったのです。・・・・・・・・・これについて私が名古屋市の経営アドバイザーになった時に、一つのもめ事がありました。当時、名古屋市は(どういう理由か)CO2の削減を市民に指導していました。その一環として名古屋市でもっとも賑やかな「栄の交差点」に大きな「CO2監視計」を市民の税金で作っていたのです。私が正しい経営のアドバイザーとして「CO2の濃度を測定しても意味がないですよ」と言いましたら、担当室長は色をなして「先生!なに言っているのですかっ!そばに樹木があって昼間は光合成でCO2を吸収するから値が低くなって、夜は光合成が止まるのでCO2が増えているんですっ!小学生や中学生にCO2と樹木のことを教えるのに役に立っていますっ!」と言いました。これこそロンドン天文台長が「現代社会では自分の学問に忠実な学者は絶滅した」と言った意味なのです。社会に誤解が蔓延し、それに学者が合わせて生活をする。だから、誰も学問的に間違ったことでも指摘できなくなるのです。昼間にCO2が減って、夜、光合成が止まるのでCO2が上がるのは確かですが、それは「樹木がCO2を吸収する」ということにはなりません。樹木がCO2を吸収するのなら「昼と夜の合計」を測定して、その増減を調べなければならないのであり、「昼と夜の差」を調べても結果は得られないのです。もちろん、栄の交差点はオープンな場所ですから測定自体がCO2の増減を調べることはできないという基本的な問題もあります。「科学的な心」というものの一つは、「何を測定したら何が判るか」ということですから、残念ながら名古屋・栄のCO2計は「子供たちの科学の心を破壊する」ものなのです。これでは先生方が一所懸命「科学の心」を教えても、子供は成長しないでしょう。お金で子供の発達を阻害するという典型的な例の一つだったのです。「takeda_20120205no.415-(8:32).mp3」をダウンロード(平成24年2月5日)武田邦彦
2012年02月06日
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知の侮辱(1)・・・三日坊主にならないように学者は「社会のため」などと肩肘を張る必要もなく、自分の学問的な興味にそって社会の片隅でそっと研究をするものでしょう。というのは、学者が研究していることは必ずしも社会に役立つかどうかも判らないからです。でも、長い人類の歴史を見ると学者が研究していることが、あるいは社会の危機を救い、日常生活を豊かにし、そして人類の知恵を拡げて迷信や差別を無くしてきたことも確かです。ガリレオが当時、まだできたばかりの望遠鏡を使って、おそるおそる天体を見始めたとき、彼自身もまた社会も「地球が宇宙の中心だ」ということが覆されるとは思ってもいなかったのです。またダーウィンがビーグル号にのって生物観測のために海にこぎ出したときも、彼が帰国して程なくして人類は自分たちの祖先が「神」ではなく「猿」であると告げられることを予想もしていなかったのです。これらの発見や、自動車、テレビなどの発明が私たちの思想、生活などに大きな影響を与えたことを否定することはできないでしょう。ライオンの生活が1万年前からほとんど変わっていないのに、人間の一生が大きく変わるのは、人間の頭脳の働きによるもので、それは単に生活を豊かにするばかりではなく、私たちの頭脳の働きをも根本的に変えるものだったのです。・・・・・・・・・ところが、ロンドン天文台帳のブラウン博士、作家のオルテガ・イ・ガセット、それにマックス・ウェーバーらが20世紀の初頭の現象として指摘したように、人間の知の働きはお金に強い影響を受け、それが交通・通信網の発達、帝国主義の進展などの技術的、政治的な変化にともなって、知的活動の低下、「知」そのものへの軽蔑と変化していると感じられます。私が学問的環境に身を置くようになった今から30年前から、さらにバブルが崩壊した20年前から、その動きは特に顕著になってきているように思います。今回の東北大地震と福島原発事故はその一つの大きな結末とも考えられ、私たちはこの際、「知の重要性」を深く認識しなければならないと思います。私の専門とする資源、材料、環境、エネルギーなどの分野を中心として、現在の日本に蔓延する「知を侮辱した流行」を個別に指摘し、知を大切に思う人たちとともに「お金中心の貧弱な日本」から、日本の文化、自然と調和したしっとりとした生活を取り戻したいと思います。次回から、現在の日本に蔓延する「知の侮辱」について、一つずつ解説を加えていくつもりです。「takeda_20120205no.414-(8:15).mp3」をダウンロード(平成24年2月5日)武田邦彦
2012年02月05日
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瓦礫引き受けに関する考え方(1)・・・なぜ、瓦礫を引き受けてはいけないのか?瓦礫の引き受けが全国で拡がっています。これまで「他の自治体のゴミを引き受けるなんてとんでもない!」と言って来た首長さんはずいぶん、豹変するものと感心してしまいます。それには「ウラ」があるのですが、まずは瓦礫の引き受けを止めようとしている多くの人のご参考にと思い、具体的な話から入ります。・・・・・・・・・長い間、日本人を被曝から守ってきたこと・・・日本は原爆を落とされた国として被曝に対してしっかりした考え方でやってきましたが・・・、それは「法律を守る」ということです。人間に対しては1年1ミリシーベルトという厳格な規則があります。まず、第一に、被曝に関して法律があり、瓦礫を引き受ける自治体は「法律を守る」ということを宣言しなければならないということです。自治体の多くは今まで「被曝の法律なんかあるの?」という態度でしたから、まずそれを確認することが大切です。ここで、言い訳がでてきますので、それに対抗する必要があります。それは「日本にはもともと原発の事故を想定した法律などない」というものです。でも、これは間違っています。原発の事故に関する法律とその考え方は次の様になっています。•1) 原発の事故が起こっても起こらなくても、日本人の被曝と健康の関係は変わらない(これは、被曝に関するすべての法律が同じ基準値であることでも判ります。つまり日本国内の法律で「この法律では1キロ100ベクレル、この法律では1キロ1000ベクレル」などとなっていると混乱するという理由と、もともと被曝の発生源などが違っても日本人に与える影響は同じだからです。)•2) 従って、どの法律を使っても同じ結論になる(悪意で誤魔化さなければ)。•3) 原発を運転している限り、事故の可能性はあり、日本政府はそれほど無責任ではないので、事故の想定をしている。それによると希な事故(およそ1万年に1度)の場合は1年5ミリまで被曝限度を上げることができる。およそ10万年に一度程度の事故の時には、1年5ミリからあまり離れない被曝量を設定できる)の場合、被曝限度を現行法を超えて設定できるとしている(これは原子力安全委員会指針)。今回の事故は原子炉が運転し始めてから100年以内。津波の規模は1000年に1度以上だから、指針によって1年1ミリシーベルトを超えられない。•4) 食品基準、物品基準、廃棄物基準、土壌基準などは、1年1ミリシーベルトをスタートとして計算される。ベクレルは人間に関係の無い数値で、シーベルトを決めるとベクレルが決まる。従って、すべて1年1ミリシーベルトが最初の基準になっている。従って、食品でもゴミでも現行の基準を変えることはできない。•5) このほかに、原子炉については核種が多いので、特別な注意をされていて、「クリアランスレベル」という別の概念が適応される。これは「1年0.01ミリシーベルトのものは自由に取り扱っても(捨てても)良い」というもので、1年以内懲役、100万円以下の罰金を伴っている。•6) 今回の福島原発事故は、原子炉の中のものが飛び散ったので、クリアランスレベルを適応するべきである。•7) 瓦礫の処理には「今、東京にあるゴミより放射線量が低い」という理屈を持ち出すことがあるが、そんな法律はない。Aが泥棒をしたのだから、Bの泥棒が許されることはあり得ない。法律違反は法律違反である。もし東京のゴミが基準値以上なら、基準値以上のものを持ち込んでも良いというのではなく、東京のゴミを東電が処理しなければならない。おおざっぱにいって、瓦礫に関して日本人を被曝から守るための法律は上記の様になっています。もし自治体の首長さんが良心的なら、クリアランスレベルを守るでしょう。それほど良心的でなければ、被曝の一般法を守るでしょう。もし、住民の健康よりお金が欲しければ、法律があることを知らないふりをするか、いろいろな理屈を言うでしょう。なお、被曝に関する法律は「法で定められている」と言うほかに、「現在の医学では最良の値を決めている」ということでもあります。時々、「法律で決まっていると言っても学問的にはどうなのか?」などと言う人がいますが、被曝限度のような数値は日本の学者のコンセンサスでできています。法律に反することを言う学者は法律を決めるときに、相手にされなかったか、もしくは論争に負けた人です。急ぐので、まず、ここまでで第一回を終わります。「takeda_20120204no.413-(10:33).mp3」をダウンロード(平成24年2月4日)武田邦彦
2012年02月04日
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原子力をダメにする原子力関係者・・・自らを否定することになる・・・「過ちては改むるに憚ること勿れ」(憚る(はばかる・・グズグズする)、勿れ(なかれ・・あってはいけない)ということわざがあります。でも、それは自分の人生を否定し、捨てることになることもあります。・・・・・・・・・原子力推進団体がNHKの番組(低線量被曝に関する日本の決定は政治的な要素が入っていた)に対して「バランスを欠き、事実に反する」という内容の抗議をしたことについて、反感が高まっています。福島原発が爆発したことは事実であり、そのことについて原子力を推進してきた人は深く反省するべきなのに、まだ強弁しているという感じです. その人たちは私も個人的によく知っている人が多いのも、心を痛めます.福島原発事故が起こって以来、原子力の人たちは、自分たちが決めてきたこと(1年1ミリシーベルトの被曝限界、事故確率が1万年に一度ていどなら5ミリに上げることもある。それ以上に被曝限界を上げるには10万年に一度ぐらい)を自分たちで否定したり、隠したりしました。10万年というと、次の氷期(日本全体が厚い氷に覆われる時代)までですから、第一、原発というものがそれほど長く続くこともないでしょう。でも、なぜ、政府、東電、原子力専門家、推進団体(今回の事件は「エネルギー戦略研究会」、「日本原子力学会シニア・ネットワーク連絡会」、「エネルギー問題に発言する会」)は「事故を小さく見せよう、被曝の影響は小さい」というのに力を注いでいるのでしょうか? 原発を推進するためには、これらの言動はまったく逆に見えます. 原子力は安全でなければいけないものですし、社会も事故を起こしては支持されません.だから、原子力を推進する人は、事故についても被曝についても、社会一般の人より厳しく考えているはずだからです。先ほど、書いたことですが、原子力発電所が大きな事故を起こしますと、被曝の危険性があります。そしてその限度は1年1ミリとしてきたのも原子力関係者です.それに加えて.原子力作業者の年間被曝量は1ミリに自主規制をしてきたのも、今度、抗議をした人たちなのです。・・・・・・・・・抗議をした人の多くを私は知っています。そして真面目で立派な日本人であることも承知しています。でもなぜ、ここで信じられないほど動揺しているのでしょうか?私の解釈では「原発は危険だった。従って、自分がこれまで言って来たこと、自分の人生そのものを否定しなければならない」という事態になって、その覚悟がつかないのでしょう。私が原子力を捨てるのは20年間の人生を捨てるだけで良いのですが、抗議をした人はほぼ一生の仕事を否定しなければなりません。それはとても辛いことです。でも、諸先輩にこんなことを言うのもなんですが、人間には誤りがあります。正しいと確信して仕事をしてきても、それが間違いだったこともあるのです。そのことを正々堂々、ハッキリと認める力、それは「日本には子供たちがいる」ということではないでしょうか?辛い気持ちはわかりますが、是非、福島原発の事故を真正面から見て、その原因が「人災」であったことも考え、国民に対してすまなかったという気持ちを持っていただければと願うところです。NHKがICRPの決定をどのように伝えたかではなく、ICRPは任意団体であり、日本は国家として被曝限度を決めており、さらに原発関係者はみずからその規則を適応してきたという「自分自身のこと」言動の一致について深く考えて貰いたいと思います。「takeda_20120203no.409-(6:42).mp3」をダウンロード(平成24年2月3日(金))武田邦彦
2012年02月03日
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人間の未来は明るいのになぜ暗く感じられるのか?(1) 鴨長明東北大震災、福島原発事故、政府の不誠実、そして東大の地震予報などが続き、人間の未来に不安を持つ人が多くおられます。そして、「このまま文明が進んだら、環境がすっかり悪くなってしまうのではないか?」とか、「豊かな生活を送っていたら資源が無くなり、神様から罰を受けるのではないか」と言われたことがありました。確かに、1970年代前半にMITのメドウスが「成長の限界」という本を出版し、21世紀には地球環境がすっかり破壊され、人類の文明の成長は崩壊で終わるという考え方が世界を覆ったのです.このメドウスの結論が間違っていたことは、事実でもまた論理でもハッキリしたことはこのブログでも書きましたが、世界中の人が錯覚した第一の原因は「人間の頭脳の構造」によっていたのです。・・・・・・・・・紫式部の時代といっても、その少し後だが、鴨長明という人が有名な「方丈記」を書いている.その書き出しは有名な「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」で始まり、最後には「月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな」という歌で終わっています.全編、どちらかというと災害、大火事、戦争などの描写で覆われていて、「世も末だ」という感じです.国語の先生に怒られそうですが、私の印象は「やれやれ、鴨長明も自分の頭が良いと思ったのだな」という感想を持ちます.こんなことを書くと国語の点数は悪くなるでしょうね.そういえば、学校に行っていた頃、国語の教科書に載っている文章を読んで、感想を書くことが多かったのですが、不思議なことにその感想には「模範解答」があって、よい子の解答をしなければ点数が悪いというしきたりがありました。「方丈記」ではおそらく「世のはかなさが良く表現されている」とか、「貴族から武家支配に変わっていく日本の中で・・・」などと論評すると良い点数がつき、「鴨長明は人間の頭の欠陥に気がついていない」などと書いたら怒られるでしょう.(鴨長明ファンからのバッシングが予想されます.)・・・・・・・・・もし、鴨長明が時間をジャンプ(ワープ)して5年間、六本木の高級マンションに住み、なに不自由なく美味しいものを食べ、冷暖房の効いた部屋でゆっくり過ごし、時には美しい海岸線にいって保養する生活をした後に、再び「方丈」で過ごしたら、どのように書くでしょうか?安元の大火、治承の竜巻、養和の飢饉、元歴の地震とわずか10年ほどの間に、4つも大災害が起きたのだから悲観的になるのも当然だと言うのは評価は甘いのではないか、あまりにも視野が狭いのではないかと思うのです. 日本には富士山、磐梯山、浅間山、阿蘇山など山の形が変わるほどの巨大な噴火があり多くの犠牲者を出していましたし、その一部は彼の時代にも伝承として伝えられています.また、縄文時代には鹿児島沖に巨大な噴火があり、今の鹿児島県から九州南部一帯が火砕流で全滅した経験も日本人は持っています.日本列島のような地震、津波、噴火などが頻発するところに住んでいれば、むしろそんなことには動揺せず、長い目で自然というものを見る力はついているはずなのにあまりに近視眼的と言えるでしょう.六本木から帰った鴨長明は、まさか「今が末世」とは言えず、1000年後は華やかな生活が待っていると書いたかも知れません。・・・・・・・・・「自分の考えを自分自身が客観的に見る」ということは、「自分の頭で考えることの限界」について頭を巡らしておくことと思います. たとえば、自分の考えは自分が見たり、聞いたり、経験したりしたことによって作られているということ、ほぼ同じことを見聞き経験しても意見の違う人がいること、自分が生きている時代より1000年も前の人は自分と違う世界観、人生観を持っていたことなどを考えると、「自分が正しいと考えたことは間違っている」という確信があるはずです。ただ、その中でも私たちがこれまで経験してきたことが、「状況さえ変わらなければ」、「続く可能性がある」ということは言えるのではないかと私は考えています.そのうちの一つに、「太古の昔に比較すると、人間の一生は良くなっている」と言うことです。古代日本の平均寿命は20歳ぐらい、江戸時代には30歳から40歳、今から約100年前の日本が男女とも43歳です。昔は、生活は苦しく、肉体労働でへとへとになった肉体は40を超えると平均的にはぼろぼろになったのです。もちろん、結核などで夭折する人も多く、哀しい人生でした.それでも人間は幸福感を持って人生を送っていたのですが、「平均寿命が20歳と80歳とどちらを選ぶ?」、「盲腸になったら呻いて死ぬ社会と、手術ができる社会のどっちが良い?」と聞けば、その答えは多くの人が同じでしょう.私は、「なぜ、人間は良くなっているのか?」という理由として、「一人一人の人が今日より明日を良くしようとしているから」と答えています.もともと政府や国家の力などはあまり大したことはない、悪いことだけしているという考えの私ですから、「社会を良くしてきた」のは、そこに住む一人一人の人の改善の心と思っているのです.政府はできるだけ影に隠れてくれということになるのですが、どうも最近では政府が要らぬお節介をするのが気になります。(平成24年2月1日)「takeda_20120203no.407-(8:49).mp3」をダウンロード武田邦彦
2012年02月03日
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地震の避け方・かわし方(2) 家族の無事を守る方法地震では、揺れ自体で下敷きになったり、上から落ちてくるものの一撃でショックを受けること、その後の火災でヤケドをすること、津波で流されること、が主な危険です。このうち、建物の下敷きになったり、上から落ちてくるものの一撃を避けるのは決意さえあれば避けることができます。そのためには「地震予知を気にせずに、自分の住んでいるところの最大震度を調べる」ということに尽きます。「地震がいつ起きるか」ということを予測するのは非常に難しいのです。それはすでに地殻の中にひずみがあって「明日にでも崩れるかも知れない」という状態でも、それから100年間は崩壊しないということがあるからです。人間にとっては100年はいかにも長いのですが、地球にとっては一瞬だからです。しかし、どの地域でどのぐらいの地震が起こるか、特に最大の地震がどのぐらいかは、「地震がおこる時期」に比べるとかなり容易なので、精度も高いのが普通です。そこで「地震がいつ起こるかの予知は信じないで、自分の住んでいるところが、最悪の時にどのぐらい揺れるか」を参考にすると、家族を守ることができる可能性が出てきます。まず、第一にネットなどで住んでいる市町村のホームページから、「最大震度のマップ」を探します。かなり前ですが、私は神奈川と名古屋を調べましたが、それほど苦労せずにマップを発見することができました。私の場合、神奈川に住んでいた子供の家の最大の震度が4.5、名古屋の震度が5.5であったと記憶しています。マップはかなり詳しく、名古屋で言えば、「区」単位ではなく、もっと細かく公開されていますので、自分の家がどのぐらい揺れるか、また自分の家から逃げるときにどちらが揺れないのかなど詳しく判ります。その次に、自分が住んでいる住宅の耐震性を調べ、もし最大震度より小さかったら即刻、引っ越しをします。なにしろ家がつぶれてはもともこもないからです。自宅なら補強するか、立て直すか言うことになりますが、なんと言っても「命あっての物種」ですから、生活の中では最優先で出費することでしょう。幸運にも住宅の耐震性が予想される最大震度より強いなら、今度は家具等です.地震の揺れと普通の家の中のようすは、ネットなどで調べられますから、それを見て「震度5なら、なにが危ない」ということが判ります.普通の場合、タンスや本棚が倒れる、タンスなどの上に置いてあるテレビ、食器棚の上の電子レンジなどが特に危険なようです.いずれにしても、最大震度にあわせて「平面化(縦に置かずに横に置く)」と「家具や不要不急のものを捨てる」ということで家の中をすっきりします。アメリカやヨーロッパに行くと、日本の家庭と違ってゴタゴタとおいていないのに気がつきます.これは「一つのことをしてから次のことをする」という欧米人と、平行して複数のことをする日本人の違いもありますが、この際、「家の中を欧米化して、要らないものをおかない」のも大切です.特に電子レンジは重たいので、要注意で、地震の最初の一撃で電子レンジが脚に落ちてきただけで、ほぼ助からないでしょう.これだけの準備をすると、「安全になった」という実感を得ることができます.家は傾くかも知れないけれど倒れはしない、家具は倒れてこない、そして家具や机の上からものも落ちてこないということですから、後は寝るときに頭の方に落下するものがないように注意するぐらいになります.寝るときのパジャマも、家専用ではなく、少しの外出をしてもおかしくないようなものを選ぶとか、冬のパジャマはいざというときには1日ぐらい防寒にもなるようなものが良いですね.私はやや厚手のパジャマを着て、布団を軽くするようにしています。これは防災という面もありますが、冬の寒いときなど布団を出たときの温度のショックを和らげるにも役立ちます.そして、最後に玄関先に、ペットボトル、非常用の治療薬などを準備しておくこと、さらに家の中から鍵がないとあけられない特殊な防御をしているご家庭は、鍵が無くてもすぐドアーが開くように工夫をすることも大切です。まとめますと、1)最大震度を想定する、2)家が倒れない、3)ものの下敷きにならない、4)重たい物でショックを受けない、5)いつでも飛び出せる服装、6)玄関先にはすぐ手に持てるもの、とそろいますから完璧です.なにしろ、阪神淡路大震災も東北大震災も予知できなかった地震学者(東大地震閥と言った方がよいですが)のいい加減な地震の予知におびえるより、「日本に住んでいれば地震は仕方が無い」と覚悟を決めて、地震が来ても大丈夫なように準備をしておく方が気が楽です.また、「つなみ」についてはまた別の機会に書きます.「takeda_20120201no.407-(10:17).mp3」をダウンロード(平成24年2月1日(水))武田邦彦
2012年02月02日
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(追補)地震と研究費 東大70%、京大28%首都圏を襲う次の地震が起こる確率について、東大は最近、「4年以内に70%」と発表したが、京大は昨日、「5年以内に28%」と発表した. このことだけで、1)地震予知はそれほど進んでいない、2)研究費が多く来るところは予報が悲観的になる、という傾向が見られておもしろい. 首都圏に地震が近いということになると、東大は研究費が増額されるが、京大は関係がない。つまり、このブログでも書いたように、どの地震が先に来るかは地質学より、「お金学」の方であることがまた一つ証明された.情けない!(平成24年2月1日)武田邦彦
2012年02月02日
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学者の前の前 ・・・ 子供の被曝を減らすためにこの「学者の前の前」ということは、子供の被曝を減らすために重要なことですので、すこし理屈っぽいのですが、是非、理解して貰いたいと思います.・・・・・・・・・学問から見ると物事は次の4つの段階があります。1) 原理原則もなにも判らず、カン、感情、経験、しきたりなどで理解する段階(中世の暗黒時代など。普通の女性が突然、魔女として処刑されるような状態)、2) 学問で研究が始まって間もない頃、まだいろいろな「結果」や「意見」がある段階(学説が複数ある段階でまだ学問としては未完成・・・今の原子力)、3) 学問的にほぼ固まった段階で、その分野の学者はほぼ同じことを言うようになる(地球は太陽の周りを回っているというのがこれに当たる)、4) 真実が判る段階(1万年後ぐらいで、本来は神様しか判らない。)「被曝と健康」のことで、多くの人が「専門家がさまざまなことを言うので、頭が混乱して何が何だか判らなくなった」とか、「1年100ミリシーベルトでも安全という山下先生と、1年0.1ミリシーベルト以下でなければ危険というドイツの学者がいるので、何を基準にして良いか判らない」と迷っています.これは上の学問の段階の{2}を示していますから、「学問的には被曝と健康の関係は不明」ということがハッキリしています.つまりこの段階では「どのぐらい被曝したらどうなるか」は判らないが、「まだ判らない段階」ということがハッキリしているということです。この段階で社会が何かを決めなければならないときには、多くの学者の言うことを聞いて「一般人(あるいは政府や機関)が決めて合意する」という手続きが取られます.つまり学説が複数あるので、学問的には決めることができないけれど、それを参考にして「合意」することはできるという段階です.それが「1年1ミリの合意」です。・・・・・・・・・「学者」というのは「学問」をもっぱらにする人です.ですから、学者は学問を知っている必要があります。学問とは「しっかりした事実や論理に基づき、専門分野の人なら誰もが厳密な考察に基づき、同じ答えになるもの」です。学者が100人集まれば、1人か2人は違うことを言っても、ほぼ全員が同意する結論になると「学問として判っている」という状態になります.たとえば、「地球が太陽の周りを回っている」、「近代にはヨーロッパ諸国がアジア、アフリカ、南アメリカの大半の国を植民地にした」などです。「5歳の子供が、1年1ミリ以上の被曝をして、25歳までにガン、免疫疾患、知能低下、生殖障害を起こすか?」という質問に対して、もし、「自分の研究結果によると、それらの疾患はおきない」という人がいたら、その人は「学者になる前の前の人」です。被曝量を国際的に1年1ミリとし、日本の法律が1年1ミリを基準にしているのは「まだ学問的に決定できないので、学問を参考にして合意した」というものですから、学者はそのことを知っていて、説明をしなければならないからです.では、「1年100ミリ以上被曝すると疾病がでるか?」という質問に対して、「学問的にいって障害がでます」と答える人も学者ではありません. 正しくは「現在の学問では1年100ミリ以上の被曝は疾病がでると考えられています」というのが学問的な正解です.つまり、上記の{4}の段階がありますから、学者は自らの集団(学者の集団)の結論を少し疑っているということだからです。・・・・・・・・・今回の福島の事故では、福島の子供を中心として、「学者」と呼ばれる人が「1年20ミリの外部被曝と、1年20ミリ(セシウムだけで1年5ミリ)の内部被曝を合計した1年40ミリまで児童は大丈夫だ」と言いましたが、この人たちは、そのような発言をすること自体「学者」でないことを証明しています.「科学的に判らないこと」、「その道の専門家で異論が多い状態」であるのに、自分の研究データなどを元に特定の結論をあたかも科学的な結果のように言うのは、学問というものを知らないのですから、学者ではありません.その点で、NHKに厳しい言い方になりますが、NHKにでた学者のほとんどは「学者」でないことを自ら証明していました.被曝によって20年後までにガンなどの疾病になるかどうかは誰にも判らないことです.判らないことを判らないと言えば、「それではどうするのか?」という話に進み、「法律を守ろう」ということになって、福島の児童は疎開し、給食はベクレルを測定して出したでしょう.社会を指導する人がしっかりした考えと、職業としてのホコリを取り戻して欲しいと思います.今からでも遅くないので、「被曝と健康の問題は不明なので、1年1ミリ以下という合意を守らなければならない」と発言し、今まで出版した書籍を回収し、テレビや新聞などでの発言を取り消すか、学者の看板を下ろさなければなりません.それは、発言した人が自ら告白したものだからです。1年1ミリ以外の数値を言う人には「あなたは学者ではないのだから、そんなことを言ってはいけない」と反撃して子どもを被曝から守りたいと思います。「takeda_20120131no.404-(11:11).mp3」をダウンロード(平成24年1月31日)武田邦彦
2012年02月01日
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