伊達政宗公の命日に当たります。
(画像引用 Wikipedia)
1636年(寛永13年)の今日、
伊達政宗は70年の生涯を閉じました。
今日は、伊達政宗と関わり合いの深い、
ある武将についての逸話です。
その名を
水谷胤重(みずがいたねしげ)。
相馬氏の家臣です。
相馬氏と伊達氏は、長年抗争を続けてきた間柄。
胤重の父・水谷胤氏は、伊達との戦いで討ち死にしています。
つまり伊達家は相馬氏にとっても、胤重にとっても
積年の恨み積もる大敵。
さて。
関ヶ原の戦いの直前。
東軍(家康方)に付いた伊達政宗。
急遽、大阪から本国への帰還を試みます。
しかし進路上に西軍方の領地が。
やむなく常陸を経由する道を取ります。
しかしそのルート上、相馬の領地を通ることに。
ちなみに当時、相馬氏は表向き中立の立場でした。
しかし何せ、戦国時代を通じて長年にわたり
伊達氏と戦いを繰り広げている相馬氏。
しかも今、政宗の兵はわずかに五十騎。
「これは、政宗を討つ絶好のチャンスなのでは」
という声が高まります。
16代当主・相馬長門守義胤もやる気です。
(画像引用 www.kjclub.com)
義胤のものと伝わる甲冑。
鬨の声が聞こえてくるようです…
「政宗、討つべし!」
という流れで評定がまとまろうとしていたとき。
成り行きを静かに見守っていた家臣が口を開きます。
この男こそ、水谷胤重。
さて、彼の主張を傾聴しましょう。
「皆様のご意見はよく分かります。
かく言う私も、父を伊達に討たれたのです」
「しかし、ご当家は代々、騙し討ちのような
卑怯な事はしてこなかったお家柄」
「今、感情に流され政宗を討つのは不義であり、
相馬の名を汚すことになりましょう」
「政宗を討ち取りたければ、戦場で相見えるのが
そもそも武人としての姿勢ではありませんか」
座は静まり返ります。
そして、当主相馬義胤は決断しました。
「胤重に任せる」
胤重は政宗の宿に食料や馬の飼料などを提供。
夜には篝火をたかせ、兵士たちに徹夜で警備させます。
結果、政宗は安全に相馬領内を通過。
帰国後、西軍についた上杉との戦いに臨みます。
さて。
関ヶ原の戦いは東軍の圧勝で終結。
相馬氏は表向き中立を保っていたものの、
「西軍寄りであった」ことが徐々に明るみになり、
改易のピンチを迎えます。
名家・相馬氏もここに断絶してしまうのか…。
その時、意外な人物が相馬改易に異を唱えます。
その男こそ、伊達政宗。
天下人・徳川家康に対し一歩も引きません。
以下、『藩翰譜』から原文。
「政宗徳川殿に訴へ申しけるは、
相馬はただにも政宗が年頃の敵なり。
それに上杉、石田などにくみしたるが一定に候はんには
政宗彼が為に討たるべき時至って候ひしに、
君の仰承り馳せ下る由を聞きて
忽ちに旧き恨を忘れ新しき恩を施して候ひき。
これひとへに彼が野心をさしはさまざりし故にあらずや。
且つは又累代弓矢の家、此の時に至て
長く断絶すべきこと誠に不便の至りなり、
只然るべくは彼が本領安堵の事御免を蒙らばやと
折にふれて度々歎き奉りしかば、
其の事となく年月を経て後本領をぞ賜ぶたりける」
要点をまとめると
・相馬は確かにこの政宗にとって長年の敵である
・西軍についた節があるが、しかしあの時私を討たなかった
・これこそ相馬に野心がなかった証ではないか
・また、相馬は武家として歴史も長く、断絶させるには忍びない
・どうか改易は撤回していただきたい
この取り成しの結果、慶長7年(1602)、改易は撤回。
相馬氏は断絶を免れた・・・
・・・というお話。
義を重んじ、それに応えた二人の男。
この話には、続きがあります。
江戸時代に入ると、政宗は井伊家当主・井伊直孝に
間に入ってもらい、相馬家との仲直りを画策。
義胤の嫡男である相馬利胤に
「もうそろそろ、喧嘩はやめましょう」と打診します。
すると利胤
「当家はすでに伊達殿のおかげで、本領安堵する事が出来ました。
しかし我々は累代の敵国。私の代で勝手に仲直りをするのもどうかと」
結局、両家が仲直りすることはなかったといいます。
なお、相馬義胤は遺言により、立ったまま埋葬されました。
その見つめる方角には、伊達領。
相馬には、相馬の誇りと意地があったのですね。
語呂合わせは政宗の没年でいきましょう。
「 1636 年」「 政宗没年 」 なので
「 ヒーロー去ろう 。 政宗没す 」
今日は、熱い男たちのお話でした。
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