2016年05月05日
甲冑・赤備えの赤は何で染めた?
今日は子供の日なので、鎧に関する雑学です。
赤備え
(画像引用 丸武産業株式会社)
いやあ男のロマンですね。
朱塗りの甲冑のインパクトはさすがです。
もともと、赤備えは武田信玄の重臣
飯富虎昌に許されたもの。
(画像引用 Wikipedia)
ちなみに「備え」とは部隊編成のことで、
独立した作戦行動がとれる武装集団を意味します。
虎昌の没後、弟・山県昌景が赤備えを引き継ぎ、
戦国最強の武田軍団の中核を担います。
(画像引用 Wikipedia)
山県昌景は長篠の戦いで討ち死にしてしまい、
武田家もその後滅亡。
赤備えの系譜はとぎれるかに思われました。
しかし武田と激闘を繰り広げた徳川家康が
家臣、井伊直政に武田の遺臣を再編成させ、
赤備えを復活させます。
(画像引用 関ヶ原合戦屏風)
さて、滅ぼされた側の武田方でも独自に
赤備えを復活させた者がいました。
NHK大河ドラマ・真田丸でおなじみ、
真田幸村(信繁) 。
大阪の陣において、武田遺臣の誇りを胸に
赤備えを率い大阪城に入城。
圧倒的優位にあった徳川軍の本陣に迫り、
家康を自害寸前まで追い詰めます。
(画像引用 大阪夏の陣図屏風)
赤備えは、軍団最強の部隊にのみ
着用が認められた、精鋭の証。
その鮮やかな色彩はきっと
幾たびもの合戦のたびに自軍を鼓舞し、
敵を震撼せしめたことでしょう。
....ところで。
赤備えの甲冑の赤、
あれは、何の赤なのでしょうね?
まさか返り血で......いいえ。
正解は、辰砂(しんしゃ)という鉱物。
(画像引用 Wikipedia)
辰砂(しんしゃ、cinnabar)
は硫化水銀(II)(HgS)を主成分とする鉱物。
化学的には「赤色硫化水銀」、
古典作品においての表記は丹砂、朱砂など。
日本では古来より「丹(に)」と呼ばれたようです。
辰砂の名の由来は、中国の辰州(湖南省)で
多く産出したことによります。
日本国内でも、西日本を中心に産出。
現代でも、辰砂は押印用朱肉に利用されています。
(画像引用 Wikipedia)
史上、真田家の赤備えと井伊家の赤備えは
大坂の陣で激突しています。
朱色の甲冑がぶつかり合うさまは壮観だったことでしょう。
ということで語呂合わせにいきましょう。
「 赤 備え」「 辰砂 」「 井伊 」「 真 田」 なので
「 赤 い 新車 、 いい さ、な あ!」
ということで、子供の日特別企画でした!
赤備え
(画像引用 丸武産業株式会社)
いやあ男のロマンですね。
朱塗りの甲冑のインパクトはさすがです。
もともと、赤備えは武田信玄の重臣
飯富虎昌に許されたもの。
(画像引用 Wikipedia)
ちなみに「備え」とは部隊編成のことで、
独立した作戦行動がとれる武装集団を意味します。
虎昌の没後、弟・山県昌景が赤備えを引き継ぎ、
戦国最強の武田軍団の中核を担います。
(画像引用 Wikipedia)
山県昌景は長篠の戦いで討ち死にしてしまい、
武田家もその後滅亡。
赤備えの系譜はとぎれるかに思われました。
しかし武田と激闘を繰り広げた徳川家康が
家臣、井伊直政に武田の遺臣を再編成させ、
赤備えを復活させます。
(画像引用 関ヶ原合戦屏風)
さて、滅ぼされた側の武田方でも独自に
赤備えを復活させた者がいました。
NHK大河ドラマ・真田丸でおなじみ、
真田幸村(信繁) 。
大阪の陣において、武田遺臣の誇りを胸に
赤備えを率い大阪城に入城。
圧倒的優位にあった徳川軍の本陣に迫り、
家康を自害寸前まで追い詰めます。
(画像引用 大阪夏の陣図屏風)
赤備えは、軍団最強の部隊にのみ
着用が認められた、精鋭の証。
その鮮やかな色彩はきっと
幾たびもの合戦のたびに自軍を鼓舞し、
敵を震撼せしめたことでしょう。
....ところで。
赤備えの甲冑の赤、
あれは、何の赤なのでしょうね?
まさか返り血で......いいえ。
正解は、辰砂(しんしゃ)という鉱物。
(画像引用 Wikipedia)
辰砂(しんしゃ、cinnabar)
は硫化水銀(II)(HgS)を主成分とする鉱物。
化学的には「赤色硫化水銀」、
古典作品においての表記は丹砂、朱砂など。
日本では古来より「丹(に)」と呼ばれたようです。
辰砂の名の由来は、中国の辰州(湖南省)で
多く産出したことによります。
日本国内でも、西日本を中心に産出。
現代でも、辰砂は押印用朱肉に利用されています。
(画像引用 Wikipedia)
史上、真田家の赤備えと井伊家の赤備えは
大坂の陣で激突しています。
朱色の甲冑がぶつかり合うさまは壮観だったことでしょう。
ということで語呂合わせにいきましょう。
「 赤 備え」「 辰砂 」「 井伊 」「 真 田」 なので
「 赤 い 新車 、 いい さ、な あ!」
ということで、子供の日特別企画でした!
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2016年04月26日
「みそまる」超え!究極の戦国食とは
みそまる。
(Yahoo! 検索データ 2016年4月25日)
2016年4月25日、日テレ情報バラエティー
「スッキリ!!」で取り上げられました。
「みそまる」とは、このようなものです。
(出典 みそまる普及委員会)
何か、とてつもなくオシャレになっていますね。
(出典 みそまる普及委員会)
アレンジも充実。
どうやら、 みそまる普及委員会
(普及委員会!そんなのもあるのか!) によると
みそまる
= 味噌にだしと具材を混ぜて、丸めて団子にしたもの
要するに、インスタントみそ汁の自作版ですね。
見た目かわいいし、作り置きが可能、
とのことなので重宝しそうです。
しかし具を切ったり、丸めたりする過程で、
逆に時間を食いそうな気もしますが・・・・。
ともかく作り方や栄養に関することは
みそまる普及委員会の公式HP
http://misomaru.com
をご参照いただくとして・・・。
ここでは
「戦国時代にもっとすごいのあったよ!」
というお話をしたいと思います。
それが、これ。
(画像引用 fknews-2ch.net)
名称は 「芋がら縄(いもがらなわ)」
イモの茎(芋茎、芋がら)を長く編みこんでいったものです。
ちなみに、芋がらは現代でも市販されています。
(画像引用www.simoda.co.jp)
では、詳しく見ていきましょう。
戦国時代から、足軽Aさんに来ていただきました!
足軽A「何?いま出陣準備で忙しいんだけど」
筆者「すいません、芋がら縄について少し・・・」
足軽A「あの、芋がらを編んだやつ?」
筆者「そうそう」
足軽A「味噌で煮るやつ?」
筆者「味噌で煮るんですか!編んだイモの茎を?」
(画像引用 http://blogs.yahoo.co.jp/blue_empty_japan )
足軽A「そうよ。そんで、干すの」
筆者「干したらまた、カサカサの縄に戻りませんか?」
足軽A「それでいいの!ふだんは縄として使うから!」
筆者「腰に巻いたり、荷物を縛ったり?」
(画像引用 shinshu.fm)
足軽A「そう。そんで、腹減ったらちぎる」
筆者「・・・噛むんですか?」
足軽A「違うよ!必要な分ちぎって、陣笠で煮るの!」
(画像引用 www.inside-games.jp)
筆者「陣笠に、そんな使い方が!」
足軽A「ほら味噌がしみだして、みそ汁になるでしょ!」
筆者「芋がらは捨てる?」
足軽A「捨てない!あれが具になるの!」
(画像引用 www.grancreer.com)
筆者「何と完璧な携帯食・・・!」
足軽A「もう行っていい?サル、まだか〜って呼ばれてんの」
筆者「・・・サル?」
足軽A「桶狭間に集合なわけよ。じゃあっ!」
筆者「もしやあなたは・・・!」
・・・・というわけで、戦国時代のレーション(軍用食)、
芋がら縄についてのお話でした。
縄として使ったり陣笠で煮たりと、サバイバル的要素もあって
「よく考えてあるよなあ〜」と感嘆せざるをえません。
では、語呂合わせにいきましょう。
「 芋がら 縄」「 携帯食 」 なので
「 イモ柄 の 携帯、ショック !」
(画像引用 https://minne.com/items/1032564 )
(イモ柄!そんなのもあるのか!)
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2016年04月25日
家臣思いすぎる武将・加藤嘉明伝説
加藤嘉明(かとうよしあき) 。
(画像引用 Wikipedia)
安土桃山時代〜江戸時代にかけての武将。
賤ヶ岳七本槍 の一人でもあります。
賤ヶ岳以後も武功は止むことなく、
九州征伐、小田原攻め、文禄の役・慶長の役では
淡路水軍 を率いて大活躍。
関ヶ原の戦いでは、家康軍の先鋒として進撃。
難攻不落といわれた 岐阜城を陥落 せしめ、
関ヶ原本戦においても 石田三成本隊を撃破 。
まさに比類なき戦場での働きぶり。
関ヶ原合戦後、 陸奥会津43万石 の大大名となります。
そんな加藤嘉明は
「家臣思い」
の武将でもありました。
今日はそんな逸話を一つ。
(出典 「加藤嘉明公」 細野写本)
「加藤嘉明公」より現代語訳
加藤嘉明が若松へ移った次の年。
守岡主馬の別邸で踏歌(とうか)があった。
(訳者注 踏歌とは
中国から伝わった集団歌舞。音楽にあわせ
足を踏み鳴らしながら踊り歌うもの)
(画像引用 www.simplemarket.info)
嘉明「眠くなってきた・・・・・奥の部屋で休もう」
侍臣A「ご主人寝ちゃった。・・・俺、踏歌見てきていい?」
侍臣B「いいんじゃね?・・・でも俺も見たい。だめ?」
侍臣C「・・・俺も見たい」
結局、侍臣たちはこっそり見に行ったので、
一人の老人だけが嘉明の側に残るという状況に。
嘉明「ふアーよく寝た!・・・あれ?人数少なくなってない?」
老人「あの、その。みな、踏歌が見たいと申しまして…」
嘉明「すると何か、お前ひとりだけ残して、他は皆サボっておるのか!!」
老人「ははっ、あのその」
嘉明「なあんだ、お前も見に行っていいんだよ( ´∀`)」
・・・というわけで
家来思いの武将 加藤嘉明エピソードでした。
では、語呂合わせは
「 踏歌(とうか) 」「 加藤嘉 明」 なので
「 糖か ? 加糖よし !」
ブラックは苦手でして・・・・。
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感想(286件)
ちなみに、生き方が男前すぎる武将については
「男前すぎる書状改ざん理由!栗山利安伝説」
https://fanblogs.jp/huun/archive/98/0
をご参照ください!
2016年04月16日
熊本地震で発動した先人の技術とは
平成28年4月14日
「平成28年熊本地震」発生。
大きな被害が出る中、
「熊本城の瓦が崩落した」
ということで画像も出回りました。
(画像引用 NHK)
熊本城といえば、
加藤清正が築いた名城中の名城。
築城から200年以上経過した西南戦争において
近代兵器で武装した西郷軍すら撃退した堅城です。
その瓦が土煙を上げて落ちるとは。
さすがの先人たちも地震は計算に入れていなかったのか・・・・。
逆のようです。
明治時代〜昭和初期まで、
「瓦は落ちる」 ようにふかれていました。
「土葺き」(「つちぶき」、「どぶき」)
という言葉があります。
大量の土を利用して瓦を固定する工法です。
(画像引用 www.meijyou.co.jp)
利点を挙げます
1.土を挟むことで断熱効果が高くなる
2.大量の土を乗せるため、屋根が強風に飛ばされにくい
3.地震対策
地震対策 とはどういうことでしょうか。
まず、土+瓦という重量加算によって、
「建物を上から押さえつけて揺れを防ぐ」
という効果が生まれます。
ではなぜ、瓦を固定しなかったのか?
それは、
「より大きな地震に対する備え」
からです。
ある程度までの地震であれば、
屋根に重量があることで免震になります。
しかし、それが建物の強度を超える揺れになると、
「建物の倒壊」
という最悪の事態になります。
この場合、逆に「屋根を軽く」する必要があります。
揺れによって瓦が落ちれば屋根は軽くなる。
「小さな揺れでは瓦の重量で免震」
「大きな揺れでは瓦を落として免震」
土葺きの屋根は、
瓦による自動免震システム
だったのです。
そんな瓦も、現代では
「引掛け桟瓦葺き工法」が主流。
下地の木材へ、瓦の突起を引っかけ釘などで固定。
土葺きの瓦よりも1枚当たりの面積が大きい(必要な枚数が減る)上、
大量の土を使用しないことで屋根が軽量化。
(画像引用 ishikaku.com)
そもそも建物自体の強度が向上した現代では、
「瓦の重量で免震」という発想そのものがなくなりました。
高層化も進み、瓦の落下による被害も大きくなって、
土葺き瓦は失われつつあります。
しかし、土葺き瓦は何百年も地震国・日本で
減災の役割を担ってくれました。
「瓦の落下で倒壊を防ぐ」
なんというしなやかな建築学!!
先人の知恵には敬服するばかりです。
最後に、今回の地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに
被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。
2016年04月14日
癒し系?ミッ〇ーそっくりな家紋とは
さてみなさん。
今日は、あのねずみさんの
「闇」 に
触れてみたいと思います!
(((ビクビク))))
下の記事をご覧下さい。
(出典:サンケイ新聞 昭和62年7月10日)
<要約>
某小学校のプールに卒業生が
ミッ◯ーマウスとミ◯ーマウス の絵を描いた。
↓
新聞にて報道される。
↓
日本ウォルト・ディズニー・プロダクション が突然現れる。
↓
「絵を消さなければ著作権法違反で訴える」 と迫る。
↓
小学校側は絵を塗りつぶした。
ディズニー側のコメント
「我が社の代表的キャラクターの無断使用は一切認められない。
事前に許可を得てからやるべき。
子供たちには気の毒だが、他人の権利を知る教訓になったと思う」
はい、「教訓になったと思う」は完全同意です
(((怖いよー)))
いえ、私、批判してませんよ!
著作権大事ですから。
確かに、許可は得てからやるべきですね。
ただ、
・いきなり現れる
・「子供たちにはいい教訓になっただろう」と全能コメント
このあたり、ちょっと怖い話です・・・・。
ま、あのねずみさんには関わらないことですよ。
キャラクターを使用する場合は、
事前に許可を取っとけてことですよ。
・・・というわけで、ご覧ください。
ん?
何か?
違 いますよ、これは。
ミッ〇ーマウスじゃありません!
「すはま」 です!
<州浜紋>
州浜紋は、家紋のひとつ。
州浜とは、水辺にできる島形の洲。
転じて、蓬莱山や竜宮城を意味するめでたい形とされた。
源頼朝の系譜を引くと自称する、小田氏一族の代表紋。
『見聞諸家紋』にも州浜紋を掲げる一族が多数収録されています。
バリエーションも多数。
(画像引用 http://cts2.web.fc2.com)
ちなみに「すはま」というお菓子は、この「州浜」に由来します。
(画像引用 http://kyo-seiyu.seesaa.net )
「すはま」は棹菓子の一種。
大豆、青豆を煎って挽いた州浜粉に
砂糖と水飴を混ぜ て棒状にしたもの。
近年は、州浜粉を使った菓子のことを
総じて「すはま」と呼ぶようです。
断面を見ると、確かに ミッキーマぅ・・・・
いえ! 「州浜」 そのものです、はい!
ということで
「 ミッキー マウス」「 州浜 紋」
で語呂合わせしておきます。
「 ミッキー で す ! 破魔 !!」
・・・・・無敵ですから。色んな意味で。
くり返しますが、今日は 「州浜紋」 の話をしたんです。
ディズニーのお話ではありません!!
事前許可、いらないですから!!
・・・おや?こんな時間に誰かな?
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感想(18件)
<参考>
「メリークリスマス」?聖夜っぽい家紋とは
https://fanblogs.jp/huun/archive/190/0
2016年04月07日
改ざん理由が男前!栗山利安伝説
栗山利安 (くりやま としやす)。
黒田官兵衛、黒田長政父子を支えた黒田家の筆頭家老。
通称、栗山善助。
(画像引用 Wikipedia)
戦場にあっては数々の武功を挙げ、
平時にあっては頼れる宰相。
常に腰が低く、同輩に道で会っても
馬を下りて挨拶したという人徳の持ち主。
その栗山利安の男前すぎるエピソードです。
出典 は、「常山紀談」
〜 和寧館合戦 栗山利安武功用意の事 ?〜
現代語訳にしてみました。
ところは朝鮮・和寧関。
慶長の役のとき、黒田長政が布陣。
栗山利安は先鋒として最前線に配置されます。
兵は三千。
と、そこへ明軍数万が急襲!
すぐに本陣の黒田長政に知らせを!!
ところが利安は使者を呼び止めます。
「ちょっと待て。書状を見せよ。
なになに、
『敵と戦闘中。
早々に援軍をお頼み申し上げます』だと?
いかん!書き直せ!よいか、文面は・・・」
その結果、文面は
『敵が押し寄せて参りましたが、
大した事ないので、ご心配なく』
圧倒的不利な状況下で利安は奮戦。
何と、敵を撃退していまいます。
ほどなく、異変を察知した長政が到着。
「こら、利安!!自分ばっかり無茶しよって!
お前みたいな有能な家臣が死ねば、
わしも生きている甲斐がないわい・・・」
すると利安
「書状は確かに私が書き直しました。
敵は数万。あの状況では、
死ぬ覚悟で奮戦するよりほかありません。
もし『我らのことはご心配なく』と言って堂々と戦死すれば
秀吉公が知って『黒田武士すげえ!!』となりましょう。
しかし最後の書状が『早く援軍を』では、
黒田の者どもは『ご主人さまタスケテー』
とビビリながら死んだ、と笑われるでしょう。
それでは日本の恥。そう考えての事です」
長政
「・・・あっぱれ!!」
というお話。
栗山利安はその後も「黒田の知恵者」として
82歳で没するまで黒田家を支え続けます。
その死にざまもあっぱれ。
寛永8年(1631年)8月13日、朝。
長く病床にあった利安。
「そろそろ逝かれてしまうかも知れぬ・・・」枕元に家臣がつきます。
その時、昏睡状態の利安がカッと目を開けて命令。
「馬をひけ、鉄砲を用意せよ。
あそこに敵が出たぞ。あの山に鉄砲隊を配置。上から射撃せよ。
敵の騎馬が来たら、よく備えて迎え撃て。
わしの采配を見て、慌てず静々と対応せよ」
周囲は驚いて
「かしこまりました」と答えると、利安はまた昏睡。
これを5回繰り返したのち、翌8月14日の夜明けに没しました。
最期まで男前な武将・栗山利安。
彼を象徴する書状書き換え伝説は是非おぼえておきたいものです。
語呂合わせは
「 栗山利安 」「書状 書き換え 」
なので
「 栗山 、 どうしやす ?」「 柿 、 買え 」
栗山でまさかの柿推し。
ちなみに、いい人すぎる武将については
「いい人すぎる武将・加藤嘉明伝説」
https://fanblogs.jp/huun/archive/121/0
をご参照ください!
黒田官兵衛、黒田長政父子を支えた黒田家の筆頭家老。
通称、栗山善助。
(画像引用 Wikipedia)
戦場にあっては数々の武功を挙げ、
平時にあっては頼れる宰相。
常に腰が低く、同輩に道で会っても
馬を下りて挨拶したという人徳の持ち主。
その栗山利安の男前すぎるエピソードです。
出典 は、「常山紀談」
〜 和寧館合戦 栗山利安武功用意の事 ?〜
現代語訳にしてみました。
ところは朝鮮・和寧関。
慶長の役のとき、黒田長政が布陣。
栗山利安は先鋒として最前線に配置されます。
兵は三千。
と、そこへ明軍数万が急襲!
すぐに本陣の黒田長政に知らせを!!
ところが利安は使者を呼び止めます。
「ちょっと待て。書状を見せよ。
なになに、
『敵と戦闘中。
早々に援軍をお頼み申し上げます』だと?
いかん!書き直せ!よいか、文面は・・・」
その結果、文面は
『敵が押し寄せて参りましたが、
大した事ないので、ご心配なく』
圧倒的不利な状況下で利安は奮戦。
何と、敵を撃退していまいます。
ほどなく、異変を察知した長政が到着。
「こら、利安!!自分ばっかり無茶しよって!
お前みたいな有能な家臣が死ねば、
わしも生きている甲斐がないわい・・・」
すると利安
「書状は確かに私が書き直しました。
敵は数万。あの状況では、
死ぬ覚悟で奮戦するよりほかありません。
もし『我らのことはご心配なく』と言って堂々と戦死すれば
秀吉公が知って『黒田武士すげえ!!』となりましょう。
しかし最後の書状が『早く援軍を』では、
黒田の者どもは『ご主人さまタスケテー』
とビビリながら死んだ、と笑われるでしょう。
それでは日本の恥。そう考えての事です」
長政
「・・・あっぱれ!!」
というお話。
栗山利安はその後も「黒田の知恵者」として
82歳で没するまで黒田家を支え続けます。
その死にざまもあっぱれ。
寛永8年(1631年)8月13日、朝。
長く病床にあった利安。
「そろそろ逝かれてしまうかも知れぬ・・・」枕元に家臣がつきます。
その時、昏睡状態の利安がカッと目を開けて命令。
「馬をひけ、鉄砲を用意せよ。
あそこに敵が出たぞ。あの山に鉄砲隊を配置。上から射撃せよ。
敵の騎馬が来たら、よく備えて迎え撃て。
わしの采配を見て、慌てず静々と対応せよ」
周囲は驚いて
「かしこまりました」と答えると、利安はまた昏睡。
これを5回繰り返したのち、翌8月14日の夜明けに没しました。
最期まで男前な武将・栗山利安。
彼を象徴する書状書き換え伝説は是非おぼえておきたいものです。
語呂合わせは
「 栗山利安 」「書状 書き換え 」
なので
「 栗山 、 どうしやす ?」「 柿 、 買え 」
栗山でまさかの柿推し。
価格: 268円
(2016/4/7 03:26時点)
感想(15件)
ちなみに、いい人すぎる武将については
「いい人すぎる武将・加藤嘉明伝説」
https://fanblogs.jp/huun/archive/121/0
をご参照ください!
2016年04月05日
真田幸村とケニアの意外な関係とは?
六文銭(ろくもんせん)。
(画像引用 http://rekijin.com)
真田氏 が主に戦時に用いた家紋。
NHK大河ドラマ「真田丸」の
オープニングでもおなじみ。
さてこの家紋、
いったい何に由来するのでしょうか。
なぜ五文や七文ではないのでしょう。
実は、
六文は三途の河の通行料 。
「決死の覚悟で戦に臨む」という
覚悟を意味する、真田軍の象徴です。
さて。
その貨幣は何のシルエットだったのか。
当然、50円玉ではありませんね。
正解は......
(画像引用 Wikipedia)
永楽通宝(えいらくつうほう)。
明の時代、永楽帝の治世。
永楽9年(1411年)から鋳造され始めました。
永楽銭、とも。
室町時代に日明貿易が始まると
日本国内でも流通。
1608年に徳川家康が流通停止を命じるまで
日本の基準通貨として機能します。
その永楽通宝が意外な場所で発見されました。
(画像引用 Google map)
ケニアのマンダ島です。
シカゴのフィールド博物館と米イリノイ大などの研究者チームが
現地で永楽通宝を発掘したと発表(2013/03/18)。
そのとき発見された永楽通宝がこれです。
(画像引用 米フィールド博物館)
約600年前に明で鋳造されたもののようです。
まさにその頃、一人の男が大艦隊を率い、
この近くまで進出してきていました。
鄭和(ていわ) です。
(画像引用 Wikipedia)
鄭 和は明の時代の宦官。
永楽帝に重用され、七度にわたる大航海の指揮を託されます。
その第5次航海のとき(1417年〜1419年)、
艦隊の一部がアフリカ大陸東岸のマリンディ(ケニア)に到達。
マリンディは当時、スワヒリ文明の中心都市でした。
ちなみにこのとき鄭和艦隊はアフリカ大陸から
キリンを持ち帰り、永楽帝を喜ばせています。
鄭和艦隊の航路
(画像引用 Wikipedia)
鄭和の活躍した15世紀初め。
それはヨーロッパによる「大航海時代」の始まる数十年前。
ダイナミックに、歴史のロマンを乗せて海を越えた永楽通宝。
それを旗印に戦った真田のつわものたち。
永楽通宝は、600年の時を超えて
昔も今も世界を駆け巡っているといえるでしょう。
語呂合わせは
「 六文銭 」「 永楽 通宝」
で憶えていって下さい。
「 ロック、もうせん !」で 栄、ラク 。
ロックを引退し、矢沢栄吉さんは悠々自適に。
そんなイメージで。
それにしても三途の河まで通行料は
今いくらぐらいのレートなのでしょうか・・・・。
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(2016/4/4 03:57時点)
感想(13件)
サンスクリット?あの穀物の語源とは
もち麦。
2016.3.29 フジテレビ3時間特番
「その原因、腸にあり!
〜便秘!肌荒れ!花粉症!お悩み解決SP!」
で紹介されて以来、勢いが衰えません。
(画像引用 http://microdiet.net/diet/000350.html)
「もち麦」は大麦の一種。
米にうるち米ともち米があるように
大麦にもうるち麦ともち麦があります。
もち麦のすごいところ
1. コレステロールを下げるβグルカンが豊富
2. 白米と比べて食物繊維が20倍
3. ポリフェノール、ビタミンB2、鉄分など、
美肌に大切な成分が多い
というわけで、
栄養学的に「もち麦」最高!!
・・・・という記事になると思ったでしょう。
私があえて触れるのは、
逆に誰からも相手にされない
「うるち」
の方です!!
「もち麦」、「もち米」はわかります。もちもちするから。
では、「うるち」とは何でしょう?
うるち、漢字で書くと 「粳」
このウルチ、という言葉が
古代サンスクリット語のヴリーヒ(vrihi)=「米」
に由来する、という説があります。
このヴリーヒ→ウルチ説を唱えたのは
新村 出(しんむら いずる)京都大学教授。(1876年〜1967年)
日本の言語学の草分け的な学者さんです。
新村博士は『東亜語源志』で次のように述べています。
粳(うるち)は国語で古くウルシネと呼んだことは『和名抄』以来の辞書でも明かであるが
〜中略〜
米といふ語が、最も古く文献に現れてをるのは、印度の「詩経」の一つで、『阿他婆吠陀』の中に見えるヴリーヒといふ語形である。
このあと新村博士はさらに論を展開し、
ウルチが西方に進出して、
ギリシア語で「オリザ(oryza)」、
ラテン語で「アルス(arusu)」、
イタリア語で「リゾ(riso)」、
英語で「ライス(rice)」に転じた、と仮説を立てます。
さすがにちょっと飛躍しすぎのような・・・・。
結局、うるちの語源については
今でも結論が出ていません。
しかし「うるち」という言葉の響き、
日本語離れしていて想像をかき立てられます。
ということで今回の語呂合わせは
「 うるち 」「古代 サンスクリ ット語 ? 」
でいきましょう。
「 売る地 、 産す栗? 」
買い手は、栗に目がないようです。
ところで「うるち」=「ヴリーヒ」=米ってことは、
うるち米= 米米ということに。
犬ドッグ、鳥バードのようで、これはおかしい。
これからは、お米のことを
単に「うるち」と呼ぶようにします!
(結論がおかしい)
2016.3.29 フジテレビ3時間特番
「その原因、腸にあり!
〜便秘!肌荒れ!花粉症!お悩み解決SP!」
で紹介されて以来、勢いが衰えません。
(画像引用 http://microdiet.net/diet/000350.html)
「もち麦」は大麦の一種。
米にうるち米ともち米があるように
大麦にもうるち麦ともち麦があります。
もち麦のすごいところ
1. コレステロールを下げるβグルカンが豊富
2. 白米と比べて食物繊維が20倍
3. ポリフェノール、ビタミンB2、鉄分など、
美肌に大切な成分が多い
というわけで、
栄養学的に「もち麦」最高!!
・・・・という記事になると思ったでしょう。
私があえて触れるのは、
逆に誰からも相手にされない
「うるち」
の方です!!
「もち麦」、「もち米」はわかります。もちもちするから。
では、「うるち」とは何でしょう?
うるち、漢字で書くと 「粳」
このウルチ、という言葉が
古代サンスクリット語のヴリーヒ(vrihi)=「米」
に由来する、という説があります。
このヴリーヒ→ウルチ説を唱えたのは
新村 出(しんむら いずる)京都大学教授。(1876年〜1967年)
日本の言語学の草分け的な学者さんです。
新村博士は『東亜語源志』で次のように述べています。
粳(うるち)は国語で古くウルシネと呼んだことは『和名抄』以来の辞書でも明かであるが
〜中略〜
米といふ語が、最も古く文献に現れてをるのは、印度の「詩経」の一つで、『阿他婆吠陀』の中に見えるヴリーヒといふ語形である。
このあと新村博士はさらに論を展開し、
ウルチが西方に進出して、
ギリシア語で「オリザ(oryza)」、
ラテン語で「アルス(arusu)」、
イタリア語で「リゾ(riso)」、
英語で「ライス(rice)」に転じた、と仮説を立てます。
さすがにちょっと飛躍しすぎのような・・・・。
結局、うるちの語源については
今でも結論が出ていません。
しかし「うるち」という言葉の響き、
日本語離れしていて想像をかき立てられます。
ということで今回の語呂合わせは
「 うるち 」「古代 サンスクリ ット語 ? 」
でいきましょう。
「 売る地 、 産す栗? 」
買い手は、栗に目がないようです。
ところで「うるち」=「ヴリーヒ」=米ってことは、
うるち米= 米米ということに。
犬ドッグ、鳥バードのようで、これはおかしい。
これからは、お米のことを
単に「うるち」と呼ぶようにします!
(結論がおかしい)
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感想(5220件)
2016年03月19日
戦国時代の謎 ! 車がかりの陣とは
今回もNHK大河ドラマ「真田丸」
つながりで書いてみたいと思います。
皆さんは、
車懸りの陣
をご存じでしょうか。
永禄四年(1561年)、武田信玄×上杉謙信が激突した
第四回川中島の戦い。
このとき上杉軍が用いたという、エキセントリックな戦法です。
まず、陣形をご覧ください。
(出典 NHK BS歴史館 完全再現! 川中島の戦い)
写真右手、赤が武田軍。
左手、青が上杉軍です。
上杉軍が、まるで車輪が回転するように
切れ目なく武田方に襲い掛かります。
武田側から見ると、倒せども倒せども
敵の新手が押し寄せてきます。
逆に上杉軍からすれば、陣を回転させることで
常にフレッシュな兵を絶え間なく繰り出せる上、
戦闘を終えた兵は回転中に一息整えることができるので
戦線復帰してもそこそこの働きをしてくれることになります。
武田兵
「馬鹿な!!お前はさっき倒したはずの・・・!!」
上杉兵
「フフ・・・・知らぬようだな。
我らは回転中に体力が回復することを!!」
さすが謙信!!毘沙門天の化身!!
俺たちに思いつかないことをやってのけるッ!!
しかし・・・
ほんまかいな。
確かに一理ありそうな気はしますが、
個人的には以下のような問題点があると思います。
武田兵
「あれ?俺、お前さっき倒したよね?
大丈夫?血みどろで呼吸も荒いけど?」
上杉兵
「ハアハア・・・・あのさ、これ無理。回転中に逆に疲弊。
HP低下状態で戦線復帰。この戦法ありえねー」
そうなんですよね。
回転中は戦闘に参加しないとはいえ、
休憩しているわけではありません。
武器の調整など多少の時間的余裕は生まれるでしょうが
常時移動しているわけですので
体力を消費すると考えられます。
ましてや日本は平地の少ない土地柄。
移動地帯にはたいてい、丘などの起伏があったり
林などの障害物があったりすると考えられます。
そのような地形を、重い武具に身を包んだ状態で移動。
中には戦闘で傷ついた者もいるわけで。
しかも数千人規模の軍団が回転するので、
外周の移動距離は相当なものだったはず。
実際、車懸りの陣について触れているのは
「甲陽軍鑑」だけ。
本当にやったかどうか疑わしい。
ただ、雪国の越後では
「待機中の体温低下」という問題があったはずです。
何らかの方法で解決する必要はあったかもしれません。
果たして、そのような戦い方があったのか。
とりあえず、語呂合わせ的には
「 車懸り の陣」「 上杉 謙信」
を押さえておくにとどめたいと思います。
「 車ガッカリ 。 上すぎ 。(価格が)」
新車はなかなか手が出ませんね!!
(結局、真田家には一切触れずしれっと終わる)
今日もまた、つまらぬものを憶えてしまった・・・。
つながりで書いてみたいと思います。
皆さんは、
車懸りの陣
をご存じでしょうか。
永禄四年(1561年)、武田信玄×上杉謙信が激突した
第四回川中島の戦い。
このとき上杉軍が用いたという、エキセントリックな戦法です。
まず、陣形をご覧ください。
(出典 NHK BS歴史館 完全再現! 川中島の戦い)
写真右手、赤が武田軍。
左手、青が上杉軍です。
上杉軍が、まるで車輪が回転するように
切れ目なく武田方に襲い掛かります。
武田側から見ると、倒せども倒せども
敵の新手が押し寄せてきます。
逆に上杉軍からすれば、陣を回転させることで
常にフレッシュな兵を絶え間なく繰り出せる上、
戦闘を終えた兵は回転中に一息整えることができるので
戦線復帰してもそこそこの働きをしてくれることになります。
武田兵
「馬鹿な!!お前はさっき倒したはずの・・・!!」
上杉兵
「フフ・・・・知らぬようだな。
我らは回転中に体力が回復することを!!」
さすが謙信!!毘沙門天の化身!!
俺たちに思いつかないことをやってのけるッ!!
しかし・・・
ほんまかいな。
確かに一理ありそうな気はしますが、
個人的には以下のような問題点があると思います。
武田兵
「あれ?俺、お前さっき倒したよね?
大丈夫?血みどろで呼吸も荒いけど?」
上杉兵
「ハアハア・・・・あのさ、これ無理。回転中に逆に疲弊。
HP低下状態で戦線復帰。この戦法ありえねー」
そうなんですよね。
回転中は戦闘に参加しないとはいえ、
休憩しているわけではありません。
武器の調整など多少の時間的余裕は生まれるでしょうが
常時移動しているわけですので
体力を消費すると考えられます。
ましてや日本は平地の少ない土地柄。
移動地帯にはたいてい、丘などの起伏があったり
林などの障害物があったりすると考えられます。
そのような地形を、重い武具に身を包んだ状態で移動。
中には戦闘で傷ついた者もいるわけで。
しかも数千人規模の軍団が回転するので、
外周の移動距離は相当なものだったはず。
実際、車懸りの陣について触れているのは
「甲陽軍鑑」だけ。
本当にやったかどうか疑わしい。
ただ、雪国の越後では
「待機中の体温低下」という問題があったはずです。
何らかの方法で解決する必要はあったかもしれません。
果たして、そのような戦い方があったのか。
とりあえず、語呂合わせ的には
「 車懸り の陣」「 上杉 謙信」
を押さえておくにとどめたいと思います。
「 車ガッカリ 。 上すぎ 。(価格が)」
新車はなかなか手が出ませんね!!
(結局、真田家には一切触れずしれっと終わる)
今日もまた、つまらぬものを憶えてしまった・・・。
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2016年03月03日
井伊直弼生存? 桜田門外の真相とは
時は安政七年。三月三日。
雪降る江戸城の桜田門外にて。
大老 井伊直弼 暗殺さる!!
当時の急上昇ワードということで取り上げてみたでござる。
(画像引用 wikipedia)
西暦1860年のこの日。
水戸藩出身の脱藩浪士17名と薩摩藩士1名によって
時の大老 井伊直弼の行列が襲撃を受けたでござる。
十数分の斬り合いののち井伊大老は討たれ、
日本は幕末の混迷へと向かうのでござる....。
ところが。
実はこのとき、井伊直弼は
「生き延びた」ことになっていました。
当時の流れ。
幕府首脳A「ええっ!大老が暗殺!直弼さん死んだらまずいよ、井伊家お家断絶よ。
困るよ、譜代の筆頭なんだから」
幕府首脳B「困りましたな、それにお家断絶となれば、井伊の家臣が怒り狂いますぞ」
幕府首脳C「水戸藩と紛争状態になるかも知れぬ」
幕府首脳A「あのさ、生きてることにしよう。急病でお休みってことで」
幕府首脳B「しかし、首がちょんぎれて・・・」
幕府首脳C「目撃者もいっぱい・・・」
幕府首脳A「首は胴に縫い付ける!直弼さんは寝てるの!死んだのは別人!」
幕府首脳B「じゃあ『負傷した』、ということで・・・・・」
幕府首脳C「幕府からもそれっぽく見舞いの品を出しましょう」
その結果
彦根藩「藩主・直弼は桜田門外にて負傷しました」
将軍・家茂「お薬とどけます。早くよくなってね(ほんとは死んでるんだよね)」
諸大名「お見舞いに来ました。御回復を祈念してます(死んでるよね)」
彦根藩「跡継ぎが決まりました!そしたら藩主が死にました!」
世田谷区は豪徳寺。
ここは彦根藩井伊家の菩提寺。
これが井伊直弼のお墓です。
(画像引用 kazusin.web.fc2.com)
その、墓碑銘の日付け。
(画像引用 kazusin.web.fc2.com)
三月二十八日。
桜田門外の変が三月三日。
幕府はこの間、「大老・井伊直弼の生存」
を主張していたことになります。
大老暗殺。
その衝撃の大きさを物語る墓碑銘といえるでしょう。
さて、日付はともかく、井伊直弼が暗殺された
桜田門外の変の年号くらいは語呂合わせしておいた方がよいでしょう。
「 桜田門外 」「 井伊 直弼」「 1860 年」。
「 桜田門外 で 井伊 殺ろう、 井伊殺ろう!!」
(by 水戸浪士)
この語呂も、いいやろう?
井伊直弼公、安らかにお眠りください・・・。
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