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2018年01月26日

「カノッサの屈辱」で語呂合わせ


今年の冬は寒いですね。
積もった雪もなかなか溶けません‥。

もし、こんなとき外に立っていたら。
しかも、裸足で!
しかも、ゴハンを食べずに!!
しかも、3日間も!!!

はい、ゲームオーバーですね。

ところが。

1077年の1月25日から1月27日にかけて、
まさにこれをやった人がいました。

神聖ローマ帝国皇帝・ハインリヒ4世です。

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(Wikipedia)

世に言う、

「カノッサの屈辱」

当時、教会や修道院は特別な機関でした。
ここを押さえれば、税収を管理できるからです。

さて、
その地方教会のトップを誰が任命するか?

そこを支配する王や皇帝か?
それともローマ教皇庁か?

神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世は、この
「聖職叙任権」
をめぐりローマ教皇と対立。

ちなみに、
当時のローマ教皇はグレゴリウス7世です。

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(Wikipedia)

このグレゴリウス7世、何と
神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世を

「破門」

してしまいます。
この時代、キリスト教の最高権威者から破門されることは
社会的存在を抹消されることを意味します。

びっくらこいたハインリヒ4世は、
教皇のいるイタリアへ急行。
カノッサ城の前で赦しを請います。
雪の中、断食しながら裸足で3日間‥。

とまあ、これがカノッサの屈辱のてんまつ。

結局、頑張った甲斐あって破門は解かれます。

しかしこの後ハインリヒ4世は
「よくも屈辱を与えやがって」
と逆襲を開始…という流れになります。

ともかく今回は

1077 年」
カノッサ の屈辱」
グレゴリ ウス7世」
ハインリヒ 4世」


で語呂合わせしておきましょう。

盗難な 可能さ 暮れ頃 入んりひ

夕暮れ頃に活動を開始。
泥棒の鉄則!




posted by nessy at 22:24| 歴史

2018年01月20日

「稲荷山古墳の鉄剣」で語呂合わせ


今日は受験生むけ特別企画。

「ワカタケル」
「鉄剣」
「稲荷山古墳」


を楽しく語呂合わせしてみましょう。

まずは予備知識。

稲荷山古墳は埼玉県行田市にある古墳。

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1968年、ここから多量の鏡、埴輪などとともに
「鉄剣」が出土します。

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(画像引用:Wikipedia)

鉄だから当然サビてます、はい。

しかしここで大発見。
鉄剣からは115文字もの漢字が確認されました。
ポイントは、
漢字が金で象嵌(ぞうがん)されていた こと。

金はサビない!
刀が錆びていたのに文字の部分は
現代でも読み取ることができたのです。

そしてその文中に、

「ワカタケル(獲加多支鹵)」

の文字が。

ワカタケルは雄略天皇と考える説が有力であるため、
この発見は大ニュースに。
鉄剣は1983年、国宝に指定されました。

さて、本題に入りましょう。

ワカタ ケルノミコト」
鉄剣
稲荷山 古墳」


で語呂合わせです。

わかった 鉄拳 !!」
言いなりや 〜」


武力に敵うものなし!




posted by nessy at 00:17| 歴史

2017年12月30日

自衛隊採用!「史記」の計略とは?


『史記』(しき)。

前漢の時代、司馬遷が編纂した中国の歴史書です。

その中に、 孫?(そんぴん) の話が出てきます。
孫?は戦国時代の斉の軍師。
「孫子の兵法」で有名な孫武の子孫とされます。

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(画像引用:Wikipedia)

さて、その孫?が魏と戦ったときの話。
いわゆる 馬陵の戦い(ばりょうのたたかい) です。

紀元前341年、斉と魏は交戦中でした。
指揮官である孫?は斉軍に撤退を命令。
これを知った魏軍は追撃を開始します。

さて孫?、ここで奇妙な計略を実行。

退却しながら、宿営地にかまどの跡を残していきます。
ちなみに当時、かまどは土で作る即席のものでした。
使用後はその場に放置可能だったのです。

退却初日。
孫?は宿営地に十万人分のかまどを作らせます。
翌日は五万人分のかまど。
その翌日は二万人分のかまどを残していきます。

追撃してきた魏軍は当然、
かまどの数が減っていることに気づきます。

「斉軍は脱走兵が続出している!」

敵兵力が減少し、士気低下も顕著とみた魏軍は
主力の歩兵を後方に残し、騎馬隊のみで追撃を開始。
弱体化した斉軍を速攻で殲滅すべく夜間も行軍します。

一方の斉軍、実は兵力を温存したまま。
孫?は馬陵(山東省臨沂市付近)に伏兵をしきます。

日が落ちた頃、魏軍は馬陵に到達。
揺れる明かりの側に魏の将軍・?涓(ほうけん)の姿が。

斉軍はいっせいに狙い撃ち、?涓は全身に矢を受け絶命。
魏軍は大敗し、戦国の覇権争いから脱落してしまいます。

‥‥というのが馬陵の戦いの概略。

で、こちらをご覧下さい。

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(画像引用:Wikipedia)

これは、陸海空の自衛隊で使用される携帯食。
正式名称は

戦闘糧食I型。

通称「カンメシ」です。

普通の缶詰と同じように、
缶切りで開けて食するわけですが‥‥、
問題は缶のあと始末です。

この戦闘糧食I型、有事の際には
食べおわったあとの缶を

潰してから埋めます。


なぜでしょう?

さあ、ここで孫?の計略を思い出して下さい!

そう、缶を地中に埋めて隠すのは

「空き缶の数で兵力を悟られないため」

です。
部隊規模がバレると、敵が有利になってしまいます。


かまどの数で敵を罠にかけた孫?。
缶を隠して自軍の兵力を悟らせない自衛隊。

食事の量=兵士数

この法則は時代を超えて不変ということですね。

‥‥ということで今回は

「前 341 年」
かまど
孫?(そんぴん)


で語呂合わせしましょう。

見よ、い かまど 村費

村長!公費でかまどを買うのはいかがなものかと‥‥!




posted by nessy at 23:08| 歴史

2017年12月19日

ローマ時代に下駄がカラカラする話


え〜、今日12月19日は、
語呂合わせ職人にとって特別な日です。

なぜなら!
非常に語呂合わせしやすい事件
があった日だからです!

ありがたいことです。

では、さっそくローマ時代に飛びましょう。
西暦211年の12月19日、場所は首都ローマ。
この方がその時のローマ帝国皇帝です。

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(画像引用:Wikipedia)

名前は、 ゲタ
笑ってはいけません。
そういう名前なんですから仕方がありません。

しかし、この日、ゲタに不幸が訪れます‥‥。

暗殺!!!

何と、暗殺されてしまいました。
犯人は、こちら。

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(画像引用:Wikipedia)

実の兄・共同統治帝の カラカラです。
笑ってはいけません!
そういう名前なんですから!

つまりこの日、

ゲタ カラカラ

に暗殺されちゃったのです。
下駄がカラカラ‥‥。
不謹慎だと思いつつも
つい「フッ」と笑ってしまいます。

ということで今日の語呂合わせです。

211
ゲタ
カラカラ


なので

フッ ひとびと 下駄 カラカラ

皇帝がみんなこんな名前ならこっちも楽が

‥‥ということで皇帝の名前にまつわる雑学でした!



posted by nessy at 00:00| 歴史

2017年11月19日

「無銘一文字」 産地の誤解とは

無銘一文字‥。

まさか、こんな渋い言葉が検索トップに来ようとは。

IMG_2601.PNG
(Yahoo!検索 2017.11.19)


朝日新聞の記事の影響と思われます。

IMG_2602.PNG


そんでもって、これがその
「無銘一文字」

IMG_2603.JPG

無銘一文字、号して山鳥毛。
刃長79センチ、反り3.2センチの国宝。
岡山県立博物館 蔵。

謙信の愛刀とあって、上越市が購入を試みたものの、断念!

‥ということで、ご本人に登場していただきましょう。
「無銘一文字さんです!」

筆者「Yahoo!の検索で‥あなたが話題でして」
無銘一文字「わしが?何ゆえ?」
筆者「謙信公の愛刀なんでしょ、名刀なんでしょ!」

無銘一文字「確かに福岡一文字派の傑作と言われておるが」
筆者「へー!!ご出身は福岡なんですか?」
無銘一文字「そう。しかし騒がしいのは苦手じゃ!帰る!」
筆者「どちらへお帰りで‥?」
無銘一文字「知れたこと。備前よ」
筆者「旧国名で備前、つまり岡山県」
無銘一文字「さっき福岡の生まれと申したであろうが」
筆者「え?だったらどうして岡山に帰るんですか?」

無銘一文字「じゃから、福岡は岡山県にあるじゃろうが」
筆者「えっ?!福岡は九州でしょ?!」

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無銘一文字「何と‥!そうか、そうじゃったわい」
筆者「何がおかしいんですか」
無銘一文字「わしのいう福岡は、
岡山県の長船町福岡 じゃ」


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筆者「あっ!ここにも福岡が!」
無銘一文字「福岡一文字派はここが本家本元」

筆者「すると、九州の福岡は‥?」
無銘一文字「関ヶ原の戦いの後、黒田長政が九州に来てな」
筆者「戦功大きく、筑前52万石を拝領したと」
無銘一文字「このとき、黒田家の本領があった備前国福岡から地名をとって、中心地を福岡と改めたのじゃ。元の地名は福崎と聞いておる」
筆者「なるほど!福岡一文字派は、岡山県の福岡ご出身なわけですね!」

無銘一文字「黒田長政め‥!余計なことをしくさって‥!」
筆者「まあまあ、ここは上杉謙信公のご愛刀らしく、ひとつ冷静に‥!しかし、黒田家にずいぶん遺恨があるようですが‥」
無銘一文字「あのね!上杉は西軍なの!黒田は東軍で、敵なの!」
筆者「そうでした!ここはひとつ、刀を鞘に納めて‥」
無銘一文字「はァ、心が折れるよ」

無銘一文字。
鎌倉期、備前福岡一文字派の作と伝わります。
号である山鳥毛は、刃の文様が山鳥の羽毛に似ているから‥という説が有力。

太刀一本から、武将はもちろん地名や歴史までひも解けるのが日本史の魅力ですね。

‥ということで

「無銘一文字」 「上杉」

をセットで語呂合わせしましょう。

無名 飢えすぎ

名が売れるまでは、食費にも事欠くありさまで‥。



posted by nessy at 19:43| 歴史

2016年07月10日

並べるだけ!「五奉行」の覚え方


タイトル通りです。

NHK大河ドラマ「真田丸」 にかこつけた
いえ、
「真田丸」をより深く理解するための語呂です。

五奉行。

豊臣政権下で行政を担当した武将のうち、
特に活躍をしたとされる五名。


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(五奉行の花押 画像引用 Wikipedia)

その五人とは、

浅野長政(あさのながまさ)
増田長盛(ましたながもり)
石田三成(いしだみつなり)
長束正家(なつかまさいえ)
前田玄以(まえだげんい)



実は、この五人は

「苗字を順番につなげる」

だけで簡単に覚えられます。

あさの
ました
いしだ
なつか
まえだ


なので、

朝、飲 ました 医師だ な、捕 まえた !!」


「・・・あなたは医師の資格を利用し、
その日の朝、劇物を使用して
花子さんを殺害しましたね!」
(ザパーン!!)←波の音

的な場面をご想像ください。

とは言え、奉行職は流動的。

大谷吉継や
小西行長が務めていた時期があったり

浅野長政に代わって
宮部継潤&富田一白が入り
六奉行期があったりと、結構あやふやです。

成立した年代も不明瞭。

天正13年(1585年)説、
慶長3年(1592年)説などがあり
「これ、覚える意味あんの?」という
テキトー感が漂います。

しかし、そんな物件こそ、
このブログの好物。

ではもう一度、つぶやきましょう。

朝、飲 ました 医師だ な、捕 まえた !!」


参考までに、各武将の背景と
「五奉行」時代のあとどうなったかを。


浅野長政
・五奉行筆頭・甲斐甲府22万石
・関ヶ原の戦いは家康側で参戦
・長男の幸長は和歌山藩の初代藩主
・子孫に「忠臣蔵」の浅野内匠頭(長矩)がいる

増田長盛
・大和郡山22万石
・関ヶ原の戦いでは三成側で参戦
・伏見城攻めに加わり、落城させる
・戦後、出家して謝罪し改易となる
・息子の増田盛次が大坂の陣で豊臣氏につき、
 長盛も責任を問われ自害

石田三成
・近江佐和山19万石
・関ヶ原の戦いで家康に敗北、斬首
・後世、否定的な見方をされるも、
 戦時の食料補給や戦線拡大の阻止など
 「後方支援」能力の評価は高い

長束正家
・近江水口5万石
・関ヶ原の戦いでは毛利秀元とともに南宮山に布陣
・戦後、水口城に籠るも池田長吉に捕縛され切腹

前田玄以
・五奉行次席・丹波亀山5万石
・三成と共に弾劾状に署名するも、密かに家康に内通
・病気を理由に関ヶ原戦には不参加
・戦後は丹波亀山の本領を安堵され、初代藩主となる


・・・・ということで今回は
「五奉行の覚え方」でした!!




posted by nessy at 22:29| 歴史

2016年06月22日

どんなトリ?「赤鳥紋」の謎


さて、今回は

「癒し系?ミッ〇ーそっくりな家紋とは」
https://fanblogs.jp/huun/archive/103/0

以来、久々に家紋のお話をしてみます。

家紋には、「鳥」をあしらったものが多くあります。
本題に入る前に、ちょっとクイズしてみましょう。



1.この家紋は何のトリでしょう?

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正解は・・・
「鳩(はと)」。
うん、これはわかりやすいですね。
熊谷直実で有名な熊谷氏は鳩紋。




2.何のトリでしょう?

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正解は・・・
「鶴(つる)」。
正確には、上の家紋は「鶴丸紋」。
JALみたいですね。
武将では森蘭丸がこの鶴丸紋。




3.何のトリでしょう?

image.gif




正解は・・・
「雀(スズメ)」。
上杉謙信はじめ上杉家の家紋は
雀を基調としたものが多くあります。







4.何のトリでしょう?

image.jpeg




正解は・・・
「雁(かり)」。
上は、「結び雁金(むすびかりがね)」。
NHK大河「真田丸」でおなじみ真田家も、戦時では六文銭、
平時は結び雁金と使い分けていたようです。
現在でも、六文銭が家紋である真田姓の方がいます。
かっこいい!



5.何のトリでしょう?

image.gif




正解は・・・
「千鳥(ちどり)」
正確には、「丸に千鳥」。
ちょっとかわいらしいですね。





6.何のトリでしょう?

image.gif




正解は・・・
「鳳凰(ほうおう)」
そんな鳥いないよ!
家紋ですから、何でもありです!



さて。
いよいよ、本題です。

7.何のトリでしょう?

あかとり



・・・何か雰囲気かわりましたね。
確かに鳥っぽいといえば鳥っぽいですが・・・。


正解は・・・

「赤鳥(あかとり)」。

えっ?
そんな鳥、知らない?
そうですよねえ・・・。
でも、昔から「赤鳥」って言われてるんです。
今川義元の今川家も赤鳥紋 なんです・・・。
でも、アカトリっていう鳥は知りませんよね・・・。

そう。

「赤鳥」はトリではありません。

漢字が違うのです。

正確には、

「垢取り」。

何と、垢を取る道具だったのです。

櫛についた垢を取ったり、馬の毛をすいたりするのに
用いられていたと考えられています。

シルエットが鳥っぽいので、
「赤鳥」の字があてられるようになりました。

ということでここは、

今川 」「 赤鳥 紋」

で語呂合わせしておきましょう。

いま、川 」「 あ、蚊取り !!」

水辺はヤブ蚊が多くてねえ・・・。



posted by nessy at 23:26| 歴史

2016年06月13日

家康公認!「くらわんか舟」とは


さて、今日はNHK大河・「真田丸」視聴率好調につき、
便乗して
真田幸村関連のお話をしてみようと思います。

まずは、歌川広重の描いた
下の絵をご覧下さい。

image.gif
(出典 国土交通省HP)

何やらにぎやかな舟ですね。
これこそ、

くらわんか舟。

この絵が描かれた場所は淀川、
現在の大阪府枚方市あたり。
江戸時代の光景です。

くらわんか舟はいったい、何をしているのか....?

というわけで、今回はタイムスリップして
くらわんか舟の船頭さんにお話を伺ってきます!
とりあえず、江戸時代の初めごろに行ってみますか。

シュイイイン!

筆者「うわ〜すごい舟の数!近くの船頭さんに声をかけてみま....」
船頭「くらわんかい!くらわんかい!」
筆者「うわ。何ですかいきなり」

船頭「耳ついてへんのけ!メシ食らわんかい!酒飲まんかい!」
筆者「客商売とは思えない口調!大名の扮装でもしてくればよかった」
船頭「誰が大名じゃい!おっ!噂をすれば!
大名舟が来よったで!食らわんかい!食らわんかい!」

筆者「げっ!あの口調で近づいて行きます!
お手討ちにあってしまいますよ......。
おや何と、他の舟も『食らわんか』を連呼しながら
大名舟に群がっています!まさに無法地帯!」


船頭「ははっ、ようけ売れた!どや、お前も食らわんか!」
筆者「では、いただきます‥‥ムシャムシャ。
‥‥しかしよくお咎めなしで済みますね」

船頭「家康がな、構わん言うたさかいにな!」
筆者「つまり、乱暴な口調は家康の許可が下りてるって事ですか!」
船頭「せや!大坂の夏の陣でな、わしらちょうど見とったんや!
赤備えのワーっちゅうやつを!」

筆者「ええと、真田勢の突撃のことですか?」

さ
(画像引用 umayakonohimemiko.blog74.fc2.com)

船頭「すぐそこでな、家康の旗本衆がな、ワーってなってな!」
筆者「確か本陣が粉砕されて、家康は命からがら戦線離脱したとか」

船頭「乗ったんは、この舟や」
筆者「えっ!家康は、この舟で逃げたんですか!」
船頭「せや!ここへ家康らがワーって逃げて来よってな!」
筆者「かくまったんですね!」
船頭「船底へ隠してな、対岸まで運んだったんや!」

筆者「じゃあ、もしこの舟がなかったら‥‥」
船頭「死んどるがな!あの真田がそこへ来とんねやで!ワーって‥‥」
筆者「こりゃあ、戦後の褒美は思いのままでしょうね」
船頭「その褒美が、この売り文句や」
筆者「乱暴な言葉で売ってもいいって…?」
船頭「せや!天下御免の売り文句や!」
筆者「確かに、家康がいいと言えばどの大名も?れませんね‥‥」
船頭「せやで!ほれ、また客や!食らわんか!食らわんか!」
筆者「…行ってしまいました。でも今の話、何か嘘くさいなあ…」

旅人A「イヤ、こいつらア、云わせておきゃア、途方もねえ奴らだ」
旅人B「まあまあ、弥次さん、ここの名物って話だ」
旅人A「喜多さん、それだって、あんまりな」
旅人B「さあ、大坂は目と鼻の先だぜ」

筆者「おや、あの二人は・・・」


・・・というわけで船頭の話はともかく、
乱暴な商い言葉が何らかの理由で
許容されていたことは確かなようです。

実際、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」でも
「枚方宿のくらわんか舟」が登場するのですから…。

というわけで
真田丸に便乗して
くらわんか舟にまつわる逸話でした。

語呂合わせしておきましょう。

くらわ んか舟」「 淀川 なので
鞍は ?」「 よ、胴側

この語呂、ちょっと苦しいって?
黙って覚えんか!覚えんか!



posted by nessy at 22:40| 歴史

2016年05月24日

伊達政宗を動かした男・水谷胤重とは

今日5月24日は、独眼竜こと
伊達政宗公の命日に当たります。

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(画像引用 Wikipedia)

1636年(寛永13年)の今日、
伊達政宗は70年の生涯を閉じました。

今日は、伊達政宗と関わり合いの深い、
ある武将についての逸話です。

その名を
水谷胤重(みずがいたねしげ)。

相馬氏の家臣です。
相馬氏と伊達氏は、長年抗争を続けてきた間柄。
胤重の父・水谷胤氏は、伊達との戦いで討ち死にしています。
つまり伊達家は相馬氏にとっても、胤重にとっても
積年の恨み積もる大敵。

さて。

関ヶ原の戦いの直前。
東軍(家康方)に付いた伊達政宗。

急遽、大阪から本国への帰還を試みます。
しかし進路上に西軍方の領地が。
やむなく常陸を経由する道を取ります。
しかしそのルート上、相馬の領地を通ることに。

ちなみに当時、相馬氏は表向き中立の立場でした。

しかし何せ、戦国時代を通じて長年にわたり
伊達氏と戦いを繰り広げている相馬氏。

しかも今、政宗の兵はわずかに五十騎。
「これは、政宗を討つ絶好のチャンスなのでは」
という声が高まります。

16代当主・相馬長門守義胤もやる気です。

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(画像引用 www.kjclub.com)
義胤のものと伝わる甲冑。
鬨の声が聞こえてくるようです…



「政宗、討つべし!」
という流れで評定がまとまろうとしていたとき。
成り行きを静かに見守っていた家臣が口を開きます。

この男こそ、水谷胤重。
さて、彼の主張を傾聴しましょう。

「皆様のご意見はよく分かります。
かく言う私も、父を伊達に討たれたのです」
「しかし、ご当家は代々、騙し討ちのような
卑怯な事はしてこなかったお家柄」
「今、感情に流され政宗を討つのは不義であり、
相馬の名を汚すことになりましょう」
「政宗を討ち取りたければ、戦場で相見えるのが
そもそも武人としての姿勢ではありませんか」

座は静まり返ります。
そして、当主相馬義胤は決断しました。
「胤重に任せる」

胤重は政宗の宿に食料や馬の飼料などを提供。
夜には篝火をたかせ、兵士たちに徹夜で警備させます。

結果、政宗は安全に相馬領内を通過。
帰国後、西軍についた上杉との戦いに臨みます。

さて。
関ヶ原の戦いは東軍の圧勝で終結。
相馬氏は表向き中立を保っていたものの、
「西軍寄りであった」ことが徐々に明るみになり、
改易のピンチを迎えます。
名家・相馬氏もここに断絶してしまうのか…。

その時、意外な人物が相馬改易に異を唱えます。
その男こそ、伊達政宗。
天下人・徳川家康に対し一歩も引きません。

以下、『藩翰譜』から原文。

「政宗徳川殿に訴へ申しけるは、
相馬はただにも政宗が年頃の敵なり。
それに上杉、石田などにくみしたるが一定に候はんには
政宗彼が為に討たるべき時至って候ひしに、
君の仰承り馳せ下る由を聞きて
忽ちに旧き恨を忘れ新しき恩を施して候ひき。
これひとへに彼が野心をさしはさまざりし故にあらずや。
且つは又累代弓矢の家、此の時に至て
長く断絶すべきこと誠に不便の至りなり、
只然るべくは彼が本領安堵の事御免を蒙らばやと
折にふれて度々歎き奉りしかば、
其の事となく年月を経て後本領をぞ賜ぶたりける」


要点をまとめると
・相馬は確かにこの政宗にとって長年の敵である
・西軍についた節があるが、しかしあの時私を討たなかった
・これこそ相馬に野心がなかった証ではないか
・また、相馬は武家として歴史も長く、断絶させるには忍びない
・どうか改易は撤回していただきたい
この取り成しの結果、慶長7年(1602)、改易は撤回。
相馬氏は断絶を免れた・・・

・・・というお話。

義を重んじ、それに応えた二人の男。
この話には、続きがあります。

江戸時代に入ると、政宗は井伊家当主・井伊直孝に
間に入ってもらい、相馬家との仲直りを画策。
義胤の嫡男である相馬利胤に
「もうそろそろ、喧嘩はやめましょう」と打診します。

すると利胤
「当家はすでに伊達殿のおかげで、本領安堵する事が出来ました。
しかし我々は累代の敵国。私の代で勝手に仲直りをするのもどうかと」

結局、両家が仲直りすることはなかったといいます。

なお、相馬義胤は遺言により、立ったまま埋葬されました。
その見つめる方角には、伊達領。
相馬には、相馬の誇りと意地があったのですね。

語呂合わせは政宗の没年でいきましょう。

1636 年」「 政宗没年 なので

ヒーロー去ろう 政宗没す

今日は、熱い男たちのお話でした。


posted by nessy at 18:27| 歴史

2016年05月20日

なぜイスラム偉人はイブンさんが多いのか


世界史を学んだことがある人なら
気になったことがあるはずです。

世界史の教科書でイスラム文化の話になると、
「イブン・何とか」さんが妙に多く登場するのです。

しかし現代では、
イブン〜という名前はあまり耳にしない・・・。

これはいったい、どういうことなのか。
昔はイブンがおしゃれな名前だったのか。

今回は、「イブンだらけなのはなぜか」がテーマです。

では、年代順に見ていきましょう。


イブン=シーナー(980〜1037)

image.jpeg
(画像引用 Wikipedia)
(いまいちパッとしない絵ですが・・・)

・若くして医学を習得。
・17歳のときサーマン朝の君主の病気を治療
・医学・数学・哲学・神学・天文学を習得
・著作はゆうに100以上を誇る知の巨人
「医学典範」 はアラビア医学の集大成


イブン=ルシュド(1126〜1198)

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(画像引用 Wikipedia)
(見るからに賢そうな顔ですね)

・ラテン名アヴェロエス。
・中世欧州におけるアリストテレス哲学研究に多大な影響
・著作はキリスト教のスコラ学者によってラテン語に翻訳
ラテン・アヴェロエス派 を形成
・医学者でもあり、「医学大全」を著した万能人。


イブン=バットゥータ(1304〜1368?1369?)

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(画像引用 Wikipedia)

史上最も偉大な旅行家。
まあ、ご覧ください、その道程を。

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(出典 2004年センター試験 世界史A)

・モロッコに生まれ、22才の時にメッカへ巡礼の旅に
・その後エジプト・シリアを経て南ロシアに至る
・中央アジアを南下してインドに到達
・トゥグルク朝で法官となり約8年間デリーに滞在
・元朝への使節団に加わり、海路中国へ
・大都(北京)を訪れてモロッコに帰国
・その後もサハラ砂漠を越えてマリ王国を訪問
・口述筆記 「三大陸周遊記」 は傑出した旅行記として有名


イブン=ハルドゥーン(1332〜1406)

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(画像引用 Wikipedia)
(うむ、威厳を感じます)

・イスラム世界最高の学者とされる
・哲学、法学に通じ、いくつもの王朝で高官として活躍
・政界を引退したのち、歴史書の編纂を開始
・王朝の盛衰には規則性があることを見出す
・大著 「世界史序説」 を残す

やはり「イブンなんとか」さんが多いようです。
では、そろそろ核心に迫りましょう。
イブンとは何なのか。

[ イブン ]とは、名前ではありません。

ibn ( ??? ?) というのは、「〜の息子」 という単語。

つまり、サザエさんちの「磯野カツオ」は
イブン・波平、つまり「波平の息子」ということになります。

豊臣秀頼は「イブン・秀吉」ですし、
長嶋一茂は「イブン・茂雄」です。

当時のイスラム教社会では
「本名を呼ぶのは失礼」 という感覚があったので
「〜の息子」という父系重視の呼び名が一般的だったようです。

上に挙げた4人の偉人のように、優れた業績を残しても
本名がよくわからないのはもったいないような気もしますが
それも含めてイスラムの文化というわけですね。

ということで、

息子 「イブン」 で語呂合わせしておきましょう。

息子 いい文

「ぼくは、おとうさんが、大好きです」
ううっ。息子よ・・・・。


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posted by nessy at 23:25| 歴史
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