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『台風の眼』日野啓三(新潮文庫) ある時期、ちょっとまとめてクラシック音楽の評論というかエッセイというか、そんな本を続けて読みました。で、気づいたことがあったんですね。 そんな話をかつて私は別の拙ブログに書いていまして、その時はぐちゃぐちゃと「グチって」いたと思いますが、一応の結論としては、鑑賞初心者にとってのみ、そんな本は有益である、と。 という、まー、考えたらかなり当たり前の結論だったのですが(どんな曲から聞き始めればいいのか迷っている初心者に役立つと言うことですね)、さてなぜそんな話から始めたかと言いますと、冒頭の小説の筆者・日野啓三の作品を、わたくしこの度初めて読んだのであります。 で、読みながら、ひとりの作家の作品のファーストチョイスとして、本作はふさわしかったのだろうかという疑問が、かなり浮かんできました。そして、クラシック音楽初心者向け鑑賞読本の、「日野啓三版」みたいなのがあればいいのになーと、感じた次第であります。 しかしそんな本は手元になかったので(日野啓三についての評論が本当にあるのかないのか、私は寡聞にして存じ上げないのですが)、知人に尋ねてみました。私の読書の「メンター」のような方です。 そんな人がいると便利ですね。打てば響くように答えてくれました。 「社会派の作家だ」と。 で、私は理解したんですね。 あー、やっぱりミスチョイスだったんだな、と。 なるほど、本書には「社会派」っぽいところがあまりありません。韓国での話とベトナムでの話の部分だけ(全体の割合で言えば二割程度でしょうか)です。 でも本当は、私がミスチョイスじゃないかと疑ったのは、本書が小説的にあまり面白くなかったからなんですね。 社会派作家の、あまり社会派的じゃない小説ゆえの誤選択ではなくて、この作家は、本当に一貫してこんなに小説的に面白くない作品を書く小説家なのか、という戸惑いでありました。 しかし、読み終えてちょっとあれこれ引っかかった部分を考えていたら、一応私なりの本書の感想の方向がまとまりました。なるほどそういうことだったのかと。 さて本書は、癌手術を間近に控えた作家が、自らの過去を遡って書くという形を取っています。要するに「自伝的」というやつですね。 ただ、筆者が強くこだわっているのは、「記憶」で書くのではなく「想起」で書くということで、「想起」と「記憶」のどこが違うかについては、筆者一流の説明があります。 まずそれが我が人生にとってとても重要な経験であること、そして、その部分の描き方について、話を想像で広げないということであります。 では、そのようにして過去を振り返るとどんな記述になるのでしょう。 それは、あまり前後にストーリーのつながりを持たない「断片」になります。 事実、ここのところはもっと小説的に広げていけば面白くなりそうなのになーと感じるエピソードがぶつ切れで、なによりそんな個所に登場人物間の言葉のやりとりとか、そんないわゆる「小説的に面白い」部分が見事に書かれていません。 (例えば、主人公と「原家」の姉妹との関係なんか、普通の小説なら多分大いに盛り上がる描写ができるところなのに、なんと言いますか、そんなことを私は書く気はないとでもいうような、無愛想な尻切れトンボの形です。) そんなお話です。 では、筆者はそんな風に小説から小説的部分を剥ぎ取るようにして、残った「想起」に何を描かせようとしたのでしょうか。 それは実は、作品のはじめに近い部分にこう書かれています。 想起できることが現実だ、とさえ考えたい。それは記憶に対応する過去ではない。常に現在だ。現在の、現実の実在である。このふしぎな実在感だけが、たとえば死の恐怖に対応できる。 種明かし的に書かれているのは、今、死を見つめつつある態度と言うことでしょう。 一方に「死」を見据え、その片方に対応させることが可能なものとして、筆者は「想起」を選びました。 つまり筆者は、「想起」にそんな力、それはそのまま「文学的力」と言い換えることができるような力を、本作品に込めて書いたということでありましょうか。 なるほどそれならば、「小説的な面白さ」を作品から切り捨てても、それはやむなしの選択であるのかもしれません。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.09.25
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『砂のように眠る』関川夏央(新潮文庫) この文庫本は、かなり昔から私の本立ての中にあったのですが、この度ふらっと手に取ってふらっと読み始めて、今まで本書を最後まで読み切っていなかったことに気がつきました。 そして、なぜ読み切っていなかったのかの理由についても、なんとなく思い当たるところがありました。 それは、本書の構成のせいで、それについては筆者が「はじめに」という一文でこう触れています。 この本はかわったつくりかたをしてある。小説と評論が交互に六章ずつならび、合計十二章からなりたっている。 そして「奇をてらって選んだ変革的構成ではない。」と書き、さらに「『戦後』時代を可能な限り客観的立体的に描く方法」として考えたものだとあります。 この度私は、ようやく本書を最後まで読み切って、筆者のこの「はじめに」の記述について、二つの感想を抱きました。 一つ目は、私が今まで本書を最後まで読めなかった理由と重なっているのですが、全く個人的な好悪なのですが、はっきり言っちゃいますと、小説部分が面白くない。(スミマセン) 筆者の短編小説については過去に1、2冊読んだ記憶があるのですが、例えばその報告は、この拙ブログには載せていません。なんといいますか、こんな感じの読書報告は載せない方がいいんじゃないかと思ってしまうような感想でありました。 もう一言だけ突っ込んで書きますと、極く個人的に、「華がない」「理が立っている」と私は思ってしまうわけですね。(スミマセン) というのが一つ。 そして、二つ目の感想としては、一つ目が否定的の感想であるにもかかわらず、しかし、なるほど、筆者が評論章の間に同時代を舞台にしたこのような小説の章を挟みたがったわけは理解できる、というものでした。 つまり私は、この小説章がなければ、一冊の本としての戦後史の記述に、あまりに救いがなくなってしまうからじゃないか、と感じたのでありました。 それは、少し陳腐な表現になりますが、「右も左もぶった切る」という言い方を本書の記述に重ねますと(私はかなり重なるんじゃないかと思うのですが)、本書の戦後史認識は、「右」はもちろんひどいが「左」も詐術的にひどいじゃないかと書かれているように思いました。 そんな評論章だけを展開してしまうと、あまりに救いがなくなってしまう。確かにそんな時代だったかもしれないけれど、同時にそこにわれわれは、日常生活を勤勉に(あるいは放恣に)積み重ねていたじゃないかという記述が、どうしても別視点として必要だろう、と。 いかがでしょう。 ただ、そう思って本書を読めば、そこにはニヒリズムの影がつきまといそうです。 そしてわたくしは、実は、この筆者の多くの作品にその匂いを嗅ぎます。 本書は、戦後の各時代の精神を反映した6冊のベストセラーを提示して、その読み解きをするという形で評論章を進めています。 その中で、おそらく筆者が最も共感したベストセラーは、終わりから二つ目に描かれる(もはや戦後と呼ばれる時期は終わったあとの)、いわゆる70年前後の「政治の時代」を舞台にした高野悦子の『二十歳の原点』でありましょう。 私は筆者がこの『二十歳の原点』と作者高野悦子を取り上げた文章を、本書以外で二つ読みましたが、本書のその章の最後には、あれから年月がたつが、今どうやって生きているのだろうと思う女性のひとりとして、高野を挙げます(もちろん高野は二十歳で鉄道自殺を遂げています)。そして、最後の一文をこう締めくくります。 もはや家計簿の余白の心覚え以外には日記めいたものをかいていない高野悦子の、その中年になっても整った顔だちを想像するとき、やはりはるかなむかしに友をひとり失ったのだ、とわたしはひそかに思うばかりである。 最後にもう一つ極く個人的な感想を書きますが、筆者の評論文の魅力は、切れ味の鋭いシニカルな水際だった文章の中に混じる、こんな甘甘の部分にあるのじゃないかと私は思っています。 そしておそらく、筆者はこんな部分をおのれが書くことに対して、ひどく恥ずかしがっているのじゃないか、とも。……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.09.12
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