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『俳句と人間』長谷川櫂(岩波新書) 本書の中に、東京電力福島原発事故についての短歌と俳句があります。一つずつ引用してみます。 人々の嘆きみちみつるみちのくを心してゆけ桜前線 何もかも奪はれてゐる桜かな いかがですか。現在『震災歌集震災句集』として出版されているそうです。 さすがに、どちらの作品も甲乙つけがたく素晴らしいという感想を持ちますね。 と、同時にこうして同様のモチーフを二種類の形式で描いた作品を読んでいますと、その二種類の形式の違いが、いかにも際立ってくるような気がします。 私は引用に当たって、「福島原発事故についての」と書きました。事実その通りなので作品を鑑賞する方向性としては特に問題ないと思います。 つまり、われわれはこの二つの作品を鑑賞するに当たって、「福島原発事故」という実際に起こった事故の様々な(読者によってかなり質量共に違いの大きな)情報を前提に読む、そして、感動する、と。 ただ、じっとこうにらんでいると、自分の中で、二作品の作品からの感動に至るルートが、何というか、かなり違っていることに気がつきます。 ……んー、どうも説明が難しいので、ざっくり既成の言葉で書いてしまいます。 俳句は、非情だな、と。 さて、なぜこんな話から入ってしまったのか、我ながらよくわからないなりに、本書を読んだ思いがけない感想として、筆者が現代俳壇を代表する俳人のひとりでいらっしゃるくらいのことは私も知っていますが、筆者のものの捉え方は(少なくとも本書においては)、俳句的と言うより短歌的な気がかなりした、と言うことであります。 かなり情緒的な感じがしました。 なぜそうなのか。 もちろん筆者の文学観が底辺にあるのだろうとは思いつつ、やはり「はじめに」で最初に触れてある、筆者に皮膚癌が見つかったという執筆状況が関わっているのでありましょうか。 少し話は飛びますが、私は図書館で本書を見つけました。 で、借りて読んだのですが、タイトルから想像した内容とはかなり異なっていました。(それを一概に批判しているわけではありませんが。) 一言で言えば、本書は「死」を核とした人生論(現代社会批判をかなり含む)でありましょう。 例えば前半部に「死という漢字が伝わる以前の日本人は死を知らなかったことになる」と述べて、このように書いてあります。 漢字の死に相当する大和言葉には「なくなる」「ゆく」「みまかる」がある。しかしこれらの大和言葉には漢字の死にある厳粛な断絶の響きがない。あくまである場所から別の場所へのゆるやかな移動である。つまり古代の日本人は漢字の死のようには死ななかった。 一方本書の終盤で、筆者は松尾芭蕉の晩年の描きます。(多分本書中最も興味深いところです。) 『おくのほそ道』は単なる旅の記録、紀行文ではないと書く筆者はさらにこのように述べています。 『おくのほそ道』には「かるみ」の「か」の字も出てこない。しかしながら簡潔にいえば「かるみ」とは悲しみや苦しみに満ちた人生を、ベネターの言葉を借りれば害悪でしかない人間という存在を、宇宙的な高みに立って俯瞰するということではないだろうか。 さらにこの後筆者は、芭蕉晩年の苦悩は、この人生観だった「かるみ」を俳句に応用しようとして徹しきれなかったことから生じたと展開していくのですが、そこに印象的な説明部があります。 人は生きていれば必ずいつか死ぬ。たとえそれが自分であれ家族であれ、また戦争や大地震で何千人何万人死のうが、何を騒ぐことがあろうか。阿弥陀如来のように微笑みを浮かべて眺めていればいい。これが「かるみ」である。「かるみ」とは恐るべき非情の精神なのだ。 繰り返しますが、芭蕉はこの「かるみ」に徹しきれなかったわけですね。 さて冒頭に私が触れた「筆者のものの捉え方は」という話に、これをつないでいくというのは、……いえ、きっと我田引水の極みであるのでしょうねえ……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.08.27
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『スクラップ・アンド・ビルド』羽田圭介(文春文庫) 時代的なものもあるからかなと思いますが、なんだか最近の芥川賞系の作品って非正規雇用の若者の話か、介護か認知症がらみの老人の話か、そのどちらかのような気がする、というのはきっと私の錯覚ですよね。そうであってほしいと私も思っていますが、とにかく、本作もそんな話です。 というか、上記の二つをくっつけたような話ですね。 20代後半の男性主人公が「就活」をしながら認知症の祖父の介護をするというストーリーで、そして、この青年の介護のテーマは、「苦痛や恐怖心さえない穏やかな死。そんな究極の自発的尊厳死を追い求める」というものであります。 その「現実的手法」は、「足し算介護」。 本文には、別の登場人物の台詞としてこのように書いてあります。 人間、骨折して身体を動かさなくなると、身体も頭もあっという間にダメになる。筋肉も内臓も脳も神経も、すべて連動してるんだよ。骨折させないまでも、過剰な足し算の介護で動きを奪って、全部いっぺんに弱らせることだ。使わない機能は衰えるから。要介護三を五にする介護だよ。 この方向性の介護をしながら、主人公・「健斗」は、就職活動として資格試験の勉強をしたり、ジムに行って自らの肉体を大いに鍛えたりするという話です。 えー、どうでしょうか。 なんか、よくわかったようなよくわからないような話という感じなのは、例えば就活とか肉体作りについては、ストイックというよりむしろナルシスティックに一心に取り組む主人公の姿が描かれています。 しかしその一方の「足し算介護」については、どうも不徹底な描かれ方のように気がします。 なぜかと思いますに、「足し算介護」をテーマに介護を描くというのが、やはりリアリティに欠けるからでしないでしょうか。(現代の介護現場の一端にそれがあるというのとは、多分違っていて。) つまり、物語のプロットとしてのこの発想自体が、まー、いわば「子供っぽい」と。だから追い詰めきれないで不徹底な形になっている、と。 本気で「足し算介護」をするならば、何といっても対象は食事介護だろう、と。 (わたくし、読んでいてちらっと児童文学の『夏の庭』を思い出したりしました。) それに加えて、本小説は主人公「健斗」とあるように三人称小説であります。ありますが、いわゆる語り手がかなりの主観を出しながら物語を進めています。 そして、この語り手が、介護関係の物語を展開するにはかなり「うさんくさい」感じの主観を示します。 これはなぜかなとも、わたくし考えたのですが、今、「うさんくさい」とつい書いてしまいましたが、なんか「イヤ」なんですよね。 この「イヤ」さは何だろうとあれこれ思い出していたら、ふっと思い出したのが三島由紀夫の遺作文芸評論『小説とは何か』にあった「舞良戸」の話であります。 三島の説く「舞良戸」のエピソードは、それはそれで面白いのですが、三島がテーマとして述べたのは「言語表現による最終完結性」でありまして、要は、小説はどんな世界を作ってもいいがその言語は厳密であると同時に、全責任を作者が負わねばならないというものでした。 さて、本書を読んで、作品の語り手について私が「イヤ」な感じを持ったのは、語り手のある種のとぼけたような語りぶりに、介護現場に対する無理解を押しつけて、本来作者が追うべき表現に対する責任を逃れようとしているように感じたということであります。 それは、三島的に言えば、文学表現に対する作者の不誠実さではないか、と。 と、まぁ、そんなことがちょっと気になりました。 ただ、読んでいるときは、そのシャープな書きぶりに(部分的にはちょっと上滑りに書き損なっている所もあるようにも思いながら)、達者な文体だと思いました。読んでいて、わりと心地よかったです。 しかし私は、この筆者の作品をこの一冊しか読んでいないからよくわかりませんが、また、そのように感じる私の「文学」観がきっと古くさいのだろうとも思いますが、例えば「芥川の苦悩」とか「太宰の苦悩」なんて言い方と、いわゆる現代作家の立ち位置というものは、もはや全く別物で、……いえ、そんなことをぐずぐず考える方が間違っているのだろうとは思ってますが……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.08.14
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『通天閣』西加奈子(ちくま文庫) 初めて読む作家です。 直木賞の受賞作家で、それなりの売れっ子作家の方じゃないかなというくらいの先入観を持っていました。 でも、本ブログからおわかりのように、わたくしはどちらかと言えば、芥川賞系小説の読者であることが多いのであります。 でも、そのことについて改めて考えるのは、もうあまりしないことにしています。 それは、考えるのにほぼ意味がないことと、あえて考えたとき、芥川賞系作品の読者であることの「メリット」が、あまり見当たらないからでしょうかね。 ということで、この作家の小説もわたくし初めて読む小説であります。 さて、今上記に私は直木賞と芥川賞の違いなんて考えても何の意味もない、みたいなことを書きましたが、その舌の根も乾かないうちに、実は読み終えてこんなことを考えたんですね。 本書の文庫解説を津村記久子が書いています。 津村がなぜ書くかと考えると、それは言うまでもなく「大阪系」だからですね。 西加奈子も津村記久子も大阪人であります。そして私が本書を手に取ったのもやはり、大阪とまで限定せず、関西の文学の魅力を読むことができるかと思ったからであります。 そう思って読んだんですね。で、それなりに面白かったです。 そして、津村記久子の解説まで読んで、私はふと津村の小説と西の小説はどこが違うだろうかと思ったんですね。ご存じのように、津村は芥川賞受賞作家であります。 ……んんーと考えて、何となく感じたのは、津村の作品のほうが、作者である津村自身の姿めいたものが、西作品よりも少し前面に出ているんじゃないか、ということでありました。 このことをもって文学性をうんぬん、というつもりはありませんが、津村作品が芥川賞っぽいとすれば、やはりここなんじゃないか、と考えるものであります。 もう少し具体的に考えてみます。二つ、私は思いました。 ひとつ目は、描かれる関西人的性格の造形です。 本書は、読んでいて、とてもデビューしてまだ数年とは思えないような達者な文章であります。ただ、いかにも関西的クドさを持つ人物がしきりと描かれ、「関西ネイティブ」の私としては、これは、全国的に関西的性格として共通理解されている「類型」をなぞっているんじゃないかという気が、少ししました。 二つ目は、これは、その時代的限界なのでしょうか、今らしい言い方で言うと「性同一性障害」の方に対する「揶揄」ですかねー。 即物的にいえば、漫才の「ボケ」役としての「オカマ」であります。 ユーモラスな描写の中心に、関西弁自体の描写と並んで、ほとんどずっとこれらの人物が描かれています。 「時代的限界」と書きましたが、昔の作品でもそんな扱いをしない作品は少なからずあります。しかしかつてのエンタメ系の作品においては、あらゆるメディアを問わず「ボケ」役割であったように思います。 (ただ、関西人的性格の一つに「タクシーの列のジジイ」「サウナのジジイ」という人物が出てきますが、この造形はなかなかリアリティがありました。) と、何か批判的なことに触れたようですが、ただ本書には、いわばいかにも直木賞的なストーリーの面白さと迫力があります。 これこそが、おそらくは芥川賞系の作品にほとんど感じられないものです。 冒頭に私は、芥川賞系小説の読者であることのメリットが見当たらないと書きましたが、それは言い換えると、読んでいて単純に素直に面白がりながら読める芥川賞系の作品があまりないということであります。 これは、私が好きで勝手に読んでいるとはいえ、結構つらい……。 ただ、これについても、最後にもう一言。 いろんなエピソードを継いで楽しく読めていきながら、最後のクライマックスの展開、あれが、少し、弱くないですかね。 ……うーん、読者の我がままなのかもしれませんが、少しパワー不足を感じるとともに、いえ、なかなか、縦横無尽に天翔ける想像力というのは、実際得難いものであるなあと、これも読者の「特権」、申し訳ないながら、「ひとごと」のように思ったりしたのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.08.01
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