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『爪と目』藤野可織(新潮文庫) 2013年の芥川賞受賞作です。 ……ふむ。 ……あ、……えー。 ……えー、まー、困っとるわけですね。 何に困っているのかというと、まー、この作品のどこがよくて芥川賞なのかが、わたくしの現代文学的センスのなさで、さっぱりわからへんのですね。 いえ、こんな小説もあるんだろうなあ、というのはわかるんですね。 実はこの文庫本には3つの作品が収録されています。話がはやいんで下記にページ数も含めて一覧にしますね。 「爪と目」101ページ 「しょう子さんが忘れていること」24ページ 「ちびっこ広場」28ページ こんな感じの構成です。(ついでに触れておきますと、本文の活字が、普通の文庫本の活字よりふたまわりくらい大きいです。それは本書の最後にある解説文の活字と比べても大きいです。) この構成は、よーするによくある芥川賞受賞作の一冊本パターンですね。 受賞作だけでは少し足りないんで、それまでのやや習作めいた作品を一緒にして一冊にしちゃうと言う。(活字まで大きいのはちょっと、何というかー……。) で、上記のこんな小説もあるんだろうなあに戻りますが、この3作共がみんな同じような雰囲気なんですね。で、あ、そうか、この作者にとって小説とはこんな雰囲気のものなんだ、ということがなんとなく感じられて、そこはそれ、そもそも小説というものは何をどう書いてもいいものですから、ああ、こんな小説もあるんだなー、という部分については、私は一応納得するわけです。(ちょっとしつこくねじくれた説明ですかね。) でも、何をどう書いてもいい小説ではありますが、やはりそこには、一応の優劣というものがあるのではないかしらと。 そして、芥川賞に選ばれたくらいなんだから、「優」の部分がたくさんあるはずだと思いつつ、さて、読み終えて私は、「ねえ誰かこの作品のどこが芥川賞なのか教えてよ」状態になったと言うことでありますが、……こまりましたなー。 例えば私ごときでも、本小説の工夫についていくつかの指摘はできます。 それはまとめて一言で言えば「人称」の工夫ですね。 読みはじめてすぐに誰もが気づく「二人称小説」であります。 二人称小説と言えば、私の貧弱な文学的教養で思い浮かぶのは、今となってはかなり昔の作品、倉橋由美子の『暗い旅』であります。 多分高校生の頃に私は読んで、よくわからなかった小説でした。 あれが「あなた」で描かれた二人称小説だったんですね。(この二人称がフランス現代文学の影響の元に書かれているということも、少しして私は知りました。) でも今回の本書は、よく読んでいくと「二人称小説」じゃありませんね。しばらくすると「わたし」が出てきます。 この「わたし」が三歳の女の子という設定で、これはこれでまた別の工夫ではあるのですが、とにかく作品内に「わたし」も出てくる以上、厳密には二人称小説ではないんじゃないでしょうか。(「厳密な二人称小説」という書き方がふさわしいのかどうかよくわかりませんが、私のイメージで言えば、例えば漱石の『坊っちゃん』の「おれ」の部分に「あなた」が一貫して置き換えられているお話が「厳密な二人称小説」という感じなんですね。もっともそんな『坊っちゃん』って、笑ってしまいますがー。) というわけで、読み始めてしばらくして私は、これは二人称小説とは言いがたいかなとは思いつつ、ただ頻繁に「あなた」表記が出てくるので、二人称小説の、読んでいて少しくらっとくるような眩暈感は読み取れて、それはそれで結構面白かったです。 加えて、「わたし」の父、母、そして「あなた」の母親などが出てきて、よく似た表記がわざと混乱を導くかのように描かれ、さらに(これも筆者の表現上の工夫ですが)本来作品中の「わたし」が窺い知ることが不可能な場面や人物の内面描写が、これまた再三に出てきて、かなり「メタ小説」的に読者を混乱させてくれます。 このあたりの混乱感覚が、結構さっきの「くらっ」の続きで、目新しく面白くもありました。 ただねー、ただそれだけでは、なかなか一つの小説は引っ張りきれないでしょう。 以前からわたくし思っていましたが、芥川賞というのは、例えばプロ野球で言えばMVPの賞ではなくて、その年の新人王であるんじゃないか、と。 ピッチャーで言えば、新人が10勝くらいしたらもらえる賞かな、と。 じゃあ、芥川賞にとっての10勝とは何かというと、それはとにかく「新しいこと」ではないか、と。 上記に私は、本作について、いわば日本語の持つ人称の独特な用法を効果的に用いたことが面白かったとは書きましたが、しかし、申し訳ないながら、それだけでびっくりするほど「斬新」とまでは思えませんでした。 私は読書報告をするに当たって毀誉褒貶の「毀」と「貶」は基本的に書きたくないと思っています。今回の報告もそのつもりであります。 ただ、本当にわからないんで、いえ、本当にどなたか、本作のどこが新しく優れているのか、ぜひともお教えいただけたら、と思うものでありますが。……うーん。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.05.28
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『君は永遠にそいつらより若い』津村記久子(ちくま文庫) 2005年に太宰治賞を受賞した筆者のデビュー作だそうです。 ただ、その時のタイトルは『マンイーター』というそうで、ちょっと大概な感じのタイトルの気がしますが、そんなことないですかね。『人喰い』ですよね。 現在のタイトルは、筆者のほかの作品のタイトルと同じニュアンスのものですね。『この世にたやすい仕事はない』とか『まともな家の子供はいない』とかといった。 デビュー作というのは、いろんな言われ方をしますね。その作家のすべてが詰まっているとか、また逆に、若書き、とか。 結局、デビュー作で、少しだけでも話題にならなければ、次作の注文がこないからですかね。 そんな意味で、すべてが詰まっていても若書きでも、デビュー作には筆者の持っているものの中で誰かが注目してくれそうな「華やか」な部分が描かれるという気がします。つまり目立つからいろいろ述べられる、と。 一方で、デビュー作というのは、主人公と筆者がわりと重なっている気がします。 これも考えれば当たり前なのかもしれませんが、筆者とは、今までの自己の経験とその考察からまず作品を書こうとするからでしょうね。(特に、純文学系はそんな感じがします。「直木賞」系はその限りにないかもしれませんが。) というわけで、実は私はこの後の展開として、今記した3点について報告しようと思っているんですね。つまり、 1、「若書き」(かなっ) 2、自らの経験が元(っぽいよね) 3、筆者の資質が見て取れる(ような) と、いう方向性であります。 ということで、まず「1」から考えていけばいいのでしょうが、その前に「2」の自らの経験について、私は書かれている出来事の多くが筆者の実体験だなどと考えているわけではありません。そんなの当たり前なのかもしれませんが、逆に個々のエピソードについては、ほとんど作り話=虚構だろうと思っています。 ただ、そんなエピソードに出会う主人公の感じ方に、筆者と重なる部分が多くあるのじゃないかなと思っています。(本書には主人公の女性が好むたくさんの映画や洋楽の名前が挙がっていますが、こんなのはほぼ筆者の嗜好と重なるんじゃないでしょうか。) 例えば、主人公の女性が小学生の時に二人がかりの男子にひどく殴られたこととか、レズっけがあることとか、あまり実体験だとは思いません。(レズっけについては、私は全く知りません。ただ本書の解説を作家の松浦理恵子が書いていますね。) しかし筆者の内面には、二人がかりの男子に殴られるエピソードに感覚的にほぼ相似形の体験が、きっとあったような気がします。自らの経験が元とは、そういう意味です。 そして「1」の若書きというのも、結局そういうことだと思います。 それぞれのエピソードはしっかり書き込めていても(筆者のセンスのいい心理主義的な描写力)、それらが並んだのを読むと、どこかいびつに感じてしまいます。 個人的体験に何らかの形で基づいたエピソードは、それを並べるだけでは、読者にとっては、エピソード同士がぶつかり合って、説得力のある連続になりにくいんじゃないでしょうか。(それは、各エピソードが筆者自身のための描写にとどまっているということですかね。) そこで、大きくまとめる構成力に難がある、「若書き」なんじゃないかと。 さて、最後に残った本作から読み取れる筆者の資質ですが、まー、まだバリバリと現役で頑張っている作家について、資質云々を書くのは私ごときにはおこがましいのですが、少し考えたいのは冒頭でも触れました、本作の「改題」のことであります。 改題前の「マンイーター」とは、何のことなのでしょうか。 それは、作品中に4つ(あるいは5つ)描かれる暴力事件・流血事件の事でありましょう。典型的なのは、「イノギさん」の受けた、ほとんど超現実主義的なまでに理不尽な暴行犯罪被害でありましょう。それが人間の尊厳を喰らう、つまり「マンイーター」なのだと思います。 それに対して、改題後の『君は永遠にそいつらより若い』は、明らかに「マンイーター」に対抗する側の表現となっています。重心が置き換えられているんですね。 いえ改題前でも、作品の展開からも筆者の置いている重心の位置は明らかでありますが、改題することで、筆者はさらに旗幟鮮明な立場を取ったわけです。 その立場とは。 それは、やや面はゆい書き方をすれば、「正義」でありましょう。あるいは「モラル」。 私は近年、文学がモラルを表現しようとしないケースが多く描かれ、またそれを是とするような言説を読むことが増えたような気がして、個人的に戸惑いつつ不満足に思っていました。 しかしなるほど、今まで私が読んできた筆者のどの作品に照らし合わせても、筆者は「モラリスト」でありました。 近代日本文学の大文豪である夏目漱石が、同時に大モラリストである(少なくとも「モラル」が重要テーマの作品を多作した)ことを改めて挙げるまでもなく、決してモラルは現代文学においても賞味期限の切れたものではないことを、私は確信するものであります。 (だって、小説作品からモラルを除外して、いったいどのようにして読者にカタストロフィーの快感を味わわせることができるのでしょう。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.05.14
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