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28日のブログで知的障害のあるちーちゃんと出会ったときのことを書きました。それは、中学1年生の入学時のことです。出席番号順で並ぶと私が前、ちーちゃんが後ろで、入学式でいきなりちーちゃんの世話をすることになったのですが、私は余り「衝撃」や「違和感」を持つことなく、ちーちゃんのことを受け入れていました。それはなぜか、を書きます。私が生まれたのは、結構な都会でした。周辺に田畑がほとんどなく、国道が何本も通っていて交通量が多く、高速道路が開通するような地域で、大阪を代表するような大企業やその関連の企業がひしめくといった土地柄でした。そのときには全く知らなかったのですが、小学1年生の3学期に転校した驚くような田舎(大阪府下ですが)の学校では、いろいろなものを見て、経験をしました。まずは、特殊学級(当時は「特別学級」と呼ばれていた記憶があります)の存在です。だれも説明してくれないので、その意味を知ったのは、3年生になってからでした。私は父親の会社の社宅に住んでいたのですが、同じ社宅に住んでいる子が特殊学級に入ったのです。この子は、「勉強ができない」というレベルではあったと思いますが、知的障害だとは思いませんでした。一つ年下の女の子でしたが、一緒によく遊びました。私の言うことをきちんと理解していましたし、笑ったり、怒ったりといった反応も、運動能力も普通でした。でも、特殊学級に入ったのです。彼女の母親は、「勉強が遅れているから」と説明しましたが、そんな理由で特殊学級に入るというのは納得いきませんでした。私は毎日その子を特殊学級に迎えに行き、一緒に帰りました。彼女には、友達が一人もいなかったのです。普通学級にいたときも、友達ができなかったようです。そんな状態で特殊学級に入ったのですから、新たに友達ができるわけがないのです。(彼女は外見的に特異でした。髪が金髪だったのです。彼女のお母さんは、「栄養失調」と主張しましたが、栄養失調が原因で髪が金髪になるのか、子どもの私にはわかりませんでした。そのことが、彼女の周囲から同級生を遠ざけた可能性はあると思います。が、私には一向に気になりませんでした。髪の色が人間の何を決めるのかが確定できなかったからです。学校ではこわばった顔をしていましたが、私と一緒にいるときはにこやかで活発なかわいい女の子でした)私の同級生には、いろいろな子がいました。オノさんという女の子は、学校では一切しゃべりませんでした。オノさんの近所に住む友達に聞くと、「家ではしゃべっているよ」と言うのです。しかし、学校では、しゃべることはおろか、笑う(微笑む)ことすらしないのです。先生が、わざと笑わそうと冗談を言ったり、怒らせようとしたりするのですが、何の反応もありません。家で話ができるのに、学校では一言もしゃべらないということが、私には全く理解できませんでした。また、クゼくんは、反応が極めて鈍く、先生が話したことを理解するのにも人一倍時間がかかりました。笑うタイミングがずれるし、何で笑ったのかを理解しているかどうかも怪しい。多分、軽度の知的障害があったと思います。それから、ナガタくんは胸腺の病気で、身長が伸びません。3、4歳くらいの身長しかなかったように記憶しています。でも、言葉は達者で、グループの中心になりたがるわがままな面も持っていました。ナガタくんはともかく、オノさんやクゼくんは、普通学級に普通にいるには問題があったように思います。が、担任の先生(50代の凛とした女性の先生。厳しくて冷たい感じがしましたが、言うべきことはきちんと言ってくれました)が常に目をかけてフォローしていましたし、ほかのクラスメートにも「みんなと同じように接してほしい」「できるだけ、一緒に遊んでほしい」「近くの席の人は、注意してあげてほしい」と指導し、クラスメートはそれに従っていました。そうした経験があったから、ちーちゃんを最初に見たとき、驚きや衝撃が小さかったのかもしれません。“自分とは違ういろいろな人がいる”ということを体感していたせいで。子どもは残酷です。自分と違う形を持った人、違う表現をする人には容赦ない反応をします。しかしそれは、周囲の大人の指導や経験の中から学習をし、慣れたり、許容量を大きくしたりして順応するようになります。しかし、誤った指導や、周囲を受け入れないわがままを許したりする環境があると、いつまでも残酷な人間であり続けます。ちーちゃんは中学に入るまで、そんな人間に囲まれて生きてきたのかもしれないと思います。いまのように親が学校に意見を言ったり、周囲の児童に直接指導したりといったことができない時代でした。教師もろくに特殊学級やその学級にいる児童についての説明をせず、偏見に満ちた認識に威圧されるように学校の隅においやられていたのではないかと。だから、一部の男の子は、ちーちゃんと一緒にいる私に攻撃してきたのだと思います。私がそんな生徒に対して何ら危害を及ぼしていないし、攻撃される理由もなかった。しかし、「ちーちゃんと一緒にいるということ=同類=攻撃に値する者」と考えたのだと思います。知的障害者を攻撃することに、どんな爽快感があるのか、充足感があるのかは理解できませんが、“強者が弱者をいじめる”という許し難い差別の構図がそこにあったのは確かです。でもこうした現象は、徐々になくなっていきます。1学期の間は、ちーちゃんが頼るのは私だけでしたが、そのうちに周囲の女の子が世話をしてくれるようになりました。教室の移動や、予防接種など特別な行事があったときの誘導などは。ちーちゃんも次第に心を許せる相手を獲得し、表情も、感情表現も豊かになっていきました。自分の名前すら、満足に言うことができなかったちーちゃんに自己紹介の方法を教え、人の前で口を開くことができるようになったことや、私がつくった平仮名の練習帳で文字が少しずつ書けるようになったことで、ちーちゃんは“自分”を確認し始めたたのだと思います。それまで、まともな教育を受けることができなかったちーちゃんは、自分のことさえ理解する機会がなかったように思います。暑くなり始めたとき、「いのさん、くくって」ときれいな色のゴムを私に差し出しました。おしゃれに目覚めたのです。伸びてきた前髪をかわいく結わいてあげました。同時期に私は、「ちーちゃん、お母さんにこれを渡して」と、漢字練習帳の最後の頁に連絡事項を書いて、ちーちゃんにお願いしました。「お母さんへ。ちーちゃんにブラジャーを用意してあげてください」と書きました。ちーちゃんは体が大きく、胸の発達も早かったのです。体育の授業のときに気になっていたのはもちろん、夏服になると前ボタンが弾けそうになっていました。私は男の子の目が気になっていました。メモを渡してすぐ、おかあさんはブラジャーを用意してくれました。ちーちゃんはそれを窮屈そうにしていました。髪におしゃれをしたいのに、胸のことには関心がないというのは残念なことですが、何かの機会で理解してくれるときもくるだろうと思っていました。一つずつ新しいことを理解し、興味を持って瞳を輝かせるちーちゃんを見ていると、心が温かくなりました。そんな私の気持ちは、たくさんの同級生に伝播し、ちーちゃんを取り巻く環境は少しずつ変わっていきました。次回は、中学3年生のときのことから、18歳で再会するときまでを書きたいと思います。ちーちゃんのお母さんや姉妹のことも。
2008.12.30
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このブログで12月19日に書いた「知的障害者と犯罪の関係」に対して「自閉症」のお子さんを持つ方々がご訪問になり、ちょっとしたご要望もいただいたので、当該のブログで登場した「彼女」とのエピソードについて、少し書こうと思います。「彼女」とのエピソードは中学時代の3年間と、18歳になってからの再会という長期にわたるものなので、1回で書き切れるものではありません。何度かに分けて書こうと思います。★★★★★「彼女」は「ちーちゃん」と言います。だれかが教えてくれたのだと思います。中学に入学すると、出席番号順で私が1番、彼女が2番で、靴箱も座席も、朝礼などで並ぶときもいつも私が前、彼女が後ろ、という関係でした。入学式のときは、彼女は私の横の席にいました。視線が定まらないし、そわそわしているし、だれかの声がするとすぐに反応してそちらを見る、つまり、キョロキョロしてしまうので、私はすぐに彼女の状況が理解できました。理解ができた理由はよくわかりませんが、12年間の知識や経験から、理解できたのだと思います。私は名札を見て声をかけました。「○○さん(ちーちゃんの苗字)、前を向いて、私のような姿勢をしよう」ちーちゃんは、少し警戒したような目で私を見ましたが、肩に手をかけて姿勢を直してあげると、静かに前を向きました。入学式ですから、校長先生や来賓の挨拶などがあり、それがよくわからないちーちゃんには随分苦痛だったと思いますが、静かに前を向いていてくれました。式典が終わって教室に向かうとき、ちーちゃんの手を握って歩きました。ちーちゃんには、教室の場所がわからないはずだし、周囲の状況を怖がるのがわかっていたからです。ちーちゃんは、ようやくにこやかな笑顔を見せてくれました。その日から、事あるごとに「いのさん」(ちーちゃんが言う私の呼び名)と呼んで、私のそばを離れませんでした。特段、担任から何かを言われた記憶はありません。男性の年配者が担任だったせいもあるかもしれませんが、ちーちゃんのことを説明したり、「世話をしてやってくれ」といった言葉をかけられたことはありません。が、後ろから私の背中をつついて、「いのさん」と声をかけてくるちーちゃんの言いたいことを聞き、したいことをさせる方法を考えるのは、私の役目になっていました。我が中学は、3つの小学校の卒業生が集まってきていました。私はちーちゃんの出身小学校を卒業したわけではありませんでしたので、彼女の小学生時代のことは全くわかりませんでした。入学してから少しして、彼女と同じ小学校出身の女の子に聞くと、「ちーちゃんは特殊学級にいたので、私たちはよく知らない」という答えが返ってきました。私の小学校には特殊学級はなかったので(小学4年までいた学校にはあって、その意味は少しだけわかっていました)、参考にできる話はないと判断しました。ちーちゃんと一緒にいると、どうも見たことのない男の子からボールをぶつけられたり、スカートをめくられたりしましたが、意味がわからなかったので、知らぬ顔をしてやり過ごしていました。後でわかったことですが、ちーちゃんと同じ小学校出身の男の子らしく、特殊学級にいたちーちゃんをばかにしてなのか、差別してなのか、一緒にいる私を対象に意味のないことをしていたようです。私は鈍感な方なので、そんなことは余り気にしませんでした。ちーちゃんのような子を「差別する」という意味がわからなかったので、男の子たちの気持ちというか、下品で無意味な行動に理由を見出せなかったということです。説明が遅れました。ちーちゃんは知的障害児でした。それに伴って、言語にも障害がありました。自分の名前をかろうじて言えるくらいで、感情や状況の説明はほとんどできませんでした。「うん」「ううん」が主な言語ですから、こちらから言葉を用意しないと、自発的な発言はないという状態でした。しかし、体は大きく、発育もよく、力も強いので、ちーちゃんにとってはふざけただけでも、私には結構なダメージを受けることがありました。最初は我慢していましたが、気持ちが砕けてきて、彼女との接点が多く(大きく)なると、黙ってはいられなくなりました。「ちーちゃん、痛い! やめて」大きな声でたしなめても、ちーちゃんは私と遊んでいるつもりで更に力を強めて叩いたり押したりします。「ちーちゃん、やめてくれへんねんやったり、ちーちゃんとおんなじこと、するよ!」ちーちゃんと同じような力加減で同じようなことをすると、ちーちゃんが痛そうにします。「痛いやろ。人にこんなことしたらアカン!」ちーちゃんは少し寂しそうな顔をしました。そして、再び同じことをすることはありませんでした(実は、はしゃぎ過ぎたときなどは、たまに同じことをしました。その都度同じことを言いました。ちーちゃんは同じ表情をしました)。こんなとき、最初は「ゴメン」という言葉を言ってくれたことはありませんでした。でも、私が「謝って!」とか「いたたたた!!」などと大げさに言うと、次第に「ゴメンね」「痛かった?」と気遣ってくれるようになりました。そんなコミュニケーションができるようになったのは、ちーちゃんと出会って3ヵ月くらいの間でしょうか。1学期の間は席順も変わらないので、いつも一緒にいました。私は課外クラブに所属していましたから、部員の友達もいたし、同じ小学校出身者の友達もたくさんいたのですが、いつもちーちゃんと一緒に皆と集っていました。私の友達は、ちーちゃんのことをごく自然に受け入れていました。それは、私とちーちゃんの関係が自然だったからだと思います。屈託なく私について歩くちーちゃんのことを、皆が「かわいい女の子」と思ったからだと。体は大きかったけれど、小さな少女のようなかわいさを持った女の子でしたから。違和感を持っていたのは、同じ小学校出身の子たちだと思います。ちーちゃんの存在を知っていながら、ちーちゃんの笑顔を見たり、声を聞いたりしたことがない者がほとんどだったからです。「特殊学級」を変な目で見る癖のついている子たちが、ちーちゃんが楽しそうにしていることを受け入れることができなかったのだと思います。その下地として、親や担任の言動があったのではないかと思います。ちーちゃんを、一般の児童と区別するような言動を発した大人の存在が。中学生になっても、どの教師もちーちゃんのことを説明しませんでした。説明する言葉を持っていなかったのだと思います。「知的障害」などという言葉は使わなかった時代です。「知恵遅れ」とか、「精神薄弱」という、差別用語的な言葉を使わざるを得なかったのを嫌ったのだと思います。しかし、それは間違いです。ちーちゃんが、ほかの生徒と同じような学校生活を送る方法をきちんと考え、導く必要があった。教育者には。しかし、それは、ちーちゃんが卒業するまで一度もなされませんでした。★★★★★今回は、ちーちゃんのことと、ちーちゃんと私の出会いについて書きました。次回は、私がちーちゃんを自然に受け入れることができた理由について書きます。実は、子どもが社会生活を営む上において、そこのところが最も重要なことだと思います。
2008.12.28
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ゲンダイネットが「大阪・朝日放送の高給」と題した面白い記事を配信した。~~~~~~~~~~以下~~~~~~~~~~テレビ局は年収が高いとわかってはいるが、これほどまでとは……。大阪のテレビ局・朝日放送のことだ。先ごろ、転職サイト「転職のモノサシ」が上場企業の平均年収ランキングを発表し、朝日放送が1556万7000円で全業種のトップにランクインした。08年3月期の連結決算の経常利益は前期より3億6200万円減の36億6600万円だったものの、今期の中間決算は赤字になった。それなのに、在京キー局であるTBS(平均1549万9000円)、フジテレビ(1534万3000円)、日本テレビ(1405万円)、テレビ朝日(1322万円)よりも、テレ朝系列の在阪キー局の朝日放送が上回っているのだからビックリだ。いったい、どうしてなのか。「そもそも、在阪キー局は在京キー局並みに給料が高い。上場しているのが朝日放送だけだから数字が目立っていますが、関西テレビ、毎日放送、読売テレビも高給です。大阪は自前で番組を作らずに、在京キー局が制作した番組を流すケースが多いから制作費を抑えられる。広告量も在京キー局と遜色(そんしょく)ないし、タレントのギャラも東京に比べれば安いですからね。その分を社員の給料に回せるのです。また、大阪のテレビ局は労使関係がうまくいっているから、福利厚生も手厚い。ただし、給料がいいのは正社員だけで、局で働いている契約社員やADは薄給です」(マスコミ関係者)報道番組などで「派遣切り」だ「格差社会」だと大騒ぎしているのがウソっぽい気がしてくる。(日刊ゲンダイ2008年12月24日掲載)~~~~~~~~~~一部引用~~~~~~~~~~「制作費を抑えられる」というのは少し違う。制作会社に回す金をギリギリに切り詰めているのだ。もちろん、社員の報酬を確保するためだ。おかげで、制作会社の社員の給与はひどいものだ。局に詰めて、局員と同じスペースで日がな仕事をしている制作会社社員が300万~400万円という薄給にあえいえでいる。局員の1/3、1/4というひどい状況だ。局員の報酬がもっと低ければ制作費に回せるわけで、制作費を“抑えている”わけではない。まずは「高給ありき」の体制を続けてきたのだ。「労使関係がうまくいっている」というのも違う。「労働組合が強い」のだ。これは、新聞社や系列広告代理店も同じ。春闘のころになると、社内の至るところに労使交渉のスローガンを書いた紙が張り出されていて、気分が悪くなる(少し前の話。いまは知らない)。「福利厚生が手厚い」というのは事実。多くの局に企業年金があるし、OBは福利厚生施設を生涯安価に使うことができたりする。私の知り合い(某局報道部)は、50歳で課長職だったとき2000万円以上もらっていた。仕事は、部員のシフト管理と取材体制のチェックという別段特殊能力や体力の要る仕事ではなかった。しかも、群がってくる制作会社に食事やゴルフを無心し、小遣いを使う機会など皆無といっていいほど遊んでいた。バックマージンもあったようだ。同じことを日本放送協会の人間がやるとえらいことになるが、一般の放送局では大手を振って新地を闊歩できる。「ゲンダイネット」が言っているように、こういう人種が「格差社会」とか、「弱者切り捨て」とか、「不況にあえぐ一般市民」などと言っても白々しく聞こえる。しかし、マスメディアが好き勝手できるのはあとわずかだ。メディアの多様化やテレビ離れ、新聞離れに加え、不景気による広告収入の激減は、局の存続も危うくしている。事実、在阪局の動向も怪しくなっている。テレビ、ラジオ、新聞……、このまま社員の高給を確保しようとすれば、早晩潰れる企業が出るだろう。放送局も新聞社もまさに未曾有の時代を迎えたと言っていいだろう。しかし、役員報酬をカットしたというフジテレビ以外、局員や役員の報酬カットを表明した企業はないように思う(知らないだけかもしれないが)。勘違い集団なのだ。「権利」ばかりを主張する体質の延長線上にあるからかもしれないが、時代の変遷を肌で感じることができないくせに、社会の中心にいるような妄想の中で情報を発信するなど、ナンセンスなのだ。だから、新聞社は取材力が落ち、テレビや雑誌の記事を取り上げたり、横並びの論評しかしないし、テレビ局はバカな番組ばかりをつくってタレ流している。ラジオは存在意義すら疑わしくなっている。マスメディアの存在意義をそれに携わる者も情報を享受する者も考え直す時期に来ているのかもしれない。政治を監視したり、情報を流布して犯罪や伝染病の蔓延を防止したり、社会実態を知るせることで市民が生活レベルや意欲を向上させたりすることが可能であるという有用性があるマスメディアだが、いまのマスメディアにそれを望むのは難しいように思う。どちらかというと、「偏向報道」や「情報操作」、スポンサーに関する情報の「自主規制」といった問題点の方が目立ってきているように思う。マスメディアの実態を知ると、一般市民皆がうそ寒さを感じるはずだ。発信者におけるメディア・リテラシーの欠如が決定的な問題だが、受信者がこれを身につければ、マスメディアが持つ多くの問題を指摘し、是正する方向に向かわせることができるはずだ。とはいっても、ここまでくれば、もう遅いのかもしれないが。
2008.12.27
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「波乱万丈」という言葉がよく使われるが、人の人生を一言で語れるはずがない。飯島愛という女性の人生もまたしかりだと思う。が、テレビ局の情報系番組は「年表」なるものをつくって彼女がたどった軌跡を「事象」でとらえようとする。(存在価値がよくわからない者も多いが)番組コメンテーターも、「交友関係が広く、相談相手もたくさんいただろうに…」「自殺なんて考える性格じゃない」「余り語らない性格だけれど、それほどの悩みがあったとは…」「気遣いができる人だった。自殺なら、遺書がないのはおかしい」といった、一元的な見方で語る。人間の人生は、思考は、心は、そんな単純なものではない。彼女の根本にある「死」の予兆は、「自分を愛せない」ということだと思う。想像ではあるが、彼女が若くしてAV界に飛び込んだり、裏社会の男性と時間を共にしたり、体と金を同等に置いたりしたことは、すべて自分を愛することができなかったこと、そして、そうした自分を汚して捨ててしまいたいという気持ちのあらわれではないかと考える。原因は、親との確執だ。厳格な親は、子との間に距離を取る。当たり前のことだ。その距離を微妙に保ちながら子の成長を見守るからこそ、子はまともに成長する。しかし、子と親の感情(コミュニケーション)のバランスが取れていないとき、子は孤独になる。親の庇護の元に生かしてもらっていることを確認できず、自分だけで生きている気になってしまう。ここに“貧しさ”があればそうはならないのだが、物質的な抑圧がなければ、精神的なものだけがクローズアップされ、「自分は親に愛されていない」ということになる。つまり、食うに困る状況があれば、「愛」だの「権利」だの「義務」だのと言っていられない。「親が食わしてくれているから生きていける」という認識を持つ機会があれば、「生きているのは親のおかげ」という精神が根底にでき、それ以上の高等な意識は芽生えにくい、ということだ。ここの部分は、愛さんと違うと思うが、親に愛されていないという間違った(一人よがりの)認識を持っている点は、自分と共通しているように思う。「親」という、生命の根源である存在に愛されていない、という事実は、「自分を愛する」方法を知らずに育つことを意味する。愛さんは、「愛されたい」と願いながら、自分を愛することも、自分を愛してくれる人の存在も認識できないまま生きてきた人だと思う。本当は、身の回りにたくさんの「愛してくれている人」がいながら。そして、自分が「愛する」人がいながら。病気を我慢したり、やり過ごしたり、ごまかしたりする行為、食事をろくに摂らない行為、体がつらいのに仕事をし続ける行為、悩みながら、円形脱毛症になるくらい思い詰めながら、そのことを解消するすべを持たなかった現実、女としての悩み、36歳の人間としての、親の子としての、社会人としての願望、慟哭、悲哀、絶念……。病死であれ、自殺であれ、彼女が抱えていた悩みの多くは、「妄想」でしかなかったのだと思う。彼女が心の中に抱えてしまった、自分に対する絶望や、親に対する執着や、周囲に対する疑念や、未来に対する失望が、彼女の心を塞いでしまったのだと。現実には、彼女が思っていたより明るくて広い未来があったはずなのに。ただ、若くして亡くなってしまった彼女が救われるのは、彼女が認識しなくても、多くのファンや関係者がいてくれて、彼女が亡くなった後も、彼女のことを考え、涙を流してくれる人々が存在しているということだと思う。一般人には得られない命の至福。それにしても、彼女の体を行政解剖という形で切り刻まなければならない現実や、そうされても何も言えない「物体」になってしまった彼女の悲哀は、惻然の極みである。一人暮らしをしている自分にとって彼女の死は、さまざまな意味で自分の生のあり方、死のあり方を考えさせられた。願わくは、彼女が望むことはない、無意味な誹謗中傷(一部のブログへの攻撃があるような…)はやめて、静かに彼女の死を悼みたい。だれも、彼女の死を喜んでいる者はいないのだから。それは、だれよりも、彼女の死を悲しむ人がよく知っているのだから。 合掌
2008.12.25
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きょうはクリスマスイブでした(まだ過去形ではない)。が、が、が、……予定なし。通常どおり仕事をして、ウォーキングをして、食事をして…、今夜も終わりそうです。その間、元同居人と兄から電話があったのみ。気のきいた会話もなく、甘い言葉もなく、幸せなシチュエーションもなく。おいしいオリーブオイルをいただいたので、それを多用して(フランスパンにつけたり、チーズにかけたり、肉を焼いたり、煮込み料理に使ったり)至福の味わいを堪能し、きょうは酒抜きの日なのに、赤ワインをしこたまいただきました。明日も予定なし。……。。。このことはわかっていたので、きのう、ちょっとした食事会をしました。一人暮らしになってから、食生活が驚くほどわびしくなった元同居人に好物のブルスケッタと鶏のトマト煮込みをつくって、スパークリングワインとともに食しました。左端の瓶がおいしいオリーブオイルこれがブランチ。BGMはENYA。夜は、近くの人気の焼き肉店に行きたいと言うので、開店前に電話を入れ、ようやくのことで20時に予約が取れました。予約が取れなかったときのことを考えて、「鶏団子の鍋」の用意をしていましたが、これは不要に。今週中に食べることにします。お客でごった返す店内は、カップルや家族連れ、男同士の宴会まで、さまざまな人々が肉を楽しんでいました。我々もホルモンばっかりの色気のない焼き肉を思う存分平らげ、おまけに「眞露(ゴールド)」を2本もいただき、ベロベロになりました。ケーキもローソクもジングルベルもツリーもないクリスマスイヴイヴの夜でした。が、その前に、幸せな出来事があったので(きのうのブログのとおり)、満足して眠りにつきました。……きのうは満足しましたが、きょうは……寂しい!!!鶏のトマト煮をつくったときのソースが残っていたので、牛肉の煮込みをつくり、ご飯にかけて食べました。明日は、冷凍してあるハチノスを煮込み、オーブンで焼いて「トリッパのグラタン」にしよう。おいしいフランスパンを買ってきて、赤ワインと……いかんっ!3日連続の飲酒になってしまう!が、クリスマスの夜なのに……。だれか、素敵な電話をしてきてくれないかな。しばし、夢の中に誘(いざな)ってくれるような。……無理。無理。無理。自分からかければよいようなものだけれど…。相手がいない。こうして、2008年のクリスマスイブの夜は幕を閉じるのでした。 涙
2008.12.24
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どうしても年内に会いたい人がいました。言いたいことがたくさんあったのに、言う手段がなくて、多分その人に誤解されているだろうことがあると想像できたからです。でも、言う手段を探すことで新たな誤解を招きそうで、動くに動けなかったのです。今朝、その人が訪ねてきてくれました。業務上の要件でしたが、その人が訪ねてくれることは、かなり難しい確率でした。ところが、私は昨夜から、「きっと、彼が来てくれる」と思って疑っていませんでした。根拠はありません。でも、そう思ったのです。11時半過ぎにインターホンが鳴りました。モニターに映ったのは、紛れもない彼の姿でした。オートロックを解錠しながら、「何て言おう」と考えました。しかし、何を言っても、私の思いをわずかな時間で理解してもらえると思えませんでした。そうこうしているうちに、彼が我が部屋の階までやってきました。「こんにちは」と、いつになく明るい声で話しかけてくれる彼に驚くと同時に言葉を失った私の口は、ようやくのことで「今年は、いろいろごめんなさい」と詫びを言っていました。詫びを言うべきことが明確にあったわけではないのです。もし、相手がいやだと思うことがあったとすれば、それを詫びなければ、次の話にはいけないと思ったからです。「いえ、そんなことは……」彼は笑顔で答えながら、私の目をまぶしそうに見ました。その目には、非難をしたり、攻撃をしたりするような毒や刺々しさはありませんでした。それどころか、初めて見るような、とても優しい瞳でした。そのことは、私にこの上ない安心感をもたらしながら、まさに意外でもあるという複雑な状況を生みました。そのとき、次の言葉が言えたら、少しは気持ちが晴れたかもしれませんが、もう言うべき言葉がないことに気づきました。共通の言語がないのです。「“あのとき”はこうだったのよ」とか「“あの言葉の意味”は、こうであって、そうではないの」といった、共通する事象を取り上げて話すことができなかった。時間が短か過ぎたということもあるのですが、相手と自分が同じ感覚だとは思えなかったからです。「あのとき」「あの言葉」が理解できる基準を互いが共有していない。言うべきことを少しも言えないまま、私はドアを締めました。というわけで、せっかく根拠のない予想が実現したのに、何もできないまま、あっと言う間に再会の時間は終わりました。でも、会えなかったよりましです。話せなかったよりうれしい。何より、優しく微笑んでくれた彼の笑顔に、心が喜びました。クリスマスプレゼントです。明日も明後日も、何の予定もありません。なので、きょうはクリスマスイヴイヴのプレゼントだと思って、胸にしまっておきます。……実は、その後、買い物に出かけたときと、来客を迎えにいったとき、二度も彼に遭いました。驚くほどの偶然です。その都度、彼は私を見て挨拶してくれました。今年、よくないことがたくさん起きました。自分が招いたことではありますが、何度も心が折れそうになりました。でも、きょうのことで、少し心が安らぎました。ありがとう、サンタさん。何モノよりも、うれしくて幸せなプレゼントでした。
2008.12.23
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昨年、ブログで毒を吐いたのを思い出すと、1年って早いなぁと改めて思う。今年も、若手漫才日本一を競う「M-1グランプリ」が開催され、勝者が決定した。大阪のbaceよしもとを離れて今年東京に進出した「NON STYLE」だ。大阪NSC22期生で、同期に、今回一緒に戦ったダイアンやキングコングなどがいる。大阪では、情報番組のリポーターなどでレギュラー番組も持っていたし、コンビ結成9年目ということもあり、若手の中でおなじみの顔だった。が、その漫才の実力は意外と知られていない。大阪でもそうだから、東京なら存在自体を知らない人も多いかもしれない。受賞した賞も多い。2004年8月 第2回MBS新世代漫才アワード準優勝2005年1月 第26回ABCお笑い新人グランプリ審査員特別賞2005年8月 第3回MBS新世代漫才アワード準優勝2006年4月 第41回上方漫才大賞優秀新人賞2006年7月 第4回MBS新世代漫才アワード優勝2006年10月 第21回NHK新人演芸大賞演芸部門大賞2006年12月 第35回上方お笑い大賞最優秀新人賞2007年3月 NHK「爆笑オンエアバトル」9代目チャンピオンそうそうたるものだが、二人とも容姿が地味で、オーソドックな漫才スタイルを取っているので、奇抜さや派手さはない。しかし、細身で少々気持ち悪さのある石田くんはアドリブのきくボケだし、ツッコミの井上くんは、しっかりした声と根拠のない自信に裏打ちされた堂々とした態度がいい。「ブラックマヨネーズ」が勝った6回大会までの勝者は「順当」だと思えた。拮抗する実力を持つコンビが幾組かいて、その中で、特出したネタを披露し、二人の勢いやオーラを感じさせたコンビがグランプリを掌中におさめていた。前回のことは特に論評しないが、今回は、そうした流れを少し感じさせた。キングコングが敗退したのは、「勢い」と「オーラ」がなかったからで、NON STYLEとの実力差はさほどないと思えた。が、その場にいる人の心をグッとつかむのは、「勢い」と「オーラ」で、特に「M-1」に関しては重要な要素だと思う。ラサール石井さんは「自分としては、オードリーがトップだった」とブログで語っておられるが、オードリーとNON STYLEの違いは、「コメディ」と「漫才」の違いだと感じられた。オードリーの笑いは、ツッコミが言った言葉から遡ってボケの言葉やゼスチャーの意味を理解していくという作業が必要だった。対してNON STYLEは、ボケをボケとして理解できるので、ツッコミが鮮烈な言葉で突っ込んだとき、二度目の笑いを提供してくれる。これが大阪の笑いなのだ。つまり、ボケの台詞が究極まで洗練され、端的で的を射ている上、演技力が優れているので、即座に理解できる。ツッコミはボケのセリフの世界をさらに広げ、最初に笑ったときと違った角度で理解させてくれ、再度笑わせてくれる。テンポやネタの選び方、二人の絡み方に時代を映すものがあるが、ベースとして大阪の漫才はこのスタイルを継承していると思う。きっちりとしたこの基本スタイルがあるから安定感があるし、見る者はネタに対して無条件に感情移入できる。去年抱いたモヤモヤが解消されたので、私としてはいい結果だと思う。ちなみに、番組視聴率は、過去最高だったそうだ。平均視聴率は関東地区が23.7%、関西地区が35.0%。瞬間最高は関東が30.3%、関西が43.1%(ビデオリサーチ調べ)。ここ数年(10年近いか)、お笑いブームが続いている。不景気とお笑いブームに相関性があるようだが、景気がよくなってお笑いブームが去ったとき、どれだけのお笑い芸人が残っているかは定かではない。M-1勝者とて、うかうかしていられないだろう。ま、それはそれとして、閉塞感を抱えた毎日の中で、無条件に笑えるお笑いは、多かれ少なかれ世の中を明るくしてくれる。有能な若手芸人たちには、一過性の喝采や賞賛に奢ることなく、また、テレビ局の視聴率至上主義やショウビジネスの渦に翻弄されないよう真のお笑い道を極めてもらいたい。
2008.12.22
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千葉県で幼女が殺害・遺棄された事件の裁判が進んでいる。が、裁判に進むまでにしなけらばならない手続きがあったように思えて仕方ない。なぜなら、容疑者が知的障害者(医学的には「精神発達遅滞者」)だからだ。(本ブログ中で「精神障害者と犯罪」について何度か書いているが、今回の容疑者はこれとは全く違うカテゴリー)知的障害者と言われる人(諸説あるが、一般にIQ70未満と規定される)は、そもそも「犯罪」という概念があいまいだ。「おなかがすいたから食べた」「欲しいから手に取った」「興味があるから、持って帰った」など自らの感情をストレートに表現したときに「窃盗」などの犯罪行為と認定され、逮捕、起訴、裁判という法的措置を受けることになるが、そもそも、「犯罪」の認識がない人間に法の裁きを適用するというのが正当なことなのか。「悪いこと」「法律」「犯罪」「罰」などというのは、知的レベルが一定以上ないと理解できないものだ。いま、刑務所に収監されている受刑者の多くが知的障害者だと訴える元議員がいる。調べてみると、犯罪を犯す者の20%が知的障害者だという数字がある。罪状は、「窃盗」が圧倒的で、「放火」「住居侵入」「暴行」というのが多いようだ。一般社会における知的障害者の割合が1~2%程度だそうだから、20%というのは異常に高い比率だということがわかる。その理由は、★知的障害者の何気ない行為が「犯罪」と認定されやすい★逮捕された知的障害者が知的障害者として扱われない★起訴の根拠や罪状が健常者と同等★知的障害者は事情聴取に適応できない。警察や検察の誘導がある★裁判において、知的障害者を理解する土壌がないなど、知的障害者を一般健常者と全く同じく扱い、同じ手続きで取り調べや裁判を続けていくことの不条理を許している限り、犯罪者における知的障害者の比率の高さを改善することはできないだろう。また、知的障害者に対する教育が不十分であることも大きな要因だ。中学1年生のとき、こんなことがあった。私の通っていた中学は、3つの小学校の卒業生が集まってきていた。出席簿の順番の関係で、私の後ろにいる子が知的障害者だったのだが、その子が私を頼りにするので、いつも世話を焼く形になった。朝礼での整列や教室の移動に始まり、体操着や水着への着替え、おめかしに至るまでどうしたらいいかを聞いてくるので、事細かに教えなければならなかった。最も驚いたのは、中学生になるのに、自分の名前を書けなかったことだ。平仮名さえも。同じ小学校出身者に聞いてみると、「(当該の彼女は)特殊学級にいたので、どんな授業をしていたのか私は知らない」という答えだった。名前も書けない子が、「連立方程式」だの「うじでんの法則」だのと言われてもさっぱりわかるわけがないし、ただ席に座って時間を無駄に過ごすだけの学校生活は、苦痛以外の何物でもない。で、私は、点線で平仮名を書き、なぞる順番を数字で示す練習帳をつくった。彼女は毎日6時間にわたって一生懸命それをなぞり、1ヵ月もしない間に書けるようになった。次は漢字。5文字ある彼女の姓名を人文字ずつクリアし、1年生の間に自分の名前や数字、アルファベットなど、多くの文字が書けるようになった。そこで思った。「小学校で何を教えてきたのだ」と。中学1年生の私がつくった練習帳など、教育的な根拠や効果などわからない子どもだましのものだったはずだ。けれど、6年間小学校に通った彼女ができていなかったことをどんどんクリアしていけたのだ。つまり、知的障害者に「何かを教えよう」とする姿勢が学校になかったということだと思う。「無駄」だと思ったのか、「無理」だと思ったのかは知らない。が、それで6年間を棒に振った彼女の人生について考える教育者はいなかったということは確かだ。2年になると、彼女は別のクラスになった。最初、彼女は寂しそうにしていた。声をかけるとうれしそうだった。休憩時間になると私のクラスに来ては、楽しそうに話していた。新しいクラスでも楽しくやっているのだと思っていた(言葉は片言。私には理解できたが、クラスメイトは理解してくれなかったのかもしれない)。が、3年になり、再び同じクラスになったときに愕然とした。1年のときから、何も変わっていなかったのだ。書ける文字も、できる動作も1年のときのままだった。私はさらに高度な練習帳をつくった。そんな私を見て、席が近くなった同級生が私と同じようなことをしてくれるようになった。彼女は新しい「私」に目を輝かせた。彼女の近くにいる「私」が増えたおかげで、彼女は修学旅行に行くことができた。彼女の親が「修学旅行には行かせない」と担任に言ったことを知った我々は「自分たちが責任を持って面倒をみる」と進言し、修学旅行は実現した。親は、「おねしょ」を心配したのだ。「夜中に一度起こさなければならない」と。「そんなことは、一緒の部屋の人間がする」と約束した。1年のときに出会った彼女は粗暴だった。人のことを考えたり、思いやったりする能力は皆無だった。頼りにしているはずの私に牙をむくこともたびたびだった。体が大きく、力が強い彼女の攻撃には手を焼いた。が、一つ一つ「いけないこと」の説明をし、わからせていった。力仕事だった。3年のとき、文化祭の演劇で使った大道具を燃やしたとき、みんなと一緒に涙を流していた。私は、人間はこうやって成長するのだ、と実感した。自分に置き換えてみると、小学低学年くらいまでに獲得した能力のように思う。自分では気づかずに。それを目の当たりにして、私は、そして同級生は、人間が成長することの意味を実感できた。彼女のおかげで。ただし、「学校」という狭い世界で、犯罪を犯す危険にさらされることなく楽しく過ごせたからこそ実現できたことであることも確かだ。人間社会のルールやモラルを認識するチャンスを与えられなかった知的障害者は犯罪と隣り合わせのところで生きていかなければならい。しかし、きちんとした「教育」があれば、犯罪を「悪いこと」と認識することもできただろうし、そうした行為を回避する知恵もついたはずだ。社会が、知的障害者にきちんとした教育をしているとは思えない。そうした怠慢(と言っていいかどうかわからないが、子どもの私レベルでできたことさえ教育者や教育機関ができなかった)が、防げる犯罪を生んでいると言えるのかもしれない。亡くなった幼女はかわいそうだ。が、裁判を受けている知的障害者も不幸だと感じざるを得ない。
2008.12.19
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「派遣」にまつわる問題が全国各地でゾロゾロ出てきている。自動車メーカーを中心に、製造業の「派遣社員切り」が加速化しているからだ。「派遣法」の2009年問題を前に、この法律の不備や改善点をあぶり出し、法改正をする機会さえも失った格好だ。つまり、派遣先企業が困惑する事態を招くと言われてきた2009年問題を、今年末で「契約解除」することでクリアすることができるわけだ。派遣先企業の“いいとこ取り”を許してしまったということになる。この問題、首を切られた非正規雇用者に焦点が当てられているが、実は、「派遣会社」もひどい目に遭っていることが予想される。派遣登録している人間が職を失えば、ピンハネできなくなり、企業としての存続が難しくなる。全国で15000あると言われる派遣会社の多くは淘汰されるだろう。そのとき、考えなければならないのは、そうした企業の多くは、存在する意味がなかったということだ。派遣法が施行されて以後、雨後の筍のように有象無象が会社(の体をなさないものも多い)を設立し、「派遣」の名の下に人の上前をはねるだけの理不尽極まりない行為を堂々と行ってきたが、派遣先企業から突然の首切りを宣告されても、派遣会社は派遣社員に何ら保険を用意したり、対策を講じることができなかった。そんなことで、存在価値があると言えるのだろうか。本来は、法規制や許認可制などの縛りが必要だったということを浮き彫りにしたということだろう。縛りがあれば、過剰なピンハネや、登録者の足元を見るような威圧的な行為はできなかったはずで、これらの企業が派遣登録者から搾取した賃金は、不当なものと言っても間違いない。また、「派遣先」の問題も考えなければならない。今回問題になっているのは、日本を代表するようなメーカーばかりだ。こうした企業が「派遣」を使う理由は、「教育」を省き、正規雇用で発生する法規制を逃れるためで、つまりは、「手っ取り早く人を雇う」ことと「人に金をかけない」というひどい企業姿勢と、「利益の確保」と「収支の重視」しか考えない「利益至上主義」を反映したものだ。以前なら、こういうひどい企業の株価は下がったものだが、株主(というか株式市場全体ということ)の質が下がったので、数字上さえ整っていれば、株価が安定するという、モラルも情もポリシーもあったものではない、異常な株式市場の存在を許してしまっている。前回も書いたが、いま、時代、時代でつくってきた法律の劣化や錆び付きが見えてきている。そろそろ、現在の実情に合った法改正が必要ではないだろうか。今後、このまま継続して失業者が増えれば、「失業保険」「生活保護」といった、国庫や自治体の負担金が急増する。年金や医療費に加え、税金で負担すべき費用は膨らみ続ける。決して暮らしが楽ではない納税者の血税が湯水のように使われることになる。このままでいいわけがない。「政局」などと寝言を言っている場合ではない。「天下り先」の確保に躍起になっている役人が、この国を憂えているわけがない。政治家は、天下り先に流れ続けている金をせきとめ、わずかな金を効果的に使って、国の窮状を一刻も早く救ってほしい。……いま存在している政治家に、そんなことを望んでもせんないことなのか。あぁ、閉塞感が募るばかりだ。
2008.12.17
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派遣社員やパートタイマー、契約社員などの「非正規雇用者」の解雇問題が社会問題化している。年の瀬の寒空の中、「仕事はもうない。寮から出ていけ」と言われることの意味は、想像を絶する。政府は、★企業による安易な解雇の監視★企業に助成金を出して、雇用を継続するよう支援★雇用促進住宅などを活用して、寮の強制退去者を支援といった政策を打ち出しているようだが、いつ実現するのか定かではないし、果たしてその方法論が正解なのかも怪しい。なぜなら、「非正規雇用者」というのは、元来、「余剰と判断されたら、即解雇する要員」だからだ。いま、企業にとって、生産調整などが必要な事態になり、非正規雇用者が「余剰」になっているのだろう。このスピード感が正当かどうかは判断が分かれるところだろう。経営陣の「雇用」そのものへの認識が、これまで軽視に傾いていようとは、政治も国民も認識していなかったと思うが、経済界では当然のことと受けとめているに違いない。なぜなのか。一つは、株主対策だ。経営の悪化は株価下落に直結し、資産価値を下げるとともに企業買収など株主にとって不利益な状態を招きかねない。「数字」だけが、企業を判断する要因になってしまっている、いまの歪な社会を反映しているのだと思う。いま一つは、経営陣のリーマン化だ。企業を、社員を、数字で判断できる無機質なものと見て、さらに、株主の顔色ばかりを見て、自分が経営陣に名を連ねている間、穏便に過ごすことだけを考えているように思えて仕方ない。そこに、松下幸之助氏が説いたような「経営哲学」はない。さらに一つは、政治の経済に対する無為無策だ。サブプライム問題も、アメリカの経済危機も、それが世界に及ぼす影響も、今年初めにはわかっていたことだ。アメリカが自分で尻拭いしない場合、日本に余波が及ぶことはだれもがわかっていた。なのに、いつまでもアメリカに追随し、ここまで景気が後退してもなお、「政局」ばかりに気を取られている。こんな政治では、経済界が幾ら頑張っても、どうにもならないことがある。そして、これが大きいのだが、大企業の利己主義体質。日本を代表するような大企業たちが、戦後最大と言われる収益を挙げたのはつい最近のことだ。それを実現したのは、下請けいじめと利益の囲い込み、そして、「派遣」などの非正規雇用を最大限に生かした人件費抑制だ。収益を下請けや非正規雇用者に分配することなく、実際に赤字が出たわけでもないのに、将来の赤字削減のために早々と人減らしをする。こんな横暴を許していいのだろうか。非正規雇用者は、声を挙げられるからまだいい。下請けとなっている中小零細企業やその経営者は、さらに、さらに悲惨な年末を迎えることになるだろう。余り言われていないが、これが最も原因だと思うのが、正規雇用者にまつわる法律。非正規雇用者が、正規雇用者の尻拭いをさせられているというような現実はよく聞くところ。でも、今回、首を切られる正規社員の割合は微々たるものだ。しかも、「早期退職希望者募集」というクッションをつくったり、海外の雇用解消がしやすい国を中心に実施されるというようなことが現実だ。非正規雇用者との扱いの差は歴然だ。なぜか、法律のせいだ。一旦正規雇用者として採用してしまうと、解雇するにはかなりの難関がある。労働者は法律で守られている。つまり、正規雇用者の権利を守るために、非正規雇用者が切られる、ということだ。これにも関連するが、正規雇用者に金がかかる、というのも問題なのだ。「厚生年金」「社会保険」「雇用保険」「労災保険」といった公的な負担金に加え、交通費、福利厚生費、賞与、時間外勤務手当から退職金に至るまで、多額の金を食う。たとえ企業側が期待したような能力を持ち合わせていない人物だとしても、そうそう簡単に解雇することができない法律になっている。しかし、企業には、余分な人間を雇っておく余裕はない。バブル崩壊後のデフレによって、利益を最小限に圧縮するやり方で生き残らざるを得なくなった。企業に体力がないのだ。そんな、不要な人物の存在は、必要人材の削減を余儀なくさせ、非正規雇用者の採用へとつながる。これほど利益の出ない企業活動は意味がない。利益が出ないから給与は上がらず、給与が上がらないから消費意欲が減退する。モノが売れないから生産調整が必要になり、解雇や下請け切りが行われる。そうした社会不安は消費意欲を削ぎ取り……。最悪のスパイラルに入り込んだ感がある。が、これをマスコミが言ってはいけない。マスコミが景気の「気」悪くしているのも事実だ。ショッキングな報道ばかりをして、人々の不安心を煽る。報道に視聴率は必要ないと思え。人気のない麻生政権とて、この3ヵ月、何もしなかったわけではない。「失言」や「漢字の読み間違い」といった、枝葉末節を報道していないで、麻生政権の仕事を事細かに解説してほしい。もちろん、国民自らが知ろう、理解しようとする努力を怠っていいわけがない。皆が何もしないなら、文句ばかり言っているなら、さらにひどいことになりはしても、好転することはないに違いない。混濁した政治をスルスルと解きほぐし、合理的で効果的な政策を打ち出すのが政治家の努め、国民に真実を知らせると同時に、状況を改善するヒントを与えるのがマスコミの努め、良識と冷静さを失わず、身辺からできることをやって、自分の生活を守ることと、政治や日本の未来を自らの力で動かそうとするのが国民の努め。企業は、株主ばかりを見ないで、「社会への貢献」を第一に考えてもらいたい。
2008.12.15
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先週末、旧知の友人と食事をする機会がありました。この人と知り合ったのは、私が独立して間もない20年ほど前。広告代理店の「空間」部門に籍を置いて活動していて、私は企画、彼は設計(空間デザイナー)という立場で一緒に仕事をしました。その当時は私のクライアントでした。が、クライアント然とすることなく、“仕事仲間”として接してくれました。彼と私の仕事環境には、常にあと二人いて、一人は営業マン、一人は設計(空間デザイナー)。彼を含めて3人が同じ会社(つまりクライアント)で、4人一塊で仕事をしていました。食事会、飲み会は数知れず、一緒に東京にプレゼンに行ったり、東京のイベントの立ち会いをしたり、仕事の打ち上げ会(温泉ゴルフ旅行)をしたりと、仕事仲間でいる間は、結構いい仕事を楽しくした記憶があり、私のクライアントの中では群を抜いて仲良くさせてもらった人たちでした。そんな4人でしたが、広告代理店の空間部門が解体し、二人が会社をやめてから、4人で集まることはなくなりました。それが、かれこれ10年ほど前。もう少しになるかな。営業マンは、生え抜きから部長にまでなりながら一度会社をやめ、数ヶ月後に再び会社に戻るという大胆なことをやらかしましたが、いまは古巣に落ち着いています。出会ったころ、奥さんのおなかにいたお子さんはいまでは成人しています。週末食事をしていた彼は、広告代理店にいる間に一級建築士の資格を取得し、広告代理店をやめてからは、それなりに実績のある設計会社に籍を置いていましたが、このたび、社長のやり方にキレて会社を辞めることに。年明けからは独立開業するそうです。この不景気に、イベントやら、飲食店やらの仕事がたくさん舞い込むという保証はないわけで、かなりの賭けをしたな、と思いました。広告代理店にいたときにGETした10歳以上年下の奥さんとの間には二人の子をもうけ、それなりに幸せな生活を送っているよう。もう一人の空間デザイナーの彼は、広告代理店をやめてから幾つかの会社を点々としていたようです。運のいいことに、古くからの知り合いに声をかけてもらったりしながら、大手広告代理店の子会社に入ることができたりしていましたが、好きな女性ができたりして、家庭との距離を取ることになったと、風の噂で聞きました。彼の奥さんは13歳年上で、子どもも成人しているはず。わからなくなっていた連絡先がわかったこともあり(前出の営業マンからの情報)、一級建築士の彼と食事をしているときに電話番号を教えたり、わかっている消息を話したりしましたが、会話から、二人の間に埋め難いような溝があることに気づき、「私が電話してみようか? 出てくれるかどうかわからないけれど」と言いながら、その場でコールしてみました。3度ほどのコールの後、電話に出てくれました。久しぶりに聞く声は、とても元気がなく、少し心配になりました。が、彼独特の私の呼び方は以前のまま。少し距離が縮まったところで、一級建築士の彼と電話を代わり、トイレに立ちました。戻ってくると、少し話し込んでいる様子。電話を代わるとき、一級建築士の彼が私に耳打ちしました。「ガンらしい。入院するって」動揺しながら電話に出た私に、電話の向こうの彼は少しずつ説明してくれました。かなり急な入院のように感じました。病状が悪いのかもしれません。が、深く聞けない。聞くと、何かを一緒に背負わないといけないような気になっていたのかもしれません。「お見舞いに行きます。病院は?」病院を教えてくれました。「来て。待ってるから」「近いうちに押し掛けます」「本当に、待ってるよ」「はい」「こんなときに電話をくれて、運命を感じるわ。○○(私の名前。呼び捨てにするのがこの人の呼び方)、ありがとうな」言葉を失いました。すごいときに電話をしたものです。(この人と話をするのは、8年ぶりくらいかな)実は私は、そういう傾向にあるのです。久しぶりに電話をした相手がすごいことになっている、という事件が多々あります。が、今回は、その中でもかなりのレベルですごいと思います。年齢的にも、ガンや急死、離婚、倒産といった、人生の転機になるような大事件が起きても仕方ないと思います。そういう試練を神がお与えになるのは、それに耐えることができる年齢であり、人生を行きてきたからだと思います。私以外の3人については。私は、何も変わっていない。20年前と。少し病気をしたり、同居する人間があらわれたり、別れたり、事務所を出したり、移転したりと、こちょこちょっとした変化はありましたが、両親はまだ健在だし、自分にも体力があるし、これからも何かをしないといけないと思っている。でも、20年前とは確実に何かが変わっていることも確かです。子どもがいたら、家庭を持っていたらできた経験をしていない。今後ももうできない。なら、自分が生きる意味をもう一度考えてみないといけないと、改めて思いました。人として、子どもとして、女として、経営者として、国民として、その他もろもろの立場に対して背負っている責任と義務を、今後どう果たしていくのか、どう生きていくことが最善なのか…。今年じゅうにお見舞いに行けるかどうかわかりませんが、東京にいる営業マンに連絡をし、お見舞いに行ってもらう約束をしました。その報告を聞きながら、考えたいと思います。空間デザイナーの彼の人生が今後どうなるのか、私には予想がつきません。でも、彼の状況を知ったからには、その責任を肩に負い、事に向かい、生きていくしかありません。2008年、本当にいろんなことがあった1年でした。あと2週間余り。もう、大事がなければよいと思います。せめて、穏やかな気持ちで2009年を迎えさせてほしいと願う寒い夜です。無理かな…。
2008.12.14
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飲み会の後、時計を見たら地下鉄がすっかり終わっている時間。JRを使って、できるだけ近くまで行ってもいいのだけれど、徒歩20分以上かかる上、寒かったし、暗かったので、タクシーに乗ろう(いえ、半分は「歩いて帰ろう」と思っていました)と、歩き出しました。ふと前を見ると、深夜であるにもかかわらず、煌煌と明かりのついた場所が目に飛び込んできました。「銭湯」です。寒さと、その後の行程を考えると、温かいお湯は至福のアイテムです。躊躇なくのれんをくぐりました。傘を厳重にセットし(いい加減に置いておくと忘れてしまうと思ったので、札のあるところに)、靴を厳重に下駄箱に入れてドアをIN。驚きました。50~60代のおやじが番台に座っています。どう隠したって、見られるではありませんか!お金を払いながら、おやじの顔を見ました。どう見てもスケベです。私の顔をじっと見ています。「常連ではない」ということを察知すると同時に、「いつもと違う体を見られる」という好奇心が満ちているように思えました。入浴の準備をしていない私は、貸しタオルを所望しました。料金を払い、脱衣所で服を脱ぎ、体をあらわにした私が気づいたのは、貸しタオルがハンドタオルほどの大きさであることでした。胸を隠すと下が出る。下を隠すと胸が出る。しかし、貸しタオルのサイズ規定はないようなので、致し方なくそれで浴場に行くことにしました。前を向いているときは、少しの照れで済みましたが、後ろを振り向くと、番台のおやじがこちらを凝視しているのが見えました。「はっ!」と思いました。「わざとこんな小さなタオルを貸したのではないか!」と。後面裸の私は、番台のおやじに怒りながら恥ずかしがり、浴場に入りました。浴槽はさまざまでした。通常の湯船、薬湯、水風呂、電気風呂、ラドン温泉……、狭いながらもそれぞれを楽しみながら、30分ほど遊んでいたでしょうか。いよいよのぼせてきて、脱衣所に戻ることにしました。そこで、あっ!! と気づきました。胸を隠すと下が出る、下を隠すと胸が出るというタオルの丈で、浴場を出ねばならないのです。そろっと、ドアを開けると、番台の親父が凝視しているのがわかります。「これって、仕方ないの?」思いました。どう考えても、正当な行為ではない。「それを許しているから銭湯に行っている」という規定もないように思います。番台におばさんが座ってくれていれば、何の問題もないのです。しかし! おやじが座っていると、絶対許せない!400円の入浴料で、自分の裸をつぶさに眺めているおやじがいるなど許せないのです。「別に見たくない」というのなら、別の方法を考えてください。あなたが見なくて済む方法を。こちらが見せなくて済む方法を。ある意味、AVの世界です。「おばさん相手に目くじら立てなくても」という人がいるかもしれません。が、以前にも苦い思い出があります。あれは高校生のころです。生徒会の合宿が続いて、致し方なく学校近くの銭湯に行きました。後輩も、同輩も、脱衣所ですべての着衣をはいだところ、番台に座っていたおやじが急に女風呂の脱衣所に下りてきました。我々のすぐ傍らを通り抜け、中庭の様子を見てすぐさま引き返してきました。その行動は、どう見ても「女子高生の体を見たかった」というのが理由でした。いま考えてみると、男性はまだ30代でした。これって、強制わいせつ罪との線引きはどうするのでしょう。幾ら年を取ったとしても、無条件に男性に裸を見られてうれしい女性はいないはず。そこのところはどうなるのでしょう。少なくとも私は、どう頑張ったとしても、胸と下を隠せないタオルが自分の尊厳を汚したことは否めないと思っています。あんなおやじに見られなくなかった。銭湯は、そのことを改善しなくてもいいのでしょうか。私のような女でもいやなのですから、多感な時期の少女はたまらないでしょう。だって、「(好きな)男友達のお父さんが番台に座っている」なんてことになったら、一生を左右する事態になるやもしれぬのですから。……いまの若い女性はそんなこともないのかも…。若い女性(20~30代前半)の温泉旅館やスーパー銭湯でのあられもない姿を見ていると……。あーあ、倫理と羞恥心と恥じらいと……、男女の間の性のボーダーラインはどこまで下がっていくのでしょうか。……、それはそれとして、私は、銭湯の番台に男性が座るのは問題があると思います。法規制が難しいなら(経営上、とか、シフト上、とか)、男性が番台に座る時間を戸外に明記してほしいと思います。いずれにしても…、銭湯の人気が落ちてきた(利用者数の減少。物理的なものは省く)理由の一つに、これがあるように思えて仕方ありません。余りにも理不尽なのです。おやじに裸体を見られるのなんて!!あーいやだ!!
2008.12.12
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先月の最終週から飲酒を再開しました。この3週間ほどの間、結構飲む機会が多くて、思っていたスケジュールどおりにお酒を抜けない日々です。11月27日、12月2日、4日、5日、6日、7日、9日、10日。抜いた日は7日間。予定では、週に4日抜くはずだったので、9日間は抜いていないといけないのです。取引先の忘年会に呼んでいただいたり、旧知の人と個人的な忘年会をしたり、ご近所の飲み仲間に誘われたり、取引先から接待を受けたりと、さずがに年末だなぁと思うのですが、今年は何か様子が違います。出かけた先の小料理屋やレストランが空いているのです。いつもは並ばなければならないお店がガランとしていて、「何で?」と疑問を持つも、「たまたまかな」ということにして飲んでいますが、一向にお客が来ない。ちょっと心配になって、ご亭主に「景気、どうですか?」「悪いですよ。人生で一番悪い」「そんなに?」「家で食べる人が増えたんでしょうね」「忘年会シーズンなのに」「忘年会をする会社も少なくなってるんじゃないですか?」と、そんな調子。その店の客は、馬主(共同だけど)とか、株で儲けた人が結構いて、「今年は皆さん、ひどい目に遭ってるようですよ」と教えてくれました。そのお店はいい時代があったおかげで、いまは多少持ち出しになってもやっていけるようですが、体力のないところはこの年末を越せないだろう、それがご亭主の結論です。飲食店が不景気なら、酒メーカーやタクシーが直撃を受けます。スナックやクラブといった飲み食いの後の店も不景気になります。そうした店が集まっている繁華街、歓楽街から撤退する店が増え、不動産業や貸しビル業、ビルオーナーがあおりを受けます。繁華街、歓楽街で商売をしている花屋、ホステスさん専門のブティック、ホステスさん御用達のブランドショップ、化粧品メーカー、都会の高級賃貸マンション……不景気の連鎖はとめどない。不景気のため病院にかかるのを躊躇することで、病気が重症化したり、食べるものを節約するせいで、体力や抵抗力が低下したりといった副産物も心配です。急な首切りやリストラで仕事をなくし、家をなくし、家族をなくし……。大変な世情です。「お金は使うもの。使った瞬間に価値が出るのであって、貯め込んでも生活は潤わない。自分がお金を使えばだれかが潤う。そのうち、自分が潤うようにお金を使ってくれる人もあらわれるだろう」と、思って生きてきましたが、どうやら、私が潤うようにお金を使ってくれる人はそうそう簡単にあらわれそうにないようです。それならば、つかみに行かねば。不景気はいかん。気持ちがすさみます。明日、あさっても飲み会の予定です。景気のいい話を聞きたいなぁ。景気の悪い話ばかり聞くと、マイナスオーラがしみ込みそうです。あ、だめだ。明日の飲み会は、年末で会社をやめる人の愚痴を聞く予定。何かいい話を引き出せるように、ネタを仕入れていくか。行く店にも注意しないと。いつもの年末との違いを微妙に感じ続けている、今年の年末です。
2008.12.11
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寒い寒い週末があけました。が、今朝も、大阪の中心部の気温は1℃という寒さ。布団から出るのが恐怖でした。明日からは、平年並みの気温になるようですが、こういうときは、風邪やインフルエンザに対する注意が必要です。体が冷えないように、喉を初めとした関節を冷やさないように注意し、よく眠り、バランスのいい食事を心がけないと、えらいことになります。あ、それから、カラオケで喉を使い過ぎるのも要注意です。喉の小さな炎症から風邪菌やインフルエンザウィルスが入り込み、一気に増殖してしまいます。そんなこんなの12月、いよいよ年末らしい感じです。売り上げがさっぱりです。私が身を置いている業界は、12月は動きが鈍くなるものですが、ことしは本当にさっぱりです。不景気の煽りを受けて、ご多分に漏れずつらい年越しになるのでしょう。致し方なし。それから、宴会シーズンがスタートしました。先週金曜日に協力会社の忘年会に招かれ、ふぐをたらふく食べました。土曜日は、お世話になっている人々のお祝いの席に出席し、日曜日はプライベートで飲む機会が。「できれば年内に」という誘いを受けている人(団体)の数を数えると、10を超えました。昔なら、「景気のいい話」だったのですが、いまは「暇過ぎて、酒を飲まないとやってられない」というところでしょうか。宴会の予定に備えて、きょうは酒抜きの生活です。明日、あさっては予定が入っているので2連チャン。木曜、金曜は抜いて、土曜日はまた予定が入っています。また膵臓を傷めるようなことのないようにしないと。栄養と睡眠を心がけよう。それでもって、歳暮のようなものがちょこちょこ届き出しました。大好きな信州のりんごを皮切りに、ビールやジュースが届くのが常ですが、今年はカレンダーばっかりになるかも。来年の手帳を購入しました。カレンダーも確保できる予定。お掃除グッズも調達済み。事務所で使う備品も揃えました。それから、これから必要になるのが、年末年始のお酒の調達と、クリスマスイブの準備。とはいっても、チーズフォンデュやオードブル、シャンパンの準備くらいで、ケーキもパーティーグッズもありませんが。カレンダーを見ると、あと3週間という短い時間に、しなければいけないことが結構あることに気づきます。仕事と並行してやろうと思うと、かなりバタバタするかも。覚悟して、明日から処理していこう。今年はめまぐるしい1年でした。来年は、今年より充実させたい。それには、今年2度病院行きとなった不摂生極まりない事態を回避し、健康増進に心がけることが先決。そんなことを考えながら、きょうは眠ることにしよう。あ、年末調整の事務処理と…、源泉徴収税の払い込み準備も…。まだ、いろいろあった……。
2008.12.08
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前回に引き続き、「日本語がおかしい」と思うシリーズ。最近、テレビの情報番組のコメンテーターに始まって、街頭インタビューに答える一般国民に至るまで、本当に多くの人が「やはり」「やっぱり」を使う。質問:「政治への要望は?」答え:「やはり、国民の目線に立った政治をやってもらいたいです」といった具合だ。「やはり」「やっぱり」は、「以前と同じ状況であるさま」「さまざまな経緯があった後、結局最初に予測した結論に落ち着くさま」「動かないでじっとしているさま」などという意味があるが、この言葉を聞くとき、私は「前もって予測した判断と同様であるさま/他の例から類推される状況と現実が同じであるさま」をイメージする。つまり、「自分がこれから言うことは、だれもが思っているはず」という意識か、「自分がこれから言うことに、だれもが同意するはず」という奢りか、はたまた「自分がこれから言うことに、同意しなさい」という強制的意志が感じられる。とても気持ちが悪い。少なくとも、私がその人の意見に同意する確率は低い。なのに、あたかも“ほとんどの人が同意するに違いない”という前提で「やはり」を使うのは、なぜなのか。思いつく答えの中で、きっとこれだ、と思えるのは、「自信なさの裏返し」ではないか、ということだ。より多くの人に「そうだ」「賛成」「同意する」と言ってもらいたい意志のあらわれではないかと思う。日本人多くは(すべてではない。念のため)、大衆迎合主義で、その中にいることが居心地いいと感じる特質を持っている。世の中の6割~8割の人が同意する意見や行動を好む。人と同じであることに、体質的安心感があるのだろう。自分の存在意義や行動の正当性を他人の同意の多さに求める人が多いということだ。ちょっとでも人と違う意見を言ったりすると、徒党を組んで攻撃してくる。このブログでも経験したが、徒党を組んで書き込みをする人は、大抵同じトーン、同じ視点、同じカテゴリーの語彙で論じる(論にはなっていないが)特徴がある。ヒートアップすると、だれかの書き込みを論拠にし、ブログで言っていないことが批判や批評の対象になってしまうこともある。要は他人と同じことを言っている自分に安心しているということであって、持論を展開しているとは思えないのだ。他人と同じ意見だと、心強いのだろうか。強烈な論者がそれをひっくり返すと、驚くほど安易に踵を返してそちら側に意見を変えたりもする。おおよそ理解できない。そういう理由でない場合もあるかもしれない。が、話し初めにいきなり「やはり」と言われると、カチンとくる。その人の意見に、無条件に同意しなければならないのか、と無力感に襲われる。そうでないなら、そんな誤解を避けるためにも、「やはり」を使うときは論拠を示してほしい。「麻生総理が言っているように」とか、「先日、古館さんが言ってたけど」というように、みなが共通語として理解できる論拠を挙げてから「やはり」を使うべきだと思う。日本語の崩壊が進んでいるが、言葉を深く理解しないことが原因であることが多いことは明白である。日本語は、実に多様で繊細だ。日本語をきちんと理解し、ぜひとも、美しい日本語を使うように心がけたい。最近、若い人とメールでやり取りをしていると、腹が立つことが多い。その人に悪気がないとは思うが、「それはないだろ」という言葉遣い、言い回し、文章構成で気軽にメールを送ってくる。「お疲れでーす。ちょっと相談事です。○○のデータなんですけど、送っていただいた△△がきょう休んでて、見れないもんですから、私に送り直してもらえたりするとありがたい! よろしくです」といった調子。そういう人には、「株式会社□□ ●●様いつもお世話になっております。メール、拝見いたしました。ご指示どおり、△△様にお送りしたデータと同様のものを送信いたします。データ形式に問題がある場合は、ご遠慮なくおっしゃってください。ご指定のデータに変換して再送いたします。取り急ぎデータ送信いたします」と、ごく普通のビジネス文書を返信するのだが、その落差に気がついたり、自分の書いた文章を反省したりすることはないようだ。明日は、「携帯電話」「メール」の功罪を書くことにしよう。ふふ。
2008.12.07
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最近、テレビの「料理番組」が大変気になる。どうでもいいといえば、どうでもいいことなのだが、料理番組の中で展開していることが、世間の何かと共通するのではないかと思えて仕方ないのだ。気になる一つめは「常用文句」。以前にもブログに書いた記憶があるのだが、多分、日テレ系の人気番組「どっちの料理ショー」(2006年9月放映終了)を根源とした、わけのわからない言い回しが料理界の「常用文句」になってしまっている。『ここで塩を入れていきまーす』『よく炒めていきまーす』『材料をよく合わせていきまーす』というふうに、「いきます」が多用される。「入れます」「炒めます」「合わせます」でいけないのか!「いきまーす」は、番組中の調理シーンで、調理師学校の先生(「辻調」だと思う)たちが使い倒した。どういうわけか、それがどの料理番組にも伝播してしまい、いまや、情報番組やワイドショーのちょっとした調理コーナーでも同じように使っている。気になる二つめは、「あげる」。『ここで、よく炒めてあげると、おいしさが増すんです』『緑のものを合わせてあげると、彩りがよくなりますよ』『よく煮込んであげた方が、出来上がりがふっくらします』「あげる」必要はない。『犬に餌をあげる』と相反しながら、同じくらいナンセンスな言葉の使い方だ。犬の餌の場合の「あげる」は、「与える」「やる」という言葉を「丁寧語」に変化させるという無意味なことをやっているのだが、料理の場合の「あげる」は、相手を「尊敬」する形になっている。つまり、「炒める自分」が「炒められている素材」に対して、敬意を払っているということだ。なんのこっちゃ! である。意味がないのだ。しかし、私が感じるニュアンスとしては、「自分」(料理研究家)が「テレビを見ている視聴者」に「教えてやってる」という横柄な気持ちが隠れているように思える。「自分」が「炒められている素材」に敬意を払っているかのような表現を使い、実は、「視聴者」の方が「炒められている素材」より下の地位であることを言わしめんとしているということだ。「そんなつもりはない」という料理研究家もいるかもしれないが、そう聞こえるのだから、そんな言葉を使わないに越したことはない。気になる三つめは、「褒めそやす」。つくり方を解説しながら自分が実際に調理しているとき、やたらと自分がつくっている料理を褒める。『おいしそうな焼き色がついてきましたねー』『彩りがきれいなので、食欲が増しますね』『おいしそうに出来上がりました』『素材につやが出て、おいしそうですねー』『あ、上手に煮上がっています』どうして自らが褒めるのだろう。アシスタント的人間の言葉を全部奪って、自分が自分の料理を褒めそやすのは片腹痛い。へりくだりとか、謙遜といった言葉を知らないかのように、褒め言葉を連発する。おいしそうとか、彩りがいいとかといったことは、視聴者が感じたり、思ったりすることで、そのメニューの発案者の料理研究家に強制されるべきことではない。気になる四つめは、「尊敬語」。『香辛料を控えることで、お子様もおいしくいただけます』『調味料はつけずに、このままいただいてください』『簡単につくれて、手軽にいただける料理です』おかしい。「召し上がる」を使うべきだ。「香辛料を控えることで、お子様にもおいしく召し上がっていただけます」「調味料はつけずに、このまま召し上がってください」「簡単につくれて、手軽に召し上がれる料理です」が正しい。料理研究家の経験談を話すのなら、「謙譲語」の「いただく」を使ってもいいが、相手(視聴者)に何かをしてもらおうというのだから、「尊敬語」を使うべきだ。ことほどさように、いまのテレビ番組は崩壊している。存在価値を疑うような番組ばかりの中、「献立の提供」「調理法の伝授」といった明確な使命を持ち、料理研究家とアシスタント(タレント)のつくり笑顔、超現実的なやり取り、お仕着せの展開を是とする、開局以来、基本構成を現存させている化石的存在の「料理番組」までもが、おかしな言葉遣いや表現手法によって、崩壊の危機にさらされている。恐ろしいのは、料理研究家の慇懃無礼とも言える丁寧な言葉遣いに間違いが埋没してしまうことだ。だれもが疑うことなく、料理研究家の言葉を受け入れてしまう。そして、それを「正しい言葉」と誤認する。そうやって、日本語がジワジワと崩壊していく。この国では、報道番組でさえ日本語を間違えるのだから、「料理番組」など取るに足りないこと、と考えられなくもない。しかし、忘れてはならないのは、「料理」という「日常」に密着した題材を扱う番組は、報道番組などよりはるかに脳に浸透し、情報として定着してしまうということだ。新聞にもおかしなところが見られるが、テレビほどではない。テレビを見るときには、「鵜呑み」にしない姿勢を忘れないようにしたい。
2008.12.03
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きのうときょうは天候に恵まれ、抜けるような青空が広がりました。事務所近くを流れる川のほとりも紅く染まり、空の青さを一層引き立てていました。いやな犯罪が起きたり、政治が停滞したり、景気がひどいことになっているのに、二大政党の党首は意味のない討論をしているし、世界的な不景気は相変わらず改善していないし、ドバイのオイル景気がここに来て危ない状況になっているし、インドでは武装勢力が暴れているし、タイ・バンコクでは空港が占拠されているし、中国がアメリカを初めEU各国にすり寄ったりして密かに何かを企んでいる雰囲気だし、脳梗塞がどうなっているのか、後継問題がどうなっているのか、死に体なのか、密かに何かを準備しているのか、相変わらず北朝鮮は不気味だし、不景気の韓国で日本のご夫人がブランドものを買い漁るという気味の悪い光景が展開されているし、百貨店を初めとした小売業の月間売上高は下がり続けているし、自動車メーカーに端を発した非正規雇用者の首切りが万の単位で実施されそうになっているし、年末の企業の倒産件数は未曾有の数になると言われているし、それなのに、天下りだの、裏金だの、不正会計だの、外郭団体だのと、国民の血税を好き放題使う役人の周辺は何も変わっていないし(公務員制度改革が全く進まない。それどころか、政治家は役人に取り込まれて、役人主導の改革案になっている)、年金制度はますますグラついているし、裁判員制度がスタートするぞという段になって、「裁判員になりたくない」という人が続出しているし……。現ではいやなことばかりが渦巻いていて、夢を見るゆとりすらないのに、空は晴れ渡り、樹々は紅く色づき、川の流れはたゆみなく。日向で猫は憩い、満潮時に遡上する小魚を追って、多くのカモメが川面を渡る。人間社会がどうなろうと、自然は自然の法則どおりに時を刻み、動物たちは命の営みを続ける。景気が悪い、仕事がない、お金がない、明日が見えない、と言っていないで、自然の偉大さと、力強さを見習いましょう。どう努力しても状況が改善しないなら、あがくのはやめてすべてを受け入れましょう。できないことを考えるのは不毛です。幾ら考えても、天気は変えられません。幾ら悩んでも、人の気持ちは変えられません。幾らいやでも、寒い朝はやってきます。幾ら困っても、理由もなくお金は転がり込んできません。幾ら避けたくても、支払いの期日はやってきます。幾ら望んでも、そう簡単に宝くじには当たりません。そんなことより、日々を気持ちよく、納得して生きる方法を考えましょう。できるだけ小さなことから。そして、徐々に大きなことに広げていけば、意外や意外。すごい目標や希望や夢が、あたかもかなうごとく思えてしまう。さて、今年も残り1ヵ月を切りました。1日の目標、3日間の目標、1週間の目標、10日の目標と、できるだけ細分化して、目標達成を目指しましょう。そうすれば、たった1ヵ月だって、かなりのことができるはず。きょうは、病院行きで半日つぶれました。意図しない動きがあったり、プライベートなことに時間を使ったりして、少々無駄に過ごしました。きょう寝る前に、ベッドの中で明日の予定を綿密に立てましょう。これができるのが、お酒抜きの生活のメリットです。
2008.12.01
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