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ミスを放置すると、プロの演奏家というのは、能力のない指揮者と決めつけて、極めて厳しい態度をとるのだそうです。「あの指揮者はミスも分からない。耳が悪い。指揮者としての適性に欠ける。」などといわれだすともうだめです。能力のない指揮者はすぐに消えてなくなります。高木さんは、どうしたらよいのか正解はよく知らないといいます。高木さんの場合は、アイコンタクトで、間違えた人をちらっと見て、「違うよ」と心の中で声をかけるのだそうです。相手はプロですから、誤りは自分で分かります。相手も目礼して、「すいません。次は注意します」と心の中で返事をします。その間ほんの一秒です。ミスは指摘ではなく、この確認が大切なのです。そしてアイコンタクトがうまくいったとき、そのミスを忘れることが大切です。相手を許してあげることです。何回か練習をしていると間違いがなくなります。最後まで間違う人は、休憩時間などに「ちょっとこちらへ来てください」と軽く声をかけて、さりげなく「ここの音どうでしたか」と声をかけます。ほとんどの場合、「間違ってました」とか「勘違いしてました」となるそうです。これは私たちも応用できそうですね。他人を「かくあるべし」で誤りを指摘したくなったとき、ストレートにこうしなさい、ああしなさいと指示命令してはいけないということです。自分の意見はしっかりと持つことは大切ですが、相手の気持ちや事情を無視してはいけません。双方の落としどころはその中間あたりにあるんだということを認識して、調整を図るということが大切だということです。
2014.02.10
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「オーケストラ指揮法」高木善之さんの本はとても面白かった。オーケストラの指揮者は毎年200名ぐらい生まれるそうだが、プロの指揮者はとても狭い門となる。必要な資格は次のようなものがある。1、 少なくとも一つの楽器がプロとしての演奏ができること。カラヤン、バーンシュタインはピアノだったそうだ。2、 スコア(総譜)が読める。1ページ30段あるそうだ。これは練習や訓練でできるそうです。3、 ミスを聞き分けられる。オーケストラの中の一人のミスも聞き逃さないだけの耳がなければなりません。これも長年の練習訓練でできるようになるそうです。4、 絶対音感能力。基準音(たとえばドの音)が分かっているとき、他の音を聞いてその音が言い当てられなければなりません。5、 音楽理論、音楽史、音楽解釈に精通していること。6、 指揮者は指導力だけではなく、人間的な魅力が必要です。具体的にはやさしさ、温かみ、包容力、寛大さ、前向きの姿勢、個性、夢を持っていることなどです。その上でプロのオーケストラの団員がミスタッチをしたとき、指揮者としてどう対応するか大きな問題です。まずプロの演奏家はプライドの塊のようなものです。でも人間である以上ミスはつきものです。これを見て指揮者が名指しで指摘したり、演奏を中断して注意すると大変なことになります。プライドを傷つけられたその団員はやる気をなくするし、注意がたび重なるとそのオーケストラから煙たがられて、二度とお呼びがかからなくなるというのです。しかし、ミスを指摘して失脚するなら、ミスを見逃してやればよいのかというとけっしてそんなことはありません。
2014.02.10
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大作曲家と紹介したことがあったが、ペテン師だった。お詫びいたします。本人は楽譜は全くていっていいほど書けないらしい。ピアノもほとんど弾いたことがないという。耳が聞こえないというのも嘘らしい。すべてが、演出だったらしい。私も交響曲1番「HIROSHIMA」は何度も聞いたが、ベートーベンやマーラーのようにグットくるものがなかった。何回も聞いていると、だんだんよさが出てくるのかと思っていた。でもNHKもなんでこの人に騙されて特集を組んだのだろうか。日本中の人をだまして堂々とテレビに出続けていたのが悔しい。
2014.02.07
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山田洋二監督の「小さいおうち」をみた。戦時中、山形から東京へ女中として住み込んだ人の話であった。ちょっと涙が出る場面があった。山田洋二作品は、「幸福の黄色いハンカチ」「たそがれ清兵衛」「武士の一分」「母べい」「おとうと」「東京家族」「男はつらいよ」などを見てきた。共通するのは、生きるのに不器用な人、時代の波に翻弄されて不本意な生活を余儀なくされる人、自分の思いが遂げられない人、家族の人間関係がぎくしゃくしている人が出てくる。山田監督は何を訴えたいのだろうか。私は次のように感じる。人間だれしも問題や課題を抱えている。生まれた時から過酷な運命を背負っている人もいる。時代のうねりの中で問題や課題を抱える人もいる。それらは自分一人の力ではどうしようもない、理不尽な重荷を背負わされる人も多い。このどうにもならない時代や運命に翻弄されるのが人間の宿命なのではなかろうか。その中でのたうち回り、なんとか生を紡いでゆく。逆に言うと、食うのにも困らない、経済的にも裕福だ。良い仕事についている。自然災害にも遭わない、戦争や争い事にも無縁だ。家族も多く仲が良い。そんな人が果たして何人いることか。仮にそんな人がいたとしても、幸せな人生であるとはいえない。問題や課題を抱え、頑張ったからと言って状況が好転することは少ない。断ち切れない思いをたくさん抱えて、やむなく一生を終えてしまうことが多い。それが生きるということですよ。でも簡単に人生を投げてしまってはいけない。寿命が来るまではのろくてもいいから一歩、また一歩と前を向いて歩まなければいけない。人間の幸せということを考えた時、課題や問題を抱えて、立ち向かうそのプロセスの中にこそ幸せはある。私はそんなことを教えてくれていると思う。森田先生が教えてくれた、努力する中に幸せはある。いい言葉だ。
2014.02.01
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家康は、運命そのものは受け入れて、自分の置かれた境遇の中で精一杯生きることを選んだ。過去も未来にも翻弄されないで、現在を生きる。今を生きる。この瞬間を精一杯生きる。そこに活路を見出した。剣道、弓道、砲術、馬術、水術、武芸の稽古に励んだ。読書家でもあり、生薬の調合にも精通していた。徳川家康のことを狸爺ということがある。人にねちねちと嫌がらせをするという意味だそうだ。家康の理不尽な一生を見ると自然にそのように行動してしまったのだろう。「生かさず、殺さず、逆らえば殺す」というのも、自分の運命と無縁ではないと思う。徳川260年の礎を作るにあたって、権力は譜代大名に集中し、財力は外様大名に集中させた。権力と財力の分散を図ったのである。なおかつ参勤交代などで、外様大名の財力をそぎ落とす仕組みは実に見事であった。石橋を叩いてやっと渡るという家康だからこそ出来上がったものかもしれない。家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、 こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。 勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。 及ばざるは過たるよりまされり」運命に翻弄されながらも、それを受け入れて、耐えながらも、少しずつ運命を切り開いていった生き方に、森田理論学習をするものとして学ぶ点があると感じている。
2014.01.30
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徳川家康。生涯経済的に困窮したという経験は持ったことがない。ただ戦国の世にあって、自分が戦いの道具として利用される運命に翻弄された。家族のきずなが絶えず外部の力で分断されて生きてきた。1547年家康4歳の時、信長の父、織田信秀に人質として赴く。その時家康の父、松平広忠は仲の良い夫婦であったにもかかわらず、時代の流れでやむなく離婚している。母と生き別れになっている。6歳の時には今川義元の人質として駿府に移った。家康14歳の時築山殿と結婚し、16歳の時長男信康が生まれた。しかし36歳の時織田信長の命令により、やむなく2人を処刑している。愛とファミリーの絆を大切にしてきた家康にとっては痛恨の極みであった。また家康は部下たちの面倒見の良さが注目される。戦で敗れた今川や武田の家臣も登用した。部下たちは家康のために身代わりとなって死んでいくということも何度かあった。人の気持ちを察することができた。そういう家康でも運命には逆らえない。47歳の時、勢力拡大を恐れた豊臣秀吉によって、当時湿地帯であった関東に領地替えを命じられている。家康はしぶしぶながら、その命を受け入れて江戸に移っている。自分の運命はいとも簡単に、他人の力でいきなり壊され、乱暴に奪われるという過酷な運命をたどってきた。それに対して家康は逆らうことはできない。逆らえばすぐに殺される。運命はどんなに理不尽きわまるものであっても受け入れざるを得ない。
2014.01.30
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森田理論で考えてみよう。生の欲望の発揮という面ではかなりの人物である。ところが抑制力は全く効いていない。最初は効いていたのかもしれないが、弾みがついて全く効かなくなった。生の欲望の発揮を野放しにしておくと、秀吉の晩年のように、自ら崩壊してしまう。秀吉は61歳で亡くなっているが、55歳の時に日本全土の統一に飽き足らず、朝鮮に出兵している。特に60歳の時の第二次朝鮮出兵は狂気の沙汰だった。韓国の人にとって、秀吉は極悪非道の侵略者である。日本では英雄のように扱われているが実態は全く違う。生の欲望が野放し状態にされ、その結果最悪の事態を招くことは、躁状態の人を見ればすぐにわかる。生の欲望の発揮には不安、恐怖の感情による制御が大切である。それらが自動車のブレーキの役割を果たしている。秀吉にはブレーキのない車が、坂道を全速力で突っ走っているようなものであった。誰も止めることはできない。秀吉がどういう結末を迎えるかはすぐにわかる。不安、恐怖は邪魔者にしてはいけない。我々の生活にとってなくてはならないものである。活用すべきである。また神経症真っ只中の人は、生の欲望の発揮を忘れて、不安、恐怖を取り除こうとしたり、逃避するのだが、自然の仕組みを無視した暴挙としか言いようがない。これは秀吉と反対の意味で大きな問題である。生の欲望の発揮は森田理論の出発点となる。ただし正常に機能させるためには、不安、恐怖、違和感などを活用して、バランスをとってゆかねば秀吉のように破滅してしまう。
2014.01.29
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次に一旦は天下人と成り上がった豊臣秀吉を見てみよう。秀吉は貧しい家の出身である。そこから成果を積み重ねて天下人になった人である。生命力があり、精力的でパワーがあった。フットワークがよく、その場の変化に即座に対応することができた。根本的には所有欲、種族保存欲、物欲、性欲の塊だったのだろう。マズローでいう、第一の欲望の人間の基本的欲求と第二の欲望である安全の欲求が前面に出ていた。自己自身の高まり、自己実現という欲望とは無縁である。戦利品を手にして、自分の領土が増えて、家系が繁栄することが生きがいだったのである。さらに大阪城築城では金箔を惜しげもなく使い、豪華絢爛な生活を楽しんでいた。生命の安全を確保する、危険から身を守るためにゴットマザーを中心に一致団結していた。こういう人は、戦乱の時代は生き生きと活躍できる。また終戦後の混乱の中でもいち早く会社を立ち上げて大きくすることができる人である。戦後日本経済をけん引する大企業が数多く生まれたが、秀吉もその資格があった。しかし、余計な感情を持たず、情に駆られて悩むような人ではない。無駄な思考を嫌がる。知性におとり、考えるということはもっとも苦手なことなのである。イケイケどんどんでとにかく体を動かし、損得に目ざとく、利害で動くタイプである。信長の部下としてナンバー2の位置で最も力を発揮した。信長のような上司でも、ひとたび忠誠を尽くすととことん尽くす。
2014.01.29
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私は、信長を見ていて思うのは、感情を味わう、感情を受け入れる、感情に服従するという気持ちはさらさらない人だと思う。かわいそうだとか、いとおしいだとか、悲しいだとか、心苦しいという感情は抑圧する対象として考えていたのだろうと思う。戦闘の邪魔と考えていたのである。そういう感情は拒否する、無視する、否定するというのが身に染みて、習慣となっていたと思う。すると感性は次第に減退してくる。麻痺して感情を味わえない人間に変化してきた。脳は活動をやめてしまった。そしてロボットや鉄仮面のような人間になってきたのです。これが最大の不幸の始まりだったと思う。いくらあふれるほどの能力があり、積極果敢な行動ができたとしても、司令塔がないようなものである。全体を見通し、何を選択してどう行動するかは、何を感じて、どう考えたかにかかっている。さらに悪いことは、他人も同じように感情を持たないロボットのような存在だと思いこんでしまう。だから自分の言動で対人に不満が蓄積して、そのエネルギーがあふれている状態に気が付かなくなるのである。そして最終的には天に唾するように自分に降りかかってくる。それらをないがしろにした行動は、多くの人を不幸の谷底に陥れるような結果になったのだと思う。織田信長は、感情を無視してはいけない。どんなに不快な感情でもきちんと向かい合い味わい、受け入れるということから逃げてはいけないということを教えてくれている。
2014.01.27
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戦国時代を代表する織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康の生き方を順次森田理論で分析してみたいと思う。まず織田信長。織田信長はすぐれた能力を持っていた。智力に優れ、アイデアマンであり、理論家、理想家であった。良くも悪くも思い立ったらすぐに行動できるという積極果敢でまさに闘争的な人であった。戦さでは、無理と思えるような奇襲戦法を用いた。ワンマンで独裁家であった。ユダヤ人を虐殺したヒットラーのような人であった。血も涙もなく、一向一揆などでは、容赦なく民衆を皆殺しにしている。比叡山延暦寺の焼き討ちもそうだ。森蘭丸以外は腹心でも、血のつながった家族でも容赦のない粛清を行い、約束などは平気で破っていた。明智光秀もその被害者の一人だった。15歳の時斎藤道三の娘濃姫と結婚しているが、政略結婚であったという。女性には冷淡で愛情のかけらもない。織田家は上昇志向、権力志向の強い権威主義、選民意識の強い家系であった。一族は互いに殺し合い、能力のあるものが生き延びるという宿命をおっていた。いつもアドレナリンが出ていて、興奮状態で血管が収縮して戦闘モード状態の人間をイメージしてもらうと分かりやすい。父親の信秀からは、2歳の時に那古野城の城主にされ、スパルタ教育、帝王学で常に先陣を切ることを要求されていた。人間的な暖かいふれあいなどは何の意味もない。他人はみんな敵、人間関係は食うか食われるしかないと思っていた。暖かいおもりやりの感情は無理やり押さえ込んで、憎しみ、恨み、猜疑心、妄想などの怒りの感情を膨らませて、衝動的、異常行動へと駆り立てていった。あまりのひどさに信長は、人格障害の疑いがあるといわれている。
2014.01.27
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2014年1月よりNISAが始まった。株や投資信託などの運用益や配当金などに対して一定額まで非課税という制度である。証券会社や銀行などからNISA口座の勧誘の連絡があったことだろう。普通は中身を確かめないでほったらかしという人も多いのではなかろうか。NISA口座を作るか作らないかはその後差別を受けることになる。今まで運用益や配当金などは、10パーセントが税金として差し引かれその後の90パーセントを受け取っていた。ところがNISA口座を作っていない人は、今後20パーセントの税金が差し引かれることになる。とくに定年退職した人などは、要注意である。このような改正は普段からアンテナを張って積極的な情報をキャッチしていないと見逃してしまう。税理士、社会保険労務士、金融に詳しい人、道路交通法、介護士、医療関係者は詳しい人はいろんな注意すべき情報を持っている。集談会に参加しているといろんな職業の人がいる。そういう人から一口ワンポイント情報として情報提供してもらうことが役に立っている。森田の勉強会で人が集まるということは、こういう利点もあるということです。森田理論の学習ばかりでなく、柔軟に集談会を開催してもらいたいものです。
2014.01.16
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細川元総理が東京都知事選に立候補した。小泉元総理とタッグを組んで脱原発を争点にするという。都知事選は誰が選ばれるかはよく分からない。ただしこの脱原発という主張には重大な関心事をもって注目してゆきたい。私が脱原発を支持するのは、森田理論学習を基盤にしている。森田理論学習では、我々は自然を思うがままにコントロールしてはならないという。感情、自然現象も人間のあくなき欲望のままに、人間の支配下に置こうとするとローマ帝国が滅亡したように、必ず人間社会、自然環境は破壊されてしまう。破壊された後では、元に戻すことは困難をきわめる。コントロールしてもよいのは、将来に明るい展望が開けるものと他の人の役に立つことの2点のみである。原発を推進すると、明るい将来は開けてこない。今生きている日本人はよいかもしれないが、将来の子供たちに核廃棄物の処理を先送りすることである。それも核廃棄物はどんどん増え続き、加速度を増して問題を拡大する。脱原発の世論が一般的になると、ドイツのように原発撤退に向けて動かざるを得なくなるだろうと思う。
2014.01.15
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私は日記をつけている。今年で8年目になる。森田先生に真似て簡単につけている。必ずつけているのは、その日の天気。その日の夕ご飯のおかず。これを一覧表にしたこともある。その日の特記事項。社会の動きである。家族の誕生日やイベントは忘れることはない。今は10年日記なので、以前の日記を見ながら書いている。毎年の行動が懐かしく思い出される。またそれに触発されて、今年もそろそろと思うこともある。皆さんはどのように利用されていますか。それとエクセルで家計簿を毎年つけている。集計は自動でしてくれるので便利である。予算を立てて管理している。お金を有効に使うということで、いろいろと考えることがある。家のローンが終わり、子供が巣立っていったのでかなり節減できている。お金にしてみれば、よく無駄遣いを排除して、最大限有効に活用しているので感謝されているかもしれないと思っている。
2014.01.12
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2015年1月以降、相続税法の改正により相続税納付者が増加する。仮に父親が死亡して妻と子供一人の場合、遺産が4200万以上あれば相続税の対象者である。妻と子供二人の場合は4800万以上で対象となる。現預金ばかりでなく、家や土地の不動産、骨とう品などの財産も対象になるのだから、知りませんでしたでは済まない。税務調査が厳しくなるだろう。ちなみに父親が1億円残して死亡。妻と子供二人の場合、相続税は630万となる。大変な金額だ。隠せば重加算税などの追徴課税が待っている。それ以外にも遺産を巡っての親子、兄弟姉妹の醜い相続争いが発生する可能性が高い。あちこちでトラブルが発生している。それだけ不労所得を巡って欲深い人が多いのだろう。子供は親の遺産がないと悠々自適な生活は保障されないと堂々と述べている人もいる。親は自分が努力して貯めた資産を、使い道が分からないまま遺産として残した。それを引き継いだ子供たちがさらに、後世に同じように残していける保証は何もない。また相続が発生するたびに税金で持っていかれるから、いずれ遺産は消えてなくなるだろう。私は神経質な人は、細かいことがよく気が付くすぐれた特徴を持っている。これを生かして、遺産が多い少ないにかかわらず、遺言を書いておくべきだと思う。子供たちが醜い争いを繰り返さないように、前もって準備をしておくことである。私の義理の父親は、遺言を残していた。長男と娘二人だったが、嫁に行った娘たちにはいくらかの預金を、後は家を継ぐ長男と介護の面倒を見てくれた嫁に残すと記載されていた。娘たちはもう少しもらいたいという気持ちがあったようだが、故人の遺言が優先される。私は母が亡くなった時、わずかな遺産を妹と等分に分けた。妹は喜んだが、私は後でしまったと思った。家を継いだ子供は、家の維持、固定資産税、近所の付き合い、親の親せき関係の冠婚葬祭費用はすべて自分持ちである。その金額が馬鹿にならないのである。親せきの葬式があると10万はかかる。さらに49日、1周忌、3周忌の法事にそれぞれ3万はかかる。結婚式の参列も最低10万はかかるのである。妹に頼ることはできない。今思うと2対1ぐらいにして交渉すべきだったと思っている。後の祭りである。皆さんの今後の参考になれば幸いです。
2014.01.12
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オリオン座のベテルギウスが、近々超新星爆発をするのでないかといわれている。私は宇宙の営みで面白いと思うのは、星々の死によって、新たな元素が作られるということだ。超新星爆発は温度が50億度に達し、核融合反応によって元素周期表の鉄までは一挙に作られる。さらに銀河同士が衝突するときは、1兆度にも達してそれ以上の元素が一挙に生成される。今地球上で確認されている元素は118余りだが、その元素は星々の死によって作られた。その元素が宇宙空間を漂い、また集まって新しい星を作る。46億年前に太陽系ができたそうですが、地球にある元素からしてみると、そうした星々の死の結果、その残骸から生まれてきたことは間違いないようです。人間の体を構成しているのもそうした元素の集まりです。宇宙というのは死があって、新たな生が生まれる。生と死は裏腹な関係にあります。死は恐ろしいのですが、死はそれで完結しているものではないのです。死は新たな生の始まりなのです。つまり生と死は宇宙の営みを見る限り、永遠に繰り返しているのです。しかも新たな元素を付け加えて成長して、新たな生が生まれているのです。森田理論では不安と欲望はコインの裏と表の関係にあるといわれます。一心同体なのです。そう考えると、人間の死は、新たなる生の発生が予定されているという風に考えるのが自然だと思います。そのように自然の営みをとらえると生き方が変わってくると思っているのですが、皆さんはどう思われますか。
2013.12.30
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「宇宙への挑戦」という番組を見た。その中でロシアのワレリー・ポリャコフの言葉が印象に残った。この方は438日宇宙滞在記録を持っている。長く無重力の宇宙ステーションで暮らすと2つの問題が出てくるそうだ。一つは骨密度の低下、筋肉の量の減少だ。廃用性萎縮が起きてくるということです。もう一つは心の問題だ。他の宇宙飛行士が近くにいるにも関わらず、孤独感にさいなまれるそうだ。また感受性が鈍化してくるという。感情が湧いてこなくなるというのだ。限られた仲間、限られた空間、単調な生活はストレスになるばかりか、心の病につながるそうだ。自由な行動、外に向かっての動きが制限されると、まず精神が不安定になる。ましてや神経質性格で、内へ内へと考え込む性格の人はたまらないだろう。ワレリー・ポリャコフの心の危機を救ってくれたのは宇宙船の窓であったという。窓から故郷の地球を見る。そしてあそこには何があるのだろう。どんな人がどんな生活をしているのだろうと想像した。そういう知識欲、好奇心が生まれて来たそうだ。この話から学ぶことは、人間は目の前のことをよく見つめてみる。観察して何らかの感情が発生する。それをもとにして意欲や欲望が出てくる。そして行動してみる。問題が発生する。問題を解決するためによく考えてみる。そしてまたチャレンジする。その繰り返しのパターンを大事にする。心の病に陥らないために、心掛けないといけない重要な点を指摘している。
2013.12.29
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前田智徳選手が今年限りで引退した。多くの人に勇気と感動を与えた選手だった。前田選手は1990年広島カープに入団。24年間現役で頑張ってきた。その間、2007年9月1日、2000本安打達成。通算打率3割2厘。3割以上を11度達成している。落合博満氏は、「天才は俺ではなく、広島の前田だ」と言っていた。前田が打席に入ると、他を寄せ付けない鬼気迫るものがあった。その姿は野武士のイメージであった。打の職人であった。仕事師のイメージを抱かせる選手には、めったに出会うことはなかったが、前田はその数少ない選手であった。前田一人で、お客を呼べる選手だった。その前田選手、順風満帆の選手生活ではなかった。入団6年目の、1995年5月23日のヤクルト戦で、右足アキレス腱完全断裂。普通はここで選手生命は終わりだろう。しかし、前田は見事に復活を果たした。しかしまた、2000年右アキレスけんをかばうあまり、今度は左アキレス腱を痛めた。そして、手術を決断した。その後、またまた復活した。驚いた。その後、今年2013年手に死球を受け骨折。ついに引退した。10年以内で現役を終える選手が多い中、怪我を抱えながら、24年もの選手生命を保ったことは驚異である。それにしても苦しい選手生活だっただろう。プロ野球選手として、過酷な運命に翻弄された道のりであった。前田選手は、足のハンディを、足以外の部分を鍛えることで乗り越えていった。身に降りかかった運命を素直に受け入れて、運命を切り開いていった人だったのではないだろうか。
2013.12.24
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玄侑宗久さんの「まわりみち極楽論」より引用します。奈良の薬師寺の和尚さんがこんな話をしてくださったそうです。芽が膨らんで、いろんな可能性が芽ばえてくる春は、生まれてから30歳まで。花も大部分は春に咲きますね。そして夏は、その枝葉がどんどん茂って成長を続けるわけですが、これは60歳まであります。長い夏でしょ。秋にはこれまでのしっかりした枝葉から実が稔ります。人生の果実は61歳から90歳まで採れつづけるわけです。この時期には木々は紅葉します。常緑樹もありますが、美しく紅葉する木が多い。しかもこれは花よりも美しい木が多い。なぜかといいますと、花は、生物としてはあくまでも花粉を媒介してくれる虫とか蝶とか鳥に、自己アピールしているんですね。自己主張のための美ですからなんとなくあざとい。しかし紅葉というのは死にゆく途中の葉の様子が、たまたま美しいのです。私はこれを読んで思いました。森田理論を深めて、行動にまで落とし込んで生活している人は輝いています。若いころは右往左往して、苦しみぬいたけれども、その苦しみのおかげで森田理論に出会うことができ、そのおかげで素晴らしい人生を送ることができた。神経症という苦しみがなければ、こんなにも味わいのある人生は送れなかったのではないのか。神経症に万歳と叫びたい心境です。
2013.12.21
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蔵売って 日当たりのよき 牡丹かな小林一茶は、蔵を建てて、いろいろな珍しいものを買い求めて、蔵の中を珍品でいっぱいにする生活されていました。ところが心境の変化がおこりました。そして蔵を売り払いました。空き地になったところに日がよくあたるようになり、牡丹が鮮やかに咲いている。そんな光景を読んだものです。何ともすがすがしい句だと思います。物質的な豊かさを求めることにあくせくしなくなった人の気持ちを詠ったのでしょうね。人間にとっては、江戸時代が物質的豊かさの限界だという人もいます。江戸時代までは自然と人間は共生して生きていました。自然循環が貫徹されていました。ごみを埋め立てるという発想はありませんでした。それ以上の贅沢?は、ローマ帝国が滅んでいったような運命をたどるのだといわれるのです。私もなんとなくそうだなあと無意識に感じてしまうのです。
2013.12.20
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長らく更新が滞っています。パソコンの不具合か、楽天のブログの問題かはっきりしません。パソコンは近々買い替えます。もし楽天のブログに不具合がある場合は、他のブログに移り変えて続け行くつもりです。今後ともよろしくお願いします。
2013.12.07
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すぎもとまさとの「吾亦紅」は何とも言えない味わいがある。you tubeで見ていたら、他にもいい曲を歌っていた。その一つが「花のように鳥のように」である。歌詞がいい。「あるがままの生き方が 幸せに近い」一度、聞いてみられたらいかがだろうか。
2013.11.29
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血糖値をあげるホルモンはたくさんある。成長ホルモン、甲状腺ホルモン、コルチゾール、アドレナリン(エビネフリン)、ノルアドレナリン(ノルエビネフリン)、グルカゴンなどである。以上6つもある。これに対して血糖値を下げるのは、膵臓からでるインスリン一つである。人間の体は、とてもよくできているのに、こんなアンバランスはなぜ起こったのか。実はこれはアンバランスではない。ちゃんとバランスがとれているのである。これは人類の歴史に関係する。人類の誕生は約600万年前と言われている。そのほとんどの期間、人類は飢餓との闘いの歴史であった。そんな状況下にあっては、生命維持のための血糖値を高めるホルモンがとても重要であったのです。血糖値を下げる必要はほとんど皆無であったと思われます。そういう意味で、きちんとバランスがとれていたのです。ところが最近は事情が全く違ってきました。現在の日本人は、食べ物は金さえ出せば、どんなものでも手に入る。飽食三昧である。今や、処理しきれないほどの糖を体中にため込み、糖尿病などの病気に悩まされるようになってきた。これは敗戦後60年間に起きたことである。こういう時代で健康に生きていくためには、血糖値を上げるホルモンと、血糖値を下げるホルモンの数は逆転しないと、生命維持にはつながらない。ところが600万年もかけて作り上げてきた、人体の仕組みはそう簡単に切り替えることは出来ないのである。すると人間が生き延びようとすれば、自分の生活を改めていくしかない。飽食の食生活を改めて、粗食の食生活に戻すことである。しかし、放っておくと人間は快楽を求めて欲望が暴走するようにできている。本能的欲望が強すぎて、制御機能としての前頭葉の働きはあまりあてにできないのかと悲観的になってしまう。でも人体の仕組みを見つめ直し、また欲望の暴走の弊害を考えていく道しか、人類には残されていないように思う。
2013.11.20
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茂木健一郎氏の全力教室という番組をみた。その中で意欲を持って、新しいことに挑戦するためには3つのことが必要だといっていた。問題に気付くこと、問題を受容すること、勇気を持って行動することです。一つの例としてポストイットの話をしていた。これはアメリカのミネソタ州の3Mという会社で作られた。3Mという会社は接着剤を作る会社だった。ある時スペンサー・シルバーという商品開発者が、強力な接着剤を作ろうとして、失敗作の極めて弱い接着剤ができてしまった。それを同僚のアート・フライに「これは何かに使えないか」と言ったが、その時は粘着力が弱いのでよい考えが浮かばなかった。ところがアート・フライが教会で賛美歌を歌っていた時、歌詞の間に挟んでおいた「しおり」がひらりと床に落ちた。それを拾い上げようとしていた時、瞬間的にひらめいたのである。あの弱い接着剤を使ってすぐに落ちない「しおり」が作れないだろうか。このひらめきがきっかけで、今や世界中で使われているポストイットが生まれたのだ。これを先入観で「しおり」はこんなものだと決めつけていては、決してそんなひらめきは湧いてこない。問題をあるがままに素直に受けとる姿勢。またいろんなところにアンテナを張って、心を外に解放しておく外向的な生活態度。ひらめいたことに対して、好奇心を発揮して勇気を持って行動する態度でいること。ペンギンも最初に海に飛び込むには勇気がいるそうです。海には自分たちをとって食べるものがいるからです。でも誰かが突破口を打ち破らないと誰も餌を採りに海に飛び込みません。先駆者というのはいつの時代でもこれら3つのことが必要条件となっています。この3つのことを心がけて生活するということは、生産的、創造的、建設的な生き方につながります。これを森田用語に言い直すと、どうにもならない不安、恐怖はそのままにして受け入れること。ひらめきや感じが湧きあがるように、日常の行動実践を丁寧に積み重ねること。不快な感情はなくすることはできないが、行動することによって新しい感情は作り出すことができる。人のためになることや将来が豊かになることは、なんとしてもやりぬくという強い意思を持って果敢に挑戦していくこと。この3つにつながるのではないだろうか。
2013.11.10
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昨日の投稿の続きです。橘曙覧は子どもたちへの遺言にこう言い残している。「うそいうな。ものほしがるな。体だわるな(体を怠けさせるな)。求むるはただ至誠の二文字」これを森田理論で考えてみよう。まず、うそをいうな。神経質な人は自分をよく見せるためや欠点や失敗を隠すために、事実を隠したりうそをついたりする。橘曙覧は事実を事実のまま受け入れて、どんなに不快なことであっても事実に服従して、あるがままに素直に生きていきなさいといっています。自然に服従するということです。物を欲しがるな。日本人は1960年以降、戦後の貧しい生活から抜け出し、物質的な豊かさ、快適さ、便利さを追求してきた。欲望が次の欲望を産んで、欲望の暴走が加速度をあげて突っ走ってきた。それこそが人間の幸せなのだと信じて疑わなかった。その結果生活はなに不自由なく暮らしてゆけるようになった。ところがよい点もあったが、失ったものがあまりにも多かった。仕事に追いまくられ、家族や身近な人たちとの交流はなくなり、心が満たされることがなくなった。健康問題や地球環境は回復不可能なほど病んでしまった。こういう生き方は、欲望のみが暴走している社会ではなかろうか。バランスが悪い社会だと思う。体を怠けさせるな。体を怠けさせると筋肉が衰えてくる。頭を怠けさせると脳細胞はしだいに死んでいく。そして認知症などになる。人間一生涯、心も身体も健康でありたい。自由に体が動き、頭脳明晰でありたい。心の健康を維持するためには、多少の日常生活上の問題、不安、ストレスが必要である。不安の全くない社会は、不安定だということにやっと気がついてきた。また目標を持ち、運命を切り開いてゆく生活態度が大切である。この3つは森田理論で修養してきた人は、日常生活に取り入れておられることと思う。さらに学習して、心豊かな人生を築いてゆきましょう。
2013.11.08
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阪急阪神ホテルで端を発した食材誤表示問題が後を絶たない。安い肉に脂肪を注入して、霜降り肉に見せかけて提供していたというホテルまで出てきた。これらは日本人の本来持っていたよさが失われている結果だと思う。少なくとも江戸時代から明治時代の初期までは、誰が見ていなくても、自分を偽らず正直に生きていくという考え方を多くの人がとっていた。例えば、「本阿弥行状記」にこんな話がある。本阿弥光徳が、ある時、徳川家康に正宗の脇差を見せられた。家康は自慢げに言った。「この刀は代々、足利公方家の宝とされてきたもので、足利尊氏公直筆の添え状まである。いかがなものか」光徳は家康を前にして、脇差を鑑定した。刀は確かに正宗だが、何度も焼き直ししていて使い物にならない。光徳は正直に鑑定した結果を述べた。家康は腹をたてて以後光徳を召しかかえることはなかったという。普通は誰でも嘘も方便、家康の機嫌を損なわないという対応をとるのではないだろうか。ところが光徳は家康の逆鱗に触れて、手打ちを覚悟の上鑑定したのである。それは普段刀の目利きに命をかけて精進し、生計を成り立たせてきた。それが、家康の威厳を恐れて、いい加減な目利きをしたとなると、自分の存在価値に傷がつくということを恐れたからである。そうゆう人は絶えず自己を研鑽して、自分を高めている人だと思う。日本人は江戸時代、こうした人が少なからずいたようである。これが明治中期以降、殖産興業、富国強兵という西洋文化が日本に定着して、利己主義、拝金主義、便利主義、快楽追及にとって代わるとともに急速に衰退して来た。それが今回の食材誤表示にまで及んでいるのである。森田理論でいえば、本能に身を任せた行動が歯止めもなく突っ走っている状態といえるだろう。本来は理知でもって調整して行動するという、バランス感覚が機能してこないと、調和が崩れてしまう。東京オリンピックプレゼンの滝川クリステルさんが、日本人の「おもてなし」の心を強調していたが、本当の意味で「他人を思いやる心」を持っている日本人が果たして存在するのだろうか。
2013.11.02
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中国の大気汚染が深刻だ。中国政府も手をこまねいて見ているわけではない。しかし50メートル先も見えないほどの視界の悪さだ。ハルピンでは学校も休校だという。日本でもかって川崎、尼崎などで公害問題があった。経済成長優先という場合、いつも生活者の犠牲がつきまとう。国民の生活を優先したうえでの、経済発展を願うばかりである。中国では日本以上に森田療法が普及している。森田療法を手掛けている人たちはどう思っておられるのか聞いてみたい。
2013.10.21
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私は今「獅子舞い」を月一回1時間習っている。授業料は2カ月に一回焼酎1本である。安くて申し訳ない。生徒は5人いるが一番ましなほうだとうぬぼれている。師匠は奉納獅子舞いをする実力者である。今はぎっくり腰で休んでおられる。私はまだ初心者なので、「あなたのは獅子舞いではなく、まだ獅子踊りの段階だ」と言われている。胸かみ、山越し、ミカンのつかみ食い、居眠りなどの練習をしている。本番でやらないと本気にならないので、今月は初めて公開公演を2つこなすことにした。難しいのはお囃子に合わせることだ。これはまだ十分でない。獅子頭はよいものが手に入った。普通はいいものは30万円ぐらいするのだが、友達のよしみでビール1ケースで立派なものを作っていただいた。これは私の口から言うのも変だか申し分のない獅子頭だ。迫力がある。耳が立つ。耳がよく動く。私は集談会で出会う人にいつも一人一芸を勧めている。いろんな特技を持っている人は多いが、公開することろまでいっている人が少ない。残念だ。また楽器などできる人が多いのだが、老人ホームの慰問などしている人は少ない。私は森田先生のまねをするにあたっては、森田先生の一人一芸から入って行った。もっとも森田先生は2芸も3芸も持っておられたようである。一人一芸を身につけて公開すると、みんなに喜ばれる。自分も目標が持てて生活に張りがでてくる。健康的な生活になる。などの利点がある。いつか生活の発見会で大々的なかくし芸大会を企画したいものである。1年も一つの芸事に取り組めば、人を感動させることができるのではなかろうか。
2013.10.11
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今日今まで1回もNHK受信料を払ったことがないという人がいた。テレビを持っていない人はいないわけだから、相当なつわものである。その人が言うにはNHKは見たい番組がないという。見るのはプロ野球ぐらいだという。それでは払いたくないのもよく分かった。NHKには民放にはない優れた番組も多い。プロフェショナル、NHKスペシャル、アスリート魂とか見たことがないのかというと、そんな番組があることさえ知らないという。相撲などもほとんど見ないらしい。どんな番組を見ているのか聞いてみた。ほとんどバラエティ番組だった。サスペンスもよく見ているようだった。格闘技もよく見るそうだ。ボクシングなどである。私はバラエティ番組を見ると頭が痛くなる。なんでこんな番組が電波を使って飛ばす必要があるのかと思ってしまう。でも人それぞれだから仕方ないかなと思った。一致したのはコント番組だった。私も好きだ。文句なしにおもしろい。私は録画してあとで見ることが多い。これも賛否両論あることを知っている。子供にこれを覚えさせると、同じ番組を何回も見るそうだ。また、いつでも好きな番組を見れるという気持ちにさせるらしい。私はテレビの分野で、まだ誰も手をつけていないことで、必ず需要がある仕事があると思っている。今まで放映されたテレビ番組で、見たい番組を安価でダウロードして見れる仕事である。ジャンル別に分けて希望の番組を選ぶ。今でも新聞などで宣伝されるが高すぎる。種類が少なすぎる。などの問題がある。そんなサービスが開始されれば、私はぜひ見たい番組がある。「人体の仕組み」「宇宙の起源」「生命の誕生」「健康の秘訣」「人間関係のコツ」「子供のしつけと育て方」「加工食品の作り方」「自給自足の生活」などである。これまでの多くのいい番組がある。人類の宝だ。これらを活かさない手はないと思うのである。きっとこの先誰かが手掛けると思う。期待して待っているのである。
2013.10.11
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人間をボケさせる方法があるそうです。一日中せまい部屋に閉じ込めて情報を遮断するのです。宇宙飛行士の訓練でそうした実験をすると、体よりも先に精神状態がおかしくなってしまうそうです。宇宙に飛び立つと、小窓から地球を眺めることで癒されるといわれています。次に一日中テレビを見て過ごすという生活はどうでしょうか。テレビから情報はたくさん得られるように思います。ところがこれは平面的な情報です。写真を見ているようなものです。これでは脳の機能を維持することは難しいという人がいます。五感をフルに使っていないために、廃用性萎縮が起きてしまうのです。私が最初にプロ野球観戦に行った時のことです。芝生の鮮やかな緑、鳴り物を使った派手な応援、球場の大きさ、周囲の人たちの表情、選手たちの躍動感など球場の雰囲気に圧倒されました。テレビを見ているだけとは大違いでした。クラッシックのコンサートに出かけた時も、CDから流れる音楽を、家の中で聴いているのとは全く違いました。実際に第九合唱団員になり、オーケストラの後ろで「歓喜の歌」を多くの人と合唱した思い出は、今も懐かしい記憶として活き活きとよみがえります。体感というのはすごいのだと思います。体感しないで、テレビ中心の生活をしているとどうなるか。周囲の変化に対して反応が徐々に衰えてくるのです。森田では周囲の変化に常にアンテナを張って、その変化に合わせて自分の行動を瞬時に適応させていくということを重視しています。ところがテレビ漬けの生活はその能力を奪ってしまいます。人に話しかけられても、即座に対応できなくなります。できても遅くなるのです。相手の表情などから状況を読み取り、適切な反応を示すことができなくなるのです。変化に対応できなくなると、神経症と同じで思考が堂々めぐりするようになります。行動と思考の悪循環が始まります。テレビ三昧で目を動かすことが少なくなるとそうした弊害が起きてくるのです。ここでも森田的生活がいかに大事であるかが分かります。
2013.09.24
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インターネットなどで読者の反響が大きくて炎上したなどということがいわれる。また、匿名で相手を中傷誹謗する書き込みを繰り返す人がいるという。ウィルスの入ったメールなどを送りつけて喜んでいる人がいる。こんなことを繰り返す人は、何かに不満を持っていて、憂さ晴らしのために、やっているのだろうが、感情の法則からすると自分の行為に刺激を受けて次から次へとエスカレートするばかりである。中毒症状と同じで、止めようと思っても自然にキーポードを叩いてしまう状態だと思う。ギャンブル依存、アルコール依存、薬物依存、セックス依存と一緒だ。もしこれから逃れようとすると、手厳しいしっぺ返しを食らわないとその呪縛から逃れられないのである。私も以前パチンコに凝って、家に帰ろうとするのに自然に足がパチンコ屋に向いてしまうというパチンコ依存症にかかったことがあった。年間予算を10万円と組んでも1カ月ぐらいですぐに使ってしまう。自分ではこんなに湯水のようにお金を使ってはいけない。と押さえつければつけるほど反対に行動としてはエスカレートしてしまうのだ。なんとかしなければともがいていた。足を洗えたのは負け続けてお金がつづかなくなり、やむなく断念することになってからだった。森田でいう恐怖突入だった。最初は禁断症状がでたがしばらくすると楽になった。行かないことが習慣化すると、行かなくても平気になった。ここ10年ぐらいはパチンコ屋に入ったこともない。身近にもギャンブル依存、アルコール依存、薬物依存、セックス依存で生活が破たん寸前という人をたくさん見てきた。人ごとではない。森田と一緒でどん底まで落ちないと立ち直りはないのかもしれない。自分一人で解決できないときは、人の助けを借りることだ。今はそれぞれに自助グループがあるのでまずは参加してみることだと思う。生活の発見会と同じでたぶん温かく迎えてもらえると思う。
2013.09.20
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川田薫さんという学者がいる。生命の起源について科学的に研究をしている人である。この人の研究では、海と陸地の境で生命は誕生したという。ミネラル(岩石などの鉱物)と、水、大気、太陽の光の化学反応によってアミノ酸のようなものは作ることはできる。詳しくはユーチューブで1時間にわたって解説されているので参照してほしい。私が注目したのはこれから先のことである。こうして生体というものができるが、生体が動くということがどうも理解できなかった。生体はしばらくするとさかんに動き始めるというのだ。川田さんはこう考えた。どこからか生命エネルギーがその生体に入り込んでいるのではないか。そして生命エネルギー体として存在しているのではないのか。生命エネルギーというのは質量がある。ネズミを使って実験すると、ネズミが死ぬ時、早い遅いの違いはあるが、かならず質量の変化が観測される。これは生命エネルギーが生体から離脱していることでないか。これは人間も同じだという。母親のおなかの中で器官に分化してくるときに生命エネルギーが入り込んでいるのに間違いないといわれるのです。人間は親が勝手に産むのではなく、自分が親を選んで生まれてきているのだ。だからかってに、こんな自分に産んでからにと親を逆恨みすることは間違いだといわれるのです。自分がこの世に生まれるときはプロクラムを持ち、課題を持ち、役割を持って生まれてきているのだ。でも生命体として宿る前にはいったんすべてを消し去って生まれてくるのだ。自分の使命に早く気がつくことが大切だ。私が川田薫さんを知ったのは、元メンタル記念財団の岡本常男氏であった。「石ころにも命あり」というテープを送っていただいた。NHKの深夜便「心の時代」のテープであった。川田さんは前科学振興事業団の研究員であり、生体と生命エネルギーが合体して生命エネルギー体としてこの世に存在しているのだといわれている。このテープを聞けばあなたの生き方に影響を与えると思う。さらに森田を深めてほしいということでした。今考えると岡本さんは、人間の肉体は死んでも生命エネルギーは死なないのだと確信しておられたのだと思う。そう仮説を立てて生き方を考えることがとてつもなく大切なことに思える。
2013.09.19
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ジョゼフ・マーフィー牧師によると、私たちの意識のうち自分で自覚できる顕在意識は全体の10%であり、それ以外の90%は潜在意識(森田でいう無意識)といって、自覚していない中で生活している。これは車の運転でとてもよく理解できます。車の運転は無意識に体が反応して適切かつ正確な行動がとれています。ほとんどの人、ほとんどの場合そうなっています。反対にもしチェンジレバー、アクセル、ブレーキなどの場所や動きなどにとらわれて、意識がそこに引きつけられるようなことがあると、とても危険極まりないことになります。初心者のうちは意識的な行動は仕方ありません。しかし、ある程度経つと無意識的行動に変化してこないと支障をきたすようになるのです。森田ではとらわれた時は、注意をそこに向けて感覚が高められた状態であるといいます。それが、いつの間にか無意識の状態に変化してきたときが、症状から解放された時だと説明されています。私はチンドン屋で曲がりなりにも、アルトサックスを吹いている。そのことがとても実感できるのです。初めてやる曲は、もどかしいほどゆっくりゆっくり指使いを覚えていきます。テンポやリズムは上手な人の模範演奏をPCM録画機に録音して、何回も聞いて感覚を掴みます。それを何回も何回も繰り返すのです。バカになって練習を繰り返すのです。カウンターを持って100回。200回と繰り返すのです。同じ曲ばかりやっていると飽きるので、他の曲などで気晴らしをしながら、またその曲に戻るのです。何日も何日も繰り返すのです。500回から1000回繰り返していると、譜面がなくても、暗譜で指が動いてくれるようになります。練習というのは恐ろしいものです。不思議なことが起きるのです。無意識に手が勝手に正確にキーを押さえている。あとで振り返ると意識していなかったのに、うまく吹けたという状態が増えてくるようになるのです。その時意識は邪魔になってきます。無意識で演奏できないと間に合わない。曲になっていかない。ところがたまに迷いがでてくることがあります。この次はどこのキーだったかなとか、うまく吹けるかなという一瞬の迷いです。また本番中に少し色気を出して、感情豊かに吹いてやろうなどと思うと途端に調子を崩すことがあります。また仲間のしぐさなどが気になると間違いやすいのです。つまり無意識の状態になって、淡々と指の動きに全幅の信頼をおいて、まかせきっている時がうまくいく時なのです。普通観念では、意識していないと間違いが多いように思いますが、それは認識の誤りです。無意識にならないと音楽は成り立たないのです。言葉ではうまく言えないところがあるのですが、たしかにそういう「はまる」「そうしたゾーンに入る」ということがあります。ここで私が何を言いたいかというと、無意識のうちに体が動いたり、自然に行動していたりする瞬間を作るということが大事なのではないかということです。最初のうちは意識して、なんでもかんでもとりあえず行動しますが、しだいに無意識の行動に変化してこないと物事はうまく展開してゆかないのではないかと思うのです。
2013.09.14
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サッカーの岡田武史監督がこうおっしゃっています。脳には新皮質と旧皮質があって、人間の脳だけが新皮質が発達している。新皮質というのは物事を考えたり、判断したりする理性的な活動をになっているのですが、旧皮質に比べると処理速度が非常に遅いのです。サッカーでも、ボールをもらった時に、パスするかドリブルするかを新皮質で考えているようでは遅すぎます。旧皮質を使って素早く自然に体が動くようにならないと、いいプレーはできません。これはどういうことかというと、基本的なことができるまでは、新皮質を使ってさまざまに工夫を凝らして、意識して理性をフル回転させて技術を体に覚えこませるということです。これは意識的な行動です。ゆっくりと時間をかけて反復練習を繰り返すことです。そして、練習によって、ある程度の高い確率でできるようになったとします。いったん試合に入ると、無意識に判断しポジションをとったり、足が動くということが必要なのです。試合でパスしようか、ドリブルで行こうか、シュートしようか理性で判断していては遅すぎるということです。理性が優っていては試合では全く通用しないということです。森田理論では症状で苦しいときは、一つの不安にとらわれて、なんとかその不安から逃れたいと意識を一点に集中させている時です。とらわれていない時というのは、症状に対しては無意識の状態です。とらわれないためには症状はあるがままに受け入れてなすべことをなすという生活態度を堅持するということです。そうすると症状に対して無意識の状態が必ず訪れます。サッカーでいえば一心不乱にボールを自由に扱えるように練習をする。失敗を繰り返しながら、さまざまなフォーメーションを試してみる。そういう努力を積みます。そして試合になれば意識はお休みいただいて、無意識に全面的にお任せする。あとで振り返ってみると、無意識に身体の方が勝手に反応して動いていた、という状態がベストなわけです。岡田監督は、森田理論の真髄を語っていると思います。
2013.09.07
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森田先生は死の恐怖ということを言われています。死はどうすることもできない。死は恐れざるを得ない。これは確かに真実です。これが究極の恐怖だと思う。最近「生きがいの本質」飯田史彦さんの本を読んで感じたことがあります。人間が死んだあとはどうなるかということです。2つの考え方があると思います。一つには死後世界などはない。死んだら骨と灰になってしまう。それでおしまいというものです。二つ目には、そうではない。死後体は無くなるが、魂は生き続けるというものです。輪廻転生の考え方です。しかしこれは、我々にはどちらが正しいのか全く分からない。死んでみないと全く確かめようがない。あてずっぽうでいっても仕方ない。臨死体験を持つ人もいるようだが、どうも説得力に欠ける。こういう前提に立って考えるとすると、私は、魂はいつまでも生き続けるという考えを前提にして、今を生きていく方がよいと思う。死んだらもうおしまいという考えに立つと、不安や恐怖がどんどん大きくなる。またこの世で相手を押しのけてでも、自己中心的に享楽的、独占的、支配的な生き方に偏ってしまうと思う。そうした破れかぶれの生き方というのは、どうも違和感がある。仮に魂が生き続けると考えると、生き方が変わってくると思う。よい意味で、今現在の生き方に影響を与えると思うのです。自己中心的な生き方ではなく、他人に尽くすような生き方、将来が少しでもよくなるような生き方、他人に感謝するような生き方に変わってくると思う。この世で精一杯生きていかないと次にはつながらないと思うからだ。次に生まれ変わる時に、さらによりよい生き方ができるように努力するようになると思う。もし仮に、死んだらそれですべては終わりという結果なっても、そういう生き方ができれば、それはそれでよいのではないかと私は考えます。歳をとればとるほど1年1年があっという間に過ぎてしまいます。一日一日を大切に生きていきたいと思う今日この頃です。
2013.09.04
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以前「ゆとり教育」ということがいわれていました。また「ゆとりある暮らし」、「ゆとりのある老後」ということもよく言われます。ゆとりという言葉を分析すると、経済的に余裕がある生活、時間的に余裕のある暮らしということを示していると思われます。お金の面では給料や年金で毎月の生活費を賄い、退職金や親の遺産が転がり込んでくれば貯金して余裕のある生活となります。また時間的には、掃除、洗濯、食事の準備などのこまごました雑事はできるだけ家電や他人に任せて、自分の自由な時間を作る。今の世の中、掃除は掃除ロボットもあります。洗濯はほとんどの家が全自動洗濯機です。食事も外食に行く機会が増え、自分で作るという人も、宅配サービスを利用する人もでてきました。こうしてゆとりある資金と時間を作り出した人はたくさんいます。その人たちは、満ち足りた生活をしているのでしようか。ゆとりのある生活を作り出してなにをしているのでしょうか。ゆとりある資金と時間で、もともと自分のやりたかったことに振り向けているのでしょうか。一般的には、夜更かしをして、家の中でごろごろして、テレビ三昧。ギャンブル三昧。旅行やグルメ、趣味に没頭し、観劇を楽しんだり、気のきいた人はボランティアなどが多いのではなかろうか。全員がそうだとは思いませんが、次のようにいう人がいます。「私は釣りが好きで、現役のころは退職したら毎日釣り三昧の生活を楽しむことを励みに頑張ってきました。でもそれが実現して毎日好きなことをしているのに、充実感といったものがないのです。そのうち釣りにも飽きてしまいました」若い時に苦労して、年齢を重ねてやっとゆとりある生活を手に入れて、さあこれから思い切り楽しむぞと思って始めた生活のどこに問題があったのだろうか。私は思う。山のあなたの空遠く幸いすむと人の言う。実はそんなところには幸せはないのではないか。日々過ぎ去っていく日常茶飯事の中、雑事、雑用、雑仕事の中にこそ幸せの種はあるのではなかろうか。手を抜いて自由な生活を手に入れるという目標設定自体間違っているのではなかろうか。森田先生はたくさんお金を貯められました。でも余分のお金は寄付されています。普段の生活はせんべい布団にくるまり、詰襟の服を着用されていたという。ところが日常生活は風呂焚きにしろ、便所の汲み取り、マキ割り、ご飯炊き、ウサギやニワトリを飼い、野菜のくず拾いにまで手を出され、大学での講義、入院生の指導、外来患者の診察、通信指導、形外会での指導などどれをとっても一心不乱に取り組んでおられました。これから分かることは、普段は面倒だ、億劫だと思えるような日常生活に真剣に向き合うことの中に、心満ち足りた生活は待ち構えているのではなかろうか。
2013.09.04
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今日は9時から「半沢直樹」が楽しみだ。NHKで地震の番組もあるので録画することにして後で見たい。今日はBS朝日の「神秘の大宇宙」の連続録画を見たが、興味は尽きない。宇宙銀河の映像はとてもきれいだった。引力と遠心力でバランスをとりながら常に流動変化しているというのが、とてもおもしろい。あと、人体の仕組みの番組も見逃せない。脳の仕組みにしろ、免疫の仕組みにしろ、人間はよくこれほどまでに進化してきたものだ。いろいろと試行錯誤を繰り返して、今にたどりついたことに感動を覚えています。さて今日は「獅子舞い」の稽古に出かけてきた。生徒5人。先生一人。先生は有名な構造設計の一級建築士だ。生徒も多彩で、警察の元刑事。現役の学校の先生。元電気工事の社長とその奥さん。元刑事さんと話をしたところ、今県の南京玉すだれの先生をしているという。また安来のどじょうすくいで2カ月に一回ペースで老人ホームの慰問をしているという。娘さんはなぎなたで高校生を週3日指導しているという。師範の免許があるという。私の趣味の仲間は、とにかく元気いっぱいの人が多い。好奇心いっぱいなのだ。こうゆう人と付き合ってると、自然にエネルギーがたまってくるような気がする。
2013.09.01
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誰でも歳をとってボケて、犬や猫のような生活を余儀なくされることはイヤだと思う。しかし現実には認知症を抱えてしまう人は多い。そのうえ足腰が立たなくなって、植物人間のような状態になると、本人も苦しいし、介護する人も家族の負担も大変だ。集談会でも介護の話は、毎回のように話題として取り上げられる。認知症の人の脳はどうなっているのだろうか。まず記憶をつかさどっているのは脳の中央部にある「海馬」である。これが歳とともに機能不全に陥る。少しずつ記憶が薄れてくる。これは仕方ない面があるが、積極的に手足を動かすなどの生活を保っていると、全く機能しなくなるということはないようだ。次に嬉しいとか、悲しいとか、腹が立つとか、恐ろしいという感情ですが、大脳辺縁系の原始的感覚だという。脳でいえば、快、不快、好き、嫌いは扁桃体の役割である。意欲とかやる気は帯状回の担当である。これは動物などにもある。認知症になっても、最後まで残る感覚である。だから旧皮質といわれている。前頭葉は、大脳新皮質といわれるもので、動物ではほとんど発達していない。人間のみが高度に発達している。人間には理性があり、感情の制御があるというのは、前頭葉、頭頂葉、後頭葉の働きによるものだ。認知症の場合は、海馬や前頭葉などの働きが機能しなくなって起きる。例えば、さっきご飯を食べたのに、「嫁がご飯を食べさせくくれない」などという。まず海馬が機能不全に陥っているために記憶がないのである。反対に嫁に気に入らないことをされたり、言われた事はイヤな感覚としていつまでも残っている。拒否反応があるのだ。大脳辺縁系の原始的感覚だからだ。しかしそれを抑えたり、うまく立ち回るような前頭葉の働きが衰えているので、我慢するということはできない。その結果相手に不快なことや、してはいけないことを平気でしてしまうのである。認知症になった人が家族にいる場合どうするか。脳の働きを理解していれば、叱りつけたり、説教しても、そのいやな感じだけが蓄積されるのでほとんど意味はない。反対に悪影響が積み重なる。認知症の人は、今現在だけに生きているのである。それ以外のことは記憶にない。「嫁が自分の財布を取った」と言えば、財布が自分の目の前にないということを言っている。だから家族の人は、「そうか。それなら一緒に探そう」といって探せばよいのです。自分が置き忘れていることが多い。また自分で隠すこともあるが、大体同じようなところに隠しているそうです。見つけたら「あった。あった。ここにあった」と言って一緒に喜んであげる。そして渡してあげればよいのです。穏やかになります。すぐにまた別の問題を出します。同じ対応することが大切です。これは集談会で聞いた話です。介護は事実に従うと比較的うまくいくという話だと思います。ただ私たち自身としては、認知症にならないように予防することが大切です。脳が廃用性萎縮を起こさないように森田理論を応用して生活していく姿勢を堅持したいものです。
2013.08.30
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私の参加している集談会では、「生活森田・応用森田」というコーナーがある。これは神経質者は、好奇心がとても旺盛で、他の人の趣味や行動、考え方などに影響を受けて自分の生活が大きく膨らむ可能性があることに目をつけて企画したものである。毎回15分の時間を予定している。最初はいろんな趣味や生活ぶりが多彩に紹介されていたが、発表してくださる人がいなくなった。そこで先月は「お勧めのテレビ番組」の紹介だった。みんなから発表してもらった。その中で、ドラマ「半沢直樹」を見ている人が多かった。私はそれまで全く見ていなかった。私もこの情報をもとにして、早速録画してあとで見てみた。痛快なドラマだった。大手銀行の支店長の不正融資を、部下の融資課長が見破り、支店長を失脚させる内容であった。今後の番組では、さらに本店常務などを失脚させるという筋書きだろう。私の感想です。自分が一度はやってみたいこと、言いたいことを、自分になり変わって「半沢直樹」が正々堂々と、組織の上層部に挑み、かつ成果をあげているのが気持ちよかった。自分の痛めつけられた仕打ちに対しては、10倍返しで仕返しをしていくのであるから、ストレスのある人にとっては痛快でたまらない番組だろう。事の顛末に対して、スリルも感じることができる。特に次のような問題を抱えている人にとっては、共感を得ていると思う。毎日毎日遅くまで仕事でサービス残業している人。仕事のキャパが自分の能力の限界を超えている人。ノルマがきつく、いつもノルマを達成できずに、上司から叱責されている人。得意先やお客様などのわがままに対して、常にトラブルを抱え込んでいるような人。思っている仕事を与えられず、閑職に追いやられている人。会社の人間関係でノイローゼ気味になったり、鬱状態になっている人。同僚との出世競争に巻き込まれてヘトヘトになっている人。仕事に生きがいを見出すことができないけれども、生活のために辞めるわけにはいかない人。その他いろいろあるだろうが、現状の仕事や人間関係にとてつもない憤りを感じている人である。この日曜日のドラマで、月曜日から仕事のエネルギーが湧いてくればよいのだろうが、ご覧になっておられる方はいかがでしょうか。上に書いた問題は私の問題でもありました。私がどうして乗り切ってきたのか。いくつかありますが、その一つの基本的な考えをご紹介しましょう。私は集談会で、会社は利潤をあげることが唯一の目的だから、どっぷりその渦中に巻き込まれてはいけない。「月給鳥」という鳥になって家族のための餌をとってくれば十分ではないかという話を聞き、それを第一に心がけました。その方針で、定年近くまで勤め上げれば御の字だと思います。難しいかもしれませんが、肩の力を抜いて、「ほどほど」に仕事に取り組まれたらと思います。この考えには、反論がある人も多いでしょうが、最後に笑うことができる人は臨機応変、柔軟性のある人だと私は思います。
2013.08.24
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皆さんもYOU TUBEはよく利用されていると思います。私は集談会後の居酒屋での懇親会で教えてもらうまでは知らなかったのです。私にとってはとても役に立つ貴重な情報でした。6年ぐらい前だと思います。現在音楽や演芸でよく利用させてもらっています。ほとんどの聴きたい音楽はそろっていますね。私はPCM録音機にダイレクト録音して利用しています。この録音機も集談会で教えてもらいました。CD並みのクリアーな録音ができるというのが気に入りました。再生は、スローにしたり、リピート機能を使ったりといろいろ利用しています。カードを入れてもうすでに30時間分ぐらい録音しています。サックスの練習もこれなしでは上達しないと思っています。演奏の本番を迎えるときは、心を落ち着けるためにイージィリスニングがよいと思っていましたが、先日ある人から、それはやる気モードに転換できないといわれましたので変えてみようと思っています。
2013.08.23
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私の盆休みは10日から13日の4日間だ。今日で3日目だ。今日は明日から孫が来るので大掃除をしている。明日は田舎に行って墓参りに行く予定だ。10日と11日はとても充実していた。両日とも朝は、サックスの練習、獅子舞いの練習、どじょうすくいのあと今度の研修に使う森田理論学習テキスト作り。一冊目はA4用紙で100ページのものだが、予定の35冊を製本した。もう一冊目に盆明けに取り掛かる予定だ。午後はハードディスクにため込んでいた、テレビ番組を見て過ごした。情熱大陸、人生の楽園、題名のない音楽会、プロフェッショナル、NHK特集などである。これはDVDに落としておきたい番組がたくさんあった。佐村河内学さんの生きざま、遺伝子解読の話、マイケル・サンデル教授の特別講義、野山の雑草や苔の生態をカメラに収めておられる老人の話などコマーシャルを飛ばしてずいぶん見ることができた。私にとっては至福の時であった。人生の楽しみ方というのはいろいろあるのだなと思います。人から見るとなんでもないような日常にささやかな喜びを感じられる、こんな人生を歩んでゆきたいなと思っています。
2013.08.12
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今日会社の人の話を聞いて驚きました。その人の腕は紫のかさぶたのようなものがいたる所にあるのです。最近は何かに腕が触れるたびに、すぐにそこがはれて傷になるのだそうです。訳を聞いてみると、最初は湿疹がたくさんできたため病院に行かれたそうです。その病院はすぐにステロイド剤を処方したそうです。すると湿疹が治まり薬が効いてきたのだと思われたそうです。でもしばらくすると、また湿疹がでてきて最近では薬が手放せないと思っているとのことでした。最初は1錠飲んでいましたが、この薬は強いということが分かったので、最近は半分にして毎日飲んでいるそうです。私は安保徹先生の、「ステロイドという薬は気をつけなさい」という話を聞いていたので、その人に話しましたが、半信半疑のようでした。主治医を信頼して聞く耳を持たないのです。早速帰って安保先生の「免疫革命」という本を開いてみました。すると次のような記述がありました。ステロイドは過酸化脂質として組織に沈着します。酸化物ですから白血球の中の顆粒球を呼び込んで炎症を作ります。短い期間なら使ってもよいのですが、半年、1年と長期にわたって使用すると、酸化沈殿物による炎症が慢性化します。するとその治療のためにさらにステロイドの量を増やさなければならない、という形で、悪循環にはまっていきます。ですから、ステロイドを数カ月使っても治らない場合は、すぐに見直さないといけません。ステロイドをすぐに処方する医者に聞きたいと思います。慢性化したアトピーなどの症状が、もし自分に発生した時ステロイド剤を、あなたは長期にわたって使い続ける度胸がありますか。もし使い続けるという医師がいたなら、もう少し薬の副作用について勉強していただきたいと思います。我々は、病気になる仕組みについてはよくよく学習してゆきたいと思います。病気はストレスや生活の乱れからくるものがほとんどです。
2013.08.01
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今日の新聞に心理カウンセラー岩田明子さんの記事があった。なにごとにも意欲が持てず、おもしろいことがない。人に会うのが億劫。というシニア世代が増えているという。この人たちが認知症予備軍だという。感情の老化はやる気、創造性、感情をつかさどる脳の前頭葉の老化によっておこる。茂木健一郎氏によると前頭葉は使えば使うほど活性化してくるという。反対に使わないと、脳は必要ないとみなして廃用性萎縮が始まり認知症などになる。生き生きとした感情が衰えてくると、活動性が失われて、体全体の衰えにもつながるという。負の連鎖が引き起こされるのである。気持ちを若々しくする一番の方法は、「自分の心が弾み、ハートが熱くなる趣味の対象を見つける。やりたいことをやってみる」利害関係がなく、効率を求めず、時間を忘れて熱中できるような趣味が最適だといわれている。また自分の硬直した思考や気持ちをほぐすため、好奇心を持ってこれまでと違うことに挑み、新しい人々と交流するのもよさそう。やる気を出すには体を動かすのもお勧めという。こうしてみると森田を続けている人は、認知症などはあまり気にしなくてもよいのかなと思う。
2013.07.26
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これは難しい問題である。森田先生は性格の面から、神経質同士の結婚はよくないという。神経質同士は、お互いに心持が分かり、心の底まで見通しているから、互いにその欠点を挙げあって、相手ばかりにそれを改良させようとする。グジグシといつまでも、しつこく言い争いをする。またヒステリー同士でもいけない。喧嘩が早くて始末におえない。およそ結婚は、気質の異なった人が、うまく組み合わされるとよい。神経質の人は、気の軽い大まかな人と結婚するのがよい。すると気の軽い人は、あの人はどうせ気難しがり屋だからといって大目に許し、また神経質の方では、どうせあれには、難しいことをいっても分からないといって、あまりやかましくはいわなくなる。お互いに許し合うから円満になる。結婚については、最も大事なことは調和ということです。磁石のプラスとマイナスとひっつけるとたしかに力づくで離そうと思ってもひっついてしまう。反対にどんなに大恋愛をしても、その性格がプラスとプラスだったり、マイナスとマイナスの組み合わせだったりするとしばらくすると分かれる運命にあるのが多いようだ。まあ、子供ができるとそうそう分かれることもできないのだが。私の感じでは相性を一番に考えるのはいかがなものかと思う。相性が反対なのが刺激があって、バランスが取れていい面もあるし、反面意見が合わずに喧嘩になることもある。でも発見会の会員同士で結婚してうまくいっている例もあるのだ。神経質同士だ。でもうまくいっている人も現実にいる。そもそも実際最初に結婚するときは、相手を選別するとかいう落ち着いた心境にあるのだろうか。目の前に現れた人が、自分に好意を持ってくれていればそれで御の字。結婚したい人は後先考えずに結婚しているのではなかろうか。私はそれでいいと思っている。あまりにも結婚相手に完全を求めると、結婚後しばらくすると神経質者の場合、相手の欠点がすごく気になると思う。別れたいと思うことがたびたびあった。今は60点の相手ならよしとしたほうがよいと思う。完全主義は息が詰まる。それと神経質な人は、相手と一日中一緒の生活は避けたほうがよいと思う。それぞれの仕事、趣味、生活スタイルを築きそれぞれに好きなことを精いっぱいやっている。でも家事や育児、食事、家計のやりくりはお互いに相談して分担する。というスタイルがいいと思う。助け合うときは助け合い、そうでないときはお互いあまり干渉しないで、自由にのびのびと自分の好きなことをする。私はこれでやってきたし、これからもこれを踏襲したい。この意見は多分反発する人も多いだろう。「人生の楽園」といういい番組がある。でも番組を見ていると、いつも仲の良い夫婦が二人三脚で生活されている。私にはまねができないし、息が詰まるのである。
2013.07.22
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15日海の日に老人ホームの慰問をした。その日は98歳の人の誕生日祝いだった。驚いた。いろいろ老人ホームへ出かけて慰問活動をしているが、あんなに元気な98歳の人を見たことがない。日本舞踊も踊るし、民謡も歌う。髪もきちんとされており、顔を見ていると70代ぐらいにしか見えない。全然ぼけていない。当日は着物をきちんと着て、祝いに駆けつけてくれた人に笑顔であいさつされていた。ケーキのろうそくは年齢の関係で1本だった。ひと吹きで消された。そしてその人に1年のうち祝日が一日もない月が2つあるが分かりますかと聞くと、6月と8月とすぐ答えられた。どうして頭もしっかりして、体も心も健康なのだろう。するとまだ化粧をする力が残っているからだろうといわれる。それを追っかける男性はもっと長生きができるのにと冗談をいわれる。恐れ入りました。森田を学習する人はこんなふうに歳をとっていくのだろうなと思った次第です。
2013.07.17
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