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最近退職金の運用に失敗している人が多いという。退職金を元手にしてさらに増やしてやろうという気持ちが強いのである。退職金を持っていると金融機関や証券会社が虎視眈々と狙っている。大体最初は投資信託を勧められる。ところが大幅な元本割れを起こしている人も多いのである。中には郵便局で投資信託を勧められ、全額を投資したがリーマンショック後資産が半分になったという人がいた。悔やんでも悔やみきれない。また資金の運用に積極的な人はFX、先物取引、株式の運用をされていることだろう。でもそれらは必ずもうかるというものではない。安倍政権に変わってからは株価が上がり利益を出してしている人もいる。しかし株は変動要素が多い。いいと思って始める時は高値である。高い株価はやがて下がる。それが世の習いである。例えば東京電力などは安定株の筆頭だったのに、今や見る影もない。社債も配当金が多いところを見つけても、そういう会社に限って倒産することがある。大体資産を増やそうという欲が強すぎるとろくなことはない。資産を安全に守るということを最初に考えないといけないと思う。その次のステップとして資産運用を考えるというスタンスを守るべきである。ファイナンシャルプランナーとしての私の考え方はこうだ。資産の10分の2以内だったら株式投資をしてもよい。リスク商品を研究してそれにかけてもよい。それ以外の資金は投資に回してはいけない。また最初は余裕資金の1割か2割で様子を見るのがよい。デイトレードでお金儲けをしようというのはもってのほかだ。ほとんど失敗して後悔する。デイトレードは9割以上の人が苦労してためたお金を失っているのだ。運用というからには半分に減るということも考えないといけない。それでもいいという人が、研究を重ね、勉強会に参加して納得して取り組むことなのです。株が儲かるといって大半の財産をつぎ込むようなことは絶対に慎むべきだと思う。また他人の推奨する株を無条件に信じて投資するのは如何なものか。それで運用益を出そうとする魂胆がそもそも間違っている。そういうのは投資とは言わない。博打というのである。一番いいのは余裕資金の一部を、将来世の中で必ず役に立つと思う会社をベンチャー企業として起業した人を応援するつもりで投資することである。投資というよりも「寄付」するという気持ちである。そういえば森田先生はあちこちに多額の寄付をされていた。寄付したと思えば投資資金失っても腹が立たない。寄付だと思えば余裕資金を超えて投資することは無くなる。うまくいけば会社が伸びて思わぬリターンが入ってくることもある。
2015.04.15
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帯状疱疹という病気がある。3人に一人はかかるそうだ。私もかかった。この病気にかかるとチクチクと針の先で体を指されているような痛みがある。下着が触れただけでも激痛がはしる。ちょうど風疹の発作のような痛みだ。その痛みが一日中続くのだからたまらない。なかには日中肌着を脱いでいる人もいるそうだ。60歳過ぎの人がかかるケースが多い。原因は水痘ウィルスだそうだ。この病気の厄介なことは現在完治する治療法が確立されていないという事だ。つまり極端なことをいえば死ぬまで痛みが続くという事だ。それを帯状疱疹後神経痛というそうだ。これは末梢神経から脊髄、脳に及ぶ神経系を広く巻き込んだ障害だそうだ。初期治療としては抗ウィルス薬が効く。早期治療すれば治るケースもある。ところが最初の自覚症状は皮膚にかゆみがあるなという程度である。孫の手で掻いたりしている。そのうち突然針で刺された痛みがでてくるのだ。あわてて医者にかかる。すると「どうして早く受診しなかったのかといわれる」この時点でたいていの場合後の祭りだ。帯状疱疹後神経痛になるとどうするか。基本的には痛みを緩和する治療法しかない。それは脊髄の近くの神経根に水痘ウィルが住み着いていて、今の医療では退治することが不可能だからだ。重症になると神経ブロック、鎮痛剤、抗ウツ剤などで緩和治療を行うようだ。私の場合は針で刺されるような痛みは無くなった。ところが何か背中や腹のあたりにかゆみが残っている。皮膚科の医者に相談すると消炎鎮痛剤とビタミンB12を処方してくれた。ウィルスを完全に撃退する抗ウィルス薬を処方してくれるように頼んだ。しかしその薬を飲んでももはや撃退することは不可能であるという。再発したときはまた処方を考えるからその時相談してくれという。とりあえず今のところ違和感はあるが生活するには支障がない。私は覚悟を決めた。この病気を治すことはあきらめよう。お医者さんはこの病気はイヤなものだが死ぬことはめったにないという。だったら死ぬまでこの病気と付き合っていこう。症状が悪化したときだけお医者さんのお世話になろう。それよりも人生を楽しもう。充実した生活を送ることに目を向けていこう。これはくしくも対人恐怖症を抱えた私の対処方法と同じであった。
2015.04.11
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沖縄の米軍普天間基地の辺野古移転がもめている。政府の言い分はこうである。普天間の危険除去と日本の防衛を考えると必要な措置である。前知事から経済協力と引き換えに承認を受けており、いまさら撤回はできない。それに対して翁長雄志沖縄県知事は、公約で「辺野古に新基地は造らせない」と掲げて当選した。名護市長選も衆議院でも県内4選挙区で移設反対派が勝利を収めている。真摯に民意に耳を傾けてほしい。この問題は、沖縄県民が受けてきた過去の経過から見て容易に結論の出るものではない。しかし放置しておくにも行かない。でもこの問題は私が論評するには荷が重すぎる。注意深く成り行きを見守ってゆきたい。考えてみると、私たちの日常生活の中でこの手の問題は時々発生する。今日はそのことを考えてみたい。森田では容易に結論の出ないような問題は、二つの相対立する考え方をもとにしてあらゆる視点で試行錯誤を繰り返す。すると時間の経過とともに自然に折り合いがつくものであるという。だから無理矢理どちらかの考えに固執することは避けなければならないと言っています。例えば赤ちゃんが夜泣きをしてうるさい時に、眠りから覚めてイライラすることがある。そんな時に叱りつけたり、お菓子を与えて機嫌をとったりすることがある。森田先生はどうしようかといろいろと思索しているうちに、子どもは自然に泣きやむものだといわれています。だから性急に対策を打つのではなく、イライラした気持ちを抱えたまま、揺れ動く心のままにじっとしていることである。これを「かくあるべし」でどちらかに決めつけることは、のちのち多くの問題を生じさせる。その問題を解決しようとするとますます問題の本質からそれていってしまう。でも現実には、普天間移設のような放置しておけない問題もある。そういう時にはどうするか。いろんな案を出しあい、双方がある程度譲り合って、妥協点を見つけていくことしかないのではなかろうか。時間がかかってもそれしか方法が無い。暴力や抑圧でもって一方が他方を支配してしまう事は絶対に避けなければならない。案を出すにあたっては、将来的にどちらの案が明るい見通しが立ち、発展性があるのか。次にどちらの案が住民、関係する人たちの生活を豊かにして役に立つのか。この視点からの議論が必要なのではなかろうか。
2015.04.07
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新興宗教ではマインドコントロールという事が言われる。洗脳である。洗脳はどのように行われるか。まずお布施と言って自分の財産を差し出すことを求められる。無一文にさせられる。次に家族、友人、仕事や学校での人間関係を断つことを求められる。人間的な温かい触れ合い、相談相手を持たせないのである。元々希薄だったものをさらに孤立させるのだ。次に隔離した上で、人格否定、存在否定の言葉を浴びせるのである。「お前は駄目人間だ」「何にもできない奴だ」「やがて破滅してしまうしかない」「この世は破滅に向かって突き進んでいる」「最後に破壊されてしまう」などなど。つまり自分のアイデンティティのすべてを破壊してしまうのである。人格破壊と思想の分裂が起きているのである。心のよりどころをすべて取り去ってしまうのである。そこにカリスマ教祖様が、時には暴力を背景にして恐怖の暗示を与えていくのである。信者の心の空白をカリスマ教祖様が埋めていくのである。「私を信じてついてきなさい。そうすれば救われる。」「あなたには私を信じるしかない」「私の言う通りにしないとあなたは駄目になる」「あなたにはもはやこれしか残されていない」など。ここまで洗脳されてしまうと、もう逃げ出すことはできなくなる。よきにつけ悪しきにつけ教祖様のいいなりになる。このように一歩的に洗脳されて生きていくことは大変不幸である。新興宗教の場合は目に見えるからすぐに分かる。でもこれが目に見えない形で一般社会、あるいは国レベルで行われてしまうとどうだろうか。生まれた時からどっぷりとつかってしまい、成長してきたとするとすでに洗脳されて生きているのだとは気がつかない。たとえば消費は美徳というような考え方である。洗脳されないでアイデンティティを保つためにはどうしたらよいのか。3つほど提案したい。(アイデンティティという言葉は、他者との関係の中での自己の存在価値、存在意義、存在理由という意味で使っている)1、 自分の存在価値を見つけて高めていく。どんなに困難な状況になっても、死に絶えるまで人間には存在価値がある。その価値価値をよりどころにして生きていく道が残されている。森田を学習すると、「物の性を活かす」という事がある。自分、他人、物、時間、お金などの存在価値を尊重して、最後まで活かし尽くすという考え方である。新興宗教の自己否定とはまるっきり異なる考え方である。またこの考え方は「かくあるべし」ではなく現実、事実を肯定していく考え方である。2、 人間関係は薄く幅広い付き合いをお勧めする。森田で言う「不即不離」の人間関係である。一般的に神経症になるような人は親密な狭い人間関係を求めていく。2、3人親友がいれば後は友達なんかいらないというような考え方である。でもそれだと何かのトラブルで親友を失った時はどうするのか。人間関係はその時々でくっついたり離れたりしているものです。親子、親戚、会社、学校、地域社会、同窓生、集談会、趣味の会等様々な人間関係の中で、あまりべたべたしないで時と場合に応じて、薄く幅広い人間関係を保っていく。すると困難に出会った時、適当な人が手を差し伸べてくれるのではないでしょうか。3、 雑事や日常茶飯事などに丁寧に取り組んでいく。規則正しい生活を送っていく。平凡な生活の中でささやかな楽しみをいくつも作りだしていくこと。これはいくら経済的に余裕があっても、基本的には決して他人任せにしてはならない。これが自分が生きるための土台となるのである。これ以外にも、自分が自立して生きがいのある人生を全うすることはあるだろう。それはそれぞれに考えて付け足してもらいたい。でもこの3点はその土台となるものであるから、決して見過ごすことはできないと思う。
2015.04.06
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今日は6時に起きて、地域イベントでチンドン屋として参加した。30分のイベントが2回あった。私はアルトサックスでメロディー部分を吹いている。竹と雀、ちどり、オッぺケペ節、となりのトトロよりさんぽ、アンパンマンのマーチ、皆の衆、野崎小唄、島育ち、19の春、お富さん、同期の桜、ラバウル小唄、宮島さん、それいけカープ、広島天国、高校三年生、有がたや節、瀬戸の花嫁、さよなら港などを演奏した。ミスタッチはほとんどなかった。主催者から弁当と寸志が支給された。ありがたいことだ。その後、術科学校と5分咲きの桜を見に行った。見ごたえがあった。しばらく桜を見ながら海を見てのんびりと過ごした。その後帰宅してテレビで野球の観戦である。黒田選手の投球は一味も二味も味わいがある。負けても勝ってもどちらでもよいような気がしてきた。今日は天気もよくとても気持ちのよい日であった。日々の生活の中でこうしたアクセントはエネルギーの補給になる。
2015.03.29
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人間がエネルギーを得るには、2つの系統があります。1つは解糖系で、もう1つがミトコンドリア系です。解糖系は、酸素を使わず、糖質を分解してエネルギーをつくり出します。100mを全力で走る場合などがそうです。解糖系は、細胞質で、酸素を使わず低体温の環境で働きます。ピルビン酸を経由して乳酸をつくり出す過程で、ATP(アデノシン3リン酸)を瞬時につくります。グルコース(ブドウ糖)1分子当たり、2分子のATPが生成されます。骨格筋(白筋)、精子、再生上皮細胞、骨髄細胞、ガン細胞など分裂の盛んな細胞は、解糖系のエネルギーを主体に活動します。瞬発力と分裂に使われます。瞬発力はありますが、持続性はありません。解糖系のエネルギーの産出量はわずかです。ミトコンドリア系は、酸素を使って、食事で得られた糖や脂肪、たんぱく質や解糖系で生まれたピルビン酸を材料に大量のエネルギーをつくり出します。有酸素運動といわれるマラソンなどがこれにあたります。もともとは核の中にミトコンドリアはありませんでしたが、進化の過程で共生したのです。ミトコンドリア系は、ミトコンドリア内で、酸素を使って高体温の環境で働きます。ここが重要なところです。グルコース(ブドウ糖)1分子当たり、36分子(計38分子)のATPが生成されます。解糖系の18倍以上の効率で、安定的にエネルギーをつくり出すことができます。骨格筋(赤筋)、心筋、ニューロン(脳神経細胞)、卵子、一般の細胞などは、ミトコンドリア系のエネルギーを主体に活動します。我々はこの2つのエネルギー系を使い分けているのです。子どものころは解糖系が優位で、加齢とともにミトコンドリア系中心にシフトしていきます。ただし、ストレスによって交感神経の緊張が持続すると、血管が収縮して低体温になり、解糖系のエネルギーが主体となってきます。糖尿病やガンを治すには、高体温、高酸素、低血糖の状態にして、ミトコンドリア系にシフトしていく必要があります。ストレスにうまく対処して、副交感神経優位の状態に戻していく必要があります。ミトコンドリア系で問題となるのは、酸素を使うという事です。一部の酸素は、余分なマイナス電子を一つ抱えて不安定な状態になります。そこでプラスの電子を求めて飛び回ります。この状態が「活性酸素」と呼ばれる有害な副産物です。「活性酸素」はさまざまな細胞を攻撃して損害を与えます。細胞組織のタンパク質や脂質は「活性酸素」によって、酸化され、いわば錆びた状態になります。「活性酸素」を増やさない方法は2つあります。一つは抗酸化物質を利用することです。体内で作られるものと食べ物で補給するものがあります。食べ物では、ビタミン、ミネラル、ポリフェノール、ベーターカロテンなどがあります。もう一つは運動です。運動するにはたくさんの酸素が必要ですから、活性酸素も多く発生して老化が進むように考えられていましたが、今では運動することによって抗酸化能力が高まると言われています。有酸素運や筋力トレーニングが役に立ちます。関連記事が2014年8月3日、7月16日にもあります。参考にしてください。
2015.02.27
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近畿全域を股に掛け、結婚相談所を通じて次々に結婚を繰り返していた筧(かけひ)千佐子という人がいる。かつて千佐子と婚姻あるいは内縁関係にあって死亡した男性は10人を数える。手にした遺産は総額で10億円ともいわれる。その多くはこの10年内に集中している。10億以上もの遺産の使い道としては、娘にマンションを買い与えたりしていた。でも遺産の多くはFXの投資で失っているという。挙句の果てに借金を重ね、生活保護も受けていたという。遺産目当ての殺人事件ではないか。きっとそうだろう。これがもし事実だとすると許せない。死刑にすべきだというという人が多い。でもこれは早計だ。証拠が完全ではないからだ。4人目の夫・筧勇夫さんに対する殺人罪で起訴されが、テレビのインタビューでも一貫して容疑を否認していた。「私はそんなことをするような馬鹿な女ではない」と公言していた。日本では証拠がないと起訴できない。罪を償わせることができない。このケースも練炭殺人の木嶋佳苗容疑者のように状況証拠だけで起訴に持ち込むのかと思っていた。本人の自白だけ、あるいは状況証拠だけというのは実に心もとない。裁判が長引く。取り調べ段階で容疑を認めても、裁判で否認というケースは過去何回も繰り返されてきた。森田でよく言うように言葉だけでは信用できない。裏付けとなる事実の立件が欠かせない。相手には弁護士がついているのだ。被告人の立場に立ち、矛盾点をついて最大限の弁護をしてくる。現在警察の取り調べでは、供述の矛盾点を理詰めで突かれて、関与を認めたかと思うと、時間をおいてまた否認に転じるなど、揺れ動いているそうだ。全面自供を躊躇させているのは子どもの存在だという。千佐子容疑者には、20年前に死亡した初婚の相手との間にもうけた一男一女がいる。子供たちは成人して独立しているが、潔白を主張する千佐子容疑者を信じている。容疑を認めてしまえば、子供たちに迷惑がかかると思っているようだ。殺害事実を元にして立件できるのは、バイクの走行中に死亡した本田さんと筧勇夫さんの2件のみといわれている。それは2人の体内から青酸化合物を検出しているからだ。さらにきちんと立件していくためには、殺害に使用された青酸化合物の入手経路とその時期だ。千佐子容疑者が言い逃れできなかったのは、昨年の夏、業者に頼んで処分しようとした園芸用プランターから、青酸化合物が付着した袋が押収されたという事実だ。これは本人も認めており、入手に関する供述もなかったわけではないが、その都度、裏付けに走ったものの、入手ルートの解明には至っていないという状況であるという。我々の葛藤や苦悩は、事実を確かめないで、先入観や決めつけで物事を判断して、後で後悔することが多い。だからこそ、この事件では、是非とも事実を確かめて、事実にもとづく立件に持ちこんでもらいたいものだと思う。
2015.02.16
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前にも書きましたが私は現在マンションの管理人の仕事をしています。その中で月末にその月の仕事の報告を管理会社にFAXするというのがあります。ところが管理会社にはFAXが一台しかないために大変込み合います。なにしろ150名ぐらいの管理人さんがFAXを流しているのです。この前はFAXの前に一時間以上座って送り続けていました。ところが流れません。昼すぎにもまた挑戦して1時間ぐらいしてやっと流れました。大変ストレスがたまります。気の短い管理人さんは管理会社の担当者に「FAXが流れない。なんとかしてくれ」何回も電話をしています。ところがそんなクレームをつけると、目をつけられて次年度契約の更新が不可として判定されることがあるのです。みんなビクビクしているのです。中には午前中だけの勤務の人もいます。その方たちは家に帰るに帰れないという事態に追い込まれます。明日でいいだろうと勝手に判断して帰った人は後から厳しいお叱りの電話が入ります。改善の申し込みは会議などで出されていますが一向に改善されません。この問題に対して私はこう考えています。会社の担当者の方は150名の管理人を統率するということに精一杯なのだろうと思います。管理人は定年退職者が多いのです。そういう人は自己主張が強く、頑固な面があり、一度言い出したら妥協しない面があります。「そんなに文句を言われるのだったらいつでも辞めてやる」というような態度が見え見えです。特に年金を夫婦で十分にもらい、健康維持のために管理人をしているような人はそういうタイプの人が多いように思います。そういう人はわがまま勝手な要求を管理会社に言うことが多いのです。有給休暇も自分勝手に自由気ままにとろうとしています。それも海外旅行などのために何日にもわたってとろうとします。そんな人が多いと代行の段取りができなくなってしまいます。また管理人の中には会社の指示したことを平気で無視する人もいるのです。目に余るお粗末な仕事ぶり、事務処理を繰り返す人がいるのです。ですから管理会社の管理人担当の人もストレスがたまりやすいのです。いきおい管理人を厳しく指導して、仕事に穴をあけないようにするということに神経が集中しています。管理人と対決姿勢をとっている態度が電話を受けただけでよく分かるのです。だからFAXがスムーズに流れているかどうか等という事には神経が行き届かないのだと思います。これは神経症に陥り自分の症状だけに神経を集中している状態とよく似ています。これに精神交互作用が加わるとどつぼにはまってしまいます。この方はまさにそのような状態です。私だったら午前中だけの勤務の人を優先して時間帯を分けてFAXさせたらよいと思うのです。一時間ごとに分けていくとそんなに込み合わなくなると思うのです。でもその人にはそれに気がつくだけの余裕が無くなっているのだと思います。その人に直接言うと反発されたり、無視されることが目に見えていますので、その人がいない会議の席で、会社の管理者に私の案を提案してみようと思います。どうなりますことやら。
2015.02.11
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人間の身体はレンターカーを借りているようなものです。あるいは市民菜園を借りているようなものです。あるいは賃貸住宅を借りているようなものです。そう考えられるようになると生き方が変わってくるような気がします。自分の身体は心と一体になっているけれども、自分の所有物ではない。人様のものである。人様からある一定期間、お借りして預かっているのだと考えると、自由自在、自分勝手に使用することはできません。レンターカーや賃貸住宅は返却する時に必ずチェックが入ります。その時傷をつけたり、故障していれば損害賠償を請求されます。使い方が悪ければ、そのつけはわが身に降りかかってくるので、慎重に取り扱うことになります。また借りているものは、嫌になったからといって勝手に処分することは許されません。借りたものは、自分のものではありません。いずれは相手に返さないといけません。返す時に大事に使い、借りた時よりもよりよい状態で返却できれば、自他共に喜びます。また借りたものは、見てくれが悪い、性能が劣ってダメだということはいうことは考えなくなります。自分の好み、予算に応じて、納得して借りているからです。使用するに際しては、レンターカーは傷つけないように大事に使わせてもらう。そして無茶な運転はしなくなります。元の状態に戻してレンターカー店に返却しようとします。市民菜園では、土づくりをして、借りた時よりももっと良い土壌にして返してあげる。この方が農作物もよく育つし、返してもらった人も喜びます。反対に、この身体は自分の所有物だと思っていると、扱い方が雑になってきます。少しでも気になるところがあると、否定するようになります。そして、もっとよい持ち物に買い変えようとします。それは性能のよい新品の自動車をもっている人と比較して優劣の価値判断をして自分を見くびっているようなものです。そして自己嫌悪、自己否定するようになります。これは「かくあるべし」を前面に押し出して、自分の思いのままにコントロールしようとしているのです。もともと持っている存在価値を否定して、利用価値、経済価値、評価価値で自分自身を評価しているのです。これは大変不幸なことです。自分の身体は自分と一心同体ではありますが、いずれは自然の創造主にお返しするものなのだ。そういう視点に立って、自分自身と向き合えば生き方はだいぶ変わったものになります。これは自分の身体だけではありません。自分たちが産んだ子供たちも同じことです。自分の所有物だと考えると、自分たちの子どもだから自由にしつけや教育をして何が悪いということになります。「かくあるべし」を押し付けて育ててしまいます。自分たち親は子どもが生まれてくるきっかけは作りました。でも子どもは自分たちの所有物ではありません。子どもたちが一人前になって一人で生きてゆけるまで、お預かりしているものなのです。そういう考えに立てば、子どもとどう関わっていけばよいのか自然に答えは出てきます。児童虐待、育児放棄、過保護、過干渉に陥ることはなくなると思われます。そのためにこそ森田理論の学習をされることをお勧めします。
2015.01.28
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最近気になることが三点ある。まず最近、佐賀、岡山で鳥インフルエンザが相次いで発生した。佐賀はH5N8型、岡山はH5亜型と言われている。今や鳥インフルエンザは世界中で発生している。その中心はインドネシア、中国等をはじめとするアジアである。ウィルスが鳥から人へと感染するようになると大変だ。パンデミック(伝染病の世界的大流行)が起こると大変なことになるのは目に見えている。可能性は非常に高まってきているとみている。でもこれは正直防ぎようがない。神様に祈るしか手がない。次に大都市直下型地震である。プレート境界型と活断層地震の2種類がある。両方とも日本で起きる可能性がある。活断層も日本中にあることが分かっている。今や日本全国いつどこで起きてもおかしくない状況にある。特に恐ろしいのは長周期振動である。短期振動は振動が1回に往復する時間が1秒以内ぐらいと短い。長周期振動は1回に往復する時間が2秒から5秒ぐらいだそうである。つまり長くゆったりと揺れる地震である。特に大都市での長周期振動は、乱立する超高層ビルを倒壊させる恐れがあることが指摘されている。せめて地震予知能力を最大限に発揮してほしいものである。そして我々は耐震補強、家具の固定、避難訓練、避難経路の確保など事前に対策を立てておくことだ。それ以上は手のうちようがない。さて、最近イスラム国で日本人2人が誘拐された。身代金の要求は200億円以上である。どうにもやりきれない事件だ。イスラム国の言い分が私にはよく分からない。民族対立、宗教対立、先進国と後進国の対立等根深いものがあるのだろう。私には資本主義の悪い面が表面化して泥沼の様相を呈しているように思える。他人を犠牲しての欲望の暴走というのは、人類の滅亡を意味するような気がする。それがテロや紛争、戦争に発展しているのではなかろうか。
2015.01.22
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「八甲田山」という映画ある。高倉健、北大路欣也等そうそうたる役者が出演している。この映画の元となった事件があった。1902年1月日本陸軍青森第8師団歩兵第五連隊の雪山遭難事故である。参加者210名のうち199名が死亡している。実は同時に弘前歩兵31連隊38名も逆コースで冬の八甲田の雪中行軍に参加して全員帰還している。雪中行軍が行われた時は、未曾有の寒気団が日本列島を襲っていた。青森市内でも最低気温氷点下12.3度、最大風速14.3mであり、おそらく八甲田では氷点下20度以下、風速はそれ以上と推定される。両者の生死を分けたものはなんだったのか。考えられる原因は下記のようなものである。1、 弘前隊は38名と少人数で最後まで統率力を失わなかった。一方青森隊は210名という大隊であり、指揮官が何人もいてそれぞれ違う指示を出しており、統率力があいまいであった。2、 弘前隊は地元の案内人7名を付けていた。一方青森隊は案内人がいなかった。3、 弘前隊は過去2年間にわたり岩木山で雪中行軍の訓練を重ねていた。隊員の荷物は必要最低限とし、食料や藁靴等の消耗品、宿泊を現地の民間に委託していた。青森隊は厳冬期の八甲田における防寒の知識は皆無であった。予備行軍では晴天に恵まれ遠足のようで雪中行軍を楽観的にみていた。前日は壮行会が行われており、深夜まで宴会をしていた。当然、心構え、装備も着衣も不十分であり、民間委託は考えもしなかった。4、 弘前隊は天候不慮の時、深さ4メートルの穴を掘り、露営地で待機していた。体力と天候の回復を待っていた。青森隊はパニックに陥りやみくもに彷徨を繰り返し、体力を消耗していった。無駄な行動で気力がなくなり最後は力尽きた。この事件から、森田理論を学習するものとして学ぶことがある。まず森田理論は充分に研鑽を重ねて、森田を実際に応用している人から学んでいくことが大切であるということだ。リーダーを選ぶことだ。協力者を持っているということだ。そして最初は物まねから入っていくことだ。それから自分の形を作っていくことだ。そうしないと自分勝手になってしまう。つまり基本が身につかず自己流になってしまう。そうなると森田の考え方、生活が身につく前に森田に見切りをつけてしまう。実にもったいないことである。知識の浅い人ばかりだと、受容と共感は持てるが、森田理論の深耕には結びつかない。次に、森田理論の学習は手あたりしだいにするものではない。まず基礎編の学習を積み重ねる。次に森田理論体系の全体像を学ぶ。全体像の骨子は4点である。これはすでに何回もこのブログで紹介してきた。この4点の深耕と相互の関連性の学習を徹底する。最後に森田理論のキーワードで肉付けをしていく。そしていよいよ森田を生活に応用していく。これを3年ワンサイクルとして取り組んでみる。そうすれば急速に力をつけることができるはずだ。そして、不安というのは大きくてその数が多ければ、役に立つということである。この認識を持つこと。不安というのは手を出さなければならないものと絶対に手を出してはいけないものがある。ここでの不安は絶対に事前に手を出して問題点の対策を立てて、準備を重ねておくことばかりである。青森隊はそういう不安が全く湧きおこらなかったということが問題である。そういう意味ではこの事件は、天災というよりも人災であった。反面弘前隊の福島大尉は不安を以前に察知して、周到な準備ができていたことが雪中行軍の成功に結びついたといえる。
2015.01.20
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「満月の夕」という歌がある。20年前1月17日神戸をマグニチュード7.2の巨大地震が襲った。寒い日だった。一瞬にして建物が倒壊して、火災が発生して街は廃墟と化した。多くの人は肉親を亡くし、家も失った。その日の夜は満月だったそうだ。人々は満月を見るたびに地震の恐ろしさを思い出す。この歌はそんな状況を歌ったものだ。沖縄の三線が物悲しい。風が吹く港の方から焼跡を包むようにおどす風悲しくてすべてを笑う乾く冬の夕時を超え国境線から幾千里のがれきの町に立つこの胸の振り子は鳴らす今を刻むため飼い主を失くした柴が同胞とじゃれながら車道を往く解き放たれすべてを笑う乾く冬の夕ヤサホーヤうたがきこえる眠らずに朝まで踊るヤサホーヤ焚火を囲む吐く息の白さが踊る解き放ていのちで笑え満月の夕星が降る満月が笑う焼あとを包むようにおどす風解き放たれすべてを笑う乾く冬の夕ヤサホーヤうたがきこえる眠らずに朝まで踊るヤサホーヤ焚火を囲む吐く息の白さが踊る解き放ていのちで笑え満月の夕この歌はなんか自然に涙がでてくる。震災地では多くの人がこの歌を聞いて励まされているという。これ以上ない過酷な運命に翻弄されたにもかかわらず、なんか勇気が湧いてくる歌だ。すべてを受け入れて、運命を切り開いていこうとするその姿に人生そのものを見るのかもしれない。
2015.01.18
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先日貴重な体験をさせてもらった。企画してくれた友人に大変感謝しております。1800人収容のコンサートホールを貸し切ってアルトサックスとピアノの練習だった。国内外ののオーケストラがよく来て演奏するところだ。私もかってジャズと歌舞伎の公演を見に行ったホールである。もうすぐ中村紘子さんのピアノコンサートの予定がある。とにかく舞台が広い。広すぎる。きれいに板をひきつめてあった。舞台から見た客席がきれいでとても大きく見えた。調律済みのグランドピアノが3台もありどれを弾いてもよいという。私はアルトサックスで20曲余り演奏した。ピアノの友人の伴奏の音もとてもよかった。とにかく音響効果が抜群でとても気持ちがいい。普通に演奏していても音がとてもよく響く。隅々まで音色が届いていることだろう。さらに驚いたのは楽屋だった。大きな鏡のついた楽屋が2つもあった。15畳ぐらいの楽屋だろうか。また舞台袖に行くととても広い。ここで演奏家は待機しているのだな。キャッチボールができるほどの広さだった。これなら大人数のオーケストラメンバーが待機するには十分な大きさだ。しかもそれが左右にあるのだ。舞台袖にはいろんな機械が並んでおり、舞台芸術の監督のような人が4名いた。その付近は、あまりに巨大で出入り口を指示してもらわないと迷子になりそうだった。舞台に立っていると、緞帳の下りてくる位置が書いてあった。舞台にいる人はこれを見ているのだなと思った。天井を見ると目がくらむほどの高さだ。とても興奮して、まだ余韻に浸っているのである。たまにはこうゆう体験もいいものだと思った。
2015.01.14
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皆さんは冬の暖房はどうされていますか。電気こたつ、エアコン、赤外線ヒーター、石油ファンヒーターなどではないだろうか。電気か灯油を使われている家庭が多いと思う。私のところは赤外線ヒーターである。そのため冬場の電気代が約1万円程度まではね上がる。今や停電になったり、灯油が手に入らないと生死にかかわる。私が小さかったころを思い出した。その頃の暖房の主力は「掘こたつ」だった。かまどや風呂を焚いた時の「おき」を「堀こたつ」に入れていた。手が寒い時は「ひばち」であった。寝る時は湯たんぽを使っていた。囲炉裏がある家もあった。囲炉裏に鍋がかかっておりいつも温かいものが食べれるようになっていた。その材料となる薪、マキは山で調達していた。炭焼きも毎年行っていた。我々子どもは親について山に行って遊んでいた。そのために山はとてもきれいに手入れされていた。今は放置されて足を踏み入れることはできない。そして家の祖父は冬になると、北風を避けるために防風柵をカヤで作っていた。そこは太陽が当たるととても温かかった。暖房というのはその程度であった。さて現在、暖房が十分に効いた部屋でみんな何をしているのか。本を読んだり、勉強したり、手芸をしている人もいるだろう。でも一般的には体と頭を休ませている人が多いようだ。テレビを見たりゲームをしたり、ごろ寝をしている人が多いのではなかろうか。テレビはよい番組もあるが、バラエティ番組は程度の悪いものがとても多いように感じている。ただ笑いとれればなんでもありの世界だ。ごろ寝というのは精神が弛緩状態になり、風邪をひきやすくなる。これは森田先生が言っているとおりである。気をつけたいものである。私は家にいる時は暖房を切ることが多い。昨年気がついたのだが、上着とか足は重ね着をしていると寒さはあまり感じない。一番寒さを感じるのはつま先である。靴下は2枚がさねではくと多少違う。今年はニトリでつま先を温めるものを買った。つま先をその中に入れておくと寒さはほとんど感じない。また陽だまりにでて太陽が差し込むととても温かい。本を読んだりパソコンを打ったりしている。頭が冴えてちょうどよい。以上、暖房のことを考えてみると、ほとんど電気と灯油に依存している。考えてみれば現代人はガスも携帯も食べるものもほとんど他人に依存している。でも依存するためにはお金がいる。そのお金を捻出するためにあくせくと働かなくてはならない。この仕組みの中から抜け出て生きていくことは不可能である。この傾向は今後ますます加速していくであろう。50、60年ぐらい前は、すべて自分や家族が自前で賄っていた。これは暖房だけではない。洗濯や自給自足の生活にしろ、ほとんど自分たちが自前で賄ってきた。今思えば不便で苦しい生活で、肉体を酷使する面はあったが、心を病むゆとりはなかった。現代は心の病気を抱えている人が多い。また体のほうも一億総半病人といわれている。どちらの生活が心豊かで人間らしい生活だったのか考えさせられるのである。
2015.01.14
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王陽明は吉田松陰などに影響を与えた人物だと言われている。王陽明の残した言葉は森田の真髄をついているものがある。他のブログを参考にいくつか紹介してみよう。1、ただ静かに心を養おうとしても事が起これば、心の外の力で圧倒される人は常に実際に起こる物事の上で自己を磨くべきだそうすることで心が確立する2、人生の大病は「傲」(ごう)の一字に尽きるここでいう「傲」とは、思い上がることである3、反省は病を治す薬だが大事なのは、過ちを改めるということだもし悔いにとらわれているだけなら、その薬がもとで別の病気が起こる4、君子は自身の考えを行動をもって示すが小人はただ口で言うだけに過ぎない5、日常生活においても、私欲が大きくなっていないか絶えず確認しなければならない仕事や日常生活においても、私欲に克ち本来持っている善心を発揮しなければならない私の感想を書いてみたい。1は、森田では「物事本位」の態度のことである。「事上練磨」とも言います。自分の仕事なり、あるいは勉強なり、そういう外界の必要なことをよくやっていく。物事をよく処理するような生活態度を続けていけば、それが結果として修養になるということです。2は、不安や恐怖などの自然現象を、自分で思いのままにコントロールしようとする態度のことだと思います。すると神経症に陥ります。3は、不安を取り除くことばかりに神経や注意を集中させている状態のことを言っています。精神交互作用に陥り神経症になります。手段の自己目的化に陥っています。森田では不安の反対には必ず欲望があると言います。大きな不安の裏には大きな欲望があります。不安に学び、不安を活用して「生の欲望の発揮」の方に目を向けていかないと片手落ちです。4は、森田は理論を滔々とよどみなく解説できるようになっても全く意味がない。森田は実際に生活に応用出来ているかどうかである。それは相手の普段の生活のことを聞いたり見たりすればすぐに分かります。5は、「生の欲望の発揮」を無制限に追い求めていては将来必ず破綻してくる。人間には元々欲望の暴走を制御する能力が備わっている。車でいえばブレーキである。ブレーキが壊れて、アクセル全開で突っ走ることは自己の破滅を意味する。快適で便利で依存的、享楽的な生活を追い求めているとすぐにバランスは崩れていく。この点狩猟採集の生活をている人のほうが正常に機能している。現代人はブレーキが壊れた車に乗り、坂道を走行しているようなものである。そのことを森田理論を学習して十分に自覚しなさいといわれているようである。
2015.01.10
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読者のみなさん、あけましておめでとうございます。いつも読んでいただいてありがとうございます。さて、安倍首相は年頭に当たり、このたびの衆議院選挙で国民の圧倒的な支持を得ました。したがって経済成長をどんどん進めて、世界に誇れるような経済大国日本を作り上げると高らかに宣言いたしました。そして国民一人一人の可処分所得をあげ、全国津々浦々まで豊かで快適な生活を享受できるように強力な政権運営にあたりたいと述べました。具体的には法人税引き下げ、消費税、相続税などの引き上げ、年金の引き下げ、原発再稼働、TPPの推進、強力な外交交渉などです。皆さんは、この方向で日本が突き進んでいくことを如何思われますでしょうか。森田理論を学習したものとして、とても不安に思っています。つまり、これ以上豊かで便利で快適な生活を目指すということは、欲望の暴走に拍車をかけるのではないかと思っているからです。森田では不安を利用して、欲望に歯止めをかけて、不安と欲望のバランスをとるという考え方です。この欲望の充足一辺倒の考え方では、数少ない資源や食糧をめぐって他国と奪い合いになります。これが戦争や紛争の原因となります。また国民は、それぞれの生活の質の向上、維持のために、意思とは無関係に、過酷な労働を余儀なくされてしまいます。欲望の充足のためにあくせく働かせるような結果になります。その結果、今まで以上の身体の健康の悪化、うつなどの精神疾患の増大を招いていくのではないかと思っているのです。政権運営を注意深く観察しながら、問題提起をしてゆきたいと思っています。さてこのブログを開設して3年目に入ります。多くの人に読んでいただき感謝申し上げます。おかげで私もやる気が持続できました。今年も、多くの神経質者に森田理論学習の素晴らしさをもっともっとご紹介してゆきたいと思います。そして一人でも多くの方が、「神経質に生れてきてよかった」といってもらえることが望みです。森田理論にはそれだけの内容があると確信しております。またこのブログは、個人的には、私の森田理論を深めるのに役立っています。ネタはいろんな本をヒントにしています。以前は生活の発見誌にしろ、その他森田関係の単行本にしろ読みっぱなしでした。今考えるともったいないことをしていたと思います。現在はよいところに付箋を付けて、後でページ数と内容をノートにまとめています。その中からヒントを得て、森田理論で考えるようにしています。神経症のみならず、ガンなどの身体の病気、子育て、人間関係、生き方、世の中の動き、事件、環境破壊、原発問題、TPPの問題など森田的視点から意見を述べることができるようになりました。ブログは30分で立ち上げることができます。最初のころ個人情報が流出するのではないかと心配しましたがそんなことはありませんでした。皆さんもぜひブログを始められることを提案させていただきたいと思います。そうすれば皆さん自身も成長できるし、まだ森田理論を知らない人にとっても役立つのではないかと思います。最後に、読者の皆さんにとって、今年1年健康で実り多き年になりますように祈念しております。
2015.01.01
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今日はいいものを見た。You tubeで紹介されているものである。一つは安保徹医師の2013年6月9日星陵会館での講演である。もう一つは薬を使わない精神科医、宮島賢也医師の2013年9月3日の講演である。それぞれ1時間10分を超える。お二人とも内容はよく似ている。ガンや精神疾患などの病気は、仕事や人間関係のストレス、食生活、考え方の誤りに起因するものだと言い放っている。頑張りすぎ、悩み過ぎ、イライラしすぎは重大な病気を作り出す元だといわれている。それに対して医者は、原因を掘り下げて根本的な治療をしているとは言えない。対症療法を行っているにすぎない。医師は対症療法の専門家に過ぎない。検査をして、病名を探り、ステロイドや抗不安薬などの薬を処方、あるいは手術、放射線治療などを行っているに過ぎないといわれている。生き方などの問題から病気が発生しているにもかかわらず、対症療法で対応しているだけで根本的な治療にはならないといわれている。普通我々は、森田理論学習対象者以外は、専門医を紹介している。ところが専門医がしていることは、たとえば薬漬けの患者を量産しているというのである。特に精神科の医師はその傾向が強いそうだ。薬を使わない精神科医は皆無である。宮島医師は保険適用にならないので自由診療だそうである。この生き方を考えるというのは、森田理論学習を掘り下げて学習している我々の得意とするところである。我々は神経質者の生き方として、一口に言えば「自然に服従し、境遇に従順なれ」ということで確固たる指針を持っている。この方向で進むことを安保徹医師、宮島賢也医師も目指しておられるということがくしくも一致していたのである。これには大いに触発された。明日、明後日と休みの方もおられることと思う。ぜひ視聴されることをお勧めします。
2014.11.01
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ホスピスの病院で2500人をみとった柏木哲夫医師の話をもとに死について考えてみたい。柏木医師は「人は生きてきたように死んでいく」といわれる。不平不満を言いながら生きてきた人は、我々スタッフに不平不満を言いながら死んでいく。周りに感謝して生きてきた人は、家族や親族、我々スタッフに感謝しながら死んでいく。しっかり生きてきた人はしっかり死んでいく。ベタベタ生きてきた人はベタベタと死んでいく。これまでの生きざまが、死にざまに見事に反映していく。よき死を死するためには、よき生を生きる必要がある。最期になって、駆けつけてくれた人に「今まで世話をしてくれてありがとう」と感謝の気持ちを持てる人。「苦労もたくさんあったが、終わってみれば楽しい人生だった。」「生まれて来て本当によかった。チャンスがあればまた人間に生まれてみたいものだ」「じゃ行ってくるからね」家族から「行ってらっしゃい」と送り出される。そんな心境になれる人がよき生を生きた人ではなかろうか。そんな心穏やかな死を迎えたいものだと思います。どうしたらそんな死を迎えることが出来るのだろう。そういう人は、まず自分のおかれた不満足な状況を受け入れることが出来た人だと思います。大変な時代に生まれた人もいます。貧乏な家に生まれた人もいます。五体不満足に生まれた人もいます。でも過酷な宿命を呪うことなく、すべてを受け入れて、そこを出発点にして生きていった人だと思います。自分の存在価値を見つめて、それに磨きをかけていった人だと思います。生まれたこと、生きていく中で感謝の気持ちを持つことが出来た人だと思います。次に夢、目標、課題を持って常に前向きに挑戦し続けた人だろうと思います。失敗やミスはたくさんありました。でも逃避することはしませんでした。目の前に立ちはだかった問題を正面から受け止めて、乗り越えていった人だろうと思います。例え乗り越えられなくても、そういう姿勢を持ち続けた人だろうと思います。このことを森田では「自然に服従して、境遇に従順になる」と言います。森田的生活というのは、最期の時に「感謝や満足」の言葉が、頭の中を走馬灯のように駆け巡るのだろうと思います。(「死にざま」こそ人生 柏木哲夫 朝日新聞出版参照)
2014.10.30
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1975年細川たかしの歌に、「心のこり」がありました。私バカよね、おバカさんよねうしろ指、うしろ指さされてもあなた一人に命をかけて耐えてきたのよ今日まで秋風が吹く港の街を船が出ていくように私も旅に出るわ明日の朝早くこの歌が発売された1975年は昭和50年にあたります。ここから日本は驚異の経済成長を見せます。それはバブルがはじける1989年、昭和の終わりである昭和64年まで続きました。この間、日本も自分の国に誇りを持っていました。そして国民一人ひとり物質的に豊かな生活を求めて夢も希望も活力もあり、自信を持っていた時代でした。そんな時代の中にあって、この歌は自分のいたらなさを風刺的に、客観的に見ています。どんなに欠点や弱みがあってもそれが事実なんだからしょうがないわ。人からどうしようもない人と軽蔑されようがそれが事実なんだから仕方ないわ。でも私はそんな自分を否定することはしませんよ。気分一新して、私なりに明日からまた新たに出直しますよ。そんなふうに見えます。つまり自己否定に陥らないで、新たな「生の欲望の発揮」に自然に舵をとることができたのです。これは自分に対する揺るぎのない自信や活力があるからこそ、欠点や弱みを受け入れることができたのだろうと思います。どんな自分でも受け入れる、受け止めるということは、もう片方に自分の存在価値に対する確かな手ごたえがあるからこそなしえるものです。しかしバブルの崩壊後、人々には目標や夢、希望が無くなりました。先行き不安感が日本全土のみならず、すべての人々を飲み込んでゆきました。自信、活力、希望や夢が持てなくなり、自己の存在価値の喪失の時代が到来したのです。こんな時代にはやった歌は、たとえばZARDの「負けないで」です。負けないで、もう少し、最後まで走り抜けて・・・アミンの「夢をあきらめないで」です。あなたの夢をあきらめないで、熱く生きる人が好きだわ、輝いていてね・・・SMAPの「世界に一つだけの花」そうさ、僕らは、世界に一つだけの花、一人ひとり違う種を持つ、その花を咲かせることだけに一生懸命になればいいこれらの歌を聞いてうんざりだ思える人は救いがあります。なぜなら自分の夢や目標や希望を持って挑戦している人だからです。反対に本当にその通りだわ。励まされるという人は自分に対する信頼感が揺らいでいるのかもしれません。
2014.10.27
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山田洋次監督の作品に「遥かなる山の呼び声」という作品があります。北海道の農村のある夫婦の物語です。その中にこんなシーンがあります。子供をつれてささやかな田舎の祭りに出かけた夫婦。その時お父さんが子供に「おい武志!」といって、ひょいと肩車に載せるんです。ちなみに父親役は高倉健です。武志は「わー、高い高い」なんて喜んでいるの。それを見上げて母親役の倍賞千恵子さんが、「武志、いいね!」って微笑むんです。山田監督はそのクローズアップ。そのカットをとりながら、ああ、今この彼女は幸せなんだなと思ったんです。カメラの横で。人間にとっての幸せというのはそういうことか。つまり、幸せだという瞬間がときどきふと訪れる。絵にかいたような、一日中、一年中幸せだってゆうことはあり得ない。だいたいそんなに楽しいことなんてない。だけどね、ときたま訪れる。それは一瞬、胸が膨らんで、思わず心から「いいね!」って言いたくなる。「ああ、今俺は生きているぞという充実感をもつ。それは短い瞬間じゃないんかな。」幸せについてはそんなことを考えている。このお父さんは実はおたずねもので、刑事につかまって去っていくという結末が来るんだ。だけども、今はそんなことも忘れて息子の喜ぶ姿をうれしがっている。もしかして人間の幸せとは、そういう瞬間がいくつあるかっていうことなんじゃないかと思うんですね。生きていると楽しいことばかりではない。苦しいことが多い中で、たまにささやかな幸せがやってくる。苦しみが大きくて強ければ強いほど、小さな幸せはとてつもなくありがたく感じる。神経質者は感受性が強いので、小さい幸せでも大きな喜びを感じることができるのではないかと思う。(山田洋次を観る 吉村英夫 リベルタ出版)
2014.10.13
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人間の脳の働きから意識と無意識について考えてみたい。脳は行動・実践の司令塔である。行動・実践には意識的行動と無意識的行動がある。そのうち無意識的行動には2つある。自律神経よる生命維持と無意識による行動である。自律神経は交感神経と副交感神経がある。呼吸や内臓の働き、血管の収縮、血糖値などを常に調整している。別に意識しなくても問題なく生命維持が行われている優れものだ。無意識的行動とは、車の運転、自転車に乗る。箸で食べ物をつかむ、楽器の演奏をする。歩く。走る。クロールで泳ぐ。スポーツで身体を動かすなどはすべて無意識に行っている。無意識的行動は身につけるまでは多少試行錯誤を繰り返した。そのうち身体が動作を習得して無意識にできるようになった。この場合よく考えると、動作を習得するまでは意識的行動であった。しかしいったん習得してしまえば、頭の中では別なことを考えていても、動作としては問題のない行動ができるようになった。人間の行動の90%までは無意識的行動であるという。それで日常生活はうまく進行している。むしろ無意識だからこそうまくいく。車の運転でも、楽器の演奏でも、ゴルフのパターでも無意識に淡々と体の動きに合わせているときのほうがうまくいく。逆に、ここで意識が出てくると、途端に無意識的行動が乱される。迷いが生じてうまくいかなくなる。そもそも意識化が起きるときは迷いや不安がある時である。無意識的行動にまかせているとうまくいかないのではないかという予期不安がある。そこで意識化が起きる。行動するにあたって、是非善悪の価値判断をしているのである。今まで蓄えられた経験、記憶を総動員して意思決定を行っているのである。そして無意識に割り込んで、意識化された結論を指示命令しているのである。われわれが問題にしている神経症の悩みは、常に意識化された悩みである。是非善悪、価値判断の段階で容易に結論が出ないで迷っている状態である。森田でいう神経症が治るということは、この意識化された状態から、無意識状態に戻すということです。反対にとらわれるということは、坂道を転がる雪だるまのように、意識化に注意を向け続け、継続的に刺激して、大きくしているような状態である。ですから気になることに対して意識化が継続するということはよくないことです。意識化したものは、無意識に転換することが大切なのである。そのためには、気になることに注意を向けて意識化を刺激しない。無意識化するために2つの道がある。一つは、将来の展開がよくなるものと人のためになることには積極的に手を出す。そして不安を解消して無意識化する。もう一つは、不安を抱えたまま次の段階に進むということだ。そうすると次の不安に注意を向けることになるので、以前の不安は次第に薄まり無意識化される。ほとんどの場合この方向で対応すればよいのである。
2014.09.30
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交通違反で面白いデーターがある。2001年から3年間、全く違反切符を切られたことのない人が、その後3年間で1回でも違反切符を切られた割合は22.1%だそうだ。ところが2001年から3年間で、5回以上違反切符を切られたことのある人は、その後3年間でなんと84.3%の人が違反切符を切られている。またそのうち14.3%の人は、また5回以上違反切符を切られている。違反を起こす人は、何度も繰り返し違反を起こしていたのだ。またタクシー会社などで、交通事故を起こす人は特定の人に偏っているという。事故を引き起こす人は、特定の人が何度も起こしているのである。これは事故や違反をたびたび起こす人と、そうでない人は性格、考え方、行動のパターンに大きな違いがあるということが考えられる。自分なりに分析してみた。1、 前をノロノロと進む車がいるとイライラしてすぐに抜きたくなる。交差点で年寄りがもたもた歩いていると怒鳴りつけたくなるような人。拙速で軽はずみ。せっかちですぐにイライラする人である。ゆとりとは無縁の人である。狭い日本そんなに急いでどこへ行く。せっかちな人は短命なのに、かわいそうな人だ。2、 運転に集中していない。携帯がかかるとすぐに出る。オーディオが気になる。おしゃべりに夢中になる。テレビ番組が気になってつい見てしまう。外の景色やバス停に立っている女性に気をとられる。好奇心旺盛なのはいいのだが、移り気である。こういう人には、森田理論学習でいう「今できることはただ一つ。運転に集中することです。二兎を追うものは一兎も得ず」を教訓にしてもらいたい。3、 気になることや心配事を抱えている人。頭の中でいろいろと私生活のことで思い悩んでいる。注意が交通標識や他の車の動向、歩行者や自転車に向いていない。うっかり赤信号を見落とす。進入禁止を見落とす。一方通行を見落とす。高速道路で逆走する。絶えず自己内省的に悩んでいる人である。意識の外向化が起きないと運転は危ない。重度の神経症に陥っていると運転は控えた方が良い。4、 他人を思いやる気持ちを持ち合わせていない人。渋滞時、割り込みが気になり、前との車間距離を詰めて絶対に割り込みをさせない。二車線が一車線になる道路では前の車に接近して自分のところでは合流させないようにしている。意地悪な人である。信号のない交差点では、相手に譲るという気がない。早くいかないと損だと思ってしまう。子供が道を横断したがっていても、飛びださない限り、車優先だと思ってしまう。交差点で出合い頭の衝突事故を起こして、自分が優先だと言い張る。これが発展すると少しぐらい飲酒しても構わないだろうにつながる。こんな気持ちの人が、いくら集談会で相手を「受容して共感」してあげましょうといっても絵に描いた餅である。5、 攻撃的な人。追い抜かれたら必ず追い返してやる。前の車が急ブレーキをかけたらクラクションを鳴らして威嚇してやる。あるいはライトを点滅させて嫌がらせをする。かっとなりやすい人。イライラして怒りっぽい人。こういう人にはかかわりを持たないほうが賢明だ。お先にどうぞと道を譲ってあげよう。6、 今日は雨が降るから車で行くのは控えよう。夜の運転は危険だからなるべく控えようという気が全くない。雪が積もっていてもノーマルタイヤで運転する。タイヤの空気圧、バッテリーの寿命、ランプ切れ、ウォッシャー液切れ、ガス欠、ワイパーの摩耗などは全く無頓着。車の清掃や洗車はほとんどしない。車の中にはごみや空き缶が転がっている中には運転席の下の方にも空き缶がある。この人はまず外相から整えないと運転する資格はない。ゆくゆくは他人に迷惑をかける。
2014.09.29
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子どもはどんな風にしてネットゲームに夢中になっていくのか。「親は知らない」読売新聞社会部、中央公論新社より見てみよう。ある少年が中学生のころからネットゲームに夢中になった。マイク付ヘッドフォンをつけて、聞こえてくるのはゲーム音だけ。「このやろう」「死ね」「うぜ」という声に深夜家族が目を覚ますこともあるという。画面の向こうには「仲間」がいる。知らない相手とインターネット経由で言葉を交わす。ゲーム用語を連発している。自らやゲーム上の友人のことを「ネトゲ廃人」と呼ぶ。ネトゲとはネットワークゲームの略だそうだ。技術の高いプレーヤーをたたえて「廃神」と呼ぶそうだ。今19歳だが、夕方から翌日昼すぎまでゲームに明け暮れる。昼過ぎから夕方までは寝ている。昼夜逆転の生活が続いている。親は息子をネットゲームから引き離そうと何度も試みた。そのたびに親子の溝は深まるばかりで、今や全く口出しできずに放任している。ゲームの最中は自宅に訪ねてくる友達にも合わない。中学の卒業アルバムは同級生が届けてくれたが、卒業式には出なかった。単位制高校も入学手続きをしただけですぐに辞めた。ネットゲームについて本人は、「リアルの世界では失敗できないけど、ゲームでは名前を変えたり、データを削除できるから」という。つまり今や完全に仮想社会、ネット社会の住人になってしまい、現実社会から背を向けて逃避しているのである。ゲームでは何度もやり直しはきくが、現実社会はリセットして新たに再出発することはできない。また将来の生活、自立して生きていくということは全く考えていない。親の加護のもとで生きていくのだろうか。私の住んでいるマンションでも夏休み外で遊ぶ子供はあまりいなかった。我々が子供の頃と比べてみれば一目瞭然だ。友達とは外で遊ばない。家でゲームなどをしている子供も相当いるのではないか。私が一番心配なのは、脳が正常な働きをしなくなることだ。脳のシナプスのネットワークは、不必要なものはどんどん刈り込んでいく。その時期は生まれて1年以内と10歳から12歳の間の2回行われているという。刈り込まれたシナプスはその後再生されることはない。刈り込まれた脳は機能不全に陥る。つまりネットゲームにはまり込んでしまうと、自分を大切にする、他人を思いやる、物を大切に使う、時間やお金を大事にするなどという気持ちは持てなくなってしまうということなのだ。こういう子供たちが増えることは、末恐ろしい社会がすぐそこまで来ているということである。最近の猟奇事件は、すでに多くの警告シグナルを発しているのである。現在ネットゲーム、パソコン、携帯端末機器の拡大は野放しである。むしろ世の中の自然の流れとして社会に容認されている。歓迎されている。また将来、パソコンが駆逐されて、携帯端末による情報化社会に突入することはほぼ間違いないところである。それらは便利で役に立つ反面、人間の体や脳に与える悪影響について十分注意を払う必要があるのではないか。1990年代以降に生まれた人は、出生以来その枠内で生活してきた人である。その子どもたちがこれから先社会に出てゆき、社会、経済をけん引してゆくようになる。それが吉と出るか凶と出るか、すぐに結論が出るのではなかろうか。
2014.09.07
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脳の働きでもう一つ知っておいてほしいことがあります。意識と無意識についてです。人間は身体を動かす場合、意識して動かしている場合と無意識に動いている場合があります。意識して身体を動かす場合は、大脳新皮質の前頭葉を使っています。無意識で身体を動かす場合は前頭葉を経由していません。だから、これは意識化された行動ではありません。これには2つあります。まずは自律神経系の動きです。自律神経の司令塔は視床下部にあります。呼吸、心臓、消化器、ホルモンの動きなどは、我々の意志とは無関係に、視床下部から指示・命令が出されて、心臓や内臓などが適切に動いています。交感神経と副交感神経という2つの神経がバランスをとって機能しています。このバランスは免疫系にも大きな影響を与えていることはすでに投稿しております。それと、もう一つ無意識に身体を動かしている場合があります。例えば箸を上手に使う。ブレーキを踏んだりアクセルをふかしたり、方向指示器を適切に操作しながら車の運転をする。手の動き、足の動きを気にしなくてもプールの中で上手にクロールができる。倒れないで上手に自転車の運転ができる。指使いを間違わないでピアノなどの楽器の演奏ができる。これらは意識して身体を動かしているわけではありません。うまくできるようになると無意識に体が動いています。つまり前頭葉を経由していないのです。どうなっているのでしょうか。これは技術習得の記憶回路が関係しています。技術習得の記憶には3つの部署が関係しています。大脳基底核、小脳、大脳新皮質の運動野です。大脳基底核は脳が体の筋肉を動かしたり、止めたりするような大まかな動きを担当しています。小脳は筋肉の動きを細かく調整してスムーズに動かすために働いています。これらは連携をとって働いています。そして最終的には大脳新皮質の運動野から、前頭葉を経由しないで指示・命令が出されているのです。大脳新皮質の運動野は脳の上部にあります。前頭前野にはありません。これらが間違いなくスムーズに機能するためには、技術の習得のための努力が必要です。何回も繰り返して技術を磨き、自分のものにすることが必要です。でも一旦自分のものにしてしまうと、めったに忘れることはありません。たとえば自転車を乗りこなすようになった人が、10年経っても忘れることがないは体が覚えているからです。そういう特徴があるのです。ここで注意することがあります。スポーツなどで、練習では完璧にできるのに、本番で思ったような成績を上げることができない人がいます。これは本来無意識で淡々とこなすことができれば問題ないのですが、意識がしゃしゃり出てくるのです。少しでも不安があると、前頭前野がおせっかいをし始めるのです。特に神経質者の場合は心配症ですから、多少の不安があるとすぐに無意識の指示命令の回路に、前頭前野が割り込んでくるのです。おせっかいを始めるのです。それはあたかも過保護の親が、本来子供が自分ですることに口を出したり、手足を出して子供に成り代わってやってしまうようなものなのです。私はアルトサックスをしているのでそのことがよく分かるのです。120%の練習をした後は、思い切って無意識の回路に任せる。これは難しいことですが、とても大切なのです。楽譜を見なくても指がひとりでに間違いなくキーを抑えている。そういう状態に持っていくことが大切なのです。無意識を信頼する。信頼できないうちは観客の前で演奏してはいけない。信頼できるまで何回も練習を繰り返す。これが楽器演奏の極意なのです。絶対に意識、つまり前頭前野が割り込んできてはいけないのです。これはイチロー選手を見ているととてもよく感じることです。この脳の仕組みを知っておくと、とても安心感が持てます。
2014.08.27
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ベネッセの情報漏えい事件は大きな社会問題になった。現代では個人情報の保護は大変重要視されている。それは個人情報を悪用する人がいるからである。情報化社会が高度に発展すればするほど、個人情報の保護は大切になる。しかし、残念ながら子供たちの間では無防備に放置されている。今子供たちの間でプロフがはやっているという。ブログではない。プロフである。自分の名前、顔写真、年齢、住所、学校、趣味、好きな食べ物を社会に向かって公開し、友達のプロフのリンクを貼っている。ニックネームのようなものでも見る人が見れば、本人が特定されてしまう。またこれは一度書いたらそれで終わりというものではなく、日記風にどんどん更新していくものであるという。このプロフには他人からの書き込みがある。ネットを通じて友達の輪が広がるのである。登録している人は、学校で友人がいなくても全国に友達ができると思ってしまう。現実に顔と顔を突き合わせて作る友達と、ネットを通じで作る友達は異質なものである。ネットを通じた友達は手っ取り早いし、嫌になればすぐにリセットできると思ってしまう。煩わしくないのである。書き込みは常時気になり、目が離されなくなる。つまり携帯に振り回されるようになる。また、関係がこじれた場合は、極端な誹謗中傷が展開される。多くの猟奇事件が多発しているのはその前触れであろう。今後はそうした事件は急速に多発していくことは十分に予想される。プロフは自らの隠しておくべき個人情報を、自ら漏らしていることにならないだろうか。三鷹のストーカーによる女子高生殺人事件ももとはと言えば、ネットの交際が発展したものである。情報社会は便利なものだが、一歩間違えばとんでもない方向へと向かう。悪く悪用する人はどんどん悪用するのである。それに特化して、悪用の更新を積み重ねているのである。特に小学生、中学生、高校生にとっては要注意である。全くの無防備なのである。とくに女の子の場合は慎重であるべきだ。そういう子供たちが大人の餌食にされてしまうのは悲しいことだ。これは大人の責任である。社会の責任である。いまや小学生の段階から携帯、メール、ネット、チャット、ネットゲームのかかわり方については教えていく必要がある。またせめて小学生の間は電話機能のみの利用にとどめるべきだ。その前提として親がよく理解することが必要である。学習していく必要がある。それも社会をあげて取り組まないといけない。もう一刻も猶予のできない時代に来ているのである。
2014.08.03
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ところがその反対に、家の中ばかりいて、テレビ、インターネットで情報をとる。その情報を鵜呑みにする。日常会話は携帯のメールやチャット中心。遊びはゲーム機。音楽はダウンロードして聴くという生活をしているとどうなるか。つまり現実に体を使って感じたり、体感していないとどうなるのか。子供時代にYOU TUBE等の映像を見たり、ネットで情報を得たり、ゲーム機でバーチャルな戦いをして遊んでいるとどうなるのか。体験が不足になる、身体感覚がない。相手の顔が見えない、実際に観察したり確かめているわけではない。部屋の中にいて感じているだけである。そうした状況で喜怒哀楽、不安、恐怖、不快な感情が発生しているのである。感じているというよりも、こんな感じだろうと予測しているのである。夏休み子供たちが外で遊ばない。特定の子どもとしか遊ばない。リアルな実体験が不十分である。でも子供はそれがまぎれのない自分の感情であると信じてしまう。すると、感情は実にいびつな現れ方をする。たとえば怒りなどの感情は増幅しやすくなる。相手の顔が見えないので誹謗中傷がエスカレートしやすい。ネットの書き込みなどもそうである。LINEの書き込みによる殺傷事件も起きるようになった。仲間たちへの愛情は、すぐに大きな憎悪に変わる可能性があるのである。子供時代にバーチャル世界、仮想世界に育った人間は冷たい心の持ち主になる。豊かな人間らしい感情はもてないような脳になっているのである。自然への畏怖や愛着、動物への慈しみなど、人間らしい感情を持つことなどはできなくなる。1990年代以降の子どもたちは、多かれ少なかれ、そうした情報化社会の中で育っている。感情については、まともな人間本来の感情は最初から期待薄になってきているのである。ソフトバンクの孫さんは将来どの分野が成長産業となるのか常にそれを探し続けている。その孫さんが、今後はロボット産業が有望だといわれる。それも物を作ったり、物を運んだり、介護などの力仕事をするロボットではない。人間の心の悩みを聞いてくれて癒しを与えてくれる、相談相手としてのロボットが出てきて活躍するようになるといわれる。人間が人間らしい心を失い、ロボットがより人間らしい心を持つようになるのだといわれる。逆転現象である。鉄腕アトムやドラえもんのようなロボットのことだろう。なんか空恐ろしい時代が来るかもしれない。その前に人間は人間らしい感情を失ってはならないと思う。
2014.07.29
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佐世保で同級生の女子生徒を刺殺するという事件が起きた。殺した生徒は反省や謝罪の言葉はないという。さらに犯行時の写真をネットに投稿していたという。これはどうもこの生徒の問題というよりは社会の問題が表面化してきたものだと思う。7月13日に投稿したKの事件と同じ構図である。これから先この手の事件はまだまだ発生することが予想される。戸塚滝登氏は次のように言う。10歳の誕生日を過ぎるまではネットは見せないでください。10歳の誕生日を過ぎるまではパソコン、テレビ、ゲームマシーン、MP3プレーヤー、スマートフォン、レトルトフード、ファーストフード、ヌードルなどは与えないでください。五感と身体感覚の経験を優先させてあげてください。10歳の誕生日を過ぎるまでは、人工より自然に親しむことを優先させてあげてください。その理由として12歳までに、体験として豊かな人間関係を持てているか、自然と触れ合っているか、五感を働かせているか、豊かな体感経験をしていることはとても大切だといわれる。そうした体験や経験が豊富にあると心豊かな、現実感のある人間に成長する。つまりそうした感受性を持った脳のシナプスのネットワークが12歳までには形作られるという。それ以降いくら頑張っても五感の強化、身体感覚を鍛え上げることは不可能であるという。つまりそうしたネットワークは脳が自らシナプスを切断して廃棄してしまうのである。残った脳は人間性に乏しいサイボーグのような人間となってしまう。このことをもっと社会的に認識する必要があると思う。緊急かつ重大な問題である。
2014.07.29
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私の住んでいるマンションには公園があります。例年の夏の朝は、蝉のあまりのやかましさに参っていました。ふと気が付きました。今年は全然鳴いていないのです。まだ早いのか。イヤイヤそんなことはありません。不快だけども、鳴かないとこれはこれで心配の種になります。いいような悪いような。インターネットで見ると全国各地同様の現象が起きているようです。地震の前触れとかいろいろ書いてありました。こじつけかどうかは、分かりませんが、そういうことなんですかね。そうだとするとちょっと不気味ですね。
2014.07.27
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サマージャンボが発売されている。売りに出されるのは1000万枚を1ユニットとして、26ユニット発売される。1ユニット30億円の売り上げになり、26ユニットで780億円の売り上げとなる。当選金として支払われる額は以下のとおりである。一等4億円は26本。104億円である。一等の前後賞一億円は52本の52億円。この二つをテレビで大きく宣伝している。一等前後賞合わせて6億円である。しかし一等が当たる確率は、1ユニットあたりたったの一枚。確率は1000万分の1である。天文学的数字である。東京都の全人口あたりたったの一枚なのである。でも買うときは自分にあたるかもしれないと思わせてしまう。こういう宣伝を詐欺まがいというのではなかろうか。1等の組違い賞10万円で2574本、2億5740万円。2等の1000万は52本の5億2000万円である。3等の100万円は2600本の26億円である。4等の1万円は、26万本で26億円。5等の3000円は260万本で78億円。6等の300円は2600万本で78億円。以上当選金合計として支払われる金額は371億7740万円である。売上に対しての支払金額は約47%である。全部売り切れると約408億円の粗利益となる。全部売り切れなくても支払金額がなくなるので、十分に採算は合う。必ず儲かるようになっている。これから必要経費を差し引いても純利益は莫大なものとなる。企業でいえば東証一部上場の超優良企業と同列である。これがグリーンジャンボ、ドリームジャンボ、サマージャンボ、オータムジャンボ、年末ジャンボと組まれているのである。でもわずかな金額で、でっかい夢を見させてもらうのだからよいのではないのかと血眼になっている人が多い。私がジャンボの一番問題だと思うのはまさにその点である。企画を立てている人は、一等前後賞6億が当選した人の、その後の人生を考えてあげているのだろうか。到底そのようには思えない。高額当選金を前面に出して、有名な芸能人を使って、ひっきりなしに宣伝をしている。消費意欲を高めているのである。では企画者にお尋ねしますが、もし仮にあなたが6億を手にしたとするとどうしますか。あそこにいくら、ここにいくら寄付しようと考えるのは、当選する前のことだ。仮に当選すると、そんなことはすぐ忘れるだろう。当選すると多分真っ先に今の仕事はすぐに辞めるだろう。そして高級住宅を買う。高級乗用車を買う。なかには離婚する人も出るかもしれない。今の煩わしい人間関係から逃れる。クルーザーを買う。ギャンブル、グルメ三昧。高級クラブに出入りして、ゴルフ、釣り、海外旅行、飛鳥で世界一周旅行。思いつく贅沢の限りを尽くすだろう。森田を勉強した人は、そんな人生はとても味気ないということをよく知っている。でも、もしそんな状況に置かれたら人間はすぐに弱さを露呈する。とても森田理論で言っているような、日常生活を丁寧に規則正しく、雑事に精魂込めて取り組むなどということができるだろうか。たぶんできないだろうと思う。こうして人間は堕落してしまうのである。私の知り合いに100万円当選した人がいる。だれも祝福こそすれ、ねたむ人はいない。その人は当選金で大型テレビを買い替えた。そして家族で旅行に行って楽しい思いをしたという。それぐらいの思いもかけないラッキーな出来事は、人生のアクセントになると思う。もちろん仕事を辞めるようなことはしていない。6億円の高額当選金は人生そのものに悪影響を及ぼすと思う。人生を破滅させる可能性が出てくると思う。宝くじでなくても、莫大な遺産が転がり込んできた。土地や家屋が道路や公共用地に収容されることになった。街中の土地が売れた。航空機事故や交通事故などで莫大な死亡補償金が入ってきた。こういうケースで以後の生活がガラッと変わった人の話はよく耳にする。そして相続争い、家族の内輪もめ。周囲の妬みをかうのである。私は当選金は100万円から500万円ぐらいまでに上限を設けたらよいと思う。そうなれば、当たる確率も相当高くなる。かなりの人がささやかな幸せを感じることができる。生活をまるっきり破壊することもなくなる。そうなったときは、私もジャンボ宝くじを買ってみたいと思うのだが。
2014.07.12
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人生60年を生き抜いた人は、国家試験でいえば合格証を発行したい。今年60歳になるかたは1954年、昭和29年生まれである。振り返ってみると、私はある時期いろんな国家資格取得を目指したことがある。立て続けに社会保険労務士、宅地建物取引主任者、行政書士、ファイナンシャルプランナー資産運用部門一級技能士、日本ファイナンシャルプランナー最高峰CFPなどに合格した。合格基準点はだいだい60点であった。医師国家試験。看護師、保健師国家試験はよく知らないがほぼ同程度ではないだろうか。すると、人生60歳を迎えたということは、文句なくこの世に生を受けてまずまずの点数を取ってきたとみなしてよいと思う。人生の荒波をかいくぐって今現在生きているということは、とても尊いことだと思う。ただ実務経験はないのだから、これからも精進を重ねて技や技術を磨き世のため、人のために役立つように努力することが不可欠だと思う。60歳を生き抜いていたことは、気が付かないだけで、人のために役立つものは何かしらのものは持っていられると思う。健康に生きてきたというだけでも価値がある。だから客観的な立場で一旦棚卸をする必要があると思う。人にしてもらってもよいかもしれない。そうはいっても、私には何もないと思われている人もいるかもしれない。棚卸の参考のため、私の経験を披露してみたい。・私は中学から神経症で苦しんできた。30代で森田に出会いもう30年近く学習してきた。この方面で人の役立つノウハウの提供はできる。・アルトサックスで老人ホームの慰問活動を始めて約5年。つたないながらも150曲のレパートリーがある。楽譜の提供。指導は無償でしてあげられる。・曲がりなりにもファイナンシャルプランナーである。今は退職金をもらっても、もっと増やそうとして、株や投資信託に投資して大損を抱えている人がいる。もう少し知識を増やせば、資産を減らさない。安全に管理する方法ぐらいは指導できると思っている。・大学は旅行で富山県、新潟県以外はすべての県に足を踏み入れた。北海道は知床から礼文島までくまなく回った。伊豆七島は大島、三宅島まで行った。九州沖縄は奄美、与論島、沖縄を回った。海外はシンガポールやハワイのオアフ島、マウイ島まで行った。奄美ではサンゴ礁の美しさを体験している。そうした旅行情報は数多く持っている。これも少しは役に立つかもしれない。逆に教えてもらいたいことは、自家用野菜の上手な作り方である。またパワーポイントの使い方、スマートフォンの使い方などに詳しい人に教えてもらいたいことがある。それから写真をブログにアップする方法などがちんぷんかんぷんである。今すぐに思いつくことはそんなところだ。まだまだあると思っている。皆さんもこれを参考にして棚卸してみてほしい。きっと私はこんなことができる。みんなの役に立てるかもしれない。60年近く生きてきた人は自分が気づいていないかもしれませんが、きっとあるはずです。それを現実に役立てれば素晴らしいとは思いませんか。そんな気持ちで行動すれば、自他ともに活かすことができます。
2014.06.29
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再び、東京都議会のヤジ問題についてとりあげたい。鈴木章浩都議の声:早く結婚した方がいいんじゃないか別の男性の声:自分が産んでから別の男性の声:がんばれよ(議場で笑いが起きる)塩村都議:今後、妊娠、出産に関して男性の声:動揺しちゃったじゃねえか塩村都議:悩みを抱える女性たちの問題に対し(中略)具体的な取り組みをお願いいたします。男性の声:いやー、先生の努力次第塩村都議:また、不妊の原因は女性だけではなく男性の声:やる気があればできるこれらのヤジが東京都議会の実態であったという。セクハラそのものである。見識を疑わざるを得ない。これらの複数議員は、ほとんど中堅、古参議員であった。声紋分析でほぼ特定された。その中に驚くべき議員が含まれていた。これらの議員は、自信過剰に陥り、慢心、傲慢さが際立っている。それらを制御する機能が全く失われている。欲望が暴走し、自浄能力はもはや期待はできない。森田理論では、そうなってしまうとその場には近寄らない。強制隔離する必要があるという考えだ。つまりこの場合は議員辞職して、今後の暴発を防ぐことが優先課題となる。一度やったことは、また繰り返されるからである。それももっと深刻で、重大事件を引き起こす。都議会の場合はそれに集団の力が加わる。放置すると金の無駄遣い、都議会の混乱に拍車をかけることは必至である。議員辞職は、本人たちが生まれ変わるきっかけにもなる。もし個々人の暴走が止まれば、その時にまた都議会議員として復帰を果たせばよい。こういう人が一方では、女性の味方、女性の就業機会を増やす、子育て支援を政権公約に掲げているのである。全くナンセンスでその資格はない。私生活でもやりたい放題、享楽的生活を満喫していることは容易に想像がつく。東京都議会の中に毒蛇が何尾も動き回っているようである。危険極まりない。なぜこうなるのか。今後3年間の任期を全うさせると、その額一人当たり7500万円にもなるという。私はそんな高額報酬に原因があるとみている。過ぎたるは及ばざるがごとしである。議員1年目のときは、みんな真摯に政策作りに向き合ったはずである。それが高額報酬で目がくらみ、一挙に心変りが起きたのである。今や過ぎたるは及ばざるよりもなお悪しである。これは本人たちのせいばかりではない。制度そのものがそういう人間集団を作り出してしまう仕組みを持っているのである。本人たちもどうしてこんな堕落した議員になってしまったのか。初心に戻って都民のために尽くすことはできないのか。でも堕落してしまった、自分たち自身ではどうすることもできないジレンマを抱えている。この問題は徹底して膿を出すまで追及の手を止めてはならないと思う。そのためには都民の署名活動がカギを握っているかもしれない。都議会自体は自浄能力は機能しなくなっているのだから、世論しか自浄能力は発揮できない。都民の動きに注目している。
2014.06.28
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近所に変則交差点があります。交差点は普通十字になっています。ところがこの交差点は違います。対向車線が10Mほどずれているのです。対向車は交差点に入ると10Mほど左折してから右折して直進してくるのです。私は最初まさか、そんなふうにして直進してくるとは夢にも思いませんでした。右折しようと思っていたので、思わずぶっつかりそうになりました。なんて乱暴な運転をするのだろうと腹が立ちました。こっちが優先ではないのかと。隣に座っていた友人が言いました。「ここは変則交差点だよ。交差点は普通直進車優先よ」冷静になって、よく考えれば、ムカつくけれども、こじつければそういうことか。この時最初に感じたことは「危ない。ぶつかってしまう」間一髪間に合って、「ああよかった」でした。問題はそのあとです。猛スピードで左折して右折して直進してきた相手に腹が立ったのは。これは初二念です。この怒りを相手にぶちまけたとしたら、大喧嘩になったでしょう。どう見ても自分には分がない話です。でもあまりにも腹が立ったので、あとで近くの交番に行き、怒りをぶちまけました。警察官が言いました。「確かに、あなたの言われるように危ない交差点です」私は言ってやりました。「そう思うのだったら、一方通行にしてしまえばいいのでないですか」すると、警察官が言うには、「そうすると大きく迂回しなくてはならないので、おいそれと変更はできないんですよ」しぶしぶ引き下がりました。そういえば、昨日テレビで危ない交差点の話をしていました。そこは交通量がとても多い交差点です。ところが信号がありません。そのためしょっちゅう事故があります。なぜ信号機がないのか。それは交差点の手前の一か所に踏切があるのです。ここを頻繁に列車が通ります。そのために信号を取り付けると、スムーズに車が流れなくなるのです。だったら踏切連動の信号機を取り付けたらよいのではないでしょうか。また事故が多いのでしたら迂回路をつくる。レールの高架や、車のトンネルを作ることだって考えられます。予算がないのでしょうか。事故よりもまだ優先することがあるのでしょうか。こういうことは、陳情するのは大切ですが、一市民の立場では取り合ってもらえません。町内会を通じて市会議員、県会議員にお願いして行政に働きかけてもらうのがよいかもしれませんね。それにしても世の中におかしなことはたくさんあるものです。とりとめのない話になってしまいました。
2014.06.20
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親の育て方が悪かったから、神経症で苦しんでいるという人がいる。一面ではそうかもしれない。それでいつまでも親を許そうとしない。ではあなたは立派な親なのですか。親がきちんと育ててくれなかったので、そんなによい育て方なんかできないじゃないですかという人もいる。一理ありそうだが、こんな議論をしていると、暗くなるばかりです。では聞きますが、親が与えてくれたものを考えたことがありますか。親はあなたを生んでくれた。そしてあなたにとっては不十分かもしれないが、今まで育ててくれた。そして神経質性格を与えてくれた。これってよいことなの。もちろんよいことですよ。あなたは神経質性格の悪い面しか見ていないかもしれないけど、見方によってはこれほどはぐくみあいのある性格はありませんよ。特に鋭い感受性を持っていること、好奇心旺盛であることは何物にも代えがたいものです。外向的性格を持った人にはなかなかお目にかかりませんよ。大体完璧な親を期待し、申し分ない育て方を望むことはどういうことなんでしょうか。もともと森田理論は100点満点から減点していく減点主義ではありませんよ。存在そのもの、持っている能力、そこを出発点にして点数を積み上げていく加点主義の考え方ですよ。獲得した能力、自信を喜び、成長している自分をたたえていく、そういう人間でありたいと思います。
2014.05.16
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二人に一人ががんになる。三人に一人ががんで死ぬ。がんになった時どう対応するか。普段から準備しておいたほうがよいと思う。私は今まで白血球のTキラー細胞などがガンを食いつぶしてくれるから、顆粒球とリンパ球の割合をバランスよく保つという考え方だった。それが唯一のがん対策だと思っていた。がんの手術、抗がん剤治療、放射線治療、その他治療は拒否するつもりだった。それらの治療は免疫抑制が起こり、再発した後は死を待つしかないと思っていた。そんな時平岩正樹医師の「医者の私ががんに罹ったら」を読んだ。まさに目から鱗が落ちるような、衝撃を覚えた。まずがんの特徴や治療の事実をよく観察すること。これをおろそかにして推測でがんと立ち向かってはいけないということだった。一部分を紹介したい。・がんに罹った時の治療法は、手術、抗がん剤治療、放射線治療が中心である。そのほか免疫療法などがあるが成果はあまりよくない。・自分ががんに罹った時現実を受け入れることが大切である。そして自分が積極的にがんの治療にかかわっていく。そのためには自分のがんをよく研究する。自分のがんがどんな状態かを知らなければ、自分の受けている治療がまっとうかどうかは分からない。・がんの手術は2種類ある。がんを完治させるもの。患者の苦痛をとるもの。進行がんは完治が難しいものがある。そういうものは受け入れて、残された日々をいかに生きていくかに切り替えたほうがよい。・大腸がんの抗がん剤治療薬は10種類もある。病院には経費が掛かるのですべてを置いているわけではない。抗がん剤はその患者に合わせて、種類を替えたり、量を替えたり、組み合わせてゆかなければいけない。また厚労省は外国で認められている治療薬をなかなか認可しない。これは今の医療の問題である。・医者にとっても患者にとっても一番恐ろしいのは骨髄抑制である。患者には骨髄抑制の自覚はないが、通常3300から9000個/立方MMの白血球が3000を切ると治療が続けられなくなる。白血球の減少を防ぐにはGCSFという治療薬がある。・正常な細胞は昼間活発に活動し、夜間は休止するという生体リズムを持っている。がんは反対に夜間のほうが活発である。抗がん剤治療は夜間が有効であることが分かっている。・進行がん医療がお粗末な日本。病院によって、患者が受けられる医療の質は全く違う。がんの患者に、もう治療法がありませんと告げる医者たちがいる。私はそういう医者たちに聞いてみたい。もしあなた自身が患者だったとしたらもう治療法はありませんと自らに言えるだろうか。・肺がん、乳がん、胃がん、肝臓がん、担癌、大腸がん、すい臓がんにはそれぞれ大きな特徴がある。それらの特徴を患者が自らよく知ること。特徴に合わせて最適治療を選ぶ必要がある。それらを詳しく述べられている。早期発見、賢い病院の選び方、手術の考え方、副作用の少ない抗がん剤治療、放射線治療も述べられている。今まで医師だけが知っておけばよいというがんの知識を、患者もよく理解しておくことが大切だ。重要なのは自分のがんをよく知り、自分が主治医になったつもりで、病院を選び、担当医師と相談して納得できる治療に臨むということだ。医者の言いなりになって、がんが転移して「がん難民」として見捨てられるということは最悪のパターンである。
2014.05.10
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板村真民さんに「冬がきたら」という詩がある。冬がきたら冬のことだけ思おう冬を遠ざけようとしたりしないでむしろすすんで冬のたましいにふれ冬のいのちにふれよう冬がきたら冬だけが持つ深さときびしさと 静けさを知ろう・・・・人間を季節にたとえると、私は晩秋に差し掛かったところだろうか。何もわからないが希望があった春。やることなすことすべてに自信が持てなく、神経症で苦しかった夏。そして神経症を克服して、人生の楽しみを味わうことができるようになった秋。振り返ればあっという間の出来事であった。この先には冬が待っている。冬は過酷である。第一寒い。寒いと風邪をひいたりして体調を崩す。また体が縮こまってしまい、心もそれにひきつられてしまいそうだ。外に出ることが億劫になる。自然に家の中にこもるようになる。何も楽しいことは一つもないような悲観論に陥ってしまう。そうして体や心が徐々に衰退して枯れていくのか。そしていずれ死んでしまうのか。その進行スピードを少し遅らせることが私にできる精一杯のことなのか。しかしよく考えるとこれはあまりにも一面的だ。両面観で見る必要があると思う。冬には冬のよさ、楽しさがある。札幌では雪まつり、東北ではかまくら、雪合戦。スキーやスケート、温泉に浸かる、鍋物のおいしい季節は冬である。こたつに入ってゆっくりと団欒の時間が持てるのは冬ならではの楽しみだ。嫌な季節であるという前に、冬という季節の意義、存在価値を見つけることが大切なのではなかろうか。板村さんはその冬に向き合おうといわれる。心身の衰えてきた自分に向き合おうといわれる。その自分を自己嫌悪したり、自己否定しないで、その事実に向き合おうといわれている。そういう衰えてきた自分を自覚して、認めることができることは大切だと思う。そこを土台にして生きてゆけるからである。集談会でも「もう私は歳だから、勉強会には参加しない」という人がいる。足が動く、ボケたりしていなのに自分で限界を設けて、縮小再生産の道へと自分を追いやっているのである。そういう生き方だけは避けたいものである。そういう人は森田理論学習が不十分だったのではなかろうか。生涯一捕手ではないが、生涯一人間として生きていくことを教えているのが森田理論であると思う。
2014.04.14
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どうしてこんなにもめているのだろうか。私は2つの問題があると思う。一つは小保方晴子さんの論文の件である。画像取り替え、切り貼りの件である。これは小保方さんの問題でもあるが、小保方さんはまだ30歳である。これは理化学研究所の指導、管理の問題も見逃してはならないと思う。いづれにしても、論文の体をなしていないのであるから、一旦は取り下げるべきであると思う。もう一つは、STAP細胞の作製が事実なのかどうかということである。小保方さんはもう200回以上も成功しているという。それを実証してみることが大切であると思う。これは小保方さん本人がノウハウを証明してみることだと思う。これが真実だとすると、ノーベル賞ものの快挙であるだけに、早く証明してほしいものである。もし事実でないとすると、早く告白してもらいたいものである。
2014.04.11
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私は単身赴任をしていて大阪という街が好きになった。最初、大阪はごみごみした街で、人がずけずけと干渉してくるイヤな街というイメージあったが、実際に住んでみると実態はまるで違っていた。私は転勤族で日本全国いたるところに行ったり、住んだりもしたが大阪が一番だと今でも思っている。第一にフレンドリーな人が多い。第二に吹奏楽などの音楽が盛んである。第三に劇場、コンサートホールなどの文化施設が多い。第四に巨大な公園が多い。私の好きなものばかりである。今日は公園について書いてみたい。北から千里万博公園、服部緑地公園、鶴見緑地公園、大阪城公園、長居運動公園、浜寺公園、大泉緑地公園などである。私はすべての公園に何度も出かけて散策を楽しんだ。大きな池を持った巨大な公園がいたるところにあるのに正直驚いたものである。千里万博公園は、万国博覧会跡地である。太陽の塔が出迎えてくれる。日本民俗資料館などがある。私のお気に入りは日本庭園である。服部緑地公園には、日本の古民家がいたるところに建てられている。鶴見緑地公園は見晴らしの良い展望台があった。日曜日になるといたるところでギターなどを奏でながら、歌声サークルが開かれている。大阪城公園はみなさんよくご存じだろう。1万人の第九で有名な大阪城ホールもある。長居運動公園はサッカースタジアムがある。浜寺公園はバラと松林の公園である。このような憩いの場がいたるところにある都市を他には知らない。
2014.04.05
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神経症の苦しみですが、これは何といっても森田理論です。森田理論は人生観が変わり生きることが楽しくなります。神経症状を治すのはごく一面的な見方です。認識の誤りを自覚し、他人中心の生き方を自分中心の生き方に修正してゆき、生の欲望の発揮に邁進するようになれば人間に生まれた喜びが出てくると思います。私の場合はそうでした。つぎに歳をとって死ぬということですが、親しい人と別れる別離の寂しさと、自分がこの世から永遠にいなくなってしまうという恐れのことだと思います。いくら親しい家族でも最後は死によって引き離されてしまいます。これに対して私は薄い人間関係を幅広く作っておくことが大切だと思っています。家族はもちろんのこと、生活の発見会で知り合った人、趣味の会で知り合った人、過去や現在の仕事で知り合った人、親せきや昔からの友人などを大切にしてゆきたいと思っています。広く浅い人間関係を数多く築いてゆきたいと思っています。死についてですが、人間は死んだあとは跡形もなく消えてしまうという考えと、魂が体から抜け出てまた新たな道が開けるのだという考え方があります。これはどちらも推測の域を抜けません。でも私は魂が抜け出てまだ次につながるのではないかと勝手に思っています。なぜかというと、そう考えると「今をどう生きるのか」ということにつながるからです。おろそかに生きることはできなくなります。また自分さえよければそれでよいという生き方もできなくなります。少しでも人の役に立ちたい。将来がよりよくなるために少しでも貢献したいという気持ちが出てきます。このような気持ちで生きていけば、仮に死んだあと自分が跡形もなく消えてしまうとしても、それはそれでよいのではないのかと思っているのです。
2014.03.29
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最近の森田理論の講演会などに行くと「生老病死」をテーマにして話されることが多い。最近の北西憲二先生や比嘉千賀先生の講演もそうだった。森田理論で「生老病死」の予期不安や苦しみを考えてみましょうということだ。生まれるというのは不安や苦しみとは違和感があるが、生まれてきて生きていくということそのものが苦しみだということだそうだ。私は「生老病死」を予期不安や苦しみとしてとらえるのではなく、自分の目の前に与えられた課題としてとらえるべきだと思います。課題について深く洞察したり、よりよい方向に認識を新たにしていくほうが将来の展望が開けます。「生老病死」の中で、特に日本人の問題としては、第一に病気になること。第二に歳をとって死ぬことではないかと思います。年齢が高くなるほど予期不安は強くなってきます。病気になることはまずガンや血管障害などの器質的疾患にかかること。つぎに認知症やアルツファイマー、精神疾患にかかること。あるいは神経症にかかって生活に支障をきたしたり、生きづらさが続いて重苦しいことなどがあります。器質的な病気ですが私の場合は、体を温めることと食べ過ぎないことを中心に健康法を指導されている石原結實医師の考え方を取り入れています。また病気は体の免疫力のバランスの崩れから起きるという安保徹医師の考えかたに賛同しています。このお二人の医師の考え方を生活の中に取り入れて日常生活に活かしたいと思っています。
2014.03.29
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幸田文さんの父は、文さんを育てるとき「おまえは赤貧洗うがごときうちへ嫁にやるつもりだ」と言っていたという。茶の湯や生け花などの稽古はさせずに、まき割り、米とぎ、箒の持ち方から、雑巾のしぼりかた、魚のおろし方まで自ら細かく教えたという。ただし論語の素読だけは家庭教師を付けた。近所の老人だった。その爺さんが変わっていた。文さんと弟を浅草に連れ出す。社会見学だ。雷おこしの原料を知っているかとか、この凧の職人細工の見事さを見ろとか、寿司の食べ方はこうじゃないといけないとか、あの豆腐屋の姉さんの給料はいくらだと思うかとか聞くのだ。講釈も聞きに行く。また安来節のおどりなども見に連れていく。露伴は老人が子供たちをそんなところに連れていくのを面白がっていたという。文さんには、論語は忘れたが、浅草で教えられたことは心に深く残っているという。雑多な経験がその後の人生に大きな影響を与えていたのである。幸田露伴は見事な子育てをしている。参考になった。この親にしてこの子ありという気がする。
2014.03.21
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幸田文さんの残した言葉を紹介します。いずれも味わい深い言葉ばかりです。森田理論学習を積み重ねているものとして、心しておきたい言葉ばかりです。ちなみに幸田文さんの父親は有名な幸田露伴です。和服をきるのには、上前下前(うわまえしたまえ)をかき合わせて着ます。あれは自分を大事にして、いとおしむ形だとおもいます。いつも、着物が私を大事にしてくれるな、といった感じがして私は着ているんです。(「振り袖を買う」より)心の中にはもの種がぎっしりと詰っていると、私は思っているのである。一生芽をださず、存在すら感じられないほどひっそりとしている種もあろう。(中略)何の種がいつ芽になるか、どう育つかの筋道は知らないが、ものの種が芽に起き上がる時のちからは、土を押し破るほど強い無い、と有体に正直に早くいってしまえば、たちどころにその一言の“無い”が味方になってくれるのです。金がない、物がない、なんにもないの場合に、役立つものといえば心と、心から出る言葉しかないのです。なにもないということを素直に認識して、正直にそれをいえば、気もらくになるし、解決の道もひらけようというものです。(「ございません」より)心の凍てつくとき、目を閉じて、身は伊豆のいで湯の中、と思ってごらん。 湯を思えば、湯はきっと答える。(「こわれた時計」より)晩年の祖母(文さん)はあちこちに木々を訪ね、その先に山の崩れを見た。普通なら家で孫に囲まれて気楽に過ごしたらよさそうな歳になって、なぜ滅多に人も行かないような奥地へ、ときには他人様の背中を拝借してまで行こうとしたか、疑問に思う方は多いかもしれない。 それでも身内にとってはなんの不思議もない祖母の姿である。興味をひかれることに出会ったら、その心の発芽をおろそかにせず、自ら行動をおこして知ろうとする姿勢は生涯を通じ一貫している。
2014.03.21
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先日定年退職し、その後3年間公務員として働いてきたという友人と飲む機会があった。今後、仕事はしないでのんびりと暮らすらしい。その友人はよく酒をのむ。そこで私が大阪に単身赴任をしていた時のストレス解消の話をしたところ以外にうけた。私は休日になるとよくJRで京都方面の「山崎」に行った。サントリー山崎工場に行くのである。ここでは工場見学の後、サントリーピアモルトウィスキー「山崎」が飲み放題である。普段、ウィスキーはあまり飲まないが、このウィスキーのうまさは格別である。つまみもある。いい気持にやったところで、次にJRで近くの「長岡京」に行くのだ。するとそこにはサントリービール京都工場がある。専用バスが巡回しており、「長岡京」の駅前まで迎えに来てくれる。そこでは工場見学の後、あの最高金賞のプレミアムビールが飲み放題だ。この出来立てのプレミアムの味は最高である。つぎに近くに京阪電車の「淀」という駅がある。ここは京都競馬場がある。寝っ転がって競走馬をみる。ほっとする。ただし、土日のみである。競馬を見た後は、京阪電車で大阪市内へと帰り、天満天神商店街へと繰り出す。落語の好きな人は天満天神繁盛亭に行くとよい。ここは日本一長い商店街として有名だ。パチンコ屋だけでもその商店街の中に10店舗ぐらいある。私は「春駒」という寿司屋へ行くのだ。ここはネタが大きい、新鮮、安いので有名だ。いつも客が数名外で順番待ちをしている。食事の後は絵画を扱っている店に行き、心行くまで絵の鑑賞をしたり、ペットショップに行って子犬や猫を見て回るのだ。これはお金もかからず、ストレス発散できる楽しみであった。その友人は早速奥さんと出かけることにしたようであった。
2014.03.04
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森元総理の真央ちゃん発言が物議をもたらしている。「あの子は肝心な時にはいつでも転ぶんですよ。」森田理論学習をされている人はどう思われているだろうか。これを題材にして議論しても学習になると思う。森さんは真央ちゃんがメタルをとると思っておられたのだろう。それがショートでミスをしてメタルの可能性がなくなって自分がイライラされたのだろうと思う。そのイライラはそのままイライラしておればよいのである。こういうイライラは感情の法則1で時間とともに消え去る。イライラをそのまま表現するとどういう結果になるのかわからなかったのだろうか。森さんはオリンピックの役員なので発言内容は全世界に広まってしまう。それと森さんは、結果優先の人だと思う。森田とは違う。森田理論学習ではプロセス、過程を大切にする。努力即幸福である。結果を優先するということは、「かくあるべし」で対応することである。結果が悪ければ、他人を平気で批難、説教、指示、命令、叱責、怒りの言葉が出てくる。我々は反面教師として学べばよいと思う。
2014.02.27
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先週の「情熱大陸」は星野源だった。音楽家、俳優、文筆家である。只今33歳。武道館でのコンサートを成功させたが、その前にクモ膜下出血で倒れ2度の開頭手術をしている。星野源は少年時代、いじめにあっていたという。それが原因でパニック障害を発症した星野は、精神安定剤を服用するような日々が続いたという。高校生になってもその症状は治らず、学校に行けなくなり、家も出れなくなった。そして、いわゆる不安神経症を患う。星野源は森田理論の適応対象者だったのだ。ひどく追いつめられた高校時代、星野はクレイジーキャッツの『だまって俺についてこい』という一曲に出会う。“そのうちなんとかなるだろう”という歌詞に救われたという。「当時の自分は完全に絶望していて、俺はこれから完全に狂ってしまうんだと思ってたときに、『そのうちなんとかなるだろう』ってあの声で歌われたときに、これを信じるしかないというか。(中略)自分にとっては、物凄い命綱みたいなもんだった」と語る。植木等の歌で救われたというのがユニークなところだ。森田理論をこね回すよりもスッキリと自分の胸に収まったのかもしれない。また一足の草鞋を履くより、2足の草鞋でもよいのではないかという。歌手として、俳優として、文筆家として大活躍である。興味のあること、好奇心のままにいろんなことにどんどん挑戦しているところに共感が持てた。
2014.02.25
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今日は山口県防府市の防府天満宮の梅まつりに行ってきました。梅はほぼ満開でした。白と赤の梅の木がありました。天気も良く多くの出店にも大勢の見物客がいました。梅まつり特設ステージではたくさんの郷土芸能の出し物がありました。ドジョウ掬い、南京玉すだれ、傘踊り、ササラ踊り、傘回し、手品などです。そして我々のスーパーチンドンひまわりも大忙しでした。そのほか、私は皿回しを練習しました。なかなか難しいですがコツがあるようです。早く皿回しができるように練習したいと思います。
2014.02.23
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浅田選手に聞いてみたい。ショート終わった時、1位キムヨナ74.94、浅田真央55.51の16位。その差は実に19.43。もうメダルの可能性はない。普通ならもう投げやりになるところだ。私ならフリーはキャンセルするだろう。日本人はフリーのテレビ中継は目を背けた人も多いことだろう。浅田選手自身も、朝のフリーの練習は上の空だったという。でも、浅田選手はフリーでは自己最高の演技を見せてくれた。ジャンプはすべて成功させた。浅田選手はうれし涙を流していた。私は完ぺきな演技に感動した。そして世界中の人が涙した。何がそうさせたのだろう。どういう気持ちの変化があったのだろうか。どうしてもよく分からない。森田理論学習に通じる目に見えない何かを感じるのは私だけであろうか。
2014.02.21
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ソチオリンピック男子2人のりボブスレーで日本は30チーム中28位だった。ボブスレーというそりに乗って、1700メートルの距離を時速130キロから155キロで、約1分で滑り降りる。この競技は、「スタートダッシュ」「パイロットの技術」「ボブスレーの性能」で決まるそうだ。日本ではどの点を取ってみても後塵を拝している。競技人口も少なく、遠征費用などは自前というのが響いているのかもしれない。ヨーロッパではBMW、フェラーリ、マクラレーンなどのメーカーがボブスレーをつくっている。1台700万円もするボブスレーを選手の体型に合わせて作っている。日本でボブスレーを製作している企業はなく、今まで現地で外国製をリースして競技に臨んでいた。中古車とF1の車両が勝負しているような状態だった。上位に食い込むことは夢のまた夢であった。そんな中2012年5月東京都大田区の町工場の人たちがボブスレーの製造に立ち上がった。もともと下町の町工場とはいえそれぞれの分野で高い技術を持っている。その技術はロケット、航空機、防衛部品、産業機械などに活かされている。そういう人たちが一致団結して仕事の合間に無償で手分けをして作り始めたのだ。1号機は12月に完成してテスト走行が行われている。そこそこのタイムだったが改善点もあった。翌年には2号機、3号機と作られたが、ソチオリンピックでは不採用となった。規格や操作面の難しさが露呈したようである。でもあきらめることはない。まだ始まったばかりの挑戦である。大田区の町工場の人が立ち上がった関係で、NTTぶららや全日空などがスポンサーに名乗り出た。ソチの次は韓国の平昌である。ぜひとも日本製のボブスレーで上位に食い込んでほしいものである。
2014.02.20
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明日早朝から競技が始まる。午前0時から4時30頃まで。各選手もうすでにどんな演技をするか決まっている。その演技構成に応じて得点は出ている。それが確実にできるかどうか。あるいはミスがあるかどうか。加点をもらえる演技ができるかどうか。ここで本当の勝負が決まる。練習ではほぼ7割から9割の確率でミスなくできる人ばかりだろう。後は無心になりきるかどうかだと思う。ちょっとしたところが勝負の分かれ目となる。キムヨナ、コストナー、村上佳菜子、リプニツカヤ、ソトニコワ、浅田真央に注目している。出場30選手である。メタル獲得は運が絡んでいると思う。
2014.02.19
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男子フィギア羽生選手が金メタルを獲得した。明方、4時ごろだったので、そのごろ起き出して観た。2回ジャンプを失敗したので、その時点でパトリック・チャンの優勝かと思っていた。ところがパトリック・チャンもジャンプを失敗したり、細かいミスを何回かしていた。パトリック・チャンが演技をするときは、途中まで失敗してくれるように必死になって祈っていた。これが偽らざる本音だった。パトリック・チャンは曲をかけての試合前の練習の時に、通しで練習しないで、気になる部分練習をしていた。羽生選手は通しで練習していたようだ。部分練習は確実にできないところを、再度繰り返して自信を持たせるために行うものだ。それはできない時は必要な練習だが、本番直前では意識をその部分に引きつけることになる。本来は意識していることを無意識状態に持っていき、自分の感覚や感性に任せるということが逆効果となって出てくるのではないかと感じた。フィギアはジャンプのミスは命取りというイメージがあるが、決してそうではない。プロ野球の打者は10回のうち7回失敗しても、3回成功すれば一流打者といわれる。フィギアの選手はジャンプの転倒はマイナス1点だが、4回転した後のミスはそれだけだ。4回転は認められるという。だから、ジャンプの失敗にとらわれてはいけない。うまく着氷すればよし。ダメでもともとの気持ちがよいような気がする。ジャンプの失敗で、投げやりな演技になることが、最も恐ろしい。羽生選手は、練習の時から失敗は想定内。演技の中でここで何点、あそこで何点という予測を立てて、やる前からすでに自分なりの試算は済ませてあるという。だからミスに振り回されずに、気持ちを立て直して、確実にできるところでは取りこぼしがなかったのだろうと思った。
2014.02.15
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明治天皇の玄孫で日本オリンピック委員会(JOC)会長・竹田恆和氏の息子でもある竹田恒泰氏が8日、ツイッターで口を開いた。 竹田氏は、「予選落ちしてヘラヘラと『楽しかった』などと語った選手」を問題視し、負けた際のコメントとして「思い出になったとか、楽しかったなどはあり得ない」としている。選手の発言くらい自由でいいのでは、との反論には「日本は国費を使って選手を送りだしています。選手個人の思い出づくりのために選手を出しているわけではありません」と返す。竹田氏は「国費」に重きを置いているようで、仮に自身が国費で何かする場合には「成果が出せなくて、いい思い出になりましたなどとは、絶対に言わない」とも話しているという。私は、こんな発言が選手にプレッシャーを与えて、選手を追い込んでいると思う。努力して国内予選を勝ち抜いてきただけでも賞賛に値する。一発勝負で世界の強豪相手に、必ず勝てるほど甘いものでないことは誰にでもわかる。無茶を言ってはいけない。今までも国のために何が何でも勝たなければならないと、悲壮な覚悟で臨んで失敗した選手はたくさんいた。また、勝つために薬物に手を出す選手もいた。ある国では将来の生活を保障されたり、法外な副賞を与えられたりするという。その反面、メタル候補がメタルをとれないとパッシングは目に余るものがある。まさに国賊扱いされる。選手はたまったものではない。この心理は自分のイライラを選手にぶっつけているのである。もう少し選手の立場に立ってもらえないだろうか。オリンピックの楽しみは、自国の選手が活躍するだけではない。我々人類が到達した今現在の運動能力の最高演技を世界の人に見せることではないのか。そのために世界中から選ばれた人たちが一堂に集まっているのがオリンピックだ。その演技に対して感動をもらえるのがオリンピックの醍醐味であると思う。
2014.02.14
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