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「とめどなく涙があふれて止まらない」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。上京してきた時、これをお手本にしなさいといってこの姫君の御筆跡を下さったが、「さ夜ふけて寝覚めざりせば」(拾遺集、巻二 夏)さ夜ふけて ねざめざりせば ほととぎす 人づてにこそ 聞くべかりけり夜がふけてからふと目覚めなかったらば、ほととぎすの鳴き声を人が聞いた話として耳にするところでしたなどと書いて鳥辺山谷に煙の燃え立たばはかなく見えしわれと知らなむ(拾遺集、巻二十)鳥辺山谷に煙が燃え立ったならば、それははかなく見えた私を火葬しているのだと知って下さいと、まるで御自分の運命を表すかのような不吉な歌が、どんな言葉で表せばよいか分からないほどに書かれていた。素晴らしく美しく書かれているのを見て、一層の涙を誘われてしまう。上京した当時、これを手本にしなさいといって、姫君の手書きの本を下さったのだが、なんとも趣深く、美しい字でお書きになったのを見てとめどなく涙があふれて止まらなかった。
2019.07.31
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「姫君もお亡くなりになったそう」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。梅の花が咲いたその春、世の中は疫病の流行で大変な事になっていた上総の松里の渡で月の光が美しく照っていたのを一緒に見た乳母も三月一日に亡くなったが、どうしようもなく思い嘆いてしまった。辛くて塞ぎ込み何もする気もなく物語を読みたいとも思わなくなった。とても悲しく泣いてばかりいて、外を眺めていると、夕日がとても華やかに差しているところに、桜の花がもう枝には残ったものはなく地面に敷き詰められたような桜の花も風で乱れ舞っている。散る花も、また来年の春は美しい姿を見せてくれるというのにあのまま別れた乳母とはもう二度と会うことができなく、ひどく恋しい。また聞けば、侍従の大納言藤原行成さまの姫君もお亡くなりになったそうで、姫とご結婚なさっていた中将殿のお嘆きになる様子は自分が悲しい折りなのでとても身にしみてお気の毒だなと思って聞いた。
2019.07.30
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「霜枯れていた梅も春は忘れないものなのに」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。継母が言っていた梅が咲くころ来るという事で、早く梅よ咲いておくれと思いながらも、その梅を見ながら、本当に来てくれるだろうかと、待ち続けていた所、梅の花も咲いてしまったのに、音沙汰もない。継母とは、高階成行(たかしなのしげゆき)の娘で孝標と共に上総に下り幼い孝標の娘(作者)に教育をほどこしたが、上京後離婚する。だが離婚後も作者とは交流があり、作者の文学的素養を培った。音沙汰がないので、思いあぐねて花を折って歌を書き送った。頼めしを なほや待つべき 霜枯れし 梅をも春は わすれざりけりあなたが頼みにしなさいと言ったのを、なおあてにして、待っているべきなのでしょうか。霜枯れていた梅も春は忘れないものなのにと。歌を書き送ったところ、私を頼りにして待っていてくださいなどととてもしみじみと優しい言葉など書いて下さり送って下さった。梅のたち枝が薫る時とは、約束もしていなかったのに突然、思いのほかの人が訪れるといいますから。
2019.07.29
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「この花が咲く頃に訪ねてきます」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。菅原一家が帰り着いた京都三条の家は庭木の手入れもされず都の内とも思えぬほど草木が生い茂っていたと伝えられている。三条の宮さまから頂いたものだといって特別に立派な草紙を何冊か硯の箱の蓋に入れてよこしてくれたので、嬉しく大感激だった。夜も昼もこの物語を見る事から始まって、もっと他の物語が読みたいと思ったが、上京早々の都の片隅で、物語を求めても誰も見せてくれる人などないし、また誰も私が求めている事さえ知らないと思っていた。継母であった人は、宮仕えしていた時父が上総へ下ったので、思い通りにならない事が多く、次第に夫婦仲が悪くなり、父と別れ、五才になる子供を連れて、貴方が優しくして下さった心のほどは忘れませんなど言って、とても大きな梅の木を置いていかれた。梅の木を軒先の端近くに置いたその木を見て、継母はこの花が咲く頃には訪ねてきますと言い置いて出て行ったのを、心のうちに恋しく懐かしく会いたいと思いつつ、忍び音に泣いてばかりいて、その年も暮れた。
2019.07.28
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「わが家は広々として荒れた所」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。多くの国々を通り過ぎて来たが、駿河の「清見が関」と「逢坂の関」だけは他に比べようもなく素晴らしいと感じた。たいそう暗くなってから三条の宮の西にある、わが家に到着した。わが家は広々として荒れた所で、過ぎてきた山々にも劣らずとても恐ろしげな深山で、木がうっそうと茂っているようで京の都のわが家とも思えないような所の様子だった。まだ落ち着かず、たいそう取り込んでいる中ではあるが、ずっと物語を読みたいと思い続けて来たので、物語を求めて見せてと蜻蛉日記の作者である右大将道綱母の異母妹母にせがんだ。一条天皇第一皇女修子内親王の三条の宮さまのところに、親族が衛門の命婦という女房名で出仕しているので、その人を尋ねていき手紙を送ると、その人は私たちが帰ってきたのを珍しがり喜んでくれた。
2019.07.27
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「勢多橋を制するものは天下を制す」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。みつさかの山のふもとを出発して、近江国への東山道の犬上や神崎野洲や栗太などという所々を、なんとなく通り過ぎた。遥かに琵琶湖の水面を見渡して、なで島、竹生島などいう所が見えるのはたいへん趣深く、勢多の橋は所々崩れていて、渡るのが大変だった。古くから交通の要衝で、勢多橋を制するものは天下を制すと言われた。粟津にとどまって、師走の二日、京に入る。暗くなってから行き着こうと、申の時(午後四時)ごろ出発して行くと逢坂の関近くなって、山腹に仮づくりの、きりかけという囲いをしたものの上から見える丈六の仏は、いまだ粗造りで、顔だけ出ているのが見やられた。きりかけは、柱を立て、横に板をずつずらして打ち付け、囲いにしたもの。丈六の仏とは、立像の高さが1丈6尺(約4.8メートル)ある仏像のこと。人里離れてこんな場所にありながら、場所の事など少しも気に掛ける様子もないのが、いかにもありがたい仏さまだなぁと、遠くにながめて過ぎた。
2019.07.26
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「時雨やあられが降りみだれて」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。尾張の国、鳴海の浦を過ぎて行ったころ、夕潮がどんどん満ちてきて今晩泊まるにも、むこうの宿場まで越えてから引き返して泊まるにもどっちつかずの位置に来てしまった。汐が満ちてくれば、ここを通り過ぎることもできなくなると、精一杯走って必死に通り過ぎ、美濃の国との境に、墨俣という渡を渡って野上という所に着いたが、そこに遊女たちが出てきて驚く。岐阜県不破郡垂井と関ヶ原の中間に遊女が多いことで知られていた。遊女たちは、一晩中歌うにつけても、足柄山で出会った遊女たちのことが思い出されて、しみじみとなつかしく、どこまでも愛おしく思われた。雪が降りあれまどうので、なんの情緒もなく、不破の関を通った。不破の関 逢坂の関、鈴鹿の関とともに古代山関の一つ。あつみの山など越えて、近江の国で息長(おきなが)といふ人の家に泊まって、四五日過ごした。みつさかの山のふもとに、夜も昼も時雨やあられが降りみだれて、日の光もささないので、大変うっとうしい。あつみの山やみつさかの山を調べてみたが詳細は分からなかった。
2019.07.25
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「行けば心身ともに平らかである」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。末の松山の歌にあるように波が松の木を超えてしまうように見えてとても趣深く感じた。それより上手は、細くとがった猪鼻という坂で何とも言葉では表せないわびしい坂を上れば美川の国の高師の浜というところだ。八橋は名が残るだけで、橋の跡もなく、何の見どころもない。二むらの山の中(愛知県岡崎付近)に泊まっている夜大きな柿の木の下に庵を作ったところ、一晩中、庵の上に柿の落ちかかるのを、人々が拾ったりしている。宮路の山(愛知県宝飯郡)といふ所を超える時は、十月の末であるのにまだ紅葉は散らず盛りであった。嵐はここには吹いてはこないのだなぁ。宮路山ではまだ紅葉が散らないで残っているのだから。三河と尾張の国境であるしかすがの渡り(愛知県豊川)は、古歌にあるように行くべきか、行かざるべきか思いわずらわれそうで、面白い。行けばあり 行かねば苦し しかすがの わたりに来てぞ 思ひわづらふ行けば心身ともに平らかである 行かねば苦しい そうは言っても しかすがの渡りに来て 行こうかどうしようかと思いわずらうのだ
2019.07.24
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「さまざまな色の玉のように見え」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。たいそう病が発生したと言う沼尻という所も無事に過ぎて、遠江にかかる。駿河と遠江の境の難所であるさやの中山などを越えたのも気づかなかった。旅の疲れからか、とても苦しかったので、天中川(今の天竜川)という川のほとりに仮小屋を造設し、そこで何日か過ごしているうちにようやく疲れも取れ、病が治ってきた。冬が深くなり、川風が激しく吹き上げつつ、寒さも堪えがたく感じられた。天竜川を渡って浜名の橋に着いた。浜名の橋は父が任国へ下向した時は樹皮のついたままの丸木をかけて渡ったのだが、今回は流されたのかその橋の跡さえ見えないので舟に乗って渡った。入江に渡してある橋で、外海は、とても荒く波は高く、入江の殺風景なあちあちの洲に、ただ松原だけが茂っている中から、浪が寄せては返す。さまざまな色の玉のように見えて、本当に末の松山の歌にあるように波が松の木を超えてしまうように見えて、たいそう趣深く感じた。末の松山はどんな大きな波でも越せない事から、永遠を表す表現に用い2人の間に心変わりがなく永遠に愛し続ける時などに使われる。
2019.07.23
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「この紙の傍らに書いてあった人」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。この駿河の国の守に紙に書かれていたその人が就任したのですが三月のうちにその人は亡くなって、また成り代わった新しい国司もこの紙の傍らに書いてあった人だったのです。このようなことがあったのですが、来年の司召などは、今年この富士の山にたくさんの神々が集まって決めていらっしゃるのだと存じ上げます。とても珍しいことですと語り、皆さん信じてるのかと思った。除目(じもく)とは、大臣以外の人事を発表する行事のことで前任者を除き新任者を任じるので除目と言い春の県召(あがためし)地方官の任命と秋の司召(つかさめし)中央官の任命がある。この両者を総称して司召という。田子の浦 蒲原と由井あたりの駿河湾に面したところと言われる。現在の富士宮市に同じ田子の浦という地名があるが、違う場所と考えられる。奈良時代の歌人で山辺赤人という人が詠んだ歌で百人一首で有名。田子の浦にこぎ出でて見ればしろたへの富士の高嶺に雪はふりつつ
2019.07.22
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「紙に書かれたことと一つも違わず」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。富士川というのは、富士の山から流れている水である。八ケ岳に発する釜無川と甲武信岳(こぶしだけ)に発する笛吹川がやがて合流して富士山の西を南下して蒲原西方で駿河湾にそぞく。その国の人が出て来て語るには、一年ほど前、よそに出かけたところたいへん暑かったので、この川のほとりに休みつつ見ていると川上の方から黄色い物が流れてきて、物にひっかかって留まっているのを見れば、書き損じの紙でした。取り上げて見れば、黄色い紙に、朱筆で濃くはっきりと書かれており不思議に思って見れば、来年国司が変わる予定の国々を、除目のようにすべて書いてあり、ここ駿河の国も来年国司が変わるということで新たしい国司の名が書いてあり、その横に添えてもう一人の名が書いてありました。私はどうしてもう一人の名が書いてあるのかと、この紙をとり上げて干して、しまっておいたところ、次の年の司召(つかさめし)の折りにこの紙に書かれたことと一つも違わず、この駿河の国の守に、紙に書かれていたまさにその人が就任したのです。
2019.07.21
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「米を細かく砕いた粉を流したよう」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。富士の山はこの駿河の国にある。私が生まれた上総の国からは西の方角に見える山で、その山の様子は、なかなか世に見られない紺青の色を塗ったように、並々ならぬ様子で、世間並でない山の姿である。富士の山には、雪が消える間もなくつもっているので、色の濃い衣に白い衵(あこめ)を着ているように見え、山の頂が少し平な所から煙が立ち上っている。夕暮は火が燃え立つのも見える。衵(あこめ)は、束帯・直衣姿の時、単衣と下襲の間に着る短い衣服。清見が関は、片方は海であるところに、関所の番小屋などが多くあって海まで杭を打って柵をわたしてあり、富士の煙と潮煙が互いによびあっているのであろうか、清見が関の波も高くなると思われる。静岡県清水市興津清見寺あたりにあった関所。天武天皇の時設置された。趣深いことこの上無い田子の浦は、波が高いので舟で漕ぎめぐる。大井川という渡し場がある。水が世間の並の様子とは違い米を細かく砕いた粉を濃く流したように見えて白い波が立つ水は勢いよく流れていた。
2019.07.20
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「どこまでも清らかで冷たかった」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。遊女たちは見かけもこぎれいで、声まで比類なく見事に歌うのにそんな遊女が、このような恐ろしげな山中に出発していくのを人々は名残惜しく不安に思って皆泣くのを、幼心に、遊女たちと別れることも、この宿を出発することさえも、名残惜しく思った。まだ暗いうちから足柄山を越える。麓も鬱蒼としていたが、ましてやこれから山中に入っていくので、その恐ろしいことは大変なものだろう。登っていくにつれて、雲を足の下に踏むような心持ちだった。山の中腹に、木の下がわずかな空き地になっているところに、双葉葵がただ三筋だけ生えているのを、人里離れてこのような山中によくも生えているものよと、人々はしみじみ感じ入る。双葉葵は山葵に似ている。徳川家の葵の御紋も双葉葵を模したもの。水はその山に三筋だけ流れている。かろうじて足柄山を越えて次の関所横走の関のある山にその日は泊まった。ここからは、駿河になる。横走の関の傍らに、岩壺という所があり、言いようもなく大きな石の四角く穴のあいた中から出てくる水が、どこまでも清らかで冷たかった。
2019.07.19
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「難波辺りの遊女に比べたら物の数では無い」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。遊女が三人といえども、五十ばかりのが一人、二十歳ばかりと十四五のが一人ずつで人々が庵の前に唐笠を差させて、遊女たちをそこに招き入れた。男たちが火をともして見れば、昔、こはたとかいう者の孫だと言う。こはたとは、昔、名の知れた遊女のことか、髪はたいそう長く額髪が美しく両頬に垂れかかって、色白でこぎれいで、いやこれは相当なものだ。しかるべき家に下仕えなどしても通用しそうだなど、人々が趣深く思っているところ、声はまったく似るものないものの見事で空に澄み渡って見事に思うほどの歌を歌う。人々は旅の疲れも癒されように、たいそうしみじみして、遊女たちに親しみをおぼえて近くに引き寄せ、人々がはやし立てて、西国の遊女はここまで見事なのはいないなど言うのを聞いて遊女は、難波あたりの遊女に比べたら、私など物の数では無いと今様歌を見事に歌うのだった。今様歌は平安時代中期から鎌倉時代にかけて流行した歌謡のこと。
2019.07.18
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「鬱蒼と木々が生い茂り恐げだ」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。夏は大和撫子が濃くうすく錦を敷いたように咲いている所であるが今は秋の終わりだから撫子は見えないがと言っていると、それでも所々にこほれ落ちたように残っていて、趣深くあちこちで咲いている。もろこしが原(大磯一帯の海岸)で大和撫子が咲いているのも面白いものと人々はしみじみ面白がる。河原撫子。夏から秋にかけて咲く。日本女性を可憐で繊細だが芯は強いことをたとえて大和撫子という。足柄山という山は、四五日前からおそろしげに暗がりわたっていた。足柄山とは、相模と駿河の間に南北に走る連峰で当時は箱根はまだ使われず足柄山を越えて行き来しており、金太郎の昔話で有名な所でもある。ようやく入り立つ麓のあたりさえ、空模様は、はかばかしくない。言いようもなく鬱蒼(うっそう)と木々が生い茂り、とても恐ろしげだ。麓に宿を取ったところ、月も無い暗い夜で、闇に惑うような晩に遊女が三人どこからともなく現れた。遊女とは旅人の宿を訪れ歌や舞で慰める女の事。
2019.07.17
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「寄せては返す波の景色も趣深い」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。姫宮にその国をお預けする宣旨が下り、男はこの家を内裏のように造って姫宮を住まわせ申し上げたのを、姫宮たちが亡くなって後、寺にしたのを竹芝寺というのだそうだ。その姫宮がお生みになった子供たちは、そのまま武蔵という姓を得て、それより後、火たき屋には女を置くようになったと語った野山の蘆や荻の中をかき分け武蔵と相模の中にある、あすだ川という在五中将在原業平が、いざこと問はむと詠んだという川がある。中将の家集には、すみだ川とある。舟で渡れば、相模の国になった。あすだ川とは、次の在五中将のから隅田川のことだが、隅田川があすだ川と呼ばれた例は無いようであり、そして隅田川は下野と武蔵の境で武蔵と相模の境ではなく、作者の記憶違いだと伝えられている。西富という所の山は、絵を見事に描いた屏風をたて並べたようであり片方は海、浜の様子も、寄せては返す波の景色も、たいへん趣深い。もろこしが原という所も、浜の砂がとても白いのを二三日かけて通っていく。
2019.07.16
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「こんな事になったのも巡り合わせ」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。武蔵の国の衛士の男を捜したが、みつからなかった。故郷の武蔵国へ行ったのだろうと、朝廷より使(つかい)が武蔵国へ下って追いかけたところ、瀬田の橋の橋板がはずされていて、渡ることができない。三か月かかって使は武蔵国に行きついて、この男を尋ねていくとこの皇女、朝廷の使を召し出して、私がこんな事になったのも巡り合わせだと思うと言い、この男の家がどうしても見たくなって連れていけと言ったので男は私を連れてきたのだろうなどと言う。とてもここは、住み心地がよい場所に思え、この男を罪し、鞭打つなら私はどうしたらいいのか分からない。これも前世からの、この国に子孫を残すべき因縁があったのだろうなどと、早く都に帰って朝廷に、このよしを奏上せよと仰せられたので、どうすることもできなかった。ふたたび都へ上って、帝(みかど)に、事の仔細を申し上げたところその男を罪しても仕方ない。今はこの姫宮をとり返し都へお連れする事はできないだろうと言い、その竹芝の男に、生きている限り、武蔵の国を預け租税・労役も免除し、無条件に、姫宮にその国をお預けする宣旨が下った。
2019.07.15
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「七日七夜かけて武蔵の国に行き着いた」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。男はかしこまって縁側の欄干のそばに参った所、さっき言ったことを今一度、われに言ってきかせよと仰せられたので、酒壺のことをもう一度申した所、われを連れて行って、その瓢を見せてくれた。こういうのは仔細あってのことじゃと仰せられたので、勿体なく恐ろしいとは思ったけれど、前世からの因縁であろうかと男は姫宮を背負って武蔵国へ下っていく。追っ手が来るのは当然なので、その夜、瀬田橋のたもとにこの姫宮を置き申し上げて、瀬田橋を柱と柱の間ほどくらい橋板をはずして、それを飛び越えて、姫宮を背負い申し上げて七日七夜かけて、どうにか武蔵の国に行き着いたのだった。帝と后は、皇女がいなくなられたとご心配になり、お探しになったところ武蔵の国の衛士の男が、たいそういい香りのする物を首にかけて飛ぶように逃げていきましたと申し出があった。
2019.07.14
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「とても心惹かれ見てみたく」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。はるかに、「ははそう」などという所の、建物の跡の礎が残っていた。どういう所かと聞くと、これ昔、竹芝という土地だったようだ。この国に、ある人があったのを、火たき屋の火をたく衛士として国司が朝廷に献上したところ、御前の庭を掃き掃除しながらどうしてこんな苦しい目に遭うのだろう。故郷の国に、ここに七つそこに三つとこしらえて置いてある酒壺の上に、瓢箪をたてに割った柄杓をさし渡して、その瓢箪が南風が吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西風吹けば東になびき、東風吹けば西になびいた。あの、のんびりした様子を見ることもかなわないで、こうして宮中の警護に駆り出されているのだからなあと、独り言をつぶやいているのを聞きその時、帝の御むすめが、たいそう可愛がられていたものですと言う。ただ一人御簾の端に立出でなさって、柱によりかかって御覧になったところこの男が、このように独り言を言っているのを、たいそう興味深くどんな瓢がどんなふうになびくのかしらと、とても心惹かれ見てみたく思われたので御簾を押し上げて、そこにいる男、こっちへ寄れとお召しになった。
2019.07.13
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「子供心にもしみじみ悲しく見えた」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。離れた後も乳母(めのと)のことが脳裏に浮かんできて悲しいので月を見ていても楽しい気分にはなれず、ふさぎこんで寝てしまった。京に上る者は留まりなどして、行き別れることは、行く者も留まる者も皆涙を流し別れを惜しんでいるようで、子供心にもしみじみ悲しく見えた。今は武蔵の国となった所だが、別段情緒のある所とも思えなかった。浜も砂が白いわけでもなく、泥土のようである。早朝、舟に車をかつぎ載せて太井川を渡って、対岸で車を建てた所で送りに来てくれた人々は、これより皆帰って行った。紫草(むらさき)の産地として歌にも詠まれた武蔵野も、ススキに似た蘆(あし)や荻(オギ)ばかりが高く生えていて、武士が馬に乗って弓を持っているその弓の先が見えないほどに、高く生え茂っている。その蘆や荻の中を分けてゆくと、竹芝寺(現港区)というのがあった。はるかに ははそうなどいふ所の らうのあとのいしずえなどあり 「ははそう」について調べてみたが、執筆から約200年後の平安末期から鎌倉初期にも不明な語であったことだけ分かり、このことから書写ミスか固有名詞それも関東方言であったことが考えられる。
2019.07.12
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「とても不憫に見捨てがたく思う」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。乳母である人は夫も亡くして、この国境で子を生んでいたので出産の穢れを避けるとうことで、私たちとは別に上京していた。私はこの乳母のことがたいへん恋しかったので、訪ねていきたく思い兄である人が私を馬に抱き乗せて、連れて行ってくれた。人はみんな私たちの宿を借りの宿などと言うけれど、それでも風が吹くのを避けるために幕を引き渡し居心地良くしているのに対し乳母の泊まる宿は夫も連れ添っていないので、とても手抜きで雑な感じでだった。菅 (すげ) や茅 (かや) などを粗く編んだむしろの苫(とま)というものを一重ふいただけのもので、月の光がそこらじゅうにさし入るので乳母は紅の衣を上に羽織って、辛そうに臥している姿が月の光に照らし出されたその様子は、とても上品に見えていた。乳母などという身分の人には無いほど、たいそう白く清らかで乳母は私と久しぶりにあったので珍しく思って私の頭をかき撫でつつ泣くのを、とても不憫に見捨てがたく思うけれど、急いで兄に連れられて出発していく心の内は、たいそう物足りなくてどうしようもない感じだ。
2019.07.11
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「松里の渡りの船着き場に泊まった」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。十七日の早朝、出発したが、昔、下総の国に「まののちょう」という人が住んでいたといい、匹布を千むら万むら練らせ、晒させた家の跡といって深い川を舟で渡り、昔の玄関の柱がまだ残っているということで大きな柱が、川の中に四つ立っている。それを見て人々が歌を詠む。私は、歌を詠むのを見て、朽ちることもなくこの川柱が姿をとどめていなければ、昔の跡をどうやって知っただろう。その夜は、くろとの浜という所に泊まった。片方は広い山になっており、はるか向こうまで砂浜が白く広がっている。松原が茂って、月がたいそう明るく、風の音もひどく心細く感じた。人々が風情を感じて歌を詠んだりしている中、私も今夜は一睡もしない事にだって今夜をおいて、くろとの浜の秋の夜の月をいつ見るのです。江戸川の下流の太井川で、下総と武蔵の境に流れるのは隅田川。早朝そこを出発して、下総の句にと武蔵の境にある太井川という川の上流の浅瀬に松里の渡りの船着き場に泊まって、一晩中、船にてなんとか荷物を渡す。
2019.07.10
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「雨に濡れた多くの物を水洗いした」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。門出にあたって一時的に滞在した所は、垣根などもなくて茅葺(かやぶき)の仮小屋で吊り上げて開閉する蔀戸(しとみど)もない簾(すだれ)をかけ、幕などを引いた。南ははるかに野の末まで見渡せる。東と西は海が近くてたいそうおもむき深く、夕霧が立ちわたって趣深いので朝寝などもせずに早起きして、あちらこちらと見ながら、こころではここを出発してしまうのもひどく名残惜しく悲しくてならなかった。同じ月の十五日、雨があたりを暗くするほど降っている中上総と下総の境を出て、下総の国いかだという所に泊まった。草ぶきの小屋も雨水で浮かんでしまうほどに雨漏りなどするのでその音が耳に付き恐ろしくてなかなか寝られなかった。野原の中頃付近の丘のようになっている所に、ただ木が三つ立っている。その日は雨に濡れた多くの物を水洗いして干して乾かした。上総に後処理のために残してきた人たちが遅れて追いつくのを待ってより共に出立するということで、そこで一日過ごした。
2019.07.09
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「引っ越しの準備におおわらわ」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。たいそう心細いままに、等身大の薬師仏を作らせて、手洗いなどして人目の無いときに密かに持仏堂に入って額づいて身を乗り出して京に早く上がれますように。物語がたくさんあると聞いています。物語のある限り見せてくださいと、身を投げ出して祈った。願いがかなったのか、十三になる年、父の任期が切れ京に上るという事で九月十三日、門出して、ひとまず、いまたちという所に移った。長年の間遊び馴れた家を、外から丸見えになるまでに壊して家具などを取り外して人々は引っ越しの準備におおわらわだった。日の沈みぎわ、たいそうひどく霧が立ち込めているところ車に乗るにあたって家のほうを見やると、人目をしのんで参りつつ額づいていた、あの薬師仏がお立ちになっているのをお見捨て申し上げる悲しさに、人知れず泣けてきたのだ。
2019.07.08
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「過ぎ去った日々は帰って来る事はない」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。石山寺は、西国三十三所巡礼の第十三番札所になっている寺である。紫式部、孝標の娘や枕草子の清少納言や和泉式部日記の和泉式部も訪れている。等身大の薬師如来像を作り祈った孝標の娘は石山寺の観音をどう見たのだろう。私は自分の人生を振り返れば、必ずと言ってよい程後悔の念に駆られてしまう。やり直せるものであるならばと思ったりもするが、過ぎ去ってしまった日々はどんなに祈ろうとも、帰って来ることはありえず、償いの日々でしかない。あづま路の道のはてと歌に詠まれた常陸の国よりさらに田舎に生まれた私がどれほど人目には、みすぼらしく見えただろうに、何を思ったか世の中に物語というものがあるのを、どうにかして見たいと思った。昼間の暇な時や、夕食後の団らんのひとときなどに、姉や継母といった人々があの物語、この物語、光源氏のありようなど、所々語るのを聞いていると話全体を読みたいと思えてくるのだが、どうして私の希望どおりにぜんぶ暗記していて語ってくれたりするだろうか。
2019.07.07
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「京周辺は平安女流作家ゆかりの地が多い」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。過去を振り返っても楽しい思い出は思い出せず辛い思い出に後悔する。過去を振り返らず、前だけを向いてと言われても、つい振り返ってしまう。確かに過去を振り返ったとしても、過去を変えることは出来ない。自分の過去は自分だけが知っており、他人はほとんど知らないか記憶にない。更級日記は過去を振り返った物語であり克明に描かれている。更級日記により自身の人生を振り返れるのかも知れない。更級日記を書いた千年前と千年後の今、更級日記を紐解いて何を感じるのか想像するだけでも、文学が過去や未来をつなぎ、心の変化はないように思う。菅原孝標の娘のまどろんだ姿は愛らしく、ほっこりするような癒しをくれる。西国である大津にある石山寺は、紫式部が源氏物語の構想を得たとされる。更級日記の作者の孝標の娘や蜻蛉日記の作者の藤原道綱の母も訪れている。西国である京の都周辺は平安時代の女流作家ゆかりの地が多く点在する。
2019.07.06
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「平安女性の気持ちに思いを馳せる」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。千年前、平安女性が歩んだ道のりは、現代の我々の心をも捉え続ける。物語作家となった、菅原孝標の娘。晩年に綴った更級日記には10歳から53歳までの人生を回想した瑞々しい文章が綴られている。千年前の女性の心の内をたどる貴重な記録であるが、ただ、作家である事を書かなかった原因に大好きな物語を出世の道具にしてしまったという後悔の念があり、更級日記のどの部分にも自分が書いた事は書いていない。大切な人を失った幼い少女の孝標の娘は源氏物語によって心癒された。物語は現実のほうにはみ出して力を及ぼし、そして、人を強くする。物語という創作の世界から、勇気や力をもらう事はよくある。更級日記には、身近な人を亡くした経験や道中での景色などが晩年になって回想したとは思えないほど、細やかに記されている。孝標の娘が忘れたくない気持ちや経験を書き残している。平安時代の女性の気持ちに思いを馳せる良い機会だと研鑽勉強したい。
2019.07.05
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「主人公の心の動きや様子が共感できる」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。かつての少女時代の自分の姿を読むにつけ、もう一度生き直そうと思いその事が自分自身の人生を受け入れていくことが出来、認められるようになる。自分自身の人生を本当に、いとおしむように言葉の世界にもう一度移し変えて新たにもう一つの更級日記を通じた孝標の娘の人生をそこに創り出してみせた。このようにして40年もの歳月を振り返った回想録更級日記が生まれた。53歳の頃に更級日記を書き終えた菅原孝標の娘のその後は詳しく分からない。しかし、更級日記のあとに書いたとされる浜松中納言物語が残っている。浜松中納言物語のテーマは「生まれ変わり」で、主人公は出世を望まずひたすら愛する人たちの生まれ変わりを探して唐の国まで渡る。孝標の娘は、その長い半生の中で、たくさんの大切な人たち、特に家族その中には乳母も含まれて、そうした人たちとの別れを体験した。これら大切な家族たちが、また生まれ変わって自分の前に現れてほしいまた会いたい、そういった思いを抱いて最後の物語の浜松中納言物語を書いたのだろうと思えてならなく、孝標の娘の作品は高い評価を受ける。物語の工夫が新鮮で主人公の心の動きや様子が共感でき素晴らしいと思う。
2019.07.04
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「自分の生きた時間が生々しく蘇ってきた」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。乳母の事柄についても孝標の娘は、乳母が旅の途中子を産んだので別れて旅をする事になったが、恋しさのあまり乳母に会いに行った。乳母は紅の衣を掛け、苦しそうな表情で横になっていたと書き記す。乳母は私に気付き、何故、かような所へと私の訪問に驚いていた。孝標の娘は横たわる乳母に抱き着き、乳母は見舞いに来てくれたと涙を流す。乳母は孝標の娘の心の優しさを思い、姫は本当にお優しいことと喜ぶ。この情景を、月の光を浴びた乳母は、とても白く清らかだったと記している。とても恋しくて、このまま置いてはいけないと、一緒に行けないのかと思う。乳母は、少し遅れるが必ずや追いつきますからと孝標の娘を慰める。そして、京の都で物語を一緒に読みましょうと、しきりに私の髪をなでながら泣く乳母の姿が忘れられないと書き記し、晩年の孝標の娘は、その覚え書きを読み、私って子供の頃は、こんな子だったのだと、かつて自分の生きた時間が生々しく蘇り対面し、もう一度生き直そうと思い、それが救いにもなった。
2019.07.03
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「もう見られないかも知れない」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。上総から京の都へ旅した時の覚え書きのようなものが残されていてその中に十三歳当時の文体が残っていて、それをあえて更級日記にも使った。覚え書きをもとにした文章は具体的な描写に満ち溢れていた。野中に丘だちたる所に ただ木ぞ三つ立てると、木が三本などと、こうした数の記述は他に、いくつもあり、大きなる柱川の中に四つ立てりとか葵のただ三筋ばかりあるなど具体的な数が何度も出て来て、他の物語にはなく更級日記の特徴と言え大切な記憶をありのままに再現したいと数字を用いた。正確さを支えると言う意味では数字は客観性を持ち、具体的な事が作品の中に満ちあふれることにより自分自身がかつて生きた時間がリアルに表現でき、もう一度、目の前に立ち現れると言う感覚を物語を書きながら味わっていた。晩年、少女の頃だった自分はどんな姿だったのだろうかと振り返る。富士の山があるのは駿河の国、これまで見たほかの山とは違うその姿はまるで濃い青色を塗ったようと、心に思うがまま綴っている。まどろまじ 今宵ならでは いつか見む くろとの浜の 秋の夜の月眠ったらだめ 今夜を逃したら このくろとの浜の 秋の夜の月はもう見られないかも知れないのだからと、そして乳母との思い出も。
2019.07.02
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「子供っぽさや未熟さを感じさせる表現」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。更級日記を丹念に読んでいくと40年に及ぶ人生をどう振り返ったのかが見えて来るが、その手掛かりになるのは日記に出て来る88首の和歌。散る花も また来む春は 見もやせむ やがて別れし 人ぞ恋しき少女時代孝標の娘が乳母の死を悲しんで詠んだ和歌である。和歌の前の文を読むと、夕日のいとはなやにさしたるとあり夕日がはなやかに差し込み、その中を桜の花が散っていたと詠んでいる。おそらく孝標の娘はかつて自分が詠んだ歌を読む事により、その時の情景を鮮明に思い出して詠んだ歌と言えるのではないだろうか。かつて詠んだ歌の時間に戻り、そしてその時の事を思い出して書いた。さらに、彼女の人生を振り返るための手がかりがもう一つある。きたなげなくて、いときたなげなきに、ありぬべき、ありぬべしあはれがる、あはれがり、声すべて似るものなく、声さへ似るものなくめでたく歌をうたふ、めでたくうたひたりなどと繰り返し使われている。これほど多くを近接して使うと子供っぽさや未熟さを感じさせる表現になる。このような未熟な表現が見られるのは更級日記の前半に集中している。十三歳の少女の頃、上総(かずさ)から京の都へ旅をした部分である。
2019.07.01
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