仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2011.10.07
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カテゴリ: 宮城
寛永16年(1639)鎖国令を発した三代家光は、西国諸大名に命じて外国船の見張所を設置させた。7年後の正保3年にはこれを拡大して全国諸大名の領内に外国船見張りの番所(ばんどころ)を置かせ、合わせて海岸防備を命じた。

仙台藩は二代忠宗の時で、同年、北は気仙郡唐丹から南は宇多郡今神浜まで全長50里(200キロ)の海岸に5か所の黒船監視所を新設するとともに、各番所に近い重臣の采地から軍勢をくり出し防備につくよう有事即応の態勢を完了した。従来の国境を監視する境目番所や、北上川の上下船舶を監視する川番所などに対しこれを新御番所と称したが、後に目的をはっきりさせるため唐船(とうせん)番所と称した。

その5か所とは、
気仙郡八ヶ森唐船番所(三陸町綾里字石浜)
本吉郡泊浜唐船番所(歌津町泊崎)
牡鹿郡鮎川唐船番所(牡鹿町鮎川)
桃生郡大浜唐船番所(鳴瀬町宮戸)
亘理郡磯浜唐船番所(山元町磯浜)

5か所とも海岸段丘または岬角の最高所に方3メートルほどの土壇を築き監視所とし、そのふもとに方2間(約3.6メートル)の建物があって見張り要員の詰所とした。この監視所のあった場所を番ヶ森、ご番所山という地名を今に伝えているところが多い。

要員は見張りに当たる者5名。これは直参足軽で2人一組となって監視を担当した。監視は士分1名、たいてい米の密輸を取り締まる脱穀改め役人の兼務で、その下に組士1名がいた。監視員は5日交代で中には1か月交代の所もあった。食事は所在村方の請け負いである。

見張所には遠眼鏡を備え付けているところもあり、幕末には大砲を備えたところもあった。桃生郡大浜番所は宮戸島の嵯峨渓海岸にのぞむ萱野崎の最高所にあって標高76.60メートル、晴れた日には仙台城本丸からも望見しうるほど仙台城下に至近の場所であるだけに、遠眼鏡を備え付けてあった。

代官、備頭(そなえがしら)への黒船発見の連絡通報は、昼間は発煙信号、夜間は火光信号とし、早船、早馬で急報する一方、村の半鐘、寺の梵鐘、太鼓をもてリレーすることに定められていた。

かくして唐船番所が設けられてからほぼ1世紀近く、93年後の元文4年(1739)5月23日、まぎれもない三隻の黒船が三陸沖を南下するのが目撃され、一隻はボートを降ろして鮎川対岸の網地島に上陸して大騒ぎとなった。

ロシアのベーリング探検隊のスペンベヤー司令官の率いるルチアナ号以下三隻であった。五代吉村の時で、臨検に行った小積浜の藩の役人2人はスペンベヤー司令官室で、「何やら油の如き焼酎のにおいこれある」ブランデーの馳走になり腰が抜けた。それ以外明治元年に至る222年の間見張りの足軽達は毎日青い海とにらめっこするだけだった。

明治2年1月唐船番所は関所とともに全国すべて停廃となった。それから幾日もたたない1月13日、桃生郡大浜番所の役人で30歳になる大坂民記は番ヶ森の絶壁から嵯峨渓の海に身を投げて死んだ。大浜の番所はこのような悲劇をもって終止符を打った。墓は大浜海岸の松林にあって、遠閣要道清信士と刻まれている。宮城県内4か所の番所跡には最近各記念碑が建てられた。

■三原良吉『仙臺郷土史夜話』宝文堂、1971年





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最終更新日  2011.10.08 00:22:25
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