仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2012.05.15
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カテゴリ: 宮城
前回記事の箟岳分校。気になってもう少し調べてみた。

■前回の記事
定時制箆岳分校の充実ぶり (2012年5月14日)

(注)下記文献や現在の表記法に従い「箟」の文字を使用。前の記事では宇野量介先生の記述どおり「箆」の字を用いた。

まず、涌谷高校要覧から沿革を振り返る。

○ 昭和23年7月15日 定時制課程を設置(中心校、箟岳分校、中埣分校)
○ 昭和26年3月31日 中埣分校廃止
○ 昭和28年4月1日 定時制夜間部設置
○ 昭和36年2月3日 定時制中心校 募集停止
○ 昭和39年1月3日 定時制箟岳分校 募集停止

以下は『涌谷町史 下』(昭和43年)による。なお、涌谷町、箟岳村の合併により涌谷町が誕生したのは、昭和30年7月15日である。

昭和23年4月、新制高校発足により涌谷高等女学校が共学の涌谷高校になる。同年7月、定時制が本校(夜間)と 箟岳(昼間)に設置される。箟岳分校は、昭和23年の箟岳中学校新設に伴い、7月にその一部を借りて発足した。校舎独立を要望する声に応じて、旧青年学校舎を移転使用することに決し、狭隘かつ設備不十分の中で授業が行われる。昭和26年に2教室、27年に2教室の増築。

初代分校主任に五島幸雄。第1回卒業生から全日制本校をしのぐ好成績で大学進学が多かった。この事態から視察来校に忙殺される始末。父兄の熱心な協力も見逃せない。教育内容は日を追って高められたが、亘理正彦県会議員の働きにより家庭科教育が一挙に整備され、生徒の学習意欲を燃やさせた。和裁、洋裁、料理、手芸、茶華道と当時最高水準で、モデル教室として文部省から資料を求められた。地域住民に影響が大きく、婦人の啓発と食生活の改善に大きな役割を果たした。

かくして、子弟の進学に非常な苦難をなめてきた住民は、分校設置によって一挙に教育熱の燃え上がりを見せ、延いて全日制高校に進学するものが年を経るに従って増加するに至り、昭和42年3月をもって閉校した。





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最終更新日  2012.05.15 19:57:59
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