仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2014.08.08
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カテゴリ: 宮城
昨日の記事で、白石と七ヶ宿滑津間の人車軌道の構想があったと記した。

■昨日の記事  松山人車と白石人車軌道 (2014年8月7日)

『七ヶ宿町史 歴史編』(七ケ宿町、昭和59年)を読んで確認した。小原新道や鉄道構想について、次のような内容で書かれている。



(小原新道は)小原越えの難所を切り開き、馬車人車の通れる白石川に沿った平坦な道をつくろうとするもの。白石、小原両村は各500円の献金をして工事資金とし、柴田郡は一戸2人、刈田郡は一戸3人の人夫を提供して工事を行った。明治18年の工事は半月で完成したが、農民の工事のため、その後車が通れるように補修が行われている。

このほか、時期は下るが日露戦争後の経済的混迷の中で、鉄道に対する期待が大きくなり、明治43年軽便鉄道法が制定され、大正第一次世界大戦による好況の中で、原内閣が交通機関の整備を重大政策の一つに掲げたこともあって鉄道がクローズアップされる。

大正6年の県会意見書に、「上ノ山駅ヨリ白石駅ヲ経テ中村駅ニ至ル横断鉄道布設ニ関スル件」を可決(昭和3年、4年でも可決)している。そして、大正10年鉄道布(ママ)設法が制定されて全国的に予定路線が示される。この中には、後に陸羽東線や仙山線のように完成したものもあるが、
「長町ヨリ青根付近」
「松島ヨリ石巻ヲ経テ女川ニ至ル」
「気仙沼ヨリ津谷、志津川ヲ経テ前谷地ニ至ル、津谷ヨリ分岐シ佐沼ヲ経テ田尻ニ至ル」鉄道
とともに、
「宮城県白石ヨリ山形県上山ニ至ル鉄道」
も含まれていたのである。



人車軌道について直接の記載はないのだが、小原新道が「馬車人車の通れる」平坦路をめざしたというから、人車軌道も念頭にあったというようにも読める。もっとも、全国的に人車軌道が開設されるのは明治期も後年なので、人力車のことだろうか。それとも、切り開いた平坦路の意義なり可能性を後世の評価として説明したということか。いずれにしても、人車軌道が小原新道を前提に構想されたのは間違いなかろう。

さて、白石市史もざっと眺めたが、「白石滑津間の人車」については直接の記載は無いようだった。上記の小原新道についてはより詳しく記載されている。鉄道開業や人力車衰退による七ヶ宿街道の状況や小原温泉の振興のためにも望まれていたとの解説である。

人車構想は、こうした道路整備の流れとあいまって、宿場町の復興をめざした地域の熱意だったのだろうか。勝手な想像だが、現実的な線としては白石町と小原温泉を結ぶものが考えられたが、刈田郡全体の気運として関や滑津までのばすべしとの論調もあったというあたりではないか。温泉地の小原までというなら全国の実例をみても、あり得ると思う。もっともかなり勾配はあっただろう。七ヶ宿までとなると、人車軌道そのものというより、鉄道や軽便を引くための前段階のような運動論として提唱されたのではないだろうか。

なお、町史にある鉄道敷設法の「白石上山鉄道」は刈田峠を越える構想のはずだから、七ヶ宿を経由しないものだと思う(下記時事を参照)。

■関連する過去の記事  幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2) (2013年4月20日)





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最終更新日  2014.08.08 06:27:18
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