仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2022.02.27
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カテゴリ: 仙台
関ケ原の戦いを挟んで、徳川家康が急いでいた一大事業が、利根川の東遷である。この事業は伊達政宗の急襲に備える防衛であったという見方がある。そして、東北の大名の脅威が消えたのちも、湿地を乾田化させるため、また、洪水から都市を守る治水事業として、現代まで続いているのである。

■出典 竹村公太郎『”地形と気象”で解く! 日本の都市 誕生の謎』株式会社ビジネス社、2021年

竹村氏のこの本では、日本の都市づくりや歴史上の分岐点を、当時の地形に依拠したインフラの視点から明快に解説している。利根川東遷については、以下のように述べている。

そもそも江戸の地は秩父一族の豪族江戸氏が開発し、その家臣太田道灌が江戸に城郭を築造し、応仁の乱から北条氏が関東一帯を制して、1524年上杉氏を追放して江戸城郭をも支配した。1590年に家康が転封されられたとき、江戸城の東は広大な湿地帯で、縄文時代に海だった地帯には、利根川、渡良瀬川、荒川が流れ込み、大雨で水浸し、高潮で海水が浸入する劣悪な環境であった。

まず家康は、城の修復やまちづくりをさておいて、鷹狩と称して関東一帯のフィールドワークに徹した。これにより、すでに関西では伐採されてしまっていた森林が利根川流域に豊富にあることを認識し、また、湿地帯を穀倉地帯に転換させる地形の発見に至る。すなわち、利根川をブロックしている関宿付近の台地を削り、川を東の銚子に向かわせ、江戸城付近の干潟を穀倉地帯に変えるのである。

このため、関ケ原で勝利し将軍の称号を受けた家康は、即座に江戸にもどり、利根川東遷事業を再開した。

利根川と渡良瀬川が南に流路を変えて南の江戸湾に流れ込んでいたのは、関宿で両川をブロックする下総台地の存在である。この台地だけが、湿地帯の関東で乾いた土地である。下総台地は家康にとって非常に危険な地形だった。そもそも房総半島は京都から東北に行く海上ルートの玄関口で、上陸して北に向かうルートにあるのが半島の付根の国府台(こうのだい)だ。奈良時代に国府が置かれて以来、頼朝が陣を張り、北条氏と里見氏が合戦を展開した。この台地だけが湿地帯の関東で乾いた土地である。家康は、水軍を迅速に動かし国府台を抑えるために、運河として小名木川を開削した。各所に構える北条氏一党の武将たちを制圧するために、家康が絶対に抑えなければならない場所が、房総半島と国府台である。

そして、独眼竜伊達政宗が一気に南下するときには、かならずこの台地を駆け下って房総半島を一瞬で抑えるだろう。房総半島は船が接岸できる良港が多い。関宿は、家康にとって東北から鬼の来る鬼門であった。

家康は、この関宿の台地を開削して、利根川と渡良瀬川を銚子に向かわせ、台地の分断で東北の敵を防御したのである。

1594年東遷の第一次工事として会の川締切(利根川を渡良瀬川に合流させる)、関ケ原の中断を経て、1654年赤堀川の開削でついに利根川と渡良瀬川の流水は銚子に流れた。すでに戦いのない平和な時代だったが、家康が始めたころの敵の防衛から水田開発に目的は変わり、さらに明治以降も堤防強化など治水工事は続いている。





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最終更新日  2022.02.27 11:59:58
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