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『猛スピードで母は』長嶋有(文春文庫) この文庫は160ページの本文でちょうど真ん中で切れる、つまりきれいに80ページずつの小説が二つ収録されています。 なるほどこのくらいの長さが、「芥川賞ねらい」なんていわれるちょうどよい長さなんですね。事実一作目の「サイドカーに犬」で筆者は初めて芥川賞の候補となり、半年後、本文庫の二作目「猛スピードで母は」で、見事芥川賞を受賞されました。 私は芥川賞の内実についてさほど知っているわけではないのですが、なんかさっさっと二つ目で受賞というのは、とってもすごいように思うんですが、それほどでもないのですかね。 それくらいにこの二作を読んでいて思うのは、文章の涼しさ読みやすさであります。 ただしいくつかの部分については、ちょっと無造作すぎないかとも思えるような書きぶりで、でもそれでいてそのノンシャランさがあまり欠点と感じないのであります。そんな文体というのは、結構「天然」、持って生まれたものという気がします。 すすすすっと、芥川賞を取っても、さもありなんという感じですね。 さて私は律儀に一作目から読みましたが、読み終えての即の感想としては、上記の文体についての思いと併せて、なんてきれいにまとまった短編小説なんだ、というものでした。 もとより、そんなに次々と事件が起こっていくたぐいの小説でありませんが(まー、純文学とはそういうものですが)、ざっと記憶しているだけで、パックマンの話とか、ミグの話とか、「ヴィヨンの妻」とか、そんなエピソードの自然さ不自然さ(不自然という表現がよくなければ作り物らしい楽しさ)の混ざり具合がなんとも書き慣れていて、これは手練れと言うよりはやはり「天然」ではないかと感じさせるものでした。 このようなエピソードの累積は、二作目の「猛スピードで母は」でもとても見事に描かれています。 それは一つ一つのエピソードを縦に深く掘り進んでいくのではなく、数を稼いで横に並べて人物を浮き上がらせる手法で、そしてそれがなかなかおしゃれに並べられていると思いました。 具体的に言えば、そんなふうに描かれるのは母子家庭の「母」のプロフィールであり、それを三人称小説ながら、筆者はほぼ小学生の息子「慎」の心情に寄り添って描いています。 では、母のプロフィールはどう描かれているか。 作品中にとても端的な一節が、こうあります。 母がサッカーゴールの前で両手を広げ立っている様を慎はなぜか想像した。PKの瞬間のゴールキーパーを。PKのルールはもとよりゴールキーパーには圧倒的に不利だ。想像の中の母は、慎がなにかの偶然や不運な事故で窓枠の手すりを滑り落ちてしまったとしても決して悔やむまいとはじめから決めているのだ。 どうですか。 このような人や物との距離の取り方を選択する生き方を、たぶん我々は「ハードボイルド」と呼びます。かっこいいですね。 作品中でも慎のクラスメイトたちが、「父親参観日」に初めて学校を訪れた母を「かっこいい」と言っています。 しかしあえて私の興味のありかを述べますと、なぜ筆者はこんなハードボイルドな母を描くのか、そしてなぜ母はハードボイルドになったのか、ということであります。 実はそれについては、十分に書き込めてないように思います。 母の過去の話として読み込めそうなのは、大人は無口な子供のことをみんな真面目でしっかりしていると思っているのだというエピソードと、母がかつて両親に逆らったのは、「慎」の父親と結婚して「慎」を産んだことだけだというエピソードだけでありましょう。 というふうに、私個人としてはやや説得力に欠けると感じるハードボイルドな母は、しかし作品の後半になって、祖母(「母」の母)が死んで、「慎」がイジメを受ける話になり、そして祖父の介護の話になるあたりから、(加えて母が婚約者と別れる原因が自分にあるのではないかと「慎」が気づくに至って)俄然重苦しい状況に放り込まれます。 ハードボイルドな母は、はたしてそれをどう(ハードボイルドに)捌いていくのか。 ……えー、さて、そのことの私なりの「評価」ですがー、えー、いつもながら偏向しまくっているわたくしであります故に、ピント外れのものになっていそうではあります。 ようするに、まー、……ちょっと私は、物足りなく感じてしまいました。 少しきつく言えば、通俗的な母子家庭小説に終わってはいないか、というものであります。 ただ、上記にも触れましたように、読後感は決して悪くはないんですね。 それがややエンタメっぽくはあっても、終盤の母の団地外壁の梯子登りの展開や、「須藤君」との登校途上での「慎」の涙の場面は、やはり読んでいて心を動かされました。 そんな意味でも、本作は、文壇の登竜門芥川賞にやはりふさわしい瑞々しさを描いているものと、私は思いました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.02.20
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『言文一致体の誕生……失われた近代を求めて1』橋本治(朝日新聞出版) 例によって図書館で見つけた本ですが。 いえ、図書館にこの本があることは、実はずっと前から知っていたのですが、ちょっとパラパラ読んで、この本はなかなか厄介そうだと敬遠していたわけです。 その理由の一つは、これが三冊本であるから。 理由その二は、3冊も例の橋本節を読まねばならないのかというビビり、ですね。 以前私は、この筆者が三島由紀夫について書いていた長編評論を読みました。 その評論が、わからない。なんとも、わからない。…… そんなトラウマを、わたくし、持っていたんですね。 で、怯んだ、と。ビビった、と。 ではこの度、そんな本書をなぜ手にしたかといいますと、……んー、……えー、まあ、まちがい、みたいなものですかね。つい、借りてしまって、つい、読み始めてしまった、という。 で、どうであったかといいますと、やはりとても「精読」というわけにはいきませんでした。でも何とか読めたのは、私が以前よりさらに馬齢を重ねて脳が老化し、よくわからないことにさほど抵抗がなくなったから、かな、と。ははは。 というわけで、そんな読書報告を以下に始めます。 上記に三冊本と書きましたが、これは合わせて、近代日本文学史についての長編評論なんですね。(タイトルもそんな感じになってますね。) で、その第一冊目ということで、どのあたりまで書いてくれるのかなーと思って読んでいきますと、まず、なかなか明治に行きつかない。鎌倉室町あたりで、行きつ戻りつしています。 その後、やっと明治に入るのですが、文学史事項のどのあたりまで進むかといいますと、ざっくりいって、まー、タイトル通り。つまり、二葉亭四迷のことしか書いていません。二葉亭と言文一致体のことで終わっています。 何故そんなことになるかといいますと、その理由は簡単です。 筆者が細かいところに拘って拘って、これでもかというほどに膨大な資料を精読分析した結果、いっこも進まないんですね。 それを以下に、全部は報告できませんので、ほんの少しだけ紹介します。 さて筆者の批評の入り口はどこか、それは、筆者の評論をよくご存じの方は大体想像がつくと思いますが、とにかくまずそこに出てくる用語に拘るんですね。 みんながわかっているつもりでいる基本的な用語に改めて拘り始めるわけで、でもこれって、本当はとても大切なことですよね。(常識や通説をまず疑うという橋本節の大きな魅力の一つであります。) つまり、「言文」って何? 「一致」させるってどういうこと? という感じですね。 でも言われてみればその通りで、我々は中途半端な知識で「言文一致」とは、明治以降始まった文語文を口語文に移し替える運動くらいに理解していますが、もちろん橋本治はそんな常識など信じていません。 短く引用するのは難しいのですが、少し抜き出してみますね。 ややこしいのは、「口語」に対する「文語」という概念である。「口語」に対する「文語」は「書き言葉」である。しかし、「文語体」は「文章に使われる書き言葉による文体」なんかではない。「口語体の文章」が一般的になってしまえば、「文章=書き言葉」なのだから、「文語体=口語体」になってしまい、「文語体」という概念を立てる意味がなくなる。「文語体」が「口語体」に対する概念であるのは、「文語体=古典の文体」と理解されているからである。現実には「書き言葉と話し言葉の対立」があると思われているが、実はそうではなくて、あるのは「古い言葉と新しい言葉の対立」なのである。 どうですか。つまり「口語体」と「文語体」とは対応していないというわけですね。 この辺は結構面白い所で、例えば谷崎潤一郎なんかは違った理解の仕方をしていたとか、じゃあ「文語体」とは何かというと、それは漢文に他ならないとか、なかなか興味深い指摘が続くところです。 とにかくこんな感じで一向に前に進まず、お盆と年末年始の大渋滞のなか、分析は延々と続いていくのですが、もう一か所だけ面白かったところを、これも入口の部分だけ、紹介してみます。 上記に私は、この本は一冊丸ごと二葉亭四迷のことが書いてあると書きましたが、一部、二葉亭と比較して田山花袋の『蒲団』について触れられています。ここがまた、とても面白い。思わず吹き出してしまうところです。 なぜ笑ってしまうかといえば、我々21世紀の人間が読めば、やはり『蒲団』は笑ってしまう作品だからです。 でもその意味も含めて、『蒲団』は「現役の文学作品」であると筆者は評価します。(まあ筆者は、「現役」であるため「古典にするという手続きをはずされてしまったことが、この作品の不幸なのだ」とも書いていますが…。) しかし、全体として筆者の『蒲団』評価は高く、細かく読めば文脈の乱れや「ツッコミどころ満載の仰天すべき小説」ではあるが、この作品が間違いなく「近代日本文学の記念碑的作品」である理由を、端的にこう述べています。 (略)しかし、その読者達は、最後に至ってショックを受ける。どうしてかというと、ここに書かれていることが、「あまりにも恥ずかしくてみっともないこと」だからである。それが、公然と書かれている。「これは、紛れもない私自身のことである」と、作者は明言しているような気がする。だから、ショックを受ける――「よくもこんなことをはっきりと書けたなァ」と思って。そうして『蒲団』という作品は「その後の日本文学のあり方を決定する記念碑的作品」になってしまうのである。 ……なるほどねぇ、と思いますね。同時にこの分析は、日本文学のその後の在り方に対する厳しい批判が読みとれる部分でもあります。 ……うーん、やはり橋本節、拘って拘って屁理屈と紙一重の異常な粘稠度で分析しきっているだけはありますねぇ。 後に残ったわたくしの問題は、……続きの2冊を読もうか読むまいか、という事でありますが。…… よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.02.06
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