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冒頭の写真は、JR湖西線の「比良」駅です。5月中旬に、近江の歴史散策として「比良から木戸を歩く」講座に参加しました。その復習整理を兼ねてのご紹介です。 比良駅前には、左の観光案内図が掲示されています。かなり具体的に記されています。右の写真は、湖西線沿いに北方向を眺めたところです。この地図は当日入手した資料の一部です。ご紹介のポイントになるところに色丸を追記しました。大凡の位置とご理解ください。赤丸が集合場所の「比良」、黄色の丸あたりが「大物」、黄緑色の丸あたりが「荒川」、黄土色の丸あたりが「木戸」の地域です。この地図の黒色の線で示されたルートを歴史散策しました。(以下、散策地図という)「比良・大物・荒川・木戸」というこの地域は、滋賀郡真野郷の北部にあたり、比良の山裾を古代には官道・北陸道が、中近世には北国街道が南北に通っていました。現在は湖岸寄りに幹線道路が通っています。出発後、この方向をまず道路沿いに進むことになりました。古代には比良山中・山麓には製鉄遺跡が散在していたことで知られています。これは「滋賀県西部の接触帯と製鉄遺跡の分布」図を引用させていただきました。一番南の黒丸「和邇製鉄遺跡群」から始まり、この地図では最北の黒丸12「明神遺跡」まで確認されています。(資料2) 比良周辺は、古代から開けていた重要な地域だったことがうかがえます。散策地図の赤丸が比良駅です。 比良駅を出て、比良山系を眺めると、こんな山並みが続いています。「9世紀前半には南都元興寺の淨安により比良山中に最勝寺・妙法寺が建立さえ、以後、比良三千坊と称される山岳寺院群が展開した。」(資料1)のです。中世には延暦寺天台宗の影響下に入って行きます。近世には天台宗の影響が衰え、信仰のあり方が変化し、寺院の多くが浄土宗や浄土真宗に変わっていきます。「比良」について、折口信夫は次のように説明しています。「又、牧(ヒラ)。平(ヒラ)。近江国滋賀郡比良川を中心とした地方。元は木戸・比良・小松などに亙って漣地方の北に拡がってゐたのが、後に眞野(マノ)・和邇(ワニ)などを境として、遠ざかったものと考へる。北は直に高島の勝野に接したのである。今、北比良・南比良などある。後に比良八講で名を得た最勝寺は、此頃、すでに此地にあつたのであらう」(資料3)中世の時点では「延暦寺根本中堂領であった木戸荘や横川領であった比良荘の存在が確認でき、これにかかわる山徒が土豪化した」(資料1)そうです。一方、「比良神」という観点でみると、「『延喜式』に記載はないが、貞観4年(862)には叙位され存在が確認できる」(資料1)と言います。比良山系は神の山でもあります。集合待ちの間に、比良駅から東に真っ直ぐに進み、青色の丸を付けた辺りの湖岸に行ってみました。 比良の湖岸から眺めた琵琶湖です。散策の始まりは、北比良の地域にある「福田寺」(散策地図にマゼンダ色の丸を付したあたり)を目指します。上掲の道路沿いに進み、集落に近づくと、寺院の屋根が見えて来ます。一部石垣も見えます。これがいつ頃からのものかは不詳です。 集落の道に入り、湖岸に近づくと、集落内の道路から湖岸に整備された場所が目に入ります。右の写真は湖岸に立つ常夜灯をズームアップしたものです。この常夜灯の立つあたりが「比良湊」の跡だそうです。「文明3年(1471)に、蓮如上人が越前国吉崎御坊に向かう途中、比良港に上陸して観音堂に立ち寄り、福田寺に一泊した」(資料4)ということが記録に残されているそうです。『万葉集』巻三には、「高市連黒人の羇旅の旅八首」が収録されています。(資料5) 桜田へ鶴(たづ)鳴きわたる年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴きわたる 271という比較的よく知られた歌がありますが、その3首先に わが船は比良の湊にこぎ泊(は)てむ沖へなさかりさ夜ふけにけり 274と詠まれていて、武市黒人が旅の途中でこの辺りで停泊して一夜を過ごしたことがわかります。 折口信夫はこの歌を「夜が更けた。沖の方へ遠く漕ぎ離れるな。今夜は、此船は比良の港に泊らう」と口語訳しています。(『口譯萬葉集(上)』中公文庫) 福田寺山門 山門を入ると、右手に鐘楼があります。 そして、本堂の斜め左前に、「蓮如上人御旧跡」の石標が見えます。右の写真が山門を入ると正面にある本堂です。鐘楼も本堂も屋根以外の部分が白塗りで統一されているのが、私には印象的でした。「『福傅寺寶物縁起』には、恵信僧都が比良山中に創建し、横川恵心院の末であったが、佐々木道誉の子了性が相続後、当地の里坊を田中坊とした。文明2年(1470)に了性の玄孫性賢が蓮如に帰依し一向宗に転じた。」(資料1)とのこと。また「比良庄は中世末には山徒の田中氏が預所職であった」(資料1)のです。了性の系譜が田中氏を名乗ったということになるのでしょう。この境内に、「北比良城址」も銘板を嵌め込んだ石碑が建てられています。『信長公記』巻六・元亀四年に、五月下旬に信長が大工棟梁・岡部又右衛門に大船を造るように命じ、それが7月3日は完成していたことが記されています。7月中旬に宇治の槇島で足利義昭を降参させた後、7月26日に、信長は大船を使って湖西の高島表に参陣します。このときのことを、「陸は御敵城、木戸・田中両城へ取り懸け、攻められ、海手は大船を推し付け、信長公御馬廻を以て、せめさせらるべきところ、降参申し、罷り退く。則ち、木戸・田中両城、明智十兵衛に下さる」(資料6)と記述しています。「元亀四年に田中坊了仙は顕如の命に随い信長と対峙し、明智光秀の攻撃を受け落城した、とする」(資料1)そうなので、この北比良城址を田中城と比定する意見があるとのことです。尚、今回立ち寄ってはいませんが、比良駅から福田寺までの距離と同じくらいの距離を、比良駅から南西方向に行ったところに、「南比良城跡」があるのです。「『佐々木南北諸氏帳』に『志賀郡南比良城主佐々木隋兵・安元日向守実綱・・・・』と、ある」(資料1)とのこと。福田寺の境内を出る時に、山門を見上げました。木鼻や蟇股の箇所の彫刻が見応えがありそうでしたが、ただ通り過ぎるだけになったのが少し心残りでした。 福田寺を出た後、湖西線の高架下を通過し、山側に出て、湖西線沿いに比良駅方向に戻ります。比良山系を西に見つつ進みます。比良駅の近くで、右折して西方向に進み、紫色の丸印を付した「樹下・天満神社」を目指します。 のどかな水田風景です。道傍には、地蔵尊の小祠がありました。西近江路を横断した先に、鳥居が見え始めます。つづく参照資料1) 龍谷大学REC「近江の歴史散歩37 ~比良から木戸を歩く~」講座資料 (2016.5.12 作成 龍谷大学非常勤講師 松波広隆氏)2) 「鉄鉱石の採掘地と製鉄遺跡の関係についての試論 ~滋賀県の事例を中心に~」 大道和人氏 p168 『紀要 第9号』(1996.3 滋賀県文化財保護協会)3) 『折口信夫全集第六巻 萬葉集辞典』 中公文庫 p2754) 比良・北小松地区マップ 大津市観光振興課 H23.125) 『新訂 新訓 万葉集 上巻』 佐佐木信綱編 岩波文庫6) 『新訂 信長公記』 太田牛一著 桑田忠親校注 新人物往来社 p145-146補遺滋賀の製鐵遺跡 :「鍛冶大鐵工」近江の鉄〜息長氏・和邇氏〜 :「神旅 仏旅 むすび旅」蓮如の足跡たどり福井へ 御影道中、京都・東本願寺を出発 :「京都新聞」 2016年4月18日ダンダ坊跡 :「山聲」 ← 檀陀坊跡 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 比良から木戸を歩く -2 天満神社と樹下神社、その境内にて へ探訪 比良から木戸を歩く -3 荒川城跡・安養寺・樹下神社・大行事社ほか へ
2016.07.12
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昨日の朝、玄関を出て数歩歩くと、足元の敷石にセミが腹を上にしていました。蝉が死んでいるのか・・・・今年初めて見たのに・・・そっと踏まないで先に歩むとなんとその蝉が飛び去ったのです。昼頃、リビングルームの網戸の外に1匹の蝉が止まっていました。室内から日の光を浴びて影を長くのばしています。それが冒頭の写真です。デジカメを持ち出し、外に出てその蝉を撮ってみました。羽化してまだ時間がそれほど経っていないためでしょうか、近づいていきすぐ傍で写真を撮ってもじっとしています。その時の写真がこれです。 我が家の緑のカーテン オーシャンブルー そこで、玄関先の庭に例年のごとく蝉の抜け殻(空蝉)があるだろうか・・・と調べてみると、5~6つありました。 例年金木犀の木に結構空蝉を見ていたのですが、今年は下枝などをかなり剪断していたので木に空蝉がありません。その代わり、その傍の低木でいくつか発見しました。 蝉は、卵→幼虫→成虫という不完全変態をする虫で、その生態は未だに充分な解明がされていないようです。それでも、幼虫として地下で3~17年生活し、地上に出てくると夜に周囲の樹に登って、そこで日没後の暗い間に羽化し、羽を伸ばし、明るくなるまでには飛翔できる状態になるそうです。夜間に羽化が進行するのは外敵から身を守る自然の対応なのでしょう。成虫後に野外での命は1か月ほどだとか。(資料1) 空蝉をいくつか発見するうちに、金木犀の幹近くに一匹の蝉が止まっているのを見つけました。こちらの蝉の方が大きかったのです。しばらく写真を撮ていましたが、その間びくともしませんでした。 それがこの写真です。 数時間後に、もう一度観察してみると、少し止まっていた位置を移動していて、微かな動きが見られます。そこで改めて数枚撮ってみました。だが、少し近づきすぎたのか、遂に蝉が一瞬の間に飛翔してしまいました。蝉の抜け殻が空蝉ですが、風俗博物館のご紹介をまとめていた余韻として、やはり『源氏物語』「空蝉」の巻の蝉の抜け殻の例えの場面をまず連想します。「そこへ人の忍び入ってくる気配がして、芳しい香の匂いが息苦しいほど漂ってきました。覚えのあるその薫りに、女ははっと顔をあげました。単衣の帷子が引き上げられている几帳の隙間に、暗いけれど誰かがそろそろと、身じろぎしながらにじり寄って来る気配がありありとわかります。呆れはてて、とっさの分別もつかないまま、女はそっと身を起こすと、薄い正絹(すずし)の単衣一枚をはおって、寝間からすべり出てしまいました。」(資料2)「それでもあの女の脱ぎ捨てていった単衣の小袿を、恨みながらもさすがにお召物の下に引き入れてお寝みになられるのでした。」(資料2) 勿論、忍び入るのは光源氏、女は任国に出かけた紀伊の守の妻です。危ういところを抜け出して、衣裳を抜け殻の如くに残したという下りです。源氏がさりげなく、手習いのように書き流した歌が 空蝉の身をかへてける木の下に なほひとがらのなつかしきかな です。ここから、この紀伊の守の妻が、空蝉と呼ばれるようになります。そして巻の名が「空蝉」です。山本健吉氏は、「せみ」という発音は漢音センを倭語化して和らげたものだろうと解釈されています。(資料3)蝉と言えばだれしも想い浮かべるのは、松尾芭蕉が『奧の細道』において、山形領の立石寺で詠んだ句です。 閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の聲紀行文はこの句の前に、「・・・・山上の堂にのぼる。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧(ふ)り土石老いて苔滑かに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音きこえず。岸をめぐり岩を這ひて仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心すみ行くのみおぼゆ」と。(資料4)良く知られる俳人が蝉で作句しているでしょうか。調べてみると、ありますね。当然のことかもしれません。 ひるがへる蝉のもろ羽や比枝(ひえ)おろし 与謝蕪村 蝉なくや我が家も石になるやうに 小林一茶 鳴きやめて飛ぶ時蝉の見ゆるなり 正岡子規 蝉とんで木陰に入りし光かな 高浜虚子 深山木に雲ゆく蝉の奏(しら)べかな 飯田蛇笏 天界に散華きらきら蝉の昼 山口誓子 蝉涼し足らぬねむりをねむりつぐ 水原秋桜子 蝉声しづか門入りし者後は杳と 中村草田男 蝉の音の万貫の石負ひにけり 加藤楸邨 蝉時雨日斑(まだら)あびて掃き移る 杉田久女 声あげて蝉夕風にさからひぬ 中村汀女 悉く遠し一油蝉鳴きやめば 石田波郷 天寿おほむね遠蝉の音(ね)に似たり 飯田龍太 森抜けしこと蝉時雨抜けてをり 稲畑汀子 自我ありて泣くこゑ蝉に敗けてゐず 鷹羽狩行また、こんな句もあります。 唖蝉をつつき落として雀飛ぶ 村上鬼城 唖蝉も鳴く蝉ほどはゐるならむ 山口青邨唖蝉とは鳴かない雌の蝉なのですね。鳴くのは雄の蝉だけなのだとか。雄の蝉は、「腹腔内には音を出す発音筋と発音膜、音を大きくする共鳴室、腹弁などの発音器官が発達し、鳴いてメスを呼ぶ。発音筋は秒間2万回振動して発音を実現するとされる」(資料1)のだとか。また、蝉は種類によって鳴く時間帯が異なるようです。「クマゼミは気温が高すぎると鳴かない、アブラゼミは25度を下回ると鳴かない、ミンミンゼミとツクツクホウシはあまり気温に関係なくずっと鳴いている、ヒグラシは日没付近に鳴くため明るさが第一要因として関係してくる」そうです。(資料5)また、和歌にも古代から詠み込まれ続けています。たとえば、『万葉集』で蝉は一首だけ。後は「日晩(ひぐらし)」で詠んでいるのです。 石走る瀧もとどろに鳴く蝉の聲をし聞けば京都(みやこ)しおもほゆ 大石簑麻呂 巻十五 3617 当時は広く蝉の総称として「ひぐらし」ということもあったとみられています。『古今和歌集』には、紀友則の歌が収録されています。 蝉の声聞けばかなしな夏衣うすくや人のならむと思へば 巻十四 恋 『新古今集』には、二条院讃岐が詠んだ歌が載っています。 鳴く蝉の声もすずしき夕暮に秋をかけたる杜の下露 巻三 夏 西行法師は『山家集』を残していますが、その中に蝉を詠み込んだ歌があります。 水邊納涼と云事を、北白川にてよみける 水の音にあつさ忘るる圓居(まとゐ)哉梢の蝉の聲もまぎれて 231 山里に人々まかりて秋の歌よみけるに 山里の外面(そとも)の岡の高き木にそぞろがましき秋蝉のこゑ 295 やなぎ原かは風吹かぬかげならば暑くや蝉の聲にならまし 1019 空しくて已みぬべきかな空蝉のこの身からにて思歎(おもふなげき)は 1337手許の岩波古典文学大系29は『山家集』と実朝の『金槐和歌集』で1冊になっています。実朝が蝉を詠んだ歌には次の歌があります。 蝉 夏山に鳴くなる蝉の木(こ)がくれて秋ちかしとや聲もをしまぬ 170 泉川ははその杜(もり)になく蝉のこゑのすめるは夏のふかさか 171 蝉のなくをききて 吹(ふく)風は涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴て秋は来にけり 189 夏ふかき杜の空蝉おのれのみむなしき恋に身をくだくらむ 413 木(こ)がくれて物をおもへば空蝉の羽におく露の消えやかへらむ 415 桜 空蝉の世は夢なれや桜花咲(さき)ては散りぬあはれいつまで 708「空蝉の」は「世」の枕詞として使われています。調べれば、様々な歌集の収録歌に蝉が詠み込まれていることでしょう。手許の本でわかる範囲でもこれだけあります。調べて見るとおもしろい。ご紹介を兼ねた学びです。詩はどうだろう? ふと思いました。少し検索してみると、中原中也が次の詩を書いています。(資料6)蝉蝉(せみ)が鳴いている、蝉が鳴いている蝉が鳴いているほかになんにもない!うつらうつらと僕はする……風もある……松林を透いて空が見えるうつらうつらと僕はする。『いいや、そうじゃない、そうじゃない!』と彼が云(い)う『ちがっているよ』と僕がいう『いいや、いいや!』と彼が云う「ちがっているよ』と僕が云うと、目が覚める、と、彼はもうとっくに死んだ奴なんだそれから彼の永眠している、墓場のことなぞ目に浮ぶ……それは中国のとある田舎の、水無河原(みずなしがわら)という雨の日のほか水のない伝説付の川のほとり、藪蔭(やぶかげ)の砂土帯の小さな墓場、――そこにも蝉は鳴いているだろチラチラ夕陽も射しているだろ……蝉が鳴いている、蝉が鳴いている蝉が鳴いているほかなんにもない!僕の怠惰(たいだ)? 僕は『怠惰』か?僕は僕を何とも思わぬ!蝉が鳴いている、蝉が鳴いている蝉が鳴いているほかなんにもない! (一九三三・八・一四)本棚の一隅に眠っている中原中也の詩集をチェックする前に、ネット検索で入手。うれしいことに、ウェブ・サイトがあることを知ったというおまけを得られました。多分、これは一例にしかすぎないでしょう。探す楽しみが残りました。蝉からの連想を文学の世界に広げてみました。今朝、目覚めたとき窓外からの「初蝉」でした。歳時記によると「その年初めて聞く蝉を初蝉という」のだそうです。(資料7)ひょっとしたら昨夜、書き始めていたので、意識に残っていただけかも知れませんが・・・・。ご一読ありがとうございます。参照資料1) セミ :ウィキペディア2) 『源氏物語 巻一』 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 p131-1513) 『基本季語500選』 山本健吉著 講談社学術文庫4) 『おくのほそ道 全訳注』 久富哲雄 講談社学術文庫 p1975) 気温?時間帯?セミの鳴く理由と条件について :「多摩から世界へ」6) 蝉 :「中原中也・全詩アーカイブ」7) 『改訂版 ホトトギス 新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂 p481補遺「2005年度 第2回夏のセミ調査」結果報告」 琵琶湖博物館鳴く時間帯によって、セミの種類違うか? :「au暮らしお悩み交差点」蝉の鳴き声 自然と環境の学習素材 :「兵庫県立人と自然の博物館」セミの成虫 富山市の身近な自然調査2012-2016 :「富山市科学博物館」「蝉類博物館」 ─昆虫黄金期を築いた天才・加藤正世博士の世界─ :「東京大学総合研究博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2016.07.11
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風俗博物館のあるフロアーの中央に、六條院・春の御殿の寝殿及び東の対の建物が置かれています。メインが六條院を舞台にした展示なのですが、北西の一角に、日本最古の物語である『竹取物語』の一場面が現出されています。冒頭の写真は、飛ぶ車の前に立つ月の王と天女の一団がかぐや姫を月の世界に連れ戻すために迎えにきたところです。私たちは『竹取物語』という名称で親しんでいます。参考書でもこの名称でまず説明されています。実際に、『竹取物語絵巻』や『竹取物語図』が作られています。(資料1)『源氏物語』・「絵合」の巻には、「まず物語の元祖とも呼ばれている竹取の翁の物語に、宇都保物語の俊蔭を組み合わせて、勝負させます。左方は、『これはなよ竹の節々を重ねたように代々伝わった古い物語で、特におもしろい節もないのですけれど、かぐや姫がこの世の濁りにも汚れず、月世界にはるかに上ってしまった宿縁は、気高くすばらしく、何しろ神代のことのようですから、現世の教養の淺い女にはとても見てもわからないでしょうね』・・・・」(資料2)と始まる部分に出て来ます。左方は梅壺の御方。これに対し、右方は弘徽殿の御方であり、この続きは『竹取物語』の内容に右方が難癖の述べていくという描写です。原文は、「まづ、物語の出で来はじめの祖なる『竹取の翁』に『宇津保の俊蔭』を合はせて争ふ。」(資料3)と記されているのです。つまり、晴れの場では、『竹取の翁』の物語と称されたようです。『かぐや姫の物語』とも呼ばれますね。 移転前のビルではフロアーの壁面で囲まれた一画に設置されていまのですが、この移転後の5階フロアーではビルの北面のガラス窓の傍が使われていて、写真を撮る位置によりプラス思考をすると、まさに天空から来迎した雰囲気がリアルに加わってくるという面白みがあります。一方、消極的思考では最古の物語としてちょっと煩わしさにもなります。『竹取物語』は、(1)かぐや姫の生い立ち、(2)五人の貴公子と帝の求婚、(3)かぐや姫の昇天、と大きく3部に分かれるストーリーです。従って、この場面は最後のクライマックスを迎えようとする直前ですね。 地上の竹取の翁の邸が柱と扉で簡略に設定され、開かれた扉の前に、かぐや姫が立っています。求婚してきた貴公子達には難題を課して失敗させ、帝の入内の求めにかぐや姫は抵抗します。竹取の翁の困惑・疑問に対し、かぐや姫は自分が月の世界の者で、8月15日の夜に迎えが来ると告げるのです。かぐや姫の周りに居るのは天女です。天女の一人がかぐや姫に天の羽衣をきせかけているシーンです。竹取の媼が扉の傍で跪き歎き哀しんでいます。この写真には袖と頭の一部が見えるばかりですが・・・・。傍に説明パネルが掲示されています。その後半を引用しておきたいと思います。「月の都昇天の目前、地上界で様々な人の情愛にふれたかぐや姫は、育ててくれた翁と媼に形見として身につけていた衣を脱ぎ置き、月の出た夜は自分の住む月を地上界から見上げてほしいと手紙を書き置いた。月の都に昇天すると人の情愛の記憶を無くすことが解っていたかぐや姫は、帝に心を込めた手紙をしたため、それに天上界の不死の薬をそえて贈った。権力や富、手に入れた不老不死の薬をもってしても叶うことのない帝の願いは、地上界に生きる人間のはかなさの代表としてこの物語に描かれる。 このように、竹取物語は人と人との愛情をテーマに、かぐや姫の生きる月の世界(天上界)の無限性と、帝や翁が生きる地上界の有限性を対比しながら描かれ、古来から民族の伝承文学の中に、神仙思想や仏教思想を取り入れて創り上げられた物語で、時を超えて伝えられる普遍のメッセージは”人の愛”にあった。」(説明パネルを一部転記)だれがこの物語を書いたのかは未詳です。物語は9世紀~10世紀初め頃に成立していたもので、「学識豊で和歌にも長けた男性の手によって」創作されたと考えられているようです。この物語は「羽衣説話」「致富長者説話」「求婚難題説話」などが取り入れられて構成されていると分析されています。(資料1)脇道に逸れます。知っているようでいて、知らないのが昔話でもあります。次の質問に即答できますか? <私は、今回再認識したこことばかり・・・・知らないことを知りました(^^); >Q1. 竹取の翁が名付けた名前は正式には何と呼ぶのでしょうか?Q2. かぐや姫が竹の中から誕生した時の体の大きさはどれくらい?Q3. かぐや姫が成長し、「髪上げ」「裳着」をするまでに要した期間は?Q4. かぐや姫が人間界に遣わされた理由はなにですか?Q5. 5人の貴公子に課した難題は何でしたか?Q6. 「かぐや姫の町」として知られているのはどこでしょう?さて、本道に戻ります。もともと、風俗博物館は古代から近代にいたる日本の風俗・衣裳を実物展示する博物館として、昭和49年(1974)に開館されたそうです。その当初の目的からも、今回の移転で「等身大の時代装束展示」の拡充を図られているようです。今回、フロアーの西側にその一端を拝見しました。 その一つが、「養老の衣服令による命婦礼服」と題して、この等身大衣裳が展示されていました。奈良時代に、それまでの大宝律令が改編されて、養老2年(718)に養老律令が発布されました。その中で衣服令という服制の大綱が確立したそうです。それが現在までの服制の伝統の始まりとなったそうです。当時の唐の衣服に倣って、「日本の衣服の打ち合わせは、『左衽(さじん:ひだりまえ・衽(おくみ)が左前になること)』が禁止され、『右衽(うじん)』に統一され」たといいます。養老の衣服令により、礼服(らいふく)・朝服(ちょうふく)・制服の3種に分類され、文官・武官の区別も確立されたようです。そして、桓武天皇による平安遷都後も、「平安時代前期の服飾は奈良時代を受け継いだ唐風そのもの」で、平安中期以降、国風文化が確立していく中で、『源氏物語絵巻』に描かれる服飾へと変化を遂げたのだそうです。上掲の『竹取物語』が成立した時代は唐風の装束が普通だったということになります。(資料4) 上掲パネルの説明によれば、女官である命婦は四位です。「髪は金銀珠玉をつけた宝髻(ほうけい)として化粧も白粉、紅のほか、花子(かし)といって眉間や口元にに紅あるいは緑の点をつけ、衣は四位相当の深緋(こきあか)の大袖に同色の内衣を襲ねる。裙(も)は蘇芳(すほう)、浅紫(うすきむらさき)、深緑(こきみどり)、浅緑(あさきみどり)のたて緂(だん)に纐纈(こうけつ)絞りの文様をおく。裙の下には浅縹(うすきはなだ)の褶(ひらみ、下裳)をつけ、紕帯(そえおび)をしめて錦の襪(しとうず)に舃(せきのくつ:鼻高沓はなたかくつ)をはく。衣服令に規定はないがさらに肩に領巾(ひれ、比礼)をかけている」という服飾です。 命婦礼服の背後には、薬師寺蔵の『薬師寺吉祥天女像』の図像が置かれています。これは、この天女像を参考にして、当時の衣裳を植物染料で具現化するプロジェクトを進めておられることに関わっています。その一環で、平成27年度制作された大袖と裙が展示されていました。 大袖は蠟纈(ろうけつ)の技法により、地色は紫根(しこん)。裙は一の生地で、茶地唐花獅子文錦だそうです。 平安時代の公家女房晴れの装い 和風への転換つまり、宮中での正装です。唐衣裳(からきぬも)姿です。現在、一般的に「十二単(じゅうにひとえ)」と称される装束です。この「十二単」という名称の初出は、鎌倉時代の『源平盛衰記』巻四十三に出てくる建礼門院の藤重ねの十二単だそうです。ただし、この場合の十二単は単(ひとえ)を十二枚重ねた略装と考えられているとか。また、「女房装束とは、宮中に奉仕する命婦以上の女官の礼服をいうが、広く貴族の家に仕える女房の装束もいう」(説明パネルより)そうです。 宮中で女房は裳を決して省略することはできなかったそうです。「平安時代の女房装束の着装上の特色は、衿(えり)を一ツ襟(共合わせ)にしていることと、唐衣の後身頃を裳の中に着込まないで着放っていること」(説明パネルより)にあるそうです。 鎌倉時代 上流武家婦人通常の正装鎌倉時代に入ると武家が伸長し、袴が衰退すると共に、着装にも変化が現れるそうです。詳しい内容は実物を見ながら、掲示のパネルをお読みいただくとして、途中にこういう説明があります。「鎌倉時代初期の将軍婦人や執権夫人の幕府における通常の正装をそうていしたもので、白小袖に幅のせまい帯を締め、その上に公家風の単(ひとえ)と袿(うちき)を重ねた姿とした。」国宝となっている鎌倉の鶴岡八幡宮所蔵の小袿・袿・単衣の写真が併せて展示されていました。 明治・大正時代 女官袿袴礼服(けいこれいふく)明治維新を迎え、洋服採用の大宣言が行われ、服制の転換期となります。 このパネルの衣裳は、明治17年(1884)の内達で、婦人の高等官または高等官夫人が、即位礼並びに大嘗祭に参列するときに着用したそうです。そして、大正4年(1915)の改正でこの通常礼服が通常服となったと言います。地質により、礼服と通常服を区別したとか。(説明パネルより) 「今回の展示では、平成26年(2014)千家国麿氏と結婚された千家典子様が結婚式の際に着用された袿袴姿を参考に袿を制作。黄地に抱鸚鵡(だきおうむ)と手向山(たむけやま)という品種の紅葉の文様の袿である。足元は洋靴である。」(説明パネルから転記)このように、等身大の衣裳展示セクションもあります。この区画もたぶん、毎期展示衣裳の入れ替えをされていくのではないかと思います。『源氏物語』に登場する六條院春の御殿を舞台にしテーマ毎での展示です。そこに「千年という時空を超えて、研ぎ澄まされた五感で平安時代の世界を感じていただければ幸いです」(資料1)というのが、風俗博物館のメッセージです。源氏の世界を、そして平安時代をビジュアルに感じ取るために、是非一度出かけてみてください。宇治市源氏物語ミュージアムで、源氏物語関連の講座を聴講し始めて数年になりますが、風俗博物館が私には以前より身近な感じで楽しめるところになってきました。次回の企画展がまた楽しみです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『クリアカラー 国語便覧』 監修:青木・武久・坪内・浜本 数研出版 p100-1012) 『源氏物語 巻三』 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 p287-2893) 絵合 渋谷栄一校訂 :「源氏物語の世界」4) パフレット「源氏物語 六條院の生活 風俗博物館」 平成28年~展示 同館作成資料補遺風俗博物館 ホームページ 日本服飾史 資料宇治市源氏物語ミュージアム ホームページ竹取物語「かぐや姫」-全文全訳(対照表記) :「学ぶ・教える.COM」竹取物語 :「国立国会図書館デジタルコレクション」竹取物語絵巻デジタルライブラリ ホームページ 立教大学かぐや姫サミット :「かぐや姫の里を考える会」讃岐神社 スニーカーにはきかえて :「ならリビング」かぐや姫情報いわれ :「広陵町」『竹取物語』発祥の地は "京田辺” その二 :「かぐや姫の里を考える会」竹取物語は、藤原不比等糾弾の書だった :「秦野エイト会」竹取物語から見たジェンダー 高木香世子氏 「京都新聞」連載 「古典に親しむ 竹取物語の世界」京樂真帆子氏 :「知の迷宮」出雲で結婚式、千家典子さん あすホテルで披露宴(14/10/05) :YouTube ニュース動画の冒頭に、上記に説明のある衣裳姿が写っています。慶祝 ご結婚 出雲大社のご案内 :「出雲大社」 写真掲載のこちらのページが衣裳の観察には便利です。日本の服の歴史 Maccafushigi ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 へ探訪&観照 風俗博物館(京都) -2 端午の節会・平安時代の遊び へ探訪&観照 風俗博物館(京都) -3「五巻の日」の紫の上、局の諸場面、女房の日常 へ
2016.07.10
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法華八講の「五巻の日」、二條院寝殿の母屋には本尊・普賢菩薩像が安置され「薪の行道」が行われています。この場面は最初にご紹介しました。寝殿を左側に進み、西面から「塗籠(ぬりごめ)」を眺めたのが冒頭の写真です。そこはこの法華経千部供養の主催者である紫の上の座となった場所です。紫の上は小袿(こうちぎ)姿で行道の声明に耳傾けています。小袿は身丈ほどの袿で、高貴な女性が平常に着た晴れの装束だそうです。「裳唐衣(もからぎぬ)を省略した場合に着用されることがあり、平常着でも礼装的な意味合いがもめられていた」といいます。小袿は「梅かさね・葡萄(えび)色小葵(こあおい)地紅梅文」、表着(うわぎ)は「今様色かさね・今様色地白桜散らし文」といういでたちです。(資料1)今様というのは当世風という意味ですから、そのころ流行の色かさねでありデザイン文様だったのでしょうか。 周囲にはそれぞれ異なった色目のかさね装束で女房達が居並んでいます。寝殿の北廂に目を移しますと、 そこは明石の御方の局となっていて、明石の御方と匂宮(5歳)が居ます。 薪の行道で法華経讃嘆の声明の声がやがて途絶え、静寂が訪れます。「紫の上はしみじみと寂寥をお感じになるのでした。まして御病気がちのこの頃では、何につけても、ひしひしと心細さばかりが身にしみて感じられます。明石の君に、三の宮をお使いにして申し上げます。」(資料2)というくだりです。紫の上が、今上帝の第三皇子つまり匂宮を使いにたてて、明石の君に和歌を贈るのです。匂宮は明石の君の娘である明石の中宮が産んだ子ですから、明石の君には孫になりますね。明石の御方は受け取ったばかりの紫の上の贈答歌を読んでいます。一方、匂宮は明石の御方が返歌を認めて、その歌を託されるために控えているという場面でしょう。紫の上に返歌の文を届ければ、お使いが完了ということになります。匂宮の後の几帳をはさみ、その背後に女房たちが控えています。これらは「女房装束に見るかさね色目」の展示です。後でも再びでてきますが。 左の衣裳は「花橘かさね」、右の衣裳は「藤かさね」「緑である橘(たちばな)の木が、春を迎えて色濃く葉が色づき、初夏には白い花が咲き、やがて朽葉(くちば)色の実を実らすという。橘の木の一年を通して表したかさね色目。着用時期旧暦4月~5月」(説明パネルを転記)「藤の花の色づいた紫の濃き薄きと、新緑の葉の美しさを表したかさね色目。古来、藤は松に絡みかかって咲いている姿が鑑賞された。着用時期旧暦4月頃」(説明パネルを転記)北廂の襖障子と屏風で仕切られた北隣が花散里御方の局となっています。「法会が終わって、女君たちがそれぞれお帰りになろうとされる時にも、紫の上は、これがこの世での最後の別れのように思われて、人知れず名残が惜しまれるのでした。花散里の君に、 絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる 世々にと結ぶ中の契りをと歌をお届けになります。」(資料2) 紫の上の贈答歌に対して、花散里御方が返事としての返歌を認めている場面です。 展示の場面や衣裳については、展示説明としてのパネルがその場面と対応する形で置かれていますので鑑賞するには便利です。かなり詳しく書かれていますので、展示場面とともに、当時の行事、衣裳などのことが具体的に学べます。ミニチュアの実物を見ながらですので親しめます。これらは「女房装束に見るかさね色目」の展示です。 この女房の衣裳は「松かさね」「松は常磐木(ときわぎ)でめでたさに通じるので、四季通用・祝いに着る色として使われた。五葉松(ごようまつ)は正月の子(ね)の日の小松引きなどに使われ、多く古典に登場する。松は常緑であり長生の木とされたため、それにあやかろうとした行事で小松から根を引き抜いて健康と長寿を祈った子の日の遊びは、『ねのび』(『根延び』を掛ける)とも言う。千歳に変わらぬ常緑葉の萌黄色の美しさと、雌花の蘇芳色に子孫繁栄を表したかさね色目である。」(説明パネルを転記)左の衣裳は「紅の薄様かさね」、右の衣裳は「萌黄の匂かさね」「『薄様(うすよう)』とは、白色まで薄くしてぼかした配色のこと。紅の模様は、紅色から白色へぼかしていくグラデーションのかさね色目である。春夏秋冬祝いに着る色」(説明パネルを転記)「『匂(におい)』とは、同色の濃淡でぼかしていゆく配色のことである。萌黄(もえぎ)の匂という場合は、濃き萌黄色から薄い萌黄色までのグラデーションのかさね色目である。春夏秋冬、祝いに着る色」(説明パネルを転記)寝殿北面の孫廂には、「局・女房の日常」についての場面が展示されていました。ここも毎回テーマが変更され、展示替えが行われています。東側から眺めていきましょう。まずは、曹司(ぞうし)とも呼ばれる「局(つぼね)」で行われている場面の一つ。二人の女房が行っているのは「綿入れ」です。櫃(ひつ:衣装箱)に綿をひきかえて綿入れの用意をしている様子だそうです。『満佐須計装束抄(まさすけしょうぞくしょう』という有職故実書が平安時代後期にまとめられています。その書の女房装束のかさね色目の段に、「十月一日より練衣(ねりぎぬ)綿いれて着る」と記されているとか。(説明パネルより)年中行事として冬の更衣(ころもがえ)は10月1日でした。「宮中では装束類は内蔵寮(くらづかさ)から、調度類は掃部(かもん)寮から奉られ調えられた。この日を旬の儀としt群臣に御酒を賜い、宴が催される」という日だったそうです。(資料3)『源氏物語』「野分」の巻の終わりの方で、源氏が玉鬘のところから、東の花散里の君のところに、訪ねていくというところで、次の描写があります。「野分の後の、今朝方の急な肌寒さに思い立った家事仕事なのか、裁縫などしている老女たちが、女君のお前に大勢集まっています。細櫃のようなものに、真綿を引っかけて、手で扱っている若い女房たちもいます。とてもきれいな朽葉色の薄絹や、濃い紅梅色の、またとないほど美しい艶を、砧で打った絹など、そこらにひき散らかしていらっしゃいます。」(資料4)黄菊かさね」「菊は花盛りに厄除けの花として愛でられたのち、『移ろひ盛り』といって盛りが過ぎた色が赤紫に変色した折と、二度愛でられる。その黄菊の移ろう様子を表し、四季の花の霊験を願ったかさね色」(説明パネルを転記)「局」は、「宮殿内の区画された部屋。宮廷に仕える女官の居室となった。曹司」(『日本語大辞典』講談社) つまり、女官の私室です。そこから、曹司を持つ女官自身のことを局とも称するようになったのです。ここは私室の区画ですので、壁や襖障子、妻戸・遣戸などで仕切りが施されています。右隣の局では、「伏籠(ふせご)」を使う女房の場面が展示されています。女房は衣服に香を焚き染めるという仕事をしています。前回ご紹介した「火取」の上に竹製の籠が伏せられます。これが伏籠です。その上に衣服を掛けて香を衣服に染み込ませるのです。「直接男女が顔をあわせる機会が少なかった平安時代、趣味の良さを相手に伝える手段としての一つが香であった為、自分の好みに調合した香を燻らすことはとても重要なことであった」(資料1)といいます。尚、『源氏物語』「若紫」の巻には、伏籠を全くちがう目的で使ったエピソードがでてきます。どちらかというと、こちらの方がピンときそうですが。”「どうしたの。子供たちと喧嘩でもなさったの」と言いながら、尼君が見上げた面ざしに・・・・ 「雀の子を、犬君(いぬき)が逃してしまったの、伏籠の中にしっかり入れておいたのに」と、女の子がさも口惜しそうに言います。” (資料5)そうです。この女の子が若紫なのです。源氏が惟光(これみつ)と二人だけで、夕靄にあたありが霞んでいる頃、小柴垣のあたりに出かけて、そっと覗いて眺めている場面です。吊衣桁(つりいこう)に衣服が吊され、その前に「吊香炉(つりこうろ)」が吊り下げてあります。毬香炉(まりごうろ)とも呼ばれるようです。これも香を焚き染めるための道具です。「この吊香炉は二重のジャイロスコープによって、炉の水平を保つよう工夫された香炉で、後世の龕灯(がんとう)に見られるような造りであり、小さいものは袖の中で香を焚きこめるものとして使われ」(資料1)ています。『源氏物語』「真木柱」の巻には、玉鬘のことで気もそぞろになっている鬚黒の大将が、玉鬘の許に行きたい気持ちがつのりはやって来るときの場面を次のように描写しています。「わざとらしく溜め息をつきながらも、出かける衣裳に着がえて、小さな香炉を取り寄せて、自分で袖に引き入れて香を薫きしめていらっしゃいます。」(資料4) この2枚は「伏籠」を使って仕事をしている部屋の両側です。左の写真には、壁際に几帳や別の吊衣桁が置かれ、脚の付いた黒塗りの唐櫃(からびつ)がおかれています。これは雑具や衣類・禄など様々なものを収めるために利用されたようです。衣桁は衣架(いか、御衣掛みぞかけ)とも称され、実用性とともに、装飾的な意味合いも大きかったそうです。(資料3)右の写真の襖をご覧いただくと、ミニチュアの襖に合わせてきっちりと絵が描かれています。これは平安時代の美人の条件とされた「黒髪」の手入れをしている場面です。 左の写真は、女房の身嗜みとして、髢(かもじ)をつけている場面だそうです。髢は「hairpiece(ヘアーピース)」と説明パネルに英訳されています。辞典を引くと、「髪を結うとき、添えて用いる髪。江戸時代に女髷(まげ)が複雑になり一般に普及した。入れ髪」(『日本語大辞典』講談社)と説明しています。黒髪を背に長く垂らすだけの場合どのように髢をつけたのでしょう・・・・。右の写真は、縮れ毛を櫛で真っ直ぐに調えている場面です。説明パネルは日本語では「縮れ毛」と付記しているだけですが、次の英文説明が記されています。 A young lady make her servant straighten her frizzy hair. 長い黒髪が美の基準として賞賛された典型で有名なのが『大鏡』巻二の左大臣師尹(もろまさ、920~969)に記述されている「息女、宣耀院(せんよういん)の女御に対する君寵と、女御の聡明ぶり」に出てくる話です。「この大臣のご息女は、村上天皇の御時の宣耀院の女御[芳子さま]で、ご容貌が愛らしくて、おきれいでいらっしゃいました。参内なさろうとして、お車にお乗りになったところ、ご自分のおからだはお車の中にいらっしゃいましたが、お髪の端はまだ母屋の柱のもとにおありでした。そんなに長いお髪でしたので、その一筋を檀紙の上に置いたところ、その紙が一面に黒くなってまったく隙間もお見えにならなかった、と申し伝えております」(資料6)檀紙とは「陸奥で産した紙で、肉が厚く、面に細かく皺がある」そうです。(資料6)『源氏物語』「帚木」の巻は、「雨夜の品定め」の中で、左馬の頭が「そうかといって、ただもう実直一方で、いつもぼさぼさ紙をうるさそうに耳にはさんで化粧もせず、なりふり構わぬ世話女房が、家事にかまけきっているのも、困りものです」(資料5)と、髪について触れています。また、法華経千部供養に関連しては、「御法」の巻で紫の上が亡くなった時の場面でも黒髪のことが描写されています。「亡骸のお髪(ぐし)がただ無造作に投げ出されておありなのが、いかにもふさふさと豊かで美しく、ほんのわずかな乱れもなくて、この上なくつやつやときれいな風情でした。何かと見繕いしていらっしゃつた御生前のお姿よりも、今はもうどう嘆いて見えも、いたしかたない御様子で、無心に横たわっていらっしゃるこのお姿のほうが、申しわけもなくお美しいと言っても、今更めいて聞こえます。」(資料2)死の直後においても、黒髪を綿密に描写しているのです。やはりそこに美の極致を見出していた時代なのでしょう。余談ですが、3年前に、平松隆円著『黒髪と美女の日本史』(水曜社)という書を読んだことを思い出しました。読後印象記を別のブログで載せています。『源氏物語』には、黒髪に関連した記述が各所に出て来ます。例えば、「帚木」の巻では尼の髪に触れていますし、「末摘花」の巻では、髪が顔に垂れかかった様子を源氏が評しています。「初音」の巻では、髪の衰えが目立つ花散里を見た源氏が心に思うことを描写しています。また、国宝『源氏物語絵巻』の「東屋一」には、中君の髪を女房が梳いている場面が絵の一部として描き込まれています。つまり、それだけ黒髪を重要視していたということです。御簾から簀子に意識的に出された衣裳と黒髪の一部が、美的センスと美そのものの評価対象になったのでしょう。この黒髪の場面の写真を改めて見つめると、御簾の傍の二階棚には、少なくとも火取と泔坏(ゆするつき)、打乱筥が置かれていることがわかります。女房衣裳やかさねの色目についての知識が乏しくて、充分にご紹介できないのが残念です。これで一通りざっと春の御殿を舞台に繰り広げられてた企画展示を鑑賞した記録の整理を切り上げます。風俗博物館にはまだ、ご紹介すべきものが展示されています。つづく参照資料1) パフレット「源氏物語 六條院の生活 風俗博物館」 平成28年~展示 同館作成資料2) 『源氏物語 巻七』 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 p252-2833) 『源氏物語図典』 秋山 虔・小町谷照彦 編 小学館 p46-47、p1784) 『源氏物語 巻五』 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 p111-112, p2085) 『源氏物語 巻一』 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 p68, p248-2516) 『大鏡 全現代語訳』 保坂弘司訳 講談社学術文庫 p174-175補遺風俗博物館 ホームページ源氏物語の世界 ホームページ源氏物語絵巻 :ウィキペディア第2回 日本独自の化粧文化へ :「ポーラ文化研究所」<研究ノート> 黒髪の変遷史への覚書き 平松隆円氏黒は女を美しくする!!海外でも日本でも永遠の【黒髪】ブーム :「ギャザリー」「遊心逍遙記」というもう一つのブログで、『黒髪と美女の日本史』 平松隆円 水曜社 の印象記をまとめています。お読みいただければうれしいいです。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 へ探訪&観照 風俗博物館(京都) -2 端午の節会・平安時代の遊び へ探訪&観照 風俗博物館(京都) -4 竹取物語・等身大の時代装束展示 へ
2016.07.08
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この写真は、『源氏物語』「蛍」の巻の一場面です。光源氏36歳の夏。五月五日、六條院夏の御殿(おとど)の西の対に、玉鬘の姫君を源氏が訪れる場面です。源氏は花散里の君の住む夏の御殿の馬場御殿に出かけたついでに、西の対に居る玉鬘の姫君のところに立ち寄ります。兵部卿の宮が夜遅くまで玉鬘のところにいたことを尋ねて、宮についてひとしきりほめたりけなしたりします。姫君に警戒心をいだくように注意した後、兵部卿の宮から手紙が来ているのを見て、今日のうちに返事を出すように助言して帰るというストーリー展開のところです。そして、「五月の節句なので、今日は玉鬘の姫君のところには、言いようもなく趣向をこらした薬玉などが、方々からたくさん贈られています。」(資料1)この場面を、少しずつズームアップしていきましょう。 女房が贈物を玉鬘の姫君の御覧に供し控えているところに、女童が順次届いた贈物を持ってきます。そこに、源氏が訪れてきます。玉鬘が薬玉を手に取り眺めている前には、兵部卿の宮からの手紙が置かれています。「白い薄様の紙に、ご筆跡はことさら優美にご立派にお書きになっていらっしゃいます」というもので、「語り草になりそうな、それはそれは長い菖蒲の根に、お手紙を結び付けて」(資料1)あるのです。玉鬘は、「細長姿 濃小袖 濃長袴 五衣(撫子かさね:破雲立湧文ながれくもたてわくもん) 袿(うちき:卯の花かさね) 細長(撫子かさね)」(資料2)という衣裳です。(資料2は以降適宜参照し注記を略す場合あり) 簀子を歩み、贈物を持ってくる女童の衣裳は「正装の汗衫姿(かざみすがた) 濃小袖 濃長袴 表袴 単衣(濃色) 袿 表着(うわぎ) 汗衫」です。その後に、もう一人の女童が続きます。今、この場面では夏の御殿の西の対に見立てられています。 この建物は冒頭のイラスト図にある春の御殿の東の対。左の写真は、東の対の西面です。簀子は左方向に「透渡殿(すきわたどの)」に続いています。その透渡殿の正面に、東の対の両開きの妻戸(板扉)が開いています。そして、黒塗りの二枚格子が見えます。右の写真は、西面から南面の簀子に進んできた女童の後姿です。 東の対の東南隅には、几帳を孫廂の柱間に置いて仕切りとし調度品が置かれています。黒塗りの二階厨子が横並びに置かれ、上面に箏が置かれているようです。西の簀子側は御簾が掛けられ、調度品の背後には几帳が目隠しとしておかれています。(資料3)それでは、訪れてきた源氏に目を転じましょう。この場面で源氏は「艶も色もこぼれるように美しいお召物に、夏の直衣(のうし)を軽やかに重ねられた色合いも、どこからどう加わってきた美しさなのでしょう。とてもこの世の人の染め出したものとも思えません。いつものお衣裳と同じ色の文目(あやめ)も、五月五日の節句の今日は、ことさら快く感じられます」(資料1)と描写されています。 源氏の直衣出衣(のうしいだしぎぬ)姿は、「指貫(二藍雲立湧文) 袙(あこめ:蘇芳色紗地雲立湧文すおういろしゃじくもたてわくもん) 直衣(二藍三重襷文たすきもん) 立烏帽子」というものです。手にするのは夏扇とも呼ばれた蝙蝠(かわほり)です。蝙蝠というのは、「竹骨に地紙を張った扇。広げると蝙蝠(こうもり)が翼を広げた形に似ているところからの名称」(資料3)だそうです。孫廂には、女房の白い張袴が広がり、その上に長い黒髪が垂れています。長い黒髪が平安時代の宮中女性の美の基準だったのですね。手入れが大変だったことでしょう。右の写真は、東側の孫廂の柱の間に几帳を立てた前後の写真。 東側の女房たちをズームアップしてみます。女房たちは節会の供え物の準備をしているようです。衣裳の色目の配色が鮮やかです。手前の女房の付けている梁袴の色が、廂の間に居る女房の表着の色目になっているようです。 そして、東の対の東南隅には、几帳に薬玉を付けていると思われるシーンです。几帳の前後の女房たちは、女房装束の正装姿・唐衣裳のようです。かさねの色目としては、右の女房の方に夏らしい明るさを感じます。左の写真の女房は薬玉を持っていますので、これから几帳に取り付けようとしている感じ・・・・。現在の五月の節句(端午の節句)に「薬玉(くすだま)」の習慣は残っていません。平安時代には、薬玉を互いに贈り合い、ひじにかけたり、御帳台、几帳や母屋の柱に付けたりすることが行われていたようです。「薬玉」は「続命縷(しょくめいる)」とも称されています。「中国から邪気を払い寿命を延べる縁起物として伝わってきたもの」(資料4)だとか。「柱に付けた薬玉は九月九日の『重陽の節供』までそのままにされ、その日に茱萸袋(ぐみぶくろ)や菊瓶に取り替えられた」(資料4)といいます。「古くは五色の糸に菖蒲・蓬(よもぎ)などを貫いたものであったが、後には麝香(じゃこう)・沈香(じんこう)・丁子(ちょうじ)などの薬を玉にして錦の袋に入れて、それに邪気払いの菖蒲や蓬に加えて撫子(なでしこ)・紫陽花などの花や造花などを飾りつけて五色の糸を飾り長く垂れた美しいものとなった。」(資料2)「この五色の糸は青・赤・黄・白・黒の五色で、木・火・土・金・水の五行の色であり、この五行は天地物象の本源であるから、五色(ごしき)は宇宙を象徴し、世にこれほどの大きさと力をあらわすことは無いことより、五色は如何なるものにも打ち勝つ色と信じられ、使われた色である。」(資料2)現在では、進水式などの祝典や祭に大きな薬玉が装飾品として用いられ、儀式で割られることが名残をとどめていますが、これも淵源は邪気を払い寿命が長くなることに願う思いに繋がるのでしょうね。 几帳は遮りのない空間を自在に仕切る道具として自在に使われています。見ていて楽しいのは、同じ文様、図柄、色合いの几帳がないことです。これは、女房・女童の衣裳も同じです。逆に言えば、展示品を時代考証して展示するにあたっての衣裳の制作・準備などの労力と費用が相当かかるということを意味するのではないでしょうか。絵図や写真ではなく、ビジュアルにミニチュアとはいえ、立体像として実際の衣裳や家具・道具類を見られるメリットは計り知れないと思います。平安時代の宮廷にタイムスリップしてみるのに役立つ博物館です。東の対の東面には、「平安時代の遊び」がテーマに取り上げられていました。 孫廂の間の南側では、「偏つぎ」という遊びです。偏と旁(つくり)に分かれた札を使って、漢字の知識を競い合うというもの。例えば、1) 漢字の旁に偏を付けて文字を完成させる。完成できなければ負け。2) 旁の札を出して、相手に偏を付けた文字を考えさせる。それが続けられない者、またはできた漢字を読めない者は負け。など。『源氏物語』「葵」の巻には、遊びの場面が出て来ます。「所在ないままに、源氏の君はただ西の対で、姫君(付記:紫の君)と碁を打ったり、偏つき遊びなどなさって、日を暮らしていらっしゃいます。姫君の御気性がとても利発で愛嬌があり、たわいない遊戯をしていても、すぐれた才能をおのぞかせになるのです。まだ子供だと思って放任しておかれたこれまでの歳月こそ、そういう少女らしい可愛らしさばかりを感じていましたが、もう今はこらえにくくなられて、まだ無邪気で可哀そうだと心苦しくはお思いになりながらも、さて、おふたりの間にどのようなことがありましたのやら。」(資料5)という下りです。葵の巻の最後の方にでてきます。ここに、碁、偏つき遊びが記されています。その後に、昼頃に源氏が再び西の対にやってきて、こんな語りかけをするのです。「ご気分が悪そうだけれど、どうなさったのか、今日は碁も打たないでつまらないね」(資料5)と。 「双六」遊びの場面 上代に中国から伝来した遊戯です。私たちが子供のころに慣れ親しんだ双六とはまったく違います。「二人が相対し、それぞれ十二枠の陣を示した双六盤を用い、盤の上に白黒の石(駒)を並べて、相対する二人が交互に2個の賽(さい)を筒(どう)に入れて振り出し、目の数だけ石を進めて、先に全部の石を敵陣に送り終えた方を勝ちとする盤上遊戯」(資料2)です。この遊びの駒の数については諸説(各6,15,15)があるそうです。この双六については、『源氏物語』「常夏」の巻に、内大臣が近江の君の部屋を覗く場面で、ちょっとこっけいに描写された場面としてでてきます。「御簾を中から大きく外に張り出すように端地下に坐って、五節の君というしゃれた若女房と、双六を打っています。近江の君はしきりにもみ手して、『小賽、小賽』と、相手に小さい眼がでるようお祈りしている声が、非常な早口です。内大臣は、ああ、情けないとお思いになり、・・・・・五節の君も、また同じように勝ちたいとあせっていて、『お返し、お返し』と、言いながら、筒をひねって、すぐには賽を振り出しません。心の中にはいろいろな物思いもあるのかもしれないけれど、見た目には二人ともまったく軽薄な態度です。」(資料6) 「碁」遊びの場面 これも上代に中国から伝来した遊戯です。囲碁は現在も盛んに行われています。その愛好者は世界中におられるようです。平安時代には男女を問わず盛んに行われていたそうです。残念ながら私には未知の世界です。知っているのは、囲碁に由来するといわれる語彙くらいです。例えば、定石、布石、岡目八目、駄目押し、八百長、捨て石、大局観など。『源氏物語』では「空蝉」「竹河」「宿木」「手習」の各巻に碁遊びの場面が登場しています。「空蝉」では、紀伊の守が任国に出かけた後の留守宅に、小君の案内でそっと訪れます。そこで、昼からやってきたという紀伊の守の妹君と空蝉が碁を打っている場面を源氏が垣間見るのです。妹君の方は何から何まで眺められるのですが、空蝉の方は、それほどには見えないのです。ひっそりと静かに落ち着いた様子が窺える程度。そして、見初めることが始まりとなり、思わぬ顛末に・・・ということに。しかし、この碁打ちの場面がかなり人物描写も入れて具体的に記述されています。「竹河」では3月、玉鬘の姫君たちが碁を打つのに兄たちが立ち会う場面として描かれます。「宿木」では、帝が女二宮と碁を打っている時、日が暮れかかります。そこで殿上の間に誰が居るかと尋ね、中納言の薫の君を召し、碁の相手をさせるのです。このとき三番勝負で帝は二敗します。薫の君と女二宮のとの縁談をほのめかすという場面です。「手習」では、出家した浮舟は、尼君が初瀬への参詣の人々を伴って出かけますが、浮舟は少将の尼と共に留まります。そこに中将からの手紙が来ます。少将の尼は手紙を見るように勧めますが、浮舟はふさぎ込んだまま。そこで、少将の尼が碁でも打ちなさいと勧め、その相手をするという場面が描かれています。『源氏物語』に描かれている回数や場面からみても、碁が幅広く多くの人々に楽しまれていたことがわかります。 孫廂の間の北の端にも、調度品がいくつも置かれています。左の写真には、高灯台、棚とその上の絵巻物、同じく棚の上に布が敷かれ、経典らしきものが置かれています。ここも几帳が仕切りとなっています。右の写真は、二階棚の上面に、火取(ひとり)と泔坏(ゆするつき)、下段に唾壺、打乱筥(うちみだりはこ)が置かれています。火取は火取香炉のことで、薫物(たきもの)をくゆらすための道具。泔坏は髪を洗ったり梳いたりする時に必要な、米のとぎ汁を入れるための銀や漆塗りの器。泔坏は五脚の台に載せられています。唾壺はその字のとおり、唾を吐き入れる用具。中国では実用品だったのですが、日本では装飾的なものになったようです。打乱筥は理髪の具や生地などが納められています。(資料4)その向こうには、根古志形(ねこじがた)鏡台が置かれていて、鏡が結びつけてあります。鏡台の心棒の軸には鷺足(さぎあし)五脚が付いています。その隣には、鷺足付きの八陵形の台に鏡筥が載っています。その向こうには、鷺足付きの台の上に唐櫛笥(からくしげ)が載っています。櫛などの化粧道具を入れるための大小の箱です。小箱には白粉や香が入れられるのです。大きい方には、櫛・櫛払・耳掻・鋏・笄(こうがい)・毛抜・鏡・畳紙(たとうがみ)などを納めているのです。(資料2,3)こんな感じで、サブテーマの展示が毎回変更されているようです。つづく参照資料1) 『源氏物語 巻五』 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 p20-232) パフレット「源氏物語 六條院の生活 風俗博物館」 平成28年~展示 同館作成資料3) 『源氏物語図典』 秋山 虔・小町谷照彦 編 小学館4) 『源氏物語と京都 六條院へでかけよう』 監修・五島邦治 編集・風俗博物館 p945) 『源氏物語 巻二』 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 p214-2166) 『源氏物語 巻五』 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 p67補遺風俗博物館 ホームページ源氏物語の世界 ホームページ端午の節句と五月人形 :「日本人形協会」端午の節句 :「日本文化いろは事典」端午 :ウィキペディアすごろく :ウィキペディア囲碁の歴史 :「日本棋院」囲碁にまつわる歴史伝承、囲碁の起源と伝来(中国、朝鮮、日本)、囲碁の棋具(碁盤、碁石、碁笥、別称)、日本の囲碁ゆかりの地名、とは(2011.6.22) :「歴史散歩とサイエンス」 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2016.07.06
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冒頭の写真は、今年(2016)の2月に移転開館したことを知り、久しぶりに訪れた「風俗博物館」の入場券です。日本語では風俗博物館という名称ですが、英語の表記では、COSTUME MUSEUM とされています。コスチューム、つまり衣裳を展示している博物館。メインは「源氏物語-六條院の生活」場面に託して平安時代の生活風俗・衣裳を表現するという目的のユニークな博物館です。 この「井筒左女牛ビル」の5階に移転したのです。言葉からの連想で横道に逸れますが、「左女牛井(さめがい)」は平安時代から京の名水として知られた井戸で、この堀川通五条下るに「左女牛井之跡」の石標が立っています。その辺りは源氏の本拠地だったのです。「源頼義・義家・為義・義朝・義経などが居を構えた六条堀川館があり、左女牛井はその邸内にあった。」(資料1) 堀川通の東側、龍谷ミュージアムから少し北にあります。堀川通りの西側は西本願寺です。龍谷ミュージアムでの「水-神秘のかたち」展と併せて、2月に新しく開館された風俗博物館の探訪に行きました。4月末、つつじが綺麗に咲いていました。この西本願寺の前の歩道を北に進んでいくと、五条通に到る少し手前に、上記「左女牛井之跡」の碑があります。これは以前に紹介しています。もとの風俗博物館は上掲のビルの北になる新花屋町通を東に入ったところにあったのです。場所としては今回の移転先の方がわかりやすいと思います。(冒頭のチケットをあらためて見ると、旧住所の表記のものが現時点では利用されていました。)ここでご紹介する場面は、移転オープン展示のものです。次回8月1日からの新規展示替えのために現在は休館されています。8月以降に訪れていただくと、このご紹介場面からどのように変化したかがわかり、二重にお楽しみいただけることでしょう。『源氏物語』に出てくる「六條院」は勿論、紫式部が創作した豪華な光源氏の邸です。ビルの5階に上がると、物語の中に設定された六條院のイラスト図が掲示されています。そして、この六條院の「春の御殿」の内の寝殿と東の対(対の屋)の部分、このイラスト図では赤色部分を六條院の規模の4分の1の縮尺の建物としてこの5階のフロアーに再現されています。係員の方にお訪ねすると、旧井筒法衣店ビル5階に設置されていた時と同じ高さでこちらのフロアーでも再現されていますとのことでした。移転後のこのフロアーの照明の明るさや天井までのフロアーの高さの関係なのか、私には土台部分が高くなった印象を受けました。余談ですが、宇治市にある源氏物語ミュージアムには、六條院全景の建物を再現されたミニチュアモデルが設置されています。エレベータの扉が開くと、目の前にこの景色が広がっています。正面に見えるのが六條院春の御殿の寝殿です。移転後の開館で、この2月~5月での展示は、『源氏物語』の「御法(みのり)」の巻に描かれる「紫の上による法華経千部供養」の場面でした。チケットを購入した時、この12ページに及ぶ展示説明パンフレット(A4サイズ)をいただきました。展示内容のことがかなり詳細に説明されていて、大変役立つ資料です。このパンフレットを部分読みしながら、ゆっくり展示を鑑賞すると、『源氏物語』を読んでいなくても充分に源氏物語の中に入っていけます。平安時代の生活風俗や、源氏物語が身近なものに感じられることでしょう。このパンフレトを主に、他の資料も併用してご紹介します。この時、紫の上は大病後に体調も思わしくない状態なので、六條院から紫の上の私邸・二条院に移っていました。つまり、この寝殿・東の対は今回二條院とみなされています。光源氏51歳、紫の上43歳のときです。紫の上は源氏にかねてよりの悲願として出家を願うのですが、源氏はどうしてもそれを許しません。紫の上は自身の発願として長年にわたり書かせていた法華経千部の供養を3月に二條院で行うのです。それは、死期の近さを予感する紫の上が、明石の君や花散里らとそれとなく別れを告げる場でもありました。この供養は法華経八巻を4日間で講説するという「法華八講」の形で行われます。法華経八巻を八座に分けて、一日に朝座・夕座の二座が講じられ、4日で八座の法会となります。「法華八講の目的としては、亡き人を供養する追善供養や、自分の死後の冥福のため生前に仏事を行う逆修(ぎゃくしゅう)、そして法華八講に参会した人々が法華経に帰依し、仏法によって縁を結ぶことなどがあった。」(パンフレット)この場面は、3日目の場面です。「五巻の日」とも呼ばれ法華経第五巻「提婆達多品(だいばだったほん)」が講じられたのです。この3日目に法会が最も盛大な様相を呈したようです。その場面を仏画で良くつかわれる「異時同図」の手法で展示されているように解釈しました。異時同図手法の典型は法隆寺の玉虫厨子須弥座の側面に描かれた「捨身飼虎」図です。(資料2)それでは、この場面の細部をご紹介します。寝殿の母屋(もや)に「薪の行道(たきぎのぎょうどう)」の場面が展示されています。これは3日目の夜に入り行われる儀式です。法華経「提婆達多品」には、釈尊が前世で薪を拾い、水を汲んで仙人に仕えて妙法を得たという話が記されています。(パンフレット、資料3) このことの儀式化のようです。部屋中央に設置された壇に本尊・普賢菩薩像が安置されています。この本尊は、大倉集古館(大倉文化財団・国宝)蔵を参考に制作されたミニチュア像だそうです。「普賢菩薩とは、法華経を受持、読誦、書写した人を守護するため、東方の浄妙国土より六牙の白象に乗って現れた菩薩である。その姿は、白象の上の蓮華台に結跏趺坐し、合掌したものであるが、これは法華経の行者を見て歓喜し、行者を供養礼拝するための姿だと言われる」(パンフレット)紫の上は、寝殿の南と東の戸を開けて、寝殿の西にある塗籠に自分の席をもうけているのです。明石の君や花散里の君など女君たちの関は寝殿の北の廂の間に、襖だけを仕切りにして席を設けていると物語には描写されています。(資料4)薪の束を前後に、また水桶を前後に背負った六位の蔵人 そして殿上人が高位の方々の捧物(ほうもち)を持ち、さらに上達部(かんだちめ)が続きます。 七僧が加わります。 「法華経をわが得しことは薪こり菜摘み水くみ仕へてぞ得し」(行基作)と法華経讃嘆(さんだん)の声明を唱えながら本尊の回りを右周りに行道する、つまり歩き廻るという儀式です。夜中、尊い読経に合わせて鼓が打ち鳴らされたそうです。『栄花物語』「はつはな」「けぶりの後」の巻には、この行道の様子が詳しく記されているそうです。(パンフレット)ほのぼのと夜が明けていく朝ぼらけの中で、「陵王の舞」が始まるのです。 『源氏物語』では、仏前に奉納する楽人や舞人は夕霧の大将が取り仕切って世話をしたと描写されています。 陵王舞は陵王、曲は蘭陵王と言われます。唐楽左方走舞(とうがくさかたはしりまい)の名作中の名作として知られるものです。中国の北斉(549~577)の蘭陵の王のエピソードに由来する舞です。この装束は『春日権現験記絵(かすがごんげんげんきえ)』(1309鎌倉)、『舞楽図巻』(1408室町)を参考にして、時代考証をされたものだそうです。以前に同館を訪れたとき、係員の方にお聞きしたことですが、色、文様、姿など、現存資史料を基に時代考証をして、人形のサイズに合うように布生地など縮小サイズで織りあげたものを使って、装束を完成させているということです。まさに平安時代の装束が考証復元されたものをビジュアルに鑑賞できるという博物館なのです。 落蹲(らくそん)蘭陵王との番舞(つがいまい)となる舞です。高麗楽右方走舞の代表曲です。現在は二人舞で「納蘇利(なそり)」と称され、一人舞のときには「落蹲」と称されるようです。この舞の場面を、瀬戸内寂聴さんはこう訳されています。「さまざまな鳥の囀る声も、笛の音に劣らない感じがして、感興の深さも面白さもここに極まったかと思われるような時に、舞楽の陵王の舞が急調子になり、終わりに近い楽の音が、華やかに賑やかに聞こえてきますと、一座の見物の人々がいっせいに、舞人に禄として脱いで与えられる衣裳の、とりどりの色合いなども、折りが折りなので、華やかな上掲にふさわしく興趣深く見えます。」(資料4)興味深いのは、この陵王という曲には「急」がないとされているらしく、この急調子という箇所について、、古来議論があると言います。『源氏物語』には、「若菜下」の巻に、朱雀院五十賀の試楽場面で、「陵王」「落蹲」が童舞として描写され、「橋姫」の巻で薫が大君と中君を垣間見るところで、大君が「入る日を返す撥こそありけれ」と言う場面は、古来「陵王」を典拠とするものと考えられているそうです。(資料5)この写真は寝殿の庭の池ですが、興味深いのは竜頭の舟の上に舞の舞台が乗せられていることです。竜頭鷁首の舟、つまり竜頭を舳先の飾りにした舟と鷁首(げきしゅ)を舳先の飾りにした舟を池に浮かべるという場面はよく目にします。これもそのバリエーションなのでしょう。私の見聞では、嵐山の三船祭と二条城の南にある神泉苑で、竜頭鷁首の舟を見た記憶があります。少し調べた結果を補遺に加えておきたいと思います。上記法華八講の目的の3つめに、結縁という目的が述べられていました。「御法」の巻では、紫の上と明石の君、花散里との間での贈答歌が出て来ます。紫の上が贈った歌に、歌が返されるというものです。 明石の君との間での贈答歌 惜しからぬこの身ながらもかぎりとて 薪尽きなむことの悲しさ (もはや惜しくもない この身だけれど ついこれを最後と 薪が燃え尽きるように 死んで往くのが悲しくて) 薪こる思ひは今日をはじめにて この世に願ふ法ぞはるけき (千年も薪こり菜つみ水汲み 法華経奉仕をなさるのは 今日の御法会がそのはじめ はるかな御寿命の涯てまでも 法の道を成就なさる遠い道のり) 花散里の君との間での贈答歌 絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる 世々にと結ぶ中の契りを (やがて命を絶えるわたしの 営む最後の法会こそ その功徳によって結ばれる あなたとの永久の御縁の その頼もしさよ) 結びおく契りは絶えじおほかたの 残りすくなき御法なりとも (あなたと結ばれた御縁の 絶えることがあるものですか もはや余命少ないわたしは どんな法会でも有り難いのに こんな盛大な法会に結ばれて) (資料4)この歌のやりとりに、結縁の意図がうかがえます。そして、紫の上の逝去の場面がこの「御法」の巻末尾で描かれます。一つ一つの装束を眺めるだけでも、その色の鮮やかさ、様々な文様が楽しく、精巧にミニチュア化された道具類などを眺めるのもおもしろいです。それでは、この4分の1のスケールモデルである「春の御殿」寝殿と東の対をぐるりと廻っていきましょう。つづく参照資料パフレット 「源氏物語 六條院の生活 風俗博物館」 平成28年~展示 同館作成資料1) 源氏堀川館・左女牛井之跡 :「平清盛の京を歩く」2) 異時同図 仏教豆知識 :「三井寺」3) 『法華経 中』坂本幸男・岩本 裕訳注 岩波文庫 p204-2084) 『源氏物語 巻七』 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 p252-2835) 『源氏物語図典』 秋山 虔・小町谷照彦 編 小学館 p131補遺風俗博物館 ホームページ源氏物語 御法 原文 渋谷栄一校訂 :「源氏物語の世界」 同 現代語訳法華八講 :「コトバンク」大倉集古館 :ウィキペディア大倉集古館 コレクション・出版物 :「大倉集古館」蘭陵王 :「コトバンク」曲目解説 蘭陵王 :「おやさと雅楽会」蘭陵王置物 :「宮内庁」納曽利(なそり) :「おやさと雅楽会」京都嵐山 三船祭 :「車折神社」京都嵐山車折神社 三船祭2015 :YouTube神泉苑(真言宗寺院) :「ほっこり京都生活」京都のパワースポット。京都神泉苑の龍パワーがハンパないです。:「やなだ.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 風俗博物館(京都) -2 端午の節会・平安時代の遊び へ探訪&観照 風俗博物館(京都) -3「五巻の日」の紫の上、局の諸場面、女房の日常 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2016.07.05
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西山公園の表門から出て、一旦は坂道を下り、また坂道を上がるという感じをしばらく繰り返します。まずはその途中の景色から始めます。冒頭の写真は、道路と竹藪の間、道路沿いに見たものです。無造作に置かれているので、どこかの造園あるいは石材店の仮置き場でしょうか。そんな印象を受けました。 その先で、道路がカーブするところに、「光風美竹通り」という道標がでていました。 光風美竹通りを進んで行きます。道路沿いは竹林が続いていきます。ある地点の竹林で、その奥には「稲荷山古墳」があるということを聞きました。このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。河陽が丘2丁目のそばの坂道を下って行くと、 「走田神社」の石造鳥居があります。鳥居の傍の石標には「式内村社 走田神社」とあり、『延喜式』神名帳に載る乙訓郡十九社の一つ「走田神社」に相当するそうです。明治になって正式に式内社とされたと言います。江戸時代には「妙見社」「産沙神」と呼ばれていたようです。(資料1)鳥居の近くに、小祠があり地蔵菩薩の立像と坐像が併せて安置されています。これも神仏習合の一端でしょうか。走田神社の境内は坂道を登って行った小高いところに位置するようです。今回は立ち寄っていません。丘陵地の先端部にあたりそうなこの一帯に「走田古墳群」と称されている古墳時代後期の群集墳があるそうです。現在9基の円墳が確認されているのです。(資料1) 走田神社の南に、「寂照院」が位置します。 正面の仁王門の景色 地名は、奧海印寺明神前です。 仁王門の屋根 少し見づらいと思いますが、こんな説明板が仁王門傍にあります。「寂照院は海印寺の十院の一つであある。海印寺は9世紀初頭に僧道雄(どうゆう)が華厳宗を修行し、国家を鎮護する道場として建てたのが始まりとされる。」(説明板より)道雄は乙訓郡木上山を景勝の地とし、十院を建立し、木上山(このうえざん)海印寺(かいいんじ)と名づけたのです。寺の名前は、華厳経の海院三昧に由来するそうです。「海印三昧」とは、「仏が『華厳経』を説いたときに入ったとされる境地で、大洋に万象が写し出されるような心の静まり」(『日本語大辞典』講談社)を意味するとか。この海印寺の変遷を説明板と手許の資料で編年風に略記してみます。(説明板、資料1)嘉祥4年(851) 国の定額寺となり、年分度者二人を認められる 国家や皇室の援助で大伽藍を誇る寺となる貞観15年(873) 衆僧100余人におよぶ規模となる寛平2年(890) 安祥寺・崇福寺と同様に安居講が設けられ、国家の主要寺院となる。 雨安居、夏安居という言葉があります。安居は「僧侶がある期間、一定の場所に 居住し、外出しないで修行すること」(『日本語大辞典』講談社)です。 つまり、特別な修行道場として指定されたということなのでしょう。平安時代中期以降 衰微する仁安2年(1167) 藤原基房(もとふさ)の祈祷所として摂関家に寄進される鎌倉時代 さらに衰微する文永2年(1265) 後嵯峨上皇から復興を命ずる院宣が東大寺尊勝院に下される 尊勝院の僧宗性が東大寺の末寺として復興に努める ⇒ 中世後期に衰退を極める室町時代・応仁の乱で焼亡 寂照院が唯一の子院として残る江戸時代初期 寂照院は真言寺院となる『信長公記』巻一(永禄11年)の「信長御入洛十余日の内に五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備へらるるの事」を読みますと、「(九月)廿九日、青龍寺表へ御馬を寄せらる。寺戸寂照に御陣取り。これに依つて岩成主税頭降参仕る。晦日、山崎御着陣」と記しています。「寂照院」の名前が文書の記録に残る最初の例がこれのようです。織田信長が足利義昭を擁して、西岡を制圧する際に寂照院に宿泊したという記録です。(説明板、資料2)現在の地図(Mpion)を見ても、奧海印寺・下海印寺という地域名が残っています。こちらから御覧ください。海印寺の寺域の範囲や伽藍配置などは不明のようですが、この地名が残る辺り一帯に海印寺が存在したのでしょう。そして、子院の寂照院は奧海印寺と呼ばれる地域に位置していたのです。『都名所図会』(安永9年/1780)には、「木上山奥海印寺寂照院」という見出しで寂照院を説明しています。「粟生の南十町余にあり。宗旨は真言にして、仏殿の本尊は千手観音を安置す」(資料3)本書では、この千手観音像が弘法大師の作で、仁王門の金剛力士像が運慶の作と説明していますが、まあこれは伝聞的記述でしょう。 金剛力士像「胎内から康永3年(1344)銘の結縁交名が発見された。700名ほどで構成され、西岡地域全体の人々が参加している。尚、紙背は御成敗式目である。」(資料1)御成敗式目(貞永式目)は北条泰時の時代、1232年8月に制定されていますので、その内容を記した紙の裏を使っていることでも時代が押さえられます。運慶の生年は不明ですが1223年に没しています。慶派の仏師の作なのかもしれません。向かって右側の阿形は像高2.41m、左側の吽形は2.39mで欅の寄木造だそうです。(資料4)道雄僧都が海印寺を開基されたことに関連し、『都名所図会』は次のことを記しています。「また当寺の山上に人破岩(にんぱがん)と号する所あり。妙見菩薩・善財童子とあらはれ、法華経を僧都にさづけし霊崛(れいくつ)なり。また本尊観世音は椎の木の上に出現し給へり。この故に木上(このかみ)山といふ。」と。(資料3)江戸時代の寂照院は『都名所図会』にこのように描かれています。右ページが寂照院の境内と建物です。右ページ左の門に「仁王門」と記されています。左ページの鳥居、石段、そして山上の社が「妙見社」で、現在の「走田神社」です。 仁王門を入ると、左手にこの石標「日本孟宗竹発祥の地」が立っています。道雄が中国(唐)から孟宗竹を持ち帰りこの地に初めて植えたとされています。この辺り一帯に竹林が続くのは、なるほどなあ・・・という感じです。一説では最初に孟宗竹を持ち帰ってきたのが曹洞宗の開祖となる道元で、中国の杭州から持ち帰り、この地に植えたのだとも。寂照院に近い奧海印寺走田の「特別養護老人ホーム竹の里ホーム」前の公園の角に「孟宗竹発祥の地」と刻まれた石碑が別途建てられているようです。(資料6)興味深いところです。こんな石碑も参道の傍に立っています。上下に二首が刻まれています。 上段 寂照院観世音菩薩 わたらんと たあえずねがいは ふかきうみ しるしぞありき みふねおおわん 下段 寂照院弘法大師 にんげんの はっくをはやく はなれなば いたらんかたの くほんじゆうらく判読間違いがあるかも知れませんが・・・・。お気づきの箇所があればご教示ください。 寂照院の門前横から撮った本堂仁王門よりかなり高いところに本堂が建てられています。お話では、かなり草茫々と寂れていたお寺を、現在のご住職一代で現在の状態まで復興されてきたそうです。堂内には本尊の「千手観音坐像」とともに「四天王立像」が安置されています。また、一隅に「伝妙見菩薩像」も安置されています。この本堂の建物の背後に、本堂と一体の建物として保存空間を設けた一角があります。そこを探訪するのが、この歴史散策のもう一つの目的でもありました。 発掘された「走田9号墳(海印寺古墳)」が保存されています。横穴式石室の周囲を巡る形で拝見できる建物空間になっています。 内部壁面にこの説明パネルが掲示されています。平成7年にこの寂照院本堂の再建工事に伴う発掘調査が行われたときに発見されたのです。この9号墳は「直径12mの円墳。両袖式の横穴式石室でやや胴張りとなる。床面は礫が敷かれ、排水溝も確認された。竜山石製の組合式石棺と底石と短壁石が残る。石棺内部に赤色顔料が確認される。出土土器から7世紀初めの築造と推定される」(資料1)とのこと。また、説明板の記載によれば、円墳の高さは約5.3m、棺を葬る玄室(げんしつ)と通路である羨道(せんどう)から構成される石室の全長が5.3m以上だったということがわかります。長岡京期に既に盗掘されて副葬品をはじめ石棺の部材すら持ち去られていたようです。 境内には、地蔵尊を祀る覆屋があります。その近くに地蔵尊立像も見えます。この箱石仏像の形式で造られている地蔵尊が霊験あらたかとのことで、お参りする人々が多いそうです。その右脇に少しエキゾチックな観音像らしい石像も安置されています。この後はJR長岡京駅に戻ることになります。 寂照院から少し離れた道路沿いにこの石標が目にとまりました。走田神社の一の鳥居、提灯台がここにあったといいます。かつてはかなりの規模の神社だったことがわかります。江戸時代には妙見信仰で栄えていた神社だったのでしょう。長岡天満宮の北の鳥居の傍を通ります。その先には、「八条ヶ池」があります。長方形の池です。池の畔に、こんな観光案内図が整備されています。駅に向かう途中に、「開田城跡の土塁」という掲示のある場所を見ました。 そこは「開田城土塁公園」として整備され、休憩設備もあります。公園に、「土塁」が保存されていました。フェンスで囲われています。案内説明板がなければ、意識することなく素通りしてしまうところです。開田城(かいでんじょう)は、戦国時代(15世紀後半~16世紀)に活躍した国衆の一人中小路(なかこうじ)氏の居館(居城)だったところだとか。昭和から平成にかけ3回にわたっって発掘調査が行われています。一辺約70mの方形の居館で、周囲には幅約6.5m、高さ約2mの土塁が築かれ、幅約2m、深さ約1mの掘をめぐらすという構造の城(館)だったそうです。(説明板より)もう一つ、開田城は、国衆が地域の自治的運営を目指す国一揆を結んだ拠点となったことでも有名なのだそうです。貴重な歴史遺産がここに保存されていることになります。(説明板より)長岡京と西国街道を示す道標長岡天満宮の近くで見かけた道標です。「長岡京」の文字の下には「延暦三年至ル延暦十三年 桓武天皇王城ノ地ナリ」また、「西国街道」の文字の下には「左 調子八角 山崎 右 一文橋 京都」とあります。これで探訪の行程は終わりました。JR長岡京駅まではあとひとがんばり。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「京都の歴史散策31 ~粟生から奧海印寺を歩く~」 龍谷大学REC (2016.4.14 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成レジュメ)2) 『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p883) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p5144) 寂照院 :「長岡京市観光協会」5) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 第4冊 64コマ目 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)6) 孟宗竹発祥の地(長岡京市奥海印寺走田) :「ashisats3のブログ」補遺道雄 :「コトバンク」寂照院 :「長岡京市」四天王立像を祀る!京都にある「寂照院」の魅力 :「Find Travel」寂照院の四天王像 :「せきどよしおの仏像探訪記」千手観音坐像 四天王立像 京都・寂照院蔵 伊東史朗氏 :「京都国立博物館」日本孟宗竹発祥之地 :「はまだより」耕野孟宗竹伝来の歴史 耕野たけのこ生産組合走田古墳群 :「長岡京市埋蔵文化財センター」安祥寺 :ウィキペディア崇福寺跡 :「滋賀・びわ湖」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 粟生・光明寺から奧海印寺を歩く -1 粟生・光明寺、石棺 へ探訪 粟生・光明寺から奧海印寺を歩く -2 長法寺七ツ塚古墳・長法寺・西山公園 へ
2016.07.03
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光明寺の総門を出て、光明寺前の道路を左折し、南に進みます。この道は丹波街道に合流します。そこで丹波街道を横切り、その少し東に在る住宅地に向かいます。そこに「長法寺七ツ塚古墳」の古墳が東西方向に点在します。冒頭の写真は、「長法寺七ツ塚古墳」の6号墳の写真です。今回の探訪地はこちらの地図(Mapion)を御覧ください。側面から撮ったのがこの写真です。住宅地の中の道路とマンションのような建物との間に円墳がぽつんと保存されています。この両側は駐車場として使用されています。 少し歩いたところに「七ツ塚公園」があります。公園の続きの場所に、フェンスで囲われて保存されているのが「5号墳」です。 公園の端に、「長法寺七ツ塚三・四・五号墳」の説明板が設置されています。この3つの古墳は長法寺北畠に所在します。古墳時代後期にあたる古墳群です。「長法寺七ツ塚古墳群は、今から約1450年ほど昔に造られた群集墳で、そのうち3~5号墳を発掘調査しています。(略)5号墳が一辺約18mの方墳です。いずれの古墳も、自然地形を利用しつつ土を盛り上げて造り、3号墳と5号墳では周溝が確認されています。埋葬施設は、木棺を墳丘に直接埋めたもので、3号墳は4基、4号墳では3基を確認できたほか、5号墳でも1基存在することがわかっています。木棺は、板材を箱形に組み合わせて作り、内側は赤色に染めていたようです。遺体は、頭を北に向けて葬られたものが多く、なかには3人も合葬した非常に珍しい木棺もあります。 副葬品については、耳環や玉などの装身具をはじめ、鉄製の武器・農具・工具・馬具、石製の紡績具、それに須恵器など種類が多彩で、数量も非常に豊富でした。 3~5号墳は(略)それぞれ違いがありますが、いずれも有力者の家族墓とみることができ、当時の社会を知る上で重要な資料となっています。 平成3年3月1日 長岡市教育委員会」(説明板を転記、一部省略)3人を合葬していたのは、3号墳の1号棺だったそうです。頭位も揃えた合ったといいます。4号墳に馬具が副葬されていたそうです。出土した土器から6世紀中頃に造営された古墳だと推定されているのです。(資料1)探訪は4月中旬。上掲の花とともに、こんな花々が近くに咲いていました。公園の近くから、西方向の丘陵地を眺めたところです。南方向に山並みが続きます。この低山の連なりの中に、古墳群が南の方向に点在しています。南原古墳、稲荷山古墳、明神古墳、走田古墳群などがあるのです。再び、丹波街道を横断して、山側に向かいます。 長法寺に向かう途中で見た掲示板この先の森が、自然と触れ合える体験のできる公園になっているようです。 「長法寺案内図」この写真は、上ってきた坂道を振り返った景色です。 現在の長法寺に山門はなく、この「天台宗 長法寺」の標石が門の代わりになっている感じです。石段を少し上がると、正面に本殿が見えます。現在は右手に庫裡があるだけの小さなお寺です。石段上りきると、境内の左手に覆屋が設けられて数多くの石仏が集められて祀られています。 一番左に観音像と思える石像が蓮華座の上に安置されています。右の写真の蓮華座に立つ石像は地蔵菩薩でしょう。 本殿天台宗延暦寺の末寺となるお寺で、平安初期、延喜年間(901~923)に千観(せんかん)和上により開基されたと伝わるそうです。一説には910年の開基とも。本尊は十一面観音菩薩で秘仏とされています。洛西観音霊場第九番札所です。(駒札、資料1)千観は三井寺の開祖智證大師の弟子です。「千観上人が諸国を巡歴の途中、観世音菩薩が夢にあらわれ、『この地に留まってお寺を建てよ』とのお告げがあり、それに従ってお堂を建てたのが長法寺の起こりと伝えられています。」(資料2)本堂の右脇陣には、かつて当寺所蔵の「釈迦金棺出現図」掛幅の模写図が展示されています。原本は松永記念館寄贈により、京都国立博物館の所蔵(国宝)となっています。この図は、平安時代の仏画の二大傑作の一つと称されていたようです。原図はこちらから御覧ください。(名品紹介:京都国立博物館)「摩訶摩耶経の説く釈迦再生説法の場面を描いた図である。同経によると、釈迦が入滅したことをとう利天で聞いた仏母摩耶夫人は、急ぎ涅槃の場にかけつけ、釈迦の鉢と錫杖とを抱いて泣いた。そのとき、釈迦は大神通力をもって棺の蓋をあけ、身を起して母のためにこの世の無常の理を説き、説き終って再び棺の蓋を閉じた。この図は、身の毛孔から千百の光明を放ち、一一の光明中に千百の化仏を現じて説法する釈迦と、それに対する摩耶との対面を中心に、画面一ぱいに描き込まれた群衆が、この神変に目をみはらし息をのむ光景を描いた壮大な仏画である。美しい色彩や截金文様のほか、随所に墨線が躍動し、この劇的な場面の描写に功を奏している。」(京都国立博物館・解説文を引用)「忉利天(とうりてん)」とは、仏教で描かれる須弥山(しゅみせん、スメール山)の頂上にある天とされています。帝釈天がその中心に住むとされています。その天人の寿命は千年といわれるところ。六欲天の第二(下から二番目)の天でもあります。また「六欲天」とは、四王天・忉利天・夜魔(やま)天・兜率(とそつ)天・楽変化(らくへんげ)天・他化自在(たけじざい)天を意味します。欲界に属する六種の天上界の総称です。(資料3,4)脇道に逸れました。戻ります。千観が開基した後には、かなりの伽藍を築いた時代があったようです。過去の文献を渉猟引用して著述された『山城名勝志』(大島武好・1711年)には、乙訓郡について記された第6冊に「長法寺」の項が記載されています。この頃には既に長法寺はかなり荒廃していたと推測できます。本文の後半を読み下し文にしますとこう記されています。「今、村名と為る。則ち村の裏に草堂有り、正(=聖)観音を安ず。是れ長法寺の旧跡」と。(資料5)本殿や庫裡が平成2年(1990)に再建され、寺観が復興されたようです。長法寺を訪ねた直接の目的は、この2つの石塔の拝見でした。右の「三重石塔」は「千観供養塔」と伝わるものです。「軸部と屋根を別石にし、緩い軒反り、高い初層軸部など古様をみせる。鎌倉前期造立と推定される」(資料1)ものと言います。左の「宝篋印塔」は「笠の隅飾りが若干開き、基礎の格狭間が肩下がりになるなど、14世紀の特徴をもつ」(資料1)ものです。 三重石塔初層の軸部には各面に石仏が彫られています。 一方、宝篋印塔の塔身には金剛界四仏を種子で彫られています。金剛界四仏とは、中心の大日如来を囲む四仏を意味します。北が不空成就如来、南が宝生如来、東が阿閦(あしゅく)如来、西が阿弥陀如来です。(資料6)坂道を下ると、右手に「新池」が見えます。この池の畔に沿って進みますと、池の端に、小祠が覆屋の下に見えます。基壇の左端に立てられた竹筒の側面に「八大竜王」と記されています。この小祠に祀られているのが八大竜王なのでしょう。この小祠の背後の石垣の上が、「西山公園」です。こちらに上っていきます。眺望が開けます。デジカメのズームアップ機能で、京都タワーが撮れました。手前の電線がちょっと邪魔ですが・・・・。 ここには「西山公園体育館」があります。 この西山公園に、展望所があり。そこから東方向に長岡京市の景観が眺められます。「長岡京市内展望図」が設置されています。ほぼ180度の風景が眼下に広がり、天気のよい日でしたので風景をしばし満喫できました。これはパノラマ合成した写真ですが、この景色は一見の価値があると思います。今回は西山公園の裏手から入り、公園の表門から次の探訪地に山越えしていきます。山越えといっても、山裾の上り下りていどなのですが。走田神社を経由して寂照院を探訪します。この講座での最後の訪問地です。つづく参照資料1) 「京都の歴史散策31 ~粟生から奧海印寺を歩く~」 龍谷大学REC (2016.4.14 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成レジュメ)2) 長法寺 :「長岡京市」3) 『大辞林』 三省堂4) 『新・佛教辞典 増補』 中村 元監修 誠信書房5) 『山城名勝志』 386コマ/1376コマに記載あり :「国文学研究資料館」6) 『図説 歴史散歩事典』 井上光貞監修 山川出版社 p339補遺長法寺七ツ塚古墳群 :「長岡京市埋蔵文化財センター」長法寺遺跡 :「長岡京市埋蔵文化財センター」千観 :ウィキペディア勝龍寺 :「長岡京市」 千観上人の祈雨と勝龍寺の名称の由来が記されています。なにわ人物伝-光彩をはなつ- 千観 :「大阪日日新聞」箕面で随一の高僧:千観内供 :「北摂みのおの春夏秋冬」長岡京ガイド&MAP!! 長岡京市商工会 発行 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 粟生・光明寺から奧海印寺を歩く -1 粟生・光明寺、石棺 へ探訪 粟生・光明寺から奧海印寺を歩く -3 寂照院・走田古墳・開田城跡土塁ほか へ 2016.7.2 15:05 追記このご紹介記事を掲載後に、ふと一つの疑問点が浮上・・・。『拾遺都名所図会』には、「天台宗にして、本尊は観世音、坐像一尺余。開基は千観法師なり。」と記されています。この書には創建時期は記されていません。『山城名勝志』も同様でした。開基が千観であるとすると、その創建年代に疑問が生じました。駒札は寺伝によれば延喜年間(901~923)とし、一説は910年としています。ところが、改めて補遺のいくつかの情報を読み直すと、千観の生誕年は延喜18年(918)としています。この生誕年が正しいのなら、千観が延喜年間に開基するのは不可能です。開基の年代が平安初期でももう少し時代が後になるとみるべきなのでしょうか。それとも、園城寺で修行した僧で、千観と称する人、もしくは同じ発音をする名前の僧が年代を少しズレた形で二人存在したのでしょうか。解けないなぞが残りました。
2016.07.02
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冒頭の写真は、JR長岡京駅です。右の写真は駅前の広場に立つモニュメントです。この駅に集合して、4月中旬に「粟生から奧海印寺を歩く」というテーマの歴史散策講座を受講しました。今回は、その探訪の復習と整理を兼ねたご紹介です。今回は時間と行程の関係から一旦、粟生(あお)の光明寺前まで車で移動し、そこを起点とする「京都の歴史散策」となりました。粟生は長岡京市の北東端部になります。粟生の北が大原野になり、京都市西京区の南端部です。粟生から長法寺を経て奧海印寺に到り、そこから長岡京駅までという行程になります。「京都の西方郊外、西岡の南部地域。長岡京段階では西京極外となる。山地・丘陵・扇状地であり、古代には古墳の造営が多くなされた」(資料1)という地域です。地図(Mapion)は、こちらをご覧ください。別途詳細な地図をご覧いただくと、粟生の光明寺古墳、長法寺七ツ塚古墳、長法寺の南原古墳、稲荷山古墳群、走田古墳群などの名称が記されていると思います。 「総本山光明寺全景」(色丸印を追記)道路から総門までの参道の途中に、この案内図(赤丸の位置)が掲示されています。この案内図に丸印を追記した辺りを探訪しました。光明寺自体の探訪ではないために、今回は部分的なご紹介にとどまります。まずは、総門までの参道近辺を眺めますと、目に止まるのがこの掲示です。光明寺は、報国山と号する西山浄土宗の総本山です。ここに「西山浄土宗 われらの信条」が総本山光明寺として高らかに宣言されています。 「一.われらは苦悩を救いたもう阿弥陀仏に帰命し奉る 一.われらは仏の大悲を悦びつねに名号を称え奉る 一.われらは仏のみ心をうけて人の世の光とならん 」 その傍に、光明寺の案内板が立ち、各種の説明案内図なども設置されています。参道の右側(北側)には、総門側に右の写真の「閻地院」があります。その右隣に「安楽院」と二院が並んでいます。ここに立つ説明板は平成5年(1993)2月に長岡京師教育委員会が設置されたものです。「寺伝によれば、建久9年(1198)に蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実)により創立され、法然上人を開山第一世としています。境内は広く、洛西一の伽藍を誇り、主要な建物は山内に点在して廊でつながれています。応仁、元亀、天正の兵火にあい、江戸時代には享保19年(1734)の火災により焼失し、大半の建物はそれ以降の建立です。」(説明板より)寺伝では、法然の勧めにより蓮生がこの地に茅屋の庵を開き仏殿を造立した当初は、念仏三昧寺と名付け、阿弥陀如来坐像を安置したとされています。また、享保の火災の後、「江戸時代前期、32世倍山俊意の手によって聖廟などが整備された」(資料1)そうです。この説明板には、御影堂、鐘楼、御廟の写真が掲載され、江戸期の『都名所図会』に掲載の絵図も載せてあります。こちらが『都名所図会』に載る当時の光明寺全景です。(資料2)各種説明案内図の一つに、「蓮生法師(熊谷次郎直実)と法然上人」と題する逸話の説明板もあります。 総門の前に立つ「浄土門根元地」の石碑光明寺が建つのは粟生広谷の里です。法然上人が承安5年(1175)3月、43歳の時に、初めて「南無阿弥陀仏」の念仏の教えを説かれた場所とされている地です。法然が承安5年(1175)に東山吉水に移る前に、この地に庵を結んだといわれています。永禄6年(1563)、正朝町天皇から「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根元之地ト謂イツベシ」という綸旨を賜ったことが、この石碑のいわれだそうです。(資料1,3) 総門 (マゼンダ色の丸印のところ) 高麗門という形式で、天保16年(1845)の建造物です。 木鼻なども簡素な造形です。総門は過剰な装飾彫刻などはみられずシンプルで、厳めしい雰囲気はありません。 総門をくぐり、境内から眺めた総門の景色 総門を入ったすぐ左手にある「閻魔堂」ここにはもともと「閻地院」の本尊として祀られていた閻魔様が安置されえいるお堂だとか。(資料3) 紫色の丸印を付けた石段の「表参道」が始まります。表参道にある石造小橋の手前傍には、大きな壺型石造物が奉納されているのがまず目にとまりました。上掲の閻魔堂側に、緩やかな坂道・通称「女人坂」があり、こちらは秋になると鮮やかな紅葉で彩られ「紅葉参道」とも通称されるとか。(資料3) 石段を登りきった所の参道石畳の両側には礎石が規則的に並んでいます。 左手を見ると、「塩田紅果」の句碑が建立されています。 うつし世の 楽土静けし 花に鳥脇道に逸れます。事後に調べて見ますと、松尾芭蕉の生誕地である伊賀上野で1894年に生まれ、沼波瓊音に師事した俳人(本名:塩田親雄)です。弁護士をされていた方でもあります。昭和2年(1927)京都で『蟻の塔』を創刊し、金沢蟻塔会を主宰されたそうです。(資料4,補遺)インターネットで入手した各地の句碑から、その句の一端をご紹介します。(補遺) 花やかに咲いてさびしき冬桜 伊賀市上野の愛染院にある芭蕉翁故郷塚の近くに 白梅の一ひらにある陽のめぐみ 石川県金沢市山の上町 塩田紅果・塩田藪柑子親子塚 落ちて行く主従を偲ぶ松しぐれ 石川県小松市の安宅住吉神社境内の文学碑の一つ石畳の先、正面には「御影堂」が見えます。紫色丸印を付けた辺りに佇んで正面、左右を眺めて見ました。 左手には「鐘楼」があり、その右に「法然上人立像」が建立されています。1949年に鋳造された梵鐘で、「遣迎鐘(けんこうかね)」と称されています。「発遣の『遣』と来迎の『迎』。つまり、極楽をお勧めくださるお釈迦様と、お浄土から迎えに来られる阿弥陀さまが、鐘と撞木のように出会うことを象徴している」(資料3)のだとされています。冬は6時、夏は5時の時報に合わせて、夜明けを知らせる鐘を撞くことが光明寺の小坊主さんの朝一番の仕事だとか。右手に経巻を持たれる姿は、善導大師の『観経疏』中から専修念仏の教えを究極のものと選択されて、この地で専修念仏の最初の教えを説かれた立教開宗の姿を現しているといいます。法然上人生誕850年を記念して、昭和57年(1982)に建立されたのです。全体の高さは阿弥陀仏四十八願にちなみ4.8m。台座2.4m、像高2.4mで、これも西方浄土の「西」にちなんでいるという説も・・・・。(資料3) 石畳の右手の方には、「観音堂」があります。光明寺は洛西観音三十三霊場の第七番札所です。ここは十一面千手観音像が本尊です。重要文化財の指定を受けて、京都国立博物館に寄託されているそうです。伝惠心僧都作。現在は八番霊場粟生観音寺の「十一面千手観音」がこのお堂にお祀りされているそうです。尚、粟生観音寺は、光明寺のすぐ近くにある「子守勝手神社」の境内にあるお寺で、明治の神仏分離後、無住寺となっているとか。(資料3)右の写真は観音堂の近くに立つ五重石塔です。 観音堂の西側には白い壁・白い扉という白一色に宝形造りの瓦屋根の建物「経蔵」があります。その前に、「法然上人袈裟掛の松」という石標が立つ松があります。「法然上人が初めてお念仏の教えを高橋茂右エ門夫妻にお説にならあれた後、しばらく西山広谷の地に留まろうと思い立ち、袈裟をおぬぎになって抱えられた松の木と伝えられていますもともとは本山の裏山の奥深く、小さな谷の斜面に生えていたものですが、昭和57年(1892)に株分けされて経蔵の前に移されました。いまでも、元の地に松と小さな碑が残っています」(資料3)とのことです。経蔵の手前には、棹の部分に雲竜がレリーフされた石灯籠があります。これも目に止まったものの一つです。 鐘楼と御影堂との間に、手水舎が設けられています。この写真の石畳がV字形になっているのは、手前が御影堂の参道で、右側の石畳の先が石段になり、御影堂南の寺域にある釈迦堂、大書院、小書院などに繋がっているからです。丁度境内の分岐点にあることになります。(資料1,3) 御影堂(みえどう) 黄緑色の丸印を付けた建物です。現在の建物は、宝暦3年(1753)に再建されたもので、お堂には法然自作と伝わる「張子の御影」が安置されています。光明寺では御影堂が本堂に相当する建物です。十八間四面(約33m四方)で、総欅(けやき)の入母屋造です。「張子の御影」というのは、弟子湛空の願いを聞き届け、法然上人が母親から受け取った手紙を水にひたして紙粘土のようにし、水面に映った自らの姿を見て、肖像を作られたといわれているものです。湛空はこの像を京都に持ち帰り、漆を塗って仕上げたそうです。それが長らく湛空が住職をしていた二尊院に祀られていたのですが、いつしかこの光明寺に移されたそうです。「建永の法難」がこの像が作られた背景となっています。(資料3)詳しくは光明寺のこちらのページを御覧ください(「張子の御影」)。御影の写真も掲載されています。 阿弥陀堂御影堂の右隣、北側にあります。黄色の丸印の上にある建物です。こちらは寛政11年(1799)の再建で、蓮生由来の丈六阿弥陀如来像が安置されているそうです。(資料1)この探訪ではいずれの建物内部も拝観していません。実はこの歴史探訪での光明寺訪問の主目的がこちらにあったのです。 「円光大師御石棺」 円光大師とは法然上人のことです。 石の垣根で囲われた中に、石棺が置かれています。黄色丸印を付けたあたりです。石柱の間から小さな阿弥陀仏像が安置されているのが見えます。 石棺の蓋には綱掛突起があります。この伝法然石棺は「古墳時代後期の組合式石棺。聖廟の碑塔や台石も古墳出土の石棺材」(資料1)だそうです。冒頭に述べていますが、粟生から奧法印寺にかけてのこの地域は古墳群が集中していますので、いずれかの古墳から現れていた石棺が、ひょっとすると荼毘にふされるまえの法然の遺体を安置するために使われていたのかもしれません。私の個人的な印象です。伝承ではこの石棺そのものが、東山・大谷の最初の埋葬地から掘り出され、最終的にこの地まで運ばれてきたことになっています。『都名所図会』はその経緯をこんな風に記しています。法然が80歳で入滅した後も専修念仏は広がります。それに対し叡山の衆徒が大谷の地に埋葬された上人の墓を暴いて辱めようとしている企みが発覚したのです。このことに対応する経緯が説明されているのです。「徒弟これを聞いて大いに歎き、御塚を他所へうつすべしと。夜に入りて人しらず石棺を掘り出し、その外上人所持の影像をそへて太秦来迎坊のかたに送る。その翌年安貞二年正月にいたりて、上人の石棺より光明かがやきしかば、来迎坊あやしみ、光のすゑを尋ぬるに、太秦より遙の南のかた、粟生野のほとりに至る。則ちこの所に住する幸阿弥仏のもとに来たり手その趣を語るに、幸阿弥も不思議の霊告ありて、互いに符号す。それより上人の徒弟、太秦より石棺を粟生野にうつしてこれを開きみれば、上人の面貌の存日の如し。則ち当寺の山腹において荼毘す。時に忽然として紫雲空にたなびき、異香四方に薫ず。則ち舎利を拾うて廟堂を造立し、浄土一宗の宗廟となす。」(資料5)手許の資料では、「安貞元年(1227)に東山大谷の法然墳墓が比叡山宗徒によって破却されたため、法然の遺骸は嵯峨などに転じた後、法然17回忌に粟生野幸阿のもとに行き、念仏三昧寺の仏殿前で荼毘に付した」(資料1)という経緯をたどったそうです。法然17回忌は安貞2年(1228)ということになります。幸阿というのは、幸阿弥陀仏のことで、念仏三昧寺の3世です。境内で、案内図に色丸印をつけたあたりの範囲に限定されるのですが、そこで目に止まったものをご紹介しておきます。一つは、こんな可愛らしお地蔵様に出会いました。阿弥陀堂の近くです。 同様に阿弥陀堂に近いところにあるこの樹木です。長岡京市の「保存樹木指定」に登録されているという説明板が立っています。平成11年2月10日に第6番で指定された「モミ」の木です。 そして、表参道を下っていく途中で目に止まった、これらの墓塔です。時間がなくてすぐそばまで行き確認することはできませんでしたが、「無縫塔」の形をしている石塔などから考えると、歴代の住職等の墓石かなと想像します。右の写真の右側、細長い円柱状の石塔には、「故大教正廣谷哲空隆賢之塔」と刻されているのが読めます。調べて見ると、誓願寺の80世で、光明寺61世、浄土宗(合同)管長となった人の墓塔だということがわかります。誓願寺は浄土宗西山深草派の総本山です。(資料6)再訪する機会があれば、確かめてみたいところです。最後に、表参道の石段を仰ぎ見て、光明寺を後にしました。長法寺の方に向かいます。つづく参照資料1) 「京都の歴史散策31 ~粟生から奧海印寺を歩く~」 龍谷大学REC (2016.4.14 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成レジュメ)2) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 第4冊の61コマ目です。 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)3) 山内案内図 :「光明寺」4) 塩田紅果 :「mamearuki.info」5) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p509,5146) 誓願寺 :「神殿大観」補遺西山浄土宗総本山 光明寺 ホームページ熊谷直実(1141-1207) 武士としての苦悩 :「浄土宗」熊谷直実 :ウィキペディア正信房(聖信房)湛空 その他の弟子たち :「浄土宗」伊賀市上野農人町愛染院の塩田紅果句碑 :「俳句のくに・三重」塩田紅果・塩田藪柑子親子塚 :「碑像マップ」文学 安宅住吉神社 :「安宅住吉神社」『奥の細道』~小坂神社~ :「旅のあれこれ」あいつぐ法難(67~75歳) :「浄土宗」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 粟生・光明寺から奧海印寺を歩く -2 長法寺七ツ塚古墳・長法寺・西山公園 へ探訪 粟生・光明寺から奧海印寺を歩く -3 寂照院・走田古墳・開田城跡土塁ほか へ
2016.06.30
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多聞櫓と本丸の石垣上から、幾度も大阪府警本部の建物を眺めました。この建物が立つ場所・大手町3丁目は、豊臣期大阪城跡の場所の一部でもあるのです。冒頭の航空写真で赤丸の位置に、この説明パネルが設置されています。地下鉄の駅を降りて、前回ご紹介した大坂城の櫓と焔硝蔵の内部公開の探訪に行く途中でこのパネルに気づきました。「掘り出された大坂冬の陣」というタイトルでの説明パネルです。現在の建物ところに、L字形で豊臣期大坂城の堀が調査により見つかったそうです。幅は約23m、深さは約6mだったといいます。左の掲載写真は、発掘調査の折り、掘から出土した陶磁器と説明が付記されています。「2003年、大坂府警本部棟の建て替えに伴う発掘調査で豊臣秀吉・秀頼時代の大坂城の巨大な掘が見つかりました。この掘は大手口を逆コの字形に囲むもので、掘の底は格子状に凸凹した『掘障子』と呼ばれる構造にしていました。これは敵の侵入を防ぐためのものであると考えられています。また、この掘は土層の観察によると、人為的に一気に埋め戻されたことも分かりました。掘を埋めた土の中からは、文献資料に名が残る『菅平右衛門(かんへいえもん)』に宛てた木簡が出土しました。菅平右衛門は藤堂高虎軍の一員として大坂冬の陣に加わり、掘の埋め戻し作業中の慶長19年(1614)12月26日に当地で切腹したという記録が残っています。これにより、掘の埋め戻しが、多くの文献に見られる大坂冬の陣直後に徳川家康軍によって行われた突貫工事であることを裏付け、豊臣時代の大坂城を知る上で画期的な調査成果となりました。」(説明板を転記)東京国立博物館蔵として、「大坂冬の陣屏風」が残されているそうです。パネルに紹介されている屏風絵は、東京国立博物館が公開している画像をこちらから御覧ください。この説明パネルを見るだけなのですが、現在の大阪城との位置関係が理解できますので、参考になります。現地でご確認ください。この辺りの現在の地図(Mapion)は、こちらをご覧ください。この大坂府警本部の建物の南側が本町通です。府警本部の東側にホテル・ザ・ルーテルがあります。本町通を府警本部前から西に少し歩きます。ホテルの少し手前、本町通に面して小高くなり大木が茂っている場所があります。 ここは「史跡 舍密(せいみ)局跡」です。これは北側の歩道から撮った写真です。樟樹の直下に小さな祠が設けられていて、大小2つの石碑が見えます。大きい方は本町通に面する側に「舍密局址」と刻されていて、歩道側の面に碑文が刻されています。舍密は、オランダ語の理・化学を意味します。幕末に江戸洋書調所を開講するプランがあったのです。ところが明治維新を迎えた結果、それが大阪に移され、大阪で初めての公立学問所が誕生することになったのです。(資料1)オランダ語の Chemie は化学を意味し、この音に「舍密」という漢字を当てたのです。仏教の経典に出てくる音写と同じ発想です。「明治2年5月1日政府はこの地に物理化学を専攻する舍密局という学校を創設した。この場所はその遺跡の一部である。この学校はその後度々名称を変えて明治19年第三高等中学校となり、明治22年8月、京都市吉田に移り、明治27年9月から第三高等学校となった。現在の京都大学の教養学部である。この樟樹は舍密局の生徒が憩う緑陰として当時からあったという。 昭和54年12月 大阪府教育委員会 三高同窓会建立」(小さい方の石碑文を転記)オランダ人化学者ハラタマが教頭として招聘されて開講されたのです。クーンラート・ウォルテル・ハラタマ博士(1831-1888)の胸像が建立されています。この胸像は、日蘭交流400年を記念して建立されたものです。(碑文より)この2カ所は、大阪城に入る前に見た部分です。大阪城の大手門を出た後は、本町通の南側、大手町4丁目に所在する「大阪歴史博物館」に立ち寄ってみました。ここからは、大阪歴博で出会った「難波宮」遺跡のご紹介です。 まず第一に、大阪歴博の1階フロアーで「難波宮」の遺跡の一部が見られるのです。これが、1階フロアーの一部が透明板で覆われていて、足下に発掘遺跡が見える場所です。発掘された状態が見える形で保存されています。難波宮は前期・後期と別れます。「大阪歴史博物館」の南東方向にある法円坂交差点をはさみ、反対側に難波宮跡があり、そこが前期・後期の重層的な遺跡となっています。現在は「難波宮跡公園」として整備されています。地図(Mapion)はこちらを御覧ください。 大阪歴博のある場所では、前期難波宮時代の「内裏西方官衙(かんが)」の遺跡が発掘されているのです。その内の管理棟と推定できる遺跡の建物柱跡が発掘され、見える状態で保管されています。1階の壁面に掲示されたこの説明パネルが難波宮と内裏西方官衙の位置関係を示しています。右の写真は、左のパネルから部分拡大したものです。青色丸印を付けたあたりにこのパネルが掲示されていて、管理棟の円柱跡の一部を見られるのです。前期難波宮の時代とは、『日本書紀』の記述にある7世紀中ごろ、孝徳天皇の難波遷都、「難波長柄豊碕宮」と考えられているそうです。(資料2)管理棟が発掘されたときの写真。上の写真のうちの上部半分くらいが展示範囲になっています。 「管理棟よこの広場で行われた儀式」の想定図 「並び倉」の復元図 「発掘中の並び倉」 難波宮・前期難波宮内裏西方官衙・法円坂遺跡の説明パネル 発掘調査現場、航空写真、古地図が説明資料として掲示されています。これらの説明パネルを見ていたとき、遺跡案内のお誘いがあり、学芸員さんが説明案内してくださるということだったので、参加者としてその場で申し込みました。お陰で、大阪歴博の展示場所での案内説明の後、西隣にあるNHKの建物の地階に保存されている同官衙遺跡へのガイドツアーが行われ、遺跡跡を見ることができました。 これがその写真です。上掲の部分図に黄緑色丸印を付けたあたりの発掘跡を眺めることができるのです。「前期難波宮 西方官衙」のうちの「倉庫群」の遺跡になるそうです。 これは大阪歴博の建物外のタイル敷です。 ガイド説明を受ける前は、単におもしろいデザインくらいに眺めて歩いていただけでした。しかし、なんと! これが発掘調査結果でわかった官衙の建物の柱の大きさと位置を円形のタイルで示しているということでした。そう言われてから、敷地を眺めると、なるほど!です。大阪歴博をいままでに訪れた人のどれだけの人がこのことに気づいているのでしょう?私はかなり以前に数度展示を見に訪れているのですが、知らなかったのです。そして、大阪歴博の建物の南側には、この復元建造物があります。最後にこの建物内部を案内していただきました。 これは、「法円坂遺跡 倉庫構造模型」なのです。「上町台地の北端にあたるこの地に、5世紀後半(古墳時代中期)、16棟以上の大型建物群が建てられた。建物は高床式倉庫と考えられている。1棟の大きさは約90平方mもあり、当時としては最大級の規模であった。 床を支える束柱と別に、巨大な屋根を支える柱が建物内部に立てられているところに構造上の特徴がある。すぐれた技術と設計手法によってつくられており、中国や朝鮮の影響が考えられる。 この模型はその構造を縮尺1/20で表したものである。」(説明板を転記)右の写真は、説明板の右半分ですが、そこに載っている写真は、「南列、西から二番目の建物群、柱穴がもっとも良く残っていた」という現地発掘写真です。復元倉庫の中に入って眺めてみました。 見た感じでは、かなり丈夫そうな造りです。推定で造られている部分もあるでしょうが、復元図を見ているより、格段に当時の状況が想像しやすくなります。この建物が縮尺1/20なのですから、驚きです。建造物の周囲はフェンスで囲まれています。その一面に、この「法円坂建物群」という説明板が掲示されています。5世紀後半の大型高床建物群だったのです。「建物群は東西方向に棟を揃え、厳密な計画のもとに建てられていました。百舌鳥(もず)や古市(ふるいち)に巨大な古墳を築いた大王が、強大な権力を内外に誇示するためにつくったものと思われます。」(説明板より抜粋転記)こんな倉庫が法円坂の辺りにズラリと並んでいたのですね。屋根の形は入母屋造りだそうです。当時の人々にとっては、壮観な風景だったことでしょう。今の私たちの感覚で言えば、高層ビル群を眺めるような気持ちだったかもしれません。説明板には次の説明もあります。「6~7世紀には、この付近一帯はたくさんの建物が建てられるようになります。難波津と呼ばれる港を中心として、このあたりは物資の一大集散地として発達しました。また中国や朝鮮からの外交使節を迎えたり、遣隋使や遣唐使が発着するなど、海外に開かれた玄関として古代史上に重要な位置を占めました。」(説明板より転記)たまたま、ガイドツアーの組まれた時間にタイミングが合った偶然で、予期せぬ機会に恵まれました。ぜひ現地で見聞して、明治時代の舍密局 ⇒ 大坂城(桃山~江戸時代) ⇒ 古墳~飛鳥時代へと、歴史を遡り、大阪という土地について想像の翼を羽ばたかせてください。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 47.舍密局跡 大阪府史跡 :「大阪市」2) 前期難波宮の時代 :「難波宮インフォメーション」補遺舍密局 :ウィキペディア大坂夏の陣図屏風 :ウィキペディア大坂夏の陣図屏風の世界【黒田屏風】 大坂の役 大阪の陣 :YouTube大阪文化財研究所 ホームページ 難波宮インフォーメーション難波宮 :ウィキペディア難波宮跡公園(なにわのみやあと公園) :「OSAKAINFO」府内の史跡公園等の紹介【難波宮跡(難波宮跡公園)】 :「大阪府」前期難波宮 by pancho_de_ohsei ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2016.06.28
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櫓と焔硝蔵の内部公開を探訪した後、本丸内で周囲の石垣の要所を一巡し探訪することにしました。2月に大阪城を訪れた時に見残していると思う箇所の探訪補足です。西の丸庭園入口から出た後、「桜門」に向かいます。その手前、南に緑青色の屋根の修道館が位置し、その東側に冒頭写真の石標と説明板があります。この案内図に赤色の丸印を付けた辺りです。ここが「石山本願寺推定地」とされている場所です。説明板の下部には「石山本願寺期の出土瓦」と「顕如(1543~1592)」上人の肖像画の写真が載っています。「明応5年(1496)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現れる初例である。 『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。 その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。 石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。この造営が現在の大阪の町並の原形になったと考えられる。 その後十一世顕如の時代に、信長の石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。 一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。 このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。 大阪市教育委員会 」(説明板を転記)桜門を入った正面にまず目に入るのが大坂城の巨石No1といわれるこの「蛸石」です。案内図に付記した青色丸印のあたりです。桜門を通り枡形に足を踏み入れた人は、まずこの巨石の存在感に圧倒されます。「スポット探訪 大阪城内細見」でご紹介した写真とは違う角度から撮ってみました。およそ畳に換算して36畳敷の大きさがあり、厚さの平均は90cmほど。重さは推定約130tとか。左端に見える茶色っぽいシミが蛸の頭の形に似ていることにこの名の由来があるそうです。酸化第二鉄によるシミだとか。(資料1)枡形を抜けて、本丸内に入ります。東側に「旧・大阪市立博物館」の茶色い建物が見えます。同様に茶色丸印を付けた建物です。昭和3年(1928)に大阪城天守閣復興計画がスタートした折に、この建物が抱き合わせで建設され、国に寄付されて陸軍第四師団司令本部として使われたのです。第二次大戦後、は米軍が接収し、そしてその解除後に大阪市警察本部が置かれ、昭和35年(1960)に大阪市立博物館になるという変遷を経ています。平成14年(2002)に大阪歴史博物館が馬場町に新築され、オープンしました。現在この建物の運用方法は未定だそうです。(資料2) その北隣にあるのが「金蔵」(重要文化財)です。マゼンダ色丸印を付けたところ。「江戸時代、幕府の金貨、銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫としての役割を果たした。『かねぐら』『かなぐら』とも読む。宝暦元年(1751)、この場所から南に延びていた長屋状の建物を切断・改造して築造され、以来、北西側に以前からあった金蔵を『元御金蔵(もとごきんぞう)』、この金蔵を『新御金蔵(しんごきんぞう)』と呼んだ。高さは約5.8m、面積は93.11平方mで内部は大小2室からなり、手前の大きな部屋には通常の出納用、奧の小さな部屋には非常用の金銀を置いた。構造は防災と防犯に特に工夫がこらされ、床下は全て石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造、小窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子がはめられている。なお元御金蔵は、明治25年(1892)の配水池建設にともなって今の金蔵の東隣に移築され、さらに昭和4年(1929)、陸軍によって高槻工兵隊の敷地内に解体移築され、のちに焼失した。」(説明板を転記)金蔵の東隣には、現在発掘された石垣の石などの保管場所になっているようです。このあたりに「大坂城豊臣石垣 公開施設」を作る「石垣公開プロジェクト」が現在進行しています。こちらを御覧ください。金蔵と旧・大阪市立博物館の建物の間を抜けて、本丸東側の石垣傍にまず行きました。案内図に緑色丸印を付けたあたりです。 ここからは本丸を囲む内堀の東側が眺められます。内堀の対岸は、緩やかな長い石段の坂道「雁木坂」です。左の写真の東に延びる通路と樹木が広がるエリアが大阪城の梅林です。また、この梅林の地は「市正曲輪(いちのかみくるわ)」と呼ばれていた場所でもあります。右の写真で、雁木坂を上りきり、内堀の南側の石垣の地点から左折して東に進めば「玉造口」に向かいます。また、内堀の角の東にある緑樹の見えるあたりに、「南無阿弥陀仏」名号碑と「蓮如上人碑」そして「蓮如上人袈裟懸の松」跡があります。拙ブログ記事「大阪城内細見」を御覧いただくとうれしいです。 左の写真は、大阪城の北東にある「青屋門」の方向の眺めです。球形の屋根は大阪城ホールの屋根です。右の写真は、少し北に歩んでから梅林内にあるセンターの眺めです。内堀には観光船が運航されています。石垣に沿った通路を北に進むと、石垣が屈折したところに至ります。 この位置(黄色丸印を付けた場所)からは直線上に「青屋門」が見えます。この辺りの通路を挟み西側は小高くなっていて、フェンスで囲われています、巨大な貯水池が設置されているようで、その西に天守閣が位置します。つまり天守閣と貯水池の一帯が別区画になっている感じです。この区画を回り込む形で通路と本丸の石垣があります。石垣沿いの通路をさらに北に進むと、天守閣裏東の角に神社があります。今回初めてこのことを知りました。黄緑色の円印を付したあたりだったと思います。巡回する通路は一本道ですからどちらから巡っても行きつきます。 「石山若宮三吉大明神」が祀られているようです。注連縄で文字が隠れていますが、石標が建てられています。石造鳥居の北側には3基の石碑が並んでいます。 この境内地には、鳥居の斜め左前に覆屋を設け地蔵尊立像他数体が安置されています。その横には小五輪塔などが集められています。無縁仏を祀られているようです。詳細は不明ですが、大阪城天守閣の復興工事の行われた時期に祀られ、整備されたようです。調べていて部分写真を詳しく掲載されているブログ記事を参考に拝見できました。(資料3) 北側の石垣からの眺め目の高さの遠方には、大阪ビジネスパークの高層ビル群が見えます。石垣の直下は、「山里曲輪」であり、今は「刻印石広場」となっています。「山里曲輪」から内堀にかかる極楽橋を渡ると、青屋門まではわずかの距離です。北側の石垣沿いに西に進み、天守閣の北面を見ながら、左折し、西面を眺める位置まで移動します。やはり、天守閣を眺めたくなりますね。 天守閣の西面です。一重の壁面から張り出した底面が長方形の形の箇所は「石落とし」の装置でしょう。そして、鉄砲や弓矢のための「狭間」がずらりと並んでいます。石垣は急激に切り立っていてよじ登りにくくなっています。 北西側の石垣上からの内堀と外周の眺め 紫色丸印を付けたあたりです。南方向に目を転じると、内堀が空堀に繋がって行きます。空堀は内堀の水面よりかなりの高さまで側面の石垣が積まれています。 石垣沿いに南方向に移動して、内堀の北を眺めると、観光船がこちらに近づいてくるところでした。空堀沿いに進み西の丸庭園を眺めます。西の丸の広さがおわかりいただけるでしょう。南西方向に大阪府警本部の建物が見えます。案内図と対比しながら位置関係をイメージしてみてください。そして、石垣沿いに進むと、南側の石垣に至ります(空色丸印あたり)。北を眺めると、このエリアの一角には池が設けられていて、その池越に天守閣が見えます。南側の空堀越に、修道館の建物が見えます。 これで、本丸内を石垣沿いに一巡してきたことになります。 もう一度、天守閣を眺めて、 本丸を後にします。 桜門を通り抜け、再び起点の多聞櫓の大門に戻ります。大門を通り過ぎる時、見上げると「槍落とし」(黒色の長方形部分)が見えます。 そして、枡形の南側に残る「市多聞跡」の礎石です。大手門の南側に連なる漆喰塀には当然ながら「狭間」「銃眼」が設けられています。 石垣上面への石段を上がり、笠石に穿たれた銃眼を覗いて観ると、低めの角度から大手門への坂道に迫る敵軍兵を狙い撃ちできる形です。漆喰塀に穿たれた鉄砲狭間は角度を変えて眺めると、 同様に大手門への外堀を横切る坂道から、大阪府警本部のビルの半ば以上までの角度を狙うことができます。遮蔽物がないとなかなか敵軍は近づきがたい状況になりますね。上下二段を組み合わせると、結構な戦闘力となったことでしょう。大手門から始め、大手門で探訪を終えました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 巨石No.1・蛸石(たこいし) :「時の刻印」(大阪城探訪)2) 旧・大阪市立博物館/陸軍第四師団司令本部 :「大阪城バーチャルツアー」3) ○○神社××地蔵? :「城は見るだけ・・・歩くだけ!No2(史跡探訪)」補遺大阪城園内マップ :「大阪城パークセンター」大阪城公園 ガイドブック 2016年1月号竜虎石の謎に迫る!~大阪城の巨石「北木石」 :「NAVER まとめ」大阪城本丸にある蛸石という巨石 :「はじめての大阪城 観光スポットガイド」太平山三吉神社 :ウィキペディア三吉大明神・生野区小路東 :「おおさか村」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 大阪城 櫓・蔵の内部特別公開 -1 大手門・市多聞跡・多聞櫓 へスポット探訪 大阪城 櫓・蔵の内部特別公開 -2 千貫櫓・西の丸庭園・焔硝蔵ほか へこちらも御覧いただけるとうれしいです。(以前の「イオブログ」掲載記事の再録です)スポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -1 外堀・千貫櫓・大手門・空堀・桜門ほか へスポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -2 本丸・天守閣ほか へスポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -3 山里丸(刻印石広場・秀頼ら自刃の地碑)、極楽橋 へスポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -4 青屋門、大阪城梅林、名号碑と袈裟懸の松、玉造口 へ
2016.06.26
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左の写真は、多聞櫓の出口を千貫櫓に向かう通路から撮ったもの。右の写真は、多聞櫓の城内側の全景です。大門の向こうが枡形になります。この案内図に小さな赤丸を付けたところが、今回の多聞櫓の出口です。そこから、マゼンダ色の円を付した「千貫櫓」に向かいます。 通路沿いの西外堀に面する漆喰塀には鉄砲狭間が穿たれています。石垣の内側の上端部になる通路は、城内の地面よりかなり高い位置にあります。 千貫櫓に入ります。 櫓内は左の写真のように、外周部に廊下があり、内側が大広間です。 一方に櫓上部への階段が設けられています。 千貫櫓の南面の武者窓この武者窓からは、多聞櫓の北・西面と大手門が視野に入ります。大手門に殺到する敵軍を鉄砲で狙い撃ちできる櫓です。大手門の防御拠点と言えます。 武者窓の下部には、左の写真のような小窓が設けられています。かなりの視野角でここから銃撃できそうな感じです。またこの小窓のそばの床面には「石落とし」が設けられています。上蓋で閉じられる長方形の空間です。南面と西面に各2ヶ所設けられているとのこと。西外堀に面する櫓の西面にも勿論要所に武者窓があります。 デジカメを窓格子から付きだして、撮った写真です。案合図と併せて御覧いただくと、位置関係がご理解いただけるでしょう。左の写真で屋上にヘリポートがある白い建物が大阪府警本部です。 千貫櫓の内部はこんな感じです。 千貫櫓を西の丸から眺めた外観です。ここは現在「西の丸庭園」と称され、その南西隅に位置します。二階建てで、面積は217平方mだそうです。”名前の由来は織田信長が石山本願寺を攻めた時、横矢が効果的に飛んでくる隅櫓がこの近辺にあって難儀し「あの櫓を落とした者には千貫文の銭を与えても惜しくない」と話したことにあるというが、豊臣時代にもこのあたりにあった隅櫓も同じ名前で呼ばれていた。” (資料1) といいます。現在、大阪城に残る建物としては、後にご紹介する「乾櫓」とともに最も古い建造物で、徳川幕府が行った大坂城再建の第一期工事として、元和6年(1620)に小堀遠州の設計・監督の下で築かれたとのことです。”この櫓は昭和34年(1959)から36年(1961)に行われた解体修理の際、「元和六年九月十三日御はしら立/九月十三日」と墨書銘のある板が土台部分から発見され、上棟式の年月日も明らかになっている。” (資料1) そうです。千貫櫓を出た後、ぐるりと巡るつもりで、庭園内の道路を東方向に進み、本来のこの「西の丸庭園」入口の建物の近くまで行き、左折して北に方向を転じました。 そして案内図に黒い丸を付した辺りで、空堀とその向こうに位置する天守閣を眺めます。空堀の先は、水を湛えた内堀になっています。このあたりからの天守閣の眺めはなかなか美しい。反対に、振り返ると西側には、広々とした芝生地になっています。「西の丸庭園」という名称を最初に読んだ時は、いわゆる地泉廻遊式庭園でもあるのかと想像していたのですが、完全に想像倒れとなった次第。ここに入るのは有料なのですが、天気が良ければのんびりと寝転ぶことができる空間になっています。シートを敷き、のんびりと過ごす人々をあちらこちらに見かけました。調べてみると、ここは大阪を代表する花見のメッカでもあるようです。昭和40年(1965)に全体の敷地の約半分3,3000平方mがこの形の芝生公園に整備されたそうです。(資料2)振り返った辺りは「大阪城代屋敷跡」だという説明板が立っています。「現在の西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城の防衛や維持管理の最高責任者である大坂城代の屋敷(官邸)があった。東向きの玄関は唐破風造りで、公務を行う広間や書院だけでなく、城代の妻子が居住する建物も備えており、本丸御殿に次ぐ規模の御殿であった。明治維新の際の火災で焼失。ここは城代屋敷の表門付近にあたる。」(説明板を転記)下段の写真に見える建物は「大阪迎賓館」で、1995年のAPEC大阪開催にあたり、メイン会議場としてここに新造されたそうです。近づいてみると今は休憩所として使用されています。子供たちが出入りする姿が見えました。この写真の近くに、「西の丸」の説明板があります。「大坂城二の丸の内、本丸の西に広がるこの一帯を特に『西の丸』と呼び、本丸に次ぐ要地であった。豊臣秀吉の弟秀長の屋敷がここに置かれたと推定され、秀吉没後には正室の北政所(おね)が一時住み、続いて徳川家康が伏見からここに移って本丸の天守に対抗する天守を築いた。大坂の陣後、徳川幕府によって大阪城が再築されると、ここには幕府の蔵が立ち並び、これらの蔵は鍵の数から『いろは四十八蔵』とも呼ばれた。」(説明板を転記)訪れた日には、庭園の一隅で、お猿さんの演技イベントが行われていましたが、仮設舞台傍を通り過ぎたときは、お猿さんの休憩タイムで、スヤスヤと気持ちよさそうでした。いよいよ、内部公開・最後の「焔硝蔵(えんしょうぐら)」です。案内図の大きい赤丸のところ。 これが「焔硝蔵」の入口です。どっしりとした石造りの平屋の蔵です。 中に収納する物が焔硝という爆発物ですので、石壁の厚みも半端ではありません。その扉も金属板で二重になっています。内部は床面も側壁、天井もすべて石。湿気を防ぐために、石積みの石の接触面は厚い漆喰で密封され、水、湿気の侵入を防いでいます。内部を拝見しながら通り抜けるだけでしたが、出口側も入口側と同じ扉構造です。この写真は、出口側の角からこの蔵を眺めた景色です。 側面からながめるとこんな建造物になっています。「徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685)に建造されたもの。焔硝蔵はそれ以前にも城内数か所にあったが青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660)に落雷を受けて大爆発を起こし、また別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も部材の腐食による建て直しがたびたびなされるなど、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していた。そうした課題を克服すべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁をすべて花崗岩とし、石壁の厚さは約2.4m、屋根の下は土で固められている。面積は約171.9平方m、高さは約5.4mで、こうした石造りの火薬庫はわが国では他に例がない。徳川時代の大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、焔硝のほかにも大量の兵糧や武器武具が備蓄されていた。」(説明板を転記)焔硝蔵を見た後、空色の丸印を付けた場所にまず行ってみました。西の丸庭園の北東隅です。門がありますが、ここは閉まっています。その傍に石段がありますので、勿論上ってみました。 木の間越しに、内堀の景色が一望できます。本丸の石垣の上、目の前に天守閣が聳えています。 ここからは天守閣屋根の金の鯱がデジカメのズームアップで両方撮ることができました。この後、未探訪の北西隅から西側を巡り、庭園入口に戻ることにしました。北西隅には、千貫櫓と同様の古い建造物として「乾櫓(いぬいやぐら)」があります。案内図に紫色の丸印を付した所です。大阪迎賓館の前を通り西に進みます。石垣が折れ込んでいる辺りから眺めると、 「乾櫓」はこんな感じです。一方、少し移動して外堀を方向を変えて眺めてみました。そして「乾櫓」に近づきます。西外堀の北西角にL形に櫓が建てられています。ここは外観を眺めるだけですがやはり、石垣の角として押さえ所だなという気がします。後で調べてみて、こんなことがわかりました。引用します。(資料3)”昭和33年(1958)に解体修理を受けているが、その時に「元和六年 甲(申)ノ九月吉日 ふかくさ作十郎」と篦書された輪違瓦が発見されている。””大手口から京橋口までを見渡せる戦略上重要な櫓であるとともに、堀の外側は高麗橋から京街道へ至る道筋だったこともあり、江戸期の大坂市民にとっては一番身近でなじみの深い櫓だったという。””一、二階の床面積が同じである「総二階造り」という珍しい構造となっている。面積は186平方m、窓は堀に面した北面と西面を中心に26ヶ所、鉄砲狭間は16ヶ所(ただし漆喰が塗り込められていて外からは見えない)。石落としは4ヶ所ある。”乾櫓から西側の石垣沿いに南方向に進みますと、「坤(ひつじさる)櫓跡」という説明板の立つ石垣があります。「ここには二の丸の隅櫓の一つが建っていて、西の丸の南西(坤)にあたることから坤櫓とよばれた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の初年にあたる元和6年(1620)と推定され、東西8間・南北7間の二層構造、窓は西面・南面を中心に25あった。規模は南に現存する千貫櫓とほぼ同じである。明治維新の大火にも耐えて残ったが、第二次大戦の空襲で焼失した。」(説明板を転記) この櫓跡から南方向に西外堀を眺めた景色です。 西の丸庭園を眺めた景色 庭園内に設置された案内図これで西の丸庭園を一巡りしてきたことになります。この後、2月に大阪城を探訪した時、未探訪の箇所を少し歩き回ってみました。つづく参照資料1) 千貫櫓 :「大阪城バーチャルツアー」2) 西の丸庭園 :「大阪城バーチャルツアー」3) 乾櫓 :「大阪城バーチャルツアー」補遺大阪城で重要文化財の特別公開 すべて石造りの火薬庫も :「THE PAGE」大阪城 乾櫓 :「城の写真ライブラリー」施設紹介 西の丸庭園 :「大阪城パークセンター」大阪城西の丸庭園 大坂迎賓館 ホームページ 予約制レストランが2016年5月13日にオープンしたそうです。大阪城西の丸庭園 観桜ナイター :「OSAKA INFO」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 大阪城 櫓・蔵の内部特別公開 -1 大手門・市多聞跡・多聞櫓 へスポット探訪 大阪城 櫓・蔵の内部特別公開 -3 石山本願寺推定地・蛸石・金蔵・本丸の石垣からの眺望ほか へ
2016.06.25
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冒頭の写真は、大阪城の大手門に向かう手前で撮った南外堀の景色です。左の写真に大手門が小さく見えます。外堀沿いに歩き、少し違う角度から大手門周辺の全景を撮りました。大手門の左に見えるのが「多聞櫓」です。内堀を横切る大手門への坂道の手前に案内地図が設置されています。部分拡大図(以下、案内図という)がこれです。追記した緑の丸印のあたりから眺めた景色が冒頭の写真。多聞櫓は青丸印の右斜下の灰色鍵形の箇所です。 左の写真は、手前が千貫櫓で、遠方に緑青色の屋根の天守閣が見えます。右の写真は、大手門の正面に立ち右側の石垣と白壁の塀の眺めです。大手門は重要文化財に指定されています。「城の正面を大手(追手おって)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに再建された。正面左右の親柱(おやばしら)の間に屋根を乗せ、親柱はそれぞれの背後に立つ控柱(ひかえばしら)との間にも屋根を乗せた高麗門(こうらいもん)形式である。屋根は本瓦葺(ほんかわらぶき)で、扉や親柱を黒塗総鉄板張(くろぬりそうてっぱんばり)とする。開口部の幅は約5.5m、高さは約7.1m。親柱・控柱の下部にはその後の腐食により根継(ねつぎ)がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手(つぎて)は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。門野左右に接続する大手門北方彫掘・大手門南方掘も重要文化財に指定されている。」(説明板を転記) 大手門を通り抜け、内側から見た「大手門」右扉と「市多聞跡」(黄色丸印の場所)左写真に「市多聞跡」の掲示板が写っています。「江戸時代、大坂城の大手口枡形には、現存する多聞櫓のほか、南側に東西13間5尺、南北3間の独立した多聞櫓が建っていた。大手口枡形内には定期的に商人の入場が許可され、この櫓の中で、一年交替で城に詰めた旗本(大番衆)が日用品を調達するための市が開かれたことから、市多聞という名がついた。明治維新の大火によって焼失し、現在は礎石のみが残る。大手門から南にのびて東に折れる塀のうち市多聞跡となる部分は、市多聞焼失後に築かれたものである。」(説明板を転記)大手門を入ったところが枡形になっていて、左に折れると 多聞櫓があり、ここにも黒塗総鉄板張の巨大な門扉が枡形を区切っています。大手門が突破されても、この大門扉を閉ざし、枡形内に押し寄せた敵兵を多聞櫓内から迎え撃つという構造です。去る2月に大阪城を訪れたのですが、たまたまその日は櫓の公開日ではなかったのです。お目当ての櫓を見られず、大阪城内の他の箇所を見て回りました。その時の探訪記は後掲の記事でご紹介済みです。今回はそのために、リベンジ探訪になります。これが今回の内部特別公開の入場券です。この大門をくぐり抜けると正面もまた巨大な石垣で遮られ、右折することになります。大手門から入った枡形を囲む形で櫓がありますので、鍵形になっています。大門の石垣沿いに少し進み、さらに右折します。その鍵形の端まで行きます。 大手門から入った正面の櫓の背面になります。続櫓(つづきやぐら)の外観左の写真の左端に階段が設けられていて、そこが内部特別公開の入口になっています。 階段上から、南外堀の西端部分の掘を見下ろした景色です。石垣の上端面には、銃眼の開口部が穿たれています。 櫓は板張り壁で、武者窓が設けられています。窓の一つから、大手門を見下ろしたのが右の写真です。 多聞櫓は、枡形に面した武者窓と銃眼の設けられた壁面、長い通路部分、城の内側に板敷の各種規模の部屋が一列に続く、長屋風の内部構造です。「この部屋はいざ戦いというときに兵士たちが籠城して寝泊まりするためにつくられたもの。多聞櫓は大手門を防御する兵士が詰めた。 渡櫓のほうから16畳・20畳・12畳・16畳・12畳・12畳と合計6室があり、この部屋は12畳の大きさ。姫路城の女房衆の長局(ながつぼね)と構造はよく似ているが、こちらは軍事的な実用性が高い。 床にくらべると敷居が高いが、畳が入れられていたかは定かではない。」(説明板を転記) この部分は続櫓(つづきやぐら)と称され、「西側すなわち大手門の側に銃眼を備えた笠石の並ぶ幅一間半(約2.73m)の板張り廊下が真っ直ぐのび」(後掲の説明パネルから引用)ているのです。 大手門とその内側の枡形を見下ろす景色。右の写真は大門のある多聞櫓側です。 大門の階上部分の建物内部は板敷の大広間空間ですが、そこがこのようなパネル掲示による説明に使用されていました。櫓・枡形・土橋・狭間などの城の構造に関する用語の説明パネルの展示です。また、大坂城の石垣の刻印拓本が展示・説明されています。大坂城基礎知識早わかりコーナーという趣です。 大門の階上、武者窓から枡形を見下ろした眺め。枡形になだれ込んだ敵軍をまさに狙い撃ちで迎撃する感じがわかります。また、写真にはなりませんでしたが、枡形に面した壁ぎわに近い床面に、槍落としと呼ばれる装置が設けてあります。大門扉の前面直下が見下ろせ、槍を落としたり、射撃できる工夫が施されています。「細長い石垣や土塁上に迫りあがるような形で築かれる長屋形式の建造物を多聞造りという。多聞櫓とはそういう様式でつくられた櫓の一般的な呼び方で、起源は、松永久秀(1510?-77)の居城大和国多聞山城において初めてこの形式の櫓が築かれたことによる。 大阪城内に現存する多聞櫓はこの大手口枡形のもののみだが、かつては京橋口、玉造口や本丸桜門などの各枡形にもあり、それらは焼失してしまった。また各地の城にも多聞櫓が見られるが、その規模においては総高17.7mの大阪城の多聞櫓が随一である。 寛永5年(1628)、徳川幕府の大阪城再築の最終期に創建されたが、天明3年(1783)に落雷で焼失し、その後、嘉永元年(1848)に再建された。昭和44年(1969)に解体修理され、今日に至っている。 鉄の大門をまたいで東西方向に立つ渡櫓(わたりやぐら)と、その東端部から直角に折れ曲がって南へのびる続櫓(続多聞とも呼ぶ)から成、面積は合わせて600平方m余り。 その内部は、渡櫓の西側には外堀に向かう銃眼をもつ土間があり、東側に一段高く板張りの大広間3室が続いている。中央の部屋が一番広くて約70畳敷。この下が大門で、敵の侵入に際して上から槍などを落とす槍落としの装置がある。両側の部屋はそれぞれ約50畳敷。」(説明パネルを転記。一部略) 渡櫓の大広間 様々な展示に利用されています。「櫓解体修復遺品」の展示。 渡櫓の西端。多聞櫓の出口になります。出口を出たところから多聞櫓の城内側、西端からの眺めです。この後、千貫櫓に向かいます。つづく補遺虎口 ← 枡形 :ウィキペディア櫓 :ウィキペディア櫓の分類と名前の付け方とは? :「日本の城」(裏辺研究所)多聞山城 :ウィキペディア信長も嫉妬した多聞山城 :「奈良きたまち~歴史のモザイク」大阪城パークセンター ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 大阪城 櫓・蔵の内部特別公開 -2 千貫櫓・西の丸庭園・焔硝蔵ほか へスポット探訪 大阪城 櫓・蔵の内部特別公開 -3 石山本願寺推定地・蛸石・金蔵・本丸の石垣からの眺望ほか へ『遊心六中記』(イオブログにて)で2016年3月にまとめた記事はこちらから御覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 大阪城内細見 -1 外堀・千貫櫓・大手門・空堀・桜門ほか スポット探訪 大阪城内細見 -2 本丸・天守閣ほか スポット探訪 大阪城内細見 -3 山里丸(刻印石広場・秀頼ら自刃の地碑)、極楽橋 スポット探訪 大阪城内細見 -4 青屋門、大阪城梅林、名号碑と袈裟懸の松、玉造口
2016.06.24
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歳月はとどまることなく規則的に通り過ぎ、はや梅雨の最中です。探訪&観照の記録まとめが遅れがちで、いまださる4月時点を扱っています。今回は「あともどりできない通り抜け」がいつしか「通り抜け」という固有名詞に転化したと言います(資料1)。「造幣局」のホームページ、その他を参考にして、数年ぶりに行ってみた「桜の通り抜け」の桜のご紹介です。冒頭の写真は、京阪電車の「天満橋」駅を降り、観光船の乗り場近くから旧淀川の対岸の桜並木を撮った写真です。造幣局の通り抜けは、天満橋を北に渡って、川沿いに東方向に進み、入口に向かって進みますので、この冒頭写真から右方向に徒歩15分程度離れたところから始まります。「通り抜け」という観点から厳密に言えばこれまあイメージ写真になりますね。旧淀川沿いに、桜並木がずっと続いているという意味ではホンモノの桜です。しかし、振り返ってみると、何度か行っているのに、この写真の箇所は何時も対岸から眺めて楽しむだけに終わっています。旧淀川沿いの天満は桜の景勝地!!今年の「桜の通り抜け」は4月8日(金)から14日(木)までの7日間でした。観桜に出かけたのは4月10日です。毎年4月中旬頃の桜の開花時に行われ、いまや名物行事の一つです。大半は遅咲きの八重桜だそうです。「八重桜」は「サトザクラの中の八重咲き品種の通称」(『日本語大辞典』講談社)ですので、八重桜という品種が存在するのではありません。サトザクラについては後で触れます。また、「花は新葉と同時に咲き、花期はやや遅い」のが特徴のようです。「花は塩漬にして食用」になるそうです。ネットで調べてみると、ちゃんと「桜の花の塩漬」が各社の通販で扱われています。余談ですが、例えば吉野本葛の老舗「天極堂」さんも「桜塩漬(一輪)」を扱っているのを調べて知った次第です。幾重にも重なることを八重と例えますので、花弁がそんな形を示すことから八重桜という通称が生まれたのでしょう。「桜の通り抜けイラストマップ」(造幣局)は、こちらからご覧ください。ここが「桜の通り抜け」の起点です。前方も後方も人ひとヒト・・・・の大混雑。写真を撮るために立ち止まる人々(まあ、私もその一人でしたが・・・)と交通整理をするガードマンの人々、「立ち止まらないでお進みください」と呼びかけるハンドマイクの大きな声、その傍で手始めににっこりと記念写真撮るのにポーズを撮る人々・・・などの喧騒と雑踏です。京都で言えば、八坂神社境内の雑踏、円山公園の桜見物の雑踏、はたまた祇園祭の宵山の雑踏などと、似たようなものです。この通り抜けも、日本人、諸外国の人々が入り交じり、雑踏に抗いながら、思い思いに写真を撮る、立ち止まる・・・という長い行列です。それでも、まあ・・・・桜は美しい! ここでは、そんな桜の一部ご紹介です。大阪の造幣局は、旧淀川に架かる北の桜宮橋から南の「川崎橋」手前までの西岸側に位置します。「桜の通り抜け」は造幣局南門(天満橋側)から北門(桜宮橋側)への川沿いの港内通路を距離にして560mを一方通行で、後戻りなしに桜を見上げつつ通りぬけるころになります。観桜客の喧騒・雑踏のなかでの「美しい桜」見物という次第。”明治16年(1883年)、時の遠藤謹助局長の「局員だけの花見ではもったいない。市民とともに楽しもうではないか」との提案により、構内の桜並木の一般開放が始まりました。”(資料1)とのことです。今年でなんと124年目になるのです。まさに伝統行事です。 「今年の花」は「牡丹(ぼたん)」でした。造幣局では、構内に植えられている桜の品種のなかから1品種を選び、「今年の花」として紹介されています。「牡丹」は大島桜系の里桜で、花はふっくらとした牡丹の花のような形です。淡紅色の大輪が優雅に咲き誇り目を楽しませてくれました。数えてはいませんが、花弁数は15枚ほどあるそうです。(説明板、資料1)今年は実物を確認するために立ち寄ってはいませんが、構内に「貨幣セット販売所」が設けられています。ここでは「今年の花」からデザインされた「桜の通り抜け貨幣セット」やメダルほかが販売されています。川端橋を背景にした桜の枝をズームアップで撮ると、大阪城の天守が小さく写っています。 祇王寺祇女桜「京都祇王寺にある桜で、『平家物語』の祇王祇女にちなみ、この名がつけられた優雅な桜で、花は淡紅色で、少し芳香があり、花弁数は15枚程ある。」(駒札を転記) 静香(しずか)「北海道松前町で『天の川』と「雨宿」を交配育成させた桜。花は白色で花弁数は15~20枚あり、芳香がある。」(駒札を転記) 一葉(いちよう)「東京荒川堤にあった里桜で花芯から一本の変化した雌しべがでるのでこの名がつけられたといわれている。花は淡紅色重弁で満開時には白味がかる。」(駒札を転記)里桜とは、「サクラの園芸品種の一群の総称」を意味するそうです。「オオシマザクラを主体に改良選抜されたもので、人家の近くに植えられることから名がついた。イエザクラ」と説明されています。(『日本語大辞典』講談社) 紅時雨(べにしぐれ)「北海道松前町で、『東錦』の実生の中から選出育成された桜であり、紅色の豊な花が垂れ下がって咲くことから、この名が付けられた。花は濃紫紅色で、花弁数は28~40枚ある。」(資料1) 園里黄桜(そのさときざくら)「長野県須坂市豊丘町梅ノ木地区で羽生田郁雄氏が発見した普賢象の枝変わり品種で、黄緑色に緑の筋が入った花を咲かせます。旧村名に因んでこの名がつけられました。」(駒札を転記) 松前琴糸桜「桜研究家の浅利正俊氏が、昭和34年北海道松前町で毬山家の庭にあった無名の八重桜大木の種子から作り出した桜。花弁数は40~45枚で、開花後紅色から淡紅色となる。」(駒札を転記) 琴平(ことひら)「香川県琴平神社境内にある山桜系の桜で、花は微淡紅色で、開花が進むにつれ白色となる。花弁数は6~15枚ある。」(駒札を転記) 御殿匂(ごてんにおい)「花の色は紅紫色。蕾は濃紅紫色で開花とともに花弁の内側から淡紅色となり、弁端は紅紫色が残る。花弁数は15~20枚である。」(駒札を転記) 紅華(こうか) 山越紫(やまこしむらさき)紅華は「北海道松前町の浅利政俊氏が実生の中から選出育成した桜で、濃紅色の花が密生して咲き、咲き方が華やかであるとことから、この名が付けられた。花弁数は30~40枚ある。」(資料1) 山越紫は「典型的な山桜系の桜で、花は濃紅色の一重である。」(資料1) 妹背(いもせ) 鍾馗(しょうき)妹背は「花は濃淡になった紅色で、時に一つの花に実が二つ、対になってつくことから、この名が付けられた。花弁数は30枚程あり、二段咲きが見られる。」(資料1)鍾馗は東京荒川堤にあった桜という。(資料1) 日暮(ひぐらし)「東京荒川堤にあった品種。花は外側の花弁の先端と外面は淡紅紫色。内側の花弁はほとんど白色である。花弁数は約20枚。」(駒札を転記) 麒麟(きりん)「東京荒川堤にあった里桜で、花は濃紅紫色の中輪で花弁数30~35の気品の高い花が小枝上にびっしりと密について美しい。」(駒札を転記) 松前(まつまえ)「北海道松前町桜見本園で浅利正俊氏が『イトククリ(糸括)』の実生から選抜した美しい里桜である。花は蕾濃紅色、開花後紅色、花径5~55cmと大輪花で、花弁数35~42枚である。」(駒札を転記) 思川(おもいがわ) 林二号思川は、「栃木県小山市の修道院にあった十月桜の種から育成された桜である。修道院の下を流れる川の名にちなんで、この名が付けられた。花は淡紅紫色で、花弁数は6~10枚ある。 」(資料1)林二号は「仙台の植木屋、林氏が第二番目に育成した新しい八重桜で花弁数は15~18枚である。花は淡紫色をしている。」(駒札を転記) 楊貴妃「昔、奈良にあった名桜で、花色も優れた豊満な桜ということから、中国の楊貴妃を連想して世人が名付けたといわれている。花は淡紅色で、花弁の数は20枚内外である。」(駒札を転記) 須磨浦普賢象「平成2年4月、兵庫県神戸市の須磨浦公園において『普賢象』の枝変わりとして発見された。花色が黄緑色に変化したもので、開花終期には花弁の基部から赤色に変色する。」(駒札を転記) 林一号「仙台の植木屋、林氏が最初に育成した新しい八重桜で、花弁数は25~30枚ある。淡桃色で楊貴妃に似ている。」(駒札を転記) 市原虎の尾「京都洛北市原にあった八重桜で花梗短く枝先に咲くありさまは虎の尾のようで、花は淡紅白色の重弁で先端が割れている。」(駒札を転記) 花弁は30~40枚ある。 煉瓦色の建物は造幣博物館です。もとは明治44年(1911)に火力発電所として建築されたそうですが、昭和44年(1969)に建物の保存を図り、外観をそのままで内部を改造して、博物館としてリニューアル・オープンしたものです。古銭をはじめ日本、海外諸国の貨幣が約4,000点展示されているといいます。創業当時の造幣局の模型も展示。メダルや金属工芸品も展示されているようです。(資料1,2)「桜の通り抜け」の期間は閉館されていますので、私は残念ながらまだ拝見していません。建物の傍、屋外に展示されているのは造幣局の創業当初に使用されていた外国製の圧印機です。 御信桜(ごしんざくら) 墨染御信桜は「京都の佐野藤右衞門氏が作出し、西本願寺元門主・大谷光瑞氏が命名したと言われている。花は淡紅色で花弁数は30枚内外の八重咲きである。」(駒札を転記)墨染は「東京荒川堤にあった桜で、花は淡紅白色、直径は大きく、一重の里桜。若葉の色がやや暗い感じがするところから、この名が付けられた。」(資料1)「墨染」という木札が掛けられていただけだったので、後日に荒川堤の桜と知りました。京都・伏見区にある墨染寺には、中世から有名な墨染桜があります。これは探訪と後日調べで知ったのです。荒川堤の桜は、江戸時代に愛好家が荒川堤に移植したのでしょうか?それとも、同名異種でしょうか? 課題が残りました。 造幣局旧正門「創業当時の正門」というタイトルの説明板が右の写真です。「ここにある菊花と大の字形を交互に配置した二本の門柱は、明治4年に造幣局が創業した当時の正門です。 また、八角形の建物は、泉布観(創業当時から、造幣局の応接所として使用されていたわが国の最も古い西洋風建築物の一つ)と同様、イギリスの建築技術者ウォートルスの設計によるもので、正門の衛兵の詰所として使われていたものです。 ここには、創業時から大正8年頃まで、大阪師団の兵士が造幣局の警備のために衛兵として配置されていました。 造幣局」(説明板を転記)最後に、いくつかデータをピックアップして覚書を付記します。(資料1)☆過去5年間の「今年の花」 2016年「牡丹」、2015年「一葉(いちよう)、2014年「松前琴糸桜」 2013年「天の川」、2012年「小手毬(こでまり)」☆過去3年間の期間と観桜者数 2016年 4. 6(金)~4.14(木) 702(千人) 2015年 4. 9(木)~4.15(水) 521 2014年 4.11(金)~4.17(木) 836☆観桜者数ベスト3 第1位 平成17年 1,147,000 人 第2位 昭和34年 1,061,780 第3位 平成 5年 1,011,000桜尽くしに関連した余談です。桜といえば、かつては関東地方から西に自生するヤマザクラを意味したそうです。一方、ウメは万葉の時代つまり奈良時代に原産地の中国から舶来種としてわが国に渡来したと言います。そして、当時の上流階級の人々に舶来のウメが好まれたそうです。それは、万葉集にウメを題材に詠み込まれた歌が119首採録されているのに対し、サクラを題材として直接詠み込んだ歌が47首だといいます。尚「花」という語彙を詠み込んだ歌が73首あるそうです。その中には歌意から明らかに秋や冬の歌をわかるのがあり、それらを除くと、サクラが題材と推定できるものが大半だとか。それ故、仮に約50首の「花」をサクラと解するとウメには及びませんが、やはりサクラを人々は古代から愛でてきているということがわかります。(資料3)京都御所の紫宸殿の南の庭には「左近の桜、右近の橘」があります。ただ、一説に平安遷都の折には、左近の梅、右近の橘であり、梅が植えられたと言います。その後、村上天皇の時代(在位:946~967)に御所が焼失し、梅も焼けたとか。御所の再建後に桜が植えられて「左近の桜」になったということです。そこには、次のエピソードがあるそうです。村上天皇に”替わりの梅を献上した紀貫之の娘が梅との別れを惜しみ「勅なれば いともかしこし鶯(うぐいす)の 宿はと問わばいかが答えん」と詠んだ。感銘を受けた村上天皇が梅を返して桜を植え、「左近の桜」となった”(資料4)というもの。これは『大鏡』に載る話だといいます。(資料5)紀貫之の娘である紀内侍が詠んだとされる和歌は、『拾遺和歌集』(巻九:雑下 531番)に収録されていますが、読み人知らずとしての採録です。そして、詞書が付いているのです。「内より人の家に侍りける紅梅をほらせ給ひけるに、うくひすのすくひて侍りけれは、家あるしの女まつかくそうせさせ侍りける/かくそうせさせけれは、ほらすなりにけり」という内容です。(資料6)尚、宮内庁作成の公開資料には、平安遷都の時には梅が植えられ、それが枯れたので仁明(にんみょう)天皇(在位:834~848)が桜に改め植えられたと伝える旨、記されています。『日本三代実録』貞観16年(874)8月24日の条には大風雨による倒木被害として「紫宸殿前桜」という記録があるそうです。現在の桜は安政内裏からは3代目で、平成10年(1998)に移植されたものだとか。桜の品種はヤマザクラです。(資料7)『源氏物語』が書かれた時代には、御所の紫宸殿の南庭は既に「左近の桜、右近の橘」だったことでしょう。さらに、この桜はやはりヤマザクラだったのかな・・・と想像します。というのは、ソメイヨシノという品種が桜の主役になるのは、江戸時代末期に発見されてからなのです。ソメイヨシノ(染井吉野)は、江戸時代末期に江戸の染井村(東京都豊島区)の植木屋から吉野桜の名で売り出された品種で、オオシマザクラとエドヒガンの雑種と考えられている」(資料7)のです。大島桜は伊豆諸島に自生している品種で江戸彼岸は東京周辺に多く植えられている品種です。その枝が長くしだれるものをシダレザクラ(枝垂桜)またはイトザクラ(糸桜)と言うそうです。(資料8)つい、脇道に逸れました。 造幣局側から旧淀川東岸の眺めご一読ありがとうございます。参照資料1) 造幣局 ホームページ2) 造幣博物館 :「OSAKAINFO」3) 『萬葉植物事典 普及版』 大貫茂著 馬場篤[植物監修] クレオ p504) 梅アラカルト 観光・京都おもしろ宣言 :「京都新聞」5) 名歌鑑賞・勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかが答えむ6) 『拾遺集』 和歌データベース :「国際日本文化研究センター」7) <<京都>>御所と離宮の栞」(其の四) :「宮内庁」8) 『山渓ポケット図鑑1 春の花』 写真/鈴木庸夫 山と渓谷社 p178補遺ヤエザクラ :ウィキペディア八重桜 :「季節の花300」普賢象 :「weblio辞書」京都で普賢象桜の観賞場所、おすすめ3選。 :「京都旅行のオススメ」イトククリ :「四季の山野草」さくら 日本さくらの会 ホームページ浅利政俊さんが「桜守」に 2005.4.26 :「函館新聞社」佐野藤右衛門 :ウィキペディア植藤造園 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -1 墨染寺と余談「撞木町」探訪 京都御所細見 -3 日華門・紫宸殿と南庭・清涼殿
2016.06.19
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御常御殿の南西に接して「御三間(おみま)」と称する建物があります。 左の写真は西側の井戸のある庭の南に広がる砂利敷の広場から撮った写真です。右から御三間、御常御殿、御常御殿の西に連なる建物の屋根の全景です。右の引用した部分図で位置関係がおわかりいただけるでしょう。(資料1)御三間は一般公開の時々により、遣戸・障子の開放度合が変わるようですが、東側から上段の間、中段の間、下段の間と呼ばれていて、各部屋の障壁画を庭から拝見する事が通例です。「南と西に御縁座敷があり、ここで涅槃会・茅輪(ちのわ)・七夕の盂蘭盆の儀が行われた」(資料2)といいます。この説明板が簀子の一隅に置かれています。この春は、「上段の間」はこの状態で戸が開けられていました。ズームアップしてみます。説明板にある住吉弘貫筆「朝賀図」です。 「朝賀」は「元旦に、天皇が大極殿で群臣の年頭の賀を受けた儀式」(『日本語大辞典』講談社)です。住吉弘貫(1793-1863)は、江戸後期の住吉派の名手で、兄の死後家督をつぎ、江戸幕府の御用絵師となった画家だそうです。住吉派は土佐派の系譜のようです。この部屋以外に、「土佐派の古典をいかし、紫宸殿の賢聖障子をえがく。技巧の卓抜なことにより狩野派同様旗本に列せられた」(資料3)といいます。中段の間は、駒井孝礼筆「賀茂祭群参図」が描かれています。賀茂祭とは葵祭のことです。この中段の間の四方の襖には、上賀茂・下鴨両神社に向かう行列の様々な様子が描かれているそうです。庭から正面に見えるのは、御幣櫃(ごへいびつ、神前に供える御幣物を納めた櫃)を持つ白丁の一団、御馬、牛車などが描かれた場面です。 左端の襖に牛車が描かれ、その右の襖に手綱で引かれていく白馬が描かれています。 一番右の襖に御幣櫃を担ぐ人々が描かれています。つまりこの行列の場面では御幣櫃を担ぐ一団が先頭になります。御幣とは「幣束(へいそく)の敬称。紙または布を串にとりつけた神祭用具。おんべ。ぬさ。」(『日本語大辞典』講談社)です。白丁(はくちょう)とは「1.白い狩衣を着た仕丁(じちょう)。 2.神事・神葬などで物をはこぶ人夫」(同上)のことです。駒井孝礼(こうれい)は、「円山派の吉村孝敬(こうけい)に学び人物画や花鳥図を得意とした」(資料4)そうです。画を吉村孝敬に学んだ人で、「名門出身者以外では異例とも言えるほど格の高い部屋を任されている」(資料5)とか。それだけ絵師としての実力があったのでしょうね。 「下段の間」は、岸誠筆「駒引図」です。駒引というのは平安時代に天皇が馬を御覧になる儀式だったようです。それも2種類あったことが『大辞林』(三省堂)を引いてわかりました。 (1) 御牧(みまき)から貢進した馬を天皇が御覧になり御料馬を決める儀式。 毎年8月15日、後に16日に実施。 (2) 五月の騎射に先立って、天皇が左右馬寮・諸国の馬を御覧になる儀式。 毎年4月末に実施。年中行事として、5月5日には「騎射の節」という一つの節会が行われていたそうです。天皇が武徳殿または弓場殿に出て、近衛・兵衛の騎射を観覧した行事です。騎射の節では弓を射る武技そのものを観覧し、その前に節会で登場する馬そのものをまず観覧しておくということなのでしょう。岸誠(がんせい、1816-1867)は岸派二代目・岸岱(がんたい、1785-1865)の三男です。父同様御所に仕え、有栖川宮家の近習となるとともに、安政度御所造営に参加した画家。「作風は岸派伝統の肥痩ある線を用いた描法をとっているものが見られる」(資料5)といいます。 下段の間の御縁座敷に杉戸絵も拝見できます。資料がなく詳細不詳です。 御三間の南に、庭を挟んで御学問所の北面が見えます。御池庭とは源氏塀で仕切りが設けられていますが、建物の所までにとどまっています。 2014年秋には、この北面の戸が開けられ、「寿老人」と「鶴」の杉戸絵が展示されていました。 福井徳元筆「寿老人」の杉戸絵これは「御三間」の北御縁座敷に画かれている杉戸絵だとか。 「『寿老人』は長寿を授けると言われる長頭の老人を画いた古くからの画題のひとつで、杖と団扇を持ち、鹿を連れているのが特徴です。」(説明板を転記)寿老人は道教で神仙とされています。「寿老人は南極老人(南極星の化身)ともいわれ、同じく南極老人といわれる福禄寿と同体神とされることがあります」(資料6)とか。福禄寿とともに寿老人は七福神の一人に数えられています。後の五神は、恵比寿・大黒天・布袋・毘沙門天・弁財天です。福禄寿と寿老人が同体異名とみて、寿老人の代わりに吉祥天を加える考え方もあるようです。 本多米麓(べいろく)筆「鶴」の杉戸絵これは「清涼殿北側から、小御所へと向かう廊下(御拝道ごはいみち廊下)にある杉戸絵」(説明板より)だとか。また、説明板によれば、御所内で鶴が作品名に入るのが8種121面あり、合計234羽が描かれているそうです。少し調べてみた範囲では本多米麓について不詳です。残念。この後、広々とした空間に出ます。北側一帯は桜の木などの植栽のある庭になっていて、庭には井戸がぽつんと残っています。一方、南は現在砂利敷の広場になっています。一般公開の折りには、ここに一時休憩用の大きなテントが張られています。第二次世界大戦前の京都御所の「御台所跡」になるようです。戦時中に数多くの建物が取り壊されたようです。かつての長局、公家や武家関係の役所、控え室などとして使われていた建物群があったようです。(資料7)この広場から御学問所から南方向に続く廊下の建物の全景を撮りパノラマ合成してみました。こんな景色です。最南端の建物の屋根上に紫宸殿の屋根が見えます。北側の庭を最後に眺めましょう。 桜の花が満開でした。 今春 2014年春 2011年秋 2014年春この広々とした空間は、北側と西側が源氏塀で境界が設けられていて、西に抜ける大きな門扉があります。そこを通り抜けると、「清所門」が一般公開時の出口となっています。 これで今春の京都御所春の一般公開に、過去訪れた折りに撮った写真を織り交ぜた細見記を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「京都御所 一般公開」 宮内庁京都事務所 リーフレット2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂3) 住吉弘貫 :「コトバンク」4) <京都>御所と離宮の栞 其の四 :「宮内庁」5) 「京の絵師は百花繚乱 『平安人物志』にみる江戸時代の京都画壇」 図録 京都文化博物館開館十周年記念特別展 6) <京都>御所と離宮の栞 其の十 :「宮内庁」7) 京都御所の移り変わり :「3D京都」補遺朝賀 :「コトバンク」朝賀図(住吉弘貫筆)=御三間上段の間 ← ネット検索で見つけたもの! 作品解説:京都国立博物館館長 佐々木丞平・京都嵯峨芸術大学教授 佐々木正子朝賀図 :「文化遺産オンライン」大極殿朝賀図 平城第370次調査 平城宮朝集殿院の調査 現地説明会資料七福神 :ウィキペディア七福神異間・鍾馗・猩々・吉祥天女も七福神?:「七福神の名前と意味を知る」土佐派 :「コトバンク」住吉派 :「コトバンク」住吉家代々(初代~9代):「歴史が眠る多摩霊園」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 へ探訪 京都御所細見 -2 新御車寄、回廊の日華・承明・月華門、建礼門と建春門 へ探訪 京都御所細見 -3 日華門・紫宸殿と南庭・清涼殿 へ探訪 京都御所細見 -4 宜陽殿・春興殿 へ探訪 京都御所細見 -5 御池庭・小御所・蹴鞠の庭 へ探訪 京都御所細見 -6 御学問所、御池庭の北岸畔 へ探訪 京都御所細見 -7 御常御殿・御内庭ほか へ
2016.06.16
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御池庭の北岸の北に仕切りの築地塀と門があります。門をくぐると東側が「御内庭(ごないてい)」です。京都御所の案合図から切り出した部分図の引用です。(資料1)御内庭は「曲折した遣り水を流して、土橋や石橋を架けた趣向を凝らした庭で、奧に茶室を構えている」(資料1)のです。まずは、庭部分を拝見しながら北に進んだ後、折り返して「御常御殿」の内部を北から南に拝見しながら御殿の南側を右折して西方向に進みます。それでは、御内庭のご紹介からです。木々が紅葉した御内庭の景色は2010年秋に訪れたときに撮ったものです。春秋の景色を織り交ぜていきたいと思います、 御内庭の庭木の間から北に建物が見えます。これが茶室のようです。案内図では「聴雪」と記されています。 御内庭で北方向に入れたのはこの飛石伝いの通路の手前まで。通路の先の門は「御涼所」と称される建物への入口です。御涼所はその名が示すとおり、天皇が夏季の納涼のための御座所として使用された建物といいます。(説明板より)左の写真は「御涼所」の南に連なる建物です。案内図では「迎春(こうしゅん)」と記された建物です。孝明天皇が所見の間として使われたところだとか。(説明板より)この建物と廊下で繋がり、南に位置するのが「御常御殿」です。 この写真は、「御常御殿」の御内庭に面した東面を撮ったものです。その名称が示す通り、「天皇日常のお住まいとして使用された御殿で、16世紀末以降、清涼殿から独立して建てられるようになった。内部は15室からなる入母屋桧皮葺の書院造りの建物」(資料1)です。 建物の北側から廂の間を南に眺めたところ。正面に杉戸が見えます。ズームアップしてみると、右の絵が描かれています。この杉戸は一の間と御小座敷上の間を仕切る杉戸です。描かれているのは岡本亮彦筆「蹴鞠」です。この杉戸の背面には岡本亮彦筆「曲水(宴)」が描かれています。写真は撮れませんでした。岡本亮彦(すけひこ、1823-1883)は、呉春門人・小栗伯圭の息子ですが、上京し、四条派の岡本豊彦に師事し、岡本家の養子となったのです。安政度御所造営に参加し、御学問所菊ノ間を担当しているそうです。(資料2) 御殿の北面、廂の間の上部御常御殿の東面する部屋は、北側から「二の間」「一の間」「御小座敷 上の間」「御小座敷 下の間」と名付けられています。 二の間 鶴沢探真筆「四季花鳥図」 2010年秋には、この二の間に、人形師・伊東久重氏の作品が展示されていました。 2014年 秋 一の間 狩野永岳筆「桃柳(とうりゅう)」(朗詠ノ意)狩野永岳(1790-1867)は京狩野派九代目で、京狩野派の掉尾を飾る画家です。安政度御所造営に参加し、御用絵師となった人。前回にもご紹介しています。一の間の近くから撮った杉戸の絵の一部です。白い蹴鞠が空中高く描かれています。 御小座敷 上の間 中島来章(らいしょう)筆 「和歌ノ意」中島来章(1796-1871)は幕末の円山派をトップとして丸山派を支えた画家です。「正統的円山派の画法を伝え、その門からは川端玉章らが出た。」(資料2) 2014年秋 御小座敷下の間 塩川文麟(ぶんりん)筆「和耕作図」塩川文麟(1808-1877)は、四条派の岡本豊彦に師事した画家。「中国の山水画を学び、文人画の精神性を四条派の作風に取り入れ」たそうです。幕末から明治にかけ、平安四名家の一人と称されたようです。近代京都画壇の基礎を築いた人だと言います。(資料2) 下の間の南端に位置する杉戸杉戸の片側しか撮れませんでしたが、これは前回ご紹介している原在照筆による「陵王納曽利」の一部です。「陵王納曽利(りょうおうなそり)」は雅楽の演奏に合わせた舞(舞楽)です。「陵王(=蘭陵王)」(左方・唐楽)と「納曽利」(右方・高麗楽)を組み合わせた番舞(つがいまい)を意味します。舞曲としては特に有名なものです。写真の絵は、赤主体の衣裳ですので蘭陵王を意味します。(資料3) 御常御殿 南面全景 上段の間 狩野永岳筆「尭任賢図治図(ぎょうにんけんとちず)」尭舜(ぎょうしゅん)という言葉を想い浮かべられたかもしれません。尭は中国古代の伝説上の理想的帝王の一人です。尭が賢人を任用して国の政治・治安を図るという状況を描いた障壁画ということのようです。 2014年秋 中段の間 鶴沢探真筆「大禹戒酒防微図(だいうかいうぼうびず)」鶴沢探真(1834-1893)は狩野派の画家です。父・狩野探竜に画法を学んだといいます。御所の絵師をつとめ、明治以降は帝国博物館や宮内省の御用掛をつとめた人だそうです。(資料4)大禹は偉大な禹王という意味でしょう。「禹」を辞典で引くと、「中国古代の夏(か)王朝の始祖とされる人。尭帝のときに大洪水が起こり、尭のあとをついだ舜帝に命じられて、治水に成功した。その後、舜に帝位をゆずられたという」(『日本語大辞典』講談社)つまり治水の神と敬われる王です。その王にまつわるエピソードのようです。「禹は、献上された酒を飲み余りの美味しさに飲み過ぎて酔ってしまいました。禹はこのような美味しい飲み物を飲んでは仕事に支障が出て国を亡ぼしてしまうと考えて酒を造った職人を遠ざけたという伝承があります。」(資料5)とか。 下段の間 座田重就(さいだしげなり)筆「高宗夢賚良弼図(こうそうむらいりょうひつず)」座田重就(1787-1858)は賀茂社の官人で、代々院雑色を勤める家柄の人だそうです。安政度御所造営に参加した画家です。(資料2)調べてみるといろいろ資料があるものです。この図は次のエピソードが描かれたのです。「殷の高宗が国を平和に治める事を願っていたところ、夢の中で高宗をよく補佐する者が現れるというお告げがあり、夢に出てきた賢人の姿を描き、その人物を探しだして宰相として任用したところ、その人物(傅説ふえつ)はよく高宗を補佐し、高宗が中興の主となることができたという故事」(資料7)だそうです。 下段の間の傍の杉戸御常御殿の南面と御池庭を区切る白壁の源氏塀塀の傍に井筒があります。 御常御殿からその南西に連なる「御三間」の建物との角に、「下向」が設けられています。左の写真ですが、少し薄暗くてみづらいですが、建物の下部へ石段を下りたところに扉があり。開いた状態にしてありました。「こちらは、御殿や廊下をくぐり抜ける地下通路です。地面から降りていく階段と、開放している木戸の先には、石積みの壁に囲まれた鉤状の通路があり、回り道をすることなく北側に行くことができます。 現在の京都御所は簡単に往来が可能ですが、造営時にはそれぞれの御殿が廊下でつながっていたため、御殿に昇殿せずに離れた場所へ行くことがむずかしい状況でした。そのため、このような通路が設けられました。 第二次世界大戦に伴う建物疎開により、御殿をつなぐ廊下の多くは取り壊されましたが、昭和40年代に一部復元され、廊下にあった下向も復元されました。 現在、京都御所には下向が17箇所あります。」(説明文を転記) 次回は「御三間」です。つづく参照資料1) 「京都御所 一般公開」 宮内庁京都事務所 リーフレット2) 「京の絵師は百花繚乱 『平安人物志』にみる江戸時代の京都画壇」 図録 京都文化博物館開館十周年記念特別展 京都文化博物館3) 曲目解説 納曽利 :「おやさと雅楽会」4) 鶴沢探真 :「コトバンク」5) 治水神・禹王研究会 :「露木順一」OFFICIAL WEBSITE6) <京都>御所と離宮の栞 其の十三 京都御所 :「宮内庁」補遺講演「京都御所の障壁画について ~御常御殿をめぐって~」聴講記 その1 :「中国歴史 あら?カルト!」講演「京都御所の障壁画について ~御常御殿をめぐって~」聴講記 その2 :「中国歴史 あら?カルト!」 御常御殿の間取り平面図が載っていて参考になります。陵王 雅楽 作品と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」納曽利 雅楽 作品と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」雅楽「陵王納曾利」 (Gagaku Dances Ryoo and Nasori) :YouTube厳島神社の舞楽 :「宮島観光協会」<<京都>>御所と離宮の栞 :「宮内庁」 これまでの栞はこちらから pdfファイルがダウンロードできます。 今回調べていて見つけました。この栞シリーズは必読の情報源!! 伊東家について :「伊東建一-御所人形の世界」 伊東久重略歴 時代風俗人形について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 へ探訪 京都御所細見 -2 新御車寄、回廊の日華・承明・月華門、建礼門と建春門 へ探訪 京都御所細見 -3 日華門・紫宸殿と南庭・清涼殿 へ探訪 京都御所細見 -4 宜陽殿・春興殿 へ探訪 京都御所細見 -5 御池庭・小御所・蹴鞠の庭 へ探訪 京都御所細見 -6 御学問所、御池庭の北岸畔探訪 京都御所細見 -8 御三間・御学問所・井戸のある空間(御台所跡)へ
2016.06.14
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「蹴鞠の庭」を挟み、御学問所(おがくもんじょ)は小御所の北側に位置します。建物全体の写真は撮りづらい位置です。宮内庁「京都御所の写真」のページに紹介されていますので、こちらからご覧ください。上掲、左の写真は建物の南東隅の縁に置かれた説明パネルです。2010年秋と2012年春に掲示されていた「儲君親王御読書始(ちょくんしんおうおんどくしょはじめ)」の説明です。絵の左上端には、「儲君親王御読書式之図」と記されています。「皇太子や親王などが、十歳前後になると、御読書始の儀が行われました。吉日を選び、侍読(じどく)と呼ばれる師範に選ばれた者から『孝経』などの漢籍を学ばれる、修学始の儀式です。 パネルの図は、御学問所で行われた儲君親王(皇嗣として定められた親王で、その後、立太子の儀を行った)の御読書始で、親王が中段の間に座り、侍読がその前で書の一節を読んでいます。」(説明板を転記)右の写真は庭から見た下段の間です。遣戸と障子が一部開放され、部屋の襖絵(障壁画)が拝見できます。御学問所は3つの部屋の内部、障壁画が見どころとなっています。入母屋造り、檜皮葺きで書院造りの建物です。上記の儀式の他、和歌の会などの学芸関係のほか、臣下と対面する儀式などにも用いられたそうです。(資料1) 室内は畳敷きです。 上段の写真が、展示されていた「儲君親王御読書式之図」です。下段の写真の説明板はいつも簀子に置かれています。建物の南側から下段、中段、上段の間が連なっています。この後、訪れた折々になんとか撮れた写真から抽出して、組み合わせて以下順次ご紹介します。 「上段の間」 原在照筆「岳陽楼図」 西四面の襖には、右下隅に楼閣が描かれ、海が広がり、かなたの島に山岳が眺められる広大な図です。太陽が昇った頃の景色でしょうか。海には帆船が浮かんでいます。北面の襖四面すべてが見られませんが、 西側二面には高層楼閣が描かれています。 中国風という感じ・・・・・。原在照は幕末・明治初期の画家で、安政年間の内裏造営で活躍した宮廷御用絵師だそうです。原派の三代目。(資料2) 「中段の間」 岸岱(がんたい)筆「蘭亭ノ図」 調べてみると、「蘭亭序(らんていじょ)」という書道史上最も有名な王羲之の書作品があるのです。中国の話ですが、353年3月3日に王羲之が名士41人を別荘に招き、蘭亭に集まって曲水の宴を開いたそうです。その曲水の宴の折に作られた詩を詩集とするための序文の草稿が「蘭亭序」だそうです。(資料3,4)この蘭亭に会した名士たちの宴を題材としたのでしょう。岸派の祖である岸駒(がんく)が1824年に「蘭亭曲水図」を水墨画として描いています。(資料4) また「王義之蘭亭之図」を月僊(げっせん 1741-1809)も描いています。(資料5)余談ですが、岸岱(1782-1865)は岸駒(1749-1838)の子です。岡倉天心は岸駒について、こんなことを記しています。「岸駒の長崎にあるや、虎皮の頭あるものを得、工夫を凝らして写生をなし、号して虎頭館という。その画くところ、剥製の虎のごとしといえども、わが国において写生的の虎を画きたるはこの人に始まるなり。その一生画くところの画、半ばこれ虎なり」(資料6)と。そして、岸岱も「父に似て虎に巧みなり」と記しています。左の二面は右の二面と比較して、襖の幅がかなり異なります。右の二面で左のサイズの三面くらいになりそうです。左の二面には山が描かれ、一番左の襖の下部に白く見えるのは人の姿です。 蘭亭に会する人々 「上段の間」です。部屋に設けられているのは、天皇の御座でしょう。正面に違い棚と障壁画が見えます。正面を少しズームアップしてみましょう。狩野永岳筆「十八学士登瀛州(えいしゅう)図」が描かれています。狩野永岳(1790-1867)は、狩野永俊の養子となり、京狩野家をつぎ、御所の御用絵師をつとめた画家です。1823年には九条家の家臣となっているそうです。。妙心寺隣華院客殿の障壁画が代表作といわれています。(資料7) 「十八学士」とは、「唐の太宗が、閣立本(えんりゅうほん)にその像を描かせ、褚亮(ちょりょう)に讃を作らせた十八人の文学館学士」(『大辞林』三省堂)を意味し、辞典にはその名前も列挙されています。また「瀛州」は、「中国で、蓬莱・方丈とともに三神山の一。東海中にあって神仙がすむという島」(同上)のことだそうです。ここでは、後記の通り、文学館を瀛州に例えているそうです。庭から拝見する上段の間の障壁画は、遣戸、障子の陰になり、見えにくい箇所があります。「十八学士登瀛州図」について、調べていて、その部分の絵を提示して作品解説(佐々木氏)をされている資料に出会いました。こちらを御覧ください。(資料6)この画題は中国唐の時代の太宗にちなむ故事だそうです。「太宗が帝位につく前に、学館(文学館)を開き、十八名の文士を集めて殿中に宿直させ、彼らと文籍を論じ合うという、高尚な学術の場としたことから、そこに集まった『十八学士』という名称で呼ばれている。以後、文学館に入ることは名誉なこととされ、『瀛州(東海中の神仙の住む山)に登る』といわれるようになった。」(資料8)とのことです。 廂の間の杉戸絵(北端) 廂の間の杉戸絵(南端)御学問所から御常御殿に向かう時、御池庭の北岸に少し回り込み、築地塀の門をくぐって行くことになります。御池庭の西岸中央から北に眺めた石橋がすぐ傍に見えます。この辺りは、地泉廻遊式の庭としては、静かな林間を逍遙する雰囲気が醸し出されています。季節に応じて木々の色づきの変化が味わえる小道です。 2010年秋 源氏塀越に見える御常御殿 2016年春 2010年秋 では、門をくぐって「御内庭」の区域に入りましょう。 つづく参照資料1) 「京都御所 一般公開」 宮内庁京都事務所 リーフレット2) 原在照 :「コトバンク」3) 蘭亭序 :ウィキペディア4) 岸駒「蘭亭曲水図」:「飯田市美術博物館」5) 王義之蘭亭之図 :「文化遺産オンライン」6) 『日本美術史』 岡倉天心著 平凡社ライブラリー p234,235 7) 狩野永岳 :「コトバンク」8) 十八学士登瀛州(とうえいしゅう)図(狩野永岳筆)=御学問所上段の間 :「京都新聞社」補遺平成28年京都御所春季一般公開 pdfファイル :「宮内庁」中国通史で辿る名言・故事探訪(登瀛州)岸駒 :ウィキペディア虎描きの名手 円山応挙と岸駒 :「本間美術館」岸駒《猛虎図屏風》未見の虎へ挑む──「石田佳也」 :「artscape」 虎の写生に関連した上記岡倉天心の記述より具体的な説明も記されています。隣華院の紹介 :「妙心寺隣華院」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 へ探訪 京都御所細見 -2 新御車寄、回廊の日華・承明・月華門、建礼門と建春門 へ探訪 京都御所細見 -3 日華門・紫宸殿と南庭・清涼殿 へ探訪 京都御所細見 -4 宜陽殿・春興殿 へ探訪 京都御所細見 -5 御池庭・小御所・蹴鞠の庭 へ探訪 京都御所細見 -7 御常御殿・御内庭ほか へ探訪 京都御所細見 -8 御三間・御学問所・井戸のある空間(御台所跡)へ
2016.06.11
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宜陽殿の所から北方向に、仕切りの門を通り抜けると、東側にこの「御池庭」があり、西側に東面する「小御所」と「御学問所」があります。小御所と御学問所は廊下で繋がっていますが、その間に「蹴鞠の庭」と称される白砂の空間があります。冒頭の写真は、池の西岸中央から東を眺めた池の全景です。江戸時代初期に作庭された借景本位の、池を中心にした回遊式庭園です。西岸に一部刈込が見られますが、岸辺一帯に栗石が敷かれた洲浜であり、その周囲は芝生を挟んで建物前面まで白砂が敷き詰められています。池には中島がつくられて橋が架けられています。(資料1,2)清涼殿・紫宸殿や春興殿との位置関係は、この部分拡大順路図をご覧ください。(資料1)東方向正面に見える石灯籠の置かれた中島少し南東方向に目を転じると、洲浜の先に、欅橋が中島を中継ぎにして対岸に架かっています。手前には、栗石の洲浜に置かれた飛石を歩むと船着きになります。逆に、池の北岸方向を眺めますと、洲浜の北端は刈込や樹林となり、その先に御常御殿の茅葺き屋根が見えます。この御池庭も、秋を迎えるとこんな景色になります。 2011年秋の一般公開の折りに撮った写真の一部です。同じ景色でも少しアングルが変わると雰囲気が微妙に変化します。 今春の「小御所」には、「管絃」の場面が等身大の人形で展示されていました。衣冠束帯姿の官人が御簾の手前に座し、楽器( 琵琶 ・笙 ・笛 ・篳篥 ・箏)を奏でている姿が展示されています。南つまり箏・篳篥の演奏者から順に写真を配置しました。小御所を入り、東面する建物に沿って人形展示を見ていくことになります。官人の冠は「垂纓(すいえい)冠」と称されるタイプ。これは文官の冠だったそうです。(資料3)入口に近い小御所の縁の欄干に、「御笙始管弦図(『孝明天皇紀』付図))が掲示されていました。この図の右端の御簾の向こうに孝明天皇が御座に居て、笙の管弦始めの演奏を聴き入られているという図です。右の空席は「関白(臨期出仕なし)」と付記され、その対座には兵部卿貞教親王が琵琶を、その左隣は中山大納言忠能が笛を、関白の座の左側には、右大将建通と正親町大納言実徳の二人が笙を、・・・・という具合に、誰が出席しどの楽器を演奏したかが絵に描かれているのです。2010年秋には、小御所の建物の襖絵そのものや建物内部の一部が拝見できる形でした。小御所は檜皮葺、入母屋造りの建物で外見は寝殿造りなのですが、内部は畳敷で、上中下の3室がある書院造りという構造になっているそうです。つまり、寝殿造りと書院造りの両要素を混合した様式の建物だといいます。ここで諸種の儀式が行われ、武家との対面にも用いられたそうです。(資料1,2)「ここは東宮の御元服、御書始め、立太子の儀式など、皇太子の儀式に用いられたから、一に『御元服御殿』とも呼ばれる」(資料2)とか。この時、3室の襖障子は半分がほぼ開かれて室内が少し見える形にされていました。別の公開時に、展示とは別に障壁画に注目して、襖障子が閉じられた状態で撮った写真もご紹介します。 2012年春 2016年春 2012年春 尚、この公開の時は、小御所への入口に近い所に、この「橋本実麗日記」の慶応3年12月9日条の原文文書の写真とその活字体表示パネルが展示されていました。日記原文ページは冒頭の一部しかこの写真には写っていませんが・・・・。その右側に「小御所会議」の説明板が設置してありました。日記はこの小御所会議(こごしょかいぎ)の部分を示していたのです。「慶応3年12月9日王政復古の大号令が発せられた日の夜、小御所で行われた会議。 大政奉還を実効あるものとするため、第15代将軍徳川慶喜の辞官・納地が必要とする岩倉具視らと、徳川氏の功績や慶喜の人物から、慶喜もここに出席させるべきであるとする山内豊信らが対立し、容易に決着しませんでしたが、結局慶喜に辞官・納地を求めることが決まりました。明治天皇臨御のもと、出席した宮・公家・大名は中段の間、藩士は下段の間に座しました。 パネル写真は会議に出席した権大納言橋本実麗の自筆日記で、当日の様子が書かれています。」(説明板を転記)2011年秋には、今春と少し異なる形式ですが、「管弦」の場面が人形展示されていました。 鞨鼓(かっこ)とこの写真の太鼓も展示されていました。太鼓の皮の表面には3頭の獅子が描かれています。2012年春は、童が先導し、手輿(たごし)に身分の高い女性が乗り、供の女官が続くという人形の展示でした。手輿の前後には駕籠丁(かごちょう)がいます。駕籠丁が手で担ぐと、手の位置が腰のあたりに来ることから「腰輿(ようよ)」とも称されたそうです。この展示の手輿は「板輿」です。「屋形の屋根や側面を板で張り、側面に簾を掛けた。軽便で略式の輿。屋形の側面の前後に長く突き出た二本の柄を、腰のあたりまで持ち上げて運搬した。急用や遠出に用いた。」(資料3) この時、小御所の下段の間から上段の間を望む写真が展示されていました。反射があり見づらいですが・・・。 2014年秋には、「大宋屏風(たいそうのびょうぶ)」が展示されていました。 「大宋屏風は、平安の頃から重要な宮中行事の際によく使用された調度品で、明治元年(1868)紫宸殿で執り行われた五箇条御誓文の儀式(1)の際や、正月早朝に清涼殿で行われた年中行事の四方拝(2)でも使用されました。打毬杖(だきゅうづえ)を肩にした唐人の歩行6名または馬上6名の打毬の図で、普段は清涼殿の夜御殿に置かれています」(説明板を転記)写真の右側上の絵が(1)、下の絵が(2)を描いたものです。赤い矢印が大宋屏風が使用されている場所を示しています。四方拝とは、12月晦日の夜遅くまで行われる追儺(ついな)の行事にひきつづいて行なわれた行事です。「正月元旦に天皇が清涼殿の東庭において属星(ぞくしょう)の名を唱え、天地四方を拝し、次いで山稜を拝し、年の初めに当たって年中の災厄を攘(はら)い、宝祚の無窮を祈る儀式」のことです。「東庭には葉薦(はごも)を敷き、その上に長筵(ながむしろ)を敷き、その周囲を唐人打毬の図を描いてある大宋の屏風八帖をもって取り囲み、中に天皇拝礼の座を設ける」というセッティングがされるそうです。その拝礼の座は、属星、天地四方、山稜のそれぞれのために三座が設けられたといいます。(資料4) これが屏風に描かれた打毬杖を持つ唐人をズームアップして撮ったもの。絵から想像されたでしょうが、「打毬は、馬術競技の『ポロ』とその起源を同じくし、中央アジアの一角に発したものであろうといわれています。」(資料4)中央アジアの騎馬民族のスポーツとして生まれたのでしょうか。これもシルクロードにより中国へ、そして朝鮮半島を経て日本に伝わったのです。「奈良・平安時代には,端午の節会の際に行われる宮中の年中行事となりました。鎌倉時代以降は衰微していましたが,江戸時代に至り,八代将軍吉宗が騎戦を練習する武技としてこれを推奨したため,新しい競技方法も編み出され,諸藩においても盛んに行われるようになりました。」(資料5) 左の写真が小御所、右の写真が御学問所。この両建物が廊下で繋がり、その間が「蹴鞠の庭」と称されています。 この「蹴鞠御覧図(『孝明天皇紀』附図)」が一隅に掲示されていました。嘉永6年(1853)9月23日、この庭で蹴鞠が行われたのです。この絵には右上角に御学問所の部屋の御簾がわずかに描かれているだけですが、御簾の内側に天皇が居られ、蹴鞠を御覧になったという絵です。年号でおわかりでしょうが、孝明天皇は明治天皇の父に当たる人。第121代天皇です。幕末動乱期の最後の天皇。「攘夷論者で条約の勅許を拒否する一方、公武合体を図り、妹の和宮を将軍家茂に降嫁させた」(『日本語大辞典』講談社)のです。孝明天皇の時代までは、京都御所が実際に使われていたということになります。明治天皇は、明治元年3月14日に紫宸殿で「五箇条の御誓文」を発し、新しい政治の方針を発した後、同年10月には東京行幸を行い、東京遷都を実質的に断行しています。しかし、公式の遷都の詔が発せられた事実はないそうです。歴史書には遷都の詔に関する記述はありませんから。おもしろい事象ですね。(資料6)次回は、御学問所です。 つづく 参照資料1) 「京都御所 一般公開」 宮内庁京都事務所 リーフレット2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂3) 『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦 編 須貝稔 作図 小学館 p754) 『有職故実 上』 石村貞吉 嵐義人校訂 p2405) 打毬 :「宮内庁」6) 『詳説日本史研究』 五味文彦・高埜利彦・鳥海靖 編 山川出版社 p318,319補遺管弦 :「コトバンク」孝明天皇 :ウィキペディア孝明天皇は暗殺されたのですか。 :「YAHOO! 知恵袋」幕末の孝明天皇暗殺説を追う :「しがやんの日々」五箇条の御誓文 :「明治神宮とは」五箇条の御誓文 :ウィキペディアポロ :ウィキペディア阿波古式打毬の道具と衣装 :「徳島県立博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 へ探訪 京都御所細見 -2 新御車寄、回廊の日華・承明・月華門、建礼門と建春門 へ探訪 京都御所細見 -3 日華門・紫宸殿と南庭・清涼殿 へ探訪 京都御所細見 -4 宜陽殿・春興殿 へ探訪 京都御所細見 -6 御学問所、御池庭の北岸畔 へ探訪 京都御所細見 -7 御常御殿・御内庭ほか へ探訪 京都御所細見 -8 御三間・御学問所・井戸のある空間(御台所跡)へ
2016.06.09
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この写真は「宜陽殿」を2014年春に撮ったもの。清涼殿の東面から紫宸殿の北面に沿って、真っ直ぐ東に通り抜けて来て、北から南方向を眺めたところです。既に触れていますが、「天皇受禅のさい、諸臣に饗宴を賜ったところ」(資料1)といいます。今春は、この建物の戸が外され、展示の場として使われていました。この展示場所を、宮内庁の今春の一般公開案内ページでは「大臣宿所」と説明しています。(資料2)展示品に向かって右側には、「帷(とばり)について」の説明板が置かれ、帷が展示されています。 「帷は、御帳台(みちょうだい)や几帳(きちょう)、壁代(かべしろ、柱間に掛け、壁の代わりなどとして用いる)などに用いられる布帛です。紫宸殿や清涼殿のような寝殿造の建物では、帷を必要に応じて用いることにより、空間がゆるやかに間仕切られました。また、帷は、ころもがえによって、空間に季節の趣を添える重要な調度でもありました。 帷の生地は正絹(きぎぬ・すずし、夏)・平絹(冬)で、夏用には胡粉で蘆鶴紋が描かれ、冬用には朽木形が摺られます。 また、帷には、幅7.5cmの野筋(のすじ)が垂れ、野筋には夏冬どちらも蝶鳥紋が描かれます。 御帳台に見立てた展示物は、向かって左側に夏用の帷、右側に冬用の帷を掛けています。」(説明板を転記) 中央に「十二単」と「装束の更衣について」の説明板が置かれています。「装束には、束帯や十二単(五衣・唐衣・裳)など、様々な形式のものがあり、御帳台や几帳などと同様に、旧暦四月と十月にころもがえをおこないました。 装束は、生地の違い(裏地の有無など)に加えて、色目によって夏と冬を区別します。色目は、基本的に使用できる時季が決まっており、色目の名前は四季折々の植物や情景などを表しています。装束は瑞々しい季節を身にまとう、日本ならではの衣服といえるでしょう。 今回展示している十二単は「花橘」という襲(かさね)色目で、4,5月に使用される色目です。花橘は、五衣(写真赤枠)の色が上から濃山吹・薄山吹・白・濃青・薄青(伝統的に青は緑系の色を表す)となる配色をいいます。」(説明板を転記) 左側に「かさね色目について」の説明板と展示品です。染司よしおかの制作によるものです。四季の代表的な色目が展示されています。秋:菊の襲 夏:杜若の襲 春:桜の襲 冬:紅梅の襲 かさね色目については、「右に展示している十二単のような古式の装束は、季節に応じて様々な色目が用いられます。色目には、衣の裏と表の配色による『重色目(かさなりいろめ)』と、衣が何枚か重なり合う配色による『襲色目』などがあります。 こちらの作品は、十二単の袖の襲を表現しています。 ~略~花の色を濃淡で表したり、下の衣の色が淡く浮き出るような配色とするなど、花・木・草の彩りが見事に表現されています。 生地の色は、すべて植物染料によるものですが、色目の名称そのものの花樹から抽出されているのではありません。染織方法を記した文献を参考にして、古来の材料によって花樹本来の色味が再現されています。」(説明板を転記)余談ですが、「染司 よしおか」は、宮本武蔵の話に出てくる吉岡道場の吉岡がルーツです。室町時代に足利家の剣術指南役「吉岡流一門」です。宮本武蔵の道場破りの後、剣術から染物へと転向し、以来京都で200年続く老舗の工房です。その五代目が吉岡幸雄氏で、娘・更紗さんが六代目で活躍されています。(資料3,4) また、2012年春には、「馬具」に関連した品々が展示されていました。 唐鞍 唐の時代の鞍に習ったもの祭礼の勅使が用い、行幸の供奉などにももちいられたそうです。(説明板より) 和鞍 公家が晴れの儀に用いた鞍装飾が多く、鞍の下に置く切付(きりつけ)には虎・豹の毛皮を用いたといいます。(説明板より) 鞍の装備 轡(くつわ) 鐙(あぶみ) 尻懸(しりがい) 面懸(おもがい)馬の面(つら)、胸、尻に綱がかけられます。それぞれを面懸・胸懸(むながい)・尻懸といい、総称して馬の三懸(さんがい)と呼ばれます。 馬具を装着した馬の姿 宜陽殿の扉の一つ 宜陽殿の東には広場があります。宜陽殿の東には、「春興殿」があります。今春は、南面する春興殿の前に、舞楽台が設えてありました。今春はこの舞台で雅楽が催されたようです。訪れた時刻には、催しが終了したという告示が出ていました。 春興殿は、大正天皇即位のときに、三種の神器のうち、御鏡を安置するために臨時に建てられたものだそうです。賢所にあたる建物です。入母屋造り、銅板葺で六間三間の建物。内部は外陣・内陣・内々陣の3つからなっているといいます。(資料1) 舞舞台越しに建春門を眺めた広場の景色この広場で、今春は4月9日に雅楽が、4月10日に蹴鞠が催し物として披露されています。雅楽は平安雅楽会、蹴鞠は蹴鞠保存会の人々による実演です。(資料2)それでは、小御所、御池庭の方に進みましょう。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p17,182) 平成28年京都御所春季一般公開について :「宮内庁」3) 宮本武蔵と決闘した吉岡一門は、潰されていなかった!今も続く染物屋に!! :「NAVER まとめ」4) 吉岡更紗(38) 京都で200年続く“染司よしおか”6代目 :「モーニングショー」補遺染司 よしおか ホームページ紫のゆかり 吉岡幸雄の世界 ホームページ日本の色の再現に半生をかけてきた吉岡幸雄 :「美術図書出版 紫紅社」雅楽 :「宮内庁」蹴鞠 :「宮内庁」蹴鞠 (蹴鞠保存会) ホームページ京都御所一般公開 2016/4/10 蹴鞠 Kyoto Gosyo "kemari" (Japanese traditional ball lifting game) :YouTube京都御所 蹴鞠 :YouTube平安雅楽会 :「京都千年の心得」雅楽とは :「いちひめ雅楽会」和式馬具 :「Marvellous Wings」祭礼用馬具(和鞍) :「徳島県立博物館」古代イランの青銅文化/馬具 :「岡山市立オリエント美術館」馬の和鞍制作 :「池川よっと工房」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 へ探訪 京都御所細見 -2 新御車寄、回廊の日華・承明・月華門、建礼門と建春門 へ探訪 京都御所細見 -3 日華門・紫宸殿と南庭・清涼殿 へ探訪 京都御所細見 -5 御池庭・小御所・蹴鞠の庭 へ探訪 京都御所細見 -6 御学問所、御池庭の北岸畔 へ探訪 京都御所細見 -7 御常御殿・御内庭ほか へ探訪 京都御所細見 -8 御三間・御学問所・井戸のある空間(御台所跡)へ
2016.06.08
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これは2009年春の一般公開の時の写真です。日華門のところで参観者が並んで順次、南庭に入っていくところです。この箇所はいつも大勢の参観者が並んでいますので、今春も日華門は撮りませんでした。 日華門を通り南庭に入ります。門のところで北側を見ると、回廊の北に連なる宜陽殿と紫宸殿を繋ぐ廊下が見えます。「宜陽殿」は「天皇受禅のさい、諸臣に饗宴を賜ったところである。ここから紫宸殿に通じる敷石廊下を『軒廊(こんろう)』といい、大嘗祭の前に悠紀(ゆき)・主基(すき)の斎田の候補地を卜なった『亀卜の座』という石がある」(資料1)そうです。南西側に広々とした白砂の南庭と回廊および承明門と掖門が見えます。 紫宸殿前、東側の「左近の桜」 紫宸殿即位・朝賀などの重要な儀式が行われた最も格式の高い正殿です。建物は南面していて、正面九間、側面四間、単層で、屋根は入母屋造り・檜皮葺です。四方に廂(ひさし)を設け、簀子(すのこ)の縁をめぐらし、柱間には蔀戸(しとみど)がはめられる等、典型的な寝殿造りの建物です。高床式宮殿建築です。(資料1,2)三間幅の十八段の階段を上がると、建物の中央に天皇の御座「高御座(たかみくら)」、その東に皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」が置かれています。正面中央に掲げられた「紫宸殿」の額は、岡本保孝筆だそうです。(資料1)「高御座」をズームアップで撮ってみました。大正天皇・昭和天皇の即位礼はこの紫宸殿で行われ、現平成天皇の即位礼に際しては、この高御座・御帳台が東京の宮殿に運ばれて使用されたのです。現在の高御座と御帳台は、大正天皇の即位礼に際して造られたものといいます。(資料2) 紫宸殿前、西側の「右近の橘」 紫宸殿の西側面の眺め紫宸殿の西側面を眺めながら北に進み、「清涼殿」に向かいます。清涼殿は紫宸殿の北西に位置し、東面しています。清涼殿の東は白砂敷のかなりの広さの中庭です。紫宸殿の背面の庭でもあります。 「清涼殿」を南東角から眺めたところ縁の欄干の左側にのガラスのカバーが反射しているところに「年中行事障子」が置かれています。この背後の場所が「殿上の間」です。「殿上の間」は、もっぱら宮中の事務をつかさどり。五位上・六位の蔵人以上の殿上人が侍ったところだそうです。(資料1) 右の写真は2014年春に撮ったもの。通常の清涼殿内部の展示でした。「清涼殿」の全景です。(2009年4月撮影)清涼殿は平安時代に天皇が日常生活の場として使用された御殿で、現在の建物は古制に則って建てられてはいますが、その規模は小さくなっているそうです。日常生活の場として使用しなくなってからは、主に儀式の際に使用されたといいます。(資料2)平面図でみると南北が九間、東西は五間の母屋(もや身舎)が中央にあり周囲に廂がつくられ、建物の東側には吹き放しの弘廂(ひろひさし孫廂)を設けています。さらにその外側に簀子の縁先がめぐらされているという建物です。南廂には「殿上の間」が設けられています。(資料1,3)弘廂の場所は諸臣が列座して重要な政務やおごそかな儀式を行ったところです。(資料1) 今春の清涼殿には、「清涼殿十月更衣」の行事の様子が等身大の人形で再現されて展示されていました。 この儀式展示の全景写真で、手前の左の柱の斜め後に屏風が置かれています。「屏風前の漆喰で塗り固めたところを『石灰壇(いしばいのだん)』といい、地面になぞらえてここから伊勢神宮等を遙拝された」(資料2)という場所だとか。 2010年秋の展示の一部2011年秋に撮った「御帳台(みちょうだい)」この時は、清涼殿内部が通常のままで公開されていました。この御帳台のあるところから母屋と東廂の南半分が「昼の御座」と呼ばれる区域で、御帳台の前に、「昼御座(ひるおまし)」という天皇の座す大床子(だいしょうじ)の御座が設けられていたようです。御帳台の北側の部屋が天皇の寝室である「夜の御殿(おとど)」だったとか。弘廂(東孫廂)に置かれているのが、「昆明池障子(こんめいちのそうじ)」と称されるものです。中国雲南省の昆明の南方に、昆明池という別名で呼ばれる湖があるのです。漢の時代に武帝がこの湖をまねて、長安城の西に池を掘らせ、そこで水戦訓練をさせたといいます。ここでは武帝が掘らせた昆明池を意味するそうです。(資料4,5)この写真には写っていませんが、写真の右側、つまり弘廂の北端には、布張りの衝立(ついたて)、荒海障子(あらうみのそうじ)が置かれています。 清涼殿の東面の南北には簀子に沿って御溝水が流れ、その前に「漢竹(かわたけ)」(南)と「呉竹(くれたけ)」が植えられています。 清涼殿の北側にある「滝口」辞典を引くと、「滝口」には2つの意味があります。一つは「清涼殿の東北、宮中を流れる溝の水の落ち口」(『日本語大辞典』講談社)という意味です。もう一つは、「中世以降、蔵人所に属し、滝口に詰めて、御所の警衛・雑役に当たった武士」(同上)をさします。この辺りの庭に警護の武士たちが詰めていたのでしょうか・・・・。そこで連想するのが、「滝口入道」の話です。高山樗牛(ちょぎゅう)が明治17年(1894)に『滝口入道』と題する小説を発表しています。『平家物語』に題材を得て悲恋物語に潤色した作品です。平安末期に滝口の武士だった斎藤時頼が建礼門院の女官(雑仕)横笛を愛してしまいます。父の怒りをかい出家し僧になった人物。高野山に登り「高野聖」と呼ばれるようになります。『平家物語』の巻十には、「八 横笛の事」として、横笛と斎藤滝口時頼としてその悲恋のエピソードが語られています。「高野に年頃知り給へる聖あり。三條の斎藤左右門茂頼が子に、斎藤滝口時頼とて、もとは小松殿の侍たりしが、十三の年本所へ参りたり。建礼門院の雑仕横笛と云ふ女あり。滝口これに最愛す。父、この由を伝へ聞いて、・・・・・」という一節からその後の展開が物語られるのです。平家物語には、相聞歌が収録されています。 そるまでは恨みしかども梓弓まことの道に入るぞうれしき 滝口入道 そるとても何か恨みん梓弓引きとどむべき心あらねば 横笛その後横笛は奈良の法華寺に入り、しばらくして亡くなったと記されています。(資料6) 尚、寺の名を記さないもの、あるいは横笛が桂河に身を投げて死んだという伝承もあるそうです。京都嵯峨野にある祇王寺の近くに、「滝口寺」がひっそりと存在します。(資料7)脇道に入ってしまいました。元に戻りましょう。 清涼殿東面、つまり建物前から白砂の庭を東方向に眺めた景色左の写真の右端に、建物の1階部分が通り抜けの通路になっている箇所があります。この漆喰塗りの白壁の建物の内部に紫宸殿と清涼殿のそれぞれと小御所や御学問所とを結ぶ廊下を兼ねた建物になっているようです。建物内部の構造は資料がないのでわかりません。右の写真が、紫宸殿の背面(北面)です。 上掲の廊下を含む建物ほ檜皮葺きの屋根の一部は、2009年・2010年の一般公開で訪れた時には、この記録写真の通り、かなり老朽化していました。それがすべてすっきりと修復されていました。文化遺産としての御所のメンテナンスが営々と続けられているのです。この写真は、紫宸殿の北面を、清涼殿南廂側の「殿上の間」に近い通路から撮ったものです。この時は蔀戸(しとみど)がすべて閉ざされていました。今春はそこが開放されていました。簀子縁の欄干越しに、建物内の障壁画を少し庭から眺めることができました。 白砂の庭を紫宸殿北面に沿って、通り抜けるときに見上げた連子窓 建物の1階開口部の通路を通り抜けたところの建物の繋がり通路の南側は、紫宸殿への東廊に当たる区域です。この東廊に「陣の座」がありました。御車寄の展示説明に記載の「陣の座」です。狭い板敷の間です。当初は左近衛府の武官が陣を設けた所です。「近世は親王宣下・改元などの重要な会議室とされた」(資料1) そうです。陣の座、小庭、軒廊(石敷廊下)の先に、朱塗りの回廊が見えます。 反対に、北側に目を転じると、小御所の建物の南側にある小さな庭があります。仕切り部分には、右の写真の垣根が設けられていて、ちょっと風情が生まれています。仕切り箇所を抜けると、宜陽殿の北側に抜けます。 紫宸殿への東廊、つまり「陣の座」のある方と先ほど紫宸殿の北面から通り過ぎてきた通路側の回廊への分岐の入口が見えます。戸を閉じれば通行を分断することができる形になっています。ここで、一旦、宜陽殿の東側、つまり日華門のある広い区画に戻ってきたことになります。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p16-182) 「京都御所 一般公開」 宮内庁京都事務所 リーフレット3) 清涼殿 :「コトバンク」4) 昆明池 :「コトバンク」5) 昆明池障子 :「コトバンク」6) 『平家物語 下巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p143-1467) 滝口寺 :「京都観光 街めぐり」 滝口寺 ちょっと言いたくなる京都通 :「伊藤久右衞門」補遺昆明池障子 :ウィキペディア高山樗牛 :ウィキペディア高山樗牛 近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」滝口入道 :「青空文庫」高野山別格本山 大圓院 ホームページ 滝口入道旧蹟 横笛 ゆかりの寺院です。唐長安図 資治通鑑 唐紀 :「中国歴史世界」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 へ探訪 京都御所細見 -2 新御車寄、回廊の日華・承明・月華門、建礼門と建春門 へ探訪 京都御所細見 -4 宜陽殿・春興殿 へ探訪 京都御所細見 -5 御池庭・小御所・蹴鞠の庭 へ探訪 京都御所細見 -6 御学問所、御池庭の北岸畔 へ探訪 京都御所細見 -7 御常御殿・御内庭ほか へ探訪 京都御所細見 -8 御三間・御学問所・井戸のある空間(御台所跡)へ
2016.06.06
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「諸大夫の間」の南側には、「新御車寄」の建物があります。「大正4年(1915)の大正天皇の即位礼に際し、建てられたもので、大正以後の天皇皇后両陛下の玄関」(資料1)だそうです。 今春は、この新御車寄の正面の扉が開けられて、玄関の間に杉戸絵「春夏花車」(吉田公均よしだこうきん筆)が展示されていました。 杉戸に「牡丹や百合、藤など春と夏の草花が盛られた竹籠を荷台に載せている車」が描かれています。「この杉戸は、安政度御造営時(1855)には御学問所と奧新廊下(御常御殿へ続く廊下)の境にありました。その後、第二次世界大戦に伴う建物疎開で奧新廊下が取り払われた際に、この杉戸も取り外されました。現在は収蔵庫で保存しており、平成27年度に修理を終えました」(説明板を転記) この説明パネルも掲示 2009年春の展示 馬車この玄関へのアプローチ部分も展示に使われます。2010年秋と2012年春の展示 玄関の扉そのものが対象に2011年春の展示 舞台の設置と等身大の舞姫人形平安時代の舞衣裳と舞い姿が華やかさを加えました。2014年春の展示 玄関の扉が開かれて、「馬形障子」(衝立)これらは、「清涼殿西側の渡殿(わたどの)に立てられている2基の衝立で、跳馬(はねうま右)と乗馬の打毬(だきゅう左)を画いたものです。こちらは安政内裏御造営(1855年)の際に画かれたものですが、馬形障子は平安時代から設えられてた伝統的な衝立障子です。」(説明板を転記)新御車寄の東側に、「閤門(内門)」が設けられた朱塗りの回廊があります。回廊の内側に紫宸殿と白砂敷の南庭があります。この写真は西側の回廊と「月華門」(八脚門)です。東側回廊の日華門の南側にこの門があります。同様の門が南側、東側の回廊にも設けられています。回廊の築地に門扉が設えられているだけです。こういう回廊の築地に開けられている門は掖門(えきもん)と称するそうです。「掖」という漢字には、「1.わきばさむ。わきの下にはさむ。2.わき。わきの下。3.たすける。かたわらから、ささえる」という意味だとか(『日本語大辞典』講談社)。つまり、わきにある門という意味ですね。また「穴門」とも通称するようです。南庭の東側には日華門があります。南側の回廊には、南面する紫宸殿の真っ直ぐ南に承明門が設けられています。承明門の西側(西廊)にも掖門があり、同様に東側の回廊正面にも掖門が見えます。月華門の西側回廊の南寄りには毎回、生け花の大作が展示されます。 大本山大覚寺 嵯峨御流 総本山 御寺泉涌寺 月輪未主流 総本山仁和寺 御室流 「承明門」南側の回廊の中央にあります。写真では「紫宸殿」の屋根と正面の扁額が見えます。紫宸殿と回廊の承明門、そして御所の築地塀に設けられた建礼門は一直線に位置します。前回ご紹介したリーフレットの表紙に、建礼門を通して眺めた紫宸殿の写真が載っています。 御所内側から眺めた建礼門近づいて建礼門を眺めてみましょう。 左の写真は門扉の内側。右の写真は門を見上げたところ 建礼門の蟇股 柱の錺金具 建礼門も四脚門です。門の両側で御所の築地塀は鍵型に一旦曲がっています。築地塀外の御溝水(みかわみず)より一段内側に入った位置に門が設置されています。外周の築地塀の曲がった面と直角に繋がる形で、高さが一段低く幅の狭い築地塀が門の両脇に続いています。左の写真は鍵型に曲がった築地塀の端です。東側の回廊には「日華門」があり、紫宸殿の拝見はこの日華門をくぐって南庭に入る順路になっています。日華門に至るまでの東側回廊に、今春は3つのテーマで展示されていました。 一つが「京都御所の襖」についてです。襖に使われる紙の見本と、襖の見本が展示されていました。「高木手入れについて」の説明パネルの掲示「檜皮葺について」の説明パネルの掲示 「檜皮葺屋根実物模型」が展示されています。これは常設展示品のようです。2009年春には、この実物模型が展示されていました。日華門の北側の回廊は「宜陽殿」につながります。日華門から東を眺めると、御所の築地塀に設けられた東の門、「建春門」が砂利敷きの広場空間の先に見えます。 建春門の大瓶束 建春門の蟇股 秋の拝観の折りには、この東の広場の東端一隅の木々が色づきます。余談ですが、平安時代の元の内裏図(資料2,3)と京都御所のレイアウトを対比的に眺めてみました。紫宸殿、承明門、建礼門が南北一直線上に配置されているのは同じです。しかし、かつての内裏は、承明門を含む「閤門(内門)」が十二門あったのです。各方位の中央の門は南が承明門、北が玄輝門、東が宜陽門、西が陰明門です。この中央の門の左右に門があったのです。合計で12門。そして、紫宸殿の南側の東西に各2棟が南北に並んでいました。東側の宜陽殿と春興殿の間に日華門、西側は校書殿と安福殿の間に月華門がありました。つまり、「内閤門」という位置づけです。現在の京都御所は、上記の日華門・承明門・月華門の名称が残されてそれらが回廊で繋がれたということになります。そして、御所の外周の築地塀に、宜秋門・建礼門・建春門の名称が残された形です。日華門は「東の中門」とも呼ばれ、左近衛府の「陣」(=詰め所)が置かれていたことから、「左近陣(さこんのじん)」とも言われたそうです。同様に、月華門は、「西の中門」で、右近衛府の「陣」が置かれ、「右近陣」と呼ばれたそうです。また、紫宸殿の東廊に「陣の座」があり、月華門より日華門が近いので、日華門の方が重要とされ節会・儀式などの際の通用門として多く使われたのだとか。(資料3)また、「陣の座」は「宮中で、神事・節会・任官・叙位などの公事に、公卿が列席して事を行った座席」(『大辞林』三省堂)と説明されています。調べてみて、前回ご紹介の「寄障子」の説明文ともつながりが深まり、おもしろいものです。上記の掖門について、かつての内裏と対比してみると、承明門の西側(西廊)には「永安門」がありました。また月華門の南・安福殿のさらに南側に右掖門、同様に日華門の南・春興殿のさらに南側に左掖門があったようです。(資料2)このあたりが、回廊の形式を整備するときに影響しているのでしょうか。もちろん、紫宸殿の南庭が儀式の場として使われるなら穴門が実務的にも必要でしょうが。それでは、日華門から紫宸殿のある南庭に入りましょう。つづく参照資料1) 「京都御所 一般公開」 宮内庁京都事務所 リーフレット2) 『常用 源氏物語要覧』 中野幸一編 武蔵野書院 p93) 内裏図 :「官制大観」補遺いけばな嵯峨御流 ホームページ華道 月輪未生流 ホームページ御室流 OMURO IKEBANA ホームページ内裏 :ウィキペディア故実叢書・大内裏図考証 :「国立国会図書館デジタルコレクション」平安時代の内裏と儀式 小宮和寛氏 thesaitama蛤御門の由来、より古かった? 記述の内裏図に注目 2016.4.9 :「京都新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 へ探訪 京都御所細見 -3 日華門・紫宸殿と南庭・清涼殿 へ探訪 京都御所細見 -4 宜陽殿・春興殿 へ探訪 京都御所細見 -5 御池庭・小御所・蹴鞠の庭 へ探訪 京都御所細見 -6 御学問所、御池庭の北岸畔 へ探訪 京都御所細見 -7 御常御殿・御内庭ほか へ探訪 京都御所細見 -8 御三間・御学問所・井戸のある空間(御台所跡)へ
2016.06.05
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京都御所は春秋にそれぞれ一般公開される期間があります。今春の一般公開にも拝見してきました。「にも」と書いたのはデジカメで撮った写真のファイルをみる限りでは2009年の春以降、6回目になるからです。時々に撮った写真も織り込みながら、一般公開の拝見順路に沿って、具体的にご紹介してみたいと思います。冒頭の写真は、京都御所への入口となる宜秋門のところでいただいたリーフレットです。宜秋門前あたりから北方向を眺めて(2010.5.16)一般公開期間中は門前にテントが張られ、そこで手荷物検査を受けてから宜秋門を通過して京都御所内に入ります。2012年春の一般公開の折りには、テント前でこのワンちゃんに出会いました。今春探訪したのは最終日でしたが皇宮警察犬をみかけませんでした。 左の写真はリーフレットから引用した京都御所の全体図と一般公開順路です。右の写真が、今回直接関係する拝見順路の箇所です。 宜秋門からまず眺めていきましょう。宜秋門は四脚門です。正面の頭貫の上の蟇股から始めます。大きな魚に跨がる仙人と鶴に乗る仙人が彫られています。軒棰の上の横木には錺金具が輝いています。中央の菊花と亀甲文の図柄です。門の両側に連なる築地塀の端に当たる部分、四脚門の本柱と控柱の間に見える彫刻から眺めていきたいものです。北と南の図柄が違います。宜秋門を入って、側面から眺めた門の屋根 門の内側から眺めた蟇股 この宜秋門だけでも仔細に観察するなら数十分はまたたく過ぎ去りますが、ここが入口ですのでじっと留まっている訳には行きません。 宜秋門を入ると南東に「御車寄」の建物と唐破風が見えます。ここは、御所に昇殿を許された人々が参内する時の玄関です。この玄関口を一般公開のたびに異なった趣向で拝見できるのです。今春は、玄関に寄障子「養由基射猿(ようゆうきしゃえん)」(土佐光文筆)が展示されていました。画面の右下に弓に矢をつがえる武将がいます。画面左側中央に樹木の枝に白い猿が描かれています。 ”この作品は、紫宸殿の東にある陣の座の西側の通常は人が往来する扉に填められる寄障子というもので、京都御所では唯一の形式のものです。 弓を持つ養由基(中国春秋時代の王国(楚)の武将で弓の名手)と木の陰に隠れている白い猿が画かれており、楚の国王が射た矢をつかんだ白い猿でさえ、養由基が弓矢を整えるだけでおびえて木にしがみついたという故事を題材としています。この作品の裏側にも「李広射石(りこうしゃせき)」という弓の名手に関する中国の故事を題材とした絵が画かれています。 陣の座は、平安中期以降に陣定(じんさだめ)や改元・親王宣下などの重要な審議がおこなわれた場所として知られていますが、その名称は、御所の警固にあたる左近衛府(さこんえふ)の官人が陣を置いたことに由来します。この寄障子は、陣の座の性格を示すとともに、武官の心得として置かれたものだと考えられています。” (上掲説明板の転記)「衛府」とは、「古代、皇宮・都城の警護にあたった役所の総称」(『日本語大辞典』講談社)です。平安時代の811年以降、宮中には六衛府(ろくえふ/りくえふ)が設置されていたそうです。左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府です。左右が対になっています。後にご紹介する紫宸殿の正面には、ご存知の「左近の桜、右近の橘」があります。「左近の桜」と称するのは、「平安時代以降、左近衛府の官人がそのせわをしたことからの名」(同上)なのだそうです。同様に、橘は右近衛府の官人がせわしたのでしょう。 2009年春の公開時の展示(衝立) 林葵山筆「岩に唐鳥]図2010年秋の公開時の展示 賀茂祭「進発の儀」「賀茂祭(葵祭)行列の出発に際し、御車寄に近衛使、奉行、奉行属が着座し、上賀茂神社からの迎えの者(後見と乗尻)から、出発の挨拶(口上)を受けます。」(説明板転記)2011年秋の公開時の展示(衝立) 長沢蘆州筆「月に雁」図 2012年春の公開時の展示(屏風) 龍図2014年春の公開時には、大輪の生け花が展示されていました。御車寄から「諸大夫の間」と称される建物の方に進みます。この建物への途中に仕切りの塀があります。諸大夫の間 この建物は、参内した人の控えの間です。庭から3つ続いた部屋を眺めることができます。東西方向に3部屋が連なっています。当時は身分の違いにより、異なった部屋に控えたそうです。格の高い順に「虎の間」(東)「鶴の間」(中)「桜の間」(西)となり、それぞれに控えたのです。「諸大夫の間」は本来は桜の間をさすのですが、それが総称ともなっているようです。 桜の間 鶴の間 虎の間 この「諸大夫の間」は各部屋の障壁画を鑑賞することが主目的の場所になります。毎回久しぶりに眺められたな・・・という気分です。天候と光の具合によって、遠望する障壁画の見やすさと雰囲気が微妙に変わります。ここは、今までに撮りためた写真を組み合わせてみました。(大勢の拝観者の流れの中で撮っていますので、じっと止まっているわけにもいかず、毎回部分的にしか撮れません。)794年に桓武天皇が平安京に遷都した時は、南端の羅生門から北に真っ直ぐに朱雀大路が通り、その一番北に朱雀門を正面として大内裏(だいだいり)がありました。政治を司る朝堂院を中核に諸官庁が集まっていたのです。その中に、内裏(だいり)つまり皇居がありました。当時の内裏は、現在の京都御所より西へ約2kmほどの場所です。しかし、歳月を経る間に、火災や台風・地震などに遭遇し内裏が荒廃します。そのため、天皇は京中にある別院や藤原氏等の公家の邸宅を仮御所にして住むようになります。これは里内裏(さとだいり)と呼ばれたそうです。京都御所の位置は、もと土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)と称された里内裏の一つでした。元弘元年(1331)に北朝の光厳(こうごん)天皇が即位後入居され皇居となり、南北両朝が合一された後は、そのまま明治まで正統天皇の皇居となったのです。皇居は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって整備拡張が行われたそうです。そして、徳川二代将軍秀忠の娘和子の入内(じゅだい)に際して、大幅に拡張増築されるに至ります。その後、火災と再建が繰り返されます。現在の建物は安政2年(1855)に再建されたものだということです。「平安京内裏そのままではないが、その主要な部分は如実に再現され、建築史的にも注目すべきものがある」(資料2)、つまり「紫宸殿、清涼殿等の平安時代以降の寝殿造りや、御学問所、御常御殿等の後世における書院造りなど、宮廷の長い歴史を反映した様々な建築の様式をみることができる」(資料1)のです。京都御所は東西約249m、南北約448mの規模で、面積約11万平方mといいます。(資料1,2)京都御所を含む現在の「京都御苑」は、南北は丸太町通と今出川通、東西は寺町通と烏丸通で作られた区画全体です。余談ですが、「近衛府は、閣門(こうもん)則ち内郭諸門内の警備に当り、兵衛府は、宮門、則ち中重諸門内の警備に当り、衛門府は、宮城門則ち外郭諸門内の警備に当り、各府その管轄区域を限定して、その守衛の任を完(まっと)うした。また京都内の街路を区分し、時を定めて夜番を行い、夜鼓の声絶えて後は、道を行くことを禁じ、暁に至りて鼓を打つ後、出で行くことを許し、その監督にあたった。」(資料3)そうです。左右衛門府が検非違使(けびいし)を兼ねたのです。近衛府の長官は左大将・右大将で、大臣か大納言が兼ねるのが普通だったようです。次官が中将です。その内の一人が蔵人頭(くろうどのかみ)を兼ねます。蔵人所の実質上の長です。蔵人所は天皇の側近で、宮廷の日常生活や儀式が政治の中心になりますが、宮中の諸方面との連絡を任務とするところ。『源氏物語』では「帚木(ははきぎ)」の巻では、光源氏は中将であり、また源氏の親友として「頭中将」が出て来ます。また、女三の宮と密通するに至る柏木も頭中将の職についています。中将は、典型的な出世コースの足がかりとなる役職でした。(資料4)「諸大夫の間」の南に、「新御車寄」の建物があります。つづく参照資料1) 「京都御所 一般公開」 宮内庁京都事務所 リーフレット2) 『昭和京都名所圖會』 竹村俊則著 駸々堂 p153) 『有職故実 上』 石村貞吉 嵐 羲人校訂 講談社学術文庫 p100-1094) 『源氏物語ハンドブック』 鈴木日出男編 三省堂 p152-153補遺京都御所略図 :「宮内庁」平成28年京都御所春季一般公開 pdfファイル :「宮内庁」京都御所の写真 :「宮内庁」官職 :「官制大観」日本平安時代と中国唐朝の官制比較2 :「藤原泰明的博客」日本平安時代と中国唐朝の官制比較3 :「藤原泰明的博客」 公家武官夏束帯・平安時代 :「E☆エブリスタ」「武官束帯の後ろ姿」 早稲田待賢殿動画11 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所細見 -2 新御車寄、回廊の日華・承明・月華門、建礼門と建春門 へ探訪 京都御所細見 -3 日華門・紫宸殿と南庭・清涼殿 へ探訪 京都御所細見 -4 宜陽殿・春興殿 へ探訪 京都御所細見 -5 御池庭・小御所・蹴鞠の庭 へ探訪 京都御所細見 -6 御学問所、御池庭の北岸畔 へ探訪 京都御所細見 -7 御常御殿・御内庭ほか へ探訪 京都御所細見 -8 御三間・御学問所・井戸のある空間(御台所跡)へ
2016.06.04
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知恩院口から登り、法垂窟を拝見してそのまま引き返す予定が引き返せなくなってすこし慌てたことは前回触れました。将軍塚まで登ることなく、石積上の地蔵尊のところが分岐点となることをご教示いただけたので、助かりました。冒頭の写真は、その分岐点にある道標です。左の写真には、「東山山頂公園」の方向を示しています。ここで右の写真の板橋を渡って右方向に山道を下ります。その下り道の右側山麓が「安養寺」の寺域なのです。山道を少し下ると、この石標が目に止まりました。安養寺の山門前の道は円山公園と知恩院とを結ぶ道として、過去幾度も通り過ぎています。そのため、この寺が吉水草庵ゆかりの地であり、歓喜天が祀られていることは石標で知ってはいました。山門をくぐって、境内に入って拝見できるものと思い込んでいました。今回この聖天堂を直に拝見できることを知ったことは、思わぬプラスアルファの一つでした。安養寺境内は未だ拝観していません。いずれ機会をみつけて、またこの辺りを散策したいと思っています。石標の傍に、お堂までの参道が山腹沿いに北方向に延びています。お堂の手前に、手水舎があります。 円山聖天堂(歓喜天堂)「歓喜天」の扁額が掛けられ、「大聖歓喜天」と記された提灯が向拝に吊り下げられています。ここの歓喜天は生駒聖天より勧請されたと伝わります。また、このお堂はかつては雨宝堂だったとか。(資料1)更に山道を下ると、「将軍塚道」の石標が分岐点付近にあります。右折して下って行くところに、 これら民家が立ち並んでいます。序でにご紹介しておきます。左の写真、安養寺の南隣り、円山公園の一番奥に位置する「お宿吉水」(京都吉水)。100年の歴史を持つ数寄屋造りの宿です。京都吉水のホームページはこちらをご覧ください。 右の写真の右端に見える白い柱が上掲の石標です。この写真に写っているのは、「唯凡庵」(左)と「原口天青庵」(右)というお店。料理屋さんです。右折した下り坂は少し北方向に向かっています。次の分岐点で道を北に歩むと、安養寺の石垣上の築地塀と山門への石段が東側に見えるのです。今回は南方向に左折して先にある石段を下ります。ここに見えるのが「吉水弁財天堂」です。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。位置関係がご理解いただけるでしょう。 吉水弁財天堂の正面ここは安養寺門前の下段の地になり、飛地境内です。(資料2,3,4) 石造鳥居手前の狛犬像 お堂には、銅葺き・唐破風の向拝が付いています。屋根の獅子口に付けられた紋がかなり風化しています。両側の柱には、「吉水弁財天女」の提灯が掛けられ、頭貫の下には中央に一際大きい「大弁財天女」と記された大赤提灯、その両側に「弁財天女」と記した赤提灯が吊されています。弁財天女像は厨子に納められて祀られているようです。厨子の前に赤い鳥居と鏡が置かれていて、孔雀の羽根が数本見えました。この弁財天は慈鎮和尚(慈円)が安養寺の鎮守として祀られたそうです。比叡山無動寺からの勧請といいます。(資料2,3,4)「後小松帝の頃琵琶法師源照がこの弁才天に願をかけ技芸上達に励んだ所その名声が天聴に達し紫衣を着ることを許された。とか粟田口の刀工藤四郎吉光が弁財天の向い槌で名刀を鍛えあげた。」(資料3)と伝えられているそうです。この粟田口の藤四郎のエピソードは、『山州名跡志』(資料5)が詳しく記述しています。古来技芸上達祈願の信仰が厚い弁財天堂。「円山の弁天さん」として親しまれ、土地柄でしょうか、祇園花街の人々の信仰を集めているといいます。頭貫の上の蟇股部分がダイナミックな大きな龍の透かし彫りで覆われる位です。これとバランスする形で木鼻の彫刻も見応えがあります。 上を見上げながらお堂の周囲を回り始めたせいか、お堂の南側境内にある「吉水(よしみず/きっすい)の井」の井筒を見落としてしまいました。ちょっと残念!慈鎮和尚(慈円)は、この水を汲んで閼伽の水にされたといいます。古来名水の一つとされ、この「吉水」がこの辺りの地名の由来になったのです。『山州名跡志』は「吉水 多福菴の下、石階の傍の清泉是也。則地の名とす。慈鎮和尚この所に居住の故に、吉水和尚と称す。」(資料5)と記しています。事後調べでの後智恵です。なにせ、ここを訪れたのも、今回は2つめのプラス・アルファだったのです。この吉水が重視されていた事例として、『都名所図会』は、次の説明を加えています。「青蓮院宮御代々の法親王潅頂の時、この水を閼伽とし、夜深更に例式の列を糺し給ひ、御手づから汲ませらるるといふ」。また、『山州名跡志』ではさらにその当時の儀式に触れてこう記します。「其式甲冑を著したる者前駆し、白衣を著する僧、水桶を担ひて列を引、門主乗輿にて来臨なり。種々の儀式あり」と。(資料5,6) 境内の南東隅に滝口が設けられています。滝口の上奧には、不動明王石像が安置されています。お堂を回り込むと、北東側には石垣の上に小祠が祀られていますが、不詳です。石垣の西・お堂の北東側に「慈円和尚宝塔」(鎌倉時代・重文)が安置されています。壺形の塔身正面は扉を開いた形で、多宝・釈迦の二仏が並座する姿を浮彫にしているといわれています。(資料2) 基壇の代わりに大きな自然石が使用されていて、少し変則的な宝塔です。どっしりと重厚な感じがします。この弁財天堂の前の道路を今までに何度も通り過ぎてはいるのですが、今回初めて境内を拝見した次第です。いずれ機会を作り、見落とした箇所の拝見とともに安養寺の現在の境内を拝観したいと思っています。この後、円山公園を横切り、桜を眺めつつ、京阪電車の祇園四条駅に向かいました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 安養寺(東山区) :「京都風光」2) 『昭和京都名所圖會 洛東 上』 竹村俊則著 駸々堂 p231-2353) 吉水草庵安養寺 ホームページ4) 吉水弁財天堂(円山弁天堂)(東山区) :「京都風光」5) 山州名跡誌 68/335コマ目 :「近代デジタルライブラリー」6)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p282補遺比叡山延暦寺 無動寺明王堂・弁天堂 :「古今御朱印覚え書」聖天信仰の寺々 京都女子大近くにある香雪院(通称「東山聖天」)へ :「京都検定合格を目指す京都案内」 眞葛が原聖天 :「天台宗金玉山雙林寺」 嵯峨野大覚寺塔頭 覚勝院 ホームページ 雨宝院(西陣聖天宮) :「KYOTO design」 双林院(山科聖天) :「京都観光Navi」 深草聖天(嘉祥寺) 拙探訪によるブログ記事ですが・・・・ 探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -5 嘉祥寺(深草聖天)へ 御蔵山聖天 :「ガイドブックス京都」 観音寺(山崎聖天) :「山崎観光案内所」聖天さまQ&A :「天台宗金玉山雙林寺」聖天信仰の本義と時代背景を求めて 新田義圓氏 pdfファイル弁財天廿九ヶ所 古の京の霊場 :「京の霊場」七福神(弁財天) :「寺社関連の豆知識」蛇 ~ヘビ(1) 弁天・弁才天・弁財天の蛇 :「神使の館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 東山山麓を歩く -1 知恩院の大鐘楼から法垂窟へ
2016.05.31
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京都・東山に浄土宗総本山知恩院があります。正式呼称は「華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざんちおんきょういんおおたにてら)」です。しかし今は「知恩院」の方が一般的であり、道路標識も地図も、知恩院と表記されています。正面の三門には、「華頂山」の扁額が掲げられています。(資料1)冒頭の写真は、「知恩院の大鐘楼」です。久しぶりに知恩院の境内に入ると、御影堂は現在修理中です。境内の南東隅にこの大鐘楼があります。今回はここを起点にした探訪を、事後整理を兼ねてご紹介します。学生時代に一度この大鐘楼の柱のすぐ傍で、除夜の鐘が撞かれる姿と鳴り響く鐘の音を見聞したことが懐かしい思い出としてあります。その後は除夜の鐘としてこの大梵鐘が鳴る音は、行く年来る年の放映で眺めるだけですが・・・。今回の直接の目的は、「法垂窟」を訪ねてみたいということでした。 起点とするこの大鐘楼の写真を撮っていて、初めて気づいたのは鐘楼の傍に「殉難忠士之墓」と刻された墓碑が建立されていることです。この墓碑が一隅にひっそりとあるだけです。裏側に回ってみると、末尾に「大僧正學天誌」と刻され、「頃年有抗 朝命者」という一行目から始まり「樹立墓碣以慰忠魂」で終わる漢文で記されています。この大鐘楼のすぐ東、山側が知恩院の境内境界です。フェンスで囲われていて、扉があります。夕刻までは開かれているようで、私がここを通ったのは、3月下旬の午後4時少し前くらいでした。 門扉から山道に入ると、北側に左の写真「高台寺山国有林散策マップ」という案内掲示板があります。そして、近いところに「ほーたるのいわや 一丁」という道標が山道の右側に立っています。掲示の地図を拡大してみました。大鐘楼の東側の境界門扉地点からの山道が、将軍塚、東山山頂公園への国有林歩道の一つ「知恩院口」になります。山道を登って行きますと、約100mほどで、石造垣根で囲われた場所と東屋が山道の北側に見え始めます。石造垣根(以下、境内と称します)の南西角、つまり上ってきた山道に近いところに入口があります。 山道に沿った石造垣根の東端に「法垂窟」の大きな石碑が立っています。山道の西側には幅は狭いですが少し深い溝、小川があるというべきでしょうか。その西側にかかる小橋があり、その先の敷地に廃屋風の建物があります。青蓮院境内地という表示板が橋のところに立てられていました。このあたり、青蓮院の飛地になっているようです。参道から北に「法垂窟」全体を眺めた景色それでは境内の探訪を始めましょう。東屋の方に少し戻ります。境内地の南西部に入口があります。 西端に石灯籠が並び、参道が鍵型に右折します。右の写真の左の歌碑が参道の突き当たりにあるもの。左折すると境内は2段になっています。隣に句碑が建てられているようです。それぞれ達筆すぎて、私には判読できません。 さらに、この歌碑も・・・ 法垂窟の前面にも石造垣根が設けられていて、一種の結界となっています。上の写真の石灯籠の左に「法然上人 親鸞聖人 御旧蹟」と刻された石碑が建てられています。この石造垣根の入口の柱に紋が刻されていますが、これはどこの紋なのでしょうか?藤葉の内側に抱杏葉がデザインされた紋に見えます。浄土宗の宗紋でも、真宗系(東西両本願寺)の宗紋でもありません。知恩院が使われている紋にも該当しません。少し調べた範囲では不詳です。法垂窟の左手前にこの歌碑が建てられています。法垂窟の上部に嵌め込まれた石板のレリーフの左には「善導大師」。雲に乗る大師の足許を瑞鳥が飛び回り、大師の頭部の右側背後には3体の雲に乗る仏が浮彫にされています。菩薩像でしょうか・・・・。少し低い位置には「圓光大師」つまり、法然上人が立たれています。 そして、右端に「善導大師 圓光大師 真葛ケ原御対面之図」と刻されています。これは『法然上人絵伝』(国宝・知恩院蔵)四十八巻のうち巻七にある第五段の挿絵に相当する図をレリーフにしているもののようです。手許の図録には、「第五段 法然、夢中に善導大師に逢う」とキャプションがついています。絵伝の絵では、善導大師と法然との間に大河(もしくは大海)があります。それは中国と日本、あるいは彼岸と此岸の象徴なのかもしれません。(資料2)手許の『法然上人絵伝』の第五段の本文を読んでみました。この夢のことが直接に記載されているわけではありません。あるとき月輪殿での山僧との会話に次の引用文が記されています。(資料3) ”山僧と参会の事侍(はべり)りしに、「かの僧浄土宗を立給なるは、いづれの文によりて立給ぞや」とたずぬるとき、「善導の観経疏(かんぎょうのしょ)の附属の文なり」と答給に、重(かさねて)いはく、「宗義をたつる程のことになんぞただ一文によるべきや」と。上人微咲(みしょう)して物もの給はざりけり。”一方、法然が弟子の源智に語ったものと思われる内容が、『醍醐本』「一期(いちご)物語」に語られているそうです。孫引きですが引用します。(資料4) ”但し、自身の出離においてすでに思ひ定め畢(おわ)んぬ。他人のためにこれを弘めんと欲すと雖(いえど)も、時機叶ひ難きが故に、煩ひて眠る夢の中に、紫雲大いに聳(そび)えて日本国に覆へり。雲中より無量の光を出す。光の中より百宝の色の鳥飛び散りて充満せり。時に高山に昇りて忽ちに生身の善導に値(あ)ひ奉る。越より下は金色なり。腰より上は常の人の如し。高僧の云はく、汝不肖(ふしょう)の身たりと雖も、専修念仏を年々に繁昌して流布せざる境なきなり。”窟の中に石仏が祀られています。窟には清水が溜まっているようです。 中央はそのお姿から推測して阿弥陀仏坐像、その両脇に二つの石像が安置されています。その二体はその頭部からみて阿弥陀仏の脇侍である観音菩薩像とは思えません。地蔵菩薩坐像か阿羅漢坐像と思われます。左側手前にもう一体安置されているのは地蔵菩薩立像と思える石仏像です。阿弥陀仏の化身として善導大師をとらえてみと、小祠に善導大師、法然上人、親鸞聖人を重ねたイメージで三像が祀られているとみることもできます。『法然上人絵伝』の第六段には、「上人、一向専修の身となり給にしかば、つゐに四明の巌洞を出でて、西山の広谷といふところに居をしめ給き。いくほどなくて東山吉水のほとりに、しづかなる地ありけるに、かの広谷のいほりをわたしてうつりすみ給。」と記されています。四明の巌洞は比叡山であり、西山の広谷は洛西粟生光明寺の山の後方のことです。「東山吉水」というのは、知恩院付近の旧名です。東山吉水の庵が具体的にどこにあったのか、絵伝のこの記述だけでは確定できませんが、この地がその最初の場所だと言われると納得できる場所でもあります。念仏行に専修する法然の許に「たずねいたるものあれば、浄土の法をのべ念仏の行をすゝらる。化導日にしたがひて、さかりに念仏に帰するもの雲霞のごとし」と本文は続きます。(資料3)最初はささやかな庵だったものが、念仏信仰者が増えるに従い、東山吉水の地でその場所が多少移動しているかも知れません。吉水の地に法然が草庵を結び、専修念仏を初めて布教したのは承安5年(1175)43歳のときだったとされています。一方、親鸞が六角堂参籠での夢告を得て、法然の吉水の草庵を訪ねたのが、建仁元年(1201)4月と言います。このとき法然69歳、親鸞29歳だったことになります。上記『法然上人絵伝』(国宝)巻六、第三段の絵「法然、吉水の草庵で、人々に専修念仏の教えを説く」とキャプションの付されたものに描かれた建物の絵をみる限りは、それなりに整ったお堂が建てられていたようです。二間四方の角部屋に法然が座り、背後と左側の二面は襖障子であり、手前は庭に面し外縁が巡らされている建物が描かれています。わびた草庵というイメージは浮かびません。勿論、絵の状況は専修念仏がかなり人々の間に布教された段階での話になることです。少なくとも絵師はそう解釈して建物を描いているように思います。(資料2)東山吉水の草庵はこの法垂窟より少し南西に下ったところにある安養寺のあたりともいいます。現在の安養寺の門前にある石標には「慈円山安養寺」という寺名表記の右側に「法然親鸞両上人御旧跡 吉水草庵」と刻されています。(資料5)また、『都名所図会』では、「華頂山大谷寺知恩教院」の項において、「吉水の禅房とはこれなり」「初めは東の山腹、今の勢至堂の地にして」と記述しています。この前の項が「円山安養寺」ですが、この説明の中で「吉水草庵」や「吉水の禅房」についての記載はありません。(資料6)総本山知恩院の「法然上人と知恩院」というページには、「法然上人はこの専修念仏をかたく信じて比叡山を下り、吉水(よしみず)の禅房、現在の知恩院御影堂(みえいどう)の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れ、念仏の教えを説くという生活を送りました。」と記されています。(資料7)これらの記述の場所は、法垂窟の南北いずれかに少し離れた地でしかありませんので、大きくこのあたりとイメージすればそれで良いことかもしれません。法垂窟の南東方向、境内の東端に巨大で太い文字を刻した「法垂窟」の石碑が立っています。その傍に散文詩風の文が刻された碑があります。傍の碑はそれほど古いものでは無さそうです。私には全文の判読は難しい・・・・。こんな章句「・・・ながきやみ路・・・めぐみも深き南無阿弥陀仏・・・・あなたも祖師と同行よ 親鸞さまのみあとをば 慕うて浄土にまいるべし われらハ称へん南無阿弥陀仏・・・」に読める部分があります。一度この境内にある様々な石碑に刻された内容を判読してみてください。その内容を如何に読み解くかを教えていただけると有難いです。「法垂窟」碑の北隣には「吉水」と正面に刻された井筒らしきものがあります。ここもまた、吉水の井でしょうか・・・・。「吉水」の傍にも、石仏が祀られています。螺髪のある頭部ですので阿弥陀仏坐像でしょう。一通りこの境内を拝見し、一端知恩院口に戻ったところ、フェンスの門扉は施錠されていました。午後4時半を過ぎた頃だったかなと思います。将軍塚まで登って下るしかないか・・・と覚悟して再び登り始めたら、偶然に出会った人に円山公園側に下る道を教えていただけました。法垂窟の石造垣根の傍をさらにしばらく登りなさい。すると、分岐点の目印として、石積みの上にお地蔵様が置かれたところに出ます。そこから右折して下って行くと安養寺さんの横に出られますよと。これがその目印となる石積の上のお地蔵様ご教示通りに歩み下ることができました。そのお陰で、思わぬプラスアルファーの探訪ができた次第です。つづく参照資料1) 総本山 知恩院 縁起 :「浄土宗」2) 『法然 生涯と美術』 法然上人八百年回忌・特別展覧会 京都国立博物館 図録3) 『法然上人絵伝(上)』 大橋俊雄校注 岩波文庫 4) 『法然の哀しみ 上』 梅原 猛著 小学館文庫 5) 吉水草庵安養寺 ホームページ6) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p277-2837) 法然上人と知恩院 :「知恩院」補遺浄土宗宗紋の問題点(1) :「普仙寺」本願寺の紋は下がり藤? :「天真寺」東本願寺の寺紋と家紋 :「お散歩道草」大谷家 :ウィキペディア特集 神紋・寺紋の推定 :「時の散歩/仙台寺社巡り」安養寺(吉水草庵) :「京都観光Navi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 東山山麓を歩く -2 円山聖天堂と吉水弁財天堂 へ
2016.05.30
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宝塔寺を訪ねた折り、総門から仁王門に至る参道の間に塔頭があるのですが、まずは境内の中心部と七面山の七面大明神の探訪を優先させました。仁王門まで戻って来て、ここから総門までの緩やかな石段参道を下るときに、両側に立ち並ぶ塔頭を門前から眺めました。冒頭の右写真は仁王門を通り抜けてから西方向に延びる参道を撮ったものです。冒頭写真の参道北側には白い築地塀と石段が写っています。 そこが仁王門に一番近いところで「慈雲院」です。午後4時頃になっていたためか既に閉門されていました。 築地塀越しに建物の一部が見える程度です。参道南側をながめると、フェンスで囲われた空地になっています。フェンスの門扉傍に、石柱が立ち、「了性院 本久院 深信院 廃寺跡」と記されています。廃寺跡の西隣にある「霊光寺」の山門です。彼岸の頃でしたので幕が掛けてありました。 門前から境内を眺めると参道の両側が生垣で、真っ直ぐ先にお寺の玄関が見えます。 境内の東側には石塔が置かれています。門前には「日審上人御廟」の石標が立っていますので、この寺の境内に廟所があるようです。日審上人は立本寺21世だった人だとか。また、「さらにその奥まった墓地の一隅には、将棋の駒の形をし、『桂馬』ときざんだ将棋の名人大橋宗桂の墓や『歩兵』としるした江戸末期の棋聖天野宗歩夫妻の墓がある」(資料1)そうです。 参道北側は「直勝寺」です。この寺も、門前から拝見すると参道の両側が生垣になっています。この直勝寺とその西隣にある大雲院との間にあるのが、宝塔寺探訪記第1回目にご紹介した日像上人の「荼毘処」です。荼毘処の霊蹟地の奧に建立されている御題目の石塔婆です。その傍にこの駒札が立っています。近くで撮った写真を補足しておきます。 「大雲寺」の山門山門の門柱には、「親子相想 日像菩薩御尊像奉安」の木札(右)と「深草七面山御旅所」の木札(左)が掛けられています。 門前から境内を拝見すると、門に近い西側に小祠が祀られていて、基壇正面に「七面大明神」と刻されています。ここが御旅所なのでしょう。ここの参道も両側が生垣ですが、霊光寺・直勝寺と違い生垣の高さが倍ほどです。 大雲寺の前、参道の南側は「円妙院」です。門前から眺めた境内には四重石塔が玄関口に見えます。総門を通り過ぎた位置から仁王門への参道の景色です。総門に一番近い塔頭が、北側に大雲寺、南側に円妙院ということになります。 総門に戻ってきました。 総門の本瓦葺き屋根の鬼瓦 棟の鬼瓦(左)と隅棟の鬼瓦(右)いくつか補足です。まずは補足の写真から。総門前北側に「藤裏葉の苑」の石碑が置かれ、極楽寺が源氏物語ゆかりの寺だったというご紹介を最初にしたときは、全景写真を載せただけでした。 築地塀寄りにある男女像を撮った写真そして、こちらが極楽寺の伽藍石です。丸い大石の上面が四角の台形状に加工されていて、柱がここの上にのせられる礎石だったことが想像できます。記録を整理していて知ったことですが、序での補足説明です。宝塔寺の境内、多宝塔の南側は広い墓地域です。そこに、儒者山本亡羊・同三宅寄斎の墓や、俗に「夫婦塚」と称され、肺病治療の名医といわれた宗有・妙正の墓があるそうです。(資料1)『都名所図会』を読みますと、七面社参道に建てられた鳥居に掛けられた額は「瑞光寺」の項でご紹介した元政上人の筆によると記されています。(資料2)最後に、宝塔寺の寺自体と寺名の変遷についてです。藤原時平が創建した極楽寺(真言律宗)が、延慶年間(1308-11)住職良桂の代に日蓮宗に改宗したことは既に触れました。その時、日像が顕正開山となり、良桂が二世となります。この改宗により極楽寺が法華道場として改められたということは、『都名所図会』に記されています。しかし、この時寺名が「宝塔寺」に改名されたのかどうか。調べた範囲では明記した資料がなく、不詳です。この寺が日像上人の布教の拠点となり、妙顕寺の創建(1321年)に繋がって行くわけです。日像上人が示寂され、この寺に廟所が設けられたときに、寺は「鶴林院常寂寺」に改名されたといいます。廟所には、日像上人が記された題目の石塔婆が安置され、遺骨がその下に納められます。日蓮・日朗の遺骨も納められたことにより、「御塔(みとう)」と呼ばれたのです。一方、この寺は応仁の乱、天文の乱によって堂宇が焼亡、荒廃し、寺運が衰微したといいます。天正18年(1590)から45年間にわたり、8世日銀上人が再興されるに至るそうです。そして、妙顕寺の末寺となり、上記三代の遺骨を納めた塔があることから、寺名を「常寂寺」から「宝塔寺」に改められたといいます。(資料1,2,3)この探訪では諸寺が面するこのあたりの道をを霞谷道としてご紹介してきましたが、旧奈良街道(大和路)の一部です。この探訪中に、途中で道路沿いにこんな掲示を見ました。 「月とうずらの里」と称されているようです。ご紹介しておきます。この日、時間的に宝塔寺が最後の探訪地となりました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 2) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫3) 宝塔寺 :「コトバンク」補遺七面天女 :ウィキペディア七面祠(ほこら) 通称:松ケ崎七面祠 :「京都通百科事典」伏見深草大雲寺(宝塔寺西之大坊)の紹介 浅野和夫氏源氏物語 藤裏葉 現代語訳 :「源氏物語の世界」(渋谷栄一著) 原文はこちらからどうぞ。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -1 墨染寺と余談「撞木町」へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -2 藤森神社細見(1) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -3 藤森神社細見(2) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -4 西福寺・仁明天皇陵・十二帝陵ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -5 嘉祥寺(深草聖天)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -6 真宗院 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -7 瑞光寺(元政庵)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -8 宝塔寺細見(1) まずは本堂周辺へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -9 宝塔寺細見(2) 日像廟・七面社ほか
2016.05.27
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冒頭の絵は、『都名所図会』(1780年)に載る宝塔寺の全景絵図の引用です。(資料1)見開きページの右下角に総門があり、左上角近くが七面山山頂で、七面社があります。見開きの折り目中ほどに多宝塔があり、その左下に境内中央に西面する本堂が描かれています。この絵を見ていて気づいたのは、七面社への参道が本堂の真後から延びているように描かれています。実際に歩いて上ったのは、太鼓楼の在る位置から延びる石段参道です。時代の推移で変化が生まれたのかどうか、不詳です。太鼓楼の真下の通路をくぐって石段を上った所から、太鼓楼の東面を撮ってみました。太鼓楼と通過し石段を少し上がったところで参道が分岐します。南側に右折すると、「三十番神」の石額を掲げた石造鳥居が西面して立っていて、石段の上に拝殿、その先に小社が見えます。 拝殿の先に、小ぶりながら立派な神社が祀られています。三十番神が祀られているのでしょう。 本殿の正面扉には、宝珠と鍵が浮彫にされています。この図像を私はあまり見たことがありません。木鼻の彫りはわりと簡略化されていますが、象や獅子の大きい目が白く塗られているために、少し不気味さを感じさせるくらいです。 右の写真にある三十番神社の拝殿と本殿の間を北に抜けると、左の写真の石段参道が延びていて、上に最初の石造鳥居が見えます。 日像上人廟全景第一の鳥居の辺りが、境内地に削平されています。石段の右側、つまり南側に開かれた境内地に「日像上人廟」があります。境内地の一番手前に見える細長い屋根と柱だけの場所に「開山日像菩薩御廟拝處」という札が柱に掛けてあります。ここが拝殿に相当するということでしょう。この写真の右に「経一丸像」、左には後でご紹介する日蓮聖人像が建立されていて、中央の一段高い境内地に廟堂が建てられています。 経一丸銅像銅像の傍に、日像上人の略暦が「記」として彫られた石碑が建てられています。この像の姿は、弘安5年(1282)10月池上において、日蓮聖人が満13歳の経一丸の頭を撫でて京都開経の遺命を告げたときの場面を表したものといいます。経一丸は日朗上人について剃髪得度し、日像と改名するのです。日像は永仁2年(1294)満24歳の春に京都に入り、初めて日蓮宗の布教を始めたのです。元亨元年(1321)に四条大宮に妙顕寺を創建、建武元年(1334)に後醍醐天皇から法華弘通の公許と勅願寺の綸旨を賜るに至るのです。(石碑説明文、資料2)石橋の先に石段、その上の境内に宝形造りの廟堂が建立されています。石橋の傍に、題目笠塔婆が奉納されています。 廟堂廟堂の扉の上には、「寂光」の扁額が掲げられ、屋根の露盤には「巽霊山」と記されています。日像上人の遺骸は前回ご紹介した「荼毘処」で火葬の後、ここに葬られたのです。「墓石は上人自筆の題目塔婆(鎌倉)を以てしるしとしている」(資料2)そうです。 石橋の北側、七面社への第一の鳥居の傍に、日蓮聖人立像が建立されています。 鳥居の北側には、「千仏堂」があります。「七面大明神」の扁額が掛けられた石造鳥居をくぐり、さらに石段をのぼります。 第二の石造鳥居が建てられています。 この鳥居をくぐったところからの西方向の眺め 鳥居の少し先に、高めの基壇に狛犬が置かれています。その台座には「妙 七難即滅」と「法 七福即生」という文字が刻されています。「妙法」を唱え「七難即滅 七福即生」の祈願を込めた信者さんたちの奉納です。 狛犬の尾の造形がおもしろい。調べて見て初めて由来を知ったのですが、「七難即滅 七福即生」という言葉は、仏典の「仁王般若経」に説かれている言葉だそうです。七福神の信仰と生まれる由来でもあるとか。(資料3) さらに石段を上ります。山頂には、拝殿とその背後に本殿が並ぶ立派な社殿の明神社です。「七面社」は「寛文6年(1666)身延七面山に垂迹した吉祥天を勧請し、当寺の鎮守社としたといわれ、像は岩上に座し、右手に鍵、左手に宝珠をもっている。日本最初の七面尊像として崇敬があつい」(資料2)といいます。 拝殿の正面 神馬像が奉納されています。 本殿の側面と背面を撮ってみました。三間四方の大きさのようです。この境内を巡ってみますと、周囲に様々な境内社が祀られています。反時計回りに探訪してみました。 「常富稲荷大明神」の扁額を掲げた石造鳥居が立ち、覆屋の中に本殿が納まっている「稲荷社」 菩薩名を刻した石碑が建立されています。本殿の南東方向に、今は涸れていますが「たつみの瀧」と記された石標のたつ滝場があります。 小社があり、本殿の背後北東側には、右の「大坂 熊鷹會」と刻された門柱が立つ社が見えます。 右の写真のとおり、ここも覆屋とさらに格子囲いの中に社が納められています。「熊鷹大明神」を中央に、二柱の明神名を記した扁額が掛けられた「熊鷹社」です。その北隣に、左の写真、「都々逸大明神」と記された提灯が掛けられた覆屋のある小社があります。少し調べて見ると、徳島県小松島市に、「大鷹・小鷹・熊鷹大明神」を祀る神社がありました。(資料4)北側には、鷹義大明神の小社、義正明神・清鷹姫大神と刻された石碑他が集合しています。私は見かけたことのない神名ばかりです。これも八百万の神々の広がりでしょう。そして、「妙見大菩薩」の提灯が掛けられた「妙見社」があります。その傍に、右の写真の奇妙な姿の小石仏像が安置されています。「阿羅漢像」のようです。一周して拝殿の北西側まで戻ってきて、こんな木造の灯籠も置かれていることに気づきました。この七面社が身延七面山から勧請されて鎮守社となってから、「七面山」と称されるようになったのでしょう。これで後はゆっくりと景色を眺めつつ石段を下りるだけです。つづく参照資料1) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 巻5の27コマ目 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 3) 七福神 法話集 :「天台宗」4) たぬきの民話・伝説 :「小松島市」補遺三十番神 :ウィキペディア三十番神の解説 :「三十番神宮」七難 :「Flying Deity Tobifudo」七面山 日蓮大聖人と七面天女 :「身延山久遠寺」身延七面山について :「身延七面山ライブカメラ」北辰妙見信仰の系譜1 :「流星伝説クラブ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -1 墨染寺と余談「撞木町」へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -2 藤森神社細見(1) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -3 藤森神社細見(2) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -4 西福寺・仁明天皇陵・十二帝陵ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -5 嘉祥寺(深草聖天)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -6 真宗院 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -7 瑞光寺(元政庵)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -8 宝塔寺細見(1) まずは本堂周辺へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -10 宝塔寺細見(3) 塔頭と補足 へ
2016.05.26
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宝塔寺は前回ご紹介した瑞光寺(元政庵)の北東寄りにあります。霞谷道に西面し、七面山の南西麓に宝塔寺の総門(室町時代・重文)が見えます。切妻造り、本瓦葺きの四脚門です。総門前の南側に「日像菩薩本廟寶塔寺」の碑が立っています。鶴林院と号する日蓮宗妙顕寺派のお寺です。山号は「深草山(じんそうざん)」。総門前の北側には、藤棚があり、その下に「源氏物語 藤裏葉の苑」と刻された石碑が置かれています。その右には大石が石柱の柵で囲われていて、右側に「伽藍石」という説明碑が立っています。旧極楽寺の伽藍址を示すものです。築地塀の前には、台座の正面に「極楽寺開創壱千百年記念」と記され、向かい合う男女の石像が置かれています。向き合うのは、源氏物語のゆかりとすると、たぶん18歳の夕霧と20歳の雲居雁を表しているのでしょう。『源氏物語』藤裏葉(ふじのうらば)の巻では、3月20日、極楽寺での大宮(内大臣の母)の三回忌の命日に法要が行われ、夕霧も出席します。法要を終えた日の夕刻、内大臣は夕霧と語り、夜の酒宴の席で内大臣は夕霧と雲居雁の結婚を許すという経緯が描かれます。そんなところから由来するイメージ像と私は想像しています。(資料1)なぜ、極楽寺がここに登場するのか? もともとこのあたり一帯は真言律宗の極楽寺の伽藍が栄えていた寺域だったのです。摂政・関白となった藤原基経の遺志を継ぎ、その子・時平が昌泰年間(898-901)にお寺を建立します。その寺が極楽寺で、延長2年(924)には定額寺(じょうがくじ)に列せられ、藤原一族の菩提寺となっていったそうです。鎌倉時代になって、延慶年間(1308-11)に、当時の住職良桂(りょうけい)律師が日像上人との法輪に臨み、その結果日像の説法に信伏します。日像の弟子となりお寺も日蓮宗に改宗したといいます。そして、寺名が日蓮宗宝塔寺に改めらることになります。(資料2)宝塔寺の前身の極楽寺は『源氏物語』ゆかりの地であるわけです。奥行きの広い緩やかな石段参道を上る途中、北側に「荼毘処」があります。康永元年(1342)11月13日に満73歳で入滅された日像上人がここで荼毘に付されたのです。そして山腹に葬られます。正面には、石造題目塔婆が建立されています。石柱の柵で囲まれ、正面の一段高い左右の石柱には、「日像菩薩」(右)、「荼毘霊蹟」(左)の文字が陽刻されています。その傍に、「開山 日像菩薩」の略歴駒札が建てられています。それによると、日像は1269年8月に千葉平賀に生まれ、万寿丸と名付けられ、1275年12月に宗祖日蓮から経一丸と命名されたとあります。石段坂道の先には、「深草山」の扁額を掲げた仁王門が建てられています。江戸時代、宝永8年(1711)、十八世日実上人のとき、松平紀伊守信庸の助成により再興されたものだそうです。左右の朱塗り木造金剛力士像は、寛文10年(1670)年、右・康楷作、左・康画作とのこと。(説明木札より)赤地に白抜きの橘紋の大きな提灯が吊り下げてありました。仁王門を通り抜けるときに見上げると、初層の格子天井は牡丹の花で埋め尽くされています。色鮮やかで華やか・・・・。平成12年(2000)に復元されたそうです。境内の東側から仁王門の背面を眺めた姿です。仁王門を抜けると正面に石段があり、さらに一段高い境内に続きます。そこに本堂が西面して建てられています。背後の北東方向に七面山の頂上が位置します。 本 堂境内の中央に位置し西面しています。桃山時代・慶長13年(1608)の建立で重要文化財です。七間五間・入母屋造り・本瓦葺きで、正面に三間の向拝が付けられています。京都市内にある日蓮宗寺院の本堂では最古のものだそうです。本尊は釈迦如来・十界曼荼羅で、左右に日蓮・日像の両像を安置されているとか。(拝観自由という表示を見かけませんでしたので、今回は堂内は拝見していません。)本堂正面には扁額がいくつか掲げられています。その一つです。蓮華座の上、中央に「南無妙法蓮華経」の題目が記され、その左右には諸菩薩・諸大師・諸王、太神の名が列挙され、四隅に四天王の名が大きめの文字で記されています。十界曼荼羅、日蓮の法華曼荼羅と称される様式の奉納額です。(資料3) 本堂の鬼瓦 宝塔寺境内の諸堂で、様々な鬼の相貌、表情を楽しめました。本堂からまずご紹介! 本堂の南側に「多宝塔」が配置されています。(資料2)「重要文化財 多宝塔 室町時代創建 永享10年を下らず 行基葺 昭和13年修理」と記された木札が初層の連子窓のところに掲げてあります。永享10年とは1438年です。高さは11.4m。 二層目の木組みに圧倒されます。一方、右の写真、初層の屋根が「行基葺」と称されるものです。よく見ていただくと、丸瓦が一本になめらかに連なる葺き方ではなく、1枚の丸瓦の上端部が細めになっていて、上に葺く丸瓦の下端部が重なって瓦の厚みがそのまま見える形に葺かれているのです。 初層の中央は板唐戸で、左右の脇間に連子窓が設けられています。 左の写真は多宝塔の鬼瓦 右の写真は蟇股で宝相華唐草透彫です。白い漆喰壁と淡く彩色が残る宝相華の対比が優美で良い感じ・・・・。宝塔の南隣りに「舎利塔」が祀られています。その背後つまり東奧に「中興開山廟」が設けられています。多宝塔の西側には石造僧立像が覆屋の中に安置されています。覆屋の右奧の柱には、「痔守護秋山霊」という木札が掛けられています。 歴代廟所本堂の正面から南に参道を行くと上掲の多宝塔への分岐となり、真っ直ぐ先ににの廟所があります。本堂の反対側(北側)に行きますと、本堂と客殿をつなぐ渡り廊下の屋根の一箇所を一段高くし、花頭窓を付けた形で、太鼓楼が設けられています。 太鼓楼のある場所の廊下の下が、七面山の山頂への向かう参道の通路になっています。右の写真は、傍近くから太鼓楼を見上げたところです。通路部分の柱に木札が掛けてあります。それによれば、太鼓楼は元禄5年(1692)に創建され、安永6年(1777)に修理、昭和60年(1985)葺替、平成15年(2003)張替、という歴史があるそうです。太鼓楼の傍に、この五重石塔が建てられています。この層塔の初層軸部に「大乗佛典」と刻され、もう一つの側面には「天下泰平 国家安穏」と刻されています。残りの二面は未確認です。本堂の正面から北方向を眺めると、 5本の白い定規筋が入った築地塀に高麗門が見えます。その奧に客殿があるようです。高麗門は、よく見ると優美ですが一方で脆さを感じさせる門扉を保護するかのように、下半部前面に格子の柵が設えてあります。門扉に光琳鶴丸紋が付けられています。鶴林院と号されたことと関係しているのでしょう。 高麗門の築地塀沿いに西に進むと、塀の区切りがありますがその先に「日蓮宗深草山宝塔寺」と記した木札を掛けた門があります。 門の屋根の鬼瓦 門をくぐると、右側に飛び石伝いの通路とその先に賓客を迎える玄関口が見え、左側は石畳の通路で庫裡の玄関に至ります。趣の異なる通路がV字形に広がっています。 V字つまり三角の庭部分に置かれた石灯籠 庫裡の屋根の鬼瓦 庫裡への門の前を西に進めば、袴腰付き・入母屋造り・本瓦葺きの鐘楼があります。法隆寺東院鐘楼に一番近い形ですが、法隆寺の鐘楼が連子窓形式であるのに対して、宝塔寺は窓のないオープンな形になっています。(資料4)鐘楼の傍から仁王門の側面が見え、建物東側の南を遠望すると、真っ直ぐ先の小高いところに建物らしい小さな点が見えます。 ズームアップしてみると、伏見桃山城です。江戸時代初期までは、多少位置が異なるでしょうが、本物の伏見城がこの宝塔寺境内から遠望できたのです。伏見城下への街道筋が見える見晴らしのよい場所に宝塔寺が立地していることになります。本堂の前まで戻る途中で、この高台にある境内区域の起点に戻ります。仁王門から本堂正面への石段を上がってくると、まず境内左側にあるこの手水舎に向かうことになるのでしょう。この項のご紹介では最後になりました。手水舎には「浄行菩薩」が水盤の隣に安置されています。『法華経』の「妙法蓮華経従地涌出品第十五」には、菩薩衆の中で最も上首の唱導の師として四菩薩の名前が挙げられます。上行・無辺行・浄行・安立行と名付けられた四導師です。三番目に出てくるのが「浄行菩薩」です。(資料5)「浄行菩薩とは法華経に出現する菩薩様で、水が垢や穢れを清めるがごとく、煩悩(苦しみのもと)の汚泥を洗い注いでくださる水徳をお持ちの菩薩様です。」(資料6)水徳の縁で、手水舎の傍に祀られているということなのでしょう。この後、先ほどの太鼓楼の下をくぐり、七面山の上に向かいます。太鼓楼の下を通過すると、その先に石段が延びています。つづく参照資料1) 『源氏物語必携事典』 秋山虔・室伏信助編 角川書店 p69-402) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p71-753) 法華曼荼羅 :ウィキペディア 十界曼荼羅 :「コトバンク」4) 鐘楼 :ウィキペディア5) 『法華経 中』 坂本幸男・岩本 裕 訳注 岩波文庫 p2926) 浄行菩薩 智光院 :「日蓮宗」補遺日像 :「コトバンク」日像 :ウィキペディア日像上人の霊蹟・由緒の地 :「日像上人の足跡をたずねて」宝塔寺多宝塔 京阪沿線に此の塔あり :「京阪電車」四菩薩 :「仏像美術館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -1 墨染寺と余談「撞木町」へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -2 藤森神社細見(1) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -3 藤森神社細見(2) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -4 西福寺・仁明天皇陵・十二帝陵ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -5 嘉祥寺(深草聖天)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -6 真宗院 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -7 瑞光寺(元政庵)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -9 宝塔寺細見(2) 日像廟・七面社ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -10 宝塔寺細見(3) 塔頭と補足 へ
2016.05.25
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冒頭左の写真は、瑞光寺の山門手前で先ず目に止まります。駒札と2つの石碑が立っています。一つは元政上人旧跡で瑞光寺であることを表記し、その右には南無妙法蓮華経の題目碑です。深草山と号する瑞光寺は、江戸時代の詩僧として有名だった元政上人が草庵を結ばれたのが起こりであり、隠栖されたところなのです。そして法華道場とされたのです。一般には「元政庵」の名で親しまれてきたそうです。(資料1,2)右の写真は、旧伏見街道、つまり現在の直違橋通の傍に立つ石標です。これは直違橋8丁目と7丁目の境となる分岐路の南東角に立っています。この石標の立つところを東に進み、JR奈良線の踏切を超えると南側に瑞光寺境内があります。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。踏切の手前で、奈良線沿いに数十m南西に歩くと、瑞光寺の霊園があり、「深草元政上人御廟」はその中に位置します。探訪の最後に霊園域まで行ってみましたが、入口の格子戸が閉まっていましたので、霊園に入るのは遠慮しました。瑞光寺は現在の地名で説明すると、深草坊町の北部側にあり、中央部は民家で、南部側に深草十二帝陵と嘉祥寺(深草聖天)が位置します。江戸時代に出版された『都名所図会』に掲載されている「瑞光寺 元政法師旧跡」図を引用させていただきます。左下に山門に至る坂道が描かれ、山門を入った境内の左側に本堂、そして右側に元政墓が描かれています。墓は本堂の西に位置します。山門の位置が江戸時代のままならば、この絵図に描かれた元政墓の左側から山門の右側にかけて線路が敷かれたことになります。(資料3)『都名所図会』は、瑞光寺が深草極楽寺村にありとし、「当寺境内の字を薬師堂畑(はた)といふ。古(いにしへ)極楽寺の薬師堂の遺跡なり」と付記しています。極楽寺の旧跡に瑞光寺が建てられたことになります。(資料2)石段を上がった先に茅葺き屋根の山門があります。京都市内で茅葺きの山門を見かけた記憶はありません。写真を整理していて気づいたのは、山門の手前に自然石に「不許酒肉五辛入門」と刻されていたことです。当日はこの自然石の碑をそれほど意識していませんでした。浄土宗の真宗院にあるのも見た時はめずらしと思いました。日蓮宗のお寺の門前にあるのもまためずらしいことなのだとホームページにも記されています。(資料4)山門には「瑞光寺」の扁額が掲げてあります。門前に「大界外相」の碑も建てられています。門から南に延びた参道が直角に東方向に曲がります。その正面に、これまた萱葺きの本堂が建てられています。参道の両側は緑豊かな庭になっています。本堂の正面にこの扁額が掛けられています。「寂音堂(じゃくおんどう)」と読むそうです。少し丸みを帯びた萱葺き屋根のこの建物は寛文元年(1661)に建立されたものだとか。(駒札) 明暦元年(1655)にこの地で草庵を結ばれた時は「庵の名を章安大師の故事にちなんで、称心庵と名付けた」ということですが、寛文元年に「深草山瑞光寺」と改められたと言います。(資料4)本堂の正面の戸の一部が透明板でお堂内を拝見できるようになっていました。デジカメのズーム機能で撮らせていただいた堂内の中央部です。本尊に釈迦如来坐像が安置されています。この釈迦如来像の体内には五臓六腑が入っているというめずらしいものだそうです。中正院日護上人の作といいます。像高は約60cmの坐像だとか。(資料1,4、駒札)奥殿に元政上人、元政上人の両親、歴代の上人が祀られているそうです。(資料4)それでは、まず拝見した範囲での境内のご紹介です。 緑豊かな本堂の前庭は南側がこんな景色です。 前庭には、身延山から株分けをしてもらったというしだれ桜があり、またソメイヨシノの桜の木も植えられています。山門を入った参道から本堂に向かい左折するまでのところ、東側に鐘楼があります。 梵鐘の撞座の上部には題目が浮彫にされ、撞座の帯部分は龍と雲文、下帯部分は獅子と花文がデザインされています。題目の反対側の縦帯部分には昇龍がレリーフされています。中央の銘文末尾には文化12年(1815)4月に文を謹撰した旨の記載があります。その頃に鋳造された鐘なのでしょう。 参道の西側には、木造鳥居に「帝釈天王 白龍大弁財天」と併記した額がかけられ、2つの小社が並んでいます。 南側にこの水盤があります。水盤の西側に白龍の頭部が水の注ぎ口となっています。瑞光寺のホームページには、龍神様のご神体より流れ出る水と「白龍銭洗弁財天」としての説明があります。金運の御利益あらたかだとか。鎌倉市にある有名な「銭洗弁財天宇賀福神社」のことをつい連想しました。北隣に石段があり、少しの高さですが上に「三十番神社」があります。「法華守護の三十番神と大黒天の三十一体を祭祀し元政上人によって当山の安泰と寺門の繁栄を祈る。 三十番神は天照大神、八幡大菩薩をはじめ伏見稲荷、松尾大明神、北野天満自在天祗園大神等の全国の総氏神を一堂に祀った一ヶ月三十一柱の国土神である。」と説明されています。(資料4)この三十番神社は、元は元政庵の門前、北側に周濠を備えた約50mの前方後円噴があり、その墳上にあったそうです。「番神塚」と呼ばれていたそうですが、一説にここが「昭宣公藤原基経の墓」という伝承があったといいます。冒頭で御紹介した『都名所図会』の絵図の左下隅に円墳状の上に社を描き、その右に「昭宣公墳三十番社」と付記されています。瑞光寺の次に「昭宣公の墳(つか)」の項目を上げて、伝承を説明しています。(資料1.2)上掲のホームページでは、「元は 旧極楽寺薬師堂に番神山として現存していたものである。」(資料4)としています。探訪で拝見した範囲はここまでですが、事後に整理していて、様々な資料から知ったことを私なりに総合していくつかご紹介します。元政上人は、元和9年(1623)毛利輝元の家臣石井元好の五男として、一条戻橋付近で生まれ、13歳の折、彦根藩二代藩主井伊直孝に仕えます。長姉春光院が直孝の側室だったとか。生まれつき病弱だったそうです。19歳の折り江戸詰めとなりますがその後病のために京に戻るのです。母と共に泉州和気の妙泉寺に詣でた折に、「出家せん。父母に孝養をつくさん。天台三大部を読了せん」という三願を立てられたと言います。26歳の時に致仕し、出家されます。妙顕寺の日豊上人の弟子となり、その後上記のとおり、この地に草庵をむすび、瑞光寺という法華道場を草創されたのです。両親を引き取り、ここで仏道に励む傍ら孝養に努められたといいます。亡父の遺骨を持ち、母を伴い身延山に詣でられた記録が『身延のみちの記』という紀行文だとか。寛文7年(1667)12月、老母が87歳で亡くなった2ヶ月後の翌年2月18日に46歳で示寂されたのです。元政上人は詩歌にすぐれ、松永貞徳や熊沢蕃山、稲荷の祠官荷田信詮(かだののぶあきら)などとの交友があったそうです。(資料2,4,5)瑞光寺は「縁切り寺」「縁結び寺」の両面があるようです。縁切り、縁結びについてはホームページにも記載があります。「縁切り寺」の側面で、俗説なのでしょうが、興味深いエピソードをあるサイトで読みました。「元政の出家は、江戸吉原の高尾太夫の死によるというエピソードから縁切り祈願の信仰がある」(資料6)というものです。縁切り関連のサイトでは同種の記載があります。詩僧としても有名だったという元政上人は仏教研究書以外に『草山集』三十巻、『草山和歌集』一巻(1668年刊)を著しています。和歌集には150首が収録されているそうです。その中にある歌をいくつかご紹介します。(資料1,7,8) 世を逃れてここかしこありきけるころ 逃れては山里ならぬ宿もなしただわれからのうき世なりけり 深草の里に住みなれてのち 住までやは霞も霧もをりをりのあはれこめたる深草の里 独述懐 山里も都も同じ隠れ家や世に忘られし我が身なるらむ 橋の上にやすらひて うらやまし宇治の橋守行く秋の月を眺めてとしのへぬらん 太子伝を読みしついでに よしあしとわかれし末の法はみな難波の水の流れなりけり 母の亡くなりぬる頃、人のもとより歌よみてとぶらひける返事に 今はただ深草山に立つ雲を夜半の煙りの果てとこそ見め元政上人の辞世の歌は 鷲の山つねに澄むてふ峰の月かりにあらはれ仮にかくれて だとそうです。脇道に逸れた序でに、メモ代わりとして。(資料1,9)江戸時代、俳人の上島鬼貫(おのつら)が瑞光寺を参詣したおりに 箔のない釈迦に寒しや秋の風 の句を詠んでいるそうです。また、元政上人の忌日は陰暦2月18日。現在は毎年3月18日に元政忌が行われています。「元政忌」は俳句の季語になっているようです。 腰張りの文殻見たり元政忌 無果 茶室にもかかる遺墨や元政忌 白川 とひよりて竹を叩くや元政忌 松瀬青々「妻木」 捨藪の梅も咲きけり元政忌 巨武定口「まそほ貝」この後、瑞光寺のすぐ近く北東にある「宝塔寺」を訪ねました。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p75-782) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p59-613) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 巻5の26コマ目 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)4) 京都深草 瑞光寺 ホームページ5) 元政庵瑞光寺 :「伊藤久右衞門」6) 瑞光寺(元政庵) :「京都観光Navi」7) 僧 元政 :「日文研データベース」8) 『草山和歌集』の配列と成立について 島原康雄氏論文 国文学研究資料館紀要9) 元政忌 :「きごさい歳時記」補遺元政庵瑞光寺 :「日蓮宗ポータルサイト」瑞光寺(京都深草・日蓮宗) :YouTube元政 :「コトバンク」銭洗弁財天宇賀福神社 :ウィキペディア財産運にご利益ありと伝わる銭洗弁財天 :「鎌倉紀行」妙顕寺 ホームページ元政忌(瑞光寺) :「きょうの沙都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -1 墨染寺と余談「撞木町」へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -2 藤森神社細見(1) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -3 藤森神社細見(2) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -4 西福寺・仁明天皇陵・十二帝陵ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -5 嘉祥寺(深草聖天)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -6 真宗院 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -8 宝塔寺細見(1) まずは本堂周辺 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -9 宝塔寺細見(2) 日像廟・七面社ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -10 宝塔寺細見(3) 塔頭と補足 へ
2016.05.23
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冒頭の写真は、霞谷道に西面する「真宗院(しんじゅういん)」の山門です。後のご紹介で位置関係をご理解いただく上で、この辺りの地図(Mapion)をこちらからご覧いただくと、イメージしやすいかもしれません。現在の真宗院は前回ご紹介した嘉祥寺からは、霞谷道を挟んで反対側(東側)に位置します。山門の右前に「大界外相(たいかいげそう)」という石標が建てられています。この内側は仏の世界であることを示すしるしだといいます。奈良の聖林寺や東大寺(戒壇院の手前)、唐招提寺の西側などにも建てられているそうです。(資料1) 山門の屋根を見上げると、鬼瓦の前に置かれた獅子の飾り瓦が鬼瓦と同様に、また神社の狛犬と同様に阿吽形で造形されています。山門を入ると、少し先で参道が左折します。そして北方向に長い参道が続きます。先にはもう一つの山門があります。その手前には、禅寺の山門前でよく見かける禁令の文言が記された石柱が立っています。「酒を飲んだ者、獣の肉を食べたもの、仏徒に禁じられた辛い味のする五種類の野菜(ニラ・ニンニク・ラッキョウ・ネギ・ヒル)を食べた者はこの山門から中に入ることを許さない」という警告文です。この真宗院は根本山と号し、浄土宗西山深草派のお寺です。鎌倉時代・宝治年間(1247-49)に、後深草天皇の帰依を得た円空立信上人により創建されたそうです。天皇から「真宗院」の勅号を贈られたといいます。当初は、既にご紹介した「深草十二帝陵」の南、深草僧坊町のところが寺域だったのです。円空上人がこの深草の地を訪れたとき、西に円空の師・西山国師證空(証空)の往生院を望むことができ、日想観の修業にも適する地と思われたとか。そして、後嵯峨上皇が仏殿・山門・経蔵・般舟堂を建立され、般舟堂で念仏三昧を修させたと言います。後深草天皇が崩御された際、真宗院の法華堂に遺骨を納められたのです。その後伏見・後伏見両天皇の遺骨もこの法華堂に合葬されるのです。つまり、この法華堂が十二帝陵の法華堂の起源になるようです。皇室とのゆかりも深く、この真宗院は浄土宗西山深草派の根本道場として栄えます。1293年6月、雷火で諸堂を焼失。その後再建。1302年秋に再び火災に遭遇し、再建などの変遷を経ます。そして、室町時代、応仁・文明の乱の兵火に罹災して堂宇を焼失し、荒廃するに至るのです。(門前の案内板、資料2)時代軸で考えますと、深草僧坊町に真宗院があった時には、東側の深草瓦町から南にかけて一番最初に建立された嘉祥寺があったのです。それらが共に応仁文明の乱で罹災して荒廃してしまうのです。江戸時代・寛政5年(1793)34世龍空瑞山上人のときに、大坂の壇越雑賀氏の援助を得て、現在地に真宗院が再興されたのです。境内の一隅に立つこの石標はここでいう雑賀氏のことかも知れません。 本堂現在の本堂は大正年間に再建されたものです。「龍護殿」と記された扁額が正面に掛けられています。龍護殿は西山国師が建立された歓喜心院龍護殿という寺に由来するようです。山門前の説明文から推測すると、江戸時代に現在地に真宗院が再興されたおり、龍護殿が移築修復されたものと思われます。本堂前に行く途中に「西山国師 根本道場 龍護殿」と記された石標が建てられています。本尊は阿弥陀如来坐像です。歓喜心院の遺仏とつたえられているそうです。(資料2)本堂前の右側には何段にも基壇が積まれた宝篋印塔があります。 向拝の蟇股、木鼻はともにシンプルなものです。 本堂の屋根の飾り瓦の一つそれでは境内を拝見しましょう。本堂に向かって左側手前に、「方丈」があります。参道にベンチが置かれていますが、そこから右に分岐する道があります。そちらに向かうと、目に止まったのが石畳の傍の小仏像です。 眺める角度によって、表情が変化します。可愛らしくていいなあ・・・・と思いました。釈迦如来坐像それとも阿弥陀如来坐像? 思惟する姿に弥勒菩薩を重ねてしまいます。前に見えるのが覆屋の中に入っている小祠です。近づいてみると、お地蔵様です。左側に説明板が壁に立て掛けてあります。「かすみ谷地蔵尊」とあり、「せっかく体内に宿った子が経済的身体的等の理由で、やむなく日の目をみずに霞(かすみ)と消えた。 又流産児、死産児は悲しく霊界をさまよって人間の苦悩の種となっています。尊い生命をうばった報いです。 これらの霊をなぐさめ供養してあげましょう。 『延命地蔵菩薩経』 当内 」と記されています。水子供養としての地蔵菩薩立像が祀られている境内を、時折拝観先で見かけます。ここでは石仏地蔵で行われているようです。この辺りが「かすみ谷」と称されていることもこのお地蔵様でわかりました。覆屋の南側は、白亜で腰高の塀で区切られた境内区画の東端に、永代供養として、石造聖観世音菩薩坐像が安置されています。近年に建立された感じです。 白い塀越しに眺めた本堂かすみ谷地蔵尊の覆屋の左側の通路を歩むと、北側に白砂で壇が造られています。石が点在し、一本の低木が植えられています。ちょっと興味をそそられる・・・・。つい連想するのが、法然院の白沙壇(びゃくさだん)、銀閣寺の銀沙灘(ぎんしゃだん)、龍安寺の石庭です。この造形物の目的は・・・、またもとの真宗院にもあったのだろうか・・・と。境内を少し東に進むと、 「東方薬師如来」の石造立像が建立されています。見上げる高さです。これもまだ新しく建立されたもののよう。阿弥陀如来の西方極楽浄土に対し、薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主とされています。境内の東端に配されているのも頷けます。背後に深草の低山丘陵が見えます。空が青空だとじつに良い感じです。 砂壇の北側に鐘楼があります。屋根の鬼瓦が厳めしい・・・。鐘楼のさらに北側には赤色の鎮守社が祀られています。左には、当山鎮守として、愛宕大権現、春日大明神、稲荷大明神、祇園牛頭天王、八幡大菩薩、藤森崇道天王の名称が記された石標が建てられています。その近くに、石仏・石塔群があります。 真宗院を含め、応仁・文明の兵火で焼亡荒廃したこの地域の寺々に安置されていたものが見つけ出されてここに集められているのかな・・・・と、勝手に想像しています。訪れたのがお彼岸の頃だったせいか、幾組もの檀家の方々が墓参りに来ておられました。本堂と鎮守社の間を北の緩やかな坂を上っていくと、墓域があるようです。石仏・石塔群のところまで拝見して、真宗院を後にしました。最後に、前大納言為氏が詠んだ哀傷歌を引用しておきます。(資料2,3) 建治3年(1227)8月、円空上人の深草の庵室にて同じ心(月前懐久)を めぐり逢ふ影は昔の形見ぞと思へば月の袖ぬらすらむ 新千載集・巻19、2202 霞谷道をさらに北に向かいます。つづく参照資料1) 長谷寺の扁額 室生寺の寺標 :「奈良・桜井の歴史と社会」 大界外相 :「奈良町宿」 大界外相 :「Panoramio」2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p80-81 3) 新千載集 :「日文研データベース」補遺法然院 ホームページ世界遺産(世界文化遺産)慈照寺(銀閣寺) :「京都府」龍安寺 ホームページ法然上人とその門流 聖光・證空・親鸞・一遍 浄土宗総合研究所編 pdfファイル 121ページに、深草義と立信坊円空(1213-1284)のことが記されています。証空 :ウィキペディア西山国師十六遺跡霊場 :「京都に乾杯」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -1 墨染寺と余談「撞木町」へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -2 藤森神社細見(1) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -3 藤森神社細見(2) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -4 西福寺・仁明天皇陵・十二帝陵ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -5 嘉祥寺(深草聖天) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -7 瑞光寺(元政庵)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -8 宝塔寺細見(1) まずは本堂周辺 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -9 宝塔寺細見(2) 日像廟・七面社ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -10 宝塔寺細見(3) 塔頭と補足 へ
2016.05.22
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冒頭にまず2枚の写真を載せました。これが現在の「嘉祥寺」を語る上での「つなぎ」になると思うからです。前回ご紹介した十二帝陵の入口前の道路を御陵の生垣に沿って東に行くと、御陵の東端に至ります。その東側に細い通路が北に向かっています。その通路を入って行くと左の写真の「歓喜天」と記した石標が立っています。右の写真は現在の嘉祥寺境内にある「法華塔」です。前回、十二帝陵には陵内に法華堂があり、そこに12人の天皇の遺骨が納められていると説明しました。この「法華塔」は、もと安楽行院にあった十二帝供養のための法華塔と伝わるものなのです。法華塔の背後の築地塀の先が十二帝陵地です。(資料1) 現在の嘉祥寺は十二帝陵の東隣に位置します。この写真は、十二帝陵より東側にある南北の道・「霞ケ谷」の道(以降、霞谷道と称す)に面して建てられた石標です。「日本最初 歓喜天 深草嘉祥寺」と記されています。この写真の築地塀沿いの通路の突き当たりにある石標が冒頭写真のものです。右の写真が山門です。現在の嘉祥寺は「霞谷」と号する天台宗のお寺です。霞谷道は、北は現在のJR「稲荷」駅あたりで旧伏見街道につながり、南は現在の名神高速道路の南、前回ご紹介した仁明天皇深草陵を経て谷口町で大岩街道につながります。石峰寺の南にある宝塔寺あたりから谷口町までを「霞ケ谷」と称したそうです。(資料2)『古今和歌集』巻十六に、文屋康秀が詠じた歌が収録されています。 深草のみかどの御国忌(みくにき)の日よめる 草ふかき霞の谷に影かくしてる日のくれしけふにやあらん 846深草のみかどとは仁明天皇をさし、嘉祥3年(850)3月21日崩御。御年41。つまり天皇の御忌日にこの歌が詠まれ、「霞ケ谷」が詠み込まれているのです。(資料3) 門を入ると、手水舎があります。手水舎の背面に「伏見 深草聖天縁起」の説明案内が掲げられています。 駒札 手水舎を回り込むと境内の参道は2つに分岐しています。北方向にお堂が見えます。西方向に、鎮守社(? 末社かも)と冒頭にクローズアップした法華塔が見えます。嘉祥寺について、この探訪と事後整理から知ったことを少し整理してご紹介します。嘉祥寺については、3つの時期区分ができるようです。1) 嘉祥寺の創建 文徳天皇が先帝である仁明天皇の菩提を弔うために、嘉祥4年(仁寿元年:851)2月に、仁明天皇清涼殿をこの深草の地に移し、嘉祥寺を創建されたことが始まりです。『文徳実録』に記載があるといいます。開山は真雅僧都で、真言宗に属したお寺でした。この周辺に寺に関連した字の地名がつくところは、当時の嘉祥寺の境内だったといいます。(資料4)「寺域は付近の瓦町から谷口に至る南北およそ500メートルにおよぶ広大な地を占め、伽藍も壮大を極めた」(資料1) そうです。現在の嘉祥寺の南に深草瓦町があります。そのあたりが嘉祥寺旧地の中心あたりだったそうです。当初の嘉祥寺は平安時代後期に衰微し仁和寺の別院となります。さらに室町時代の応仁、文明の乱により焼亡し荒廃するのです。(駒札、資料1)2) 安楽行院の境内に作られた「嘉祥寺」 前回の説明と関係してくるのですが、まず「安楽行院」に触れておく必要があります。 次回ご紹介する「真宗院」が荒廃した時期に、御陵のみが残ったのです。そこで、室町時代初期、正平7年(1352)年頃に、上京区新町頭にあった持明院の持仏堂安楽行院(一に安楽光院)がこの地に移され、御陵の管理にあたったといいます。ところがこの寺も中世廃滅し、御陵も荒廃したのです。江戸時代に前回ご紹介した空心律師が安楽行院を再興します。 空心律師が安楽行院の再興をはじめた折り、聖天像を西の方の竹林の内にある井中より掘りだしたのだとか。その聖天像を境内に祀り、嘉祥寺と号したといいます。つまり、かつてこの地に存在した「嘉祥寺」の名称を継いだという訳です。江戸時代には「霊験いちじるしくて常に詣人絶えず」(資料4) といいます。「御西帝の勅許を得、元禄11年(1698)現在の歓喜天堂が建立された」(境内の縁起説明より)のです。「深草聖天」として信仰が広がったのでしょう。 境内の「深草聖天縁起」に室町時代に「福運の聖天」と呼ばれていたという記述を考慮すると、兵乱の災いを避けるために聖天像が竹林中の井戸に隠されていたのかも知れませんね。滋賀県湖北で、戦国時代には兵火の難を避けるために、地元の人々が観音像を土中に隠して守られたという話を伺ったことがあります。3) 現在の嘉祥寺 明治維新後、政府による神仏分離の方針が出され、一方で天皇陵の比定、整備、管理が行われていきます。その過程で、御陵の管理を行っていた安楽行院が分離され、東山泉涌寺に移されることになったのです。安楽行院は廃寺となり、深草聖天としての嘉祥寺がここに存続することになるという経緯です。 本堂(歓喜天堂)本尊は「聖天像(大聖歓喜天)」で、日本最古の像と伝えられています。等身大の十一面観音立像-後西天皇皇女誠子内親王が病気平癒を祈って霊験があったと伝わる-が安置されているそうです。(資料1、境内の縁起説明)他に、不動明王像も安置されているといいます(駒札より)。 提灯には、歓喜天のシンボルである巾着袋や大根が描かれています。単体の歓喜天像の場合は、巾着袋(砂金袋)を手にもっているので、それが図案化されたようです。また、大根は歓喜天への供物です。 鎮守社 (末社かもしれません。未確認です) 法華塔を異なるアングルから石造宝塔の塔身には優美な文様が彫られています。毎年6月16日には「嘉祥食い」という年中行事が行われるそうです。この日、「歓喜天に供えた唐菓子を授かり、これを食すれば福を得、病気が退散するといわれる」(資料1) のです。「嘉祥(かしょう)」は平安時代初期、仁明天皇の時代の年号ですが、「嘉祥(かじょう)」には次の意味があります。「疫病から身を守るため神に供えた食物を食べる行事。陰暦6月16日に、16個の餅、または菓子を供えて食べる。嘉通。」(『日本語大辞典』講談社) 一説には、仁明天皇がご神託を得て、この疫病払いをし、年号を「承和」から「嘉祥」に改元したといいます。豊後国(大分県)から白亀が献じられたことを瑞祥として改元されたともいわれますが・・・・・ (『日本の年号がわかる事典』)。歓喜天に供えた唐菓子というのは、「『あん』に白檀等の八種の薬味を入れ、米の粉で作った皮で包み、砂金袋の形にして、真言を唱えながら胡麻油であげたもの」(資料1) だとか。つまり、「歓喜団」と称されるお菓子です。京都では、京菓子司「亀屋清永」の「清淨歓喜団」が有名ですね。こちらからご覧ください。脇道に逸れました。次回は「真宗院」の探訪です。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p84-852) 『京の古道を歩く』 増田 潔著 光村推古書院 p128-1313) 『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫 p1904) 嘉祥寺 『拾遺都名所図会』 :「国際日本文化研究センター データベース」 補遺持明院 :ウィキペディア歓喜天 :ウィキペディア聖歓喜自在天 :「archaic仏」大日如来最後の方便身 :「大歓喜天様(聖天様)ご利益まとめサイト」嘉祥 :「コトバンク」徳川家康と嘉祥 歴史上の人物と和菓子 :「虎屋」厄除け開運「和菓子の日」!由来・歴史を知って和スイーツを味わおう (1/2) :「Column Latte」過去のいっぴん 第25話 精進 潔斎・秘伝のお菓子 清淨歓喜団 京のいっぴん物語 :「KBS京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -1 墨染寺と余談「撞木町」へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -2 藤森神社細見(1) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -3 藤森神社細見(2) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -4 西福寺・仁明天皇陵・十二帝陵ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -6 真宗院 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -7 瑞光寺(元政庵)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -8 宝塔寺細見(1) まずは本堂周辺 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -9 宝塔寺細見(2) 日像廟・七面社ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -10 宝塔寺細見(3) 塔頭と補足 へ
2016.05.20
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冒頭の写真は藤森神社の南参道の入口東角に建つ町家です。道路に面し、1階には格子があり、背の低い厨子二階造りで、連子格子の堅子を塗り込めた虫籠窓が見えます。京町家の風格が漂い、神社への入口として雰囲気のいい景色です。神社境内の南側にある東西の道路を東に進むと、藤森神社に隣接して、京都教育大学のキャンパスが北側にあり、その正門があります。ここがかつての陸軍跡地の転用というのは前回触れています。深草丘陵地にあるので緩やかな坂道を上ります。今回ご紹介する直違橋通(旧伏見街道)の東側に点在する探訪地を含む地図1(Mapion)はこちらをご参照ください。位置関係がご理解いただけることでしょう。京都教育大学の東側、大亀谷の地域にさしかかるところに「西福寺」があります。如意山光巌院と号する浄土宗のお寺です。光厳天皇ゆかりの寺と伝わるそうです。 上掲写真は3月のお彼岸の頃、こちらの左の写真は5月の夕方に撮ったものです。門扉には寺紋が取り付けられています。3月には門が開いていましたので、山門近くの境内を少時拝見しました。 本堂前の庭部分に、道標が立てられています(左)。大亀谷には俗に「大亀谷街道」または「八科(やしな)峠道」が通じています。ひょとすると、その街道のどこか三叉路に立っていた道標なのかもしれません。写真に写る道標の正面には、冒頭に「京」とあり、「右 大ふつちおいん ・・・」「左 ・・・竹田 ・・・」という文字位を私は判別できるくらいです。右に行けば方広寺の大仏殿、知恩院に、左に行けば深草を経由して竹田へ、という道標なのでしょう。右側面には「右 いがいせ ・・・」とあります。そして、その分岐点は、伊賀上野を経て伊勢に通じる道にもなる地点だということです。道標の背後に「鬼瓦」が置かれています。墨染寺と同様に、ここでも庭のちょっとしたアクセントになっています。地上から鬼瓦の役目を果たすべく、外敵に睨みをきかせているのかもしれません。山門を入った境内正面に「本堂」があり、幅広の石畳の参道でつながっています。本尊は阿弥陀如来像です。「寺は文禄年間(1592-96)、豊臣秀吉が伏見城築城にあたって現在の地にうつし、寺名を西福寺とあらためたといわれ、教誉上人を中興開山としている」(資料1)そうです。 向拝の蟇股の装飾はシンプルなものでしたが、木鼻は象が結構彫り深く造形されています。屋根の大棟には、左に菊花紋、右に浄土宗の宗紋が輝いていました。菊花紋は光巌天皇ゆかりの寺ということと関わっているのかもしれません。境内の東側には、「光厳院」と記された扁額がかけられた宝形造りのお堂があります。手許の本を参考にすると、ここに光巌天皇の画像と位牌が安置されているお堂のようです。 境内の西端には、鞍馬石の歌碑が建立されています。 深草の野辺の雲雀(ひばり)よ春たたばわが墳(つか)の上の雲に来てなけ作者は田中常憲(つねのり)という近代の歌人です。明治6年鹿児島県生まれで、晩年は当寺のほとりに閑居し、1960年享年88歳で没した人。上京して落合直文に学び、若くして教育者として各地で献身されたそうです。旧制の桃山中学校校長も歴任されたようで、伏見と縁があるようです。晩年には歌誌新月を創刊されたといいます。(銘文碑、資料1) 名前の刻された墓石や石仏なども歌碑の横に。光巌天皇は南北朝争乱期の北朝方の天皇で辛酸をなめる人生を過ごされたようです。伏見の大亀谷敦賀町に閑居し、禅門に帰依されたとか。晩年は現在の北桑田郡京北町にある常照寺に移り、そこで崩御されたといいます。その境内に光巌天皇の陵があります。興味深いのは、現在の宮内庁の「天皇陵」のページを見ると、歴代天皇の系譜から外れています。日本史における南北朝時代の存在が生み出した結果の一つなのでしょう。つまり歴代天皇は南朝系統の系譜でつながり現在に至っているということです。(資料1,2)西福寺の後、御陵にむかったのですが、その前に一つ寄り道を。西福寺を出て、そのまま坂道を東に行けばわずかの距離で、JR奈良線「藤森」駅です。駅前にはこんな彫刻像があります。5月に立ち寄ったときは、この駅経由で帰りました。藤森神社から直違橋通を南下すれば、最寄り駅が京阪電車の墨染駅です。このあたりでJRは一部の区間が谷底のようなかなり道路より低いところを通過しています。西福寺の少し先で左折し、その低い所を走る線路に沿った道路を北に進み、線路の上に架かる橋を渡り北西方向に行きます。途中で、道路沿いにもう一軒、この町家が目にとまりました。西福寺からまずは、仁明天皇陵に立ち寄ってみることに。地図2(Mapion)はこちらをご覧ください。線路を東側に越えると、大亀谷の東寺町⇒大谷町⇒東久宝寺町と北に進み、府道35号線を横切り、深草東伊達町を通り名神高速道路の南側傍まで行き、右折し東に歩きます。御陵への入口に向かう手前に、「京都一周トレイル」の道標があることに気づきました。左上の長方形のところが御陵です。御陵は南面していて、周囲は空堀をめぐらせてあります。入口は名神高速道路の傍から時計回りに半周ほど回り込んで行くことになりました。 仁明(にんみょう)天皇深草稜仁明天皇は850年3月に崩御。深草山の西麓に埋葬されたそうですが、その後所在不詳となったのです。江戸時代末期、この場所と決定され修治された御陵だとか。名神高速道路の下を通り抜けると、もう一つのトレイル道標がありました。この道標を利用して東進し、次の「東山 F26」に進みます。 ここから再び北に方向を転じます。仁明天皇陵から「深草十二帝陵」までの地図3(Mapion)はこちらをご覧ください。地図をご覧いただくとわかりますが、深草坊町の南東角付近にある嘉祥寺の西側からJR奈良線の線路との間に御陵が位置します。その御陵の南側の道路を西に行けば、直違橋通(旧伏見街道)に突き当たります。深草直違橋6丁目です。南東側に京都聖母学院のキャンパスが広がっています。南北の直違橋通に東西の道路が合流する形です。T字路を横倒しにした感じです。その北東角近くに、旧伏見街道探訪の折りにご紹介したこの「深草十二帝陵」という道標が立っています。「深草十二帝陵」 道路に面した入口正しくは、「深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)」と称されます。 陵内に法華堂が建てられていて、鎌倉時代から室町・桃山時代にわたる12人の天皇の遺骨と、栄仁(よしひと)親王の遺骨が安置されているそうです。12人の天皇の名称を列挙しますと、 後深草・伏見・後伏見・後光巌・後円融・後小松 称光・後土御門・後柏原・後奈良・正親町・後陽成となります。当時の時代背景が皇室の衰微に反映し、それが御陵の在り方と関係しています。土葬から火葬への変化というのも勿論、墳墓の規模に影響しているでしょう。さらにこの御陵もまたその維持管理において衰微・荒廃・再興が繰り返してきたようです。「江戸時代には『仙骨堂』または『御骨堂』ともよばれ、わずかに御陵の形をとどめていたが、寛文2年(1662)僧空心契沖が名刹の湮滅を歎き、安楽行院を再興して御陵の管理にあたった」といいます。明治以降に安楽行院は東山の泉涌寺に移されて、宮内庁の管理となったのです。(資料1)江戸時代に出版された『山州名跡誌』には、寺が東向きで、四宗兼学で洛北の般舟院に属していたこと。西向きのお堂に本尊として不動と歓喜天が祀られていたと記されています。そして「当院荒れるに就き年尚し、今の如き、現住空心法師再興する所也。草創記詳しからず」(書き下し文にしました)と記します。法華堂については「今安楽行院にあり、法華堂は天子御骨を収められる所也」と記しています。(資料3)宮内庁の「天皇陵」のページを見ると、公式には「陵形:方形堂」とし、各天皇は最初の後深草天皇との合葬と記されています。(資料2)御陵参道から南を望み、東側を撮ったもの 御陵の北東方向の景色この後、いくつかの寺を巡っていきます。まずは、上記の嘉祥寺です。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p81-84,p932) 天皇陵 :「宮内庁」3) 山州名跡志 白慧 著 :「近代デジタルライブラリー」 206-207/335コマ目に安楽行院・法華堂の項目記載があります。補遺落合直文 :「コトバンク」田中常憲 著作リスト :「CiNii」光巌天皇 :ウィキペディア光巌天皇 :「コトバンク」光厳天皇 :「テキスト一覧(作者別)」常照寺 :「コトバンク」京都一周トレイル [京都府山岳連盟] 東山コース 伏見・深草ルート(伏見桃山駅~伏見稲荷大社・奥社=9.5km)安楽行院 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -1 墨染寺と余談「撞木町」へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -2 藤森神社細見(1) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -3 藤森神社細見(2) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -5 嘉祥寺(深草聖天)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -6 真宗院 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -7 瑞光寺(元政庵)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -8 宝塔寺細見(1) まずは本堂周辺 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -9 宝塔寺細見(2) 日像廟・七面社ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -10 宝塔寺細見(3) 塔頭と補足 へ
2016.05.19
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藤森神社の境内の探訪を続けます。前回ご紹介した「舎人親王崇敬碑」のすぐ近くに、冒頭の「金太郎像」があります。石積み土台の正面に「勝運の神 菖蒲の節句発祥の地」という銘板が嵌め込まれています。江戸時代・安永9年(1780)出版の『都名所図会』から引用させていただきました。(資料1)右ページ上部にこう書かれています。「藤の森の祭は毎年五月五日にして、当社の神蒙古退治の為出陣し給ふ日なり。産子は宵宮より神前に鎧を錺り、祭の日は一橋稲荷藤森にて朝より走り馬あり」。そして左ページ上部には「世に端午の佳節に武者人形をかざるは、蒙古退治の吉例により始る」と。(日文研データベースの翻刻文参照)藤森神社のホームページに掲載の「境内図」を参照していただくとわかりやすいと思います。こちらからご覧ください。まずは境内社からご紹介していきます。本殿を囲む玉垣は、連子窓の透塀になっています。西側を北に進むと、本殿の北西方向に西から「天満宮社」「大将軍社」が並んでいます。天満宮社の正面には「霊験天満宮」と記した扁額が掛けられています。祭神は菅原道真です。東隣り、大将軍社の現在の社殿は室町時代・永享10年(1438)に足利義教が建立したもの(重文)です。一間社流造り、こけら葺きの建物。祭神は磐長姫命(いわながひめのみこと)。大将軍社は桓武天皇による平安遷都のとき、王城守護のために京都の四方に祀られたのです。ここは南方の守護神として祀られ、古来方除けの神として信仰されているそうです。(駒札、資料2)磐長姫は大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘神で、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の姉になります。神名の由来は「岩のように長久に変わることのない女性」だといいます。記紀神話では容貌が醜い神とされています。岩の如く長久不変というところが、守護神としてまつられたのでしょうね。(資料3)序でに、少し調べて見ると、北は、北区西賀茂角社町に大将軍神社(祭神:磐長姫命とその家族神4柱)があります。東は、東山区長光町に東三條大将軍神社(祭神:素戔嗚尊、相殿・藤原兼家)です。西は、上京区一条通御前西入にある大将軍八神社です。ここは今出川通を挟んで、北野天満宮の南に位置します。さらに付け加えると、円山公園の東にある華頂山の山頂大日堂境内に将軍塚と呼ばれる円墳があります。桓武天皇が「土にて八尺の人形を作り、鉄の鎧甲をきせ、おなじう鉄の弓矢を持たせて、『末代と云ふとも、この京を他国へ遷す事あらば、守護神とならん』と誓いつつ、東山の峯に、西向きに立ててぞ埋まれける」と『平家物語』にも記される「将軍塚」です。(資料4) 本殿の背後、北側に「境内図」では「七宮社」と記された切妻造り瓦葺きの横長の建物があります。名前の通り7つの神社が勧請されています。それぞれに社名の木札が掛けられいます。西側から列挙みますと、天満宮社、熊野神社、厳島神社、住吉神社、諏訪神社、廣田神社、吉野神社です。これは『都名所図会』に掲載された「藤森社」絵図の引用です。対比的に眺めると、江戸時代には勧請された神社はそれぞれ個別の社として本殿の背後に祀られていたのがわかります。そして、西参道の鳥居に一番近い建物の傍に「天満宮」の言葉が添えてあります。この社が多分大将軍社の西に移されたと読み取れます。併せて、絵図には本社と古社が記されていますので、前回引用した『山城名勝志』が記す本宮・新宮という説明とも表記法は異なりますが整合するようです。 七宮社の東に「祖霊社」(左)があり、一番東に「八幡宮社」が祀られています。上記絵図には「祖霊社」は描かれていません。八幡宮社の祭神は応神天皇です。余談です。現在、神社本殿より北西方向のかなりの区域が参拝者等用の駐車場になっていますが、まさにその北西隅にこの記念碑が建てられています。 藤森神社の東隣は「京都教育大学」のキャンパスになっていますが、このあたり一帯には戦前「京都歩兵第九連隊・歩兵第十九旅団・京都連隊区司令部」が置かれていたそうです。遡れば、明治41年(1908)に第16師団司令部が伏見深草に置かれたことに始まるようです。その跡地が戦後、主として大学の敷地に転用されたのです。子供の頃以来、藤森祭を楽しみに何度も境内にきていましたが、このことを知ったのはごく最近です。現在の龍谷大学深草キャンパスの傍を通る「師団街道」の名称由来を調べていて様々に繋がっていったのです。さて、本殿の背後から東側に回って行きます。このあたりは、現在「第二紫陽花苑」となっています。その入口に近いところに、「神鎧像(かむよろいぞう)」が建立されています。「五月五日に齋行される藤森祭は菖蒲の節句発祥の祭として知られ節句に飾る武者人形には藤森の神が宿ると云われておりその象徴として建立されたものです。 社務所」(駒札を転記)「藤森祭(深草祭)は平安時代に清和天皇の勅命による『貞観の祭』を起源とし、武者行列や駈馬神事が行われます。」(「不二の水」説明文より転記)この像の台座には漢文の銘板が嵌め込まれています。駒札には続きにその読み下し文が記されています。ここでは省略します。現地でご確認ください。「神鎧像」の南に前回ご紹介した「旗塚」が位置し、その傍に「不二の水」があります。傍に、「不二の水」についての説明掲示があります。この水がご神水です。「二つとないおいしい水」という意味で「不二の水」と称されているのです。「武運長久・学問向上、特に勝運を授ける水として信仰されています。」(説明文を転記)この近くで写真を撮っている時に、この不二の水を汲んで味わう人、ペットボトルを持参して、水を充填して持ち帰る人などを幾人か見かけました。もう一つが、傍に掲げられた「水六訓」という駒札です。こちらは学ぶこと多し・・・・ということで、全文転記し、ご紹介します。「一.水は尊し 水無くんば成らず育たず心ある者その加減を知り水を大切にせよ 二.水は美し 冷熱応じて虹と化して氷と変わり水晶となる 三.水は清し 常に味いて飽きず汚穢を洗い清める 四.水は強し いかなる障害にも屈せず自ら進みて天を成し地を動かす 五.水は恐し 人を呑み船を覆し山野を浸し地衣をも変貌す 六.水は深し その源神に発し大自然の道を示し波瀾曲折の人生を思わしむ 社務所」 「不二の水」の南西隣に、地蔵尊を祀る小祠や「大日如来社」があります。大日如来社の前に置かれた水盤の石柱には、安政三丙辰十一月十七日という日付が刻されています。安政3年は1856年です。大日如来社に安置された石仏の一体には、真新しくてこんな可愛い前掛がかけてありました。アンパンマン!ですよね。時代の変化を感じて、楽しい・・・・。石仏が微笑んでいるようです。不二の水、これら小祠の背後に見えるのが「神輿庫」です。扉に菊花紋が付されています。その外観からみて、明治以降に建てられたものでしょう。地蔵尊の小祠のすぐ近く、西側に「藤森七福神」が奉納されています。近年に建立された感じです。背後には「七福神のご利益」説明文もしっかりと掲示されています。 神輿庫の南隣には、「藤森稲荷社」があります。 稲荷社の南隣には、神楽殿(左)と斎殿(右)が並んでいます。斎殿の前に、大きな雪見灯籠が一基置かれています。この建物の南には、社務所もある「参集殿」があります。境内で最大の規模の建物だと思います。平成元年(1989)3月に建てられました。ここには、「宝物館」があり、「馬の博物館」というコーナーも併設されているようです。拝見はしていません。またの機会に・・・。その前に、「かへし石(力石)」が置かれています。「昔、この石を拝殿より鳥居までころがすという行事があり、又祭日には集まった人々によりこの石を持ち上げて力試しをしたものであります。 社務所 」(駒札を転記)参集殿の南隣には、「神輿轅(ながえ)蔵」があります。参道を挟み、参集殿の反対側(西側)に目を転じてみると、前回ご紹介した手水舎の南に、「紫藤ノ碑」があります。 紫の雲とぞよそに見えつるは小高き藤の森にぞ有りける 小侍従 さらに南には、「絵馬堂」があります。馬に関連した奉納額が多く掲げられています。駈馬神事で有名ですので、馬の関連するためか、菖蒲の節句発祥の地であり、「菖蒲」が「しょうぶ」という音つながりから「勝負」運が連想されるためか・・・・・。「藤森神社」のホームページを見ると、冒頭に「勝運、学問と馬の神社」というキャッチフレーズが冒頭に記されています。各種お守りの中には、「駈馬守」のほかに「福馬守」「勝馬守」「左馬ストラップ守」などもあります。向拝の柱に「左馬の由来」の説明文が掲示してあります。ちょっと興味深い説明です。写真では読みづらいので、転記してご紹介します。「(その1) 馬の字が逆に書かれていることから、ウマの逆はマウ(舞う)であり、古来舞いはめでたい席で催されることから、縁起のよい招福の意である。 (その2) 左馬の下の部分が財布のきんちゃくの形をしており、口がよく締まって、入った金が散逸しないことから、富のシンボル、である。 (その3) 普通馬は人に引かれるものであるが、逆に馬に人が引かれて入って来るというので、客商売にとっては先客万来のものである。 (その4) 馬は元来左から乗るものであることから、左馬は乗馬をシンボルとするもので、これを持つ者は競馬に強いという。 藤森神社 」さしづめこの4番目の解釈が、競馬ファンを惹きつけるのでしょうか・・・・。 正面の参道を南に向かいますと、西側には「第一紫陽花苑」があります。お彼岸の頃には枝ばかりが目に付いたのですが、5月には一面に若葉が茂っています。もう少しすれば、紫陽花の花が咲き乱れることでしょう。大昔に紫陽花を見に出かけてきたこともあります。苑内には「陽聞亭」と称する四阿があります。 その南側にあるのが「蒙古塚」です。「昔は七つの塚が有り七ツ塚とも云われていました。蒙古の将兵と戦利の兵器を納めた所です。 社務所」(駒札を転記)前回参照した、『山州名勝志』によれば、江戸時代には塚が七つあったようです。「鳥居内馬場西畔に在り。塚七つ在り。此所は当社神、蒙古御退治あつて、彼大将が首、及兵器を埋めて末代の験となし玉ふ。是則神功皇后此地に旗を蔵されし故也」(資料6)と記されています。一部読み下し文にしての引用です。江戸時代後記にはもう詳しい事実はわからなくなってきていたのでしょう。『都名所図会』では、同種の説明をしながら、「今詳(つまびらか)ならず」という一文を加えています。 その南には、石積みで立派な壇が築かれた上に、大きな顕彰碑が建立されています。「義民焼塩屋権兵衛之碑」です。説明碑文を読んだ関心から少し調べてみると、小堀政方は、小堀遠州の子孫にあたります。近江小室藩主として藩財政難を打開したい背景があり、伏見奉行として暴政を行ったようです。天明の飢饉と重なり、天明5年(1785)の山城伏見町民一揆が発生したのです。ここに顕彰碑が建てられた焼塩屋権兵衛の他に、指導者としてこの碑文に記載の文珠九助のほか、丸屋久兵衛、麹屋伝兵衛などの名前も見つけました。小堀政方は天明5年に免職となり、同8年には不行跡で改易。近江小室藩は取り潰しとなっています。政方は小堀家6代です。ご関心のある方は、補遺をご覧ください。正面の参道から拝殿の方向を眺めた景色この馬場のところで、藤森祭の時には「駈馬神事」が行われます。これも大昔に拝見したことがあります。この神事は昭和58年(1983)に京都市登録「無形民俗文化財」に指定されています。この駈馬神事は1200年ほど前からの伝統を継承し、江戸時代には大陸系の曲芸的な馬術の影響も受けているようです。現在は「手綱潜り/逆乗り(地蔵)/矢払い/横乗り/逆立ち(杉立ち)/藤下がり/一字書き」という駈馬の技が公開されているそです。(資料7) 正面の石造鳥居(南門) これで藤森神社の探訪ご紹介を終わります。つづく参照資料1) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原信繁 画 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館) 第5冊の24コマ目(境内図)、25コマ目(端午の節句・祭事)です。2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p88-933) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p734) 『平家物語 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p2335) 広大な学舎は陸軍の跡地 京都教育大学 :「伏見散策マップ」6) 山州名跡志 白慧 著 :「近代デジタルライブラリー」 211/335コマ目 「藤杜神社」の項が載っています。7) 藤森神社駈馬神事 藤森神社駈馬保存会 :「藤森神社」補遺藤森神社 ホームページ大将軍神社(北区) :ウィキペディア西賀茂大将軍神社 :「玄松子の記憶」東三條大将軍神社 :「玄松子の記憶」大将軍八神社 ホームページ将軍塚 :「京都観光Navi」都名所図会データベース :「国際日本文化研究センター」藤森神社 :ウィキペディア待宵の小侍従 :ウィキペディア ← 小侍従 小堀政方 :「コトバンク」文珠九助 :「コトバンク」藤森祭・駈馬神事【京都伏見】 :YouTube行事・歳時記 :「KYOTOMOVIE」 アクロバティックな曲芸的馬術神事「藤森神社・駈馬神事」として動画の紹介あり。藤森祭・駈馬行事(藤森神社) 京の祭 :「京都観光チャンネル」江戸時代における朝鮮馬術の伝来と継承 : 藤森神社の駈馬神事を中心に 李 燦雨氏論文 :「つくばリポジトリ」藤森神社宝物殿 :「京都で遊ぼうART」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -1 墨染寺と余談「撞木町」へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -2 藤森神社細見(1) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -4 西福寺・仁明天皇陵・十二帝陵ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -5 嘉祥寺(深草聖天)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -6 真宗院 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -7 瑞光寺(元政庵)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -8 宝塔寺細見(1) まずは本堂周辺 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -9 宝塔寺細見(2) 日像廟・七面社ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -10 宝塔寺細見(3) 塔頭と補足 へ
2016.05.17
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冒頭の写真は直違橋通(旧伏見街道)に面して建つ石造鳥居です。西側から境内に入る参道で、鳥居の右側にたつ石標の側面には「菖蒲の節句発祥の地」というフレーズが記されています。 西参道には長方形の板石が敷き詰められていて、さらに2つめの石造鳥居が建てられています。その手前に、「府社 藤森神社」という石標が見えます。伏見・深草の里に平安京遷都以前から古社があったとされています。産土神を祀るルーツがあったのでしょうか。延喜式神名帳に載る式内社ではなく、また1945年まで神社に付けられていた社格では「府社」に位置づけられていたことがわかります。官幣社・国幣社・諸社という太政官布告の区分では諸社に入るのです。私が興味深く思うのは、社格などより、歴史を遡ってみたときに数多くの祭神が祀られているそのルーツの関係です。西参道から境内に入ったのですが、境内の南にある石造鳥居が正面参道ですので、そちらから境内の中核域に入って来て拝見する形でご紹介します。境内の中核域はまず立派な狛犬が広い境内の正面参道幅に近い形で配置されています。石組みの基盤上に基壇があり、基壇の周囲は石造の柵囲いで結界が張られています。その上の台座に狛犬像が見えます。 この狛犬(獅子そのもの)の造形がおもしろいのです。両方とも、後肢を立ち上げて今にも飛びかかろうとする寸前、威嚇している雰囲気です。多くの神社で一般的に見かける姿とは大きく異なっています。口許は阿形・吽形の様式です。ダイナミックな造形がおもしろい。 基壇の側面(正面)の浮彫は当社の祭神に関わるエピソードとの関係がみられそうです。 手水舎西側の狛犬像に近い西側に手水舎があります。北から南にむかって撮った写真です。これは深草に行く要件があったので、序でに新緑が出始めた境内を眺めに行きました。そのため、この藤森神社のご紹介では、3月のお彼岸の頃の写真と、5月14日の写真を併せて、適宜使用しています。鮮やかな新緑の見えるのは直近の写真です。 東側から見た手水鉢(左)です。手水鉢の下部・台石(右)を北西側から撮ってみました。というのは、手水鉢の西側の井戸を囲む格子に掲げられた駒札「手水鉢台石の由来」を今回読んでおもしろく思ったからです。「この手水鉢の水鉢の台石は宇治浮島にある十三重の塔の上より五番目の石を石川五衛門がもち来たりし物と云われており現在十三重の塔を見るとその部分だけ石の色が違っているのがわかる。 社務所」(駒札本文を転記)こんなところで、石川五衞門や現在の私の地元宇治に関連する十三重の塔という名前が出てくるなんて想像外でしたから。伏見に住んでいた頃、藤森神社の氏子の区域だったので、何度もこの神社には来ていますが、気づきませんでした。というか、意識していませんでした。思わぬトレビア的発見です。 傍に「神馬」銅像が奉納されています。神馬の胴体側面に神紋が付されています。手水鉢に水を注ぐ竜頭の角が1本欠損していました。かなり風化が進んできたせいでしょうか・・・・。 拝 殿 拝殿を南西側から(左)、また北東側から(右)眺めた景色です。南北両面に唐破風が設えてあります。五間四間の切妻造り、唐破風付きで銅葺きです。 唐破風の獅子口 及形兎毛通は雲形のように思えます。兎毛通の上に神紋の飾り金具が付されています。 本殿正面拝殿側から南面する本殿を眺めた姿です。正面には千鳥破風(この写真では見えません)と唐破風の向拝が付いています。本殿は入母屋造り、檜皮葺きの大きな建物です。この本殿と拝殿はともに、正徳2年(1712)に「中御門天皇より宮中賢所の建物を賜わったといわれ、現存する賢所としては最古のものといわれる」(資料1) そうです。賢所とは、「宮中で、三種の神器の一つである八咫(やた)の鏡を祭ってある所。宮中三殿の一つ。温明殿(うんめいでん)。内侍所(ないしどころ)」(『日本語大辞典』講談社)です。宮中の内裏に温明殿と称する殿舎があり、そこに内侍の仕える内侍所があり、神鏡が安置されていたそうです。古来内侍は神鏡を守護する役目を担った人々のことだったとか。神鏡の視点で言えば賢所であり、そこで仕える人々の視点で言えば内侍所となるのです。向拝に近づいて行きます。 手前にまだ建てられて新しそうな石標があります。「日本最古の学者 日本書紀編者 学問の祖神 舎人親王御神前」と正面に記され、側面には「追贈 崇道盡敬天皇」と記されています。『続日本紀』を参照しますと、巻第22「廃帝 淳仁天皇(第47代)」に、「そこでこれからは父の舎人親王に天皇の称号をお贈りして、崇道尽教皇帝と称し、母の当麻夫人を大夫人と称し、・・・・」(資料2)という一文が天平宝宇3年6月16日の条に記されています。また、『山州名勝志』には、「曰、天平寶宇三年六月、追尊舎人親王称崇道盡敬皇帝、云々」と記されています。(資料3) 唐破風屋根の向拝で眺めた木鼻や蟇股はごくシンプルなデザインです。 屋根裏の地棰(たるき)の先端に被せられた覆い金具には菊花紋が使われています。吊り灯籠は神紋をあしらい、濃録色、金色、白色と神紋の地の黒色の4色が程良いバランスを保っていて、洒落た意匠です。 向拝から眺めた本殿正面 本殿正面の回縁の両側に彩色鮮やかな狛犬像が配置されています。格子窓越しに、デジカメのズームアップ機能で撮った写真です。藤森神社には、現在祭神として十二柱が祀られています。(資料4) 素盞鳴命 (すさのおのみこと) 本殿中央(中座)以下7柱 別雷命 (わけいかずちのみこと) 日本武尊 (やまとたけるのみこと) 応神天皇 (おうじんてんのう) 仁徳天皇 (にんとくてんのう) 神功皇后 (じんぐうこうごう) 武内宿禰 (たけのうちのすくね) 舎人親王 (とねりしんのう) 本殿東殿(東座)以下2柱 天武天皇 (てんむてんのう) 早良親王 (さわらしんのう) 本殿西殿(西座)以下3柱 伊豫親王 (いよしんのう) 井上内親王 (いがみないしんのう)そして、これらの数多くの祭神がこの地に鎮座されるのに、いくつかの歴史的経緯があるのです。ある意味で、そこにこの藤森神社の興味深さがひそんでいます。古くから崇敬されてきた古社であり、多分背景にはこの地の産土神への信仰が基盤にあるのでしょう。しかし創建由緒はあきらかではありません。逆にいえばそれほど古いということかも・・・。社伝によると、三韓征討に赴いた神功皇后が新羅から凱旋した後、この深草藤森の地に旗と兵器を納めた塚を設けたのが当社の起こりと伝わるのです。そこから様々な武功の神を配祀する形になったのでしょう。本殿中央の7柱は武功に関わる神々です。(資料1,4)江戸時代に出版された『山州名勝志』(沙門白慧、1711年)は「藤杜神社」(=藤森神社)の項に、或る書に曰くとして、次のことを記しています。「光仁帝第二子、早良親王当社を敬ひ玉へり。・・・同年(=天応元年/781)蒙古の軍賊、吾朝に来る。詔して、太子を以て追討の大将となす。太子当社に詣して利運を祈る。遂発向して敵軍を破玉ふ。是当社の神力也。仍(なお)毎歳五月五日、当社の祭節神幸の時、神人甲冑・弓箭を帯するは、彼軍勢の機勢、異国降伏の表示、天下太平の義也。又当社を弓兵政所と号するは此の義也云々」(資料3)その早良親王は、桓武天皇による長岡京遷都の折りに、藤原種継の暗殺に首謀者として関わったとみなされ、皇太子を廃されて、淡路配流となりますが、その途次非業の死を遂げます。怨霊の鎮魂という目的で御霊信仰が広まることとの関係でしょうか、本町十六丁目の塚本の地に早良親王を塚本社として祀られたといいます。「天長3年、伊豫親王、井上内親王の二柱を合祀し、官幣の儀式が行われた。塚本の宮は、たびたびの火災により小天王の地(深草西出町)へ移り、応仁の乱で焼失したため三柱は藤森に遷され、西殿に祀られた」(資料2)という。文明2年(1470)に藤森神社に合祀されたそうです(資料1)。 この三人がそれぞれ神格化されるのは御霊信仰に関わるようです。尚、早良親王には、桓武天皇が延暦19年(800)に崇道天皇の号を追贈しています。それが現在の本殿西座の神々です。舎人親王が崇道盡敬皇帝、一方早良親王が崇道天皇と、それぞれ号を追贈され、類似していてちょっと紛らわしいですね。さらに別の流れが加わります。それが本殿東座の二神です。現在、伏見稲荷大社の社殿がある稲荷山の麓は、藤尾と呼ばれる地でした。そこに藤尾社の祭神として天武天皇と舎人親王の二柱が祀られていたのです。ところが、「永享10(1438)年、後花園天皇の勅により、時の将軍足利義教が山頂の稲荷の祠を山麓の藤尾の地に移し、藤尾大神を藤森に遷座」(資料2)するという事になったそうです。藤森神社に合祀するための官幣の儀式が行われたと言います。それが本殿東座というわけです。つまり、藤森神社の祭神は異なるルーツの神々がここに集合された結果、十二柱というある意味で賑やかで多様な信仰の集まる本殿となっていることになります。そこで、神社のルーツがその社を信仰し守る氏子地域について興味深い関係が生まれます。 それが、2015年5月に撮ったこれらの写真です。伏見稻荷に関わる稲荷信仰についての講座を受講したことがあります。その時、藤尾社の藤森への遷座と氏子地域のことを講義の一環として拝聴しました。そこで祭事の時期に稻荷駅を利用する機会があり確かめてみたのです。JR奈良線「稻荷」駅を降りると、その前が伏見稻荷大社の参道です。前の南北の通りが本町通(旧伏見街道)。稲荷大社の前は稲荷祭の幟だけが立てられています。しかし、その他の通りの両側には、藤森祭と稲荷祭の幟が並立しているのです。つまり、この地に鎮座した藤尾社を信仰されている氏子の人々が、藤森神社への合祀により、藤森神社の氏子となったということでしょう。5月の祭事においては、普段は見えないこの現象が生まれるのです。一般的に神社の周辺はその神社の氏子地域となることでしょうから、神社の面前で別の神社の祭事の幟が立つことはまずないでしょう。この写真の状態は神社の遷座と氏子地域の関係の特殊なケースかもしれませんが、興味深いものがあります。 社殿を東側に向かうとこんな景色です。本殿は入母屋造り、檜皮葺きです。本殿としては大きな建物だということがよくわかります。その右隣の石積みの基壇の上に覆屋の建物が見えます。 大木の老株に注連縄がかけられて覆屋が設けられています。駒札「御旗塚」が前に立っています。「神功皇后が、纛旗(とうき:軍中の大旗)を樹てた所で、当社発祥の場所である。このいちいの木は”いちのきさん”として親しまれ、ここに参拝すると腰痛が治ると云われ幕末の近藤勇も参拝し治したと伝えられている。」(駒札を転記)ここに旗が埋められたとされているのです。傍の永代常夜燈は棹の側面に記された銘文から弘化4年(1847)11月の奉納ということがわかります。そこで、祭神の変遷に関連して興味深いことがあります。”因みに「旗」は「真幡木(まはたぎ)」の約言であって、式内真幡木神社の旧鎮座地によるものだろうとの説がある”(資料1)そうです。現在、城南宮の地にある「真幡木神社」の旧地がここではないかという一説です。それと、藤森神社の祭神を祀る場所についても、興味深い点があります。上記の『山州名勝志』を引き継ぎ、安永9年(1780)に出版された『都名所図会』は、「藤杜の社」(=藤森神社)という項目で、「本殿の中央は舎人親王、東は早良親王、西は伊予親王を祭る。(また本朝武功の神を配祀し奉る。神武天皇、神功皇后、・・・・等なり。故に弓兵政所と号す。)」(資料5)と説明しています。一方、『山城名勝志』(大島武好、1711年)は、本宮と新宮という区分で説明しています。本宮は二座としながら神号不詳とし「本宮ハ真幡木神社二座云々」と記すのです。そして、新宮三座と書き、「崇道天皇 早良親王 井上内親王 光仁帝后 他戸(おさべ)親王 早良ノ弟 母ハ井上」と記しています。その後に、本朝武功神が配祀されていることに触れているのです。(資料6)祭神の祀り方も時代により変遷がみられるということでしょうか。本殿の西側には、この「学芸の祖 舎人親王崇敬碑」が新たに建立されています。時勢の変化ということでしょうか、学芸、学問上達を祈る信仰の側面に重点が置かれてきている感じです。黒光りのしている中央の碑の両側に説明銘板が嵌め込まれています。引用しておきます。「舎人親王は天武天皇の皇子。親王は持統、文武、元明、元正、聖武の五朝で国政に参与され皇室の長老として重んじられ、日本書紀の編集を主宰し奏上した。この年 知太政官事となり、死後 皇子 淳仁天皇即位に及んで、崇道尽敬天皇の称号が贈られた。」(右)「舎人親王(崇道尽敬天皇)は日本最初の歴史書である『日本書紀』の編纂を主宰。七百二十年に完成し、紀三十巻系図一巻を奏上した。 また、曾孫の清原夏野は、『令義解』『日本後記』を編集、同族の清原深養父(ふかやぶ)、清原元輔(もとすけ)や清少納言は歌人・文人として知られ、清原家は、菅原家、江家と並び学問の家系として活躍、万葉集には三首の歌が残されている。そのため舎人親王を祀る藤森神社は学問の神として、崇敬され近世国学発生の母体となった。 また一方で、舎人親王は弓矢蟇目(ひきめ)の秘法を伝えられるなど、文武両道に優れたお方であられ、皇室や藤原一門、武家の崇敬もあつかった。」(左)崇敬碑の表面に拝殿が映じていました。 本殿を旗塚から眺めた景色 北東方向から眺めた本殿本殿に祭神が十二柱祀られるというのは少し特異でもあると感じた人物がいたのです。「室町末期の吉田神社の祠官吉田兼右は『諸社根元記』を表して藤森縁起なる一文を掲げ」ているそうです。また、江戸時代に「山崎闇斎は寛文11年(1671)『藤森弓兵政所記』をつくって当社を武神なりと称した」といいます。(資料1)吉田神社の吉田兼倶(かねとも)が室町時代後期に吉田神道を大成します。兼倶の子で清原家を継いだ宣賢(のぶかた)を父とし、次子として生まれた兼右が吉田神道の系譜を継承していきます(資料7)。吉田神道の観点から、藤森神社の神々を研究したということでしょう。山崎闇斎は江戸前期の京都の人で、朱子学を学び数多くの弟子を育成した儒学者ですが、「晩年、吉川惟足(これたり)より神道を伝授され、垂加神道を創唱」(『日本語大辞典』講談社)するに至った神道家です。上記した弓兵政所という言葉はこの山崎闇斎の書がソースになっていることがわかります。いろいろと脇道に逸れてしまいました。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p88-932) 『続日本紀(中) 全現代語訳』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 p226-2273) 山州名跡志 白慧 著 :「近代デジタルライブラリー」 211/335コマ目 「藤杜神社」の項が載っています。4) 藤森神社縁起 :「藤森神社」5) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p47-566) 山城名勝志 :「国文学研究資料館」 1097/1376コマ目に「真幡木神社」「藤森神社」が掲載されています。7) 吉田兼右 :「コトバンク」補遺藤森神社 ホームページ仁徳天皇 :「コトバンク」舎人親王 :ウィキペディア舎人親王 :「コトバンク」早良親王 :ウィキペディア崇道天皇 :「はてなキーワード」井上内親王 :「コトバンク」他戸親王 :「コトバンク」京都歩く不思議事典 参考文献のページネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -1 墨染寺と余談「撞木町」 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -3 藤森神社細見(2) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -4 西福寺・仁明天皇陵・十二帝陵ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -5 嘉祥寺(深草聖天)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -6 真宗院 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -7 瑞光寺(元政庵)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -8 宝塔寺細見(1) まずは本堂周辺へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -9 宝塔寺細見(2) 日像廟・七面社ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -10 宝塔寺細見(3) 塔頭と補足 へ
2016.05.15
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旧伏見街道の一部は日常生活の延長線上で幾度も歩いていますが、その全体を探訪したことはありませんでした。そこで自転車散歩として五条通を起点に観月橋まで探訪してみました。その時のまとめは「遊心六中記」にこの3月中旬、ご紹介しています。その第1回は「探訪 旧伏見街道を自転車で -1 五条大橋、本町通を南へ」と題しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。その続きは、「-2 瀧尾神社・二之橋・法性寺・三之橋・東福寺の門」、「 -3 本町通から稲荷大社前を経て直違橋通に」、「-4 直違橋通から旧伏見城下へ」と4回でまとめました。旧街道沿いの交差路には道標がいくつかありましたがそこまでは探訪の足を延ばさなかったこと、またまとめていてさらに気づいたことなどからいくつか探訪課題が残りました。街道の東あるいは西方向に少し入り込めば、いくつも史跡があるということです。そこで旧伏見街道探訪の波紋として、上記探訪記を遅ればせながらまとめていた3月、お彼岸の頃に部分的ですが、今度は旧伏見街道の周辺地域の探訪として南から北方向に歩いて見ました。まずは、冒頭に載せた「墨染寺(ぼくせんじ)」からのご紹介です。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。京阪電車本線「墨染(すみぞめ)」駅の踏切と琵琶湖疏水に架かる橋を渡り、西へ緩やかな坂道を200mほど下ると、通りの南側に墨染寺の山門があります。丸軒瓦には「桜」の文字が浮き彫りにされています。山門前の左端に「南無妙法蓮華経」の御題目碑が立ち、その側面には「墨染櫻寺」と刻されています。右側には「深草山墨染寺」とまだ新しい感じの石標が建てられています。俗に「桜寺」と呼ばれる日蓮宗のお寺です。山門を入ると、参道の左側に、御題目と日蓮大士と記した石造塔婆が建立されています。 そして、右側には「壽碑」があり、その内容を記した駒札が立てられています。この壽碑は墨染寺を復興された第37世学妙上人を顕彰する碑です。この碑と手許の本などからこんな経緯がわかります。(駒札、資料1,2,3)清和天皇の時代に、摂政藤原良房が貞観寺(ていかんじ/じょうがんんじ)を建立します。この地の東北、現・伏見区深草西伊達町一帯の地と伝わるようです。豊臣秀吉の姉瑞龍尼が日秀上人に深く帰依し、秀吉も上人を厚遇したそうです。そして天正年間に、貞観寺の旧地に一宇を建立したのが起こりだそうです。日秀上人を開基とし、寺名を墨染桜寺(ぼくぜんおうじ)と改めたとされています。「慶長の頃は方丈・書院巍々として、秀吉公も御成りありし所なり」と『都名所図会』が記すほどだったようです。『山州名跡志』は「御成間・書院等あつて、寺境廣く、塔頭七院あり」と当時の様子を記しています。それが江戸時代には衰微し、塔頭・威徳院に統合縮小されて、現在地に移転したそうです。旧地の西端と『山州名跡志』は記しています。しかしその後、荒廃していたとか。宇治直行寺に住し、梅津本福寺に転じた後、この寺に入った学妙上人がこの寺を復興されるに至ったのです。壽碑には、お寺が荒廃していた状態を「爾来星霜数百年寺運振るわず塚を破り碑を断ち累々として四方に狼藉する荒涼の状轉(うたた)感慨の情堪えざるなり」と記しています。 本堂 本堂の正面に、「桜寺」の扁額が掛けられており、本堂の前には日蓮上人の立像が建立されています。 庫裡訪ねた折りは、境内の桜が咲いていました。三代目の「墨染桜(すみぞめざくら)」だそうです。辞典には「桜の一種。花は小さく単弁で白いが,茎・葉とも青く,薄墨色のように見える。」(『大辞林』三省堂)と説明があります。平安時代・寛平3年(891)に藤原基経(堀河太政大臣昭宣公)が亡くなったとき、この地に殯(かりもがり)をしたそうです。この深草の野辺には桜が多かったようです。その死を哀しんだ上野岑雄(かんづけのみねお)が、哀傷歌を詠じたのです。 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け すると「このほとりの桜墨染に咲きしとなり」(資料1)と伝わるのです。この歌は、『古今和歌集』巻16、832番に収録されています。藤原基経の墓は瑞光寺の門前にあった大塚と伝えられていますが、今は消失しています。(資料1)墨染、墨染桜の名はこの和歌に起因するようです。墨染寺(墨染桜寺)も同様です。境内の一隅に、この手洗鉢「墨染井」が置かれています。願主「中村歌右衛門」とあるのは、歌舞伎役者の二代目中村歌右衛門のことであり、明和5年に寄進した旨の銘もあるそうです。現在は本堂前の手洗井が墨染井と称されているようです。『都名所図会』には、「墨染井(当寺の門前町の西、茶店の前にあり。由来さだかならず)」という説明がなされています。(資料1)鬼瓦や飾り瓦も置かれています。墨染寺では、毎年「墨染さくらまつり」が地域の交流と活性化を目的として開催されています。2016年は3月26日(土)でした。(資料4)京都の桜の開花情報を伝えるサイトで取り上げられています。余談ですが、墨染駅から南西に400mばかりのところに、「撞木町」があります。今はすっかり住宅街に変貌してしまっています。序でに立ち寄り見つけたのが民家の傍に立つこの石碑「橦木町郭之碑」です。いまはこれがここに撞木町遊郭が存在した時代があることを示す記念碑です。碑文は「撞木」の代わりに「橦木」の文字を使っています。大正時代に建てられたもの。慶長元年(1596)に林又一郎が豊臣秀吉に願い出て伏見の西の田町に傾城町、つまり遊郭を開いたのです。しかし、その後関ヶ原の戦いに際し、伏見の大半が焼亡したことと関連して荒れてしまったとか。そこで、「慶長9年(1604)に渡辺掃部、前原八右衛門が伏見奉行長田喜兵衛尉、芝山小兵衛尉につてがあり、遊郭の再興を願い出て富田信濃守の屋敷跡の現在地にひらいたものとされる」(資料5)のです。忠臣蔵で有名な大石内蔵助は一時期山科に居を構えました。そして、討ち入りに関連して「山科会議」を開いています。そして、その頃から世に名高い大石の遊蕩が始まるのです。討ち入りの意志を見破られないためのカモフラージュもあったのでしょうが、結構本気で遊び、浮き名を流すという不行跡だったとか。「仮名手本忠臣蔵」(歌舞伎は1748年8月に初演)では大星由良之助が祇園町の一力茶屋で遊ぶ場面になっています。大石は祇園で遊蕩にふけったようなイメージができています。しかし実際は、当時この橦木町にあった遊郭で遊ぶことが多かったそうです。忠臣蔵は元禄15年(1702)12月の討ち入り事件です。『都名所図会』は安永9年(1780)に出版され、当時のベストセラーになったガイドブックです。ここに「鐘木町」(撞木町のことです)について上記の二人の名前を記し、「秀吉公伏見御在城の時、・・・慶長九年十二月に傾城町免許ありし所なり。(今は年経りて荒廃に及ぶ)」と説明しています。遊郭の盛衰が舞台を盛り上げる役に立つかどうかと関係しているのでしょう。大石内蔵助は、橦木町以外にも京の島原、奈良の木辻、大坂の新町などの遊郭にも現れたと言います。これらは、各地に散在していた赤穂浪士との連絡場所として遊郭を利用したのだという説もあるようです。(資料2,5,6)尚、撞木町は当時の伏見と京を結ぶ往還路に設けられた傾城町で、町の形がT字型になっていたので、撞木町の名が生まれたといいます。(資料2)また、医師であり旅行家・文人としても名声があった橘南谿(たちばななんけい、1753-1805)が『北窓瑣談』という随筆を残しているのです。彼は伏見に住んでいた時期があるそうで、撞木町に関する回想を記しています。自分の見聞を踏まえて、大石内蔵助が撞木町第一の大家、笹屋清右衛門の青楼に通っていたこと、「此楼上にて酩酊の上、天井の板に感慨の辞を書付しも、墨迹淋漓として、其天井其ままに残れり」という一文なども記しています。そして、大石内蔵助は郭遊びの折りに、「里げしき」「狐火」という地唄を作っていると言われています。(資料6,7)もう一つ、橦木町の外、入口に編笠茶屋「万亭」があったと言われているそうです。そこは遊郭に行く人が衣服を整えたり、腹ごしらえをしたり、顔を隠す編笠を借りたりする茶屋だったそうです。編笠をかぶる習慣がなくなると、客を揚屋に案内する手引茶屋となっていったのです。大石内蔵助もこの茶屋を利用したのかもしれません。(資料6) 近くにお地蔵さんが祀ってあり、その傍に神名を彫った碑があります。「熊吉大神、笠吉大神」と記されているように読めるのですが・・・・何でしょうか。不詳です。余談が長くなりました。次回は、藤森神社の探訪です。つづく参照資料1) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p46-47,p602) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂3) 『山州名跡志』 白慧 著 :「近代デジタルライブラリー」 214/335コマ目に墨染寺、墨染桜の項目があります。4) 「きらり伏見 2016 3/15」 市民しんぶん伏見区版5) 『忠臣蔵 -赤穂事件・史実の肉声』 野口武彦著 ちくま新書 p122-1256) 『京のかくれ話 歴史・人物』 久田宗也[監修] 西村豁通[編] 同朋舎 p43-567) 東西遊記・北窓瑣談 橘南谿子著 :「近代デジタルライブラリー」 225/343コマ目に随筆文が載っています。補遺仮名手本忠臣蔵 :ウィキペディア橘南谿 :「コトバンク」橘南谿 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -2 藤森神社細見(1) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -3 藤森神社細見(2) へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -4 西福寺・仁明天皇陵・十二帝陵ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -5 嘉祥寺(深草聖天)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -6 真宗院 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -7 瑞光寺(元政庵)へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -8 宝塔寺細見(1) まずは本堂周辺 へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -9 宝塔寺細見(2) 日像廟・七面社ほか へ探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -10 宝塔寺細見(3) 塔頭と補足 へ
2016.05.13
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大徳寺から花園の妙心寺へ再び定期観光バスでの移動です。妙心寺の花園会館西側の駐車場で下車し、南総門から境内に入ります。参道を南から北へと真っ直ぐに進みます。冒頭の写真は、妙心寺の三門です。こちらは三門を北側から眺めた景色です。三門から参道を挟み南東方向に、「浴室」があります。妙心寺のホームページにある「妙心寺山内図」をご覧いただくと全体がイメージしやすいでしょう。こちらからご覧ください。三門から北へ縦一直線上に「仏殿」「法堂」が配置されています。 仏殿の東方向に、右写真の「経蔵」があります。左の写真は仏殿の西側の参道からの経蔵の眺めです。東側の参道を其のまま進むと、法堂の北東方向、参道の正面が「大方丈」です。この前を左折して、法堂の北面を西に進みます。 法堂は寂堂・玄関と渡り廊下で繋がっていますので、廊下の下をくぐって進みます。左写真が寂堂・大庫裡などの建物のある北側、右写真が廊下で繋がった法堂の北面です。そのまま西に進めば、西側の参道を横切った先が「霊雲院」です。妙心寺四派(しは)の一つ「霊雲派」の本庵です。大永6年(1526)薬師寺備後守国長の室、霊雲院清範尼が大休和尚に深く帰依して創建したそうです。後奈良天皇が大休和尚に帰依され、しばしばこの霊雲院に行幸されたので、方丈のつづきに、「御幸の間」と称される書院(重文・室町)があります。簡素な初期書院造りの遺構として知られているようです。(資料1)境内に入ると、この石灯籠が目にとまりました。笠の部分が苔蒸していておもしろい感じです。門内左手には、哲学者西田幾多郎博士の墓があります。碑面には西田先生の号「寸志」の二字が刻まれているのです。墓前まで行く時間がなくて通り過ぎるだけになりました。本堂への唐破風の門の右側にこの五重石塔が置かれています。写真が撮れたのはここまで。建物内は撮影禁止でした。これは当日の拝観券です。本堂の南庭の写真が使われています。写真は撮れませんでしたが、書院前庭の方は史跡・名勝であり、10坪ほどの狭小な空間ですが、蓬莱山水を兼ねた石組を配した枯山水庭園です。脇道に逸れますが、以前に妙心寺の探訪を「遊心六中記」でまとまめています。こちらもご覧いただけるとうれしいです。 スポット探訪 妙心寺 大法院 (第48回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開) 探訪 京の冬の旅 やすらぎコース -1 妙心寺衡梅院・阿じろ(京料理)この後、最後の拝観先に向かいます。 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)の山門 拝観したのは閉門時刻の30分くらい前でした。お寺を出た時に撮った写真です。このお寺は松原通に面していて北側に位置します。文献的には「ちんこうじ」と読むのが正しいようですが、「ちんのうじ」と京都では呼ばれています。紹介本や俳句の歳時記などをみると、いずれかの読み方でルビがふられています。 山門手前の左側には「六道の辻」碑が立ち、右側には謡曲「熊野(ゆや)」の一節を扇面に記した意匠の碑が置かれています。(資料2) 愛宕の寺もうち過ぎぬ。六道の辻とかや。 (地謡) 実に恐ろしやこの道は、冥土に通ふなるものを (シテ)「六道」とは、仏教語で「衆生が自己の行為の結果として生死を繰り返すとされる、六つの迷いの世界。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上をいう。」(『日本語大辞典』講談社) つまり、六つの冥界であり、六道輪廻の思想です。この六道珍皇寺の付近は、かつては死者を鳥辺野へ葬送する時の野辺送りの場所だったので「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世の境とみなされていたのです。愛宕寺というのは時代によって場所が移っているようです。「相国寺伝来の古図によると、愛宕寺は六波羅密寺北門の筋向い、松原通の北側にあって、珍皇寺より西に図し、その西に行願寺(鎌倉時代の寺)、および念仏寺を図している」(資料3) そうです。つまり、念仏寺、愛宕寺、六道の辻という位置関係であり、六道の辻に珍皇寺が位置します。その時代にこの謡曲が作られたのでしょう。愛宕寺は珍皇寺からさらに念仏寺に継がれたそうです。そしてそれが現在は嵯峨鳥居本にある「愛宕念仏寺」につながるのです。(資料4)六道珍皇寺は駒札に記されていますが、京都では「六道さん」という呼び名で親しまれています。お盆の精霊迎え(8/7~8/10)に多くの人々が参詣する寺として有名です。臨済宗建仁寺派に属し、山号は大椿山(たいちんざん)です。境内より奈良時代の瓦が出土していることから平安遷都以前に存在した寺院のあとを継承していることはほぼ間違いがないそうです。「当時の開基は、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊僧都(きょうしゅんそうず)で、平安前期の延暦年間(782年~805年)の改装で、古くは愛宕寺(おたぎでら)とも称された」(資料5) とされています。弘法大師が幼少の頃、この寺に住したことがあるといいます。しかし、このお寺の建立については、諸説があります。(資料3,5)1) 空海説 (「叡山記録」ほか)2) 小野篁説 参議小野篁が檀越となって開創 (『伊呂波字類抄』『今昔物語集』)3) 山城淡海等建立説 国家鎮護の道場として (「東寺百合文書」) 山城淡海(やましろのおうみ)は当地の豪族。平安前期・承和3年(836)建立4) 鳥部氏建立の宝皇寺(ほうこうじ、鳥部寺)の後身説 鳥部氏は東山阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)山麓一帯に住んでいた豪族5) 山城国分寺の後身説 土俗の説山門を入ると、境内の石畳の正面奧に本堂が見えます。この「京の冬の旅」は特別公開のために、山門を入ったすぐのところに、臨時の拝観受付が設置されていました。写真の右にある収蔵庫(薬師堂)に、本尊薬師如来坐像(藤原・重文)と地蔵・毘沙門天像が安置されています。ここが開扉されていて、本尊を拝見しました。その北隣が「閻魔堂(篁堂たかむらどう)」です。普段は前面の格子越しに堂内の小野篁立像と閻魔王坐像などを部分的に眺められるだけなのです。特別公開ということで、この格子戸が外されていて、右手に笏(しゃく)を持つ等身大の束帯姿の小野篁立像(江戸)を拝見しました。その傍に閻魔王坐像(江戸)と善童子・獄卒鬼王の像も安置されています。特別公開の諸仏像と本堂内は撮影禁止でした。この拝観券に使われているのが「閻魔堂(篁堂)」に安置されている閻魔王です。小野篁は嵯峨天皇に仕えた平安時代初期の政治家であり、学者・歌人としても有名な人物ですが、昼は朝廷に出仕していますが、夜は閻魔王宮の役人として閻魔庁につとめていたという伝説が様々な書に書き残されているのです。冥界にある閻魔庁に行くために、この六道珍皇寺境内の井戸を出入口として使っていたというのです。小野篁の冥官説は室町時代にはほぼ定着していたようです。(資料3)「閻魔堂(篁堂)」の北側に「鐘楼」の建物があります。白い漆喰壁に囲まれた建物の中におさまる銅鐘は「迎鐘」と呼ばれています。建物の外から鐘は見えません。建物の西面に矩形の開口部があり、鐘を鳴らす綱が外に出ているのです。その綱を引くと鐘が鳴るという仕組みです。毎年盂蘭盆(うらぼん)にあたって精霊を迎えるためにつくので、迎鐘と言われるのです。「この鐘は、古来よりその音響が十萬億土の冥土にまでとどくと信じられ、亡者はそのひびきに応じてこの世に呼びよせられるといわれている。」(資料3,6)「迎鐘(むかへかね、むかえがね)」は歳時記では8月、秋の季語です。(資料3,7,8) 打てばひびくものと知りつつ迎鐘 嵐雪 旅人の鳴らして行くや迎ひ鐘 一茶 金輪際わりこむ婆や迎鐘 川端茅舎 綱ずれのしている穴や迎鐘 ながし 父のため母のため撞く迎鐘 野島無量子 迎鐘逢ひたき人のありて打つ 成瀬櫻桃子 迎鐘撞ききて熱し土不踏(つちふまず) 石田あき子鎌倉初期に成立した説話集『古事談』には、迎鐘を慶俊僧都がつくらしめたと記されているそうです。但し現在の鐘は明治43年(1910)の鋳造だとか。(資料3) 鐘楼から石畳を挟み、境内の東側にこの六躰地蔵尊と地蔵尊石仏群があります。 本堂の手前に「三界萬霊十方至聖」と記された供養塔が建立されています。この供養塔が建てられているあたりが「六道の辻」中心付近に相当するといいます。本堂内は上記の通り、撮影禁止でした。本堂には京仏師中西祥雲作の薬師三尊像が安置されています。(資料5)修復後初公開の中国・明時代の道教の美術絵画「焔口餓鬼図」が堂内に展示されていました。また、江戸期に描かれた地獄絵「熊野観心十界曼荼羅」はその内容を絵解き説明される案内人さんがいらっしゃいました。その説明を興味深く拝聴した次第です。本堂裏庭には「竹林大明神」と称される鎮守社が祀られていて、その傍に「小野篁冥土通いの井戸」があります。 小野篁は夜な夜なこの井戸に入り、冥土の閻魔庁にかよったという伝説です。この井戸の東の方に細い路地があります。そこを行くと、この「黄泉がえりの井戸」があるのです。この井戸が小野篁がこの世に戻って来るときの出口と伝わる井戸です。 真新しい石標と竹垣には由緒の案内板が立っています。その説明によると、この井戸が「平成23年の豪雨の季節に隣接の民有地(旧境内)より見つかった」そうです。「井戸は、地底百米(メートル)と途轍もなく深く、今も渾々と浄水を湧出している」とか。また、お盆に「お迎え鐘」が鳴り響く頃には、多くの精霊がこの井戸から現世に立ち戻ると伝承されているのです。境内を一通り拝見して寺を後にし、交通事情により松原通から五条通まで歩きます。五条通から定期観光バスで京都駅前に向かうと、この「やすらぎコーズ」も終了です。六道珍皇寺の南西方向で松原通の南側に「西福寺」があります。山号は「桂光山」です。今回は松原通の辻、T字路の南西角に建つこの寺の東側の道路を南進する通過地点になりました。西福寺の傍に「六道の辻」の石標が立っています。この写真では「六波羅密寺」への道標の背後にわずかに見える石柱がそれです。西福寺は六波羅密寺の北、東山区轆轤町(ろくろちょう)にあります。六波羅密寺の山門前から境内を眺めた景色です。六波羅蜜寺は以前に探訪しています。真言宗智山派智積院に属するお寺。山号は普陀落山です。西国三十三所観音霊場の第17番札所として古くから信仰されてきたお寺です。空也上人の開創。空也上人立像と平清盛坐像が有名です。このお寺も轆轤町にあります。六波羅密寺、西福寺はまた別の機会にまとめたといと思います。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 2) 謡曲 熊野(ゆや) :「遠州郷土資料」3) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂4) 愛宕念仏寺縁起 :「愛宕念仏寺」5) 「六道珍皇寺略縁起」 拝観時にいただいた案内資料6) 迎え鐘 :「六道珍皇寺」(公式サイト)7) 『改訂版ホトトギス新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂8) 『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所補遺謡曲 熊野(湯谷) 現代語訳 能楽堂 観能手綴より 地獄をのぞいてみませんか? 「熊野観心十界曼荼羅」の世界 :「東京国立博物館」現存する熊野観心十界曼荼羅の一例 (三重大円寺本) :「世界遺産 熊野絵解き図制作委員会」西福寺 :「京都観光・旅行」西福寺・末広不動尊(東山区) :「京都風光」西福寺 :「京都 PHOTO CLIP」六波羅密寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 2016年「京の冬の旅」 -1 大徳寺境内と芳春院 へ探訪 2016年「京の冬の旅」 -2 天㐂(昼食)・相国寺境内と養源院 へ
2016.05.11
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やすらぎコース「京の禅寺 名宝と庭園をたずねて」は、大徳寺の塔頭芳春院の後は、西陣の「天㐂(てんき)」での昼食(京会席)・休憩タイムでした。冒頭の写真は今回のコース参加者全員が入った部屋の照明です。部屋は明るかったです。デジカメのオートで撮ったこの写真は、コントラクトが思ったよりも良くて気に入っています。 部屋には、壁にこんな絵が壁にかけられていました。座敷の入口近くに置かれた几帳がちょっとした目隠しとなり、また京の雅を演出しています。 床の間には、こんな飾りがかけられていました。何と呼ぶものなのか・・・ちょっとおもしろく感じた次第です。出発時点でいただいた前回ご紹介の総合ガイドには「京懐石に初めて天ぷらを取り入れた西陣の名店。あげたての天ぷらと京料理をお召し上がりいただきます」と、紹介されています。場所は、千本今出川上ル西側です。「天㐂」さんのホームページはこちらからご覧ください。当日小雨だったので、お店の表の写真は撮れませんでした。トップページに掲載されています。また、あげたての天ぷらは食べ始めてから後にでてきましたので、残念ながら写真は絵になりませんので省略です。京会席は美味しくいただきました。玄関を入ると、そのまま通路を奧に入り、中庭を通り改めて建物の入口から2階の座敷へ上がりました。この中庭が良い感じです。中庭の石畳の露地をずっと入って行くのです。 右側には池があり、入口への小橋が架かっています。小さな池の手前には、「殺生禁断」と刻された碑が立ち、小橋の側には「白龍弁財天」と推測した碑が祀られています。「白龍」という文字と「弁」の旧漢字「辨」と思える文字の一部が垣間見えるところからの推測です。たとえば、京都にある「大本山 狸谷山不動院」には白龍弁財天が祀られています。「ここに祀る白龍弁財天は、享保3年(1718)、木食上人参籠修行のみぎり、「一切衆生の苦難、恐怖を除き、財宝、福利を与え給え」との誓いをもとに奉安したもの。崇敬する信者も大変多く、功徳甚大にして人力を超えた利益、資具、資産をそなえている。」とサイトのページには説明がありますので、多分そうだと思います。(資料1) 露地の正面には、石像の狸が出迎えてくれます。右の写真の親子狸も置かれています。 二階の窓から眺めた中庭小雨のために、お店の近くの探索もままならず、出発時間近くまで座敷で待機。2つ目に向かうのが相国寺です。これが、烏丸通上立売で観光バスを降り、上立売通を東に歩くと目に入る柱上部の表示です。右側に見えるのは同志社大学の建物です。ここから入ると、境内で一番近いのが「瑞春院雁の寺」。作家水上勉が子供時代に小僧として瑞春院に暮らし、相国寺で得度して5年間生活していたといいます。小説『雁の寺』のモデルになったことで有名です。(資料2)そして、その次がめざす塔頭「養源院」です。このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。相国寺は正式には「相国承天禅寺(しょうこくしょうてんぜんじ)」といい、臨済宗相国寺派の大本山です。山号は万年山です。足利三代将軍義満が、後小松天皇の勅命を得て、自邸である室町殿に隣接する地を選び、10年の歳月をかけ明徳3年(1392)に完成した寺です。夢窓国師を勧請開山とし、春屋妙葩を二世住持として創建されたのです。その後、火災による焼失と再建を幾度か繰り返してきました。(資料3,4) 養源院の門境内に入ると、境内の北側(右側)に鎮守社が祀られています。築地塀越しの背後に宝塔が見えます。 通路に沿い左折すると、ここでも井戸が目にとまりました。梅が満開でした。西側に本堂を見ながら、石畳を進みます。 本堂本堂には、本尊・薬師如来像で、夢のお告げで発見されたという秘仏「毘沙門天像(多聞天像)」を安置しています。本堂正面には「多聞天」と揮毫された扁額が掛けられています。 本堂内は撮影禁止でした。この拝観チケットに掲載の毘沙門天像を引用します。鎌倉時代の慶派仏師の作と伝えられています。像高170cmの寄木造です。写真では切れていますが、左手に戟(げき)を掲げ、玉眼を嵌め込まれた目は鋭く、忿怒の相は写実的です。若々しさを感じさせる像です。「江戸時代、相国寺近くに住む奈良屋与兵衛の夢枕にこの毘沙門天像が現れて『我が像を修復して人々に参拝せしめよ』と告げたことから像が発見されたという記録が残されている」そうです。(資料4)そして、この毘沙門天像の法要が相国寺で行われた際に、伊藤若冲の代表作として有名な「釈迦三尊像」「動植綵絵」12幅が初めて一般公開されたそうです。養源院は、開祖・曇仲道芳(どんちゅうどうほう)の法をついだ横川景三(おうせんけいさん)が、師の隠棲していた禅室「養源軒」を相国寺内に移転し再興したのが始まりと言います。曇仲道芳は詩文に優れ、足利義満・義持父子の寵遇を受けたのですが、自ら出世を望まず終生黒衣で通した僧だったのです。禅室「養源軒」に隠棲したそうです。薩摩藩ゆかりの寺で、幕末の戊辰戦争の折りには、ここが薩摩藩の野戦病院として使われたとか。「イギリス人医師のW・ウィリスにより、日本で初めてクロロホルム麻酔を使った外科手術が行われたという」(資料5)建物の柱には、薩摩藩士たちが付けたという刀傷が残っています。境内には、近衛家の「桜御所」から移築された書院「相和亭」と茶室「道芳庵」があります。書院・茶室の移築に併せて、庭も同様に移築再現されたそうです。その復元された地泉式庭園です。ガラス戸越しに庭を拝見しました。庭は撮影OKでしたので、ご紹介できます。 右の写真にある飛び石伝いに、蓮華寺形石灯籠の側を歩んで行った先に待合があり、池の向こう側に茶室が建てられているようです。その他、建物の間にも、庭が作られています。 一つはこちら。敷き詰められた白砂の庭ですが、一方に石、低木と苔が小島を成しています。他方の端には、水甕風の石が置かれています。これは同形のものが相国寺方丈西の庭園でも見受けられます。もう一つがこちらの枯山水式の庭です。砂に文様が描かれているのは、大海の潮流の流れを表現しているのでしょうか。 庭の一隅に、箱型の水盤が置かれてて、青竹の導水管の注ぎ口から秘やかに水が注がれています。水盤の縁や側面は緑の色濃く苔蒸していて、歳月の経過を感じさせます。水盤に注がれた一筋の水は水面に同心円を描いています。その波紋が白砂の庭の波紋にシンクロナイズしていくのです。滔々と水が水源から大海に流れ込んでいく風情です。 水盤の向こうに井戸があります。養源院を出て、相国寺境内を眺めてみます。境内でのトイレ利用を兼ねた小休憩時間がとられました。何度も見ていますが、少し西側の参道を散策してみました。 遠くに、庫裡の大屋根が見えます。 大徳寺の法堂(重文・桃山)「無畏(むい)堂」とも称されていて、仏殿を兼ねています。入母屋造りの屋根で本瓦葺き。五間四間、単層ですが裳階(もこし)付きです。そのため、外観は重層、七間六面に見えます。唐様建築で、法堂玄関廊が設けられています。慶長10年(1605)豊臣秀頼が再建したものです。(資料4) 浴室(宣明)応永7年(1400年)頃の創建だそうですが、現在のものは慶長4年(1596年)の再建。いわゆる蒸し風呂式の浴室です。 鐘楼(天響楼)参道寄りに「日中両相国寺友好記念の碑」が建立されています。この鐘楼の梵鐘は、2011年8月に中国の大相国寺から寄進されたものだそうです。 護国廟(八幡宮)相国寺の鎮守社です。室町幕府の足利氏は源氏の流れであることから、氏神として八幡神を祀っていたといいます。 宝塔(経蔵)万延元年(1860)の天明の大火で焼失した後に再建されたものです。現在は経蔵として使用されているそうです。横道に逸れますが、2014年5月にRECの探訪講座「相国寺とその周辺を歩く」を受講した後で、そのまとめを拙「遊心六中記」に7回のシリーズでまとめてご紹介しています。今回と関連するブログ記事のページをご紹介します。ご覧いただければうれしいです。探訪 相国寺とその周辺を歩く -1 幸神社、相国寺の総門・勅使門探訪 相国寺とその周辺を歩く -2 相国寺(功徳池と天界橋、法堂、鐘楼、弁天社、方丈)探訪 相国寺とその周辺を歩く -3 相国寺の浴室探訪 相国寺とその周辺を歩く -4 相国寺(天響楼、鎮守八幡社、経蔵、開山塔、宗旦稲荷、庫裏)、後水尾天皇歯髪塚そろそろ、次の探訪先、妙心寺霊雲院に向かう時間となりました。烏丸通で観光バスを待ち、移動です。つづく参照資料1) 大本山 狸谷山不動院 ホームページ2) 『百寺巡礼 第九巻 京都2』 五木寛之著 講談社文庫 p943) 万年山 相国寺 :「臨黄ネット」4) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p58-625) 当日養源院でいただいた案内説明資料補遺弁財天白龍王大権現 :ウィキペディア臨済宗相国寺派 入口ページ 相国寺 :ウィキペディア相国寺 :「出町こだわりガイド」春屋妙葩 :「コトバンク」曇仲道芳 :「コトバンク」横川景三 :「コトバンク」釈迦三尊図 名宝紹介 伊藤若冲の世界 :「承天閣美術館」動植綵絵 伊藤若冲 :「宮内庁」伊藤若冲 動植綵絵 大きな画像で見たい人用 まとめ :「NAVERまとめ」相国寺南端の溝か 京都、室町時代の溝見つかる 2016年3月8日 :「京都新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 2016年「京の冬の旅」 -1 大徳寺境内と芳春院 へ探訪 2016年「京の冬の旅」 -3 妙心寺境内と霊雲院、六道珍皇寺 へ
2016.05.09
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ここ数年恒例となりましたが、3月に定期観光バス特別コース「京の冬の旅」に加わり、特別公開のお寺を拝見してきました。冒頭の写真は今回の「京の冬の旅」の総合ガイドとしての小冊子です。「やすらぎコース」に申込み、家人と一緒に巡ってきました。テーマは「京の禅寺 名宝と庭園をたずねて」です。訪ねたお寺は今回ご紹介する「大徳寺 芳春院」「相国寺 養源院」「妙心寺 霊雲院」「六道珍皇寺」です。そして、昼食は西陣にある「天㐂」の天ぷらと京料理です。生まれも育ちも京都なのですが、長年住んでいても数多いお寺、それも公開が限定されているお寺を訪れる機会はそうそうありません。普段なら足を向けることのほとんどない場所の名店で食事をして、特別公開のお寺を効率よく訪ねてみるには便利なので利用するようになりました。冬場は季節柄この方が都合がよいからということもあります。余談ですが、2014年にはこの冬の旅のコースで、大徳寺の塔頭興臨院を訪れています。そのときは「遊心六中記」の中でご紹介しています。こちらをご覧ください。 スポット探訪 大徳寺 興臨院 (第48回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開) -1 スポット探訪 大徳寺 興臨院 (第48回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開) -2それでは、大徳寺に参りましょう。大徳寺は船岡山の北、紫野大徳寺町にあります。龍寶山と号し、臨済宗大徳寺派の大本山です。観光バスの駐車場で降り、東にある総門をくぐって境内に入ります。 いつものことですが、少し先には、「勅使門」(左)が見え、少し手前から朱色の「三門」(右)が見え始めます。勅使門は、一間一戸、切妻造り、檜皮葺、前後にはこの写真では見えませんが唐破風が付いている四脚門です。桃山時代特有の彫刻が施された門で、もとは慶長年間に造営された皇居の南門を移したと伝えられているようです。重文に指定されています。この門を通り過ぎ、北方向に回り込んでいきます。 三門には「金毛閣」と記された扁額が掛かっています。この門も重文です。大永6年(1526)に連歌師宗長が三門を寄進したときは初層だけでしたが、天正17年(1589)に千利休の寄進によって上層が完成し、今の姿になったのです。五間三戸、重層、入母屋造り、本瓦葺きの唐様建築です。(資料1)山門といえば、大徳寺つまり龍寶山の門という意味です。三門は三解脱門を意味し、空門・無相門・無作門をさすそうです。そして、「金毛閣」には、「一端、山門をくぐり境内に入る者は、金毛の獅子となって下化衆生せんことを」という意味が込められているようです。(資料2)下化衆生というのは、仏教用語で「上求菩提」と対句で用いられる言葉だとか。「この迷いの世界にあって、真理をみずに惑い苦しむ生きとし生けるものを教化し救済すること」を意味するそうです。一方、「上求菩提」は「みずからの理想として、悟りを追求すること」を意味しています。(資料3)千利休の貢献に対する寺側の御礼として木造利休像が造立され上層に安置されたのですが、その像が物議の種にされて、秀吉の忌諱に触れて利休を切腹に至らしめることになったという三門でもあります。 こちらは、東側からの眺め。三門の左右には、山廊が付いています。格子窓のあるのは山廊が入っている建物です。 法 堂三門、仏殿、法堂、庫裡が北にむかって一直線上に配置されています。それらを東側に眺めつつ通り過ぎます。 法堂を東側に、西側には「三玄院」を見ながら通過。 庫裡から道を挟んで北西側には「聚光院」があります。南面する門のところに、拝観受付係の人が見えます。聚光院の創建450年記念特別公開(2016.3.1~2017.3.26)をされているのです。(資料4) 真っ直ぐに北に歩むと、正面に駒札と石標が門前に立つ「芳春院」への門に到ります。右の写真は「大仙院」の築地塀です。この門を入っても、長い石畳の道が続きます。というのは西側に、如意庵、龍泉庵という塔頭が並んでいるのです。芳春院は大徳寺境内の北の端に位置します。この辺りまでの境内の位置関係は、こちらをご覧ください。(大徳寺山内地図:臨黄ネット)門をくぐって、通路を半ばまで歩み振り返ってみると・・・ こんな雰囲気の道です。 石畳と両側の築地塀との間の植栽がゆったりと趣を加えてくれます。なかなかいい雰囲気でしょう。石畳が右折する手前左側に受付所があり、その建物と芳春院の築地塀の間の庭です。そこにこの可愛い修行僧像が置かれています。ここがいよいよ「芳春院」の門です。 門前の東側の築地塀こういう塀もいいですねえ・・・。この塔頭「芳春院」は、慶長13年(1608)、加賀藩主・前田利家の正室・まつが、大徳寺147世の玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)を開祖として創建した前田家の菩提寺です。まつの法号が「芳春院」ということから寺名がつけられたのです。寛政8年(1796)の火災により創建当時の建物は焼失。前田家11代・治脩(はるなが)によって同10年に復興されています。しかし、明治維新に再び荒廃したといいます。現在の建物は明治以後の再建によるものだとか。(資料1,5)境内墓地には、芳春院の墓をはじめ、前田利長・利常など前田家一族の墓があるお寺です。近衛家の墓もあるといいます。表門の屋根の丸軒瓦には、前田氏の家紋「加賀梅鉢」が使われています。門を入ったすぐ右側の一隅通路は左折し、庫裡が見えます。塀が曲折する辺りに、右の写真にある石塔の基壇でしょうか。上部は手水鉢に転用された感じです。庫裡には、「護国禅窟」という扁額が掛けてあります。前庭に井戸があるのがおもしろい。 本堂に向かう玄関の唐破風。もちろんここにも「加賀梅鉢」が丸軒瓦に刻されています。この後の建物内は撮影禁止でした。本堂には、本尊・釈迦如来像、玉室宗珀と芳春院(まつ)の木像及び前田家歴代の御霊牌が祀られています。芳春院を描いた絵の掛軸も展示されていました。この平成28年は芳春院(まつ)の400年遠忌を迎えるのだそうです。本堂南庭は枯山水庭園で「花岸庭(かがんてい)」と名づけられています。「山深い渓谷から流れ出る水がやがて湖に注ぎ、大海に帰るという山水の様を表し」(資料5)ている庭で、白砂が広がっています。庭の写真が取れなくて残念でした。 呑湖閣これは、当日の拝観チケットです。引用します。本堂北側の西寄りに建つ優美な二重楼閣です。元和3年(1617)、前田利家の子・利長の依頼をうけ、医者の横井等怡(とうい)と小堀遠州により作庭・建立されたといわれています。現在の呑湖閣は文化10年(1813)に再建されたものです。「閣上から比叡山を東に望み、その向こうに広がる琵琶湖の水を呑み干すという意味を込めて名付けられた。」(資料5)この呑湖閣を含めて、「京の四閣」と称されることがあります。金閣(金閣寺)、銀閣(銀閣寺)、飛雲閣(西本願寺)とこの呑湖閣です。内部は非公開。「上層部に前田家の先祖とされる菅原道真を祀るほか、下層部には玉室和尚の師・春屋宗園の木像や檀越である近衛家の位牌などを安置している。」(資料5)呑湖閣は「飽雲池(ほううんち)」に臨み、池上には木造の「打月橋」がかけられています。橋には玉室和尚の筆になる「打月」の額が掲げられているそうです。楼閣山水庭園となっています。季節がめぐると、杜若や睡蓮が美しく映えるといいます。(資料1)ネットを検索してみると観光ガイドのサイトに、一部写真が掲載されているのをみつけました。こちらをご覧ください。(芳春院:AQUADINA 京都観光のガイド情報サイト)再建改築などにより、当初の作庭からかなり変容しているようですが、創建当初の様式は未だ枯滝の石組あたりに残るといいます。飽雲池の東側に本堂の北側から廊下伝いにガラス戸の入った建物が建てられているのです。私の勝手な想像ですが、かつての池の広がりは半分以下に縮小され、この建物などが増築されたのだろうと思います。当日、お寺でのガイドさんが、この建物に近衛文麿が京都帝国大学で学んでいた頃に住み、勉強していたと説明を加えていました。近衛家が檀越であるということと関係しているのでしょう。調べて見ると、近衛文麿は「1891年(明治24年)10月12日、公爵・近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵・前田慶寧の三女・衍子の間の長男として、東京市麹町区(現:千代田区)で生まれた」(資料6)そうなので、前田家とは縁戚関係だったのです。余談ですが、天正10年(1582)の本能寺の変の後、羽柴秀吉が織田信長の葬儀を大徳寺で行い。菩提所として塔頭・総見院を建立します。これがきっかけで、大名たちが次々に塔頭を創建していきます。幕末には塔頭が56を数えることになったそうです。明治維新後に塔頭の大半が廃絶なるに至ります。現在大徳寺の境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺があるようです。(資料2,7)普段でも拝観可能な塔頭は、龍源院、瑞峰院、大仙院、高桐院です。通常は非公開で時折の特別公開で拝見できるのは、この芳春院と上記の興臨院のほかには黄梅院、三玄院、真珠庵です。併せて上記した聚光院は今回は特例の公開なのでしょう。(資料8)「芳春院」を拝見し、再びバスに。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p109-1312) 龍寶山大徳寺 :「臨黄ネット」3) 下化衆生 :「コトバンク」4) 大徳寺聚光院創建450年記念特別公開 :「京都春秋」5) 当日「芳春院」でいただいた案内資料6) 近衛文麿 :ウィキペディア7) 『京都を楽しむ地名・歴史事典』 森谷剋久著 PHP文庫 p2888) 大徳寺塔頭 :「京都おもしろスポット」補遺上求菩提・下化衆生 :「WikiArc」東福寺と知恩院、三門で三問 :「朝日新聞DIGITAL」前田氏 :ウィキペディア近衛文麿 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 2016年「京の冬の旅」 -2 天㐂(昼食)・相国寺境内と養源院 へ 探訪 2016年「京の冬の旅」 -3 妙心寺境内と霊雲院、六道珍皇寺 へ
2016.05.08
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前回の「伝木村丸」から冒頭の観音寺城部分縄張図(資料1) に赤丸を付した分岐点まで一旦戻ります。そして、黄緑色下線を付した「観音正寺」への道を辿ります。今回は、2011年秋に観音寺城跡を訪れたときに観音正寺で撮った写真も加えて、ご紹介します。樹木が紅葉している写真が2011年秋の写真です。 観音正寺への道を進むと、かなりの高さの石垣が見えてきます。この石垣の上が観音正寺の境内です。石垣に沿って進むと、石垣が段違いになり石積みの方法も異なる石垣に連接していきます。江戸時代以降に大幅な造成がおこなわれたようで、それが石垣の積み方に反映しているのです。 両石垣の景色この石垣の前から南西方向を眺めると・・・。 石垣の南東端にある石段を上り境内に入ります。今回は観音正寺の境内は通過地点となり、お寺の拝観、探訪は含まれていませんでした。2011年の探訪時の写真も織り交ぜて、観音正寺を一部ご紹介します。石段を上がって、まず目にとまるものの一つが、この阿弥陀如来坐像の銅像です。「濡仏」と呼ばれているそうです。 秋には背後の樹木が紅葉して雰囲気も変わります。冬は雪の衣を一枚覆われることに。 本堂観音正寺は西国三十三所霊場の第三十二番札所です。現在は天台系の単立寺院です。寺伝によれば、「往古、聖徳太子がこの地に来臨された折節、紫雲たなびくこのお山をご覧になって『これぞ霊山なり』とおぼしめし、太子自らが千手観音の像を刻み、堂塔を建立されたのが、当寺の縁起である」(資料2)といいます。「繖山(きぬがさやま)」という名称は、「貴人にさしかざす衣蓋のようにふんわりとした美しい山容から名付けられた」(資料2) そうです。観音正寺の山号でもあります。聖徳太子の創建については、こんな伝承があります。”太子がこの地を訪れたおりに水辺から現れた人魚が、「魚を捕ってなりわいとした前世がたたってこのような姿に生まれたから、伽藍を建てて菩提を弔ってほしい。」と願い出たといいます。願いを受け入れた太子が千手観音を刻んで念じたところ、人魚は天人に生まれ変わって感謝しました。この時の観音像と伽藍が観音寺になったということです。”(資料3) この伝説を反映し、観音正寺には人魚のミイラが伝えられていました。中世には「観音寺」と呼ばれたお寺です。戦国時代に佐々木六角氏がこの山上に城を整備するに至り、お寺が山麓に移築され、その場所は観音谷と呼ばれる谷口だったと言われています。戦国の世がおさまった慶長年間になって、観音正寺が再び山上に復興され、境内が大幅に造成されたようです。観音正寺の再盛時には、33坊、別伝では72ヶ坊3院あったと伝わっています。明治15年に彦根城の欅御殿が本堂として移築され、明応6年(1497)造立という木造千手観音立像が本尊として祀られていたのですが、平成5年(1993)に本堂などが火災で焼失しました。その時、人魚のミイラも焼失したそうです。(資料3)現在の本堂は平成16年(2004)に住職はじめ多くの人々の尽力により再建されました。その折り、インドの白檀で造られた千手千眼観音菩薩坐像が新たな本尊として祀られました。観音正寺のホームページに本尊の写真と動画が掲載されています。こちらからご覧ください。現本尊は「インドから輸入した23トンもの白檀を素材に作られている。白檀は輸出禁制品であったが、観音正寺の住職が、20数回インドを訪れ、たび重なる交渉の後、特例措置として日本への輸出が認められたものであるという」ものです。像高3.56m、光背を含めた総高6.3mの丈六仏で、仏師松本明慶の作。(資料4)本堂の東側は石が累々と積み上げられて岩場のように造成されています。本堂の手前(南)の境内東側には供養堂・護摩堂・太子堂などが並んでいます。 その石積みの南寄りの一隅に「魚藍観音」が祀られています。「観音経の信者に嫁いだ魚商の美女が観音の化身であったという唐代の説話に現れる観音。己の罪苦を取除く事を念じて魚藍観音に境内から湧き出た観音水を注いでください」と記された駒札が立っています。 石積みの所々の大石の上に、観音菩薩の銅像がいくつか安置されています。また人魚が合掌している像もあります。 石積み前の池端にも観音菩薩像が安置され、また不可思議な堂塔も置かれています。 石積みの上部には七重石塔も見えます。境内の半ばの石垣側からの眺め 遠くに三上山が見えます。 北向地蔵尊樽を利用し茅葺屋根を載せたおもしろい御堂です。北向地蔵尊に近い所に、右の写真の地蔵尊石仏も安置されています。 北向地蔵尊は境内の西側、石垣に近い場所にありますが、東側には書院があります。唐破風と玄関口を撮ってみました。玄関口に龍図の絵布がをかけた几帳が置かれているような・・・そんな感じです。こんな石仏群もあります。2001年に訪れた時には見た記憶がありません。 仁王像 銅像です。仁王像の側には、こんな石造頭部が。以前は別の場所に置かれていたように思いますが、今は仁王像側に安置されています。 仁王像の南側は大きな広場になっています。一画に鐘楼が建てられています。鐘楼の柱が興味深い作りです。屋根の下に円筒形の束、蟇股は欠損しているのか透かし彫り図案がわかりづらいです。古い参拝者の札がけっこう貼られているのが目にとまりました。境内からの眺め。湖東の近江平野の広がりが見渡せます。観音正寺仁王像前から、いよいよ下山にかかります。冒頭の縄張図に青丸を追記したあたり、小祠が祀られ、そばに「ねずみ岩」という立て札があります。その背後の岩はけっこうな巨岩です。形がねずみに見えるということでしょうか・・・・。名の由来は不詳です。少し下ったところに、石造鳥居があります。ここが「奧の院」への参道入口のようです。 そして、巨大な石のある石塁があります。虎口のようにも見えます。少し下る方向に幟が立てられていますので、この石塁あたりが観音正寺の境内への門に相当するのかもしれません。最後に脇道から「伝目賀田丸」の郭に下りました(マゼンタ色の下線を引いたところ)。今はほぼ平坦に広がる敷地に木々と雑草が生えるだけです。北東隅寄りに井戸が設けられています。この伝目賀田丸に立ち寄ったのを最後として、後は「プラザ三方よし」まで復路を辿り、この探訪も終わりました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「史跡観音寺城跡」レジュメ 当日配布資料 作成 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査係2) 西国三十二番札所 観音正寺 ホームページ3) 『観音寺城跡 -江南の雄 六角氏-』 埋蔵文化財活用ブックレット11 (近江の城郭6) 制作・刊行 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課4) 観音正寺 :ウィキペディア補遺観音正寺 :「滋賀・びわ湖」(観光情報)近江八幡市の観音正寺(かんのんしょうじ)の概要を知りたい。 :「レファレンス協同データベース」観音正寺の大提灯 :「提灯ぶらり探訪」観音寺 「近江國與地志略」巻之五十九 :「近代デジタルライブラリー」 42/241コマ目に「観音寺」の項があり、伝説が詳しく紹介されています。第七十番繖山観音正寺 :「びわ湖108霊場」リトグラフ集「西国巡礼」/第32番 繖山 観音正寺 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -1 結神社・川並道・展望所・伝布施淡路丸傍 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -2 伝布施淡路丸・大土塁(佐佐木城跡碑・郭跡)へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -3 伝本丸・大石段 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -4 伝平井丸・伝池田丸・女郎岩・大石垣 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -5 伝木村丸(補足、2011年秋)へ
2016.05.06
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横道に逸れますが、2011年秋に観音寺城跡を探訪した折りに、この大石垣から下方郭群の一つ、「伝木村丸」を探訪しています。それを補足としてご紹介します。冒頭の左写真は、紅葉した大石垣を伝木村丸に下る途中で見上げた景色です。右の写真は観音寺城縄張図の全体から見るとどこに位置するかを赤丸で追記しました。今回の探訪の対象には入っていなかったので名称が入れられていません。(資料1)樹林が紅葉して美しかったのですが、大石垣の全貌は見づらくて、城を魅了する石垣を見るには痛し痒しというところでした。大石垣からの散策路が示された縄張図を引用しておきます。伝池田丸下方郭群は、伝木村丸以外は名称不明の郭群で、「これらの郭は、伝池田丸から南方に延びる尾根筋から東方に拡がっており、尾根上を通る追手道沿いに位置して」いるそうです。(資料2) 途中、石塁の側を通過します。 伝木村丸に入り、郭の西側方向を眺めた全景です。 郭の北方向を眺めた景色南側の石塁の端寄りに、トンネル状に穴が空いた形の「埋門」の遺構がそのまま残っています。これは観音寺城の特徴的な虎口の一つになっているのです。(資料2) 先に、伝平井丸のところで、少し崩れている埋門の写真はご紹介しています。 伝木村丸近くの石塁側を通りつつ戻ります。この後、再び大石垣~伝池田丸~伝平井丸~伝三ノ丸の道を戻り、伝沢田丸・三角点の方向へ登っていく分岐点のところから、観音正寺境内に向かいます。これは、伝池田丸・伝平井丸のある南西の尾根筋側から、谷の向こうに観音正寺を眺めた景色です。観音正寺から谷を挟んで西側に伝平井丸、伝池田丸とその下方郭群が位置するわけです。これを地図(Mapion)で見ると、桑実寺、繖山観音寺山山頂、観音寺城跡の広がり、東海道新幹線との位置関係がよくわかります。こちらをご覧ください。大石垣を下から遠望できるようになったのです。一度下から眺めてみたいものです。つづく参照資料1) 『観音寺城跡 -江南の雄 六角氏-』 埋蔵文化財活用ブックレット11 (近江の城郭6) 制作・刊行 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課2) 「史跡観音寺城跡」レジュメ 当日配布資料 作成 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査係補遺桑実寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」桑実寺 :ウィキペディア桑実寺縁起絵巻 國賀由美子氏 滋賀文化財教室シリーズ[227]桑実寺縁起絵巻に描かれた近江の景色 :「近江歴史回廊倶楽部」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -1 結神社・川並道・展望所・伝布施淡路丸傍 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -2 伝布施淡路丸・大土塁(佐佐木城跡碑・郭跡)へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -3 伝本丸・大石段 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -4 伝平井丸・伝池田丸・女郎岩・大石垣 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -6 観音正寺・ねずみ岩・伝目賀田丸 へ
2016.05.05
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山頂から南西に延びる尾根筋上に、尾根の先端にむかって、伝本丸、伝平井丸、伝池田丸と大きい郭が並んでいます。前回もこの部分図をご紹介しています。伝三ノ丸を経由して、伝平井丸に向かいます。 伝平井丸の石塁の東端に右の写真の「埋門」があります。この「伝平井丸の虎口」は、観音寺城内でも最も巨大な石を用いて作られた平虎口です。虎口の石段を上がると、郭内に「平井氏屋敷跡」という標識が立っています。伝平井丸と伝池田丸などは、六角氏の被官であった平井氏、池田氏の屋敷跡ということが古絵図に記されていることを根拠としているそうです。(資料1) 郭内には石の集積箇所や墓碑が点在しています。詳細は不詳です。郭に入り中央に進んで虎口を振り返って眺めたた景色 こちらは中央から郭の奥側を眺めたところです。最奥は数段の石段と石塁により一段高い敷地になっています。 石塁 数段の石段の所から虎口方向の景色ここが郭の一番奥で一段高くなった敷地部分です。他の郭と少し違う感じがします。「天文13年(1544)に城を訪れた連歌師宗牧は、山上の城の『御二階』の座敷に案内され、そこには『数寄』の茶室に茶器の名品が用意されていて、城の退出にあたっては秘蔵の古筆を送られたと書いています」(資料1,2) とのことです。茶室のある二階建ての建物がこの辺りに建てられていたのかもしれません。伝本丸、伝平井丸、伝池田丸は「昭和44年・45年(1969・1970)に環境整備事業に伴って発掘調査が行われ、建物礎石や庭園遺構、排水路、溜枡などの遺構が発見されました。まや、大量の土師器やすり鉢、輸入陶磁器など、16世紀後半の遺物が出土しています。これらの調査結果から、戦国期に現状見られるような形に城が整備されたと考えられます。またあ、山上の郭から大量の生活遺物が出土していることから、文献資料にも記されているように、山上の郭群で生活するようになったことがうかがえます」(資料2) 伝平井丸の西側の石塁伝平井丸の南(冒頭の部分図の青丸あたり)に「伝落合氏屋敷跡」という標識が立っています。ここを進んで行きます。比較的小規模な郭があります。その先に石段があります。これは石段を下側から見上げた景色です。 その先が「伝池田丸の虎口」です。 伝池田丸は大規模な郭です。平虎口を入ると長方形の敷地の先に大きな方形の敷地が連なってる感じの郭です。石塁で囲われています。 郭の奧の南側の石塁に近いところに、掘り下げられて石積側壁が設けられた遺構があります。 伝池田丸の石塁 伝池田丸の下方・南東斜面にひな壇状に郭群が広がっています。今回はそのうち二段下がったところの郭跡まで下りました。 そこには「女郎岩」と呼ばれる大岩があります。(上段の写真は2011年秋の現地写真を補足しました。)ここからの眺めはなかなかいいものです。そして、通称「大石垣」と呼ばれている高石垣があります。ここがこの観音寺城でも有数の立派な石垣です。郭の外側を回り込んでいきます。今回の参加者が大石垣の側を見て歩く後姿からその高さがおわかりいただけるでしょう。大石垣はこんな感じです。最近、この大石垣が下からも見えるようにと、周辺の樹木がボランティアの人々の協力で伐採されて、全貌が見えやすくなったのです。この郭の位置から、新幹線が見下ろせるようになりました。逆に言えば、大石垣が新幹線からも瞬間的に眺められることでしょう。ここからの眺めた風景の広がり今回の探訪では、この後観音正寺を経由して伝目賀田丸跡に向かいます。その前に、次回は2011年の秋に、観音寺城跡を探訪した折りに、この下方郭群のうちの伝木村丸を探訪していますので、そのご紹介を補足します。つづく参照資料1) 『観音寺城跡 -江南の雄 六角氏-』 埋蔵文化財活用ブックレット11 (近江の城郭6) 制作・刊行 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課2) 「史跡観音寺城跡」レジュメ 当日配布資料 作成 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査係補遺宗牧 :「コトバンク」谷宗牧 :「コトバンク」連歌師宗牧・宗養作品年譜稿 斎藤義光氏谷宗牧と蕨餅 歴史上の人物と和菓子 :「虎屋」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -1 結神社・川並道・展望所・伝布施淡路丸傍 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -2 伝布施淡路丸・大土塁(佐佐木城跡碑・郭跡)へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -3 伝本丸・大石段 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -5 伝木村丸(補足、2011年秋)へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -6 観音正寺・ねずみ岩・伝目賀田丸 へ
2016.05.04
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伝楢崎丸跡の石垣傍から南に下り、道標「観音寺城本丸跡・桑実寺」に従い本丸跡方向への道を進みます。分岐点に再び道標が立っています。道標に従って進みます。 石塁があり、その少し先にも道標が立っています。伝本丸跡に入ってきました。伝本丸跡の北東端寄りに、「観音寺城跡」の説明板が立っています。 当日、ここにお手製の甲冑を纏った人がボランティアでいらっしゃいました。その隣は、今回の講座で現地探訪のガイドを担当された文化財保護課のスタッフの方です。この部分拡大図でわかりやすと思いますが、伝本丸、伝平井丸、伝池田丸のあたりは、本谷を挟んで観音正寺境内の向かい側に位置します。観音寺城の中枢部分と考えられています。「昭和44・45年に近江風土記の丘の関連として本丸付近を整備し発掘調査し当時の遺物や遺構が発見された。」(説明板)昭和45年(1970)の発掘調査で、茶器や中国産の陶磁器などが出土しているそうです。(資料1)『信長公記』を読むと「同十二日に、・・・・其の夜は、信長みつくり山に御陣を居(す)ゑさせられ、翌日、佐々木承禎が館(やかた)、観音寺山へ攻め上らるべき御存分のところに、佐々木父子三人廃北(はいぼく)致し、十三日に観音寺山乗っ取り、御上り候」と記されています。織田信長は永禄11年(1568)9月13日、ここに入城しているのです。その続きに「残党降参致し候の間、人質を執り固め、元の如く立て置かれ、一国平均候へば」と記されていますので、信長は観音寺城を破壊せずそのまま残し、改めて佐々木氏に守らせたというのです。観音寺城の開城により、近江国は信長により平定されたことになります。(資料2) 伝本丸跡の景色伝本丸跡は江戸時代の古絵図に「本城」と記されているそうです。そのため、城の中核部分と考えられてはいますが、疑問も呈されているようです。その理由は、既にご紹介のとおり、ここより高い場所に数多くの郭があることとこの場所が郭の分布範囲の西側に位置することなどからだとか。(資料1、以下適宜参照) 伝本丸の北から桑実寺に向かう場所に「裏虎口」があります。ここは、石塁をずらして配置する食い違い虎口となっています。これらの写真は、本丸の内側から撮ったものです。 裏虎口を外側、つまり北から眺めるとこんな景色です。なお、この虎口は周囲の状況からみて後から改修されたものである可能性があるそうです。 裏虎口を北に出たところも石塁が続いていますが、虎口に近いところに、「井戸跡(大夫井戸伝承地)」があります。 裏虎口を出たところで、伝本丸の西側にも郭が作られています。 桑実寺方向を眺めて 伝本丸の石塁 伝本丸に上る大石段。石段の側に側溝が作られています。また、大石段の最下段には伝三ノ丸が隣接しています。 大石段を見上げた景色平成20年度~22年度にかけて、伝本丸から東に下る大石段に取り付くルート確認する目的で発掘調査が行われています。その調査の結果次のことがわかったそうです。*大石段との接続部分に石塁があり、伝三ノ丸と大石段はつながらない。*大石段を下に延長した部分は現在谷筋となっている。この谷を横切る形で石垣が発見され、大石段にはつながらない。*大石段の下方からは大石段につながるルートは確認できなかった。という結果から、今まではこの大石段が本丸への大手道と考えられてきたのですが、大石段の性格そのものを見なおす必要が生じてきたといいます。(資料3)伝平井丸跡に向かいます。つづく参照資料1) 「史跡観音寺城跡」レジュメ 当日配布資料 作成 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査係2) 『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p873) 『観音寺城跡 -江南の雄 六角氏-』 埋蔵文化財活用ブックレット11 (近江の城郭6) 制作・刊行 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課補遺『観音寺城』(滋賀県教育委員会) ← 参照資料3のブックレット pdfファイル ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -1 結神社・川並道・展望所・伝布施淡路丸傍 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -2 伝布施淡路丸・大土塁(佐佐木城跡碑・郭跡)へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -4 伝平井丸・伝池田丸・女郎岩・大石垣 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -5 伝木村丸(補足、2011年秋)へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -6 観音正寺・ねずみ岩・伝目賀田丸 へ
2016.05.03
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前回最後にご紹介した「史跡観音寺城跡縄張図」の全体図を載せておきたいと思います。縄張図に赤い丸を付けたあたりに、現在は観音正寺参道沿いの木にある「伝目加田屋敷跡」(伝目賀田丸跡)の表示が見えます。この表示の先は参道よりも数十m下に郭が作られています。ここは探訪の最後に訪れましたので、後日に。(資料1、以下適宜参照)今回は、ここを起点にまとめて、ご紹介します。「観音正寺 風土記の丘資料館」「大字川並」の方向を示す道標が目印です。その近くから参道の左側にある山道を登ると、石垣が見えます。「伝布施淡路丸」の石垣です。山頂から東に延びる尾根上の東端に位置する郭です。石垣に近づいて行くと、枡形状の虎口があります。 虎口を入った先は郭の西側に石垣が連なっています。 北東方向に延びた石垣の先、郭の北端近くに墓があります。郭内の別の場所にもぽつんと墓碑が立っています。郭は長方形で、郭の北辺は尾根を削って土塁とされ、残り三方が石塁となっています。これらの墓の由来は不詳です。観音正寺への参道側になる石塁の一画この「伝布施淡路丸」は観音寺城の東方を防御・監視する役目を担った郭だと考えられています。六角氏の被官布施氏の屋敷ともいわれているところから、この郭名が付いているようです。(資料2、以下適宜参照) 途中に石造地蔵尊が祀られています。参道を振り返って。この道標「佐々木城跡・三角点」が立つところが、縄張図にマゼンタ色の丸印を付したあたりです。ここから観音寺城北端になる尾根筋を歩く山道に入ります。縄張図を部分拡大してみました。尾根筋が土塁として利用され、土塁の南側に大見付、伝伊庭丸、伝馬場丸、伝三井丸と郭が連なって行きます。土塁の上、つまり尾根筋が山道として整備されています。この「大土塁(おおどるい)」を参加者は一列になって登っていきます。今回、この大土塁では土塁上を歩き、南側の郭群を眺めながら進むということになりました。郭群の一つ一つを探訪するだけの時間が取れなかったことと、郭内が籔化していて見づらいこともその理由のようです。観音寺城の大凡の全域を巡るとなると、要所となる郭の探訪に絞らざるを得ないということなのです。逆に言えば、観音寺城跡の現在わかっている範囲の郭跡だけを探訪するにも、何度も区画を分けてチャレンジしないとその全貌を詳細には把握できないのです。古城探訪好きには興味のつきない城跡だと思います。ネット検索で見つけた情報によれば、探訪により11本の登城道を探索されているのです。地図を掲載されて詳しく説明を記されています。参考になるページです(資料3)。ご紹介しておきたいと思います。ほかにもあるのかもしれませんが・・・・。山道を登り始め、少し高い所から見下ろした景色 石塁、土塁が見え始めます。大見付・伝伊庭丸あたりか・・・。 一列に並んで歩いていますので、振り返った景色を撮ることが多くなります。結構、尾根筋を登ることになります。そして、尾根筋が平坦なところに移ります。伝馬場丸あたりのようです。この辺りから大土塁の中核部に入っていきます。 さらに登りとなり、大きな石が見えます。 道標が立っていて、さらに樹間の道を進みますと、「佐々木城跡」の道標が立っています。「佐佐木城址」と太く刻まれた石碑が立っています。大正時代に建立されたもののようです。心なき痕跡があります。「木城」という二字の右横に人の顔が線刻されているのです。ふざけた輩がいた者です。石碑の傍から下を見ると巨岩があります。 脇道から下に降りて眺めると、野面積みの石垣が築かれていました。このあたり、伝伊庭丸と伝馬場丸の隣接するあたりになるのでしょうか。表示がなかったので定かではありません。大土塁の中核部を縄張図から一部拡大図に切り出してみました。 さらに大土塁を登っていきます。伝三井丸・伝馬淵丸の土塁上を進んでいることになるのでしょう。 伝三国丸の石塁 (青色の丸印のところ) 三国岩と呼ばれる巨石、いくつかの大きな石がこの郭跡にあります。 伝三国丸は観音寺城の北側の防御を固める場所として、櫓台的な役割を担っていたと考えられているそうです。伝三国丸から大土塁を登り、見下ろした景色登りきった先の分岐点繖山(きぬがさやま)は標高432mです。この分岐点から200m程先が、三角点のある山頂なのですが、標識を横目に見るだけとなりました。伝三国丸の西側には、伝沢田丸があります。伝沢田丸(伝沢田邸跡)は「城内でももっとも高い場所に位置する郭であり、本来なら尾根上に郭を造ってもよい場所ですが、尾根の南側にわざわざ尾根を削り込んで郭を造るなど、理解の難しい郭です」(資料2)という疑問が残るそうです。 この分岐点から伝本丸の方に下って行きます。伝沢田丸の南側、一段低いところに伝楢崎丸があります。これは伝楢崎丸の石垣です。伝楢崎丸を回り込み、途中からさらに下って行きます。山道を降りた所に、三角点への道標が立っています。分岐点から200mほど下がってきたことになります。ここで右折して西方向に進み、いよいよ伝本丸跡に向かいます。つづく参照資料1) 「史跡観音寺城跡」レジュメ 当日配布資料 作成 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査係2) 『観音寺城跡 -江南の雄 六角氏-』 埋蔵文化財活用ブックレット11 (近江の城郭6) 制作・刊行 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課3) 観音寺城の11本の登城道 :「観音寺城|散策の備忘録」補遺 『観音寺城』(滋賀県教育委員会) ← 参照資料2のブックレット pdfファイル史跡観音寺城跡の調査と整備 :「滋賀県」最終話 観音正寺(近江八幡) 祠と人魚伝説今に :「YOMIURI ONLINE」 巨岩が重なり合う天然の祠「奥の院」についての記事です。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -1 結神社・川並道・展望所・伝布施淡路丸傍 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -3 伝本丸・大石段 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -4 伝平井丸・伝池田丸・女郎岩・大石垣 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -5 伝木村丸(補足、2011年秋)へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -6 観音正寺・ねずみ岩・伝目賀田丸 へ
2016.04.30
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3月5日(土)に、滋賀県・文化財保護課企画の「滋賀県歴史探訪連続講座」として、「史跡観音寺城跡」の探訪講座に参加しました。久しぶりに、観音寺城跡に登りました。冒頭写真は、当日の集合場所「プラザ三方よし」で所在地は五個荘塚本町です。地図(マピオン)はこちらをご覧ください。余談ですが、「三方よし」というのは、近江商人の心得と言われています。「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の3つの「良し」が成り立つところによい商売が永続するという考え方です。「世間良し」というのは社会貢献できること、社会に還元していくというスタンスです。近江商人は総称ですが、地域的にみると、八幡商人、日野商人、湖東商人、高島商人などと呼ばれています。たとえば、このプラザ「三方よし」のある五個荘は、湖東商人の源の一つです。外村与左衛門 (5代)、市田弥一郎 (初代) 、塚本定右衞門などが著名です。外村は繊維商社「外与」、市田は京呉服市田株式会社、塚本は線維商社ツカモト株式会社のルーツに繋がる人々です。また滋賀県豊郷村の商人・初代伊藤忠兵衛が長崎への麻布の持ち下がり旅に出たことが、現在の伊藤忠商事のルーツです。(資料1,2)このプラザ前を出発し「川並道」を登り、「観音寺城跡」をめざします。一番の最寄りは県道202号線にある「川並」あるいは「観音寺」バス停(五個荘川並町)です。「三方よし」から県道沿いに南西方向にしばらく歩き、川並の集落に入ります。 こんな風情が残る道路を入っていきます。板塀が落ち着いた雰囲気を醸し出しています。土蔵造の建物の前の木が満開でした。この建物は神輿庫のようです。 結(ムスビ)神社の正面入口です。石造鳥居には「武須比神社」と記した扁額が掛けられています。 鳥居をくぐると、左奧に「社務所」、右には「大麻御納所」があります。大麻(たいま)というのは御神札のことなのでしょう。古い御札を納める場所ということになります。「神宮大麻」に由来するようです。「神宮大麻とは、祓い具である祓い串の御真(ぎょしん)を包んだ伊勢神宮の神札(おふだ)である。」「伊勢神宮の御師(おんし)が、頒布した御祓(おはらい)大麻が起源である。これはお祓いをつとめた祓串を箱に入れ配ったものである。」(資料3)とあります。参道の先に拝殿、その背後に社殿が並んでいます。祭神は誉田別尊です。由緒は「創祀年代詳かならず、往昔川島・忍壁のニ皇子壬申の乱を避け此の川並の郷に在しゝ折勧請し給うと云う。一つに八幡宮と称し、伏見宮貞敬親王当社を崇敬せられ文化15年3月近臣泉原左衛門尉をして代拝せしめ、瓶子・釣燈籠を献ぜられた。明治14年3月、有栖川一品熾仁親王社号を御染筆寄進さる。」とのことです。(資料4) 社務所の建物の少し手前左側に、「観音正寺参道」という標識が出ています。観音寺城跡の一画に観音正寺が建っています。そのため、ここは城跡への登山道でもあります。いわゆる「川並道」ルートです。登り口の右側に「宮山公園」という石標が立っています。(右の写真)講座参加者は、この講座の案内人の先導に従って一列に並んで登ります。少し高台の広くなった場所に、この道標があります。 登山道沿いに、距離表示の石標や石仏などを見つつ、黙々と登ります。 結神社から800mほど歩いてきたところ。この道標から少し登ったところに、展望所があります。この展望所からはこんな風景が広がっています。木々の間から、眼下に五個荘の集落が見えます。 8丁目にはベンチが設えてありました。 観音正寺まで570m、15分という道標が立つ分岐点に到着。道標はこの部分地図に赤丸を追記したあたりです。川並道という文字の記された斜め左上あたりの空白域が駐車できるスペースになっているようです。ここまで車で上がってくるルートがあるのです。観音正寺参拝者の便宜のためでもあるのでしょう。赤丸の上には「伝布施淡路丸」、下には「伝目賀田丸」と記されています。この辺りから「観音寺城跡」に入って行くこととなります。これが今回の講座資料に掲載されている「史跡観音寺城縄張図」で、黒い太線の道が、今回探訪した史跡案内ルートになります。(資料5)観音寺城は、標高432mの繖山(きぬがさやま)の山頂から南山麓にかけて郭が広がる大城郭であり、中世五大山城の一つに数えられているそうです。「観音寺城の名は、城跡の中心に伽藍を構える観音正寺(中世には観音寺)に由来します。南北朝時代に佐々木氏頼が観音寺に布陣したことを『観音寺ノ城郭』と『太平記』に記載されたのが初見です。その後も、たびたび観音寺へ陣所がおかれましたが、このことが『観音寺(ノ)城』と記録されたのを、現在はそのまま『観音寺城』と呼んでいます」(資料1)。今回の探訪は、大凡次のルートを辿りました。大土塁~伝本丸~伝平井丸~伝池田丸~女郎岩・大石垣~(伝池田・平井丸、分岐点) ~観音正寺石垣下の道~観音正寺境内~伝目賀田丸~川並道観音寺城は戦国時代に佐々木六角氏が居城とした城です。宇多源氏の血統を引く佐々木氏は、平安時代に近江に土着しました。平安末期以降にその勢力を拡大する過程で、近江国蒲生郡に勢力を誇った古代豪族である佐々貴山君の一族を、佐々木氏の系譜に同化させていたたそうです。平安時代末期、佐々木秀義が源頼朝の挙兵に組みし、源平合戦に参加します。この合戦で佐々木氏が戦功を上げた結果、秀義の長男・定綱が近江国惣追補使(のちの守護職)に補任されたのです。こののち、400年にわたり佐々木氏の惣領家が代々、この近江国の守護を勤めていくことになります。定綱の子である信綱の死後、4人の男子が所領を分割してそれぞれ独立するのです。三男恭綱が惣領家を継承し、江南六郡を所領とします。恭綱の京都の屋敷が六角東洞院にあったことから、六角氏を称するのです。そして、佐々木六角氏がその後代々近江守護職を継承していくのです。そして室町時代には幕府と密接な関係を築いていったそうです。一方で、佐々木六角氏の興味深い所は、近江国内の在地領主との間で強力な主従関係を結ぶことができずに、双務的な契約関係に近いままの状態にとどまったことです。それが、「観音寺騒動」や戦国時代における信長の侵攻において大きな影響を及ぼすことになったといえます。(資料5,6)次回は、大土塁の道から史跡探訪の始まりです。私が今回参加した楽しみは、この大土塁のルートを辿ってみたかったことです。つづく参照資料1) 近江商人の素顔とは? :「三方よし研究所」2) 「三方よし」と伊藤忠商事のCSR :「伊藤忠商事」3) 神宮大麻 :ウィキペディア4) 結神社 :「滋賀県神社庁」5) 「史跡観音寺城跡」レジュメ 当日配布資料 作成 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査係6) 『観音寺城跡 -江南の雄 六角氏-』 埋蔵文化財活用ブックレット11 (近江の城郭6) 制作・刊行 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課補遺プラザ三方よし :「東近江市」「「三方よし」のビジネスモデル 未来に永続する事業の必須条件 :「事業構想大学 PROJECT DESIGN ONLINE」事業構想大学院大学てんびんの里 五個荘 ホームページ (近江商人博物館・中路融人記念館)20150418五箇祭り川並16丁00512 :YouTube20131104川並結神社旧神輿搬出 :YouTube六角氏 :ウィキペディア六角氏 :「戦国大名探究」『佐々木六角氏の系譜』序「系譜学の試み」 :「佐々木哲学校」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -2 伝布施淡路丸・大土塁(佐佐木城跡碑・郭跡)へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -3 伝本丸・大石段 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -4 伝平井丸・伝池田丸・女郎岩・大石垣 へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -5 伝木村丸(補足、2011年秋)へ探訪 滋賀県・史跡観音寺城跡 -6 観音正寺・ねずみ岩・伝目賀田丸 へ
2016.04.27
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富永屋での雛人形展示をゆっくり見ていましたので、もう時間的にも厳しくなっていました。富永屋に来るまでに展示の片付けにかかっておられたところもありました。そこで地図の西国街道沿いに巡るのも、お店のドアを開けてまで訪ねてみることはやめ、表からオープンに見えるところをちょっと眺める形で歩きました。冒頭の部分図に赤い丸印を付けたところが、前回ご紹介した「富永屋」の位置です。結果的に、外から見える雛人形展示は残りの行程の間に数軒ありました。展示人形の片付け中のお店やショーウンドウ越しに雛人形展示を見られるところなどもありました。ちょっと立ち寄って、お店の人とおしゃべりしながら拝見したのはこの雛人形飾りです。おもしろいなと思ったのは、お菓子が雛段に供えて(?)あったことです。お店の通路部分に飾られていたので、部分写真になりましたが、楽しく拝見できた次第です。西国街道を北に歩むと、冒頭の部分図に青い丸印を付けたところに到ります。3方向への分岐点になっているところです。 この角に位置するのが「須田家住宅」です。右の写真に、道標が角に立っています。そこには江戸期古道名が刻されています。左の道(西方向)を行けば「たんばみち」(丹波道)、中の道(北方向)を行けば「あたごみち」(愛宕道)、右の道(北東方向)を行けば「西国街道」です。愛宕道は、府道67号線であり、現在は「物集女(もずめ)街道」と呼ばれています。このあたりの地図(マピオン)を改めて見ていて気づいたことがあります。地図はこちらをご覧ください。須田家住宅のところで、中の道が愛宕道なのですが、現在の地図(マピオン)には、「福祉会館前」交差点を経由して、阪急京都線「東向日」駅、JR「向日町」駅に向かう道にも西国街道の表記があることです。歴史街道という視点では、須田家住宅の分岐地点から右の道「西国街道」なので、ここから先は現在の名称だと物集女街道でもよいのかな・・・って気がしたのです。いつ頃から、福祉会館前交差点経由の道が「西国街道」と称するようになったのでしょうか? 江戸時代からここの一部区間だけ分岐・合流する形で2つの道が使われていたのでしょうか?今のところ、少し調べてみた範囲では解けていない小さな関心事です。さて、この須田家住宅を正面から眺めるとこんな景色です。一見した印象は新しく復元された町家なのかなというものでした。帰宅後に入手資料の一つに、この「須田家住宅」(資料1)があり、「現代によみがえる町屋」だったと知った次第です。江戸時代に段階的に増築されてきた建物でしたが、老朽化が進み、1972年(昭和47)から空き家となっていたそうです。1987年(昭和62)に京都府の有形文化財に指定されたことから、1991年(平成3)からおよそ6年間をかけて修復されたのです。それで新装感があったのです。街道に面する東面が建物の正面になっていて、京都市内の町家と違い間口が広いのがまず印象に残ります。南棟と屋根が一段低い北棟がつながっています。ここは「松葉屋」という屋号を持ち、主に醤油の製造/販売をしていた商家だったそうです。松葉屋利兵衛さんが江戸時代初期・元和2年(1616)、向日町上之町で醤油づくりをされていたとか。代が移り、記録からは1679-1719年間に、上之町中丸ノ段に須田家住宅主屋南棟が建てられたのです。享保4年(1719)には久兵衛さんの名前が登場します。そして、1744年ころまでには、松葉屋が現在地(西ノ段)に移っていたそうです。天保13年(1842)に主屋北棟を建て添えたとか。明治18年(1885)頃に、松葉屋では北棟の座敷の北側にさらに、奥座敷を増築されたのです。 南棟の「大戸」入手したリーフレットに記載の主屋平面図を参照しますと、大戸を入ると「通り土間」となっていて、真っ直ぐ先の奧(西面)に竃(くど)と台所があります。入って右折すると玄関があり、そこに「帳場」が設えられていたようです。京都の町家でも見かけますが、大戸の南側の格子窓の前に、折りたためる床几が設置してあるのも、商家らしい感じです。ちょっと入口でひと休みできるスペースです。あるいは、この床几が見本商品陳列の台になったのでしょうか・・・・。江戸時代の町屋(町家)の使われ方を調べてみる必要もありそうです。大戸の北側の格子窓は玄関前と帳場の傍になります。明かりとりになっています。元和2年には、向日町の屋敷地と職業の調査が実施されていて、このあたりの町なみ、屋号と扱う商品も記録された冊子が残っているそうです。リーフレットには「向日町上之町復元図」の一部として、この松葉屋を中心に3方向の道に並ぶ商家の復元図が載っています。町場として向日町が栄えていた当時の一端が想像できておもしろいです。尚、元和2年時点の松葉屋は、愛宕道と西国街道の合流地点側にあったようです。つまり正面の写真を撮った側になります。元和2年時点、現在の須田家住宅の場所には、「槌屋」という屋号の商家が綿を商っていたことがわかります。西国街道の東側は、南の富永屋(宿・植木)から北東の端として坂田屋(壁方)まで20軒の商家があったことが復元図でわかります。もう一つ地図との対比で気づいたのは、「上之町」という町名が「寺戸町」と代わっていることです。「中丸ノ段」という地名はネットで見られる地図上にはありませんが、「中ノ段」という地名は記載されています。この探訪の時は、須田家住宅の前の道、府道67号線沿いに歩きました。「ひな人形展示案内」図にはこちらの方にいくつか展示場所が記載されていましたので。そして、福祉会館前交差点からJR「向日町」駅へ右折します。道路は府道206号線で、西国街道と地図に記されています。 この道路に沿った歩道を進みますと、阪急京都線の「東向日」駅の手前で、かつての西国街道と合流します。その合流地点に、「寺戸町 梅の木」という道標が立っています。(一番左の茶色い道標) 「昔、この一帯が梅林であったためこの地名が付いた。 地元に伝わる御詠歌にも『ありがたや だいにち(大日如来)さまのおすがたが うめのこかげにおわします』とある」道標には、こんな説明が記されています。その傍には、「右 ぼだい院」という文字が判読できる道標と、「淳和天皇、桓武天皇皇后」の名称が併記された道標も立っています。そして「大原野神社」への道標も立っています。歴史探検マップを見ますと、府道206号線沿いに歩いてきた道は、「梅の木」の道標より少し南西の位置で、東西の道に合流していたのです。その東西の道が、「大原野道」であり、府道207号線です。この合流地点からは府道207号線になっていたのです。この辺りの地図(マピオン)はこちらをご覧ください。大原野道を西にむかうと、「宝菩提院跡」があります。更に先に進むと大原野道より少し北に「桓武天皇皇后陵」があります。第6向陽小学校が西隣りです。大原野道を辿っていくと、もちろん大原野南春日町に所在の「大原野神社」に到ります。神社の西方向に「勝持寺」があります。ここまで地図の上で行きついて、勝持寺の隣に、「宝菩提院願徳寺」という名称を見出しました。少し調べてみると、「宝菩提院跡」と関係があるようです。衰退・荒廃後に、勝持寺に本尊が移され、昭和に「宝菩提院願徳寺」が再興されたようです。(資料3)また、「淳和天皇火葬塚」は大原野道から物集女街道に入り、北に向かう方向になります。物集女街道沿いにある郵便局「向日物集女局」の背後、西側になります。阪急京都線の踏切を横断し、西国街道をJR「向日町」駅まで歩きます。駅の少し手前にあるのが、寺戸川と深田橋です。この付近では深田川とも呼ばれるそうです。橋の傍に、「向日町駅と西国街道」の説明板が設置されています。読みづらいかも知れませんが、説明文を切り出してみました。要点は次のとおりです。*西国街道は、京都の東寺口から摂津西宮を経て、西に行く江戸期の幹線道路となる。*JR向日町駅前道沿いから、平安時代の道路や側溝跡が発見されている。*豊臣秀吉が朝鮮への出兵にともない、西国街道を拡幅、整備した。*江戸時代、乙訓地域では西国街道を「唐海道(からかいどう)」と呼んでいた。*江戸時代、深田橋は当初は「公儀橋」であり、幕府が管理していた。*1714年と1715年に勧進相撲を実施し、木戸銭で石橋に架け替え、寺戸村の管理下に。*京都で排出されるこやしを田畑の肥料として乙訓に運搬する交通路となった。*明治9年(1876)7月に大阪-向日町間の鉄道が開通し京都府下で最初の鉄道駅となる。近くに、「浄土門根元地粟生光明寺道」の道標が立っています。高さがあって目立ちます。西国街道を進み、須田家住宅の地点を経由し、五辻に至ると、ここで西国街道から分岐して南西方向に進みます。しばらくは、善峰寺と光明寺は同じ道を歩みます。滝ノ町に善峰道と光明寺道の分岐点があります。ここから光明寺道をひたすら歩めば、丹波街道と交差し、その少し先に山門が見えてくるのです。JR向日町駅に到着し、今回の探訪が終わりました。長岡宮跡・朝堂院公園にある案内所でいただいたリーフレット版の資料について、ちょっとご紹介しておきましょう。 この3枚の写真のリーフレットの内容は参照及び引用させていただきました。「富永屋」以外のものが、向日市教育委員会が発行されています。今回、資料だけ入手したものとして、こんな個別資料類も発行されています。向日市の文化遺産探訪に具体的なイメージができてきました。機会を見つけてチャレンジしようと考え始めています。南・北真経寺の資料を参照していて、掲載図の引用ソースを調べてみました。江戸時代に出版された『拾遺都名所図会』に境内図が載っています。公開されているデータベースからその図を引用させていただきます。(資料5)こちらが、南真経寺にあたる図です。「西岡向日 真経寺 興隆寺」と2つのお寺が描かれています。上部の方が興隆寺で、下部が南真経寺です。南真経寺より北に位置した興隆寺が、既にご紹介したとおり、南真経寺より南に位置する石塔寺に現在は合併されているのです。この図会が出版された当時は、石塔寺よりも興隆寺が隆盛だったのかもしれません。こちらが、北真経寺にあたる図です。「西岡 鶏冠井村 檀林」と記入されていて、「鶏冠井村」に対して「けいてゐむら」とルビが振られているのです。「かいで」という読み方を知らなかったということでしょうか? 興味深いところです。今回の探訪を事後にまとめていて、「歴史街道」に関連して、歴史街道推進協議会が西国街道についての街道ウォーキングマップをダウンロードできる形で公開されていることを遅ればせながら知りました。区間毎に1ページのシートとして保存することができます。今回の探訪で言えば、「長岡京市神足~京都市南区」の街道ウォーキングマップです。ご関心を抱かれたら、こちらからダウンロードしてみてください。勿論、画面上での閲覧もできます。脇道にだいぶ逸れたところもありますが、事後にまとめる作業をすると、発見があったり疑問が湧いたりします。新たな探訪目標も出て来ておもしろいものです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「須田家住宅」(向日市の文化遺産11) 発行 向日市教育委員会2) 「むこうし歴史探検マップ」(向日市の文化遺産1) 発行 向日市教育委員会 3) 願徳寺 :ウィキペディア4) 願徳寺(宝菩提院) おでかけスポット :「阪急電鉄」5) 拾遺都名所図会. 巻之1-4 / 秋里湘夕 [撰] ; 竹原春朝斎 画 第4冊 58,59コマ目 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)補遺歴史街道 ホームページ 西国街道 街道ウォーキングマップ西国街道地図 Googleマップ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -1 一文橋・中小路家住宅 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -2 中小路家住宅の雛人形点描 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -3 長岡宮跡(朝堂院跡)ほか へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -4 大極殿跡・南真経寺・石塔寺・富永屋(雛人形展示)へ
2016.04.25
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長岡宮朝堂院跡(朝堂院公園)から少し北進すると、「史跡長岡宮跡 大極殿公園」が見えます。この石標は、右の写真に青色の丸を追記した「E.宝幢地区」に立っています。この大極殿公園は、お花見スポットとしても市民に親しまれているそうです。 左の写真が「宝幢」を建てた場所です。発掘調査で柱の掘形が発見され、中央の大柱、両側の添柱の痕跡があった位置だそうです。近くに「長岡宮宝幢跡」(右)の説明板があります。奈良時代には元旦に「朝賀の儀式」が大極殿・朝堂院で行われたのです。この時、大極殿の前に7本の宝幢が建てられたのだとか。「宝幢とは、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、長さ約9mの大柱の上に、青龍・朱雀・白虎・玄武の四神の絵がはためき、鳥・日・月の飾り物が華やかに揺れました」(説明板より)。発掘調査で発見されたのは、大極殿の中軸線上を中心にして、東側の3本に相当するそうです。宝幢は大極殿の建物から30mほど南の位置に東西方向に7本が並んでいたといいます。「史跡長岡宮跡 大極殿・後殿(小安殿)地区」の説明板が、大極殿の南北の中軸線上に立っているようです。この写真は宝幢地区の南西側から見た「A.大極殿・小安殿地区」側の景色です。説明板のあたりに大極殿が建っていたのでしょう。説明板の右下には、朝堂院跡にある説明板と同種のものが置かれています。大極殿の所在地は、向日市鶏冠井町(かいでちょう)です。 「大極殿」について説明した部分がこの2枚です。「大極殿」の名称は、中国の宮殿の正殿「太極殿」に由来します。「太極」は天空の中心である北極星を意味しています。大極殿は天皇が政治を司る場所であり、建物の中心に天皇が着座する「高御座(たかみくらざ)」(玉座)が南向きに据えられたていたそうです。長岡京前の都では大極殿が内裏の南に連結する形で設けられていたようです。この長岡京の大極殿は、内裏とは完全に独立し朝堂院の正殿としての性格が強まり、「主に朝堂院に出仕する官人(役人)のための天皇の謁見の場として使われるようになりました。」(説明より)発掘調査で大極殿の基壇が発見されましたが、廃都後の耕作などにより柱の規模の確定はできなかったそうです。大極殿は東西(桁行)9間、南北(梁間)4間の瓦葺四面庇建物だったようです。この写真は、宝幢跡地区の南東よりから撮ったものですが、発見された大極殿の基壇の位置がコンクリートの枠で示されています。 説明板には、かつての各時代の都の位置関係を示す地図や長岡京の条坊制の大路とさらに詳細な通り名とを併せて表記した図などとともに、これらの写真も掲示されています。左の写真は「史跡に指定された長岡京跡の位置」です。右の写真は毎年11月11日に大極殿祭が行われていることを示す写真と発掘調査風景の写真です。この史跡地区の一画には、「史跡長岡宮跡」碑、「行幸啓記念碑」(平成22年)、「長岡宮城大極殿遺址」記念碑(明治28年、後に北大極殿公園から移設)が建立され、また「長岡宮大極殿跡」の制札が立っています。A地区の史跡地を分断する形で道路が通っています。 道路の北側、南西隅よりに、右の写真の造形物があり「大極殿公園」の銘板が下部につけられています。(冒頭の右の写真に黄色の丸印を加えたところ) 右の写真は発掘調査でわかった「後殿跡」(小安殿跡)です。その建物の柱の位置が示されています。上掲の道路から説明板の裏を見上げると、長岡宮の置かれた北側から長岡京を南方向に眺めた全体図が描かれています。大極殿公園を出て、再度大極殿通を南に大極殿交差点まで少し戻り、東西の番田通に右折し西に向かいます。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 番田通の南側には勝山中学校があり、北側には「南真経寺(みなみしんきょうじ)」があります。山号は鶏冠山(かいでざん)で日蓮宗のお寺です。地図を見ますと、阪急京都線を挟み、東側に「北真経寺」があります。もともとは一つの寺だったのです。日蓮聖人の孫弟子にあたる日像(にちぞう)上人が京都での日蓮宗布教の遺命を受けて、京都を中心に布教活動を行います。この鶏冠井には、真言宗の真言寺があったのですが、徳治2年(1307)に当時の住職実賢(じっけん)に教義を説き、改宗させたのだそうです。そして、真言寺が「真経寺」と改名されたのです。「真言宗の真と、日像上人の幼名経一丸の経をとられた」(説明板)と伝わります。鶏冠井村は村人全員が法華経の信仰に改宗したのです。その結果、日像によって改宗された西日本最古の「皆法華(かいほっけ)の集落となったそうです。江戸時代の承応3年(1654)に、僧侶の学問所「鶏冠井檀林(だんりん)」を開くにあたり、真経寺を南北に分け、北真経寺を檀林、南真経寺を宗教活動の場としたといいます。その後、江戸時代初期に、南真経寺が現在地に移転したのです。(説明板、資料1)「鶏冠井題目踊(かいでだいもくおどり)」というのが、京都府の無形文化財に指定されています。「村人が改宗の喜びを野良着と菅笠のまま、太鼓をたたき、『南無妙法蓮華経』の題目を唱えながら踊ったのがはじまりとされています。」(資料1)なお、北真経寺では鶏冠井檀林が開かれ整備されていき、9棟の寮で数十人~百人が学び多くの指導者が育てられたようです。明治8年(1875)に檀林の廃止を機に、北真経寺もまた一般の宗教活動の寺となりました。(資料1)番田通は「五辻」の交差点に出ます。ここで西国街道が府道67号線と合流し、西国街道がしばらくの区間府道67号線と重なります。この五辻で西国街道を少し南下しますと、前回ご紹介した「鈴吉大明神」の北に位置するこの「石塔寺(せきとうじ)」があります。日蓮宗のお寺で山号は法性山です。本尊は十界大曼荼羅。この寺も鶏冠井町にあります。毎年5月3日の花まつりには、上記「鶏冠井題目踊」がこの石塔寺で催されるそうです。(資料1)古文書の記録によると、鎌倉時代末の延慶3年(1310)3月に現在の場所に題目石塔を建立されたのだとか。その石塔の傍に、文明年間(1469-87)に本堂が建立され寺院ができたと伝えられているそうです。その後、不受不施派、妙顕寺派、独立本山という経緯を経て、明治9年(1876)に鶏冠井村にあった興隆寺を合併吸収し、翌年に寺の伽藍整備が行われたようです。現在は、本化日蓮宗本山の単立寺院となっています。(説明板より)地図を見ると、「御塔道」という地名があります。これは石塔寺にちなんだ名称が残ったものだとか。(説明板より)脇道に逸れますが、ここで思い出したのが、京都にある京都初の日蓮宗道場として日像上人が創建された大本山の一つ「妙顕寺」です。「京都冬の旅 非公開文化財特別公開」として定期観光バスで訪れています。その探訪記を拙ブログ「遊心六中記」で2014年に「スポット探訪 妙顕寺」としてまとめています。こちらもご覧いただけるとうれしいです。序でに、「鶏冠井」を「かいで」と読むのは超難解な気がします。こんな説明があります。「どうもこれは、楓畑の名の残るところに老楓があって楓村と称していたが、この楓葉を賞して『とさか(鶏冠)』に似ているところからの表記だと聞く」(資料2)と。五辻に戻り、再び西国街道を北に歩みます。五辻の傍で拝見した七段飾りの有職雛です。「京雛司 平安光義作 有職雛」の木札が置かれています。京都の田中人形監修と併記されています。その先西側に「向日神社」への参道が見えます。今回は探訪する時間がなくて通過。この参道を見ながら、東側の歩道をすこし北に進みます。「向日町でいちばんの宿屋」だったという「富永屋」があります。現在は「向日町富永屋を核とした西国街道町並み活性化プロジェクト」をボランティア活動を軸に推進し、維持管理されているようです。江戸時代・元和2年(1616)にこの場所で富永屋権三郎が宿屋をしていた記録が残るとか。江戸時代から戦後しばらくまでは、代々宿屋・料理屋を営んでいたそうです。明治時代には乙訓郡内の主な会合が向日町で開催された折りには、この富永屋がひんぱんに利用されたのだとか。江戸時代に「日本全図」を作った伊能忠敬が測量の旅の途中で富永屋に宿泊しているとか、向日神社境内での大相撲興行の折りに、初代若乃花が富永屋の風呂に入ったという話も伝わるそうです。現存する棟札から、江戸時代中期に建てられた貴重な町家の遺構とわかています。(資料3)ここの座敷にも雛人形の展示が行われていました。ここで展示されている雛人形も実に見応えがありました。門をくぐり庭を通って、建物に入ると、土間の正面に小さな木目込み人形が横一列に飾ってあります。芳山作という木札が置かれています。可愛らしい作品です。入った右側に座敷があります。ここに上がって雛人形を堪能しました。座敷入口の右手にまず、七段飾り雛が展示されています。土間から上がった座敷の一番奧側に、2組の雛人形セットが並べて展示されています。この写真の右が縁と庭側で、左端に床の間が見えます。この2組の雛人形は、寺戸町の山口家所蔵品だそうです。こちらは「古今雛 段飾り」(昭和5年/1930)です。和歌山の造り酒屋の長女として生まれた女の子が、初節句の時に、母親の京都の実家の祖父母から贈られた古今雛だと説明が付されています。左側はしばし見惚れた「御殿雛 段飾り」です。まずはこの御殿の精巧で豪華な作りに魅了されました。この御殿は分解して片付けることになるそうですが、年に一度組み立てるのに苦労するそうです。そうだろうなと感じます。 こちらについても説明してありました。「翌年(1931)の節句にあわせて女児の両親が、あらためて京都の大木平蔵商店に依頼してあつらえた御殿雛」だそうです。「京都から和歌山へ、舟で運ばれたもの」と言われています。あとで、「おくどさん」を拝見する途中で、この長持ちが置かれているのを見ました。昭和6年の御殿雛が納められていた長持なのです。長持の側面に浮線蝶紋(うきせんちょうもん)が入っています。これは御殿飾りの諸道具類の一部ですが、御所車や駕籠をはじめそれぞれの道具に、浮き線蝶の家紋が入れられています。特注品の雛人形セットであることがよくわかります。う~ん、すごいなあ・・・・。昭和初期には、まだこういうことが行われていたのですね。現在でもこういう特注品製作があるのでしょうか・・・・。びっくりする位の費用がかかることでしょうね。伝統技術が継承されていくためには、そういう依頼があることも必要なのでしょうけれど。どうなのでしょう。脇道に逸れますが、この御殿飾りと同種の「古今雛・檜皮葺御殿飾り(大正11年)・京阪型」というのを、日本玩具博物館の「雛まつり~江戸の雛・京阪の雛~」という2014年人形展のページで見つけました。こちらをご覧ください。床の間には、箱壇の上に、この「初参(ういざん)人形」が飾られています。「稚児輪に結った髪に緋縮緬の振袖、黒の菊綴(きくとじ 組紐の先を乱して円く菊形にしたもの)を付けた袴という公家の男児の姿をしている。手に持つ中啓(ちゅうけい 閉じても先がやや広がる扇の一種)は失われている。参内人形、初参稚児などとも呼ばれ、御所に初めて参内した時に賜る人形であるためこの名があるという」(傍に置かれた説明掲示文の転記)床の間右側に掛け軸雛が掛けられています。中小路家住宅でも掛け軸雛を見ています。今回の展示期限が来る少し前でしたので、ボランティアで説明していただいた方から、「おくどさんもご覧になりますか?」と声をかけていただきました。そして案内していただき拝見したのがこの「おくどさん」です。この一部は現在も利用されているのです。現役のおくどさんだということに、さらにびっくりでした。この項の最後に「向日町」についてです。富永屋でいただいたリーフレットにこう記されています。「豊臣秀吉が朝鮮出兵の物資や軍勢を送るため街道を拡張・整備した時、京都を出てひと休みの場所がある向日神社の門前に、町場をつくることを認めたのが始まりです」(資料2)と。雛人形巡りの残り時間もわずかになってきました。つづく参照資料1) 「北真経寺」 向日市の文化遺産12 発行・向日市教育委員会2) 『京の古道を歩く』 増田 潔著 光村推古書院 p2743) 「向日町でいちばんの宿屋 富永屋」 発行:富永屋の会・グループとみじん補遺都の名前は長岡京 中心は長岡宮(ながおかきゅう) :「向日市」長岡京大極殿跡・小安殿跡 :「向日市」長岡宮跡大極殿公園 :「京都府観光ガイド」不受不施派 :ウィキペディア日像 :ウィキペディア日像 :「コトバンク」鶏冠井題目踊りの紹介皆法華村の民俗芸能―京都府鶏冠井・松ヶ崎の題目踊り― :「関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ」木目込み雛人形 :「雛人形.jp」日本玩具博物館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -1 一文橋・中小路家住宅 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -2 中小路家住宅の雛人形点描 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -3 長岡宮跡(朝堂院跡)ほか へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 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2016.04.24
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中小路家住宅での雛人形を見た後、西国街道を北に進みます。冒頭の写真は街道に面した屋敷構えの町屋です。源氏塀が西国街道の風情を醸しています。街道には、灯籠の角柱の棹に「愛宕山御神前」と彫られた石灯籠が立っています。街道に面した民家座敷の縁側部分に、この家がお持ちの雛人形などを飾り付けて、ガラス戸越しに見られるようされています。この「ひな人形展示」に協賛されている家です。駐車場を兼ねられた敷地から拝見しました。 川幅の狭い小井川に架かる橋があります。橋を渡りそのまま北上すると、「石塔寺」の少し手前に、赤い鳥居が立つ「鈴吉大明神」が祀られています。地図を見ると上植野町の北西端部に位置します。この辺りは「御塔道」という地名です。街道は緩やかな坂道になっています。地元の人たちはこのあたりを「島坂」とも呼ばれるそうで、その名称はこの地に「嶋院」という庭園を配した建物があったという伝承があることによるとか。(資料1)『土佐日記』(紀貫之)の2月16日の条に、「かくて京へいくに、島坂にて人あるじしたり。かならずしもあるまじきわざなり」(こうして京へ行くと、島坂で、ある人がもてなしてくれた。必ずしもしなくてよいことなのであある 資料2)という一節が記されています。2月12日に山崎まで舟で至り、ここで13,14の両日も舟に泊り、14日には車を京に取りに行かせ、15日は舟の不快さから人の家に移りもてなされたのです。そして16日、山崎を出立し、車で京に向かう途中、この「島坂」まで来てここでもてなしを受けたという下りです。西国街道が利用されていたいうことです。(資料1,2)この「ひな人形展示案内」から切り出した部分図に、青丸印を追記した位置が「鈴吉大明神」のあるところです。西国街道を離れて、東に入る道を通り、長岡宮跡の探訪という寄り道をすることにしました。この東西方向の道をそのまま東に行けば、阪急京都線「西向日」駅に到ります。この駅が「長岡宮朝堂院跡」に一番近い駅です。 地図で見ますと、阪急京都線と併行する南北の道路沿い側に、地蔵尊の小祠あり、入口の北側に「史跡 長岡京跡 朝堂院公園」の石標が立っています。ここが「朝堂院跡」です。石標の傍の建物が案内所です。ここで、向日市の文化遺産についての各種パンフレットをいただきました。『むこうし歴史探検マップ』では、イラストや写真と地図で向日市にある寺社、古墳、長岡宮跡などの所在地が簡略に説明されています。ここには前回ご紹介した一文橋、中小路家住宅の説明も入っています。そして主な個別の文化遺産についてのパンフレットもあります。勿論『長岡京跡』というのもあります。このパンフレットを参照しますと、JR「向日町」駅の南側、阪急京都線「東向日」駅のあたりを、東西方向に「長岡京の北京極大路」が通っていたようです。そこから南へ一条大路、二条大路・・・九条大路と続きます。南北の朱雀大路を中軸に東西にそれぞれ一坊大路から四坊大路が広がります。南北5.3km、東西4.3kmの大きさの条坊制都市が築かれたのです。阪急電車京都線西向日駅がほぼ朱雀大路の位置になるようです。そしてこの少し北が東西の二条大路だったのです。「長岡宮」は南北は北京極大路と二条大路、東西は東一坊大路と西一坊大路、これらの大路に囲まれた区画にあったのです。JR「長岡京」駅は、南北は五条大路と六条大路の中間の道路、東西は朱雀大路と西一坊大路の中間の道路が交差する場所あたりになるようです。つまり、長岡京は向日市、長岡京市、大山崎町と京都市の一部にあたる広がりの位置になる都だったのです。(資料3,4))京都市は西京区と南区・伏見区の一部がその区域になります。現在の地図(Mapion)はこちらからご覧ください。長岡京の大きさのイメージがしやすいかもしれません。 案内所の傍に、この説明板があります。この説明を部分撮りするとこんな形になります。宮域には、内裏、大極殿、朝堂院、各役所などがありました。朝堂院は国儀大礼を行うところです。本来は、律令国家を支える役所の公卿が座り、政務を評議する場所であり、現在の国会議事堂に相当する施設で、大極殿の天皇に対して決裁を伺う朝政の場だったのです。ところが長岡京の時代には、朝堂院での政務は内裏で行われるようになっていたそうです。その結果、朝堂院は主に朝賀の儀式や饗宴の場として利用されるようになったといいます。長岡京の大極殿・朝堂院は、奈良時代の難波宮(なにわのみや大阪市)の建物を解体して移築したそうです。(公園内説明文より) 「唐の長安城がモデルと言われ、東西に4つずつ、計8つの瓦葺礎石建物がありました。ここは西側の4番目にあたります。」(資料3) 朝堂院跡は1992年に国の史跡に指定されています。朝堂院公園の南端側から「朝堂院跡」を眺めた景色です。発掘調査でわかった建物の柱跡の位置が高さの低い石の円柱で再現されています。下段の奧に見える平屋の建物が案内所です。位置関係がおわかりいただけるでしょう。写真に写る樹木の前に見える白いものが、この説明板です。「長岡宮朝堂院南門復元図」を切り出してみました。赤線で囲まれた部分がこの「朝堂院公園」の範囲になり、小さな赤丸がこの説明板のある位置です。下段は赤線範囲が現在の形に整備された公園の平面図です。朝堂院は築地塀で囲まれ、朝堂院の正面入口が南門(会昌門)で、この南門には鳥が羽を広げた形に瓦葺きの回廊がつけられています。南門の東西に6間延び、南に折れ曲がって6間延びた形だったようです。梁間2間で、その中央が窓の付いた塀になっていたようです。翼廊の先には楼閣(翔鸞楼)が建てられていたそうです。発掘調査の結果から、中国風の荘厳な建築様式を模倣したことがわかり、皇統の正当性と権威を高めることを意図したそうです。説明文の要点を箇条書きにします。*回廊の先端に付いた二階建てで東西5間、南北5間の建物。柱間は2.4m~3.0m。*建物の外周に廊下を巡らす。*楼閣を伴う門は中国では闕(けつ)と呼ばれ皇帝の権威と人民への恩徳を象徴する。*中国の長安城にあった闕を模倣したと考えられる。*この楼閣跡は平安宮の応天門の翔鸞楼に相当する施設といえる。*考古学的に確認された遺構として、日本古代都城研究にとり極めて重要である。桓武天皇は延暦3年(784)11月11日、奈良の平城京を廃し、乙訓郡長岡村の地に都を移しました。この地の地名に因んで「長岡京」と名づけられたのです。当時の詔には「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とあるそうです。そしてわずか10年「長岡京」にとどまった後、延暦13年(794)10月に「平安京」に遷都します。その結果、京都がいわゆる千年の都となります。なぜか?手許の本ではこんな説明になっています。「新しい皇統の桓武天皇の基盤ははじめ確固としておらず、遷都に反対する勢力もあって、桓武天皇の腹心で長岡京の造営を主導していた藤原種継(たねつぐ 737-785 藤原百川の甥)が暗殺される事件がおこった。この事件をめぐって皇太子の早良(さわら)親王(750-785、桓武天皇の弟)や大伴氏・佐伯氏の人々が退けられ、貴族層内の対立が表面化する一方、桓武天皇の母や皇后が相ついで死去した。この不幸が早良親王の怨霊によるものとされるなかで、なかなか完成しない長岡京からの再遷都がはかられ」た(資料5)というのです。784年11月に長岡京遷都、翌年785年9月に藤原種継が暗殺されています。造営の主導者が早くも死去し、反対派がいれば都の完成が進展しないのは頷けます。藤原種継の暗殺事件は、『日本霊異記』に記載があり、暗殺のあった場所は長岡宮の嶋町としているそうです(資料6)。嶋町というのは上記の島坂あたりなのでしょう。怨霊から御霊へ、つまり御霊信仰が記録上確認されるのは『日本三代実録』記載の貞観5年(863)5月20日に平安京(京都)の神泉苑で行われたものが嚆矢です。この最初の御霊会で6人の御霊(怨霊)が鎮魂の儀式の対象となったそうです。その中の一人が早良親王です。(資料7)西国街道からは外れていますが、この朝堂院公園の近くの民家も「ひな人形展示」に協賛されていました。門を入り、玄関口(上段)と、庭に面した茶室(下段)に、内裏びなが飾られていました。静謐さのなかでのおもてなしという雰囲気でよかったです。この後、長岡宮大極殿跡に向かいました。つづく参照資料1) 庭園付き建物の由来 「嶋院」記した木簡出土で 宮都のロマン :「京都新聞」2) 『土佐日記』(原文・現代語訳) :「学ぶ・教える.COM」3) 『むこうし歴史探検マップ』(向日市の文化遺産1) 発行 向日市教育委員会4) 『長岡京跡』(向日市の文化遺産2) 発行 向日市教育委員会5) 『詳説日本史研究』 五味・高埜・鳥海 編 山川出版社 p896) 藤原朝臣種継 :「波流能由伎 大伴家持の世界」7) 御霊信仰 :ウィキペディア補遺長岡京 都市史02 :「フィールド・ミュージアム京都」長岡京 :ウィキペディア藤原種継 :「コトバンク」藤原種継 :ウィキペディア黒幕は万葉歌人・大伴家持!? 長岡京遷都めぐる陰謀の真相は…藤原種継暗殺(上) 2013.1.13 関西歴史事件簿 :「産経ニュース」第12回 出来事編 「呪われた平安京遷都の知られざる理由 『教科書に載らない古代史』関裕二 :「廣済堂 よみものWeb」平城京から長岡京への遷都と,その後の長岡京から平安京への遷都を,桓武天皇に進言したといわれている人物は誰か。 :「レファレンス協同データベース」長岡京右京二条四坊一・八・九町発掘説明会 :「仙道のニュース履歴」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -1 一文橋・中小路家住宅 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -2 中小路家住宅の雛人形点描 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -4 大極殿跡・南真経寺・石塔寺・富永屋(雛人形展示)へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -5 須田家住宅・道標類 へ
2016.04.23
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それではもう少し様々な展示を近づいて眺めていきましょう。この3枚は前回ご紹介した段飾りが3組並んだところの内裏雛です。右から左に眺めていきました。雛人形の飾り方も二通りありますね。昔は意識しなかったのですが・・・・。私は京都生まれのせいか、京雛の飾り方を見慣れていたのです。京雛はこれらの写真にある配置です。その他の地域は、男雛を向かって左、女雛を向かって右に飾るのだそうで、逆転するのです。それが一般的になっているそうです。(資料1)それでは、雛段の上・下という風に眺めてみます。上から見ていくと、内裏雛(親王)・三人官女・五人囃子・随臣・仕丁という形で構成され、それに加えて諸道具が並べられています。ここの3組の段飾りは「七段飾り」です。昔から、七は縁起が良い数字とされてきていますので、それがここでも使われているのでしょう。右と中央は「十五人飾り」と呼ばれる飾り方。一般的な飾り方の中では最も壮麗な飾りだとか。この左のセットは諸道具の代わりに人形が数多く飾られています。おもしろい。どういう基準で、人形の役割・機能を取り上げるのか、興味深いところなのですが・・・。どこかに解説はないでしょうか? 単なる好みの問題でしょうか?それぞれ飾り人形と諸道具に違いがあっておもしろいものです。内裏雛の座っている畳の繧繝縁(うんげんべり)の文様や色の組み合わせも異なっています。繧繝錦は「赤地の縦じまの間に、あいやあさぎで、花形・ひし形の色模様を織り出した絹織物」(『日本語大辞典』講談社)です。この繧繝錦を使った畳の縁は宮中や社寺で使われていたのです。”『海人藻芥(あまのもくず)』には、「帝王、院、繧繝端なり。神仏前の半畳、繧繝端を用ふ。此の外更に用ふべからざるなりと見えて甚だ重んぜられたるものであることが知られる。”というものです。(資料2) 五人囃子は、五人が一組になった囃子方です。能楽の囃子方がかたどられているそうです。向かって右から、謡(うたい)・笛・小鼓(こつづみ)・大鼓(おおかわ)・太鼓の順に並んでいます。能舞台ならば、舞台の正面に向かい、右端の地謡座(じうたいざ)に謡の人々が座り、本舞台と大きな松の描かれた鏡板との間にある後座(あとざ)に囃子方が座ります。 これは前回ご紹介の写真で言えば、向かって左側の御殿飾り雛です。御殿の中に内裏様が座っています。座敷には、こんな御殿飾りも展示されていました。 そして、その傍にはこんな雛人形も。 広い部屋の別の場所に、五段飾りの雛人形が2セット並べて展示されています。向かって右側の段飾り前に紐のようなものがぶら下がっていますね。 それがこれです。「薬玉(くすだま)」です。辞典には「端午の節句に、不浄や邪気を避けるために柱などにかける飾り物。錦の袋に香料を入れ、ショウブなどを結びつけ五色の糸を下げる」(上掲辞典)と説明があります。 こちらは向かって左の段飾りです。五人囃子の代わりに、子犬に結ばれた紐を手に持つ官女が立っています。天井からは雛人形絡みの様々なバージョンの人形ほか、数多く展示されています。これらはほんの一例です。違い棚には、「貝合わせ」が展示されていました。こんな雛人形バージョンも展示されています。 さらには、「流し雛」も。「流雛祈祷守護」というお札があるのを初めて知りました。竹皮の上に雛が乗っている流し雛は、奈良県五條市南阿田の伝統行事で、吉野川で雛流しが行われるそうです。(資料3) お札の左側にあるのは、桟俵と称されるものに乗せた紙雛です。右の写真の紙雛は鳥取県の流し雛。男女一対の紙雛を桟俵に乗せ千代川に流し雛をするのは、鳥取県用瀬(もちがせ)町の「用瀬流しびな行事」のようです。調べてみて知った次第。(資料4)流し雛は昭和の末頃からブームになってきているといいます。「以前から行われているのは(戦後復活されたところも含めて)鳥取市用瀬町、鳥取市、広島県大竹市、岡山県笠岡市北木島、和歌山県の粉河町、奈良県五條市などがある。新しく始めたところは、昭和47年に地元の宮崎さんという方が鳥取県の用瀬でおこなっている流し雛に倣って俳句仲間と始めた福岡県柳川市を嚆矢として、鳥取県倉吉市(昭和60年開始)、東京の隅田川(昭和61年開始)、埼玉県岩槻市(昭和62年開始)のように今年で20回を超えたところもあるが、平成に入ってからも京都の下鴨神社(平成元年開始)、兵庫県龍野市(平成5年開始)、また開始年は不詳だが、山口県下関市など、さまざまな場所でおこなわれている。」(資料5) のだそうです。これも今回事後学習で調べていて知ったことです。「なぐさみ箱」「遊山箱」というものも展示されていました。愛媛県伊予市の地域には、旧暦の雛祭りの翌日(4月4日)に、「ひなあらし」「おなぐさみ」などと呼ばれる行事が行われていたそうです。桐箱に小さなお重を収め、つまりご馳走を詰めたお弁当を持ち、桜を眺めに行ったそうです。この器を「なぐさみ箱」というようです。(資料6)遊山箱の傍には、説明文が置かれています。こんな便りが記されています。「四国、徳島県阿南(あなん)市新野(あらの)ではひなまつりは旧暦の四月三日。この日は皆がお重箱にごちそうをつめて、各家々のおひな様をみせてもらいに歩く。れんげ畑の中にすわって食べたり、桜の下で食べたり、春一番楽しい一日でした。 永田文見(ふみ)」(全文転記) 玄関に向かうときには、先の人の背を見ていてゆっくりと眺めていなかったのですが、玄関に向かって、前庭の右には主屋よりに庭園が造られていて、その前のスペースは椅子に腰掛けてくつろげるスペースになっています。青竹の垣を設えた前は見ていたのですが、玄関右側の腰板のところにも、かわいい人形が・・・・。出るときに気づきました。「また来てね!」と、見送ってくれました。つづく参照資料1) 雛人形の飾り方・並べ方 :「安藤人形店」2) 『有職故実』 石村貞吉 嵐 義人校訂 講談社学術文庫 p1723) 南阿田の流し雛 :「五條市」4) 用瀬流しびな行事 :「鳥取県」5) 「淡島信仰と流し雛 上 ~流し雛は雛人形の源流か~」 石沢誠司氏6) 嗚呼絶景四国哉-19. 道後平野を眼下に見下ろす、桜スポット:「四国大陸」補遺雛祭り起源考 :「ひな祭り文化普及協會」ひな祭りの歴史 :「もちがせ 流しびなの館」 「流しびなの館」公式ホームページ雛人形の飾り方 :「雛人形.jp」ひな飾りで真っ先に省略される、謎のおっさん3人組 :「NAVERまとめ」流し雛 :「コトバンク」雛流し 源龍寺 奈良県五條市南阿田 :「祭好人ホーム」雛人形御殿の修理 :「大手人形」 雛人形の御殿にもさまざまあることの一端がこのサイトでわかります。京のおひなまつり :「e-KYOTO」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -1 一文橋・中小路家住宅 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -3 長岡宮跡(朝堂院跡)ほか へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -4 大極殿跡・南真経寺・石塔寺・富永屋(雛人形展示)へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -5 須田家住宅・道標類 へ
2016.04.21
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向日市の西国街道沿いで「ひな人形展示」(2/27~3/3)が行われているということを新聞報道で知り、3月3日の最終日に訪れてみました。ひな人形巡りとともに、西国街道を少し歩いてみたかったのが探訪の動機でもありました。長岡京跡が近くにあるというのは、展示会場で案内図をいただいて知ったのです。当初はその位置関係が知識として結びついていませんでした。私にはラッキーな副次的探訪もできたという次第です。長岡宮跡も一度訪ねてみたかった場所でしたので・・・・。その時の記録整理を兼ねたご紹介です。冒頭の写真は、小畑川に架かる「一文橋」です。JR長岡京駅前からバスに乗り、「一文橋」のバス停で下車。一文橋を渡って、西国街道沿いに、向日市街の方向に進んでいくことになります。橋の北詰には、いくつかの案内碑が設置されています。そして、左の写真「一文橋の由来」碑もあります。「京と摂津西宮をむすぶ西国街道にかかるこの橋は、室町時代ごろに造られた有料の橋とも伝えられる。大雨のたびに流され、その架け替え費用のため通行人から一文を取り始めたのが橋名の由来といわれる」(碑文転記)「西国街道」碑も置かれています。一文橋の交差点からの府道67号線は一文橋の南では西国街道なのですが、交差点から向日市街に向かう所は、南東から北西方向に府道67号線が西国街道と交差して、一旦弧状にカーブしてから、再び西国街道に戻るという形になっています。そこで交差点の少し西方向に歩み、「西国街道」の道標を見て、街道沿いに歩きます。道路には、右の写真のタイル絵が埋め込まれています。(2016.4.23付記 国道171号線と書き込んでしまっていました。府道67号線でした。気づきましたので修正します。向日市街の「福祉会館前」交差点で、西国街道は北東方向に分岐します。府道67号線はそのまま北上し、物集街道と呼ばれている道になります。) 板塀や源氏塀を備えた町家が街道に面してあり、風情を感じる道筋になっています。玄関の両側に犬矢来が設えられ、二階部分に「虫籠窓(むしこまど)」がある町家もみられます。 最初に訪ねたのが「中小路家住宅」です。ここは有料(お茶付)でしたが、主屋の座敷に様々なひな人形が所狭しと展示されていました。国登録有形文化財になっている大形民家です。詳しくはここのホームページに掲載の「中小路家住宅とは」のページをこちらからご覧ください。このページには、「当家のある上植野町下川原の街道沿いは、”河原町(かわらまち)”と呼ばれる町内です」と記されています。手許の『京の古道を歩く』は関心のある章を必要に応じて参照する書です。探訪後に遅ればせながら「西国街道」の項を読むと、「西国街道の中で最もよく保存された下河原町の町並は、かつての街道はかくありなんと思えるほど往時にタイムスリップする。傍らに正徳五(1715)年の愛宕燈籠が立つ」(資料1)と記されています。事後的にこの項を読み、ナルホド!と思った次第です。 探訪の折り、入手したのがこの案内図です。右は部分図を切り出しました。番号28の場所がこの最初の探訪先です。 出格子窓のある長屋門を入ると、石畳の先、敷地中央北寄りに主屋があり、その玄関に向かいます。 玄関口には、青竹で垣が組まれていて、その先端にはかぐや姫の代わりにひな人形がずらりと並んで、出迎えてくれました。竹垣の足許にもユーモラスなひな人形が並べてあります。主屋の座敷が開放されて、ひな人形展示会場になっていました。様々なひな人形が座敷の各サイドに並べて飾ってあります。有職雛(ゆうそくびな)が3セット並べてあります。中央にある雛飾りの最下段に置かれている木札には「豊泉監修 有職 京都島津」と記されています。豊泉は有職の匠衆の一人です。何代目の豊泉なのかは不詳(未確認)です。現在は七代目として、豊泉の名が継承されているようです。有職雛は、「江戸時代中後期、仏門に入る幼い皇女などに、父母、つまり天皇ご夫妻が持たせてやられたものにはじまり、今でも門跡寺院に残っている」(資料2)のです。私が拝見した記憶では、京都市にある「宝鏡寺」が人形の寺として有名です。孝明天皇遺愛の人形をはじめ、由緒ある人形を数多く保有され、新旧人形を併せて春秋に人形展が行われてもいます。(資料3)町雛は町人たちが想像で豪華に作りあげた人形であるのに対し、有職雛は「公家の日常生活を表現し、特に女雛がふだん着の小袿(こうちぎ)姿であることにあらわれている。それも当時の正式のつくり、つまり有職故実に基づいて、有職の家柄である四条高倉家の人が関与していたと考えられ(高倉雛とも称される)、裂地(きれじ)をはじめ小物に至るまで、正確に写実されている」といいます。(資料2)有職雛はのちには御三家など大名家も公家にならって作るようになったそうです。 御殿飾り雛雛段に人形や諸道具を並べる形の雛飾りは江戸時代から始まったそうです。時折、縁の所で琴と笛での演奏が行われていました。その傍に床の間があります。そこにも、掛軸の前に一組の雛人形が飾られています。 江戸では「段飾り」、関西・上方では「御殿飾り」が優勢だったといいます。御殿というのは内裏雛を飾る館のことです。御殿は御所の紫宸殿になぞらえる形で、京阪を中心にこの様式が登場するのは江戸時代末期だそうです。(資料4)こちらは俗に「新婚雛」と言われる一組のひな人形で、少年と少女の姿です。この有職雛は、京都市の人形作家・長浜武子氏が江戸時代の有職雛を復元製作されたもの。(説明表示より)もと吉川観方コレクションだったものだそうですが、傷みがひどく廃棄されようとしていたものを人形作家・長浜武子氏が貰い受け、解体復元されたことで甦った雛人形だとか。「小袿も裂地も原品通り、紋紙からおこして特製されている。室町の誉勘商店松井隆治氏の御力添えによる」といいます。(資料1)二階部分にも、一組の人形が飾られています。つづく参照資料1) 『京の古道を歩く』 増田 潔著 光村推古書院 p2752) 有職雛 会場に掲示の説明パネル 新免安喜子氏解説文3) 「宝鏡寺門跡 旧百々御所」ホームページ4) 御殿飾り雛 :「日本玩具博物館」補遺おひな様の話 :「京都国立博物館」日本玩具博物館 ホームページ中小路家住宅 ホームページ有職の匠 :「島津」宝鏡寺 :ウィキペディア有職人形 :「実用日本語表現辞典」虫籠窓(むしこまど) :「町家まめ知識」虫籠窓(むしこまど) :「富田林・寺内町の探訪」愛宕燈籠 :「shizuhara.net 静原を楽しむ会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -2 中小路家住宅の雛人形点描 へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -3 長岡宮跡(朝堂院跡)ほか へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -4 大極殿跡・南真経寺・石塔寺・富永屋(雛人形展示)へ観照&探訪 向日市・西国街道(雛人形巡り)と長岡宮跡 -5 須田家住宅・道標類 へ
2016.04.21
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前回ご紹介した「神饌所」の南側に、神苑への門があります。冒頭の写真が門を入くぐった途中で見上げた写真です。四脚門です。本柱の頭貫にある蟇股には、楼門脇築地塀の鬼板に陽刻された九条藤紋とは異なり、一条藤紋と思える紋が陽刻されています(右の写真)門を入ると、門内の左右に紅梅・白梅が咲いていて、眼前には「咲耶池」がひろがっています。池端は緩やかに大きな弧を描きます。ここは東神苑と称されています。池泉回遊式の庭園です。この池は桂川の溢水によってできたものと伝わるそうです。(資料1)咲耶池の南辺から反時計回りに神苑を散策してみることにしました。この咲耶池の周りには、かきつばた、花菖蒲、霧島つつじが植えられているようですので、これからの季節は美しい眺めとなることでしょう。(資料2、以下適宜参照) 上段の写真は、池の南端側から西側にある神苑入口の門、その北の神饌所を眺めた景色です。この池端の杜若(かきつばた)が5月下旬には紫色の濃淡で咲き競うことでしょう。下段の写真は池中の島に建つ茅葺の建物・茶席「池中亭」です。「芦のまろ屋」とも称されるとか。嘉永4年(1851)に建立されています。神苑の門を入り、池端を左折して少し歩むと、島に架かる橋の袂に右の写真の歌碑が建てられています。橋を渡ると「池中亭」です。橋を渡ったところまでは近づけます。 夕されば門田(かどた)の稲葉おとづれて蘆(あし)のまろやに秋風ぞ吹く 大納言経信「夕方になると門前の田の稲葉を、そよそよと音をたてて、この蘆葺きの田舎家に、秋風が寂しく吹きおとずれてくるくることだ」(資料3)という意味合いの歌です。源経信が歌人である源師賢(もろかた)朝臣が京都の西郊梅津に所有した山荘に出かけた折りに、「田家秋風といへることをよめる」として、詠んだ歌です。『百人一首』の71番目に収録されています。田家⇒蘆のまろや⇒池中亭、というふうに古き時代の梅津の里の景色が重なっていきます。「芦のまろ屋」のあだなはこんな連想から生まれたのでしょう。池の中にはいくつかの島があり、それぞれが橋で繋がれています。訪れた時季は、池端の所々に梅の木があり、満開の花、開き始めたもの、かたい蕾など、様々な風情が楽しめました。東寄りの南辺には池中の島に、石板の八橋が架けられています。この場所に「かきつばた」が咲けば、自ずと次の歌が連想されるかもしれません。 から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふそう『伊勢物語』第9段です。それは三河国、八橋(やつはし)のこと。「そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける」(資料4)です。勿論この場合はわびしい場所に心細げな木橋が蜘蛛の手のように分かれた河の流れの上に飛び飛びに架けられていたのかもしれませんが・・・・。(資料5)上段の写真は咲耶池の東側から見た神苑の門方向の景色。池中央に石造八橋が見えます。下段の写真は池の東辺を回り込んで行くと、池中の一つの島に架けられた橋です。この橋を渡って、巡ります。島中から石造八橋と池の眺め。南西方向の景色です。北方向にある「参集殿」の眺めです。参集殿は昭和9年(1934)の建立だとか。島中からもう一つ島への石橋を渡ります。小島からの風情です。そして、再び島伝いの石橋を進みます。鯉が泳いでいます。参集殿の傍を回り込みます。椿の花も咲いていました。椿は神苑全体に亘って植えられていて、約50種類あるといいます。池辺沿いに北側から西側に進むと、池中亭の建つ島の景色を眺めながら歩むことになります。歩むにつれて、池中亭の景色も移ろっていきます。 通路の西側は神饌所の生垣と門が神苑の西境界となっています。池中亭の傍の池でみた鳥と鯉この写真の橋の袂に、上掲の歌碑が建てられています。八橋の側面をズームアップした景色です。これで、池を回遊してきたことになります。池の西辺を北に戻り、北神苑の方に進みます。勾玉池の周りには、花菖蒲、八重桜、平戸つつじ、あじさいが植えられているようです。そこから、西神苑を巡ります。西神苑は社殿の背後・北側に広がる梅林地帯です。35種類、550本の梅の木が植えられているそうです。梅の花は梅宮大社の神花です。冬至梅、寒紅梅、丹紅、道知辺、山桜、金枝梅、想いのまま、呉服枝重、白牡丹、盤上の梅などなど・・・・極早咲きの品種から遅咲きの品種まで様々に。樹齢100年以上の老木というものもあります。また、桜は20種類130本、紫陽花は60種類500本ほどあるといいます。(資料6)神苑の通路沿いには、ラッパ水仙が植えられているそうです。江戸時代の中頃、本居宣長はこの梅宮に梅の木を献木したそうです。 梅宮に梅の木を植うとてよみて添へて奉れる よそ目にもその神垣と見ゆるまで植えばや梅を千本(ちもと)八千本(やちもと) 自撰集梅宮大社の梅に因んで、次の歌も詠まれているようです。(資料1) 名も著(しる)く先ずこそ香れ春されば咲くや梅津の神の御社(みやしろ) 加藤千蔭 うけらが花、巻一、春歌 ふりにける梅の宮居の橘の遠き匂ひをなお残すらん 宗良(むねなが)親王 宗良親王千首、雑俳句にも次の句が詠まれています。 神の池うすにごりして花菖蒲 清次 麦秋や穂波に沈む梅の宮 江亭 咲くやこの神も名におふ梅の宮 (資料7)梅林の西神苑を巡ると、社殿の西側から境内に出ることになります。そこは社務所の北側でもあります。これで梅の咲いた時季の神苑巡りご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p348-3492) 神苑ガイド :「梅宮大社」3) 『百人一首』 全訳注 有吉 保著 講談社学術文庫 p296-2994) 『伊勢物語』 大津有一校注 岩波文庫 p145) 第9段 :「伊勢物語(現代語訳)のホーム」6) 梅宮大社 :「京都通(京都観光・京都検定・京都の神社)百科事典」7) 今日の一句 :「京都府」補遺梅宮大社 トップページ梅宮大社 :ウィキペディア梅宮大社 :「京都府観光ガイド」梅宮大社へのアクセス。京都駅からの行き方。 京都旅行のオススメ:「Hatena Blog」梅宮大社前 バス時刻表 :「NAVITIME」梅宮大社前(京都市バス):「ekitan」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 京都・梅津 梅宮大社 -1 楼門・手水舎・拝殿・社殿・境内社ほか へ<< 付記 >> 「遊心六中記」を書き綴ってきたサイトでの記事保存容量の限界が来てしまいました。そこで、こちらに転居(?)して、「遊心六中記 その2」を続けさせていただくことにしました。探訪記、印象記の覚書ですが、探訪先などのご紹介になれば幸いです。2017.2.9 追記 「遊心六中記」を掲載していたeoブログが2017年3月末で閉鎖となります。そこでこの「楽天ブログ」に、「遊心六中記」で掲載した探訪記を、2016年11月から随時一部加筆修正して、再録し始めました。主なものを再録しておきたい所存です。お立ち寄りいただきありがとうございます。
2016.04.17
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