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にほんブログ村 「末法・末世・終末」の危機世界 世界が此れ程、気違いじみてイカレタ世界になるとは、誰もが予想が出来なかった。但し、此のイカレタ世界に君は居る。正気を保って頑張るしかない。君は運が好い頑張り屋さんだろ?。瓦礫の世界にきみは友を見つける、絶望でなく、明日の希望を誓い合う。この傷だらけの世界で悲嘆にくれるだけで泣いていてもはじまらない。世間は冷酷な面もあるけれど、君は友を見つけた。この希望と幻滅の真っただ中で友と共に逆風なんか吹き飛ばせ、君らは雄々の未来ある若者だから。以上ケンシロウの真実の言葉。東北大震災にめげず明日に向かって頑張って下さい。頑張る君へ気丈な貴女に心から祈ります。
2011年12月31日
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にほんブログ村 「悉達多とイエス」の相互の共通意識 イエスは出生の事情から悩み、或る時期岩窟に籠って教義を研究する集団に属していました。その時に天啓を感じ、この世界の理法を読み解き、自己の生の在り方とその後の行動の姿を読み取ったに違いありません。一方の悉達多は、釈迦国の第一皇子として夕食は饗宴に続く饗宴、釈迦自身その楽しさを告白致して居ります。が、翌朝の虚しさは、比肩するものない程空しかったと云います。また、奴隷の息子が食べ物を盗んだとして、その母が油煙に投げ込まれるのを見、人の身分から来るこの様な苦に悩み耐え切れず、世界の理法に答えを求めます。共に世界の理法たる父、或いは理法たる空を共通の基盤としています。我々が理法に「こころ」を委ねれば、神仏がその存在を受け入れ、安寧寂滅の涅槃・神の御心に抱かれることが可能となります。
2011年12月30日
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にほんブログ村 「鬼子母神と聖母マリア」 鬼子母神は、始めはインドでは夜叉神の娘で訶梨帝母(ハーリティー)と呼ばれていました。嫁して多く千人の子供を産み ましたが、その性質はこの上なく暴虐で、近隣の幼児をとって食べ、民衆からは大変恐れ憎み仏陀に救いを求め、それ故釈尊は、その末子を隠してしまうことに なります。訶梨帝母の嘆き悲しむ様は尋常でなく釈尊に哀れみを請うと、釈尊は「千人の中の一子を失うもかくの如し。況や、人の一子を食らうとき、その父母 の嘆きや如何」と戒めました。そこで夜叉神の娘は初めて自己の過ちを悟り、釈迦に帰依し、その後は仏法の守護神として安産・子育の神となることを誓い、 人々に尊崇されるに到ります。 ハーリティーは初期の仏教説話に登場するとともに、ガンダーラ美術に多くの像が見受けられます。恐らくは中央アジ アにあって聖母マリア信仰と習合し、慈母観音・鬼子母神として求児・男女の産み分け・安産・育児の祈願をかなえる仏様として崇められています。拝観で十字 をきっても咎められない筈です。
2011年12月29日
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「正しい教えの白蓮教」の出自1 正しい教えの白蓮教「法華経」の出自に関しては、未だ謎が多い。原始仏教にあっては、釈迦牟尼仏を仏陀であることを承認せず、山の崖から下を通る釈尊を殺害せしめんと岩を突き落とし、足指を骨折させた人物、異端者・反逆者として知られる「提婆達多(デーバダッタ)」を、何故、経文に仏弟子第一として提婆品にまで編入したのか。南無妙教えの白蓮教「法華経」がネパール・ベンガル地方に残っていたことが証明されている提婆達多派の影響を受けていたことは、疑いを挿めないでしょう。加えて法身仏として(仏性発展能力に応じて現れる応神仏・精進果報で仏国土を主宰する報身仏・遂には現宇宙内には存在せず外宇宙に存在する法身仏、=絶対存在である神までを認めます。)の釈迦牟尼仏説を展開したのが、「法華経」です。それ故、仏陀は此の宇宙の制限を受けないため「空論・縁起」を超えた神存在として定義される事となります。
2011年12月28日
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にほんブログ村「聖徳太子」伝説1 イエスは厩の前で生まれたました。母マリアは救世神が胎内に入り給うたために、イエスを身籠もりました。これは太子出生伝説に関して、記紀に書かれている話をイエスに置き換えたものです。編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用されたとの可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいます。また、次の様なことが、日本書紀に次のようなものがあります。聖徳太子が皇太子時代に飢えた人が道に臥していたが、話しかけても何も答えない。太子は自分の着ていた衣服を脱いで覆ってやり飲み物と食物を与え、翌日使者にその人を見に行かせたところ既に亡くなっているとの報告、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓(岩穴)を固く封じました。三日後墓を見に行かせたところ衣のみが残されていました。真に、神人は神人を知るというお話です。それ故、太子が真には、死んでないという太子信仰がうまれる事と成ります。また、豊聡耳命は釈迦像を暗示しています。 此処までくれば、太子が復活したイエスそのものだったとしても、驚くほどの事でもありません。義経・成吉思汗説の様に、同時代の問題を気遣うことも必要ではなく、復活したイエスが渡来して太子に成ったとしても、さほど不思議ではありません。聖徳太子でっち上げ伝説が話題になるのも、これ等を根拠にしての事でしょう。私は聖徳太子実在説を希望をもって信じております。一万円札の威力のように。
2011年12月28日
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「空間の拡がり」と「時間の流れ」 我々の脳は右脳と左脳に分かれ、判断は左脳が受け持ち、それに対して右脳は美的感覚や芸術などに関係するともいわれます。男性が左脳・女性が右脳で考えると言われる所以です。「空間の拡がり」と「時間の流れ」といった人間が実在していることを当たり前の様に考えている事が、ハーバード大学の精神科のジル・テイラー女史によれば、実は「空間の拡がり」と「時間の流れ」は人間の左脳の創造・想像の概念に過ぎず、宇宙に元から備わっているものではなく、単なる人間の仮想に過ぎないと言い切っています。宇宙には今、此の瞬間しか存在せず過去や未来の時系列も無意味だと云う事です。類推するに我々は「神」の思考の産物であり、神と伴に歩んでいることを示しています。
2011年12月27日
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「初期原始仏教」の教え 初期原始仏教の急速な普及は、インドを統一したマウリヤ朝のアショーカ王が仏教を保護した(前3世紀)ことと関係がある。仏教は大乗仏教(法華経等々)が現れる迄は、バラモン教のような多神教でなく、かと言って、ユダヤ教やキリスト教のような一神教でもない。誕生した初期の仏教は、、種々の煩悩を修行により寂滅させ、輪廻からの苦しみから解脱して世に在るまま覚りを得、正覚者(仏陀)となり、苦・楽を離れる。言い換えれば、絶対存在を信じる従来の宗教ではなく、無神論型思想・哲学でした。 また、当時の仏教教団は比丘・比丘尼の俗世間の生活と絶縁させるため、戒律をもって総べての経済行為やそれに従事することを厳禁していました。それ故、修行を続けるには食べ物を乞い(比丘・比丘尼の名称は食べ物を乞う者を意味します。)、医薬・衣料のような生活必需品も喜捨に頼るしかなかった。釈尊が富豪の子息を出家させていたのはこの事情によります。 今どきの観光地の寺は、広大な敷地に30分払いの駐車場、山門を通るのには消費税まがいの入場料、境内には庶民感覚を超えた立派な葬儀場、仏様を拝観したければ拝観料、事あるごとに文化財保護を持ち出します。葬式坊主と言われれば、それも結構、仏教が死者を最も尊ぶからとわるびれない。キリスト・イスラム経は死者を軽んじてるとも言いたいのでしょうか。私が今お会いしたいのは空也上人です。
2011年12月26日
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「人間の死後」を考察 Big Bangなるものから始まったとされる大宇宙は、真に実在的な連続体の可能性の集まりであり、個々の小宇宙は、全体としてはひとつの宇宙を形成しますが、絶対的可能性のなかでは、地表に降る雪の一片にすぎません。可能性宇宙は現実存在の小宇宙を幾つでも包含する余地がまだまだ残されているようにも思われます。これらの配置が「創造の六日目」の最後に一括して創出されたにしても、或いはいまだに創造が進行していても、或る種の意思の存在を考えねばいけないでしょう。我々が死んだときには、果てしない宇宙に放り出されるか、馬蹄型宇宙や量子論の紐型宇宙であれば、より高度な次元世界へ連れ出されるのでしょうか。此の確認は神仏でない人間には、その時を待って確認するしかありません。
2011年12月26日
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「死生観」に見る人の行動 凡そ、一般の人々は快楽に耽る限り自分は自由であると思い、自然の理法に従っていきることを自由権利を放棄するものとして負担に感じ、死後は自己の道義・宗教への貢献・奉仕に報酬を受けることを期待しています。一方、死後に責苦でもって罰せられるという恐れから道義・宗教への貢献・奉仕を強制されている方も見受けられます。仮に、この恐怖と希望が無かったら、自己の精神が身体が滅すると同時に消滅することを表象し、信仰や道義心のために仆れた人を見て死後(身体消滅後の未来)が存しないならば総べてを官能の赴くまま行動することを欲しようとします。愚者は身体が滅すると同時に精神も存在することも止め、賢者は精神存在の不滅を自己および神の観念(直覚知)をもって、真の満足した精神生活を送り「永遠の命」を享有します。此処で「愚者」と言った事にお気付き下さい。私は、「悪者」とは言っておりません。親鸞の云うが如く、「善人救われるのに何ぞ悪者が救われん」即ち「悪者」を自覚して愛を捧げ、またそれを受け入れるならば、絶対的な理法はそれを受け止めます。
2011年12月25日
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「世界三大宗教」プラスα北斗の教え 現時の世界は、宗教観の違いから政治・軍事を絡めて互いに相手方を滅さんとしています。その何れもが「神・仏への愛」を至宝として自己の宗教観の基底に置いています。その神・仏の存在規定の違いから其々内部分派を繰り返し、問題を複雑化して解決を難しくしています。此処に、坂本竜馬が信仰した妙見信仰(The Belief in Myoken)北斗の名を冠した物語「北斗の拳」の出番があります。主人公KENSHIROは優し過ぎる性格と類稀なる献身と勇気、自己の犠牲さえ気には止めません。只ひたすら世紀末に、大なる「人間への愛」をもって、か弱き善人である民衆を助け救います。完全に弥勒菩薩の娑婆世界への出現です。今現在求められるのはケンシロウ(弥勒)の慈愛の精神でしょう。
2011年12月23日
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「India of caphiro World」INDIA史(1) 史以前、インド大陸は元々はアフリカ大陸と同一大陸であったがプレートの力により引き剥がされ、一部マダガスカル島を残して海洋を北東に向かって移動、当時のユーラシア大陸に衝突、そのエネルギーで激突部分の海底が盛り上がり世界の屋根とも言われるヒマラヤ山脈を形成、それ故ヒマラヤ登頂は、昔の珊瑚探しをするスクーバたいなものです。また、アフリカとインドの動物形態の相似性も大陸分裂が原因していそうです。しかしながら、大陸どうしが衝突するエネルギーとその振動は想像出来得ないし、考えたくもありません。ところで、インドが多様な民族と宗教をもった国だから此処に記すのですが、現時の世界は、イスラム原理主義者のその破壊行為を非難しています。そもそも、本来的な原理主義者というものは開祖自身の教えに忠実な者を指しています。イスラム・キリスト・原始仏教の何れの開祖も反対者を滅却せよなどとは教唆されておりません。総べて人として「善」を求めてい生きていくことを要求してることには変わりはありません。
2011年12月22日
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「永遠で有る様な精神」神の子とも云える存在 自己の出自がどうであれ、極めて多くのことを成すことが出来る精神と理性(徳)を持ち得る人は、自己の精神を直覚知において自然と自分を秩序付け、統一する力があります。即ち、自己の観念を自然の観念に合一する、「永遠の命」父なる神の子とも云える存在です。それ故、彼の愛には父たる神への永遠の愛が存在します。したがって、自己の永遠性を確信し死を恐れない者となります。彼は人間精神が身体が滅びるとともに無くなる部分などは、残存する部分と比して取るに足らないことを認識しています。
2011年12月21日
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「神」と「仏」の現在性 凡そ人間は、神や仏に何らかの姿(身相)を観想する傾向があります。しかし、身体が断滅した者に身相など在り得ようがない。仮に姿が現れたのを見たという人があれば、それは、只その様に観えただけにすぎません。即ち神や如来には相(姿・像)はなく実相するのは不可視だということです。本体そのものが相としては無いのですから致し方ありません。だからといって、この世界にあって神や如来そのものの存在を否定出来るものではありません。「釈迦」は亡身しては如来の法身「縁起の理法」また此の宇宙の理法(統一力)となり、神はといえば、転生を繰り返す大宇宙の統一力としての無限の絶対的意思をもって、自己を愛するが故に人間を愛しておられます。我々は、神仏を客体化して見るのではなく、これを主体的に理解することに努めなければなりません。以上、とは言いながら、一人を除いて話したことは御座いませんが、自分は過去の或る時期「観世音菩薩」をその正式名も知らず、神仏クソッタレ時代に「実相・実視・実聴」「幻覚・幻視・幻聴」を体験させられました。此の話は「観世音菩薩を実相する」で後日書き記す心算ですが、我ながら理論と体験の矛盾していることには驚いています。お許しの程を。
2011年12月21日
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「釈尊」の神に対する認識を考察 此処で「釈尊」の覚りを得た生前成仏を考察致しましょう。釈尊は世間(自然界)は無常であり、恒常はなく総べてのものが「縁起して,諸法実相はなく、空である。」と実相しています。また、ヒンズーの神々を肯定し、しかし、ヒンズーの神々(ブラフマー:宇宙の創造を司る神・ヴィシュヌ:宇宙の維持を司る神・シヴァ:宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神)も人間同様有限な存在であり煩悩があるとしています。でなけりゃ釈迦を寺院に安置するに守護神(四天王等々)を伴って居るのが笑止となります。西遊記に記されるが如く釈尊は、須弥山に在っては此れ等神々と菩薩を導いているとされて居ります。ですが、仏は無常を説く以上、常恒・常有の絶対存在の神は認めて居りません。
2011年12月20日
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「India of caphiro World」概要 インドは南アジア随一の面積(一般にインド大陸)世界第2位の人口10億人を超える国民をかかえるHINDIの多民属国家です。近年はITを中心とした情報産業の活発化で経済発展が目覚ましく、低所得者層の生活も改善されてきています。近代以前の中国や日本は天竺と呼称しておりました。ナーガールジュナ(龍樹菩薩)や禅宗の開祖・少林寺の達磨大師等々、秀でた哲学者が多く西洋・アジアを含め研究者も多く聖賢の国とも呼ばれています。その発生は紀元前2600年頃から前1800年頃までの間にインダス川流域にインダス文明です。当時の都市、一部の方々にあっては核戦争で滅びたとされるモヘンジョ=ダロは各家庭に水を引き風呂や飲食水として使用し、トイレットは下水道に流すようになっていたことは、遺跡発掘で証明されております。戦後何十年も汲み上げトイレであった我々日本人は恥じ入ります。
2011年12月19日
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「大乗仏教」中観派の説く縁起(3)「空」の概念 一部で中観派の説く「空」を無と断じて、虚無主義と決めつける方を見かけますが、「大乗仏教」中観派の説く「空」は中道と同義であり、「空」を「有」の対立概念ではなく、「不空」所謂、小乗仏教の法有説「法としてのありかたが自生して有ると云う」実有に対立したものであり、「有と無」ではなく「実有と空」の対立なので虚無に陥らないし、有と無を超越した中道であるのに対して、法有説は有と無に捉われて中道を失ったものだとして厳しく批判しています。
2011年12月19日
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「死」を実相・「人間精神」と「身体的存在」 死は受胎と共にシャム双生児の如く、貴方・貴女に共生する「あなた」の存在そのものです。人間精神の実在的現在およびその能力は、身体の存在認識を失うやいなや消滅する事となります。仏教で云う処の成仏或いは涅槃です(死)。然るに、精神が身体存在の認識を失うことは精神自身が原因でなく、身体が存在することを止める事にも起因しません。何故なら、精神が身体存在を肯定するのは、身体が存在を始めたことが起生原因ではないからです。言い換えれば、精神が身体存在の肯定をやめる原因もまた身体存在の現在には係わりがありません。例えば、記憶喪失が自己を失った時点や多重人格者が本来の自分でなくなった時は「死」とも言えましょう。我々の精神存在は、我執を離れ精神を解放すれば絶対精神と無限の観念に合一します。
2011年12月18日
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「India of caphiro World」序文 インドと云えばあなた何をイメージされますか。戦前の御方であれば恐らく文盲90%、英国植民地であった彼の国を我々が解放したと自負される御方も有るやもしれません。恐らくは21世紀後半にはその様な偏見は、Indiaが世界の経済の中心・軍事大国として超国家を実現したときには、吹き飛ばされることとなりましょう。その時は、単に軍事力を背景にではなく、世界に範を垂れる教義国として世界国家を目指す存在であることを現在します。何故に、この様なことを申し上げたかと云いますと、Indiaの民族の秀逸さは、インド史並びに輩出した人材が証明して居ります。此処に書き記すことはHINDI 民族の類稀なる秀逸さとその記録です。
2011年12月18日
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「大乗仏教」中観派の説く縁起(2)[副題]空を考察 中論後代の中観学者月照(チャンドラキールティー、紀元600-650頃)の注釈「ブラサンナバター」が、無我について驚くべきことを記しております。「内面であれ・外面的であれ、此れは我がもの(身体・精神等)とか此れは我(自我)であるとかの観念が滅びた時に、執着を離れて「生」が滅びてニルバーナに入る。」此の文言を読み解くと、「空・諸法実相・無我」とは生命を離れた「死」にしか「空観」を覚れないことになります。釈尊の生前成仏を信じる者としては聞き逃せない発言です。また、縁起である「空」を何か原理とか実体があるものとして考えることは許されない。天台宗では、「空」は存在・非存在を超えた「空」をも空ずる非空であると存在を二重否定します。結論は空なるものを観想することは許されないし、仮名にすぎず「サトリ・成仏」以外に真を捉えられないと言ってる様に聞こえます。
2011年12月17日
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「神」への認識と「人間の幸福」我々人間が、より多く神を認識するにつれて、人が神の命令で行動し、その絶対的本性をも分有していることが確信にまで高められます。此の事より、我々の最高の幸福(至福)は神を認識する事に依って、愛と道義・理性のみの行動に導かれます。即ち、精神の真の自由から出た神への奉仕こそが徳そのものであり、真の幸福と喜びを人間にもたらすといえます。 此れに対して、徳と善行を非常に困難なものとして捉え、人間精神の無能力を雄弁かつ先鋭に非難し、その困難な奉仕をすれば、神から最高の報酬を得られるとした御仁が神の代弁者として尊敬を得るのをみていますと、彼は最も「至福」に遠ざかった生活法を強制しているようにとれます。
2011年12月16日
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「人間精神」と「神」其々の観念の対象 人間が精神を構成する限りに在っては、その観念(精神認識の対象)は現実に存在する身体であろう。身体以外にはあらゆる観念・概念など持ちようがない。人が持ち得たとしたら、只、例外的に「釈迦牟尼仏(ニルバーナ)」の名を掲げる方も居られると思われますが、私は此処に宗教を語るつもりが無いので、人間精神を構成する観念の対象は身体以外には存在しないし他の何ものでもないとします。 一方、本性上、全てのものの本質の究極の規制原因たる「神」の観念の対象は「神自身・無限の自然存在」そのものであり形などの個物の形態を採るなどは考えられません。 我々が、精神統一体として究極の規制原因を「神」に求めるのは、神の延長様態たる人間観念が神に存することからきています。
2011年12月16日
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「釈尊」の覚りを考察 禅を組む御方にその目的はと聞くと「無念無想、無我の境地に入らんとして禅を組むのです。」といった答えが返ってきます。我執を離れ無我になる処に覚りがあるとも言われます。釈尊が真実無我の境に入って正覚者と成り得たのでしょうか。佛はその様なことは説いていません。有と無・常と断・我執等の極端を離れた「中道」に覚り「諸法実相・如来・空」を観ると云われます。自然(宇宙)と我の直覚の中に統一力(縁起)を観想されたのだとも言えましょう。
2011年12月15日
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「宇宙の出来た原因」の考察 この宇宙のあらゆる物質に質量を与えているとされる「ヒッグス粒子」。「神の粒子」とも呼ばれ、研究者によってその存在が予言されていながら見つかっていなかったこの素粒子を発見。とNHKの女子アナがニュースで言い、これで宇宙の出来た原因も100パーセント解明さのれるでしょう。と付言されて居りましたのには驚愕致しました。其のあと、137億年前に起きたといわれる宇宙誕生の大爆発、ビッグバン直後に生まれた「ヒッグス粒子」ですが、この世のあらゆる物質に「質量」を与えることに関係してこの「ヒッグス場」を電子などの物質が通過しようとすると、その物質にヒッグスがまとわりついて、動きづらくなります。この動きづらさが、すなわち物の「質量」になると考えたのです。此れでビッグバンを解明出来たと言いたかったのでしょうか。 そもそも、Big Bangなるものの「核となる」本体の存在の解明は未だ不透明です。振動宇宙論に従えば、宇宙は膨張と収縮を繰り返しその終わりと始まりがBig Bangであるとしています。仏教で云うところの輪廻転生です。また、物理学では、運動と静止なるものを定義して居ますが、宇宙に中心でもあれば納得できますが、中心が無いとした宇宙内存在が完全静止状態になるなど考え及びません。母体である宇宙自体が静止することなど在り得ない筈ですから。
2011年12月14日
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「American Indianの聖なる宗教観」 アメリカン・インディアンの宗教観は、宇宙の絶対存在としての聖なる自然とその精霊です。それ故、被造物たる生物の魂の価値は神(宇宙)のまえでは平等であり、熊は熊の人・鹿は鹿の人と認識し、山・川も当然の如く聖なっるものと受け取って居りました。白人が入植してきたときも、映画とは違い、暖かく向かい入れたのはこの宗教感あってこそです。白人入植者は基督教を当然の様に押し付けますが、彼らは受け入れます。キリストが神(宇宙・自然)の子と云うのですから素直に受け入れました。アメリカ・インディアンは神の名で行動する者が、悪い行いすると云うことには考え及びませんでした。
2011年12月14日
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「新旧聖書と基督教」の信と偽り(2) 私は、イエス・キリストを疑えざる神の受容者(神の子)と認識して居ります。しかし、聖書に書かれたナザレのイエスの誕生説には、数々の疑問が湧きます。「(1)イエスの父ヨセフが何故に「養父」と呼ばれるのか?。(2)馬小屋で藁に包まれて誕生したのは何故か?。(3)ナザレの人々が幼きイエスを「神の子」と何故に呼んでいたのか?。(4)十字架に架けられたイエスを観て何故に使徒である弟子達が「真に神の子であった」と聖書にまで書き記したのか?。(5)イエスは何故に母マリアには我々よりも冷たくあしらったのか。(6)香油で足を拭く売春婦に何故にイエスが祝福を与えたのか。(6)最後に、処女受胎と呼ばれる真実。」此れらに矛盾しない答えはただ一つしか在り得ません。当時のユダヤの言語慣習を紐解けば、答えは自ずから出て来ますが、話を此処で打ち切ります。いとも気高き蓮華教の如く、神の子イエス自身でなく聖書(教本自体)を御信じになられる方を慮ってのことですので悪しからず。
2011年12月13日
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「大乗仏教」中観派の説く縁起(1) 大乗仏教(中論)空観派は、有部・経部が唱える縁起の「其れが生起すれば、此れが生起する」とする、所謂、時間経過を伴った十二因縁説を「縁起」とは捉えず、法有を説くものとして完全否定しております。「此れが在れば、依存して(依存・縁起・空性)あれが在り、此れが無ければ、あれも無い。」を、その存在自体がそもそも自性するものではなく「在るも空、無きも空」と斥けます。大乗の概念、長が在るから短あり、善があるから悪ありを考察してみますと、例えば3cmの紐は1cmの紐よりは長く、6cmの紐よりは短く「長であり短であるもの」です。数の三は一より大きく六より小さく「長・短併せ持つ」存在です。「善の中にも悪あり、悪のなかにも善あり」は、善の中でもより善をもとめるものは排斥され、悪でも掟を守る者は人間の信から観れば善です。ここに方法論を採る中観派の矛盾が見えてきそうです。
2011年12月11日
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「新旧聖書と基督教」の信と偽り(1) 私は、イエス・キリストを疑えざる神の受容者(神の子)と認識して居ります。但し、旧教・信教を問わず人類が神と契約を交わした事には絶対的否定を言明します。ユダヤの民はベニスの商人の例を出す迄もなく、古代より商業民族として知られ、当然の如く、契約を守ることの重要性を強調し、民族のモラルとして居ました。聖書には何度も天啓として神の戒めを「神と人との契約」として守ることを誓わせて居ます。此れは、少なくとも神の絶対存在と無限の精神とその統一力を信じる者にとっては、頑是られません。
2011年12月11日
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「釈尊」の説く「中道・縁起・空観」縁起編(1) 釈尊は、其れが与えられれば、或るものが生起し、其れが無くなれば、その或るものが必然的に滅する様なもの。或いは、その逆に其の或るものが無ければ、其れが生起することも、在ることも考えられない様な関係、そうしたものが互いに依存して成立しているとして、縁起説を唱えました。故に、其々にあっては、本質等は「執」に捉われた仮象に過ぎず、我執を離れ煩悩を脱することが如来(空)を観る道だと教えています。善は悪が在るから成り立つし、清浄は不浄があるから生起する。この縁起を離れたところに「空」があると云うことです。
2011年12月10日
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「中論」ナーガールジュナの「中観帰謬論法」を考察 人類の思想・哲学・宗教に於ける巨峰、大乗八宗の祖ナーガールジュナ(龍樹)は「中論」の論法として、自らは主張・理由・実例、所謂命題は主張せず、異論の排斥のみを用いて、自己の論理の正当性を主張する帰謬論法(プラサンガ)を中心に、論敵の矛盾点を暴露して他派を攻撃排斥します。が、自らは証明すべき思想的背景を弁じません。それ故、自己の立場を論駁されることはないと自負する破邪の論法を基本としています。しかし、基底に在るのは釈尊の教理「空と中道」を中心に置いて、「涅槃・如来・解脱」を説いています。帰謬論法を用いて論敵を攻撃して、討論等に於いて縦横自在に活躍されている御仁を見ますと感心させられることしきりです。
2011年12月09日
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「神」の愛(アガペー)の抱擁 幸せのテーブル」『大晦日10時過ぎの予約席』の1989年に日本中で話題になった作品「一杯のかけ蕎麦」は、我々を涙まみれにしてくれました。3人の子連れの母親が子供達とたった一杯のかけ蕎麦を大晦日に分け合って食べる話です。その子が母親に向かって言う「おいしいね。」の一言は、今も忘れられません。子供達は蕎麦を食べるのに加えて、以上に「母の愛」を食べて満腹を覚えたのです。また、2006年3月、台湾にも似た実話があります。母親がガンで入院しているために看病をしていた5人の子供が食事をろくに食べず、見かねた病院の看護婦がその家族にワンタン麺を与えた所、5人のうち3人の子供達は麺だけを食べ、母親に元気になってほしいとワンタンを母親の為に残しました。 近頃、自慢げに自分の独り暮らしの親を高額有名老人センターに入れて、その設備の良さ・介護の行き届きを言い、「会いに行ったら、本当に、幸せそうだった。」等と云う御仁は、此の両編をお読み頂きたい。この子達は生涯、母をセンターに入れて自慢する輩には決してならないでしょう。家族と離れてセンターに行く親の気持ちが少しでも解かるなら、今からでも遅くはない。神への懺悔と親に許しを求めましょう。洗礼を受けていることは何の免罪符にもなりません。人間愛も理解出来ない御仁を「神の愛」が受け入れないことを肝に銘じて下さい。
2011年12月09日
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「神」の定義(8)大乗有部の「三世実有法体恒有」を紐解く 大乗有部の「識身足論」に、自然存在は一瞬々に過去の世界に消滅・滅却されてしまうが、人間の精神に於ける在り方だけは、決して無くならない。純粋の「法体」としての在り方は、先無後有・先有後無を問わず無に帰すことは在り得ない。成る程、自然存在は過去・未来には存在しないが「法体」は三世に実有する。と説かれて居ます。それは過去・現在・未来(時間)を超越した「実体」(法・体・空・如来・絶対的存在)即ち、「神」を指して居る様にも取れます。
2011年12月08日
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「SCUBA1」 その昔、ダイバーと云えばスカイダイバーを指し、潜水の方は、アクアラング(潜水用具)と呼ばれていた時代、既に就職していた私をSCUBAの道へ向かわせたのは、二つの腕時計です。それはΩのシーマスターとロレックス サブマリーナデイトでした。特にサブマリーナデイトは、私の給与の何年分だったので驚かされましたが、その姿の美しさに憧れ、時計欲しさで或る人に金になると唆されてプロダイバーを目指すことと成ります。但し、その道は現在のライセンスの科目の様ではなく、「フィン無し水面下1メートルで50m・フィン無し重りなし無し8m潜水・フィン無し遠泳2Km・プールで水深4.5m重りなしで底にへばり付いて1分間・フィンを着けては水深1m下200mの潜水、」最後に付け加えてフィン着用とマスクを着けて素潜り15m潜水と云うのがありました。水泳部に長年在籍していた私は、テストを三日前に申し込んだばかりなのに此れに挑戦。結果はOK、眼が悲鳴、マスククリアーなんて出来ないよ。家に帰って、即、総合眼科へ我慢して30人ばかしの受信待ちの方々の末席に座って居たら、「先生、此の人眼が飛び出ている。」の一言、緊急診察で事なきををえました。
2011年12月07日
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「菩薩の定義」大乗に観る菩薩とケンシロウの世界・[副題]北斗の拳に観る菩薩道 大乗仏教が語り詩頌(シジュ)に謳う宗教書は数あれど、皆「釈尊」を主人公に語る大浪漫小説・哲学書です。此処に菩薩に関しての定義が示されています。慈悲の精神に立脚して苦界にある衆生を、自己が仏界(如来・涅槃・空)に達する前に、自己より先に救わねばならない。自己の覚りに先じて、衆生を第一にするのを実践する人を「菩薩」と称すると定義しています。僧侶・在家を問わず此の悲願を実践する者はみな菩薩だと云うことです。(自力本願) 此処に、北斗の拳「ケンシロウ」の出番があります。世紀末のタッポイ・タッポイ世界、破壊と悲しみの世界に弱き者の悲嘆と幻滅を救う愛と慈しみの心を持った「ケンシロウ」が登場します。恐らくは、作者は弥勒菩薩を「ケンシロウ」に投影してることが伺えます。消息が絶えた「ケンシロウ」を、庶民は伝説の救世主は必ず戻って来られると待っています。(他力本願) 我々が自力で覚りに到達する事が、非常に困難であることから、菩薩・「ケンシロウ」に本願を懸けることは正当であると云えましょう。
2011年12月07日
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「時」と「時間」の存在性 先ず、実在とは、「(1)仮象でなく真実在であること。(2)人間精神から離れた独立在であること。(3)一としての全体存在であること。(4)矛盾がない完全体であること」が要求されます。 「時」に関しては、過去時(関ヶ原の合戦・西暦1600年10月21日)、今の現時(今此れを書いて居る時)、未来時(2012年のロンドン五輪開催)が、考えられます。今の自分にとっては、過去と未来は区分としては理解出来るものの、現実性が乏しく仮象の世界であって砂上の楼閣(仮象)にすぎません。「時」は、今の現時だけが、実在性があると云えます。 一方、「時間」を観想すると、今から遡った或る観想し得る時間・今の現時・今から来るとする予想し得る或る時間と捉えても、今の現時だけが、実在性があります。 但し両者共通の「今の現時」には、大きな相違があります。「時」に関しては今の瞬間が現時であり、場面々のパラパラ漫画状態です。「時間」の方は、今の瞬間が虚無に向かって飛んで行く、二段ロケットのカプセルの中の人間の様に、一段目(過去世界)は捨てられ今は無く、未来世界は未だ存在しません。但し、「流動する今」に我々が存在して居る状況と捉えることが出来ます。
2011年12月06日
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「釈尊」の口で語る大乗一味の教え 今は娑婆に帰る事の無い昭和・平成を通じての稀代の噺家、談志の外題に「仙陀婆」があります。「仙陀婆」は、その場々の状況に応じて一つの言葉の意味が異なり、塩・水・馬・器となります。それは、仏陀の云わんとすることを、真意は何かと捉えるのは受け手の側の状況や取り方によって其々の違いがうまれる。それ故、方便として矛盾したとも捉えられる言質をもって正法へ導くのだと云う。大乗の説く釈尊の言葉は、其の儘では理解してはいけない。「真意」がどこにあるのかを注意しなければ認識できない、と教えます。 ところで、我が日本にも、宗教とは縁が無いのですが、どの様にもとれるオールマイティー(JOKER )な言葉として「どうも」があります。まず、此の一言で、大概の対人要件がまかなえます。挨拶は此れ一つで朝から晩まで使えますし、御礼・謝り・苦々しさや怒り等々、数え上げたらキリがありません。日本に来られた外国の方に此の万能言葉「ドウモ」を教えてあげたら、きっと喜ばれます。
2011年12月05日
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「釈尊」の口で語る大乗の布施 大乗では、釈尊が、在家信者に五戒を教え、その中でも善行第一は布施であると説きました。しかし、布施には優劣の区別があり、見返りを求める布施、僧侶に経を挙げて貰う、先祖代々の墓を菩提寺にと供養して頂く、香典を備えて香典返しを頂く等の布施は、只単に普通の「布施」であると言い切っています。求めるものが居ようが居まいが布施を心がけ、返礼・利益を求めないのを大なる布施であると説かれたと書き残しています。 ところで、我々凡人にも我執を捨てた「御布施」が出来得るもでしょうか。私は、僧を生業とした方より遙かに多くの方が大なる布施をされていることと存じています。小鴨を連れたカルガモを体を張って道路を管制したり、消防隊員が悪戯の矢の標的となった猫等の治療の為の命懸けの捕獲、極めは、ムツゴロウさんの傷ついた動物を治るまで治療し自然に戻す行為等は、見返りを求めない一方的布施です。とくに幼子が、寒さに震える猫を自宅に持ち帰り、家族に見つかり捨てられ、それでも探す行為などは、もう布施とは言えず「慈悲」です。
2011年12月05日
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「観世音菩薩」変幻自在の菩薩 紀元一千年頃から我が国では、現生利益を求めて、観音信仰が隆盛を極めました。観音「観世音菩薩」とは、その名の如く、人類皆を苦界から救うまでは、「佛」と成る事を拒否された(大慈大悲闡提)二菩薩、地蔵菩薩(後面は閻魔様)とのお二方の一方です。寺院の釣鐘の音色の様に、世のあらゆるものの姿(色)で人々を救済するため、現世(娑婆世界)に在って、例えば、ペットの死を悲しみ日々悲嘆に暮れている御仁には、夢のかたちを採りながらもその姿で慰め・癒しをもたらして下さいます。観音は日々の私達のくらしを日夜見守って下さる有り難い菩薩です。
2011年12月02日
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「時と時間を定義」 此の内宇宙にあって、時間が実在的に存在してるかどうかは、形而上学・物理学を問わず紀元前後を問わず重要課題であることは現在にあっても同様です。 此処で、「時」と「時間」を定義する事が重要になります。「時」とは、過去時・今居る時・未来時と定義出来ます。一方「時間」とは、今から遡った或る観想し得る時間・今の現時・今から来るとする予想し得る或る時間と定義することが出来ます。時間を運動と観るか、人間の観想に過ぎないかは、「此の定義が今後の時間を観想する」を見極めるためには重要と成ります。
2011年12月02日
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「神」の定義(7)神と宇宙の関係 神とは、此の大宇宙の基底であり、存在原因です。宇宙は陶工とその作品といった関係ではなくて、「神」其の物の実存とその表現と捉えます。宇宙に内在する万物は、小宇宙の運行から我々人間の精神まで「神の表現」だとも云えます。 それは「神」が、我々の精神意識の最大最終の合一すべき統一体であり、神格が、我々の精神意識と同根である以上、人はその様な神を愛し敬まうことが「善」であることを理性に働きかけます。小なる自己を捨てて、自己への我執とエゴを取り去る処に「神の恩寵」が待っていると言い換えてもいいでしょう。
2011年12月01日
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貴方は、死とは縁遠い御方ですか?。人間の死とは不確定なもので、何時も貴方の傍に寄り添っています。実地に於ける心霊体験をお持ちの方は、わざわざ探す迄もなく多数居られます。禅を組み或いは意識朦朧のとき、自己という個人意識が溶解して、根底たる本来の一の純粋な自然意識、無限の実在を観るとも言われ、「個人的な死」とは恐怖すべきものでは無くて、「絶対的実在の精神」への「真の生」を生きることだと実想するのです。 死は永久の「生と平安」それとも無限の無、或いは転生の獄、それは、貴方が選ぶ事です。「神」は自ら産み出した人間を、只、受け入れられる存在です。貴方の選択によっては、神の懐に入るのも現実と成り得ましょう。
2011年12月01日
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