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「霊魂論」エチカ詳解98 スピノザが自らの思考の集大成と目論んだ「エチカ」の近世の時代背景、究極的な思考要因となったのには、当時のイギリス世界における政変が影響していることは間違いありません。近世当時の英国が強大な影響力を持ち世界を先導する英国、そこにシェークスピア(William Shakespeare の偉大なる小説「ハムレット(Hamlet)」が誕生します。恰(あたか)も日本の歌舞伎に忠臣蔵が登場した様にです。「ハムレット」は北欧伝説が下敷きになっているとされますが、エリザベス女王、世界に冠たる大英帝国、その栄光を築いたのが女王エリザベス1世。 イングランドの歴史に燦然と輝く女王ですが、 其の治世末年から新王ジェームズ一世の治世初頭にかけて、16世紀から17世紀初頭の世紀の変わり目に上演されますが、ジェームズ一世はハムレットのモデルの一人であると目されています。何故なら、ハムレットの母ガートルードは、夫たる王を殺害し、その後を襲った弟と日を経ずして再婚しますが、ジェームズの母親スコットランド女王メアリー・スチュアートも、ジェームズの父であるその夫ヘンリー・ダーリン卿を殺害したボズウェル伯と、事件の数ヶ月語には再婚、その後、スコットランドの政変により英国近親エリザベスのもとに亡命するもカトリックであったメアリーは謀反のかどでエリザベスの命により処刑され、エリザベスの元でプロテスタントとして育てられたジェームズはエリザベスの後を継ぎ、英国国教会の首長たるイングランド国王ジェームズ一世となるのですが、「ハムレット」がデンマークの伝説を模したかたちで世情を描いてみせたと捉えるのは、忠臣蔵からの深読みでしょうか。スピノザの思想の背景には此のような政体の事情もあり信教徒は過敏な反応を示す傾向に包まれます。哲学・思想ランキング
2019年01月31日
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「霊魂論」エチカ詳解97 スピノザが自らの思考の集大成と目論んだ「エチカ」の近世の時代背景には、至高の審判者が信教のみに押し止められ、思想上の思考からは徐々に其の影響力を失いつつある時代でした。此のスピノザの存した時代に、そうした時代背景を代表する二つの近代世界のイマージュ(image)であり、象徴でもある二つの小説が発表されています。一つは「ドン・キホーテ」(Don Quijote or Don Quixote)です。 セルバンテスの長編小説(1605-1615年刊、1605年に前編を、16 15年に後編を刊行)であり、誇大妄想に取り憑かれ、愛馬ロシナンテに乗って騎士修行に出かけたドン=キホーテと、従者サンチョ=パンサが現実に直面して引き起こす滑稽な冒険の数々を描く。夢想的に自己の理想に突進する実行型の人間の姿を風刺し、世俗に流布した騎士道物語を批判したものです。中世世界に没入したドン・キホーテが、自らを伝説の騎士に思いの儘に成り切り、彼の世界である此の世に真の愛と正義を見い出すべく遍歴の旅に出るも、彼の冒険はいたるところで複雑に入り込む現実の網の目に捕らわれ挫折していきます。近世世界が、もはや過去世界ほど現実が解り易くないことを描写しています。理想と現実との相克などのテーマを織り込んだ、近代文学の先駆的作品ですが教会権威の衰退と政治的思考論の谷間に湧いた傑作であることは間違いはありません。スピノザが自らの思考の集大成と目論んだ「エチカ」登場のの世情を理解する上で参考になります。哲学・思想ランキング
2019年01月30日
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「霊魂論」エチカ詳解96 其れまでの宗教改革や宗教戦争が影響した「神」の定義や語彙の捉え方の変遷の第二は、宗教改革や宗教戦争が影響した相対的認識論における神の捉え方です。人間意識が環境を問わず或る種の絶対的権威を誰彼に教わらず認識するかの問題です。取り分けニーチェは人間意識が捉えない「神」は事実上存在せず、人間精神が創出したものになります。相対論の立ち位置に立てば人間が「神」を認識しないならば「神存在」は無く、「神」は「人間存在」を認識の共通基盤を持つことにより基盤が成り立ち、虚無主義の扉が開けて待ち受けます。カトリシズム(Catholicism)によれば、人類の前で崩壊すること相見(あいまみ)えます。但し、それは表面的体裁としてであって。日常的経験・科学的探求・,神秘的観想・神的啓示等々。いかなる経路方法を通じて到達されたものであろうと、およそすべての真理にたいしてみずからを根元的に開こうとする態度を核心とするところの思想であり、一言で表すとすれば「超越の思想」です。「神の死」を自明の前提とする「内在主義」唯物論・観念論・進化論・自然主義の諸形態までをも含めてて「超越の思想」が人間を最高の存在へたかめるのにたいして,カトリシズムは人間が「創られしもの」「神の型取り」であることの自覚から出発し,そこに人間の卑小と偉大,悲惨と栄光を読みとる。万物は神を離れては虚無であるが,全宇宙のなかで人間だけがそのことを自覚する能力をもち,この能力が人間を超越者たる神との合一にいたるまでや止むことのない求へと駆り立てるとします。何故に、スピノザがカトリシズムから危険視されたかは、他の無神論は無視すれば済むものの、スピノザの思考はカトリシズムの「神存在」其のものを脅かすと教会識者が捉えたのです。哲学・思想ランキング
2019年01月29日
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「霊魂論」エチカ詳解95 近代と呼ばれる時代には、其れまでの宗教改革や多くの宗教戦争が影響し、かって云われたところの神は、大宇宙或いは世界をより隔てた峻(たか)い地位から其の世界を統べ、善悪を区別し、ものごと全てに一つの意味を与え、其れを人間が享受する形態を纏っていました。ところが、西欧を席巻した多くの宗教戦争を通して、人々は自らが信奉する「真の宗教」は只一つではなく複数あること、大航海時代を通して様々な異文化に触れ、世界は多元的な思考に満たされることを知ります。スピノザが存した近代時代には、人間の価値観・世界観は多元的であることを認めざるを得なかった時期、其れがスピノザ時代なのです。至高の審判者(Supreme Judge)不在の中で、世界は突然に恐るべき両義性に踏み込みます。「神}の唯一の真理が正教会では再定義され、思想学では夥しい相対的認識が謳歌され絶対的な真理は苦境に追いやられます。此の時代の信教や思想上の「神」の定義や語彙は複雑多肢に亘ります。然し乍ら、大凡「神」の語彙の捉え方は「神存在」そのものは輻輳こそしていますが、単純化すれば第一には至高の審判者、世界の創造者としての世界内加えて世界外創造者としての「神」です。此れはキリスト教の三位一体を考慮すれば容易に理解できます。哲学・思想ランキング
2019年01月28日
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「霊魂論」エチカ詳解94 コナトゥスは、個体そのものの作用を規定するとした本性の法則は、作出原因の作用をその内側から指示する因果法則によって定められており、其れ故、作出原因の作用を内側から受け、そこから生じる結果すなわち自己維持への努力に基づく選択は必然的なものになります。片や、人間の自由意志説は作出因を考慮に入れず選択を非決定な儘に止め置くのであり、原理的には、我々は意志の絶対的な力によって、自らの利益を求めることを保留したり、さらにはそうしたものを敢えて避けることが出来得るとしています。此処にスピノザの「目的論」の奔放的だともいえる自由思考への批判があるのです。言い換えれば、別件で扱うスピノザが言う「決定論」が遡上します。スピノザの「決定論」とは、「人間には、自由意志はなく、神が全て決めた通りに動いている」とする判断、否(いな)、決してそういうことではあり得ません。何故なら、全てが「神の決定」ならば此の世界の経緯は現実ではなく永遠の瞬間である「神の夢想」、其れこそ我々は「虚無世界」に生きる仮想の意識です。スピノザの描く世界論を理解するには、一般的理解としての神ではなく「エチカ」で演繹論法、定義に始まり、公理・定理・証明の連鎖からなっており、あたかもユークリッド(Euclid)幾何学の論文で定義される「神」であり、其処から全てが始まります。哲学・思想ランキング
2019年01月27日
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「霊魂論」エチカ詳解93 コナトゥスの目的指向性は個体の本性に根ざす作出原因性そのものによって保証されるのであり、作出原因性を解析すれば神存在」の恒常性に起因することから来る理由によって、スピノザは人間の目的指向的な思考傾向と行為を、自らの形而上学・自然学的体系の内に位置付けるのです。更には、スピノザはコナトゥスと倫理学の関連にも言い及びます。各個物は自らの本性の能動的な作出原因の働きによって、正当性を持った目的指向、即ち、自らの存在の維持をより良く保つような作用を選択的に行う。然し乍ら、結局のところ、本性としてのコナトゥス、行為者の意志というかたちを纏う自由意志であろうと、最終的な根拠は同様に行為者の内に求められる作出原因が重要な根拠を示します。行為者の自由意志の選択は最終的な根拠は同様に作出原因に基づく行為者の内に求められるのであるし、また自由意思・意志説においても、大抵の場合において意志は自らにとって善いものを選択する筈であるのが当然だとするから、結局両者の「選択」は、少なくとも結果の上では同じ意味を持つことになります。作出原因性と目的自由論の両者を分かつのは法則的必然性であり、スピノザは人間本性に対して楽観的であり「各人は、その善あるいは悪と判断するものを自己の本性の法則に従って必然的に欲求しあるいは忌避する」。コナトゥスは、個体そのものの作用を規定する本性の法則、すなわち作出原因の作用を其の内側から指示する因果法則によって定められており、そこから生じる結果すなわち自己維持への努力に基づく選択は必然的であるとします。一方において、自由意志説は選択原理を非決定なままにとどめておく止めておくのであり、従って原理的には、我々は意志の絶対的な力によって、自らの利益を求めることを保留したり、さらにはそうしたものをあえて避けるのは、自らがコナトゥスの破壊を求めるのであり人格の破壊が起こります。コナトゥスの目的指向性は個体の本性に根ざす作出原因性そのものによって保証されるのであり、虚無主義(英: Nihilism、独: Nihilismus)に陥ることは、此の世界存在、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する混乱が待ち受けます。哲学・思想ランキング
2019年01月26日
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「霊魂論」エチカ詳解92 個物が単なる慣性的な状態保存を超えた、自らの存在維持への積極的・指向的な努力を有するのは、作出原因に取り替わる「新たな原因性」が導入されるからではない。コナトゥスの目的指向性は個体の本性に根ざす作出原因性、即ち「神存在」の恒常性に起因することから来る当然の帰結です。個物の存在維持への努力は、其のものの本性から生じてくる積極的な活動に等しいということを意味する。更には、自己維持への努力を各事物の本性を捉え直すことにより、個物の能動的な自由目的論は否定される。此れは、個物が自己維持への努力を各事物の本性と捉え直すことにより、其の本性の因縁を思考すれば或る種の規定に従っていることを意味することが必然的結果となります。此のことは、スピノザが事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向を神を作出原因であると看做していることの証(あかし)です。コナトゥスの目的指向性は個体の本性に根ざす作出原因性から来たるものであり、個物が全くの自由要因により目的性を持つとは捉え難きものであることがスピノザの「目的論批判」なのです。哲学・思想ランキング
2019年01月25日
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「霊魂論」エチカ詳解91 スピノザがどのような根拠によって、彼特有独自の判断である意志や衝動などの存在を保とうとする努力を「コナトゥス」として作出原因だと看做す根拠は何に基づくのか。スピノザによればコナトゥスの証明は、神が存在し・活動する能力を表現する様態なのだといいます。其れは個物の存在論的な自己保存の確認の上に成り立っているからです。此処でも彼は独自の演繹論法を展開してみせます。先ず、コナトゥスの証明は、神の存在し・活動する能力を表現する様態であり、個物の存在論的な恒常性維持の確認の上に成り立っていること。個物が単なる慣性的な状態保存を超えた、自らの存在維持への積極的・指向的な努力を有するのは、作出原因に置き替わる新たな原因性が導入されるからではない。寧ろその思考とは逆に、コナトゥスの目的指向性は個体の本性に根ざす作出原因性そのものによって保証されるのであり、其れ故を持って、スピノザは人間の目的指向的な行為を、自らの形而上学・自然学的体系の内に位置づけ、目的論批判を展開することができるのだとします。コナトゥスのベースには、様態としての個物が有する一定の結果産出へと向けた作出原因の力が存する。したがって我々は、次のように結論できるであろう。全く奔放な目的的自由は存しない、人間の精神作用は狂気に陥らない限り作出原因の箍は働き、奔放な目的的自由は虚無の世界でなければ見い出し得ない。此処に「神存在」其のものが「有」であり無限、「永遠」であるためには完璧を示します。完璧という以上、欠けたものは何一つ無く、全てが全うされており意思さえ意識しないというよりは意思を確認する要がないし。ましてや、目的を図る、即ち完璧を目指すことなどは有り得ません。実際のところ「神存在」にも「目的自由論」は完璧存在であるが故に働かないし、其の世界内存在の人間が「目的的自由論」を語るにしても作出原因の箍が嵌められている限りにおいては、人間精神の目的的自由とは作出原因其のものの起因に従った行動、実践倫理学を学び行動する、信教に近似した行動が求められることをスピノザは実践倫理に求めます。
2019年01月24日
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「霊魂論」エチカ詳解90 神が積極的な作出原因であるのとちょうど同じように、各個物もやはりその本性に相応した結果を能動的に生み出すといえます。それらの個物の中でも取り分け人間には確かに限られた仕方によってではあるのですが、目的的自由と呼ぶような能動性を持ちます。つまり神の延長である各様態は、それ自身が活動性と自発性に他ならない神の力を持つことによって、自らも作出原因たる要素の可能性を秘めます。スピノザも限られた範囲とはいえ目的自由論を認証しています。スピノザの考える作出原因は、個物の積極性を排除するというよりも、寧ろそれを内に組み込んだものです。詰まるところ作出原因とは、それが個物固有の本性の働きを限定的にしろ個物もやはりその本性に相応した結果を能動的に生み出すといえるのです。各様態は、それ自身活動性と自発性に他ならない神の力を持つことによって、自らも一定の仕方で自発的に作用する、或る種の「目的自由性」を持ちます。神が積極的な作出原因であるのとちょうど同じように、人間は確かに限られた仕方によってではあるが、各個物もやはりその本性に相応した結果を能動的に生み出すと云えます。スピノザの考える作出原因は、個物の積極性を排除するというよりも、それを枠内に組み込んだものである。つまり作出原因とは、それが個物固有の本性の働きを個物の能動的な活動に他ならない限定的であるにせよ「目的論的自由」を承認せざるを得ません。神が作出原因であって結果ならば其処には能動はなく静止があるのみです。哲学・思想ランキング
2019年01月23日
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「霊魂論」エチカ詳解89 スピノザの云う個物が神の力を一定の仕方で表現するとは、無限の様態を産出する神の作出原因あるとしても神が積極的な作出原因であるのとほぼ同じように、確かに限られた仕方によってではあるにしても、各個物もやはりその本性に相応した結果を能動的に生み出すといえます。詰まりは、スピノザが否定する人間精神の「目的論的自由論」の箍(たが)である枠組みが此処で顕著に表現されるのです。何等の足枷もない空白を前提とした人間の思い込みの自由は汎ゆるルールに縛られず精神の自由を謳歌するとも取れますが、神を作出原因とする限りにおいては神存在其のものが規制因として働き、其れを逸脱すれば破滅を招きかねません。各個物もやはりその本性に相応した結果を能動的に生み出す作用因があるとも云えるのです。つまるところ、各様態は、それ自身活動性と自発性に他ならない神の力を持つことによって、自らも一定の仕方で自発的に作用するのです。空白を前提にする人間精神の奔放な自由とは自由の名を冠した「狂気」以外の何ものでもなく、其のこと故にスピノザの実践倫理学が俎上することになります。哲学・思想ランキング
2019年01月22日
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「霊魂論」エチカ詳解88 スピノザは、世界内自然に見い出される多様な個物の在り方を紐解くためには、物質間に働く力をただ単純に外的で受動的な運動のやり取りだけではなく、諸物体が神の属性を一定の仕方で表現する様態として、より直接的な仕方で神から決定されているということも考えなければならないと説きます。此処にドイツ観念論の大成者であり絶対的観念の立場に立つ「弁証法」の覇者とも云うべきヘーゲルが語るように、存在し作用する個物は、他の物からの水平的・外的な決定と神自身から垂直的・内的な決定という二重の決定に服していることを鑑みれば、スピノザが個物の作出原因について言及するときの解釈の助けに、此れを先ず念頭に置いて「エチカ」を読み込むときにば、スピノザの思考の根幹と論述技法の解釈の一助とはなり得る筈です。スピノザがいう神の属性とは個物の源泉である「因」其のものを指し示す標識の役割を担います。「エチカ」の定理36ではその本性からある結果が生じないようなものは「一として」存在しない。其の証明「存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する。言いかえれば存在するすべての物は、万物の原因である神の能力を一定の仕方で表現する。従って世界内に存在する総てのものから、ある結果が生起しなければならない。個物が神の力を一定の仕方で表現するとは、無限の様態を産出する神の作出原因を、其れ等其々に分有しているということである。此の思考表現は世界内のありと汎ゆるものは神と共有の可能性があることを示します。神の作出原因としての力をある限度でもって分有しているということなのです。哲学・思想ランキング
2019年01月21日
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「霊魂論」エチカ詳解87 スピノザは、「諸物体間の運動の相互伝達のみから如何にして物体的事物の多様性が導出されるか」というチルンハウスの問いに、人間が真実にして神の様態(体)の延長であるにしても、其の概念のみからでは事物の多様性を「アプリオリ」すなわちアプリオリとは中世スコラ哲学では因果系列の原因あるいは原理から始める認識方法を指し、カント以後の近代認識論では経験に依存せず、それに先立っていることを指す「アプリオリ」で証明され得るかどうかは不可能事だと答えています。スピノザの思考方法から検討すれば「起動因」は、「動力因」乃至は「作用因」、此処で注意すべきはスピノザはデカルトの「起動因」を「動力因」と「作用因」とを区分せず、その事物の存在を引き起こしたもの一般を指し示していることです。其れをその事物が置かれている状況を生み出した動力の根源だと捉えます。デカルトの「神存在」は譬えればビリヤード(Billiards)台の設置と台上の9から15そして無限のボールの設置を「神存在」が負担し、以降はプレーヤー次第となる解釈をとります。片やスピノザが「起動因」を「動力因」と「作用因」とに区分しないということは、ビリヤード台の設置と台上のボールの設置を「神存在」が負担するのに加え、最初の白玉をキューを手にして打つはプレーヤーにもなります。但し、以降に其の成り行きを工夫するのは神の様態の延長次第であり人間も其の一翼を担うのです。哲学・思想ランキング
2019年01月20日
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「霊魂論」エチカ詳解86 スピノザは神を原因としてそこから事物が生じるという起動因と、神がそうした事物を産出するように働く作動因とを同一視、同一概念だと看做しています。勿論のこと、此の神を起因とする作用は他から決定あるいは強制されて生じるようなものではなく、ただ神自身の本性にのみ由来する能動的なものです。此の事により、スピノザの作出原因とは、第一義的には神が自身の本性そのものによって自然の各事物を産出するような能動的な力を示します。更には、作出原因は有限な個物相互間の作用をも規定するものであると思考しています。何故なら、神の無限の力は、有限的事物の存在のみにとどまらず其の作用の原因でもあるからです。此のスピノザの思考は、とある個物の作用・運動は第一起動・作動者としての神存在によって創造と同時に宇宙全体に導入された運動が外的な事物の連鎖を経て当該の個物に伝達・受容されることによって生じるというデカルト的な運動の起源説、其れだけに尽きるものではありません。勿論のこと、世界内存在のありとあらゆる有限な個物は、他の個物によって形成される因果系列から決定されない限り、存在あるいは作用することは出来得ないできないのですから、外からの作用は個物の存在および作用の必要条件でしょう。其処でスピノザは更に付け加えて言います。ます。延長の概念のみから、諸物体間の運動の相互伝達のみからいかにして物体的事物の多様性が導出されるかというチルンハウス(Ehrenfried Walter von Tschirnhaus/1651-1708)ドイツの数学者にしてライプニッツ、ニュートン、スピノザ、ホイヘンスらと交友ライプニッツとは生涯の友人であった彼の問い「諸物体間の運動の相互伝達のみからいかにして物体的事物の多様性が導出されるか」という彼の問いに対して答えます。外からの作用は個物の存在および作用の必要条件であるだけでは充分ではないのですと答えています。哲学・思想ランキング
2019年01月19日
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「霊魂論」エチカ詳解85 スピノザの「目的論批判」の矛先である「目的原因の自由意思(志)説」は、敢くまで、決定論的自然観の枠内で整合的に説明するべく導入されるのが本筋で、原因が空白であり作動因は自己自身、目的的志向は無限性を持つという自由意思が人間にあるのであるならば、人間は神の様態の延長ではなく絶対者・絶対存在に等しく成り得ます。其れ故に、決定論的自然観の枠内で整合的に説明するべく導入されるのがコナトゥスです。「個々・各々・其々は、其れ自身の内にある限り、自己の存在に固執するように努める」。スピノザにとって「目的原因の自由意思(志)説」は最終的には自己破壊に繋がりあり自己矛盾に陥るに等しい。物の定義がその物の存在を肯定し、同時に否定することがどうして可能であろうかなかろうか。絶対存在の創造者としての神の認識を肯定すれば人間の自由意思の奔放な自由は許されないことは、信教ならずとも当然です。更に、此の自由意思の奔放な自由とは空白概念、何ら強制されない箍・枠がないものを示し、其の世界概念には虚無に陥り狂気が迫るニヒリズム(nihilism)が待ち構えかねません。ニヒリズムはあらゆる既成の宗教的・道徳的・政治的権威や既成の社会的秩序とそのイデオロギーに対する無条件的な否定の立場を表すものであり、ニヒリズムに陥ることは他者への危害は勿論、自己破壊活動に絶望を齎し幸いを遠ざけるの可能性が大なること史上稀ではないことは史的事実です。哲学・思想ランキング
2019年01月18日
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「霊魂論」エチカ詳解84 ユダヤ教では所謂一般的な宗教若しくは多神教に見られる「死後の世界」というものは存在しません。神智学的神秘説であるカバラでは、魂は個体の記憶の集合体であり、唯一神はすべての生命に内在し、只々、唯一神が永遠の魂である。個体が善悪を分かち、其の記憶は神へと帰っている。神はただ記憶を収集し、善悪を分かたない。神では、善の記憶が再創造の素材になり、悪の記憶は捨て去られなくなる。例えばカバラでは、毎年贖罪の日ではすべての生命は死んで生き返り、悪もなくなる。将又、毎年角笛吹きの祭から贖罪の日までの間にすべての生命は死んで、記憶が神へ帰る。贖罪の日から光の祭りまでの間に神は再創造し、善の記憶がすべての生命へ帰す。死亡は只々ヨム・キプル(Yom Kippur)または贖罪の日(しょくざいのひ)とはレビ記16章に規定されるユダヤ教の祭日。 ユダヤ教における最大の休日の1つである日「罪を覆い、罪を赦す」と同じである。 詰まりは、生前に悪徳を犯した者には死後再生する道は完璧に閉ざされ永遠の滅びがあるということになります。「善行」例えばスピノザのいう実践倫理学を積み重ねた者は死後に神に其の精神は帰し、過去の生前記憶は無きにしろ霊魂の復活の可能性は残されます。生前の行動・在り方が復活再生の鍵となり、中途半端な実践では動物界に成り下がることも、唾棄すべき生き物にも成り得る可能性をジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラが説きます。哲学・思想ランキング
2019年01月17日
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「霊魂論」エチカ詳解83 スピノザの目的論批判としての「因的(起動因)目的論」は人間の自由意思を、目的的志向の無限の自由性と一定の内枠での自由性を厳格に区別するものですが、此処にルネサンス期の北イタリアはミランドラの領主ピーコ家に生まれたジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラ(Giovanni Pico della Mirandola/1463年-1494年)哲学者であり人文学者が「人間の自由意思」に関して興味深い説を唱えています。ピーコにとっては人間とは、如何なるものにも成れる変幻自在のカメレオンの如き存在そのものでした。人間とは全き宇宙の延長線上の小さな宇宙であり、その中には元素から動植物、理性、神の似姿に至るまでが含まれると思考しています。人間が動物と異なるのは、自由意志によって神のようにも獣のようにも何ものにも成り得ことができ得る特異性を持つものだとして、「人間の尊厳」を主張するのです。自然を支配する業としての魔術を信じていたもようですが、占星術、即ち、人間の運命が定められているという説は人間の自由意志に反するとして師とするフィチーノの説を批判した「反占星術論」を執筆、非ユダヤ人としては、はじめてカバラを極めたとされます。カバラ( Cabbala)、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想ですが。 独特の世界・宇観を持っていることから、しばしば仏教の神秘思想である密教との類似性を指摘されることがありますが、スピノザの神秘主義思想に於ける神の定義との似通う面もあれども勿論のこと別物です。ピーコにとっての神は創造主であり、スピノザの神は自らの世界創造さえをも認識しない程の完璧な「有」としての完全な在り方だからです。哲学・思想ランキング
2019年01月16日
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「霊魂論」エチカ詳解82 人間が主観的にいだく意志の自由とは、譬えば、アンドロイド(Android)本来は人造人間を意味する言葉で,フランス象徴派の作家ビリエ・ド・リラダンの長編「未来のイヴ」で初出、「アンドロイドは夢を見るか」と言われる方で「GoogreのOS(Android)」とは意味合い的に異なります。其の現代科学技術の粋を極めたともいえるアンドロイドが心を持ち得、自由意思を手に入れる仮想を考えれば容易に察知出来得る課題です。人間が創出したアンドロイドには其の工作者の思考が基底に盛り込まれているからです。アンドロイド自身は自由意思の概念で行動していると想念していても、或る枠組み、即ちインプットした者の思惟が設定されています。当に「アンドロイドに自由はあるか」なのです。自由意志とは何らかの他からの強制・支配・拘束をうけないと同時に、行動を自発的に選択することができる意志。亦は、其のような意志の在り方を云うのですから、空白ではなく先取決定の特権者がいては「真の自由」はあり得ません。自由意思の概念的な混乱もあり、思想的なものにより議論が分かれるところです。将又、人間は自由な意志をもつがゆえに機械ではないという主張も有力なものとされますが,自由な意志をもつということの実質的な意味が当人の自覚以外においてさえ明確なものではなく、其の主張も決定的なものとは言えません。要するに、スピノザの目的論批判の矛先は、人間各自の意志が空白を前提とした全くの自由原因だとすることにあり、其のこと故にエチカの実践倫理では「因的目的論」が導入され展開されています。哲学・思想ランキング
2019年01月15日
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「霊魂論」エチカ詳解81 スピノザの批判した筈の「目的論」、其れが彼の実践倫理学では矛盾なく再起動します。自由意志の問題は、元来が理論的であるよりも実践的な問題に妥当するからです。カントによれば、理論的認識の妥当性は因果律が支配する現象界に限定されるので、自由の存在は理論的には証明不可能である。然し乍ら、実践理性は人間が従うべき道徳法則の存在を認め、そこから自然の原因性とは異なった自由の原因性が英知界において成立することを確認する。すなわち意志の自由は、自分自身に対して道徳法則を課し、且つそれに従うといった意志の自律であって、この自由は非決定論的な選択の自由ではなく、道徳法則によって規定された善への自由を意味すると述べ、当に、スピノザの哲学の「目的論」批判と実践倫理学での目的論的志向を表現します。但し、ヘーゲルは、カントの説く自由はまだ有限的で主観的な意志の自由にすぎないと批判し、真に無限にして自由な意志は、即、自(おのず)且つ対自的にある意志であり、意志の形で自己を貫徹する思考であり、自由とは、実は認識された必然にほかならないとし、起動因であり作用因でもある神への或る種、目的原因論のスピノザの実践倫理学を更に補強したとも取れる文言を表しています。哲学・思想ランキング
2019年01月14日
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「霊魂論」エチカ詳解80 人間が「自由意思」と思いがちなのは普段の生活にあっては何の疑問も抱かずに自己の意志で決定していることに起因します。果たしてそうなのか。「自由意思」とは自己が外在から強制・拘束・妨害などを受けないで行動や選択を自発的に決定しうる意志であり、意志の自由(freedom of will)を意味します。プラトンは「国家論」の「エルの神話」のなかで、人間には死後の運命に対する選択の余地があり、その内容は道徳的行為によってきまると述べたましたが,他方では人間は神の「遊び道具」であるともいっています。信仰に関して人間に自由意志をみとめた最初の人はシリア西部の都市ホムスの旧称エメサ(Emesa)のネメシオス{Nemesios(359ころ没)}であるとされますが、「自由意志」とは人間の精神のうちにあって、自然法則の因果の必然によって規定されずに自発的に発動する能力が自由意志であるとします。そうした能力の存在は、選択とか意志決定の自由として意識されるのです。其れをスピノザは、人間が自由意志をもつと確信するのは行為の真の原因について無知であることによるのであって、人間の意志や行為もすべて因果の必然によって規定されている。このように自由意志の存在を否定するのが決定論で、現代の科学者や科学哲学者のにも決定論者は数多く存在しています。スピノザの「目的論」批判は専ら哲学的思考の「目的論」に焦点を当てているのであって、スピノザの実践倫理学では「目的論」が復活しますが、其処には空白概念を持った自由意思ではなく、或る定まった目的概念があります。スピノザの哲学思考の目的論と実践倫理学での目的的志向は矛盾に陥らな訳です。哲学・思想ランキング
2019年01月13日
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「霊魂論」エチカ詳解79 アリストテレスによれば、世界内存在に何に故をもって其れが存在しているのか、何に故に其れが生じたのかの源元(みなもと)を知らなければ、人間は物事を知っているとは云えないと思惟しています。事物の存在の原因を重視する此の思考法は、アリストテレスが哲学のみならず自然科学の研究を探求している経緯で、すべてが目的を持って整合的に動いていることを確信し、何事にもそれが存在するに至った原因がある筈だと捉えた思考の産物です。此の思考法は相対性理論のアインシュタインにも影響を与えています。彼のアリストテレスは、原因とは質料因・形相因・起動因・目的因の四つの要素からなるという四原因説を説きます。質料因とは其の事物の素材となっている原質だと示します。現代科学の素粒子論からは些か心許無いのですが、事物の素材だということで意味合い的には合点がゆきます。形相因は、其の事物がその事物であるための本質的構造を示す。単純に例えれば目玉焼きの形相因は、平らに広がった白身が黄身を囲んで目玉模様を作り出している形であり手をくださないならば単なる因相におわります。質料因と形相因はその事物自体が持っている内在因であり、「その事物は物質的にどのような特徴を持っているか」を示します。起動因は、動力因亦は作用因などとも呼ばれ、その事物の存在を引き起こしたものを示します。その事物が置かれている「状況」を生み出した動力そのものです。現代の日常会話で「原因」という言葉を使った場合は、大抵この起動因を意味しています。目的因は、その事物が存在している目的を示すとしています。起動因と目的因は、外部からその事物の運動や変化を引き起こす外在因であり、「その事物は何の目的でその場所に存在しているのか」の答えとなっていおり、此の事に関してのスピノザの「目的論批判」の対象ではなく、寧ろ演繹論そのものであり「エチカ」の論理です。スピノザの目的論批判の矛先は人間の源元が空白的な「自由意思」の目的概念にあるのです。哲学・思想ランキング
2019年01月12日
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「霊魂論」エチカ詳解78 スピノザの目的論批判は目的という志向そのものではなく、「目的原因」即ち「作動原因」以前に目的的な存在概念が「有」るのか無いのかという観想であって、其の目的原因という概念が批判されなければならないのは、其のことが一種の起動原因が不定な自由意志を概念的に前提としているのかどうかということであり、スピノザの考える演繹的な決定論的な自然のあり方を損なうからなのです。スピノザの世界観の論理思考は「エチカ」の演繹法を読み込めば、人間の究極の目的は定まっており、其れが人間精神の表層に隠された目的原因であり、目的が原因を作動させていることを基底に置くことに気付かされます。人間の社会生活上の人生のタイムスパンからは目的志向の起動因があることはスピノザも承知しており、其の目的が当人が自由意思で定まったと思い込むことに対して疑問を投げかけるのです。此処にスピノザの使用する「目的原因」で用いられる「起動因」の語彙が重要性を帯びてきます。アリストテレスの四原因説を明快に解析する必然が生まれます。哲学・思想ランキング
2019年01月11日
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「霊魂論」エチカ詳解77 人が現在より更に快適な生活空間に住みたいと云うとき、其の衝動を心に抱(いだ)いた者は、居宅を建築する表象や衝動は、家屋を建築する以前に表象や衝動が、自らの自由意志を持った行動原理だと自覚しているに違いありません。スピノザの見解も当の表象や衝動し、更に其れと同時に一定の表象にそうした原因性を付与するような特殊な行動原理を行為者に対して認めています。スピノザによれば、其のような原因性を基礎づけるために持ち出されるのが、自然則に服さず恣意的な仕方で働く精神の命令、すなわち行為者の自由意志に他ならない。一見しては自然の因果法則からは帰結しえないように思われる人間の様々な行為を捉えて「精神の命令だけで運動しあるいは静止し、そして彼らの行動の多くは単に精神の意志と思考の技巧にのみ依存している」と結論しています。先行する因果系列が捨象された後の、謂わば原因の真空状態を埋めるものとして自由意志が案出され、これによって目的原因に第一原因としてのステータスが認められる。其処には、目的原因と自由意志は表裏一体の関係をなしているのであると解析してみせます。然し乍ら、自由意志の想定こそ、スピノザが断固として拒否したものである筈です。自由意志とは、それ自身は原因を持たないような原因なのです。ところが、スピノザの決定論的自然観においては、すべての存在物および作用は、それが存在あるいは作用するための特定の原因を持っていなければならないとします。其処から、原因なき自由意志は、決して自然のうちに存在論的な足場を持つことが出来得ないだろう。人間が意志によって行為するとしても、そうした意志作用には必ず先行原因が伴っているのであって、それが自由と呼ばれるのは、単にそうした原因を人々が意識しないからにすぎないのであるとします。此処にスピノザの目的論批判が浮上します。「目的原因論」の登場です。哲学・思想ランキング
2019年01月10日
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「霊魂論」エチカ詳解76 世界内で社会生活を送る人間は、大なり小なり目的によって行為するということが常識的とも云えます。然し乍ら、スピノザは「目的によって行為するということ」と「目的原因によって行為する」ということとを注意深く厳密に区別しています。其の区別とは、或る表象が目的原因と呼ばれる時は、自然一般を支配する因果秩序とは別個の行動原理が人間に対して付与されるということです。単なる人間の「目的」とは行為の原因として作動する表象・衝動に過ぎないが、他方の「目的原因」では物の原理ないし第一原因として、其れ即ち自身の意思しない先行原因を持たないものとして見なされた限りでの衝動である。理知を獲得した人間が其処に居住するという衝動を単なる目的ではなく「目的原因」であるとするならば、そこでは行為者の持つ表象や衝動が「家の建築」に先立ちその行為を引き起こしたという事実以上のことが意図されているのだとします。例えば、家に対しては、建築家乃至は其の技術が作動因であり、行為者の持つ表象や衝動が「家の建築」に先立ち何故に思い立ったかの原因、其れが「目的原因」であるともいえます。アリストテレスの四原因説での「目的因(Telos)」は、外部からその事物の運動や変化を引き起こす外在因であり、「その事物は何の目的でその場所に存在しているのか」ということであり、人間が誰しも快適性を欲していることを示します。心理学者は「原因」ではなく、目的」が人間を動かしていると言います。「原因論」は他者を含めることで、どうしても他人のせいにしがちになる。しかし、「目的論」では全てが自己の責任となる、所謂、自由意志と通常には捉えられています。哲学・思想ランキング
2019年01月09日
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「霊魂論」エチカ詳解75 我々人間が社会生活を送る限りにおいては、何らかの生活環境の刺激によって目的意識が芽生えます。インドで発見された狼少年(Wolf boy)でさえ人間には関ったことはないものの、狼集団での生活の中で一定の目的意識を持っていました。目的意識とは行動の目的に対する明確な自覚であり、彼が狼集団の指導的役割を充たしたことは此処に要因があります。其れ故、全く外界の社会生活に無縁で接しない染色体での培養液育ちのクローン人間が目的意識を持つのかどうかは甚(はなは)だ困難な課題を突きつけます。単純にいえば、いずれ来る生命科学の発達は其れを明らかにするでしょう。一方の実験箱には外界の情報を一切遮断し、片一方の実験箱では人間社会一般の教育を施すのです。結果はスピノザの汎神論的形而上学の目的論否定、或いは、ヘーゲルの弁証法が可動出来得るのかは興味はあるものの、其れこそ、倫理学的には危(あや)ゆいこと累卵の如しものがあります。然し乍ら、生命科学はスピノザの「目的論否定」とヘーゲルの「弁証論法の行く末」に結果を示すこともあり得ます。其れこそ、スピノザの実践倫理学を度外視してこその可能な課題です。哲学・思想ランキング
2019年01月08日
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「霊魂論」エチカ詳解74 スピノザは「エチカ」において、一には汎神論的形而上学から論理的に目的論を否定し、倫理学的には実践倫理として或る意味で目的論を導入していますが、其れは矛盾なく説かれているのかは重要なことです。抑々(そもそも)が、何に故にスピノザは目的原因を批判し、コナトゥスを導入しなければならなかったのかどうかが第一の要点。スピノザの云うコナトゥスの語彙の自己保存とは一体何を意味するのであり、更には、其れが一体全体、個体の振る舞いに何の様(どのよう)に関わってくるのだろうか。第三の目的論的観点は人間の衝動で総てへの疑問です。スピノザの解釈では個体に内在的な原因「コナトゥス」の努力は、実際のところは自然に内在する、言い換えれば「世界存在」に内在する作出原因なのであるが、人間は一般には自己の衝動の原因を知らないために、それは第一原因として見做されているに過ぎないとします。人間が生活環境を営む以上、現代的にも地球温暖化の進む中、冬の屋内は寒いし、夏ともなれば、屡々、体温を超えることも現代では左程の珍しいことではありません。もっと強力で省電力なエアコン(Air conditioning)導入を志向するのは理の当然でしょう。スピノザはそうした意味での目的的行動に関しては素直に認めています。哲学・思想ランキング
2019年01月07日
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「霊魂論」エチカ詳解73 弁証論はなにもヘーゲルの専売特許ではなく、ヘーゲルに抗して逆説弁証法と呼ぶところのものを呈するキェルケゴールがいます。彼の「主体性は真理である」と定式化するが、逆説的なことに、彼は「主体性は非真理である」とも言う。主張はまさに二律背反以外の何ものでもないでしょう。此の主張がヘーゲルの二律背反論法をも示唆します。ヘーゲルの弁証論的学説においては、イマヌエル・カント以来の重要課題となっていた、純粋理性と実践理性、無限者と有限者、個々の人間と絶対真理の間の関係はどのようなものかという問いが取り上げられます。ヘーゲルによれば、有限的存在は、まさにそれが有限である由(よし)に、現実の世界において常時に自らの否定性の契機に直面するが、そのときは有限者はその否定性を弁証法的論理において止揚するという方法で、その否定性を克服し、より真理に近い存在として自らを高めていくことができるとされる目的論法を展開してみせます。此れがスピノザをヘーゲルを隔絶させる由縁です。哲学・思想ランキング
2019年01月06日
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「霊魂論」エチカ詳解72 コナトゥスは、スピノザの「エチカ」が唱える目的論批判と倫理学が要請する目的論を、自らの汎神論的形而上学に抵触しない仕方で導入することに正誤判断的に正しく成功しているかどうかは、其れへの批判論の多様さから吟味すべき問題です。何故にエチカの初頭でスピノザが目的原因を批判し、コナトゥスを導入しなければならなかったのか、此れが第一の問題です。第二にはスピノザの云うコナトゥスにはスピノザの云う自己保存とはそもそも何であり、またそれは個体の振る舞いとどう関わってくるのだろうかとの問題です。第三には個体に内在的なコナトゥスの努力は「自然はこうならなければならない」ものが目的原因批判との矛盾性。スピノザの論理は此の答えに、此の衝動は実際には作出原因(Production cause)なのですが、人間は一般に自己の衝動の原因を知らないために、それは第一原因として看做されていることからくる誤謬だとします。スピノザの神を論理の作動に置く信念は神は他者ではなく自者「存在」そのものだということなのです。哲学・思想ランキング
2019年01月05日
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「霊魂論」エチカ詳解71 スピノザ哲学の立ち位置からすれば、スピノザの云う範囲での「もの」の運動には物理学的・精神学的要素の全体像が含有されてており、其のことを鑑みるれば、スピノザのコナトゥスの概念は、ヘーゲルのいうような否定を欠いた一元的な楽観論に対してもも一定の反発があります。つまり、全体がコナトゥスのもつ人生をより充実したものにするための運動原理によって突き動かされこと、自己保全を成し遂げていく経緯を導入しているからです。ヘーゲルの二律背反的な弁証論にしろスピノザのコナトゥス概念にしろ、厳密に検討すれば、コナトゥスの全体像が、限りなく細分化され、無限に広がる個体のコナトゥスの競り合いから成立しており、個々のレベルでは、闘争がヘーゲルが批判するにも関わらず原理としては存在しています。更には、同時にこの闘争は、幾つかの個体を併せ持った共闘に昇華させることも出来得るという、単純な意味での否定性と肯定性といった二元論では分け隔てることが出来得ない思想的精緻さをもっていることから、スピノザの汎神論的統一論の正当性とヘーゲルの二律背反的な弁証論に統一的解があるのかどうかを見極めることは現代にあっても其の解をでどこまで示せるのかに困難が伴います。哲学・思想ランキング
2019年01月04日
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「霊魂論」エチカ詳解70 弁証論の覇者、唯物主義論の政治構成の構造の組み立てを共産主義に援用させた程のヘーゲルの所謂カントの云う二律背反(antinomy)的な弁証論法にとっては、最初に統一原理の存在のスピノザ論理学としての「神」は、同じ哲学の壇上にいるスピノザ論理学としての「神」は、世界内の矛盾とされる二律背反論法から真相を語ろうとする立場からは、スピノザ哲学は、コナトゥスいう根本的なものの歪を無視した楽天的な思想だと看做すのは至極当然です。然し乍ら、スピノザのコナトゥスの概念は、個々の物体の運動の基底を顕にしようしている。且つ亦、スピノザの基本的な運動法則は、デカルトに習い、個々の運動の継続を示しています。其のこと故に、運動の静止とは、他のものによってこの運動が妨げられているときに起きる。詰まりは、運動の静止は、他者の媒介による自己運動の妨害によって起きるということになります。然らずんば、スピノザのコナトゥスの概念は、ヘーゲルが批判するように、個々の物体の闘争を無視した楽天的な思想だということは出来得ない筈で不当だと言えます。然し乍ら、スピノザのコナトゥスは「根本的」なものとはするものの更なる「根元である統一原理の存在」想定していることは二律背反的弁証論法から真相を語ろうとする立場からは黙認すること相容れないのも合点がいきます。哲学・思想ランキング
2019年01月03日
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「霊魂論」エチカ詳解69 スピノザが「汎神論」者ではなく「反神論」を唱えるものとして弾劾しようとする教会派を非難するのは、ヘーゲルのスピノザ批判に応じるよりは理論的な演繹理論と論理で十分な筈ですが、相手は論理ではなく信教を至上に頂きますから、幾らスピノザの風貌が神父らしきものにしても協会信者の壇上では勝ち目がないのは見えています。信教には論理学はもとよりスピノザの倫理学が通用しないのは意の当然です。スピノザの教会権威に対する臆病とも云える態度を非難するむきもありますが、ヘーゲルのスピノザ批判とは御門違いで生命其のものはもとより焚書坑儒の危険もあり、安易にスピノザを問答法で著作を持たなかった「悪法も法なり」として毒杯を仰いだソクラテスと比肩し、スピノザを臆病風に吹かれたとするのは御門違いかもしれません、此れはガリレオ・ガリレイのガリレオ例が当て嵌まります。スピノザの論理に流れるのはスピノザ論の「神」と人間のコナトゥスの基(もとい)にした人間が律し実践すべき倫理の実践が基底なのです。世界内には際限に無縁な運動と静止の比率の変数によって生み出される多種多様な個体がある一方で、同時に世界内には運動と静止の根底として、在りと汎ゆる全ての運動と静止が根底にあり、存在を自己原因的に作動している或る統一的な要因がある。これがスピノザの捉えるコナトゥスです。「ものと概念の総体」である実体の大いなる運動が、コナトゥスであり、コナトゥスによって物体が作動され、異なった個体を生み出していく。個々の物体のコナトゥスを知っていくことが、あるものを理解するこということになり、このことから、スピノザの個体理解は、つねに物理学的であるということができるのできます。コナトゥスは恒常的に静止したものではなく動的なものです。スピノザの論理には、背景としてコナトゥスの背景には起動と終焉に関与しない「なにもの」かを起想させる存在が根底にありそうです。ヘーゲルには肯んぜないこともっともなのです。哲学・思想ランキング
2019年01月02日
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「霊魂論」エチカ詳解68 ヘーゲルの思想の根底にある否定の概念とは、和解すること相容れないものの闘争であり、主人と奴隷(master & slave)の弁証法にみられるような根本的な歪(ひず)みなのです。此の歪が事象の根底にあり、統一概念の成立を常に妨げることからのスピノザ批判です。然しながら、スピノザのコナトゥスの原理・定義は、際限ない運動と静止の比率の変数によって生み出される多種多様な個体がある一方で、同時に、すべての運動と静止が其の根底にあり、あらゆる存在を自己原因的に作動している統一的な要因があるとしたもので、「もの」と「概念」の総体である。実体の大いなる運動が、コナトゥスであり、コナトゥスによって物体が作動され、異なった個体を生み出していく。個々の物体のコナトゥスを知っていくことが、あるものを理解するこということになり、スピノザの個体理解は精神概念を含めて物理学的論理を根底にしています。其れがスピノザの演繹法を「エチカ」に採用した目論見であり本意なのです。ヘーゲルの和解することなき弁証法は思考の混乱としか映らないでしょう。哲学者スピノザは、汎神論を唱え人格神を否定しました。万物は「神の本質的な性質」が顕にされた表層ものであると考え、自然界を支配している法則の美しさと合理的な統一性の中に神があらわされていると唱えた万物に神を認める汎神論的で審美的なスピノザの哲学を受け入れていたアインシュタインは、自然を支配している物理法則の中に統一的な調和を見出すことを目指し、ヘーゲルとは意を異にしています。哲学・思想ランキング
2019年01月01日
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