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今年一年も色々ありました。激動の一年でした。振幅が強く、前半と後半は一年の辻褄を合わせるかのような状況になっています。前半は強い想念が霊感を高めチャネリングも上達しましたが、同時に想念の被りも増え、跳ね返せずに、強烈なマイナス意識で体を壊してしまいました。後半は、まあ人生これほどゆったりしたことは無い程ですが、現実の創造が意識によることがよくわかった年にはなりました。チャネリングは、いかに自身を改善できるか視点を得るためにあるのが本筋ですが、霊感や霊能力は決してよい面だけではなく、学びにより意識の変化を伴わない限り、自身を苦しめるだけだですね。お姫様がいうには、その苦しみすら本来は無いのだということですから、意識をどこに置くのか、それを学ぶことは必要です。。。12月の最初の満月は、久しぶりに場がすがすがしく感じたので、アマテラスオオミカミ殿に繋げましたが、問答の後半はコノハナサクヤ姫が御出ましになられたようです。アマテラスオオミカミ殿ただ聞こえることを素直に言葉にしなさい、それがお役目というものです。そこに何物の思いがあってはなりませぬ。人は神の目であり、口であり、鼻であり、そして手であるということを忘れてはいけません。誰もがそのお役目を背負い、生きていくことを望まれ、人の世に命を預けているのです。あれこれ考えるのはおよしなさい、それは自分を苦しめるだけ、目も口も鼻も皆持っているのです。それ以上何を望もうというのです。日の光は魂にとって生命線、届かぬところに命はありません。地上であろうと、海の中であろうとも、届く限り命はあり続けるのです。ですが、真の光は届いていません。それが神の世と人の世を分けているのです。真の光は、人の心に届くもの、皆が心を開くこと、神の世と同じになるということです。開いておらぬ故、社があるのです。社とは一人の人、人を通して光が皆に届くのです。コノハナサクヤ姫ほほ、アマテラスオオミカミ殿は、まこと、人の心をよく見ておるよの。一人一人が心に社を持てば、人の世ももう少しは、良くなるというものよの。皆に等しく光は届くのじゃ、光とは気づきの光よの、それが神の光じゃ、届いた光のままに、世に照らし返すのが、人の役目じゃ。その光が世に照らされれば、見える景色は変わるであろう、光が当たらぬのであれば、見える象は、自身が作り出したものだということじゃ。真の光とは真の姿を映し出すということよの。真の姿とは、人にとっては苦しいものであろう、それを見たくないのであれば、誰も岩戸を開くことは叶わぬということよの。いくら踊ってみたところで、気は引けぬということじゃ。気づいておらぬものの気は引けぬ、それは人の男女と同じだということじゃ。【ありがとうございます。】
2009年12月28日
心の栄養というと、私の場合は、旅行や音楽鑑賞や演奏などですね。感動は作曲家や演奏家の意識が自分の心に反射して起きること、魂を磨くとはそういうことかと。演奏は全くの初心者ですが。この場合の充実感は、エネルギーの解放ですね。その道を目指すのであれば、作曲家の意識を正確に写し取る技術と心は必要なのでしょうね。のだめカンタービレの再放送を見ていて思いました。。コノハナサクヤ姫【よろしくお願いいたします。武道、茶道などは型が重視されます。心があってこそ型があります。問答も神の心や宇宙人の心を自身の心に映し出すことだと思います。作法は心であり、大切だと思いますが、それに拘れば心が消え、外に自分を見ることになるようです。そうすると問答もできません。型とはどのようなものなのでしょうか。】ほほ、型に拘り続ければ、自由はなくなる、堅苦しいということよの。自由とはどのような型にも合わせられるということじゃ。心の姿が型になって現れるということよの、それ故、日本人は着物から食事に至るまで、全てを型として守ってきたのじゃ。道が礼に始まり礼に終わるのもそうじゃ、自身の心を相手に見せるということよの、それは自身の心を相手の型に見ることに他ならぬということじゃ。型が互いの心が留まる場所になるということよの、その場所で心を通い合わせるということじゃ。【礼節には得も知れぬ緊張感と清涼感があります、心の姿を態度で現すということだと思います。】礼とは刀じゃ、自身の心に立ち向かう刀ということよの。切っ先は自身だということよの。そして身を清めるということじゃ。刀に写るのは自身の真の姿だということじゃ。ほほ、形に拘らずとも心は伝わるものじゃ、態度がよくとも、心はそうでもないことも伝わるということよの。心を隠すことはできぬということじゃ。型とは移ろう人の心を留めておくためのもの、型に心が宿るということじゃ。道中において型は、その心を持っていく台座ということよの、それに乗って心が運ばれていくということじゃ。礼で終わるには、道中、心が運ばれることが必要じゃ。そうして日本人の心は今まで運ばれてきたということよの。運ばれた心はそなたたち自身の心だということじゃ。【八百万の神々という万物に神が宿るという日本の意識が型になっているのでしょうか。】水が静まれば鏡となり万物を映し出すよの、映し出すものを選んだりはせぬ、それが神であろうと何であろうと、水は拘ることはないということじゃ。型に拘らぬというのは、水と同じだということよの。心が静まれば、それに映る姿は何であろうが、拘らずともよいということじゃ。水は光を反射させるだけよの、心も自身の意識を反射させるだけじゃ。それ故、万物には神は宿らぬ、自身の心が宿るということよの。人は自身の真の姿を万物に見て取っていたということよの、その意識が型だということじゃ。【ありがとうございます。】
2009年12月11日
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