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昨日の朝、窓の外をみていたら、中学生、小学生がぞろぞろと登校していくのが、みえた。小学生の夏休みが今年から短くなると、うわさには聞いていたけど、いつからなのかは、具体的には、知らなかった。でも、昨日から早速登校がはじまってしまったらしい。こんなに夏休みが短いなんて、なんかかわいそう。でも、実際には、今の子どもは、夏休みといっても、結局、休みの時間があれば、塾に行かされちゃうし、さもなきゃ、習い事か、部活動で、埋まってしまう。それもないと、一日中部屋でゲームかネット。昔のように夏中外で元気にあそぶなんて、たとえ親が望んでも、そうはならない。だとすると、さっさと学校に行って、学校内で、クラスメイトと、遊ぶほうがまだましかもしれない。ゆとり教育がはじまって以来、かえって、ゆとりのなくなる一方。授業内容を減らせば、勉強の足らないぶん、きっちりした親は、子どもを塾に行かせるし、そうじゃない親はなんにもしないので、子どもの方は、勉強不足で、高校もままならず、中途でやめたり、いきたい学校にいけなかったり。結局のところ、いい効果はなかった気がする。それに、今はクーラーもあるし、先生たちは昔と違って、たとえ授業がなくても、夏休みでも、学校に出勤しなくてはならなくて、時間があるので夏休みの部活はいそがしい。そういうことが、影響して、息子のバイトも昨日から、がくっと減った。なにしろ、昼間の授業は夏休み中しかできないのに、昨日から学校はじまったのですから。こんなところにも、影響でるんですね。塾業界は大ダメージでしょうねえ。なるほどと、思いました。ゆとりを作るはずのゆとり教育の結果は、結局ますますのんびりできない子どもたちの夏休みの減少という成果となったのでした。これから先、いったい、学校は、どうなるのでしょうねえ。それでも、私の頃よりはずっと、カリキュラムは、まだまだ少ないはず。昔、小学5年生になった時、毎日6時間びっしりある時間割をわたされて、こんなに勉強なのかと、うんざりした覚えがありますが、娘の時は、最高でも、週4回が5時間でしたからねえ。もう、子どもたちが卒業してから、少し厳しくなったのでしょうか。うちは、ちょうどゆとり教育のハザマにあたっちゃって、ほんとに損した。でもって、子ども育て終わったら、今度は課税される挙句、そのお金は、自分はもらってないのに、今の若い子育て世代へわたされるなんて、ほんとになんでいつもこう、タイミング悪いんだか。なんかすごく腹立たしい。子育て資金配るにしても、私たち子育てに一番お金かけさせられた世代から取るのは、止めてほしいですよね。どっちかというと、ゆとり教育のせいで損したぶん返してほしいくらい。教育機関を充実させるために使われるならまだしも、現金が直親に配るくらいなら、やめてほしいです。ああもう、だんだんきりがなくなってきたかんじ。今度の日曜は選挙だけど、投票したくない。
2009年08月26日
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大学二年生です。ほんとに大学行ってるのか、授業してるのか謎なくらい、時間余ってます。というか、毎日昼前まで寝てます。そして、夏休み2ヶ月春休み二ヶ月。あんなに必死に、勉強してお金かけてはいったのに、大学っていったいなんなのっと、ものすごく疑問な毎日です。 大学は時間を買うところ、勉強したり、遊んだり、バイトしたりして、いろんな経験をつんで、有意義にすごすところ。と、思ってましたけど、実際、子どもが大学生してるのをみてると、すごく疑問です。バイトするために、受験勉強したわけじゃないです。そして朝寝して、夜更かしして、ぐうたらにすごすために、大学にいかせてるわけじゃない。タップリの休みと時間があって、バイトするくらいなら、さっさと卒業させて、就職させて、ほしいです。バイトで稼げる金額なんてたかがしれてるし、バイトさせるために、大学に授業料はらってるわけでもないのに、どうしてこんなに休みがあるんだか。こんなにのんびりする時間があるなら、その時間を買うために、受験勉強させるより、その時間を受験勉強のために、つぶした、高校生時代にまわしたいです。 大学受験のために、高校の授業がいろいろと犠牲になってたと思う。美術とか、家庭科とか、結構大事な科目なのに。受験がなければ、クラブだって、三年間たっぷり、卒業までできるのに。 なんか納得いかない。がんばったんだから、大学ぐらいのんびりするもの。と、思ってたけど、だったら、高校時代をそのぶん有意義に過ごしたほうがいいような気がする。 で、考えたんだけど、大学受験とかなくしたらどう。高速道路だって一律千円のご時勢なんだし。全部単位制にして、必要な単位がとれたら、2年でも、三年でもいいから、そこで卒業にして、バイトなんかしてないで、受験しないぶん、大学でがんがん勉強して、さっさと就職したほうがいいと、思う。せっかくの20代の一番カラダも頭も使えるいい時代を、大学なんてとこで、バイトやクラブなんかでだらだらすごしてるなんて、もったいなさすぎる。 国民的損失だと、思うわ。 大学受験のせいで、高校のすごく貴重で、いろんな科目を勉強したり、クラブでいろんなことをまなぶ時間が犠牲になってると、思う。しかも、受験のための勉強って学問ていうより、特別な勉強だし。受験テクニックとか、試験で点をとるための勉強だったりする。無駄が多すぎる。受験のためにその科目に集中しちゃうぶん、他の科目は切り捨てられちゃうし。 本来大学がのんびりしてるのは、教授がゆっくり研究する時間のためで、そのあまった時間で講義してるものだとは、思うけれど、だったら、もっと、世の中にあまってるポストドクターをどんどん講師や准教授として、採用した方がいいと、思う。いま、ポスドクの人っていっぱい余っていて、その人たちは、しかたないので、受験塾の講師をしていたりすると、思う。大学の勉強して、知識があるのに、受験勉強教えることにその人材を使っているなんて、もったいなさすぎる。 教育資金だって、受験塾に払うより、大学に払うほうがずっといい。教育費が今、塾と、塾講師(ポスドク)に払われている。これを、大学とポスドク(今の塾講師)に払うほうがずっといい。 今、ワークシェアって、工場の工員くらいにしか、広がっていないけれど、本来ワークシェアはもっと、社会全体の全ての職業でおこなわれていっていいはずだと、思う。それで、大学の教員なんかも、ワークシェアしていいのでは。 そして、大学が時間があってバイトしながらなのは、もともと学費を自分で稼ぐアメリカなどの外国の学生に合わせたシステムだけど、日本のように学費をほぼ親が出していたりするなら、その制度は意味がないのでは。まして、奨学金をもらっているなら、それを返すためにも、大学はさっさと卒業して、ちゃんと就職したほうが、稼げるし、早く返せるのでは。 大学も、受験をなくして、たくさんの学生をいれて、いろんな講義を単位として、とれるようにして、多くの学生により多く講義を提供すれば、収入も増えるはず。(今は法的に人数の規制があるらしいけどね。)学生は大学に所属せずに、どこの大学の授業でも取れるようにする。今現在もいくつかの大学では単位互換性が導入されているわけですし。どこの大学の講義でも、取れるようにして、必要な単位数がとれたら、卒業にする。どの大学の授業でもとれれば、地方の人は地方の大学で、講義を受けられるのでは。いろんな大学に教授が出張していくわけですね。学生が移動するんじゃなくて、教授が移動する。ってことになるのか。 高校の授業を普通にこなせば合格できる程度に易しい試験で、指定点以上とれれば、合格できるようにして、それに受かれば、大学にいけるようにする。指定点以上とれれば、何人でも、合格にする。そして、講義のレベルを5段階くらいに設定する。Eレベルの講義の単位を指定数とると、Dレベルの講義がとれるようになるというようにして、ランクアップしながら勉強していく。きちんと勉強しないと、単位が取れないように厳しくする。だから、Aレベルの講義はなかなか単位が取れないので、その単位をもっていると、今の学歴のように優秀であることの証明になるはず。講義も、4ヶ月とか、3ヶ月で終了して、そのサイクルで次々と講義をとっていけるようにします。低いレベルの基礎的な講義は地元の自宅から通いやすいところにある大学でうけて、最後の一年間だけ、Aレベルの授業やゼミのために、中央の大学に通えば、自活の生活も一年くらいですんで、親の負担も減るはずです。いままで、金銭的にくるしくて、都会に行くのは無理と思って断念していた家庭でも、最後の一年だけなら、何とかなるかもしれません。とにかく、自宅から通えるところで、講義を受けられたら、学生も親もラクです。通学も短時間ですみます。そして、大学院などに行きたい考えているなら、大学自体を短縮して、先に進みたい学生もいるはずです。また、自宅から近い大学に行きたくても、うからなくて、わざわざ遠い大学に行かざるを得なかった学生もたすかるはずです。 全ての人には、大学の講義をうける権利があってもいいと、思うのに、今現在、人数制限で、切り落とされる。そして、合格した生徒は逆に授業をサボるのが大学の常識っていうのも、なんだか納得できない。その挙句、大学なのに、すごくつまらない授業だったりする。 就職活動に一年もかけてるのだって、おかしい。新卒採用なんてなくして、卒業してから、一週間とか、一ヶ月で普通に就職すればいいと、思う。つまり、大学生時代の就職活動自体も、禁止とかすればいいのに。 大学受験は、廃止したら、どうなるのかなっと、つらつらと、いろいろと想像してみました。あとは、普通の大人ももっともっと大学の講義受けられるようにしてほしいですね。大人も大学。単位なくてもいいから。 ↑家族に評判です。おいしいらしいです。 私はたべられないけど。
2009年07月23日
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長男の入試以来の感覚で大学の授業料をかんがえていましたが、再度もう一度みてみたら、値上げしてるじゃん。 びっくり~~~~~~。 慶應大学は、たしか、長男の受験の時は、次年度からは、入学金はなくす予定だったはず。なのに、まだちゃんと入学金あるじゃない。それでも、とりあえず、以前よりやすくはなっていますが、そのぶん、普通の四年間払う授業料は高くなってるし、全部たすと、かなりの値上げですよ。そんなばかな。そして、他の大学をみると、のきなみみんな、慶應にあわせるように値上げしてあります。入学金を除いても、授業利用と、施設費当島で、90万以上、100万弱。こんなに私大ってたかかったっけ? 二年前の長男の時は、国立大学の授業料がどんどん高くなっていて、私立大学との開きがあまりなくなっていたので、このまま、私大と国立の授業料の差は、ちぢまっていくのだろうと、思っていました。 ところがどうしてどしうて、私大は、国立の値上げをいい事に、さらに値上げしているようです。国立が高くなるってことは、私大の値上げをしやすくしているだけです。国立を値上げして、私大との差をなくすためじゃなかったのか。かえって逆効果ではありませんか。 そして、どうして、私大がこんなに値上げしているのか、と思ったら、先日読んでいた『クルマは家電量販店で買え!』という本にその事情が書いてありました。授業料だけでは経営の苦しい、そして収入をもっと上げたい私大がどこもみんなも金融商品に手を出していて、特に危険な「仕組債」による大損をしているそうです。慶應は、226億の損失(2008.3)だそうです。そして、授業料だけではたりないから始めたはずの金融投資での損失を授業料の値上げで埋め合わせしようとしているわけです。 なんかもうほんとにびっくり。 そういう大学のミスがわれわれ保護者によって穴埋めさせられようとは。 慶應大学は、特に経済学部が看板学部の大学なのに、その大学が金融に失敗しているのでは、慶應で教育受けても、金融や経済に強く慣れるのか、危うい気がします。慶應は、大学の中でも、プライスリーダーなわけで、その大学が値上げなんかすると、他の失敗していない大学だって、コレを好都合とばかりに、みんな横並びで、値上げするわけで。 カンベンしてほしいです。 来年の娘の受験の頃はどうなっているのか。こういうものは、値上げはしても、値下げは、しませんからねえ。 大学の案内をみながらくらくらしてきました。懐がずきずき痛いです。
2009年07月16日
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『翼をください』を検索していて、この曲がかつてのフォークソンググループ赤い鳥のレコード「竹田の子守唄」のB面だったことを知った。 で、A面の「竹田の子守唄」を調べてみたら、部落差別を歌った歌という取られ方もしていたらしい。というわけで、こちらのサイトを読んだのだけれど、この歌だけでなく、日本には、随分いろんな子守唄があるらしい。そのほとんどは、奉公に出された子どもが奉公先の家の赤子を子守するその辛さをうたったものであったらしいのだけれど、そのほとんどが、辛い、さらには、殺したいほど憎いというような内容であるという。 これらの歌詞を読んでいて思った。私だけじゃなくて、やっぱり昔から子育てって辛いものだったのだなと。 これほど歌い伝えられるほど、昔から、子守、子育てはつらいものだったのだと、思った。それは、子どもにかぎらず、大人であってすら、結構しんどい。 それでも今の大人が耐えられるのは、あくまで今の時代子どもはせいぜい二人くらいしか育てないからだと、思う。奉公に出された少女は、奉公先の子どもを奉公の続く間ずーっとずっとずっと何年でも、子守し続けなければならないのだろう。 もし、子育てが楽しくて幸せなだけのものなら、奉公先の奥さんが大切なわが子を外から来た十代前後の子どもに預けたりするだろうか。一番しんどい仕事だからこそ、弱い立場にわりふられるのではないのだろうか。 今は、子どもを育てるのは、その子どもを生んだ母親であるけれど、それでもやっぱりつらくてしんどい部分は多い。それなのに、自分が実際に子どもを生んで育てる立場になるまで一切そういう情報は、なかったなと、思う。それよりもどちらかというと、子どもを育てるのは、女、母親、そして、母親であれば、母性本能があって、子どもを育てるのも、かわいいと思うのも、愛情を感じるのもごくごく当たり前で普通のこと、子どもを育てるのは幸せなことと、思い込まされていたことだ。 もちろんわが子はかわいい。でもそれは、上から強制される種類のものではないだろう。 これほど連綿と歌い継がれるほど、しんどいことがいつのまにか、隠されて多いつくされて、子どもを育てるのは、幸せなことという一方的な情報だけが渡されていたのだろうか。 子守唄に歌われる子守、子育てのしんどさは、必ずしも、実の親と離されて、奉公にに出された子守の少女だけのものではないだろうにと、思う。 ああそう。ずっとずっと、昔から、子育ては、しんどくてつらいものなのに、テレビやマスコミは、子どもを殺す母親を批難して、愛情はあって当たり前みたいに偉そうに言う。 こんなに大変な子育てをしている女性たちにたいして、社会はなんてつめたいんだうろと、思う。実質的に働いている男性たちには、実際の報酬がしはらわれるのに、無給で子育てをする女性への社会的な保障のなんと浅くて冷たくて、不安定なこと。 女性たちが無給で育てた子どもたちが、その先の社会を作っていくものなのに。 守り(もり)もいやがる 盆から先にゃ雪もちらつくし 子も泣くし 盆が来たとて 何うれしかろかたびらはなし 帯(おび)はなし この子よう泣く 守りをばいじる守りも一日 やせるやら はよも行きたや この在所(ざいしょ)こえて向こうに見えるは 親の家(うち) ちなみに、竹田の子守唄の元歌の中に出てくる『久世の大根めし 吉祥の菜めし まだも 竹田のもんばめし』の部分ですが、まずしさゆえの、貧しい粗食としての描写なのですが、これらのメニャーは、今のメタボの時代には、優秀なスローフードとして、高い評価を得て、もてはやされそうな食事です。お金持ちになった挙句、過食でメタボで命と健康が危なくなっている現代。一見粗食にみえるけれど、今の栄養学でみればかなり優秀なスローフードであるとは、なんとも皮肉な話です。『竹田のもん場飯』とは、米に豆腐のオカラをまぜたご飯のことだそうです。食物繊維や、女性に重要な大豆イソフラボンや、両性たんぱく質を多く含んだ食事だと、思えます。はああ。ダイエットによさそう。そんなこといったら、この当時の人たちには、おこられるだろうな。 CD/赤い鳥/ゴールデン☆ベスト 赤い鳥 翼をください~竹田の子守唄 (Blu-spec CD) (完全限定生...
2009年07月04日
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男と女は違うと、つくづく思う。これはやっばり、育ててみないとわからない。とにかく、家畜と野生の動物くらいちがう。女の子はちょっといえば、やるのに、男の子っていってもいってもやらない。その上で男の子を育てていて思うのは、マイナスの経験をさせたほうがいいかもしれないということ。 一番いいのは、自分ひとりで下宿生活させることなんだけれど、大学生の段階でとなると、その経費は親がださないとならないので、我が家の家計では無理。昔のような苦学生は、今はいない。 せめて、朝起こすのをやめて、起床くらい本人に任せたいのだが、それで、遅刻を重ねた結果、大学にいかなくなったら、と思うと怖くて出来ない。朝の起床は、起こすための声かけに娘の数倍かかります。もう私自身いやでいやでしょうがない。 本当は、遅刻して単位落として成績ぼろぼろで留年してなんていう、ぼろぼろの底辺とか、経験させてみたいんだけど、日本という国は、失敗を許してくれない国なので、きびしいですね。許容範囲は一浪くらいまで。 特に能力の高い男の子ほどマイナスの経験をさせたほうがいいんじゃないかと思う。結局一度も挫折することなく、出世していったのが、官僚、事務次官、会社の中の経営幹部だったりするわけで。挫折経験がない分、人の痛みや辛さがわからない。だから今いろんな不祥事や偽装事件が暴かれていたりする。 女の子の場合は、もともと共感性が高いので、挫折とか経験しなくても、意外と他人の気持ちが分かったり、他人に配慮したりできるのだけど、男の子は挫折でもしないと、感度がにぶいので傲慢になりやすい。 だから、今の日本の社会の上のほうにいる人たちって、自分の利益しか考えないようなことができるんじゃないのかと思う。 いぜん、『男の子の育て方』という本と『女の子の育て方』という本が本屋さんで平積みで売っていたのだけれど、私が行った時には、すでに、『男の子の育て方』の本は一冊残っていただけでほぼ売り切れ状態だったけど、『女の子の育て方』の本はまだ山済みだった。男の子の本だけすごく売れた、ということで、やはり男の子の育て方に悩んでいるお母さんは多いのだなと思った。女の子は所詮同性だし、聞き分けもいいし、もともと自立していて、自己管理能力も高い。少ししつければ、後は大体自分でできる。勉強も片付けも。ところが男の子は言っても言ってもやらないことが多い。注意するこちら側が疲れてきて最後にはあきらめてしまいかねない。 けれど、女の子とまったくおなじに育てることはできないし、そういうことをすると男の子本来のよい部分までつぶしかねない。 家事や日常のことをきちんとさせすぎると、その分、男の子は本来の注意力やエネルギーが落ちてしまう。全速力で走ることや力仕事というのは、常にやり続けることは出来ない。ある程度やったら休まないと、体が持たないし、そもそも出来ない。お産や子育て、家の管理は低い集中力で長く維持しつづけていかなければならない。女の子は持続力、男の子は瞬発力なんだと思う。 でも、いつもだらだらのんびりしている男の子がある日突然ぴょーンと、階段を三段跳びするように、成長する時がある。中学に入ったばかりの時には、未熟でおさなかった息子が高校を卒業する時には、後輩を指導したり、自分で判断して自己管理しながら、受験勉強ができるように、高校生として、きっちり成長していたことを思い出してみると、やはり、大学を卒業するころには、きっちり大学生らしく成長しているかもしれない。 中高の頃不安で心配でいろいろといったこともあるけれど、もしかしてそんなに心配することはなかったのかもと、今なら思う。でも、その時は、やはりどうなるかわからないから、いろいろと、心配で注意したり、いろいろ言ったり。 そういえば、母の八人兄弟のおじさんおばさんたち。男5人と女3人。そのうち、男一人は、早世。一人は、障害があって、生涯独身だったし、一人は家を継ぐはずが、いやになって、嫁さん残して家をでてしまった。結局残った末っ子が家を継いでいた。でも、女3人は、3人とも結婚してみんな元気で健康にいまだに暮らしている。やっぱり男と女はちがうのかも。 生物学的にも、男の子の方が生存率が低くて、弱いから死にやすいぶん、出生率は、少しだけ女の子より高いらしい。 男子校のいいところは、周りのおかあさんがみんな男の子の母なので誰と話しても、男の子を育てるしんどさで話が通じること。女の子だけしかもたないお母さんだと、しつけが悪いといわれて終ってしまうから。そのあたりが男の子をもつ母の辛いところ。 男の子を育てていると昔両親が兄のことでいつもすったもんだして苦労していたこと、愚痴を言ってたことを思い出す。息子のことで悩むたんびに、両親が昔こぼしていて、兄に苦労させられていたことを思い出す。それでも、別に兄は普通に高校いって、大学にいって、就職して結婚してるのだけど。それでも、そのつどいろいろ困っていたってことだ。そして、今、息子のことで悩んだり、困ったりするたんびに、兄のことで悩んだり、困ったりしていた両親のそのつどの行動や兄に向かっていっていた言葉の数々を思い出すのだ。そして、納得したり、参考にしたり、おんなじなんだなとおもったり。今の私の息子は、昔の私の兄にそっくりなのだ。今頃、親の苦労がしみてきたりして~。 まあねえ、要するに言いたいことは、男の子は育てるのが難しくて大変てこと。
2009年01月21日
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娘とおしゃべりした。彼女が幼稚園の時のこと。小さな子供だった時のこと。 「幼稚園の時一緒だったSちゃっんてね。ちょっとこわれてて、話をすると、ちょっと危ない子だったんだよ。だから、あんまり友達もいなかった。」「えー。だって、Sちゃんのお母さんて、すごいいい人で、しっかりしてたのに。それと、Aちゃんのお母さんと仲良かったけど、Aちゃんはどうだったの?」「Aちゃんも少し変な子で、やっぱりあんまり友達いなくて、ひとりだった。」「じゃあ、変な子どうしで、一緒にいたの?」「うーん。あの二人同士も、それほど仲よかったわけじゃないし。」 うーん。びっくり。大人の視点でみていると、ぜんぜんわからなかった。びっくり。 「でも、Rちゃんは、すごくいい子だったんだよ。私と遊んでる時に、他のお友達から遊ぼうっていわれた時、『今は、Mちゃんと遊んでるから、駄目なの。ごめんね。誘ってくれてありがとう。』って言ってくれたんだよ。」 どひゃー。ポニョと同じくらいの5,6歳だったはず。子供でも、そこまでの言葉って出るものなのですか。Rちゃんのお母さんは、絶対役員を引き受けなくて、そういうちょっとわがままなイメージだったのに。未だに気の利かない口下手な私には、ただもうオドロキです。しっかりしてる子は既に、子供の時からしっかりしてるものなのですね。お母さんのしつけがいいのか。お父さんの遺伝子なのか。どうなのだろう。 お母さんと子供って、ぜんぜん性格違うものなのですねえ。いまだからこそ、分かる真実。子育ての最中には、わからないものでした。 「じゃあ、Yちゃんは?」「Yちゃんは、なんか子供なのに、妙に大人びてクールでさめてるような子だった。」「うーん。Yちゃんのお母さんは、一人っ子のYちゃんにずこく過保護なおかあさんだっのに。体が弱いってすごくいつも気にしてたよ。幼稚園よく休んでたの?」「え?ううん。ちゃんときてたよ。それほど、休んだこともないし。」 うーん。小さい子って、そもそも大人に比べて、よく熱をだすし、病気になるし。でも、それを知らないと、うちの子は弱い子なんだーっと。思っちゃうのかも。うちの娘だって、よく熱をだして、どれほど、医者にかよったかしれません。でも、そんなものだと、思ってました。だいいち、私が遊びの計画たてると、その日に限って待ってましたとばかりに、熱を出したくれたし…。 「私、Yちゃんがいつも着てる服がすごくうらやましかったんだよ。」「えっ、どんなやつ?」「シックで大人っぽいの。紺とか、よく着てた。お母さんは私にいつも、赤とかピンクとか、やたら、かわいらしい服ばっかり着せようとしてたけど、わたしは、シックな服が着たかったんだよ。紺色の服とかがすごく着たかったの。でも、お母さんがうるさいから、もう仕方ないと思って我慢してきてたの。」 えー。だって、娘は、二歳の時からいきなり、自我が出てきて、私のいう通りにはぜったい服を着ない、ものすごく頑固な子供だったのに。それでも、お金がかかるので、娘の服は親戚からのもらいものや、ババサマたちの買ってもらったものばっかりだったので、私が私の好みで娘の服を買ったことなんて、ほとんどなかった。その限られた服の中から、娘が自分で着る服を着て、幼稚園に行ってただけ。でも、その服のほとんどは、赤やピンクのかわいいもの、フリルのついたものだった。 でも、幼稚園くらいの女の子に赤やピンクや、フリルや花柄を着せるのってごくごく普通のことだけど。それに、そのころ、子供にも、大人の女性やお母さんが着るような大人っぽいシックな服を着せて、親子でペアルックとか、流行っていたっけ。でも、わたしは、そういう大人の都合と好みと趣味を子供に強制して、親子で都会的なしゃれたファッションていう発想がきらいだったのです。 それに、学生時代の制服がずーっと紺だったわけで、地味な私の顔に紺は、ますます地味が増強されるようで、嫌でいやでしょうがなくて、学校を卒業して、紺を着なくてすむようになった時、すごいうれしかったのを思い出しました。そのあとは、自分の好きなピンクばかり着てます。人間が地味だから、きれいな色を着ないとゴミタメみたいになっちゃうの。 だから、娘にも、紺のようなシックな色を着せるなんて、およそ考えたこともありませんでした。でも、当時五歳だった娘がそんなことを考えていたなんて、ちっょと オドロキ! でした。五歳の子供といえども、結構、いろいろ考えていて、大人のように、シックな好みをもっていたりするもなのですねえ。ふつうの五歳なんて、子供で、なんにもわかってなくて、毎日ぽあーんとすごしているものと、思っていたりするのですが、やはり、子供といえども、人間なのですね。ポニョだって、だから、あんなにいろいろ自分の意志で行動してるのは、ほんとに普通のことなのですよね。 そういうわけで、紺の好きな娘は、今、紺と白で出来たセーラー服を毎日うれしそうに来て、意気揚々と学校に通っています。
2008年08月07日
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上の子が大学生になって、下の子が高校生になって、一段落して今思うのは、またちっちゃい子がいたらかわいくてたのしいな、できればたくさんたくさん子供が欲しかったかなということです。 たくさん子供が欲しいと考えてるお母さん、女の人は、結構いると思うんだけど、実際には、今の日本では二人が標準。あとは、諸事情で、一人とか、ちょっとがんばったから、三人とか。私の知ってる中では、五人というツワモノのお母さんもいますが、そのあたりが限界かな。それというのも、やっぱり、子供を育てるのは大変で、まして今は、親と同居というより、核家族の方が多くて、子供はほとんど母親が一人で育てなくちゃならない状況なのですから、やっぱり二人がせいいっぱい。それに、昭和の中期くらいから、家族四人が日本の家庭の標準モデルケースみたいに、政府に洗脳されちゃってるからね。中国の一人っ子政策みたいに、過激じゃないけど、日本でも、法的な制約という形ではないにしろ、いろんな方法で、家族は四人、子供は二人というような形を政策によって、作られていて、今の日本の家庭の子供は二人がほぼ標準。いろいろ子供がらみでしりあった家庭も子供のクラスのいろんな子の家庭も基本的にはほぼ二人でした。車のコマーシャルなんかも、みんな家族四人でセダンにのって休日はおでかけなんていうパターンが多いしね。テレビドラマもほとんど家族四人でごはんたべてるしね。 それになんといっても、教育費がかかるかかる。昔は、中卒が普通だったのに、いつのまにか、せめて高校まで出ないとってことになってて、今じゃ大学までなんてのも普通なことになりそうな勢いだし。そこにさらにゆとり教育のおかげで塾に生かせるのまでふつうのことになってきちゃって、今じゃ塾行かない方がめずらしいなんてご時勢だし。大学までいかせるとお金かかるけど、高校までだってなかなかどうしてかかります。となると、やっぱり二人が限界だなあと思います。ほんとは二人でも厳しいんだけど。しかも、お金のある家庭ほど子供の数って少ないんだよね。 それに、妊娠と出産てきついんだもの。二人までが肉体的に限界です。 それでも、そんなしんどさがなかったら、子供をたくさんて、楽しくていいかなとか思う。それに、子供がたくさんいれば、親のことも考えずに、世界中をまわる旅行にいっちゃったり、中卒で外国にいっちゃったり、そのほか思いもよらないような馬鹿なことしても、やらせてあげられたかもとか思う。たくさん子供がいたら、そんなことをする子が一人や二人はいるだろうし。放蕩息子がいたらそれはそれで面白いだろうに。でもま、息子も娘も一人しかいないし、やつぱり無難でまじめな人生を選ばせちゃうよなあとかも思う。ほんとうは、息子も公立中に行かせて、本人だけの意思で高校や大学を選ばせるつもりだったのに、ちょっとしたことで私立の中高一貫にいかせることになって、そうなると大学受験は当然のことになって。もし彼が彼だけの意思で人生を選んだらどうなっていたのだろう。それでも、最終的には同じような道を選んだろうか。 安藤忠雄や2チャンネル管理人のヒロユキくんみたいな生き方も面白いのに。 でもどんなに子供がたくさんいても、やっぱり親ははらはらはらはら心配するもので。 でもねえ。10何年子育てしてきて、子育ての中で一番しんどかったのは、勉強させることでも、受験のしんどさでも、しつけの大変さでも、なくて、ちっちゃなまだ人間になっていない幼いわが子の遊び相手を毎日毎日しなくちゃならなかったこと。相手はまだ人間じゃないから、言葉のやり取りはできても、知的な会話、人間の会話にはならない。教育を受けてきた大の大人が毎日毎日、二歳、三歳、四歳の子供の知的レベルにあわせた会話や遊びを何時間もしなくちゃならないのは、結構しんどくてつらくて、退屈。退屈で退屈でしんどかった。それが一番しんどかったんだよねえ。 毎日かわいいわが子と一緒にいられるんだから幸せでしょって周りの人間とか、ダンナとかは、思うみたいだけど、それとこれとは別ダモン。だから、子供が大きくなって知的な会話が出来るようになった時はうれしかった。 ところで子供がたくさんいると、三人目、四人目からは上の子が相手してくれるから結構楽らしいですね。そんな風に子供同士で群れてじゃれて遊んでる姿はきっとほほえましいです。 子供はたくさんいたら、楽しいけど、あああ、やっぱりやっぱりやっぱり大変だな。
2008年04月19日
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東大の入学式に保護者の出席が多すぎるという東大入学式の安藤忠雄氏の言葉がニュースになっていました。 私には親が出席することが悪いとは思えません。親は子供の受験のために数々の労力と金銭をかけているのですし。私も子供の受験のために、お弁当をつくったり、毎年のように先生と面談をして、親子で志望校や買う問題集や勉強についての話し合いをし、塾で夜遅く帰ってくるまで寝ないで待っていて、ご飯を用意したり、したものです。 その子が晴れて合格し、その入学式に親として参加するのがなぜいけないのでしょう。 でも、東大としても、新入生一人につき二名までは、許可しているそうですから、両親までは出席を許可しているのでしょう。というのも、東大ともなると、親だけでなく、おじいさんや、おばあさんや、おじさんや兄弟や、下手をすると、いとこまで、つまり、一族郎党が参加してしまう。そのために、新入生自体の席がなくなってしまうという状況になりそうだったからです。それで、さすがに、東大としては、二名までということにしたのだと思います。 それとは別に今年の学長安藤忠雄氏は、放蕩息子でさんざん遊びまわった挙句、世界中を放浪して回り、難関大学の受験なんか経験していません。そのこと自体は面白い人材だと思いますが、親がそんな子供をいかに心配するかなんて安藤氏には分かりそうにありません。 ところで我が家でも、息子の入学式(うちは東大じゃないですけどね)に家族全員で参加しましたが、別に子供のために付き添ったわけではなくて、天下の有名難関大学の学長が入学式でどんな話をするのか聞いてみたかったからです。そのあとにも、大学OBの講演会があってきいてみたかったからです。こんな機会でもなければ、大学の先生のお話を聞く機会なんてないですから。関係なくても、入り込めるかもしれませんが、やっぱり、普通の時に行く気にはならないものです。 息子の大学でも、夫婦での出席は少なくなかったです。会社を休んでまで、わが子の入学式に出席するほど、教育熱心な父親が増えている。国全体が教育に熱心になり、国民全体の教育レベルが上がることは、国の政治が安定することであり、、国民のレベルがあがることであり、それは、よいことであると私は、思います。 入学式にでているだけで、何も、子供の毎日の登校にまでくっついてくるわけでもないのですからなにもめくじらたてるほどでもないし。ただ、これ以上人数増えると入学式のできる場所がなくなっちゃいますね。 大学に上げるまでにかかる莫大な教育費をかせいだのは、だれでもない、お父様方なのですからね。ちなみにレベルの低い大学の入学式ほど親の出席率は低いのではないでしょうか。だって、そのくらいの大学の学長のお話なんて興味わかないもの。それにそういう大学の学生になると、その家庭も教育に関心うすいですからね。
2008年04月15日
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なにやら世間があわただしい。ブログをひっこしたり、やめちゃったりというお友達が増えて、おちつかないですねー。エイプリルフールだからなのですか。でも、みんな本当みたい。わたしは、くそまじめな日本人なので、このエイプリルフールというのには、どうしてもついていけません。 受験が終って、合格発表が終ると、とたんーにスコーンと暇になるのかなと思っていたら、なんやらかんやら忙しくて、ゆっくりブログを書く時間が全然とれません。たいした要もないのに、あっというまに、毎日が終ってしまいます。しかも、腰痛で接骨院にもいかなくちゃならないからなおさらです。 合格が決まるとまず山のような書類の山をわたされて、いろいろな個人情報をかいたり、授業料を引き落とす口座をきめて、銀行に手続きにいったり、学生証に貼る写真を撮りにいかせたり、入学祝いをいただいて、そのお返しを買いにいったり、お礼にいったり、入学説明会に行ったり、制服をつくったり、体操着や上履きや教科書や問題集や、辞書を買ったり、古い教科書やノートやたまりにたまったプリントをまとめて、処分したり、入学説明会にいったり、スーツを直したり、卒業式や、謝恩会もあったし。それに疲れがたまっていて、ちょっと頑張るとなにやらすごく疲れるので、なかなか進まないんですよね。それでもさらに、制服の下に着るシャツや上に着るセーターや、かばんや、靴も買わされてしまいました。女の子の買い物は大変ですね。 そのほかにも、大学って、合格の決まった後もお金が出て行くのですね。入学金や、合格権利確保の為のお金やらいろいろ出てて既にキャーってほどなのに、さらに、今度は大学生協の出資金や新入生歓迎合宿の費用や、同窓会の会費やら、通学時の事故のための保険やら、なんだかんだで、かなりの出費でした。入学金とか、授業料は予定してるけど、それ以外にこんなにいろいろかかるなんて聞いてないですよ。しかも、これから、大学の授業用のテキストとか、通学定期とか、まだまださらに買わないとならないんでしょうね。 それにそれに、大学生は私服なので、これからいろいろとジーンズとか、シャツとか、ジャンパーとか買わなくちゃならないのでしょうねえ。 私の時は、もう自分のお小遣いと定期とお昼ご飯とかは自分でバイトして買いなさいと、言われました。いやあ、厳しかったですね。これが普通なのかな。ただねえ。私はこれがあまりにもしんどかったので、自分の子にはここまで厳しいことはいえない気がします。しかも、うちのダンナはお坊ちゃんだったので、大学にはいっても、バイトはしないは、クラブにははいってないわ。いったい、何してたんでしょうねえ。でもって、うちの息子、とても、バイトを始めそうにないような気がします。こんなに能天気なお坊ちゃんでいいのでしょうか。我が家の財政も厳しいのですが。でもわたしは子供に甘いので厳しいことがいえないんですよお。 ま、大学まで往復で4時間もつぶれるのですから、初めのうちはそんな余裕はないでしょうねえ。 そのうえ恐ろしいことに大学にもらったパンフレットには、まるで大学にはいったら、パソコンまで買わなければいけないようなことが書いてあるのです。しかも、大学生協お勧めのパソコンはなんと22万もするセット、プリンターつき。いまどきの大学って授業もパソコン持参なの?と、思いましたが、どうやら、自宅に一台あれば良いらしいです。 これからまだまだいろいろお金がでていくのかなあ。 どうして毎日忙しいのでしょう。ゲームもおちおちできやしない。のんびりとブログを更新できるのはまだまだ先みたいです。 ところで、私の「ホントウの顔」は、なんと「ハゲチャビンのオヤジ」でした。女で登録してるはずなのにー。なんでですかー。あまりにもひどいのでオープンにはとても出来ませんですー。
2008年04月01日
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とうとう国立二次前期試験も二日目です。やっと終ったーという気分です。ほんとは後期もあるわけですが、私としては、とにかく前期が終ればいいんです。昨日は、死ぬほど寒がりなのに、なんと学ランの上着を着ていくのを忘れていった息子くん。はらはらしながら待っていましたが、夕方げっそりとした顔をして帰ってきました。目の周りが青くなってていままで一番ひどい顔色でした。どヒャーっと思いました。相当疲れたようでした。彼はすごく寒がりなので、学ランが一番暖かいということで、試験には私服ではなく、がくらんで試験に行っていたのですが、昨日なぜかついうっかり学ランの上着を着るのを忘れていったのです。せめて試験場の暖かいことを祈る母でしたが、帰ってきた彼から話を聞くと、昨日の試験官はなんと、暖房を切って、換気のためといって窓を開けたのだそうです。ちょっと信じられないですね。昨日は寒かったけど、晴れていたし、だんだんあたたかい陽気になってはいますが、じっと座っている受験生はさむいんですよね。いくらなんでもそれはないんじゃないですか。最も、うちの息子君はスペシャルな寒がりなので、他の子は暑かったかも知れませんけど。今までで一番状況の悪い試験場のようでした。センター試験はニュースでも話題になるので試験環境はそうとう気を使っているようですが、実際のところそれ以降の普通の大学受験の会場はそれほど気配りはされていないようです。寒かったり、イスががたがたしてたり、試験中なのに近くの音楽室から音楽が聞こえてきたり、なかなか大変なようです。こっちは風邪をひかないか、チャンと出来たか、はらはらしているというのに。寒いは、腹はへってるは、試験は難しいは、遠いはで、げっそりと疲れて帰ってきましたので、昨日は、風呂にも入らず、勉強もせず、ご飯をたべたら、ゆっくりと休んで早めに寝ました。今朝方空腹のためにちょっとおきてトーストを食べてまた寝ていたようです。今日はもう私服にしました。下着二枚、トレーナー、セーター、厚手のジャケット風のシャツといろいろ着こんで、カイロをもって、飲み物も温かいお茶をもって出発しました。武運を祈りますです。 ココまできて思うのですが、今親がこのてのことに手を出しすぎると、過保護とか子離れできてないとか、いろいろ言われますが、やっぱり、いくら十代の体力のある元気な子でも、受験というのはものすごく体力と気力を使うし、手伝えることはなんでもどんどん手伝って、いろいろと助言やアドバイスもして、心配してかかわっていく方がいいと思いました。子供に任せておくと、やっぱり、人生経験が少ない分、手落ちがあったり、先がよめてなかったり、計画に甘い部分があるんですよね。うるさいようでも、やはり、親は手伝えるなら、手伝えるところまで手伝った方がいいと思いました。大人にとってはしごく当たり前のことでも、彼らにはおもいもよらなかったり、予定外だったり、考えてもいなかったり、しらなかったりすることがあるんですね。私は少し手を出さずに我慢した部分も多多あったんだけど、気にせずにもっとかかわっても良かったかなと思いました。後にも先にも今回限りだし。 とにかく、後は、後期試験(←受けなくてすみますように)と合格発表と、卒業式。マダマダはらはらは、続きます。 ところで、娘の塾には最後に親としてご挨拶に行ったほうがいいのでしょうか。どうしたものかわかんなくて、悩んでます。
2008年02月26日
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いよいよ受験も佳境に迫ってきて、とはいえまだ渦中なんだけど、私個人としては、なんだか、つき物が落ちた気分。です。何でアンナにカリカリしてたのかな。とか。ちょっときりきりしすぎてたかもなーとちょっと反省してる部分もあります。まだ子供たちは、第一志望は合格してないけど、とりあえず、行く高校は確保したし、大学浪人もしなくてすみそうなので、私としては、ほっとしたんです。あんなに気合入れなくても良かったのかなとか、でも、やっぱりいろいろ心配してたから、ここまでこれたのかなとかいろいろ考えるわけです。 ところで、今は公立中でも、ある程度の子供たちはほとんどみんな塾に通います。そして、かつては親と学校の先生で決めていた志望校選びに塾の先生というプロが加わっているのが現実。それで、つくづく思うのは、私のころにもこんな風に塾があったらよかったのになーということ。そしたらきっと、塾長先生はうちの親に「せっかく頭のいいお嬢さんなんだから、もっと上の学校うけさせてあげたらどうですか。」なんて、言ってくれてたかも。なんて考えるわけです。 模試は今も昔もあって、受験に偏差値はつきものですが、子供の学力なんて、模試をする前に大体塾での勉強振りや普段の言動や、塾内でやるテストなんかで、塾の先生にはわかるものなんですよね。わたしも、親としてわが子の大体の能力はわかってるつもりなんだけど、時々微妙に、もしかして、過小評価してるかもとか、過大評価してるかもなんて、ちょっと心理的に路頭に迷う時があります。 でもって、わが子の受験校を下げようとすると、大体塾長先生から「そんなに下げちゃ駄目」と怒られました。上の子も下の子も。ははははは。 昔の学校の指導なんて(今もだけど、)、大体下げさせることはあっても、もっと上目指しなさいなんて、学校の先生はめったにいわないですからねえ。学校の先生はとにかく自分の生徒をどこかに行かせないとならないという使命があるので仕方ないといえば仕方ないし、わが子のことをわかってない親が、どう考えても無理なレベルの高い学校を受けさせたいとか、押さえをまともに考えない親がいたりとか、わが子の不行跡をぜんぜん知らない親がいたりとか、いろいろいろいろい大変なのでシカタないっちゃ仕方ないんだけどねえ。 そういうことも入れた上で、今は塾のおかげでほぼ能力に見合ったところを選んだり、受験なんていうわけわかんないことをプロの立場でよくーしってる塾長先生に、星の数ほどある高校の中から、受験校をアドバイスしてもらったりできるし。 私の頃にも、塾があったらよかったのになあとか、もっと上目指して頑張ればよかったかもなんて、つれづれ考える今日この頃です。 ただねえ、週に三回も夕ご飯食べた後に、部活で疲れた頭と体を引きずって、さらに勉強するために夜出かけていかなくちゃならないのはいや。私の頃はほとんどみんな塾なんていってなかったから、勉強法は、しろうとの親と子が本屋で適当に問題集かって、自宅で地道に勉強してた、あの不能率でのどかな(?)時代もそれはそれでよかったのかもとか、も、考えたりする。 それに、私が入った高校の授業は偏差値の割には結構レベル高くて、私には、ちょうど良かったし、いろんな科目を先生たちはみんなすごくよい授業で教えてくれたよなあ、それはそれでよかったかも、何てことも、思う。のです。 おまけのこ
2008年02月15日
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受験も中盤戦になってきました。息子も娘も、ラストボス戦まであと、二週間。 娘は、私立の推薦、都立の推薦、私立の一般入試をクリアーして、あとは、ラストボス、都立の一般入試を残すのみ。息子は、センターから三週間経過して、これ以降私大入試そして、ラストボスの国立入試です。 ここまでで、二人とも一勝一敗。私立の結果がでるのは、明日。彼女にとっては、なかなかのチャレンジでした。最近は天気も悪いし、あまりの寒さに疲れもたまってきて、体調を崩しそうで心配な私は、「もう私立入試はやめれば?」と言ったのですが、彼女はこのチャレンジをクリアしたかったらしいです。絶対受かってみたいし、自分の力がどこまでなのか試してみたいということで、ここ数日は過去問と格闘していました。 合格ラインはすれすれ。はたして、どんな結果がでるか。結果によっては、ショックをうけて、大事な都立の入試に影響しないか心配なのですが。彼女なりにこれまでの頑張りの結果を見てみたいのでしょう。 息子の方は学校が休みに入ってしまい、どうしても、朝の起床が遅い。これを続けると、本番の日の朝に電車で気持ち悪くなったりして、体調をくずして倒れてしまい、本番の試験自体を受けそびれるかもしれないという最悪の事態も懸念されます。なにしろ、夏休み明けの登校で駅で倒れて30分くらい休んでいたという前科があるので。 それで、これからはとにかく、朝極力早く起きることに重点を置くべきなのですが、なにしろ早く起きないとならない理由がないので、どうしても、朝寝坊しがちです。もう、勉強より、体調管理が大事な時期ですが、今年は暖冬だった去年とは対象的に雪なんかもふってくれて、ものすごく寒い日々が続いて、私まで疲れ気味です。私が疲れてるので息子も起こしづらいです。娘は中学校があるので朝、7時半には起きるんだけど、息子をその時間に起こすのはたいへんです。あと、二週間が勝負です。 そして、どうか、裏ボス戦(国立後期)にまで行かずに、受験が終りますように。アーメン。
2008年02月11日
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子供の入試で始めて昨今の高校は高2あたりから、文理わけがされていることを知った。長男の私立中学入試で私立の学校の高校部分が高2から文系理系に別れているのを見て、私立の中高一貫校は大学進学のために効率よく勉強するためにこんなシステムになっているのかすごいなあと思った。 しかし、よくよく調べてみると、私立に限らず、都立高校でも、今は、文系理系にコースわけがされているようだ。 実際には、この文理わけは、30年ほど前から徐々にはじまっていたらしい。都立高校だったわたしははっきりした文理わけはなく、物理も化学も生物も日本史も世界史も倫理も政治経済も勉強した。高三でやっと、受験に対応した授業選択になった。しかし、3歳年上の夫は私立高校で既に当時もう文系理系のコースわけがされていたのだそうだ。 一見効率よくみえる文理わけだけれど、実際には、このシステムに悩ませられている高校生は多い。実際、高校生をもってみると、大学受験でこのシステムが逆にじゃまになる。文系でも、経済や商科なら、数学は必要だからだ。しかし、高校の文系コースの数学の授業は手ぬるい。また、数学が好きでも、理科が好きとは限らない。同じ理科の中でも、生物はやりたいけど、物理は苦手で、赤点すれすれ、ということもある。社会と数学が好きな場合もあるし、国語と理科が好きな生徒だっているだろう。 そういう人間ひとり一人の個性を無視した文理わけによって、悩ませられている高校生は多い。そして、そのせいで、理系の生徒は世界史や倫理をほとんど学ばずに終ってしまうし、文系の生徒はうっかりすると、数2Bすら勉強できなくなる可能性もある。 最近、小学校や、中学校でのゆとり教育が非難されて、改善され始めているが、実は高校では、既に30年以上前から、ゆとり教育が始まっていたと言える。小中のゆとり教育ばかりが話題にされているが、高校の文理わけはそれ以上に怖いことだ。そして、このことにきずいている人間も少ないのではないだろうか。 ほとんどはそんなものかと思ってしまっているだろう。うまく勉強できない子供が悪いと思っている親も多いかもしれない。 わたしも、この『理系白書2.「理系という生き方」』を読むまでは、こんなことに悩んでいるのは、自分たちだけだと思っていた。しかし、実際には、そうではなくて数多くの高校生とその親たちが悩ませられているのだ。 本当は、自分たちの好みや、将来の職業、受験したい大学の科目などなどいろいろなことを加味して、選択制の授業をとることができればそれが一番望ましい。しかし、実際には、それらをふまえて、授業の時間割を組むことは、パズルのように難しい。 実際のところ、都立高校では、最近、授業のほとんどを選択制にできる、単位制高校も作られてきてはいるのだが、それはそれで、またむずかしい。 単位制高校は、ようするに大学のようなシステムなわけだから、クラスメートとほとんどかかわることなく、高校を卒業することにもなりかねない怖さがあって、私はあまりよいとは思えないからだ。 こうなると、高校受験において、志望校を選ぶ場合、進学実績以上にその学校のカリキュラムをよく吟味する必要があるかもしれない。高校選びは、偏差値、立地、環境、進学実績なとが選択のポイントなのだけれど、こうしていろいろと考えてみると、子供にあった科目を授業で学ぶことが出来るか、そのことを重要なポイントとして、よく調べて高校を選んだ方がいいかもしれない。 ほとんどどこも同じように思えるかもしれないが、実際には、高校によって、学べる科目が微妙に違う。学校によっては、理科一科目、社会一科目が効率重視で固定されてしまっている場合もあるからだ。また、最近は同じ高校の中でも、学力によってコースわけされているので、子供のいけそうなコースの場合、どんなカリキュラムになっているかもチェックしたほうがいいと思う。 子供の得意な科目や、将来の職業、大学、学部の受験科目も調べた上で、それらの科目の出来そうな高校を選ぶべきなのだと思う。そうでないと、受験の押し迫った、高校三年生あたりで、選択肢をものすごく狭くされてしまい、困った結果にならないとも限らない。 そういう、今の日本の現実をわたしは、わが子の受験とこの本でつくづく認識した。 中3や、高一くらいで、将来なんて決めようがないのに、決めざるを得ない今の日本の教育界の現状をもっとよく認識し、改善をもとめていくために、社会的認識をもっともっと広げていくべきなんだろうと思う。
2008年01月29日
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センター試験も終わり、私立高校の推薦試験も終った。結果として何とか二人とも行く先を確保して、母としては、ほっとしました。とりあえず、息子は浪人しなくてもすみそうだし、娘もとりあえず行き先をひとつ確保。いまどきの私立は確約つきなので、ほぼ合格とはわかっていても、やっぱり何があるかわからない。本当に合格をもらうまでは、ほっとできない。内心もしかして落ちたらどうしようなんてはらはらのしどうしだったから、ほっとしました。中学受験ではアンナに大変なのに、高校受験だと私立校はほとんど、入試の前に合格の保証がされてしまう。高校受験て、なんて楽なの。とにかく内申さえとれれば、入試の前にほぼ決まる。私立の単願推薦なら、ほとんど勉強らしい勉強もしないで終る。難関校をめざすとか、少しでもいいところにいこうとさえ考えなければ、楽チンだ。もっとも、いい内申をもらうために娘はそれなりにしんどかったのだろうけれど。 とにかくほっとしました。 ココまでの間にわたしは、信じられないくらいいろんなことを想像して、悪い結果を予想して、一歩間違えれば、不安神経症なんじゃないのと、おもえるくらい、よくこんなにいろいろ考え付くなあと思うくらいいろいろとトラブルを想像しました。横でわたしの心配を聞いている息子が最後にはもうあきれ果ててしまったくらい。 ようするに、試験の当日にインフルエンザになって試験を受けられなくなるかもとか。電車が止まって会場にいけなくなるかもとか。願書だしそびれるかもとか。確約とったはずなのに、落とされるかもとか。東京マラソンのせいで試験会場にいけないかもとか。 だいいち、センター試験の会場に下見に行くことすらしない息子に心配で心配でなんども下見をすすめた結果、やっと、試験の二日前になって行ってくれたので、その時はやっとほっとしました。なにしろ会場に行くには、渋谷で井の頭線に乗り換えるんだけど、とにかく渋谷という駅はすごく複雑な立体構造なので、なんど行っても、どこがどこだかわからない。地図や方向感覚は得意と自負するわたしでも、渋谷だけは、駅の中でどっちが北でどっちが東なんだか、何度行ってもわからない。 基本的に試験の本番前には試験場に下見に行くものではと思い、何度も進めた結果やっといってくれたので、ほっとしました。でもってね。試験場である東大の構内で、わたしのつくったお弁当食べて帰ってきました。やっぱりさすがに、ちょっとどきどきして圧迫感を感じたそうです。わたしのお弁当が東大の中で消化されたのか。おそれおおい。あとにもさきにもこんなことは今回だけだ。 でも、当日は試験場の席の右も左もあっちもこっちもみんな学校の友達だらけなんで、学校とかわんないよね。しかも、さすが東大。環境抜群。あったかいし、うるさい騒音やミスをする試験官もいないし。停電もないし。わたしも本当は見に行きたかった。 それにしてもうちの子たちは母の心配をよそに受験票を忘れるという最大の愚挙を二人とも犯しているのだ。 センター二日目。六時すぎには帰ってくるはずの息子がなかなか帰ってこないとおもったら、受験票を席に忘れて、戻ったんだそうだ。しかし、物理の試験が終らないと教室には入れてくれないので、試験が終るまで待ってたんだって。信じられない。 しかも、娘もきのう、行ったと思ったら帰ってきて何忘れたのかと思ったら、受験票わすれちゃた。だって。信じられない。 学力がどうこう言うよりも、予想外のトラブルで駄目になるんじゃないかという種類の不安が次から次へと沸いてきて、母はおかしくなりそうでした。 もっとも、志望校の試験はこれからなので、まだまだ心配の種はつきません。 何でもいいから早く終りますように。
2008年01月23日
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もうあと少しで子供たちの受験も終るなあと思う。受験が終ったからって、子育てが終るわけじゃないけど、一段落はすると思う。それもかなり大きな一段落。下の子が小学校に入学した時みたいだ。受験なんてたいしたことじゃないけど、人生の中で受験はやっぱり大きい。長男が中高一貫校に入って以来、六年間、大学受験を目指してすごしてきたようなものだし。 もちろん毎日毎日がんがん勉強させたわけじゃないし、ラスト一年になるまでは、なるべくのんびり、せっかく入った学校の生活を無理せずのんびりすごしてきたつもりだけど、やっぱり、大学受験を目指して進学校入ったわけで、ゴールは大学に入ることだったから、のんびりしつつ、心のそこではいつもそのことがこころに引っかかり続けてきた。入った頃は6年間はとても長く感じたし、はたしてどうなるかわからない不安をかかえつつ、あまり長男に気持ちの付加を与えたくないなあと思いながら送ってきた。進学校なので、実力テストがあったり、順位の発表があったり。上位の成績であれば、親は安心できるし、気分もいい。でも、そんな時期に好成績をとらせるのは、子供にとっては、そんなにいいことじゃないし、精神的にも疲れる。だから、とりあえず、落第しないように。勉強がついていけなくなるほど、落ちないように。とりあえず、平均点より少し上が取れればいいと思ってきたし、塾もいかせなかったし、定期試験の時だけはチャンと勉強することと、学校の授業をチャンと聞くことだけは、守らせてあとは、好きなことをしながらのんびりと暮らしてきた。娘も、今の時代の公立中といえども塾漬けになりかねない生活になりそうなのをぐっと抑えて、親とすれば、三年間夏休みも冬休みも塾にいかせれば安心できるけれど、そんな生活はおかしいと思ってぐっと抑えて、最後の一年だけはしっかり勉強するように。それだけで、送ってきた。親なので、やっぱり、子供たちの進学はすごく気になる。心中はらはらしつつ、とうとう二人の受験も間近になった。あと、二ヶ月弱でそれも終る。なんだかんだいいながら、学校には長男をやさしく暖かく守ってもらっていたなあと思う。学校って入るまでは敵みたいなものだけど、はいっしまうと味方みたいな感じ。長男にそういう話をしたら、本人はあんまりぴんとなかったみたいだけど。娘の中学校も公立にしては、落ち着いていたし。 こどもたちの受験が終ったら、どうしようかなあ。子育ては、このあとだって、まだまだ続くけど、とりあえず、一段落。終ったら、ぼーっとしちゃうかな。やることがなくなって、心がぽーっとしちゃうかな。それとも何か他の別のことを始めたくなるかな。それとも、今までとぜんぜんかわらずに、家事とブログとゲームと読書の生活を同じように続けていくだけかな。 早く終ってほしいなあ。でも、終らずにこのふわふわな気分がずーっと続く方がいいかなあ。『レイクサイドマーダーズケース』にでてきたお母さんみたいに、子供の未来が一瞬だけちらっと見えたらいいのに。いややっばり、それも怖いかな。 よい結果が待っていますように。
2008年01月14日
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私は漢字の書き取りとか計算問題なんて大きらいだった。 一つ十個づつなんページにもわたって書かないきゃならない漢字の書き取りの宿題や、わら半紙一枚に小さな字でえんえんと続く三桁、四桁もある数字の足し算や引き算や掛け算をごっそりとやらされて、小学校のそういう勉強や宿題が大きらいで、いつも、うんざりしていたものだ。私は、計算が苦手で、計算式のいっぱい書いてあるテスト用紙をみながら、数分間思考が停止していたことが何度もあるし、単調で面白くない漢字をえんえんと練習するのも大きらいだった。 当時今はやりの公文があったかどうか、覚えていないけれど、その手のものに行かされなくて良かった。当時流行っていたそろばん塾も私は特に行かされなかった。兄は行っていたのだけれど、女の子の私には母は特に気合も入れてなかったようで、その手の習い事を私に強制しなかった両親に私は今でも感謝している。その当時流行っていたそろばん塾だけれど、私の父は「こんなもの習わなくたって、そのうち計算機とかいろいろ出てきて、そろばんなんか必要なくなるんだから、かまわない」と言っていた。そして、私が大人になった今、計算機どころか、パソコンの普及で簿記の細かい計算もみんな、簿記ソフトや、計算ソフトがやってくれて、ソロバンの出番なんか全然ない。父の言ったことはどうやら本当だったようだ。 もっとも、私が会社員だった頃は、まだ、ソロバンも使っていた。けれど、簿記に必要なソロバンなんて、割と簡単な足し算と引き算くらいで、それらは、大人になるまでになんとなく、身につけてしまったのだから、つくづくそろばん塾なんていかなくて良かった。 そのうえ、中学に入ってみれば、方程式なんてのは、せいぜい一桁か二桁の計算しかしない。三桁四桁の計算なんていらないのだから、つくづく、小学校の頃のあのめんどくさい計算の練習なんていらない。漢字はきらいだったけれど、漫画や本はよく読んでいたから、漢字の読みは覚えたし、漢字の練習に使う時間に本を読んだり友達とあそんだりしていた方が、よっぽど国語の読解力は育つと思うし、漢字なんてどんなに覚えても、知らない字が出題されれば書けないし、100点満点のテストで漢字の配点なんて、せいぜい10点程度。読解問題は80点は配点されているんだから、漢字よりそっちにエネルギー使った方がよっぽどいいと思う。 もちろんそれは、ある程度の漢字は覚えていくべきだけれど、そんなのは高校までには並くらいには覚えられるのだから、なにも小学生のころに完璧を目指して何度も何度もやることもないと思う。 それなのに、なぜか、最近は漢字や、百ます計算なんかが幅を利かせて、あいかわらず、子供の勉強はまず、漢字と計算からということになっているようだ。 しかも、中学受験の塾でも、まず、漢字と計算をやらされる。この方法はなかなかうまい。どんな馬鹿でも、というか、普通の子供でも、漢字とか計算はとにかく量さえこなせば、かならず出来るようになるし、とりあえず、それで、点を取っておけば零点にはならない。塾の側もとにかくまず漢字と計算ですといっておけば、できない子供でも、塾に通わせて塾代を稼ぐことが出来る。そうこうしているうちに学年が上がって、それまでの苦労と書けたお金がもったいなくて、すでに上位校は無理なことに気づいても、塾と受験をやめられなくなっていく。そして、日々勉強におわれ、子供はどんどん勉強きらいになっていく。 あるいは、中学受験をしなくても、小学生くらいだと、勉強なんてまず漢字と計算なので、子供に勉強させなくちゃと思う母親が、子供に怖い顔をして、どなり散らしながら、漢字ドリルや計算ドリルを強制する。怖い顔で怒鳴られて勉強する中で子供は勉強とは、嫌なもの、つらいもの、というイメージが出来上がっていく。 こうして、中学に行く頃には、これらの子供はすっかり勉強ぎらいになっていく。せっかく頑張って入れた私立中学ですっかり勉強きらいになって勉強しなくなった子供は、泥沼の底に沈んでいく。 小学生の頃は、勉強にうるさかった母親も子供が高校生くらいになると、さすがにどう勉強させていいかわからず、勉強しなくなった子供をただ怒るばかり。あるいは、ただ、放置するばかり。こんなときこそ、手をかけるべきなのではと、私なんかは思うんだけど。 小学生くらいの子供にそれほどの勉強なんて出来ない。だから、身につかなくても、いいから、すこしづつゆっくりとやっているだけなんだけど、その時点で漢字や計算を必要以上にやらせることは、子供のためにも、勉強のためにもあんまりいい事とは思えない。 早くからの勉強や塾通いなんていらない。高校からが勉強の正念場だと思う。 そして、勉強のことを、学問のことをよくしっている親たちは、子供が勉強を好きになるようなこつをとてもよく知っていて、子供を勉強好きにするのがうまい。 とにかくまずは、遊びいこう。いろんなところに行って、いろんなものを見て、楽しい経験をいっぱい作ろう。勉強なんてそれからだ。
2007年12月05日
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勉強ってのはどうやってするものか。私は何しろ頭が悪かったから、だいたいのものは、紙とか、ノートにそれぞれの前後関係がわかりやすいように整理して書くことで覚えていったものだし、勉強とは、そういうものだと思っていた。 ところが娘の勉強を見ていると、とにかく教科書を読む。これだ。声に出して何度も読む。社会科なんかが特に。最近は学校だか、塾の先生だかも、声に出して何回も読めという。 わたしにしたら、えっそんな非効率な方法っと思う。必要のないつまらない説明とか、回りくどい説明の部分なんかも娘は重要な部分と同じような調子で読むのだ。 そんな方法より、ノートに、もっときれいにまとめて、要らない部分は切り捨てて整理して書いていった方がいいと言うのだけれど、彼女はそんなのは嫌といって頑としてきかない。そして、相変わらず教科書を声を出して読むという勉強法を結局三年間通してしまった。 これで、まあ、成績があがらなければ、さすがに改善するのだろうが、その方法で、それなりに成績をとってきてしまうので、さすがに私はあきらめてこの方法に口出しするのをやめた。 どのブログだったかどうしても思い出せないのだが、先日読んだとあるブログの記事に、アメリカの大統領の話が載っていた。側近は大統領のために必要な情報や資料をレポート化して渡す方式をとっていた。ところが、大統領が変わって次に就任した大統領はこの方法が気に入らなかった。新しく大統領になった人物の場合、レポートのような文字ではなく、側近からの声による報告、つまり、音声型の報告の方が良かったらしいのだ。で、つまり、人間には、文字などの視覚的なものによって情報を頭にとりいれるタイプと、人や講師の声などの音声によって情報を脳に吸収する方が向いている音声聴覚タイプの二つが存在するらしい。 だとすると、わたしは、とにかく一度文字にしてくれたほうが頭に入りやすいので、文字視覚型なんだと思う。一方で、娘の場合、もしかすると、音によって情報を取り入たり、勉強する音声聴覚型なのかもしれない。 昨今塾が増加の一途をたどり、塾で勉強が当たり前の時代だが、その一方で勉強は塾などに頼らずに自学自習、自分で勉強するものだという考え方もまた、ねづよい。自分で参考書を読み、問題集をこなすということだ。しかし、これってつまり、文字視覚型の人間にはいいかもしれないが、音声聴覚型の人間には、塾で講師の説明を聞く、講義をきく、ラジオ講座や、今流行のDVDなんかを買って自宅で見て、勉強するとか、東進ハイスクールのビデオ講義を見て勉強するとか、とにかく、音になってるものを吸収する方法が向いてるのじゃないか。 かつての勉強はあきらかに、文字視覚型の人間の勉強法だったけど、塾やDVDの普及で、今までは、勉強が苦手と思われていた音声聴覚型の人間にも勉強しやすい環境が出来てきたのかもしれない。 だとしたら、このタイプは、家出こつこつ勉強するより、いっそ、週5日塾に通って、ものすごくよくしゃべる講師のなにからなにまで口で説明してくれるような講義を受けて勉強するのが一番能率がいいのかもしれない。 かつて、勉強しながら、深夜のラジオ放送を聞いていた受験生も、塾のない代わりに音声刺激を脳に与えることで音声型の脳を活性化させて、苦手な文字視覚型の勉強をなんとか耐え抜いていたのかもしれない。 最近はやってる「読み語り」も、ある意味、音声聴覚型の子供に物語の楽しさを教える役に立っているかもしれない。文字をおうことは苦痛でしかなかった彼らに、音声によって物語を伝えることが出来たのだとしたら。 今まで、文字視覚型に一方的に有利だった、受験勉強も、塾やDVDの進出で、音声聴覚型の人間の入り込む余地を作り出したのかもしれない。 さて、自分はどっちだろう考えてみてください。
2007年11月26日
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子供たちの受験もだいぶせまってきて、受験生の母の私も気が気じゃない。 こないだは長男の志望校の模試があって、帰ってきた息子は英語が特に出来なかったーといいました。母の気分はますますはらはらです。英語は大学受験の一番の要なのに、六年も進学校にいってるのに、そのあたりがまるでわかってないんですよね。どうしてだろう。その挙句、一年の頃からも毎週のようにやっている英語の単語テストを「あんなもの意味ないよ。」と、言います。結局その場をクリアするために、その場での瞬間暗記で、くぐり抜けて、テスが終れば、ぱーっと忘れちゃうからというのです。「その場でだけ覚えるんじゃなくて、忘れないような勉強の仕方をすればいいでしょ」って言うんだけど、それがどういうことか彼にはわからないらしい。 そんな長男をずーっとみてるので、下の娘の高校受験でも、私立の学校の「面倒見のよさ」なんて売り言葉がどうにもうそ臭く聞こえて、やっぱり下の娘は都立志望です。いまどきの私立高校はどこもみんな、学力別にコースわけしているので、高校名だけきいても、偏差値がわからない。一つの高校で生徒の偏差値は、10くらいはかるく幅があるんですよね。そんな中のとくに、「特進コース」なんかに行かせるしかないんだけど、どうせ、口で言うほど、先生たちに勉強をさせる技量があるとも思えないし、量ばかりやらされたり、やたらむずかしい勉強させられたり、成績が悪いと教え方の下手さを棚に挙げて勉強をしない生徒が悪いといわれそうで、なんだか、いやだなーって思う。もっともこれは私の想像だから、本当はそんなことなくて、よく見てくれるかもしれないし、はいってみないとわからないけれど。でも、まあ、中一の時からの憧れの都立を娘は目指してるわけだしね。 それにしてもね。今はいろいろと便利になってるというか。大学の願書なんかは、もちろん、ネットで業者に申し込むと、あとは、待ってるだけで、自宅に届くんですからね。一応息子が学校からもらってきた、二つくらいの業者のパンフレットがありまして。一つは郵便局なんだけど、昨今郵便局の仕事ぶりをみてるとこわいので、もう一つのテレメールというところに申し込みました。学校でくれたパンフレットに書いてある大学ごとの指定番号を入れるだけですからね。イヤーすごいですね。大学まで買いに行く必要もないし。もちろん、各大学のホームペーシからでも、買えるんだけど。と、思ってみてみると、大学のホームページから願書を買おうとすると、テレメールのページに飛んでしまいました。他にも、有名な大型書店なんかでも、各種大学の願書が売ってたりするんだけど。行く必要なしみたい。ほかにはね、大学によっては学校にただで願書くれるところもある。お願いすると、くれるみたいです。うちのこの志望校のはなかったけど。 でもって、1200円もする。高い。泣。国立は290円なんだけど、私立は高いです。5校も買うと、それだけで、6000円は行くね。でもってこれ。代金はコンビニ払い。ほんとーにいまどきは便利ですね。 でもね。大学の受験料はさらに高い。35000円以上します。くらーーーーーっとします。これを5校くらいうけると、それだけで、175000円。うわぁ、くらくらする。いまどきはさらにセンター入試なんてのもあるからね。センターさえうければ、それで、出願して、大学の入試はなしです。これが、15000円くらい。うへえ。しかも、このセンター入試の募集枠が10名くらい。でも、べんりだから、かなりの数の応募があるだろうし、みんな押さえで出願するわけだから、受かっても来ない数がかなりあるだろうし。だから、枠は10人だけど、実際の合格者数はかなりの数があるんだと思います。このあたりの数字を知りたいんだけど、ネットの何処を探せばいいんだろう。やっぱ、予備校かしら。 でも、いっちゃん有名な早稲田の政経なんて、センター入試の合格ラインは、9割以上だそうですよ。どうやったら、そんなにとれるんだろう。 でもって、願書の出願を郵送するわけで、そのさいの受験料の支払いもコンビニで出来るそうです。すゴー。い。 さて、さきほど、近くの本屋に行ってみたら、なんと願書売ってました。しかも値段が810円。安い。自転車でいけるところにそんなに安くかえるなら、なにも、1200円も払う必要ないじゃーん。申し込んだの、取り消そうかな。
2007年11月08日
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『女子校、共学、男子校』の記事にいろいろとコメントをもらっていると、ようするに、学校時代、成長期から男女は一緒にいて、異性に慣れることは大切だという趣旨が共通しているなあと思います。 それはもうずっと学生時代無意識に認識させられ続けてきたことなんだけど。一緒にいないと異性って理解できるようにならないものなのかな。 一緒にいても理解できずに別れちゃう夫婦っていっぱいいますよね。 小学校のクラスでも、男子と女子が対立してたり、ってのもよくあったし。対立しながら学ぶ部分もあったのでしょうね。 ところで、私は、子供のころ、男の子が大きらいで、すごくつらい思いをしました。幼稚園まではなんでもなかったのに、小学校にはいってから、ずいぶん男の子にいじめられました。なぜか、当時の小学校というところは、男女が仲良くすることを執拗に強制されていたような気がします。 当時は、二人机だったのですね。今は机はみんなシングルで、一人ひとり座るものですが、その当時は木の机で、二人で座るものでした。そして、かならず、男子と女子を一つの机に座らせていたのです。そのほかにも、遠足とか、列をなして歩いて移動する時など、かならが男の子と女の子が並んで手をつないで歩くことが強制されていたのですね。 いきなり、友達でもない仲良くもない相手と肉体的接触を強制されていたわけで。今考えるとずいぶんだなあと思いますが、その当時は子供だったので、よくわかりませんでした。しかも、たまたま私と組む相手の男の子がとても意地悪な子で、私と手を組むのをいやがったり、机ですわっていても、意地悪してきたり。 そんなことをクラスの中で授業中なんかにもやられていたわけで、当時の先生はなぜきずかなかったのだろうと思います。親に言ったら、一度だけ、学校に来て相手の子にいってくれたこともありました。先生は保護者が教室まで来たことに恐縮して、母には謝罪してくれたそうですが、それ以降も状況は変わりませんでした。というか、その先生からも意地悪な物言いをされたことすらありました。 私自身なにか、相手のそういった行動を誘う部分があったのかどうなのか。いまになってもわからない。 けれど、そんなことの続く中で、私が男の子をきらいになり、こわくて、そばによるのも、口をきくのも、嫌で、しょうがなかった。 今の時代は、いじめは同姓同士の中でおきているようですが、当時いじめの相手は異性でした。 私のそういう軽い異性恐怖症が直って、普通に男性と接して口が利けるようになったのは、社会に出てからだったのではないかと思います。 とにかく、中学までの男の子はきらいだった。しかも、私をいじめた一番きらいな子とはそのあと、高校も同じで、しかも、一度はクラスもおなじになり、授業の研究グループまでいっしょになり、最悪だった。 その間一切口を利くことはなかった。 それでも、高校生くらいになると、いじめたり、いじわるしたり、怖い雰囲気を感じさせることはだんだんなくなって、私もほっとしたものですが。そして、社会に出てからやっと、普通に男の人とかかわれるようになりました。もっとも、その時勤めていた会社は男ばっかりで、女は私と私の上司の二人だけという。唯一の女の子ということでやさしくしてもらったし、その前にいた会社も大人の男の人であれば、ちゃんと優しいのですよね。 でも、子供時代の男の子ってどうしてあんなに意地悪なんでしょうねえ。引っ込み思案でおとなしくて、ほとんどしゃべらない女の子だったので、うっとおしかったのかもしれません。 もっとも今、私の娘は普通に男の子と接しているみたいだし、他の普通の女の子は普通に接していたのですから、ここまで男の子嫌いなんて言うのは、たぶん私だけなんだろうけれど。 それにしても、公立の学校で小学校から高校まで、民主主義や、男女平等の価値観の下に男女仲良くをやたら、強制された、学生時代って、なんなんでしょう。そのあと、入った会社や、実際の社会では、それまでとは、見事に対照的に男女差別ばりばりの世界。いままで、習ってきた、男女平等ってなんだったのだろうと、思ったものです。 女の子はお茶くみ、コピーとり、男性の補助の仕事。しかも、25、6歳で結婚して退社するのが常識。 男女雇用均等法やそのほかいろいろの世論によって改革されはじめたのは、そのずっと後のことでした。 お茶くみが女の仕事だったのは、ただのOLだったからかと思えばそうでもなくて、なんと、国会議員でさえ、女性議員は男性議員のためにお茶をいれるという記事をどこかで読んでびっくりしました。ほかにも、実力勝負の医者の世界でも、女医さんにはなかなかいい仕事は回ってこないらしい。重要なオペはほとんど男性の医者が担当してしまい、女医さんには、簡単なオペしか来ないということを何かで読んで、社会全体が男性の社会何だなあと感じました。 にもかかわらず、公立の学校の中だけが男女仲良くを強制してるんだよねえ。 社会全体にそれを望むからこそ、政府はそういう方針をとってはいるんだろうけれど。 そういいながら、やっぱり、大人になっても、女は女の世界の中で、男は男の世界の中ですごす時間のほうが長い。共学でも、女は女同士で友達になるし、男は男同士で友達になる。男女まざった仲良しグループもあるけど、それはごく一部。 幼稚園まではなんでもなかった異性の存在がやけにうっとおしくなるのが小学校から、中学くらいまでなら、七歳以降男女をわけた昔の考え方もそれはそれでありなんじゃないのかと。それはやはり思春期以降体が成長してきて、倫理観とは別のところで、体が心に影響して、異性に対して拒否感や、違和感を感じ始める時期で、高校生や、大人になれば、なんでもなく接することのできる男女が、みょーにけんか腰で反発を感じたり、その存在自体がうっとおしかったりするようなそんな時期でもあるんじゃないかと。 恋愛感情を感じる相手以外の異性は、うっとおしいだけであったりするような。そんな時期にあえて、一緒にしておくことが逆に将来の違和感を内在させてしまうことになってたりしないのかなと。 私にとっては、小中の共学は苦痛以外のなにものでもなかったかなあと。 相手の嫌な部分を観て知っておいた方がいいのか、それとも、欠点はきずかないままのほうがいいのか。 兄弟が絶対に恋愛関係にならないのは、やはり、相手の嫌な部分や、子供のころからのすべてを見て知ってしまっているからで。 大人になってから出会うからこそ、好きになることも出来るのかもしれないと。今の配偶者をもし、子供のころから逐一見て知ってしまっていたら、それでも、伴侶に選ぶことが出来たかどうか。相手に自分の子供のころの未熟な姿なんて見せたくないしなあ。成長過程で修正して、ほどほどにまともな人間に仕上た自分を見せるのが精一杯です。私には。 私にとっては、小中の共学苦痛以外のなにものでもなかったなーとちょっと思い出してしまいました。 でもまあ、共学も別学もそれぞれにそれぞれのよさ悪さがあるんだろうと思います。そして、男女は仲良くしても、やっぱり別物でもあるんだよねえ。
2007年08月01日
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最近の私立は教学化の波がどどどーっと押し寄せているようで。高校受験の場合は、大概共学志望が多い。特に女の子は女子高はこわーいというイメージがありますから、共学がいいそうで。うちの娘もごたぶんにもれず。 中学受験だと、結構女子高が多いんだけど、レベルアップの波に乗り遅れた私立校の場合は、もう特に女子高なんかは定員割れがひどくて、学校存続のためにはもう、共学化するしかないようです。 けれど、その一方で、いままで、共学、男女平等が言われ続けていたけれど、女子高には女子高のよさがあるんじゃないかと。共学だと、女子はどうしても、男子の影にかくれて、リーダーシップがきれない。リーダーシップをきる練習のためにも、女子校に行くという意味もある。といえる。 でもねえ、今の女の子ってすごい。公立中を見ていると、合唱コンクールで指揮をやるのは、ほとんど女の子。もちろんピアノも女の子。生徒会長も女の子。男子はなにしてんのかなーと思うくらい、おとなしくて、めだたないようなきがします。できる男子はもうほんとに私立にぬけちゃってるから、女の子以上に優秀な男子が公立中にいないだけなのか。それとも、いまどきってやっぱり、女子が断然強いのか。 そんないまどきの状況をみると、女子以上に男子の方が男子校に行かせた方がいいかもって考えた。男子校に入れて、リーダーシップをきる練習や、責任をもつ経験をしたほうがいい。 女の子と一緒だと、女の子がみんな責任感強くて、やっちゃうから、男の子はサボってるって場合が多いもんね。 いまどきって、共学だと、ほとんど男子は女子に負けてる気がします。 だから、女子以上に男子の方が男子校に行ったほうがいいじゃないかと思う。それに、学生時代の友人て、大人になって仕事をする上でのコネとか人材的つながりが役に立つ。共学だと、そういう同姓の友達をつくる確立が半分になっちゃうし、女子だと、将来結婚して仕事してなかったり、キャリアウーマンになってたとしても、女性だと、同姓の友達のようなつきあいはしずらいし、だんながいるのに、二人だけでお酒飲むとかっていうと、あくまでビジネスライクのつきあいのつもりでも、不倫だとか、いろいろかんぐられたりするだろうし。女の子が出世してる確率はマダマダ低いし。 だから、男の子は男子校の方がいいと思うんだけど。ね。 もっとも、最近の女の子はキャリア志向が高くなってきてるから、もう少しすると、男の子と同じくらいビジネス界でがんがん働いてて、コネになる可能性があがってくるような時代が来るかもしれないけど。
2007年07月29日
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はしか流行ってるらしいですね。 上の息子の高校からも、下の娘の中学からも、予防接種をしたかどうかの確認のプリントがきました。息子の時はまだ、MMRをやっていた時期でMMRを受けました。でも、そのあと、MMRの中のオタフクが良くないものだったらしくて、中止になり、娘は二種混合でした。 とりあえず、二人ともちいさい子供のうちにやったんだけど、もうそろそろ免疫もきれてる筈だし、しかも、受験だし。しかも、息子の高校では、息子の下の学年から一人、はしかが出たらしくて、先生たちは恐々としているようでした。先日の役員会で直接話を聞いたのですが、ぜひ、予防接種を受けさせたいようです。しかし、実際には、市場では、品薄で普通の町医者では、手に入らないらしい。じつは、教育委員会なんかで、買い込んでいるとかいないとか。 でもってその抑えてるものを学校で、接種させることが出来るかもしれないらしいです。 どうしようかなあ。 先日聞いた主治医の先生のお話でも、確かに、品薄らしくて。厚生省あたりが出荷をストップしているとか。でも、来週あたりから、また、出てくるかもしれないらしいです。 でも、はしかたんだとのは、ないけど、はしかと風疹をあわせた混合のものなら、普通にあるそうです。 息子は学校でできるなら、学校でやるとして、娘の場合は女の子出し、風疹との混合のものの方がいいかも。風疹の予防接種ってたしか、女の子は14歳くらいで、もう一度やる予定だった気がするんだけど。 女の子はどうせならその方がいいかもなあ。 子供たちが小さいころ、予防接種による被害がいろいろでて、予防接種が強制でなくなってから、全体に予防接種をやらなくなってきて、そのせいでまた、ちまたでこれらの伝染病が流行りだしたりしてるんだよね。おかげで撲滅も、できなくなってきたし。 しかも、数年前のインフルエンザの大流行の時は、予防接種のワクチンを作るための卵自体が、予防接種敬遠のせいでなくなってきてしまったために、ワクチン自体の新薄手騒ぎになったし。 予防接種もいい面、悪い面あるからなあ。 あの予防接種する時って最近はかならずお医者さんがリスクの説明するでしょう。打つためにいくのにもあそこであのての説明されると、気持ちがなえるんだよね。やっぱやめと高価な後か。あの説明の後でも、それでもやってくださいっていうのって結構つらいんだよね。しかも、その場で書面に、サインまでしなくちゃならないし。はー。 もし、予防接種して何かあったらやだなと思うと、やりたくないし。でも、やらないでいて、試験の時にかかったら嫌だし。 世間では大騒ぎしてるけど、はしかってかかるとそんなにたいへんなのかな。大変じゃないとしても、伝染病なんだから、かかったら、大勢の人がいる試験場にはいけないよねえ。そういえば、中学受験の時は、インフルエンザの受験生も保健室受験とかやってたし。実際の試験場で風邪の子の咳がうるさくて迷惑だったって子供がいってたなあ。その時はまだ、本命の学校じゃなかったから、それほど気にしなかったけど。主治医の先生はお医者様なので、当然うけたほうがいいですよーという雰囲気でしたが。 さて。 予防接種。どうしよう。うけようか。やめとこうか。うーん。
2007年05月23日
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先週は保護者会が二件。また、上の子の高校の役員をひきうけてしまった。どうしよう。今年は下の子の高校受験があって、二学期はいろいろと学校の説明会とか、相談会とかあるのに。だから、土曜日はおちおちしてられないのに。 高校の役員の仕事は、年二回のお食事会。みんな都内のばらばらのところに住んでいるので、こんなイベントでもしないと、親同士が顔を合わす機会がない。それと、コドモノクラスで何かあったとき、親同士で相談したり、しらない情報を入手したりする。学校への要望なんかも話し合って意見を学校にお伝えする。 だから、半分楽しみ、半分必要だからなんだけどね。こんな機会がないと、フランス料理なんて食べられないもの♪それはそれでいいんですが。今学期はいいけど、来学期はどうしよう。 なんか胃が痛い。 うーん。胃がいたいのは高校受験のせいだな。ちゃんと行き先決まるかなあ。都立入試がおわっても行き先決まらなかったりとか、あるらしいし。心配~。 高望みしなけりゃいいんだけど。ちゃんと私立を抑えられるかしら。わかんないよー。 でも、公立と私立ってちがう。公立の校長先生は「学校は真ん中の成績の子に勉強のレベルを合わせています。物足りないまたは、上を目指す場合は、塾にしくか、家庭教師を頼んでください。」とはっきり言う。 私立の校長先生は「塾は先取りをしているだけなのだから、ごく一部の超成績のいい人意外は塾にいかせないように。」という。 ぜんぜんちがうよ~。 今の時代は公立といえども、お金かかる。かなわない。 などといろいろ悩んでいたら、娘が昨日中学のPTA役員就任のプリントを渡してくれました。受験と役員がダブル!?高校の役員と中学の役員両方なんてできるかなあ。なんとも最悪のタイミングです。中学はもうないだろうと思って高校の方をひきうけたのにー! もう、なんか、頭も、痛い。やりたいことだけやって生きていきたいなあ。
2007年04月17日
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長男は駆け込みの中学受験でわずか一年のためにかなりハハードな受験を強いることになったので、下の子の高校受験はさすがにそんなのは無理だろうから、中一から余裕をもって勉強に取り組ませようと思っていた。しかし、実際には三年間の中にある長期休暇、夏休みとか、冬休みとか、を毎度塾の講習でつぶすというのはなかなかどうしてきついことだ。おちおち遊んでもいられない。難関校を目指すならいざ知らず、そうでないのなら、結局本気で取り組めるようになるのは、一年前なのだということが二人やってみてつくづくわかった。三年間四年間なんてのはあくまで塾の売込みだったり、目の前でちっとも勉強しなくていらいらして不安でしょうがない親の気休めのためだったりする。この親の圧力で塾の授業が増えていくものらしい。というわけで、下の娘は中二はすっかりだれまくり、やっと最近塾の授業を三科目入れて少しその気になり出した。大学受験となるとどのくらい塾に行くものなのか検討もつかなくて、いったいどれほどお金がかかるのかと思っていたけれど。現実には自分で勉強しなくては、意味がなくて、そんなに塾に行っても時間を取られるばかりでたいして役に立たないなあと最近だんだんわかってきたし、だんだん自分でやれそうなめどもついてきたので、塾はせいぜい週に一回か二回くらい。どうも、自力ではものになりそうにないようなものだけ講義をとることにした。何十万もかかったらどうしようとはらはらしていたのでほっとしてます。それでも、年間トータルでは結構ばかにならない。こんなにお金がかかるから、こどもなんて二人が精一杯。少子化なのも仕方ないけど、こんな国土の狭い国だし、寿命も延びてるし、定年も延びてるんだから、一人当たりの生涯労働時間とか考えると人口が減ってもちょうどいいかも。いや、受験の話を書いていたはず。要するに結局受験勉強なんて一年がせいぜいなんだなとつくづく。
2007年03月20日
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『理系離れを何とかしたい』と政府は考えているらしい。ま、科学技術は大事だからね。でもこの『理系離れ』って発想自体がそもそも間違ってる。 「離れてる」ってじゃあ昔はみんな理科が好きだったのか。とんでもない。理科って言うのはかなり特別な科目でほとんどの生徒は苦手なんだけどね。理科が苦手なのは今に始まったことじゃない。昔から結構みんなきらいで苦手。だって難しくてよくわかんないんだもの。 ところがである。なぜかすごく少ないんだけど、理科の好きなやつ、理科の得意なやつ、理科だけはめちゃくちゃ出来るやつってのがいるのもこの科目の特性だ。でもってこの理科が特別に好きな理系人間とのを大切に育ててあげる。実は大切なのはこの部分だ。 今の入試は理科だけが出来ても受からない。五科目、七教科、特に古文なんかが出来ないと上位の学校に受からない。しかし、理系人間が一番不得意とするのがこの科目なのだ。そのために理系の彼らは本当はすごく頭が良くて、ものすごく難しい理科の問題をこなせるにもかかわらず、試験に落ちてしまう。 そして、理科はそこそこ出来て、国語もこなせるそこそこに頭のいいやつが受かってしまう。しかし、彼らはあくまでそこそこに頭がいい程度なので、いざ理系の大学に入って専門的な理科系の勉強をやりだすと難しくてだんだんついていけなくなっていく。結果、どうも自分は理科は向かないといって,いざ就職の段になると文系の職業に転向してしまうのだ。 かくて、本物の理系少年は目指す大学に入れず、私立のそこそこの大学でそこそこの勉強をこなし、そこそこの会社に入るしかない。理系人間養成にかけた予算は無駄遣いに終わる。 ノーベル賞を取れたほどのあの田中さんですら、二番手の大学、二番手の会社にしか入れなかった。 五科目の勉強をしてバランスのよい人間を育てる。一見正しいように聞こえる。しかし、実際には所詮はペーパー勉強だ。情操を育てるはずの国語だって、学校での勉強は所詮ペーパーの勉強にしかすぎない。古文なんか、本来の男女のあれやこれやの心のやり取りなんか二の次で今はもう使いもしない言葉の文法ばかりをああでもないこうでもないと重箱の隅をつつくような勉強ばかりしている。こんなもので人間の情感なんか勉強できるはずもない。国語の文学によって感動できるようになるのは人生のいろいろな経験をこなして中年になってからの話であって、中年の人間がいい文学だといって、経験のない若者に勧めてみても、所詮猫に小判であって無意味なだけだ。そして、無駄な労力ばかりが浪費される。そしてますますよっていく。 マッドサイエンティストなんて言葉があるように科学者、理系タイプの人間というのは、理科のごく一部の部分にだけ興味が集中しているために、それ以外の人間的な部分が落ちていたりして、普通の人間の目から見ればかなりよっちゃってるものだけれど、そもそもそんな風にすべての注意とエネルギーを注いでいかない限り結実しないのが理科ってものであって、それをわざわざ揺り起こして他の分野もそつなくこなすことを要求する段階でそもそも、理系の振興を何とかしようという狙いからずれている。 マッドなんて言葉がつく職業なんてほかにないものね。そのくらい理系の人間は寄りやすいし、よらないといいものはできない。 「理系離れ」という言葉には、すべての子供を理科好きにして勉強させてその中で特に出来る子を見つけ出して、この国の産業技術分野を良くしようという意味合いを感じるけれど、そもそもこの発想がまちがっているのだ。 理科好きの子は天性のものであって、本当に理系技術をよくしていこうというのなら、小学校、中学校の段階で、理系少年を見つけ出し、拾い上げて大切に育てていかなければならない。そのうえで、ペーパーではないもっとリアルな教育によって彼らの情操面を育てていくことこそが重要なんじゃないかと思う。 ペーパーテストで頭の良さは図れないとはよく言われることだ。しかし、その一方で日常見ているだけで、少し言葉を交わしただけで、他人とは違う傑出した頭の良さがわかるのも事実だ。そうして、学校教育の現場で並外れて出来るという子供をセレクトしていく方が全体を理系に向けさせるよりはるかに効率よく、現実的な方法なはずである。 しかし、日本ではこういったエリートだけを集める教育法に対して批判が多いのも事実だけどね。 ソシテ、セレクトされてみたけど、それほどに能力が上がらなくて途中でリタイアする少年も出てくるだろうし。彼らの挫折感をどうすればいいか。というのも考えなくちゃいけないし。 それでもやっぱり、ただの理系離れ対策では、意味は全然ないと思う。 理系少年を救ってほしい。 ペーパー国語に泣かされる理系少年に幸あれ。 ところでまあ、理科が嫌いでも、理科の知識は現代社会を生きるうえで大切な勉強です。好きにならなくてもいいけど、勉強しようね。
2007年03月01日
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オーストリアの思想家ルドルフ・シュタイナーによって創められた「シュタイナー学校」は世界約80カ国にあるにもかかわらず、日本ではなかなか普及しないんだなと思っていた。唯一神奈川県の藤野町にあるだけらしいのだけれど、今回千葉県長南町にできるそうです。しかも、わかりやすくかかれた本で多くの人にシュタイナーを教えてくれたあの子安美知子さんがつくるんだそうです。うわあ。すごい。 私の子供たちはすでに高校生と中学生だし、千葉の方なんて遠いからとても通わせるのは無理だけれど、それでも、まず一つでもきっかけがあれば、日本にも徐々にシュタイナー学校やシュタイナーの教育法を取り入れた学校がふえていったり、普通の公立学校にもその考え方や方法が導入されていくかもしれない。わが子が無理でも、もしかして、私の子供の子供たちがシュタイナーに触れられるかもしれない。少しづつ日本にもシュタイナーが入り始めているけれど、子安美知子さんが作るとなるとかなり本格的になっていくかもしれない。 今はまだ、小学校だけだけれど、中高一貫の私立や公立の中等教育学校も出来始めていて教育のスタイル自体が改変されようとしている今だからこそシュタイナー学校も出来やすくなっているのかもしれない。将来的に高校まで出来るといいなと思う。 それでも学校経営は難しいだろうし、経営破たんで途中で終わってしまわないように祈りたい。 シュタイナー学校は時間割のシステムが独特で一つの科目を毎日やって二週間くらい集中的にやっていくような方法だったと思うのです。今までと違って総合的な学習の時間とかいろいろ変わってきているので、こんな手法も許容されるようになって来たのでしょうか。一つの科目を集中してやっていく方法も面白いと思う。 唯一の難点はたぶん授業料やそのほかの経費がいろいろかかるだろうということ。普通の家庭では子供を入れるのはまだまだ厳しいかもしれない。それでも、シュタイナー学校が出来るというのはうれしいニュースだ。日本の教育制度もどんどん変わっていくんだろう。 ミュンヘンの中学生 ミュンヘンの小学生 「モモ」を読む シュタイナー
2007年02月19日
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娘のためのウォルドルフ人形のるるチャンにワンピース型のセーターを編みました。完成したのは何日も前なんだけど、カメラの中のデータをパソコンに入れる暇がなくって。やっと昨日移しました。 フォトの編集って難しい。わけわかんないよ。足きれちゃったし。おそろいの帽子作ったので、髪の毛の汚いのもごまかしききましたよ。私のセーターだったものをほどいてしまってあった毛糸のリサイクルです。何度も着せてサイズ調整のくりかえしでした。でも、ちいさいからすぐ出来ちゃう。シュタイナー
2007年02月08日
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こっちは女の子。娘のためのお人形です。 名前はるるにしました。なぜか写真が反転してしまった。うう。眉毛はないのだけど、かたっぽだけ娘が子供のときに書いちゃったのです。シンナーで消せないかな。なぜか男の子よりめが大きくなってしまってますね。昨日娘が私たちもう大きくなっちゃったからかわいくないでしょ。と、いいました。赤ちゃんの方がかわいいでしょ。かわいい赤ちゃんとかちっちゃい子とかのがいいんだよね。だって。そんなことない。かわいいよ。今も。おにいちゃんもかわいいよ。(高校生ですけど。)あーそういえばあなたが赤ちゃんの時はそんなにかわいくない方だったかなぁ。なんて。そういえばおにいちゃは赤ちゃんの時すごくかわいかったっけ。そしたら、娘が部屋に飾ってあった二人のあかちゃんのときの写真をもってきました。ほんとだ。お兄ちゃんかわいい。って。娘は赤ちゃんの時おでぶさんで、そのあとはすごくがりちゃんだったのです。もっと娘が小さい時、娘にしてあげた話も思い出しました。たくさんの赤ちゃんの中で貴方が一番かわいかったの。だから神様に貴方をもらったのよって。こういうお話を聞いて娘はどんな気持ちになったのでしょう。それにしても、かわいいかどうか気になって聞いてくるなんて、まだまだ子供なんですねえ。そんな風に甘えたり、僻みっぽいような不安なようなそんな気持ちが言葉になっていて、女の子ってかわいいですねえ。この服は同じ大きさのお人形の服をこっちに着せちゃったもの。だから、手作りじゃないのです。他の服はどうしたんでしょう。うーん。思い出せない…。なんだかこの子達を見てると、心の中のイライラがスーッと抜けていくような気がします。不思議です。ほのぼのしてくるんだよ。今るるちゃんのためにワンピース型のセーターを編んでいるところです。シュタイナー 手作り大好き!!
2007年01月29日
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こっちは男の子。長男のお人形です。長男に名前を付けさせてみました。名前は「サンガモン」戦争マニアなので戦艦?の名前。たぶん。いろいろな材料が必要なのですが、キットで売っている所があるんですよね。で、通販で買いました。そして、昔せっせと作ったような気がします。 男の子と女の子の違いは髪の長さだけです。そのあと子供たちが喘息になってしまい、人形やヌイグルミはダニがいてよくないと思いしまってしまったのです。でも先日ふっとまあいいかという気になってまた出してきたのです。子供たちはもう大きくなっているのでどうでもいいやという態度なんだけどね。セーターも編みましたし、したのシャツもズボンも手作りです。かおがシンプルなのは、子供たちが人形に自分の気持ちを投影させられるようになのです。うれしいときは人形も笑っているように見えます。悲しいときは人形も悲しそうに見えます。そして、自分の気持ちにに沿ってくれる人形を抱きしめながら、人と心をつなげる練習をするのです。というのがウォルドルフ人形なのですけど、しまっちゃってたからなあ。でも、出してきたら、なんかかわいい。子供たちはもう大きくなってしまって、私の相手をしてくれないので、私にとっての子供たちの代用になりそうだ。シュタイナー
2007年01月28日
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むかーしつくったんだ。シュタイナーのウォルドルフ人形です。男の子はおにいちゃんの。女の子は娘の。ところが名前を忘れてしまっていてぜんぜん覚えていないのです。ごめんね。また、つけるしかないかなあ。デジカメからの画像取り込みは初めてなので縮小率とかわからなかった。四苦八苦で、今日はここまでがせいいっぱいでした。よれよれ~~~~。ウォルドルフ人形と小さな仲間たち確か、この本を見て作ったのですよ。ああなつかしい。子育てのつ・ぶ・や・きシュタイナー
2007年01月27日
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娘が私のおなかの中で、妊娠九ヶ月の頃。冬だったので、風邪をひきまして、吐くは、下痢するはで、上からも下からもげろげろ。ああ、汚い話題でごめーん。とにかくすごーくひどい風邪をひきました。 そして、おなかがぎゅーっとしまって、痛くて痛くて、下痢もものすごかったんだけど、その最悪の状態の中で、娘は全然平気だったのです。 普通、妊娠九ヶ月といえば、こんなことになったら、流産とか、破水とか、早産とかになりそうなものなのに、私が風邪でげろげろの状態なのに、娘は私のおなかの中で、自分の周りの嵐など全く関係ないというように、かっこたる大きな丸い塊として、泰然自若として平気だったのでした。 流産の気配も、早産の気配も全然なく、風邪薬の飲めない私は心置きなく、風邪の最悪の状態にへろへろになっていたのでした。 運気の強い子ってほんとに強いんですねえ。 この話をこないだ娘にしてあげた。 こーんな強い運をもってあなたは生まれてきたんだよ。って。 どんな逆境になってもびくともしないような強い運をもっているんだから、あなたはすごく恵まれていて、だからあなたの人生はばりばり大丈夫なんだよ。って。 こんなエピソードのひとつひとつがいつか娘を守ってくれるといいなと思う。
2007年01月13日
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年末の読売新聞を読んでいたら、いまどきの東大は、学生の思考力を育てるために、囲碁ゼミとかあるんだそうだ。 税金かけた天下の東大に、やっと入ったその後でわざわざゼミまで開いて囲碁をわざわざ勉強してるのかあ。 囲碁なんてさ、ちょっとルール覚えて、ネットとか、クラブとかで、対戦すればすぐできるものだよ。ちょっと本を買って読んだり、定石を覚えたりして、わざわざ東大のゼミなんかでやらなくたってできるものだよ。 それをわざわざ大学のゼミでやんなきゃなんないほど、東大生の頭は固いんでしょうか。そんなことやるよりも、そもそもそんなに頭が固くなっちゃうような東大の入試試験を改善すればいいのに。 それをわざわざ頭の固くなるような問題で受験生の頭をカタークしておいて、はいってから思考力を育てなくちゃいけないなんて、本末転倒な気がします。 囲碁なんて十歳くらいまでに始めないと、もう大学生くらいになってると、頭固くなってるから、無理でしょう。 ばかげちょる。 頭のやわらかくなる入試問題、思考力、考える力を育てる入試問題って作るの難しいですか。だとしたら、問題作る先生たちの頭も固いんだ。 大学
2007年01月12日
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野良先生の話題はもう旬ではなくなったかな。『塾禁止』 誠意のある良心的な塾を熱心に一生懸命やってる個人塾の先生たちはこの事態にはかなり怒りを感じているんだろうな。と、思う。 でもねえ。そういういい塾に行ける子供はその塾に通えるところにすんでいる運のいいごく一部の子たちだけなんだよね。 大概の子供はとにかく自宅から通えるところにある塾の中から選んで行ってるわけだけど、ほとんどは大手のチェーン系の塾に行ってる場合が多いと思う。そして、その手の塾は上位生のクラスは、いい先生を当てるけれど、その下はアルバイトのほとんど力量のない学生教師を当てる。そして、子供たちの成績は塾通いによって上がることは少ない。高い塾代と、塾にかける時間と労力は大概の場合無駄に終わる。あげく、あがらない成績にいらだってやめてしまう場合も多い。 大手の塾の中位、下位のクラスの先生たちが力量のないバイトであることは、ちょっとしってる人なら当然の事実である。 そうやって無駄なお金と無駄な労力を塾に取られ、塾なんてたいして役に立たないという評価はじわじわと増えはじめているかもしれない。 たとえば食品であれば、買って食べてみて、まずければ、その一度でやめてしまえばすむことだ。 たとえばレストランだって一度入ってみてまずければ、二度と行かない。それだけのことだ。 けれど、塾というものは半年くらいは通わせてみないと、その成果はわからない。子供の時間は短いのに、その貴重な時間を半年も使わないと質の評価のできない塾というものは、だから水物なのだろう。 これでは、塾禁止なんて評価が下されるのも無理はない。 塾という業界ほど業界内の結束がなく、縛りがない業界も少ない。 それは塾という業種ゆえの特性なのか。 たとえば喘息治療の場合は、ある先生によって研究され、それまでの対処両方とは違う、発作を起こさないための毎日継続的に行う薬の投与によって発作を起こさなくすることで直していくという革新的な喘息ガイドラインがつくられ、全国の喘息治療の医師にあまねくもそのガイドラインは配布され、オープンにされている。だから、全国のどこの医者にかかっても、ほぼ同じ治療を受けることが出来る。 もしこれが、その先生がその方法を自分のいる病院の中でだけ行い、外部にはいっさい出さないということであれば、患者はその病院に行かなければ、その治療を受けることは出来ず、自宅の近くの医者では治らないとなれば、やっぱり、医者なんて当てにならない。ちっとも病気を治してくれないという評価になるはずだ。 これは、他の治療方法でも同じだと思う。 あるいは、弁護士の中坊公平先生のように、自分が依頼をうけた事件を自分の仕事の範囲を超えて、弁護士会全体で対応していくようなスタンスで、弁護士会を変えていこうとしたような、仕事を自分の事務所だけのものとはとらえないで、弁護士会、そして、社会全体にとって有効なものとなるような仕事のしかたはすばらしいと思う。 しかし、塾業界というのは、大手の経営のあり方に対して、誰もクレームをつけない。京伸スクールの事件のように質の悪い先生が雇用され続けている現実は相変わらず、是正されていない。 どこの業界だって、業界内の協会を作って同業者同士の連携を高め、同業者が質の悪い仕事をしないように監視していたり、修正したり、質やモラルを保つよう努力しているものだ。 しかし、大手塾の内実は変わらないし、それを是正しようとするような行動は塾経営者たちには、見えない。 あくまで、自分の塾に通う生徒にしかその関心は向けられていない。 自塾の生徒を可愛がり、成績が上がるように指導することはもちろんいいことなんだけれど、仕事が自分の塾の中のことだけで終わってしまい、同業者との連携が進んでいかない限り、塾という商売は、あいかわらず、水物の、世間から正当な評価を受けにくい業種でしかない。 どこの塾に行かせても、最低ラインぎりぎり受けることのできる質の良さ、安心して行かせられる塾というものに対しての信頼感がほしい。 そうでなければ、いつまでたっても、うそばかりで、成績のあがらないまま、高い塾代だけが苦しい子育て家庭の家計から搾り取られていくだけのように思える。 マックドナルドは全国どこに行ってもマクドナルドであって、高級なものではないけれど、最低限の質は、保障されていて、安心して食べることが出来る。それは、全国のマクドナルドに同じレシピが配布され、質の低下をチェックするシステムがあるからだろう。 マクドナルドと塾を比較してもしょうがないけれど、安心して手近な塾に行かせられるような、塾の質の保障、是正、修正を塾業界はいつやってくれるのだろう。 そういう姿勢がないかぎり塾はどこまでいっても、所詮、塾なんだ。
2006年12月28日
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学校の先生と面談すると、先生たちは、子供の欠点なんかあげつらって、私が必ず、なおしてみせますとか、ここがよくないけど、どうしたらいいでしょうとか、何とかしてくださいとか、いろいろとうるさい。私はちょっと位の子供の欠点なんてそのうち直るよと思ってるのに何でかなあと思ってたんだけど、要するにまあ子供とかかわる時間のスタンスが違うんだよなあ。 親の場合は、子供とは子供が生まれてから、自分が死ぬまでのすごく長い時間の付き合いだから、今ちょっとくらい子供に欠点があっても、そんな簡単に直らないし、大人になる頃にはそのうちなんとかなるかもとか、そんな感じで考えてるんだけどね。 でも、先生が子供の欠点にかなり必死なのは、職業のせいもあるけど、かかわる期間が短いための強迫観念に近いような感覚があるのかなあとまたまた考えた。 なにしろ先生の場合、子供とかかわるのは、大概は一年くらいしかないもんね。 自分がうけもつ子の一年の間にすべきことはしないと、と必死になるんでしょうかねえ。 とりあえずできるところまでやって後は次の先生に申し送りして長い目でみてもいいんじゃないですかねと思う。 その一年の間に生徒がよくならないからって誰もそれほど文句言わないと思うけど。 でも、いつも学校に苦情がくる原因になってる生徒なんてのもいるしねえ。 それでも、やっぱり子供はそんなにすぐには直らん。 先生、うちの子はとりあえず、適当でいいですから。
2006年12月27日
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子育て本もずいぶん読みました。あんなもの当てにならないということで人によってはきらいだけど、私は結構好きなのでよく読みました。たしかにあてにならないところも役に立たないところも実戦なんてとてもじゃないけどできないようなことが書いてあったりもするけれど、それでも何冊もいろんな人の書いた本を沢山読むとね、共通して書いてあることってのがあるんですね。 そういう共通した部分って言うのは、信じていいと思うわけです。 それで、そんな本の中で特に好きだったのが、平井信義先生なんだけどね。 要するに、彼が何冊もの本でかいている一番共通のことは、 「親の言うことを聞くよい子に育ててはいけない。」 これですね。親の言うことをよく聞くってのはつまり、自分ではなんにも考えないわけで、親にとっての都合のよい人間を製造するために子育てやってるわけじゃないんだし。 ていうか、私の親もわりとそんな感じの考え方の人だったような気がして、そんな風に育てられたような気がするんだな。母はうるさかったけど、父はわりかし、子供にうるさいことをやいのやいの言うのがきらいな人でした。 で、私もあんまり、うるさく子供にさしずしたり、しつけたり、言うこと聞かせたりするのがきらい。 それで気がつくとそういうことが書いてあるような子育て本を意図的にないしは、無意識にえらんでいるような気がする。そんでもってそういう本をいい子育て本だったって評価しているような気がする。 よくよく考えてみると、基本的な価値観はすでに自分の中にあって、その上で、そういう自分の価値観、子育ての方針にあったことが書いてある本に対して、いい本という評価を与えて、好んで読んでいるのかも知れない。 そうなると、絶対的に役に立つ子育て本なんてないのかも。 でも、実際には、子供なんて親の育て方ですべて決まるわけじゃないし、生まれつき持ってるものがあって、親が必死になってしこんでもどうしても身につかないこともあるし、親がちょっと間違えて育てたり、手を抜いたり、よくわかんなくて、教えそびえたりしたことなんかも、子ども自身が育っていく途中で、自分でみにつけたり、学んだり、修正していくこともあるし、環境なんかも影響するし。 つまりは、子育てなんてそんなに気を入れてやらなくても大丈夫なのかもしれない。 だったらほっぽらかしにして育ててもいいかもしれない。 でもやっぱりそうもいかないだろうな。 できる範囲で、いいと思う方法で子育てしていくしかないし、あとは運を天に任せるしかないかも。 そんなに必死にならないでも、子供は育つし、きりきりしないで、子供と一緒すごせる少ない時間を楽しく過ごすほうがいいと、思う。
2006年12月26日
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なんだか教育再生会議で、野依良治先生の言った爆弾発言が意外と話題みたい。 今朝もテレビでやってました。 「塾なんて禁止にしてしまえ。」 確かに無茶なこと言ってる。でも、ある意味ほとんどの人が思ってるけど、大きな声では言えない、本音だなあと思う。 確かに今現在、いきなりなくされたら、大概の人は困るだろう。でも、子供を塾に行かせながら、本音はしんどいと思っている親は多いはず。(ありがたいとも思ってるだろうけどね。)なんせ、お金はかかるし、それに塾のおかげで入試問題が必要以上に難しくなっていってしまう。 子供だけでやっていれば、子供のやることなんてたかが知れてるし、馬鹿なことでミスしたり、読みが甘かったり、やりこみがたりなかったり、対策がずれていたりする。 でも、塾がなくて、すべての子がそのレベルで受験に望むなら、全体がそんななのだから、入試問題がやたら難しくなることもない。 塾によってうまく指導してもらって希望の学校に入れるのはありがたい。 その一年だけの部分だけをみればたしかにそうなのだけれど。 難関校を目指して何年も塾に通って精神的に疲れきって、社会に出る頃にはすりきれてしまう子も多い。 社会が望んでいるのは、頭のいい、コミュニケーションのとれる人材なのだが、難関校を目指すための塾通いはその反対側の人間ができるような生活になるということはどうにも避けようがない。 社会の優秀な人材が塾の猛勉強によって、数多く擦り切れていくのは事実だし、あまりにももったいないし、社会的損失だ。 野良氏の言うように、数学や、英語の勉強より、理科や社会、音楽や芸術の方がよっぽど実生活に重要なことを教えているのに、受験のせいでそれらの大事な科目が軽視され、はずされてしまう。子供たち全体にとってのおおくな損失ともいえる。 社会や理科がはずされやすいのは、暗記科目として、やりこみの対象になってしまうこと、暗記なので、受験生の頭の良さを図りにくい科目だからだ。けれど、最近の入試数学はパターン暗記が増えてきて、数学でさえ、受験生の頭の良さは図れない。 こないだわが子と話していたら、学校で勉強してるのに、ミルクにレモンをいれたら、科学反応で固まるのも知らないし、姥捨て山の話もしらない。 野良氏の発言によって、この問題がより多くの人たちを巻き込んでデイスカッションされ、考え直されるのなら、それはそれでいい機会だと思う。 ただね。成績の悪い子だけ、塾に行くって事は、塾に行くイコール落ちこぼれとして、いじめの対象になったりしないのかなあと思う。 教育再生会議ってみんなで集まっていろいろ言ってる割に、肝心な本音って意外と論議されてないかもよ。 さすが、ノーベル賞受賞者だ。でも、野良先生をほめると塾の先生たちに怒られそうだ。 塾の先生たちも夜だけ子供との共有時間なんて、遠慮してないで、学校の先生になって、毎日一日中子供たちと過ごしたっていいんですぜ。塾が禁止になって塾が激減して、困った塾の先生たちが、みんな学校に就職したら、どうなるかなあ。おもしろそうだなあ。塾代もかかんなくなるし。夜塾に行かせなくても、すむし。 そういいつつ、うちの子たちも塾通い。塾に行っても、たいして、成績は変わんない気がする。塾って上位の子しか実質相手にしてないですからね。それでも、行かせるのは、塾の受験にたいするマネージメントや、模試の斡旋、志望校の相談や、裏事情を教えてくれそうだからなんだけどね。 そのあたりだけは、学校だけじゃあ困るんだなあ。さて、野良先生はこれからどう出るんでしょうね。
2006年12月25日
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奈良の少年の放火殺人事件。少年院送致に決まったのですね。私はもうかわいそうでかわいそうで、涙が出そうなくらい。子供の頃から、毎日毎日父親に貼りつかれて勉強させられて、勉強できないとシャープの芯で頭さされて、殴られてけられて暴力振るわれて、やったら難しい勉強をえんえんやらされて、青春も子供時代の楽しい時間も何にもなしのあげく、今度は少年院で、その少年期の時間をすごさなきゃならないのか。その挙句、一生殺人者として、言われ続けるのでしょうか。 最近、数十年前に神奈川のS学園で起きた、高校生の少年の殺人事件が今一度、本となって出版されたために、ネット上でも、話題になっています。私がまだ、子供の頃に起きた事件ですから、そんな事件があったことなど、今回初めて知りました。 そして、そんな本をいまさらなんで出すんだろうとちょっと私は腹立たしい。作者は、当の殺人を犯した少年が大人になって、弁護士にまでなってしゃあしゃあと生きている事が許せないらしい。けれど、やっとこれだけの年月が経って、関係者たちの心から、当時の事件の傷がいくらかでも、薄らいできたかもしれないものを、もう一度ことを荒立たせるような事を何でするんだろう。当事者たちはどうかわからないにしても、その周りにいる身内、特に兄弟にいたっては、まったく責任がないのに、殺人者の兄弟としてずいぶんつらい思いをしただろうにと思うのに、その身内の人たちが、こんな本のせいでもう一度つらい過去を引っ張り出されるなんてちょっとあんまりなんじゃないのか。そこまで、この本の著者は考えないのだろうか。 当の殺人者が今、弁護士となって稼いでいるのに、謝罪も慰謝料の支払いもない事が許せないのだそうです。 でも、この本には矛盾点も多いらしいし、私自身ももなんとなく疑問が残る。 実際まだ、この本を読んだわけではないので、細かいことはわからないけれど、それでも、話の焦点が被害者側にばかり向けられている事がなんとなーく納得いかない。 家族に殺人者が出れば、父親は仕事を追われ、兄弟も又、世間からの非難を浴びるだろう。この少年に兄弟がいたかどうかわからないのでなんともいえないのだが、。そして、弁護士になったとしてもイコール金持ちとは限らない。ぜんぜん仕事のないびんぼーな弁護士だっているんだし、(『ドラゴン桜』の桜木健二もそういえば仕事のないビンボー弁護士だったっけ。)父親が自己破産したのも、わざとだと言うけれど、それはあくまで憶測で。実際仕事にならないでしょう。それでも、慶応、学習院とお金のかかる大学を出たという事で非難されているけれど、奨学金を受けていたかもしれません。 そのあたりの加害者側の部分ははたしてどうなんだか。まだ、本を読んでないのでそのあたり、考証されているのか、わかりません。なにしろ、図書館に予約したら、すごい予約数なんだもの。いつ読めるかわからない。やはり話題の本なんですね。 そして、その話題の学校に通う生徒たちだってこんな本がでたら、いい気持ちしないでしょう。今は、有名私立進学校として有名なんだけど、実はそのあたりでは、昔を知る人は首切り学校と呼ぶのだそうです。そんな事何も知らずに通う生徒さんたちはどうでしょう。それに、この事件のおきたS学園と今のS学院とは、実際のところほぼ別物のようなのです。それでも、そうやって過去の亡霊はあるのでしょうか。 事実を知らなければ、同じ学校と世間の人は見るでしょうし。いや、実は私も思いました。 それにしても、いろいろ他のサイトなど読んでいくと、当時のその学校もまたそうとう過酷な環境を作り上げていたようで、全寮制で、テレビを見る事も出来ず、食事の後も勉強の時間。きびしい戒律のカトリックの学校。被害者の少年にいじめられつづけた加害者の少年の状況を思うと、どちらもかわいそうでなりません。 それぞれどちらもたぶん、同じ条件でストレスをためて、一人は、いじめにはしり、一人は、殺人に向かったのだという事が。 少年犯罪の方が少女犯罪よりも、よく耳にするのは、やはり少年犯罪の方が多いからなのか。残虐性が高いから話題になりやすいのか。 男の子は将来家族を養っていき、あるいは、家をつぎ、親の面倒を引き受けていかなければならないその責任の度合いの高さもまた、少年にかかるプレッシャーの度合いを少女以上に高めているからなのでしょうか。 もし、私が加害者少年の母であれば、はたして、我が子をいじめ続け、殺人者にまでしてしまった相手の少年とその家族を一生許す事など出来ないように思います。謝罪もしたくないし、慰謝料もはらいたくない。それは被害者側の気持ちとおなじくらい。 そして、たとえ長い年月の末に被害者のしたことを許す事が出来たとしても、我が子がそこまで追い詰められていた事に気づかなかった自分自身だけは一生涯許す事は出来ないだろうと思うのです。子供というのは、自分が今おかれてている環境がどの程度のものなのか、なかなかに気づかないものだし、そこから抜け出す事も出来にくい。今時分がいる場がひどい状況である事にきづき、学校を抜け出し、大人たちにはむかえるほど強ければ、いっそこんな事件にはならない。だからこそ、母として我が子がそんな状況にあることに気づかなかった自分こそけっして許せないだろうと思う。 けれど、こんな本をわざわざいまいちど書いた著者とそれをさらにネットであおる某巨大BBSの人たちの偽善者振りにもものすごーく腹立たしい。 どちらがどう悪いかも、何をどうすればいいのかも、難しすぎて結論なんかとてもじゃないけど、でない。 殺人は悪いのはもちろんで、だから、悪いんだといってしまえば簡単だけれど、今現在自分の存在を否定しつづけ、自分の存在を危うくする存在を抹殺しようとする行為は、自己保存、自己防衛、の行為で、自己保存すら放棄してしまうにいたる今のいじめによる自殺とどっちがましなんでしょうねと聞いてみたい。 ただ、過酷な環境というものがいかに人の心をゆがませていくものか、それだけはわかる。そんな事件なんだろうと思う。 あまりにも、悲壮で細かいことを書き出す気にはなれません。詳細は他のサイトなどでご覧になってください。 参考サイト その1 その2 その3
2006年10月29日
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この週末は珍しく忙しかった。中学校の進学説明会と、高校のお食事会と、塾の都立高校合同説明会が三日間にあったので。わたしは、ああいう人がひとつの部屋にいっぱいいるところに行くと、頭痛くなるんです~。二酸化炭素がいっぱいなんだもの。だから、家にいるときはほとんど寝てたの。来年はダブル受験なんで、だんだん忙しくなっていくと、ブログもだんだんお留守になっていくかもしれないです。 それにしても、最近の受験は学校の個性化のおかげで、システムがむちゃくちゃ複雑で、私は、頭がこんがらかりそうです。しかも、ダブルだから、なおさら。高校も大学も学校ごとにすべて違うので、ひとつづつチェックしなくちゃならない。来年私はどうなるかわかんないです。 それにしても、都立高校っておためごかしがないっていうか、結構うそつかないって言うか、自分の学校の実情をストレートに語ってくれて、良いなあと思いました。「うちの学校はいいんですよ~」と、とうとうと自慢ばかり語るような私立とは違う。 とくに、都立屈指のH高校なんか、ここだけ、校長先生じゃなかったのか何なのか、お話にしゃれたジョークとか入っていて、アカデミックな雰囲気を感じました。良いなあ。うちの子には関係ないんだけどさ。もうひとつのR高校はひじょーにカターイまじめなハナシップリで、ばりばり硬派でひたすらまじめに勉強する学校の雰囲気でした。ここは、知り合いが行ってるんだけど、話を聞くとすごく大変らしいですよー。 ほかにも、「うちはもう、ガラ悪いって言われちゃうんですよー。昔は良かったんだけど、最近はボロボロです」とか、と白状してて、文化祭見に行った私の感想もそうだったので、やっぱそうかーと思いました。包みかくさず、ほんとのこと行ってくれるところが良かった。で、結果ここもやめようかなととか考えちゃったりして。 こういうの聞きに行くとたった一人の先生でその学校の雰囲気って結構わかります。学校内部で見てると、先生たちはそれぞれ違うけど、外から見ると、その学校独特の雰囲気を先生たちは知らず知らずに身につけているので、そのうちの一人の先生を見るだけで、ほぼその学校の雰囲気がわかります。まず、はずれません。 大学受験だって、イマドキの複雑さでは、とてもじゃないけど、子供任せにはしてられないし。うーん。大変そうです。「行きたいところどこでもいいよ」っていったけど、全然どう決めればいいかわかんないみたい。子供なんてそんなものです。それでも、本人の志望を聞きつつ、話しアイです。 ところで、こんな本見つけた。学校や塾がくれる大学案内ってどうにも、めんどくさくて読む気しないんだけど、これは結構面白い。 普通の大学案内には書いてない大学の内情をリサーチして、聞き書きして本にしたって感じでしょうか。多彩なキャラがざわざわ行き交うヒューマンスクランブル明るく賢くエスタブリッシュに咲き誇る私大の華コンサバティブな優等生が集まる都心のこざっぱりまあまあの満足感を感じながら生きていける内弁慶ななどなどです。どこの大学か想像してくださいな。 でも、まだよく読んでないの。これをみた息子が「大学ってそんなにないんだね。」ですと。そうなんだよ、だから、とどこでも良いからとは言えないけど、とにかく引っかかってください。受験、入試
2006年10月23日
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「いい加減本気で対策とればいいのに」と思うけど、相変わらずなくならないようですね。いじめって。私もどちらかというと、いじめられる側。今思うと無理なかったのかなという部分も認めざるを得ませんけどね。でも、こんなにひどくはなかった。 いじめなんてもちろんいじめるほうが悪い。しかし、いじめる方に圧力かけてストップかけても、いじめられる側にある程度の要因なんかがあると、結局また、別の集団で同じ目にあう可能性もあるし。 いじめるのは悪いです。けれど、みんなあんまりいわなくなっちゃったけど、いじめられる側の子を修正することも大事なことだと思うんですね。 いじめられる子にある程度その要素がある場合がある。こういうのは、やはり、大人の力で修正した方がいいんだけど。 たとえば、英語にはじまる外国語というものは、というか、言語というものは、子供のうちから、日常的に接して身につけていく分には、感覚的に習得してしまうからいいのですけれど、ある程度大人になって、外国語として、習得するには、もう、文法という形にして、理論と理屈で学習させたほうがいいそうです。だから、中学や、高校で文法、文法と必死に勉強してるんですけどね。 いじめられる子もまた、これに似ていて、本来子供の頃から、感覚的に習得しているはずの、集団内でのルール、暗黙の了解のたぐい、をある一定の年齢までに身に着けているはずのものを、学びそびれてしまったのではないかと思います。本来言わなくてもわかるはずのもの、自然に知っているはずのものを、学びそびれてしまう。あるいは、本人には、まったく悪意はないにもかかわらず、他人を不愉快にするような発言をしてしまう。あるいは、自覚しているにもかかわらず、不快になるような言葉を発してしまう。内心まずいと思いながら、なぜかそういう行動をとってしまったり、発言してしまったりする。こいう子達が集団の中で浮き上がってしまったり、いじめられてしまったり、不登校になってしまう。 こうなるともう、彼らには、なかなか自分で自分を修正できない。また、まったくわかっていない場合など、どうして自分がいじめられたり、仲間はずれにされたりするのかわからない。 いじめる子をしかる一方でいじめられる側も何とかしてあげないと、大人という強権でストップをかけているうちはいいけど、社会に出れば、そんなことはしてもらえないのだから。やはり、なんとか、わかる大人が理詰めで、理屈で言葉で子供のうちに根気欲教えていくしかないのですね。場合によっては、保護者なども、子供を修正する力がない。気づいていない。気づいていて、何とかしようとしているのだが、どうしてもできない。というパターンがあります。こうなると、第三者的な存在が介入するしかありません。 しかし、そんなことのできる大人というもがはたしてどれほどいるか。このあたりが非常に難しい問題です。 子供に英文法を教えるように、社会生活のルールを理屈で教えていくしかないのでしょう。ただ、難しいのは、教える側の大人にとってもあまりにも当たり前すぎて、子供がわからないということが教える大人側にわからなかったりする。このあたりをどこまで見抜けるかなんだけどね。何で知らないの。こんなこと。とか、そんなこといったら、したら、相手が怒るだろうとか、不愉快になるだろうとか、そのあたり、明確に教えないとだめデスね。こういう子達は悪意でわざといってるんでも、行動してるのでもない場合があるのです。将来ニートにならないために。子供たちが幸せになるために。そして、他者をいじめるなんて行動を他の子にとらせないために。 アニメ「時をかける少女」を見ていてもですね。いじめられるパターンをもった男の子がでてくる。見てると、これはもう確かに意地悪されるな、いじめられるなという、雰囲気というか、行動というか、話し方というか、そんな独特のものをもっていて、無理ないのですね。こういう子を普通に行動できる子、普通の雰囲気を持った人間に修正してあげたい。 もっとも、このお話の中では、このいじめられっこの男の子はきちっといじめた相手にやり返してましたけどね。 最後にお断りですが、もちろん、ごくごく普通の子なのにいじめに会うという場合もあるわけで、私もひどいいじめは身近にまだ遭遇していませんので、これは一部のパターンについての意見としてお読みいただきたいと思います。 教育問題 いじめ
2006年10月18日
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自慢話とか、小難しい話というのは、だいたいいやなものなので、リアルの世界では、もちろん極力口にしない。 だからあえて、ネットの世界では、そういったリアルの世界では言い出せないようなことを書きたい、書いてすっきりしたい、と言うコンセプトの元にブログを書いている。 それでも、やはり過渡にならないよう抑えつつ、わがこの自慢を書いてみる。私個人としては、わがこの失敗談や、欠点をネットに書き立てることはよしとしないゆえに、そして、子供たち自身から「書かないように」と言う要請の元に、ブログを書いている。それでも、たまにちらっと書いちゃいまして、時々子供からチェックが入ったり、いやな顔をされたりする。だから、表面的な自慢話を書くのがせいぜいなんだけどね。もっと、もともとのことでは、エッセイストの木村治美さんがやはり、子供たちから、自分たちのことをいいことも悪いこともすべてひっくるめて、エッセイに書かないでくれといわれた話が書かれていて、主婦なので、どうしてもエッセイを書けば、子供のことは書かないわけにはいかないと言う現実とのジレンマが書かれていました。 そうは言っても、やっぱり、子供の話は面白いし、子育て中だから、興味あるし、ということで、いろいろと読みにいく。矛盾してます。第一、このての話題を書いてなかったら、ブログの面白さが半減するじゃん。 それでも、やっぱり、わが子の自慢なんていうのは、他人から見れば、不愉快であるのも事実。そう思うから、大概は自慢は書かないものなのだけれど、そういう嫉妬心ていうのは、ある意味むずかしいな。他人が自分の子をほめることに不愉快を感じるという親の心理はそのまま子供たちにも投影されていくわけだから、そうなると、学校という場の中で先生達だって、生徒を一人に限定してほめるのは難しい。この状況で、先生に対して、子供をけなしてばかりいると非難することはできない。だって、生徒の一人を全員の前で先生がほめれば、それは、ヒイキとして、ほかの生徒たちの不快感を作り出すだけだからだ。そして、一人の生徒に対しての先生のほめる言葉を聞く時、生徒の側は、そうじゃない自分を否定されているような、注意されているような逆説的に怒られている様な気持ちになってしまうからだ。特に日本にはそんな気風があるように思う。 外国では、一人の生徒を全員の前でほめても、ほかの生徒たちがそう感じるような雰囲気はないように思える。行ったことないけどね。他者の成功を喜んで受け入れる気風は、日本にはないのだろうか。これでは、先生たちは生徒を怒るか、大雑把に励ますくらいしかできない。たとえ、一対一で、個人的にほめたとしても、、たまたまソコを通りがかってその内容を他の生徒が聞いてしまった場合、やはり、ヒイキと認識される可能性は高い。これでは、とても、学校の先生たちは生徒をほめることなどできない。落ち合い監督はそのあたり、どううまくやっているのだろう。プロのプレイヤーの集団となれば、そんなみみっちいことで不快を感じたりなんてことはないんでしょうか。 保護者会でも、同じように、一部の生徒のよい部分を先生が実例として話す時、親たちはあまりいい気持ちにならない。できる子の話をされても、うちの子には関係ないし、どうせうちの子はと言う方向に思考は進んでしまう。 人前でほめられなくて、ネットでもほめられなくて、学校でもやりづらいとなれば、我が家で、誰にも聞かれないよう気をつけながら、そうっとほめるしかないのだろうか。なんだか、ちまちましたほめ方だなあ。 こうなると、今世論をにぎわす、ほめて育てるとは所詮お題目なのか。 ほめ言葉と言うものが、日本の社会の中で、かくも否定的な扱いをうけ、ねたみや、嫉みや、嫉妬や、反感ををまねく、その気風と黒い心理のその先にいじめに至る思考が作り出されるとしたら、いったい、いじめをする子供たちを非難できるだろうか。 それでもやはり、自慢話は不愉快だし、他者に対してのほめ言葉も不愉快に感じる。それは私も同じことだ。 おおらかに鷹揚に、自慢話を聞き取り、ほめ言葉に共鳴して、一緒に賛辞を送れるような気風を持った日本の社会は遠い。 私自身ちっと反省。 しかし、一方で、他人を不愉快にしないよう、自慢話などしないよう、他者に気を配れる日本のやさしさ、気遣いも私は好きなのだけれど。 親の教育
2006年10月12日
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子育てを一段落したある日、スーパーで、他人のベビーカーをすごく邪魔だと感じた。自分も今まで、ずーっとベビーカーを使ってたわけで、子育ての大変さも重々承知の上で、「じゃまだな、これ」と感じた自分の心理状態にすごく驚いた。 こないだまで、ベビーカー使いまくって、迷惑かけまくってたのは誰。ま、日本は狭いですからね。当然スーパーの店舗の中も狭い。その狭いところにベビーカーは確かに邪魔。しかも、母親は買い物と上の子への注意で精一杯だからね。 そのうえで「こんな風に感じるものなんだな」と思ったわけで、人間の思考はこんな風にできてるわけです。邪魔だと感じるかどうかは、その時の心理状態にもよるし。疲れてたり、いらいらしてたりすると、特にね。 子育ては大変だし、周りは理解と協力をした方がいいし、実際そう思うんだけど、そういう理想と現実のそれとは、全然別のところで、邪魔とか、うるさいとか感じることはまあ、本心なわけでして。本心に対しては、ちゃんと認識して、認めたほうがいいと私は思うわけですね。それは、つまり、それを否定するとうつ病になったり、過渡の心理的ストレスがかかったり、精神によくない。 これは、子供のこととはまた別に、たとえば家の中はきちんと整理整頓しておいたほうがいいけど、「体調が悪くてできない」とか、「性格的にどうしてもキライ」とか、「今日は何とかなく気乗りがしない」とか、考えるわけで、「ちゃんとしなきゃ」という気持ちと「めんどくさいやりたくない」と思う相反する気持ちがある。「やりたくないできない」という本心は素直に認めたほうがいい。そこで、ちゃんとできない自分を否定しちゃうところから、精神的破壊が始まるのですから。で、怠け者である自分を認識した上で、できる時は掃除片づけをする。 騒音に対して「うるさい」と思う。それはもう本心ですから。その上で、それをまあ、表に出さない。そういうスタンスが必要だなあと、思うんだけどね。 ところで子育て中は、どんなに迷惑になろうと気にしないようなある意味無神経さも必要だなあと思う。もちろん、迷惑をかけないようにある程度できるところまではするにしても、子供ですから、限度があります。どうしても騒ぐ。 私も子育て中は、こんなに大変てことは世の中の人たちみんなこうやってヒトに迷惑かけて育ってきたのに、迷惑がるなんておかしい。と、思ったものです。だから、ある程度迷惑は容認するしかないし、容認してもらうしかない。そのうえで、「うるさい」とか、「邪魔だな」と思う感情は本心です。 ところで、もっと面白いのは、わが子の成長とともに、自分の関心も移行していくということです。子供が赤ちゃんのうちはよその赤ちゃんも視界に入る。興味もわく。相手もできるし、気持ちもわかる。でも、わが子が幼稚園児になると、親の自分も目に入るのが幼稚園児になる。幼稚園のよその子とも、おしゃべりができる。これが、子供が小学生、中学生になると、やはり、気持ちはそっちに移るので、もう、幼稚園児はただの背景になり始めちゃうのですね。読み語りなんかも、わが子が小学生だからできたかもしれない。わが子が中学生になってくると、もう幼い子に気持ちをリンクさせにくくなってくるのです。だから、そこでもう卒業したほうがいい。てことで今は、中学生と、高校生しか目に入りません。人間てそんなものなんだなあと。わたしは、基本的に子供好きなわけじゃないから、子供が大きくなったら、もう無理ですねえ。 ちなみに、日本は大変そうでも、なかなか手伝ってあげにくい国です。妊婦さんやお年寄りに席を譲っても、座ってくれなかったりするし、ベビーカーが重そうでも、母親は一人でがんばっちゃってますね。声をかけても拒否されたり。 最近は外出しなくなってきたので、今はどうだかわからない。
2006年10月07日
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下手な先生に教えられる生徒はたまらない。そして、そんな下手な授業に対して、授業料払う親はもっとたまらない。お金返して。 最近はひどい先生も増えたという事でニュースにもなる。そして、先生に対して生徒が評価をつける学校も出来てきて、そのことに対しても、賛否両論ありますが。私はいいんじゃないかと思うよ。 十段階評価くらいで、査定してみる。その逐一を先生に伝えるのではなくて、ですね。評価させてみると、他の先生たちと比べて余りにもひどい場合にのみ知らせる。10点満点でほとんどが1、ないしは2、良くて3か4がいくつかある程度。もし、このくらいひどい評価をもらう先生がいたら、やはりその先生に対しては、本人に告げる。学校側も注意して観察する。ひどい評価が続くようなら、雇用の継続をみあわせる。くらいのことはしてもいいんじゃないですか。それ以外のごく普通の平均値の評価の先生がたに関しては、別にいちいち良かった悪かった、もっと上げるべきだなんて細かく気にしなくてもいい。これは、あくまで特にひどい先生をピックアップするためのものだからです。 どんな学校にも必ず下手な先生はいるもので、だけど、その実態は生徒にしかわからない。それを子どもからきいた親が学校側に伝えるくらいしか、今の手段はないし、伝えたとしても、それで何らかの対処をしてもらえる事はほとんどない。悪評価のまま、先生は、い続ける。 先生という、尊敬すべき、敬意を払うべき存在に対して、生徒が評価するなんてことをするから良くないなんて、反対論がありますが、そんな事をいう人は、それは、実際に子供がいないか、子育てにタッチしていないか、運良くひどい先生に当たった事がないからなんではないでしょうか。私は先生を採点するって必要だと思います。やはり、明らかに下手でほとんど何を言ってるかわからない、説明が下手、教え方がものすごく下手、声が小さくて聞こえない、そういう先生に習う羽目になった事ありますけど、ほんとーに何がなにやらわからなかったもの。大概の先生は新人を除けば、いや新人といえども、それなりの授業はしてくれるんですけどねぇ。
2006年09月05日
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昨日はなにやらいろいろたいへんでした。息子は高校竜王戦だし、娘は林間学校だし。なにしろ、林間は朝六時集合だと言うので五時過ぎに起きて、娘を起こして、朝飯食わして見送りました。無事に帰ってきてね。ところで最近の林間学校は山登りとか、ハイキングとか、そんなことはやらなくて、大体新潟方面の農家に行って、普通の農家で農業体験というのが一般的になってきた。長男の時もそうだった。とにかく、働くというのを実体験させるという方針らしい。いきる力ってやつですかね。で、この話を母にしたら、次にあった時には、新潟の方に行ってアルバイトするという話しに変身していた。おかあさーん。同居している甥っ子だって同じ事してるのに、同居してる兄夫婦はそういう話しないのですか。ほんとババサマたちって同居してるおニーさんオネーサンたちからはなんにも聞いてないんだもんナ。おい、一緒にいるんだから、そういう話くらいしてあげないさいよ。ババサマたちは遠慮して自分からは聞かないようにしてるんだからさ。かりにも一緒に住んでるなら、意識的に話すくらいしてほしい。と、同居もしてないのんきな立場でクレームつけてみたいのです。ところで夜帰ってきただんなに聞くとバスが出発したのは七時だそうだ。何でスト。ジャ、私が頑張って早起きした意味はなんなのですか。また、いつものように校長あたりが雨の中くだらない説教たれてたんだろうか。そんなことやってないで、さっさと出発すりゃーいいのに。全くもうこれだから公立っていうのは。しかも、ザンざぶりの中、結構よそのご父母様方が見送りに来ていたらしい。えっあの雨の中をデスカげーっ。うちの娘なんてうっとおしがるからね。私はそんなのめんどくさいし。中学生にもなっていまさらだし。でもね昨夜は娘がいなくて寂しかった。どうしててるかなあ。この程度でも寂しいんだから、娘がお嫁にいっちゃったらどうしよう。寂しくて寂しくて死んじゃうわ。くすん。それから、息子が高校竜王戦に行った。将棋部のほかの部員に声をかけたら、わらわらわらわら、結局みんなきたらしい。でも、誰も優勝できなかったらしい。うーん。全国優勝したら、大学受験の推薦入試に使えると思ったんだけどなあ。世の中そんなに甘くないらしい。最近、カードゲームばっかりしてて、本気でやってないものね。残念。明日には娘も帰ってくるけど。まだまだ今夜もいないんだわ。はう。中学生のパパママ
2006年07月22日
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今頃奈良高1放火殺害事件のネタもずれすぎ!!ってことですが、ま、いいでしょう。だって考えてたんだモーん。ま、いろんな意見もあるし、いろんな考え方もあるしね。 なんていってる間に今度は阪大生母親殺害事件も起きちゃいまして、元は同じだわね。 共通なのは子供の人格無視してるっていうか、あると思ってないっていうか。 学校って言うのは、その成立の段階から既に欧米的個人主義、人間の人格尊重を基本にして教育をしてきていると思うんだけど、それが、学校の教育方針から、だんだん社会に浸透していくには時間がかかるわけです。 学校で個人の尊厳を、日本の民主主義や民法のありかた、考え方、基本理念を教えていても、なかなかそれが実際の場には根付きにくい。だから、かつての学校では、それらを謳い文句にしているわりに、実際に現場の先生たちは、生徒の人格も自主性も無視して、怒鳴りつけるような、押さえつけるような、そんな教え方だった。だから、生徒を「おまえら」なんて平気で呼んでました。 けれど、時代も流れてきて、最近の学校教育の現場では、確かに、かつての先生達よりは生徒を人として扱うようになってきたし、公立小学校の校長先生自らも、学校教育はサービスであり、先生は子供たちに奉仕する側だと、言うようにもなりました。授業の最初の挨拶もないし、授業中でも、子供たちは声を上げます。 まだまだといえども、今の学校はかなり子供たちの人格尊重の姿勢を示し始めている。そして、子供たちも自分の人として尊厳とプライドを持ち始めている。 けれど、対する大人の方は子供を人間として尊重し、人として遇するということのテクニックを今ひとつ身につけられずにいる。 かつて、生徒を人として扱わない教師と、近代教育によって自己の尊厳を自覚し始めた生徒との間で、軋轢が生じて、卒業式のあとのお礼参りや、授業ボイコットや、不良というような形で現れていたものが、今、その衝突のラインが、親と子供の位置へとずれてきているのかもしれない。 今現在の学校は学校崩壊のような現象はあったとしても、そこには、かつての時代とは隔世の感がある。生徒、子供を一人の人格として認め、決して頭ごなしに押さえつけるようなかつてのありかたとは違い始めているように思える。それでも、ハテナな校則ありますけどね。 プライドをもった子供と、子供の人格を尊重するような子育ての出来ない親という競り合いのポイントが家庭にずれ始めてしまっているのだろうか。 実際子供を育てる上で、子供を人として、子供の人格を尊重するような接し方というのはとても難しい。その上日常のことなので、メンドーくさくもなってくる。親の言うことをきいてりゃいいんだとか、親の言うとおりにしてれば間違いないんだとか、お前は子供で何もわかっちゃいないんだとか、とにかく言うことを聞けとか、こっちできめるからお前はだまってろとか、そんな言葉が並んでしまう。 どうしても、子供が親の言うことをきかせなければならない場面もまた、確かにあるものなので、どこまでで、その線を引くか、その見極め自体がむずかしい。 けれど、親達も、いい加減、子供がもう、自分の勝手では動かせないことに気づかなければならない。 おとうさん、子供に甘えすぎちゃいけないよ。 愛すればこそ、子供の将来を心配し、親は不安で不安でしょうがない。自分が子供の人生を全部決めて、子供にそのとおりにさせれば、なんたって一番楽なんです。でも、やっぱり子供には子供の心と望みがあるもので、親はどんなに不安でも、その不安にたえて、ちょっと下がった後ろから、黙って見てなきゃならないようになってくる。 親の言うことを素直に聞いてくれる子供は優しい。親の希望を感じ取って、自らの意思を抑えて、親の願いに沿わせてくれる、そんな子供のやさしさにいつまでも、甘えてちゃダメだ。 不安でも、辛くても、人生覚悟しなきゃならないこともあるんだ。 子供の人格を育てようとする学校教育と、まだまだ、子供を人として認めきれない家庭教育の、その境界線にひずみが生まれてしまうのだろうか。 既に子供を人として扱うことが、学校でも、家庭でも浸透している欧米のような、教育のありかたは、いずれ日本にもきっと染み渡っていくと思いたい。 ところで親が子供に勉強を教えるのって難しい。母であれば所詮女なのでどこかで手抜かりがあって、息ぬく暇もあるんだけれど、父親となると男なので、徹底しきってしまう部分もあるのかも。その上男なので、教えてる途中でちょっと席を立って家の用事をしてくるなんていう休憩時間も取れませんもの。それに、どんなに勉強できたって、教え方のプロでも、その道のトップでも、ないものね。所詮は素人だから、へたなのよね。デモ、当事者はそのことを自覚してない。わからない子供が悪いとか思ってるでしょ。困ったものです。私も気をつけよーっと。 能や狂言や踊りや、伝統芸能の場合はその道の最高レベルが親である自分なので、ほかに頼みたくても頼めないし、その分ご母堂様が精神的なフォローをするシステムもまた、確立してるんでしょうねぇ。うーん。好き放題かいてるだけだわ。ごめんね。教育問題
2006年07月15日
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例によって例のごとく藤原正彦読んでます。藤原先生によると、数学は今や進みすぎて、数学者を目指して数学を勉強しても、数学研究の最先端まで行く頃には、30歳くらいになってしまうのだそうです。うーん。なにしろ受験受験で、ゆっくり勉強してる暇ないですものねえ。イマドキは。優秀な子は中学受験のために三年間が受験算数でつぶれちゃうしね。それに、今の学校はゆとり教育で進むの遅いですし。難関進学校といえども、文部科学省の呪縛があるしね。それで、いっそ習い事か趣味ののりで、数学だけを学校とはまったく別のシステムで教えるような塾があったら、どうなのかなあと考えてみたりする。受験算数も、学校の算数も数学も、受験も無視して、数学だけを教える。なんていう塾どうでしょうね。それで、数学検定や、数学オリンピックなんかで、よい成績をとれれば、都立の中高一貫校の推薦狙いとかや、私立中の算数特選、高校受験の推薦枠ねらい、そして、東京工業大学の数学特選なんかで、入学する。そして、数学者目指して更に勉強だ。ってどうよ。と、いうわけで、今日の話題はお遊び。数学者の休憩時間を読んでいる。 というわけで、画像ありの本も貼ってみたい。
2006年05月20日
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長男が小六の時のことだ。(今は高2)今とかわらず、だらしなかった。つまり今もだらしないんだけどさ。 とにかく筆箱に鉛筆が一本も無いし、消しゴムは人のものを借りまくっているし。たぶん、学校の机の中のお道具箱の中なんだろうけどさ。 保護者会で指摘されて、きっとそれはうちの息子のことだ。と思ったわけだ。それで「何で鉛筆をちゃんといれとかないのっ。」と怒ったのはいいのだけれど、「どうして塾の筆入れは鉛筆がちゃんと入っているの。」と聞いたら、長男が言うには、「塾は勉強するところだから。」私はしつけとか説教とか途端にむなしくなった。 学校ってしつけとか生活指導のまえにやるべき事あるの忘れてるのかな。 ちなみに今もだらしないけど、筆入れにえんぴつちゃんとはいってますね。とにかくそれでもしつけもしないとな。
2006年04月02日
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こないだも『女王の教室スペシャル』なんかやっていて、もう盛り上がっていますね。 誰も言わない本音をズバズバ言ってくれるところがもちろんうけた理由なんだけどね。 でもね、このドラマ、マヤが悪魔のように見えて、すごーく怖いわけなんだけど、じゃあホントにこわいのかっていうと、いやそれがね。このドラマを最後まで見てると学校という枠の中でだれが一番こわい存在かっていうとやっぱりなんといっても保護者だ。というのがとーってもよくわかるドラマですね。あれだけこわーいマヤが結局いつも一年もたたずに教職をクビになってしまう。 とにかくなにかあるとすぐ文句を言いにのりこんでくる母親達。普段仕事だとか言ってろくすっぽ保護者会にでてこないくせに、子供がちょっといじわるされたとなると待ってましたとばかりに苦情をいいにやってくる、保護者たち。そのくせ学校運営にはちっとも協力しないし、役員決めには知らん振りをきめこむし。子供が忘れ物をしてても授業を邪魔していてもクラスを荒らしていてもまったく気づかない親はホントに見事に気づかない。それでも、苦情のためには仕事も休んで学校にやってくるわけだ。今の学校においてなにが怖いって保護者ほど怖い存在はない。 保護者に詰め寄られて苦情に顔をひきつらせるマヤ先生。 どんなに一生懸命仕事をしても、子供のためといろいろやっても保護者のツルの一声でオシャカにされる今の学校教育と、先生達。 子供を学校に通わせてなんども先生と話をしていると、先生達はとにかく親の機嫌を損なわないように怒らせないように気を使っているのが分かります。 もちろんこのドラマのように母親達が徒党を組んでどどっと学校におしかけるなんてほどひどい状況はさすがにまだ経験ないですが。 ところで今どきの親はどうして大事な我が子を預かって面倒見てもらっているにもかかわらずこんなに学校を目の敵にするんでしょう。結構先生なんてきらいという人多いですね。 そして昔の親は「とにかく先生の言うことは聞け」と言ったのが今の親は…という批評が多いですが、本当でしょうか。私の親は戦時中世代ですから、学校教育すらままなりませんし、その前の世代は大卒は珍しいですから学卒であるだけで先生は尊敬しうる存在でした。 でもね、今の親って言うのは、今の学校教育を受けて育った世代。つまりその前の親の世代とは違う。学校の裏を知りぬいているんだよね。先生と言うものがそれほど尊敬できる人間じゃないことも、学校の頃に数々の我慢を強要されてきた事も、ものすごく理不尽な事を言われ続けてきたことも。 先生の態度に腹立たしい思いをしながらも、ただその時さからうと言うことを思いつかなかっただけで、親に言われておとなしくいうこと聞いていたわけじゃないんじゃないのだろうか。 そして、いざ自分が親になって我が子を学校に通わせる段になった時なにしろ学校の事情をよーくわかっているのですから、「先生の言うことはきちんと聞くんですよ。」なんて白々しくて言えません。 そして、数々の昔の苦痛の日々はまだまだ覚えていますから、保護者という権力を握って見た時、かつてのただの子供だった自分とは違う先生に向かってたっぷりと文句も言えて昔の屈辱とうらみを仕返し出来ちゃうという今の自分の立場にきづいちゃったのですね。 先生の質が昔とかわったかどうか、でも、仕返ししてるはずの相手は昔の先生達ではなく自分達と一緒に学校のクラスの中にいた同胞だったはずなんですけどね。 ところでイマドキの公立学校の保護者会。ほんとーに出席率悪いです。 普段あまり学校に参加せずに何もしらない状態でいきなり怒鳴り込む前に学校をよく見て実際のところどうなのか、考えてからにして見て欲しいです。せめて、母親を雇っている会社側は、社員やパート職員から保護者会の出席やそのほかの教育のための行事への参加のための休みを要求されたら、きちんと休ませて欲しいです。 あるいは政府も子育ての施策として保育園や出産補助金も結構ですが、親が我が子の教育のために仕事先の休暇を取らせなければならないとき、取りやすくなるように政策を考えていただきたいと思います。 そして社会の世論も、仕事の効率以上に教育のための休暇に理解を示してほしい、あるいは休みを取って当たり前、と言うような世の中なるように変わっていくように手伝ってください。今回ちょっときつめの書き方多いです。不愉快な部分もあると思います。わかってるんだけど、書いちゃいました。御容赦ください。
2006年03月27日
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読んで見て、麻布学園にに対しての印象が変わりました。ものすごく自由な学校。というのは変わらない。でも、麻布中学にも新興の学校としての時代があったのですね。郁文館や錦城や、正則を目標として創立した当時。明治33年。わずか数名で開校した開校式。そして府立一中(後の日比谷高校)を乗り越えようとしていた時代。今の新興私立のように、進学実績を上げる事に躍起になっていた時代があったのです。上級学校の推薦枠を取るために校長として人脈やあらゆるつてなどを使ってたのみこんでいたことも。驚きでした。大学への推薦枠を増やすことや進学実績を上げることが学校の生徒の確保と存続のための至上命令であることが、名門といわれる麻布でさえ必要だったのです。そして、かつての麻布には補習などの勉強面でのフォローの厚かった時代もまた、あったようです。それにしても、今ではどんな名門校でも、東大の推薦なんてありえないのにかつてはそんな推薦枠すら存在したというのもまた、以外でした。 麻布のリベラルな校風は江原素六が創立した時、すでに江原によって麻布学園に根付いたもの。そして百年以上もの長い年月の間、その間何人かに校長職が引き継がれたにもかかわらず、途絶えることなく続いて来たと言うのはすごいです。長い歴史の中で気づかれたものではなく、創立者江原が麻布をつくった時すでに江原によって必然のごとくつくられたものだというのもまたすごいです。 最近、私立中学ブームが騒がれていますが、明治の学校創設の時代からすでに、公立と私立のせめぎあいがはじまっていたようです。学歴競争は今にはじまったわけでも、この数年あるいは数十年で、はじまったものでもないのでした。すでに明治の時代からはじまっていたのです。そして学校というものはその誕生からすでに進学校をめざす宿命を持っているものなのですね。 この本は麻布の歴史を語ると共に、明治に始まる日本の学校史もまた、詳しく書かれています。今の受験界や、学歴社会、そして明治の開国にはじまる英語の重要性がいまにつづく受験界の英語の重要度として続いてきた事もとてもよくわかりました。いまだに残る大学受験における英語の占める重要度の高さの理由もわかります。開国そして外国の技術を導入していく上でまず英語力が問われた時代の名残であったのですね。 自由を謳いながら麻布学園はその歴史の中で、なんどもその危機に出会います。自由を維持する事はとても難しい。いつのまにか怠惰に流れ、そしてまたゆり戻そうと生徒も先生も自らに問いかけます。なんども、なんども。自由を維持するための戦いはとても壮絶ですらあります。 厳しい規則をきめ、疑念を無視して、黙々と規則に従うようなあり方の方がずっと楽なのです。それでも、厳しさ規律という安易な方向に落ちる事なく自らを律して自由を守り続けようとした麻布学園の生徒と先生達。 「私たちは、自由という名の下に怠惰でした。そして、先生方も、自由という名の下に怠惰でした。この過ちをもう繰り返さないために、是非とも、授業を改善するための機関が確立され、生徒も先生方も、しっかりと高校教育というものを見つめ、この学園が、ゆがんだ教育体制の中で、少しでも正しい姿を取り戻すことを願ってやみません。」という昭和44年の卒業生の答辞が印象的です。
2006年03月19日
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なんとあの東京工業大学が数学特選を始めるらしい。今年からは特にセンター試験が易しくなったという話は巷でよく聞くんだけれど、さすがに東工大もコリャだめだと思ったんだろうか。 今までの国立の入試のような何でも程ほどにできる子がうかるような試験では、本当に数学のできる子は落ちる。若い頭が勝負の数学の世界を一番頭の使える十代前半に受験勉強でつぶすなんてもったいなさ過ぎる。そりゃーもちろんいろんな科目を勉強したバランスのとれた人間は理想だろうけれど。結局英語で勝負がきまる今の受験界。暗記のきらいな理系の子供達を落としていたんでは話にならない。 数学だけ五時間で、センターも面接も関係なしなんだそうだ。大体理系の人間なんてオタッキーで暗くて口下手。もちろんそうじゃない受験生もいるけどさ。面接での口の上手さや人あたりの良さでチェックされたんじゃたまらない。 数学特選は中学受験じゃすでに常識。とにかく算数のばりばりできる子をとって六年間育てれば大学受験のころには国語もできるようになるだろうという読みでおこなわれている。しかし現実には高校生になっても相変わらず国語のできないチョー理系人間がいるんである。私はいくらなんでも、六年もあれば成長すると思ったけどそうでもないみたい。たかだか高校生では国語の苦手な子は相変わらず苦手である。人の心情を読むなんてそんなに簡単にできるものじゃない。その一方でかなり若いあるいは幼いうちから驚くほど人の気持ちが読めたりさっする事のできる子がいるものである。これはもう年月というよりもって生まれた天性なのであろう。バランスのとれた人間をそだてるというコンセプトとその対象的な形として一つの分野に徹底的にうちこめる人間だっていたっていいかもしれない。それはいいとしてとにかく数学的センスのずば抜けた学生は現実問題としてやっぱり必要なんだろうと思う。単純に本音をいうとばりばり理系の学校なんだからばりばり理系の受験生が入れるような試験をやって欲しい。それだけのことなんだよね。 さて、どんな問題がでるのかな。どんな結果になるのかな。来年が楽しみ。
2006年03月14日
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四谷大塚のR4結果偏差値がとうとう出た。毎日毎日待っていました。自分のところの学校がどうなったかなーと思って。去年は2月24日にすでに出ている。しかし、今年はさすがに激変。四谷大塚もそうとう悩んだようである。なにしろ今年から都立中高一貫の入試がとうとう数校ではじまった。その影響もかなり大きい。しかも都立だけを受ける子は中学入試の模試はいっさい受けていない場合もあるのだから読めない。さらに私立受験でも、都立を受けていてそちらに流れた受験生もいるだろう。つまり、例年の状況とはかなり違う。さらに千葉の男子校の共学化によって偏差値はかなり上がっている。そして数年前と比べて多くの学校が全体的に偏差値をあげている。下手をすると昔ならトップレベルの学校に受かったであろう受験生が、中堅校にすら受からないというのもありえそうである。うーん。いったいこの先どうなっていくのかなあ。中学受験も高校受験も、大学受験もなにやら微妙に難しい。ブログルポ投稿中の記事★ 『博士の愛した数式』★ 美術は大事★ 言葉はナマモノ★ 『男たちの大和』その2★ 女の子の世界はむずかしい★ 『東大法学部』★ 教えられたようにヒトは行動する★ ノー ボーダー★ 「反戦」を「キレイゴト」で終わらせたくないと思いませんか★ 女の人は本当に働きたいのか
2006年03月13日
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受験も終わってこの時期になると話題になるのが寄付金を払うかどうかと言いやつである。でもね、私立中の経営って結構きびしいらしいよ。だから寄付金収入は貴重なのかも。もちろん払わなくたってどってことない。かもしれない。でも、みんながだんだん払わなくなっていくとどんどん払わない人が増えていく。そうすると収入が減るのでどうしてもその分学校運営に影響するのではないのかなと思うんである。するとだんだんだんだん気がつかないうちに教育の質が落ちていく。少しづつ少しづつ先生の質もおちていく。いい先生もいつの間にか減っていく。進学実績もわずかづつ落ちていく。学校の評判も知らないうちに落ちていく。いい学校を出たぞっと思っていたはずなのにいつの間にか人に言えない学校になっていく。これじゃあ高いお金払ってなんであの学校いったんだろうと思うことになっている。 なんてシミュミレーションしてみたけど。寄付金は入らなければ、結局その分学費や授業料や施設費が上がるんだろうな。そうするとホントに寄付金払えなかったようなおうちの子はもう無理ですね。すごーくいい子だったはずなのに。 というシミュレーションも考えて見た。いかがでしょうね。
2006年03月08日
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