全20件 (20件中 1-20件目)
1
物語はシャッターアイランドとよばれる、俗世とは隔離された、精神病院のある島。主人公テディは、連邦保安官として、行方不明となった、女性を探すためにやってくる。ミステリアスな展開の果てに、真実がだんだんと明らかになっていく。真実は、うつ病となって、我が子を殺した妻、その妻をころした主人公。の物語なのだったのだ。テディは、そのあたりの過酷な現実故に、妄想の虜となり、精神病患者としてこの島に隔離されていたのだった。精神医たちは、何度か彼を治療し、彼が逃げている現実へと引き戻すのだけれど、現実のつらさのあまり、何度ひきもどしてもまた、妄想の中に戻ってしまう。そして、なんども連れ戻される辛さ故に最後にはもう、ロボトミー手術という、辛い現実から完全に隔離されるという選択肢を主人公は選ぶのだ。実際なんども妄想に戻ってしまうということは、本人がそれを望んでいるからであって、それにもかかわらず、治療して、現実を認識させることこそが正しいと信じている医療スタッフがわ。主治医といい、院長といい。お医者さんて、患者が望んでいることより、医療的に、あるいは、社会的に正しいと言われる対応、つまりは、治療をするけれど、必ずしも、患者側は、それを望んでいるとは、かぎらないんじゃないかと、私も往々にして、思うことがあるけれど、この物語の場合なんか、まさにその、極端な、ケース。物語は、ばらばらだったジグソーパズルが、ひとつひとつ組み合わさって、完成された絵になっていくような感じだった。そして実は、主人公が最後に漏らす一言こそが、その最後の一ピースだったりする。「モンスターとして、生きるのか、善人として死ぬのか。」まるで、シェイクスピアの戯曲の主人公ハムレットのように、最後の一言がぴたっと、ハメられた時、物語は完成するのだ。自分をモンスターと呼ぶほどの辛い現実。現実と妄想の間をなんどもゆききする主人公。本当にどっちがいいと、いえますかと、作者は問う。あなたなら、どちらを選びますか。妄想に走りたいほどの厳しい現実を、なんで一一もどそうとするのか。あの院長さん。何度、現実に戻しても、妄想の中に戻ってしまうのだとしたら、それはもうほんとに、自分の現実がいやでいやでしょうがないからなんだろうと、思います。だとしたら、現実にもどすという精神医の行為は、ホントは正しくないのかもしれません。妄想の中に置いといてあげたほうがいいのかもね。それなのに、なんども、現実に戻されてしまう苦痛、にもかかわらず、自殺も、死刑もありえないのだとしたら、主人公としては、最後には、脳手術によって、その辛い現実を永遠に忘却するしかないのかもしれません。たとえ、それによって、自己や自我が失われてしまうとしても。現実から逃げ、シャッターをおろして、妄想の世界にと逃げていく、あるいは、ロボトミー手術によって、完全にシャッターをおろしてしまう、結末。タイトルは、まさにそういうことだったのですね。ああ、生きてくってしんどい。私も、妄想に逃げたいなーっと思う、今日この頃。それにしても、分かりにくい映画でした。ディカプリオって、不思議な俳優さんです。あいかわらず。そして、なんか、ゲームしてるような雰囲気のの映画でした。ストーリー自体は、よくあるお話です。ただね。ラストの数シーンにえがかれている場面によって、今までのこの手の物語とは、ちっょと違った、テーマを語っているのかもしれません。それをどう読み解くか、解釈するかは、本当に人それぞれ。ただ、私には、辛い現実は、うけいれうるものなのか、逃げてもいいものなのか。現実って、厳しい。そして、生きていくって。しんどい。ただ、主人公は、最初の妻のうつ病っていう段階で、現実逃避せずに、立ち向かっていれば、あそこまで悲惨なことには、ならなかったのでは。対処はお早めに。風邪もひきはじめが大事に。 【送料無料】 DVD/洋画/シャッター アイランド/PPA-114536価格:4,179円(税込、送料込)
2010年10月26日
コメント(0)
人生に正解はない。 今年の映画の中でもかなりの話題作。見たいと思いつつ、いままでかかった。 インドのスラムで育った無学のはずの青年ジャマールがクイズミリオネアに出場し、全ての問題を正解し、巨額の賞金を手に入れる。スラムで育った彼はなぜ勝利できのか。 クイズミリオネアは、日本でも、放送されていて、司会はミノモンタですね。日本では、全ての人が義務教育なので、ここまで、「教育のない人」と差別的な言われ方をすることはないし、出場者の学歴や出自を取りざたされることはないのに、この映画では、随分司会者があてこすりつづけるものだと、関心しちゃってましたが。それを誰も、批難しないのも、インドというお国柄なのでしょうか。 ふだんめったにみることのないスム街やインドの暮らしぶりがわかって、興味深かったです。 正解すれば、大金2000万ルピー。でも、一問でも、まちがえれば、せっかく獲得したはずの賞金を失う。クイズの進行と平行して、主人公ジャマールの人生が描かれていく。人生もまた、クイズのようにそのつど、いくつかの選択肢があり、正解を選び取っていかなければならない。だけれど、人生には絶対の正解はないし、どれを選らんでも、それが必ず正解とも限らないし、どれも正解であることもある。 私たちもまた、ジャマールのように、人生の中で、選択肢に迷う。受験校はどこにするか。何の職業を選択するか。自分にあった仕事や、学校や学部はどれか。結婚する相手は誰がいいのか。どれが正解か、クイズのように絶対のものはないし、ずっとあとまでいっても、正解はわからないまま。クイズのように、すぐに正解を教えてはもらえない。 ジャマールにとっての正解はラティカだった。ラティカと出会い、一緒に過ごす。悪徳集団に拉致され、逃げ出した時、ラティカと、はぐれてしまう。もう一度ラティカを探し出し、救い出し、けれどまた、別れる。ラティカとの人生がジャマールにとっての正解だけれど、なかなかラティカを選び出せない。 親を失ったジャマールと兄サリームは、人をだましながら生きていくけれど、やがてジャマールは、きちんと働いて生きていく道を選ぶ。けれど、兄サリームは、割のあわない安い労働より、悪いことをして金もうけをする人生を選んでしまう。 ラスト直前でラティカを逃がすという選択肢を選んだサリームは、仲間に殺されてしまう。では、彼の最後に選んだ選択肢は間違えていたのだろうか。ラティカを逃がさなければ、死ぬことはなかったのか。でもたぶん、この時、ラティカを逃がさなくても、いずれ彼は殺されてしまったのではないかと思う。彼は、もっとずっと人生の手前の段階で、選択肢をまちがってしまったのだと、思う。 クイズを正解し続けていくジャマールを、番組を観るインドの人たちは、応援していく。(日本だとやっかみがひがみのほうが多いんじゃないかと思いますけどね。)がんばれと、彼にいう老婆。全てのクイズに正解したジャマールは、大金の賞金を獲得し、ラティカと再会し、ラティカという彼の人生の正解も、選び取ることができる。 どれが正解なのか。でも、人生の中にいる私たちはなかなかどれが正解なのか、分かりにくい。正解を選び取る秘訣はなんなんだろう。正解をみあやまらないためには、どうすればいいんだろう。 常に自分の本音を忘れないこと。人に助けてもらうこと。周りを味方にできること。目先の欲に惑わされないこと。ずるをしないこと。正しく生きていくこと。映画の中のエピソードを見ていくと、こんなところかな。でも、やっぱり、正解を選ぶ出すのは、むずかしい。はあ。子どもの人生の選択肢にまで悩まなきゃならないなんて、親って大変。本人がささっと選んでくれればいいのになぁ。 ラスト、登場人物全員でのインド映画らしいダンスが楽しかった。 ・スラムドッグ$ミリオネア@ぴあ映画生活
2009年12月05日
コメント(1)
光をいれたので、とりあえず、NHKのBSがみられるようになった。先日二日間続けて、ノーカット名作映画で、『十戒』、『ガンジー』が放送された。どちらも、リーダーってなんだろうと、考えさせてくれる映画だった。『十戒』は、紀元前のエジプトで、フォラオの奴隷として長い間過酷な労働につかわれていた、ユダヤ人たちを奴隷から開放して、約束の地へと導く物語。『ガンジー』は、イギリスによる長い植民地支配から、インドの国民を解放しようと戦い続けるマハトマ・ガンジーの物語だった。どちらの作品も、過去に見たことがあるけれど、あらためて、ノーカットで、見てみると、さすがに、素晴らしい作品だったと、再認識させられる。しかも、過去の作品なので、デジタル処理もなくて、群集シーンは、全部エキストラで迫力ありました。出エジプトのシーンで、ユダヤ人が、家畜から家財から、盗んだ財宝まで全て持って、荷車やら、車やらに乗せて、ぞろぞろぞろぞろと、旅立っていくシーンがすごかったです。このあたりの描写にかなりの手間と時間をかけてあるのです。そのあとの有名な海が割れて、そこをユダヤ人が抜けていく、シーン。このすごい数の人間を渡らせるのに、海を開くっていう発想自体がすごいですよね。さすがに、神様。人間だけだったら、泳いで渡るか、船を調達するか、さもなきゃどっか迂回するしかないと思うんだけど。1体どういうマジックなのでしょう。ひとつひとつ、モーゼがおこす奇跡は、最初のうちは、それなりに、科学的に理由がつけられそうなんだけど、だんだん無理になってきて、本当に神がかった奇跡。コレは本当にどこまでが、実話なのかなーと、考えてみてもしかたない。それでも、ユダヤの人々を奴隷支配という状況から救い出すには、一人の傑出した 人物が必要だったのだろうか。モーゼは、たまたま、エジプトの王子として、育つけれど、考えてみると、これは偶然というよりは、最初からしくまれた偶然。天の采配なのかも知れないとも思う。あの当時には、王子でもなければ高い知識を得ることもできなかっだろうし、モーゼは、王子として育てられることで、帝王学を学ぶことが出来たわけで。あの当時、帝王学を学ばせようと思えば、エジプトの王子にするしかないだろう。そのうえで、彼が大人になってから、実はユダヤ人だったとか、あなたは、リーダーとして、ユダヤ人を奴隷から救い出さなければならないと、告げられるわけだし。ただ、全体にユダヤ人にとってだけ都合のいい解釈とか、ユダヤ人だけがやけにいい解釈で、神様なのに、ユダヤ人のために、エジプト人が死ぬことにはなんのためらいもないのかなとか、ちょっと不可解な部分も感じました。あくまでユダヤ人のためだけの神様なんですよね。キリスト教の神様って唯一神のはずで、だとすると、世界に神様は一人だけのはずになのに、その神様はユダヤ人のためだけにしか、行動してないのが不思議といえば不思議。しかも、最後のゴールの約束の地って、20世紀に世界的に物議をかもしだす場所なんだよね。もともとは、ユダヤのための宗教と神様でしかなかったのが、なぜかキリスト教に進化して、世界中に広まって、そのキリスキ教信者がユダヤ人を迫害したり、虐殺したりしてて、本当に、日本人から見ると、不思議。キリスト教って不思議。『ガンジー』に続く。
2009年04月03日
コメント(2)
なかなか面白かったです。『スター・ウォーズ』は、世界観がすごくしっかり出来ていて、しかも、面白いので、こういう風に、番外編や外伝がいろいろ作流ことの出来るシリーズだと思う。これからも、できればいろいろ作って欲しい。本編だけで終わりにするには、もったいなさすぎる。もともとの本編は、実写版だけれど、実際のところ、背景や、飛行船など、人物以外のほとんどがCGだったので、このCGアニメ版をみても、ほぼ違和感がない。実際の俳優を使うと、ぐずぐずしてる間に俳優が年取ってしまうけど、アニメは年をとらないので、いつまでも、のんびり作っていられていいかもしれない。 本編の『スター・ウォーズ』は最初全9話だと、聞いていたのに、結局全6話で完結になってしまって、本当のところ残念。技術的に無理ということで、前三作からは、時間も空いていたし。CGのおかげで、最初の三話が近年になって作られたけれど、CGでここまでつくれるならもう、実写にこだわる必要すらないのかもしれない。時代的にももう、昔ほどSFとか、宇宙大戦なんてもてはやされないし、つくった初期とは時代背景もかわってしまって、ソ連は、なくなっちっゃたしで、違和感があって、作りずらくなってしまったのかもしれない。アメリカの戦争好きは非難される一方だし。こうなると、そもそもの『スター・ウォーズ』シリーズのテーマ自体が、陳腐になってしまっているのかもしれない。でも、今回のクローズウォーズは、面白かったし、ラストは続きの作れそうな終わりかただし。パート2ができたら、また面白そうだ。それに、このクローンをネタにしている部分が、逆に外伝でありながら、今にあっているテーマだと思う。このお話のテーマ自体は、師弟関係だったようだけれど。成長したアナキン・スカイウォーカーが、師匠のオビワン・ケノビから離れて、新しいパドワン・アソーカの師匠になると言うところから始まる。師としては、まだまだ初心者のアナキン・スカイウォーカーと、弟子としては、やっぱり初心者のパドワン・アソーカの二人がいろいろもめていて、その一方で師弟同士信頼関係ができあがっている、ケノビとスカイウォーカーの、「あの人なら大丈夫。きっとやり遂げているはずだ」という、言葉が、、別々の場所で発せられているところが、すばらしかった。そしてそんな、ケノビとスカイウォーカーだって、本編のエピソード2のあたりではたしか、やりあっていたと、思う。ケノビとスカイウォーカーの場合は、このお話ではいきなりもう出来上がっちゃってますが、このシリーズが続けば、アナキンと、アソーカの師弟関係、信頼関係がとのようにして出来上がっていくものなのかを、描いてくれるのではないかと、思います。本編が親子関係、自分の中の善と悪の葛藤であったので、この新シリーズでは、人間と人間つまり、他人同士の信頼関係はどのようにして出来上がっていくものなのかが、テーマだと、思えます。宇宙をバックに、今はない深い師弟関係と、修行。東洋的な衣装や建物や思想があって、楽しい映画です。 ヨーダって面白くて素敵なキャラなのに、いつも脇役チョイ役ばっかり。ヨーダを主人公にした話も見たいです。 スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ@映画生活
2008年09月03日
コメント(0)
物語を書く上で読者の感動を呼ぶ結末にするのに、一番はなしが早いのは、出てくる登場人物、特に主人公を殺すこと。これが、一番手っ取り早くて簡単だ。なんでも、登場人物を殺すことで感動の傑作を作り出すという、ストーリーを書く作家たちのその安直さをなじっているような物語だと、思う。 だから、この物語では、ストーリー構成に悩む小説家のところに、突然彼女が書いている物語の主人公がやってきて、「俺は死にたくないんだ。殺さないでくれ。」と、頼んでくる。架空の物語の中の人物であるはずの主人公が、突然ほんもののナマの生きた人間として、彼女の前に現れたことで、彼女は動揺し、主人公の死の結末までタイピングしてもなおその動揺を抑えられない。 結局、彼女は主人公を殺すことが出来なかった。主人公が死ななかったことで、物語のテーマはかわってしまい、超傑作だったはずの彼女の作品は、ただの普通の作品なってしまう。けれど、それでもやっぱり、主人公が死なない方がいいと、作家は思う。 主人公も登場人物も殺すことなく、人の感動を呼ぶ物語を書くのは、難しい。登場人物たちを殺すことなく、感動できる傑作を書き上げることができた時初めて、その作家は本当の文豪、名作家になるんじゃないのですか。と、思う。まあ、自分の人生を作ってるのは、自分なんだから、自分の人生は自分で作れ、他人の意見に左右されずに、自分の意志で生きろという、そういう物語とも取れると、思う。ところで、外国の映画ってどうしていい年したおじさんとおばさんがまじめに恋愛してるような映画があるのでしょう。ぐずぐずしてないで、さっさと結婚して子育てでもすればーと、私は毎回イライラします。でも、ヒロイン役の女優さんがなかなか素敵だった。ロースクールにいってたはずが、結局お菓子屋さんになっちっゃたというエピソードが素敵。これを見ていて、おもわず、チョコいりクッキーが食べたくなってしまいました。 主人公は僕だった@映画生活
2008年07月15日
コメント(2)
ものすごく分けわかんない話だったのだが、だからってただつまらないと書いてみても始まらない。というわけで。懲りずに、映画レビューです。 私はフランスが大好きなんです。けれど、遠くて遠くて簡単にはいかれない、映画や人からの話や、とにかく情報でしか手に入らない憧れの外国。夢のように美しい国。(もっとも一度だけ実際に行ったことはあるのですが。) 西洋にとって日本があこがれの美しい神秘の国だったように、わたしにとっても、フランスは、憧れの国だ。その私の憧れの国、フランスが物語のメインの舞台。ヒロインのエレーヌは、キーナ・ナイトレイが演じていてすごくきれい。彼女があこがれるのは、森の中に大好きな白い百合で、庭園を作ること。好きな人にであって、好きな人と結婚する。彼は、彼女のために危ない異国に出かけて、そして帰ってくる。成功した彼はお金持ちになって、彼女のために森の中の家を買ってくれる。そして、彼女一人では無理そうだった庭園作りを、村中の人々を雇って、作ってくれちゃうのだ。完成した庭園の美しいこと。 私の憧れのフランスの田舎町の町並みも、花だらけの森の中も、二人が暮らす森の中の家も、ヒロインの着ているドレスもどれもこれも夢のように美しい。そして、二人が暮らす町の産業は、兵器でも、鉄鋼でも、なくて、美しい絹織物なのだ。 絹もまた、美しい憧れのもの。 はじからはじまで、女性の夢と憧れで出来ているような映画。 映画の中では、憧れの国は『日本』。主人公のエルヴェは、世界中のどこよりも強くて美しい絹ができるマボロシの蚕の卵をもとめて、とおいとおい憧れの日本へと旅立つ。そこは雪に閉ざされた不思議な山の中の村。偽もののタマゴをつかまされて帰ろうとした彼を引き止めてほんものの蚕の卵を分けてくれたのは、ハラ・ジュウベイという、その村の権力者だった。 そして、彼らが話している席で、お茶をいれ、彼に出されたはずのお茶を飲んだり、お客様の前で、ハラの膝に頭を乗せてしどけなく寝てしまう少女。この少女は、ハラの妻と解釈されているが、この行動を見ると、もしかすると、この少女は、ハラの娘なのではないかと思う。この時まだ、少女は本当に子供だったのだと思う。だとすれば、この行動も不思議ではないだろう。 「his woman」と、書かれていたとして、外国では、あるいは現代の日本で、「彼の女」といえば、彼の妻または、恋人であるが、昔の日本の書物などで、「○○の女」と書いてあると、それは、○○の娘、子供(女子)のことなのである。原作では、ハラの娘であり、最初の登場シーンでは、10歳前の童女だったのではないでしょうか。監督、解釈おかしいよ。 数年後に、もう一度エルヴェが村を訪れた時、あどけなく父の膝で寝ていた少女は、一人前の大人の女性になっていた。妻という設定なら姦通罪だが、ハラの娘と思えば、問題はないでしょう。ハラの屋敷に泊まっているエルヴェのところに夜そっとしのんでくる少女。少女もまた、彼の再訪を待ち望んでいたのかもしれない。二人の関係は結局その一度きり。遠い異国に住むもの同士の二人の恋は決してかなうものではなかった。 三度目にエルヴェが日本を訪れた時、日本はすでに明治維新が始まっていた。彼の訪れた村は、幕府側であったため、新政府との激戦のさなかにあった。 村は焼き討ちにされ、村びとは他の場所にそっと逃げ延びている。少女に会いたいエルヴェは、村で出会った少年に村びとたちの隠れているところまで、つれていって欲しいと頼む。けれど、彼らの後を新政府軍につけられてしまい、隠れていた村人は捕まってしまう。その罪を問われて少年は、処刑されてしまう。 映画に出てくる籠の混ざった列。あれは、籠がちがう。実際には、罪人を運ぶ竹製の籠だったのではないだろうか。一列にならんで歩いているのは、政府軍につかまって、連行されているからだ。 二人の恋心は、結局村びとまで危険にしてしまったのだ。 そして、結局彼は、二度と少女に会うことはできなかったのだ。 さて、エレーヌには、決して子供が出来なかった。彼女がもっていないもの。それが子供つまり、卵であるのなら、彼は彼女のために遠い世界の果てまで、タマゴを求めて旅しなければならなかった。 最初に手にいれたのは、偽ものの卵。次にもらったタマゴは、フランスの彼の村に富をもたらすけれど、やっぱりエレーヌには、子供は生まれない。タマゴを求めて、あるいは子供を生める異世界の別のエレーヌを求めて、彼は、さらにもう一度旅に出る。けれど、三度目の旅で、彼が得た卵は旅の途中で孵化して死んでしまう。彼らの子供は生まれたとしても育たないのかもしれない。彼は、三度の旅でも、エレーヌのためのタマゴを手に入れることは出来ない。 異国の少女を思う夫。そんな夫をそれでも愛する妻。彼が少女のためにもう一度日本へ行こうとすれば、こんどこそ、命をおとしてしまうだろう。あの手紙は浮気をする夫をあきらめさせるために書いたものではなくて、日本へ行こうとする夫の命を思って、エレーヌが書いた手紙だ。あんな手紙を日本人には書けない。 あんな素敵なラブレターは、フランス人でなければ書けない。だから、フランスって素敵な国で、私は未だにあこがれちゃうんだよ。 『パイレーツ・オブ・カリビアン』では、あんなに活発で元気なお姫様を演じていたキーナ・ナイトレイが、この映画では、一転して正反対の静かで清楚で純日本的でさえあるような妻を演じていました。 夫の出張にも、浮気にも、一切文句をいわず、夫の命を案じて、夫にはきずかれないように、そっと、日本女性の手紙を偽装する妻。自分の死後の夫のことを心配して、少年にそっとたのんでいく妻。 なんとも日本的な妻(外国人男性の憧れの妻像)と、その妻のために、妻の望むものを与えるものすごく優しい夫(日本人女性にとっての憧れの夫像)。 けれど、二人が本当にほしいもの、子供だけは、決して手にいれることのできなかった二人。 憧れの夫婦は夢であって、現実ではない。だから、現実である子供は決して二人にはできない。憧れと夢の物語は、最初から最後までほわわわわわーんと、静かに優しく進んでいく。そして、しずかに終る。夢から覚めたくないかも。いや、見てると、ほんとにねちゃうんですよね。この映画。 フランスの田舎の村に富をもたらす「養蚕」は、けれど、日本では「女工哀史」のように、暗く悲しいイメージのほうが強い。美しい絹のために、国家の経済発展のために、どれだけの少女が泣いたのでしょう。 そしてまた、フランスで待つ妻のエレーヌもまた、村の発展のため、お金のため、夫が遠い異国に行くのを案じ、その命を案じ、その異国の地でであった少女焦がれるようになってしまった夫に泣かされる日々だったのでしょう。 富をもたらしてくれるはずの美しい絹が、世界のどれほどの女性を喜ばせ、そして泣かせたのでしょう。 憧れはあこがれまま、本当にほしいものは、決して手に入らない。タマゴも子供も少女も。 彼の心の中で、日本の少女と、フランスの妻が一人の憧れの永遠の恋人として、沈みこもれていく。 シルク@映画生活
2008年06月04日
コメント(0)
このタイトル日本人にはちょっとなー。わかっててつけたんですか?監督ーーーーー!!! まあようするに、『shick 0』(病気ゼロ)って意味ですかねえ。 先進国で唯一国民健康保険のないアメリカの実態が描かれてるわけですが。 国民健康保険がないので、大体は民間の医療保険会社に入っている。ところが、これ、いざ医者にかかろうとすると、いちいちいちいち、保険会社に医者にかかっていいか、救急車をよんでいいか、お伺いを立てないとならないのだ。病気怪我として、「治療費を払ってもいいですよ」という保険会社のお許しが出ないと医者にもかかれないという恐ろしい現実。しかも、保険会社はなるべく保険金を払いたくないから、なんだかんだと言いがかりをつけて、「これは病気じゃない」と言い出して、ちっとも保険金を払わないらしい。そして、アメリカの医療費の信じられないくらい法外な値段。やむなく、切断した2本の指のうち指を1本だけ直すしかなかったり。治療費のために我が家を売り払って、娘の家の物置に住まわせてもらうという老後。治療費がでないからという理由で、病人を街中に捨てる大病院。 アメリカの現実って本当にこんななんでしょうか。日本でも、保険会社の保険金不払いは問題になってるけどね。 後半は、国民健康保健のあるイギリスやフランスを訪れ、国民健康保健がいかにありがたいものかその現実をリポートしている。しかし、フランスの待遇は良すぎるきがする。そのせいで税金が高いんじゃないかというわけで、普通の家庭を取材して、普通の家庭が普通に豊かに暮らしている場面も出てくる。もっとも、共稼ぎとはいえ、月収96万円なんて家が普通とは思えない。実例としては、金持ちすぎる気がするんだけどね。 でもって、何でアメリカで国民健康保険が出来なかったかといえば、大統領の陰謀ということらしい。結局社会の上の方が自分たちの都合のいいようにしたくて、その結果国民健康保険を作らなかったらしい。 そして、医療保険会社は保険はやっても、保険金は払わない。そのお金は要するに、上のほうにいる金持ちのところに行くんだろうな。保険加入者がどんな目にあっても自分たちが豊かな生活さえ出来ればいいらしい。その結果、今のアメリカの医療はとてもひどいことになっていて、医療費はどんどん高くなっているようなのだ。 そして、国民健康保健をやりたくない理由の一つとしてあげられているのが、国民健康保険は社会主義のシステムだから。でも、イギリスもフランスも民主主義の国だけど、チャンと国保はあるしおかしくない。 アメリカにだって、公共の図書館やいろいろな公共のサービスがあるのに、なぜ健康保険だけが、実現しないのか。 かつて、実現しようという動きがあった時、国保は社会主義だという理由の元になしつぶしになったそうだ。資本主義をうたうアメリカのこわーい現実は、国内にいないとわからない。けれど、国内にいるとわからない。アメリカという国の中身をアメリカに行ってねなおかつ外側から見ないとわからない。 ところで、アメリカの医療のひどさをうったえる対象として、イギリスやフランスの国保が上げられているけれど、実際には、医療負担ゼロの変わりに、イギリスでは、風邪などの軽い病気では、薬なんか出してもらえないらしい。そして、日本だって、国保の充実はあるけれど、赤字続きでだんだん患者負担額は増えていく一方。老人医療費の負担の多さに、いつつぶれるかわからないのが実情だ。 そういう実情が描いてないんだよね。 でもって、ラスト近くでは、アメリカの宿敵のはずのキューバに行く。で、911事件のせいで病気になった人たちを医者にかけて治療するシーンがある。おそろしーい国だったはずのキューバは、社会主義だけど、医療費はものすごく安いし、きちんと直してもらえるし。実は天国みたいなところだった。でも、この映画を見て、アメリカ人がみんなキューバに押しかけちゃったら、キューバの医療システムだって、破綻しちゃうだろーなーと、ちょっと心配になっちっゃた。でも、そんなに売れてる映画じゃなさそうだから、大丈夫だろうか。だって、豊洲で見た時もかなり小さいシアターだったし。あんまり宣伝も見ないし。 医療問題とともに、民主主義を歌い上げて、社会主義を否定して国民を洗脳しているアメリカ国内の実態をも描いているような映画でした。 それにしても、あそこまでひどくなってると、ちかぢかアメリカの保健医療システムは崩壊するんじゃないのか。だって、だれも、医療保険にはいらなくなるでしょう。まっ、そんな簡単じゃないか。 シッコ@映画生活
2007年09月07日
コメント(12)
西洋の歴史ものは大好きなのですが、今回のは、いまいち。だったような。「アーサー王」、「アレクサンダー大王」、「エルサレム奪還」ときて、今度は、スパルタかーと、思ったんだけどね。歴史的な史実を楽しむというよりは、スパルタ軍の戦い方の詳しい描写部分を楽しむべきでしょうか。そのあたりがおもしろかったのです。 紀元前492年から、449年まで実に四十年以上も続いた、ペルシア戦争。大国として次々に周りを併合していくペルシアと都市国家集合体ギリシャとの戦い。アジアとヨーロッパのがちんこ対決です。 その戦争の中でも特に有名らしい、紀元前480年のテルモピュライの戦い。これがこの映画のお話です。 スパルタといえばすぐスパルタ教育って言葉が浮かぶくらい有名だけど、今の子はどのくらい知ってるのかな。 生まれた段階で身体的欠陥があれば殺し、ある程度育てた段階で森に行かせ、自力で生き残ったものだけが兵士になる。身体的に優秀な人間しか生き残らせないのが、軍人国家スパルタという国らしい。ただ、そうすると、身体的には欠陥があったり、病弱だったりしても、知能の優れた知的に優秀な遺伝子がどんどん生き残れずに削られていくわけで。戦争って兵力だけじゃなくて、知略によって勝利する場合の方が圧倒的に多いのに、体力と軍事力だけで国家を守ろうとしたスパルタは間違ってるんじゃないのかなあ。 もろもろの事情によってこの戦いでは、スパルタ軍の中の精鋭300人だけでペルシャ軍の侵攻を食いとめようとして、そしても最後には全滅。 映画では、そのあとに1万人くらいの兵士を集めて再度戦いを始めるところで終るので、そのあとどうなったのかとか、この300人のやったことがどんな意味があったのかとか、結局どっちが勝ったのかとか、わからなかった。 結果的には、ギリシャ軍が勝利にして、ペルシア軍の侵略を食い止めることに成功する。 映画の中では、ペルシア軍とペルシアの王クセルクセス王は悪者として描かれているが果たしてどんなものだろう。 生まれた子供を選別して殺し、ペルシアからの死者を殺し、勝ち目のない300人の兵隊での戦い。スパルタのやっていることはよくよく考えればあんまり全うじゃない。少数精鋭なんてコトバは嘘っぱちだなあとつくづく思う。 観ていると、まるで太平洋戦争当時の日本とアメリカみたい。どんなに優秀な人材でも、圧倒的な数、物量にはかなわない。どんなに必死でスパルタ軍が戦っても、そのあとからいくらでもやってくるペルシア軍にはかなわない。サイや、象、巨人兵。雨のような矢。 スパルタを何とか持ちこたえさせたのは、大きなラウンドシールドと、槍と結束力だったけれど、後半ばらばらに戦うようになると、だんだん崩れていく。盾も槍も持たないとなると、さすがのスパルタ兵といえども、ただの弱い人間でしかない。鍛えられた体よりも、丈夫な盾を作り出した、技術の方が大きい気がする。 少数による戦いを勝利に導くのは、知力なのだと思う。 歴史上の他の戦いでも、少ない数で勝利を得たのは、戦力ではなく、知力によるところが大きい。 軍事力を磨いて武器を買い集めるより、経済的な力を高めて、国民全体の教育力と知性を上げることこそが日本がこれからも、生き残っていく最大の方法だろうなあとこの映画をみながら考えた。 スパルタは負けたけれど、その戦闘シーンのひとつひとつは面白かった。全員で丸い盾をくっつけて、敵の攻撃を徹底的に防御したり、盾の間から、槍を突き出して攻撃したり、タイミングを合わせて、敵の軍や象を崖から突き落としたり。その部分を楽しむための映画なので、これは、はっきりいって歴史ものじゃないですね。ファンタジーでもすんじゃうかもしれない。でも、これが歴史的事実だからこそ、説得力が出て面白みがますともいえるけどね。もちろん、史実と異なる部分もあるようですが。 こののち、ギリシャの都市国家は、アテナイの戦略によって最終的には、アテナイの併合されていく。やはり、体力より頭脳の方が強い。 勉強しようぜ。 赤いマントと黒パンがなかなかよかった。この当時の地球ってあったかかったのかな。 この盾はやっぱり青銅かなぁ。この当時鉄の精製は出来たのかな。 300 @映画生活
2007年06月28日
コメント(7)
「ソウ」シリーズももういくらなんでもこれで締めですよね。 わけわかんなかった『ソウ1』でしたが、完全解説を読んで納得で見た『ソウ2』のラストが納得いかなかった。だけど、この『ソウ3』を観て「なるほど」と思いました。 「命をたいせつにしろ」とか、「医者は死を宣告される患者の気持ちをわかってほしい」というようなメッセージをこめて、次々に奇怪な殺人を犯してきたジグソウですが、『ソウ3』では、「赦し」をメッセージのテーマにしていたようです。 それはまさにジグソウ自身が『赦し』を求めていたように思います。 彼のゲームによって生き残った唯一の被験者アマンダは、そのあとジグソウによってジグソウの二代目になるはずでした。しかし、ジグソウの願いとは裏腹に、アマンダは殺人鬼へと変貌してしまったのです。 『ソウ2』をみると、『ソウ1』で出てきたゲームの参加者の一人アダムは殺されていました。私にはちょっと不思議でした。『ソウ1』のゲームの後でアダムは助かったのではないかと思っていたからです。でも、アダムを殺したのは、なんとアマンダでした。 そして、『ソウ2』のラストで刑事が捕まってしまったのも不思議でした。とらわれた息子を探して必死になっている刑事を見て、少なくとも、ジグソウは気がすんだのじゃないかと思ったからです。にもかかわらず、刑事は囚われてしまった。 これも、アマンダの狂気ゆえだったのですね。そして、そのあと、刑事もまたアマンダに殺されています。ケリーが殺されたのも不思議でした。ケリーは自分を粗末にしてもいないし、ひどいこともしていない。それでも殺されたのは、エリック刑事がアマンダにひどいことをしたことへの仕返しでしょうか。 アマンダはゲームのあとでも、ジグソウの「メッセージ」を受け取っていないようでした。彼女の自傷行為は直っていなかったからです。ジグソウのゲームの中で珍しくアマンダの受けたゲームは彼女自身が痛みを味わうのではなく、他人を傷つけることでクリアできるゲームでした。自分を傷つけることが出来る人間が人を傷つけたり、殺したりすることにためらいのあるはずもないようです。 ジグソーは自分の二代目として選んだアマンダが、自分の趣旨とは全く逆の殺人者に変貌してしまったことに、大きな絶望を感じたのでしょうか。 彼は『命の大切さ』を説いているはずなのに。それで、人を殺しているわけで、そこにすでに矛盾があるように思えます。 そして、その結果アマンダのような人間を生んでしまった自分自身の行為は「間違っていたのかもしれない」という後悔の元に今回のゲームでは、「赦し」を求めています。愛する息子を殺されて、復讐心をどうしても捨てきれずにいる男。息子を殺した犯人、犯人に軽い刑しか下さなかった判事、事件を目撃していたのに証言しなかった女。彼がもし、この三人を許すことが出来るのなら、ジグソーは彼自身の罪もまた、赦されるのではないかと考えたのではないでしょうか。 ジグソーが求めていたのは、自分自身が許される事。そしてまた、アマンダが悔い改めてくれること。殺人をやめてくれること。でした。 しかし、ラストは過酷にも二人の死をもって閉じるのです。彼によって許されたはずの女医リンもまた、夫ジェフの怒りによって殺されてしまいました。 ジグソウは言います。「怒りは自分にかえってくるぞ。」と。それは彼自身が数々のゲームの果てに実体験したことだったからなのでしょう。 彼のおこした事件は、彼のところにしっかりかえってきたようです。そして、ジグソーやアマンダを赦せなかったジェフにも。 妻リンが人の命を救う医師という仕事についていながら、ジェフが息子を殺した犯人を許せなかったのは、やはり、夫婦の会話がなかったからなんだろうなと思います。妻がもし、普段自分の仕事のことを語り、人の命を救うことがどれだけ大変か夫ジェフに語っていれば、あるいは、夫はこんな怒りと復讐心に何年もとらわれ続けなかったかもしれません。 命を大切にしてほしい。医者は病気の宣告をする時もっと患者の気持ちを考えてほしい。そして、仕事のために家族を犠牲にしないでほしい。ひどいことをされても、その相手を許してほしい。そしてまた、自分ももっと寛大な心で人を赦すべきだった。 ジグソウの願いはなかなかかなわないようですねぇ。 ところで監督はこの後も「ソウ4」、「ソウ5」、「ソウ6」、「ソウ7」、と、ずーっとこのシリーズを続けたいらしいです。ジグソウモ、アマンダも死んじゃったのに、どうやって作るんでしょう。 ソウ3@映画生活ホラー映画
2007年04月13日
コメント(2)
今回はめずらしく前情報ゼロで見に行きました。ただ、評判がいいらしいのでとにかく見ようと思いました。 そして、面白かった。感動しました。思わず見終わって涙ぐんじゃいました。久々のヒューマンドラマだったのです。 ニュージーランドに住む初老のバイク乗りバート・マンローが地球の裏側のアメリカ・ユタ州のボンヌヴィル塩平原のバイク競技大会で世界新記録を打ち立てた実話の映画化です。 私個人ではバイクなんてあんまり好きじゃない。暴走族とかうるさいし、車と違って、家族で乗ったり出来ないし、あくまで乗る人個人だけの楽しみでしかない乗り物だし、うるさいし、廃棄ガスは環境に悪いし。 でも、そんな私でも思わず主人公バート・マンローを応援したくなって、バイクも悪くないかなあとそんな気持ちにさせられてしまった。 どんなものであろうと好きなことに打ち込んでいる人間っていいもんだ。 はじめは一人でも、好きなことを夢中になってがんばっていると周りがだんだん助けてくれるようになるって、本当なんだね。 そして、どんなところに行っても初めての人に出会っても何のためらいもなく、仲良くなって、そして手伝ってもらったり、助けてあげたり。人間関係の作り方の基本を見るようで、今の社会って人に対して壁をつい無意識に作っちゃうんだけど、全然壁もなく、すぐなかよくなっていくバートは、バイクも人間も世界も大好きなんだな。だから警戒心もなんにもなく、ただひたすら自分の夢のために突き進んでいく。すばらしい。 でてくる人がみんないい人たちで、みんな惜しみなくバートを手伝ったり、助けてくれる。話が出来すぎているようにも思えるけれど、でもそんなことはどうでもいいやと思えるような映画です。そして、そんな風に周りが彼を助けたり、応援したりしてくれるのは、やっぱりバートの人柄や生きる姿勢が思わず助けてあげたくなっちゃう気持ちにさせちゃうからなんだと思う。 小さな運搬船に乗り込んでなけなしのお金で地球の裏側まで行って、中古車を買ってバイクを引っ張りながらたった一人でボンヌヴィルまで行くなんて、こんな無茶なこと普通は若者じゃなきゃやらないんじゃないかと思う。それを六十代の老人がやってるんです。心臓も悪いし、もういつ死ぬかわからない。だからこそ、先の心配や将来や家族なんていうしがらみがない分好きなことが出来るわけなんだけど。 でもこんな老齢になってこんな無茶なこと、なかなか出来ないよね。 バートの住んでいるところは車庫のようなコンクリの四角い小さな小屋。いい服もいい家もお金もない。同居の家族もいない。でも彼はとても幸せに見える。人生に対しての愚痴も失望も何にもない。ただ大好きなバイク「インディアン」があるだけだ。そして彼はある日長年の夢だった塩平原に向かう。 人生の幸せって、お金とか大きなお屋敷とか、ご馳走とかいい衣服とかブランド品とかそんなものじゃないんだ。大好きなものがあってそれが出来さえすればそれが一番幸せなことで、そうしたらそれ以外のものなんてどうでもいいんだよ。 だから私もこんな晩年が送りたいなあと思う。 どこでのたれ死んでもかまわない。大好きなことをしている途中なのなら。 ところでこの作品。実は「外側から見たアメリカ」という視点でもある。主人公のバートは白人で、英語もしゃべれる。その状況で地球の裏側のニュージーランドからはるばる船に乗ってやってくる。 時代は1960年ごろ。まだまだ豊かでのんびりした時代のアメリカではあるけれど、その一方でアメリカはベトナム戦争をしていた時代。バートは旅の途中でベトナムの戦場から一時帰国した兵士を乗せる。 又、アメリカについて入国審査の時に入国理由を問われてバートは「インディアン」と言う。これは彼のバイクの名前なんだけれど、この「インディアン」という単語のせいで、個室に呼ばれてしまう。彼は詳しく説明してバイクレースのために来たことを説明し、理解してもらうことが出来るのだけれど、このシーンにもアメリカのこの時代の社会的背景をちらりと見ることが出来る。 そのあと彼が泊まるモーテルのフロントの女性が実は男。バートはやさしく認めてあげて二人は友達になるけれど、この時代ってまだゲイに対して社会的には許容されてなかったはず。 バートは若い頃に買ったバイクを愛してメンテナンスをしながらずーっと乗っている。新しいもの、最新のものがいいとされるのがほとんどなのに。古くなってもそのまま一つのものを愛して大切にしているバートの姿もいいなあと思う。 誰とでもすぐに仲良くなってしまうバートを私も好きなったし、この映画を見たほとんどの人も好きになったはずだと思う。そんな映画だった。 世界最速のインディアン@映画生活実話をもとにした映画
2007年02月23日
コメント(12)
前編から続きます。さて、話を戻しましょう。 被害者8人の頭の後ろの数字を結び合わせるキーワードは「オーバーザレインボウ」だった。『オズの魔法使い』だ。そして、あの数字は何を意味するのか。でも、二時間なんてあっというま。なにもしないうちに驚くほど早く時間がたっちゃう。同じように人生も短い。 あの8人も驚くほど何にもしなかった。大概の人間はほとんどたいしたこともしないうちに人生が終わる。 でも短いように思えるあの二時間でもきちんと解決すれば余裕で全員助かるはずのものなんでしょうね。だから人生もきちんと生きればなにかやれるのかもしれませんね。で、大概はあと10分位のところできがつくんだよ。 あの数字はたぶんダニエルのクビの後ろにはなかったんじゃないのかなと思う。だから、最初にきずいて全員の頭を見ればダニエルがなにか自分たちと違うことにきずいたはずなのに。 二人が刑務所暦があることにきずいた段階でダニエルにも質問しているし、ダニエルは否定しているのだけど。で、他の全員もそうだときずけば、話はかなり早い。自分たちを刑務所に入れたにっくき刑事のせがれだってことに気づけばこの場で仕返しできるように、そんな配慮もしてくれていたのにね。 毒なんてうそだとして、それでもかれらが血を吐いていたのは、極度のストレス状態のための神経性胃炎による胃からの出血なんじゃないかとか想像してみました。 協力できれば助かったんだけど、それでも、あんな状況で協力できるような人ならそもそもあんなところにいないでしょう。 そして、『ポセイドン・アドベンチャー』とか、『エイリアン』とか、それ以外にもかずかずあるSFなんかの脱出アドベンチャーものと言わんとするところは同じなんでしょうね。知恵、知識と、お互いの信頼と協力がいかに大切なものか。そして、今までの脱出アドベンチャーの主人公たちがいかに常軌を逸するほど勇敢な英雄でおよそ普通の人間に出来る芸当じゃなかったこともわかります。 『SAW3』がビデオやさんになかった。はやくみたいなあ。 ホラー映画
2007年02月03日
コメント(2)
おもしろかった。あの無料レポートのおかげで分けわかんないお話がとってもよくわかるお話になったのでとっても楽しめました。 レポートのとおり犯人のジグゾウは、やっぱりジョンでした。そして、今回はそのジョンが警察に見つかっちゃって名前も顔もはっきり出てきます。そしてジョンが入院患者じゃなくて外来患者だったことも、自分が癌で死ぬことがわかったその絶望から、数々の事件を起こし、自分の命をおろそかにする被害者たちに生きることの大切さを訴えようとしていたことも。 でも、すごいなと思うのはあのレポートの中でこの映画を「楽しむ映画だ」と表現していることです。人が右往左往してひいひい言ってるのを楽しもうっていう感覚がやっぱりお医者さんだなあと思ったの。普通の人間だとこうはいかない。極限の状況で人がどんな行動を取るのか。考えさせられる映画だ。と、表現するんじゃないの。 ある時どこかわからない古い屋敷の一室に8人の男女が閉じ込められていた。彼らは神経性のガスを吸わされており、解毒の注射を打たないと二時間のうちに死んでしまう。屋敷の鍵が開いて外に出られるのは三時間後。何とか、脱出の方法を探すか、屋敷の中に隠された注射器を探し出すしかない。果たして彼らは助かるのか。 そして、『SAW1』でも『SAW2』でもでてくる毒だけど。でも、2では毒ガスですね。医者であれば、あるいはかなりの知識があれば、毒薬なんてうそだ。ってことがわかるってことだ。これは、この半狂乱の状態でも可能だろうか。可能である。なぜなら、毒薬(毒ガス)を飲んでるよと聞かされて初めて彼らはパニックになっているからだ。毒と聞いて、知識があればそんなものはうそだとわかる。で、あれば、パニックにもならないし、毒でないなら、とにかくじっとして三時間待てば外に出られるのだから、待っていればすむ。これが第一の脱出(解決)法だ。 知識をもつって偉大なことだ。この事件にかかわらず、人生のいろいろな修羅場に出会った時、どれほどその時までに知識を蓄えておくことが自分自身を助けるか、知れないってことだ。勉強すること、学ぶことはとても大切なことだ。毒薬や毒ガスに関しての知識さえあれば、ジクソウにだまされて、殺し合いになったりしないはずなのだから。 ただね。もしこの中に一人だけ医者がいて、毒ガスなんてうそだっていったとして、果たして他の7人は信じるのか? とも思う。 それから序盤ですでに脱出のための鍵が出てくる。目の前には金庫。かぎイコール金庫と短絡に考えたために脱出しそびれた。実は鍵は金庫の下の地下室につながる床のドアをあけるものだったのだ。先入観や思い込みによって思考を支配されてしまう人間の心理だ。金庫がなければドアにきずいた可能性はかなり高まる。よく考えること。情報にだまされないってことだ。床のドアにきずけばゲーム開始直後にゲームは終了していたのだ。これが第二の脱出(解決)法だ。 この事件は、最初は被害者はたったひとり。結局助からずに死んでしまう。ジグソウは「生きろ」というメッセージを送りたかったわけだけど、人間たった一人ではなかなかじっくり考えたり、きちんと考えたりできないものだってことだ。人間は一人じゃ生きられないのだ。 一人だとどうもだめみたいだなとジグソウも考えたのかもしれない。 次の事件は二人。相手の体の中の鍵をナイフで取り出せばたすかる。とりあえず、ふたり。二人で対処することはできなかったのか?話し合うことは?協力しあうことは?結果は相手の体にナイフを入れて一人だけ助かった。他人を犠牲にしてでも生き残れということか。 そして、三番目の事件。『SAW1』のメインストーリーである。これは、捕まっているのは二人。 二人になることでかなり被害者たちは冷静になっている。とりあえず情報交換したり、協力したりしている。人間はやはり一人より二人の方がいいようですよ。その一人である医師のゴードンは言う。「二人で考えよう。なにか方法があるはずだ」と。 しかし、これ、実は参加者は三人。真ん中の遺体が実は生きていて、ジグソウ本人だったのだ。二人は死体だと信じ込み全く関心を示さない。ゴードンは医者なのだから、死体であっても、とりあえず関心を向けていたら、もしかしてしたいが実は生きていることに気づいたかも知れない。死体のフリをするといったってまったくどこも動かさずにいることなんて不可能なのだから。息をしているかぎり体のどこかが動いているはずだ。もし、ゴードンが死体に関心を払えるだけの人間的な優しさがあったのなら、ゲームは序盤で終了していたのではないのか。診察室でジョン(ジグソウ)をもの扱いしたように、死体も彼にとってはものでしかなかったらしい。死体というのは、ちょっと前まで生きた人間だったはずで、医者であるなら、その目の前の死体に関心がいってもいいのではないのか。その死体が誰なのか。なぜ死んだのか。関心をもってしばらくじっと観察していれば生きていることに気づいたはずだ。この時のゴードンはまだかなり冷静だったと思う。そして、ゴードンがもし気づいて死体に声をかけたり、ものを投げつけたりしたら、ジグソウはその場で起き上がって、ことのしだいや自分の本心を語り、自分があの時いかにきづついたか、今死を目の前にしていかに絶望しているか、ゴードンに訴えたと思う。そして、その場で誠実な話し合いができれば、ゴードンがジョンに謝ることが出来れば、その時点でゲームは終わっていたのだ。これが、『SAW1』における第一のそして最良の脱出法だったのだ。 ジョンはゲームの間ずっとゴードンに「きずいてくれ」と願っていたに違いない。気づいてそして、私に謝罪し、私を救ってほしいと。 つまり、ゲームの解決法は人間的な誠実さと優しさ以外の何物でもない。 話をもどしましょう。 そして、今回の『SAW2』では、8人。いきなり人数が増えてますね。これだけいればいくら非常事態でも協力し合って脱出できてもよさそうなんだけど。そして、「頭の後ろの数字を見て考えろ」というかなり貴重な脱出のヒントがでている。全員で協力すれば脱出できたはずなのに、誰もそのことにきずかない。レポートでは、彼らはパニック状態なのだから、そんなに冷静には考えられないはずだという。けれど、それでも、「みんなで話し合え。脱出のための方法はあるんだぞ。」となる。これが第三の脱出(解決)方法だ。 しかし、ジグソウが求めたのはまさにその部分。生きるために人間同士心を開いて話し合うこと。お互いに信頼すること。 だから、自分を捕まえた刑事にも「私は癌なんだ。どうすれば助かるのだろう。話を聞いてくれ。話をしてくれ。話し合おう」という。ジグソウは「生きろ」といい、「そのために協力しろ」といい、そして、「話し合うことで解決が出来るのではないのか」という。しかし、実際の現場では8人はちっとも話し合わないし、頭の数字にも全くといっていいほどきずかない。人間てそんなものなんだろうと思う。人間ていうのは、こんな極限状態でなくとも、ごく普通の日常でも、見落としていることも、聞き落としていることも、注意不足なこともとても多いのだ。その見落としている部分の中にけっこう大事なことが含まれているはずなのに。そして、驚くほど協力しあわない。よく気をつけて周りを見て、よく気をつけて情報を聞けば、それだけで世の中はかなり良くなるんじゃないのか。そして、戦争なんかしてないで、仲良く協力すること。とても大切なことだ。ジグソウが言いたかったことも監督が言いたかったこともそのあたりなんだと思う。 でも、ジグソウは「癌を治す方法はないか」と刑事に問う。生きるために人は人と話しあい、協力し、助け合えれば、あの部屋から出るのは簡単だったのかもしれない。話し合うこと助け合うことで生きるつらさやしんどさはかなりましになるんじゃないのかと。 ジグゾウは、死の絶望ゆえに命をおろそかにしている人間をみつけて、諭そうとする。あるいは、刑事に問う。そして、死の宣告をした医者に復習しようとする。けれど、ジグゾウの外側には彼を助ける方法は得られない。死の恐怖と苦痛は彼の内側からしかその開放のすべは見つけられないんじゃないのと思うんだけど。どうなんでしょうね。 結局ジグゾウは自分が苦しくて、そのために回り人間を巻き込んでいるだけだ。自分が苦しくてつらいということだけ考えているうちは解決はない。そして、とらわれた8人もまた、みんな自分のことしか考えていない。自分のこと、自分が助かることしか考えないから、助からないのだ。どちらも同じなのだ。自分のことだけ考えている間は人はすくわれない。刑事もまた、自分の息子のことしか考えていない。ジグソウは助ける方法をちゃんと言っているのに。私と話し合おう。と。息子を助ける方法はまさにそれだったのに。刑事もまた、話し合うこと、協力することをしない。被害者の8人と同じだ。ジグゾウと話をする。これが第四の脱出(解決)方法だった。 最もこんな状況で目の前であと二時間でわが子が死ぬかも知れないのにどこの誰ともわからないやつにゆっくり話をしようなんて言われてはいそうですかと話をするやつなんかいないと思う。当たり前だ。このものすごく当たり前なことをジグソウは見落としていないか。相手を自分の価値観と都合でしかはかっていない。ジグソウはいちど自殺をしているのだから、死ぬこと自体が恐怖なのではなくて、癌で死ぬことがいやなのだ。それはつまり、ゴードンにもの扱いされたことの屈辱に対しての怒りとこだわりなのだ。 つまりここでは、人(他者)を大切にしないことに対しての怒りなのだ。だから刑事が自分の息子に対していった言葉に対して、ジグソウは自分を重ね合わせたのだろう。たぶんこの親子の会話をたまたまそこに居合わせたジグソウが聞いてしまった。そして、前回のゴードンに対してと同じことを刑事に対してもしているといえる。自分の非人情な態度に気づけよと。だからわが子の命が危ない状態で半狂乱になっている刑事の態度にジグゾウはある程度気が済んだんじゃないのかとも思える。それでも、刑事が最後に捕まってしまうのは、アマンダのせいだけど。ここで、ジグソウのもとめるものと、アマンダの求めるものにずれが生じてしまっているのかもしれない。そしてそれはジグソウの計算外の部分かもしれない。 後編につづく。
2007年02月03日
コメント(0)
なんかいまさら~。何だよね。石油の利権をめぐって世界中のいろんなところを舞台にオムニバスにばらばらに話が進む。何がなにやらわからないから、前半はひたすら我慢。話題作で世間の評価は高いらしいんでけど、私は面白くなかった。困った。 で、結局。このてのネタに詳しい人にはいまさらな内容だし、詳しくない人には何がなにやら良くわかんないままだし、少しはこのてのものを見てみようという人には良くわかんないからこんなのはもうやーめたって気になるようなそんな映画でした。 アメリカの石油会社の合併と、アラブの石油産出国の王族内部の構想と、スイスのファミリーと。 すべてはみんなつながってるそうですが、そんなのいまさらだしね。 自分のところに都合よくってことしか考えないアメリカとか、王位継承をどうしようかと、いまさらだしね。 しかし、宗教者のお話が一番的を得ていたような気がします。しかし、細かいところは忘れてしまった。とにかく面白くなかった。この映画で面白かったのは、イスラムの説法の部分だけだな。でも内容わすれちゃったのよ。 シリアナ@映画生活
2007年02月01日
コメント(2)
グロそうだったけど、見ました。ネタバレなし。 見たのはいいんだけど、見終わってよくわかんなかった。で、ネット上に精神科医の人が書いたすごい解説があって、これを読んだら、もう私が書くことは全然ありませんでした。無料レポートなので、誰でも読めます。文庫本一冊ぶんの量って宣伝してあるけど、全然そんなことない。ちょっとがんばれば読みきれます。さすがにお医者さんなので、医学的知識に裏付けられた説明はとても参考になりました。一応グロイ映画なんだけど、なるほどーと思いました。 ある日突然どこかの古いビルの地下室に二人の男が足を鎖でつながれていた。二人の足元にはのこぎり(ソウ)がおかれていた。彼らが助かるには、六時までに自分の足を切るか相手を撃ち殺すか。それ以外に彼らが助かる方法はないのだろうか。 なんとなく、アクションホラーゲームのような雰囲気。これは、頭を使った脱出ゲームなのか?彼らはどうやってこの状況からぬけだすのか?わくわく!! と予想してたら、全然違ってました。がっかり。 要するに極限状態に置かれた人間の心理の変化を見る映画らしいのです。話が複雑でこみいっていてしかも説明が少ないので、一つ一つのシーンからいろいろと裏読みして楽しめる映画みたい。 でも、お医者さんほどの知識がないと無理だね。 映画自体より、この解説が面白かったです。でも、解説を楽しむためには、まず映画を見ないとだめなんだけどね。だから次は『SAW2』が見たかったりして。 げっ!アフィリエイトとはいえ、こんなにSAWばっかり貼ると これだけでかなりグロイジャン。きもちわるいよ。
2007年01月25日
コメント(4)
硫黄島二部作を見た後でこんな映画を見ているなんてちょっとおかしい。 確か昔テレビで見たような気がするんだけど、ぜんぜん覚えていない。でも、ジャングルの中に架かった橋が爆破される話だったはずで、そのシーンだけがわずかに思い出されるのだから、たぶん見ているのだろう。 戦争映画としては、かなり有名な名作で、劇中に流れる「クワイ河マーチ」は、学校の運動会でもよく使われる有名な曲なので、曲を聞けば大概の人は知っているはずなのである。曲自体は快調なテンポの明るい曲で、映画のストーリーの悲惨な結末とは対照的で違和感がある。どうしてこんな軽快な曲が映画のテーマ曲にされたのかちょっと不思議。 現在のように残酷なシーンはほとんど出てこない。昔の戦争映画はほとんどヨーロッパ、アメリカが善というかかれ方をしていたものなので。そして、完全懲悪的な、最後には、爽快感を残すようなそんな牧歌的な時代の映画なのである。 しかし、今になってこの映画を見直してみれば、そんなお気楽な評価をしていていいのかどうか。日本とイギリスの将校同士の友情なんてそんなちゃっちい話とは私には思えなかった。そして、戦争映画というよりは、戦場という特異な場所を使うことによって描き出された、人間のもつプライド意識への揶揄を描いた話なのではないのだろうかと思う。 とにかく映画を見ていると、イギリス人将校のプライドの高さに驚くばかりである。それはあまりにも過渡なので、ある意味ばかばかしく、滑稽であり、思わず笑ってしまうほど。 一部隊まるまるが降伏して、タイの捕虜収容所にやってくる。アレック・ギネスの演じるイギリス人将校ニコルスン中佐はとにかくプライドが高い。「将校はジュネーブ条約で決められていて、労役は免除されているのだから、私は、労役なんかやりたくない」と拒否する。 しかし、日本人の斉藤大佐 (早川雪洲 )は、それを無視して、将校クラスもみんな労役につかせようとする。 その結果、ニコルスンは、オーブンと呼ばれる独房に幽閉される。 この時斉藤大佐は「やつは自分が偉いと思っているから働かないんだ」というのである。 この時斉藤大佐は日本の軍人が話のわからないばかだから、ジュネーブ条約を無視しているように見える。しかし、斉藤大佐は、実はイギリスに滞在していたことのある教養のある人物なんである。イギリスという国の内情をしっており、イギリスという国の中の貴族というもの、身分格差などをよく知った上で、ニコルスンのジュネーブ条約遵守を拒否しているのである。 イギリスの貴族はアメリカとは対称的に戦争が始まれば、まず戦場に向かうものらしい。しかし、貴族なので、入隊の最初から、将校の位を与えられる。自分達は貴族なのだから、庶民のような労役はしたくない。戦場でそんなことにならないようにという貴族サイドの要請によって取り決められたのが、ジュネーブ条約なのだとしたら、そんな西洋のご都合主義によって一方的に決められた条約なんてものを、貴族階級を持たない日本が守らなければならない道理なんかどこにもない。まして、将校クラスの捕虜はいっぱいいるし、彼らにも食事を与えなければならないのなら、働いてもらわないとたまったもんじゃないと思う。日本側にしてみれば。 つまり、斉藤大佐は話のわからない馬鹿だったから、ニコルスンの要請を拒否したわけではないのではないかと思う。 しかし、その状況で、炎天下に独房にいれられ、食事もないまま、それでも、労役を拒否しつづけるニコルスンのプライドの高さには恐れ入る。すごいねえ。 さて、しかしである。この捕虜収容所の重要な仕事はクワイ川に橋を架けることなのだが、なかなか思うように行かない。さすがに困った斉藤大佐はニコルスンを独房から出し、機嫌をとって、何とか橋の建設を手伝ってもらおうと考える。苦労の末、ニコルスンの説得に成功し、ニコルスンは二人の部下を使って橋の建設を始める。 ニコルスンは貴族のプライドによって労役を拒否したわけだが、橋の建設という「貴族のプライドを維持し、将校として、部下たちを指揮し、隊を統率する上でちょうどよい仕事」を得たことで橋の建設に夢中になる。 ところでここでポイントなのは、斉藤大佐はニコルスンが貴族だから、将校だから、それを認めて、彼を独房から出したのではないということだ。ニコルスンの技術力や知識に対しての敬意なのだ。ニコルスンはプライドゆえに労役を拒否していたはずなのだが、彼はそのプライドへの敬意でないにもかかわらず、斉藤大佐を許して、ご満悦になっている。橋の建設は、彼のプライドを満足させるのに十分な仕事だったようである。 しかし、ここで軍医がニコルスンに注意する。「この橋を建設することは敵(日本)を助けることになるんだぞ」と。しかし、ニコルスンは聞き入れない。 さて、同じ収容所にいたアメリカ人のシアーズ(ウィリアム・ホールデン)は脱走に成功したのだが、橋の爆破計画の重要な任務を与えられ、しぶしぶクワイ川に戻ってくる。 とうとう橋は完成し、そして、シアーズたちによって橋には爆破用のダイナマイトが仕掛けられる。 ダイナマイトの導火線にきづいたニコルスンは、発火装置のところまでやってくる。彼につれられて、斉藤大佐もやってくる。対岸でシアーズもまた、爆破の瞬間を待っている。 爆破スイッチのところにいたイギリス兵は、まず、斉藤大佐を戸惑うことなく殺す。しかし、イギリス人将校であるニコルスンをどうしても殺せない。時間は迫っている。早くしないと列車が橋を渡ってしまう。対岸にいたアメリカ兵のシアーズがやってきて、爆破をとめようとするニコルスンを殺す。イギリス兵も殺されている。 そして、最後の瞬間、傷をおったニコルスンが爆破スイッチの上にたおれかかり、橋は爆破される。 イギリス兵は日本人である斉藤大佐は躊躇なく殺せたのであるが、イギリス人将校であり、貴族であるのニコルスンはどうにも殺せなかったのである。そして、アメリカ人であるシアーズは、ニコルスンを殺すことに戸惑いがない。 シアーズは本来二等兵だったのだが、物語の中でずっと、中佐と偽っている。なぜかといえば待遇がいいからである。軍隊の階級というのは、正確な確認もなく、本人の言葉だけで信じられてしまう程度のものなのであり、それを罪悪感なく、偽証してみせるアメリカ兵のシアーズという人物の存在もまた、階級や貴族意識のばかばかしさを揶揄しているようである。ジュネーブ条約なんていうのはそんなものなのであろうか。 原作はフランス人のピエール・ブールによる。ブールは、大戦中、有色人(日本)の捕虜となった屈辱をこの物語によって描いたのであるが、そのブールの特権意識を揶揄したテーマに摩り替わった映画をイギリスが作っているとは、なんというか、その皮肉ぶりには恐れ入るばかりである。 「第二次大戦を背景に戦争の愚かさと人間の尊厳を描いた」というのがこの映画の映画評であるのだが、本当にそうなのだか。イギリス人将校と日本人将校の友情なんていうけど、そんなものこの映画のどこにあるんだか。ニコルスンは将校らしい仕事にご機嫌なだけで、斉藤は橋が着実に建設されていることにご満悦なだけだ。 結局最後は三人とも死んでしまった。彼らが死んだのは、戦争だからなのか。それとももっと別の理由からなのか。 戦争映画
2006年12月17日
コメント(0)
戦争映画もずいぶん観ましたが、湾岸戦争のものは初めてです。汚いスラングががんがん出てきて、いかにもアメリカの軍隊って雰囲気でしょうか。 物語は、湾岸戦争に行った海兵隊(ジャーヘッド)の狙撃部隊の戦争前から、終戦までお話。 海兵隊って言うからには、海軍なのじゃないの。これどうみても、陸軍みたいなんだけど。と、思ったら、海兵隊というのは、海軍所属の陸軍なんだそうです。不思議ですう。 このお話で特にポイントなのはですね。戦争自体では、人がほぼ死ななかったこと。死んだのは、戦争の前の練習中に一人と、戦争が終わってから一人。 うーん。戦争自体では誰も死んでないというのが、今までの戦争映画と違う。 練習にもかかわらず、実弾を頭の上でがんがん打たれて恐怖で立ち上がってしまい、弾にあたって死んでしまう、兵隊。 そしてもう戦争が終わって、アメリカに帰ってきた元兵士の死。 戦争というものが戦争自体によってだけ、人を殺すわけじゃないということでしょうか。私には、この部分が一番引っかかった部分なのでした。 湾岸戦争自体はたったの四日間なんですね。そこにいたるまでの練習の時間、開戦を予想して、現地での待機の時間の方が長い。そして、日々の練習で実践を待ちわびるようになっていく兵士たち。 早くやりたい。早く、撃ちたい。早く戦争したい。早く戦いたい。早く実戦に出たい。戦争の仕方を日々教え込まれていく中で、やっばり軍隊の人間て、戦うことを渇望するようになっていってしまう怖さ。でしょうか。 そして、いよいよ開戦。戦場で黒焦げになった死体に不快を感じたはずの主人公。にもかかわらず、実際に狙撃指令が出て、相手の司令官を狙撃する場に至る。ところが、狙撃直前、すれすれで別の部隊がやってきて、指令は中止となります。 今まさに狙撃を始めて実戦しようとしていた相手が戦闘機の爆撃によって殺されてしまったのです。いま、まさに自分がやろうとしていたことなのに。狙撃中止に対して「自分がやりたい、やらせてほしい」と涙を流して、懇願する主人公。これって殺人なんですけど。ただの、板にかかれた人型の練習用のターゲットとは違うんですけどね。 でも、戦場では、戦争では、軍隊では、殺人は普通のことでやるべきことで、悪ではなくなってしまう怖さでしょうか。兵士の一人ひとり、本人自身がそのことに気づかなくなっていく怖さでしょうか。 戦争が終わって、祖国に戻って平和な社会の暮らしの中で、普通の人間として暮らしても、戦場でのその時の自分の中にあった狂気を忘れることはありえない。 人を実際に殺すかどうか、ということ以上に怖いことなのかもしれない。 戦争映画
2006年11月29日
コメント(2)
原作レイ・ブラッドベリ。タイムパラドックスSF小説の基本的古典作品。 SFファンでレイ・ブラッドベリを知らない人はいない。と思います。そして、彼が書いた当時は、まだ、珍しいネタだったろうと思う。でもね現代、これだけ、タイムスリップ、タイムトラベル系の映画が作られた後なものだから、今更っていうか、ストーリーに練が足らないよって言われちゃうのですね。 時間飛びネタが最近やたらと多いのは何ですか。と思うくらい多いし、SFじゃない普通のドラマでも最近はやたら、時間飛んでるし、そろそろいい加減にして欲しいのですが。 でも、この作品は基本中の基本だし、ちゃんとSFですから。 時間を跳んだら、過去のものを持ち帰ったり、、何か残してきたりしてはいけない。これはもう、当然のお約束なんだけど、物語ですから、当然毎度のように破られるわけです。そして、ソーンなことをしちゃうとどうなるかという展開。 でもまだ、誰も、本当には時間を飛んだことはないし、タイムマシンはないし、本当にどうなるかは想像するしかない。 過去を変えた途端に現代も瞬時に変わるはずなんだけど、この映画では、過去から変化の波が時間を追って順番にやってくる。 実際タイムパラドックスによる変化がどうなるかをどう描くかはまさに、作家の腕の見せ所なんですけどね。今作品はご不満の方が多いです。わたしとしては、普通。並。というところでしょうか。そんなにすごくいいわけでもないけど、それほどひどいわけでもない。 時間の並によって順番に変化した後、ゴリラと恐竜をミッチャムしたような新生物とか、ピラニアが巨大化したような新生物とか、普通の恐竜とか、クリーターとしては結構よくできていたと思います。 ほんとにタイムパラドックスを犯すとどうなるんでしょうねえ。見てみたいけど、無理だからね。実際に起きたとしても、渦中にいたらわかんないし。 ところで私は、タイムパラドックスとは実はちょっとくらいならだいじょぶなんじゃないかと最近ちょっと考えました。 たとえば過去のものをひとつくらいうっかり持ってきたとしても、多分その物質によって未来に伝わるものは、別のものが成り代わって伝えるのではないのだろうかと。つまり、少しくらいなら、長い時間の間に修復されちゃうのではないのかなと思うわけです。たとえば、歴史の必然なんていうのもそうなのじゃないのかなと。 たとえば有名な発明なんかでも、その発明した人物がいなくなったとしても、ほかの誰かによっていずれは発明されていただろうなんてことはよく言われることです。 そして、広い海に墨汁を一滴落としても、いずれ拡散されて薄められてわからなくなってしまいます。 たらいに一滴の墨汁をたらしてもでは、水は黒くなりませんが、コップ一杯分くらい入れると、明らかに黒くなります。 時間への干渉も多分、程度問題なのでしょう。過去から花ひとつとってきたとしても、それによって伝えられたかもしれない、遺伝子とか、進化は多分ほかの花によって代行して行われ、、長い時間の後には、修復されてわからなくなってる可能性はあります。 でも、過去に行ってアレキサンダー大王殺しちゃったら、かなりまずいでしょうねえ。 というわけで、この話のラストはこの事態を起こさないように主人公が過去の自分にメッセージを送って、事態を回避しようとしています。しかし、この場は回避できたとしても、この先やはり同じ事態は起きるんじゃないのかな、と私は思います。誰かがかならず、タイムマシンを作る。そして、誰か必ず、タイムマシンで儲けようとする人間は存在するはず。そして、誰かかならず、過去のものを持ち帰ってきてしまうはず。そして、未来は、地球の歴史は変わってしまう。それこそ、歴史の必然て奴です。でも、タイムマシンはできないそうですから、安心してね。 まあそれは置いといて、私としては、緻密なシナリオによる時間飛びによるパラドックスの変化を描いたSFとか観たいなあ。 やっぱ時間飛びネタはSFで観たいです。 外国映画、洋画
2006年10月16日
コメント(10)
ホームの崩壊をハウスの崩壊で見せてくれるなんてなかなかしゃれた趣向じゃん。この作品に関しては原作の絵本より面白かったです。 かつて小学校の読み語りで呼んだ『ジュマンジ』。面白い絵本でした。そして、映画化もされました。でも、この作品は映画化は話を膨らませすぎ。テーマがずれてしまっていました。そして、その続編として、数年後に出された『ザスーラ』は、テーマが出すぎていて説教くさくて、「ジュマンジ」ほど面白くなかった。でも、映画化されてみたら、こちらは原作より面白い。 宇宙が舞台の話なのですから、映画にはうってつけですね。ま、『ジュマンジ』も面白かったですけどね。 冒頭親子でキャッチボールをするシーン。なんともアメリカ的でハッピーなシーン。いいお父さんだなと感心して見てますと、だんだん子守に飽きてきた父親は声を荒げはじめてくる。実はこの家庭、母はいない。どうも離婚しているようです。一見幸せそうにみえるアメリカ映画にもすでにハッピーだけを描けない現実が忍び寄ってきているようです。 かつて、幸せで豊かなアメリカは、世界中にアメリカの幸せを真似するようにと、宣伝に余念がなかったものですが。だから、豊かで豪華な豪快なアメリカ映画をみながら、いつかあんな生活を手に入れるんだと憧れをこめて見ていたものです。 けれど、家庭崩壊、学校内暴力、離婚が当たり前の夫婦、家庭、そんなものが現実になり、世界的にもアメリカがその豊かさの追求のために世界中に戦争を仕掛けていることが、世界的に批判されている今、アメリカ映画を豊かで幸せな世界としてみることはできなくなっているわけです。そしてさらに、個人主義を追求するあまり、逆に個人の幸せが犠牲になっている現実を現代のアメリカに見ることができる。 原作では、この家庭の夫婦は二人でそろって知り合いのパーティーに出かけていきます。ごくこぐ普通の幸せな家庭です。その留守中に兄弟二人ではじめたゲームによる物語なのです。けれど、映画化するにあたって、設定は大幅に変わり、ママはいない。ママのいない家庭がすでにアメリカのスタンダードになっているという皮肉。 この家庭でも、家族はそれぞれ自分のしたいことだけをして、自分の希望だけで、生きて、暮らしている。母親はすでに別居しているし、父親は仕事優先で、休日の子供を家に残して出かけてしまうし、姉は弟たちの面倒を見ることより、ボーイフレンドと遊びに行く事が最優先。にいちゃんのウォルターも、弟なんて要らないと言って遊び相手もしないで、地下室に閉じ込めようとする。それぞれがそれぞれの願望だけで生きていれば家庭は崩壊するらしい。そして、「ザ・スーラ」のゲームをする中で、兄のウォルターは、願いをかなえられるカードを引いた時、他人のために自分の願いごとの権利を使うにいたって、自分自身をも救うことができる。自分の願望だけでは、生きていけないんだと言うのがこの物語のテーマのようです。 ところで原作には出てこない姉や、宇宙飛行士などの参加によってお話はふくらみを増し、ゾーガン星人はものすごく過激。おもちゃのようなちゃっちいロボットもパワーアップして、家は破壊されまくり。まあ、その、世界中から報復され返しているアメリカに見えないこともないですね。 原作は兄弟は仲良くしなくちゃね。という話でした。 世界は一家。人類はみな兄弟 なわけですから、アメリカも世界中にけんか売って、威張って兄貴風ふかしてないで、兄弟なかよく、世界中の国々とも仲良くしてほしいものです。 てことで、映画自体は単純に見た方がもちろん楽しいです。 映画の感想
2006年10月04日
コメント(4)
こんなに自然の風景の美しい戦争映画は初めてです。人は自然の中から生まれ、自然の一部のはずなのに、自然を破壊する。その島に住む人々のことも、自然のほかの生命のことも考えずに、爆撃を繰り返し、自分達の都合だけで戦争を繰り返す。人間はいつの間にこんなに傲慢になったのだろう。 自然に、神に、与えられた自分の命を与えられた分だけまっとうして、自然に穏やかに死の時を迎えたいと願い脱走を繰り返すウィット。 戦場の恐怖を愛する妻のためだと、妻との日々の記憶を繰り返し思い浮かべることで紛らわそうとするベル。 この戦闘の結果がこの後のアメリカ軍全体の戦況に大きく影響することがわかっていながら、目の前で自分の部下達を殺すことになる命令を決断できずに戸惑う隊長スタロフ。 恐怖のあまり、胃痛をおこして最前線で立ち上がることもできない一歩兵。 兵達の体調や安全などよりも自分の出世と名誉や勲章のことしか頭にない指揮官。 南の美しい海、抜けるような青空。丘をわたる風の音。撫でるように渡っていく風にゆれる戦場の中の丘の草。まるで草いきれの匂ってきそうな草原。戦士達はその中を銃をかかえて、突撃していく。 ガダルカナルは太平洋上の小さな島にすぎないのだけれど、この島に飛行場を作り、この島を抑えることでその後の戦況に大きく影響する要所なのである。本国の作戦司令室の中にいる参謀達には、その島にいる島民のことも、そのほかにも多くの命があることも、自然の美しい景観があることも、もちろん思い及ばない。 ところでアメリカ軍が必死に突撃を進め、日本軍のトーチカを落とし次々に襲ってくる日本兵を倒していく時、なんと私は思わず心情的にアメリカ兵の味方をしてしまった。日本人だって言うのに、日本兵が来た時、「危ない!早く撃ち殺せ!」と思ってしまいました。これはアメリカの映画で、アメリカ軍側の話なので、見ている側はアメリカ兵に感情移入してしまうのですね。アメリカ人がアメリカ軍サイドにたってみている分には当たり前なのだけれど、自分は日本人だっていうのについ、アメリカ側にはいりこんでいる自分がいて、愕然としてしまったのです。つくづく怖いよね。 戦場でいつ死ぬかわからない恐怖。人を殺した事で傷ついていく兵士達の心。けれど、一番怖いのはそういう恐怖や、痛みに慣れてしまうことだ。人は慣れるものだ。繰り返しつづく戦闘の中でいつか、戦う恐怖も人を殺す痛みも感じなくなってしまうかもしれないという、そのことこそが最も恐ろしいことなのだろう。 戦場の兵士は指揮官達にとっては武器の一部、ただの戦争のための道具にすぎない。戦場で兵士達の一人一人は自分が人として扱われていないことに絶望する。自分達はただの雑草にすぎない。ただの土くれにすぎない。自分たちは既に人でなく、それでも、なお、戦うのはなぜだ。 戦いの恐怖を妻を思うことで紛らわせてきた、妻のためと思うことで必死に絶えてきた、その妻は愛していたはずの夫がそばにいない寂しさゆえに他の男の下へ走る。それでは、いままで自分が妻のためと戦ってきたものはなんだったのだ。お笑いだ。自分はこの戦闘はなんだったのだ。 そしてまた、兵士達はガダルカナル島から、更に次の戦場に運ばれていく。四角い箱のような輸送ボートに詰め込まれている兵士達は、まるでただの荷物にしかみえない。 空と海ばかりが美しい。『シンレッドライン』その1もお読みください。
2006年06月03日
コメント(0)
『ニューワールド』つながりで同じテレンスマリック監督の作品ということで、見ました。 まさに太平洋戦争の話。太平洋上のガダルカナル島での、アメリカ軍と日本軍の攻防戦だ。 日本とアメリカはパールハーバーに始まって、フィリピンや、サイパンや、太平洋上の多くの島で戦ったらしいですね。 その中で特にそれぞれの力がフィフティで、なかなか決着がつかなかったのが、ガ島戦だったらしい。しかも、人間同士の殺し合いが直に伝わる白兵戦。戦闘機や、戦艦同士でのうちあいだと目の前で人が死なない分、殺人をしている実感が伝わりにくいのです。 『ニューワールド』と同じように前編静かで叙情豊かに自然の風景を織り交ぜて描かれている。戦争映画だというのに。どうも、この監督の作風らしい。 それにしても、出演者が多くて顔が見分けられないし、誰が主人公かもわからない。ちと、辛いですな。 そして、こちらの映画でも、やはり『ニューワールド』と同じように『やさしすぎる男』が出てくる。ストーリーの中で、日本軍のトーチカ攻防の最前線を突破しなければならないC中隊を指揮する隊長さんがそうでした。 この隊長なんですけどね。自分の隊の兵が怪我すると、そこで立ち止まって一人兵をつけてあげるし、もう死ぬしかない苦しんでいる兵を命がけで助けに行こうとする。もう、目の前の数メートルで決着がつきそうなのに、無理やり突撃すれば、自分の兵達が死んじゃうだろうと言って、まごまごしてるし。いいんですかね。そんなにやさしくて。そこまでやさしいとそのやさしさがあだになってかえって隊が全滅なんて事になんないのですか。っと思って見てたら、業を煮やした指揮官がやってきて、もうがががっと突撃させちゃったのでした。 一体どれほどの日本兵が潜んでいるのか、ほとんど情報のない状態での突撃なんだから、もう、怖いのなんのって。そりゃそうだわよね。つくづく情報って大事ですね。実際にはこの時の日本兵はわずか数百人と、数千人の技術者がいただけ。落としてみれば日本兵はぼろぼろだったのです。 この映画のすごいところの一つが日本兵がちゃんと日本人!!だってことだ。西洋映画にでてくる日本人て日本人の目から見るとほとんど、「まちがってるよ。ちがうだろ。ぜんぜん日本人じゃないですけどー。」っていう感じなんですけど、この映画にでてくる日本人はちゃーんと日本人でした。いやこんなことに感激してても始まらないけどね。でもね、ちゃんと日本人らしいことでこの映画のリアリティが説得力を増すのですよね。 日本軍を落としたところで先ほどの優しすぎる隊長は、指揮官によって除隊勧告をうけるわけですね。この隊長、優しすぎて軍隊に向かないって事ですね。頭はいいし、判断力もあるし、人情も厚いし、勇敢だし、いい男なんだけどねえ。で、この隊長がどのくらいいいやつだったかって言うのは、この後、後半で新しく隊長になったやつがすごーく無能で判断力なくて、意気地もなくって、結局自分の隊を孤立させてしまって、C中隊は日本兵に囲まれちゃうんですよね。しかも、部下が必死に進言してるのにそれでも、わかんないのだモノ。 ところでこのやさしい隊長さん。部下に向かって「君達はみんな息子だと思っている」とか言いながら、でも、「自分はアメリカに帰りたいんだ」とか言って喜んで帰っていってしまうのですね。おいおい。それってどういうこと。何気にホリエモンとその側近達のやり取りに似てなくもないような。しかも、まだガ島戦、終わってないんですけどー。途中でいなくなっちゃうあたり、『ニューワールド』のジョンスミスと似てます。でも、この隊長さんの優しさ。男にとって、そして戦場においては疎まれるものではあるけれど、女性だったらたぶんほとんどの人たちが当たり前のように持っているものなんだけどな。 ところで、いままで、数々の戦争映画作られてきましたけど、こんな風に最後まではっきり戦いの決着がわかりにくい映画も珍しいですね。というそのあたりがまさに監督の狙いなんだろうと思うのですけれど。 戦争映画というのは必ず敵をやっつけて、味方が勝って「やったーすっきりー」という痛快活劇のような終わり方多いですよね。たとえば今までで一番多かったのが主役アメリカ、敵ドイツ軍で、ぜーったいドイツ軍てのは悪者で、そのドイツ軍をアメリカ軍と連語国側がばしーっとやっつけて痛快に正義は勝つんだって言う終わり方の映画が多かったのです。昔はやった『コンバット』とかね。それから敵が、がんがん戦闘機から爆撃してきて、味方がばしばしやっつけられて、血を流してのた打ち回って苦しんでて、「なんてかわいそう。ひどい。戦争ってよくないよ」と見る側に思わせるような展開の話の映画。たとえばこないだまで話題だった、『おとこたちの大和』がまさにそれ。 でもね。この『シンレッドライン』はね。アメリカ側から描いてはあるけれど、だから、日本が悪いというような書き方はしていない。激しい銃撃戦の末に相手軍を落としてみれば相手もまた同じ人間で、痛みや死の恐怖におののき打ち震え、ぎりぎりの恐怖と戦いながら、攻防していただけだ。「俺は死ぬ。でも、お前だって死ぬんだ。」どっちもいつかは死ぬ、同じ人間なんだ。同じようにに戦争が怖くて、仕方なくて戦っている同じ弱い人間なんだ。 今までの戦争映画には描かれていなかった。戦争といえども、人間を傷つければ、傷つけた側の人間の心だって傷つく。いくら神様と祈ってみても、神様のためだ、国のためだ、妻や恋人のためだと自分の心に言い聞かせてみても、人をきづつけ、殺したその心の苦痛を癒すこともごまかすこともできない。たとえそれが自分が戦場で生き抜くための唯一の手段だとしても、どんなに名誉だ、勲章だと言われて見ても、そんなもので人をきづつけ殺した心の痛みが癒されるわけもない。 けれど、その基本中の基本が今までの戦争映画に描かれてきたことはあったのだろうか。 反戦を訴えていながら、そこにはあくまで、ほらね、味方がこんなに痛い思いしないとなんないんだよ。だから、戦争はやめた方がいいよねというような表面的なテーマを元に戦争という材料をおもしろい娯楽作品として味わっていたものがほとんどだったのではないだろうか。 この映画を見た感想として、「冗長で、メリハリもなく、ラストもだらだらと終わってつまらなかった」というのなら、それは映画を見終わった感想として、戦争はよくないねといいながら、結局は戦争映画という娯楽を楽しんできただけなのであって、まさに映画制作者サイドの思う壺にすっぽりとはまっていただけだったのではないだろうか。 戦争が本当に本当の意味でなぜいけないのか。もういちど、この映画を見直して考えて欲しい。 さらに、ところでですが、私はまだ、『プラトーン』も『地獄の黙示録』も見てないです。今度見てみよう。これらを見るとまた、感想が変わるかもしれません。『シンレッドライン』その2もお読みください。
2006年05月31日
コメント(2)
全20件 (20件中 1-20件目)
1