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世界一のSNS「フェイス・ブック」をつくった、マーク・ザッカーバーグの物語。さて、この映画をみて、最大のポイントは、マーク、本当にいやなやつなのか?というところ。フェイス・ブックをつくるために、友達をきりすてる、いやな奴というかかれ方。しかし、そもそも、彼は、友達をつくろうとか、周りの人間を友達だとか、おもっていたのだろうか。「フェイス・ブック」を作る。これは、あきらかに、ビジネス的行為だ。普通は、大学は、勉強して、友達をつくって、社会に出る前の段階の場所だ。そして、社会にでてから、ビジネスという視点での対人を学んでいく。ビジネス社会では、人間性以前に、まず、組織の仕事の利益を上げることが最優先。そのためには、ひとを切り捨てたり、非人間的な行為を涙をのんで、やらなければならなかったりする。そして、マークの場合は、その能力ゆえに、すでに、大学という場所でもうビジネスになっていた。大学の周りの人間たちもまた、彼のビジネスのための人材にすぎなかったのではないのだろうか。彼にとって、ハーバード大学という場は、学生生活の場でも、人間関係育成の場でもなく、すでに、ビジネスのための場所であり、彼の意識の中はもうすでに、ビジネス視点、ビジネス的価値観になっていたのでは。そこが、普通の学生たちとの決定的な違いであり、周りは、学生同士の、友人的なつながりとして、マークにかかわっているゆえに、彼の中の認識にきづかない。それが、マークと、彼にかかわる人間たちとのあいだで、ずれが生じる理由なのでは。マークは、ウィンクルボス兄弟からは、SNSのアイデアだけをもらうけれど、共同経営者としては、認めなかった。また、友人の、エドゥアルドにたいしては、出資者という視点でしかみていない。だから、エドゥアルドが、口座凍結した段階で、すっぱりときりすてている。この一連の行為は、友人関係としてみれば、ひどいけれど、ビジネス社会の関係であれば、どこでもやっている普通のことなのでは。マークが大学生ゆえに、人間性という視点でみてしまうけれど、マークは、そのスペシャルに有能な能力ゆえに、大学時代すでにもう、ビジネスという世界にすんでしまっていたのだろう。かくして、マークは、世界に冠たるSNSのサイト「フェイス・ブック」を作り上げ、ビジネスとしての、成功を収める。けれどそれではいったい、彼はどこで友人をつくり、どこで、人間らしい生活と、関係性を手にいれるのだろうか。その優秀さゆえに人より先に一足飛びにビジネス社会に飛び込んでしまったマーク。普通の人間たちが学生という意識から、ビジネスマンとしての認識、価値観に移行していくことに苦労するものなのに。ところで、この映画をみていて、なぜ、アメリカではネット上の名前に実名を使い、日本では、ハンドルネームを使うのかよくわかりました。フェイス・ブックは、そもそもは、ハーバード大学内での、学生名鑑を作るためのものであり、これを通して、実際の学生どうしの交際を助けるためのもの。だから、実名でなければ、意味ありません。けれど、日本では、まず、ネット上での掲示板など、うっかり中傷など書いたり、ネット上で、もめたりすれば、リアルでのしかえしがあったりしました。そんなことのあとでできたのが、ミキシィなので、うっかり、ネット上に実名をだせない土壌ができてからのSNS。しかも、SNS登録の際に実名をいれておくと、検索でみつけられてしまう危険性もあり、すでに、日本のネット内では、実名は使えない状況ができあがってしまっているから。さてこの映画、シナリオのテンポがものすごく速く、過去と未来の場面が交互にでてきてたりして、結構わかりにくいです。ぼーっとしてると、ちんぷんかんぷんだったりします。とくに冒頭のエリカとマークの会話シーン。結構重要なのに、最初のシーンなので、よくわかんないで、集中しないで、みてると、わけわかんなかったりして、大事な部分を見落としてしまいます。とくに、おもしろかったのかも、わかんないですが、とにかくテンポがはやいので、飽きることはなかったかも。とりあえず、時代の話題作なので、みておいてもいいかも。 【送料無料】facebook完全活用本価格:1,260円(税込、送料別)・ソーシャル・ネットワーク@ぴあ映画生活
2011年01月22日
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大賞をとるほどの作品が、なぜ日本公開されなかったのだろう。そして、上映館もとても限られていて、観客もすこぶるすくなかった。戦地での爆弾処理班の活動と主人公の心の変遷を追いかけていく、ハードで、地味で、でも嘘くさい派手さのない映画は、それなりに面白かったと、思う。戦場で、生き残るのと、普通の日常の社会の中で生き抜いていくのと、いったい、どっちが大変なんだろうかと、ふと、考えてしまった。普通であれば、戦場の方が過酷であろうと、誰もが思う。実際私も、戦場なんて、行きたくないし。でも、けれど、実際のところ、平和であるはずの普通の社会の中であっても、生き延びて、生き続けていかなければならないのは、それはそれで、それなりに、結構過酷でしんどいことだ。と、思う。実際そのハードさに、自殺する人々も何人もいるじゃないか。ラスト近くになって、主人公は、爆弾処理班として、イラクの地での過酷な任務を終えたあと、平和な本国に戻ってくる。休日のスーパーでの買い物。何気ない平和でのどかな日常。けれど、その巨大スーパーの中で、フロアの端から端まで並ぶ、シリアルを見たとき、主人公はどれを選んでいいのか戸惑う。物の溢れる巨大スーパーの中で、欲しいものも見つけられない。大きなカートのなかには、一つか二つしか入っていない。すべてが平和で自分の意志で選びとって生きていける、いや、生きていかなければならない、平和な生活は、あるいは、戦場以上に過酷なんだろうか。戦地にいれば、すべての食料も、住まいも、衣服も、仕事も、すべて、軍から与えられる。そこに、選択肢も、迷いも、戸惑いも、ない。ただ、死への不安だけがあるだけ。任務を終えて、本国に戻った主人公は、ラスト、結局また、戦地にと戻ってしまう。常に死と隣り合わせで、生き残ることに必死のハズの戦場が、主人公にとっては、平和な本国よりずっと、生きていくのが楽なところだったのだろうか。平和で豊かな今の現代社会。それでいながら、その選択肢の多さと、本当はとても、過酷で、仕事につけなければ、いつ路頭に迷い、住まいも金も食べ物もなくなって、生き続けることができなくなってしまうかもしれない過酷さは、普段はなかなか見えなくて、気づかないけれど、とてもとても、きつくて、 きびしいところだったりする。タイトルのハートロッカーは、ココロが壊れた人ってことらしい。せっかく平和な本国にもどってきたのに、戦場のスリリングさが忘れられなくて、結局また、戦地に戻ってしまう人たちがいるらしい。平和な社会に暮らす私たちからみれば、スリリングで人殺しの当たり前な戦場の方がいいなんて、壊れてると、思うけれど。では、彼らの心の中には、何があるんだろう。ちょっと前に話題になった映画「父親たちの星条旗」でも、メインキャラクター3人のうちのひとりは、本国での暮らしの辛さにもう一度戦地もどってしまった。そんな部分があった。かれは、戦地の快楽をもとめたのではなく、苦境の中で仲間同士助け合っていく温かさの方が、平和でありながら、他人を見下し厳しくせめぎあっていきていかなければならない、本国の暮らしよりずっとずっと生きやすかったのだろう。戦地から本国に戻って、また、戦地にと戻ってしまう兵士たちの、心のなかには、何があるんだろう。彼らの心を破壊したのは、戦場の快楽なのか、それとも、平和でありながら実はとても過酷な人々のどよめく本国の普通の暮らしの中なのだろうか。。
2010年05月14日
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やっぱり英国史って、面白いですね。世界史は全般的に好きなんだけど、なぜか不思議と特別な魅力のあるのが英国の歴史ですね。十六世紀以降世界制覇した国の歴史ですからね。 『エリザベス』、『キング・アーサー』、『トリスタンとイゾルデ』、『クィーン』などなど、最近イギリスの歴史物が多くて楽しいです。 で、エリザベス一世のお話二つの後にとうとうそのエリザベスのお母さんの話。アン・ブーリンを主役にした話はかなり昔に『1000日のアン』という映画も作られているのです。それも見たいなあとは、思っていたのだけど、なにせ古い映画なので。 美しくて優しいだけでは、だめなのだ。 映画の冒頭でアンのお父さんがいうセリフです。結構意味深で、映画全体のテーマに大きく関わるメッセージなのではないのかなとも思ったのです。 裕福な商家から、アンを嫁に欲しいとのお願いに、ブリーン姉妹のお父さんは、頭がよいアンより、心優しい妹のメアリーの方が向くだろうということで、メアリーを結婚させます。このメアリーの性格を美しく、やさしいと、父は言うわけですが、でも、それだけじゃだめだとも、いうわけです。そして、頭のいい姉のアンを当時子供のいなかったヘンリー8世の愛人にして男の子を産ませて、ブーリン家を繁栄させようと画策するわけです。 けれど、頭がよくても、自分のことばかり考えてるおてんばなアンより、心やさしく気配りのできるメアリーにヘンリー8世は心奪われてしまうわけです。 このお話の中のアンは、頭はいいけれど、すごく性格悪いです。とにかく自分のことばかり考えているのですね。自分が将来得するためには、妹のことも、弟のことも犠牲にしても、自分の不幸に巻き込んでも気にしません。王のハートを射止めるために、その優秀な頭脳を使って、狡猾な策略、手練手管を駆使するのです。 この物語はとにかく、メアリーと、弟と、お母さん以外はほとんど全員が自分のことしか考えていない、性格の悪い奴ばかりです。 そして、そのためにほとんどの人たちが不幸な末路をたどった末に、美しく心優しいメアリーだけが生き残り、再婚して幸せな生涯を送るわけです。 では、自分のことばかり考える性格の悪さを批難して、心優しく人のために生きることを賛辞する映画なのでしょうか。 表面のストーリーだけを見ればその通りです。ヘンリー王も、優しいメアリーには、最初も最後も優しく、そして、惹かれるわけです。 けれど、国を統治して、一人孤独と戦いながら、常にきびしい決断をしていかなければならない一国の王を産まなければならない、国王が、美しく心優しいという理由だけで、妻や愛人を選び、世継ぎを作ると、その世継ぎは将来、その優しさゆえに、一国の支配者としては、不向きなのでは。 子供というのは、母親の遺伝子を受け継いでいるわけですから、優しい女性は妻や愛人としては、とてもいいものかもしれません。が、一国の支配者としては、明晰な頭脳、狡猾さ、計算高さ、目的のためには、手段を選ばない強さ、たくましさが求められるわけで、まさにそういうものをもっていたのが、この物語の主人公であり、一見性格悪い悪女とすらみえるアン・ブーリンなのではないのでしょうか。 ヘンリー王は、その巧みさに一度は、アンに惹かれますが、結局のところ計算高すぎて、女性としてのアンに愛情を感じ続けることができませんでした。 それでも、アンは、女の子とはいえ、一児をもうけ、その女児が将来エリザベス一世となって、イギリスを世界有数の大国へと、成長させていったわけです。そのエリザベスの中には、母であるアン・ブーリンがもっていた、頭のよさ、狡猾さ、たくましさが引き継がれていたのです。 アンの背信によって、アンは斬首され、ブーリン家の父も、義父も後年悲惨な末路をたどるわけですが、彼らの計算済みか、予定外かはわからないその計略によって、エリザベス一世は生み出され、大英帝国はきずかれたわけです。 美しく心優しいのは、人としては、普通の人としては、徳のあるすばらしいことではあるけれど、一国の王に望まれものは、それとはちがうもの。そして、そのためには、王もまた、世継ぎのために、耐えなければならない部分も、考えなければならない部分もあるのでは。 たくさんの人々がうごめき、策略し、地獄と紙一重のような、英国王宮の中で、王も后も、愛人も臣下たちも、あえぎ苦しみながら、英国の歴史は作り上げられていったのですね。 二時間ちょっとの上映時間でしたが、まったく飽きることなく、見終わりました。アン・ブリーン役のナタリー・ポートマンも、それ以外の役者さんたちもすばらしい熱演で、心にせまってくるものがありました。 おもしろかったです。ブーリン家の姉妹@映画生活
2008年11月28日
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一時間半と、予定外に時間の短い作品。のわりに、意外と内容は、濃かったような気がします。 しかし、アメリカ大統領が、テロ撲滅というテーマで演説する場所としては、あの周り中窓だらけの場所というのは、ありえない気がします。いかにも、撃って下さい、殺してくださいと、いわんばかり。警備もかなり手薄だし。たった一人の男に、大統領の命が任されちゃうというのも。 そして、カーチェイスは、かなりハードで、見ごたえあるんだけど、よその国の街中を壊しまくりだし、自分の国の大統領のために、こんなによその国を壊しながら、町の人の危険も顧みずに、走り回っていいものなんでしょうか。 それでも、最後は、あれだけ人を殺しまくった人たちが、心の中の一条の光を見せてくれる。このお話は、つまり、性善説なわけですよね。 もうどうにもならないどうしようもないとう、極限状態で、おもわず、取った行動が、人の心の本心、根のところにあるもの。そうであって欲しいと、思いますが。 しかし、爆発現場でいきなり、母親のいない女の子をさっき会ったばかりの初対面のおじさんが勝手に連れ出しちゃったり、事故現場でばらばらになって、はぐれたお母さんが、かなり離れたところに居たり。ストーリーは、見ごたえあって、面白いんだけど、あまりにも、ご都合主義な展開は、ついていけません。いまいちうれなかったのも、そりあたりが原因かも。 バンテージ・ポイント@映画生活
2008年10月01日
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出来は悪くないとは、思う。でも、前二作をみているハムナプトラファンにすれば、肩透かしを食らった気分だ。エジプトが舞台になってないものはねやっぱりハムナプトラとはいえないかなあ。 中国を舞台にすると、かなり重厚な面白いものが出来るけれど、この作品では、十分な中国についての情報調査、資料調査がされていないまま、中途半端にとりあえずの知識だけで、作ってしまっていて、底の浅い作品になってしまった。万里の長城をつくった皇帝といえば、明らかに秦の始皇帝なのに、今回その中国では重要度抜群の始皇帝がただの、悪霊の大ボスとして、物語で使っているという、安直さ。西洋よりは、中国にくわしい日本人にすれば、違和感ばりばりで、なんかかなりちがうーという感じ。 兵馬俑が動き出して、戦争を始めたら。という、アイデア自体はおもしろいんだから、ハムナプトラとは離れて、もっと舞台設定をこって徹底的に中国の話として作れば、かなりいいものができたはずなのにと、思う。 今回は、ヒロインがレイチェルワイズじゃなくて、変わってしまっていた。ハムナプトラシリーズは、レイチェルワイズだからこそのよさなのに、そのいちばん重要なヒロインがかわってしまった時点で、これはもう、ハムナプトラじゃないんだけどね。 エジプトねた自体過去に既にたくさん作られていて、新しいものじゃないところを、ハムナプトラ独特の展開ゆえに面白かったのに、残念。監督が前二作とは、ちがうのでもう、その時点で、ハムナプトラじゃなくなってるのでしょう。 それから、いままでは、この手の冒険物で特に気にしたことなかったんだけど、考古学者なのに、自分の発見した遺跡に対しての扱いがひどい。ろくな前調査もなく、いきなり、ずかずか遺跡に入り込んだ挙句、仕掛けにひっかかかって、遺跡を壊したり、遺跡の中で拳銃ばんばん撃ってたり。貴重な遺跡を破壊して平気でいる辺り、考古学者の人がみたら、怒り出すんじゃないのかな。 貴重な兵馬俑を破壊しても平気で、今回の悪役の皇帝の遺体だけをありがたがって運び出していたり。そんなことしたら壊れるし、ありえないきがする。監督は、兵馬俑の歴史的価値も、万里の長城の歴史的価値もたぶん、まったく分かってない。 今回、中国政府から、手直しを要求されたのも無理からぬことだと思う。それで、直しても、これなんだから、中国政府もずいぶん甘くなったものだ。 西洋の目から見た中国って所詮こんな程度なのかも。 今回の作品は、ハムナプトラの人気による集客をねらった別作品ですね。 それにしても、一作目からわずか9年、三作目ですでに、一作目ではやっとカップルになったばかりの主人公とヒロインの子供がすでに大学生。映画の中の時間の進み方早すぎる。ジュニアがててくる段階で、すでに、インディジョーンズの二番煎じにしかみえなくて、そもそものこの夏の新作インディジョーンズ自体が、いまいちだったのに、ここでもまた、似たような設定って、なぜに。 もうこのシリーズはつくられないでしようねえ。 それとも、シリーズ四作目ができたら、今回のことに懲りずに見に行くなんていうバカをしてしまうかもしれない。 ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝@映画生活
2008年08月25日
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キリストが、捕まり、鞭打たれ、罵倒され、十字架を背負って、ゴルゴダの丘で処刑されるまでの、物語。 聖書の描写だけでは、漠然として、イメージしえなかったキリストの受けた拷問、苦難。鞭打たれて、皮膚はめくれ上がり、血まみれになり、いたぶられ、なぐられ、つばを吐きかけられ、何度も失神し、倒れながら、ゴルゴダまで十字架を背負って、あるかされていく、壮絶な苦痛にあえぐキリストの最後の数日間が克明に映像化された映画です。ものすごく痛そうで、すごいです。 神というものが、もし、肉体を持たないとのだとしたら、神には、人の苦しみも、なぜ人が悪事をはたらき、盗みをし、争いあうのかもまた、理解できないのではないだろうか。 動物たちまでを地上に作り上げて、ふっと、自分と似た生き物を作りたくなる。知能を与えて、人間を作ってみる。けれど、神の作った人間は、争いやら、盗みやら、そのほかいろいろ、悪いことばかりしている。日々、悪いことばかりして、いく。いったいどうして、人間たちはあんなにも、悪いことばかりするのだろう。けれど、神には、肉体がないから、人間たちの痛みがわからない。肉体があるから、腹がへり、だから、物を盗む。だから、争い、戦争をする。自分の肉体を肉体として、維持し続けていくために。 けれど、神自身が人間になることは出来ない。だから、神の代わりに、肉体をもつ人間の、痛み苦しみ悩み迷いを、神に伝えるために、キリストは、地上に、肉体を持つ人間として、生まれでて、肉体のもつ痛みを神に伝えなければならなかった。キリストは、これ以上はもう、並みの人間では耐えられないだろう痛み、きず、拷問を受け続けて、そして、生身の人間ゆえに息絶える。その時初めて、神は、肉体の痛みを実感し、一粒の涙をこぼす。 他者の心の痛みが理解しずらいように、肉体の痛みもまた、他人には、理解しずらいものなのだろう。映画を見ながら、キリストの受けている痛みにずきずきしている観客とは対称的に、キリストの辛さなどいっさい自分とは関係ないというように、キリストを最後までいたぶり続けるローマ兵たち。このローマ兵と同じように今の社会でもまた、他人の痛みなどいっさい感じずに、自分の仕事だけを忠実にこなしていくような、人間がいるんだなあと、ふと、思った。 肉体をもつ人間でありながら。 他者の痛みを人はどこまで共感しうるのだろう。痛みというのは、あくまで、自分が経験した痛みの延長線上までしか出来ないだろうと思う。健康であれば、病人や、けが人や、歩けないもの、手を動かせないもの、自分が簡単に出来る動作を、苦痛をともないつつやっとこなしている人たちの思いをどこまで理解しうるのだろう。 共感や、思いやりとは、思う以上に難しい。 実体験なくして、他者は理解できない。 地上の人間たちの痛みや迷いを神に伝えるためにあった、キリストの人生、生涯、使命。人間たちのためにささげられたキリストの苦痛。それは、どこまで神に伝えられたのだろう。 さて、ユダヤ民族というものが、なぜ歴史上こうまで不幸な目に合い続けるのか。とても、不思議な民族だと、思っていたのだが、この映画を通して、キリストを殺したのが、ユダヤ人たちだったのだと、知った。なるほど。西洋世界で絶対的存在であるキリストを殺した民族だからなのか。だから、あんなにも、西洋で、迫害され、蔑視され、虐待され続けているのだ。もちろん、キリストを殺したのは、紀元当時のエルサレムのユダヤ人たちであって、今現在に生きているユダヤ人ではないのだし、それをえんえん 2000 年かけて、償いつづけなければならないというのは、大変だ。それにもかかわらず、ユダや人たちが、ユダヤ教を捨てないのも不思議。そして、聖書の前半においてえんえんと、キリストと対立するはずのユダヤ民族の歴史を描き続けているのもまた不思議な話だ。 けれど、また、聖書に書いてあることが真実とも限らない。本当はやはり、キリストを殺したのは、ローマ人かもしれない。だから、それが言いたくて、ユダヤ人は、ハリウッド映画でなんども、キリストの物語を映画化しているのかもしれない。ハリウッドの映画では、キリストを殺したのは、ローマ人なのだ。 それに対立するように、映画の掟をやぶって、聖書どおりに作られたのが、この映画なのだ。 これは、決して、永遠に真実のわからない、歴史のミステリー。そして、ユダヤ民族と、キリスト信者との永遠の対立の物語だ。 キリストの痛みを神はどこまで理解しえたのだろう。 パッション@映画生活
2008年06月23日
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前作で監督がもともとやりたかったストーリーどおりに作った映画だと思います。 ようするに、前作はいろいろ手が入って話がかわっちっゃたので、もう一回原点に返って作り直した。そういう感じです。ただ、二回も「本番」のシーンをあんなに時間かけて描写しているので、なにか、18禁映画を間違って借りてきたのかもなんて気がしてしまいました。 あんなに恋人を愛してるはずの主人公ニックが、タイムジャンプした途端、言い寄ってきた美女とすぐに関係しちゃうなんて、この主人公なに考えてるんだろう。 まあ、ようするに、自分の周りの嫌なことを否定するということは、自分の人生を否定すること。それは、つまり自分自身を否定することなんだろうと。 どんな辛いことも、嫌なことも、やはり、自分という人間を作るために神様から与えられた運命なのだとしたら、やはりそれに耐えて生きていかなければならないのでしょう。それを否定して、嫌なことのあるたんびにタイムジャンプして、人生をいい事だけのように修正していくと、結局自分自身がなくなっちゃう。いやなことから逃げてると、自分というものを作り出せなくなってしまう。 で、物語結末としては、当然、自分を消去することでしか、問題を解決できなくっちゃうという、前作の別エンディングと、同じ結末になるのですね。 でも、私もやはり、前作の方が好きです。今作には、いまひとつ重厚感がないです。 でも、ニック役の人、まつげ長かった。そればっかり見てたかも。 もしかすると、最後にでてくる赤ちゃんが「バタフライエフェクト1」の主人公なのかも。だとしたら、この結末は必然で、エヴァンが誕生澄めた目の運命の流れに過ぎなかったとしたら。運命を自分の意志で変えているはずが、結局はお釈迦様、神様の手のひらの上にいただけかもしない。うーん。それって、怖い。こわすぎる。 バタフライ・エフェクト2@映画生活
2008年06月14日
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なぜこの作品において監督は原作とは違う結末を用意したのだろうか。 期待して見た『羊たちの沈黙』の続編であるが、なにやらよくわからない。というか、ストーリーの中で役者たちのセリフによって、前作『羊たちの沈黙』の説明が出てくることでてくること。 つまり、レクターがクラリスにバッファロー・ビル事件について説明し、クラリスに対して親切だったのは、クラリスがレクターに対して礼儀正しく接していたからであること。礼儀正しく接っすれば、決してレクターは殺人はしないこと。 レクターが殺すのは、、彼に対して、侮辱したり、罵倒したり、無礼な態度にでた相手に対してであること。 つまり、ここまでセリフできっちり説明しないとならないほど、前作『羊たちの沈黙』は観客に理解されなかったのだろう。それは、やはりホラーサスペンスゆえの怖さをだすために、必要以上におどろおどろしく作ってしまったためでもあるかもしれない。 クラリスが牧場で義父が子羊を殺すシーンを見てショックを受けたことに対して、もしかして彼女が義父によってセックスを強要されたシーンなのではないかとか、実の父とのことがクラリスには、トラウマになっているのではないかというような、作品本来の意図とは違う方向に観客の裏読みを誘導してしまったせいかもしれない。 また、アンソニー・ホプキンスの演技が懲りすぎて、必要以上に怖いレクター博士が演じられた結果、「ものすごく怖くてその行動原理を全く読めないモンスターとしてのレクター博士」が、製作者の意図する以上の一人歩きをしてしまったためかもしれない。 結果としてそのレクター博士像が観客の人気を呼んでしまったのだが。 それにしても、セリフでの説明がありすぎ。そして、ここまで説明しないと続編のストーリーは成り立たないということか。 けれど、前作のレクター、クラリスと、今回の二人はどうにも違う人物になっているようだ。 今作のクラリス役、ジュリアン・ムーアは女性らしい色気がありすぎるし、前作でジョディ・フォスターが演じたクラリスのような礼儀正しい態度をレクターに対してとっているようには見えない。全くの別人のようで、役の解釈がまるで違う。 それは、彼女自身の解釈による演技なのか。それとも、監督の目指すテーマゆえの演技なのか。 そして、友情であったはずの二人の関係が恋愛になってしまうというのは、いただけない。 脱走して世界中を巡り歩いた結果、クラリスほどの女性はまずめったに存在しないことにきずいたレクターは、やがて、クラリスへの感情が友情から恋愛に変わっていってしまったのだろうか。クラリスにあえて、黒い女らしいドレスを着せるなど、クラリスが女性になることを望んでいるように見える。 あくまでも友人であったはずのレクターに対して、クラリスはこれ以降恋愛感情をもつようになるのだろうか。 レクターは、世界中を一人で放浪した末に、彼の孤独を埋める存在としての同胞として、クラリスを求めたのか。だとすれば、この作品は前作の児童虐待とはまったく違うテーマを持っているはずだ。 自分という存在を理解しない世界への怒り。どれほど殺人をくりかえしても、レクターの殺人の行動原理を理解しない世界。身を尽くして働いても、FBI捜査員としてのクラリスの価値を認めないFBIという世界。 けれど、レクターの求めにクラリスは応じない。 前作のようなクラリスとレクターだけの心の通じた世界を感じない。 レクターはまったく別の伴侶を探すしかないのか。 原作ではクラリスに食べさせはずの脳みそを、旅客機の中で、まったく見ず知らずの少女にたべさせるレクター。クラリスではなく、別の恋人を探すために、レクターの孤独な旅は続くのだろうか。 レクターやクラリスの行動と心中を世界が理解しないように、「羊たちの沈黙」が訴えようとしたテーマも、観客たちは理解し得ない。映画製作者の孤独もまた同じなのだろうか。 それでも、次世代の観客たちがいつかは理解を示すかもしれない。 前作では、あくまでその深いテーマ性を描ききった作品であるが、今作「ハンニバル」においては、制作サイドは「得たいの知れない殺人モンスターとしてのレクター博士」という観客がのぞむレクター像を描き出して、集客することにポイントをおいた作品作りをしているように思える。観客が理解しやすいわかりやすい、そして、怖くて残虐なホラーとしての「ハンニバル」を作ろうとしたらしい。だから、「ハンニバル」において、レクター博士の殺人は、彼にたいして無礼な態度をとった相手を殺すという基本ラインを脱して、観客の望むような必要以上に残虐なモンスターレクター博士に変化しているようだ。 前作のテーマは意識しつつも、残虐すぎて、前作の持つ品格やテーマ性が抜け落ちてしまっているかもしれない。 こうなると、次の作品には期待出来ない。残念である。 しかし、名作イコール理解しづらい難解な映画。それゆえに、せっかく名作を作りながら、その作品の訴えようとするテーマがうまく観客につたわらない。作品の中にこめられたメッセージは遠まわしすぎればわかりにくい。けれど、ストレートにセリフにしてしまえば、白々しくて、説得力のある感動を観客に与えない。また、劇場公開ゆえにわからなかったところを何度も見なおして、作品を理解するという行為がしづらいという映画ゆえのジレンマを映画はどう克服していけばいいのだろうか。 名作であり、なおかつ観客にわかりやすく、そして、なお、テーマ性も娯楽性もかねた作品づくりは、映画においては、永遠の夢なのだろうか。 レクターやクラリスの行動と心中を世界が理解しないように、『羊たちの沈黙』が訴えようとしたテーマも、観客たちは理解し得ない。映画製作者の孤独もまた同じなのだろうか。 それでも、次世代の観客たちがいつかは理解を示すかもしれない。 頭部を切り開いて脳みそをたべるシーンはものすごく残虐で、えぐいけれど、私にはこれが、相手の脳みそを食べるイコール相手の考えていることを理解するという暗喩表現と思えなくもない。監督は作品にこめて自分のメッセージを自分の脳みそを観客に食べてほしいといっているのかもしれない。はたして、観客はどこまで理解してあげられるだろう。 レクターから少女が脳みそを食べたように、映画監督の脳みそを食べてくれる観客はあらわれるのだろうか。
2008年02月12日
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なぜアメリカにおいて、あれほどに連続殺人を犯す犯罪者が多くでるのだろうか。 ジョディー・フォスター、アンソニー・ホプキンスの名演によって話題となった作品だが、製作は1990年とかなり古く、このてのホラーサスペンスで残虐な話はあまり好きではないのでいままでみなかった。けれど、年初のテレビ番組『ローマ1000年史』で「ハンニバル」が誰なのか知って、同じ名前の登場人物のでるこの映画にも興味がわいて今回初めて見てみました。 ただの、ホラーサスペンスとはいえない奥深さは、かならずしも、二人の名優による演技だけではなく、物語自体のテーマの深さと、多重構造のストーリー構成ゆえだろうと思う。 皮膚をはがされた女性死体事件の犯人バッファロー・ビルを追って、FBI訓練生のクラリス・スターリングは、人肉を食らうことで精神病院に収監されているもと精神医ハンニバル・レクターと、対面する。 この映画において、「羊」はとても象徴的だ。 この物語において、犯人はなぜ、何人もの女性を殺したのだろう。それは、女性を殺すこと自体が目的なのではなくて、女性の皮、皮膚がほしかったからだ。犯人ジェームズは女性たちの死体から皮をはいでそれを縫い合わせた。彼はそれを「着る」ことで女性に成り代わろう、変身しようとしたのだ。 ではなぜ彼は女性になりたかったのだろう。 かつて彼は幼年期において母親からひどい虐待を受けていた。死ぬことこそなかったものの、この虐待によって彼は精神的な傷をおった。その傷ゆえに彼は彼自身によって彼自身の存在を否定した。彼は死ぬ代わりに、他の人間になることで自分の人生をやり直したい、自分ではない人間になりたいと考えた。けれど、病院で性転換手術を拒否された彼は、自分自身で女性の皮をつくり、それを着ることで女性になれると思ったのだろう。彼を虐待した母親そのものになることで、彼は彼の人生を乗り越えることが出来ると考えたのかもしれない。 クラリスは、早くに母を失い、たったひとりの肉親である警察官の父も、10歳で失う。警察官である父を愛し、尊敬していた彼女は、そのあと、馬と羊を飼う牧場に引き取られる。ところがある日、クラリスは、義父が羊を堵殺する場を見てしまう。面倒を見て日々を一緒にすごし、かわいがっていた羊たちが殺される場面は、彼女には相当ショックだったろう。もともと牧場に生まれて幼い頃からそこで暮らし、育っていれば、牧場で飼う、馬や羊が食用のものであり、やがては殺されて食肉として売られていくのは当然のことと知っているはずだ。けれど、10歳になってから突然牧場にやってきたクラリスにとってはじめてみた堵殺のシーンは相当の衝撃だっただろう。まして、警察官を父に持つ正義感の強いまだ子供のクラリスにとっては。商売道具としての羊をにがされたら、牧場主である義父は困るはずなのだが、そんなことよりも、目の前で殺されていく羊たちにたえられない。クラリスは羊を逃がそうとする。 けれど、ゲートを開け放たれて、逃げられるようにしてもらっても、羊たちは逃げようとしない。自分たちが殺されることもしらないし、生まれた時から餌をもらって育てられた場所以外に行くところを羊たちは知らない。いまいる場所が怖いところだということも知らない。自分たちを面倒みている牧場主がやがて自分たちを殺すことも知らない。 逃げようとしない羊たちにがまんできず、せめて一匹でもいいから助けたいと思ったクラリスは、一匹の子羊を抱いて逃走する。けれど、たかだか10歳の少女が走って逃げたとしても、逃げ切れるはずもなく、あえなく、つかまってしまう。 その後、羊を逃がすような子供を置いておけないと義父が考えたからなのか、クラリス自身がそこにいたくなかったからなのか、クラリスは他のところにうつっていったらしい。けれど、正義感の強い彼女にとって羊を助けることが出来なかったことは痛い後悔となってずっと心にのこることになったのだ。 人肉を食べるレクター博士にとって、彼の周りの普通の人間はただの食料なのだろうか。牧場にいる羊のようなものか。けれど、彼のまわりにいる人間たちは、自分たちが博士の目から見て羊に見えているなんて気がつかない。 彼は、飢えをしのぐために人肉を食べるのか。それは、肉体的な飢えなのか。それとも、精神的な飢えなのか。 人間が肉体的な飢えを満たすために食料を、肉を、羊をたべるように、殺人犯バッファロー・ビルもまた、精神的な飢えをみたすために、殺人をしたのだろうか。女性を殺し、その皮をはぎ、その皮で彼が女性になるための「服」をつくることで、彼の精神的な飢えをみたそうとしたのだろうか。 彼の目的は殺人ではなくて、女性の皮を集めることだった。殺人はその結果だ。 アメリカで当時多発した連続殺人がなぜ行われたのか。一人ひとり違うかもしれないけれど、この物語においては、児童虐待ゆえに精神的に病んでしまったことが原因だと語られている。 レクター博士が籠のような檻から脱走する時、彼が殺した警官の死体を檻のところに両手を伸ばして、吊り下げるようにしている。しかも、腹部の皮をはいで。影だけをみると、まるで羽のある天使にもにているが、十字架に貼り付けられたキリストにも似ている。 キリストは十字架にはりつける前の最後の晩餐で弟子たちに自分の血と肉を意味するものとして、ワインとパンを食することを薦めている。自分を食べることで、その心の飢えを満たすようにと。キリスト教において語られる「まよえる子羊」とは、人生に悩み、精神的な飢えに苦しむ人間を表している。キリストは語る。自分の肉を食して、精神的な飢えを満たせよと。自分の語ったたくさんの言葉と教えを糧として、心の飢えを満たせよと。 そしてまた、このシーンによって、バッファロービルが人の肉体によってその心の飢えを満たしていることを示唆しているともいえる。さらにまた、レクター博士は、警察官を殺し、その腹と顔の皮をはぎ、掲示し、自分の顔にかぶって見せることで、自分もまたバッファロービルと同じなんだと、同じように親に虐待を受け心に傷をおった存在なんだと示しているようにもみえる。 児童の虐待死によって問題定義された児童虐待は、さらに、生き残ったかつての虐待された子供が大人となって、その精神的な飢えを殺人によって満たすようになってしまっているのだろうか。これ以降アメリカのニュースで、児童虐待の話題は多くなったように思う。そして、最近では、非常にきびしい法規制も行われているようだ。 一方最近日本でも、虐待によって子供が死ぬ事件が増え始めている。それはやがてアメリカのように連続殺人へと変化していくのだろうか。 レクター博士はなぜクラリスに彼女の生い立ちをあれほど執拗に聞いたのだろうか。クラリスの語る彼女の幼少期の話によって、彼女が父親によってとても愛情をかけて育ててもらい、彼女が父親を敬愛していたことがわかる。警察官の父によって正義感の強い人間として育ったクラリスは、大人になった時、FBI捜査官という正義感の強い仕事を目指す。きちんと父親に育ててもらい、レクターに対しても礼儀正しく人として接するクラリスだからこそ、レクターは、捜査に強力する気になったのだろう。最初の対面から既にレクターはクラリスに対して友好的であり、友情に近いものを感じているようだ。それは、ラストシーンにおいても、脱獄後わざわざ彼女に「羊の悲鳴は聞こえなくなったか?」と、たずねてくるほど、彼女のことを気にかけているのだから。 そして、クラリスもまた、レクターの「外に出たい、水を見たい」という望みをきちんと聞き取って覚えていて、次の議員の子供の誘拐の事件の交渉の時に提案している。これは、うそではあるけれど、クラリスがきちんとレクターの気持ちを汲んで彼のいうことを聞き取っていなければ、出来ないことだ。クラリスは最後までレクターに対して、礼のある態度をとっているのだ。 クラリスは犯人をみつけて、議員の娘を助け出すことに成功した。一匹だけだけれど、羊を助けた。でも、羊が殺されないようにするには、飢えないようにするしかない。 レクターは、子供をさらわれた女性議員との会話の中で「自分の母乳で子供を育てたか」ときいている。これは決して、セクシャルハラスメントな意味でたずねたわけではない。お前はチャンと愛情をもって子供を育てたかと聞いているのだ。女性議員は母乳で愛情をもって育てたと答えた。だから、レクターは犯人をつかまえるためのヒントを答えているのだ。 わが子を誘拐された女性議員はテレビ放送で犯人に訴える。愛情をこめて育てた大切な子供であり、ものではなく、羊でもなく、あなたが今殺そうとしているのは、ちゃんとした人間なのですよと。そして、子供はちゃんと愛情を持って人として育てられたのだと。人として動物とは一線を画して人間として、人は人として遇されるべきなのだと。 物語の中盤で、クラリスが、遺体を発見した現場にクロフォード捜査官とともに行った時、そこに集まっていた男性警察官たちはクラリスに対して、女性として礼を失するような態度をとっている。クロフォード捜査官が相手に女性の前でそんな話はやめてほしいというくらい。そのあともクラリスは、一人警察官たちの中に残され、彼らに無言で「ココは女のお前なんかのくるところじゃないんだぞ」というような威圧感を受ける。その時、ふっと彼女は正義のために職務を全うして死んだ父を思い出す。そして、こんな屈辱になんか負けるものかと、思い、「ココから先の仕事は私がやりますから、どうぞもう、おかえりください。」と警察官たちに言う。女性を蔑視する男性たちに対しての訴えのシーンだ。 人が人を人として遇する。それは、相手が子供であれ、女性であれ、犯罪者であれ、自分より劣る誰かであろうとも。人として敬意を持って接するべきものだ。ものすごく当たり前なことだけれど、現実には、つい忘れられ、なかなかそうはならないことの方が多い。 レクターを移送する時に、ドクターチルトンは、レクター博士を厳重にしばり、まるで猿轡のような仮面まで付けている。そして、かなりひどい接し方をしていると思う。だからラストで、脱走したレクターが、ドクターチルトンに対して、復讐しようとするシーンで終っているのだ。彼は言う。「これから、夕食だ」と。 レクター博士は、凶悪な殺人犯という設定だけれど、人としてきちんとした生き方をしているクラリスや女性議員に対しては、彼はチャンとした対応をしている。普段の雰囲気もふつうだ。彼は本当は、頭のいい、知性と教養のある普通の人間なのかもしれない。だからこそ、弱みを見せられず、同性愛や女装にも逃げられず、そのプライドの高さゆえに、その苦悩は深いのかもしれない。 餌を与えられ面倒を見てもらっている羊たちは飼い主が自分たちを殺すなんて思いもしない。食事を与えられ、育てられている子供たちも、自分たちが親から虐待を受けていても、それが虐待とはなかなかわからない。 羊たちは、子供たちは、何も言わないけれど、何も感じていないわけではない。 声にならない声をクラリスだけは聴いている。 その声を誰もが聴き取れるようになった時、連続殺人はなくなるのかもしれない。
2008年02月05日
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ディカプリオが主演じゃあんまり期待できないけど、とりあえず話題作だしと、思ってみたんですけど。意外と面白かったです。監督の解説つきなので、それも見てたら、合計4時間もとられてしまってちょっと痛かったですけど。ディカプリオは役作りにかなりいろいろ頑張っていたようです。なかなかいい男っぷりでした。見直しました。 最近はアフリカを舞台にした映画が増えてきました。普段はほとんど接点のない、情報もあまりないアフリカ。でも、アフリカのいろんな国が、まだまだ国としてまとまらず、内戦にあえいでいる様子は、胸に迫るものがあります。日本の太平洋戦争をテーマにした映画だと、もう何度もいろんな映画で使われていて、しかも、その後の日本の繁栄をしっているので、いまひとつ説得力がないのですが、アフリカの内戦や戦争の映画は、まさに今現在のことで、しかもこの先どうなるかもわからない、登場してくる兵器や銃も今現在のものなので、迫力もあり、戦争や内戦の怖さがぐっと説得力を持っている気がします。 アフリカのシエラレオネ共和国で産出されるダイヤをめぐって、国際的に不正取りひきが行われている。その密輸ダイヤで得た金が兵器にかわり、内戦が続く。 その渦中に大粒のピンクダイヤが発掘され、そのダイヤをめぐって、密輸商人アーチャー(レオナルド・デカプリオ)、シエラレオネの猟師ソロモン(ジャイモン・フスー)、イギリスのジャーナリストのマディー(ジェニファー・コネリー)がアフリカ中を駆け巡っていく。 ピンクダイヤを手に入れて、アフリカを脱出し、落ち着いた生活を手に入れたいアーチャーと、そのお金で家族を救い出すために、アーチャーとともに隠したダイヤを探しにいくソロモン。そして、見つけたダイヤをふところにしまいこむアーチャー。 けれど、最後の脱出の手前で銃による傷で命を失うアーチャー。彼は、死の間際にダイヤをソロモンに手渡し、マディーに自分の死後のソロモンのことを頼む。 アフリカに生まれ、傭兵となり、その後は密輸ダイヤと兵器の売買をしていた、悪人のアーチャーが死の間際に善人にかわる。 人を殺してでも、手に入れたいダイヤ。巨万の富。それは、だれでも、生きていかなければ、ならないのだから、食べるために住む家を手に入れるために、生きていくために誰だってお金が必要なはずで。そんな欲望を否定することは出来ない。けれど、死を目の前にして、生きていくためのお金を必要としなくなった時、アーチャーはすっぱりと欲望から抜け出して、ソロモンにダイヤを渡す。そして、アフリカを出た後のソロモンのために、マディーに彼のことを頼みすらする。 どんな人間にも、善と悪の部分があって、一人の人間がすべて悪でありきることはありえない。 アーチャーもまた、最後の瞬間に彼の善の部分を見せて、死んでいく。 内戦に染まるアフリカもいつか、悪や戦争の洗礼から、抜け出すことが出来るんだろうか。今現在もアフリカのどこかで、内戦が続いているのだろうか。地球からいつか、戦争がひとつもなくなることがあるんだろうか。アフリカに内戦がおきるのは、営利目的でアフリカに武器や兵器を売りつける西欧諸国の企業のせいだ。アフリカを苦しめのは、西欧先進諸国だけれど、その不正を正そうとするのもまた、西欧諸国の人たちだ。人を傷つけるのは、人だけれど、人を救うのもまた、人だ。西欧諸国から、戦争の仕方を学び、私利私欲に走ることを学び、兵器を買って内戦をするのは、アフリカの人たち自身だけれど、西欧の正義や文化や思想を学び、内戦を終らせ、国を豊かで平和にすることのできるのもまた、アフリカの人たち自身なのだ。戦争のない自然の豊かで平和で美しいアフリカの大地に、いつか安心して私たちが訪れることが出来るようになる日が来ることを祈りたい。 イギリスにわたった、ソロモンと、ジャーナリストのマディーの努力によって、密輸ダイヤは、規制され始め、シエラレオネに平和は戻った。一人ひとりの勇気と努力がすこしづつ実を結んでいく。 同じ女の身であんな危険なアフリカの地に渡り、真実をもとめて命がけの仕事をするマディーがうらやましくて素敵だった。 次は、『ダーウィンの悪夢』でも、見ましょうか。 参考サイト「血のダイヤモンド」 ブラッド・ダイヤモンド@映画生活
2007年12月22日
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イギリスの最古の伝承勇者譚。前半は巨人グレンデルを倒す話。後半は金色のドラゴンを倒す話。というと、単純なんですが、いろいろと含みのある設定で、どう解釈するかによって、物語がずいぶん変わってきます。 原作はものすごく古くて、しかも、失われている部分も多く、作者不明。長い時間をかけて、転記を繰り返しているうちにすこしづつ物語が省略されたり、足されたりされていそうです。 それゆえに現代の小説のような登場人物の細かい設定がなかったわけで、それを映画製作の段階で、原案者、脚本家、監督らによって、付け加えられているわけです。 つまり、物語にでてくる怪物と、ベオウルフや、そのほかの王たちが実は、父と子であったのではないかということ。それはつまり、グレンデルや、飛竜が、アンジェリーナ・ジョリー演じるところの「モンスターの母」によって、生み出されてそして、その怪物の母は、英雄たちを誘惑して、子供である怪物を生み出している。 そこに、父と息子の葛藤が描かれている話なのではないかという解釈が一番それらしいようです。 父と息子の葛藤や、和解を描いた文学作品や小説、絵画などが数多くあることを思うとまあ、よくあるネタともいえます。 でも、私は女なので、どうして、父と息子が親子でありながら、お互いに反感をもったり、いがみ合ったりするのか、その心情は理屈ではわかっても、実感としては、わからないです。 けれど、勇者ベオウルフを誘惑する美しい美女が実は怪物を生み出す妖女であったり、その妖女の産む子供が巨人や竜で、父親であるベオウルフの住む世界を破壊しに来るというのは、男にとって、女や子供っていとしい存在というよりは、醜くて、じゃまで自分の人生を破壊する恐ろしく怖い存在なんだろうかと思わされる。 あるいは、正妃をもつベオウルフにとっては、浮気の相手であり、その子供、つまり私生児なわけで、一時の誘惑に負けて浮気したつけが後になって大きな付けとなって彼の人生を破壊しにくる怖い存在でもあるわけで、ベオウルフの私生児である竜がなんどもなんども、正妃と側室を襲うシーンがあって、こわいですねえ。男の人にとっては。 というように私には見えたわけですが。 さて、私もこの話を民俗学風に解釈してみました。 巨人のグレンデルは、ほとんど皮膚らしいものがないので、昔は、たぶん、皮膚の疾患をもった奇形の子供とその母親を村びとたちが気味悪がって村から追い出した。追い出された親子は仕方なく村はずれの洞窟に住んでいた。生まれた時に既に身体的な疾患があって、怪物のようにしか見えない子供だったのか、あるいは、生後の病気で(たとえば水疱瘡のような)、非常に醜い姿になったために、村から追い出されて、やむなく村の外の洞窟に住んでいた母子。その子が成長して、自分たちを追い出した村に仕返しにきたり、冬場で食べ物がなくて、村に盗みに来て、村人に攻撃されてしかたなくやり返していたり。その子供が体格がたまたまとてもよくて、大きかった。村びとのイメージの中で巨人化していたのかもしれません。 そこにたまたまやってきた旅の勇者が村びとたちの頼みをきいて、その母子を殺した。そしてそのままその村に村長として残ったのかもしれません。 その話が、伝承されていくうちに話が肥大化して、巨人というとになり、後世でいつのまにか、竜をやっつける英雄の話とつながって、(竜をやっつける騎士の話はイギリスにはよくありますからね)、同じベオウルフという人物による物語になってしまったのかもしれません。あるいは、巨人をやっつけたベオウルフと、竜をやっつけたベオウルフは親子なのかも。父と息子で同じ名前をつけるのは、外国にはよくあることだし。その村の村長は代々ベオウルフという名前なのかも。あるいは、その村の名前がベオウルフなのかも。この二つの話には50年もの時間差がある。巨人をやっつけたベオウルフが20歳として、50年たったら、70歳。いくらなんでも、あんなすごい竜を一人で倒せるとは思えません。あるいは、孫かも。 とすると、奇形児とその子を産んだ母親が村から追い出され、最後は殺されてしまうかわいそうな話がいつのまにか、英雄物語に摩り替わってしまったのでしょうか。 あるいはまた、男にとって息子というのは、自分の人生や存在を脅かす怖い存在なんだという物語と、私には思えます。だからこそ、正妃ウィール・ソーは最後までけっして、子供を産まないのかもしれません。それは、たまたま生まれないのか。それとも、彼女が意図的に産もうとしないのか。前王フロースガールの子供を作ろうという誘いを拒否する場面があります。もしかすると、ベオウルフとも、彼の正妃になった後も、実際には、子供を作りたくなくて、肉体関係を持たなかったのかもしれません。そうすることで逆に夫の愛を維持し続けたのかもしれません。物語の中で、正妃ウィールソーとベオウルフの愛人が仲がいいのは、だからかもしれません。そして、年をとったベオウルフがなおも愛しているのはお前だけだとウィール・ソーに告げるシーンがあるのです。 女は子供を産めば、夫より子供を優先させてしまいます。そして、子供が生まれた途端、自分のことをないがしろにし、自分の存在をあやうくする子供は、夫にとっていとしい存在というよりは、怖い存在なのかもしれません。だとしたら、子供が出来たと恋人に告げられた途端に嫌な顔をする男は、恋人を愛しているかどうかというよりも、男として当然の反応をしただけかもしれません。あるいは、子育てに無関心であったりする夫たちも、しごく当たり前の行動をとっているだけかもしれません。 だとしたら、妻たちは、夫に子供をかわいがってもらうには、夫に優しくしたり、夫を立てたりするしかないのかもしれません。それはまさに昔の女たちがやけにうやうやしく夫たちを、男たちを立てていたその封建社会が実は、男たちが子殺しをしないようにして社会維持し、繁栄させるためのひじょうに巧妙に仕組まれ伝承され続けた社会のシステムだったのかもしれません。なにしろ封建社会になる前の戦国時代には下克上という、親子が殺しあうのが日常的に行われていた社会であったことを思えば納得できるかもしれません。妻たちは、夫がいかに子供の存在を恐れているものか、理解してもいいかもしれないと、そう、考えさせられた映画でした。 さらにまた、醜いグレンデルは、出来の悪い息子、後半に出てくる美しい金色の飛竜は出来のいい優秀な息子。こんな優秀な息子が成長したら、確かに父親としては、自分の人生や社会的地位を脅かす怖い存在であることは間違いないかも。そして、不出来で、村を破壊するグレンデルを息子とはいえ殺さなければならないフロースガールは、自分の子供を手にかけるのが忍びなくて、グレンデルを殺してくれる勇者を募集します。そして、ベオウルフがグレンデルを倒そうとする晩にフロースガールは息子が殺されるのを見るに忍びないからゆえに、先に寝てしまうのです。さらに、ベオウルフの息子はグレンデルとは対照的に優秀な息子であったようです。 そしてまた、この息子である竜が塔の上の正妃と側室を何度も何度も攻撃するシーンがあります。物語にでてくる黄金のホーンは、実は男の生殖能力を象徴しているのかもしれません。このホーンを「怪物の母」がもっていることで、ベオウルフは、子供を作ることが出来ません。それゆえに、ホーンがベオウルフの手元に戻った途端に、彼のただ一人の息子である竜は、自分以外にベオウルフの子供が出来ることで自分の立場が危うくなることをおそれ、塔にいる正妃と側室を殺しにきます。 父と子の葛藤。男と女の駆け引き。どんなに醜くても子供を愛する母の愛。そして、兄弟間の葛藤までがえがかれた、人間世界、家族関係の内的闘争を描いた物語ともいえるのではないでしょうか。ベオウルフは息子の存在を恐れて殺してしまいましたが、本当は竜なんかではなくて、金色に輝く美しい優秀な息子であり、彼の作った王国を彼の死後も引き継いでくれるすばらしい存在であったはずなのに。真っ暗な洞窟を照らす光輝く金色のホーン。子供を作り育てるということは、決して自分の存在を脅かすものではなく、見ることの出来ない暗闇のような未来を照らし、彼を救い、助けるものなのだということを男たちは理解すべきなのではないのでしょうか。 久しぶりにみた3D映画。人物が、実写なのか、CGなのか、微妙に混ざっているのか。なにか、プレステのゲームをやっているような感じがしました。少し変なんだけれど、その変さがグレンデルや、竜が出て来たときに、逆に違和感なく混ざりこんでいくので、微妙な映像効果になっていたような感じがしました。 ただ、レディースデーでも、2000円という、スペシャル価格なのです。 でもけっこう面白かった。竜が好きなので、竜さえ出てくればなんでもいいし。 ベオウルフ/呪われし勇者@映画生活
2007年12月20日
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ファンタジーは好きです。だから、ファンタジー映画はなるべくもれずに見たい。というわけではるばる銀座のシネカノンまで見に行った。しかも、シネカノンは、上向いてますね。知らない間になんと劇場が増えていた。いままで、有楽町のビックカメラの上にあったシネカノンがいつのまにか、シネカノン有楽町一丁目にになっていて、最近新しく出来た銀座イトシアにシネカノン有楽町二丁目という新しい劇場が出来ていた。すごい。 シネカノンは、いまどきのシネコンとは一線をかくして、ちょっとそこいらでは観ることのできないような、くせのある名作を上映しています。 だから、期待していったんだけど。ちょっとなあ。 ダークファンタジーなんだそうで、見ていて目を覆いたくなるような残酷なシーンも出てきますし。話はチョー暗いし。 1940年代のスペイン。内戦のさなか。軍とゲリラの闘争を背景に、大尉と再婚した母につれられて、ゲリラ戦の激しいとある山中に引っ越してくるヒロインオフェーリア。そこには、パンズラビリンスという不思議な遺跡があった。 そしてこの大尉。継父となるはずなのなのだが、この大尉がものすごく残酷な男。当然オフェーリアは、なつかない。 ファンタジーを通しての、スペインの内戦をテーマにした話なのか、内戦を背景にしたファンタジーメインの話なのか。と、一瞬戸惑う。けれど、この大尉の残虐さはあきらかに、性格異常としか思えない。捕まえたゲリラの顔面になんどもナイフを差したり、妊娠した妻が危なくなってきたら、妻が死んでもいいから、子供の方を助けるように医師に言う大尉。彼は妻を愛しているわけではなくて、自分の分身としての息子がほしいだけなのだ。だから、義理の娘となったオフェーリアにも当然冷たい。というより、まったく、関心すらない。 内戦のさなかという状況で相手がゲリラだから、大尉がどんな残酷なことをしても、非難されないけれど、平和な時代であれば、明らかに、性格異常か、変質者。今の日本でも、同居する子連れの妻(女、恋人)の自分とは血のつながらない子供を義理の父親(男、あるいは恋人)が殺してしまう事件が最近何件かあるけれど。まさに同じことだと思う。 この母親はなぜこんなひどい男と結婚したのか。こんな男の子供を妊娠したのか。かなーり不思議である。ヒロインの母親なのに、存在感がない。 内戦の悲惨を語っている映画ではないと思う。見ていて悲惨なのは、あくまでこの大尉の残虐な行動の部分であって、内戦ゲリラ戦自体ではないのだ。ただ、この継父が、戦争という状況の中で大尉という役職ゆえにその悪行が問われないだ。もっともそれゆえにまた、大尉はラストにゲリラによって殺される。平和な時代には、法によってさばかれるから、場合によって納得のいかない甘い判決である場合もあるけれど、内戦の最中ゆえにゲリラによって殺されうるのだ。 そして、その悲惨な日々の中で、オフェーリアは、パーンに出会う。かつて地下にある妖精の王国の王女であった彼女が、ふたたびオフェーリアとして、肉体を持って生まれ変わったのである。らしい。彼女がもう一度父王のまつ地下王国に戻るための案内人なのが、このパーンなのだ。パーンは、オフェーリアが地下王国に戻るためにいくつかの課題を出す役割なのだ。 このパーンのデザインと作りがなかなかうまい。こういうクリーチャーが不出来だと途端にファンタジーとしての物語は地に落ちるほどに白々しくなるものだから。 それから、大尉と重なる存在としてのモンスターの作りもなかなかすごい。かなり怖い。 多くの客を招いて、大きなテーブルいっぱいのご馳走を振舞う大尉が座っていたホスト席に、オフェーリアが使命を果たすために行く幻想世界のモンスターもまた、テーブルいっぱいのご馳走とともに、座っている。このモンスターが大尉をあらわしているのは明らかだ。 これは、ファンタジーであるけれど、オフェーリアがみているパーンや、妖精やモンスターが、ほんとうにある世界なのか、彼女の幻想世界でしかないのか。ちょっとわかりにくい。物語のラストで、オフェーリアと一緒にいるはずのパーンは大尉には見えないのだ。 物語のラストは、ファンタジーとしては、よくあるパターンの結末で、ちょっと物足りない。結局こんな終わり方だったのかとがっかりした。いろんな雑誌などでは、すばらしいファンタジーだと絶賛されているのだけれど、私にはどうも、そうは見えなかった。 大尉を必要以上に残虐な人間にすることで物語の悲壮感を際立たせただけで、オフェーリアにとって悲惨なのはその部分だ。結局お産のあと、母親は死んでしまうし、山荘から逃げ出そうとしたオフェーリアはつかまってしまう。そして、最後には大尉に撃たれて死んでしまう。(駄作なのでネタバレします。というか、最初でわかるんだけど。)そのことで彼女は地下王国に戻れるけれど、はたしてこれは、ハッピーエンドなのか。アンハッピーエンドなのか。 悲惨な現実からの逃避の場としての幻想世界を描いてあるだけで、ダークファンタジーとして各雑誌の映画レビューなどで褒め称えるほどのいい作品とは、私には思えなかった。 ただ、平和な社会なら、あきらかに性格異常の犯罪者として断罪されるような人間が、社会的に評価され出世してしまうというところに、戦争や内戦の怖さがあるのだなとも思えた。 パンズ・ラビリンス@映画生活
2007年10月19日
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はぁ~~~~~~~~~~~。 ハリーポッター第5作。観てきました。うーん。でも見終わった後の「おもしろかったぁ」がないのよね。だって、今回の話ではハリーポッターは、おきてる時も、寝てる時もずーっと、いじめられてたり、苦しそうにしていたり。つらそうな場面やたら、多くて。かわいそうすぎるんだもの。休み中にすごすおじさんの家でのいじめと差別は、いつものことだけど、そのあとも、ボグワーツを退学にされそうになったりとか、ハリーが夜寝ている時にもなにやら苦しそうにうなされてるし。しかも、何度も。 魔法界全体にとっての恐怖の対象である、そして、ハリーポッターの宿敵であるボルデモートを最期に一対一で、ハリーが倒すのが、たぶん誰もが想像してるラストだとすると、そのためには、ただの子供が成長しただけのハリーじゃなくて、ほんとにほんとに人間としても、魔法使いとしても、並じゃない成長をして、すごい魔法使いにならないといけないんだろうから、たぶんこの5話目はそのためのハリーの成長の物語になるわけで。つまりは、主人公ハリーは、そうとう苦しまないといけないんだろうとは、思うんだけど。そのために一話まるまる使われていて、みているこちらも、一話分、映画一本分ハリーの苦しい戦いに付き合わなくちゃいけないのは、わかっていても、やっぱり、しんどい。 現代のロンドン、テームズ河、を魔法の箒でビュンビュンすっ飛ばして飛んでいく豪快なシーンとか、みんなに魔法を教えてるハリーとか、ダンブルドア校長と、ボルデモートの魔法合戦なんかは、すっごくみごたえがあって、良かったんだけど。でも、観終わってみると、ちょっとつらいシーンの多いハリポタでした。 きのうテレビで再放送していた、『ハリーポッターと秘密の部屋』にでてくるハリーがまだぜんぜん子供で幼くて、かわいくて、このころのハリポタは、なんだかんだ言っても、ほのぼのしてたなーと感じました。ところで、ハーマイオニー役のエマ・ワトソンが次回からは役を降りるらしいのだけれど、お願いだから、続けてほしいよお~~~~~~。彼女以外にハーマイオニー役は考えられないのに。それから、今回初登場の白い髪の女の子(金髪らしい)ルーナ・ラブグッドが、いかにもいまどきの女の子らしくて、すごくめだって、よかった。でも、ハリーがなんで、ハーマイオニーじゃなくて、アジア系の女の子と恋仲になるのかわからない。 ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団@映画生活
2007年07月26日
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エンドロールが終るまで席を立ってはいけません。 と、チケットを買ったときくれたパンフに書いてあったのに、みんな帰っていく~。ばか! トレジャーハントをやる前に見るべきでした。ゲームのクイズに出てくる数々の謎のきっかけがでてくるわ、でてくるわ。 かにとか、海と空が逆だった理由も、文字を真ん中できってあるのをあわせるのだということも、真っ白な氷原が実は砂漠だったり、そこに石があったり、灯篭もでてきたし、そして、世界の果ての滝を落ちてジャックを探しにいくシーンもちゃんとありました。ドラゴンの刺青もでてきたし、シンガポールも南氷洋も、南極も、滝の下の世界の果ての世界も、みーんなでてきました。映画の中に。ゲームのクイズのいろいろなものが、実は映画のエピソードから作られていたことがとってもよくわかった。見てから、ゲームをしたほうがよかったのか。見ていても、やっぱりわかんなかったのか。 うーん。 でも、なるほど、そうだったのかというきっかけがおもしろかった。 娯楽作品なので、歴史的名事実なんかとは、微妙に違うなあという部分もあるんだけど、まっいいか。 だって、映画の中で敵役の英国海軍て、実は海賊そのものなんだけどね。歴史的には。 エリザベス役のキーラ・ナイトレイがすごくきれい。貴族のお姫様だけど、おとなしく家にいられる性格じゃないみたい。エリザベスは、ジャック・スパロウに惹かれたわけじゃなくて、彼の破天荒な性格と海賊って部分にほれたんだと思う。だから、ウィル(オーランドブルーム)がラストでとうとう最強の海賊になった時、美男子のやさ男だったウィルはまさに、彼女の理想の男になった。十年に一度しかあえないはずのウィルに対して、エリザベスはまったくそのことに落ち込んでるような悲壮感がない。というよりも、すごくしあわせそうだった。最初はただの美男子だったウィルがシリーズ三作の間にだんだんたくましい、いい男になっていった。ラストシーンのウィルはすっごくかっこよかった。 それしても、私。なぜこのシリーズを見るといつも、寝てしまうのでしょう。ただでさえ、複雑なストーリーなのに、なぜか、途中で寝てしまう。おもしろいお話だとおもうのに、なぜだろう。すごくよく出来た娯楽大作なのになあ。
2007年06月03日
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悪い人間なんていない。ただ、愚かなだけだ。息子の結婚式に行きたいために、ベビーシッターとしてあずかっている白人の子供を国境越えしてメキシコまで連れ出してしまい、砂漠のような原野で子供たちを見失ってしまうメキシコ女性も、処女でいることが重くて、見知らぬ男性にまでセックスを迫る日本の女子高生の女の子も、やがて殺人未遂の道具に使われてしまうことも知らずに単純なる好意で無自覚にモロッコ人ガイドに猟銃をあげてしまう日本人の男も、気持ちを通じ合えずにいるアメリカ人夫婦も、ちょっとした遊びのつもりで撃った銃の弾をバスに乗っていた女性に当ててしまったモロッコの少年も、まだ子供のわが子に銃を使わせてしまったモロッコの父親も、誰一人悪意で行動している人間はいない。人を傷付ける気なんかなかったし、ただ、どうしようもない自分の気持ちのままにあるいは、なんとなく欲望のままに行動しただけ。物語に登場する人たちはみんな、思慮がなかっただけ。愚かだっただけだ。 その愚かさゆえに神の怒りを買い、バベルの塔は破壊され、人々は世界中に散らばった。ばらばらになった言葉も、ばらばらになった心もいまだにつなぐことができない。 神様。 私たちはまだ、あの頃と変わらず愚かなままです。だから、人と人の言葉は通じず、心は通じず、それゆえにちょっとしたアクシデント一つで国同士さえ、争いになりそうな、そんな危なげなままに、世界はまだ、人間はまだ、一つになることが出来ずにいます。 それはまだまだ、人が愚かなままだから。 けれど、せめて、その愚かさを自覚して、少しでもましな行いが出来るよう、あるいは人を信じて愛せるようになりたいだけ。ちょっと気をつけてみてみれば、すぐそばに自分をわかって愛してくれている人がいるのに。 そんなことにもきずかないほど、人はまだ愚かです。 チエコは、母親を目の前で失い、自己のアイデンティテイを否定されたまま、言葉も通じず、音も聞こえない。人とかかわりをもつための当たり前の手段も持たない。そんな十代の少女にとって、いつまでも処女でいることの重さは、そのまま、自分自身を認めてもらえないこととイコールなのだろうか。本当はそんなことはない。ロストバーシンを急いでも、だめなのに。セックスを経験しても、それで大人になれるわけでも、それで、自分が周りから認められるようになるわけでもない。言葉の壁ゆえに若い男の子からは、気持ち悪がられ、手話の使える男の子ともやはり接点を持つことも出来ない。大人の男の人だって、突然相手にしてくれるはずなんかないのに。女の子の体さえあれば、男がみんなほしがるわけじゃない。もっと自分を大切にしないとだめだよと警察官の男性は上着をかけてくれた。体も心も裸のままの彼女をそのままっすぐ愛してくれるのは、チエコの一番に近くにいた、彼女の父親。セックスなんかしなくても、ただ、てをつなぐだけで、相手にきずくだけで、愛してくれる人はこんなに近くにいたのに。 大切な子供たちを他人任せにして、こんな遠いモロッコという異国で自分たちは何をしていたのだろう。同国のアメリカ人の乗ったバスは彼らを見捨てて、走り去ってしまった。けれど、モロッコの村の人は彼らのために手を尽くしてくれたし、みかえりなんかもとめなかった。そして、夫という、妻という、一番身近にちゃんと愛している人がいたのに。その心が見えなかったのはなぜだろう。 この物語の中で一番悪いのってもしかして、安易にモロッコ人に気軽に銃なんかくれちゃう日本人かな。簡単に男の前で裸になっちゃう日本の女子高生とかさ。なんか、日本人としては、日本人が一番悪者で、一番軽いって感じに描かれてる気がして、いまいち不快な気もしないでもなかった。でも、アメリカ人を撃った銃の入手先が日本人なのが、国際紛争にならない一番の国ってのが日本なのは、なんとも微妙だ。日本という国の国際社会における微妙なポジションをうかがい知る感じだ。 警察に撃たれた、モロッコの少年は助かったのだろうか。あんなところで銃に撃たれても、ちゃんとヘリで救助してもらえるのが、アメリカの女性だった。アメリカの国力ってすごいなあと思う。 国ごとの国力の違いが人の命にも影響するんだろうか。 それにしても、日本の女の子がみんな、あんな風に軽いと思われそうで、心配である。いま、日本の女子高生が「えんこう」なんかで、有名だとしても、日本の女の子がみんな、あんなに過激なわけじゃないと思う。そのあたりがちょっとなあ。 マスコミのあおりがやたら目立った映画だったけど、映画のとしての出来がどのくらいいいのか、私にはわかりませんでした。ただ、日本のおまわりさんが一番優しかった。 バベル@映画生活
2007年05月05日
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映画賞総ナメ究極の愛の物語だそうですが。 一昔前は身分違いの恋が社会的に認められないゆえに実らない恋の物語のテーマとしてずいぶん使われたものですが、もういまさらなテーマになってきて、最近はあんまり見ない。 で、この物語は同性愛がテーマのようで、つまり社会的に大手を振ってできない恋。だからドラマになるんじゃないかと思うのですが。 西洋で、同性愛が認められるようになったのはつい最近のことなので、いまでこそこうやって映画化もできて、かわいそうだねっていう風に見ることもできるけどね。 でも、キリスト教社会ではずーっと同性愛は社会的に禁止だったので。バックグラウンドにキリスト教があるからなんだと思うんだけど、本当に内緒の内緒の恋だったみたい。うっかりばれると社会的にすごい制裁を受けちゃうからね。社会的な抹殺だけじゃなくて命自体危なかったらしい。 でも、日本の場合だと結構許容されていたんじゃないかと思います。仏教が禁止してたのはあくまで女色だから、お坊さんたちって結構お稚児さん遊びとかしてたでしょ。武士の世界だって当たり前のように小姓とかいたでしょ。江戸時代までは社会的に許容されていたような気がします。同性愛に対しての目が厳しくなったのって案外明治以降西洋の文明が入ってきてからなのかもしれないと思うのです。 一昔前は少女マンガでも、少年愛とか流行ってたしね。ずいぶん読んだなー。 オスカー・ワイルドとかも同性愛者として有名だし。 で、あらすじは知っちゃってたし、あんまり感動もしませんでしたが。 本当に好きな人がいても、他の人と結婚するというのは、まま、あることだけど、その後、浮気を続けるのってどうなんでしょう。しかも、男同士だから、友達だって言ってしまえば、浮気には見えないという。それって随分じゃないか。 二人とも同性愛者じゃないはずなのに、好きになってしまったということのようですが、ジャックの方はどう見ても同性愛者だなと思います。実際に男娼を買うシーンがあるし、わざとやたら男っぽいロデオをやっているように見えます。ラリーン(アン・ハサウェイ)との関係も一方的に彼女の方から迫ってるし、彼女は基本的に男性的な性格をしているようだし。だから、ジャックと夫婦でいられたんでしょう。それにしても、アン・ハサウェイは花がありますね。でてきたシーンで、パアッと目立つんだもの。 イニスはかなり男性的な性格してますね。本当に男性なんだけど、本当に本音でジャックに惚れてるようだった。 人を好きになるのに、同姓だろうと異性だろうと関係ないとは思うんだけど、いつも見てて不思議なのは、同性愛の人たちがどうして、男役と女役に分かれるんだろうということ。こういうのを見ていると、やはり恋愛の基本形は男女で成り立つからなんじゃないかと思う。男女で愛し合う方が生物学的にも自然だし。それでも、果実に出来のいいものと不出来なものがあるように、必ずものには、数パーセントの確立で、定形外が出来るものなんだと思うけど。 もっとも最近はそれ以前の段階でまったく結婚することもなく、一生結婚しそびれて独身で終わる人たちが多くて、少子化はますます加速されちゃうし。 出来ればみんながちゃんと一生のうちにいい伴侶に出会えるといいね。 しかし、結婚したダンナが実はゲイだったなんて絶対勘弁してほしい。イニスの奥さんが一番かわいそうだった気がする。だって自分の夫が男性の友人とキスしてるのを見ちゃうんだもの。そのあとも旅行だといって浮気旅行されちゃうし。 この映画が感動を呼ぶのは、長い間同性愛に対して社会的規制が厳しかったキリスト教社会だからこそ何じゃないかと思うんだけど。日本の場合はちょっと…。 私にとってはいまさらな、なんだかなとそんな感想で終わってしまいました。うーん。 それにしてもこのアリアリのタイトルは勘弁してほしいなあと思うし、劇場ではまず見たくない映画でもあります。 そして、社会的に同性愛が許容されてきたおかげでゲイの男性の偽装結婚の相手にされる女性が減るだけでもずっといいと思います。 かつての西洋で同性愛者がいかに過酷な運命をたどったかは、藤原正彦の『天才の栄光と挫折』の中に、一人,同性愛者の数学者のことが書かれてます。なかなか面白い。当時は絶対ばれちゃいけなかったようですね。そういうバックグラウンドがわからないとただの悲恋にしかみえないかもしれない。 この映画が描いているのは、究極の愛の切なさというよりは、人間のためにあるはずの社会のルールというものが逆に人を不幸にしていく過程なのかもしれない。愛し合っていても、周りに公言することも結婚することも一緒に暮らすことも普段会うこともままならない二人の他にも、彼らの妻たちのように、本当は他に本気で好きな相手がいるにもかかわらず、社会的偽装のために結婚相手に選ばれてしまう不幸。相手が女でないために浮気だと明言できずにいる苦悩。夫が女とではなく、男と浮気しているという事実と苦痛はどれほどのものなのだろうか。 社会を秩序をもって構成するための規律が逆にその構成員たる人々を苦しめていく不思議さ。 男性同士の結婚までが許されるようになった今だからこそ、この映画が訴えうるものがあるのだろう。 身分違いの恋の映画を見ながら、みんなが平等で誰とでも恋人になって結婚することが出来るような自由な社会になったことを再認識したように、この映画を見ながら、同性愛が今現在かなり社会的に許容されるようになってきた現実を再認識する。そして、そんな風に一人ひとりが自分の心を殺さずに、自分の心に忠実に生きていきやすい社会にもっともっとしていけるようにするにはどうすればいいだろうと考えさせる映画なんだろうと思う。 でも同性愛の社会的許容はまだまだなのが現実らしいですね。 ブロークバック・マウンテン@映画生活
2007年03月25日
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母親の愛情って、やっぱり大きいのかなあ。ないとだめなのかなあ。子供たちにとって私の存在ってそんなに意味あるのかな。私がいなくなっても何とかなると思ってたけど、やっぱだメかなあ。考えてしまった。でもまあここまで育てたことだし。後は大ジョブ大ジョブ。 見終わって思い出したのは、映画『アレキサンダー』だった。彼は世界の果てまで征服したのに、自分が求めているものが何なのか、最後までわからなかったのだ。自分の中の喪失感に最後まできずかなかった。そのために世界の果てまで征服の戦いの旅をし続けたのだ。アレキサンダーが本当に求めたものは世界征服後の大帝国を手に入れることではなかったのではないだろうかと、ちょっと考えてしまった。 実の母親に愛されていないことにずっと悩み続ける主人公を描いたのが下村湖人の書いた『次郎物語』だった。少なくともこの物語の主人公次郎は自分が求めているものが何なのかわかっていた分、ましだったのかもしれない。三人兄弟の真ん中に生まれた彼は、生まれてすぐ乳母に預けられて育つ。成長して生家にもどった彼はすでにもう母親に甘えるすべを持たず、けれど自分に冷たい母との関係も修復できずに、ずっとその心の影を引きずっている。物語のラストで彼は母に愛されない自分という認識から、実は他の多くの人たちから自分が愛されていたことに気づくのだけれど。 けれどアレキサンダーは実母から愛されないことの、その自分の中の喪失感に終生気づくことはなかった。 そしてこの物語の主人公ジャンバティストもまた、類まれなる才能をフルに使い、その生涯において全霊をかけて追い求めていたものに、物語のラストシーンで始めて気づかされる。そんな物語だった。 彼の四人の兄たちは死産で、母親によってその死体をセーヌに投げ捨てられ、彼もまた、魚市場の魚だらけの汚い地べたに生み落とされ、兄たちと同じ運命をたどるはずだった。もしジャンバティストが普通に生まれ、普通に母親に愛されて育っていれば天才調香師として、幸福な人生を送っていたのではないだろうか。もちろんその場合、この物語で作られたような至高の香水は出来ないだろうけれど。 けれど彼は母親に愛されることも抱きしめられることもなく成長し、自分が追い求めるものが何なのかわからないままに、その才能を駆使し手に入れようとし始める。 香水というのは、つけた後、その人の体臭や体温と混ざり合って独特のにおいを作り出す。だから同じ香水をつけても、人によってその香りは違ってくるらしい。 だったらいっそ、調香の段階で最初から人の体臭も入れてしまうってのはどう? ということになったのが、この作品における香水作りなわけだけれど。 作中で次々と人を殺すジャンバティストを見ていると、およそ罪悪感を感じている様子がない。彼の生い立ちを考えてみればごもっともな話である。彼は幼少期から一度も人に抱きしめられたことも愛されたことも優しいいたわりの言葉をかけられたこともなく、ましてや殺人を戒めるような道徳や倫理の教育を受けたことすらない。わが子を産み捨てる母親なんかが当たり前にいるようなこの時代に、はたして殺人やそれ以外の悪徳を戒める道徳が底辺の市民たちの中に存在したかどうかしごく疑問である。 だとすれば殺人者としての彼を責めて極悪人としてなじり、その罪を罰することが出来るものなのかどうか。 美しい赤毛の美女たちの放つ芳香に酔いしれる主人公に、みている観客のこちら側は彼が求め作ろうとしているのが、女性の持つ性的なフェロモンの香りなのだろうとつい思い込んでしまうのだけれど、究極の香りを手に入れたはずの彼はそれを使って世界征服をすることもなく、せっかくの世界最高峰の香水をわが身にふりかけて、その生涯を終えてしまう。 観客にすればなぜ?というところだろう。 ジャンバティストは彼の生まれついた魚市場にもどり、魚市場にすまう人々によってその体は飛散する。彼は母親の子宮に戻っていったのかもしれない。彼が求めていたのは母親の愛であり、母親のぬくもりであり、母親独特の体臭だったのではないだろうか。 ここにいたって初めて、彼が香水ビンの中に閉じ込めようとしていたのが、世界最高の香りではなく、彼の母親の体臭だったことにきずく。 生まれついた時ほんの一瞬だけ嗅いだ母親のにおい。普通の子供ならそのあと母に抱かれ存分にそのにおいをかぎ、心を満たされるはずのもの。そして、普通の人間なら記憶にも意識にも残らないはずのその母のにおいを、たぐいまれなる嗅覚をもつジャンバティストは、うみおとされるそのホンの一瞬に記憶したのだ。けれどこの時彼はまだ赤子で、それが何なのかはわからないまま。けれど、狂おしいほどに欲しいもの。 自分の中の喪失感にきずかないまま彼は成長する。そしてある日彼は街中で、母親の体臭にそっくりな体臭をもつ女性に遭遇する。かつて彼が本能として求めかなわなかった母のぬくもりにそっくりなにおいをもつ女。自分が手に入れることのできなかったあのにおいを永遠に手に入れたい。 彼の放浪と迷いと罪悪の旅のはじまりだったのだ。 そして、その果てに完成した究極の香水。まるで媚薬のように人々を酔わせ、人肌のぬくもりを求めずにはいられず、その香りを持つものにひれ伏さずにはいられない香り。 アレキサンダーが剣によって世界を手に入れようとしたように、世界を手に入れることの出来る香水という最強の武器をを手に入れたはずの彼は、世界を手に入れるほどの力を得た時初めて、自分が求めていたのが世界ではなく、自分が必死に求めていたものの正体が、母親に愛されていない喪失感だったことにきずく。 母親に抱きしめられて初めて得ることの出来る自分の体臭。だから彼には体臭がない。 しかし、彼が人間であり哺乳類である限り、化学的にそんなはずなんかない。だとすれば彼の体臭がなかったわけじゃなく、彼が求める母の体臭を彼は彼の中に見つけられなかっただけかもしれない。母親に愛されることのなかった人間のその存在感のなさと心の不安。 母親に愛されるということが人間の存在の核となるもので、それを持たないのであればたとえ世界を手に入れても、人は充足することはできないのだろうか。 そして彼は母親のにおいを他の女たちの中に求めていく。その方法としての動物の脂を使った方法は不思議ではありませんか。いくら優れた方法とはいえ、彼ほどの嗅覚を持っているとしたら、動物の脂のにおいが女性のにおいのエキスの中に入り込んでいることにきずくはず。誰がきずかなくても、彼だけはその動物のにおいにきずくはず。普通ならそれは醜悪で邪魔なにおいのはずじゃないのか。 けれど、動物のもつ哺乳類のにおいと、母親の人間として、つまり哺乳類としてのにおいとが重なり合い、そこに女性のにおいが混ざった時、彼の求めるにおいは完成しえたのかもしれない。 「香り」と「におい」という日本語の二つの言葉には、よい香りとくさいにおいという二つの意味合いに分かれて使い分けされているものだけれど、『パフューム』という言葉には、香りという意味とにおいという意味との両方を持ち合わせていて、原作の翻訳の段階では「香水」と訳されていたけれど、今回の映画ではそのまま『パフューム』と表記されていたのには、そんな物語の含みの表現があるのかもしれない。 作中で彼が香水『愛と精霊(プシュケー)』を批判するシーンには、けばけばしい飾りではない人肌のぬくもりとにおいの持つ素朴な美しさへの礼賛と、愛を否定する彼の心理が微妙に暗喩されており、香水の物語と思い込んでいた物語が実はよい香りとくさいにおいに良い悪いの区別のないジャンバティストの、彼にとっての究極の香り(におい)を求めての遍歴の物語であったのだとわかる。 以上は私個人の解釈なので、実はあんまり自信ありません。全然ちがうだろと言われてもしょうがないですが、ま、思いついたので書きました。 それでも香水の描写と物語の微細な展開と構成は見事な物語でした。拍手!追記を書き足しました。読んでね。 パフューム ~ある人殺しの物語~@映画生活外国映画、洋画
2007年03月08日
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ひとくくりにする恐怖。 昨日この映画の感想を書きながら、いまひとつ記事の結論がゆるくて、結論が出きらないままアップしてしまったのだけれど、そのあとつれづれに考えてみると、この話は要するに「ひとくくりにすること」に問題があるのか、と思い到った。 フツ族はツチ族にかつて支配された。その時のいろいろな屈辱が、恨みとなって、とうとう仕返しの行動に出たのが、1994年の大量虐殺事件だったわけだけれど、でも実際に殺された人たちが直接フツ族の人たちをいじめたわけではない。フツ族の人たちを実際に苦しめたのは、その支配当時、ツチ族の上層部が指揮を執っていた人間や、過去の人たちなのだ。 それが全て、ツチ族としてひとくくりにされ、ツチ族の人間はみんな憎い。ということになってしまう怖さ。 つまりは『全体責任』ってやつでしょうか。 昔よく学校で悪いことをすると、クラス全員の責任にされて、怒られましたけどね。注意したり、とめなかったんだからってことですけどね。でも、この場合そんな理由で全体責任にされて殺されても困ります。だって、その時まだ生まれてなかった人たちまで殺されてるんだもの。 みんなツチ族だとしても、フツ族をいじめたツチ族の人間と今殺されるツチ族の人間は違う。みんなツチ族だとしても、その中の一人ひとりは全然別の人間なのだ。 積年の恨みがあるのはわかる。でも、その怒りを向ける対象は違う。そのことにフツ族の人たちは気づくべきなのだ。 集団があったとしても、それを全てひとくくりにしてはいけない。一人ひとりはみんな違う。だから、「見分けがつかない。みんな同じルワンダ人じゃないか。」というのが、「みんな同じツチ族じゃないか。だから殺せ。」になっちゃう怖さ。「同じツチ族だけど、一人ひとりちがうんだ。だから殺していいはずないんだ。」 というのがこの映画のテーマの一つなんじゃないかと思いました。だからこれを内乱といえるのかどうかとか、周りはどうすれば一番いいのだろうかと、考える必要があるなと思います。また、こんな事件がアフリカやそのほかの国で起こった時、先進諸国や、日本はどんな対応をすべきなのでしょう。そして、もうこんなことの起きないように、今どうすればいいのでしょう。考えるしかないですよね。以上、昨日書きそびれたんでした。
2007年03月04日
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私、平和ボケしてます。 今まで見てきたのはほとんどが戦争映画だった。ハードな戦闘シーンも多かった。でもそんなものよりもっと怖いのは、やっぱりごく普通の市民が女や子供や老人までもが、死の恐怖と隣り合わせになる怖さなんですね。 1994年、アフリカのルワンダにおける、ツチ族とフツ族との民族間抗争が激化し、大量虐殺が行われた。これは内乱だから、国連軍や諸外国は手を出すことが出来ない。今目の前で大量殺戮が行われていても、国連軍は殺される側を助けることも出来ず、手をこまねいて見ていなければならない。 一つの国がまとまるためには内乱や民族間抗争はある意味必要悪であって、そういった抗争を潜り抜けなければ、国は一つの国家としてまとまることは出来ないのではないか。そうは思ってみても、それは所詮俯瞰、神の視点であって、いざ自分がその渦中でいつ殺されるかわからないとしたら、そんなものは理想論であり、空論であり、そんなことはどうでもいいから誰か助けてほしいと思うはずだ。そして、いざ自分がその中で国連軍だとしたら、助けてといわれて手をこまねいてみていることもまたつらい。 かつてソマリアで軍事介入したアメリカ軍が、逆に現地の人々に虐殺された過去などもあり、内政干渉はできない。 しかし、かつての先進国の内戦の場合は、周りの国々も助けるほどの余裕もなかったし、敵対する部族を皆殺しにしようとまではしなかったはずである。しかし、ルワンダにおける民族間抗争は敵対する部族を全て根絶やしにして、ルワンダを一部族だけの国にしようとした。そして、周りの諸外国もまた、過去とは違っていろいろなフォローが出来るだけの経済的、軍事的余裕をもっているのも事実なのだ。 だとしたら、殺される人々を助け出す手段もあるはずだ。それでも手をこまねいてただ見ていることが、本当にいいことなのだろうか。国は内乱を潜り抜けなければ一つの国家として統一できないものなのだろうか。そして、いったい、民族間抗争の起きる原因は本当に過去のうらみつらみの蓄積だけなのだろうか。 一つの部屋で20人の子供が遊んでいる。10人は赤い服を着ている。残りの10人は青い服を着ている。そこに10人分のお菓子が渡される。10人分のお菓子を20等分してみんなで仲良く食べるのが理想なのだが、ここで赤い服の子供が、青い服のやつらに食べさせる必要なんかない。といって、赤い服の子供だけでお菓子を分けようとしたら。赤い服の子供と青い服の子供はけんかを始めてしまった。服の色が違うだけでみんな同じ子供なのだが。 さて、お菓子を与えた側は、黙ってみているか。みんなで分けて食べるように言うのか。あるいは喧嘩をとめるのか。一番いいのは、最初から20人分のお菓子を与えること。そうすれば喧嘩になんかならない。でも、お菓子は十人分しかない。どうすればいいのだろう。みんなで後10人分のお菓子を探しに行く。手に入れるために努力する。 20人で20人分のお菓子があればおなかは満腹。みんな満足して平和だ。 さて、人間同士の差異はあるのだろうか。ないのだろうか。劇中で、白人がツチ族とフツ族の女性の顔を見比べて、『同じに見える。どこが違うんだ』という。この言葉には、「みんな同じルワンダ人なんだから、くだらない争いはやめて仲良くしよう」というメッセージに感じられる。しかし、本当にそうだろうか。 確かに日本人の私の目から見ても同じに見えた。何でほとんど同じなのに、争うのだろう。 しかし、物語の最後で、主人公の妻タチアナが行方不明の兄夫婦を探し、その途中に難民キャンプでやっと姪っ子を探し当てる。たくさんいる子供たちの中から、タチアナはやっと姪っ子を見つけ出して、喜び連れ去る。でもねえ。私には全部ほとんど同じ顔にしか見えなくてね。彼らは写真を多くの人に見せながら探すんだけど、ほんとに私には見分けつかないんだよね。でも、彼らが探し出して、面倒を見ようとしているのは、自分たちの姪であって、他の子じゃいけないらしい。当たり前だけど。でも私の目から見ると、同じなの。 もし、私の子供も含めて全部子供を集めて、そのあと、貴方は二人だねって言われて、誰か知らない子供二人渡されて、子供二人なんだから、同じでしょって言われても困ると思う。私が愛して一生懸命育てているのは、あくまで自分の子供たちなんだから。よその子を渡されて、子供なんだから同じでしょって言われてもねえ。 中国人も韓国人も日本人も、西洋人の目から見れば同じらしい。だから、「別々の国になってないで、一緒に一つの国になって仲良くすれば」って言われても、やっぱり困ると思う。 だって、日本は日本であって、韓国とも中国とも違うんだもの。 だから、ツチ族とフツ族はやっぱりきっちり違うんだよね。彼らにしてみれば。それなのに、同じに見えるから仲良くすればといわれてもそんなに簡単なものじゃないですけど。 喧嘩したクラスメートを担任の先生がいさめるのに似ている。同じクラスの仲間なんだから、喧嘩しないで仲良くしろよって言われても、そんな上から、喧嘩の理由も、喧嘩の実情も、当事者たちの感情のもつれも無視して、強制的に仲良くしろなんていわれても、そんな簡単に納得できない。フツ族とツチ族を見分けるポイントは、鼻の広さなんだそうだ。主人公のポールはフツ族なので鼻が広い。他の役者さんに比べても特にすごく広い。映画を見ている間ひたすらこの鼻ばかり見ていたような気がする。そして、妻のタチアナはツチ族なので鼻が細い。黒人とは思えないほどきれいな鼻で、わたしはやはり映画を見ている間中彼女の鼻ばかり見ていた。きれいなんだもの。これだけ明らかに鼻の違う二人の役者が使われている背景に監督の作為がないはずがない。二つの種族はそれぞれに全く違うんだよと。そして、それでも直、愛し合っている二人なのであることも。 外側からは同じに見えても、やっぱり人間は一人ひとり違う。その違いがあってそれぞれに違いがあって、その違いをお互いに認めるところから始まる。それこそが相互理解ってもので、そういうものがあって初めて人間同士は仲良くなれるのだろう。でもすごく難しい。だから、途中で喧嘩したり、反省したり、そんな試行錯誤があるんだけどね。その試行錯誤の過程をすっきりそぎ落としていきなり仲良くなんてなれない。でも喧嘩はしても相手を殺しちゃいけないんだけどさ。殺しちっゃたら相互理解も出来ないものね。 赤い服の子供は赤が好きで赤い服を着ている。青い服の子供は青が好きで青い服を着ている。だからみんな同じ子供じゃなくて、それぞれに好みや趣味嗜好の違いと個性がある。 仲良く分け合うのもいいけど、20人分のお菓子を手に入れるためにみんなで協力して探しに行こう。あるいは作り出そう。そのためにどうすればいいか話し合おう。 衣食たりて礼節を知る。でしょうか。 10人分のお菓子しか用意できなかったなら、喧嘩を止めて、残りのお菓子を手に入れる手伝いやアドバイスこそが必要なんじゃないのか。 しかし、喧嘩を止めるのも命がけである。その命がけをやった男たちがいたんだな。戦争をとめることは出来ないし、全ての人間を助けることもでない。それでも、せめて、自分とかかわった人間、自分の能力で助けだせる人間をたった一人でもいいから、救い出すことが出来るなら。 目の前のかわいそうに目をつぶらない。 日本の杉原ちうねも、シンドラーも、そして、この物語の主人公、ポールも。自分の持つ特権や能力や財力や使える限りの全てのものを駆使して、自分の能力の範囲で助けられる人々を救った物語なのだ。 千人の人が一人づつでも助けることが出来れば、一人が助けられるのが一人でも、全体では、千人が助かる。はず。それこそが神の視点ってもんだと思う。そして、ポールが助けたのは、1200人。これは実話なんです。作中で彼は言う。「品格がわれわれを助けるのだ。」ホテルミルコリンズの四ツ星ホテルとしての、品格。そして、ポールの人としての品格。なんだろうと思う。そしてさらに、ルワンダというホテルもまた国民が気持ちよくすごせる品格を持ってほしいと。追記を書き足しました。こっちも読んでね。 ホテル・ルワンダ@映画生活外国映画、洋画
2007年03月03日
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楽天の自分のブログサイトのブックスランキングを何気なーく見ていたら、一位が『不都合な真実』だった。「なんだあこれ?」と思ってクリックしてみるとなにやら分厚い本なのです。 そのまま印象に残ったこのタイトルをその後いくつかのブログで見かけた。どうやら今話題らしい。そして、映画も作られているらしい。六本木では、500円で見られるイベントまで企画されていて、「よし、見に行こう」と予定を組んだ。でも、土曜になってみたら、ネット販売はすでに完売。こうなると、劇場に行っても当日券も買えないかも。というわけで、このお安い企画はあきらめて、もっとよく調べたら、我が家からもっと気楽にいける市川コルトンの映画館でも見られる。長男を誘ったら珍しく「行く」という返事。受験の小論文対策にもなるかもというせこい計算もありまして。というか、受験をするくらいの年齢ならこの手のことに興味を持つのは当然でもありますもの。 アメリカの元副大統領アル・ゴアさんがアメリカやそのほかの国々を回って、各地で地球温暖化の実情と危機とその改善を訴えたスライド講演をしたものを、映画にしてある。生の講演を見られるともっといいけど、それはなかなか大変だし、映画にしてあることでもっと楽に見られる。内容的には変わらないわけだしね。字幕つくし。残るし。 「すでにわかっているようなことばかりで今さらだ」という意見もあったけれど、内容としては写真も多く、ゴアさんのトークもうまく、かなりわかりやすい。極普通の一般の人たちにわかりやすく語ってあることは大切なことだ。 地球温暖化防止のためには地球上のすべての人がひとつづつ対策していくこと。数の勝負である部分が多いのだから、より多くの人が彼の訴えを聞き、温暖化の現状を理解していけることは大切なことだ。 そういう意味で多くの写真やグラフ、表などをみやすくわかりやすく見せてくれてあり、また、私たちも知らなかったこともあったので見ただけのことはあった。 かつて私が小学生の時たまたま読んだ学習雑誌にのっていたのが、やはり温暖化の記事だった。 氷を浮かせた水が満杯のコップ。この水に浮いている氷が解けてもコップから水があふれてこぼれることはない。だから、水の上に氷が浮いている状態の北極の氷が解けても大丈夫だけれど、南極の場合は大陸の上の氷なのでこれが解けるのは怖いんだ、といったようなことが書いてあって「ふーん。」と思いながら見ていたものだ。 温暖化問題はそのくらい前から科学者の間では話題で、小学生向けの雑誌にすら書いてあったのに、社会的に問題視されて話題になるようになってきたのはごく最近のことだ。本当にあったかくなってきてはじめて実感するもののようですね。普通の人たちは。 ところで、今日の映画を見てみると、北極の氷は冷却効果の仕事をこなしているわけなので、実際には北極の氷が解けることもやっぱり危ないのだそうです。これはなかなかサプライズだった。 北極南極以外にも各地の氷河の氷も解けていて、その写真も数多く見せてくれた。 危ないぞ、地球。 自宅に火災保険はかけられるけど、地球に災害保険はかけられないものね。建て直しも出来ないし。 今の科学技術を駆使し、政治的にも社会的にもみんなで協力して対策していけば必ず解決されるはずだから、みんながんばろうねということで。 ただね。なんか選挙活動的な映画にも見えそうで怖いなあと思った。途中でゴアとブッシュの選挙戦のシーンも出てきたし、ブッシュに負けて悔しそうなゴアも出てきたし、地球のために次の選挙には私に入れてねって雰囲気を感じたかも。もし次の選挙でヒラリーとゴアがでたら、ゴアに入れちゃいそうです。って私に選挙権ないけどさあ。 ちなみに、一緒に見てた息子。面白かったそうです。久しぶりの映画。でもって、小論文の書き方の参考にもなったそうです。自分の体験を小論文に入れていいかどうか悩んでいたのですが、実体験の入れ方の感覚がわかったみたい。小論文を書く上で書き方とか、まとめ方とか内容とかいろいろ参考になったようです。 面白かったし、ためになるし、地球のためにもぜひ見てくださいね。 あ、パンフレット買うのわすれたわ~。 公式サイト映画の感想 不都合な真実@映画生活
2007年02月11日
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原作は日本だけど、邦画じゃないし、舞台は中国だけど中国映画じゃないし、洋画でもないし、香港や韓国のスターや監督もいて、エーこれってつまりなんて言えばいんでしょう。ずばり、無国籍映画?無国籍料理って食べてみると、日本食と中華と韓国と東南アジアなんかの要するに全部混ざったような料理だったりしませんか。 アンディ・ラウ かっこいいあんまり海外のスターって知らんかったのですけどね。なにやらすごい大スターらしい。 でも、原作の革離はちびでデブではげなんだよ。ってつまり3Kですねえ。 もう今回は先に原作読んじゃったから、なあ。映画は見てから原作読んだ方が新鮮でいいですね。ストーリー知っちゃってると、サプライズがないんだもの。あーあの部分はこんな風に作ったんだなあと。ただ、ほぼわかってるぶん、セリフのひとつひとつの意味自体はわかりやすいですね。 で、それでいうと、うーん、墨子集団の非攻の思想が役者のセリフでちらっちらっと出てくるだけなので、知らない人たちが見てると聞きおとしたり、あまり理解できなかったり、しちゃって墨子集団の攻防戦というよりただの守城戦にしか見えないで終わっちゃうかなあと。 攻防の技術の一つ一つの策が墨子教団が考えたものなので、革離だけの頭脳じゃないんだよね。それに、その策が原作とは結構変えてあるんですよね。それでもそれはそれで十分楽しめたし、小説や漫画では表現し得なかった中国独自の城の景色や兵隊そのほかの登場人物の衣装なんかがすごく中国らしくてリアルでそういう部分が見られたのは良かったですね。建物の重厚な感じとか。中国らしい装飾とか。どうしても日本の漫画では表現仕切れなかった部分なので。それを本場の中国で撮影してあって中国語で話されていて、もうその部分に関してはかなり楽しい。リアルさがちがうものね。 原作にはなかった女戦士(ファン・ビンビン)がかわいいのです。美人です。 原作では梁城の王子梁適が自分の寵姫を革離に殺された恨みで革離を射殺すのですが、その部分のエピソードをうまくつくりかえてありました。自分の立場を危ぶんだ梁王によってせっかく城を守ってくれた革離を追い出しちゃったりする。そして、革離は人を愛することが理解できないという部分を、実際に革離が愛した女性が死んでしまうことで表現していました。 なんといっても革離が若い!原作では百戦練磨の達人なんだけど、映画では守城は初めてというぺーぺーの設定なんですね。それでも、墨子教団で習ってきた守城法を駆使して、みごと梁のお城を守って見せますが、原作の細かく計算された数々の戦法が描ききれていないのが惜しいですよね。だって攻坊戦なのに、城の中の人たちは食事を贅沢なままにしてるんだもの。それに原作では半年以上かかってるものを一ヶ月に、二万しかいない兵隊が十万というように設定変更されちゃってるぶんかえってつまんないんですよー。 それでこの新人という若い革離という設定によって、原作にはなかった敵の兵隊の死にショックをうける革離というシーンを描き出すことで戦いによる死に敵も味方もないという表現を可能にしてあるし、そのことに戸惑う革離という原作にはない描写があるんだけど、それが新鮮でもあるんだけど、でもそのせいで原作のもつ独特の面白さがありきたりの道徳観的テーマになりかわっちゃったなという惜しさも感じざるを得ないという微妙な部分です。 そのせいで原作にある戦場の非情さと、その極限での展開によるテーマの表現が鈍っちゃうのですよ。 初めて恋を知って、恋人の死によって愛の大切さを知る革離は原作とは違う描写によっているんだけど、ま、死ぬ直前に知るよりはずっといいけどさ。 ただ、この映画だけだとたぶん墨家ってなに?って感じだと思う。 作中に「大国小国といっぱいあるからもめるんだから、大国によって一つにまとまってしまえば戦争もなくなるんじゃないか」というセリフが出てきて、それに対して革離が「いやそれは違う。それぞれがちゃんと充実してその上で平和である方がいいんだ」って会話があるけど、どのくらいの人がこのセリフに気づくかなっとちょっと疑問でした。こんな風に何気なく一回だけの会話だとちっょとこの重要な部分が果たして観客に伝わりきるかどうか。大切な部分なんですよー。だって原作では革離と墨子教団トップとで交わされる会話なんだもの。そして、その後の墨家のあり方自体にすごく影響する考え方なんだもの。 こういう大切な部分は何度も何度も言わないとお客さんの意識に残らないので、何度も何度も作中で言ってほしいなーと思うのよね。テーマはしつこいくらいじゃないとだめだよ。 で、一つの国がまとまる上で内乱て言うのはある意味必要悪かもと私も思うわけですが、じゃあ今現在の世界情勢を考えた時、「アメリカによって世界のすべての国が制圧されて、世界中の国が一つの国になってアメリカによって政治経済が支配されたら、平和になっていいんじゃないか」と言われたら、それはちょっとやだなっと思ったんですね。 やっぱり日本は日本のまま日本の国として日本人で政治も経済もやっていきたいと思う。その上で世界のそれぞれの国がきちんと自分たちの国を治めて、他国を侵略なんかしないで、その上で世界全体で平和にお互いを尊重しあって暮らしていく方がいいと思うから。 だからやっぱり春秋戦国時代のこの時だって、それぞれの国はその存在をきちんと認められてそれぞれに平和に暮らした方が良かったはず。革離がいうのもそれだと思うんだけど、実際にはこのあと秦によって中国は統一されます。その王様があの有名な始皇帝なんですよ。 で、この秦の成立以降墨家集団は消えてしまうのだそうです。それは抹殺されたからなのか。それとも裏で秦をあやつった墨家がそのまま秦の中に入り込んで浸透してしまったからなのか。秦自体はその後十数年で終わってしまうのだけれど、それ以降中国という国は周りの国々を侵略したり制圧したりすることもなく、アジアの中心でその主軸国として長くその歴史を刻んでいるわけで、ヨーロッパが海外進出して植民地とか作ったりして外向きの政治経済体制を取っていたのと対照的に外にでるとい方向性ではなく、自国を守りその場にデーんとあり続けていたその中国という国の姿勢は実は中国という国の底辺に沈殿してしまった墨家の思想が中国の中に無自覚にあり続けた結果なんじゃないのかと思うわけです。 えーと例外としてモンゴルのジンギス・ハーンに制圧されて侵略戦争を繰り広げた時代がありましたけど、これはモンゴルのやったことだし、もしこのときまで墨家の守城技術が維持され続けていたら、中国はジンギス・ハーンに支配されることなく、守り通せたかもしれないんじゃないかとか、想像できますね。そのあとのアヘン戦争なんかでも、イギリスにいいようにされちゃって。墨家の非攻の思想だけが残って、防衛のテクニックが消滅してしまったのはもしかしてすごく惜しいことなのかも。それでも、結局中国は中国としてなくなることなく、存在しつづけているわけですから、やっぱりすごい国ですね。 墨家はなくなっちっゃたけど、中国という国に非攻の思想だけは根付かせられたんじゃないかとも思います。 というところまで映画だけ見ててもわからないけど、でもとにかく墨子って人がいたことと、墨家っていう集団があったことも、非攻っていう思想がすでにこの当時あったってこととかわかってもらえるだけでもかなーり意義はあるんじゃないかと思う。 映画としては結構面白かったから、みなさん見に行ってくださいね。久しぶりにパンレット買っちっゃた!原作の小説の感想はこちら 戦争映画墨攻@映画生活
2007年02月09日
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たんなるファッション映画と思ってたんだけど、評判がいいので見たくなってしまいました。 結果、なかなかよかった。意外に見ごたえありました。ただ、ストーリー自体は特に新しさはないかなあというか、やっぱりこういう終わり方になっちゃうのかあというかんじだったでしょうか。 でも、そういうありきたりなストーリーでありながら、見せるし、面白い。製作者側に力量があるんでしょうね。 アン・ハサウェイがすごくかわいくて、きれいで。彼女の素敵なところを見せるための映画かなあ。目はでかいし、口はでかいし、細いし、スタイルいいしね。 ジャーナリストを目指すヒロインがそのための手段として人気ファッション雑誌『ランナウェイ』の編集長のアシスタントになる。彼女自身はファッションなんてものにはたいして興味がないから、ださいファッションで出社する。 そういう彼女に対しての編集長ミランダのセリフがすごいよかった。うならされた。 「『私はファッションなんてそんなものには興味ないわ』ということを表現するために着ているその安物の青いセーターのその色は、まさに私たちが企画して流行らせたものなのよ。」というセリフ。実はもっと長くて、そのブルーが流行った経緯をもっと詳しく説明していて、さすがファッションリーダーだなあと思わせられるんだけど、この言葉によってアンディは変わっていくわけですね。 ファッションセンスがサイテーであるにもかかわらず、アンディが採用された理由に、 「今まで雇ってきた子はファッションセンスはよかったけど、みんな頭が悪くて使いものにならなかった。あなたはファッションはひどかったけど、自己紹介のスピーチといい、頭の良さを感じさせた。だから、採用したのよ。」 というわけで、アンディはだんだん変わっていきます。そして、ミランダに認められていく。 ファッションなんて、あとからでも、磨けるのだから、まず勉強すること。頭脳を磨くことが大切ってことでしょうか。 アンディは最初はダサかったけど、それまでに鍛えた優秀な頭脳で、あっという間に仕事を覚えて、鬼編集長ミランダにも一目置かれるようになります。ファッションセンスもやがてちゃんと身に着けてしまいます。 そののち、同僚や仲間を切り捨ててでも、出世すること、自分の仕事を守ることを優先させるミランダに嫌気が差して仕事をやめてしまいます。 美を生み出す仕事。そのすばらしさに開眼したはずのアンディ。でも、美を作り出しながら、その過程でそのために自分自身が見えなくなっていき、醜くなっていることにも気づかなくなっていくとしたら、怖い。家族や友人を傷つけてまで、仕事にとらわれてしまうことが果たしていいことなのか。美を作る仕事は人を幸せにするためにしているはずなのに、いつのまにか、そのために自分が醜く、汚くなっていくことに気づいた時に、アンディは仕事をやめてしまいます。美しいプラダを着ていながら、その中身が悪魔のように醜くなってしまっているミランダを見るにいたって、彼女は自分もまた、ミランダのように、家族や友人を切り捨て、幸せになるための仕事が自分を知らない間に不幸に追い込んでいることに気がつくわけです。 仕事って本気でやればすごく大変だし、なにかの犠牲を伴ってしまうことは十分ありえる。でも、それをみんなが認めてしまったら、どんどんみんなが不幸になっていってしまう。気がついて、方向修正しなければいけない。人は幸せになるために、いろんな仕事をしている。人のために。自分のために。 そのあとアンディは念願の新聞社に採用されます。 ランナウェイで働いていた時の服はみーんなかつての同僚にあげてしまいます。 でも、きっとそのあと、新聞社で働いてベテランになったころに、アンディはやっぱりブランドのかっこいいファッションを、かっこいいスーツを、着こなしているはず。 ただ、今度は会社から与えられたものではなく、本当に自分の目で見て、自分で選んだ、本当にいいものをさらっと上手に着こなしているはず。 そして、仕事のために家族や友人が二の次になることに嫌気がさした、アンディだけど、ジャーナリストの世界だって、それは同じはず。本気で仕事をしていけば、家族や夫とのすれ違いはかならずあるはず。 その時彼女は今度は本気で悩まなきゃならないはず。そして、今度は本当に逃げ出せないはず。その時彼女がどんな結論を出すのか。 まあ、つまりこの映画は、これから社会に出て働く女性たちに向けたメッセージというところでしょうか。 ファッションばかりに夢中にならずにきちんと勉強すること。無茶な命令をだしてくる上司がいるのはどこも同じなこと。使えない新入社員にいきなり取引先からの仕事をさせられないのだから、上司は、まず、自分の私的な用事をやらせてみて、使えるかどうか試してるんだから、私用に使われているなんて思わずに与えられた仕事はきちんとやった方が、早く認めてもらって出世できること。与えられた仕事はどんなものでも、一生懸命やること。社会にでるならその場にあった服装をするべきであること。どんな仕事でも自分の仕事なら、その仕事をきちんと理解して愛情をもって接すべきであること。仕事が忙しくなっていった時、無我夢中で自分の大切なもの、恋人、友人、家族を失ってしまわないよう気をつけなければいけないこと。自分を守ろうとして、知らないうちに自分の周りの人たちをきづつけて人間として醜くなっていくことにならないように気をつけること。自分が本当にやりたい仕事を目指すこと。一番大切なものが何なのかを忘れないようにすること。 私が社会に出た時、こういうことぜんぶわかってなくて、散々でした。馬鹿だったなあとつくづく思う。当時このことがわかっていれば、もっといい人生があったかもと、相変わらず無茶なことを考えています。でも、今だから、わかるんだけどねえ。 ところで、会社の携帯を噴水に捨てちゃいけないと思うよ。それと、やめるときはいきなりじゃなくて、いつやめるかきちんと会社に通告して、次の人にきちんと引継ぎしなくてはいけません。【ネコポス発送可】エプロン/かわいいエプロン/大人用/Jessie Steele/ジェシースティール/大人用ジョセフィーヌ/花柄エプロン/楽ギフ_のし/楽ギフ_包装/結婚祝/誕生日/母の日/新生活/入学祝い/クリスマス/保育士エプロン/セレブ愛用価格:2,750円(税込、送料別)外国映画、洋画 プラダを着た悪魔@映画生活
2006年12月13日
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念願の映画。やっと見れました。 主要な登場人物4人 主人公 エヴァンその恋人 ケイリーケイリーの弟 トミー友達 レニー注 トミーはDVDでは、兄と訳されているけど、どう見ても弟に見えたのは私だけでしょうか。 一匹の蝶が羽ばたいた結果、地球の裏側で竜巻が起きる きみを救うため、ぼくは何度でも過去に戻る それは、神にも許されない行為 映画『サウンド・オブ・サンダー』では、過去の蝶を靴の裏で踏んづけてくっつけてしまったまま、現在に戻ってきてしまったために、現在が変わっていくという物語でした。なるほど。『バタフライ・エフェクト』というタイトルはここから来てるのか。と、思ったんですけど、それとも、蝶によってタイムパラドックスを説明した話があるから、『サウンド・オブ・サンダー』で、タイムパラドックスのきっかけのものを蝶にしてあったのか。わかりません。どっちがさき? というわけで、時間を跳ぶこの話はSFなのか? と言うとそうでもなくて、不幸になった恋人を救いたくて、何度もタイムリープにトライする主人公の話。なので、ラブストーリーかなあと思う宣伝文句なんだけど、実はその裏に現代アメリカの若者と子供たちに向けたお説教に近いお話。だから、話を無理なく設定し、引っ張っていくために主人公がこだわる理由にぞっこんの恋人のためのタイムリープという設定はぎりぎりというところでしょうか。 そして、やっぱりアメリカ映画なので、説教話としては、道徳や倫理を説く上で、やはりキリスト教は欠かせない。だよな、やっぱり。 だから、物語の中で、前半メインキャラクターたちが見ている映画が『セブン』であったりする。これはつまり、七つの大罪と七つの美徳を暗示しているわけらしいです。 他にも、主人公エヴァンが刑務所で同室の男の協力を得るために、彼を説得するため、過去に一瞬だけ跳んで両手に聖痕をつくるシーンがでてくる。 つまりここで彼はキリストとなったということか。同室のやたら信仰心の高そうな男はじゃあ、洗礼者ヨハネを意味してでもいるのでしょうか。悪夢のようにいじめられまくりの監獄の中で、彼だけはエヴァンに優しい。 物語は、自分の過去にだけ跳ぶ事のできる主人公エヴァンが、恋人ケイリーを救うために何度も過去に跳んで、現在を塗り替えていくものだ。 4人のメインキャラは、そのたびにいろいろな人生を与えられる。娼婦、犯罪者、障害者、がん患者、精神障がい者、身体障がい者などなど。 見ていると、結構ハードです。 さらに子供時代の彼らは、13歳のくせに、タバコは吸ってるし、よその家のポストに爆弾を入れてるし、犬は焼き殺すし、友達は殺すし、ひどいです。 とにかく現代アメリカの若者や子供ってこうなのか?ひどいなあ。アメリカってこれが当たり前なのかなあと思ってみてると、それがね。だんだんね。変わってくるの。 最初は、エヴァンだけが、大学生で、過去のことを思い出して、ケイリーに会いに行く。ケイリーは安い場末の店でウェイトレスをしている。エヴァンに悲惨な過去のことを聞かれて、自殺してしまう。エヴァンは、なんとかケイリーを幸せにしたくて、タイムリープをはじめる。 一度目のリープで、エヴァンとともにケイリーも大学生となっていて、美しいケイリーは幸せそうだ。ところが、そのために刑務所にはいってしまったケイリーの兄のトミーと、出くわして、彼を殺してしまったエヴァンは、今度は自分が刑務所にはいってしまう。 過酷な刑務所から脱出しようと二度目のタイムリープ。 以降タイムリープのたびにだんだん彼らの運命は悲惨になっていくように見える。しかし、順を追ってみていくと、実は四人の未来は少しづつよくなっている。最初大学生はエヴァン一人だった。けれど、パターン2では、エヴァンとケイリーの二人が大学生。パターン4では、四人とも大学生。そして、パターン6では、全員大学生で、しかも、エヴァンは医者。ケイリーはキャリアウーマンになっている。 パターン1 エヴァン 州立大学の大学生 ケイリー ウェイトレスそして自殺 レニー ひきこもり トミー 少年院そして工場の工員 パターン2 エヴァンと、ケイリー エリート大学生 トミー 少年院 パターン3 エヴァン 大学生 ケイリー 娼婦 トミー レニーに殺され死亡 レニー 廃人状態 パターン4 エヴァン 爆発のショックで手と足を失い障害者 ケイリーとレニー 大学生、恋人同士 トミー 信心深い大学生 エヴァンの母 肺がん患者 パターン5 ケイリー 死亡 エヴァン 病院にいる パターン6 全員大学生、卒業、 そして8年後 エヴァン 医者 ケイリー キャリアウーマン 物語としては、二人は結局結ばれない。悲しい悲恋の物語ではあるのだか、しかし、四人の人生はタイムリープを重ねるにつれて、じょじょによくなっているのである。 タバコをすったり、爆薬をしかけたり、そんなことしてると、将来はろくなことないよ。それより、きちんと正しい行いをしていけば、いい未来が待ってるんだよという、キリスト教をバックにした、説教というか、現代の若者に対しての実は訓話の物語なのである。 前半で彼らがみている映画『セブン』は物語の重要な複線となっている。エヴァンがタイムリープを繰り替えして作られる未来も7パターン存在する。と思うのですが、私は6つにしか分けられなかった。DVDニに入っているアナザーエンディングをいれれば、7つのパターンになるんじゃないかと思います。けどね。これは、七つの大罪におき変えられるのかも知れない。さらに最初の方でエヴァンが父の埋葬の帰りに車窓から見える墓場の中に、十字の墓のひとつがわずかに光る。エヴァンの手に作られる聖痕は、エヴァンをキリストと見立てている。神にしか許されない行為をキリストであるエヴァンは繰り返す。 キリストが人類の罪を背負って十字架に架かったように、エヴァンもまた、タイムリープのたびに他の三人が受けていた不幸をその身に引き受けてしまうようになっていくとも取れる。 細かいキリスト教の教えを知らないのだけど、もしかしたら、もっと他にもいろいろあるかも知れない。 ラスト、二人は結ばれない。彼は己の欲望を捨てることではじめて、ケイリーを救うことができる。 結ばれることができなくても、彼女の人生がしあわせなものであるのなら。 ラストシーンで二人がビジネス街の中ですれ違う。七歳の時に会ったっきりなのだから、ケイリーの方はエヴァンのことをもちろんわからない。けれど、エヴァンは、もちろん気がつく。最後の人生では、七歳で別れたきりだけれど、エヴァンの方はケイリーを忘れていない。忘れられるはずもない。 神様が、決して結ばれない、結ばれてはならない恋人に、最後に一度だけ、エヴァンをケイリーに、あわせてくれたのではないのかなと、ちょっと想像してみた。 やっぱり神様にはかなわない。 純潔をあらわすケイリーの真っ白なスーツ姿がなんともいえず、美しい。 まるで、花嫁衣裳のようで。 映画ビデオ、映画DVDバタフライ・エフェクト@映画生活
2006年12月08日
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感動しちゃった。ネタバレしつつ書きますが。 母は強しデスね。 飛行機の内部構造をこんなに見事に見せてくれた映画って初めて。フードサービスの一部にあんなエレベーターがあるなんて予想だにしていませんでした。本当にあんなところにあんなものがあるのでしょうか。それとも映画のための丁稚上げなのだろうか。本当だとしたら、すごいですが、あんなにいろいろな飛行機の中の内部事情を公開しちゃっていいのでしょうか。これから飛行機に乗る人がまねしちゃったりしないのですか。心配であります。だって、トイレの上にも天井裏に抜けられるドアがあるなんて。 もっとも、アクション映画によくででくる、普通のビルに設置されたエレベーターの天井部分の脱出ドアだって、本当はないそうだから。やはりあれはあくまで架空の構造なのでしょうか。誰か教えてほしいよ。 ただ、あの構造が本当だとしたら、すごいなっと思いつつ、手に汗握ってみてました。だって、天井裏やら、貨物室やら機械室やらあっちからこっちまで行くのに、いくらでかい巨大旅客機とはいえ、閉鎖された限界のある密室空間の中を駆け巡りまくりの映画ですからね。 それにしても、子供のいない人とか、まだ若い人だと、ただのヒステリーばあさんにしか見えないだろうな。 スタートからすでに死んでるだんなの遺体なんか出てきて、なにやら異様な雰囲気です。ぴりぴりした感じのヒロイン(ジュディフォスター)ですからね。そして、さらに六歳の子供にしてはやけにおとなしくてびくびくしてるヒロインの娘。いくら父親が亡くなったばかりとはいえ、不思議な感じをあおるわけです。その上すぐ前の席にやたらにぎやかでやんちゃな子供が登場してくることで少女の違和感はなおさら。タクシーに乗る時も、飛行機に乗る時も、誰も見てないような状況作りからして、見ているこちら側は、もしかしてこの少女は主人公の意識の中にだけ存在する幻影なのか。ヒロインはちょっとおかしいのかな。という展開だと、信じ込みそうになってきます。もちろん、作る側はそれが狙いなわけだから。でも、中盤に差しかかるあたりで、あまりにそれらの設定がありすぎなので、これはもしかすると、少女は生きて現実に存在してるんだろうなと想像するちょうどそのあたりで、実際に誘拐され、貨物室に隠されている少女の姿が映し出されるわけです。やっぱりー!とみてるこちらもうなる。そこからストーリーの流れが一気に変わり、全体にアクションものになり始める。母は強し。ここではやり、子供をもつ母だからこその切迫感なわけで、これが父親とか、だとどうでしょうね。子供を奪われているという設定ゆえにこそ、主人公の必死さにみてるこちらも必死になってみてしまいました。 私も娘が誘拐されたら、命がけで助けるぞー。 「娘なんていなかった。」「すでに死んでるんだ。」「飛行機に乗った記録はありませんよ」なんて言われちゃうと果たして人間はどこまで自分を信用できるものなのか。説得する側は、保安官、キャビンアテンダント、機長と、飛行機の中では絶対信用できるはずの人たちなのだから。「絶対安全で信用できるやつが一番危ない」と言うのは、推理小説の常道なんだけど、もし、現実にこんな状況下におかれたら、はたしてどれくらいの人間が、自分の記憶の方が正しいと信じきれるか。そして、相手に主張しきれるか。 私わかんないです。その場になってみたいと。でも、他のことならいざ知らず、わが子のことに関しちゃ、やっぱりがんばっちゃうかもしれない。 それにしても、自分が設計したゆえに知り抜いているであろう機内を縦横無尽に移動し、ハイジャック犯と戦うジョディフォスターは圧巻です。 同じ設定でちょっと前に作られた映画、『フォーガットン』の駄作ぶりと、ネットのナカの評判ではあまりいい作品じゃないみたいなので、見るのをためらっていました。でも、やっぱり結末の謎がどうしても知りたいという欲求に、つまんないかもしれないのを覚悟の上で借りてきましたが、傑作じゃないかー。だれだ、つまんないとか書くやつ。 ただ、ハイジャック側の計画ってホントにこんなにうまくいくんですかね。もし、ヒロインがもっと気弱な人物だったら、どうなのかなとか。本当に誰にもきずかれずに、女の子を誘拐して隠したりできたものかなとか。ちっと疑問が残るんですけど。 「密室殺人」ならぬ、「密室ミッシング」の映画ですね。 これから、こういうカテゴリーが推理小説の中に確立すると、おもしろいかもしれない。殺人と違って、最後は必ず生きてどこかに隠れてる、ないしは隠されてると言う話も面白いじゃないか。
2006年09月26日
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多数決が正しいとは限らない。最近は日本の総理大臣も国民投票にしようという動きがありきすが、それはそれで怖いものがあるなあ、と素直に賛成できない私です。 昨日の昼間のテレビで見てました。今リメイクで『ポセイドン』やってますね。そのもともとの作品でいまから数十年前、今の『ダヴィンチ・コード』くらい騒がれた映画です。 豪華客船の転覆。豪華な客船が地獄に変わる。うーん。パニックアドベンチャーだよね。今見るとそんなに映像的な細工はないねえ。迷路のような船内を地道に進んでいく主人公達。 リーダーって辛いよね。どんなにがんばってもちょっとミスすると叩かれちゃうんだもの。 大体自分の命かかってるのにみんなそれぞれに勝手なこと言い放題。ま、ドラマだからね。みんないい子で素直にリーダーの言うこと聞いてたら、話が面白くならないものねえ。それでもね時間ないのによくこれだけみんなわがまま放題いうよなあ。 最初のシーンで船のパーサー(もう一人の牧師さんだったかも)が乗船客達に「このままここにとどまるように」と言います。主人公の牧師さんの「ここにこのままいたら危ない。船底目指して逃げよう」という必死の叫びに従う人たちはごく少数。ほかの人々はその場に残ってしまいます。 その次にドクターに従って船頭を目指している人たちに出会います。同じように主人公は船尾の機関室を目指す方が正しいと叫ぶのですが、誰も聞いてくれません。それどころか、主人公の牧師さんと一緒にここまで来た人たちまで、ドクターについていくほうがいいのではないかといい始めます。 一人でさっさと逃げた方が早いんじゃないのと思うんだけど、それでも、牧師さんは自分の考えを信じて機関室を目指します。途中水中でドアにはさまれて動けなくなったときに助けてもらってるから、やっぱり一人より大勢の方がいいかもね。機関室を目の前にして、三人目の死者が出てしまいます。妻を失った男の怒りに対して、とうとう牧師さんは最後の血路を開いた挙句、自身は自殺してしまうのです。民衆を導くリーダーの立場ってつらいよなあ。 最後は結局、機関室にたどり着いたこの数人だけが助け出されるのです。 つくづく多数決が正しいとは限らない。でも、牧師さんの訴えもパワー不足でしたかねえ。 パーサー、ドクター、牧師、この話の中では、三人の指導者が登場します。 一番指示を得たのはパーサーですが、彼に従った人々はあえなく死んでしまいます。次のドクターに従った人たちも結構いましたが、結局助からなかったようです。牧師さんの意見は今ひとつ説得力が薄いのですね。正しいのだけどね。彼に従いながらも信じきれない同行者達。 誰の意見が正しいのか、判断するのは難しい。自分が支持した後でも、牧師さんに対してなお信じきれずに、鞍替えしようかとか、自分を助けようとしてくれているにもかかわらず、反論してみたり、なかなかどうして迷いまくりですね。 多数決が正しいとは限らない。今までみんなが選んだからという基準で選んでいたのだとしたら、これからは何を信じて選んでいけばいいのでしょうねえ。自分で決めるしかないんだけどねえ、自分の決断自身も信じられないとどうしましょうかねえ。 『マイノリティ インフルエンス』という言葉を最近知りました。「1人が一貫して自信満々に意見を言い続けると、他のメンバーはそれに引きずられる」 ということなんだそうです。これからはこんな考え方も増えていくのでしょうか。多数決は正しいとは限らないけど、マイノリティでも、やたら自信ありげだからって信じていいってものでもないと思うんだけどね。 でも、この牧師さん、ちょっとこの自己主張が足りなかった。この頃はまだ人の支持を多く得られない意見というのは、そこにやっぱり遠慮があったのでしょうねえ。多数決が絶対だったこの頃はまだ、多数の賛同を得られないと、自分では正しいと思ってもやっぱり声を大にして主張し切れなかったのかもしれない。 今度の新しい『ポセイドン』は新作シナリオだそうですが、テーマは全然違うんでしょうか。 マイノリティインフルエンスがそろそろ市民権を得始めた今、『ポセイドンアドベンチャー』を作り直したら、助かる人は増えるでしょうか。 時間も限られる究極の状況で人々の支持を獲得するのは、政界で国民の支持を獲得するのと、どっちが大変なんでしょうね。 外国映画、洋画
2006年06月16日
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最後まで一気に見られなくて全部みるのに三回かかりました。ほんと例のごとく。 でもねーこのDVDときたら、最初のところに他の映画やDVDの予告とかコマーシャルが入ってたんだけど、それがなんとその部分だけ、早送りとか、先送りが出来ない!! おかげで予告編だけ三回も見たのよーーーー。勘弁してほしいんだわさ。 途中で寝ちゃったり、途中までしか時間の都合で見られなかったりして三回もかけなおし。おかげで通してみられなかったのと、始まって15分くらいでまたまたあきてきてしまった。 作品自体は悪くなかったと思うんですけどね。もっと余裕で見ればよかったのだけれど。 でも、ドイツのグリム童話を書いたグリム兄弟が主人公。だから、ドイツの童話にでてくる魔女や魔法やのろいや呪文、妖精なんかがでてきて、ドイツのクラーい森の雰囲気がなかなかよくでてるんだわさ。 今の科学技術にいたる産業革命がはじまるずっと前のドイツの森は、やはり、人が入り込めないような謎に包まれた深くて暗い神秘があって、それは先日見た『もののけ姫』にでてくる日本の森と同じようにまだ人による支配を許さないかつての森がもつ神秘そのもの。 もっともヨーロッパの木や森って言うのは古代から中世のあたりでヨーロッパの人たちによってほとんどきりつくされてしまったらしくて今残っているのはほとんど人間がその後に植え直したものらしいのですが。ドイツの有名な黒い森はどうなんだろう。 日本の森もドイツの森も人間の技術の発展には勝てなかったんだよなあ。 この映画のラストでも、森の魔法は解かれて、見事な陽光の中で人々が喜び謳い騒ぐところで終わるんですけれど。 一緒に見てた娘は面白かったらしいです。
2006年05月29日
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ここのところなぜか戦争ネタ多すぎ。戦争オタクでもないのになぜでしょうね。面倒な話が続いてすみませんね。 そういいながら今日もこれだ。先日『アドルフの画集』をみて、そしてその後がこれ。続き物を見ているような、全然ちがうような。 それでも、先に『アドルフの画集』を見たことが影響していたりする。ついでに公式サイトはこちら ええと、ネタバレしてますので。 物語はまさに第二次世界大戦終盤。終戦まであと数日。ソ連軍はベルリンに迫りつつあり、ベルリンは陥落寸前です。地下要塞にこもったヒトラーとその側近達、一部の兵士たち。 物語の主人公はヒトラーの秘書であった一女性です。 戦後生き残った彼女によって伝えられた最後の日々のヒトラーの真実。ほんとにどこまで真実なのかは所詮映画だから確証はないですが。 それでも、戦闘シーンの迫力はすごいものでした。そして、苦しい状況の中で怒りまくり、怒鳴りまくるヒトラー。 ちなみにヒトラーは作品中ほとんど軍服を着ていない。宣伝のポスターやビデオ等の写真ではヒトラーは軍服姿なのですが、映画の中でヒトラーが、軍服を着ていたのは一度だけ。いつもスーツ姿で総統というよりもやさしいおじさんのようにみえる。一見ね。ヒトラーは政治家であって、軍人ではなかったということなのでしょうか。 そして、作中では十代前半の少年兵も登場するし、敗戦直前のヒトラーは市民の安全や命なんか考えてもいない。陥落寸前のミュンヘン市内の病院には山積みされた裸の死体。そして、医師がいなくなった病院に忘れ去られたように残されている老人達。日本の戦時中と大して変わらなかったのだなあと思いました。そしてヒトラー夫妻を皮切りに順次自殺していくのです。すごいのはゲッペルス夫人(だったかなぁ)が六人の子供を毒殺するあたり。「ナチでない社会で子供を育てたくない」と彼女は言う。なんでなんだろう。それくらいヒトラーとナチスを信望していたということなのだろうか。そして更に陥落寸前でも、逃げようとしない側近や秘書の女性達。彼等はこんなにヒトラーを信望していたのだろうか。いったいヒトラーのどこにこれほどまでの魅力があったのか。イマドキの私から見るとモノスゴーク不思議なのでした。 それでも、地下要塞を出て、逃げ延びようとする人たちもいて、主人公も逃げないといいながら最後はこの人たちと一緒に脱出します。映画のラストでは、彼等がその後どうなったのか一人づつ教えてくれるのですが。 そして更にその後、主人公の秘書の女性の本人が出演して彼女の言葉で語ってくれます。「ヒトラーのしたことはひどいことだけれど、自分自身は関係ないのだと長いこと思っていました。けれど、自分と同じ年に生まれ、自分がヒトラーの秘書になった年に処刑された女性の記録を見た時、私は愕然としたのです。」と。 この映画のテーマはもちろん反戦ですし、上手い言葉や時代の流行に流されずに、自分の頭で考えなさいよと言っているのだろうと思ったのですが、その上でさらに更に、「直接目の前で人が死ぬのを見ないから気づかないけれど、本当は自分が人の死にかかわる仕事をしていることも、人の死を自分の飯の種にしていることにも、きちんと思いを及ばせられなければダメなのだよ」と言っているのだと思うのです。 そういうのは多分今の現実にもあって、アジアの田舎の村で芥子しか作れないからなのか、それ以外に生きていく方法がないから大麻を作って人の命や人生を自分達の収入の犠牲にしていることだとか、 姉歯事件に怒りながらも、自らは米軍基地があることでそこから仕事を得ることが出来るために米軍を拒否しきれない現実、(米軍の存在をイヤだと思う本心とは裏腹に)、 そんなことが心のジレンマになっていて、苛立ちは増していく。 ものすごーく間接ではあるけれど、米軍がらみで仕事を取るということは、やはり人の命とひきかえているということで、やはり軍隊が人の命にかかわらないわけはなく、 米軍が今実際必要なのかどうかとは別のところで、考えてみてなのですが。 今現在、だからそれをすっぱりやめようよ、とはもちろん言えないけれど、それでも、もっと他に自分の仕事はないのか。もっと他に地域のために仕事を、産業を作り出していくことはできないのか、他の手段はないのかと、心の奥で考えるスタンスだけでも、持てないものだろうかと考えてみるのです。それにしても、ドイツの映画はドイツ語に限るヒトラーが英語で怒鳴ってても…ねえ。
2006年04月19日
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