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ずいぶん昔に読んだのだけは覚えいるのだけど、ストーリーの記憶が全くない。驚くくほどない。ずいぶん暗い話なのに、なぜか面白かったのだけ覚えている。今回映画をみていて、これはたしかに、当時の私にはまったく理解できなかったろうなぁっと、思う。タイトルの出展がビートルズの歌のタイトルそのままと知ったのも今回はじめて。そうだったのか。「ノルウェイの森」は、ヨーロッパの高級家具のブランド名らしい。で、じゃあビートルズの歌の中にでてくる女の子の部屋の中に高級家具のタンスとかでてくるのかっていうと、そんなわけはなくて。じゃあ、「ノルウェイの森」ってなにっていうと、私の考えるところでは、たぶん、ベットなんだと思う。女の子の部屋には椅子がないというより、ペット以外の家具はたぶんぜんぜんなくて、部屋の中にペットだけ。歌の中のそういう寂獏とした部屋にすんでいるという、現実感、生きているという生命感のない女性。それが、物語の中の菊池凛子演じる直子何だと思う。映画では直子にスポットをあててえがいているけれど、作者が描き出したかったキャラクターは、ミドリのほうなんじゃないかと思う。好きな男と愛し合うことのできない直子。そんな自分という存在に絶望し、どうしても、立ち直れずに自殺ししまう直子。男に奉仕することはできても、自分のために生きることのできない直子。彼女の存在は『娼婦』とう女性の一種を象徴している。ベットしかない部屋というのは、まさに娼婦の部屋そのもなのだ。好きでない男には、欲情することも、誘うこともできるのに、惚れた男と愛し合えない彼女はまさに娼婦そのもの。そしてまた、主人公ワタナベの先輩的友人の永沢の恋人ハツミ。たぶん有名な女子大に通うお金持ちのお嬢さん。恋人がほかの女と遊びまくっていることを知りながら、それを非難できず、黙って容認するしかない彼女の立場は、まさに昔ながらの良家の奥さん。直子もハツミも男にとって都合のいい女性そのもの。日本古来の典型的な二つの女性パターンそのものだ。浮気する夫を黙ってみまもりたてなければならない良家の本妻さん。男のために日蔭の立場でいきるお妾さん。男性の欲望のためだけにそんざいする娼婦たち。そして、直子もハツミも二人とも自殺してしまう。その一方で、物語途中から登場してくるミドリは、四年制大学に通う普通の女の子。母を失い、父親には、子供より奥さんのほうが大事といわれてしまう家庭環境でそれほど明るいともおもえないのだが、男性に対して、自分を犠牲にしてでも、私を心底愛してほしいと、はっきりいえるほどの、自分を持っている。好きな相手が声をかけてきても、気に入らなければ、しらんぷりもするし、男に尽くすというような日本古来の女性とは、正反対なキャラクター。言いたいことは周りを気にせずにずばずば言うし、直子、ハツミとは、まったくちがう。ミドリの父親は、亡くなった妻をとことん愛していたらしく、妻が死ぬくらいなら、お前たちが死んだほうがよかったととうの子供に向かってはっきり言うほど惚れていたらしい。親にこんなこと言われちゃうなんて、こどもとしては、かなりひどいなと、最初は思った。けれど、ここまで妻をあいしてる父親。そういう家庭は、そんな悪くないかもしれない。そして、夫にそこまでいわせるほど惚れられるような妻ってどんな素敵な女性なのだろう。そして、そんな女性の遺伝子をもち、そんな女性にそだてられたミドリが、自分というものをしっかりもっていて、自分の生きたいように生きていて、男につくしたりなんかしなくって、そして、自分をとことん愛してほしいと、はっきりいえるような強さをもっている。そんな女性にそだつのは、あたりまえかもしれない。歌の中で最後に明日は仕事をしなくっゃと言いつつ、男性と愛し合うことなく、鳥になって飛んで行ってしまった女性は、まさに、男に頼らず自立していきていく女性そのものを象徴的に描き出している。作者の村上春樹は、そういう捉え方をして、この歌からこの物語を描き出したのだと、思う。学生運動のはげしかったあの時代。日本の国の社会的価値観の激変していく中で、女性としての生き方もまた、激しく変わっていった時代。直子にひかれ、ハツミの生き方をみながらも、最後にミドリという新しい女性に出会い、ひかれていくワタナベという男もまた、時代の象徴的な存在であるのかもしれない。ところで、かなり大事なキャストのミドリが新人さんで、なーんか存在感薄いし、台詞は棒読みだし、なぜワタナベがミドリに魅かれていくのか、ミドリがなぜ魅力的な女性なのか。自分を愛してほしいというミドリの台詞も説得力なし。ミドリだけみてると、作者の言いたい大事なことはぜんぜん伝わってこないし、ジーンとこないし、感動しないし。菊池凛子の方にスポットあてられてて、ちがうんじゃねっと私なんかは思ったんだけどねぇ。もともとは、上野樹理が予定されていたらしく。でも、彼女は「ノダメ」のイメージがはりついちっゃたしねぇ。上野樹理が演じてたら、どんなだったかなぁ。ミドリに既存のイメージをつけたくなくて、新人さん選んだのだとは思いますが、彼女はこの役どころの意味を本当には理解していないでしょうねえ。たぶん。原作は名作なのかもしれないけど、今回の映画はいまいちだったかなと、思います。見てるぶんには面白かったけど。 【送料無料】ノルウェイの森(上)価格:540円(税込、送料別) 【送料無料】ノルウェイの森(下)価格:540円(税込、送料別)
2010年12月23日
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久々に映画館にいって、映画を観てきました。オンラインゲームにはまってたのと、体調もわるかったのと、足を痛めていたせいで、だいぶごぶさたでした。それにさぁ。映画みてると、ねちゃうのよねえ。お金払って寝るのはやだから、体調良くないといけません。で、今回の映画。すごくよかった。おもしろかった。もちろん、寝ませんでした。NHKの大河ドラマの『新撰組』で、やまなみさんを演じる堺正人を見て以来のファンなのですが、今回もよかったです。ストーリーも演出も、ごくごく普通によかったので、とくに書くことないくらい。とにかく素直によい映画で、すっきりと楽しませていただきました。淡々と描かれていて、とくに大きな事件もありません。けれど、全編を観終わって、つらつらと考えてみると、ああこんな物語だったんだなと、思い当たるものがありました。それは、プライドってなんですかって。いうことかと。とくに武士のプライドって何。世間体や見栄を優先して、お金がないのに、無理をする。それは今も昔も同じこと。江戸時代末期の武家といえば、歴史でならったところによると、かなりお金がなくて困っていたはずなのに、物語の中では相当高価なはずの鯛が祝いの膳に一人一匹づつ、出されていました。ずいぶん余裕のあるおうちだなあと思っていたら、やはり、物語の進むうちに家計が借金だらけとわかってきます。その時主人公の猪山直之は、世間体や対面を優先することのほうがずっとはずかしいことだと、考えます。そして、借金返済のために家財のほとんどを売り払います。そなことをしたら、家の財政が苦しいことが世間にしれてしまうと、家族は反対しますが、彼は心を鬼にして実行します。けれど、そののち、わが子が道で拾った四文銭を拾うことには厳しくとがめます。金を拾うなんて乞食のすることだ。武士としてそんな恥ずかしいことは許せないっと。また、勤め先の加賀藩の内部の不正に気付き、自分の立場のあやうさを知りながらも、告発しようとします。それは、結局握りつぶされてしまいますが、彼は自分の仕事を正しくやりぬくことに、やはり、算用ものとしての、プライドを優先させたのでした。本当のプライドってなんだろう。と。つくづく考えさせられる物語でした。ほんとうのプライドを守って生きていく。見栄や、外聞や、世間体や、欲望や、そんなものに負けそうになってしまうのが人の常。そんななかで、本当のプライドを守りながら生きていくって、難しい。すんごくむずかしい。考えさせられる物語として、とてもよくできていたように思います。外国映画にめっきり魅力を感じなくなったこの数年。そして、なぜか、邦画のほうはいままでの泥臭さや、とろさや、対応の悪さや、オキマリパターンの詰まんないストーリー構成といった、部分を少しづつ改善して、良品を生み始めているような気がします。これからは、邦画を見る機会のほうが増えそうな気がします。とりあえず、このあと、ハリーポッターとヤマトがみたいです。あと、ノルウェイの森もみたい。原作かなり昔に読んで面白かったことしか覚えていない。すごく暗い話なのに、なぜかおもしろかった。あとは、ぐずぐずしてたら、『桜田門外の変』の上映終わってしまいました。残念。「のぼうの城」は、いつできるんだろう。楽しみです。こっちは漫画で読んでしまってストーリーしってるけど、映画にするとどうなるのかたのしみです。 武士の家計簿価格:714円(税込、送料別)・武士の家計簿@ぴあ映画生活
2010年12月08日
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なかなかすごい映画でした。結局男なんて女を欲望の対象としか思ってないのよねえっと、まあ、そういう感想で終わらせてもいいっちゃいいんだけどね。 男性の欲望を満たすための玩具としての空気人形。その人形がある日、心を持ってしまう。主である男のいない間に人形は外に飛び出し、いろんなことを経験し見聞きし、ひととかかわりっていく。はじめは女もできないしょうがない男だから、人形を相手に暮らしている寂しい男なんだと思っていた。けれど、話を見ていくうちにどうやら結婚して子供もいながら、妻や子供や家族と関わることの煩わしさがいやでわかれてしまって、そして、ひとりで暮らしいているらしい。心も意志もなく、自分の好き勝手にできる人形のほうがいいらしい。そして、主人公(人形だけどね)が知りあう優しい男性順一もまた、人形の体の中を自分の息で満たそうとする。それは、彼女自身は望まないことかもしれないのに。優しそうな彼もまた、やっぱり彼女を支配しようとする。人は人を支配するのが好きなのか。自分のいいなりになる相手が欲しいだけなのだろうか。男が女を支配する。そのまた逆に夫を支配する妻もまたいるものだし、女の集団というものは、ボスとそれに素直に従う手下のような女性たちによって出来上がっているものだし。そんな集団はボスに逆らった途端に弾かれる。素直に従っている間はとっても楽なんだろうけれどね。人形が心を持ったことにきづいたとたんに男はあたらしい心をもたない人形をまた、買ってきてしまう。「そんなのはいやなんだ。わずらわしいんだよ。」自分の意のままになる相手がほしいだけ。そんな彼もまた、職場では人に支配され、言うがままに動くしかない。他人の意志のままに生きていればそれはとても楽なことだけれど、でも、人間は心と意志をもっているものだし。心を持った主人公の人形は、男のもとを出ていくしかなくなる。順一のもとにやってきたけれど、順一もまた、彼女を支配しようとする。彼に支配されるのと同じように、彼女もまた、彼を支配しようとしたとき、順一もまた人形になってしまうとも言える。順一も自分と同じ空気人形だと、誤解した彼女は、順一の体を傷つけて、空気を抜いて、彼が彼女にしたように、彼の中にも自分の息を入れようとする。でも、順一は人間だから、さされて血を流し、死んでしまう。人を支配することなんて、所詮できない。そして、他人に支配されることをきらい、自分の心と意志とを持ったとき、人は、(人形もね)孤独と向きあわなければならなくなる。「つらいことだけじゃなくて、いいことも、ありましたか。綺麗なものを見ることはできましたか。」彼女を作った人形師が聞く。「ええ、すこしだけ。」孤独の寂しさも、辛さも、それでもなお、生きていくことも。支配されることも、支配する事もなく、心をもって生きていることの中で、美しくて、素敵なものに出会えたのならば、それはそれで、人形にとっても、人にとっても、いきたかいも、生まれたかいも、あったかもしれない。人形役のペ・ドゥナさんの演技がなんとも、絶妙で、人形からだんだん心と意志をもった存在へと変わっていくその変化をとてもこまやかにかわいらしく、演じてくれていて、彼女の演技あってこその映画だなあと、思いました。かわいかったです。そして、こんなにかわいいのに、こんな壮絶な役どころを無理なく演じていて、感服しちゃいました。・空気人形@ぴあ映画生活
2010年05月27日
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日本航空がモデルの山崎豊子のビジネス小説。かな? 労働組合のリーダーとして、会社側との交渉に勝ち、年末手当4,2という回答を勝ち取った辣腕の主人公恩地。しかし、そのごり押し振りが会社の経営陣の反感をかってしまい、僻地へと左遷されてしまう。そののち、日本に戻ってきた、彼は、さらに御巣鷹山の事故の処理という仕事に携わる。この事故をきっかけに退任した会長のあとにやってきた新しい会長の下、会長直属の室長として、新しい国民航空改革にとうちこんでいく。その裏で、会社の経営陣は、汚職等、会社の利益を裏の手口で自分たちのふところにいれるような事態になっていく。 腐っていく国民航空内部。しかし、改善の途中で、会長は、辞任に追いこまれ、会長の下で働いていた恩地もまた、かつての左遷の地、ケニアに再度、とばされてしまうのだった。 会社の不正と、戦い続ける善人として描かれる主人公恩地。会社の利益を裏から自分のふところにいれる重役たち。 でも、最初に会社の利益をむさぼり始めたのは、恩地自身ではないのだろうか。 労使交渉での組合の要求は、年末手当4.2だったけど、年末ボーナス4.2ヶ月ってことは、一年で8.4ヶ月ってことですよね。だいたいボーナスの相場は、年間4ヶ月くらいだと、思うのですよ。メーカーがだいたい4ヶ月で、金融とかはもっといいはず。そして、一番安いのが、建築で2.5ヶ月くらいです。今はどうかわからないけれど、昔私が就職しようとしたころの相場はこのくらいでした。 それが、1962年当時に、8ヶ月以上のボーナスを会社側に要求しているわけだから、かなりむちゃくちゃというか。ごり押しですよね。主人公恩地は、このあと、御巣鷹山で死んだ人の遺族の人たちの気持ちをくんで同情的に行動しますが、この最初の時は、労使交渉のために、ストまで結構しようとしています。飛行機がストなんかしたら、どれほどたくさんの人が困ることか、しかも、こんな高額の手当ての要求でどれほど会社の経営が苦しくなることか。おかげで、日本航空のチケットって世界一高いですしね。 御巣鷹山事件が会社の経費節減による安全性の欠如であったとしたら、会社が悪いだけでなく、ここまでの高額のボーナスを会社側に要求した恩地自身の行動も影響しているのではないでしょうか。 後半会社内の経営陣や、関連会社、政治家を巻き込んでの汚職事件などもでてきますが、会社に金を求めることを一番最初にしたのは、恩地自身ではないでしょうか。 恩地自身もまた、資本主義社会の中で、高額の収入を得ることという価値観に洗脳されていのではないでしょうか。会社に迫害されている割には、物語の中でかれの自宅はだんだんランクアッブしていきます。最初は団地住まいだったのが、一戸建てになり、そのあと、さらに現代風のきれいな家になっています。迫害はされてますが、しっかり高給は、もらっているのですよね。家一軒買うのすら、普通の私たちはすごく大変なことなのにね。迫害されても、恩地は決して会社を辞めませんでした。彼の教示にかかわるからと、彼はいいますが、あれほど必死に会社と戦い、かちとった高収入を投げ出すのはばかげています。しっかりと、自分たちが勝ち取った権利は、もらうべきですから、彼が会社を辞めないのは、当然なのかもしれません。 さらに、左遷された土地のケニアでの猛獣ハントや、その獲物を剥製にして部屋に飾っている趣味の悪さといい、御巣鷹山事件での彼の人情味ある行動とのずれを感じてしまいました。 高額のボーナスの要求や、御巣鷹山事件での、補償額の交渉など、彼には、経営者としての視点がありません。そして、ごり押しによって、会社の経営陣側から徹底的に嫌われてしまいます。実際、彼があそこまで強硬な行動をとらなければ、あのあと、国民航空社内で、傀儡の組合ができたり、複数の組合ができたり、かつての組合の同僚が彼と同じように会社側に迫害されることはなかったかもしれません。 恩地は、会社内部の不正を調べるためにアメリカにとびます。アメリカの動物園の中には、「地上最強の生き物」として、その文字の前に、見物している人間たちが格子越しに見えるよえになっているところがあります。ちょうどそこに立つのが恩地です。人間こそ地上最強の生き物であるという、ジョーク。でも、そのほかにも、物語の中で最悪の人物という遠まわしなメッセージでも、あるようにみえました。 8ヶ月も社員にボーナスを持っていかれたら、会社はたちゆかなくなってしまわないのでしょうか。会社の安全性のために必要だと、恩地は言うけれど、安全性のためなら、機体の整備などにも、経費をかけなければなりません。でも、あの巨額の人件費のせいで、整備や機械部品などがけずられたのだとしたら、会社自身の経営が圧迫されているとしたら、どうなのかと、考えると、恩地の行動は、最も、会社の金を食い尽くす行動だったのでは。 そして、狭い日本の中のさらに一つの会社の中での出世を目指す。そんな狭い世界、狭い視点にとらわれている自分自身に、ラストで恩地ははじめて気づくようでした。 そして、今現在物語モデルとなった日本航空が本当に経営不振で倒れそうです。だって、日本航空って給料いいものね。つぶれるはずだよね。とダンナと話します。他の会社が2.5ヶ月とか、4ヶ月とか、さらには、ボーナス減額というきびしい状況で働く中で、高額の給与をもらいつづけているのだとしたら、この先どうなるのでしょうか。 恩地は、会社のためといって、常に誠実に働き続けてはいますが、彼には、経営者としての、金銭的視点がないようにも見えます。会社は打ち出の小槌ではないのですから、たとえ必要であったとしても、いくらでも彼の要求のままにお金をだせるわけでもなく、そいうい方向での見方ができないかぎり、恩地は、アフリカにとばされつづけてしまうのではないでしょうか。 ラストで、ふただひ、アフリカに戻った彼には、もう猛獣ハントはしないでほしいです。 出世とか、お金とか、そんなことに必死になって、狭い日本の中で暮らしてるなんて、どうしてでしょう。私はできれば、世界中をまわるような仕事の人と結婚して、世界中のいろんなところに住んでみたかったです。仕事があって、収入を約束されつつ、世界のいろんなところに暮らせるなんて、ある意味贅沢じゃないのかな。 そんなことに気づく余裕も彼にはなかったのです。というよりも、あの時代日本全体が、そんな価値観の中でいきていたのですよね。長い映画なので、真ん中に10分の休憩がありました。休憩のある映画なんてはじめてかもしれません。トルコあたりだと、結構あるそうですが。トイレにいこうとしたら、ドアの前で、飲み物やホットドック売っていました。商売うまいなぁ。休憩のおかげでエコノミー症候群にならなくてすみました。ははははは。重厚な映画で飽きることはなかったけど、クビがいたくって辛かったです。 沈まぬ太陽@映画生活
2009年10月29日
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放蕩を繰り返す夫にひたすら献身的につくす妻。という感じの宣伝だったのですけどね。でも、私は見てみて、ちょっとちがうかなぁと、思いました。とにかく夫も、妻もどちらもよくもてる。放蕩三昧の大谷も、その妻のサチも、どちらも、周りから見ると魅力的らしいのです。 小説家大谷は、汚れるのをいとわない男。そして、人は生きていく限り汚れてしまうものだと、覚悟している男。その汚れていく自分自身を徹底的に見つめて、文学にまでできることのできる人間は、でも、めったにいない。 大谷とは、逆に司法家を目指して、そのために自分が汚れるのを恐れた辻は、かつてサチが好きだった男。彼のために盗みまでしたサチをみすてて逃げ出して、汚れることから逃げたはずの彼も、出世のために汚れきった銀行家の娘を妻にしようとしている自分の中の欺瞞と汚さにきずいてしまう。人はいきている限り汚れざるをえなくて、どんな人間にもかならずどこかで、ウソや、欺瞞や、ズルやそんな汚さをあびながら、生きていくしかない。そうきずいた時、辻は、ただ自分の本音に向かい合う。人妻だけれど、惹かれているサチに、大谷の裁判の代償を要求する。 辻を惚れた心のままに行動した結果、泥棒してしまったサチを、交番で見かけた大谷は、強引にサチを救い出す。彼女の美貌は、物語の中であう全ての男を魅了する。そして、そのサチに一番魅了されたのが大谷で、サチが浮気しているかもしれないと思ったとたんに尾行までするほど。放蕩をして妻を泣かせているようにみえる大谷だけど、本当に好きなのはやはりサチなのだろうか。通りがかった交番の中で、惚れた男のために盗みまでしてしまう純粋で美しいサチに一瞬で魅了され、惚れたのではないのだろうか。 自分が汚れるのもいとわないほどに。 そして辻もまた、汚れることで初めてサチと体を重ねることができる。 サチは、大谷と、辻と、いったいどちらが好きなんだろう。交番から助け出されたことをきっかけに大谷の妻となったけれど、本当は初恋の相手の辻を今でも好きなのだとしたら、夫の心中事件の弁護を頼むことをきっかけに、夫のためという名目をもって、本来一番好きだった辻と、一度だけ関係を持つことができた。サチの行為は、夫のためではなく、それをきっかけとした、本音の実現だったかもしれない。 辻を好きだったサチを妻にした大谷は、サチに惚れていながら、妻の心が本当は別のところにあるのかもしれないと、ずっとそんな不安を抱え続けている。その心の不安が浮気であり、心中あり、放蕩であり、そして、彼は自分の中の汚さをずっとずっと見続けている。 自分の中の汚さにタップリと浸る夫に、好きな男と寝た自分の心の奥底の本音を見つめている妻は、言う。 「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」 いいじゃない。私たち汚いまま生きていきましょうよ。 人は汚れずにいきていくことなんかできないんだから。松たかこさん。ほんとーにきれいですね。もともお嬢様キャラなのに、貧乏人の役が多いのはなんでなんでしょうねえ。でもって、太宰治、いいですねえ。読みたくなりました。昔、「人間失格」呼んだことがあるのに、その内容をまったく覚えていないのですよね。若い頃は文学なんてぜんぜんわかんなかったのに、どうしてあんなに無理して本読んでいたのかなぁ。昔友達に誘われて桜桃忌に、三鷹の太宰の御墓に行ったことがありますが、太宰自体はぜんぜんわかっていませでした。今でも、人気のある作家のひとりですが、近代文学ってすごいって、最近やっとわかってきたかも。情けない。いやいやそれだけ幸せにいきてこれたってことなんでしょうね。 ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~@映画生活
2009年10月22日
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みてきましたが、不作ですね。ラストは、原作にない部分つぎたしてあって、話としては、原作では分からなかった部分が補完されたかんじではありますが、時代的なズレがあるなぁと、思う。この話の主人公の少年時代というのは、だいたい昭和40年代のはずです。ところが、ラストにでててくるイジメのシーンでの、お葬式ゴッコのような壮絶なイジメがはじまったのは、もっとずっとあとです。だいたい、10年から20年くらいのずれがあります。だから、おかしいのだ。 この物語は、作者浦沢直樹の自伝的な部分もあり、私の生きた時代とほぼ同じ。同世代ですから、おかしいなと思うところはおかしい。と、分かる。お葬式ゴッコをやるような壮絶なイジメは、私がもう成人したくらいの時に、その当時の中学生の世代で行われていたからです。 これは、たしか原作にはかかれていなかった部分。でも、『トモダチ』が過去の友達に仕返しをするという展開である以上、そのくらいの壮絶なイジメがないと、なりたたないと、考えたのかもしれません。 実際には、主人公ケンヂがした万引きを、トモダチに間違って嫌疑がかかってしまい、それをきっかけにして、小学校、中学校と、いじめられ続けたことに原因していたという結末です。でも、その程度のことだとすると、トモダチガ、世界中の人間を殺すほどのしかえしをするにいたるとはおもえない。 実際には、万引きだけが、イジメのきっかけはにならないのでは。それ以外の要素をトモダチがもっていたのではないでしょうか。 今回の映画。シナリオ自体がダメダメです。そして、これだけの長い話を三回分に詰め込むのは、やっぱり無理だったようで、最終話は、消化しきれずに、それぞれの登場人物に自分のことを語らせることで、なんとかストーリーをこなしているけれど、盛り上がらないしつまらない。そして、ラストの展開で、物語のテーマが「トモダチ」という恐怖物語のミステリーものという終わり方で、終わってしまった。 そもそもこの物語のおもしろさは、20世紀少年というタイトルが語るように20世紀後半に少年時代を送った、作者やそのほかの40代の人間たちの回想や、夢の実現物語という、爽快さにあるのだから。 子供の頃想像した、『世界を破壊しようとする悪の帝王を、英雄や勇者になって倒す』という、当時のアニメやヒーロードラマに影響をうけた少年たちの夢語りの実現。 青年時代に夢見た、シンガーになって、大観衆の前で歌うという夢の実現。 そして、当時の有名人の登場に懐かしさを感じるおもしろさ。三波春夫や、トキワ荘や、不二子フジオ、忍者ハットリくんや、ウルトラマン、などなど。 けれど、そういう夢の部分だけを描くと薄っぺらい夢物語になってしまうところに、「トモダチ」という人物が配されることで、物語は深みを持ち、多重構造のわくわくするけれど、ハラハラドキドキする、そして、懐かしいというたくさんの要素を持ったおもしろい物語になっているのだと、思う。 けれど、映画では、ラストでなぜ、ケンヂが大観衆の前で歌うシーンになるのか、そこに至るまでの部分の描写が薄くて、どうしてなのか、わからなかった。 ラストでも、草原に突然ひょっこりあらわれる「トモダチ」って、なんでなのかわからなくて、都合よすぎ。 過去のイジメ部分がオーバーすぎて、原作の面白さが壊されてしまった気がする。それと、あれだけいじめられている少年が、他の人に自分から「トモダチになってほしい」なんて、絶対言えないはずだ。もし、ケンヂが過去を清算したいなら、ケンヂから、彼に向かって友達になろうというべきだと思う。 それから、13号が、ヘリコプターに乗って、トモダチのつくった、細菌をばら撒くためのUFOを破壊するために、ヘリコプターごと突っ込んでいくシーンが、戦時中の「特攻」のようで、私は不愉快だった。今の時代、命を大切にすること、「特攻」のような、命を無駄遣いさせるような行動を否定しようとしている時代に、このての映画でこんな方法で物語を進めるのは止めてほしいと思う。 とにかく、見終わってうーんと思った。せっかくのいい原作なのに。というより、原作がいいものだからこそ、なおさらいい映画にはしずらいのだろう。 ・20世紀少年〈最終章〉ぼくらの旗@映画生活
2009年09月04日
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最初から最後まだずーっと山登り、山歩きのシーンでした。画面に映る立山のやまやまが美しかったです。 空撮は一切なし。それがやはりよかったのでしょうねえ。よくこの手の映画は山のシーンなどヘリコプターを使った豪快な空撮シーンがあります。それはそれできれいで、すてきなんだけど、この映画ではスタッフも、俳優さんもみんな自分たちの足で登って、物語の流れの通りに撮影していったのだそうです。ぢベタをはいずっていく感じ。でしょうか。 だからこそ高い高い上れそうにもない剣岳の高い山の感じがじんじんと伝わってきます。今でこそいろんな登山の道具があって、かつて不可能といわれた剣岳もなんパターンもの登り道がありますが、この当時の日本の技術だけで登ろうとしていた物語なのでした。それにしてもね。日本陸軍は、最初から最後まで悪者です。どうしてあんなに性格悪くて、頭固いのか不思議なんですが。 日本山岳会とも、協力して、みんなで登ればもっとラクだったと思うのですが。なんで仲悪いんでしょう。 ただ、最後まで見終わっても、感動はありませんでした。結末もなんだか納得のいかないまま、気がつけばお話は終っていて。いい映画なのに、感動的な結末でもなく、それでも、見終わってみてというより、みていながら、ああ、いい映画だと、思ったのでした。 ラストに感動して涙ぐんじゃったけど、映画自体はそれほどのものでもないなという作品もあるので、ちょうどその対局のような映画でしょうか。監督はもともとキャメラマンなので、お話の盛り上げ方や、見る人に感動を与えるようなテクニックはないのかもしれません。 それでも、ぢ道に地道に撮影した映像や、苦労や努力は映画をみていれば、当然分かります。そうして、ありんこのようにぢ面をはいつくばるようにして、登って行った、撮影していったその画面の一つ一つの美しさや緻密さや、景色の一つ一つがドレもコレもすてきで、俳優さんたちの演技もすばらしく、 だから、いい映画だったなあと、思います。見終わって、家に帰って、思いだすと、なんだか一日中山登りしていたような気がしました。宮崎あおいちゃん。あいかわらずかわいかった。 今年の邦画の一番は、これだと、思います。 あ、でも、『鴨川ホルモー』もよかったし、どっちにしよう。劔岳 点の記@映画生活
2009年06月25日
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家出したギャルと、赤い髪でスピリットタンの少年、刺青を仕事にするサディストの青年。いかにも、危ない登場人物たちの怖くてグロイ話かと、思った。最初にスピリット・タンの出てきた時には、ぎょっとしたし、気持ち悪そうな映画かと思ったけれど、観おわってみれば、なんだか、きれいで、美しくて、悲しい話だった。 それは、ヒロインのルイの裸体がとてもきれいで、残酷でグロイはずのザディスットっぽいセックスシーンがなんだかきれいで、見とれてしまったからだ。よくよくみれば、メインキャラの三人はそれぞれに個性的で美しい。 原作のイメージや、ストーリー設定からすれば、実際には彼らはこんなに美しくはないだろうと思うけれど、演出がかの蜷川さんで、それほど有名でもない俳優たちが、なにげなく演じているように見えて、けれど考えつくされた演技と、演出の数々が、バランスのとれた美しいお話に仕上がっている。 ストーリーは、予測できるようでいて、予測できない展開。 刺青のシーンに谷崎潤一郎を思い出す。谷崎文学は、女性美を描き続けたものだけれど、この物語は、現代の若者の倦怠感、自己存在のなさを描いている。 主人公ルイは、痛みによってしか生きることを実感できない。だとしたら、本来、生きることの実感が、楽しいことや、おいしいこと、うれしいことのはずなのに、そういうものをルイは感じることができないのだろうか。だとしたら、それはなぜなのだろう。 両親との関係すら薄くて、一緒に暮らす恋人のアマとすら、たわいないけれど本来的な会話もしない。 あえて、自分を壊す方に進んでしまう主人公の心の中は、見ている人の中にも、心の中のどこかで、共感してしまう部分を持っているのではないかと、思う。 どれほど人と接しても、心の奥までは他者とつながることの出来ない孤独は、自分という存在を確かなものに出来ない。 それでも生きている自分をなんとかとらえようと、あえて痛みをともなう、ピアスや、スピリットタンや、刺青を自分の体に刻んでいく。本当は生きていたいし、自分を確実にとらえたいと思っているからだ。 体をいろんなもので飾り立てるのはさびしいからなんだと思う。ピアスや、刺青は、一度つけてしまえば、そう簡単には離れない。けれどそんな刺青すら、自分から離れてしまうのではないかと、ルイは不安になる。刺青の龍と麒麟に「目をいれないで」と、ルイは言う。目をいれたら、飛んでいってしまうかもしれないから。刺青すらも、自分から離れてしまうのではないかと、ルイは不安がる。 恋人のアマが死んだ時の喪失感またもまた、愛しているわけでもなく、ただ一番自分に近いところいたから。アマの残した愛の証を砕いて飲み込んだ時、ルイは一つだけ、確かなものを手に入れることができたんだろう。そうすることで、喪失感の不安が一つ消え、刺青の竜に目をいれることができた。 渋谷という町は不思議なところだ。なぜ若者たちがあんなにも集まってくるのだろう。 それも、自分で自分をつかまえられずにいるものばかりが。 若者なら、あるいは人であれば人として生まれてきたゆえに、自分とはなんだろうか、人生とはなんだろうとかと、考えるものだけれど、彼らはそんな方法論や思考すら知らない。自分の中の不安感もいらだちも、所在のなさも、生きていれば当たり前に、考えなければならないものだということすら知らないゆえに、自分を自分としてとらえることもできずに、人生をまっすぐに見つめて生きていけずにいるのだろうか。 蛇にピアス@映画生活
2009年05月27日
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めちゃめちゃおもしろかった!!!!! 今年の邦画の一番なんじゃないかと思います。五月のこの時期で。ていうか、わたしの好みにはまりまくりなのかも知れませんね。でてくる舞台が京都で、京都大学生で、大好きな四神の青竜、百虎、朱雀、玄武がサークルの名前だったり、式神さまがでてきたり。 いまやってるニンテンドーDSのゲームの『FFレヴァナントウイング』のゲーム設定とそっくりなんでさらにますますリアル感増しました。映画の中で、主人公たちが、式神を召喚して、戦わせるのと、ゲームの中でモンスターを召喚して戦闘するのと、そっくりなんですもの。鴨川ホルモーの映画をみて、ホルモーにはまって、自分もやりたいと、思ったら、このゲームやるといいよ。 人物設定や、ストリー自体は、驚くほど、スンダード。やっと入った大学で、なんとなくさそわれたサークルにはいっちゃったり、きれいな女の子に片思いしたり、理系でおしゃれの下手なブスな女のこが実はかわいくて、主人公にほれてたり、ラストで、美人に変身してたり、美人のヒロインが実は性格の悪い小悪魔ちゃんだったり、主人公のライバルがめちゃめちゃ優秀で、強かったり、友達がすごく変なやつだったり、大学生活の間にどんどん変になってったり、大学の寮が、めちゃめちゃ汚かったり、どれもこれも、スタンダードすぎるほど、スタンダードなんだけど、お話の設定自体は、京都の中にいる神様っていうか、鬼っていうか、のホルモーを戦わせるお話で、大学どうしで、対戦してたり、とにかく一つ一つの描写がとんでもなくおもしろいので、ストーリー自体はスタンダードな方が、ホルモーの『変』がきわっだっていいと、思う。 栗原千明が、メガネのブスな女の子役で、すごくうまくて、よかったです。彼女の整った顔立ちが、逆にブスに見える効果になってたりしてて、みごとだなと、感心しちゃいました。でも、ラストは、ちゃんとかわいくて、主人公の阿部君と仲良くなってて良かったね。 ホルモーの展開もおもしろいし、式神様のお話っていうのも、好きだし。私の好みにはまりまくり、映画をみながらかなり、笑ってしまったけど、笑ってたのは、私だけのような気がするので、他の人はそうでもなかったのだろうか。青竜会の青い、浴衣もよかったし、サークルの先輩役もよかったし、サークルが飲み会するお店もかわってておもしろかったし、主人公のアパートも木のつくりでしぶかったし、吉田神社の奉納の舞のシーンもめちゃめちゃおもしろかった。どれもこれもはまりまくった映画ってすんごくひさしぶりです。 いやいやいやいや、すんごく面白かった。『レッドクリフ』より、私はこっちの方がいいと思うよ。このての映画はちょっと間違うとすんごくへんちくりんな、つまんない映画になりかねないんだけど、この作品はうまく全体のバランスがとれていて、ホルモーたちのへんちくりんぶりもかわいくて、おもしろかったし、邦画でも、こんなにおもしろくて、奇抜なお話つくれるんだと、感心しちゃいました。こんなに面白いのにそれほど話題になってないのはなんでなんだろう。不思議だ。 続編とか、ないのかな。みてみたいです。 鴨川ホルモー@映画生活
2009年05月13日
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他者の人生をひきうけるということ。 昨日の映画『おくりびと』をみていて、思ったのは、夫があのての仕事だったら、私はちょっと嫌だなあということ。それは、映画の中でも、主人公の妻美香がやはり、嫌悪感を感じて、一度は実家にかえったり、夫にやめて欲しいと何度も懇願したり。まあ、本当にあたりまえの反応で、そういうことが描いてないと、映画はうそになってしまうだろうとも思う。映画の中でも、主人公大悟や、妻の美香がその嫌悪感や社会的偏見と、どう戦っていくかも、えがかれているし、その仕事をどうとらえ、どう考えるかも、もちろん描かれている。 もちろん世の中には、いろんな人がいるので、大丈夫な人もいれば、しんどくて耐えられないという人もいる。だろうと思う。それは、個人の個体差なので、良し悪しはいえない。 人の人生は、その人のもの、とは、よくいわれることであたりまえのことだけど、けれど、人生は、やはり自分だけのものではないのだなと、思う。 夫が選んだ職業は、やはり、夫の人生だけを決めるものではなくて、妻の人生にも、大きく影響する。それが、社会的に評価の高いものであれば、妻もその高評価の恩恵をうけるし、夫の職業が社会的に認められにくいもの、評価の低いものであれば、やはり、その妻もまた、その影響を受ける。結婚するということは、配偶者の人生をひきうけることでもある。相手の失業も、挫折も、仕事選びも、それによって派生するいろんなことも。 映画の中で、納棺師を選んだ男。彼なりに、その仕事への嫌悪感や、違和感や、それらを乗り越えての、プロ意識まで。それは、ともにくらす妻もまた、乗り越えていかなければいけない、ものだったということで。 最初拒絶していた納棺という仕事は、身近な人の納棺をする夫の姿をみたことで、彼女の中で少しづつ、緩和されていく。 映画の中で何度も出てくる主人公大悟の父親は、彼が子供の頃に失踪している。その父親の存在はたぶん、物語の結末で登場するであろうことは、ほぼ想像がついたのだが、遺体となって、最後に登場してくる主人公の父親は、晩年ただ一人で、地方の漁村に暮らしていた。 その父に再会し、彼の心の中の父親と、彼の心は和解する。 志賀直哉の『和解』とか、名画にもよくある題材としての「放蕩息子の帰還」のような、父と息子の、対立と和解は、よくえがかれるテーマではあるけれど。 結婚というものが、他者の人生をひきうける覚悟をともなうように、出産もまた、子供の人生をひきうける出発点となる。彼の人生と、父親の人生が交差し、離れ、もう一度交わった時、息子の側もまた、父親の人生を受け止め、納棺の儀式を通して、父親の人生の最後の総仕上げをすることになる。 夫は、妻の、妻は夫の人生をひきうけらければならないし、親は子の人生をひきうけなければならない。そして、晩年、子もまた親が人であったことも、人として、人だからこその弱みもまたあったのだということも、理解して、引き受けて、和解し、締めくくる。 夫大悟の納棺師という仕事への嫌悪感を乗り越えて、理解し、夫の人生と自分の人生を重ねていく妻美香。 男性に生まれながら、実は女性になりたくて、けれど、自殺してしまった青年や、ルーズソックスをはいてみたかった老婆や、若くしていってしまった人妻、不良になった挙句バイク事故で死んでしまった女子高校生。 その人たちのそれぞれの人生を知り、そこにその人なりの人生を描き出すように死化粧を施していく納棺師の仕事は、遺体となった人の人生をひきうけて、最後の締めくくり、総仕上げをする仕事。なんだと思う。 ひとの人生は、その人のものでありながら、その人だけのものでもなく。配偶者も、子供も、もたない人生は、自分の人生だけをひきうければいい分、楽であるかもしれないけれど、それはやっぱり、つまらないのかもなぁと、思う。けれど、今、子供の人生をあれこれ心配して、しんどいなぁと弱音のでている最近の自分のココロとは、逆の思いにため息が出たりもする。
2009年03月13日
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たしかにいい作品だったと、思います。みていて、何度も涙がながれてしまいました。 ただ、やはりなまぐさい映画であることは、いなめないかなと、思います。戦争映画の残酷でグロテスクな死体のシーンより、はるかにリアルに死体の感触やにおいを感じる。そういう映画でした。 それはやはり、自分の日常で、今、現代の日本で、死体にふれる唯一の場が、お葬式の時で、そして、映画をみているといままで自分が経験してきたお葬式の時の遺体の感触やにおいの記憶が、リアルに思い出されてくるからです。 今回、外国での受賞によって、評価され、注目をあびていますが、それまではそれほど注目されていた作品ではないし、この作品が日本国内の評価によって、ベストヒットになってしまうのには、違和感があります。やはり、外国からの評価としてが、許容範囲かなぁ。外国の人は日本のお葬式をしらないから、評価できるのだと、思います。 それにしても、納棺の儀式がとても美しく様式化されていて、本木君だからこそのうつくしさですね。これがガテン系のひとだと、こう美しくは見えないとおもいます。(ガテン系の人を悪くいっているのではないので、ご容赦ください。) ただ、本音を言えば、やはり、まだ子供の生まれる前に、自分のオットがコノテノ仕事につくのは、やはり堪忍してほしいと、映画をみたあとでも、思います。多くの人の体に触れたオットの手で、夫婦の行為は、女性には、辛いです。 子供が二人既に生まれていて、小学生、中学生になっていて、夫婦関係も、夜の方はもう、というくらいになっていて、仕事がなくてという状況であれば、あるいは、しかたないだろうとは、思いますが、映画の二人は、まだ、子供がいない状態ですからねぇ。実際には、コノテノ仕事の人は、それなりに年配ですし。この映画がそれなりに、美しく見えるには、かなりな気配りと、本木君の、しょうゆ系、草食男子系のキャラクターあってこそだろうと、思います。でも、本木君ねたくましかったけどね。 山形の美しい風景、チェロをひくもっくん、川を登る鮭の姿、そして、石文というエピソードなどなど、考え抜かれた、シナリオは、すばらしかったと、思います。そして、こういう物語だからこその、要所要所の笑ネタなどの配置も、見事です。 死とはなにか。生とは何か。監督からのたくさんのメッセージの他にも、見た人それぞれにそれぞれの感想と、メッセージと、問いかけをうけとれる映画だったとも、思います。感想その2もあります。 おくりびと@映画生活
2009年03月12日
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宮崎あおいは、客寄せパンダ?なのかな。 あおいちゃんが好きなので、みにいったのですが、みはじめたら、三分の一くらいのところで、飽きてきてしまいました。 あおいちゃんの演技は、最初から最後まですばらしいものだったのだけれど、お話自体がぐずぐずで、結局パンクってなんなのか、みおわってもよくわからなかったし、監督は、この映画を、若い人に向けてつくっているのか、それとも、50代の人たちを対象につくっているのか、わからなかった。 若い人たちは笑っていたけれど、私は、何がどうおかしいのか、よくわからなかった。 五十代も、がんばってるし、昔は、同じように青春があったんだよっと、若い人にいいたいのか、おじさんがんばれよといいたいのか、でも、映画をみていても、どちらのメッセージも感じ取れない。 なぜ、この映画がピアで、一位なのか、どうしてもわかりませんでした。 おもしろくないし、いまどき、パンクの映画をいまさらみてもしかたないし、ただ、宮崎あおいが出ている。というそれだけで、集客しているような。 最近の宮崎あおいの出演作品は、これにしろ、『闇の子供たち』にしろ、一見いい作品にみえるけれど、実は駄作という作品が多いように思える。せっかく、演技力のあるいい女優さんなのに、おしい。もう少し出演する作品をよく吟味して欲しいと、思う。 この映画も、宮崎あおいの演技が、うますぎてかえって、空回りしているように思える。 役のキャライメージとあえて逆の役者を選んだと、宮藤監督はいっているけれど、そういうキャスティングというのは、世の中の監督なら体外、一度くらいはやりたいと思うようなことで、さほど珍しいことではない。問題は、その配役をした後に、いかにうまく役者と役どころをはめていくかだと思う。そういう意味でも、足りない映画だったと思う。 特に佐藤浩市。三谷幸喜の『マジックアワー』では、バリバリ硬派の佐藤浩市を、コメディで、くずさせつつ、彼のもつキャラクターを反転させて、さらに反転させて、うまくいかしきっていたとも思うのだが、宮藤監督は、佐藤浩市を使いこなしきれていないし、せっかく、逆の配役をしていながら、それを生かしきれていないと思う。ここまで、佐藤浩市をくずさせるなら、だからこその彼のよさをもっと出し切らせてあげて欲しかったと、思う。今回の佐藤浩市は、本来の硬派キャラクターから、崩された役を演じただけ。そこまでくずして、殻をはずしたからこそ見えてくる彼のよさを引き出して欲しかったと思う。割れたからがまた、ボンドで彼に貼り付けてある。そんな感じだった。宮藤監督にはまだ、佐藤浩市は使いこなせないようだ。 ストーリー自体もだらだらで、ラストにいたるまで、ほぼ予定通りのストーリー展開。ここまでつきあってみてきた観客にたいして、なんの得るものもなく終った。残念。 次回のあおいちゃんの出演作は、『剣岳』だそうである。懲りずにみにいきたいけれど、できれば、良作であって欲しいと、思う。
2009年03月10日
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今まで見えなかったものが見通せるようになった瞬間。いつも雨しか見たことがなかった主人公の死神が、ラストシーンで始めて、晴れた空と太陽を見る。 彼にとっては当たり前の仕事でしかない人の生が、死が。けれど、人間にとっては、一大事なように、自分にとっては、たいしたことのないありふれた日常のちょっとしたことが、他の人にとっては、大変なことだったりするんだよね。そういうことがわかる瞬間があなたにはありましたか。 自分に関わるいろんな人が次々に死んでいく。親が、兄弟が、友人が。そして、他の人に陰口で言われる。あいつは「死神」なんじゃないかって。あるいは、自分自身で気づいて、そして、傷ついている人もいるかもしれない。自分はもしかしたら、「死神」なんじゃないかって。 この物語は、そんな人のために書かれたお話なんだと、思う。 作者の友人か、あるいは、知人にそんな人がいて、傷ついていて、だから、この物語を書いた作家さんは、その人のためにこの物語を書いたんだと、思う。 あなたの周りの人たちは、決してあなたのせいで死んだんじゃないよ、と。 あなたのそばで死んだ人たちは、自分の人生を全うして、人生でするべきことを終えたから、だから、死んだのであって、決して、あなたのせいじゃないし、あなたは、死神なんかじゃないよ。あなたの周りにも、まだ人生でやるべきことをやりきっていないから、まだまだ生きている人間がほかにもいっぱいいるんだよ。ほら。僕みたいにね。うん。ボクはまだまだいっぱい書かなきゃいけない小説があるのだろうな。よし。がんがん書かないと。 なんていう、作者の呟きが聞こえてくるようです。 だから物語の中では、まだ、人生でやるべきことのあったOLさんは、死ななかったし、わずか10歳の少女でも、使命をなしとげて死んでしまったり。 ところで私は、何をするために、生まれてきたのでしょう。わかんないけど、死神さんが判定してくれるかも。笑
2009年02月02日
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性欲は食欲や、そのほかのいろんな欲望とおなじく、人が種として保存されて、その遺伝子を生き残らさせていくために、神様から与えられたもの。子供を生むためのもの。であるとは、思う。人間以外の普通の動物はだいたいは、そのためにしか使っていないと、思う。 けれど、人間だけが、子供を生むということのため以上の、つきない欲望を満たしたいと、願ってしまう。 それは、他の動物にはない、知性ゆえなのか。動物以上の感情ゆえなのだろうか。 性の欲望にしたがって、子供を生むことは正しくても、それを逸脱して、出産や、子育てからぬけだして、ただ、体の望むままに性の喜びに浸ろうとすることが、あるいは、罪になってしまうのは、なんとも、不条理な話なのかもしれない。 心のときめく恋から、体の芯まで振るわせる性の快楽が、けれど、妊娠と子供の出産と子育てと、その先の長い日常にと変化してしまうことに、戸惑いを感じる人はどのくらいいるのだろうか。 子を持つ母が、本来の子育てや、母性を捨てて、恋に走ってしまうことを、普通に子育てする主婦であれば、「不道徳でありえないひどいこと」と、思うかもしれない。「人間としておわってる」とかね。 けれど、私はちょっとうらやましかった。子供より、愛と性に埋没して、快楽を享受することに埋没していくヒロインが。 それが罪になってしまうことが、人の住む社会の不可思議な矛盾であることも。 でもね。性の快楽のためだけに死ぬのはちょっと私は、もったいないからいや。だって、この世にはそのほかにも、いろんな楽しいことがあるじゃない。できれば、私は、もっともっと、漫画を読んだり、ゲームをしたり、本を読んだり、勉強したり、映画みたり、旅行に行ったり、おいしいもの食べたり。やりたいこと楽しいことがいっぱいあるのに、セックスのためだけに人生をおしまいにするのは嫌だなぁ。もったいないもん。 ということは、性の究極のエクスタシーというのは、子供や家庭がどうでもよくなるというよりも、この世の全ての快楽を凌駕するほどの快感なんでしょうか。 つまりは、家庭や子供をすてて性欲にはまるということではなく、それ以外の全ての娯楽以上のものなのでしょうか。 「そんなエクスタシーを感じることの出来る女はめったにいないのよ」と、映画の中でも、語られるシーンがあるのだけれど。 で、もちろん、そんなところまで経験するなんてめったにないので、それ以外の娯楽の方が楽しいと、まだまだ思うわけですが。 でも、そんな風に究極のエクスタシーに出あっても、体はどんどん老いて感受性は劣化していくわけですから、できれば、人間の経験しうる最高の快楽を知って、そして、その記憶が薄れないうちに、絶命したいと、そういうお話なんですよね。 もちろん、エクスタシーのためにはその相手には、惚れている相手の方がいいわけです。だから、このお話は、死んでもいいと思うほどの恋愛なんて話じゃなくて、記憶を薄れさせるくらいならその前に死んだ方がいいと思うほどの快感を経験した人間の話なんだと、思います。 セックスと、漫画と、映画と、読書と、ゲームと、サッカーと、野球と、その他もろもろ。何を一番快感と感じるかは、もちろん人によりけりです。でも、これは、渡辺淳一だからね。 ラストにヒロインの手紙が出てきます。「天に昇った女はもう地上にはもどれないのです。」 それでこれは、天女の羽衣の現代版ストーリーだったのだなと、思いました。天上には、地上のどんな娯楽よりも、子供や家庭よりも、ずっとずっとすばらしいものがあるのでしょうか。主人公の菊治は、天女の夫から羽衣を盗み出して、天女に渡してしまった。その罪を問われている。そういう物語なのかもしれません。 愛の流刑地@映画生活
2009年01月29日
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前回書いた記事では、書きそびれたことがいろいろあったので、ちっょと記事を補足して追加です。『春は花。夏ほととぎす。秋は月。冬雪さえて、涼しかりけり。』 雪ってすずしいですか。いや、寒いだろう普通に。寒くて辛い。でも、その辛い寒い雪の降る冬を「涼しい」と、言ってしまえるほどの精神の高み。 四季の季節のそれぞれを心地よいと、感じうるほどの、精神(心)のありどころ。 この世にあるあらゆるものを辛いと感じるか、心地よいと感じるか。それはもう、その人の感じ方。それだけでしかないのだと。だから、冬の雪をここちよく涼しいと感じうるところまで、己の心を高めていくそのために、座禅をし、己の内側の声を聞く。 禅道とは、そういうもの。と、個人的に思いました。本当はどうなのかは、わかりません。 けれど、この世にあるいろんな嫌なことやつらいことを、ここちよく感じられるようになるって、そんな簡単なことじゃないですけどね。いやみや、悪口を言われれば傷つくし。つらいし。暑いのも寒いのも、怪我も病気も、空腹も、辛いです。 その辛いことを辛いと感じるかどうかは、本人の考え方、意識しだい。 つまりは、辛いことを辛いと感じるかどうか。なのだと、思う。 だったらいっそ、なんにも感じない不干渉、無感動な人間でいることが一番楽なんだろうか。でも、道元禅師はそうは、考えていないと思う。 その逆で、より、他者の痛みをどこまで深く感じることができるか。という共感性の高さ。感受性の高さをこそ、もとめているのだろうと、思う。 自分に悪口や雑言を吐く人に、ひどいやつだと思うか。他人にこんな言葉を言ってはしまうほど、何か辛いことがこの人の中にはあるんだろうかと、想像できるかどうか。 美人で頭がよくて、お金持ちでうらやましく見える人が、実は想像もつかないような辛いことを背負っているかもしれないと、想像できるかどうか。 物語の中でも、わが子が死にそうになって、道元に助気を求めてきたおりん(内田有紀)に、道元はいう。 「村中をまわって死者の出たことのない家から豆を一粒もらってきなさい。そうすれば、子供は助かりますよ。」と。 けれどもちろん、死者の出たことのない家なんてあるわけはない。家族の死という辛いことを誰もがあじわっているのだという、共感性を自覚することで、他者の痛みと自身の痛み苦痛をのりこえていけるということなんだと、思う。 最初娼婦であったおりんが、道元に出会い、道元を慕い、禅の心を学んで、成長していく。禅僧に犯されそうになった時、「こんなわたしでよろしければ」というところまで、悟りの心にちかづいていて、そして、やがて、体が悪く、乞食にまでおちたかつての夫に布施を分けるところまで、成長していく。やがて、彼女は剃髪し、尼となる。 料理も禅の修業の一つであるのなら、女性は普通に普段の生活で、俗世にあってそのまま修行しているわけですよね。生のそのままが生産である女性に比べて、生きることがイコール破壊であるからこそ、男性の方がお坊さんが多いのかもしれません。 が、毎日ご飯作ってても、家事をしてても、案外もんもんとうらみつらみ悩みがあるものです。ぜんぜん解脱してません。ていうか、私なんか週に最低一度はご飯作るの嫌になります。わがままで、怠けものなものだ。それをのりこえて、ちゃんとできないと、やっぱ、だめなのかなぁ。 ところで、禅というのは、かなりな長時間座り続けるのが修行なわけですが、そんなことしてると、血の巡りが悪くなって、エコノミー症候群になって、死んじゃわないのかなと、考えた。それで、つくづく禅の世界で精進料理が生まれた理由も分かった。肉や魚など、脂や栄養のいいものをとりすぎている状態で、座禅なんかやったら、血行不順で体壊しちゃいますからね。だから、座禅をするには、それとともに、食事も質素にしないと、体に悪いのですね。精進料理は仏の教えといいますが、それ以前にまず、体をほとんど動かさないのだから、カロリーは、あまりいらないわけで、その意味でも、座禅と精進料理はセットになっているんだと、思います。基本は、一汁一菜だそうです。 映画をみただけだけど、禅宗の世界って、深いですね。
2009年01月27日
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監督のやっつけ仕事。 作品自体はなかなかよかったし、役者さんたちもがんばっていたと思う。シナリオもまあまあだし、禅道を知らない人には分かりやすくできていると思うし、道元の教えも理解しやすい。ただ、練りこんでいないというか、熟成していない。シナリオをシナリオのまま、そこそこの演技でオーケーだして、取り合えず完成しましたという感じ。ちょっともったいない。内田有紀さんなんか、結構熱演しているのに。最初の頃は若くてかわいくて元気で明るい女の子。そういう感じだった彼女が、結婚と離婚という経験を通して、生きることに苦しむ女性をとてもうまく演技するようになったなぁとおもう。でも、根が明るい子なので、見ていて悲惨さ、陰惨さを感じないですむ。いい女優さんになり始めているのかも。ただ、今回の作品。汚れ役で、極貧の娼婦なのだから、もう少し薄汚れて疲れている感じの衣装やメイクなどしてほしかったし、もう少し演技を盛り上げて欲しかったと思う。残念である。 それにしてもね。禅道って名前は知っているけれど、どんなものなのかしらなかったので、勉強になりました。死んで極楽浄土に行くことを願うより、今生きている人生を幸せなものにしたい。人は欲にとらわれているゆえに苦しい。 でもね。権力者の政治が悪いせいで、食べ物もなく、貧乏に迷う人々を思い、そんなことのない世の中にしたいと思っていた道元が、鎌倉の執権北条によばれ、彼の悩みをさとし、彼に気に入られる。道元をきにいった北条は、この鎌倉の地に寺をたててやるとまでいってくれるのに、道元は越前に帰ってしまいます。 でも、食べるものもない一般の人々よりも、権力者こそが欲望にとらわれて生きているわけで、欲にとらわれない生き方を諭す相手はまさにそういう権力者であるべきなのでは。民衆はまず、食べるものが必要だと思います。ホトケの教えはまず、生活の基盤が整ってからの話だと思うのだけど。で、そういう権力者のそばにいて、権力者の人たちをさとし、世の中が荒れないようにすることこそが、世の中をよくすることなのではと、思うのですよね。そそれこそが飢えに苦しみ、盗みをする人のいないな世の中への道だと思うのですが。 それなのに、越前に帰ってしまう。欲にとらわれずに己の中のホトケを求める。それはそうなんだけれど、それをまず、鎌倉で、権力者にたいして、指導し、鎌倉の地で多くの人に広め、権力者からどんどんお金や食糧をもらって、一般の貧しい人たちに、くばってしまうほうがいいのにと、思ってしまいました。 道元と禅を普通の人に解説する映画。たまたま有名な役者さんたちでつくってるけれど、そうでければ、宗教法人の宣伝映画か、学校で見せられる普通の地味な、無名の役者さんでつくった映画。そんな感じなのよね。 でもまあ、そこそこには面白かったです。補足もあります。→ 『禅』補足禅 ZEN@映画生活
2009年01月24日
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おもしろかったです。かなり当たり度高し!!! 江戸川乱歩がかいた怪人20面相をモトネタにして新しく欠かれたお話。舞台設定は、第二次世界大戦のなかった日本で、1949年。 戦争がなかったので、いまだに、日本軍が存在しています。あの時代特有の帝都東京ののどかな雰囲気がたまらなく面白いです。 松たか子ってやっぱり、お嬢様役がホントにぴったり。生まれついての気品を持っている人なので、下手に貧乏人の役をやるより、やはり、彼女にはこういう正統派の美人のお嬢様役をやってほしいですね。ほんとに今回の役どころは、ぴったりです。松たか子のよさがしっかりたっぷり生かされている役です。おかげで映画を見ていてたのしい。 明智探偵役の仲村トオルを見るのも久しぶり。彼、イケメンなのに、ほっぺたにしわがあるのでした。年取ったのかなぁ。 で、金城武。かっこよかった。こないだの、諸葛孔明役といい、今たちばんのってる役者さんだと、思う。 ストーリーも予定外の展開やどんでん返しがあって、ほんとにぜんぜん飽きることなく最後まで見られました。日本映画とは思えない面白さ。今年一番の日本映画だと思います。今年これから、これ以上の日本映画ができるのでしょうか。正統派の娯楽大作だと、思います。人が万々死ぬでもなく、無理やり泣かされるわけでもなく、無理な笑いを取るでもなく、純粋に素直に楽しめる作品だったと思います。大戦が起きていないために、社会がリセットされず、そのために貧富の差が拡大していて、という設定がなるほどねえと、思う。大戦がないから、帝都のまま、科学は進んでいて、デスラーの機械もできていたりして、うーんやっぱり、「ヤマト」世代なのですね、きっと。そして、昔の物語ゆえの孤児や、貧乏な社会を語るセリフが、いままでなら、所詮絵空事の物語世界のセリフにしか聞こえなかったのに、今自分の住む現実世界でも、極端な不況や、派遣ぎり、正社員ぎりでどんな人でも、明日はどうなるかわからない、いつ路頭に迷うか分からない、そんな現実があるだけに、とてもリアルにひびいてしまいました。まるでシリーズものの第一作のようなお話だったので、このあと、続編、続々編が出来て、いかにも義賊な怪人二十面相の活躍や、お嬢様議員が貧富の差をなくすために活躍していくところなど、見てみたいなぁと、思います。 K-20 怪人二十面相・伝@映画生活
2009年01月09日
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『蟲師』 原作しっかり読んでますが、原作の雰囲気を壊さないなかなかの秀作だったと思います。主役の蟲師ギンコ役がトレンディなオダギリジョーってどうよと、思いましたが、まあまあでした。たんゆう役が蒼井ゆうちゃん。原作にはないギンコとのラブニシーンでした。でも、なかなかよかった。 ただ、ラストが原作と違っていて、よくわからなかった。あのラストはどんな意味なのでしょう。うーん。 でも、日本の昔の時代、たぶん、明治から戦前までのいつかの時代という微妙な時代設定のファンタジーでした。今のCG技術のおかげで、今まで出来なかったことも実写でやりやすくなりましたね。とくに、たんゆうの書いた文字が巻物からにげだしてしまったりするシーンとかね。 なかなかよかった。 『憑神』 ほんとにぜんぜんわけわかんない作品。ぜんぜんおもしくなかった。やっぱり、浅野次郎ってつまらない。どうして売れてるのか、映画化されるのか。理解できない。 『荒神』 ネタバレしますがね。 荒神なのは、宮本武蔵です。という設定。 で、私個人の予想として、荒神と戦うもあ一方の武士は、沖田総司なのではないかと、思います。日本の歴史史上、一番有名な剣豪の二人。この二人を戦わせるとどうなるのかな。時代が違うから無理だけど、この二人を戦わせて見たいと、思ってる人結構いるのでは。 映画の中では、最後まではっきりいうシーンはなかったけれど、ポニーテール調の髪といい、絶対そうだと、思ってますが。 『死国』 栗原千明がでてるのですよね。昔は怖い話きらいで、この映画もDVDの表紙は、すごく怖そうなのですが、ぜんぜん怖くなかったです。お化けとしてでてくるのは、栗原千明だけだからね。 話の設定はまあまあですかね。 コノテノ話、普通は、死んだはずの女が生き返って、自分の恋人を死の国に連れて行こうとするのを、ヒロインが愛の力でたたかうというものだったけど、このお話は、あっさり、ヒロインは負けてます。しっかり、恋人は死の国に連れて行かれておしまい。うーん。なぜだろう。 ま、もともと、男は、栗原千明役の女のこのことがずーっとすきだったので、しょうがないのですかね。 まあまあかなという作品でした。 『クワイエットルームにようこそ』 子供も出来ないのに、ずーっと家にいることにたえられなくて、別れちゃって芸能界に戻ってきた内田有紀が、薬を飲んで精神病棟に入院という、かなり役どころ怖いけど、ぴったりかもーという、配役です。 コレも、蒼井ゆうちゃんが出てました。なんでも、できるのね。 結婚しても、同棲しても、子供を生むでもなく、家事をするでもなく、毎日お酒ばかり飲んでだらだら暮らす主人公明日香。 途中で子供を生んだらかわるかなーともチラッと思うシーン。最後にあたしって、ゥ在奴、だめなやつしょうもないやつなんだって、自覚するところで終る。 あのあとどうなるのかな。 まともに女になれるといいね。 女っていう存在は、セックスすることでも、スカートはくことでも、口紅ぬることでもなく、子供産んで育てて、姑ともめたりしながら、社会の中で、生きていくことなんだと思うの。 明日香ちゃん女になるんだよ。 『犯人につぐ』 「あいしているといってくれ」で、ちょっちファンになったトヨエツ。でも、おじさんになったね。役者仕事とはいえ、自分の子供を死体の役として映画にだすなんて私はいやだなーっと、思いましたが。 刑事ものあきました。 普通の話だっただけかな。 『めがね』 「かもめ食堂」と、同じ波長の映画ですね。どっちがいいかとも話題になってますが、「かもめ食堂」の方がよかった。お話がわかりにくいというか、ぼかしすぎてる。人生がちょっちいやになって、南の島にやってきたヒロイン。できればほっといてほしいのに、やたらかかわってくる宿の人たち。そこに、ヒロインをおっかけてやってくる男の人。話をさばさばさせるために、話ぼかしすぎ。 やってきたのは、ぜったいヒロインに惚れてる同僚の先生だと思うんだけどね。ヒロインの職業は先生。先生だから、長期休暇を利用して旅行できてるわけですね。だからこそ、同僚の先生も追っかけてこれる。 ヒロインは何かに傷ついている。なににきずついているのかは、最後まで、わからないので、見る側のそうぞうにまかされる。 恋人との揉め事というより、担任していた、生徒になにかあって、ショック受けてたのかもしれませんね。 新学期があるので、かえっていって、お話は終わりでした。『初雪の恋』宮崎あおい主演。設定としては、悲恋になるほどの話なのかが、疑問でした。父親が死んでから、おかしくなった母親。その母親にからんで家に出入りするようになったへんな男。そのせいで、恋人とわかれざるをえなかったヒロイン。ヒレンなるほどの設定で、しょうか?困っているなら、だまっていなくなられるよりは、相談してほしいと、思うのですが。男の子の性格が軽すぎる。あおいちゃんかわいかったです。
2009年01月02日
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おもしろかったです。かるーいノリで気楽に楽しく見られる映画ですね。 宣伝では、綾瀬はるかのアップが多用されていたので、綾瀬はるか主演の青春ドタバタドラマかと、思っていたのですが、思ったほど、綾瀬はるかの活躍するシーンはなくて、見終わってみると、チーフパーサー役の寺島しのぶと、コーパイ副操縦士役の田辺誠一が一番印象に残っていたりする。 寺島しのぶさんて、不倫する妻役とか、芸者役とかが多かった気がするのですけど、今回はきりっとした頭のよさそうなキャリアウーマン役です。(CAは、キャリアウーマンていうのかなあ) なぜか、主役の綾瀬はるかより、めだって印象強かった。綾瀬はるかの役どころは、ドラマではよくあるちょっとおっちょこちょいの新米CAという、設定なので、いまさらーなのですよね。 寺島しのぶさんて、脇役をやると、なぜか主役より印象に残る不思議な女優さんだと思う。彼女が主役をやるとどうなるのか、こんどあの映画を見てみようとおもう。 それでも、綾瀬はるかの見せ場として、機内で土壇場切羽詰って、ありあわせの材料でケーキつくっ中あたりは、ちょっと感動しました。 今までの飛行機ものドラマは、パイロットと、スチュワーデスがメインのお話だったのだけど、今回の映画は、パイロットと、CAだけでなく、そのほかの機械の整備する人、グランドスタッフ、地上勤務員、天気の情報をパイロットに送ったり、いろいろな情報を調べておくって、飛行機の運航を助けるオペレーションコントロールセンターのひとたちや、空港にいる野鳥を追い払うバードさんという仕事などなど。空港に働くいろんな仕事をする人たち全部を取りあえげてその仕事ぶりをみせてくれる映画でした。 飛行機好きだから、それに関した仕事をしたいというと、パイロットと、CAしか思い浮かばないけれど、実際には空港のお仕事ってすごーくいろいろあるのですよね。 で、映画の中でも空港見学する小学生たちが出てくるのだけど、私たち観客も、彼らとおなじポジションで、空港見学をしている。そういう映画だったと思います。 映画中で成田をとびたった飛行機は、トラブルで成田に戻ってきちゃうという、かるーいパニックが中盤から起きるわけですが、それにともなって、空港内で働くいろんな人たちが、平常勤務とは別に、緊急事態での仕事ぶりも見せてくれるわけです。 この映画は別にパニック映画じゃないので、起きるトラブルもほんの少しだけ大変な事件で、そして、そういう事件を通して、空港で働く人たちの仕事ぶりが描き出されているのですよね。 で、トラブルがおきた操縦室で、土壇場の時の機長(時任三郎)の対応が、「何とかなるんじゃない」というもので、土壇場になった時に自分や同僚を追い込まないおおざっぱさや、タフさやいい加減さが、なかなかいいなと思いました。 私も大変な時こそおおように構えて、普段はうるさくても、こんな時f、おおらかにやり過ごせる鈍感力を身につけたいものだ。と、学ぶものがありました。ところで撮影に出てきた空港は、羽田空港だったような気がするのですが。お話の中の飛行機は、ホノルル行きの国際線だったのに、なぜ、成田じゃなかったのでしょう。見終わったから、悩んでしまいました。私の気のせい?でも、国際線のはずなのに、画面の中にはほとんど外国人は出てこなかったし、税関を通るシーンも全くなかった。飛行機ファンが有名な京浜島で飛行機の写真とってるシーンもでてきたし。空港内の場面もどこか羽田に似ていて、羽田だとばっかり思ってみていたけど、みている間はぜんぜん不思議に思わなかったのですけど、よくよく考えてみると、おかしい。こういう違和感と、現実との誤差を無視して、撮影しやすい羽田で映画を撮ったということでしょうか。成田での撮影は許可が下りなかったのでしょうか。だったら、無理して国際線という設定にしなくても。あ、でも、国際線じゃないと、機内食なんてでないし、一、二時間くらいの搭乗時間しかないし。うーん。変だよーーーーーーー。そう考えると、へんなところはいっぱいあって、飛行機きらいなのに、新婚旅行にハワイを選んでいたり、トイレにこもった新婦を説得する話の内容も対して感動する話でもないし、あの程度で説得できたとも思えない。機内で即席のデザートを作ってるけど、そんなことして食中毒起こしたらどうするの?それを防ぐための機内食なのでは。グランドスタッフが、トランクの取り違えのトラブルを解決してくれたくらいで、何時間も空港でお客さんが待っているなんてことも、ありえないのでは。見終わった段階では、面白かったのですが、検証してみると、変なところの多い映画でした。それでもまた、飛行機乗りたくなってしまいましたが。 ハッピーフライト@映画生活
2008年12月04日
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日本では吐いて捨てるほど多いといわれる鈴木さんと佐藤さん。その佐藤さんがあんまり多すぎるから、少し人数を減らすために、鬼ごっこと称して狩られてころされ始めてしまった。そして、主人公の名前も、やっぱり当然佐藤だったのだ。 なかなか興味をそそるストーリー設定。鬼役の赤い目玉二つの黒いお面という、いかにもな、DVDの表紙は、おもわず、目がいくのだけど、いざ見終わってみると、たいしたことなかった。 前半はかなり怖いのだが、謎解きの始まる後半からだんだん失速していくようだ。なにせ、王様が出てきた段階で、正体がだれなのか、ほぼ簡単に予測できてしまう。それに、おどろおどろしい恐怖の対象である王様の兜や、衣装がよくみると、ちゃっちいのだ。 コレだけの設定をしておいて、結局、パラレルワールドものだったのかと、謎解きされると、がっかりする。 しかし、設定自体は面白いのだし、コレを、それこそ、ハリウッドで、ハリウッドの技術を駆使してつくれば、かなり、本格的な、セットや、お面などの装具の効果で、面白さは上がるかもしれない。こういう作品こそ、ハリウッドで作って欲しいですね。でも、ハリウッドでつくるには、やっぱり、日本でそこそこ評判にならないと、だめだしね。 ハリウッド版にすれば、殺される対象の苗字は、佐藤じゃなくて、「スミス」さんとかになりそう。アメリカを独裁者が支配する国にしたら、かなり怖いですねえ。それも、かなり、自分勝手で自分のことしか考えいなし奴だしね。 リアル鬼ごっこ@映画生活
2008年09月28日
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たまたまであった、足の不自由な女性に恋をする主人公。そして、結婚まで覚悟したはずが一瞬の心の迷いにきづき、結局、その重さに別れてしまう。しごく当たり前な展開だけれど、どこか味わいのあるストーリーや、風変わりで個性的な人物がいっぱいでてきて、独特な物語になっていた。特にヒロインのかなりかわった少女ジョゼを池脇千鶴が好演していた。 しかし、私も普通の根性なしの人間なので、息子が、障害のある女性を奥さんにしたいといって連れてきたら、どうしようと考えてしまった。 憧れの女性の先輩役香苗が、今わりと話題の上野樹里だったりしておもしろい。眉毛がやけに濃くて、気になっちゃったりした。 障害のある女性に本気でほれる男ってどうなんだろう。こういう男を将来夫にしたら、人間的には、深みと幅と人情のあるやさしいだんなさんで奥さんは楽かな。それとも、またすぐ、そういうタイプの女性に惚れて、浮気されたりしたら、困るかも。彼は、どっちのタイプだろう。 ジョゼと一緒に暮らす、どういう関係かよくわからないおばあさんが、初めに言う言葉。 「あの子はコワレモノなんだよ。」 最初に言う時は、障害のあるジョゼの体のことを言う。体が壊れていて使い物にならなくて、世間のお役にたてないどうしようもない人間。そんな意味合い。 でも、二度目に恒夫に言ったその言葉は、そっくりおなじなのに、全く違う含みを持っていた。 心が傷ついたってこと。 心がきずついてる人間。 同じ言葉が物語の進むにしたがって違う意味を持ってきていて、このあたりの、シナリオがみごとだなーと、感心してしまいました。 で、心がきずつくのには、障害のある人も普通の人も、同じなわけで。主人公の恒夫は、最初から最後まですごく優しいんだけど、そんな彼でも、彼と関わる女性を傷つけてしまったりする。恒夫に振られて自暴自棄になっちっゃた香苗もやっぱり、コワレモノだった。 どうしてもやっばり、ジョゼとやっていく自信がなくて、別れちゃって、でも、まだジョゼを好きだから、香苗の前なのに、泣き崩れる恒夫もやっぱり「コワレモノ」だったので、人はみーんな『コワレモノ』になりやすいのかもね。 このあとたぶん、恒夫は、香苗と結婚するんだろうと思う。けれど、足の悪いことが負担になって別れてしまったかもしれないけれど、普通の人間の香苗だって、体の故障とは別に、長い結婚生活の中で、恒夫の負担になっていく可能性はあるだろうと思う。案外、気性のしっかりしているジョゼが実は、以外に長い人生をそいとげてみると、いい伴侶だっなということになることもあるかもしれない。壊れているのがどこの部分なのか。目では見えないものがいろいろあるんじゃないのかな。ふられたショックで、ジョゼにけんか売ったり、就職も投げだしちゃったりする香苗の方が実は意外と大変だったりするかもしれない。 あの逆境の中でも、自分で料理を作り、拾ってきた本しか読めない状況で、それなりに読みきって自分自身を強く持っていたジョゼの方が、実は楽だったりするかもとか、思ったりした。 とするとあるいは、恒夫は、ジョゼが身障者だったからじゃなくて、そういう芯の通った強さに逆に、気おされてくじけちゃったのかも。 恒夫は優しいけれど、誠実じゃない。そんな彼だからこそ、障害をもち社会の底辺で暮らしながらなお、自分というものを持っているジョゼの強さが、彼をほれさせたのであり、その強さが、二人を別れさせた理由でもあるのだと思う。 二人で旅行に出た時、「車椅子を買えよ」という恒夫に、「いやや」と拒否するジョゼ。大概の女の子が惚れた男に嫌われたくなくて、低姿勢で、自分をおさえ、いいところだけを見せようとしてしまうものなのに、ジョゼはあえて、自分の最大の欠点、負い目を恒夫に示し、押し付け、それでも、自分と添い遂げる覚悟があるか、その真意をはかったのだと思う。 そしてそんな自分に一時でも惚れてくれて、結婚まで考えてくれた恒夫に対して、自分の体を許すことで応えたのは、ジョゼのやさしさなんだと、思う。ジョゼはたぶん、最初から、いつか、恋の終わりがあることを覚悟していたのだろう。 けれど、彼との出会いによって、閉じられていたジョゼの世界は開かれ、外に向かい始める。それだけでも、ふたりのであった意味は大きい。 この恋によって、得たものは二人のどちらにもあるのだろう。恋の向こう側に、成長してより人間らしくなった、二人の姿があった。恒夫は少しは誠実になったかな。 原作とはちがうのかもしれないけれど、やっぱり、田辺聖子独特の味わいを、感じる映画でした。 ジョゼと虎と魚たち@映画生活
2008年09月27日
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ほぼ原作の雰囲気どおりの映画でした。最後にでてくるロボットとかは、実写ならでわだと、思う。にもかかわらず、見終わってみると、原作で感じたわくわく感も、感動もどきどきも、緊迫感もなし。なんでかなーと、考えてみると、そうそう、肝心の「トモダチ」の、怖さがぜーんぜん伝わってこないし、うまく描ききっていないからだ。 この話の、機軸は、「トモダチ」の、怖さ、不気味さ、誰なのか、最後までわからないこと。全てのストーリーも、エピソードも、事件も、「トモダチ」の怖さと不気味さと、得たいのしれない行動にあるわけで。 ケンヂや、その仲間たちが、集まるのも、戦うのも、いろんな事件が起きる理由のおおもとも、ぜーんぶ「トモダチ」が原因なのに、それが、みてて、分かりにくい。 おかけで、話の怖さも面白さも、感動も伝わってこない。 シリーズ二作目以降、もっと「トモダチ」の怖さを演出してほしいと、思います。 ケンヂ役が唐沢利行なんて、かっこよすぎ。原作の絵から考えると、 原田泰三なんかがいいと、思うんだけどなー。「オッチョ」とか、「ユキジ」の常盤貴子なんかは、よかったですね。
2008年09月26日
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優しいということが、いいこととは、かぎらない。 主人公の士郎は、アメリカかぶれの祖母に育てられたせいか、女の子にとてもやさしい。そして、バイト先で知り合ったのり子と、同棲を始める。けれど、のり子はその前に大学生の彼がいて、何かをきっかけにして別れてしまったのだ。その別れた原因は、映画の中では、語られないけれど、たぶん、彼氏が浮気したのだろう。 けれど、別れたはずの彼は、やっぱりのり子に会いにくる。そして、結局二人はよりを戻してしまい、士郎は一人、残される。やさしい男の士郎を選んだはずの、のり子がどうして、彼女をきずつけ、手ひどく冷たく、突き放したはずの彼のもとへ戻ってしまったのだろう。 彼と別れたはずの、のり子が心の底でやっぱり元の彼を忘れられなかったように、浮気をしてのり子をふったはずの彼もまた、やっぱり、のり子と別れた辛さや、のり子のいない時間の寂しさに、傷ついていた。 お互いにやさしさもなく、傷つけあって別れたはずの二人は、けれどやっぱり、もう一度、恋人同士に戻ってしまう。 「やさしいだけじゃだめなんだよ。」と、アメリカンなグランマの士郎の祖母は、言う。祖母もまた、別れた男を忘れられずにいる。もし、普通の日本の祖母だったら、恋人にふられた士郎に、もっとちがった、道徳的な説教か、ありきたりの慰めの言葉をいったのではないかと思う。 けれど、人は優しさというシュガーだけで出来ているわけではなくて、人生に味わいをもたせるようなスパイス、人生の痛みを経験していきながら、その人としての深み、味わい、を、かもし出していくものなのだろう。 甘さと苦さ、辛さがまざりあって初めて、「風味絶佳」なその人なりの独特なうまさ、を作り出していくのだろう。 やさしくて、正しくて、道徳的に正しいことをまくし立てて、その生活ぶりもものすごくきちんとしている人というのがいるものだけれど、そういう人というのは、ある意味でちょっと、わずらわしいと、周りの人間に、感じさせていたりするものだけれど。 ただ、幸せで、まじめで、やさしくて、甘いだけではなく、人の痛み、辛さを知って、失恋の痛みを知って、そうしてはじめて、他者の痛みを知り、共感できる感性を持ちうるとしたら。 失恋をしった士朗もまた、人として味わい深い、シュガーな部分も、スパイスな部分も持った男となっていくのかもしれない。 夫婦や、恋人や、友達の関係が長く続くのは、お互いの弱点や、欠点を許容しあえるような関係になっているからなんじゃないかと、思うんだけど、小さい頃は仕方ないとして、大人になってまで、まだ親子なんだから、子供をしつけなくちゃと言わんばかりに合うたびに小言をいったり、欠点をあげつらったり、いろいろと指図したり、するような親には、いくらそだてられた恩義があっても、やっばり、逢うのはつらいなあと、最近しみじみ思います。スパイスだらけってのは、やっぱり、おいしくないです。 シュガー&スパイス~風味絶佳~@映画生活
2008年09月18日
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もともとは大好きだったはずのピアノ。けれど、父の死と、母からの強制によって、迷いの中に入り込んでしまったうたは、どうして、自分がピアノを弾くのかわからない。 自分は本当に、ピアノが好きだったのか。なんで、自分はピアノを弾かなくちゃならないのか。 まわりから、どんどん特別扱いされる中で、どんどん違和感が大きくなっていくうた。 けれど、耳の病気にきずいた時、やっぱりピアノが好きなんだと、うたは思う。 ピアノが弾けないなら死んだ方がいいと思うほどの絶望。それでも、自分を創っているのは、音楽なんだと、うたは思う。自分を生かしているのも、自分をつくりあげているのも、音楽なんだから、生きることと、ピアノを弾くことは一緒なんだと。 音楽が苦手な私にも、周りをひきつけるほどのうたの演奏の良さや、ピアノごとの音の違い、うたの演奏の魅力を体感できた感じです。 でも、コンサート会場とか、ちゃっちい。コンクールもでてないうたがいきなり、オーケストラと、競演ていうのも、楽譜もみないで、演奏するあたりも、ちっょとうそくさい。そのあたりが残念。 エル役ですっかり有名になった松山けんいちが普通の若者を演じていて、ちょっとおもしろい。 成海璃子って、かわいいというより、美人。子供なのに、すでに美人。顔の造作の全てがでかい。大人になったら、どんな女性になるんだろう。 神童@映画生活
2008年09月11日
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面白かったです。佐藤浩市さんがあんまり好きじゃないし、前回の「有頂天ホテル」も、いまいちだし、見に行くのはどうしようと、ためらっていたのですが、以外にというか、なかなかというか、よかったです。面白かった。 前回の「有頂天ホテル」は、巨大ホテルという設定のわりにセットがちゃっちくて、あんまり面白くなかったのですが、今回はその映画セットのちゃっちさをうまくいかした映画づくりになっていたなと、思います。あの守加護の町は、あきらかに映画のセットまたは、舞台のセットというつくりになっていて、逆にあれが、ものすごく本物っぽくリアルに作ってあったら、おかしいのです。そういう、いかにもセットぜんとした、つくりをストーリー展開上でうまく生かしてあって、ちょっとディズニーランドか、どこかのテーマパークにはいりこんだような感じがして見ていて楽しかったし、お話自体は、マフィアとか闇組織の人たちのアメリカン・ギャングの抗争のお話なのだけど、それが、喜劇として、楽しめるつくりでした。 その話と設定の作り方が絶妙で、要所要所の笑いが楽しくて、何気ない会話のはずなのに、どうしてここで笑いが取れるのだろう、三谷幸喜ってすごいなと、思いました。今回は、三谷幸喜の喜劇作家としての腕前が存分にいかされ、彼の映画への愛情もタップリと感じ取ることが出来ました。 ストーリー上の複線の張り方もうまくて、無駄がない。きらいだったはずの佐藤浩市さんが、売れない役者として、普段の役者の彼と、演技としての殺し屋を演じている時の彼の表情の変化など、すばらしくて、身終った時には、彼への認識が変わっていました。 綾瀬はるかさんも、昔、テレビドラマの「里美八犬伝」とかの時は、なんだか、貧乏臭くてつまんない子だなーと、思っていたのですが、その後の彼女の活躍ぶりと演技力に驚かされました。今回は脇役だけど、こういう役に三谷さんは、意外と実力派の存在感のある女優さんを使うのですよね。 それと、ギャングのボスの愛人というすごくケバイ女の役に清純派の深津絵里さんだったりして、そういうアンチな配役が、よかった。オレサマキャラの佐藤浩市が、売れない役者で、他の売れっ子の俳優さんに気をつかって低姿勢だったり、まじめキャラの妻夫木聡が、女ったらしで、うそつきでいいかげんな男だったり、ひょうきんで人情味のある優しい西田敏行が、ギャングのこわーいボスだったり。 ほとんどのキャスティングが、その俳優さんたちの本来のキャラとは、正反対の役どころに配されていて、それが、うまく笑いに結びついていっているのですね。そのあたりが、絶妙ですね。 コメディって、悲しい話や、感動大作より、ずっとずっと難しい。人の笑いをとる、人を笑わせるってとても難しい。近作は、彼の作品の中で一番、完成度か高くて、脚本がよくねってあって、面白くて、よい作品でした。 とにかく前編笑えて楽しかったです。夏バテでめいった時に見に行くには、ちょうどいい映画だと思います。ところで、「マジック・アワー」というのは、夕方の日の沈みかけた時間、たそがれのことをいうのだそうです。それは、一日の中で一番世界が美しく撮れる時間なのだそうです。でも、日本では、たそがれというのは、「逢魔が時」といって、魔に出会う特別な時間。つまりは、人の心が微妙に不安定になって、悪いことをふらっと、やってもいいかなと、思ってしまうような時間なのです。私は、子供の頃は、この夕方の時間がとても不安でどきどきして、物悲しい気持ちになるような時間でした。特に旅行先で、夕方まだ旅館に着かずに、車で知らない町の中なんかを走っている時は、とても不安だったのです。家族旅行で車の中には、両親も兄も一緒だったのに、それでも、不安で、切ない気持ちになったのです。そんな「たそがれ」を英語だと、「マジックアワー」と、表現してしまうのかと、ちょっと驚きました。日本では、「逢魔が時」と、言うのに、外国では「一番美しい時間」だと思うのです。なんて、認識や感性が違うのでしょう。こんな感性の違いが、それ以外のいろんなものや、ものの考え方にも影響しているのだろうなと、思います。そんな美しいたそがれ時を集めた映画です。 ザ・マジックアワー@映画生活
2008年07月18日
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とにかくわかりにくい映画だ。 展開が早い上に、新聞社編集部内の専門用語も飛び交うし、前半はわけわかんない感をあじわいつつ観てる、という感じ。 夏の感動大作風な作りのわりに、見終わった後の感動もない。なにを訴えたいのか、監督は何を考えているのか。 この映画は、もしかすると、原作とはテーマが違うのかもしれない。 堤真一が演じる主人公悠木和雅は、さわやかで人間的で有能そうに見えるわりには、話のエピソードのひとつひとつを検証していくと、すごく嫌な奴なのだ。 編集部内で悠木と敵対する同僚等々力との話し合い、言い合いをする場が、他の同僚によってセッティングされた料理屋の一室なのだが、そこで悠木は、用意された料理にほとんど手を付けず、手に火のついたタバコを持ちながら、等々力と言い合う。その間、食べられないでいる料理の上にタバコの灰がふっているだろうなあと、そのことばかりがやたら気になった。昨今ニユースになった、「船場吉兆」のお客さんよろしく、出された料理には目もくれず、残そうが、タバコの灰がかかろうが、自分の意見を相手に言うことにだけに夢中で、まったく気に留めていない様子。たとえ、あの場で料理を食べないにしても、せめて、タバコを持ってないならましなんだけど。 全権デスクとして、自分が任されている「日航機墜落事故」の紙面のことに対しては、ものすごく気を使っていて、その紙面やその記事をよんだ読者がどう感じるか、不快感を与えないかということには、非情に気配りをしている。とにかく、自分の仕事にだけは、すごく熱心だ。けれど、そのためには、それ以外の他人の仕事をコケにしたり、つぶしたり、他の人間がその人たちなりに、責任と誇りをもってやっている仕事に対して、全く配慮も気配りも思いやりもない。 自分のスクープを出すためには、新聞を配達する立場の人の仕事の手順なんかは、どんなに相手が拒絶して、説明しても、無視するし、営業が必死に取ってきた広告も、自分の担当する紙面に載せたい記事をあげるために、抜いてしまうし、女性部下が調べてきたネタを土壇場で他の男性記者に担当代えするし、そこまでいろいろしながら、記事を載せる最終決定の段階で、やめてしまうし。せっかく女性記者が自分の感と能力で、持ち上げてきたものなのに。 部下が、ナマの現場を見てきて必死に村中の電話を探して送ってきた記事は、落とすし、生の現場を見て、精神的にまいっている部下に対しても、怒鳴りつけるだけで、心理的な気配りや気遣いもしない。 とにかくすごく嫌な奴なのに、なんでこんなかっこよい人物のように描かれているのか、分かりかねる。 ところが、この映画の中で、ものすごく嫌な奴として描かれているのが、この新聞社の社長であり、実は悠木の実の父である白河瀬三。 悠木はまったく自覚していないけれど、彼のこの他人をコケにするような嫌な部分は、この父親から受け継いだのだろうか。彼は、父親にいきなり、日航機墜落事故の全権デスクという大任を任されるけれど、いざとなると、肝心なところでじゃまされたり、同僚を死に追い込んでいるのがこの父親だったり、同僚がこの新聞社に見切りをつけて、東京の新聞社に移っていったとにもかかわらず、未だに、この新聞社に残っている。 母親を娼婦呼ばわりして、馬鹿にしたり、とにかくすごいいやなやつなのに、なぜ悠木はこの父親の元にいるのだろう。 彼はどうしても父親を乗り越えることが出来ない。 その悠木を救い出し、成長させ、父親にするのが、実に、彼の息子なのだ。 彼の嫌な部分は社長である父親からのもので、その悠木の嫌な部分を受け継いでいるはずのその息子じゅんが、自分の父親悠木を救う手を差し伸べているのは、なぜだろう。 悠木が父からもらった遺伝子は、彼の中で半分。その遺伝子は、悠木の息子じゅんの中では、さらに半分になって、四分の一。世代が受け継がれていく中で、だんだん「嫌な奴の遺伝子」は薄まっていく。 ものすごく「嫌なやつ」なのに、乗り越えられず、逃れられない、父からの遺伝子。決して切り捨てることのできない運命。けれど、人は、持って生まれたものをどうすることも出来ずに、その身のうちにもち続けてその生涯を送らなくてはならないけれど、人生は、さだめだけではなくて、その育っていく環境、生まれた後に手に入れる別のもの、そんなものによって、その人間性を変化させていく。 悠木が乗り越えられなかった父の存在。嫌なやつである自分。けれど、そのさだめから逃れられずにいた彼を救い出し、父親として成長させたのは、悠木から嫌な奴の遺伝子をもらっているはずの、悠木の息子自身だったのだ。 じゅんは父親から受け継いだ遺伝子を乗り越えて、悠木の知らない間に男として成長し、父を救い出す存在にまでなっていた。 成長した息子自身は映画の中では、まったくでてこない影の存在になっている。けれど、ラストで自分から息子に会いに行く悠木は、そこで初めて、父となり、自分のプライドを捨てて、人として自由になり、父としての成長を遂げることができる。 父となることではじめて悠木は父をのりこえられたのではないのだろうかと、思う。 ところで、悠木が「衝立岩」に上るために助けてくれるのは、彼のもと同僚であり、友人であり、悠木の父によって間接的に殺された安西、の息子だ。安西の息子がなぜここまで、悠木にしてくれるのだろう。それは、かつて、安西が倒れた時に、悠木が忙しい仕事の合間をぬって何度も病院を訪れ、安西のことをきずかい、手助けしていたからだろうと思う。それを安西の息子である燐太郎は見ていたのだ。 携帯もないこの時代にさらに、現場と編集部の間の連絡のための無線機すら導入しようとしない会社の上層部に、不平をいう若手社員たち。けれど、群馬の偉人が国定忠治であるように、県民の目の前で新聞者の人間がいかに苦労し、頑張っているかを見せなければ、県民や読者の支持は得られないという、意識の元に、無線機を導入しない。携帯が当たり前のようにあって、それを上の方の人間がそんなもの使うななんて止めることは出来ない今の時代には、すでに不可能な価値観なのだけれど。そんな風に目の前で見る他者の行動は、その人間に確実に伝えるものがある。 「衝立岩」のぼりの途中で落ちそうになった悠木を救ったのは、悠木のクライミングを予想して、はるか前に衝立岩に上って、父のためにハーケンを打ち込んでいた息子じゅんの行動、そのものだった。じゅんに会いたいと悠木を思わせたのは、その一本のハーケンだ。それでもまだ、足踏みして、決定的に決断できずにいる彼に「自分から会いにいけばいいじゃないですか。」と、最後の一押しの言葉をかけるのは、悠木とも、じゅんとも一緒に「衝立岩」を登った燐太郎だ。 安西のためにした悠木の行動と、そのやさしさや、思いやりは、回りまわって、息子たちを通って、最後に彼に戻ってきた。 いやな奴だったはずの悠木の中にも、人としてのやさしさはあったのに、仕事の場ではなぜそれがなくなってしまうのだろう。 父を乗り越え、同僚を圧倒して、自分の能力を他人に示したい。自分が思い描く能力と、現実の自分の能力とのギャップと、能力に伴わないプライドを、自分の中で折り合いを付けられずに苦しむのが、男性の人生というものなのかもしれない。 女性が他者との関係性に生涯悩み続けるように、男性は、自分の能力とプライドとの誤差に生涯悩み続けるのかもしれない。それゆえに仕事にこだわり、成果をあげようとしていく仕事の現場の中で、クライマーズ・ハイに近い感覚に埋没していってしまうのだろう。 「なにか、できすぎていませんか。」という、電話の向こうの部下佐山の言葉に、水をあびせられたように、冷静になった悠木は、そこまでの準備の全て、部下の苦労を前にして、それでもなお、スクープを、一面に載せることをやめてしまう。 仕事のために、自分のプライドのために、他者を傷つけ、引き落としていく仕事の世界の中で、見失ってしまいがちな大切なもの。 それが、他者への配慮であり、仕事の成果や、能力への評価、プライド以上に守るべきもの。それが、真実というものであり、決してなくしてはいけない、誠意なのであるのだと、たぶん、そういう結論になるんじゃあないのかなと思う。確約が取れずに、スクープとして載せるのをやめてしまった、日航機墜落事故の原因はなにかという、問題。スクープは、ほしい。けれど、真実かどうか、わからない段階で記事にしてしまうことを悠木はよしとしなかった。スクープをあげること、仕事で成果をだして、周りからの評価を獲得し、プライドを満足させること。そんなことにとらわれて、いつのまにか、真実を偽装してしまいそうになる、仕事の世界。この翌日に大手新聞社から彼の上げようとしたネタがスクープ記事として出された。やはり、彼のスクープは、正しかったのだろうか。彼も、スクープを載せればよかったのだろうか?けれど、結局今現在にいたっても、日航機事故墜落の本当の原因は、不明なままなのだ。 「チェック、ダブル、チェック」 真実を追い求め、真実を見失うな。自分のプライドのために、真実を偽装するな。と。 でも、この映画。見終わっても、感動できません。残念なことに。ところで、この映画を見に行ったのは、堺雅人が出てたから。いつもは、時代劇なので、落ち着いて大人びて見えていたのですが、スーツ姿だと、なんか幼げで、かわいかったです。それにしてもなぜ彼はいつも、いい役どころをもらっているのでしょうねえ。 クライマーズ・ハイ@映画生活
2008年07月10日
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好評判の作品なので、気にとめていたですが、やっと、借りてきました。原作が群ようこと、最後のところで知って、なんとなく、納得。 でも、私には、女だてら、たった一人で遠い北欧までいって、たった一人で経営のなりたつかわからない、食堂をはじめるなんて、そんな勇気はないです。ぜんぜん知らないところにたったひとりで、ぱっと出かけていったり、踏み込んでいける人というのは、基本的にだいたい人間の好きな人なんだろうなあと、思います。ピーター・フランクルの本を読んでいた時も彼の友人で、しらない異国の地で浮浪者の集団に入り込んで仲良くなってしまう人がいたそうです。その人は、全ての人に善意があると信じていたような人。 知らない異国の地でも、食堂が流行らなくても、不安そうでもなく、日々たんたとすごす主人公サチエ。彼女は、窓から怖い顔で店内をのぞく人にもにっこりと微笑みます。 最初ほとんどお客さんのない状態で、町で知り合ったミドリさんや、マサコさんが、お店の手伝いをしはじめます。そのうちちらほらと、お客さんがきはじめて、ラストでは、店内満席のお客様たち。でも、三人もいるので、あわてることなく、速やかに、お食事の用意はなされていきます。 普通こんなお店を開くと、最初は店長一人だけでやっていて、お客さんが増えて人手が必要になってから、新たに店員をやとうものです。だから、不慣れな店員や、人手不足で料理のくるのが遅いことにお客さんたちはいらいらさせられるものですが、かもめ食堂の場合は、早い時期から、三人のスタッフがそろっていたので、あわてることもありませんでした。 いくら、ただのお手伝いでも、誰もお客さんのない状況で、二人三人と、店側の人間ばかりが増えるのでは、経営が破綻しないのかなと、こんなほのぼの系の映画なのに、そんな、経済的なことを心配して見てしまったのですが、最後には、かもめ食堂は繁盛したので、ああ、よかったと、思ったのでした。 まず、迎える側の準備が整って初めて、人が訪れる。人をむかえる場ができていれば、自然に人は、やってくる。いれもののないところに、水を入れることが出来ないように。 ミドリさんが、いろいろと心配して、メニューを工夫しようとしたりと、いろいろと考えている時もサチエさんは、そのスタンスをかえませんでした。かつて、母のいない家庭で、遠足の時に父が作ってくれたおにぎり。おにぎりと一緒に味わった父の愛情を自分もまた、他の誰かに伝えたくて、そんな思いで始めた食堂なのでした。 おにぎりが、食堂のメニューの中で、ライスボールではなくて、onigiriと、書かれているところがよかったです。 もし、彼女が結婚していれば、その愛情は彼女の夫と子供たちに伝えられたかもしれません。でも、結婚していない彼女は、自分のもらった愛情を伝える誰かをもたないままでした。 人は自分がもらった愛情を、また、誰かに伝えたいと、思うのかもしれません。父からもらった愛情とおにぎりは、なぜか日本から遠い北欧の町の食堂で、誰かに伝えられることになったのでした。 こんな風に誰かにあげたいと思うほどの愛情を、私は子供たちに伝えているかなあと、思ったのでした。 かもめ食堂@映画生活
2008年07月04日
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ほぼ原作どおりの映画化で、よい作品に出来上がっていました。原作を読んだ時は、それほどおもしろいと思わなかったのですが、こうして映画でもう一度じっくり見ると、あらためていい作品なのだなあと、思いました。 日常の現実の女の子の学校生活の大変さ。友達がたくさんいて、楽しいところという、一般的なイメージとはちがう、学校という場の、現実、真実。もちろん、私の世代も経験してきた女の子の世界の流儀が描かれています。これは、本当に本当の事で、この本を読んだ娘は、「そうそう、本当にそうなんだよ、大変なんだよ。」と、感動して読んでいましたっけ。 この作品については、かなり昔の記事で書いたので、そちらを読んでいただけたらと、思います。 ところで、物語の中で、ジャムをつくるシーンがあるのですが、そのジャムづくりに使われていたのが、スプーン印の白砂糖でした。え、白砂糖?黒砂糖とか、さんおん糖じゃないんだー。 と、この部分かやたら気になった私です。 主人公まいが、一時的に一緒に暮らすことになる彼女のおばあさんの家は、田舎の一軒家。周りにはほとんど家のないところでの大自然の中での暮らしです。イメージとしては、今流行のターシャおばあさん風。自分で畑をつくり、野菜をつくり、イチゴを作る生活。まさに、流行のオーガニック、スローフードの生活ぶり。 でもでも、このおばあさんは、たぶんそんな意識はないのでしょうね。もともと自分が祖国のイギリスで暮らしていた生活をそのまま日本でもやっているだけ。オーガニックとか、スローフードなんて考えているわけではないのでしょう。 だとすると、自分で作れるもの以外は、少し距離のある田舎の近くの町の雑貨屋さんや、小さな食品店で、買ってくるのでしょうか。そんなお店には、今流行のちょっと値段の高い黒砂糖や、三おん糖なんて置いてないでしょうね。ネット通販で買うなんてことももちろんしてなさそうだし。 このおばあさんの生活は、そんな力の入ったものではないのだろうなと、思いました。 だから、ジャムは手作りだけど、使うお砂糖は、ごくごく普通の白砂糖、日本でもいちばんポビュラーで、田舎の町の雑貨屋さんにも当たり前に置いてありそうなスプーン印のお砂糖になるのでしょう。 さて、主人公まいは、大人になり始めています。自分の意志でいろんなことを決めたり、行動したりしたいと思い始めている彼女には、なんでも集団の意識に合わせて、自分の意志は押し殺さなければならない、女の子の集団に、違和感を感じ始めてるのですね。そして大人の男の人そのものの源治さんの存在自体がいや。ヌード雑誌なんて不愉快以外のなにものでもない少女そのものでもあります。 大人になりはじめたまいが自分の中の不調和をうまく認識できずに、自分の中の違和感がなんなのかわからずに、人生を立ち往生している。そんなまいの心中をはっきりと言葉にして、彼女に自覚させてあげる。「これからは、自分で全部決めるのよ。自分の意志で行動するのですよ。」と。 それはまさに、まいが心の奥で望んでいながら、心の上層までは浮き上がらせることのできなかった、彼女の望みそのものなのでした。 予定外に涙が出てしまいました。見終わった後もしばらくそのまま泣いていたいなあと思ったほどなのですが、そういうわけにも行かないので、立ち上がって劇場を出ました。でも、映画を見た後に泣いていても不思議じゃないので、泣き顔でも大丈夫でしょう。映画館を出る頃には、普通の顔に戻っているはず。 最後に、ターシャ・テューダー様のご冥福をお祈りいたします。 西の魔女が死んだ@映画生活
2008年07月03日
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10歳前後の少女。20代の若い女性。40代の中年女性。60前後の高齢期入り口の女性。70から80歳くらいの高齢のおばあさん。それぞれの世代の五人の女性たちが登場する物語。一人の女の一生を五人の女に分けて語られる、物語。 房総の海辺の町に残る古い大きな民家を舞台に、五人の女の人生の戸惑いが語られる物語。 妊娠したのに、結婚のための堕胎か、未婚のままの出産かを恋人に迫られる明美(宮地真緒)。夫婦の折り合いが悪くて、夫に出て行かれてしまった光子(浅田美代子)。うまくいかない現実、仕事から逃れるようにしてこの家にやってきた美土里(樹木希林)。戦争によって死んだかつての恋人の遺品を捜すために戦時中の疎開先であるこの民家に、恋人との約束を思い出してやってきた保恵(香川京子)。 男の身勝手に泣かされる女たち。そんな女の業というものが、それぞれの世代にそれぞれにあって、女ゆえにもつ業に悩む女たち。 結婚にも、子供を産むことにも戸惑う明美。でていってしまった夫とよりを戻せない光子。 女が生きていくことは辛くて、難しい。 物語の中に語られる白い蛇は、女の業そのものをあらわしているのではないのかと思う。 けれどでは、男の方がいいかといえば、男は男で、戦争があれば、戦場に行き、命をかけて戦わなければならないし、女を養い、家を守り、それなりの責任をひき受けていかなければならない。明美が妊娠にとまどったように。明美の恋人もまた、恋人の妊娠に戸惑い、結婚や家庭に戸惑ったのだろう。全てを正悪でとらえる光子に息苦しさを感じて、でていった光子の夫もまた、家庭というものをひきうけなければならないその重さ、男の業から逃げようとしたのかもしれない。 ラスシ近くで登場する潜水艦、つまり赤い鯨とは、また、男の業をあらわすものなのだろう。 この物語は、そんな女の業、男の業、人の人生に定められた運命を受け入れる物語なのだろうと思う。 そしてまた、赤い鯨は、「女の子宮」を、白い蛇は、「男性」をあらわしているのだろうと思う。「白い蛇と話す」ということは、女としての自分の業を受け入れるということを意味するのではないかと思う。だから、「白い蛇と話すと幸せになれる」ということは、女は女としての自分の業を受け入れることでやっと、しあわせになれるのだと、そういうことなんだろうと思う。 家出した美土里は結局家に戻る。光子の夫は、家に戻ろうと、館山の駅まで来て戸惑っている。里香(坂野真理)は初潮を経験し、保恵は、かつての恋人とのかなわなかった恋に別れを告げる。 それぞれがそれぞれの業を受け入れるに至るまでの物語だった。 妊娠に戸惑っていた明美もまた、ラストでかわいらしいわが子を抱きしめて、幸福そうに微笑む。辛くて苦しいことばかりのようでいて、受け入れて見ればそこにはまた、幸せを伴っていることにもまた、気づくのかもしれない。 明美がはたして、恋人と和解したのか、結婚しえたのか、それとも、未婚のままの出産なのか。それはわからないけれど、それでも、たとえ、どちらの人生であったにしろ、この先にもまた、明美には明美の人生の運命、女の業が、それぞれの人生のポイントに用意されていることに変わりはないのだから。 監督のせんぼんよしこさんのコメントが本編の後に収録されていて、主演の香川京子さんの着物の着こなし、着付けへのこだわりなど、女性監督らしい気配りがすばらしい。 そして、浅田美代子さん、宮地真緒さんが、それぞれに素敵だった。 宮地さん。背が高くて足が細くて、きれいで、いいなあ。ただ、ラストにでてきた赤ちゃん、一年の間に出産したとしても、あんなに大きいはずないのでは。女の人いっぱいこの映画見たとおもうのですけど、不思議に思った人いるかしら。監督が女性のわりにそのあたりがお粗末なのでは。 赤い鯨と白い蛇@映画生活
2008年07月01日
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そんなに大切な宝物なら、嫉妬くらいで、手放しちゃ駄目だよ。 『ただ君を愛してる』のネタモトの作品。広末涼子、松田龍平主演。 大学で知り合って、誠人からカメラを教わった静流。静流の写真の才能への嫉妬をおさえられない誠人。そのために二人は、別れてしまう。再会を約束しながらも、ニューヨークでの、静流の死によって、二人は永遠に再会できないまま。 ストーリーの大本の設定はほぼ同じ。でも、『ただ君』の方は、ものすごく優しいファンタジーのような物語だったのだなと、わかった。もともとのこちらの物語は、最初、ちょっとファンタジックな謎から始まるけれど、クライマックスは、結局のところ、サスペンスのようだった。 その才能ゆえに嫉妬を買ってしまうシズル。才能をもつものの孤独。静流自身には、なんの悪意もなく、ただ、普通に生きているつもりなのに、彼女の中の才能が二人の人間の嫉妬を生み出してしまう。 才能をもつものの孤独。 才能をもちつつ、人とうまく生きていくことは難しいのだろうか。いっそ才能なんてないほうがいいんだろうか。そっと隠しておく方がいいのか。 その才能を生かして、世界的にも成功を収めている天才たちは、どうやって、人々の賞賛と愛を得たのだろう。 そんなことにも、ただ、他愛なく生きる静流が、誠の嫉妬ゆえに、彼と別れて、一人でニューヨークに行かなければならなかったし、そのニューヨークで得た友人をもまた、嫉妬を湧き立たせてしまう。 才能を持つことの孤独も悲しさも。 それでも、ニューヨーク中を探し回るほど、誠人は、静流を好きだったのに。 広末涼子の独特の雰囲気とちょっと風変わりな少女静流が、違和感なし。 ナイスな配役だと思う。やっぱり、広末涼子ってうまいなあ。 恋愛寫眞@映画生活
2008年06月29日
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宮崎あおいちゃんが好きで、見てみた映画です。今『篤姫』でも話題の、瑛太との共演なのです。 前半主演が宮崎あおい演じる女子高校生なわりに、しっくりこなくてわかりにくいなあと思っていたら、よくよく考えてみると、男性視点で書いてあるからなのです。結局うだうだしてて、好きな女の子に告白できないもどかしさが、死を目前にした時初めて達成した。そこに至るまでの若い男の逡巡。 告白できない男の立場で書いてある物語なので、女の子の側の行動原理が不可解。女子高生がこんな行動とるかなあと、女性側の私からすれば、変な話なわけだ。 ヨースケを好きなユウは、彼のちっょとした一言からセーラー服を着てみたり、突然キスしたり、姉を好きなのかもと誤解して、二人の仲介をしてみたり。でも、ヨースケは、若くて戸惑いだらけで、ユウに告白できない。ここにえがかれるユウという女の子は、あんまりにも、男性にとっての都合のいい女の子で、納得できない。本物の現実の女子高生はもっとわがままで自分勝手で、自分のことばっかり考えてる。はず。だと、思うんだけど。 それでも、あおいちゃんはかわいかった。で、そのあおいちゃんの17年後が、永作博美なのが、いまひとつ。キャラがあきらかに違うのでは。できれば、そのままあおいチャンに演じて欲しいのだけれど、もったいないなあ。 好きだ、@映画生活
2008年06月26日
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野江の目を通して描かれる、磯村、手塚、という二人の男を作り上げている空間、場、環境。 一人目の夫をなくし、再婚した嫁ぎ先は、金貸しの舅と、姑、夫。その価値観になじめない主人公野江(田中霊奈)。そんな時にふと出会ったかって縁談話のあった手塚弥一郎(東山紀之)という男。なぜかその日から、手塚に惹かれ始めていく野江。 恋も結婚も当事者二人だけのものという価値観は、戦後からなのだろうか。結婚が家同士のつながりであった時代から、今結婚は当人たちだけのものと、そんな西洋的価値観の当然な現代社会。けれど、本当にそうだろうか。 夫、恋人のその人となり、人間性を作り上げる上で、彼らの育った場、家庭というものがいかに大きな影響を持つものか。 結婚する相手が夫であったとしても、やはり縁を結ぶということは、夫の家族、夫の育った家庭、両親ともまた、関わりを持つことになるということで、結婚した途単に女が妻が、その両親との関係ょ断ち切ることなどありえないように、夫もまた、結婚する、婚姻を結ぶということは、夫の両親、夫の家族、夫の血縁との関係、姻を結ぶ、縁をつなぐということであって、だとしたら、結婚を考える時に、その相手だけを見るのではなくて、その人の育った環境、家庭、を見ることもまた、必要なことだろうと思うのだ。 だから、映画の中でもまた、野江の目を通して、二人の男の家庭、二人の男を作った場が描き出される。 金貸しをする義父。その父の仕事を受け継ぎ、藩内でうまく立ち回ろうとする夫、磯村。野江には、その夫の卑しさが耐えられない。そして、野江が自分を軽蔑しているかどうかという真実とは、別に、自分の中の後ろめたさを野江の目の中にみてしまう磯村。 その磯村という人間を作り上げた場が、磯村の家の両親、家庭、であるのなら。 そして、再度の離縁の後、野江は、初めて一人で手塚の家を訪れる。玄関を開けて、手塚の家に初めて入った野江。あらわれた手塚の母の「あなたの来るのをずっとまっていたのよ。」という言葉。手塚という男を作り上げた空間に、はっとした。この場によって、正義のためには、自分のこともかえりみない手塚弥一郎という男を作り上げたのだ。そして、野江は初めて自分の居場所を見つける。物語は、ここで終る。こののち、果たして、手塚は許されたのだろうか。二人の恋は実ったのだろうか。 ハッピーエンドだろうと、予想しつつ、江戸時代の厳しい現実もまた、あるのかもしれないし。 恋をし、相手を好きになる時には、その人しか見えない。けれど、その人の後ろには、その人を作り上げた家庭、家族、両親というものがあって、その人とだけの縁を結ぶわけにはいかないだろう。 私が長男の出産の時に、同室だった人は、「見合いで結婚した人のそのお母さんがすばらしい人で、この人が姑になるならという理由で、結婚したのよ」と、聞かされた。もっとも、そのお姑さんは、予定外に早く、逝かれてしまったのだそうだが。 結婚した途端に両親家族との縁を切れと相手から言われたら、辛いだろう。だから、結婚したら、やっぱり、自由な恋愛の、個人主義の今であっても、相手のその後ろにあるものとも、一生関わっていく覚悟はしなければならない。 夫、妻を作り上げたその空間をもまた、愛さなければ、結婚生活はうまくいかないのだろうと、思う。 ところで、壇ふみ演じる。野江の実の母は、とても、素敵な人に見えるのだけれど、野江の縁談を決めたのもどうやら、この人らしいのだ。これほどの人がなぜ、娘を磯村のような、家格の落ちる金貸しのような家に嫁がせたのか。ちょっと疑問。「出戻り」だからなのか。他に縁談がなかったからなのか。彼女自身が自分の目が手塚の家を見に行くことはなかったのだろうか。と、そのあたりが疑問。野江の結婚を決めているのが、この母なのに、野江に「あなたは回り道してるだけなのよ」というけれど、それっておかしくないか。と、疑問でした。 山桜@映画生活
2008年06月22日
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これは、『スター・ウォーズ』からインスパイアされた映画だ。と思う。 『隠し砦の三悪人』は、昔、名匠黒澤明監督が作った、名作だそうだ。外国でも、高い評価を得て、有名な賞もとった。その名作から、影響をうけてというか、インスパイアされてというか、スピンオフしてというか、それでさらに名作の『スター・ウォーズ』が作られた。 昔の黒沢作品と比べると不満に思う部分もあるのかもしれないけれど、それでも、私は十分おもしろかった。まさに『活劇』って言うのはこういうやつなんですね。黒澤明が名監督といわれる理由が始めてわかりました。 最初、この映画ってたしか、『スター・ウォーズ』の元ネタになった映画だったはずだよなと思いながらに見に行った。お姫様と三人の男の設定は、まさに『スター・ウォーズ』そのもの。そう思って見ていたら、出てきたきた。ダースベイダーが黒い兜、黒いマント、黒い甲冑、黒い面。うん。確かに、ダースベイダーそのもの。スターウォーズを見ている時には、不可思議だったダースベイダーのあの頭のカブトはたしかに日本の戦国武将のカブトだったのだ。なるほど。それから、そうみると、レイア姫(雪姫)と、ルーク(六郎太)と、ハンソロ(武蔵)と、チューバッカ(新八)。納得納得です。でも、『スター・ウォーズ』では、チューバッカってあんまり活躍してないし、風貌の割りに存在感薄かったので、こっちの新八の方がいいなあ。 それから、敵方に捕らわれてる姫を助けるために敵の砦つまり、デス・スターに乗り込んでいくところとか、この砦がデス・スターにあたるわけだなーとか、スターウォーズをバックに見てしまいました。ルークとダースベイダーが円筒形の深い穴の際で対決するシーンも、なるほどこの砦のほられてる穴ので対決していたからなんだと、わかったのでした。なんで、あんな落っこちそうなところであの二人が戦っていたのか、不思議だったんだけど、なるほど、元は、穴を掘ってつくった砦だったのですね。でもって、ダースベイダーと、ルークの宿命の対決もありなのでした。 そして、もちろん、レイア姫とハンソロが恋仲になったように、雪姫と武蔵も恋仲になる。『スター・ウオーズ』では、結ばれているハンソロとレイア姫。けれど、雪姫と武蔵は、結ばれない。 ラストで、雪姫が本当にお姫様なんだということを実感した時、武蔵は去っていく。それは、二人が身分違いだから、結ばれないのではない、のだと思う。国のことなんか投げ出して二人で逃げよう、と武蔵は雪姫に言う。自分と姫だけのことしか考えていなかった武蔵と、藩民のことを思い、最後まで姫であり続けた雪姫との人としての器の違いを、知ったからなんだと思う。 高貴な女性は男にとっての憧れだけれど、そんな女を手に入れるためには、自分自身もまた、高くあらねば。姫とともに、戦い、姫とともに臣民を思い、国をささえ、重責を背負う、そんな男になった時、男は姫と結ばれることが出来る。それがたとえ、百姓の息子であったとしても。 恋人が出来ないなんて嘆いてないで、男をみがけよ、そんな風に若い男の子たちに言いたい。 『隠し砦の三悪人』を見て、ルーカスが『スター・ウォーズ』を作ったように、『スター・ウォーズ』を見た人たちが、そこからまた触発されて、今度はもう一度、モトネタの『隠し砦の三悪人』を作った。それは、だから、当然、黒澤の『隠し砦の三悪人』のリメイクなんかではなくて、もっと違う新しいものになっているはずで、だから、ストーリーも違ってくるし、姫と武蔵は惹かれあったりするし。だからこれは、『THE LAST PRINCESS』という新しい別の映画なんだと思う。 で、この映画を見て、さらに、もともとの黒沢版『隠し砦の三悪人』見たいと思った。そして、それを見たあと、それにさらに、インスパイアされて、今度はどんな作品が出来るのだろうかと、ちょっと楽しみである。 壮麗な火祭りのシーンといい、砦の爆破シーンといい、馬で敵を追いかけてやっつけるシーンといい、どれも、また、現代の新しい撮影で、それはそれで、とても面白かったです。 隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS@映画生活
2008年06月06日
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みてきました。話題作だけど、騒いでるのは一部のファンだけなのかな。水曜のレディースデーなので、すいてました。デスノートは、息を呑むような頭脳戦が最大のポイントだったんだけど、今回の作品はそれほどの頭脳戦はなくて、で、あのLちゃんが自転車にのるは、走るは、飛ぶはで、ラストはちょっとしたアクション映画みたいだったし、要するに、アイドル映画かなあ。面白さは普通。手に汗握るとか、先の読めない予想外のストーリー展開なんてのもなくて、ほぼ定石のお話だったし。ただ、映画デスノートでは語りきれなかった、原作のラストのテーマ、どんな困難も一人ではだめでも、二人、三人、みんなでなら乗り越えられるというメッセージが盛り込まれていたし、映画ではでてきそびれた重要人物もでてきたし、あの場所も出てきたし。 でも、「L」のほかに、「F」とか、「K」とかまででてくるのは、ちょっと笑えるかもね。お菓子もデスノートの時のようなこった演出はなかったですが、串刺しお菓子は健在でした。それと、ラストに「L」の本当の名前も出てきたし。 「L」ファンにはたのしい映画かもしれません。子供乗せて自転車に乗る「L」のプレパパ振りも楽しいし。走り出した飛行機にジャンプして飛び乗って落ちそうにもなってるし。 受験がおわったら、うちの娘もみにいくはず。
2008年02月14日
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冤罪をテーマにした裁判もの。電車内でのちかんの容疑をかけられて逮捕され、拘留され、裁判、そして、判決。普通の裁判ものは、法廷の弁護士と検事のやりとりの面白さ。明らかに有罪とみえた犯罪が最終的に無罪になる爽快な面白さのドラマなのだが、この映画は違う。日本という国における裁判というものがいかに、形骸化され、意味のないものになっているかがよくわかる。 どんなものでも形骸化させてしまう日本ていう国はすごい。形骸化は日本のお家芸とでもいえるんじゃないか。 何度も法廷を開いて裁判をするのに、結局ほとんどの裁判では有罪の判決が出されてしまうらしい。なぜかといえば、いかに多くの有罪を裁判で出せるかで、その裁判官の能力が判定され、裁判官の出世や将来がきまるかららしい。 つまり、裁判なんて金と時間の無駄遣い。そんんことにエネルギーを使うより、裁判官に賄賂でも贈って、無罪にしてくれるように裁判官を懐柔したほうがよっぽど話が早そうだ。 高校生の男の子を育てている身としては、わが子がこんなことになったらどうしようと思いながら見ていた。ものすごく怖い。なにしろ、一度痴漢の容疑をかけられ捕まってしまったら、どんなにお金と時間と労力をかけて裁判をしても、かならず有罪にされてしまうからだ。 しかも、一度拘留されたら、まともな人間の扱いじゃない。江戸自体とほとんど変わらない。有罪であろうと、無罪であろうと、警察や検事はまず有罪であることを前提にして容疑者に接してくるのだ。頭ごなしのものいい、容疑者側の意見なんてほとんどきかないし、拘置所での扱いもひどい。まだ、有罪でもなんでもないのに、既に犯人のような扱い。すでに人間扱いされていない。そして、すごく威張っている警察官のひとたち。おまわりさんて、そんなにえらいのですかと聞き返したくなりました。「職業に貴賎はない」っていうけど、どーみても、警察官のひとたちは、自分たちの職業は『貴』だと思っているみたいだ。見ていて非常に腹立たしかった。 痴漢の容疑をかけられたら、絶対その場でみとめず、駅の事務室にいかず、否定しまくって、少しづつあとずさりしながら、自分の位置をずらしてその場から逃げるしかないんだろうか。 有罪か無罪かなんて当事者以外には誰もわからない。 そして、一人の人間の人生を裁判官というたった一人の人間によって決められてしまう怖さ。 最近、裁判員制度が出来始めていて、もうじき実施されるらしい。裁判官ひとりに任せておくと、どんな裁判であろうと、自分の出世の方が大事な裁判官によって容疑者はみんな有罪にされてしまうからだ。 かつて、日本でも、陪臣員制度がおこなわれた時期があった。けれど、どうしても日本にはあわなかったらしくて、結局今のような裁判官による判決になってしまったらしい。 けれど、いままた、裁判員制度を作ろうという変化が起きている。裁判員制度の実施は、忙しい今の日本の社会にはきびしいことだけれど、それでも、この映画をみてつくづく実施すべきなんだと実感した。 そしてまた、裁判官や検事というような仕事にたずさわる人材を育てている進学校は、生徒の人間性の教育の重要性を実感し、その責任の重さを、もう一度自覚してほしい。 わが子が冤罪でつかまり、その裁判の裁判官がかつての教え子であったことに愕然とする進学校の勉強至上主義の冷徹な高校教師なんていうストーリーの映画もいいかもしれません。そんなのぜひ作ってみてください。 ところで、この主人公。就職のための面接に行くために電車に乗っていたんだけど、履歴書を忘れたかもしれないということで一度電車を降りている。結局履歴書は忘れていたのだけれど、取りに戻るとおくれるからと、履歴書のないまま、また、電車にのってしまった。けれど、現実には、就職試験の面接で履歴書を忘れてきたら、もうその時点でまず就職には合格できないと思うんですけど。遅刻以前に面接でどんな内容のことを話して頑張っても、就職の面接で履歴書を忘れてくるように人間を採用する会社なんて日本にはまずないと思うんだけど。そういう話の出だしで既にへんなんだけど。映画をみながら、どうもそのあたりが引っかかっていた。主人公が急ぐ理由として就職の面接の場に向かうために電車に急いでのったという設定なのだけれど、26歳でもまだフリーターで、しかも、面接の日に履歴書忘れるようじゃ、おわってるなあ。 それと、痴漢の容疑をかけられた友達のためにこれほどまでにしてくれる友達なんてちょっていない。うらやましい。
2008年01月31日
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友情と恋情は、紙一重なのかもしれない。あの松田優作の長男、松田龍平が主演。新撰組を舞台にした物語です。松田優作と松田美由紀にそっくりですね。すごい美少年です。こんな顔してると生きていくのは大変なんじゃないかなあと考えてしまいました。これだけの美貌だともう俳優としてやっていくしかないでしょうねえ。たってるだけですごい存在感があります。18歳にして既に独特の雰囲気を持っています。でも、わたし的には先日みた『ライアーゲーム』に出ていた弟の松田翔太の方がいいなあ。 新撰組に新規入隊した、加納惣三郎(松田龍太)と、田代彪蔵 (浅野忠信)。惣三郎のその美貌に振り回される隊員たち。当時の新撰組の中でも、衆道は流行っていたらしいのですが。ま、あれだけ男だらけのところにいたら、そりゃぁ欲求不満にもなるでしょうねえ。隊士たちは、遊郭にも行っていたようですが、平の隊士はそんなにお金もないしねそうしょっちゅう行くわけにもいかないし。となると、身近にいる男同士で解消するしかない。しかも、そんな状況で目の前にあれだけの美貌の少年がいたら、その気になって不思議じゃない。ですね。 松田龍太の美貌を際立たせるためにあえて、本来ならイケメンだった土方歳三や伊東甲子太郎もビートたけしや伊武雅刀を起用していました。 さてここから私的ネタバレ。 遊郭であれだけおいらんとの初体験を拒否したわけですから、惣三郎は女嫌いなんじゃないかと思います。裕福な商家の息子でありながらなぜ新撰組のようなところにきたでしょう。それは、女ぎらいでありながら、家にいれば、女性と結婚せざるを得ない。しかし、彼はどうしても女性を抱くことが出来ない。それゆえに男ばかりの新撰組にやってきた。女性とかかわらなくてすむからです。 その新撰組で初めてホモセクシュアルの世界を知ってしまうわけです。初めての相手は田代でしたが、その後彼は新撰組のなかで人物的にもスター的存在である沖田総司に憧れを抱き、それはやがて恋のようなものに変化していきます。前髪をそらずにいた彼がかけていた『願かけ』とは、沖田と恋人になることだったのではないかと思います。けれど、沖田の方には全くその気はありません。 惣三郎の美貌ゆえに隊の風紀が乱れ始めたことを憂えた近藤と土方からの命令で、山崎は惣三郎を遊郭に連れて行き、女性を知って彼が普通の男になるようにと画策しますが、惣三郎は山崎の誘いを断り続けます。それでも、やっと遊郭に行くことを承諾し、山崎と二人で遊郭に向かう途中、彼は山崎を誘惑してきます。遊郭で山崎と関係を結べると思っていたのに、結局本当に女性をあてがわれた惣三郎は、そんなことをした山崎に対して怒りと恨みを抱いて、ある夜山崎を襲いますが、失敗してしまいます。ところがその場にうっかり落としてしまった「田代のこづか」によって、山崎を襲った犯人として田代に容疑がかかり、その田代を処罰する役目があろうことか惣三郎に振られてしまいます。 惣三郎が田代を成敗するところを確認するために土方と沖田が影でみはっています。 その時に二人がかわす会話の中に出てくる『雨月物語』の中の「菊花の契り」というエピソード。ふとしたことでしりあった二人の男がなかよくなり、一年後の同じ日に同じ場所で再開することを約束しますが、一人の方は捕まってしまい、どうしても約束の場所にいかれない。彼は約束を守るために自らの命を絶って幽霊となって、友人に会いに来るのです。 沖田はこの説話の二人は友人ではなく、恋人同士だったのではと言います。その話を聞きながら、土方が想像する場面が三回でてきます。白い着物をきた惣三郎のところにおとづれる土方。これは違うと土方によって否定されます。次に、惣三郎のところにいく沖田。これも違う。次に沖田が待つところに赤い着物を着た惣三郎が来るシーン。これだ。と、土方が納得します。このシーンは、『菊花の契り』で恋人のところに幽霊となっておとづれる男をあらわしています。 待つ男惣三郎とやってくる幽霊役の土方。待つ男惣三郎とやってくる幽霊役の沖田。惣三郎は沖田に惚れているのですから、幽霊となった沖田が自分のところに来てくれるのが望みなわけですが、沖田にはまったくその気がないのですから、これは叶わないことです。 だとしたら、自分が幽霊の男となって、沖田のところに行くしかないのです。 けれど、惣三郎の剣はかなり強いので、湯沢にしても、田代にしても、まともに戦っても惣三郎の方が勝ってしまいます。新撰組の中で彼を殺せるのは唯一沖田だけなのでしょう。田代との対戦では、あえて手を抜いて田代に殺してほしいと願いますが。結局かないません。 ラストノシーンで新撰組を惑わす存在としての惣三郎に気づいた沖田はさらりと彼を切り殺してしまいます。その時の惣三郎の「沖田さん」という声がとてもうれしそうです。彼を切り殺せるのは沖田しかいない。そして、沖田は決して自分を好きになってはくれない。だとしたら、幽霊となって沖田に会いに行くために、沖田に切り殺してもらうことが惣三郎の望みなわけですから。ラストで沖田に討たれることが出来たのは、惣三郎にとっては、ハッピーエンドともいえるし、新撰組を乱す惣三郎を殺すことで新撰組にとってもハッピーエンドの結末です。 最後に咲いている一本の夜桜は惣三郎を意味しています。そして、惣三郎が殺されたように桜の木もまた土方によって切られてしまいます。物語の中でずっと惣三郎の存在を追いかけていた土方はココでやっと彼の問題を解決しえたわけです。 男に生まれながら女性を愛することも出来ず、好きな男に好かれることもなく、自分という存在を確立することが出来ない惣三郎はかわいそうですね。 でも、隊士の中で太陽のように輝く人気者の沖田総司役としての武田君はどうもいまひとつそれほど魅力的には見えませんでした。ちょっとわたしには物足りなかった。沖田君がもっと魅力的で目だってかっこよくないと面白くないように思いました。 『三条蹟乱刃』のエピソードの部分がこの物語の中でどんな意味合いを持つのかはまだ不明です。 でも、人間的にバランスの取れた井原とかかわることで惣三郎が人としてもう少し成長してくれることを沖田は望んでいたのではないでしょうか。硬派パリパリの戦闘集団として有名な「新撰組」がたった一人の美少年によって組織をがたがたにされてしまう。志をもって活動しているはずなのに、欲望を断ち切るのはむずかしい。厳しい戒律をつくり、『御法度』として、隊を引き締めようとしても、やはり守りきれるものではない。友情と恋情は紙一重なのか。男色でないはずの隊士たちまでもが、惣三郎の魅力と色気に引きずられていく。それは、人として好きなのか。恋として好きなのか。あこがれなのか。恋なのか。ただの色欲として求めているだけなのか。本当に惚れて求めているのか。自分自身でもわからなくなっていく、人と人との感情。どれほど厳しく『法度』をつくっても、人の中の内実をまでしばることは出来ない。男ばかりの集団に擬似女性としての美少年をいれてみると、その少年を中心にして、組織はがたがたに崩れていく。崩すまいと土方は必死になる。一輪の花が組織を徐々にほころばせていく。組織をまもるためには、その花を取り去るしかない。映画のラストで土方は一本のかぼそい桜をばっさりと切り捨てる。けれど、花を取り去っても、組織の中にいる人間たちの本性が変わるわけでもない。人の心を本当にしばることなんかできない。 ワダエミデザインの黒の隊服がかっこよかったですね。あれで、映画のよさがかなり上がったし、キャラ一人ひとりの存在感もすごく際立って見えました。 御法度@映画生活
2008年01月22日
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雪の北アルプスが美しくて、たっぷりと堪能しました。 吹雪の北アルプス山中に核爆弾を搭載したアメリカ軍のステルス機が墜落した。核爆弾を起爆させようと吹雪の山に登る北朝鮮の工作員たち、そして、それを止めようと山に登る日本の自衛隊員たち。そしてさらに、それをスクープしようとして入山するジャーナリストと、カメラマン。 めずらしく、初日に見に行ってしまった。 どうせ邦画だし、退屈かもと思いつつ見たんだけど、これが思いのほか面白くて、二時間ちょっと飽きることなくはらはらしながら、ストーリーを追ってしまった。面白かったです。邦画にしては、久々のヒット。ストーリー構成、登場人物の設定に無駄がなく、最初は別々にいた、けれど実は全員つながっていた人物たちが物語の進行とともに集約されていった、見事なつくり。うまい。 ただ、一つだけ難点として、あんな重要な機密情報を誰もが簡単にきける無線でやり取りしちゃっていいのかなということでした。返事はしなくても、だまってきいてるやつなんていくらでもいるんだから、実際には、あの事件の渦中には既に、この機密情報は巷に流れちゃっていただろうし、事件の後は、国際問題として大騒ぎになっていたはずだと思うのだが。そのあたりどうなのだろう。いい話なのに、ココだけが落ち度で、疑問が残ってしまいます。 でも、竹内結子がすごくきれいだった。 それから、佐伯三佐がかっこよかった。「誰だろうこの人」と、映画を見ながら、ずーっとわかんなくて、ラストくらいで、「そうだ吉田栄作だ、」ときづいたのですが、とにかくすごくやさしげですごくいい中年のおじさんになっいた。吉田栄作を見たのはかなり久しぶりだ。ナイス。 ソ連がなくなって以来、世界の悪役は中東のテロ組織と、北朝鮮なので、その北朝鮮が敵としていじめる相手は日本なわけで、だから日本を舞台にして、アメリカも少しプラスしての戦争ものは、なかなか作りドコロだ。 ただ、主人公西崎の心理描写かいまひとつぬるい。彼の心理の変化がこの話の重要なポイントなので、底が徹底しないとラストがしまらなくなってしまう。 それでも、「愛する家族のために戦場で命をかける男」という戦争もの特有のテーマを思わず納得させられてしまったのだから、やっぱりこの映画は成功しているのかもしれない。 最近の大沢たかおは、やけに渋いなぁ。 ミッドナイトイーグル http://www.midnighteagle.jp/ ミッドナイトイーグル ▼映画"ミッドナイトイーグル"で玉木宏が着用▼気圧・高度・温度を計測"ツインセンサー"【CASIO - カシオ】PROTREKPRG-100J-1JF ツインセンサーソーラー/樹脂ベルト CP19 映画「ミッドナイトイーグル」1/288 B-5ミッドナイト イーグル@映画生活
2007年12月03日
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映画『幸福の食卓』を見ていて一番不思議だったのが、兄の直ちゃんがなぜ鶏を飼ったあとに殺して食べるんだろうということだった。しかも、その鶏はきちんと名前をつけて、自宅の庭で毎日えさをやって、面倒をみて、ペットのように情をかけてからのことなのだ。しかも、一匹だけじゃなくて、一匹食べたら、また一匹というように次々と飼っていってそして、食べる。養鶏場のようにただの養殖として大量に飼育した挙句、大量屠殺というのとは、違う。ちょっと普通には私たちには出来ない。それをなぜするのだろうと思った時、兄の直は、佐和子に愛するものを失うことの心の痛みを教えようとしていたのかもしれないと、やっと、思い至った。 父の自殺未遂にショックを受けて、家を出たり、大学進学をやめたりした、母や兄に比べて、それなりに痛みは感じたにしても、いまひとつぴんときていないというか、感じていないというか、佐和子の日常は変わっていない。 それはやはり、父の自殺未遂当時もっと幼かった子供の佐和子には、やはり人の死というものはわからなかったのかもしれない。それは、父の自殺が未遂に終ったこともあるかもしれないし、父の自殺の現場を佐和子が見ていなかったのかもしれない。 愛情をかけて育てた挙句、鶏を殺して食べてしまう兄。 けれど、それでも、佐和子には伝わりきらなかったようだ。 佐和子が愛するものを失う痛み、あるいは、命を失うこと、生きるものが死んでしまうことの痛みを本当に理解するのは、やはり、家族以外で初めて愛した恋人、大浦くんの死によってなのだった。 だから、物語の中で佐和子と大浦君の恋愛の様子は、丁寧に丁寧に見ているものまで引き込んでいくために、丁寧に描かれていく。そして、思いもよらない突然の大浦君の死に、なぜ?と、思う。 けれど、大浦君の死は、物語において、最初から、予定されていたもので、兄の直が鶏を殺してみせたように、大浦君の死もまた、佐和子に、愛するものを失う痛みを理解させるための道具立て、エピソードだったようだ。 大浦君が鶏と同じ扱いってどうよ。大浦君は、鶏レベル? 命の大切さを教えるために、かつて子供たちを通わせた幼稚園でも、ウサギとか、金魚とか、いろいろ飼っていたけれど、たくさんの園児たちに毎日のようにいじくりまわされているウサギは見ていてかわいそうだった。その挙句、そのウサギは精神的なストレスで、円形脱毛症にまでなっていたし。 命を教えるために毎年毎年幼稚園の各クラスで、飼われる動物たち。彼らには、彼らの人生を生きる権利があるのに、園児たちの情操教育のために使いつぶされる動物たちを見ていて、それはそれでちょっとなーと、思ったことを思い出した。 大浦君もそれとおなじ? まあ、それでも、大浦君の死によって初めて愛するものを失う心の痛みつらさをやっと佐和子は理解するわけだから、鶏よりは大浦君の方がレベル高いのでしょうかね。 そして、大浦君の死を体験して初めて、佐和子は父の自殺未遂の意味を理解する。「お父さんが死なないでいてくれてよかった。」と佐和子が父に告げるクライマックスシーン。 りっぱじゃなくても、どんな父親でも、それでも、お父さんは、一人しかいないから、ただ、生きて、一緒にいてくれれば、それでいいからと。佐和子は初めて父の死と、生と、その存在のの大きさを知る。 父がいて、家族がいて、毎日普通に一緒にご飯を食べられることの幸せを知る。 幸福な食卓@映画生活
2007年11月03日
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娘が借りてきたのを一緒に見たんだけど、何気にいい映画だった。ごく普通の邦画で、普通の家庭の事件が描かれただけのものだけれど、意外に面白かった。主人公の女の子佐和子(北乃きい)がかわいすぎない、自然なかわいさで、見るからにいい子だなあという感じなんだけど、でも、別に優等生なわけでもない。そのボーイフレンドの大浦君がまた、すごく素敵な男の子で、それほどハンサムなわけでも、頭がいいわけでも、優等生なわけでもないんだけど、なんだかとにかく言動や行動がおもしろくて、高感度高かった。 教員の仕事に行き詰って自殺未遂し、「おとうさん」をやめた父親。そんな夫にショックを受けて、「お母さん」はやめてないけど、妻であることをやめるために家をでて、一人暮らしをする母。エリート優等生をやめて、農業をする兄。そして、普通の中学生の主人公。 いつのにまにか自分では気づかないうちに世間一般が求める理想の家族を演じていた家族。父の自殺によって始めて自分たちが自分たちをいつの間にか世間の常識によってがんじがらめにしていたことに気づく父、妻、兄。父の自殺はショックな事件だったけれど、それをきっかけにまじめな家族構成員であることを辞めた中原家の人たち。 家族である前に一人の人間として自分の望む人生の送り方をもう一度探り始める父、兄。そしてそれをはなれたところから、そっと見守る母。 「家族はもっとあまえてもいいんじゃない。」という、兄のガールフレンドの言葉がこの物語の究極のテーマなんだろうけれど、ほんとになんだか今の家族ってお互いにあんまりわがまま言わなくなってるかもしれないなあと、思う。 もっと、家族で愚痴をいったり、わがままいったり、つらかったら、家族の前で大泣きして、騒いで家族をはらはらさせたりしてもいいのに。と、思う。 いい父親になろうとしてこわれちゃったお父さんや、きちんとやっているつもりだったのに、壊れてる夫の心に気づけなかったことにショックだったお母さんや、壊れちゃった父親をみて、自分の未来を重ねてみてしまった挙句、エリートをはずれた兄。 いい父親や、いい妻じゃなくても、もっと家族で許しあって、やさしくのんびり暮らしていってもいいんじゃない。と、思う。 そんな状況なのに、主人公佐和子が、すれもしないで普通に頑張って生きてるのが不思議だ。 でも、そんな佐和子の、まだ十六歳の少女が身近な人の死に二度もかかわることになるというのは、ちょっと過酷だよなあと思う。 友達や恋人は替えが聞くけれど、家族はそんなわけに行かないから。だそうだけど。そのために殺されちゃう大浦君てあんまりだなあとも思った。 さわやかなラストがなんとなく、そんな~~~~~~~って気分だったかも。『幸福な食卓』補足 幸福な食卓@映画生活
2007年10月30日
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カインとアベル。海幸彦と山幸彦。 兄弟ゆえの確執はこんな神話や聖書の世界にすら描かれている。「兄弟は他人の始まり」なんて言葉があるのも、兄弟がいかに、難しい関係のものかよくしめしてるじゃないか。 親はよく「兄弟仲良く」というけれど、そういう親自身の行動がいかに兄弟仲を悪くさせるきっかけを作っていることか。長子である兄だけに遺産のほとんどを相続させようとしたり、兄弟のどちらかだけに大学進学をさせたり、常にそれぞれを比較したり、兄だから、我慢しろとか、弟だから兄の言うことを聞けとか、兄だから親の面倒を見るのは当然だとか。 私だって兄貴の存在や行動にドレほどむかついたことか知れないし。 で、この物語も兄稔(香川照之)と、弟猛(オダギリジョー)の確執の物語。なぜか兄弟というものは、こちらの持っていないものを相手が持っていて、こちら側のコンプレックスをみしみしと刺激してくれるんだよな。地味でまじめでいい年して未だに独身で、好きな女(智恵子)に告白も出来ず、田舎のガソリンスタンドで働く兄にすれば、東京で成功してプロのカメラマンになり、容易に智恵子との関係を作ってしまう弟は、嫌な存在以外の何者でもないはずで。弟さえ帰ってこなければ、投獄されることも智恵子が死ぬこともなかったはず。はっきり言って猛は疫病神以外の何者でもないよな。しかも、猛は帰ってくるなり、普段自分(稔)が感じているコンプレックスや、きずかないようにしている普段の自分の人生の暗さを親戚が集まる場で大声で暴露してしまう。これって、あまりにも配慮がないような。思いやりも何にもない。 けれど、弟にすれば、家業を当然のように兄に継がれて、故郷を去って何も知らない東京で自力で働き、頑張るしかなかっただろうし。かっこよく見えるプロカメラマンになるために弟はどれほどの努力と苦労をしたことか。けれど、故郷で親の元でぬくぬくと苦労なく、そのまま親の仕事を継げばよかった兄。まじめでしっかりものでにやさしい兄。 見えているようで見えていないお互いの心中。 そんなものが、つり橋からの智恵子の転落死をきっかけに、裁判所という公共の場であからさまにされる。 弟が何のこともなくさらりと渡ってしまったつり橋を、兄は怖くて渡ることも出来ない。猛を追いかけてつり橋を渡ろうとする智恵子を必死に押しとどめようとする稔。東京に出て働くという危なくて危険な橋をさらりとわたってようようと成功してみせる弟。その橋を猛を追いかけて渡ろうとする智恵子。なんでもないはずのつり橋が怖くて怖くてどうしても渡れない稔。 稔がつり橋嫌いなことは、前半で稔の口から語られていて、見ている観客にとっては当然の情報として伝えられていた事実に、ラスト近くでやっと、猛が気がつく。 つり橋が怖くて渡れない稔を、自分が手を引いて渡っていた昔。稔が東京に出て自分の人生をきり開くことができなかったのは、親のせいじゃなくて、稔自身が、つり橋を東京という世界への危なくて怖い橋を渡ることが出来ないほど臆病なだけだったことにやっと気がつく。だから、両親は稔に家業を継がせ、猛を東京に行かせた。稔が長男だったからじゃなかったのかもしれない。その証拠に彼らの父と叔父の場合は、兄である叔父が東京に出て弁護士になり、弟である父が家業を継いでいる。 臆病で地味でまじめで正直な稔は、冤罪でありながらも、智恵子への償いとして、その罰をその身に引き受ける。こんな崇高な人にはちょっとかなわないなあ。 見た目のかっこよさにとらわれて、智恵子は稔のもつ本当のよさが見えなかったのかもしれない。そんな兄の姿に、嫉妬した猛は、兄の無実を知りながら、偽証してしまう。自分にはかなわない。どんなにかっこよくしても、兄がほれてる女を横取りしてみても、東京で成功してみても、どうしてもかなわない。 もし、猛がこの時帰ってこなければ、あるいは二人は結婚していたかもしれないのに。惜しいねえ。 ラスト。猛は稔を追いかけて、和解しようとする。そのラストの締めがないまま物語は終る。果たして、二人は和解出来たのか。いかにも、そのあと和解したそうに思えるようなラストだし、観客は二人の和解を切望して、ラストを見終わる。けれど、実際には兄弟の確執というものはそんなに生易しいものじゃなくて、このあと仲直りしたとしても、たぶん二人の心のわだかまりや心の奥の確執は生涯消えることはない。と、思う。香川照之演技うますぎる。オダギリジョーはキャラ的にはまり役だからいいけど。日本の地方の景色がね。なんか旅行してるみたいで良かったね。 ゆれる@映画生活
2007年08月08日
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週末に『日本沈没』のDVDの旧作と新作を続けてみた。日本がなくなる~~~~。 って言う私の生活に応えるように、強力な台風の襲来、停電、地震と、パニック災害が怒涛のように押し寄せてくれて、災害列島にどっぷりとつかった週末でした。本当に日本が沈没しそうだったよう。 でも、被災したわけでもないし、停電は一時間ほどで直ったし、台風は東京ではたいしたことなかったし。被災たれた方たいへんですね。なんと申し上げてよいやら。 ところで、『日本沈没』が出版され、テレビドラマ化され、映画化された時、私はまだ、子供だったけど。日本中が騒いでたけれど、今、この旧作の映画を見ると、映画のスタートのところででてくる昭和四十年代の活気あふれる日本があります。高度経済成長真っ盛りで、人がうじゃうじゃいるシーンがいくつもでてくるのですが、いやあ、若くて、元気で活気と熱気がむんむんで、ぅヒャーこの頃の日本て、元気だったんだなーと。日本が沈没っていうストーリーの暗さを予感させるっていうより、この当時の元気な日本をまざまざとみる感じ。このあと、バブルとか、不景気っとか、どどどどーっとやってきて、日本の経済は沈没しまくるんだよねえ。 総理大臣役の丹波哲郎が若くって、何気にかっこいい。しかし、日本の総理であんなかっこいい人今までにいないぜ。一番ましなのが、純ちゃんで、すこしましなのが、アベさんくらいだしね。 日本の総理にかっこいいおじさんが選ばれたその日が日本沈没の日なのかもしれませんが。 さて、そのあとの、新作では、活断層を破壊して、日本列島が沈没するのを防ごうという大プロジェクトの結果、旧作とは違って、日本は沈まないのだった。新作に出てくるのは、教授役のトヨエツ!!!旧作では、あぶないおじさんにしかみえなかった田所教授役をかっこいーく演じていました。だって、「日本は沈むぞ沈むぞっ」てなんにもできないのに、さわいでた、旧作の教授と違って、ほんとに日本列島を助けちゃう役ですからね。 原作者の小松左京は、日本列島がなくなるパニック作品というよりも、もし、日本列島という居場所をなくした日本民族が、どう生きていくのか。というのが書きたかったそうですが。 自国の土地を持たずに世界を流浪しながら、他民族と混ざることなく、民族として存在しつづけ、最期に自分たちの国を再興したユダヤ民族のように、日本民族は自分たちの国を持たずに世界中に散らばったその先でどう生きていくのか。民族とはなんなのか。普通は、そのまま、その土地の中にまざりこんでいつか消えてしまうものなのだけれど、ユダヤ民族がユダヤでありつづけたのは、ユダヤ教があったからなのだそうだ。 けれど、宗教をもたない日本人は、民族として、国を失った時どうなるのだろう。 そのテーマは、旧作でも、新作でも、かわらず語られていました。 外国行った時、日本人に会うと、ほっとするんだよね。日本人には、同じ日本人がわかるんだ。 日本がもし、世界に散ってしまったら、その土地に混ざりこんでしまうのか。それとも、日本人だけで集まって、民族として存在しつづけるのだろうか。でもねえ。留学先で日本人だけで群れてるって話もよく聞くし。日本人て、群れるの好きだしなあ。
2007年07月18日
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このタイトルを聞くとどうしても思い出してしまうのが、オードリー・ヘップバーン主演の『暗くなるまで待って』なのだが。 父を失い一人で暮らす盲目のミチルの家に、ある日殺人の容疑をかけられた青年アキヒロが、もぐり込む。目の見えないミチルと、容疑者として追われ、彼女にきずかれないようにそっとミチルの家の中に潜伏し続ける中国系ハーフの青年アキヒロ。 やがて、彼の存在に気づいたミチルとアキヒロ。二人のひっそりと静かな日々。そして…。 面白かったです。とっても。感動しました。すごくよくできた、込み入ったお話。途中で、でてくる、レストランのウェイトレス?の女性。ぜーったいなんかある。これは、ぜったい複線だと思ったけど、あの結末は思いつきませんでした。一緒に見てた娘も泣いてたし。 『暗くなるまで待って』では、ヒロインのオードリーは、家の中にひそんだ、犯罪者と戦います。ヒロインは結婚してるし、たとえ盲目でも、積極的に人生を生きていて、自分の家の中にいる敵に対して、盲目であることを武器に敢然と戦う。 でもこの、『暗いところで待ち合わせ』では、家の中の誰かに対して、ミチルは警戒心や敵意や恐怖をあまり感じていないようです。そして、犯罪者と盲目の女性という状況の中で、いつのまにか、仲良くなってしまうのだ。 同じ状況設定でありながら、この違い。時代を感じざるを得ない。 そして、ここまで過激な状況にならない限り、他人と心を通わすことが出来ないという現代という時代がもつ悲しさ。なのだろうか。 ふつうは、まあ、職場とか、学校とか、趣味の場とか、適当なところで友人を作り、生きているものなのだけど。 けれど、ここまで、どうしても一緒にいざるを得ない設定を作り出さないと、人との心の交流を作り出せないほど、今の時代はひととかかわることが難しいのだろうか。 家の中にいる他者が敵であった時代から、心を通わせる対象になってしまうとは。 母に捨てられ、父に死なれ、失明し、一人で暮らしていくのがせいいっぱいのミチル。 働く場でも、学校でも、どうしても人との交流が出来ないアキヒロ。 二人がやがて心を通わせ、仲良くなっていくシーンは切なくてうれしいけれど、なんだか悲しい時代だなあと思わずにはいられない。 暗いところで待ち合わせ@映画生活
2007年07月10日
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うどんの話なのに、冒頭からニューヨークでのコメディアン修行。何でかなあと思っていたら、ラストにつながっていたのですね。 人を笑顔にさせたい。それぞれ違うことをしていても、父と息子、二人が目指していたものは同じだったんだ。渋い顔でうどんを打つ父親の目指していたものが、人の笑顔であったことがわかる終盤のシーン。いつも仏頂面の父親の笑顔がみたくて、コメディアンをめざす主人公コースケが、失意のまま故郷にもどって、もう一度父親の生き様を見直した時、人を笑わせるのに必要なものが何なのか、わかったのかもしれない。 故郷に戻ったコースケが父のあとをつぐのかと思っていたけれど、それでは話はありきたりだ。うどん以外のものを目指して故郷を出たはずのコースケが、もう一度、うどんを見つめなおす。彼の人生にうどんの持つ意味は大きい。さぬきじゅうのうどん屋をめぐり歩いて、うどんのうまさ、うどんよさ、さぬきうどんってなんなのと問い直し、見つめなおした後に、彼はもう一度父の人生をたどっていく。 最後に彼はうどん屋をつぐわけでなく、ふたび故郷をたって、コメディアン修行の旅に出る。何か、『シェーン』みたいだった。
2007年04月23日
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おいおい、千秋先輩とななが恋愛してるぜ。 まるで田淵由美子の漫画を読んでいるような映画でした。 ストーリーがいかにも少女マンガで、私的には面白かったけど、男の人が見るとどうなんだろう。 成長すると死んでしまうために成長抑制剤を飲んでいる(たぶん)静流(宮崎あおい)と、腹部の皮膚疾患のためにコンプレックスを持つ誠人(玉木宏)が大学で出会う。薬のせいで大学生にしては、未熟な静流(しずる)は、誠人(まこと)に出会って恋をする。誠人のために死を覚悟で女らしくなりたい静流は薬を飲むのをやめてしまったのだろう。(たぶん) 無為なままの長い人生より、短くてもきれいになって恋をして人間らしく生きる方がいい。 成長した後の静流の美しさはそれはそれはもう!!! これはもうなにをどう見ても少女マンガそのもののお話だなあと思う。 誠人は、主人公のはずなのに、意外と受けみな生き方しかしていない。静流から告白されても、据え膳くわないし、自分が好きなはずのみゆき(黒木メイサ)にも自分からは告白できない。他人の気持ちは察しがつくのに、静流や、みゆきが自分を好きなことに最後まできづかないし、自分が誰を好きなのかすらきづかない。 誠人が主人公のように見えるけれど、これはあきらかに、本当の主人公は静流だ。静流は彼に出会って、それまでの「ただ命をながらえるだけの生き方」から、たとえ、自分の命が縮んでもいいから、もっと積極的に「短くても濃くて意味のある人生」を生きようとする。 それに対して、誠人は、自分からはほとんど告白もしないし、いなくなった静流を探しに行こうともしない。ただそのまま、今までと同じ家にいて、いつ静流が帰ってきてもわかるようにと、い続ける。 誠人は男の側から見れば、受身で覇気のない男だけど、たぶんこれからの女の子たちにとっては、理想の男かもしれない。誠人は、静流に自分の流儀や価値観を押し付けないし、自分が前に出ることもない。彼女に告白もしない。だから、静流は自分から彼に告白しなければならなかったし、自分で自分の行き方を問い直さなければならなかったし、誠人との時間の先にもっと前へ進むことを自分で考えた。そして、輝くような美しい彼女自身の人生を自分の力で手に入れて燃え尽きていった。誠人はそんな彼女にほんの少し勇気を上げて、きっかけをあげて、そして、少し引いて、裏方に回って、見守っていてあげたのだ。 こんな頼りなげな男のどこがいいんだろうと不思議だったけれど、だからこそ、静流も、みゆきも誠人が好きになったんだろうと思う。 女を守るために前に出て戦い、女を自分のつごうのいい道具としか見ていなかったようないままでの男性像と一線を画しているのかもしれない。 それが出来たのは、彼もまた、ほんのちょっとしたコンプレックスを持っていて、だから、人の心の後ろ側がわかる、本当にやさしい、包容力のある忍耐強い度量の広い男だったからなんだろう。 この物語に出てくる人たちはみんな驚くほどにやさしい。そして、物語り全体のトーンもものすごくやさしいくてフワフワしてて、夢の中にいるようなのだけれど、でも、それでも、悲しい結末が待っていて、最後まで油断ならない。学生時代までは、夢の時間だ。でもそこから先は、現実を受け入れて生きていかなければならない。 大学の近くのものすごく美しい森の景色だけでもう、すごく素敵なんだけど、現実にはこんなのありえない。でも、物語の中の女の子たちの生き方も男の子達の生き方もこれから現実になっていくはずの物語だ。 俺様キャラそのものの千秋先輩を演じていた玉木宏さんが誠人を演じていて、対極の役どころなんだけれど、全然違和感なくて、素敵な物語でした。少女マンガが好きな女の子なら、必ず面白いと思うよ。 しかも、この原作を書いているのは男の人で(ありえない)、そして、映画の中に時々出てくる言葉がすごくいい!!! 「好きな人が好きな人を好きになりたかったの。」とか。 「男の子は女の子一人分の幸せをもってるの」とか。 「少しは愛はあったかな。」とか。 男性の書く小説は男にとって都合のいい女しか出てこないなあと思ってたけど、そんなことはないみたい。とても、男の人が書いてるとは思えないような、物語でした。 でもって、とにかく、静流役の宮崎あおいちゃんがめちゃくちゃかわいい。変身前も変身後もとにかくかわいい。主人公は誠人みたいだけど、あきらかにあおいちゃんのための映画だ! 男の子はなにをしてくれなくてもいい。ただ愛してくれて、やさしく見守っていてほしい。そうしたら女の子はがんばって前に進んでいける。がんばっていけるんだよ。自分の人生を。 ただ、君を愛してる@映画生活恋愛映画
2007年04月10日
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怖かったです。だってホラーだし。しかも見てたのが夜の10時から12時くらいなので、なおさら。娘と隣り合ってどきどきしながら見てましたの。だってほんとに幽霊でてくるんだもの。 夜トイレに行けなくなったらどうしようとか思ったけど、幽霊があの有名な女優さんとわかって、それほどでもなくなった。こういうのは、正体がわからないから怖いんだよねえ。 奇妙奇天烈不思議なお話です。ミイラが出てきて、作家志望のヒロインとミイラが大好きな大学教授がラブラブで、そこにかつて彼に殺された幽霊が出てくる。 登場人物たちの行動の一つ一つがわけわかんなくて、しかも彼らはさらに最後まで良くわからない行動をとっていく。何でヒロインは大学教授の吉岡に惚れたのかとか。 でもって製作した監督まで、「人間は理由なく行動するもんだ」とか言ってるので、もうこの時点ですでに理由なんかなく、不可思議なストーリーであるわけです。でも、怖い。 だから要するにこの映画は決定的な解明は無理なんだけど、でもだからこそ、いろいろと謎を解明してみたり、いろいろと解釈してみたりすることを楽しむ映画なんじゃないかとか、観客はそういう楽しみ方をすることがいいのかなとか、考えてみたりする。 冒頭から新人小説家のヒロイン礼子(中谷美紀)が真っ黒い泥をはくシーンがありまして。 要するにこれは大学教授の吉岡(豊川悦史)に発掘された千年前のミイラが、発掘されたことでそのミイラの魂が吉岡から、礼子の編集者木島(西島秀俊)を通って礼子のところまでやってきて彼女の中に入ろうとしているということです。でも、沼から離れすぎてしまったために礼子の中に入れないミイラは、彼女の意識を操作して自分のいた沼の近くのロフトじゃなくて山荘?(って言うか山の中の一軒家なんだけど)に行かせる事に成功します。 礼子が引っ越した家の隣の家屋の中には、吉岡がいて、しかもミイラである自分の本体もありますのでますますやりやすくなってくるんですけど、礼子は意外としっかりしているのでやっぱりいまひとつ礼子の中に入れません。礼子の中に入り込んで美しい肉体を手に入れれば、吉岡と愛し合うことが出来るのに。 沼に身を投げて死のうとした女の体は、偶然その沼の不思議な成分によってミイラ化してしまい、千年後にうっかり沼から引き上げられ、ミイラとして研究と展示をするために大学の研究室に運ばれてしまう。醜くなった自分の姿をさらしたくないミイラの魂は沼に戻るために研究室にいた教授の吉岡の意識を操作して、何とか、研究室から運び出してもらう。 ところが途中で吉岡に惚れちゃったミイラは、そこで隣の一軒家に越して来た女(安達裕美)の体に乗り移ろうと考える。ちょうどその時、編集者木島と喧嘩してもみ合いの末、死んだあるいは意識を失った女の中に、入り込むことに成功します。 ところが女が死んだと思った木島は彼女の体を土の中に埋めてしまいます。たいへん!!せっかく美しい女の体を手に入れたのに。 そこで、吉岡に彼女の体を掘り起こさせる。うまく掘り起こしてもらったと思ったら、今度は吉岡によって女が殺されてしまい、元の沼に又沈められてしまいます。こんなばかな! ミイラ研究家の吉岡は、この女の体を使って自分もミイラを作ろうと考えたのです。千年もミイラを保存できた微生物を含むドロのあるこの沼に女の体を沈めればもしかしてミイラを作れるかもしれません。それに、もし、女を殺したのが自分なら、あのまま埋めておいて、うっかりみつかったら、自分にも捜査の手が伸びてくるかもしれません。危ない危ない。 さて、せっかく女の体を手に入れたと思ったミイラですが、仕方ないので、吉岡や木島にくっついていると、あらたに一人、美しい女性礼子を発見。この作家志望の女の体がほしいと思ったのです。 しかし、どうしても礼子の中に入れず困ったミイラは、木島を操って礼子の首を絞めて殺すか意識を失わせて、その隙に自分が中に入ろうとしました。ところが、あともうちょっとというところで、木島を追いかけていた警察が現れて、礼子は助けられてしまいます。 仕方なく、元の自分のミイラの体に戻り、吉岡に迫るミイラですが、そこはそれ。なにしろ千年もたっている体ですから、吉岡にあえなくぼろぼろにされてしまうのでした。残念。 さて、彼らにいいようにされて殺されてしまった作家志望の女(安達)の魂もまた、さまよっています。そして、礼子に、自分が殺されたことと自分の死体の場所を伝えようと、礼子に夢を見せたり、幽霊になって現れて、自分が埋められた場所や、沈められた沼、殺された場所を礼子に伝えようとします。 二人の女の霊にいろいろとメッセージを送られ続けた礼子は、さすがにことの真相をはっきりさせようと、吉岡に迫って彼の秘密を聞き出し、やっと、沼に沈められた女の死体を見つけ出すことに成功するのです。 サラシモノ(ミイラ展の展示物)にされそうになったミイラの体もちゃんと燃やしてあげてますしね。 ひどい男達に復讐する美女三人のお話でした。チャンチャン。 あ、考えてみると、結構つじつまが合うじゃん。 このお話。普通に見てるとミイラはあんまり活躍しないし、ミイラまで出す意味あるのかと思いますが、これだけミイラを強調してるんですから、ミイラが関係ないはずない。と考えてみるといろいろと面白いでしょう。 千年後に生まれ変わって再び愛し合おうと約束して沼に身を投げた二人。それが吉岡と礼子。千年後女はミイラとして出現し、二人が出会うきっかけを作ろうとする。ところがうっかり吉岡が女(安達)を殺してしまったために女の霊魂が二人の関係を邪魔する。そのために本来一つであるはずのミイラの魂と礼子の魂がなかなか融合できない。ミイラの体を燃やし、やっと一つの意識に戻った礼子は、吉岡とともに女の霊と対決していく。とかね。 中谷美紀さんの花模様のワンピースが素敵。きれい~。わたし、こういうドレス大好きなんだ。視覚的にも楽しめた映画でした。 LOFT ロフト@映画生活 ホラー映画
2007年04月08日
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泣けました。見ている間涙がぼろぼろこぼれました。 日本映画っておもしろくないよなー。日本人には本当にいい映画は作れない。と思っていたけど、こんないい邦画ができるじゃないか!と、思っていたのだけど、エンドロールをずーっとみていたら、監督は…韓国人? がーん。やっぱり日本人にはいい映画なんてできないのかな。 昭和40年代の貧乏な炭鉱から、これから産業発展していく日本への過渡期を描き出した、昭和世代には共感ばりばりの心にしみる日本の原風景を描いた邦画!と、思っていたら、その昭和の日本のよさを外国人に描かれちゃって、しかも映画のカテゴリは一応「邦画」って。 何か情けない。 一緒に見てた息子が「やっぱり日本人にはいい映画なんて作れないのね。」と、ダメダシ!李監督のことを「外国人」というと語弊がありますね。でも、監督と企画が韓国系の人なわけで、つまり韓国系のセンスが入って初めてこれだけのいい映画が出来たということはやはり私にはちょいショックでした。彼らはすでに日本に住んで三代目くらいらしいのですが、やはり朝鮮学校に通っていて、名前も韓国の名前なままということは、彼らが育った家庭内での文化やセンスや価値観や思考法もまた韓国のものが残っていて、ゆえに韓国の感性がこの映画の中に現れているわけで、やっぱり純粋に日本人だけだと、これだけの映画は作れなかったのかというのはちょっと口惜しい。日本人の監督だともっとつまんないものになってたかもしれない。どうも日本のおじさんたちの感性は泥臭いんだもの。韓国は今すごいものね。大学受験への国家を挙げての対策とか、韓国映画のハリウッドをしのぐような勢いとか、経済政策とか。やっぱ負けてるなあ。やばいっすね。最も、いつまでも邦画とか、外国映画とかっていうより、これからは、『墨攻』のようないろんな国のスタッフが共同で作るような無国籍映画がどんどん作られていくようになるかもしれないですね。ただ、そうなる直前の今の段階でこれはすごいと思うような日本人スタッフだけの邦画を作ってほしかったなあと思うわけです。 まあ、それはそれとして、面白い、いい映画でした。泣けました。こんな貧乏な時代もあったんだよなあと思いだしました。今は日本人もずいぶん贅沢になれて傲慢になったねえ。『捨てる技術』なんて本が売れるんだから。ものあまりが悩みのネタなんだから。 閉山目前の炭鉱が再起をかけて、新規のリゾート施設を新設。はたして、成功するのか? 私たちはその後のハワイアンセンターを知ってるから、いいけど、もしこの後を知らないと、「田舎の泥臭い娘たちにフラダンスなんか踊らせて客寄せなんてできるの?馬鹿みたい」としか見えないだろう。この時点でこの企画が成功するかどうか、まさに海千山千だったんだから、この企画を立てた人たちはすごいですよね。まさに『プロジェクトX』の世界。 それでも成功しちゃったんだからさらにすごいよね。そのあとの夕張炭鉱とは対極ですね。娘のフラガール志望を否定して、夕張炭鉱に引っ越していったお父さん。暗に語るものがあります。 とにかくラストシーンの「オープンしたハワイアンセンターでの初めてのフラダンスショー」は圧巻です。すっごくきれいですっごく素敵だった。必見のシーンですよ。 静ちゃんも子持ちのお母さんも蒼井優ちゃんもみんなすっごくきれいにメイクして、きれいなドレス着て、女の人って誰でもきれいになれるんだなーと思いました。そして、誰でもがんばると出来るようになるものなんですね。最後の蒼井優ちゃんのソロダンスもきれいでした。最後まで涙、涙、涙、の映画でした。 私も子供の頃親に連れられて、ハワイアンセンター行ったことがあります。私はフラダンスなんて興味なかったので泳いでばかりいて、見なかったんだけど、こういう楽しい室内温水プールなんて当時はすごく珍しかったし、プールや椰子の木だらけのドームや華やかなフラダンスショーっていうような、きれいな部分しか知らなかった。けれど、その裏でまずしい炭鉱の町並みや、泥だらけすすだらけの炭鉱の現場なんてのがあったわけで、そういう、裏の部分が映画では描かれていて、日本が産業発展していく過渡期の日本人のがんばりや心理や価値観の変化がすごくうまく描かれているんですよね。 こんな風に日本が変わっていったんだというまさにその時代がうまく常磐炭鉱のリゾート建設の場を通して描かれていて、みごとでした。 私はこの映画を、普通のストーリーなのに、二回見てしまいました。普段、込み入った話なんかだと一度ではわからないし、ブログの記事を書くため、謎解きのためなんかに二回くらい見たりするんだけど、こういう素直なストーリーで二回も見たのははじめてかもしれない。そのくらいいいお話でした。二度目ですら、泣けました。さすが、2006年度の映画賞をとりまくっただけのことありますね。 特にまどか先生を演じた松雪泰子が当時のファッションを泥臭くなく、素敵に着こなしていて見とれちゃった。また、序盤では濃かった化粧がだんだん話が進んでいくうちにほぼ素顔になっていくんですね。自分が主役だった彼女がだんだん裏方としての自分になっていく。まどか先生は、「それなら貴方が踊ればいいじゃない」と、彼女がダンスを教える生徒たちに何度か言われるんですよね。主役から裏方へと変わっていく彼女と、だんだんきれいになっていくフラガールたちの変化の描かれ方が面白いですよね。本物のまどか先生は今だに現役で先生を続けていて、フラガールたちを育て続けているそうです。 この映画は誰が主役かわからない。全ての登場人物たちがみんな見せ場があって、いい役をしてます。どのキャラも見せる。そして、一人ひとりがいろんなことを訴えていて、語っていて、謎解きのない込み入ってないストレートなストーリーなのに、非常に深いものがあるんです。 いい映画でしたぁ。 フラガール@映画生活日本映画、邦画
2007年04月07日
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端正な顔立ち。太くて濃くてつりあがった意志の強そうな黒いまゆ。まさに原田巧だなーっと思うこんな子役をよく見つけたなっと感心しちっゃた。彼のおかげでこの映画はやっと完成したんだ。 協調性第一、チームワークが何よりと思われるスポーツの世界で、その天才ゆえに人とのかかわりも作らずに孤独に野球だけに向き合う主人公巧。 巧みの性格は、まるで、やたら勉強の出来るエリート少年とそっくりだ。野球をやろうとしているのに、こんなにチームワークや仲間とのふれあいを無視できるやつがいるんだ。というのが、原作を読んだときの感想だった。 『バッテリー』の文庫本を始めて読んだのが確か四、五年前。だから、ハードカバーが出たのはそれよりずっと前。そこから少しづつじわじわと人気が上がってきたんだろう。六巻まで出るのにはずいぶんかかった。 原作はストーリーもなかなかなのだが、とにかく文章が読みやすくて読んでいて抜群に面白い。頭にすーっとはいってくるような文章で、どんどん次に読み進めたくなる。児童文学と言うカテゴリーに納めてしまってはもったいないほどの完成度とおもしろさなのだ。 原作の登場人物はもっとそれぞれの性格が切れていてきついのだが、映画ではやはり映画的常道でかなり軟化されてはいた。が、それでも、かなり原作に忠実な映画化で、原作の雰囲気がそのまま再現された映像に原作ファンとしては、ゆっくりとたっぷりと『バッテリー』ワールドを楽しませてもらえた。 一冊目だけの映像化と思っていたら、意外に五巻目くらいまでがうまくまとめられていて、さすがにきちんと完成されていた。原作では、一人ひとりの喋りが異様に長く、またそれが面白いのだが、さすがに映画なので、事件を追う方が重視されていた。 地方都市ののんびりしたたたずまいや小説では思い描けなかった巧の家や町なみがほのぼのとして美しい。 ほとんどしゃべらない無口で友達とかかわることを由としない巧が、野球という共通点だけで、豪やその友達とだんだん心を通わせていく。野球をするというだけでこんなに簡単に友達になれるなんていいなあと思う序盤から、やがて野球を道具として子供たちを管理しようとする大人たちのみにくさや、そういった管理の中で心を蝕まれていく野球部の先輩たちによって、野球と言うものが現代社会の中で変容されていくさまが描かれる。 「野球は誰のものですか」と巧は作中でなんどもと問いかえす。 本来やること自体が楽しくて、それゆえに人と人を結び付けていくはずの野球というものが、大人たちによって子供を管理し自分たちの思惑のために使うものへと変容していく中で、巧だけは決して、その方向性を見誤らない。 「俺が大好きな野球を勝手にいじるな」という怒りが寡黙な巧の体の中で青い炎となって燃え盛っているようだ。 やること自体が楽しいはずのスポーツがいつのまにか、試合に勝つための苦しい修行をメインとするものになってしまったり、試合に勝つ事で学校の名を売るための道具に使われたり、勝つための練習の過酷さゆえに選手自身の体をも破壊していくような、大人のための道具に成り果ててしまっている現在のスポーツは、明らかにおかしいと私は思う。スポーツとは本来体を使うことを楽しむためのものであったはず。 巧たちは必死に練習したり、基礎トレをしたりもしているけれど、それだけじゃなくて、青波(巧の弟)を投手にして巧や豪やそのほかの仲間たちで三角ベースの野球をやるような本来の野球とのかかわり方を巧たちは忘れていない。その時の楽しそうな少年たちの笑顔こそが本当の野球なんだよと思う。 ルールや試合や大会や部活なんてそのあとにあるもの。 巧の母は、病弱な弟青波のために巧が野球をやること自体を非難する。けれど、本当は少女時代野球部の監督として忙しいゆえにほとんど家族を省みなかった父ゆえに野球を嫌い、憎んでいるのだろう。本来これほどの天才少年をわが子に持っていたら、母親は歓喜して息子の才能を伸ばすことに夢中になるものだが、「青波が、青波が」と言って巧にきつくあたるこの母も自分の本音に気づいていない。 わが子に野球をやめさせたいのにやめさせられない豪の母親は巧に豪を説得するようにと頼んでくる。本来自分がやるべきことをまだ中学生にもならない子供に割り振ってくるというのはどういうことか。自分の仕事を放棄しているんじゃないのか。 野球さえあれば子供を管理していうことを聞かせることが出来るなんて思い込んでいる学校の先生たちや学校の監督もその行動自体が自分たちの無能ぶりをさらしているに過ぎないことにきずかないのかな。 巧や野球少年たちを通して、大人世界の実相や矛盾が浮き彫りにされている映画でもある。 春休みの子供向け映画なので、子供たちが多くて、映画館の場内は少し騒がしかったけど、明らかに野球少年だなと思える男の子たちが群れをなして見に来ているのを見るのは、それはそれでほほえましくて楽しかった。 バッテリー@映画生活日本映画、邦画
2007年03月31日
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過去のものを見ました。石坂浩二が若いー。 本当にほとんど同じですね。どうして同じものを作ったんだ。ほとんど意味ないジャンという意見が多いですが、この当時はこの作品角川映画なんですよね。 で、売るための戦略としてかなりおどろおどろしくしてあって、大金持ちのすけべじじいという設定。ほぼ同じシナリオだけど、微妙に少しだけ違うんですよ。 たとえば犬神佐兵衛と、世話になった野々宮大弐との間に肉体関係(男色ですね)があったことや、女性に興味のなかった野々宮が自分の妻との関係を佐兵衛にさせたそのものずばりのシーンの描写とかがあって、リメイク作品ではなくなっていました。 角川映画として、娯楽作品のおもしろさ、おどろおどろしさが強調してあって、だから、佐兵衛の人物描写がすごいスケベ爺になっている。 長女松子の実の母親が娘に無心するシーンとかが、リメイク作品にはあるんです。ですが、角川版にはありませんでした。正妻に慣れなかった哀れな母親にしか見えなかった。 角川映画にする段階で角川側から、スキャンダラスなストーリー展開にするために入れられたいくつかのエピソードが、リメイク版では金に汚い松子の実母というシーンによって、微妙に監督の描こうとしたものが変わっている。野々宮との関係もカットされて、女ったらしのスケベジジだった佐兵衛というキャラクターは、少し変わっているようにみえました。 原作ではどうだったかわからないのですが、前作では角川からの要請でスキャンダラスな話になっていた犬神家の一族の物語を、監督は新しいリメイク版によって商業主義に走らない、作品として、もう一度作り直してみたかったのかもしれないと思うのです。母と子の愛や思いやりやいたわり、そして、人間の欲の深さに絶望し、それでも愛し合う二人の男女に希望を見ようとする犬神佐兵衛の人間をもう一度描きなおしてみたかったのかもしれない。 というわけでリメイク版はこんな物語なんじゃないかと思います。
2007年02月18日
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ファンタジーですね。 ビデオやさんでいつも目についたけど借りるのは「ちょっとなあ」と思っていたら、ギャオでやってました。思わず好奇心で見てしまいました。 女の子を誘拐してその後あれしてこれしてあんなこともこんなこともきゃあーなんて話かと思ってたけど、…全然ちがった。 確かに最初は誘拐します。両手縛って、口もしばって部屋にかぎ掛けて男は仕事に行っちゃう。でもそれだけ。いわいていた紐はすぐ取れちゃうし、格子の向こうに人はやってくるし。ヒロインは「助けて」というけど、何しろここは香港なので言葉が通じない。なんで「ヘルプミー」って言わないのかなあ。 男は夜、彼女を抱きしめて寝るだけでなんにもしない。一度は逃げ出したけれどつかまっちゃって、あきらめた彼女はやがてその部屋になじんでしまう。日本に帰っても、離婚して自暴自棄になっている母親は彼女のことなんかどうでもよくなってるし。通ってる高校もつまらない。勉強もしなくていいし、毎晩彼女を抱きしめてくれる人間のいるこの家は結構悪いところじゃない。 野良猫を拾ってきたらまず洗ってきれいにして、それから逃げないように閉じ込める。今の部屋と家と飼い主になついて逃げなくなるまでは外に出さない。やってることはこれと同じ。 やがて信頼関係が生まれ愛し合うようになる二人。 お互いの意志を確認して初めて二人は結ばれる。 でも彼女は日本人だからやがて見つかって連れ戻されるはずだったけど、結局彼女は自分の意志で男の元に戻っていく。 誘拐されて監禁されるって言う部分以外は本当に普通のラブストーリーなのだ。男は無理やりにはやらないし、勉強もいやなこともせずにただ男を待っていればいいだけの部屋は彼女にとっては日本よりよっぽど居心地のいいところ。 やがて洗濯をしたり、ご飯を作ったり、普通の男女関係の暮らしになっていく。 誘拐って異常だけど、ローマ帝国を作った男たちは、そのあと近くの村から無理やり女を強奪してきて妻にしている。西洋で結婚した時、夫が妻を新居に抱きかかえて入るのはこの時の名残だそうだ。さらわれた女たちを取り返しに行ってみると、すでに女たちは妻としてなじんで暮らしていたのだそうだ。最新作(といってもかなり昔のだけど)の『ターザン』でもジェーンはターザンに無理やり拉致されていたけど、そのあとのジェーンは結構うれしそうだった。周りに許されずに駆け落ちまで考えるカップルの女の子がまいど言うセリフが「私をさらってどこかに連れて行って。」だったと思う。 実を言うと男にさらわれるというのは女性のひそかな願望だったりする。ただ、さらう男がそこそこ男前であることという前提条件があると思うんだけど。さらった男がデブだったリブ男だったり乱暴だったり性格悪かったりするのはパス。あくまでいい男にさらってほしい。 で、この映画の男もそこそこ。ブサイクじゃないし。でも、タクシーの運転手という並みの男。でも彼女も並みの女なので、ちょうどいいカップルかな。 運命の恋なんてそうそうあるものじゃないので、人生でめぐり合う中でたまたま感性の合う相手に出会えば芽生えるのが恋ってもので、この二人も心の波長が似てたんでしょう。 そうして毎日一緒にいるうちにさびしいもの同士で惹かれあっていった。 ファンタジーですね。 ただね。舞台は香港で、彼女は修学旅行でやってきた未成年の日本人。香港人でもないし、戸籍は日本人だし、これから病気したり妊娠したりしたら、困るだろうなとか、たとえ結婚できてもそのまま二人で暮らしていって、いずれは子供が出来るだろうし、生めば育てるのにいろいろお金もかかるだろうし、楽しいままの恋だけじゃすまなくなっていくだろうに、と、そういう現実的な部分を想像してしまう。 でもこれはファンタジーなので、そういうことは考えないで、純粋に単純な男女の基本的な関係だけが描かれている恋の経過を楽しんでみた方がいい映画です。 一番よかったのはね。彼氏がタバコを吸い始めた時、彼女もタバコを口にくわえて吸おうとした。それを見た彼が彼女の頭を軽く小突いてタバコを取り上げたところ。彼女はうれしそうに笑った。 彼女が一番求めていたものを彼は自然に持っていて、そのままに彼女を愛してあげているのがわかる。 だからやっぱりファンタジーだなあ、と。
2007年02月14日
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本来親から極当たり前にもらって生まれてくるはずのものを、親の欲得のためにもらいそびれたら、子供は自分自身の力だけでそれらを手に入れなければならない。 それはとても苦しくつらいことだ。その一つ一つを手に入れるためにどれほど苦しい思いをしなければならないものか。 それはこの物語の景光と同じように、今現在の親もまた、自分の欲得や自分の人生を充実させることばかりが優先されていて、子供のことなんか二の次であることが多い事と似ている。 本来きちんと育ててもらえば、当たり前のようにしっているはずの社会常識や人とのコミュニケーションの方法や、ごく日常的な挨拶すら、親自身が忙しすぎるために教えてもらえずに、実際の人生の中で学び取っていくしかない子供が今現在多いのかもしれない。 それは、手も足も目も声も、体のあらゆるところを持たずに生まれてしまったために、自分自身の力で取り返していかなければならなかった百鬼丸と重ね合わせてみることが出来る。 自分の人生と自分の欲望のためには子供のことなどかまいもしない。その挙句子供の醜さ、面倒くささに捨ててしまうところもまた、現在の親に通じている気がする。 子供を育てるということはそんなに生半なことでは出来ない。どうしてもそこには親自身の自己犠牲が伴う。どこかの国の大臣が言ったように産みさえすればあとはほっといても育つようなそんななまなかなものではない。 その本来親の側がするはずの自己犠牲が子供の側に割り振られているのが、現代の社会であり、百鬼丸である。 その好対称として描かれるのがどろろの両親である。しかし、その親自身のすべてをつぎ込んで自己犠牲の元にやっとわが子一人をすら育てきれない、社会の悪政もまた、今の時代と同じ。 この物語は現代社会の見事な投影になっていたように思える。 しかし後半における百鬼丸の一家の全滅ってあんまりじゃないですか。息子のためにわが身を犠牲に出来た景光がその前のシーンで奥方を一瞬の迷いもなく切り捨てたのはなぜなんでしょう。解せません。多宝丸は所詮自分の得た地位を引き継がせるための景光の分身にしかすぎないのか。景光が己の過ちに気づいて改心するにいたるまでの描写が少なすぎて、納得いかないんですねえ。 ああでも、妻夫木聡くんかっこよかったあ。百鬼丸の役がすごーくにあってたよん。 きゃああああ~~~~日本映画、邦画どろろ@映画生活
2007年02月04日
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