全10件 (10件中 1-10件目)
1
有楽町マリオンで映画を観終わった後、通りの向こう側のニュートーキョービルの地下にあるイタリアンレストランでランチを取ろうと考えた。ところが、この店。メインのスバゲティ以外はビュッフェスタイルのせいか、混んでいた。それでも、すぐに席を通されて、待つこちしばし。ところが、私の後から来た4人のグループの方にウェイトレスが先ず水を運んでオーダーをとった。よくわからないので、様子をみつつ、そのあとに私もオーダーをたのんだ。ところがそのあとも、私の席に水はとどかない。嫌な感じがしたのだが、それは当たっていた。先に頼んだ四人組にスパゲティがだされ、そのあとに席に着いた二人にも、料理がきたのに、私にはまだこない。しかたないので、去ろうとするウエイターに、まだ料理が来ないこと、自分が先に着ていることをつげた。すかさず、ウェイターは、スパゲティをもってきたのだけれど、それが私の頼んだものとちがう。6分かかるけれど、いいですか、といわれしかたなくまった。こんなにまずいスパゲティをたべたのは、はじめてかもしれない。味だけが料理のすべてじゃない。ウェイターの人もウェイトレスの人も謝ってくれたけれど、それで私の不愉快が消えるわけでもない。とても情けなくて、いやーな気分で、悲しくて、一日ずっと憂鬱な気分だった。水はでないし、オーダーはまちがわれるし、しかも、他の人たちより後回しにされていたし。どう考えても、ただのミスというより、作為的ですらあったようなきがする。私の行動のなにかが、店側にこんな行動をとらせたのだろうか?だとしたら、それはなに?禁煙席を指定したから?安っぽいティーシャツ姿だったから? そのほかにも、デザートのコーヒーゼリーは、ものすごくまずかったし、もうひとつのミックスフルーツはあきらかに、缶詰だし。コーヒーメーカーのコーヒーは、ぜんぜんでてこないし、サラダのさらにサラダはぜんぜんなかったし。これのどこがビュッフェなのですか。 ものすごくひどいお店だった。安いから混んでいたのかもしれないけれど、もう二度と行きたくない。しかも、しっかり代金は、とられたし。 それにしても、最近は外食するとどこのレストランもひどくて、すごくなさけない気分になることが増えた。ロイヤルホストは、油ギトギトの、メタボリックなメニューばかりだし。メニューをはしからはしまで何度見ても、たべたいものがなくて、30分もえんえんと悩んで困ったこともあるし。以前は、おいしいおみせだったのに。 世の中の不景気をひしひしと感じてしまいます。 ところで、このお店であじわった不愉快な気分は、ココ・シャネルが味わった感覚はまさにこんなだったのだろうと、私に感じさせた。映画の中で、使用人たちが働く台所で食事をとるココ。しみのついたよごれたナプキンに文句をいうと、使用人から「あなたはこれで十分です」といわれるシーンがある。 ココのいるすぐ後ろで「ご主人様の愛人はブサイクだ」と、聞こえよがしにいう使用人たち。 そして、ココを愛人として屋敷にすまわせるバルザンにも、男に奉仕するためだけの存在としてさげすまれるような扱われ方をされる。 使用人にも愛人にも、馬鹿にされ、軽く扱われたココの味わっていた感情はたぶんちょうど、私がレストランで映画を見たその同じ日にあじわったのと同じ感じだ。彼女はずっとこの不愉快をその人生の中で味わい続けたのだろうか。 そして、この時代。彼女だけでなく、女性たちもまた、男にとっての飾り物でしかない。男に寄生していくことでしか生きていくことができなかったのだろうか。女たちが、レースやリボンやフリルのタップリついたドレスで着飾っているのを見た時、ココは言う。 「デコレーションケーキみたい。」 それは、女たちが男のための飾り物の存在として扱われていることをあらわしている。そして、ココのような身分の低い女性だけでなく、貴族の妻たちでさえ。 ウェストを締め付ける苦しいコルセットや、頭をふるたびに落ちそうになるような飾りだらけのチンプな帽子。デコレーションケーキのようなドレス。男のために不便を我慢して着飾る女たちを見た時、シャネルは何を考えたのだろう。 男のためでなく、ドレスを着る女性自身のきごこちのよさのためにあるドレス。男にたよらず、自分自身の力で生きていくためのドレスをココは作り始める。愛人のバルザンやボーイ・カベルの男物の服をリメイクして着始めるココ。今でこそ、ズボンもボーイッシュな服もシンプルな服もしごく当たり前なものだけれど、この時代にズボンをはき、男物の服をきるココは、どれほど奇異にみえたことだろう。 フリルもレースも、リボンもないシンプルな黒いドレスを作り出したココの感性は、この時代に、いきなり、100年の時間を飛び越えるほどの革命でもあったろう。 ココシャネルの服は、ただデザイナーがきれいなかわいいファッションとして作る服なのではなく、女性が自立して生きていく、男のために着飾ったり、我慢したり、苦しい思いをしたりしない服なのだ。だから、その基本のスタイルは、100年たっても、200年たっても変わらない。 シャネルというブランドは、自分の心のままに生きていくというココの思想そのものが、服になったものなのだと、この映画をみてはじめてしりました。 けれどシンプルで自由を意味した、有名なシャネルスーツは、今では、お金持ちのステイタスであり、豪奢なものというイメージをもち、彼女が本来語ろうとしたものとは、別のものになってしまっているようでもあります。 シャネルというブランドもまた、お金持ちでないと買いずらいような高価なものとなってしまっています。あるいは、男性の接待をしてお金をかせぐ水商売の世界の人たちに愛用されてしまっているという、なんとも皮肉な今の日本のシャネルという存在。 なんとも、皮肉です。 けれど、ラストにヒロインココがきているシャネルスーツは、とてもきれいでした。それにしも、オドレイ・トトゥさん。アメリだけのはまり役でなく、どんな役でもこなしちゃうんですね。映画の中でだんだんきれいになっていくところが見所です。『ココ・アヴァン・シャネル』公式サイト ココ・アヴァン・シャネル@映画生活
2009年10月02日
コメント(6)
昨日の『十戒』の記事からつづきます。ガンジーは、最初はやはりイギリスで学んでいて、弁護士だったんですね。 そのうえでやはり、インドのリーダーとして、イギリスからの独立をめざすわけだけれど。彼の指示に従って、インド人のすべてが、同じ日の同じ時間にストを決行したり、イギリス製の服を焼き払ったり、塩の行進をしたりする。 彼は、叫ぶでもなく、戦うでもなく、武力を行使するわけでもないのに、全インド国民を従わせられたのはなんでなのだろうか。 リーダーは、一つの集団のために行動するわけだけど、どうすれば周りをうまく動かせるのか。それが自分のためでなく、その民族のためであることが、人々に伝わっているからなんだろうけれど、 自分の名誉や支配欲のために、王様や、皇帝や、大統領や、総理大臣になる人たちとは、随分ちがう。特に今の日本の総理大臣とか。 この二つの物語には共通する部分が結構多い。二人とも支配者側の教育機関でまず、学んでいるのですよね。軒先を貸して母屋をとられるみたいな感じ。 そのうえで支配者からの民族の独立を扇動していく。でも、独立した後の、統率者にはなっていない。モーゼは、ユダヤ人が最後に約束の地に行くとき、その河の先に渡ってはならないと、神様にあらかじめ止められているので、ユダヤ人たちが河を渡って、幾野を一人見送っているのです。あんなに苦労してきたのに。 ガンジーも、最後に、暗殺されてしまいます。 独立のための先導者としての、能力はあったけれど、そのあと、国が出来て、政治をつかさどっていくための能力はなかった。だから、神様にそこまでだよーって、ストップをかけられちゃったのでしょうか。支配者、君主になると、また別の能力がとわれるのでしょうか。 リーダーシップについて、いろいろと考えさせてくれる映画でした。つくづく。 でも、同じ日の同じ時間に国民全員が彼の指示にしたがって、ストという行動をとれる、って、すごすぎる。と、思います。なかなか出来ません。というか、絶対並みの人間にはできません。わが子一人うまく指導できないんだから。 親は子供のためを思って、いろいろというのに、ガンバーがインド国民のためを思って言う言葉ほど、説得力がないのはなんでなんだろう。人間としての力量の差が天と地ほど違うからなのか。テクニックや、話術や方法論なのか。 映画だけではわからいと思って、ガンジーについて、検索して、読んでみたげれど、あまりにも、いろいろあって、ふかすぎて、難しすぎて、くらくらしました。 そんなに簡単に答えの出る問題じゃないんですね。
2009年04月04日
コメント(2)
日本人には、キリスト教はよくわからない。でも、善と悪は、同じように存在する。誰の心の中にも。 結局全部見てみると、もしかして、神様とサタンは、同一人物なのかもしれないということ。 大天使ガブリエルや、サタンや、マモンや、いろいろとでてくるのに、神様だけはでてこない。でも、最後にでてきた、サタンは、コンスタイティンの肺がんの部分をその神業だか、悪魔技だかで、とりのぞいで、もっと生きろと、コンスタンティンを救ってくれる。 神様がもとめていたのは、悪と戦うことではなくて、人が人を救うこと。自己犠牲によって、たった一人の女性を救ったことで、コンスタンティンもまた、救われる。それも、サタンによって。 そしてまた、かつて、一人の天使が悪行によって堕天使となって、サタンとなり、地獄をつくったように、天使のはずのガブリエルもまた、堕天使となってしまう結末。天使も悪魔も紙一重なんだねえ。天使のはずのガブリエルの羽が黒いのが不思議だったけど、なるほどね。 天国と地獄も同じなのかも。そして、それは、人間界と同じ場所にあって、ただ人の意識ひとつで、その居場所が見えるものが変わるだけ。 そういうことかぁ。キアヌ・リーブスが好きコンスタンティン@映画生活
2008年05月27日
コメント(0)
ニューヨークのマンハッタンに突然巨大なモンスターが現れて、マンハッタン島を破壊していく。という物語です。ほぼ、ネタバレに近い書き方になりますが。 ま、ストーリー自体は、いままでにもあるパターンなのですが、その独特な語り口、というか、描写というか、表現方法ゆえにちょっと変わった映画という売りとなっています。というのも、映画が、プロのカメラマンの撮影によるものではなく、ドラマの中の登場人物が撮影した画像で最初から最後まで表現されているからです。だから、よくゆれるし、ピンボケするし、地面とか、関係ないトコもいっぱい映ってたりする。 面白かったかどうかというと、うーん。見終わってみると、なーんだという程度のお話なのですが、この表現方法と、肝心のモンスターの正体はなに?という引きで、結構最後まで引っ張られて見てしまいました。というか、今まで私が見た映画の中で、一番映画の時間を短く感じたのです。そうとう飽きっぽくて、大概の映画で途中まだかなーとか考えてる私が、この作品ではえっおしまい?早くない?と、感じたのです。そのあとのエンドロールの方が長く感じたくらい。最後になにかあるかなと思って最後までエンドロール見てたけど、なんにもなかったので、終ったらさっさと帰っちゃった方が良いみたい。 予告ではおよそ想像のつかないような得たいのしれないモンスターの出現にぱにくる話という触れ込みで、そのモンスターの正体っていったい何?というところが最大のポイントで、わたしとしては、ゴジラかな、それとも、キングコング? とか、考えました。映画を見始めて、もしかして、自由の女神が動き出して、マンハッタンを破壊してるとか、だとしたら、映画のテーマは、「自由によって出来ているはずのアメリカが自由がによってを破壊される」というものかもとか、いろいろ考えましたが、結局モンスター自体は普通に普通のモンスターだったし、主人公や恋人や友達もモンスターに殺されちゃって普通の話。主人公が死んだところで画像は終ったので、その後モンスターがどうなったのかも謎のまま。このあたり、気になります。 ありふれたモンスター来襲の話を登場人物の視点だけでというか、視野というか、殺される一市民の側だけで描いている面白さなんでしょうね。いつもは怪獣映画の中でばんばん殺される一市民の側から、怪獣映画が作られている面白さですね。これが意外と面白い。最初の爆音やゆれ、停電なんかに何事?と思って、わけ分からん状態で、どうやらなにかとんでもないものがマンハッタンに現れたらしいということが分かってきて、で、それって何よって気にかかりつつ、最初は画面にチラッとしかでない。どんなモンスターなんだーと気になる気になる。 いろんな話が出つくしてきて、今度はじゃあおんなじネタをどう面白く見せるかのアイデア勝負の映画ですね。 劇場側が警告している画像の不安定さゆえの車酔いのような不快感は、幸い私は、大丈夫でした。ていうか、しろうとが逃げ惑うパニック状態の中で撮っているにしては、結構うまくとれてるというか、上手すぎ。しかも、あんなこわい状況で死ぬまで撮影をやめないその理由はいったいどこにあるんですかと、聞いてみたくなります。この状況で、ここまで、ヒデオ撮影にこだわるなんて、ありえない。ありえないけど、面白かったですよ。でもって、モンスターに襲われて目から血がでるシーンや、登場人物目線なのが、いかにも、ゲームの『サイレン』みたいです。第一この映画の設定って早い話モトネタは『ゴジラ』なわけだし。主人公の転勤先が日本の会社だったり、いろいろと日本とのからみがいっぱてあって、ネット上で検索をかけるといろんな隠しサイトっていうか、クローバーフィールドがらみの現実には存在なしい企業のサイトがあったりと、いろいろ見た後もたのしめるらしいですね。 ちなみに、今回のモンスター見てて、ロバート・A・ハインラインの『宇宙の戦士』を思い出しちゃいました。かの有名な名作アニメ『ガンダム』シリーズの土台となったことで有名な作品ですが。このあと、映画の中でも、地球は宇宙戦争に突入しているのかもしれません。 クローバーフィールド/HAKAISHA@映画生活
2008年04月18日
コメント(0)
説明するまでもなく、アメリカ・ニューヨークの貿易センタービルに二機の旅客機がつっこんで、ビルを崩壊させた有名な911事件を中心に、ブッシュ、ゴアの大統領選の不正疑惑から始まって、ブッシュとアラブの癒着によるイラク戦争への流れまで。大統領、上院議員、アラブ王家などなどの懐を暖めるための戦争に借り出されて死んだ兵士たちの家族の嘆きにいたるところまでが描かれている。 昨今、あの911事件が実はアメリカ側の計画的な事件だったのではないかという説も出ているわけであるし、この映画でも、それに近い意見がにおわされてもいる。 何も知らず、国家のために海兵隊員になり、戦死し、あるいは、手や足を失うほどの負傷。わが子の戦死に嘆き悲しむ母親。その一方で決してわが子を戦場には出さない上院議員たち。 アメリカという国の社会構造がいかに上部の金もちのためにできているか。しかし、マイケル・ムーアによってこれだけ赤裸々に描き出されながら、この映画が公開禁止になることもない。これだけ、オープンに訴えられていながら、マイケル・ムーアの最新作「シッコ」でも、やはり、アメリカ国内における上層部の金持ちのための社会という訴えは同じように語られる。 なぜだろう。 アメリカという資本主義の国が実は上層部の金持ちのための国でしかないという真実。それをかたる映画である。 しかし。 こんなに明確に語られているにもかかわらず、金持ちの犠牲になる社会の底流の一番この映画を見るべき人たちは、実は、この手の社会派の映画はおそらく見ないのだろう。彼らは、『グラインドハウス』や、『ブルース・リー』はみても、こういった社会派映画は見ないだろう。 マイケル・ムーアは彼らのために作っているというのに。 結局彼らは低俗な娯楽や日々の楽しいことに関心をむけ、その日その日を送る。 社会格差を産むその差はなんだろう。賢いかどうかだと思う。戦争に行くことが国家のためでもなんでもないことを、上院議員や金持ちは知っているのだ。 そして、おろかなまま、社会の底流にいる彼らは、宣伝文句のままに、国家のためにと信じて、あるいは、他に働き口のないままに、戦場に行く。 貧乏のらせんから抜け出すにはやはり、賢くなること、そして、勉強して、社会の上層部へと昇っていくしかないと思う。 しかし、そのために、すべての市民のために機会均等の下につくられた公立学校は、しかし、彼らによって崩壊させられてしまったのではないのだろうか。 賢くなり、社会の上層に上がっていくための勉強をするための場であったはずの学校は、校内の銃乱射、麻薬、暴力と、激しく校内レベルを低下させて、自分たちが登っていくためのきっかけを彼らは彼ら自身でつぶしたのではなかったか。 みかねた資本家たちは自分たちの子弟を私立学校にうつしてしまったのだろうか。今の日本のように。 それとも、校内に銃を持ち込み学校をあらしたのは、実は上院議員の子息達だったりするのだろうか。 社会には貧乏人と金持ちがいて、その格差は開いていく一方だが、それでも、その中で、必死に勉強してのし上がっていく人間もまたいるものだし、金持ちの家に生まれながら、そのおろかさゆえにその資産を使いつぶして貧乏へと落ちていくものもいる。 社会はなるべく全体の知的レベルが高く、みんながより多くの知識をもって賢く社会を動かしていける方がいいのだけれど、その一方で社会を押し上げようとする意図とは逆に社会全体を引き下げようとし、社会を荒らすものもまたいるのも事実。それは、校内暴力をするこどもであり、それを許す親であり、数々の犯罪をする大人たちでもある。 社会全体を底上げしようとする社会のリーダーの意向とは裏腹に社会全体を引き摺り下ろそうとする人たちもいる。 自分たちの欲望と目先の利益だけにとらわれ、あるいは社会の表面的な流れに乗せられてしまうことが、いずれは自分たちを落としていくことにきずかない。 一方で、資本家たちや、社会の上層部の人たちは、そんな底辺の人々に見切りをつけて自分たちの保身をはかり、あるいは、自分たちの利益を優先するための社会を作り始めてしまったとしても、あるいは仕方ないのかもしれない。 日本もまた、今、そんな社会構造になりかねない瀬戸際にいるのではないのか。とても、怖い。 華氏911@映画生活
2007年10月03日
コメント(12)
アメリカ版『海猿』だよなと思い、そんなに面白いとも思えなくて、かりずにいたのに、見てみてたら、面白くって! 飽き性でいつも、映画の中盤あたりで飽きてくるのに、この映画は飽きませんでした。そして、荒れ狂う海でのすっごいハードな救助シーンの数々。劇場で見なかったことを後悔しました。しかし、ものすごーい寒い海にわざわざ自分から飛び込んでいくような仕事に自分の意志でつくなんて私にはありえない。 USコーストガード(アメリカ海難救助隊)で救助員の仕事をするコスナーがかっこいいですね。ケビン・コスナーの映画といえば、。『ダンス・ウィズ・ウルブス』がなんといっても好きなんですがー。 今回の『守護神』も良かった。 救助の時のちょっとした事件で心に傷をおって仕事が出来なくなってしまうベン・ランドール(ケビン・コスナー)。救助員養成学校の教官として、候補生たちを鍛えていくシーンも圧巻ですね。一時間プールで浮いてなきゃだめとか、氷水の中に生徒と一緒に入って、冬のつめたーい海がいかに冷たくて体と思考を麻痺させるかの体験学習とか。 優秀なんだけれど、人間的にいまひとつの生徒ジェイク・フィッシャー(アシュトン・カッチャー)が、いつの間にかコスナーの主役の座を入れ替わっていく。 ジェイクは、普通主人公のライバル役っぽい性格してるんだけどね。ちっょと情に欠けてて、自分勝手で、でもすごくハンサムで優秀。それがなぜか今回は準主役。でもってラストは、主役。 ベンの能力も仕事もトラウマも全部引き受けて、代替わりしていくみたいでした。 優秀だけれど、人間的に欠けた未熟な部分もあるジェイクを自分の手元で育てようと、ベンは、養成学校卒業後、自分の職場にジェイクを配属させ、一緒に海に出て行きます。けれど、ベンの中のトラウマはやっぱり消えていなくて、逆にジェイクに助けられてしまう。そして、ラストでは、決してベンの手を離すまいとするジェイクを見て、十分に成長した彼に安心したのかもとちょっと考えてしまいます。ジェィクを助けるため、ベンは自分の手袋をほどいて、自ら海に落ちていきます。 彼は、やっぱりどうしても、海から離れることは出来なかったのでしょうか。 成長して一人前になったカッチャーを残して、ベンは海に沈んでいく。「守護神」というタイトルはこういう意味だったのかと納得のラストでした。 ベンは、今でも海の中にいて、遭難者たちを励ましている。死んでも、成仏しないで海にい続けて幽霊どころか神様になっちゃうというのも、すごいですよねえ。奥さんほっとくどころか死んだ後天国に行くのも嫌というほど海に体も心もとらわれているんですねえ。ここまで好きなんですか。海のお仕事。過労死なんてレベルじゃないもんなあ。 それこそ命がけのお仕事です。 仕事にはまり込んで奥さんが、二の次になったベンですが、ジェイクは、きちんと海も妻も大事に出来るのでしょうか。そうであってほしいですね。 さて、伝説のレスキュー・スイマーといわれ、自分が助けた人の数もおぼえていないほど優秀で、きびしい荒海での仕事を何十年もこなしてきたベンが、なぜ、救助の場での友人の死をきっかけに、現場の仕事が出来ないほどのトラウマを持ってしまったのか。ちょっと不思議だったのだが、考えてみればそれは結局、妻に去られたからなのだろう。 仕事仕事で家庭も妻も顧みない夫ベンに嫌気がさして、家をでてしまう彼の妻。けれど、実は見えない力でベンを支えてくれていたのが妻だったのだ。優秀であればあるほど、エリートの男というのは、自分の能力ゆえだと過信してしまう。けれど、実はその後ろで彼らを支えている妻、あるいは友人の存在が彼らの心を支えるうえでどれほど大きな意味をもつか。彼らの仕事に対して、それほどの技術的な援助をするわけではないけれど、彼らの心を支える上でどれほど大きな力となっているか。 物語の後半でベンはやっとそのことにきずく。自分は救助現場で妻の体の上に乗っかってまで助かろうとしたあの夫(物語冒頭の救助シーンの夫婦)と同じだったのだと。自分の人生は妻の上に乗っていたようなものなのだと。 養成学校で、優秀にもかかわらず、人をいたわらないジェイク。彼をみながら、それが自分自身と同じだったことにきずいていくベン。高校水泳のチャンピオンだったジェイクがなぜ、オリンピックをめざして水泳選手にならずにコーストガードにやってきたのか。それは、やはり、彼の過失で友人を死なせてしまったトラウマゆえだった。 エリートは、優秀であればあるほど、それが自分ひとりの力であると、思い込みやすいけれど、実は周りの人たちに支えられているのだ、と、きずいた時、ジャイクは、別れたはずの恋人のもとを訪れプロポーズする。ジェイクは自分をささえる存在が必要なことにきずいたのだろう。そして、恋人にもまた自分の存在が大切なことにきずいたろうか。ジェイクは妻を大切にして、こののち、優秀なコーストガードとしてはたらいていってくれるだろうか。 彼が優秀なコーストガートとしてあるために、妻の存在がきっと大切なものになるはずで。今度はベンのように妻をなおざりにせずに、仕事と同じように大切にしてあげてほしいですね。自分自身のためにも。 数々の救助をしてきたベンは最期に自分自身を犠牲にして、ジェイクを助ける。多くの人の命を助けてはきたけれど、彼自身が誰かの犠牲になったのは、実は後にも先にもこの時だけだったと思う。そして、海の守護神となった彼は、多くの遭難者たちのこころのささえとなっていくのだろうか。まさに伝説の男。ベン・ランドール。 守護神@映画生活
2007年09月03日
コメント(0)
人はやはり、畏怖するものをもとめているのだろうか。 物語は、ブレアがイギリスの首相として、就任し、エリザベス女王と謁見するところから始まる。その後すぐにチャールズと離婚した元プリンセスのダイアナの事故。イギリスは国中が彼女の死を悲しみ、政府と王室は彼女の死と、葬儀に対しての意見統一を決められずに、国を挙げての騒動となっていく。 長い専制君主時代を乗り越えて、民主主義になった現在でも、王室を残す国は多い。「あんなものは税金の無駄遣いで要らないのじゃないか」と、そんな声がある中で、それでも、王家の人たちへの憧れをもつ人々は多い。 プリンセスダイアナは世界でも、特に有名で人気の高かった女性だけれど、もし、彼女がチャールズ皇太子と結婚するわけでなく、ただの普通の貴族の娘のままだったら、世界の人々はあれほどダイアナに注目しただろうか。 紀子様も、雅子様も、プリンセスダイアナもプリンセスであるからこその存在であり、人々の憧れ、畏怖するものなのだ。それは、クイーン・エリザベスもまた、しかりである。 民主主義と合理化が言われる中で直、存在し続けるもの。それがロイヤル・ファミリーというものであるからこそ、クイーンエリザベスは、政治の実権をなくして直、英国を統べる存在として、あり続けるのだろう。 開かれた王室、今までのしきたりにとらわれない自由な生き方をもとめて、「庶民のプリンセス」として、あり続けたダイアナの死を、イギリス国民が嘆き悲しんだのも、また、プリンセスであったればこそ。王室の威厳を守ろうとして、対立した、エリザベスとダイアナなのだけれど、やはりダイアナもまた、イギリス国民にとって畏怖すべきものだったのだろう。 ダイアナの死後、ロンドンに帰らずに、女王領で、二人の孫のためにい続けるエリザベス。周りのひとびとから、「マム」とよばれ、自ら、ランチの支度をして皿を並べたり、自分で自分の車を運転して出かける女王は、ごくごく普通の人間だ。けれど、国民はダイアナのためにエリザベスがロンドンに戻ることを望み、それをしない女王に失望し始める。王室なんていらないのじゃないかと。 そんな中で、森に出かけたある日、エリザベスは一匹の鹿に出会う。まるで森の主のような神々しい美しさにエリザベスは、神のような畏怖を感じる。けれど、数日後、その鹿は隣の領地で狩られてしまう。彼女は、隣の領地の屋敷まで、撃たれた鹿の死体を見に行く。自分が畏怖するものを失う心の痛みと、つらさ、喪失感を味わった時、彼女は、自分はやはり、イギリスにとっての畏怖する存在、クイーンであらねばならないのだと、感じたのではないのだろうか。 ロンドンに戻ったエリザベスが見たもの。それは、プリンセスダイアナを慕う国民がささげた公園いっぱいの花束だった。王室を開き、庶民のものとして、権威と威厳を失わせようとしたはずのダイアナもまた、イギリス国民にとっての畏怖するものだったのだ。 そして、そこで、女王としての彼女に渡される少女からの花束。クイーンへの、愛と尊敬と、畏怖と。 エリザベスは、女王として、ダイアナへの弔辞の言葉をささげ、元王室の女性として、未来のイギリス国王の母として、葬儀を行う。 英国首相ブレアもまた、エリザベスの威厳に心を打たれ、畏怖と、尊敬の念をいだく。 イギリスという国の国民の心を王室という存在への憧れと尊敬と畏怖によって統一するもの、統べるものとしての女王である自分。エリザベスは不本意なまま、50年という長い歳月、女王としてあり続けたのだ。 水曜なので、混んでました。満席でした。何しろ、都内は二館くらいしか、上映してないのですもの。日比谷シャンテで見ました。ぜひ、お早目の来場または、予約をどうぞ。 クィーン@映画生活
2007年04月27日
コメント(2)
男を裏切る時、女は赤いドレスを着る。 ショーン・コネリーは、もっとエレガントでスマートだったのになと思った人は多いはず。 007誕生の物語で、まだまだ未熟で若いボンドだから、破天荒なことはするし、向こう見ずなことはするしで、見ていていたいたしかった。 建設中の現場を壊しまくったり、追いかけてる相手をがんがん殴りつけて殺しちゃったり、戦争映画の戦闘シーンよりはるかに不快感があったのは何でなんでしょうね。 なんだか全体にどたばたしていて、下品だなとそういう感想になっちゃって。それでも、映画の人気度ランキングでは、一位なので、面白いと思った人は多かったみたい。もっとも、あの「太陽」が一位だったくらいだから、やっぱりランキングなんて当てにならない。 それでも、登場する美女の衣装がなかなか素敵。追いかけてる敵の奥さんと浮気するシーンで相手の人妻がきてた赤いドレスがすごくかわいかったのよ。胸はなかったけどね。 そのあとにでてくる財務省からきた女性も最初は黒い服を着てるのに、ラストで赤いドレスを着る。それまでずっと地味な黒か紫のドレスだったのに。 それはやっぱりボンドを裏切る複線だったのですねえ。 赤いドレスはかわいかったのにあぶないんだな。 ベニスで舟遊びって「ロシアより愛をこめて」のラストシーンと同じだよね。他にもいくつかシリーズに関係した場所が出てきたのでしょうか。 それにしても、今現在沈みそうなベニスが実際建物の底辺でたくさんのフロートによってなんとか維持してるんですね。あと、百年で沈むといわれてるけど今現在もう沈んでるジャン。 あのシーン。どうやってとったのでしょう。貴重なベニスの街を破壊しないのでしょうか。私はそっちのほうが気になっちゃって。 破壊しまくりの映画なのでね。私には爽快というより不快でした。 しかも、やっとカジノで勝ったのに、その時の仲間二人にも裏切られて、愛した女性はしんじゃって、なんかかわいそうなお話。 恋人の死によって精神的に成長したボンドを見る前に話が終わってしまったのでした。 やっぱり、ショーン・コネリーってすごかったんだなあ。と、実感しました。 外国映画、洋画 007シリーズ007 カジノ・ロワイヤル@映画生活
2006年12月11日
コメント(9)
昔はやりましたね。アニメまでできたし。アニメの歌はいまでも、覚えてるよ。 最近タイム系の映画が多いけど、リバイバルものも多いですね。 それで、やっとこの作品見たわけですが、最新の技術で、作ってあるので、見ごたえありました。でも、昔キングコングの島に恐竜なんていたかなあ。キングコングだけがいて、島民に神様みたいに崇め奉られてて、ヒロインはそのいけにえにされたんじゃなかったかな。 今回は恐竜出てきて、キングコングと対決するんですよ。たしかに、巨大生物同士の対決シーンは見ごたえあるし、娯楽性もあるけど、こんなに恐竜が出てくると、キングコングというよりは、『ジュラシック・パーク』、『ドクターノオの島』、『強大生物の島』なんかの映画を見ているようなきがします。 しかも、ヒロインはキングコングにつかまれてキングコングが走っているわけなのです。キングコングにもたれて、走ってる間ぶんぶん振り回されてるヒロインはぜーったい、鞭打ちか全身骨折になってると思うんですけどね。あんなもたれ方して、振り回されているのに、ぜんぜん無事なヒロインはすごいですね。そのあたり、無茶ですね。つくりが。 恐竜はがんがん出てくるは、巨大な虫は出てくるは、登場する人間はかたっぱしから、殺されるはで、久しぶりに豪快なスペルクタクル映画でしたけど、なーんかいまいちスペクタクルとして楽しめなかったのは何でなんでしょうね。 ただね。あれだけ同胞が殺されてるのに、それでも、キングコングを捕まえて、もってかえって見世物にして金儲けに使おうなんて考えるあたりすごいよね。西洋人て。 かつて世界中をまたにかけて冒険して、世界中の国を植民地にして、世界を征服しようとした、西洋の人たちのバイタリティを見ているようです。あれじゃあ、世界中をヨーロッパに支配されたのも無理ないなあと思いましたけどね。 世界のほとんどの国は自分たちの国をでて、世界を冒険しようなんて発想なかったものね。西洋人だけが、外に出たいタイプの人種だったのでしょうか。 日本も豊臣秀吉の朝鮮出兵の失敗以降、外国へ出るのやめちゃったものね。江戸時代の鎖国は、外国の侵入を拒否したものと昔学校では習ったけど、そうじゃなくて、日本が外国へ進出しようとするのをやめたということだったのではないのかなと最近思います。なにしろ、お金と人間と労力の無駄遣いですからね。ほとんどの場合は。そんでもってたいがい失敗するし。以降日清戦争、満州事変までは、日本は鎖国となります。これは中世の暗黒時代と似てますね。 そうすると、本来日本も冒険好きな国だったのかもしれませんが。 それはいいとして、今現在キングコングを見世物にしようなんてしたら、動物愛護団体と自然環境保護団体からのクレーム、時代ゆえの倫理的社会批判が予想されますので、今はもうできませんねえ。 昔ってそーんな時代だったのですね。 映画ビデオ、映画DVD
2006年11月21日
コメント(2)
まだまだ『ゲド戦記』の話は続いてます。ネットで酷評はなはだしい『ゲド戦記』アニメ版ですが、かつてアメリカで実写版も作られたのです。そんで以ってこの実写版もまた、原作者ル・ヴィンによって、やっぱり酷評されたのですね。ル・ヴィンがこの実写版を酷評した理由は、出演者のほとんどが白人だったためです。彼女が描くアースシーの世界で白人はマイノリティです。実際地球上でも、人類には、白人、黒人、黄色人種、などなどいろいろといるのにもかかわらず、アメリカの映画界で作られるSF映画の登場人物のほとんどが白人であるのが納得いかないそうです。ゲド戦記では、主人公のゲドは赤褐色の肌だとしているのに、実写版に当たってゲドを演じているのが白人の青年なのはどういうわけかということなのです。ごもっともです。ほんとに。ゲドの物語のなかで、白人なのは唯一アチュアン迷宮のテナーだけなのです。 ですから、物語の中のアースシーは東南アジアの島々をモチーフにしていそうだなという私の読みは当たってたかもね。で、アースシーの中で地図の右上に存在するカルガド帝国が唯一白人の住む島であり、カルガドはたびたびアースシー世界に攻撃をしかけ、彼等はアースシーの価値観とは全く違う価値観で帝国をつくり、暮らしていて、アースシーの文化との融合もありえない。そんな描かれ方をしています。 ところでこの実写版は、ル・ヴィンの酷評はもっともなんですけど、それでも、とりあえずストーリー自体は原作のストーリーを踏襲して作られているので、ゲドが自身の魔法の力に気づき、オジオンに師事して、やがてロークの魔法学院に行き、最後は、アチュアンでテナーと出会い、エレス・アクベの腕輪を復活させるところまでが描かれていて、つまり、一巻と二巻を上手く混ぜてストーリー構成してありました。少なくとも、アニメ版よりは、ずっとましに、ゲド戦記を楽しめるものでした。ヨーロッパの設定で描かれてはいますが。ま、まあまあかなと思います。アチュアンの部分に関してはエピソード増やしまくりではありますが。BIGLOBE動画で無料配信中なんだけど、期間限定で、いけない!あと数日しかない。今月末まででした。いまさら、なんだけど、見れたら、見てください。本読むよりは楽。 ☆ファンタジー映画☆
2006年08月29日
コメント(4)
全10件 (10件中 1-10件目)
1