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アメリカのホラー映画っていうのは、「怖いよ怖いよ」って宣伝される割には、いつもあんまり怖くありません。なんでかっていうと、でてくる怖いものの正体が悪魔だから。あれほど騒がれていた『エクソシスト』にしても、怖い相手は、悪魔なんですね。悪魔と戦う話。 私たち日本人は、悪魔とか、地獄なんてないっと思ってますから、悪魔とか出てきても、モンスターの一種、ウルトラマンにでてくる怪獣と同じレベルでしかない。だから、怖いと宣伝されて、映画の中の人物たちがびびっていても、ちゃんチャラおかしい感じで、見終わった後には、また騙されたな、駄作じゃんとと言う感想がほとんどです。 なぜなら、日本人にとって、怖いのは幽霊だからです。ジャパンホラーのほとんどは、幽霊です。幽霊に関しては、一度も見たこともない人でも、もしかすると、いるんじゃないかと、心のどこかでなんとなく信じています。だから、幽霊の話ってすごく怖いんですよ。私たち日本人には。じゃあ何で怖いかっていうと、幽霊というのは、だいたい呪いとか、恨みの具現化したものだからです。誰かに殺されたとか、誰かに怨みをもったまま死んだ人が、その恨みをなんとかしようとしてでてくるのが、幽霊です。 日本人が一番恐れているのが、他人の恨みを買うことです。なんでかっていうと、農耕社会だから。一つの村落を形成して、その村びとたちが協力し合いながら、農業をすることで、生きていくのが日本です。だから、人の恨みを買ったりして、その集団の中で生きていけなくなると、自分の生死に関わるわけです。 だから、「村八分」とか、「いじめ」とか、「仲間はずれ」とか、「世間様」とかが、一番こわいのです。日本人が恐れているのは、ひと、他人です。 その一方で、西洋社会の場合、キリスト教社会なので、一番怖いのは、『神』です。神の怒りを買うことが一番怖いのでしょう。神は天上にいて、人間が悪いことをしないように常に見張っているわけです。そして、悪いことをして神の怒りを買うと、ひとは地獄に落とされてしまうと、信じられているからです。このあたりの感覚が、日本人にはどうしても、わかんないんですけど、でも、本当に西洋人は、信じているように思います。 もともとは、悪いことをしている人間に対して、悪いこと(殺人とか強 姦とか、盗みとか)をしないようにするために、悪いことをすると、地獄に落ちるよ、地獄に落ちるとずーっと永遠に業火に焼かれ続けたりして、この世のなくなるまでずーっと痛い辛い思いをしなければならないよと、諭されたわけです。で、悪いことはしたら、反省して、悔い改めて、常に悪いことしないようにきをつけなくちゃだめだと、いったのが、キリスト教です。ところが、それを聞いて、悪いことをしないようにするという部分より、地獄に行かされちゃうという部分の怖さの方がインパクトがあって、人々の心に残ってしまったのでしょう。で、悪いことをしたら、懺悔して、でも、あいかわらず、悪いことはしていねのが西洋人。それでも、昔よりはずっと、悪いことはしなくなったのでしょうか。でも、あいわらず、地獄と悪魔は怖いわけです。深層心理にすりこまれてるのでしょうか。 だから、その神の怒りを買ったときにおとされる地獄、の使い手であり、悪いことをした人間を迎えに来るのが悪魔なのです。 だから、西洋の映画にでてくる悪魔はどんな目的があるかとか、どんな力があるかとか関係なく、いるだけで、でてくるだけで怖いのだと、思います。それは、無条件で、たとえ自分に関係なくても、でてくるだけで、怖いと感じる日本人にとっての幽霊と、おなじなんだと、思います。 だから、アメリカ映画や洋画のホラーに出てくるのは、いつも、悪魔であり、そして、西洋人にとっては、とてつもなく怖いのでしょう。 映画「ミラーズ」でも、最初はわからない怖いものの正体は、悪魔です。物語の後半で悪魔が現実に具体化するところで途端に日本人はしらけてきますが、たぶん、西洋の人たちは、鏡の中にいた悪魔が、具現化すること自体がすごく怖いのだと、思います。それは、まだまだ行くのは先のはずだった地獄に、いますぐつれていくために自分をむかえにきた存在だからです。 そして、鏡の向こう側というのは、西洋では、地獄のひとつなのではないかと、思います。日本でも、夜中に鏡を見るのは怖いんだけど、西洋でも、鏡の向こうは、悪魔のいる世界であり、それは、つまり、地獄ということです。だから、ラストで、主人公が鏡の向こう側に閉じ込められてしまったということは、地獄つれていかれてしまったということなのだと、思います。 真夜中の12時に向かい合わせにした鏡の中から悪魔がでてくるという話を昔きいたことがあるけれど、つまり、鏡の中というのは、悪魔のすんでいる世界であり、普段はでてこれないけれど、なにかのきっかけで、でてこれる。その悪魔が現実世界にでてこれるきっかけの一つが、「エクソシスト」で悪魔に憑依された少女。悪魔がとりつくことのできる体をもった人間がたまにいるのだと、いう解釈になるのだと、思います。 鏡の中にいるはずの悪魔が現実世界に干渉できる力をもてるようになったきっかけが、映画「ミラーズ」の中では、アンナ・エシカーに一度は憑依していた悪魔であり、そこから一度鏡にもどされてしまった悪魔が、もう一度現実世界、地上世界に戻ろうとしていたという物語です。 主人公が働いていた廃墟同然のもとデパート自体が、なぜ壊されずずっとあるのか、しかも、さらに警備員をわざわざ雇って夜中にパトロールをさせていたのか。たぶん、立て直したり建物を壊そうとしたりすると、中にいる悪魔の力によって、妨害されていたのでしょう。そして、なんらかの力で警備員を雇わざるを得ない状況になっていたのだと、思います。それは、中にいる悪魔が、自分が地上にでるためのエシカーの体を取り戻すため。そして、悪魔の力は、夜でなければ、使えなかった。だから、昼間の警備員は、まったく影響を受けていませんでした。 ラストで悪魔とたった一人で戦う主人公。しかし、悪魔をたった一人の人間が倒せるとは思えません。悪魔がまだエシカーの体にとらわれていた間は力にも限界がありますが、地上世界でそのエシカーの体もなくなった時、やっと、悪魔は地上に出現できる。ラストのあと、悪魔は地上にあらわれて、主人公の他にも、悪行をした人たちを鏡の中の地獄にとりこんだのかもしれません。 物語序盤で、火に焼かれる人たちの幻影は、地獄の業火に焼かれる人を意味し、鏡の中で焼け爛れる女性もまた、鏡の中に地獄があることを意味しているのではないでしょうか。そして、主人公の家族までが悪魔によって引き込まれていきます。悪いことをすれば自分だけでなく、自分の関係する周りに人までもひきこんでしまうことをあらわしているのかもしれません。そして、ひとを殺し、酒におぼれた主人公が、鏡の中のとりこまれてしまうというラストは、やっぱりこわいですね。 ミラーズ@映画生活
2009年09月12日
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人が常に正しい判断をし続けることなんてできないんだよなあと、つくづく思った。 どんなに理性的で、冷静で、学問をしていても、いつもかなり正しく考えることのできる人だって、半永久的にに正しい判断をし続けることなんて、できるわけ無いんだよね。人間なんだから。 以下ネタバレしてます。 嵐の抜けた朝、湖の向こう側に現れた霧(ミスト)は、やがて、町をおおい、その霧の中には、今まで見たこともない、恐ろしいモンスターたちが潜んでいた。 町に買い物に出かけた先で、ミストに覆われ、大きな食品スーパーに篭城することになる町の人たち。店から出て、ミストの中に入れば、モンスターに殺されてしまう。 その中で、家に残してきた二人の子供のために、ミストの中に入っていってしまう女性。 聖書の言葉を語り、人々を狂気の妄信の世界に引き込んでいく女性。 理性的な判断力と勇敢な行動力で、徐々にリーダー的な存在となっていく主人公。 何とか二日間を乗り越えては見たもののこのままにこの店の中にいても助からないのではないか、世界はあの異世界からやってきたモンスターたちによって、滅ぼされてしまうのかもしれない。数人の同志とともに、店を抜け出して、ワゴンカーに乗り、南へと逃亡を図る主人公。けれど、ミストから抜け出さないまま、ガソリンもなくなり、銃弾による死を選ぶ。玉(銃弾)が足りないために最後にたった一人自殺もできずに残った主人公は、モンスターに食われるしかないのか。 けれど絶望の極地のその時、北からやってきた助けによって、あれほどの脅威に見えたミストもモンスターもあっさり排除され、取り払われる。主人公は助かったのだ。けれど…。 今までのパニック映画なら、勇敢な主人公は、南に逃れて数名の同行者とともに助かるといストーリーだったのだと思う。パニックに半狂乱になり、冷静に判断力を失う人々、普段の行動や言動とは裏腹に、いざモンスターを目の前にして立ちすくみ、あるいは、殺されてしまう人々。その中で、勇気と理性をもった主人公だけが、常に正しい判断と選択をして、助かる。そういうお話だった。 けれど、この物語では、主人公の判断は、常に正しくはない。それはそうだろう。だって、人間なんだから。 すこぶる分かりやすい物語で、たくさんの宗教的な教示や、自己犠牲の精神も、語られているんだけれど、私が、この作品で一番感じたのは、この、人のする判断は常に正しくはないということだった。 いろいろと、深みのあるストーリーで、ただのパニック映画ではない深さやテーマ性は、お見事。説教臭くなく、道徳っぽくなく、見ているものを納得させるんだけれど、それ以上にいろいろ考えさせられる映画だった。 「大学出のお前より俺たちの方が勇気があるぞ」っといって、無理にミストの中に入っていって、殺されてしまう、学歴コンプレックスの部分。その一方で、学歴があって、弁護士である男がいざとなると、自分勝手な思い込みで行動して、みんなのために行動してもくれなかったり。高齢の女性が勇敢に戦っていたり。小太りの男が全米競技会で優勝したこともある銃の名手だったり。 学歴も学問も資格も年齢も見た目も、人を本当に正しく評価する材料にはならないようです。 そして、そんな中で、モンスターと、戦うために、勇敢な行動をし、人々を導いて、正しい判断力と、行動力を持っていたように見える主人公が、けれど、最後までみていくと、必ずしも、正しい決定をし続けていたわけではないことも分かる。 南に逃げたけれど、助けは北からやってきた。南に逃げずに北に向かっていれば、あるいは、あのまま、あの店に残っていれば、あるいは、車が止まってしまった後も、最後のぎりぎりまで、自殺せずに生き残っていれば、助かったかもしれない人たち。 勇気ある行動でリーダーであったはずの彼が、店の中にいる他の人たちを見捨てて、数人の仲間とともに、立ち去ってしまったり。 町がミストで覆われた時、店の中に留まることがその時点では一番正しい判断に思えたのに、その中を子供のために自宅に帰っていった女性は子供たちとともに、助かっていたことがラストになってわかるのだ。その時は正しいと思える判断も、本当に正しいかどうかは、わからないものなのだ。 自分をなげうった時、助かるという部分もある。聖書の言葉を語り、人々を顫動して、最後には殺されてしまう女性も、モンスターに襲われた時、覚悟を決めてじっと、身を任せた時には、助かっていたりする。最後のシーンでは、五人なのに、四つの銃弾。それを他の人たちに譲って、自分は、モンスターに殺される覚悟で残った主人公だけが、生き残ったり。 で、そんな、いろいろなキリスト教的な自己犠牲の精神とともに、最後に生き残る主人公。けれど、愛するわが子は、既に死んでいた。正しい判断があれば、助かったかもしれないけれど、それは、やはり、無理なんだろうなあ。と、思う。 正しい判断のできるリーダーを選んでみんなそれに従っていけば、楽だけど、そのリーダーが常に正しい決定をしてくれるとはかぎらないんだから、やっぱり、常にみんなでいろいろ考えた方がいいんだけど、みんなが考えて決定することが正しいともかぎらないし。 人間はいっぱいいるんだから、みんなが勝手にいろいろ考えて行動しているどれかは、正しいこともありうるので、たまたまその正しい決定を運よく選んだ人なんかが、何とか生き残る。そうやって、人類は、生き残ってきたのかも。 大統領や総理大臣が決めたことがはずれることもあるわけで、そうすると国民は批難ゴウゴウなんだけど。お医者さんが医療ミスをしても、今は裁判沙汰で大変なんだけど、毎日仕事していれば、どうしたって、ミスはありえるわけだし。仕方ないんだけど。 映画の中でも、軍の科学者の研究の途中でミスをしたために、異世界の扉がひらかれて、モンスターがミストともに、現れる。それを知った店の中の人たちは、たまたまそこで生き残った軍人に対して、怒りをもってその軍人を刺し殺し、その死体をモンスターのいるミストの中に投げ込んでしまう。そうやって、人は誰かに責任を追わせたりする。パニックの中では、なおさら、人は、冷静さを失っていく。ただの一軍人に、軍隊のやったことの責任なんてもちろんあるわけないし、本当はそんなこと誰でも分かるのだけど。 映画の中でいろんな人がいろんな行動を取る。その行動が正しいのかどうか。映画は最後まで見ないと、わからない。 正しい判断や、決定が出来るとは限らない。後悔の無い人生もありえないのなら、その時一番だと思う選択をするしかない。 一人の人間が常に正しい判断をし続けるなんてできるわけないのだ。「衣食たりて礼節を知る」とか、「君子危うきに近寄らず」とか、「身を捨てて浮かぶ瀬もあれ」とか、映画を見てて、いろんな言葉が思い浮かんでしまいました。 日本にも、宗教はあんまりないけど、いろいろためになる名言があるもんですね。 ミスト@映画生活
2008年09月22日
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世界一有名な絵本、ピーターラビットを知らない人はいないんじゃないかと思うんだけど、ピーターラビットを書いたビアトリクス・ポターのお話。 彼女の出版社めぐり、編集者ノーマンとの出会い、絵本の出版からはじまっての半生。 泣けたよー。さあ泣かんかなというような、わざとらしいつくりじゃなくて、実話だからって言うのもあるのかもしれないけど、自然な物語の流れのなかで、しっとりとじわじわと泣けてしまいました。 相手の人間性に惚れる恋愛っていいな。と、思う。 ミス・ポターは、本当に素敵な女性です。あの当時に自分の意思を貫いての人生。 どんな嫌な男でも金さえあればいいんだから、結婚しろという母親に逆らい、恋人との結婚を反対する家族とも戦いながら、自分の意思を貫いて生きていった、その生き方がすてきでした。 ミス・ポターは決して美人じゃないけれど、とても美しい人です。彼女と接する機会さえあればどんな男性も彼女の魅力にとらわれてしまったにちがいありません。 そして、後半。彼女の暮らす湖水地方の自然と環境を開発業者から守るために、彼女は自分の印税で、売りに出されていた農場を買い始めます。この当時、まだグリーントラストや、自然保護、環境保護なんていう発想自体まだまだなかったであろうこの時代に、私財を投じて、自分たちの愛する農場や、湖水地方の自然を守ったのですね。この土地と農場は後年ナショナルトラストに寄付されたそうです。彼女の死後遺産として相続されてしまえば、どうなるかわからないですからね。 仕事に成功して、多くの財を手にする人は結構いるけれど、それをこういう方向に使う人は少ない。最後の最後まですごい女性だなあと思う。 好きなことを仕事にする、好きな人と結婚する。自分が素敵だと思う好きなところに暮らす。正しいと思うことをする。 すごく当たり前なことなのに、実際にはなかなか出来ない。ラッキーな人だと思うけれど、いろいろなチャンスをきちんと自分の人生に捉えることができたのは、やっぱり彼女自身の力なんだと思う。 ミス・ポター@映画生活
2007年10月13日
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マリーアントワネットと、フェルゼンの関係ってもしかして、側近の策略だったんじゃないの。 って考えちゃった。 『ベルばら』では、ルイの身体的欠陥のせいで子供ができなかったって書いてあったし。そのあと、手術して、子供のできる体になったそうですね。そう書いてあった。確か。 で、マリーが嫁いできたのは、14歳。14歳でいきなり、初夜ってことはないと思うのですよ。映画では、マリーがベルサイユに来てすぐ、いきなり、ルイと同じベットのシーンになりますが、実際には、二人がもう少し年齢いってからだったんじゃないのかなあ。『べるばら』にもそんなこと書いてあった気がします。だって、14で妊娠したってチャンと子供産めないと思うのよね。まだ、子宮だって育ちきってないだろうし。だから、マリーが子供が出来ないことで悩んだのって7年もないと思うんだけど。 で、映画では、ルイには身体的欠陥はないってことになってて、だから、子供が出来ないのは、二人が不器用で上手にできないからだという結論になってるんですよね。 大体世継ぎを産む大事な体なのは、王子様の方もおんなじで。お国や時代や場合によっては、夜のそういうテクニックを王子様に教える仕事をする女の人なんかが用意されて、あてがわれてたりする場合もあるわけですが。ルイの場合はなかったんですかね。そういうの。 有名なポンパドール夫人っていうのは、最初から王様の愛人にするつもりで教育されて、用意されたそうだし。もっとも、ポパドール夫人自体がそのあと、王様の相手をやりきりなくて、彼女自身が王様の相手をする女性を用意したそうですから。 フランスの王様って元気ですよね。奥さん亡き後、死の間際までそばに愛人のデュバリー夫人を置いといたルイ15世とか。 『とはずがたり』読んでいても、将来の天皇のために、ベッドテクをおしえる貴族の女性がいたようですから。 でも、どうも、ルイ16世はかなり、晩生のオタクのとっちゃん坊やだったみたいだし、初めての対面でマリーアントワネットもルイのことを「こどもだなー」って思ったくらいだから。一応ルイのほうが年上なのにね。 で、ルイのほうはたぶんそういうの嫌がったんでしょうね。 となると、世継ぎを作るには、もう女の側のマリーにうでを上げてもらうしかない。でも、女性だし、そんなに公然とは出来なかったんでしょうね。で、たぶん、側近とかがいろいろ考えた末に恋愛を見えればいいんじゃないかと。 で、マリーの相手として考え選ばれたのが、フェルゼン何じゃなかなーと。だって、外国人のほうがいいよね。あとくされなさそうだし。めんどうになったら、国外退去できるし。もちろん顔が良くないとマリーがその気にならないだろうし。で、プレイボーイで女のあつかいがうまくて、そっちの方も上手な男ってことでフェルゼンが選ばれたんじゃないでしょうか。 もちろん二人はそんなこと知らないでしょうが。 だって、王太子夫妻がおしのびで仮面舞踏会なんていけるものなのでしょうかねえ。しかも、フェルゼンだけ、仮面つけてないし、わざとらしく、二人が対面してるし。「あれは誰」ってマリーが聞いた途端に名前が答えられてるし。ぜったいマリーが目を付けるように惹かれるようにセッティングしてあったとしても不思議じゃないですよね。 宮殿に帰ってきた時も門のところで側近が待ってたし。 仮面舞踏会ってマリーとフェルゼンを出会わせるためのものだったのでは。 さて、そのあと。ベルサイユ宮殿の中では、いくらなんでも、二人を密会させるのは無理そうなので。なにしろまだ世継ぎの王子も産んでいない正式な王妃なんだから。世間に知れたらまずいしね。で、二人が会えるようにつくられたのがプチトリアノンだとしたら。 王女様は生まれたけど、王子はまだだし、もう一度ルイをその気にさせるのは難しそうだし。一回くらいで子供はできないし。 というわけで、本人たちは恋愛のつもりだけれど、わざとらしく、プチトリアノンにやってきたフェルゼンは、その熟練の腕前をたっぷりと王妃様に仕込んでくれたのでしょう。 そののち、めでたく王子さま誕生します。未来のルイ17世。予定だったけど。 そんな苦労して王子様産ませたのに、そののち、フランスは革命になっちゃって。ルイ17世は戴冠できずに終っちゃったんですねえ。 下世話なお話でしたー。すいません。 『ベルばら』って結構真に受けてほとんどそのまま信じて読んでたけど、映画の『マリー・アントワネット』を見ると、いろんなところが違っていて、ショックでした。怖いなって思いました。かなりまじめに書いてあったけど、フェルゼンの人物像とかぜんぜん違うし、本当はどうなんでしょうねえ。少女マンガだし、ある程度倫理規定の制約とかあったでしょうし。映画のほうも全部真実ではないでしょうし。 ↑フェルゼンを誘惑するマリー。 いやー。上手になってますねー。 マリー・アントワネット@映画生活
2007年09月12日
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マリー・アントワネットといえば、イコール『ベルサイユのばら』で、私たちの世代に知らない人はいないくらい。 そして、贅沢三昧の生活で国庫の財政を破綻させ、フランス革命勃発のきっかけをつくった極悪の美女ってイメージなんだけど。けれど、この映画では、そんな描かれ方はしていないようでした。 フランス王妃といえば、周りにかしずかれ、敬われて暮らしているというイメージなんだけれど、映画の中では主演のマリーアントワネットのヌードシーンが何度も出てくるのだ。マリーは、貴族たちの前で全裸にされて、着替える。食事も回りに大勢いる貴族の前で行わなくてはならない。羞恥心もプライバシーも持つことを許されない。 14歳でフランスに嫁いだ彼女は国境の地で全裸にされて、すべてフランス製の衣類に着替えさせられ、オーストリアからは、何一つ私物をフランスに持ち込むことを許されない。愛するペットの犬も、なじんだ侍女も。 ベルサイユに着いた彼女は貴族たちの並ぶ中を宮殿にはいる。貴族たちへの顔見世の場面だ。まるで見世物のように。 新郎新婦は貴族たちの見守る中で、自分たちの初夜のベッドに入る。ベルサイユ宮殿の部屋はドアがなく、プライバシーもない。彼らのベッドに天蓋がついているのは、部屋にはいってくる人たちからの視線を防ぐため。私室といえども、多くの人々が出入りするのだ。唯一のプライベートな空間はベッドの天蓋の中だけなのだ。しかも、初夜の翌日には、マリーとルイの間に何もなかったことが既に宮殿中に知られているのだ。 朝の着替えの時も、いきなり貴族の婦人たちの見守る中で全裸にされる。寒くて凍える彼女のことは二の次で次々と順繰りに高位の夫人が現れるために、マリーはいつまでも裸のまま待たされるのだ。彼らにとってマリーが寒いかどうか、快適かどうかなんていうのは関係ないのだ。貴族の夫人たちは、マリーの着替えを手渡すという重要な仕事をする権利を持つことで自分の存在と地位が守られる。そのことのほうが大事なことであって、彼女にかしづいて世話をしているわけではない。マリーは王太子妃として、敬われて、かしずかれて、世話を受けているわけではないのだ。 毎朝、天蓋をあけて、大勢の貴族たちが彼女の起床を見守る。そして、マリーに着替えを手渡すのは、貴族の上位の夫人たちの仕事。特権なのだ。貴族たちは、マリーに着替えを渡す仕事をすることで自分たちの存在意義を確保するのだ。王太子妃、王妃の世話をするために存在する。そういう言い訳を用意することで、貴族たちは、王の周りに群がり自分たちの存在意義を確保し、既得権益を行使することで、甘い汁を吸い、働くことも民衆のことを考えることもなく、日々を快楽の追求だけに送る。 だから、彼らにとって、王、王妃の存在は絶対であり、王も王妃も、そのあとをつぐ、王太子も王太子妃も、彼らの生活と、地位の確保のために絶対に必要な存在なのだ。 それゆえに、世継ぎの王子を産まないマリーは、王からも、実母のマリア・テレジアからも、貴族たちからも、攻め立てられ続ける。 宮廷で一番高位のはずの彼女は実は貴族たちのための存在でしかない。その寂しさとストレスゆえにやがてマリーは、ファッションや服、靴、食べ物、ギャンブルへと走っていく。国庫の財政をおびやかすほどに。 けれど、やっとのことで第一子の王女を産んだ彼女は、現代の私たちが子供を産んだ途端、自然食や無農薬野菜、無添加食品、公園などの屋外での遊びや、自然や虫や動物に関心をむけはじめるように、王女のためにフランスの農家を模したプチトリアノンに住み始め、やがてすっかりそこにこもって、数人のお気に入りの友人以外とは接触しなくなる。マリーにかかわることで自分たちの存在意義を確保していた貴族たちとの接点を一切切り始めるのだ。 プライバシーの一切ないベルサイユ宮殿の生活からのがれて、プチトリアノンにこもり、王妃としての責務を果たさない彼女はやがて、貴族からも切り捨てられてしまうのだ。 「ベルばら」では、ハンサムで誠実そうに描かれていたフェルゼンはこの映画ではイケメンで女ったらしのプレイボーイであり、マリーとの一時の恋の相手でしかない。フェルゼンとの関係ののち、マリーは世継ぎ王子をやっと出産することが出来るのだが。 王妃にとっては、世継ぎを産むことこそが最重要事項。けれど、すでに、貴族たちは彼女を見放し始めていたのだ。 物語の前半では、オペラをみて感動した彼女の拍手に賛同して、貴族たちが劇場中に響き渡るような拍手をする。ところが、物語の後半では、マリーの拍手に誰も賛同しない。ただ、シーンと静まり返り、マリーただ一人の拍手だけがむなしく響く。劇場の中で、マリーは自分が既に貴族たちを敵にしていることを知る。 いままで、一般的には、マリーアントワネットの贅沢ゆえにフランスの財政は破綻し、税金がどんどん増やされ、それに怒った市民たちによってフランス革命が始まったといわれてきた。けれど、マリーが贅沢な暮らしをしたのは、王女が生まれるまでのほんの一時期だし、財政破綻の実際の原因はアメリカ独立戦争への支援金のせいである部分も多そうなのだし、ルイは側近のいうがままに、国民の生活より、アメリカへの援助を優先させてしまう。マリーはそういった一連の事件のフランス革命のネタ作りのために利用されたに過ぎない。 王のルイも王妃のマリーも若すぎて、国のリーダーとしては、無力すぎた。 おしゃれをし、おいしいものを食べ、夜な夜な遊びに行くなんて、いまどきの普通の若者の普通の生活に過ぎない。現代であれば。それが、王妃であるゆえに責められる。常に衆人環視の中での生活。人々の見守る中で全裸にされての着替え。出産すら、貴族の男女の見守る中でなのだ。 普通の女性なら、そんなところから逃げ出して、普通のプライバシーのある生活をしたとしても不思議ではない。けれど、それが許されなかったのが、当時のフランス王室であり、社会体制だったのだ。 貴族社会から逃げ出したマリーはやがて、貴族たちから見捨てられる。貴族たちにとってマリーの存在が必要だったように、マリーの地位もまた、貴族たちによって守られていたのだ。 フランス革命はマリーや貴族の贅沢と、財政破綻とロベスピエールなどの革命をうったえる思想家の出現ゆえだと、いわれてきたけれど、もし、マリーが貴族たちとのプライバシーのない生活から逃げ出さず、王妃としての自分の務めをはたしていたのなら、フランス革命はおこらなかったかもしれない。 フランス革命は思想家によっておきたのではなく、マリーを守ることを貴族たちが辞めてしまったことでおきたのかもしれない。 社会は長い時間の間に成熟し、爛熟し、やがて腐り始める。腐りはじめた社会の上層がその利権にたかっていった時、革命がおきて、社会構造はリセットされる。 けれど、フランス革命は実際には早すぎたのかもしれない。革命によってフランスの社会はリセットされたけれど、結局民主的な政治形態にはなりえず、もう一度皇帝による帝政になってしまったのだから。 王室とその周りでうまい汁を吸う貴族。そんな貴族社会が嫌で、メイフラワー号に乗って新大陸に渡った人々の子孫は、そののち、アメリカの中で、貴族社会に似た上流階級となり、ヨーロッパと似たような貴族社会をアメリカの中に作り上げている。 あるいは、先日見た『SiCKO』のように、保険会社の利権に群がり、保険加入者がどんな目にあおうとかまわず、保険金を払わずに、その収入を自分たちの懐に入れてしまうような人々のいる構造を作り上げているというのは、革命当時のフランスの貴族社会とかわらないのではないか。 あるいは、日本の社会の上層部で誰にも知られないように、汚職を繰り返す人々は、貴族となんら、変わらない。世界は専制君主政治から民主主義にかわったけれど、いなくなったはずの貴族たちはやっぱりぞろぞろといて、国民の生活などおかまいなしに自分たちの利益だけを吸い取っている。 普通にオーストリアの貴族と結婚していれば、幸せに暮らせたかもしれないマリーアントワネット。 そんなマリーが王妃として、王妃らしい行動をとったのが、有名な「民衆の前でのバルコニーからのお辞儀のシーン」なのだ。マリーはこの時初めて王妃になったのだ。 ラストシーンで市民に馬車にのせられ、ベルサイユからパリに護送される時よりも、ベルサイユ宮殿でたった一人、しゃがみこんで部屋の片隅で泣きくれるマリーのほうがよっぽど、かわいそうで痛々しかった。 王妃というのは、国で一番えらいはずの女性なのだけれど、本当は貴族たちのための着せ替え人形でしかなかったのか。 『ベルばら』では、専制君主制から民主主義社会への変革と、思想を描いているけれど、実際には今現在もあいかわらず、社会には擬似貴族が存在し続けているのではないのだろうか。 政治形態が専制君主制でも、民主主義でも、結局甘い汁を吸って自分たちだけがいい思いをするような擬似貴族は必ず現れるのだとしたら、この先いったいわれわれはどんな社会をつくっていけばいいのだろう。 とにかく、主演のキルスティン・ダンストのヌードシーンが多い。最近『ベルばら』を読んだ娘が見たがって途中まで一緒にみたり、そのあと彼女一人で見たんだけど、フェルゼンと関係するシーンでも、ヌードだったりして、これR指定じゃなかったっけかなと考えてしまった。でも、娘のクラスメートは劇場まで見に行ったというから、子供オーケーだったわけだ。跡継ぎを作るために夫をその気にさせるのは妻のつとめだなんて母親のマリア・テレジアに手紙で説教されるシーンや、ルイ15世とその愛人がベッドでじゃれて遊ぶシーンもあるし。いいのかなあ。本人が見たいというので見せてるけど。テレビや、劇場での宣伝フィルムは、マリーがおしゃれしたり、かわいい靴やおいしそうですっごくおしゃれでポッブなケーキなんかがいっぱい出てくるので、そういう映画かなと思っちゃうけど、実際には映画のほとんどが子供作るの作らないのという内容で、こどもにはどうかと思います。それでも、いマドキのおしゃれな音楽やかわいい生地のおしゃれなドレスはなかなかにすてきでした。 追記もあります。 マリー・アントワネット@映画生活
2007年09月10日
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10分しか記憶がもたないという疾患は去年ヒットした『博士の愛した数式』にも出てきたものなので、今見ると違和感ないですね。 10分しか記憶のもたない男が、妻を殺した犯人に復讐するために、ポラロイド写真やメモ、自分の体に刻んだタトゥーだけを頼りに犯人を探し当てようとする物語である。果たして、彼の記憶は、写真は、メモは、タトゥーに書かれたことは、そして彼の周りの人間たちの言うことは、どこまで正しいのだろうか。 何を信じ、何を頼りに、人は生きていけばいいのだろう。 アメリカではすごく受けた映画らしいけど、日本では賛否両論。良かったという感想もあるけど、大して良くなかったという感想や、わけわかんなかったという感想もある。 ごもっともである。 この映画は結末から発端へと物語が10分ごとに遡っていく。主人公の「10分しか記憶が持たない男」と同じ感覚を味わうための構成になっていて、その構成ゆえにかなりわかりにくいけれど、大体の感じはわかる。一応10分しか記憶が持たない不安さと不安定さと主人公の悲劇やつらさはもちろんわかる。しかし、それ以上には感動しないのはごもっともである。なぜなら私たちは日本人だからだ。というのもこの物語で監督が描こうとした独特の価値観というのは日本人であるわれわれにはすでにとっくの昔に常識になっている、この世界で生きることの無常観、だからだ。 つまりは有名な中国のエピソードである『胡蝶の夢』の世界観、価値観を描いてあるからだ。自分が夢中で生きているこの人生、この世界は、実は蝶がみた一瞬の夢にしか過ぎないのではないか。この考え方や価値観はすでに中国やインドで語られ、日本にも伝えられ、日本人なら二十歳になる前に学校の授業であるいはそれ以外のどこかで。教わるか、学ぶか、ふれるかしているはずだからだ。 目の前にあるものや人や人生は手に触れることも出来るし、怪我をすれば痛いし。ものを食べればうまい。確かに確実にあるはずのもの。それでも直、どこか不確かなユメで。目をつぶれば、次の瞬間には消えてしまう幻なのではないのか。たとえ目に見えてはいても本当は存在しない幻ではないのか。 この感覚はアジアの人間にとってはそれほど違和感のないものだけれど、物質主義のアメリカ社会、西洋文明の人たちにそれを理解させることが出来るのだろうか。 もし全くこの価値観が向こうにないとすれば、この映画で監督が描こうとした無常観、今生きている現実が幻かもしれないという感覚を、この映画で始めてみたとしたら、理解したとしたら、それは相当のショックであり、彼らにとっては新しい視点、新しい地平なのではないだろうか。 西洋の人たちでも、ある程度学というか、知識というかのある人たちなら、東洋の価値観や場合によっては胡蝶の夢の話や、わび、さび、仏教の無常観というものを知識として知っているかもしれない。 しかし、それを本当に理解しているかといえば疑問であって、この映画の中で記憶をもたない主人公レナートが、メモや写真や自分にかかわる人々の言動やアドバイスすらあてに出来ない状況の中で、何を信じればいいのかわからない中で、この世界自体が果たして本当に存在しているのかどうかすら問い直すしかないという状況に至って、車を運転しながら目をつむり、また開き、世界の存在の是非を己自身に問うていくそのレナートに、共感して初めて理解しうる感覚、価値観、なのではないのだろうか。 妻を殺され、その犯人を捜して、復讐のためだけの生を送るレナートの悲劇。10分しか記憶が続かないのをいい事にレナートをだましまくる、自称刑事やバーの女。なんとも無情な登場人物たち。 記憶の不確かさ。記録の不確かさ。他人の言葉の不確かさ。人生の不確かさ。それらがいやというほど描かれる。 正編のラストで明かされるサプライズもまた、DVDに入っている「正常な時間軸で見直すことの出来るバージョン」をみれば、明らかにうそなのがわかる。だって、記憶が10分ももたない男が事故の後に自分で作り上げた架空の物語をあんなに覚えていられるわけがないじゃないか。 ちなみにこの前向性健忘という疾患は全く記憶が出来ないわけではないようだ。たぶん普通に記憶する能力の100分の1くらいにしか記憶できなくなっている病気なんだと思う。病気っていうより脳の記憶の機能が激へりしてるってことでしょう。さびた自転車みたいな感じ。10回こいでやっと10センチ進むってイメージですかね。だから目的地に着くまでちょっくりじゃないのね。大概の人は途中でやめると思うけど。すごいよね。レナートは。メメント@映画生活 でも人を殺しちゃいかんよ。
2007年02月21日
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アイルランド独立闘争を描いた映画なのだけれど、日本でアイルランドがイギリスとは別の国ということを知っている人たちはどれくらいいるだろう。世界史の授業もおろそかになった昨今、アイルランドの独立の歴史を知る人は少ないに違いない。 日本人の目から見ればイギリスの二つの島は「セットでイギリス」のイメージが強い。だから、この二つの島が数千年に及ぶ対立の歴史を繰り返していることを知る人は少ないのではないかと思う。 イギリスの圧制に苦しむアイルランドの1920年を舞台に、独立闘争の物語は始まる。そして、イギリスからの独立を勝ち取ったはずなのに、今度は内乱にによってさらに闘争は続く。その悲しいアイルランドの悲運を描いた映画と、取ることも出来る。 けれど、この映画は果たしてアイルランドの悲哀を描いただけのものだろうか。 武器、兵器、暴力、武力によって自分たちの意思を通そうとすることは果たしていいことなのか。 武力によってアイルランドを搾取するイギリスも、武力によってイギリスに対抗するアイルランドも、武力によって同胞同士がお互いの思想を通そうとする共和軍も、結局底辺にある考え方は同じなのだろう。 力によって他人の意思を押さえつけ、こちら側の意志を通そうとすること自体が無理があるのだと気づかないのだろうか。 抵抗軍はイギリスの兵たちを情け容赦なく、銃殺していく。そんなにどんどん殺しちゃっていいんですか。西洋人て過激だなあ。 確かにイギリス兵たちがアイルランド人たちにしたことはひどい。しかしだからといって、アイルランド側も同じように武力で戦うことが本当にいいことなのか。武力によって手に入れた自由と誇りはさらに武力によって覆され、あるいは武力によってしか維持し続けることはできない。 そう考える時、同じようにイギリスからの独立を勝ち取るために戦ったインドの偉人ガンジーを思い出した。彼は武力による闘争を否定し、ただ、開放を望む意志だけを示し、何年にも及ぶ投獄すら耐え抜いて、ついにインドを独立に導いた。武力によって自由を得ても、今度はその武力によって自分たち自身が苦しめられることをガンジーは知っていたのだろうか。 インドがイギリスに支配されたのは三百年程度だけれど、アイルランドとイギリスの対立自体は数千年に及ぶのだろう。『トリスタンとイゾルデ』の逸話にも、アイルランドとイギリスの対立が描かれる。二国間の対立がその当時から今に至るまで続いていることがわかるように、地理的に近く、民族的にも近く、にもかかわらず決して交わることのない二つの民族の統合と戦いの歴史はそんなに簡単にはいかないのだろう。似て非なるもの。この二つの島は。 映画を見始めてしばらく、主人公が誰なのかわからなかった。どうも、医師のデミアンがそうらしい。デミアン?デミアンといえば、あの『オーメン』にでてくる悪魔の申し子の男の子の名前じゃないか。けれどこれはたまたまではなくて、意図的につけられた名前だと思う。医師でありながら悪魔の名を持つ主人公デミアン。 そして、物語の冒頭で、ミホールという名の青年がイギリス軍に殺されてしまう。ミホールというのは、たぶんケルト語の読みで、英語ではマイケル、つまり大天使ミカエルの名前なのだ。光の象徴、善の象徴であるミカエルは冒頭でイギリス兵に殺されてしまうのだ。アイルランドの光はイギリス軍によってけされてしまった。そして、主人公デミアンは、イギリスとの闘争にその身を投じ、独立後の対立抗争のすえ、銃殺されてしまう。なんとも象徴的ではありませんか。 さて、その後のヨーロッパはEU統合される。争っていた二つの国も同じEUのもとに政治経済が統合され、国としての闘争は意味のないものとなり、1998年には、連立政府を作り、イギリスはそれぞれに自治権を委譲することを決めた。長い闘争の歴史に光が見えたように思えた。 けれど、数千年の闘争の歴史は人々の心に深く残り、そう簡単にアイルランドの人々は過激派アイルランド系住民の武装組織「IRA」(アイルランド共和国軍)は、武力による闘争をすっぱりと捨てることは出来なかったらしい。 武力によって自分たちの意思を通そうとすることの無意味は世界中の戦いのすべてに対して言えることであるけれど、監督は、なおいまだに、武力による行動にこだわり続けるアイルランド人たちに新しい目覚めを訴えたいのだろう。 敵は外にいるのではない。敵は自分の中にある。自分の心の中のこだわりこそが自分たちに銃を向けているものの正体であり、デミアンという悪魔はイギリス軍の中ではなく、独立を目指して戦うアイルランド人の中にいたのだ。映画ではデミアンは殺されたけれど、いまなお、アイルランドの中にはデミアンはい続けているのではないか。アイルランドの中のデミアンを殺さない限り本当の平安はこない。 そして、我が家が焼かれてもなお、その家にい続けることにこだわる老婆は、大天使ミカエルが殺された場所をなお、その光の地を見捨ててはならないと、こころの中にも光は残っていて、守り続け、そして忘れてはならないものなのだと、言っているように見える。 ところでずっとイギリス軍と書いてきましたが、正しくはブラックアンドタンズつまり、治安警察補助部隊のことです。物語の中で主人公たちが捕まってアジトをはかせるために拷問をうけるシーンがありましたね。いやあ、それにしても、あの生爪はがすシーン。痛そうでしたね。胸がずきずきしましたよ。これを見てて思い出したのが、日本の赤狩り。やっぱり日本でも、指と指の間に鉛筆はさんで握らせるなんてことやってたそうですけどね。よくわかんないけど、痛いらしいです。人間ていっくらでも、残酷なこと出来るものですね。 てことでつまりブラックアンドタンズがやってたことって要するに赤狩りなんでしょうね。だってデミアンたちは資本主義に対して否定的ですし、デミアンたちを通報したのは、農場主だったでしょう。つまり資本家ですね。そのあと、デミアンたちはこの農場主を銃殺しますね。その時の農場主の言葉が『お前たちにこの国はわたさない。」とかいうセリフだった。つまり、この戦いは独立戦争であるとともに、資本主義と社会主義の対立戦争でもあったのです。イギリスは第二次大戦に前後して世界を覆い始めた、社会主義の波がアイルランドを浸食しつつあり、自分たちの国の隣が社会主義国家となることに恐怖していたのでしょう。アイルランドが社会主義国家となった場合、自分たちの国自体も危ないわけですから、イギリスにすれば必死の攻防戦なわけです。実際朝鮮やドイツやベトナムなんかが分裂して片方が社会主義国家になってしまったり、内紛の結果社会主義の国になってしまったりしているわけですから。 しかし、その後、ベルリンの壁はこわされ、ソ連は崩壊し、社会主義の恐怖はうすれてきましたので、その後のイギリスのアイルランドへの対応もずっと緩やかなものになっていったのでしょう。 この物語は、支配される苦痛と悲劇にとどまらず、さらにその後ろに宗教的な問題や、社会的な問題、経済的な問題などいくつも絡み合っており、それゆえにそんなに単純には解決しないことをも語っているようだ。 この記事のためにアイルランドの歴史もいろいろ読んでみたけど、なにしろ、複雑で難しくて、えーよくわかりませんでした。もっともっとアイルランドの歴史を読み込んでいくといっそう面白くなる映画だと思います。 補足★インドですが、ガンジーほどの偉人がその生涯をかけて独立させたにもかかわらず、結局その後の内紛によって国は分裂し、やっぱり武力闘争があるようで。人間てほーんと懲りないって言うか。いくら教えても、失敗しても、学ばないんでしょうねえ。ただ、内乱というのは、一つの国が国としてまとまるために避けては通れないイベントともいえるわけですから、本当はもっと早くにやってたことをイギリスによる植民地状態のために保留になっていたともいえますので。インドもアイルランドもある意味仕方ないのかなーと。早く国としてまとまって平和な国が出来上がるといいですね。参考サイト『麦の穂をゆらす風』公式サイト「終わり方がわからない北アイルランド紛争」 イギリス映画麦の穂をゆらす風@映画生活
2007年01月26日
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先日書いた『マザーテレサ』の記事にままちりさんがマザーテレサの素敵な言葉を書いてくれました。とても素敵。 ところがその後、せれにてぃさんからのコメントで、それがマザーテレサのものではなく、アメリカの青年(当時19歳!!)が書いたものが口伝えで世界に広がっていったものであることを知りました。 ケント・M・キースの「逆説の10ヵ条」という詩というものだそうで、現在本も出ているようです。 タイトルは、「それでもなお、人を愛しなさい―人生の意味を見つけるための逆説の10カ条」 『人は不合理、非論理、利己的です。 気にすることなく、人を愛しなさい。 あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。 気にすることなく、善を行いなさい。 目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。 気にすることなく、やり遂げなさい。 善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。 気にすることなく、し続けなさい。 あなたの正直さと誠実さが、あなたを傷つけるでしょう。 気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい。 あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。 気にすることなく、作り続けなさい。 助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。 気にすることなく、助け続けなさい。 あなたの中の最良のものを、世に与えなさい。 けり返されるかも知れません。 でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。 ままちりさんが書いてくれたものをこぴぺしちゃった。 それでつまりこれがマザーテレサの言葉という誤解が生じたのは、マザーテレサが作った「カルカッタの孤児の家」の壁にその言葉は書かれていた。からのようです。 なるほど確かに、映画の中で見る(ほかにしらないもので)数々のマザーテレサの行為や、行動、言葉、励ましはここからのものが多いように思えます。 映画の中では、マザーテレサはたびたび「主が見守っています。主が助けてくれます。」といったような言葉を何度となく言うので、彼女の行為はキリスト教の教えによって支えられているかのように見えます。なにしろこの映画はイタリアの製作なので、バックにバチカンとかいそうだし。そのあたりの確証は探せなかったのですけどね。もっとも、確かに、マザーテレサはキリスト教の人間なのですから、キリスト教のバチカンが彼女をたたえる映画を作ること自体はいいんだけどね。けれど、映画を見ていると、彼女はキリスト教がたまたま一番近くにあったから、入ったけれど、宗教であれば、何でもよかったのかも。そして、カルカッタの救済活動をする時、バチカンから(だったかな)の許可がおりたからいいけれど、模試、反対されたり、許可が下りなかったら、キリスト教からでてでも、彼女は自分のやりたいことをやろうとしたはず。 マザーテレサの心を支えたのが、キリスト教だけではなく、十代の若者が書いた言葉の伝聞であったというのは、なかなか面白いことです。 そして、だれが言ったかではなく、その内容のすばらしさが評価されていったこともすばらしいですね。 何気なく書いた言葉が世界中に流布して、自分の知らないところで、誰かを助けて、大きな力になってるなんてちょっと感動。 いいことをしようとすると、非難されそうな今の風潮って悲しいですね。PTAの役員ですら、ばかばかしいといって知らん振りを決め込むことが多い世の中。 善行が非難されちゃってちょっとした悪いことがかっこいいことみたいに思われちゃってる世の中なので、ボランティアなんてのも名前ばっかりで、ぜんぜんねずかないし。 だから、そんな時勇気が出そうな言葉ですね。 アマゾンのレビューもすばらしいです。さすがアマゾン。楽天ブックスもがんばっね。 書評、レビュー
2006年12月05日
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全編、涙、涙、の感動大作でした。オリビア・ハッセー、美しいですね。ジュリエット、聖母マリア、マザーテレサ、こんなすごい大役を臆することなくどうどうと演じてしまう彼女はすごすぎ! 名前だけは知っていたマザーテレサですが、実際じゃあ、どんなことしたのかなんてのは、なかなかどうして知らないもんです。そういう大事なことを二時間チョイでみせてくれる映画ってありがたいものですねえ。『マザーテレサ』公式ページ 世界で一番スペシャルに階級社会のハードなインドという国。今現在中国と並んで、これからの世界を作っていくのじゃないかと話題の国ではありますが、でも、あいかわらず、カーストという階級社会は根強くあって、社会の底辺の貧困はこの映画の頃と変わらないんじゃないかと思う。 道端で、人が倒れていて死にそうでも、誰も振り返りもしなければ、気にとめもしない。インドでは、そんなことは当たり前すぎるくらい当たり前なことなので、すでにみんな慣れっこになっていて、そして、誰もがみな貧しいのだから、人のことどころではないようです。 そしてそういう社会の貧困は、今目の前にある人を一人助けたところで、どうなるものでもない。他にも、もっともっと死にそうな人、貧しい人達がいるのだから。社会の体制自体を変えていかない限り、本当の救いにはならない。そのくらいのことは誰でもわかるし、大概の人がそう考えるから、目の前に死にそうな人がいても、そのまま見てみぬ振りをして通り過ぎてしまうものだ。 もちろん日本ではそんなことありえません。すぐに誰かしかが救急車呼びますからね。道端で人が苦しんでいたら、誰かが声をかけますからね。そのくらい社会は整ってますからね。でも、そんなどころではないのがインドです。インドってそのくらい貧しいということなんですね。 けれど、マザーテレサは、ちょっと違う。いや、大きく違う。、かなーり違う。目の前に苦しんでいる人を見過ごせない。彼女はまず、「自分の目の前で苦しんでいる人を助けたい」と、思った。人間としてすごく当たり前で自然な感情です。大概の人がそれを押し殺してしまう、そんな中で、彼女は常に自分の本心に忠実であり続けた。それは、母性そのものです。彼女がマザーと呼ばれるのもだからなんでしょうか。自らのうちにある母性に忠実にその生涯を生きた人のようです。 人が何かをしたいと思ったら、まず自分一人で始めることなのだそうです。自分を信じて行動し続けていると、いつの間にか周りに賛同者が現れて、手伝ってくれるようになるそうです。 マザーテレサもまた、まずたったひとりで、自分の所属する修道院を出て、カルカッタの町の中で、救済活動を始めました。 死にそうな子供を病院に連れて行き、無理を通して、入院させ、助けました。 瀕死の人、捨てられた子供、貧しい人たち。 普通の人間なら、考えては見ても、「無理だ」、「不可能だ」と二の足を踏んであきらめてしまうのに、彼女はほとんどすべてのことに無理だとは考えない。絶対できるはずだと信じて行動していく。そして周りの人間をも、引きいれ、巻き込んでいく。たった一人で始めた「貧しい人を救いたい」という行為は、いつの間にかとても大きなものになる。新しい施設をつくり、ハンセン病者のための村を作る。新しいし修道会まで作ってしまう。ある意味実業家としての手腕のすごさを見るようです けれど、そこに、金儲けをしようとか、いい暮らしをしようとか、そんな意図は全くない。そして、人々が徐々に集まりやがて大きな集団となり、組織となっていきます。 しかし、組織というものが便利である反面その中の人間を縛るものであることも知っている。 だから、長い年月をかけて作った組織ですら、本来の意図とずれ始めていることにきずいた時、驚くほどあっさりと切り捨ててしまう。決して、初心からその軸足をずらすことのないその決断力は、本当にみごとです。 これだけのことをし続けるからには、かならず、クレームや、非難やトラブルがあるものですが、そんな時にも、うそをついたり、隠そうとしたり、暴力に走ったりしない。ただ、自分のありのままを示すだけなのだ。その姿勢がすごい。 目の前のかわいそうを捨てることなく救い続けようとしたマザーテレサのあり方はまさに母性そのもの、女性が持つ特性そのもの。その自分自身の心のそのままに生きた人なのでした。 「考えはしても、行動に移す人はいないものです。」 DVD同時収録のインタビューの中で、主演のオリビアハッセーの言葉です。 マザーテレサは、考えてそして行動したまさにそういう人でした。 そして、私も、私たちも、まあまあごく普通の人間なので、考えるだけです。だから、それを負に思う必要はないけれど、でも、せめて忘れないようにしたい。 何かをしたいと思ったら、まず、自分の目の前から、自分の近いところから。 映画ビデオ、映画DVDマザー・テレサ@映画生活
2006年11月28日
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