2012年10月05日
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カテゴリ: 幕末人物伝



清河八郎という人は、一介の浪士ではありながらも、
京における尊王攘夷熱の高まりを演出し、
また、新選組が結成される、その基を作った人でもあります。

頭脳明晰にして、弁舌に長け、剣術においても一級の達人。
当時においても、傑出した才を備えた人物であったであろうと思われます。

しかも、彼の特徴的だったところは、
何の組織にも頼ろうとせずに、独力で事を成そうとしていたこと。
そのために彼は、人脈を駆使し、弁舌をあやつり、策を弄すことによって、
目的の実現を図りました。

それでも、彼の持つ構想力・企画力には、多くの人をひきつける力があったことから、
結局、彼の行動が幕末の一局面を動かしていくことになります。

今回のお話は、そうした清河八郎の生涯について。
以下で、振り返っていきたいと思います。

***

清河八郎が生まれたのは、天保元年(1830年)。
出羽の国清川村(今の山形県東田川郡)の富豪の家の長男として生まれました。

本名は斎藤元司といい、清河八郎という名は、後年、彼が付けたペンネームであります。

八郎の家は、地元の名家であったために、文人や知識人などが逗留していくことが多く、
中でも、後に天誅組の総裁となる幕末の志士・藤本鉄石からの感化を強く受けて、
次第に時勢に目覚めていったといいます。

八郎、17才の時。
修学のため江戸へと上ります。

しかし、この江戸行きというのは、半ば家出同然の離郷でありました。
八郎に家督を継がせたいと思っていた父は、この江戸行きには絶対反対で、
勘当するとまで言われていたのを振り切って、強引に江戸に出てきたのでありました。

江戸では、幕府の学問所であった昌平黌に入学することが叶い、
また、剣術についても、当時一流とされていた千葉周作の道場に入門します。

この時期、八郎はめきめきと頭角を現しはじめ、塾頭になることを要請されるほどになります。

しかし、八郎はこの塾頭就任の依頼を受けようとはせず、自らの塾を立ち上げました。

これが神田駿河台の清河塾で、八郎はこの塾で、学問と剣術の両方の教授を始めます。
当時、江戸でも、こうした文武の双方を教授する塾というのは、極めて珍しく、
おそらく、清河塾が始めてのものだったのだろうと思われます。


ところで、この時期、時代が大きく動き始めています。
黒船来航によるアメリカの開国要求に始まり、
将軍継嗣争い、日米通商条約の締結、そして安政の大獄。

そうした情勢の中、八郎も攘夷活動に傾倒し始め、
清河塾にも、様々な憂国の士が集まってきて、
清河塾も、いつしか尊王攘夷家たちの集会所のようなものに変質していきました。

この頃の八郎は、薩摩藩士や水戸藩士の有志などからなる「虎尾の会」という結社を組織し、
井伊大老襲撃に合わせて挙兵する計画に加わったり、異人館を焼き打ちする準備を進めたりしています。

しかし、やがて、八郎らの動きは幕府の捕吏から目をつけられることとなりました。

そうした中、起こったのが、八郎が捕吏を斬り捨てるという事件。

これは、相手が捕吏であるとは知らず、酒の席で起こした事件ではありましたが、
これにより、八郎は全国に手配され、逃亡生活を余儀なくされることになります。


北関東から東北へ、
知り合いや、つてを訪ねて潜行を続ける八郎。

しかし、そんな八郎が仙台に留まっていた時、
耳寄りな情報が八郎の元に入ってきました。

それは、同志の一人に、公家の中山大納言と姻戚にあたるという人がいて、
中山大納言を紹介してもらえるという話。

この話を聞いた八郎の頭の中には、たちまち一つの構想が浮かんできました。

この大納言を通じて、朝廷から密書を出してもらい、
九州から関東まで、激を飛ばし、義兵を募り、京都で義挙を上げようという計画。

八郎は、この計画を同志に語らい、賛同する有志を集めて、さっそく行動に移ります。

京都、そして九州へと向かう八郎。

九州では、筑前の平野国臣や久留米の真木和泉といった尊攘派の名士たちと会って雄弁をふるい、
彼の計画への賛同を取りつけていきました。

もう一つ、九州には尊攘派の大藩・薩摩があります。

ここで、さらに八郎の元へ、薩摩の藩侯・島津久光が兵を率いて上京してくるという情報が入ってきました。

これは絶好の好機と考えた八郎。

この島津久光の引兵上京というのは、
実は、八郎が目指しているような尊王攘夷実現のための挙兵などではなく、
幕府に改革を迫り、薩摩が政局の主導権を握ろうとしていたものなのでありますが、
八郎は、この久光の京都入りのことを、尊王攘夷の実を上げるため、ついに薩摩が動いたと、
各地に宣伝してまわったのです。

この八郎の喧伝活動により、長州から、土佐から、そして薩摩からも。
尊王攘夷を唱えるものたちが、続々と京都に集まってきます。

あっという間に京の町は、尊王攘夷派に占拠されたような形になっていきました。

そして、そうした中、いよいよ久光が京に到着します。

しかし、この状況を見た久光は愕然としました。

久光という人は、元々、こうした過激な行動というのが嫌いな人で、
しかも、その中に、多くの薩摩藩士が入っているということに、久光は激怒します。

「あの不逞な輩を処分せよ。」

久光は家臣に対して上意討ちを命じ、
尊攘派の薩摩藩士が集結している、伏見・寺田屋へと向かわせます。

そこで、繰り広げられた薩摩藩士同士の壮絶な闘い。
これが世にいう「寺田屋事件」です。

これにより、薩摩の有力な攘夷家たちが討死することとなり、
久光は、そうした京での粛清を終えたのち、江戸へと向かって行きました。

しかし、久光が去ったのちの京の町は、尊王攘夷派の勢いが、さらに盛んになっていきました。

「寺田屋事件」は、尊王攘夷派に対して、火に油を注いだような形となり、
八郎が企画した行動が、きっかけとなって、時勢が大きく動いて行くことになったのでありました。


それから、数年後・・・。

八郎は、また、新たな企画を構想し始めていました。
それが、「浪士組」の結成です。

当時の幕府は、京の尊王攘夷派の画策により、
将軍・家茂が京に上洛しないといけないことになっていました。

ところが、この頃の京都というのが、
尊王攘夷派による天誅や暗殺事件が頻発していて、とても物騒な情勢。

そうしたところへ、将軍が出向いて行かないといけないということに、
幕府も頭を痛めていました。

そこで、八郎が思いついたのが、将軍を警護するための「浪士組」を結成しようということ。

八郎は「虎尾の会」の頃に同志であったという関係から、
山岡鉄太郎(鉄舟)や松平主税介など、数名の幕臣とも懇意な仲であり、
このつてを通じて、「将軍警護のための浪士組結成」の建白書を幕府に提出します。

そして、これが幕府に認可されることとなり、広く一般から隊士が募集されることとなりました。

募集に応じて、色々な立場の浪人たちが、続々と集まってきます。

この中には、多摩の道場をたたんで応募してきた近藤勇・土方歳三たちがおり、
水戸藩の浪士・芹沢鴨らがいました。

結局、230名を超える数の浪士たちが集められ、将軍上洛の先駆けとして京へと向かうことになります。
京都に到着した「浪士組」は、壬生に入り、分かれて分宿することになりました。


それにしても、元々、尊王攘夷派であったはずの八郎が、
何故、将軍警護のための「浪士組」を結成したのでしょうか。

実は、八郎は、これを口実にして隊を結成し、この隊を尊王攘夷を行うための勢力にしようと思っていたのです。

京に入った八郎は、壬生の新徳寺に「浪士組」の面々を集め、趣旨説明を行います。

「われわれが、将軍上洛の先駆けとして京に来たのは、
 将軍が、尊王攘夷の実を貫くということであったからであるが、
 幕府からの禄位を受ける気は全くない。
 尊攘の大義を尽くすことこそが、われわれの素志である。」

八郎は、そう述べて、さらに、朝廷から「攘夷の実効を奏せよ」とする勅書をもらっていることを明らかにします。


これを聞いた、幕府の関係者は、びっくり仰天。

どのように、これに対応するか、幕府側でも処置を検討しました。


その結果、出された命令が、八郎ら「浪士組」は江戸に戻ってくるようにというもの。

名目は、生麦事件の後処理が紛糾して、英国が、江戸に軍艦を差し向けると言ってきているので、
江戸の方が危ないので戻ってこい、ということでした。

八郎も、これには従わざるを得ず、隊をまとめて、渋々、江戸へと戻ります。


しかし、この時、
「われわれは、将軍上洛の警護をするために、京に来たのであり、
江戸に戻らず、このまま任務を全うする。」と主張し、京都に残った一団がありました。

それが、多摩から来た近藤勇の一派と、水戸・芹沢鴨の一派であり、
このグループが、後に「新選組」へと発展していくことになるのです。


***


清河八郎という人は、自己を恃むところがあまりにも強く、かなりの自信家でもあり、
それだけに、人に頭を下げることを嫌い、いかなる組織にも頼ろうとしませんでした。

それでありながらも、権勢を望もうとする時、おのずと策を弄するしか方法がありません。

結局、彼は、そうしたことにより、人から警戒心を持って見られ、
哀れな末路をたどることになります。


江戸、麻布一の橋。

藩邸に知り合いを訪ねた帰り道、
八郎は、突如、数名の武士に斬りつけられます。

八郎を殺害したのは、後に「見廻組」を組織し、坂本龍馬の暗殺にも関与したとされる佐々木只三郎。

八郎を危険人物とみなし、これを亡きものにしようとした幕府が送った刺客なのでありました。


八郎とて、国を憂い、志を持って、この国難にあたろうとしていた1人であったはず。

しかし、その性格ゆえ、そのような生き方しか出来なかった。
そうした不幸な生涯だったということなのかも知れません。






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最終更新日  2012年10月05日 23時16分39秒
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