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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク11番札所:藤井寺 10番札所:切幡寺をあとにし、吉野川沿いの12号線を下り右折し阿波中央橋を渡る。下を流れるのは吉野川。高知県および徳島県を流れる幹川流路延長194 km、流域面積3,750 km2の河川。最長川幅は荒川の2,537 mに次いで広く、2,380 m。そして11番札所:藤井寺の駐車場まで約30分。有料駐車料金300円を支払うSさん。 藤井寺山門。四国八十八箇所霊場のうち、寺号の「寺」を「じ」ではなく「てら」と読むのはこの寺だけであるとのこと。 吉野川を渡り、約3kmの山麓にある藤井寺。三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、弘仁6年にこの地で護摩修法をしたと。大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄祓い、衆生(しゅじょう)の安寧(あんねい)を願い、薬師如来像を刻み堂宇を建立。このとき空海が堂宇の前に藤を植えたことから藤井寺と号すると。 寺は、真言密教の道場として栄え、七堂伽藍(しちどうがらん)を構える大寺院であったが、天正年間(1573年~92年)の兵火により焼失。その後、延宝2年(1647年)に臨済宗の南山国師(なんざんこくし)によって再興。その時に宗派を臨済宗に改めたと。四国霊場で臨済宗のお寺は2ヶ寺だけ。もうひとつは高知の33番札所雪蹊寺。本尊は「厄除け薬師」として親しまれており、国の重要文化財に指定されていると。山門の仁王像は、野鳥対策か?細かい金網で前面が覆われていたため、仁王像への焦点が旨く合いませんでしたので遠くから撮影し2枚をコラージュ。藤井寺 境内配置案内図。山門を入ると右側に弘法大師お手植えと伝えられている藤の藤棚があり、その後に鐘楼が。参道は先で右に折れ左側に手水場、水掛け地蔵、不動堂、白龍弁財天堂が並び、最奥に本堂が建つ。本堂手前右側に大師堂がある。納経所は手水場の向かいにある。 左にはちょっとお茶目な河野清弥太翁の立像あり。ネットで調べてみると藤井寺公園保存会初代会長、昭和10年頃から荒廃していた寺を奉仕者を募って再建させ、新八十八ヶ所、西国三十三観音をも再興した中心人物とのこと。歴代??の墓碑。手水舎。 「六道能化」の文字が。仏語で六道の巷(ちまた)に現れて、衆生を教化し救う地蔵菩薩のこと。水掛け地蔵とお札流しの札 。鐘楼。 藤井寺は真言密教の道場として七堂伽藍を持つ寺に発展したが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失。延宝2年(1674年)に臨済宗の南山国師が再興したことから臨済宗に改められたが、天保3年(1832年)に火災によって本尊以外は全焼、その後万延元年(1860年)に再建されたのが現在の伽藍とのこと。 太師堂。太師堂内部。 この祠は? 修行大師像。 「焼山寺みち」 。12番札所で標高938mの山の8合目にある「焼山寺」までの山道は「遍路ころがし」と呼ばれ、へんろ道で1番の難所だと。約13kmの山道は健脚で5時間、弱足なら8時間かかると。申し訳ありませんが我々は車遍路 m( ̄ー ̄)m 。白龍弁財天。八本の手を持つ白龍弁財天が祀られている。八つの手には、弓、矢、刀、蔵の鍵など様々な物を持っていると。金運、武術、芸術の願いを聞いてくれると。弁財天内部。 「第八十八番 大窪寺」の文字が。 「西国一番 那智山 青岸渡寺」の文字が。そして本堂。三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、この地で護摩修法をされたのは弘仁6年のことと。 大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して、堂宇を建立。その地からおよそ200m上の8畳岩に、金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになったと。 金剛山 一乗院 藤井寺(こんごうざん いちじょういん ふじいでら)。宗派 臨済宗妙心寺派本尊 薬師如来創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 屋根の瓦そして正面の彫刻も見事。鬼瓦としゃちほこならぬ、獅子ほこ。地元出身画家の作による雲龍の絵が天井いっぱいに描かれていた。本堂天井に描かれている雲龍は、地元の吉野川市(旧鴨島町)出身の日本画家、林雲渓の作。本堂を全面改修した昭和52年に描かれたもので、30畳ほどの大きさがあり、にらみをきかせた表情は迫力満点。本堂内部の仏像。 本堂回廊横のびんずる様。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 17番札所:井戸寺次のお遍路先は、順番では12番札所:焼山寺であるが、焼山寺の宿坊は今宵の宿泊場所。よって17番札所:井戸寺まで行き、時間を見ながら順次12番札所に目指していくことを決断したのであった。藤井寺から約1時間で17番札所:井戸寺に到着。駐車場に車を駐め遍路の開始。仁王門。大門とも呼ばれます。朱塗りで大型の武家造り。徳島藩主蜂須賀氏の大谷別邸より移築されたと。阿波10代藩主・蜂須賀重喜公が寄進されたもの。 阿形像。 吽形像。 井戸寺境内配置案内図。仁王門を入ると左に手水場があり正面奥に本堂が建つ。手前右側に大師堂があり、左には日限大師堂とその中に面影の井戸がある。横に鐘楼があって、納経所は日限大師堂の左奥にある。 境内を歩く。正面に本堂。寺伝によれば、阿波の国司に隣接し天武天皇が勅願道場として673年に創建し、七堂伽藍、末寺12坊を誇る壮大な寺院となり妙照寺と称していた。本尊は薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏薬師如来で聖徳太子作、また、日光菩薩、月光菩薩は行基作と伝えられる。伝承ではその後、弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が来錫、十一面観世音菩薩を刻んで安置したと。 手水舎。 六角形の大悲殿(護摩堂)。毎月28日に護摩が焚かれると。太師堂。 正面が日限太師堂(ひかぎりたいしどう)。 太師堂横には薬師如来像。こちらが日限太師堂正面。石造の大師像で「水大師」ともいわれます。5日、7日などと日を限って参拝するとご利益があるのだと。日限太師堂の内部には「面影の井戸」が。覗き込んで自分の姿がうつれば無病息災、うつらなければ3年以内の厄災に注意すべしといわれている。 おもかげ井戸の由来。 弘仁6年(815年)に弘法大師がこの地を訪れた際に、水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出したと。そこで、寺名を「妙照寺」から「井戸寺」にあらため、村の名前も「井戸村」にしたと。ご詠歌は『おもかげを うつして見れば 井戸の水 むすべば胸の あかや落ちなん』本堂。現在は鉄筋コンクリート造り。 本堂を斜めから。 本堂内部。 瑠璃山 真福院 井戸寺(るりざん しんぷくいん いどじ)。宗派 真言宗善通寺派本尊 薬師如来創建 白鳳2年(673年)開祖 天武天皇(勅願) 所在 徳島県徳島市国府町井戸北屋敷80-1本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 堂内で本尊を拝顔して参拝できました。ご本尊の横。本堂の回廊からの境内。 境内の枯山水の庭。鐘楼。 納経所入口。 納経所は本坊内に。 遍路ポスター「お大師さまと絆を結ぶ遍路旅」。3年前の平成26年に「四国八十八ヶ所霊場 開創千二百年」 であったと。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 そして境内の石仏群。
2017.10.27
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク9番札所:法輪寺8番札所:熊谷寺から139号線を2.5km強の場所にあるのが9番札所:法輪寺。のどかな田園の中にあり、親しみを込めて「田中の法輪さん」と呼ばれていると。山門の仁王門は入母屋造楼門。扁額には「正覚山」の文字が。濃い朱に塗られた阿形像。唇は白く塗られていた。吽形像。法輪寺境内配置案内図。山門を入ると左側に手水場がある。最も奥に本堂が建ち、本堂の右に大師堂が並ぶ。本堂に向かって左側に参拝者休憩所、納経所等が建てられている。その休憩所の左手に鐘楼がある。仁王門を潜ると正面に本堂、右手に太師堂。境内は芝生に覆われていた。左手に手水場。本堂。巡錫中の空海(弘法大師)が白蛇を見、白蛇が仏の使いといわれていることから釈迦涅槃像を刻んで本尊として開基したと伝えられている。当初は現在地より4キロメートル北方の法地ヶ渓にあり白蛇山法林寺と号した。天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。正保年間(1644年 - 1648年)に現在地に移転して再興され、現在の山号、寺号に改められた。その後安政6年(1859年)に火災で全焼、明治になって現在の堂宇が再建された。 本尊は入滅時の涅槃釈迦如来を取囲む十数体の羅漢達を仏像化したもので、2014年に1年間にわたって開帳された。なお、向って右脇陣には薬師如来坐像が左脇陣には釈迦如来坐像その左に弁財天が祀られていると。正覚山 菩提院 法輪寺(しょうかくざん ぼだいいん ほうりんじ)宗派 高野山真言宗本尊 釈迦如来(涅槃像)創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県阿波市土成町土成字田中198-2本尊真言 ”のうまくさんまんだ ぼだなん ばく”弘法大師が刻まれたと伝わるご本尊・釈迦如来涅槃(ねはん)像は、5年に1度開帳されると。お釈迦様が入滅されたときの姿を写した涅槃像を本尊としているのは四国霊場でこの寺だけ。美しい彫刻絵画も。修行大師像。方丈。太師堂。太師堂内部。京都・東寺のポスター。鐘楼。納経所から境内を見る。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 七福神石像。------------------------------------------------------------------------------------------------10番札所:切幡寺09番:法輪寺から139号線を進み、右折し門前の古い街並みを抜ける狭い道を進むと10番札所:切幡寺に到着。ここまで約10分。寺伝によれば、修行中の空海(弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち即身成仏して千手観音の姿になったという。空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し本尊として開基したという。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。伝統行事の一つとして、毎年春分の日と秋分の日に、先祖の戒名などを経木に書き清水をかけて流して供養する経木流しを行なっていると。駐車場に車を駐め、山門に向かう。 六地蔵。 そして仁王門。阿形像。 吽形像。 切幡寺境内配置案内図。山門を抜けて参道を進むと経木場があって、その横から333段の石段が始まった。沿道には石仏が祀られており、上部の女厄坂、男厄坂を上りきると右手に手水場、その後ろに鐘楼が。正面奥に本堂があり、その右にはたきり観音像が建てられていた。本堂手前の右側には大師堂が、左側には不動堂がありその先の石段を上ると大塔が。その高台からは吉野川が流れる平地や第十二番焼山寺のある山々を望むことができた。納経所は手水場の向かい側。仁王門から本堂までは800mほど全て階段で。階段のスタート部には「是より333段」と。階段を上っていくと「是より234段」 と刻まれた石碑。経木場。弘法大師が錫杖でつかれてから湧き出した水と言われている。左手に祠に納められた石仏群が。 八大竜王。竜王は水を司り、雨を降らす力を持つ竜の王。釈迦如来の侍者として請雨曼荼羅に描かれている。 石仏群。 古希を迎える旅友も階段を元気に。 途中、二種類の厄除け坂が。女やくよけ坂は33段。。 男やくよけ坂は42段。年の数だけ賽銭を置けば厄除け祈願できるらしいのですが・・・・。 階段を上がりきると右手に手水舎。 鐘楼。 本堂。拝殿土間と本堂と奥殿の三重構造で、本堂には大塔の本尊であった大日如来が奉られ、奥殿には秘仏千手観音菩薩が奉られていると。 得度山 灌頂院 切幡寺 (とくどざん かんじょういん きりはたじ)宗派 高野山真言宗本尊 千手観世音菩薩創建 弘仁年間(810年 - 824年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県阿波市市場町切幡129本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく”扁額には「得度山」と書かれた金色の文字が。太師堂。 修行大師像。 右手は弁財天。はたきり観音。機織の乙女が即身成仏した伝説の観音像。 右手に鋏を、左手に布を持つ姿。 はたきり観音を横から。いかにも人間的な体の曲線でスラリとした少しセクシーな美人。像の傍らには、平成9年の宮中歌会始(御題「姿」)に寄せた歌碑が建てられていた。『この寺の 由来に於はす御佛 はたきり觀音 姿うるわし 当山主・智叡』鐘楼を横から。手前に修行大師像。 不動堂。 国の重要文化財に指定されている大塔。徳川2代将軍秀忠が大阪の住吉神宮寺に再建寄進したものを、明治維新の時神宮寺が廃寺となったため、第45世住職天祐上人が東西両塔あったうち、当時残っていた西塔を買い取り、明治6年へ1879)から15年かけて移築。普通二重の塔は三間四面のものが多いが、この塔は五間四面と大きく、初重、二重の間という様式をなす大塔になっている。明治42年1909)祝融の災に遭い、寺は1山23棟の伽藍を一夜にして失ったものの、この塔のみは火難を免れた。そのため現在でも再興時のままの姿が残り、歴史的にも日本における重要な建造物になっていると。 豊臣秀頼が秀吉の菩提を弔うため1607年に建立。明治15年移築、本瓦葺、高さ24.168m、昭和50年に国の重要文化財に指定 。 寺からの眺めは絶景。 太師堂の屋根の鯱。 十三重石塔。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.10.26
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク7番札所:十楽寺 6番札所の安楽寺からは1km強の所にあるのが7番札所の十楽寺。寺は現在地から北3キロほど奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定されると。大同年間に弘法大師がこの地を巡教して逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたと。美しい中国風の鐘楼門。龍宮城を連想させてくれる朱塗りの門を潜り境内へ。十楽寺 境内配置案内図。竜宮門形式の山門を入ると前に水子地蔵が並んでいた。左側の石段を数段上ると遍照殿の額がかけられた中門がありその上層は愛染堂となっていた。中門の向かいに手水鉢があり左に奥へ入ると本堂が、さらに左へ行くと治眼疾目救歳地蔵の小堂があって、その先の石段を上ると大師堂が。本堂の向かいのあたりに十三不動明王像がある。納経所は中門を背にして右に。山門を入るとすぐ正面に約70体以上?の水子地蔵。産声をあげることなく、この世を去った多くの水子達。中門遍照殿・愛染堂を境内から。十楽寺の宿坊 光明会館。岩が削り取られたのか芸術作品の如き手水場。光明講 追悼之碑。光明講とは朝に「般若心経」読経、真言念誦の時間を持ち、お勤め終了後は堂で朝粥(あさがゆ)等をいただき、月に一度「食」の原点に立ち返る集まりのようだ。本堂。阿波北部でも有数の広大な七堂伽藍を有していたが、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべてが焼失、しかし、本尊・脇仏・舎利仏など大切なものは住職真然と弟子が運び出し大門ケ原に安置したが、弟子は矢に射られ死んでしまった。その後、寛永12年(1635年)に現在地で再建された。平成6年本堂の新築。平成26年本尊と脇仏が開帳されたと。 光明山 蓮華院 十楽寺(こうみょうざん れんげいん じゅうらくじ)宗派 真言宗単立本尊 阿弥陀如来創建 大同年間(806年 - 810年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県阿波市高尾字法教田58 本尊真言 ”おん あみりた ていぜい からうん” 扁額には「光明山」の金色の文字が。地蔵堂。 地蔵尊。背から眼病・盲目に霊験があるとのこと。 修行大師像。十三不動明王。太平洋戦争時の第13期海軍飛行予備学生の慰霊のために建立された。子育地蔵尊。太子堂。太子堂内。この十楽寺は、眼病にご利益のある「治眼疾目救歳地蔵」でも有名だとか。太子堂より中門遍照殿・愛染堂を。波切不動明王。 納経所。納経を頂く旅友Sさん。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 中門の二階は愛染堂。中門に祀られた愛染明王。今回、大活躍の旅友Sさんの愛車DUKE。 ------------------------------------------------------------------------------------------------8番札所:熊谷寺7番札所:十楽寺から徳島自動車道に沿って139号線を走り、7分ほどで8番札所:熊谷寺に到着。山門(仁王門) は 現在の境内地からは100mほど南にあった。寺伝によれば、815年(弘仁6年)空海(弘法大師)がこの付近で修行をしていた際、熊野権現が現れて1寸8分 (約5.5cm) の金の観音像を授けた。そこで堂宇を建立し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観世音菩薩を刻んでその胎内に授けられた観音像を収めて本尊としたという。1927年(昭和2年)火災により本堂とともに空海作と伝えられていた本尊も焼失した。本堂は1940年(昭和15年)に再建が開始されたが戦争により中断、1971年(昭和46年)に全容が完成し、新造された本尊が開眼したと。 駐車場から南へ200mほどの所にある仁王門は江戸初期(1687)建立。高さ12.3m、間口9mと四国霊場最大級の威風堂々とした四国霊場最大級の姿。和洋と唐様の折衷による重厚な趣を示していた。県指定有形文化財。阿形像。吽形像。2層目の天井や柱には極彩色の天女の姿などが描かれていると。残念ながら非公開。納教所の横にレプリカが展示されていた。また天女絵は散華(寺院で法要を巌修する時に、諸仏を供養するために撒かれる、蓮の花の形をした紙片)に描かれて、肌守りとして納教所で販売されていた。駐車場に戻る右手にある池の太鼓橋のかかった弁天島に鎮座する弁財天。安産の祈願所。駐車場手前の手水舎。熊谷寺駐車場に車を駐め本堂を目指す。熊谷寺 境内配置案内図。山門(仁王門)をくぐって50mほど進み公道を横断すると右手に弁天池が左手には寺務所。駐車場の先から左手に上がっていくと参道の左側に多宝塔が。参道を進むと中門に至る。さらに三十三段の女厄除け石段を上ると右側に手水場があり、正面に本堂が建つ。本堂手前の左手に鐘楼があり、本堂左の四十二段の男厄除け石段を上っていくと大師堂がある。納経所は駐車場の南側である。参道入口近くの歌碑。『防波堤を 激しく叩く波頭 しぶきとなりて 風に飛ぶ見ゆ』多宝塔。内部は胎蔵界大日如来像を中心に、東に阿閦如来、南に宝生如来、西に無量寿如来、北に不空成就如来を祀っていると。江戸時代中期 安永三年(1774年)建立。本瓦葺・高さ 20.7m。多宝塔は四国で最大最古の規模を誇る。中門(二天門)に向かって進む。中門前で左に分かれている坂道の左右に 四天王 石像2体。多聞天(北の守神)。持國天(東の守神) 邪鬼を踏みつけ仏法を守る勇ましい姿。中門(二天門)にも持国天と多聞天が両脇に立つ。この中門は、現在の山門が出来る以前の山門であったと推測されると。持国天(東)、多聞天(西)は、貞享4年(1687)の作。色鮮やかな持国天。足下に邪鬼を踏みつけ、刀を持つ右手を振り上げて仏敵を威嚇。多聞天。右手に三叉戟、左手に宝塔を持つ。手水場。鐘楼堂。寛文2年(1662)長意和尚32歳の時の建立。当時の鐘楼堂は、四本柱に一般的な屋根といった形だったが、文化6年(1809)快塹和尚(かいざんおしょう)が、長意和尚百回忌の記念事業として改築を行い、現在の立派な二層の鐘楼堂が完成したと。当初の梵鐘は太平洋戦争末期に、武器弾薬等の材料として供出させられた。現在の梵鐘は、昭和24年に新たに鋳造されたものであると。本堂。本尊は千手観世音菩薩。昭和2年(1927)に火災に遭い、本尊と本堂を全焼。 昭和15年に本尊を安置する宮殿と拝殿が完成。昭和45年に入って、やっと供養殿と本尊が完成し開眼供養が行われた。この遅れは、戦争時代を挟んで工事が中断され、その後再開の糸口が掴めなかったためと。普明山 真光院 熊谷寺(ふみょうざん しんこういん くまだにじ)宗派 高野山真言宗本尊 千手観音菩薩創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県阿波市土成町土成字前田185 本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 毎年正月三が日と、毎月18日本尊千手観音が開帳されると。 太子堂。内部は胎蔵界大日如来像を中心に、東に阿閦如来、南に宝生如来、西に無量寿如来、北に不空成就如来を祀っていると。建立年代は、屋根に据え付けられた露盤に「露盤宝形一具 本願熊谷寺龍意宝永4年 丁亥天八月吉日 冶工 長谷川久左ェ門」の銘があることから龍意和尚(りゅういおしょう)の代の宝永4年(1707)の建立とわかったと。安置されている弘法大師像(徳島県指定有形文化財)は、寄木造りの坐像で、永享3年(1431)の作であると。平成19年に行われた解体修理の際、弘法大師十大弟子の墨絵が見つかり、全国的に貴重な作品であることが判明したと。 太子堂からの境内、手水舎そして手前に鐘楼。紅葉も始まっていた。鐘楼前の修行大師像。「長意和尚行録碑」寛文年間に地元の土成の新水氏より出て熊谷寺の住職となった長意和尚(ちょういおしょう)が、元禄年間の頃に、現在の境内の主な部分を手がけたとのこと。これについては、長意和尚の業績を記した石碑「長意阿遮黎行録」に残っているのだと。延命龍頭観音像。帰路の参道横の地蔵尊。「鎮守神縁起」。稲荷大明神。最後に、納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.10.25
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク5番札所:地蔵寺大日寺から5分ほどで5番札所・地蔵寺に到着。山門は単層。青い文字で「無尽山 」書かれた扁額が。左右に色鮮やかな多聞天、持国天の二天像が見張っていた。向かって右は口を閉じた宝棒を持つ持国天・吽形像。ここの仁王様は逆に配置?されていた。向かって左に金剛杵を持ち口を開いた多聞天・阿形像。地蔵寺 境内配置案内図。境内。山門を入って行くと右に大銀杏がありその先で石畳が交差。左に進むと左手に手水鉢があり、正面奥に本堂が建つ。その右手には不動堂・恵比須堂があり、石畳を戻ると手水鉢の向かいに水琴窟のある水子地蔵尊がある。大師堂は本堂に向かい合わの位置にある。大師堂の右に淡島堂がある。納経所は山門の正面にある庫裏の右端である。庫裏の左前には八角堂が。弘仁12年(821)嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創された。本尊は弘法大師が自ら彫ったという1寸8分(約5.6cm)の勝軍地蔵であったが、宇多天皇の頃、浄函上人が熊野権現の神託を受け、霊木で2尺7寸(約88cm)の延命地蔵菩薩の像を造り、大師御作の勝軍地蔵を胎内に納めたと伝えられると。修行大師像。鐘楼。「淡島堂」は和歌山県にある淡島神社の分身とされ、万病封じの守護神。「たらちね大銀杏」は樹齢800年を越えるといわれる大木。太子堂。これも弘法大師像か?庫裏入口。方丈。八角堂。手水舎。先祖供養地蔵尊。本堂。嵯峨・淳和・仁明の3代の天皇の帰依が篤かった。熊野権現の導師であった函上人が、権現の霊木に2尺7寸(約80cm)の延命地蔵尊を刻み、大師が刻んだ地蔵菩薩を胎内に納めたという。本尊が勝軍地蔵というところから源義経などの武将の信仰も厚くかった。当時は伽藍の規模も壮大で26の塔頭と、阿波・讃岐・伊予の3国で300あまりの末寺を持ったという。しかし、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべて焼失。江戸時代、徳島藩主蜂須賀氏により再建された。無尽山 荘厳院 地蔵寺(むじんざん しょうごんいん じぞうじ)宗派 高野山真言宗 本尊 延命地蔵菩薩 創建 弘仁12年(821年) 開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県板野郡板野町羅漢字林東5 本尊真言 ”おん かかかびさんまえい そわか” 境内から大銀杏、山門を。本堂正面横には、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)、通称「おびんつるさん」が祀ってあった。奥の院「五百羅漢」は地蔵寺の北側、階段を登った先にあった。安永4年(1775年)に実聞・実名という兄弟の僧によって創建された。なお、五百羅漢とは、「釈迦入滅後の第1回の経典結集(けつじゅう)、および第4回結集のときに集まったという500人の聖者。また、その像。」参道の階段を登っていけば、五百羅漢入口へ。羅漢堂は、コの字型の回廊となっていた。回廊途中に五百羅漢が並んでいると。回廊の真ん中に位置する釈迦堂。釈迦堂内部。奥の院・大師堂。ここが回廊の終着点。羅漢堂入口階段から地蔵寺境内を見る。地蔵寺 納経所。納経所の壁にはお遍路のポスターが。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------6番札所:安楽寺県道13号線を進むと右手に六番札所・安楽寺の駐車場があった。駐車場の中の小高い植え込みの中には修行大師が。 安楽寺へ向かう入口左にも大師蔵「思案之大師」 。この弘法大師像の像の左には「済世利人思案之大師」と書かれ、台座には「四国六番安楽寺」と大書されていた。通常の修業大師像は、笠をかぶっているが、この像は、笠を外していることが特徴か?そしてこの像の足下には歩き遍路の思案の姿も。中国っぽい作りの山門。白壁の竜宮門形式で上層が鐘楼になっていた。門の左右の切妻造建物内に金剛力士(仁王)像が安置されていた。 金剛力士(仁王)像 阿形像。 吽形像。 安楽寺 境内配置案内図。 手水場。地蔵の後ろに「逆松・さかまつ」。なんでも、修行中の空海が弓矢で射られそうになったところ、矢が松の枝に刺さったと。空海はその折れた松の枝を逆さに植えて、無事に育ったらこの地は栄えると。もちろん松は立派に育って今に至るとのこと・・・・であったが最近何故か切断された模様。 太子堂。太子堂内部。安楽橋手前からの多宝塔。 多宝塔の周囲では、八十八ヶ所霊場のお砂踏みもできるようになっていた。紅葉に時期には多宝塔が映えるのであろう。 多宝塔内部。 本堂。本堂の前には拝殿があるのは珍しいのでは。 寺伝によれば弘仁6年(815年)に現在地よりおよそ2km離れた安楽寺谷に、空海(弘法大師)が堂宇を建立し薬師如来を刻んで本尊としたと。天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火により焼失。万治年間(1658年 - 1661年)に駅路寺であった瑞運寺を併合して現在地に再建。本尊薬師如来坐像は、昭和37年(1962年)当寺の住職にすすめられて、妻の難病平癒祈願のため四国遍路を続けていた夫婦が、遍路途中に病気平癒をした報恩のために奉納したもので、43cm程の古来の本尊を胎内仏として納められていると。 屋根の左右に金の鳳凰。 「温泉山」 と書かれた扁額。大師堂前から湧き出る宿坊の温泉とラジウム鉱泉入りの薬湯も有名であると。彫刻も見事。 本堂内部。温泉山 瑠璃光院 安楽寺(おんせんざん るりこういん あんらくじ)宗派 高野山真言宗 本尊 薬師如来 創建 弘仁6年(815年) 開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県板野郡上板町引野字寺ノ西北8 本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 願い棒修行像。この寺には願い棒修行というのがあると。年齢ごとに決まってる数の棒を持って、お経を唱えながらこの大師像の周りを回るのだと。大師駒つなぎ石。本堂横の書院風の建物の前に、堂々たる巨石が横たわっていた。石の頂部には浅い穴がくり貫かれ、そこに大きな柱状の石がはめ込まれていた。聖徳太子が馬の手綱をここに結わえたのだと。その横には「源泉井戸」。金泉と銀泉の上には童観音が。本堂の横側の建物の造りも見事で美しかった。 西国三十三観音。 慈母観音。 境内の池には大きな鯉がのんびりと。 竹林の前の宝篋印塔? 池の周囲を散策。 池からの境内、山門。 巨大な石塔。 四国八十八箇所モデルトイレ 。「オンクロダノウ ウンジャク」トイレ掃除をする時オンクロダノウ…を唱えると良いと。遍路途中のトイレでも勉強しました。いつもより一歩前に出て、業を達しました。 温泉付きの宿坊。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.10.24
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク3番札所:金泉寺2番札所・極楽寺からほど近く、徳島の市街地にある3番札所・金泉寺(こんせんじ)に到着。まずは朱塗りの仁王門。三間一戸楼門、入母屋造。 阿形像。 仁王の目は、白眼の所が金色に。吽形像。 金泉寺境内配置案内図。 朱塗りの山門を入り小さい橋を渡ると左手に手水鉢がありその後に鐘楼・慈母観音が。向かいに観音堂がありその前に修行大師像が立つ。正面に本堂が建ちその左に護摩堂が、手前右手にあるのが大師堂。大師堂の右奥に黄金の井戸と閻魔堂が。手水鉢の場所から奥へ入ると納経所があり、その手前に弁慶の力石が置かれていた。極楽橋と本堂。寺伝によれば天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により行基が本尊を刻み、金光明寺と称したと。弘仁年間(810年 - 824年)に、空海(弘法大師)が訪れた際に、水不足解消のため井戸を掘り、黄金井の霊水が湧出したことから寺号を金泉寺としたと。亀山法皇(天皇在位1259〜1274)の信仰が厚く、京都の三十三間堂をまねた堂を建立、千躯の千手観音を祀った。また、背後の山を亀山と名付け山号を亀光山と改めた。また、『源平盛衰記』には、元暦2年(1185年)に源義経が屋島に向かう途中本寺に立ち寄ったとの記載があると。 手水場。 八角形をした観音堂。寿永4年(1185年)の2月、屋島に向かう途中の源義経が必勝祈願の為に立ち寄ったと。内部の天井には美しい壁画があり、寺の中で一番古い仏像・勝運観音が安置されていると。観音堂の横には修行大師蔵が。大師堂と八角観音堂の間を奥に行くと、「黄金地蔵尊」と書かれた小さな祠があります。ここには、寺名の由来にもなっている黄金の井戸が。この井戸には言い伝えがあって、井戸を覗きこんだ時、自分の顔がはっきり映ったら長生きできるのだと。ただし、ぼやけていた場合、残念ながら短命なのだとか。もちろん私の顔ははっきりと水面に!井戸のそばに座っている北向きのお地蔵さんが黄金地蔵尊。首から上の病気に霊験があるのだと。大師堂。本堂。本堂内部。 亀光山 釈迦院 金泉寺(きこうざん しゃかいん こんせんじ)宗派 高野山真言宗本尊 釈迦如来創建 天平年間(729年~749年)開祖 行基 (聖武天皇勅願) 所在 徳島県板野郡板野町大寺字亀山下66 本尊真言 ”のうまく さんまんだ ぼだなん ばく”倶利伽羅龍王(くりからりゅうおう)。不動明王が右手に持つ剣に龍が燃え盛る炎となって巻きつき、煩悩を打ち破ると言う。 迫力あり。十二支の御守本尊。私は虚空蔵菩薩。丑・寅年の守り本尊。成績向上、記憶力増進、頭脳明晰、商売繁盛、技芸向上のご利益があると。丑・寅年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けると。六地蔵尊。 多宝塔(別称:忠霊塔 / 阿弥陀堂)。 総高10m、一辺2.5m。階段の上の忠魂塔。 長慶天皇陵。 『長慶天皇は後村上天皇の第一皇子で南朝の第三代天皇だが、長らくその即位が疑問視されてきた幻の天皇であった。 長慶天皇研究の最大の障害は関連資料の乏しさにあり、長慶天皇の在位・非在位をめぐっては江戸時代以来議論が分かれていたが、大正時代に八代国治・武田祐吉による実証学的研究が決定的な在位説として評価され、長慶天皇の即位は動かない事実とされる ようになり、大正15年10月21日に詔書によって長慶天皇は第九十八代天皇として正式に皇統に加えられた。』と。墓石か?長慶天皇はこの寺で崩御されたと伝えられていて、本堂の裏には石灰質の自然石で「高さ約80cm、横約40cmで菊花の御紋入り」の御陵石と呼ばれるものがあり、案内によると「南朝長慶帝寛成尊太上天皇御陵」応永五年三月十九日崩御御寿五十三才とあると。慈母観音。慈母観音から慈悲の水を掛けられている幼子。苔の緑が美しかった。 護摩堂など広い境内にはいろいろと。 ここ護摩堂の格天井に花鳥画が描かれていると。太子堂と観音堂。 天満宮。鐘楼。 寺務所。 境内庭園。 弁慶が持ち上げたという伝説が残っている力石。源義経は平家追討の命を受け、讃岐国屋島へ向かう途中に金泉寺に立ち寄り、勝戦開運を祈願。その時、家来の弁慶が自らの力量を披露するために、この巨石を持ち上げたと。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------4番札所:大日寺三番札所・金泉寺より車で10分程で4番札所・大日寺に到着。 弘法大師が42歳にあたる弘仁6年、この地に長く留まり修行していたとき、大日如来を感得された。大師は、一刀三礼をして5.5センチほどの大日如来像を彫造され、これを本尊として創建し、寺号を本尊に因んで「大日寺」と命名したと。また「黒巌山」の山号は、境内が三方を山に隔てられており、人里はなれたこの地は「黒谷」と称されたのが由来といわれ、地元では「黒谷寺」とも呼ばれていたと。 鐘楼門。朱塗りの山門で、上部が円柱の鐘楼となっており、1階は角柱という珍しい造り。(2018年春に新たに新山門が建立される予定)。 鐘楼門2階の梵鐘。 大日寺 境内配置案内図。上層を鐘楼とした山門を入ると左手の池の先に手水鉢があり、正面奥に本堂が建てられていた。本堂右手にある回廊を、安置されている観音像を鑑賞しながら進むと大師堂の横に出る。納経所は大師堂の向かい側に。手水舎。 参道脇の延命尊像他。 薬師堂。 薬師堂内部。 太子堂。 太子堂内部。 大師像を拝顔できました。 弘法大師画像 右。 弘法大師画像 左。 本堂。本尊は住職でも住職交代の折の人生2度しか見られない秘仏、前仏と同じ大きさで金色に輝く室町時代作。その本尊が修繕を期に2017年の3月から12月の毎月28日開帳されていると。本堂内部。黒巌山 遍照院 大日寺(こくがんざん へんじょういん だいにちじ) 別称:黒谷寺 宗派 東寺真言宗本尊 大日如来創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県板野郡板野町黒谷5本尊真言 ”おん あびらうんけん ばざらだどばん”西国三十三観音像に向かうと左手に辨財天女が。 こういう姿は何故かほっとする自分がいました。西国三十三観音像。本堂と大師堂をつなぐ回廊全体にわたって木造の観音像は、江戸時代中期の明和年間(1764年 - 1772年)に大坂の信者が奉納したとされる。西国三十三観音霊場にちなんで西国三十三所霊場の三十三体の観世音菩薩像が安置されていた。これだけ並ぶと壮観そのもの。 丹後國 青葉山松尾寺 馬頭観世音菩薩。 美しい姿の十一面観世音菩薩。 ここにある千手観音、十一面観音は修復中。護摩堂か? 方丈前でお接待を受けました。美味しいノンアルコールの甘酒をご馳走になりました。 お菓子も頂き満足げな旅友Sさん。 四国ではお遍路さんは大師様と同じと考えるため、お接待は「大師様への功徳」なのです。また「自分の代わりにお参りを託す」という意味もあるため、時にはお賽銭など現金を渡されることも。道筋の小さな休憩所から、うどんやお菓子、お茶などを出してくださる接待所、ほかにも善根宿(無料で泊める宿)や通夜堂(寺の境内に設置された無料宿泊できる堂)など、お接待にはいろいろな形があるのだと。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.10.23
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク1番札所:霊山寺7時の開門を待つ間に駐車場裏の広場の様々な彫刻を楽しむ。ちょっとユニークな十二神像。鯨に乗った孫悟空。阿弥陀如来に土下座する孫悟空。お釈迦様の手のひらで 頭を抱える孫悟空。何かをして叱られている所でしょうか?横になって寝ころんでいますが、なぜかフクロウが膝の上に。全て若手の一人の作品の様に感じたが誰?そして漸く7時になり総合案内所も点灯しOPEN。お遍路グッズ販売店前のマネキンはお遍路フル装備。なぜ外人? なぜハイヒール?参拝をする前に境内外にあるこの総合案内所へ行き、白衣(びゃくえ)と輪袈裟(わげさ)を購入しました。「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と背中に書かれた白衣。これは御宝号(ごほうごう)といい、真言宗で唱える一番短い『お経』。仏さまの慈悲の光は、すべてのものに及びます。そして、すべてのものに幸せを及ぼそうという智慧(ちえ)の働きは、ダイヤモンド(金剛石)のように堅固で輝きを失いません。これが「遍照金剛」の由来とのこと。そしてその横に「同行二人(どうぎょうににん)」の文字も。「同行二人」とはお遍路がお大師さまと二人ずれという意味。遍路では一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けていると。そして一番上には、弥勒菩薩を表す梵字が。読みは「ユ」と。輪袈裟(わげさ)。輪袈裟は、僧侶が首に掛ける袈裟の一種で、作務(さむ)や移動の時に用いるのが一般的であるとのこと。そもそも袈裟とは、サンスクリット語kasaya(「色の濁った」「よごれた」の意)の音写で、仏教の僧侶のまとう衣のひとつであると。霊山寺境内案内図。本坊側駐車場にある発心の門をくぐると山門前に出て、山門を入るとすぐ左に手水鉢がありその後に鐘楼がある。先に進むと左手に多宝塔、その向かいの池の先に大師堂があり、正面の最も奥に本堂がある。本堂に向かって左に十三仏の最初の不動明王坐像が祀られ、その左に続く十二仏が立姿で並んでいる。納経所は個人用が本堂の中の右側に、団体用は東側の駐車場から入ってすぐの所にある。 【これからの境内案内はWikipediaより転載させていただきます。】 【これからの上記地図は 【http://boianuf.hatenadiary.com/entry/20140802/1406960227】 より転載させていただきます】 言い伝えでは空海が四国八十八ヶ所を定めたといわれますが、これは事実ではないようです。江戸時代に真念というお坊さんが『四国邊路道指南』というガイドブックを書いて八十八ヶ所と札所の順番を定めたのが事実と。 霊山寺入り口の発心の門より境内へ。四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、「同行二人」の長い旅となる。四国遍路では、徳島に始まり高知・愛媛・香川に至る霊場巡りをそれぞれ「発心・修行・菩提・涅槃」といい、人が悟りをひらいて心の平安を得るまでの4段階になぞらえているのだと。「発心」は悟りを求める心、これから始めますという決心。そして我々も四国八十八ヶ所お遍路の旅を、ここ「発願の寺」・霊山寺からいよいよスタート。寺伝によれば霊山寺(りょうぜんじ)は奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間留まって修行したと。空海はこの地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難をはらって、心身の救済ができる霊場を開こうと修行をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・一乗院 ・霊山寺(じくわざん いちじょういん りょうぜんじ)」と名づけられたのだと。仁王門は入母屋造楼門。 「四国第一番 霊山寺」と書かれた大きな提灯。仁王門には口を開いた阿形(あぎょう)像が正面向かって右側に。 吽形(うんぎょう)像も左側に。 水屋。手を洗う場所ではなく心を洗う場所「洗心」、「心洗」。縁結び観音。仁王門を入ってすぐの所にある縁結び観音は、恋愛はもちろん、仕事の縁や健康との縁、幸せの縁など様々な「縁結び」にご利益があると。水でお清めして心の底からお祈りすれば、さらに功徳があるとか。水屋の廻りにはカエルの置物と不動明王像が添えられていた。仁王門を境内側から。 水子地蔵の池。池(泉水池)の中には稚児像が沢山浮かんでいた。そして大きな鯉が悠々と泳いでいた。泉水池と大師堂。多宝塔。歴史を感じる多宝塔だが、応永年間(1394〜1428)の建造で、五智如来像が祀られている。天正十年(1582年)、長宗我部元親の攻撃で堂塔は炎上。現在の塔は、その後に阿波藩主・蜂須賀光隆公によって再建されたもの。ちなみに、明治二十四年(1891年)にも霊山寺は出火により、本堂と多宝塔以外を残して焼失してしまう。本堂と並んで600年近い歴史を持つ、数少ない遺構で組み物が見事。右下には1945年にアメリカ軍が広島に落とした原子爆弾で燃えた火が灯され続けているのだと。水子地蔵。弘法大師も旅立ちの姿。三鈷松(さんこまつ)。密教法具「三鈷杵(さんこしょ)」を空海が中国から日本の密教成就の地に向かって投げたところ、 高野山の松の木に引っ掛かっているのが発見されたということから、三鈷松と言われ ますが、この松の葉が驚いたことに3本(普通の松葉は2本)あると。 ここの三鈷松の松葉を財布にいれていると幸せに。黄金色になったのを入れると 金持ちにと。本堂への階段を上る。本堂。本堂は改修工事がされており、中に入れず残念。 竺和山 一乗院 霊山寺(じくわさん いちじょういん りょうぜんじ)宗派 高野山真言宗 本尊 釈迦如来 創建 天平年間(729年~749年) 開祖 行基 (聖武天皇勅願) 所在 徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126番地 本尊真言: “のうまくさんまんだ ぼだなん ばく”板塀の前には、心静かな仏像が。 聖龍美観音像。等身大の十三佛。実際は十二佛。 再び多宝塔。多宝塔は上層が円形、下層は方形で建立され600年近い歴史を持つ。鐘楼。1505年に移された県下で4番目に古い梵鐘であり、県指定有形文化財に指定。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。霊山寺は2回目ですので「重ね印」を頂きました。そしてこちらも2枚目の御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も。---------------------------------------------------------------------------------------2番札所:極楽寺1番札所霊山寺から2番札所極楽寺まで1キロ余り、あっという間に第2番札所極楽寺に到着。ここ、2番札所極楽寺は、安産祈願子授祈願にご利益のあるお寺。日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)と号する。寺伝によれば、奈良時代(710年 - 784年)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に小山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。 三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門が迎えてくれた。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置 金剛力士像。 朱塗りの仁王門を入って先方には赤い旗で囲んだ願かけ地蔵堂が。お地蔵さんの真言を唱え、自分も精進努力すれば不思議なご利益があると。 日照山 極楽寺 境内配置案内図。招福弁財天。境内には「雲海の浄土」と呼ばれる庭園が広がっていた。 見事な彫刻の手洗場。見上げると、極楽浄土のような絵が彫られていた。 柱にも龍の見事な彫刻が施されていた。子授招福大師。極楽寺は子授け祈願ができるお寺として四国の中でも有名。境内に祀られた子授招福大師は、子供を抱いている数少ないお大師様で、子授けの強いご利益があると釈迦如来像。水子地蔵尊。 六地蔵。三界萬霊(さんがいばんれい)の文字が刻まれていた。三つの世界・三界、すべての精霊に対して供養することの大切さを示すものと。三界とは、無色界(むしきかい)、色界(しきかい)、欲界(よくかい)の三つをさすと。平和観音像。 阿弥陀如来像石仏。 鐘楼堂。薬師堂。江戸時代末期建立。 仏足石。釈迦が石の上で説法をすると、石に足形が残ったといわれるもので、本堂階段の上り口に。 44段ほどの石段を上る。正面に本堂が。本尊・阿弥陀如来像 は国重要文化財。「両界曼荼羅図」(二幅)と「地獄極楽図」はともに県指定文化財。日照山 無量寿院 極楽寺(にっしょうざん むりょうじゅいん ごくらくじ)宗派 高野山真言宗本尊 釈迦如来 創建 弘仁年間(810年 - 824年) 開祖 行基 (聖武天皇勅願) 所在 徳島県鳴門市大麻町桧字ダンノ上12番地 本尊真言: “おん あみりた ていぜい からうん”安産大師像。大師が流産ばかりする夫人に加持祈祷したところ、即座に子宝に恵まれたという由縁によるもの。 弘法大師像と聖観自在菩薩。太子堂。観音堂。観音堂には千手観音が祀られていると。本堂から右奥の大師堂の途中に 抱き地蔵の「重かるさん、軽かるさん」が。 地蔵さんを抱いて 軽いと感じたら 願い事が叶い、重いと感じたら悩みが長引くと。四国霊場会 特認大先達 田渕義雄さんの像。四国八十八ヶ所霊場巡拝百回成満記念に建てられたと。100回も納札に巡るのは、大変な時間と努力と労力が。長命杉。弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル周囲約6メートルもある霊木。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定 大杉に繋がっている紅白の綱に触れると霊気が伝わり長寿のご利益があるそうです。一願水掛不動尊水を掛けてお願いすると願いがかなうという不動尊。ただし一回だけ。欲張ってはいけません。 本堂下の階段を下りる。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。極楽寺も2回目ですので「重ね印」を頂きました。そしてこちらも2枚目の御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も。
2017.10.22
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク10月13日(木)の夜から旅友のSさんと、四国八十八箇所お遍路の旅にSさんの愛車で向かいました。高速道路の深夜割引料金(3割引)を利用するために19時に茅ヶ崎のSさん宅を出発。「深夜割引」とは0時~4時の間にNEXCO東日本/中日本/西日本(NEXCO3社)が管理する全国の高速道路高速道路を利用(京葉道路・第三京浜道路・横浜新道・横浜横須賀道路は割引の対象外)しているETC利用車であれば、走行距離や割引適用回数の制限がなく割引を受けることが出来るのです。易しく言えば、0時~4時の間にチョットでも高速道路上にいれば利用した全区間の割引となり高速道路に入った時間、高速道路を降りた時間は関係ないのです。深夜割引のほかに休日割引、障害者割引のうち複数の割引適用条件を満たす走行に対しては、割引率が最も高くなる割引が適用されるのです(重複して適用されません)。 【http://www.driveplaza.com/traffic/tolls_etc/etc_dis_night/】より。四国八十八ヶ所(四国八十八箇所)は、四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所である。単に八十八箇所ともいい、あるいはお四国さん、あるいは本四国ともいわれている。四国八十八箇所を巡拝することを四国八十八ヶ所霊場会では四国巡礼といい、似たような呼び方として四国遍路、四国巡拝などともいうのです。ウィキペディアによると『現代においては、従来の信仰に基づくものや、現世・来世利益を期待する巡礼者も引き続き大勢いるが、1990年代後半からは信仰的な発心よりも、いわゆる自分探し、癒しとしての巡礼者が増えたといわれている。一時期減ったといわれるすべての札所を徒歩で巡礼する歩き遍路も同じ頃から増えた。徳島大学、今治明徳短期大学など、四国の大学・短期大学の中には歩き遍路を自分を見つめ直す機会ととらえ、教育課程に組み込んでいる学校もある。遍路をするに当たり予約や届け出などをする必要がなく、いつどの札所から始めても終わっても自由で統計が取れないため人数は定かではないが、巡礼者数は年間10 - 30万人(うち歩き遍路が2500 - 5000人)ともいわれる。ニューヨーク・タイムズが2015年1月に掲載した世界の観光地ベスト52で「四国と遍路」が35位にランクされている』 とのこと。各寺本堂での参拝後は、境内にある納経所にて、持参した納経帳や掛軸や白衣に、札番印、宝印、寺号印の計3種の朱印と、寺の名前や本尊の名前、本尊を表す梵字の種字などを墨書してもらい、各寺の本尊が描かれた御影(おみえ)を頂き、納経料を支払うのです。 一昨年、同じく旅友のSさんと日本100名城スタンプラリーで四国を巡った折に、11寺程は立ち寄り、「お納経」を頂きましたが、その折、後日に四国八十八ヶ所お遍路の旅を行おうと決断し、今回の車でのお遍路の旅・前半となったのです。 【http://www.haruhino.com/archives/51779328.html】より。ネットでガイド本も購入し予習を行いました。19時に茅ヶ崎にあるSさん宅を愛車DUKEで出発し、ガソリンを満タンに。そして圏央道・寒川北ICから高速に乗り四国に向かって走り出す。そして海老名JCTから東名高速道路に。そしてひたすら東名高速道路を西に向かって走る。途中、工事渋滞を避けるため新東名を利用し、浜松SAにて休憩。豊田JCTから伊勢湾岸自動車道に移り、四日市JCより東名阪自動車道へ。亀山JCから新名神高速道路に移り土山SAにてトイレ休憩、運転を私に交代。新名神から草津JCから名神高速道路で大阪方面に向かう。そして吹田JCTから中国自動車道へ。カーナビに従い三木JCTから山陽自動車道(神戸西線)、山陽自動車道神戸西ICから神戸淡路鳴門自動車道を利用して漸く神戸-淡路島に架かる明石海峡大橋へ。明石海峡を大橋を渡る。時間は10月14日午前1時過ぎ。 明石海峡大橋は、兵庫県神戸市垂水区東舞子町と淡路市岩屋とを結ぶ明石海峡を横断して架けられた世界最長の吊り橋。全長3,911 m、中央支間1,991 m。そして本州側から明石海峡大橋を渡ったところに位置する淡路SAに滑り込む。淡路SAは神戸淡路鳴門自動車道の本州側からの玄関口。明石海峡大橋などが一望できる絶景のビューポイント・淡路SA大観覧車。 北東から南西へかけて細長く伸びる淡路島は南北約53km、東西約22km、周囲約203kmで、北部では幅5kmから8kmと細く南部で幅が拡がっている。日本国内では主要4島、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬についで第11位の面積を持ち、人口では主要4島以外では沖縄本島に次いで第2位。大阪湾、播磨灘、紀伊水道に四周を囲まれ、北端の松帆崎で明石海峡に、南東端の生石鼻で紀淡海峡に、南西端の門崎(とさき)で鳴門海峡にのぞみ、本州四国連絡道路の神戸・鳴門ルートで本州・四国と繋がっている。 淡路SAに1:30に入る。 SA内部には思いの外多い人の姿が。 瀬戸内海特有の温暖な気候と風土で育つ淡路島産玉ねぎは「甘い・やわらかい・みずみずしい」と全国的にも有名。 明石といえば、なんといってもタコ!「明石ダコ」として全国にも知れわたっています。明石海峡は、潮流が激しく、そして豊富なエサに恵まれそんな環境の中で育つ明石ダコ。 このSAで3時間ほど車の中で仮眠。そして5:00になり四国八十八ヶ所お遍路のスタートとなる1番札所「霊山寺(りょうぜんじ)」に向かう。鳴門ICから高松自動車道へ。時間は5:50過ぎ。 6時前に漸く空が白み出す。 板野ICから一般道へ。 そして6:05過ぎに1番札所「霊山寺(りょうぜんじ)」に到着。 茅ヶ崎・Sさん宅から11時間・625kmの長距離ドライブ。殆どの行程を運転したSさんお疲れ様でした。 霊山寺駐車場で7時の寺の開門をしばし待つ。既に数台の乗用車が我々と同様に開門待機中であった
2017.10.21
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク圓明寺を後にし、御朱印を頂ける時間の17時までに間に合いそうなので四国88箇所霊場 第52番札所 太山寺(たいさんじ)に向かう。太山寺は、愛媛県松山市にある真言宗智山派の寺院。瀧雲山(りゅううんざん)、護持院(ごじいん)と号す。本尊は十一面観世音菩薩。仁王門の脇を車で通過。本堂と同じく鎌倉時代の再建。仁王門前の石段の下には、伊予鉄道三津駅からのバスが来る停留所があった。 3間8脚門、入母屋造り本瓦葺き。国重要文化財。太山寺の草創については、以下のような「一夜建立の御堂」伝説が伝えられている。飛鳥時代の用明2年(586年)、豊後国臼杵の真野の長者という者が難波に船で向かう途中、高浜の沖で大嵐に遭遇した。長者が平素から信仰する観音に念じると山頂から光が差し嵐が静まり無事着岸した。その光の差した頂上に行ってみると一寸八分の十一面観音を祀った小さな草堂(現在の奥の院)があった。長者は感謝し一宇建立の大願を起する。早速、豊後に引き返し工匠を集め木組みを整え、1日で高浜の港に着き夜を徹して、一夜にして建立したと。中門近くに車を停め、納経所に向かう。途中、塀の上には布袋様?が迎えてくれた。 中門を潜ると新築の方丈・庫裏が目の前に。 客殿か。 枯山水の庭。 第52番札所 太山寺を描いた切り絵。文化庁が4月24日に初認定した「日本遺産」に「四国遍路」が選ばれたと言う新聞記事。 四国の産学官は2020年までの世界遺産登録に向けて16年度の暫定リスト入りを目指し、さまざまな取り組みを始めていると。御朱印をいただく。そして再び中門を潜り車に戻ったのであったが・・・・。 実は国宝の本堂や大師堂等ここ太山寺の主要建築物は上の写真の突き当たりを右に曲がって進むのであった。「本堂」。「聖徳太子堂」。「鐘楼」。やはり予習不足を実感したのであった。この太山寺は何時の日か、もう一度ゆっくり訪ねなければなるまいと感じているのである。
2015.09.30
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンクこの日は、早朝からホテルの奥道後温泉を楽しむ。屋上に設けられた露天風呂を独り占め。 朝焼けが露天風呂に映る。 そして我が部屋からの日の出。 この日の最初の訪問地は圓明寺(えんみょうじ)。圓明寺は、愛媛県松山市にある真言宗智山派の寺。須賀山(すがざん)、正智院(しょうちいん)と号す。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所霊場の第五十三番札所。近年は円明寺と表記されることが多いとのこと。山門(仁王門)。本瓦葺の八脚門(やつあしもん)であり、室町時代作といわれ頭貫(かしらぬき)先端の木鼻の彫刻文様や造りにはその特長があるとのこと。天平勝宝元年(749年)聖武天皇の勅願を受けて行基菩薩が、本尊阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像・勢至菩薩像を刻んで開基。創建時は和気海浜坂浪西山にあり七堂伽藍を備えた大寺。後に弘法大師がこの地を巡錫した際、荒廃した諸堂を整備し四国第53番霊場に。しかし鎌倉時代に幾度か兵火により荒廃、元和年間(1615〜24)に須賀専斉重久がその私財をもって現在地に再興。須賀専斉重久の名前をとり、須賀山 圓明寺と称したと。境内には、手水舎、鐘楼・門珠堂・閻魔堂・宮殿・観音堂・弁財天・納経所が整然と。仁王門をくぐって右手に 弁天堂とその右に巨大石灯籠 本堂。本堂右上・鴨居にある5mほどの彫り物「左甚五郎作の龍」は、行ないの悪い人が見ると目が光ると言われているが、幸い私には光らなかった。そして本尊阿弥陀三尊仏像の両脇に侍立する観音・勢至の両菩薩像は鎌倉時代の作で、県指定有形文化財。太子堂。 中門。 閻魔堂の前に水子子育て地蔵堂。 弘法大師像。鐘楼。圓明寺は、寛永年間のキリシタン灯籠があることでも知られているのだと。大師堂左の塀際にあり高さ約40cm、聖母マリア像を浮き彫りにしていた。愛媛県内に「キリシタン碑」らしい存在は多く確認されており、隠れキリシタンがいたことは事実とのこと。 納経所の前の碑。『朱印帳 ひらく 蝋梅 匂いけり 喜和子』 納経所への案内。 新築の庫裏 納経所。 御朱印をいただきました。再び太子堂。
2015.09.29
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク45番札所の岩屋寺から車で20分ほどで四国88箇所霊場 第44番札所 大寶寺(だいほうじ)に到着。御朱印締め切り時間の17時には何とか間に合う。 大寶寺はちょうど88ヶ所の半分にあたり、中札所と言われていると。こちらの寺も縁起が非常に古く、大和朝廷時代に百済から来朝した僧侶が、携えてきた十一面観音像を、山中に安置したと。飛鳥時代になり、広島からやってきたという、明神右京&隼人という兄弟の猟師がこの像を発見し、庵を建てて祀ったところ、その話を聞きつけた文武天皇の勅命により、寺院が建立され、当時の元号にちなんで、大寶寺(大宝寺と書くことも)と名付けられたのだ。手水舎。四方転び(柱が中心に向かってそれぞれ傾斜する)が用いられ、四方吹き放しとなっており、その中に水盤が据え付けられていた。第44番札所 菅生山(すごうさん) 大寶寺(だいほうじ)。四国八十八箇所のなかで唯一年号を寺名としている寺とのこと。まずはお参り。本堂への階段を登る。本堂。 鐘楼の手前には赤いよだれかけをした地蔵様が並んでいた。地蔵様は「地蔵菩薩」といって、子供を守ってくれる仏様。よだれかけは、子供の使っていたものをお地蔵様につける事によって、子供の匂いを覚えてもらい守ってもらうということをしていたのだと。赤は赤子(赤ちゃん)の赤という説や、赤色には魔除けの意味があるという説や、長生きを願ったという説も。 鐘楼。総檜造りの大師堂。 太師像。 本尊 十一面観世音菩薩と刻まれていた。 御朱印。 階段を下り山門へ。山門には2対の金剛力士像が。左右に巨細な草鞋が。帰路の林道には夕日が美しく射し込んでいた。 道後温泉近くのホテルに向かう。遠くに松山城の姿が見えた。 愛媛県庁舎を本館を車の中からシャッターを押す。ドームの屋根が印象的な建物。 松山市内を走る路面電車。松山の地で市内電車と郊外電車を運営しているのは伊予鉄道。設立されてから120年の歴史がある私鉄。様々な種類の電車が歴史を感じさせた。 この夜は何故か二人でホテルの近くの広島焼きを楽しむ。
2015.09.28
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク湯築城から 国道33号、県道12号を久万高原方面へ車で38km、旅友の運転で突っ走り岩屋寺(いわやじ)駐車場に到着。岩屋寺は、愛媛県上浮穴郡久万高原町にある真言宗豊山派の寺院。山号は海岸山(かいがんざん)。本尊は不動明王。四国八十八箇所霊場の第45番札所。今回の旅行では、出発前には四国八十八箇所霊場の第1番札所と88番札所のみ訪ねるはずであったが、段々欲が出てそして時間も出来たのでその中間札所のこの45番札所・岩屋寺を訪ねたのであった。車を降り坂道を慌ただしく登る。岩屋寺への上り口には数軒の店が並び、「まだヽヽこれからじゃ 岩屋の坂と人生は」の看板が。この後のタフな長い急坂そして階段が予想できたのであったが。標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である岩屋寺。寺伝によれば、弘仁6年(815年)霊地を探して山に入った空海(弘法大師)は、山中で神通力を備えた法華仙人という女性と出会う。仙人は空海に帰依して山を献上した。空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇を建立して本尊として安置、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊とした。坂道の両側に立つ石柱の上に 小さな仁王像が立っていた。石柱には 「如実知自心(実の如く自心を知る)」。本当の自分の姿をそして自分自身の仏の姿を知りなさいという教えの言葉。「方便爲究竟(方便を究竟となす)」と書かれていた。具体的な実践をすることが人間の果たすべき最高の行いであるとの意。更に苔むした急な階段をぜいぜいしながら先を急ぐ。 そして漸く山門に到着。 昭和9年の再建。空海の詠んだ歌にちなんだ「海岸山」の額が掲げられていた。山号の「海岸山」は空海の作とされる「山高き 谷の朝霧 海に似て 松吹く風を 波にたとえむ」の歌によるとの説明。 さらに坂道を進むと 右手に大師像が。岩の上に小さく不動明王が。参道に架かる紅い欄干の極楽橋。 弘法大師に見守られているたくさんの石仏が並んでいた。さらに坂道を上り曲がり角には虚空蔵堂が。 虚空蔵堂からさらに上る参道右手には、観音様や地蔵様に見守られて整然と並らんだ無数の石仏群が。息切れの中、「南無大聖不動明王」の上り幟、石仏群に癒されながら 奇岩が覆いかぶさるような庫裏、納経所が見えてきた。本堂への石段の左手に水子地蔵尊が。 何はともあれ納経所で御朱印を頂く。 四国88箇所霊場 第45番札所 岩屋寺 御朱印。本堂。御本尊は不動明王。昭和2年の再建と。本堂に向かって 右手のこの梯子を登ると 法華仙人の行場跡の洞窟があり10帖程の広さがあるとのこと。疲労困憊で登る気力無し。境内にある太子堂は補修中。 重文指定されている大師堂の特色ある向拝柱の上部。柱には薔薇?が刻まれていた。鐘楼。 庫裏、納経所。 そして帰路へ、今度はひたすら階段そして坂道を下る。再び石仏群に見送られる。坂道の脇にはシュウカイドウの可憐なピンクの花が、疲れた体を癒してくれた。
2015.09.27
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク1番札所霊山寺から2番札所極楽寺まで1キロ余り、あっという間に第2番札所極楽寺に到着。ここ、2番札所極楽寺は、安産祈願子授祈願にご利益のあるお寺。日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)と号する。寺伝によれば、奈良時代(710年 - 784年)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に小山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。 三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門が迎えてくれた。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置 金剛力士像。 朱塗りの仁王門を入って先方には赤い旗で囲んだ願掛け地蔵堂が。お地蔵さんの真言を唱え、自分も精進努力すれば不思議なご利益があると。 早速納経所にて御朱印を戴く。 仁王門を境内から。朱塗りと白壁のBESTMIX。 日照山極楽寺 案内図。 境内には「雲海の浄土」と呼ばれる庭園が広がっていた。 平和観音像。 極楽寺の手水場は、激しく彫刻された石が。見上げると、極楽浄土のような絵が彫られていた。 柱にも龍の見事な彫刻が施されていた。子授招福大師。極楽寺は子授け祈願ができるお寺として四国の中でも有名。境内に祀られた子授招福大師は、子供を抱いている数少ないお大師様で、子授けの強いご利益があると。 阿弥陀如来像石仏。 鐘楼堂と観音堂観音堂には千手観音が祀られていると。 仏足石。釈迦が石の上で説法をすると、石に足形が残ったといわれるもので、本堂階段の上り口に。 本堂。44段ほどの石段をのぼった正面に本堂が。その右手奥が大師堂で、この大師像は「安産大師」とも呼ばれている。大師が流産ばかりする夫人に加持祈祷したところ、即座に子宝に恵まれたという由縁によるもの 本尊・阿弥陀如来像 は国重要文化財。「両界曼荼羅図」(二幅)と「地獄極楽図」はともに県指定文化財。 弘法大師像と聖観自在菩薩。弘法大師像。 聖観自在菩薩。 本堂から右奥の大師堂の途中に 抱き地蔵の「重かるさん、軽かるさん」が。 地蔵さんを抱いて 軽いと感じたら 願い事が叶い、重いと感じたら悩みが長引くと。 本堂下の階段を下りる。薬師堂。江戸時代末期建立。 四国霊場会 特認大先達 田渕義雄さんの像。四国八十八ヶ所霊場巡拝百回成満記念に建てられたと。100回も納札に巡るのは、大変な時間と努力と労力が。 長命杉。弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル周囲約6メートルもある霊木。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定 一願水掛不動尊水を掛けてお願いすると願いがかなうという不動尊。 ただし一回だけ。欲張ってはいけません。 供養観音。 そして極楽寺で戴いた御朱印。
2015.09.06
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンクレンタカーでこの日の最初の目的地、四国八十八箇所霊場第一番札所の霊山寺に到着。参拝をする前に境内外にある総合案内所へ行き、御朱印帳を購入。白衣、笠、杖等の購入も考えましたが次回以降に回し、四国八十八箇所参りの第一歩を曲りなりにも踏み出したのです。 総合案内所前にはお遍路フル装備のマネキン像が何故か・・・。 言い伝えでは空海が四国八十八ヶ所を定めたといわれますが、これは事実ではないようです。江戸時代に真念というお坊さんが『四国邊路道指南』というガイドブックを書いて八十八ヶ所と札所の順番を定めたのが事実と。 霊山寺入り口の発心の門。四国遍路では、徳島に始まり高知・愛媛・香川に至る霊場巡りをそれぞれ「発心・修行・菩提・涅槃」といい、人が悟りをひらいて心の平安を得るまでの4段階になぞらえているのだと。「発心」は悟りを求める心、これから始めますという決心。寺伝によれば霊山寺は奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間留まって修行したと。空海はこの地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の救済ができる霊場を開こうと修法をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・一乗院 ・霊山寺(じくわざん いちじょういん りょうぜんじ)」と名づけられたのだと。仁王門。 仁王門には口を結んだ 吽形(うんぎょう)像が。 阿形(あぎょう)像も。 縁結び観音。仁王門を入ってすぐの所にある縁結び観音は、恋愛はもちろん、仕事の縁や健康との縁、幸せの縁など様々な「縁結び」にご利益があると。水でお清めして心の底からお祈りすれば、さらに功徳があるとか。水屋の廻りにはカエルの置物と不動明王像が添えられていた。もう一つの水屋。 仁王門を境内側から。 水子地蔵の池。池(泉水池)の中には稚児像が沢山浮かんでいた。そして大きな鯉が悠々と泳いでいた。太子堂。 多宝塔。応永年間(1394〜1428)の建造で、五智如来像が祀られている。 組み物が見事。右下には1945年にアメリカ軍が広島に落とした原子爆弾で燃えた火が灯され続けているのだと。そして手前には赤子を抱く仏像が。弘法大師の姿か? 本堂への階段を上る。本堂。 本堂内の天井に下げられた沢山の灯篭が目を引いたのであった。 霊山寺の龍の天井画。本堂の右側にもお遍路フル装備のマネキン像が。顔は正しく外国人。 緑の苔の生えた板塀の前には、心静かな仏像が。 等身大の十三佛。 再び多宝塔。多宝塔は上層が円形、下層は方形で建立され600年近い歴史を持つ。 鐘楼。1505年に移された県下で4番目に古い梵鐘であり、県指定有形文化財に指定。 黄金小僧像。 再び仁王門を境内から。 そして戴いた御朱印。
2015.09.05
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