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「松前城」を後にし、次に向かったのは「松前線松前駅跡」。道道435号線を進み、右に折れて道なりに進むと右手にあった。松前駅は、かつて北海道(渡島支庁)松前郡松前町字博多にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)松前線の駅であった。松前線の廃線に伴い1988年(昭和63年)2月1日に廃駅となった。1980年(昭和55年)まで運行されていた急行「松前」の発着駅だった。「北海道最南端の町 松前駅」と刻まれた石碑。地名は、アイヌ語の「マツ・オ・マイ」(婦人のいる所)に由来するとされるが、江戸時代にこの地を支配した松前氏に由来するともいう。松前氏の「松前」については松平家康(後の徳川家康)の「松」と前田利家の「前」から採られたという説、あるいは城下の海に面した所に大きな松の木があり、船がこの木を目当てに出入したことから名付けられたとの説もあるのだと。石碑とともに松前線のあゆみが掲げられていた。周囲には花壇が整備され、かつては北海道最南端の駅であった松前駅が、いかに町民から愛されていたかが実感できたのであった。「松前線のあゆみ大正元年 松前鉄道期成同盟会を結成大正12年 政府が松前線を敷設予定鉄道路線に加えた昭和12年10月 福山線(現・松前線)木古内 ー 渡島知内間開通 森越停車場開業昭和13年10月 福山線(現・松前線)渡島知内 ー 碁盤坂(現・千軒)間開通、湯ノ里停車場開業昭和17年11月 福山線(現・松前線)碁盤坂(現・千軒) ー 渡島吉岡間開通、渡島福島停車場開業昭和21年12月 福山線(現・松前線)渡島吉岡 ー 渡島大沢間開通昭和28年11月 福山線を松前線に改称。渡島大沢 ー 松前間開通、木古内 ー 松前間全通昭和31年9月 ディーゼルカー登場、客車と貨車が分離された昭和32年1月 松前線、白荷・及部停車場開業昭和36年11月 渡島大沢を旅客駅とする昭和38年6月 松前線にレールバス導入昭和38年12月 準急「松前」登場昭和45年12月 森越・渡島大沢を駅員無配置駅とする昭和46年4月 碁盤坂(現・千軒)を旅客駅とする昭和47年3月 碁盤坂を千軒と改称昭和57年11月 松前を旅客駅とする、松前線貨物営業を廃止昭和59年2月 松前線荷物取扱い廃止昭和59年9月 松前線特定地方交通線対策協議会開始昭和63年1月 松前駅廃止」「松前駅」の裏の桜並木も紅葉が始まっていた。ここが、昔の「松前線」の線路があった場所なのであろう。そして再び国道228号に戻り、函館バス 松前出張所付近からは前方に多くの風力発電装置が姿を現した。蒼き海・日本海と前方にトノマ岬の館浜港西防波堤灯台の姿が。そして左手に「渡島小島(おしまこじま)」の姿が。ウミガラスやウミウ、ウミネコ等の海鳥の繁殖地であり、カエデ科のイタヤカエデ類が優占する林や冷温帯性の草原が発達している。このことから、「松前小島」の名称で天然記念物(天然保護区域)に指定されていて文化財保護法に基づき、島本土への立ち入り等について規制を行っているのだと。渡島小島は、北海道松前郡松前町に属する無人島。松前小島(まつまえこじま)とも呼ばれる。松前町の沖約23km付近に位置している。面積は1.54km2。小島の名は渡島大島に対してのもの。島の南端は北緯41度20分58秒であり、離島も含めた広義の北海道最南端である。住所は全域に亘って松前郡松前町小島。無人島のため、島へのアクセス手段はないが、近海で操業する漁船が多いため、漁船の避難所・休憩所として小島漁港が設置されているとのこと。2017年にこの島で「北朝鮮籍漁船による掠奪と破壊行為」が行われたのであった。そしてその右手奥に「渡島大島(おしまおおしま)」の姿も確認できたのであった。渡島大島は、北海道松前郡松前町に属する無人島。松前大島(まつまえおおしま)とも呼ばれる。松前町西方沖50kmの地点に位置する。大島の名は渡島小島に対してのもの。住所は全域に亘って松前郡松前町大島。岩場の多い「折戸浜海岸」付近の「光る海」。海岸の岩場の風景を楽しむ。大きな風力発電も。枝の先に白い花が?いやよく見ると葉の裏が白く、花のように見えるのであった。国道228号・日本海追分ソーランラインを進む。前方に「州根子岬」が見えて来た。檜山郡上ノ国町字大崎。遠くに「奥尻島」の姿が確認できた。「州根子岬」。昔はここに六角形で白黒ツートンカラーの洲根子岬灯台があったのだが。風力発電銀座。「州根子岬」の先端をズームで。そして道の駅「上の国 もんじゅ」に到着。施設横のモニュメント。別のモニュメント。道の駅「上の国 もんじゅ」の建物。「上ノ国町観光マップ」。「道の駅 上ノ国もんじゅ国道228号沿いの岸壁に建ち、日本海を見渡す絶景のロケーションと新鮮な地場産食材を提供するレストランや特産品販売所があります。裏手には伝説の場所 ” 神(かん)の道 ” があり、窓岩に差し込む夕日が神秘的です。また、四季折々の様々なイベントや観光案内所等も併設しており、まちの観光拠点施設となっています。」「史跡 上之国館跡 勝山館跡松前藩祖の武田信廣が1470年頃に標高100mの丘陵に築いた山城で、16世紀末頃まで政治・軍事・北方交易の拠点として機能していました。発掘調査では、建物跡や中国・朝鮮・沖縄・本州産の出土遺物のほか、アイヌが使用した骨角器やアイヌ墓が見つかったことなどから、和人とアイヌの混住説が唱えられています。また、勝山館・花沢館・洲崎館の3館が上之国館跡と総称され国の史跡に指定されています。」。「勝山館跡ガイダンス施設北海道の日本海側における政治・軍事・北方交易の拠点として栄えた勝山館を200分の1スケールの模型や映像などでご案内しています。建物直下にある墓のうち、火葬墓、土葬墓の計7基の墓が発掘された。そのままに型取りされ、元の位置に復元されています。また、発掘調査での出土遺物も多数展示されています。」。道の駅上ノ国もんじゅから「もんじゅ岩」を見る。道の駅「もんじゅ」からみえる前浜一帯は、旧地名を「文珠浜」と言っていた。岩が知恵の仏・文殊菩薩に似ているといわれたことから「もんじゅ岩」と呼ばれていると。道の駅「上の国 もんじゅ」は上記の「もんじゅ岩」から名付けられたのだと。ゆるから「カミゴン」。ポケモンがデザインされたポケモンマンホール『ポケふた』が。こちらは、『ロコン』と『ヒコザル』がデザインされたマンホール蓋。店の裏から江差方面を見る。店内。各種ハチミツも売られていた。レンゲ蜜、百花蜜が。ホテルでの夕食用にと、私は「カニ飯」を購入したのであった。「勝山館跡」案内もビデオ放映中。「昇平丸」。「昇平丸(しょうへいまる)」史略。安政元年(1854)11月 昇平丸竣工 全長約3mの大砲を積み込んだ洋式帆船安政ニ年(1855) 1月 昇平丸と命名 2月 鹿児島を出帆 品川に着船 3月 この時昇平丸が日の丸をたてたのが日の丸の初めと言われている 6月 幕府より昇平丸を献上するよう申し出 7月 長崎に海軍伝習所を設置 8月 昇平丸は幕府に献納され名も昌平丸と改める 9月 長崎海軍伝習所に派遣、伝習生を乗せて江戸を出帆 10月 長崎に着(伝習生の中に勝海舟もいた)明治三年(1870) 1月 南部安渡を出帆脇澤海岸を経、大島沖で風浪に逢い 上ノ国木ノ子村猫澤に漂着した 2月 が高波によって海岸に吹きつけられ破船昇平丸は日本最初の様式軍艦であり日本近代科学の導入の過程を理解する上で重要な船と言われている。ネットから。昇平丸は、薩摩藩が幕府や他藩に先駆けて桜島瀬戸村(現鹿児島市黒神町)で建造した全長27.3m、全幅7.6m、全深5.5mの木造バーク型の洋式軍艦。薩摩藩主の島津斉彬は、ペリーの遠征艦隊が浦賀へ来航する以前、早くから諸外国の艦船に匹敵するだけの大船が必要と考えており、薩摩藩が幕府に「琉球大砲船建造届書」を提出し、嘉永6年(1853)5月に後の昇平丸にあたる琉球大砲船を建造している。さらに、幕府が同年9月「大船建造解禁令」の禁を解いた後、琉球大砲船(昇平丸)は約7ヶ月かけて大砲10門、臼砲2門、小口径自在砲4門を搭載するなどの改造をした洋式軍艦として竣工したのだと。 【https://dounan.exblog.jp/18612219/】より「夷王山(いおうざん)」、「天の川」、「上ノ国」の観光ポスター。夷王山:標高159mの山頂からは、上ノ国市街はもとより、日本海に浮かぶ奥尻と大島の島影、 熊石方向へ延びる海岸線が一望できます。天の川:町の中央を流れる清流。川釣りのメッカ。とくに7月~8月のアユ釣りシーズンは 賑わう。 支流の中小河川はヤマメ・イワナ釣りもできる。 中流の中州には、アオサギの コロニー(繁殖地)があると言われ、晩秋には優雅な舞を披露してくれる。上ノ国:上ノ国は北海道で最も早い時期に和人が定住した地であるとされる。 1189年、源頼朝が奥州の藤原氏を攻めた際に、糠部や津軽の人々が上ノ国付近まで 逃れたという。 松前藩の礎を築いた武田信広(武田信廣)の勝山館跡がある。 標高159.1mの夷王山から北東に伸びる尾根上に、和人とアイヌが混住していたと 推測される館が築かれ、「続日本100名城」に選定。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.29
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更に松前城(福山城)の散策を続ける。本丸の南端から津軽海峡を見ると、津軽半島の小泊岬(権現岬)がはっきり見渡せた。そしてこの日は遠く、青森県弘前市および西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する「岩木山」の姿も見えたのであった。再び本丸中央付近から天守閣を見る。天守の鯱(シヤチホコ)(左)。天守の鯱(シヤチホコ)(右)。「青木郭公の顕彰碑」。「青木郭公の顕彰碑北海道暁雲社の主宰で大正年間より昭和初期にかけて活躍した本道俳句の代表的先生で、「高潮や城門を吹く花の雲」と刻まれております。」「鎌倉翁の顕彰碑」。「顕彰碑」。「鎌倉翁の顕彰碑松前桜の育ての親、鎌倉翁の顕彰碑。鎌倉翁は大正10年(1921)頃より約50年間松前の桜を育て、多くの品種を造りあげた方でございます。昭和43年91歳で亡くなられました。」本丸を後にし、外に出て左に進むと「観光案内所」が。再び「松前城文化財マップ」。内堀と天守閣・三重櫓。以前訪ねたときには、この内堀に多くの睡蓮の花が咲いていたことを思い出したのであった。そして次に訪ねたのが、「隅櫓」跡。「隅櫓この櫓は、東郭にあり、主に東方から侵入する敵を監視する位置にあります。東郭は、内堀を挟み本丸へ通じる重要な郭で、搦手升形・北郭とともに東方の備えであり、その要となる建物がこの隅櫓でした。櫓の規模は、絵図『福山城見分図』から、一階の柱芯間が桁行四間( 7.272 m )、梁間三間( 5.454m)であったことが判ります。また、発掘調査を行った結果、出土した土台石の規模が絵図寸法と一致することが判明しました。櫓の構造は、屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)の二重櫓であったことが、慶応3 (1867)年に撮影された古写真から判ります。」別の角度から。天守閣を見る。「搦手二ノ門跡」越しに天守閣を見る。「搦手二ノ門跡」「桜前線本道上陸標準木 品種 染井吉野」。天守閣・三重櫓は現在「松前城資料館」になっているのだ。「二重太鼓櫓」、その先に津軽半島が。近づいて。「二重太鼓櫓この櫓は、二の丸南東隅にあり、城内三ヶ所ある二重櫓のうち、敵の侵入を監視するうえで最も重要な位置にあって、海上はもとより海岸線、市街地、三の丸と広範囲を見渡すことが出来ました。また、平常時にはその名のとおり、太鼓を打ち、時を知らせる役割をし、櫓の西に接して「太鼓番居小屋」があり、その管理をしていました。櫓の規模は、絵図「福山城見分図」から、一階の柱芯間が四間( 7.272m )四面であったことが判ります。また、土台石は発見されませんでしたが、発掘調査で出土した土台下の地業(地下構造)の規模が、絵図寸法と一致することが判明しました。櫓の構造は、屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)であったことが、慶応3 (1867)年に撮影された古写真から判ります。」「岩木山」と大型船の姿。「津軽半島」と貨物船。三の丸、番所跡、砲台跡、が眼下に見えたのでズームで。二の丸と三の丸の間には外堀が設けられている。「番所跡この番所は、搦手升形へ通ずる外堀に架かる木橋脇にあり、木橋の守備及び三ノ丸地域の警備のために置かれています。三ノ丸には同様の番所がもう一か所あり、追手升形に通ずる木橋脇にもあります。」搦手枡形へ通じる二の丸と三の丸の間の外堀に架かる木橋。「天神坂門跡」。「松前勘解由 時代に翻弄された悲壮の若手藩主1853(嘉永6)年、家老格に昇進し、翌年には箱館に来航したアメリカ極東艦隊ペリー提督らの主席応接使を務めた。その態度はペリー提督に感銘を与え、アメリカ側の要求をことごとくかわした交渉ぶりは、「コンニャク問答」として評判になった。1868(慶應4)年8月3日、正義隊のクーデターにより自宅の一室で自刃。蠣崎廣年(波響)の子である廣伴の次男として生まれる。名を崇效。松前廣重の養子となり、勘解由を名乗る。1853(嘉永6)年に家老格に昇進し、1854(安政元)年のペリー艦隊による箱館来航の際は主席応接使に抜擢され、大役を勤め上げた。1868(慶応4)年の正義隊クーデターにより失脚、自宅にて自刃を遂げる。」そして駐車場に戻り天守閣・三重櫓を再び見上げる。コスモスも再び。ピンクのコスモスの花言葉は『乙女の「純潔」』白のコスモスの花言葉は『「優美」「美麗」「純潔」』であると。そして和名は「秋桜」。これは本来「あきざくら」と読まれ、コスモスという読みではなかったのだと。では、なぜコスモスと呼ばれるようになったのか?それはもちろん、昭和を代表する歌手、山口百恵の「秋桜」👈リンク という曲が大ヒットしたことがきっかけだと。この曲を作詞作曲したさだまさしが、「秋桜」をコスモスと読ませ、曲がヒットしたため、その読みが一般的になったのだと。とはいえ、由来が歌謡曲であり、当て字だったとは驚き。もしこの曲がここまでヒットしていなかったら、おそらく和名の「あきざくら」という読み方が今でも一般的だったのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.28
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「松前町郷土資料館」を後にして、「松前城 天守閣」に向けて進み、駐車場に車を駐め散策開始。天守閣下の駐車場横にはコスモスの花が満開。天守閣(三重櫓)の東側には「御多門」があったが、遺構案内板には「多門櫓跡」とあった。櫓門だったのだろう。今は、そこから少し引っ込んだところに門が建てられ、天守方面への入城門になっていた。松前城は、西蝦夷地(渡島国津軽郡、のち福島郡の一部を編入で松前郡)福山(現・北海道松前町松城)にあった日本の城(平山城)。江戸時代、公式には福山城(ふくやまじょう)と記されたが、当時から備後福山城との混同を避けるため松前城とも呼ばれていたのだと。「松前城 案内図」 【http://yogokun.my.coocan.jp/matumae.htm】よりこちらは「地図」 【http://castle.slowstandard.com/00hokkaidotohoku/01hokkaido/post_1.html】より松前城(福山城-国指定史跡今から約七〇〇年以前の鎌倉時代から和人が移住し、戦国時代の終り頃には和人政権の拠点となり、その後、武田信広(松前家始祖)がコシャマインの戦(一四五モ)を平定し、蛎崎家を継ぎ、その子光広(松前家ニ世)以降代々福山館ができるまで大館に域を築いていた。五世慶広の時、松前氏に改め、慕府より蝦夷地における支配を認められ松前藩が成立。十七世崇広が徳川慕府から北辺警備の命を受け、高崎藩の市川一学の設計により安政元年(一八五四)に日本最後の旧式築域として発成したもので、約七万六千平方メートルを有する堂々たる城郭であった。特に城内に砲合を備え、一見簡素に見える天守闇も、火器戦争には最もがん丈な意匠構造で、従来の日木式に西洋式が加味されている点は、全国的にも特異な城である。その背景には、ロシアの南下など外国船の日本侵略を防ぐ目的があって、松前は北辺警備の重大な役割を果たしていた。現在の天守は、昭和三十六年に再建きれたものである。」搦手升形脇にある「多門櫓跡」案内板。現在の入口門の右側にあったようだ。「搦手二ノ門」2000年に復元された搦手二ノ門。資料や古写真、発掘調査の結果を元に、瓦葺の高麗門として復元されていた。この門の先は台場が並ぶ三ノ丸に。 「史跡 松前城」碑。「松前城文化財マップ」と「松前町内指定文化財一覧表」。「松前城文化財マップ」をズームで。「松前町内指定文化財一覧表」入口門から入城。そして、松前家の家紋は「丸に武田菱」。丸の中にある菱型の紋「武田菱」は戦国武将・武田信玄の家紋として有名。「四つ割菱」とも呼ばれており、他にも「武田の田の字が変形してこの形になった」という説があるのだと。天守閣手前の右側に案内板が。「武田氏略系」、「松前氏歴代」。光って見にくいのでネットから。「松前城 天守」北海道で唯一の天守である。松前藩には長らく城がなかったが、幕末になって国防上の理由からか、築城が認められ、安政元年(1854)に完成した。これは日本における最後の和式築城と言われている。海に対して多くの砲座が設けられたが、山の方は防備が薄く、たいして要害ではない。天守は昭和16年に国宝に指定されたが、昭和24年に謎の火災で焼失してしまった。現在の天守は昭和36年に復原された鉄筋コンクリート製のものである。近づいて。「本丸御門」松前城(福山城)本丸御殿の正門。切妻造り、銅板葺きの櫓門。1849(嘉永2)年、江戸時代初期の城郭を取り壊し、北方防備を重視して新しい城郭を建設した際の門。石垣は凝灰岩を方形に加工し、隙間なく石をすり合わせて積んだ美しい姿。幕末の建築当時のままに残され国の重要文化財に指定されている。「福山城(松前城)本丸御門 安政元年建立(1854)」。「重要文化財福山城(松前城本丸御門修理概要等)福山城(松前城)は、松前町福山の台地に築かれた平山城で、近世に築城された北海道唯一の城郭である。松前家5世慶広が、天正17年(1589)徳山(大館)の居館焼失を機に、慶長5年(1600)福山の地で築城に着手し、同11年(1606)完成した。蝦夷地の中心として威容を誇ったこの城は、嘉永2年(1849)幕府の命により取り壊され、高崎藩士市川一学の縄張により、直ちに全面的な改築に着手し、安政元年(1854)完成をみた。その後10数年を経ずして、明治維新後の戦乱により廃墟と化し、さらに明治8年(1875)には、天守(三重櫓)・本丸御門・同東塀等を残して取り壊された。昭和16年これら3棟は、国宝に指定されたが、同24年本丸御門を残して他の建物は焼失し、指定を解除された。同25年文化財保護法の施行により、本丸御門は重要文化財に指定された。本丸御門は、昭和24年に屋根葺替部分修理を行っているが、修理後35年を経て、屋根銅板が磨耗し、雨漏りを生じるようになり、また昭和58年の日本海中部地震により、柱の傾斜等が生じたため、屋根葺替部分修理を実施した。実施に当たっては松前町の直轄工事とし、設計監理を松前町教育委員会文化財課が担当した。」「長尾山樵(秋水)松前城下作詞」「海城寒坼月生潮、 海城の寒坼(かんたく)月潮をより生じ、 波際連檣影動揺。 波際(はさい)の連檣(れんしょう) 影動揺す。 従此五千三百里、 此れ従(よ)り五千三百里、 北辰直下建銅標。 北辰直下 銅標を建てむ。」「松前城下には、寒い夜、夜回りの拍子木の音が響いている。今上がってきた月は、まるで潮の中から生まれて来たようだ。(松前の港のにぎやかなようす)波打ち際にたくさんつながれている船のたちならぶ帆柱の影が、しきりと揺れ動いている。(城内や津軽海峡のようす) ところで、この松前の地から五千三百里の彼方にある北極星の真下(つまり北極点)にここまで我が国だという国境の標を建てたいものだ。」「本丸玄関」「旧福山城本丸表御殿玄関慶長11(1606)年に完成した城は、当時これを福山館と称していた。しかし、寛永14(1637)年城中から出火し、多くの建物を焼失、同16年これを修築した。その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。明治8年、北海道開拓使の命令により、福山城は取り壊されたが、天守と本丸御門、表御殿は残った。表御殿は松城小学校として充用され、明治33年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和57年まで利用されてきた。」角度を変えて。再び天守閣を見上げる。「本丸跡」を望む。「普賢象(ふげんぞう)」「普賢象 高松宮宣仁親王は国際親善、厚生、美術工芸、スポーツなど多彩な部門で活動され、桜に関する造詣も深いお方でした。宣仁親王は、昭和49年(1974)年7月4日、松前町を訪問なされ、松前町桜保存子ども会が育てた「普賢象」を、ここ福山械本丸御門そばにお手植えされ、史蹟や桜見本園をご視察されました。桜見本園をあとにされる前に、宣仁親玉は「日本の桜を守り、美しい桜の園にされるように」と仰せられました。 宣仁親王のご訪問から30年後の平成16年(2004)4月29日、松前町は、お手植えの桜が生長し、その桜を接木した後継樹も育成したことを踏まえ、宣仁親王の御来園祈念碑を桜見本園に建立するとともに、後継樹を新桜見本園に記念植樹して、宣仁親王のご遺徳をお慕いし、平和を願い、桜の向上、発展に努めることをお誓いしている。」これが「普賢象」の花であるとネットから。「本丸御門」を出て外から振り返る。角度を変えて振り返る。「本丸御門」前から天守閣を見る。「松前神社」をズームで。武田信広(武田信廣)を祭神とする神社。松前家は寺町の一角に松世祠を設けていたが、明治12年、地元から武田信広を祭神とする神社の創建の願いが開拓使に出され、旧松前城北の丸を境内地として社殿を建立。つまり松前藩の祖である武田信広を祀った神社。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.27
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3.「和人地の成立道南地方と本州の交流はしだいに強くなり、鎌倉時代には、道南地方に定住する和人がでてきました。室町時代には、館主と呼ばれる小さな豪族が成長し、百年にわたる民族戦争のすえ、戦国の動乱期に、蠣崎氏を中心とする和人の統一政権が誕生しました。」「アイヌ民族の社会アイヌ民族は、依然として狩猟、漁撈による生活を続けていましたが、もう土器は使わず生産用具も本州から手に入れたものを、多く用いるようになっていました。しかし和人の勢力はまだ及ばす、民族独自の世界をつくっていました。」「仕掛弓(アマックウ)」「仕掛弓(アマックウ)熊や鹿の通路を横切って細くて目につかない丈夫な細ひもを、動物の高さに張り、その一端を仕掛弓に装置させて.ひもに触れると.自動的に毒矢がとび出す仕組になっています。」「らっこ漁の図 雪好筆」。「鹿狩の図 雪好筆」。「求福山山車 胴幕」。近づいて。孔雀の雄をデザインした幕。刺繍作品なのであろうか。牡丹の花。「「北海道指定有形民俗文化財 求福山山車の人形その他付属品」求福山山車 胴幕松前城下を代表する山車の一つが求福山高砂山であった。城下の七社祭礼には、このような豪華な山車が各町内から引き出されたいへんなにぎわいであったという。側面に張られた幕が胴幕で、孔雀の雌雄をデザインした幕である。オランダ製の赤の羅紗地に金糸・銀糸をふんだんに用いた刺しゅうで、往時の松前の繁栄を象徴するものであり、製作は京都と考えられている。近年、傷みが激しいため、昭和63年度には道費の補助を得て修復をしている。」「求福山山車の人形その他付属品」向かって左に尉、右に老の正装人形。この衣裳は祭礼の時に藩主、奥方から下げわたしされたもの。左に「尉(じょう)」。右に「姥(うば)」。「求福山」。「北前船とは北前船とは通称”弁財船”と呼ばれ、おもに、日本海を舞台に大坂から下関を経由して、松前交易にたすさわった一枚帆の和船のことです。また経営のしかたが、荷主などに依頼されて商品を運ぶ賃積船とちがい、船頭が即商人である船頭の意志で、各寄港地で商売をする買積船であったところに大きな特徴がありました。」「北前船正月船・沖口役所標柱」「北前船」1600年頃、近江(滋賀県)商人がたくさん松前に来て、出店を開き繁盛した。松前の産物(にしん・こんぶ・干しあわび)を京都や大坂などの市場で売りさばき、帰りには呉服物・米・味噌・醤油・漁具など百貨を松前に運んだ。松前藩は米がとれず特殊な経済制度であるため、商人との直接的な取引をしなければ、藩の財政も家臣の生活も成り立たなかった。また、文化面でも京都の文化が近江商人によってもたらされ、寺院の庭園樹や桜、椿など名木の多くはこの頃松前に運ばれたと。「奉納船」。「北前船の航路北前船主には、加賀の大乗寺、橋立、越前の河野、敦賀など、富山、石川、福井、沿洋諸港の人たちが多く、彼等は、日本海を舞台に、活躍しました。」「絵馬」。近づいて。「絵馬北前船主や船頭たちは、航海の、安全を願って、各地の神社に絵馬を奉納しました.この絵馬もそのひとつです。」「船だんす」。船だんす(懸硯)「船だんす北前船などの船が航海上必要書類や貴重品などを入れて使用し船が難波してもこわれずまた他の人に盗まれないように仕掛けをしたりして作られています。たんすには.懸硯(かけすずり)、半櫃(はんがい).帳箱(ちょうばこ)の3種類があリます。」「国指定 重要無形民族文化財 松前神楽」と「郷土芸能」の写真展示。「手杵(てきね)江良ハ幡神社杵振舞保存会所蔵江良杵振舞(えらきねふりまい)は、松前神楽の四箇散米舞(しかさごまい)の楽曲にあわせて、「ヤレヤレ ソラヤレ」の掛け声とともに、手杵を回します。手杵は白木木目の磨出しの杵で、両端に房を付けます。」6「しいたげられたアイヌ民族ひらけゆ<蝦夷地、にぎわう松前城下、その裏には、アイヌ民族の怒りと悲しみがありました。おしよせる圧迫の中でも彼らは、いのちをかけて民族的誇りを守りつづけていきました。」「体制に組みこまれたアイヌ(藩主謁見の図)原本・市立函館図書館蔵松前藩の誕生は、アイヌ民族への新しい差別と収奪のはじまりを意味し、アイヌの酋長は藩主へ貢物を差し出し、謁見を強要されました。」アイヌ民族の歴史の紹介。「アイヌ人口の減少蝦夷地の開発がすすむにつれ、アイヌの人口は著しく減少してゆきました。中でも、道南地方をはじめ鯡(にしん)や鮭漁が発達した西海岸及び根室、国後地方が最もはなはだしく、鮭漁場で有名な小樽、歌棄、磯谷、寿都などは、明治初年頃には、全滅ないしはわずか数人という状態になっていました。「アイヌ人の人口推移(北海道、千島、樺太)文政5(1822)年 24,339人安政元(1854)年 18,805人明治6(1873)年 18,644人」「高利をもたらしたアイヌ交易」。「アイヌ民族のたたかい封建制社会のなかにおかれたアイヌ民族はたえきれない抑圧に、いのちをかけてたたかいました。そのうち最も大きなたたかいは、康正2(1456)年~長禄元(1457)年の道南地方を舞台にしたコシャマインのたたかい、寛文9(1669)年日高から石狩までの広い範囲のアイヌ民族がたちあがったシヤクシヤインのたたかい、さらに寛政元(1789)年、クナシリ、根室地方を舞台にした、たたかいです。」「アイヌ民族の宝物」「耳だらい」と「脚付行器」「つのだらい」「大だらい」「アイヌ民族の宝物鎌倉時代以降和人との交易が盛んになるにつれて、本州からは漆器をはじめとする物品が流入しました。なかでも漆器はアイヌ民族のカムイノミといわれる重要な飲酒儀礼には欠かせずこれがなくては成立させることができないといわれています。」「私の大事な恋人がどこか遠いところにやられたあなたは今どこにいるのか風よ 憎い風よお前は自由な風だからお前だけは私の恋人のまわりをまわりさわっても歩けるだろうが私は人間だから行くことができないのだヤイサマネナ仕方ない風にでも鳥にでもなって とんで行ったら恋人にさわれるだろうかちょっとでも姿を見れないだろうかヤイサマネナ」7.「北方に目をむける幕府江戸時代の終わりころになると、幕府は、産物の豊かな蝦夷地に、特別な関心をよせました。ロシアが、蝦夷地周辺に南下したのを機会に、松前氏から領地をとりあげ、蝦夷地を直轄してしまいました。」「正確になった北海道の地図松前藩は、現在の北海道、千島及び樺太南部の広大な土地を領地とし、面積では日本最大の藩でしたが、その大部分がアイヌ民族の居住地であったために、藩領の地図も江戸中期頃までは、不正確なものでした。ところが、18世紀末に入って、幕府が北方への関心を示し、蝦夷地の調査を行なうようになってから、次第に正確な地図がつくられるようになりました。」左:元禄御国絵図(写) 元禄13年松前藩が幕府に提出した地図。中:蝦夷興地全図(写) 天明5年山口鉄五郎 外幕府の調査隊が作成したもの。右:蝦夷国測量図(写) 寛政―文化年間、伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの「元禄御国絵図(写)元禄13年松前藩が幕府に提出した地図」「蝦夷興地全図(写) 天明5年山口鉄五郎 外幕府の調査隊が作成したもの。」「蝦夷国測量図(写) 寛政―文化年間、伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの」「本州に移封された松前氏寛政11 (1799)年、幕府は松前から東鰕夷地をとりあげて、仮直轄し、さらに享和3(1803 )年には、永久直轄しました。その後、文化4 ( 1807 )年には松前氏を福島県の梁川に移封し、全蝦夷地を直轄してしまいました。これより、以後14年間、松前氏は、梁川藩9,000石の領主になり"松前藩"は消えてしまいます。」「蝦夷輿地全図(写)天明5年山口鉄五郎外幕府の調査隊が作成したもの。」「蝦夷国測量図(写)寛政~文化年間、伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの。」8 「おしよせる時代の波長い間、鎖国を続けてきた日本の社会は、黒船の来航をきっかけに大きくれ動き北辺の松前荿もこの、激動のうずの中に巻き込まれていきました。」「福山館と福山城安政元(1854)年の新城完成までの福山城は、正式には館または陣屋と称されました。嘉永2(1849)年、松前氏は城主となったためこの時から正式に福山城となりました。」「福山城の築城幕末になって諸外国船の津軽海峡往来がはげしくなると、幕府は、北方警備のため嘉永2(1849)年、松前崇広に築城を命じました。安政元(1854)年に落成したこの城は、日本最後の旧式の城です。」「松前城下眺望の図」。「3万石の大名安政2(1855)年、箱館を含む大部分の領地が、幕府の直轄となり、代わって、東北地方に、領地をもらったため、この時から松前氏は、3万石の大名になりました。」左の領地:文政5(1822)年 ~ 安政元(1854)年右の領地:安政2(1855)年 ~ 明治4(1871)年「薙刀 銘 堀井正次」「北海道指定 有形文化財薙刀 銘 堀井正次」。「箱館戦争松前は、明治元年11月、榎本武揚の率いる旧幕府軍の攻撃受け、館城も落城し、藩主以下津軽へのがれました。翌年、官軍によって松前は、奪還されましたが2度にわたる兵火のために城下の大半が焼失してしまいました。城下の人々lことって、戦争は物心両面こ大きな傷あとを残しました。」箱館戦争時の松前藩家臣が着用したもの。「町内出土の砲弾・弾丸」「町内出土の砲弾・弾丸明治元年及ぴ2年の箱館戦争は松前でも激戦が繰り広げられ、城下に大きな被害をもたらした。現在でも町内の各所から、当時の砲弾や弾丸が発見されることは珍しくない。旧式の火縄銃の弾丸や最新式のスペンサー騎銃の弾丸、和式の大筒の砲弾や洋式の爆裂弾など種類も豊富である。当時、世界的に武器の進歩は著しく、アメリカの南北戦争が終結した後でもあって、ヨーロッパの武器商人たちは競って日本へ武器の売り込みを図ったのである。各種の弾丸・砲弾が見られるのは、こうした背景があることを示している。」「箱館戦争口書戦闘の様子を松前藩士松崎多門が記したもの。」「錦切(きんぎれ)官軍側の兵士が目印のため肩につけたもの」江戸時代に京都から輿入れした人の化粧道具とのこと。「福山城下町遺跡 出土 近世陶磁器」近づいて。「福山城下町は、海岸段丘に築かれた福山城(松前城)を中心に展開しています。船舶の接岸に便利な海岸沿いには商人の店舗や土産が立ち並び、城の東西にある段丘上には武家屋敷が作られました。そして、火災や水害のたびに盛り土を行い、その上に新たな建物が建設され、今に至っています。近年では、道路拡幅工事や建築工事に伴い、「福山城下町遺跡」の発握調査か行われるようになりました。ここに展示した陶磁器は、福山城下町が持つ豊かな経済力の一端を示すものです。」「現在の松前国道が敷設され、護岸工事が行われたことで、往時の海岸線をしのばせるのは、松前川河口付近のみとなりました。」「平成29年 認定 日本遺産荒波を超えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.26
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「白神岬展望広場」を後にし、更に国道228号を海沿いに進む。洋上に見えるのは「渡島小島(おしまこじま)」であろうか?北海道松前郡松前町に属する無人島。松前小島(まつまえこじま)とも呼ばれていると。「櫃(ひつ)の下橋」手前から松前線の櫃ノ下川橋梁の橋脚を右手に見る。松前線は木古内駅 - 松前駅間 50.8 kmが国道228号線に沿って結んでいたが1988年(昭和63年)2月1日に全線廃止となったのだ。「渡島小島」を再び。そして松前町に着き、最初に「郷土資料館」を訪ねた。「松前町町民憲章」碑。私たちは、天守閣のそびえる北海道の古都、松前町の町民です。新生松前町発足20周年にあたり、先人の業績をたたえるとともに、町永遠の発展と町民のしあわせをねがい、みんなが力を合わせてその実現をはかるため、私たちの生活のめあてとしてこの憲章を定めます。一、 力を合わせて産業をおこし、豊かな町にしましよう。一、 自然を愛し、美しい町にしましよう。一、 若い力を育て、明るい町にしましよう。一、 先人の遺産をだいじにし、文化のかおり高い町にしましよう。一、 互いに仲よく助け合い、平和な町にしましよう。1F入口にはアルコール消毒薬とマスクポストが置かれていた。2Fロビーの壁には「北前船渡航図」。北前船とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称。 買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。「松前屏風(まつまえびょうぶ)」は北海道指定有形文化財であるが、これは複製と。「松前屏風」は、高さ1.57メートル、横3.648メートルの6曲半双屏風で、松前に生まれた画家龍園斎小玉貞良によって描かれました。宝暦年間(1754~1764)の松前城下の秋を、福山を中心に白神岬から根部田(現在の字館浜)に至る城下町の全景が描かれ、福山館、寺院、商家、港湾、船舶と交易の状況や往時の風俗にいたるまで克明に表現されています。この屏風は、小樽内の場所請負人であった近江八幡の恵比寿屋岡田弥三右衛門が松前での出店の繁盛状況を後世に伝えるため描かせたものと考えられます。滋賀県近江八幡市の同家から、明治39年(1906)に同市在住者に譲渡されていたものを、昭和51年(1976)に松前町が購入しました。」とネット情報。2Fに「郷土資料館」の入場口があった。入場料は無料。先史時代からの松前の歴史、暮らしに関する資料を展示。町内各地で発掘された縄文土器等も紹介していたのであった。まずは名前を記帳して。松前町内の遺跡から出土した土器や、町内に伝わる民俗資料、箱館戦争に関する資料などが展示されていた。まずは「北海道の成立約50億年におよぶ地球の歴史のなかで日本列島はしだいに骨格ができあがってきました。何度かの氷河期を経て、日本列島は大陸から分かれて、津軽海峡・宗谷海峡などができ、北海道は島になりました。」日本列島の変遷が絵図で。下にはそれぞれの年代の化石が展示されていた。①津軽海峡、松前が大陸と陸続きだったころ(3600~2500万年前)②海峡の一部が形成されたころ(600~300万年前)③津軽海峡が形成されたころ(15~1万年前)熊の親子の姿が。近づいて。2.大むかしの松前松前地方に人々が住みはじめたのは、今から約7000年位前と考えられています。このころは、海や川で漁をし、山や野で狩をする生活でした。こうした生活は、本州文化の影響をしだいに強く受けなガら、鎌倉時代ころまでつづきました。「大津のむら(想像図)」大津遺跡(松前町・江良)は、縄文時代後期(約4000年前)の遺跡です。豊かな海と山の幸に恵まれた自然の中で数軒がまとまって村をつくり、人々は、共同で生活していました。発見された土器などなら、青森県や秋田県と深いつながりのあったことガわなります。「大津のむら(想像図)」子を抱く母親の姿も。「縄文から続縄文へ数千年間つづいた縄文時代は、さらにいくつかの時期に分けられ、地域によって、多様な文化を生み出していきました。やがて本州では、米作を土台にした弥生文化へとうつっていきましたが、北海道では、米がつくれなかったため、依然として、狩猟生活をつづけていました。このころの文化を続縄文文化と呼びます。」「縄文土器」。「竪穴住居」。「竪穴住居(想像図)縄文時代の人々は竪穴住居と呼ばれる家に住んでいました。地面を50 ~ 60cm堀り床をたいらにし、木で柱を立て簡単な屋根をかけたものです。想像によれば、夏は涼しく、冬は暖かいのが長所で、湿気の多いのが欠点ではなかったかと思われます。「縄文をつくろう」縄文式土器の名前は、土器の表面に刻まれた縄目の文様から付けられています。文様の種類によって、時代や地域を解く手がかりになります。細いひもをより合わせて、押し付けたりころがしたりして・・・・・。さあ君も、文様をつくってみよう。様々な文様作りのTRYコーナー。「擦文文化とアイヌ民族続縄文文化のあと北海道の文化は、擦文文化へと移っていきました。この文化は、鉄器を用いるなど本州の新しい文化の影を強く受けた文化です。この人々は、アイヌ民族の祖先とも考えられていますが、まだ明確な答はでていません。」「擦文土器」「沖口役所」絵図。松前藩は松前・江差・函館に沖口役所を置き、出入りを取り締まったのだ。上陸したばかりの人たちがきびしい取調べを受けているところであると。「沖の口役所松前藩は、松前・江差・箱館の3港に沖の口役所を置いて、出入りの商品や船・人馬をきびしくとりしまりました。この絵は、松前沖の口役所で、上陸したばかりの人たちがきびしい取調べを受けているところです。」「沖口役所の標柱 沖口役所とは、現在の税関のような機能を備えた役所であり、松前、江差、箱館の三港におかれた。この標柱は松前藩の復領後建てられ、地下から偶然発見されたものである。銘 文政癸未歳次建立(文政六年(1823)建立」「金山の開発と鷹商品の少なかった江戸時代の初期には、砂金と鷹が藩の有力な財源となり、藩は金山と鷹場の開発に多くの力を注ぎました。千軒岳には、今もなお砂金掘りの跡が残っています。」砂金の採れる川と道具の紹介。大、小粒の砂金。「藩制を支えた近江商人米のとれない松前藩にとって、交易が藩を支える重要な柱になりました、江戸初期、本州との交易で大きな役割を果たしたのが近江商人たちでした。そのため、藩では藩主への謁見を許し、また関税を安くするなどの特権を与えました。」「近江商人の出身地江戸時代に活躍した近江商人は、全国的には八幡・五個荘・日野の出身者が非常に多かったのですが、松前で活躍した近江商人の大部分は、近江八幡及び薩摩と柳川の出身者でした。」「近江商人の交易ルート松前交易で活躍した近江商人は、主に福井県敦賀・小浜の海産問屋と取引をしていたため、松前産物の多くは、両地へ集められ、琵琶湖経由で京都・大坂などの市場へ送られました。」「駕籠この駕籠は華遊山龍雲院から寄贈を受けたもので、僧侶が身分の高い侍の使用したもので4人で担ぎました。」「甲冑・二枚胴具足」。「江戸時代 初期 甲冑 折紙」。「鬼瓦」。町奉行所で使用されたもの。4「松前氏の独立日本最北の豪族蠣崎氏は、第5世慶広の時秀吉の天下統一事業が進むにつれ、にわかに中央接近策をとり、朝鮮戦争さなかの文禄2(1592 )年、秀吉より蝦夷地交易の独占権を認められました。ついで、慶長9(1604 )年、家康より同趣旨の制書をもらい、ここに松前氏が誕生しました。(慶長4年、氏を前と改める)」。「無名の大名松前氏は、領内で米がとれなかったため、石高のない"無高の大名。として存在し、当初は幕府より"蝦夷島主”というあつかいをうけ、江戸時代中期以降は、1万石格になりました。」「微塵塗大小拵え」「体制に組みこまれたアイヌ」「体制に組みこまれたアイヌ(藩主謁見の図)原本・市立函館図書館所蔵松前藩の誕生は、アイヌ民族への新しい差別と収奪のはじまりを意味し、アイヌの酋長は着主へ貢物を差し出し、謁見を強要されました。」「五世 慶広侯 木像 (松前家初代藩主) 阿吽寺所蔵」.「定」。慶長9(1604)年に松前(蠣崎)慶広が徳川家康から発給された制書。「制書のよみ方 定一、諸国より松前へ出入りの者ども、志摩守へ相断ずして 直に商買つかまつり候儀、曲事たるべきこと一、志摩守に断なくして渡海させ、売買つかまつり候は、きっと 言上いたすべきこと 附、夷の儀は、何方へ住行候とも、夷次第いたすべきこと一、夷仁に対し、非分申しかけは、かたく停止のこと右条々、もし違背の輩に於ては、厳科に処すべき者也よってくだんのごとし慶長九年正月ニ十七日 黒印 松前志摩守どのヘこの制書によって、松前氏は名実ともに蝦夷島の支配者になりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.25
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「福島町 青函トンネル記念館」を後にして、さらに松前半島を南下すると「横綱千代の山・千代の富士記念館」が右手に。この場所は、「2013年にも訪ねており」👈リンク、館内にも入り見学したので2回めの訪問なのであった。手前の「道の駅 横綱の里 ふくしま」。交差点角にあった案内表示。前のコンビニの駐車場に車を駐め、水分補強用にお茶を購入。正面に「横綱千代の山・千代の富士記念館」。第41代横綱・千代の山、第58代横綱・千代の富士の生誕の地。師弟関係にもあった二大横綱の歩みと大相撲の文化を知ることが出来るのだ。館内には横綱の綱や優勝トロフィー、千代の富士が断髪した際の大銀杏、国民栄誉賞状など、たくさんの展示物がある。その他にも九重部屋の稽古場と土俵が再現されており、同部屋の合宿も開催されると。第41代横綱千代の山、第58代千代の富士が向かい合って横綱土俵入りを。第41代横綱千代の山。第58代千代の富士。2016年7月31日に61歳の若さで亡くなったのであった。「横綱の里 ふくしま」。巨大な軍配には千代の山、千代の富士の文字が。高さ約16mの櫓太鼓。江戸時代は報道機関がないため、太鼓をたたき相撲興行を市中に知らせた。また、力士の場所入りの時間を報知するため、早朝から一番太鼓・二番太鼓と階級別に知らせたが、いまは客をよぶ「寄せ太鼓」、その日の興行が終わった「はね太鼓」など、違った太鼓の打ち方をするのだ。そして次に国道228号沿いにあった「伊能忠敬北海道測量開始記念公園」を訪ねた。「大日本沿海輿地全図」を作成した際、蝦夷地測量は福島町吉岡から始まったとする記録が残っており、その功績を後世に伝えるため伊能忠敬没後200年の節目であった2018年に記念公園を建設したと。公園内には銅像や功績を記す説明板などがあった。測量器具を使い測量する姿の「伊能忠敬像」。測量器具は上下角と、羅針盤により方位角が測定できる「中方儀」。中方儀としては初期の型式。望遠鏡のような照準器の中にはレンズは無く、針が筒の中心に突き出ている。青森県三厩から函館を目指していた伊能忠敬、どうやら風の影響で流されてここ福島町へ辿り着いてしまったのではと下記に。この地から蝦夷地測量が始まり北海道地図が生れたのかと思うと、不思議と熱き思いが。「伊能忠敏の北海道測量開始地点は福島町吉岡五十五歳の伊能忠敬は寛政十ニ年(一八〇〇)閏四月十九日(新暦六月十一日)江戸深川の富岡八幡宮に参詣後、師匠の幕府天文方高橋至時に挨拶し、蝦夷地といわれた北海道に向かって測量の旅に出発した。年内に測量を終わり、地図を作成提出する計画だったので、大急ぎで奥州街道を北上し五月十日に津軽の三厩(みんまや、青森県外ケ浜町)に到着する。津軽藩の役船で函館に渡ろうとしたが、風が悪く八泊も風待ちし、五月十九日漸く出航。しかし途中で風が変わり、やむなく福島町吉岡に着船。一泊して風を待ったが変わらなかった。幕府折衝に手間取った為であるが、北海道まで往復して地図を作るのに、新暦六月十一日の出発では大変遅すぎた。時間が限られていたので、決断して吉岡から函館に向かって測量をはじめる。一日一日が非常に貴重だったから、測量しながら歩いたに違いない。吉岡は伊能測量隊の北海道測量開始地点となった。函館でも諸手続きのため七泊しているが、函館山に登って本州の目標との方位を計ることができた。六月一日北斗市市ノ渡に先輩村上島之丞を訪問、従者だった間宮林蔵に出会い御縁が結ばれた。北海道東南岸を厚岸の近くまで歩測し、さらに別海で天測したあと引き返す。福島で天測し、吉岡を経て、松前まで測って役船で三厩に戻る。江戸帰着後は内妻お栄も動員してデータ整理と地図の製作にあたった。堤出は十ニ月ニ十一日、年内ぎりぎりだった。(注)五月十九日「松前領吉岡という所へ昼九ッ後に着。暫時見合候ても同風に付吉岡に泊」(国宝・伊能忠敬測量日記より)」反対側から。伊能忠敬も眺めたであろう福島町吉岡からの海の眺め。先端は「矢越岬」であろう。先端の高台に白きものが見えるが、これが矢越岬灯台であろう。「光る海」津軽海峡。白神岬トンネルの手前。ここは岩がせり出しているところなので、覆道ではなく、トンネルになっているのか。赤石覆道。そして「白神岬」。「海底下の 列車のひびき 聞こえ来て 白神岬は さざ波の列 清一」と。あなたは今北海道最南端(北緯:41度 東経:140度)に立っております。この場所の下近くには、青函トンネルがあり、北海道新幹線が走っているのである。石碑の裏面には「作者村上清一は白神生まれ教師として二十年白神小学校大沢中学校に努め歌集(岬みち)等を残してふるさとを深く愛しました」と。実際には、青函トンネルは先程の「伊能忠敬北海道測量開始記念公園」近くの下を通っているのであったが。「北海道最南端 北緯41度23分 東経140度12分」碑。松前町にある「北海道最南端」の岬で、本州最北端の大間崎(下北半島)から15kmほど南に位置。対岸の津軽半島最北端の竜飛崎からは19.2kmで、晴れていたので本州を眺望出来るのであった。走って来た道を振り返る。本州・津軽半島の姿がはっきりと。ここ白神岬から、青森県津軽半島最北端・龍飛崎の距離は、津軽海峡を挟み19.2km。本州と北海道の距離としては屈指の近さなのであった。津軽半島・「小泊岬」と大きな貨物船の姿が。砂浜2m上から見えている水平線までの距離は約5km(地球は丸いので)であることから、この貨物船はここ北海道側から7~8kmより手前の「公海」ルートを航行しているのであった。(この場所を水面より4m高さと仮定)「小泊岬」をズームで。大きな船?をズームしたが・・・。そして白神岬覆道を出ると前方に紅白の「白神岬灯台(しらかみみさきとうだい)」の姿が現れた。実際にはこの先、「白神岬灯台」の下が「北海道最南端」の地であるようだが・・・。離島を含めた実際の北海道最南端は渡島小島(松前小島)であると。「白神岬灯台」は、北海道松前郡松前町の白神岬に建つ、北海道最南端の灯台。「白神岬燈台」銘板。1888年(明治21年)9月15日 - 初点灯。 1951年(昭和26年)6月1日 - コンクリート造に改築。白神岬灯台裏の山の上にあり、レーダー等を用いて津軽海峡を通航する艦船の警戒、監視等を行っていると。また、津軽海峡に海底ケーブルを敷設し、音響観測による監視も行っていると。すなわち潜水艦の監視であろう。「昭和52年に制定された「領海法」により領海は基線からその外側12海里(≒22km)までとされたが、 国際航行に使用されるいわゆる国際海峡である 宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡西・東水道、大隅海峡 の5海峡は特定海域として、同海域に係る領海は基線からその外側3海里(≒5.6km)の線及びこれと接続して引かれる線までの海域とされたのだ。平成8年に制定された「領海及び接続水域に関する法律」により直線基線が採用されたことによって、 特定海域内の領海の限界線は若干の修正が加えられた。仮に、この5海峡の領海幅を3海里から12海里のままにしてしまうと、5海峡は完全に日本の領海になる。一方、国際法(海洋法条約38条2)では国際海峡における外国の船舶及び航空機の通過通航権が認められている(それは核兵器を搭載した外国の軍艦あるいは軍用機であっても同じである)。とすると、核兵器を搭載した外国の軍艦が当該海峡を通過する場合、日本は国際法上、軍艦の通過は拒否できず、結果として領海内に核兵器が持ち込まれたこととなり、非核三原則の「持ち込ませず」の原則を堅持できなくなるのであるそこで、海峡上に領海に含まれない海域を残し、核兵器を搭載した軍艦をこの海域上を通航させることによって、こういった事態に対処しようとしたのである」とネットから。以下の図は、特定海域での領海の限界線を表示したもの。 【http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=1221】より津軽海峡の詳細図。濃青色は内水を、青色は領海を表している。よって水色の部分は公海部分となっていて、核兵器を搭載した外国の軍艦を含め原子力潜水艦等も自由に通過することができるのだ。 【https://www1.kaiho.mlit.go.jp/JODC/ryokai/tokutei/tokutei.html】よりそして「陣屋覆道」を通過し「白神岬展望広場」にも立ち寄る。反対側から。「白神岬展望広場」蒼き「津軽海峡」。「松前燈台」方面を見る。「渡島小島(おしまこじま)」をズームで。「渡島小島」は、北海道松前郡松前町に属する無人島。松前小島(まつまえこじま)とも呼ばれる。松前町の沖約23km付近に位置している。面積は1.54km2。小島の名は渡島大島に対してのもの。島の南端は北緯41度20分58秒であり、離島も含めた広義の北海道最南端である。住所は全域に亘って松前郡松前町小島であると。「伊藤整 生誕の地」碑が立っていた。「「伊藤整 生誕の地」伊藤整(いとうせい、1905年~ 1969年 64才没)本名は伊藤整(いとうひとし)1905年(明治38年)、北海道松前郡炭焼沢村に生まれ、その後塩谷村(現小樽市)に移住し、北海道庁立小樽中学校(現潮陵高校)を経て、小樽高等商業高校(現小樽商科大学)を卒業し、小樽市中学校(現長橋中学校)の英語教師に就任。2年後に教師を退職して上京。詩人として出発するが、小説家・評論家に転じる。ジェイムス・ジョイスの「ユリシース」、D. H.ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳紹介。小説「鳴海仙吉」「火の鳥」「若い詩人の肖像」「氾濫」「変容」など評論「小説の方法」「日本文壇史」など。1967年、日本芸術院賞を受賞、翌年、日本芸術院会員に選定される。生誕地の炭焼沢村とは、現在の松前町字白神であり、生まれた場所からは難れていますか、白神地区としてこの地に生誕の碑を設置しました。」「伊藤整」の作品を読んだ記憶がないのであるが・・・。再び「津軽半島」を見る。巨大な貨物船が津軽海峡を進む。松前港方面を見る。先端に見えるのが「弁天島」であり「松前灯台」がある。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.24
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「重内神社」を後にして、国道228号で知内町を走る。立ち寄ったのが「道の駅 しりうち」のつもりであったがここは手前の「あすなろパン工房 しりうち店」なのであった。隣りにあるのが「道の駅 しりうち」であることに気が付き、徒歩で移動する。「道の駅 しりうち」案内板。北海道上磯郡知内村(現:知内町)出身の北島三郎をデフォルメした絵が迎えてくれたのであった。「湯の里4遺跡」。「湯の里遺跡群は、知内川沿いの台地上に位置し、縄文前期から晩期の各時代にかけて分布する6つの遺跡です。この中でも、立石遺構の湯の里1遺跡、二重のストーン・サークルをもつ湯の里5遺跡、漆塗り製品の湯の里3遺跡は、いずれも縄文後期の祭祀に関係した特徴的な遺跡となっています。湯の里4遺跡は昭和58年の調査発掘され、旧石器時代の墓と考えられる日本最古の土壙が発見され、コハクや石製の小玉・垂飾・石刃・石刃核・細石刃など14点が出土し、平成3年に国の重要文化財に指定されました。」と。「悠久の眠りからさめて1983年10月発掘調査がおこなわれていたこの台地で、琥珀とカンラン岩で作られた垂飾2点・小玉3点の装身具と石刃核・細石刃などの石器9点をともなった旧石器時代(約2万年前)の墓が、国内で最初に発見された。装身具や石器などの副葬品は、当時の人々の生活や文化を知るための貴重な資料であり、わが国の墓制の起源を縄文時代から旧石器時代にさかのぼらせるなど、学術的にもきわめて価値が高いことから、1991年6月国の重要文化財に指定された。また、自然石を外環径が約6m、内環径が約2.5mの二重環状にめぐらした、道内ではまれな形態である縄文時代後期のストーンサークルも発見されている。このモニュメントは、過去から現在までの時の流れをモチーフとして、中央の石柱が知内の大地に最初に根をおろした人々と時空を、円形に敷きつめられた石がストーンサークルをあらわしている。」「知内町へようこそ!湯の里地区案内マップ」。①新幹線展望塔②親水公園③農村公園青函トンネル出入口(湯ノ里トンネル)等が記載されていた。そしてこちらが「道の駅 しりうち」なのであった。「道の駅 しりうち」の奥にあった新幹線展望塔を訪ねた。「新幹線展望塔スタンプ」用紙にスタンプをGET。ズームして。エレベーターに乗り展望台へ。新幹線展望塔では、全国的にもめずらしい、貨物列車が退避する横を新幹線が走行する瞬間を見ることができる場所であると。木古内駅方面を見る。これがその時の写真のようだ。 【https://www.travel.co.jp/guide/article/33644/】よりこちらが青函トンネル方面。全国的にも珍しい貨物列車と新幹線が共用する線路構造「三線軌条」も確認することができたのであった。知内駅は北海道新幹線の開通に伴い廃止されたが,旧駅の施設から北海道新幹線を間近に見ることが出来たのであった。中央左に「大千軒岳」がはっきりと見えた。「北海道にあって、暗澹とした歴史を持つ山の一つに道南の大千軒岳がある。言わずと知れたキリシタン殉教の地で、寛永16年(1639年)当時の幕府の圧力に屈した松前藩によって、106人ものキリシタンがこの尻内川コースの番所跡地付近で斬首されている」のだと。「エレベーター 降りたらまっすぐ 物産展 知内町」。指示に従い、物産展へ。買いたいものがたくさんあったがグッと我慢。歌手「島あきの」のポスター。北海道長万部出身の父と同じ北海道知内(北島三郎の故郷)出身の母の次女として生まれる。北島三郎の弟子であるようだ。そして昔訪ねてそばを楽しんだ事がある「千軒そば」にも立ち寄った。「海峡と横綱の里 福島町」の「歴史探訪 殿様街道」案内板。営業日は週4日、火、木、土、日曜日であり、この日は残念ながら月曜日で休みであった。「第二十八回 北海道 女だけの相撲大会」ポスター。これは昨年2019年のポスターであるが、今年の第29回北海道「女だけの相撲大会」はコロナの影響で中止となった模様。「旧福島町立千軒小・中学校」の校門。左には中学校、右には小学校と書かれていた。そして更に国道228号を南下する。そして左側にあった「町立 青函トンネル記念館」に立ち寄った。世紀の大工事と言われ、トンネル技術を結集して完成させた世界最大の海底トンネル「青函トンネル」。工事中に実際に使用していた設備重機や工事記録、技術情報などが展示されていると。その他、青函トンネルの全容や工事の様子などを映像で見ることが出来るとのこと。「北海道立 青函トンネル記念館」石碑。北海道大学水産学部が所有していた有人小型潜水調査船「くろしおⅡ号」が展示されていた。1960年には耐圧殻を転用して大改造を行い自航式の「くろしお2号」として竣工、母線からの給電ケーブルを200mから600mに延長、安定した岩石サンプルの採取が可能なボーリング機を搭載し、348回の潜水調査を実施。予算不足や船舶安全法の規制強化に伴い1971年に引退し1979年に北海道立青函トンネル記念館に引き取られたのだと。「青函トンネルの海底地質調査では、海底のようすをじかに観察する豆潜水艇が活躍しました。1960 (昭和35 )年に導入された「くろしおⅡ号」は、200の深さまで潜ることができました。また海底の岩石を採取したり備え付けのポーリング機械で岩石の試料を採取することもできたので、貴重な調査データが数多く得られました。」時間の関係で外部だけを散策。2015年末においては、世界最長の海底トンネルである青函トンネル建設の工事記録や土木技術が収められた建設技術集積施設で、設備重機などトンネル文化を体験できる。円筒を2つ並べた外観は、地上に姿を現した海底トンネルという物語的デザインをとっている。しかし、2016年にスイスに青函トンネル(53.9km)を抜いて世界最長となった全長57kmの鉄道トンネル「ゴッタルドベーストンネル」が開通したのであった。外に展示されている機械を見て廻る。「内部」👈リンク はリンクを参照願います。「試すい機用送水ポンプ」。「試すい機用送水ポンプトンネル工事では、堀り進む前に孔をあけて前方の岩石を取り、地質を調査する試すいを行います。このポンプは、試すいで掘っていく孔の先端へ水を送り、切り用られ岩石(切り粉)を孔の外へ流し出す役目をします。」「緊急用排水ポンプ台車」。「緊急用排水ポンプ台車昭和51年5月、北海道物吉岡作業坑で発生した異常出水により、固定ポンプが完全に水没して使用できなかったため、緊急に導入されました。排水に大きな力を発揮してトンネル水没をまぬがれ、青函トンネル工事史上最大の危機を乗りこえることができました。」「アジテーターカー」。「アジテーターカー混合したコンリートを運搬する車です。コンクリートを使用する場所に着くと、ドラムを回転させ、混合しながら生コンクリートを供給します。陸上で使われているミキサー車と同じ役目をします。」「試すい機」。「トンネルを掘り進める前に前方の地質を調べる試すいという作業を行う機械である。先端にダイヤモンドまたは硬い鋼がついた鉄管を回転させながら、が引責の中を切り込み、鉄管の中にコアを掘りだして地質を調査するという。この機械で700~800m掘ることができる。」イルミネーション設備であろうか?「排水ポンプ」。「排水ポンプトンネル内の湧水を地下300mのためますに集めた後、一気に地上まで排出するポンプです。トンネル内には常にわずかな湧水があるため、この排水ポンプはトンネル機能を第持するための重要な設備のひとつです。」「ふくしま歴史名所双六」。「軸流送風機」。「軸流送風機トンネル工事中、トンネルの中の温度、湿度がともに高く、作業のために空気が汚れます。常時海底現場に新鮮な空気を大量に道り、仕事がしやすい環境を保つため、この送風機を補助として使用し、斜坑口から採り入れた新鮮な空気を切羽(トンネル・・・「青函トンネル」をイメージした展示室を外から見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.23
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「鶴岡農村公園」から徒歩にて、近くにあった「禅燈寺」に向かう。正面に見事な山門が。禅燈寺の仁王門は2階建て高さ9.5m、幅は10.6mあり2階は鐘つき堂。2010年に金剛像の修復をされたようで、道内有数の木仏像とされる。北海道上磯郡木古内町字鶴岡103 。2階の鐘つき堂の場所には、扁額「龍雲山」。山門の仁王門は1917(大正7)年に完成。1993年の北海道南西沖地震の影響で仁王門の壁がひび割れるなどしていたのだと。2体の金剛像は高さ2.4m。右手の阿形像・那羅延金剛。左手の吽形像・密迹金剛。「禅燈寺と仁王門明治18(1885)年から19年にかけて山形鶴岡藩士105戸が北門の警備と蝦夷地開拓の大使命を帯び入植したが、故郷山形善寶寺に懇請し、三世岱静和和尚が北海道・千島・樺太などの漁場を巡鍚して明治35(1902)本堂を建立した。文安3(1446)龍神様を祀られているお寺として建立され北海道・東北6県をはじめ、関東・関西方面に多くの信者を有する山形県龍澤山善寶寺39番目の末寺。大正7(1918)年に仁王門を建立。仏法守護のため寺門の左に密迹金剛と右に立つ那羅延金剛は、明治から大正年間に函館市に在住した仏師、風間慶師の作。」と何とか解読したつもりだが。「山門」下から「本堂」を見る。右手にあった石碑・「開拓史判官 松本十郎之書」と案内板。「北海道開拓史判官 松本十郎天保10年( 1839 )山形県鶴岡市生まれ。文久3年( 1863 )父親に従って蝦夷地の庄内藩警備地区浜益・苫前等に勤務。慶応3年( 1867 )江戸市中取締の任に当たる。翌4年、戊辰戦争ては大隊の幕僚として活躍した。庄内藩降伏後、新政府首脳との接渉に当たり、明治2年(1869)黒田清隆の推挙により北海道開拓判官に任せられ、根室地区の責任者として、漁業振興や北方領主の警備などに尽力し、根室市の基礎を築いた。明治6年開拓大判官となり、北海道開発の責任者として財政の確立、農業の振興などに尽力し、北海道開拓に偉大な功績を残した。奥羽地方最初の勅任官になった人。」寺の境内をJR江差線の線路が通ることで、鉄道ファンなどに人気があったが、江差線は2014年に惜しまれながら廃線になり、山門と本堂の間を列車が通る風景を見ることはできなくなった。現在は、旧江差線の線路に道南トロッコ鉄道のトロッコ列車が走り、ひと味違う光景が見られるとのこと。踏切を渡り、山門を振り返る。「禅灯寺踏切」。境内参道の左手の石仏。白のマスクを付けて。左手に持っているのが「ワクチン」であると良いのだが・・・・。そして「禅燈寺」の「本堂」。禅燈寺は明治35年(1902年)に木古内村(現 木古内町)鶴岡地区に入植した山形鶴岡藩士の要請によって建立された曹洞宗の寺。扁額も「禅燈寺」。こちらは「寺務所」であろうか?五七桐紋(豊臣秀吉の家紋)と西山浄土宗の宗紋の竜胆車(りんどうぐるま)が重なり合っていたがその意味は?境内の大木は全て伐採されていた。銀杏の樹であったのだろうか?そして再び旧江差線の踏切を渡り「禅燈寺」からの帰路に。「おりづる 折鶴信号場」現在のトロッコ電車の駅前が記載されていた。「令和鶴岡」駅方面の線路。「鶴岡農村公園」の水場周りは見事な紅葉が。ドウダンツツジであっただろうか。そして木古内町 鶴岡多目的集会施設の「農村ふれあいセンター」。そして次に「北海道新幹線木古内ビュースポット展望台」に向かう。「北海道新幹線ビュースポット」に到着。屋根の緑、柵の紫は北海道新幹線カラーなのであった。階段上の展望台にはここから見える景色の案内が。無料の固定式双眼鏡が設置されていて、360度回転できるので分岐ポイントやトンネルを走り抜けていく列車の姿を見ることが出来たのだが・・・。また、運が良ければ並走する在来線を走る列車の姿も同時にと。「通過時刻表」を見たが、来るまでに時間があるため諦める。北海道新幹線から青函トンネル方向へ約3㎞の地点に高さ約4mの新幹線ビュースポット。山間を抜ける直線の線路を走る新幹線を見ることが出来るのであった。「青函トンネル」方面を見る。上下線でレールが3本ずつあり、新幹線と在来線の共用区間、もちろん、レール幅が在来線と新幹線で異なるため。「新函館北斗駅」方面を見る。手前に在来線と新幹線との分岐・合流点が設けられ信号場が建屋の下に。両側に在来線の線路が分岐・合流されていることを見ることが出来たのであった。そして次の訪問地に向けて国道228号を進むと、高台からの眺望が美しい場所・重内(おもない)神社があるとのことで、急遽右折し、道道698号線・重内さくら道路のひたすら一直線の道を進む。海沿いの国道228号から重内神社に至る真っ直ぐなこの道路には桜が植えられていた。春には桜色の真っ直ぐな道路が見れるのであろう。そして正面に重内神社、そして社殿の奥の階段、そして裏山の山頂に展望台が見えた。「道営圃場 完成の碑」、両脇には「耕心」、「拓魂」と刻まれた石碑が。「林雅雄理事長之碑」。「重内神社」の「鳥居」と「社殿」。「鳥居」を見上げる。「本殿」。扁額「重内神社」。「重内神社由緒古老の言によると、明治十八年福井県大野郡出身の林七郎兵衛他十数戸のものと重内に入植した折、自分達入植者の守り神として信仰の中心にしょうと、明治二十五年頃、祠を建てて祭ったのが始まりと聞くその後、本格的な部落の開拓が始まり、人家も漸次増加し重内部落を形成するに及んで不動明尊を部落の守り神とし、名稱も重内神社と改め、部落全体で祭り事をとり行うようになった。明治、大正、昭和そして平成と年代は移り変わり、昭和二十四年に、神社の境内、敷地神社山も当時の所有者知内農場より四町六反七畝の寄贈を受ける。これを機に宗教法人重内神社の登記も完了し、主祭神不動明神、雷公神社分祀、別雷神加茂御祖神宇迦魂神を合祀する。昭和五十一年神社の本社殿を神社山頂上に再建遷宮し、同五十三年に拝殿も再建、境内を氏子総出の奉仕により、記念の植樹、更に神社山一帯を神社公園化に向けて努力し頂上には展望台、遊歩道も設置し、今ここに名実共に神社としての姿を整えるに至ったものであります。」神社社殿の裏手には200段もの長い階段がまっすぐに伸びていた。200段の長い階段を登らずに、車で山頂まで一方通行で行けるのであった。そして車で上り、道路脇に車を駐め徒歩で進んでいくと鳥居と社殿が。この手前で車中泊をしながら星空を撮影する人物との暫しの一期一会の会話、そして翌日に訪ねる予定の「恵山」周辺のお勧めの場所を教えて頂いたのであった。山頂の「社殿」でお参り。昭和51年、神社の本社殿をここ神社山頂上に再建遷宮したもの。そして横に建っていたのが「重内神社展望台」。展望台からは走って来た道道698号線・重内さくら道路のひたすら一直線の道が見えた。「北海道電力(株)知内発電所(しりうちはつでんしょ)」が見えたのでズームで。知内発電所は、北海道上磯郡知内町元町にある北海道電力の石油火力発電所。1983年12月に1号機が運転を開始、2号機までが建設された。主に北海道道南への電力供給を行っていると。そして山頂の朱の鳥居から再び道道698号線・重内さくら道路を見る。200段の階段そしてその先に伸びる道道698号線・重内さくら道路。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.22
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「トラピスト修道院」を後にして、再び国道228号まで戻り南下する。この先で国道228号から道道5号線に入り「木古内駅」に向かう。正面にJR「木古内(きこない)駅」が姿を現す。木古内町の中心駅であり、北海道新幹線「はやぶさ」「はやて」合計13往復のうち、8往復16本が停車するのだと。駅前ロータリーに面した場所に「道の駅 みそぎの郷 きこない」が建っていた。北海道、北の大地の玄関口である木古内駅。「木古内(きこない)」の名はアイヌ語に由来し、干満の差が激しく、満潮時に潮が川を逆流する(感潮河川である)ことから名づけられた「リリオナイ(リロナイ)」(波・入れる・川:潮の差し入る川)からとされる。別説として、沢のあたりが自然に高く上がっていたことから名づけられた「リコナイ」(登る・沢)からとするものもあるとのこと。マスコット「キーコ」がお出迎え。キーコは木古内町特産の「はこだて和牛」をモチーフ。チャームポイントは、津軽海峡をイメージした「津軽ブルー」の目と、プリッとしたかわいいおしりに付いてる小さなしっぽであると。「みそぎの郷きこない」は、2016年1月にオープンした、木古内町(きこないちょう)の新しい道の駅。施設内には土産品・特産品を扱うショッピングコーナーが設置され、「世界の料理人1000人」に選ばれたシェフ・奥田政行氏が監修するレストラン「どうなんde's Okuda Spirits」が人気。施設の正式名称は「木古内町観光交流センター」であり、愛称の「みそぎの郷」とは1831年(天保2年)から続いている神事『木古内町寒中みそぎ祭り』に因んで名づけられ、複数の候補から選ばれた。 施設の内装・外装には町木「道南スギ」を使用しているとのこと。「道の駅満足度 ランキング2020」3年連続 北海道の総合1位 であると。そして「大鳥圭介 陸軍奉行」掲示塔。そして裏側には力作の説明文と絵画が。「馬上から指揮する大鳥圭介 此処が木古内口の戦場地跡1868日(明治元)年11月、松前を撤退した旧幕府軍は、同月木古内に人る。本営を木古内市街に置き、江差、松前方面からの新政府軍を迎え討つべく薬師山からふもと、海岸に及び数箇所の砲台や壕を築いた。1869 (明治2 )年4月、江差山道より進軍してきた新政府軍と対峙、大鳥圭介『南柯紀行』によれば「十一月なりしか、木古内ロへ敵兵回りし注進、知内辺守衛の彰義隊より申し来りしに依り、前頭兵隊を率いて五稜郭を出発し木古内に着せしに、彰義隊五十人程に伝習隊一小隊許り、既に在し」という状況であった。木古内ロの戦いでは再度陣地を奪還するなど大奮戦を見せたが、戦況悪化に伴い4月下旬、大鳥は諸隊の反対を押し切り、撤退を命じた。」「戊辰の役函館戦記 馬上で指揮する大鳥圭介」「1832 (天保3 )年、現在の兵庫県にうまれる。1867 (慶応3 )年、幕府の歩兵奉行となり伝習隊を結成する。翌年4月、旧募府軍が市川(千葉県)に集結すると総督となり各地を転戦する。木古内ロの戦いでは、薬師山の頂で白馬に跨り全軍を指たと伝えられている。」「星 恂太郎 1840~18761840 (天保11 )年、東照宮宮司の息子として生まれる。仙台薯士。江戸で洋式銃隊訓線を学び額兵隊を組する。戊辰戦争で仙台藩は降伏するが、星はそれを受け入れず額兵隊を率いて蝦夷逃れる。木古内ロの戦いでは単身で斬り込むという離れ業を決行し名を馳せた。」「歩兵頭 伊庭 八郎 1843~18691843 (天保1 4 )年、剣の名門心形刀流の伊庭家の長男として生まれる。臣。名は秀額。1868(慶応4)年、鳥羽・伏見の戦いに参戦、箱根の戦いて左腕を失い、片腕の美剣士として名を馳せる。錦絵や丹下左膳のモデルともいわれている。木古内での激戦中、胸部に深手の銃創を負い箱館病院に搬送されるも亡くなる。亡骸は五榎郭の一角に理葬されていると伝えられている。享年26歳。」「歩兵頭 本多 幸七郎 1845~不明1845 (弘化2 )年生まれ。幕府の士官として歩兵頭を務める。戉辰戦争では大蔦圭介の腹心人物といわれ、伝習隊を率いて南関東から箱館まで各地を転戦した。木古内ロの戦いにおいては、伝習歩兵隊を指揮して新政府軍を撃退している。」再びJR「木古内駅」を振り返る。そして「木古内駅」を後にして、道道5号線を利用して「道南トロッコ鉄道鶴岡公園駅(旧江差線渡島鶴岡駅跡)」を目指す。「道南トロッコ鉄道鶴岡公園駅(旧江差線渡島鶴岡駅跡)」に到着。「道南トロッコ鉄道」は廃線となったJR線の線路の一部を活用し、トロッコ乗車体験ができる施設。動力付きトロッコ1両と足こぎトロッコMax3両の編成で運行し、ゆっくりと景色が楽しめるのだと。「木古内町郷土資料館 周辺マップ」。「木古内町郷土資料館「いかりん館木古内町郷土資料館「いかりん館」は、平成23年3月に廃校となった鶴岡小学校の校舎を利用して平成27年3月に開設しました。館内は、縄文土器などを展示する「大むかしの木古内」、民俗資料を展示する「マチの歴史と発展」、農機具や漁具などを展示する「木古内の産業」、昔の家庭で使われていた日用道具などを展示する「人々の生活と文化」、JR松前線・江差線などの鉄道資料などを展示する「木古内と鉄道」の5つのカテゴリーに分けて、約2000点を展示しています。特に幕末から明治維新にかけて活躍した「咸臨丸」のものとされているイカリは、天井に届きそうなくらいの大きさと歴史の1ページが刻み込まれた本体にロマンを感じさせます。」「禅燈寺 Zentoji Temple禅燈寺は、姉妹都市である山形県鶴岡市にある善寳寺の末寺で、本堂の隣リでは龍神様を祀っています。お寺の創建は木古内開拓の歴史とつながリ、山形県の庄内藩士1 05戸が明治18年に入植したのに伴い、明治33年に建立されています。大正7年には山門を建立し、山門内に設置されている2体の仁王像(左に密迹金剛・右に那羅延金剛)は、函館市に在住した仏師、風間壮慶作です。また、平成26年5月1 1日のJR江差線(木古内~江差間)廃止までは境内の敷地内を線路が通っていた、全国的にも珍しい鉄道スポットとしても有名でした。廃止に伴い、列車は通過しなくなリましたが、レールは残されておリ、現在は、道南トロッコ鉄道が運行しています。」料金は大人:700円 子児:400円 とのこと。西側(松前方面)の線路。東側(木古内駅)方面の線路。「令和鶴岡(江差)方面時刻表。」トロッコは、行きは、スタッフが運転する「動力付きトロッコ」がアシストし、MAX3両編成で乗り場から山側の「キーコの郷」駅まで進みます。そして、帰りは、動力付きアシストの「急行便」1両と、乗り手自身で自転車のようにこいで動かす「快速便(足こぎトロッコ)」2両とに分かれて、乗り場まで戻ります、往復約18分 と。そして次に「鶴岡農村公園」に車を駐める。「山形庄内藩士上陸之地」碑。この地は、山形県鶴岡市の人々が開拓したので「鶴岡」と名付けられているのだ。「山形庄内藩士上陸之地北門の警備と蝦夷地開拓、自立自営の大使命を帯び、明治18年から同19年にかけて山形県鶴岡を出発、酒田港より御用船にて此の地に上陸し、庄内藩士、佐藤洋孝と共に105戸が帯刀を鍬にかえ土地墾闢を志向す。所謂、士魂を農魂にと皆をあげ決然轉身の勇を揮い、大谷地、棚部岱、瓜谷、吉堀、中野、達川に移住し、爾来 鏤骨の辛苦と苦難の農耕を続け、歴代に受け継がれ、ここに87年の今日、水田酪農郷鶴岡を築く。改めて先人の労苦と偉業を偲び永遠に伝えん 酒井忠明書」「碑の来歴この碑山形庄内藩士百五戸開拓者上陸地之標は昭和40年鶴岡地区開基八十周年記念事業として字本町七百三番地に標柱を建立をしたのが始まりです。昭和47年この標柱建立地が町立病院建設地となったため移転せざるを得ず、協賛会を組織し、辛亥会の協力を得て移転、新設の形をもって石造碑を建立することに決し中学校通り線の町有地に同年六月建立したものであります。なお、この碑の標記及び碑文は旧荘内藩主酒井忠明氏の揮毫をいただいたものです。平成23年9月、北海道新幹線建設に伴い(支障となり)移設を求められたため移設委員会をつくり協議の結果、ここ鶴岡農村公園に移設建立してものであります。平成23年9月 庄内藩士上陸の碑移設委員会」「木古内町 鶴岡多目的集会施設」の前のには様々な石碑が。「記念碑鶴岡市・木古内町 姉妹都市盟約宣言十五周年朝暘第一小学校・鶴岡小学校姉妹校交流四十周年明治十八年より旧庄内藩士開拓団百五戸がここ鶴岡地区に入植したことを縁に、昭和三十九年五月十ニ日、鶴岡市立朝暘第一小学校と木古内町立鶴岡小学校は姉妹校の契りを交わし、今年で四十周年を迎えました。また、平成元年四月ニ十七日、鶴岡市と木古内町は姉妹都市盟約宣言を行い、今年で十五周年を迚えました。両都市は、教育・支化・経済の交流を深め、相互の信頼と友愛の絆を一層強くすることを誓うと共に、互いの限りない繁栄を念願し、記念碑と致します。」学校前にある碑とは別に開拓 開校百年の碑があった「開拓 開校百年の碑碑文前面「開拓 開校百年の碑」裏面には「開拓 明治18年6月11日/開校 明治22年6月30日/鶴岡地区開基百周年並び鶴岡小学校/開校百周年と新校舎落成祝賀協賛会/辛亥会/昭和62年11月22日建立」と。「開拓繢蹟功碑」白樺の木であろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.21
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「茂別館跡」を後にし、近くにあった「茂辺地北斗星広場」に立ち寄る。右側には「HOKUTOKEN」と書かれた建物が最初はラーメン店としてオープンしたが『地域運営食堂 北斗軒』としてリニューアル。地域のおかあさん食堂というコンセプトとのことだが現在でも営業しているのであろうか1988~2015年に上野・札幌間で運行されていた寝台特急「北斗星」の客車2台を、かつて走っていた沿線の北斗市茂辺地で保存・展示。車内を見学することも可能(土日祝)であると。「北斗星車両内部公開について例年、内部公開を実施しておりますが、新型コロナウイルス感染症の拡大防止と、御来場者や地域住民の皆様の安全保護の観点から、今年度は実施しないことといたしました。ご来場いただきましたのに、大変申し訳ございません。ご理解のはど、よろしくお願い致します。(最新情報は、facebook「北斗の星に願いをプロジェクト推進委員会」ページに更新中です。ご参照ください。)2020年7月23日北斗の星に願いをプロジェクト澤田」と。青函トンネルが開業した1988年から、北海道新幹線開業前年の2015年までの27年間、東京の上野駅と札幌駅を結んだ寝台特急「北斗星」。引退後、ほとんどの車両は解体されましたが、函館近郊の北斗市茂辺地町内の中学校跡地のグラウンドで、客車2両が2016年7月から保存・展示され、内部が一般公開(土日祝日10時~15時)されていたが、今年はコロナの影響で内部公開は休止中であったが外観の見学は可能なのであった。真鍮で作られた大きなエンブレムも。エンブレムをズームで。SAPPORO 539 TOKYO、JR HOKKAIDO の文字が。539とは 青函トンネルの長さ53.9kmのことなのであろうか。内部は見学できなかったが、展示されている車両は開放式B寝台車・緩急車オハネフ25形と、ロビー室とB個室ソロの合造車のスハネ25形であると。海からさほど離れていないためか、腐食が目立つのが気になったが・・・。そして「北斗星広場」の先にあった「さけ公園」を訪ねた。北斗市南部を流れる茂辺地川は、鮭の遡上風景を間近に見られることで有名であることを訪ねて初めて知る。左に見えた青い橋が「鮭見橋」。川を見つめると多くの黒い影が動いていた。鮭の遡上をこの目で見たのであった。カメラの設定を変えて待っていると、尾を振って白い飛沫が水面に。鮭の姿が。カメラの設定を再び変えて。そして河原にはこの様な鮭の姿が所々に。熊の仕業なのであろうか?頭を切り裂いて内臓も残しているので他の動物か?旧上磯町のおすいマンホール蓋。市内茂辺地にある「葛登支岬灯台」と、「鮭」をデザインしたマンホール。茂辺地川では鮭の遡上が見られるので。町名の由来は函館市の西部(上)の海岸(磯)に位置していた事からとされる。 渡島支庁では函館市に次いで人口の多かった自治体。上磯町・大野町による協議の結果、合併し市制を施行することに決まった。新市名は「北斗市」。2005年2月28日に合併調印式を行い2006年2月1日に合併された。なお、上磯町役場は北斗市役所の所在地となっている。そして国道228号・日本海追分ソーランラインに戻り、函館山の姿を。前方に「葛登支岬(かっとしみさき)」を再びズームで。正面に標高499 mの「当別丸山」の姿が正面に。そして当別丸山が裏に聳える北斗市の「トラピスト修道院」を訪ねた。数kmにわたってのまっすぐな道を「トラピスト修道院」に向かってポプラの木が整然と並ぶ光景は、まるで外国に来ている様に感じたのであった。長い階段の上に建つ「トラピスト修道院」の姿が大きくなって来た。駐車場に車を駐め散策開始。駐車場横の案内板。「トラピスト修道院周辺 観光案内図」。「厳律シトー会 灯台の聖母大修道院明治29年(1896年)、「祈祷と労働とをもって直接、神に奉仕し、自己の成聖と社会の幸福」を目的とし、日本で最初の男子修道院であるこの修道院が建てられた。最初の建物は白ペンキ塗り細長い木造建築であった。修道院からは日に何度も鐘の音が流れてくることから、村民たちは修道院のことを「ガンガン寺」と呼んでいた。当初の修道士はフランス人5名、オランダ人2名、カナダkとイタリア人各1名の9名であった。創立当時は荒地であったこの地を開拓し、農耕・牧畜・酪農に力を入れた。明治35年( 1902年)にオランダからホルスタインの種牛を輸入し、増殖した乳牛はのちに南北海道一帯に広がっていった。南北海道の酪農の原点ともいえる。現在の建物は最初の修道院が明治36年( 1903年)に焼失したため、明治41年( 1908年)に建てられたものである。この時に使われたレンガは野幌で作られて運ばれていたが、輸送が間に合わなくなった。そのため現地生産となり、現在の石別中学校が建っているところから良質の粘土がとれたため、煉瓦を作ったと伝えられている。」「岡田普理衛( D・ルラール・プゥイエ)初代修院長。安政6年(1859年)にフランスのノルマンディー県にて出生し、哲学・物理・科学を学んだ後、大神学校で神学を修めた。その後、自ら志願して明治30年(1897年)に日本に渡来した。明治33年(1900年)日本人信者であった大工の岡田初太郎の養子となり、岡田普理衛に改名する。性格は喜怒哀楽を表に出さなし、が豪快であり、質実剛健で行動力が盛んで、トラピスト修道院での労働も頑丈な体で二人分の仕事をこなしたと言われている。地元の人々は、「見慣れない外国人が重罪人ではないか」と最初は噂し修道院の作物を荒らしたりしたが、岡田普理衛は病人の介護方法を教えたり相談に乗ったりと徐々に地元の人々からの信頼を得て、親しまれるようになった。大正14年(1925年)には福岡県にトラピスト分院を設立するため、現地に出向し、昭和20年(1945年)この修道院に帰ってきた。そして昭和22年(1947年) 7月1日に87歳で死去した。」「北海道まちづくり100選」、「人間道路会議賞 町道トラピスト通線」の受賞パネルが。緑の牧草畑が広がるなかを一直線にのびる道。「ホプラ並木が風に吹かれて葉の裏を返すとき、その奥に静ガなたたすまいをみせる赤レンカの尖塔ー美しい自然との調和。その見事な景観は、見る人のを感動へといざなう。いま、「北海道まちづくり100選「人間道路会議賞」に輝く一」階段途中から「トラピスト修道院 正門」を見る。正門駐車場から、舗装された急坂を登りきった奥に正門建屋があった。レンガ造り左右対称の平屋(一部は二階)建てで、ファサード頂部にキリスト像が安置されていた。大正中期~昭和初期の建築と思われる。「トラピスト修道院 正門」前に到着。「十字架」と「キリスト像」。「キリスト像」。正門の建物内部正面には、頑丈な鉄柵と左右の出入扉が設置されていて、院内には立入りできない。鉄柵にはラテン語と日本語の飾り文字が取り付けられていて格調を高めていた。また、文字列の左右には、聖ベルナルド像と聖ベネディクト像が取り付けられていた。「本館」鉄柵の隙間から前庭を通して遠方に、白枠尖頭アーチ窓の赤レンガ造り、中世ゴシック風の美しい「本館」建物が見えたが、その左右端部は植栽で遮られて見えにくかった。そして「キリスト」を抱く「マリア像」をズームで。内部左側には、展示室があり、白を基調とした部屋になっていた。写真と説明が中心のトラピスト修道院の資料展示が行われていて、その内部、歴史、修道士の生活の一部を窺うことが出来たのであった。 「トラピスト修道院の沿革明治29年(1896年)にフランスから数名の修道士が来日して、津軽海峡を眼下に臨む当地にトラピスト修道院を設立しましたが、トラピストの歴史は古く、その起源は11世紀にまでさかのまります。聖ロベルト(1018年~ 1111年)は、現在の、フランス・シトーの地に新修道院を創設し(1098年)、ここからシトー修道会が生まれました。そして、1664年、シトー修道会に属するトラップ修道院(フランス)で、より厳格な生活を望む改革運動が起こり、この流れを汲むものをトラピストと呼ぶようになりました。トラピスト修道院はカトリック教会に属し、日本国内には七つの修道院(その内五つは女子でトラピスチヌとして知られています)を持ち、国外には137の修道院(その内、50は女子)があります。聖書の教えと、聖ベネディクト(480年~ 547年)の修道戒律に従い、「祈り・労働・聖なる読書」を中心とした観想生活を送っています。」様々な「トラピスト修道院」に関する写真が。教会の内部の写真も。「修道院内の見学は、予約制&男子に限ります」と。「トラピスト修道院 正門」前から、舗装された急坂、階段を見る。階段を下りながら、始まったばかりの紅葉を眺める。正門駐車場に面して八角形のキリスト教会があった。これは、大正6年(1917)にロマネスク様式で創立された聖堂が平成5年(1993)の奥尻島地震で損傷を受け、その2年後に外観を一新し再建されたもの。地元ではリタ教会と呼ばれ、その形から「まるみ堂」とも呼ばれている。司式は修道院の司祭によって行われ、修道院内で修道士が行うミサと同じ雰囲気が感じられると。駐車場奥の「三木露風」の歌碑。「日は輝やかに沈黙し 時はおもむろに移り行けり 美しき地上の断片の如く 我が命は光の中にいきづく 露風」「「赤とんぼ」の詩人三木露風の詩碑「日は輝やかに 沈黙し 時はおもむろに 移り行けり美しき地上の 断片の如く 我命は 光の中に いきづく」三木露風の略歴も刻まれていた。「三木露風明治22年(1889) 6月23日、兵庫県龍野市龍野町上霞城101番地に生まれる。幼名操。後早稲田大学、慶応大学に学ぶ。詩集「廃園」(明治42年9月刊行)によって日本詩増で注目され、「白き手の猟人」(大正2年9月刊行)で象徴詩界の頂点に立ちました。大正9年5月から同13年6月までトラビスト修道院の文学講師として4年間居住し、その間大正11年キリストの復活祭に夫人と受洗しました。昭和39年12月21日、東京三鷹市で交通事故に遣い、同29日死去、カトリック吉祥寺教会で葬儀。享年75才、法名穐雲院赤蛉露風居士。昭和40年1月16日、勲四等瑞宝章を追贈。*童謡「赤とんぼ」は修道院の文学講師時に作詞されました。」そして「駐車場まで戻り、八角形のキリスト教会・「聖リタ教会」を見る。駐車場周辺の赤松の老木。八角形のキリスト教会・「聖リタ教会」。聖リタ教会(正式名:カトリック当別教会)は1917年(大正6年)トラピスト修道院の創立者D・ジェラール(帰化して岡田普理衛)らによって創立。カッシーノの聖リタに捧げられた教会で昔から地元では「リタ教会」の名で親しまれています。奥尻沖地震で亀裂が入り、現在の教会は1995年(平成7年)に再建。以前のリタ教会はその外観から「まるみ堂」とも呼ばれていたと。そして、帰路に再びヨーロッパの田舎的風景を連想させるトラピスト修道院。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.20
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旅行2日目・10月19日(月)の朝のホテルの部屋からの新函館北斗駅。エレベーターホールからの日の出をカメラで追う。時間は6:05。ビニールハウスの上には白く霧がかかる。ビニールハウスの内外の気温差による現象なのであろう。山の端の色合いの変化を追う。遠く函館山の姿を。そして漸く太陽が山の端に姿を現す。時間は6:08。前方の山からも日の出の如くに太陽が2つ。そして太陽が強く輝く。そして手前の日の出も大きくなり。そして部屋に戻り、この日の観光の出発。ホテルのフロントをカメラに。そしてホテルの外に出ると駐車場前の舗装空き地にも朝の陽光が差し込みオレンジ色に輝く。ホテルを振り返る。そして車でこの日の観光に出発。この日は、渡島半島(おしまはんとう)の南部・日本海に面する「松前半島」を函館から時計回りにほぼ1周し、日本海に面する「江差町」から「松前半島」を国道227号で横断し再び函館に戻る行程を決定していたのであった。青線一がこの日のドライブルート。駐車場を出て函館方面に進む。早朝の温度低下により一面に朝霧が棚引いていた。外気温は6℃の表示。時間は6:27。カーナビに従い、「北海道」の道道756号線を進み、この先で右折し道道96号線に入る。道道96号線を南下し新幹線下を通過。国道228号の「上磯新町」交差点を出て直ぐに「函館山」を見る。左手の函館湾の中に、太平洋セメント㈱上磯工場へ2kmにわたって延びる海上棧橋を見る。我が国で100年を越える歴史を持つ、コンクリート工場。生産されたセメントは、函館湾に延びる約2キロのこの」海上桟橋のベルトコンベアによって大型船に運ばれ、国内出荷はもとより海外輸出も行っているとのこと。明治時代に稼働を始めたという上磯工場で海上桟橋が完成したのは1970年。その後1987年に延伸し、いまの2kmという長さになったと。太平洋セメント上磯工場がすごいのは、原料の石灰石を採掘する鉱山側にもベルトコンベア(約6km)が敷かれているということ。全長8kmちょっとの直線上で、鉱物資源は経済を動かす即戦力として日夜活躍しているのであった。国道228号を横断する巨大なベルトコンベアの建屋。太平洋セメント㈱上磯工場を右側に見る。既に市制の施行により2006年に上磯町の名はなくなり北斗市に変わっているが、長年の間、共に歩んできた「上磯」の名を残しているのであろうか。函館湾・函館山近くの太陽、光る海を見る。車の進行とともにオレンジ色に光る帯が移動する。函館湾沿いを国道228号で南下する。腰の位置まで海に入り魚を釣る多くの人の姿が。遡上する前の鮭・鱒を釣っているのだと。近くには、鮭・鱒が遡上する「茂辺地川」があるが、河口付近は釣りが禁止されているのだと。左海岸:600m、右海岸:700m、沖合:1000m以内が、規制期間:9月1日〜12月10日で禁止になっているのだと。そして、規制対象の魚種はサケ(鮭・シロザケ、アキアジとも)・サクラマス(鱒・ヤマメの降海型)・カラフトマス・ベニマス(標準和名ベニザケ、ヒメマスの降海型)・キンマス(標準和名キンザケ)・マスノスケ(キンクサーモンとも)の6色魚であると、ネット情報から。葛登支岬(かっとしみさき)が前方に姿を現す。太陽が、函館山の右側に移動して来た。そして茂辺地川を渡り川沿いを進み、「茂辺地橋」を渡ると正面に白い案内板が。「茂辺地鮭卵ふ化場跡」。「茂辺地鮭卵ふ化場跡明沿11年(1878)に茂辺地川の鮭から採卵したものを七重勧業試験場で試験的に実施され、翌年稚魚ガふ化しました。その翌年には北海道初の民間(酒井宮次郎等)による鮭卵ふ化社が設立されました。当初は北海道開拓使の煉瓦石製造所跡の払い下げを受けふ化場として使用しました。明治20年以降は100万粒台の採卵になり、発眼卵は東北地方や利根川流域・島根・広島県にまで広がりました。昭和22年(1947)から本格的にふ化事業に取り組み、24年には建物は水源池下に人工ふ化場を開き、昭和50年頃にふ化施設建物と稚魚の養魚池を完成しました。水産庁の助成を受け、捕獲・採卵・ふ化の一切を漁業共同組合に委託、実施されていました。現在は、北海道より直接業務委託を受けた社団法人渡島さけ・ます増殖事業協会が捕獲・採卵からふ化・放流までの事業を実施しています。」そして更に坂道を登っていくと左側に石鳥居が。矢不来天満宮の鳥居は、明治以前に運んできたが、その途中で丘の上まで揚げるのが難しく、遂には海中に放棄してしまった。それを後年、誰かがここへ建てたものだという。上部の二本の「笠木」は中央で繋がっていた。「矢不来天満宮(やふらいてんまんぐう)」。左手には「史跡 茂別館跡」と刻まれた石碑も。近づいて。「国指定史跡 茂別館跡一、所在地及び地域 北海道北斗市矢不来一三一ー一ほかニ、指定年月日・昭和五十七年七月三日指定三、指定理由ア・基準特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準史跡ニ(城跡)による。イ・説明茂別館は、嘉吉三年(一四四三)津軽十三湊城主・安東太郎盛季が館を造ったのに始まるといわれ、南の大館と北の小館から成っている。大館は、西は茂辺地川岸に面し、南と北は自然の沢で切られ、東は空濠を巡らしている。また、小館は、西は茂辺地川左岸の崖地で、他の三方は、自然の沢を利用し、更に土塁を設けている。北海道の室町時代の和人の館跡のうち志苔館跡・大館跡上之国勝山館及び上之国花沢館の四件は既に指定されているが今回これに茂別館を加え、蝦夷島中世史の解明に資そうとするものである。四、保存上の注意一、土塁などの遺構をき損しないこと。一、許可なく現状を変更しないこと。前記の事頂に反したものは罰せられます。」「鮭之碑」。境内の参道を進むと「二の鳥居」が。そして「三の鳥居」と社殿が見えて来た。天神様を祭っているということで、牛が狛犬代わりでしょうか、鎮座していた。こちらは新しい牛の像。「社殿」を正面から。矢不来天満宮は、15世紀にここに流れ着いたという天神様(菅原道真)像を祭ったのが始まりと。文和年間(1352~1356)、大松一株が漂着した。アイヌの人たちがよく見てみると、その株の枝と枝との間に、2尺ほどの木像があるのを発見したという。そこで、矢不来の地に祭った。もちろんアイヌの人々は、この像が道真公だとは知らなかったが、その神々しさに打たれ、「ヤギナイ」という地名を「カムイヤモンケナイ」と改めた。下国氏の某の代に、ご神体の破損がひどいということで、京師の某という名工へ修理に出した。その名工は、このご神体の工作の巧みさに驚き畏れながら、心を込めて修理した。下国氏の重臣がご神体のお迎えのため京に上り、ご神体のある一室に案内されて入ると、5基の寸分たがわぬご神体の像が床に置かれてあった。その名工がご神体があまりに巧みに出来ていたため、恐れ多いが研究のために4体を模造したとの事。そして、試みにこれだと信じる1体をとってみてください、と言う。その重臣は主家の守護神と言いながら、しっかりと拝したことがなくしばらく躊躇してみていたら、その中の一体が目をギョロリと動かし、「我こそ」と言ったように感じたので、早速その一体を指した。果たして、それはまさにご神体であったという。名工は、専門の自分が見ても間違うこともあるのにと驚愕したという。また、このご神体の両眼は黄金だという。「社殿」に近づいて。矢不来(やふらい)の地名由来はアイヌ語からの転訛で、ヤンケナイ<yanke-nay>(陸に揚げる・川)陸揚場〈この河口の辺に舟を着けて、漁獲物とか積荷を揚げた所なのでこの名がついたのであろうと。なお、昔は「やぎない」のように呼んだ場所で、昔の人たちは東北弁で「矢来(け)ない」という言葉に当てて、矢不来と書いたのだろうが、それでは読みにくいので、後に「やふらい」と音読みにして呼ぶようになったものらしい とのこと。境内に祀られている「赤松の幹」矢不来天満宮の天神様(菅原道真像)は、赤松の上に乗ってこの地に流れ着き、流れ着いた浜辺には赤松の大木が生えた。昭和5年(1930)、上磯~木古内間に鉄道架設工事が始まり、この大木を伐ろうとしたが、旭川から連れて来た腕のいい木こりでも伐ることが出来なかった。ある夜、その木こりの夢に老人が現れて、「切り口に葦を挟んで伐るとよい」と教えたので、その通りにするとようやく伐ることが出来た。 しかし、その後伐った木こりもお祓いをした神官も死んでしまったという。鉄道開通後も走行中の汽車の中に、白衣の老人の霊が現れると騒がれたため、伐った木の一部を矢不来天満宮に祀って木の霊を鎮めたのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.19
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駐車場から徒歩にて10分ほどで「函館山ロープウェイ山麓駅」に到着する。北海道の玄関口「函館」を代表する観光スポットの一つ「函館山」は、函館湾を囲むようにして海に突き出た半島にそびえる標高334mの山。実際には、「函館山」という一つの山ではなく、展望台のある御殿山(標高334m)をはじめ、薬師山(標高252m)、つつじ山(標高306m)、汐見山(標高206m)、八幡山(標高295m)、水元山(標高280m)、鞍掛山(標高113m)、地蔵山(標高286m)、入江山(標高291m)、エゾダテ山(標高129m)観音山(標高265m)、牛の背山(標高288m)、千畳敷(標高250m)という13の山々の総称で、牛が寝そべっているようなその姿から別名・臥牛山(がぎゅうざん)とも呼ばれているのだと。ロープウェイは5分間隔で運転中であった。函館山からの函館の街並みの今昔の写真。予想通り多くの観光客がロープウェイへの乗車を待って並んでいた。現在のゴンドラは5代目で、初代は30人乗り、2代目が44人乗り、3代目からは125人乗りとなり、時代と共に大型化。トップスピードは秒速7m、海抜334mの山頂まで約3分で到着。そしてロープウェイに乗り函館山山頂駅に向かって進む。次第に函館の夜景が眼前に拡がって来るのであった。そして山頂駅に到着。そして展望台に到着。展望台には多くの観光客がカメラ、スマホを構えていた。函館の夜景の良さは、陸地を挟む海岸線のカーブが独特の美しさを醸し出しており、ひと目見ただけで函館とわかるほど特徴があるところ。函館駅周辺ズームで。左手の、海に突き出た場所は「緑の島」。「緑の島」をズームで。絵に描いたような美しさは函館湾(左)と津軽海峡(右)に挟まれた景観がつくりだしたもの。函館湾と津軽海峡に挟まれたシルエットに沿って広がるエキゾチックな光の美しさは世界一の夜景と言われているのである。しかし、最近の夜景は、以前より暗くなっていると。主に「人口減少」と「街路灯のLED化」そして「コロナ禍」が影響。市内には約37,000の街路灯が設置されているが、半数以上がLED化されているとのこと。右手に函館空港の灯りが。教会群をズームで。再び函館駅付近をズームで。五稜郭タワーも見えて。更にズームで。函館山山頂の送信鉄塔。コンクリートの建物の上に架台を設置し、その上に鉄塔を建てていた。STV 函館山テレビ送信塔。日本三大夜景に、そしてナポリ、香港と並んで世界三大夜景に数えられる函館の夜景。標高334メートルから巴湾と呼ばれる優雅に湾曲した函館の港湾と町並みを望むことができたのであった。毎年8月13日は「夜景の日」として街全体でライトアップに協力するのだと。「函館山」と書かれた石碑。「函館山ロープウェイ」往復チケットは1500円。帰路のゴンドラ。そして「函館山ロープウェイ山麓駅」に到着し、徒歩で駐車場に向かう。「真宗大谷派 東本願寺 函館別院」の山門。「東本願寺函館別院この寺院は、宝永6年(1709年)木古内町泉沢に建てられた堂宇(どうう)が移され、浄玄寺(じょうげんじ)と称したのが始まりで、安政5年(1858年)本願寺の掛所(かけしょ)となった。その後、幾度かの火災で焼失したが、明治9年(1876年)に東本願寺函館別院となり、現在地に移転したのは明治12年(1879年)である。ここで明治40年(1907年)の大火で焼失したため、耐火建築により再建することになった。大正4年(1915年)完成した現在の本堂は、わが国最初の鉄筋コンクリート寺院として知られており、コンクリート造りではあるが、伝統的な本堂の形式を踏まえた造りになっている。建築当初、人々に踏まれた土砂で寺院が建てられるとは、ご先祖様に申し訳ないとか、大きな屋根が鉄筋やコンクリートでもつだろうかと不安の声が上がり、寄付金が思うように集まらなかったことから、芸者を高床に上げて手踊りをさせ、安心させたなどのエピソードもあり、苦心の末、完成にこぎつけたという。平成19年(2007年) 12月4日、国の重要文化財に指定された。」「明治天皇御遺跡」碑。「函館カール・レイモン レイモンハウス元町店」。本場ドイツ製法の彼の技を受け継いだハムやソーセージが自慢で多彩な味が揃う店と。1925年(大正14年)、函館で創業した「カール・レイモン」像。そして、車で「新函館北斗駅」前の3連泊のホテル・「ホテルラジェントプラザ函館北斗」に向かう。途中スーパーマーケットで夕飯、アルコール、酒のつまみ等を購入。ホテルに到着しチェックインし部屋へ。時間は19:55過ぎ。ツインの部屋。部屋の奥に四畳半程の畳のスペースが。そしてホテルで、ビール、焼酎片手に、初日のこの日の反省会を行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.18
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「旧イギリス領事館」の「基坂」の反対側にあったのが「ペリー提督来航記念碑」。(台座)ペリー提督像(台座裏)二〇〇二年五月 小寺真知子日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、1854年(安政元年)5月17日、開港される箱館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、函館市が国際観光都市として発展する礎となった。「ペリー広場Perry’s Squareペリー提督函館来航150周年を記念して、このペリー提督像の立つ敷地の一画を「ペリー広場」(愛称)と命名します。(正式名称「函病跡地緑地広場」)」「ペリー提督 来航時の足跡絵図」。「函館における日米会談」。1854年5月22日 午前11時よりペリー提督と松前藩家老・松前勘解由(かげゆ)との会談が沖之口役所(後の水上警察、西警察、現在の函館市臨海研究所)の近く、山田屋寿兵衛(じゅへえ)宅で始まる。ペリーの要求とは、休息所とする家屋2, 3棟の借り入れ、遊歩区域の境界線を定めることなどであった。しかし、一家老の身分では決定権もなく押し問答が続いた。「函館山からの眺望」箱館に着いたペリー艦隊一行は、早速当時の臥牛山(がぎゅうさん)(箱館山)に登り、各種の測量や調査を始め、海図の作成等を実施 箱館湾の出入港の安全を図る。当時の箱館山山頂には観音像が建立されていたが、明治32年に当時の軍部が函館山を要塞化するため、指示により山頂より降ろされ称名寺湯の川説教所(現在の湯川寺(とうせんじ))に収蔵され現在に至っている。「黒船 ポーハタン号」1854年5月17日(新暦)午前9時にアメリカの黒船艦隊2隻が箱館港に入港 その後更に3隻が入港した。入港した艦船は旗艦 (1)ポーハタン号 2,500トン (2)ミシシッピー号 1,800トン (3)マセドニアン号 (4)サウザンプトン号 (5)バンダリア号「姿見坂の一景」函館の姿見坂(現在の函館市弁天町13番付近)から見た風景である。これは、ペリー艦隊に乗り組んでいた従軍画家ハイネが描いたもの。ペリー提督一行が当時の箱館を市中見学した際、実行寺、称名寺、浄玄寺、当時の八幡社(現在の函館八幡宮)を訪ねたことが判明されている。「称名寺の境内」これも当時ペリーが箱館市中を散策しているときに、称名寺の境内の一角で日米交流をしているときの光景を描いたものである。「ペリー提督像の背後にある「つつじ」は、日本名を「黒船つつじ」といい、アジア東北部が原産で、日本へは1668年に渡来したものです。ここに植えた「黒船つつじ」は、1854年5月17日、箱館港に来航した5隻の黒船(函館山に向って右からマセドニアン号・バンダリア号・ポーハタン号(旗艦)・ミシシッピ号・サウザンプトン号)に因んで植栽したものです。」「基坂」の上りきった場所近くにあった案内板。「元町公園」への階段入口左にあった2種の案内板。その後ろに函館山の姿が。「散策コースご案内」👈リンク。「ミシュラン・グリンガイド・ジャポン 掲載 函館観光スポット」。多彩な観光名所がある北海道函館市のなかでも、全国的に有名なのが、函館市を一望できる函館山展望台。開けた市街地の両側を海に挟まれた特徴のある景観は、誰もがテレビや情報誌などで一度は目にしたことがあるはず。特に夜景は世界に類を見ないほど美しいとされ、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」でも三つ星として紹介されている。「元町公園」への入口階段。「元町公園案内」。視覚障害者が利用する「元町公園 触知案内」印刷された地図を見ることのできない視覚障害のある人の為の、「手で見る地図(「触知案内図」)」であると。恥ずかしながら、この年令になって初めて「触知案内」と言う言葉を知ったのであった。「元町公園」入口から函館湾、その後方の山々をズームで。赤く染まっていた中央の山が標高1166.9mの「横津岳」、山頂には航空監視レーダーが設置されているのがズームで確認できたのであった。「元町公園」奥の「旧函館区公会堂」は改修工事中であり安全保護シートで覆われていた。「基坂」と函館湾方向を見下ろす。函館の街の坂道の一覧。「函館山の麓には海に向かって名前の付いた坂道が19本並んでいる。これらは函館が箱館といわれた、開港間もない時代の中心が函館山ふもとの西部に集中していたことによるもので、当時の函館を偲ばせる名前が現在も残っている。この坂道を含む景観が西部方面の観光地の一翼を担っていると言っても過言ではない。なお、この19のほかに、昔から名前の付いてる「さくら坂」「地獄坂」「すりばち坂」「テンコの坂」「みやま坂」という5つの坂もあるようだ。」とネットから。 【https://blog.goo.ne.jp/sakag8/e/7d20229fd2f57936875dfe86be699568】より階段を上ると左手にあった「箱館奉行所跡」碑。江戸幕府が設置した箱館奉行所跡で、五稜郭ができるまではここが奉行所であった。港に近すぎて敵軍の格好の的とされるため、完成とほぼ同時に場所を五稜郭へと移したと。幕末の黒船来航により、下田と共に箱館の開港時にここに奉行所が置かれた記念碑だが、「箱館奉行所跡」と書かれた碑があるだけで説明板もなく、ちょっと寂しい感じ。「元町公園」内のモニュメント。大きな石に座り空を見上げる少女像。犬と戯れる男子像。サボテンの如き樹木。親子熊であろうか。「大地と海と僕たちと」 安藤 泉 2008.3.10設置 ブロンズ(一部彫金) 「緑豊かな山並みの大海原の恵みに支えられ僕らの夢は拡がる」と。「四天王像」。正面から。ズームで。像に向って左より今井 市右衛門、平田 文右衛門、渡邉 熊四郎、平塚 時蔵。「函館四天王像 市民精神の源流明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器機製造所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の刊行、学校、病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のために教育、医療施設にいたるまで力を尽くした。明治、大正には東京の文化は東北を素通りして北海道へ渡ったと言われたが、その北海道とは函館のことである。その繁栄は、平田文右衛門をはじめ四天王と言われた人々の合議によって昔の泉州の堺港とくらべて明治の自由都市の函館と称する人もある。人口は終戦前まで常に全国第十位前後であった。四天王とは次の四人である。像に向って左より今井 市右衛門(いちえもん)(天保7-明治20年、1836-1887年) 石川県能登の生まれ、若くして当地に来たり西洋雑貨の店舗を開く、また、北海道最初の 新聞社の北溟社を創立した。 医師と共同で福祉事業の育児会社や恵まれぬ人のための鶴岡学校を創立する等多くの私財を 投じて少しも惜しまなかった。平田 文右衛門(ぶんえもん)(嘉永2-明治34年、1849-1901) 函館生まれ、呉服太物商。函館繁栄のため造船所、器械製作所、学校、病院、新聞社の 設立等四天王の功績は多くこの人が主唱し計画、実行に誤りがなかった。 区の財産造成にも大功があった。没後、区会の決議により肖像を議事堂に高く掲げて その徳を顕彰した。渡邉 熊四郎(くましろう)(天保11-明治40年、1840-1907年) 大分県竹田の生まれ、明治2年金森洋物店を開きて世界各国の商品を普及、書店を開きて 文化に尽くし海運業を計りて貿易に貢献、また巨費を投じて函館病院を再建、2代3代にわたり 私財にて育英的な人材を養成したボーニ森屋デパート金森商船は遺業の一部である。平塚 時蔵(ときぞう)(天保7-大正11年、1836-1922年) 青森県田名部の生まれ、函館の平塚家の養子、呉服太物、西洋雑貨の販売を業とした 四天王の一人として公共事業に尽くし、私財を投じては慈善事業に貢献、四天王のうち 最も長命、後輩の指導に尽くした。この四人は当時の区長常野正義と共に明治14年制定の藍綬褒章第三号から第七号まで受けた。」斜めから。今井 市右衛門。平田 文右衛門。渡邉 熊四郎。平塚 時蔵。そして「旧北海道庁函館支庁庁舎」。正面から。記念撮影はこの角度からか。記念撮影パネル。「旧北海道庁函館支庁庁舎旧北海道庁函館支庁庁舎は、明治42年( 1909年)に建てられ、公園造成と合わせて昭和57年( 1982年)に修復整備されたもの。特徴のひとつに柱廊玄関があり、2階に張り出した屋根が、柱頭飾り(コリント式)と中央部に膨らみのある(工ンタシス風)巨大な4本の柱で支えられている。明治末期の函館を伝えるこの洋風建築物は、北海道開拓の歴史上価値が高いことから、昭和60年( 1985年)北海道有形文化財に指定されている。なお、江戸時代、ここ元町公園には松前藩の亀田番所が置かれ、19世紀初めの幕府直轄時には箱館奉行所が置かれた。安政元年( 1854年)に日米和親条約で箱館の開港が決まると、当時松前藩が復領していたこの地は再び幕府の直轄となり、箱館奉行所が再置されたが、港湾から近く防備上不利であったことなどから、元治元年( 1864年)に亀田の地(五稜郭)に移転した。」「旧開拓使函館支庁書籍庫」元町公園内の旧支庁舎に隣接する赤レンガの書庫。1880(明治13)年築。明治40年大火でも類焼を免れた。使用されているレンガは函館近郊の茂辺地製。北海道指定有形文化財。「外壁のレンガは、1つ1つ微妙に色が異なります。大半のレンガは1874(明治7)年-1876(明治9)年の製造年と、「函館製造」の文字が刻印されています。このレンガは、1872(明治5)年、茂辺地村(現在の北斗市茂辺地)に建てられた開拓使直営の「茂辺地煉瓦石製造所」で焼き上げたもので、当時作られたレンガは市内各所の建造物にも用いられています。この煉瓦の積み方は、1列に長い辺と短い辺を交互に並べるフランス式です(一部増築分は、1列に長い辺ばかり、次の列に短い辺ばかり、交互に並べるイギリス式)。 外観をよく見ると、壁面のレンガ以外にも、至る所に特徴ある意匠や技法が見受けられます。建物の四隅には補強のために組まれた「隅石」、桟瓦葺きの屋根、耐火のために作られたとされる鉄製の扉や柵のついた窓など。2階壁面の所々にはL字型をしたフックのようなものがあるのに気付くはず。この金具には板を載せたり、コモを下げることで、防水・防寒の効果が期待できるのだそうです。先人たちの知恵と工夫には脱帽させられます。」とネットより。「元町公園」の中の様子。人の姿はほとんどなし。タイルは「函館ハリストス正教会」。「明治天皇行幸記念碑」。「五稜郭タワー」をズームで。そして、日の入りを楽しみに函館山の西側の「入船漁港」の防波堤まで車で急ぐ。しかし既に日は沈み・・・。上空が赤く染まった松前半島の山々。対岸の北斗市立茂辺地方面の山々の夕焼けを楽しむ。防波堤には多くの釣り人の姿が。そしてその先に「北海道駒ヶ岳」の姿。何の魚であっただろうか。そして辺りも暗くなり、再び函館山からの夜景観光に向けて函館山ロープウェイ山麓駅近くの駐車場に向かって進む。しかし、空いている駐車場が見つからずグルグル廻るが何とか少し遠い場所であったが駐車場に車を駐める事が出来たのであった。実は、函館山展望台への主要アクセス方法である函館山ロープウェイは、定期整備点検のため、翌日の2020年10月19日から12日間の運休となるとのことで、そのため運休前の最終日のための混雑なのであった。駐車場から徒歩にてロープウェイ山麓駅に向かって歩く。途中「カトリック元町教会」の前を通過しカメラに。「カトリック元町教会安政6年( 1859年)フランスの宣教師メルメ・ド・カション(パリ外国賞教会司祭)が仮駅堂を建てたの0に始まるもので、徳川幕府によるキリシタン追放令以降の日本におけるキリスト教宣教再開の先駆として、横浜の山手、長崎の大涌と共に最も古い歴史をもつ教会である。明治元年( 1868年)同宣教会司祭ムニワー、アンプルステル両氏が現地に仮駅堂を建て、その後、明治10年( 1877年)同宣教会司祭マラン氏により最初の聖堂が建立された。以後3回の大火で類焼したのち、大正13年( 1924年)現在の大聖堂が完成した。この大駅堂は、ゴシックスタイルの耐火建築であるが、中央祭壇、左右両壁十四景の十字架道行の壁像は、イタリアのチロル地方の木彫で、時のローマ教望ベネディクト十五世から購られた由緒あるものである。」「函館聖ヨハネ教会」礼拝案内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.17
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別の駐車場に移動し、更に函館の街の散策を続ける。駐車場の前にあった建物の壁一面には紅葉した蔦が。海峡通りの交差点の角にあったのが「赤い靴の少女像「きみちゃんの像」」函館港の見える場所にあったが、海を背中にして。「赤い靴」の歌碑 野口雨情作詞 本居長世作曲♫赤い靴(くつ) はいてた 女の子 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢(あ)うたび 考える♫」像の作者は函館出身の彫刻家・小寺真知子さん。野口雨情作詞の童謡「赤い靴」のモデルとされる少女・きみちゃんの像。1903(明治36)年、きみちゃんは、お母さんのかよさんと一緒に静岡県から函館へと移り住み、その後、母親は後志管内留寿都村の農場に入植したが、病弱だったきみちゃんはアメリカ人宣教師に預けられ、函館が母子の別れの地になったと。2009年、母と別れた地といわれる函館に設置された。靴の部分が赤くなっていた。親子の絆の大切さを伝えるべく、2009年8月、函館開港150周年に合わせて設置された。台座を含めて高さ約160センチメートルのブロンズ立像で、イタリアローマで製作された。国道279号(海峡通り)の交差点から「八幡坂(はちまんざか)」を見る。函館山からの夜景と並んで、函館のビュースポットとして紹介されることが多い坂。赤レンガ倉庫が立ち並ぶウォーターフロントの先を進むと、函館山へ導いてくれるのがこの「八幡坂」。両歩道脇には、坂上まで手すりつきの階段が整備され、冬には歩道にロードヒーティングが施されているとのこと。坂名は、河野政通の館跡地(現在の元町公園付近)から移設された函館八幡宮があったことに由来すると伝えられていると。大火の被害を受けて1880(明治13)年に現在の谷地頭町に移ったものの、その後も坂の名称は残されたのだと。そして少し戻り「金森赤レンガ倉庫群」を見る。そして車で「緑の島」駐車場まで行き、直ぐに引き返して訪ねたのが「新島襄 海外渡航の地碑」。地碑は、同志社大学から記念碑面を寄贈された1952(昭和27)年の2年後に建立。後方に「緑の島」。「緑の島」は函館港の万代・港町泊地浚渫工事によって生じた土砂を利用し、港内を護岸で囲って確保した処分場工事によって誕生した埋立地であり、埋立土量は約70万m3。「緑の島」の活用については、水族館や第三セクターによるウォーターフロント開発の中核施設建設などの計画があったが、2007年(平成19年)に事業断念を表明し、現在は多目的広場、カラー舗装広場、石畳広場そして駐車スペース(約200台)になっていると。「新島嚢海外渡航の地碑新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松陰の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を箱館に選んだ。元治元年( 1864年)江戸から来て、ニコライ主教(ハリストス正教会2代主教)に日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の官立気候測量所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功した。上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年( 1874年)に帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立した。この碑にある「男児志を決して千里を馳す自ら苦辛を嘗む豈(あに)家を思わんや却って笑う舂風雨を吹く夜枕頭尚夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので、元治2年( 1865年)香港での作である。渡航前の名前は新島七五三太であったが、航海中に船長から「ジョセフ」の名をもらい、路して「襄」の字をあてた。明治23年( 1890年) 48歳で没。函館市」「新島嚢海外渡航の地碑」から「金森赤レンガ倉庫群」を見る。ベイエリア西にあった新島襄のブロンズ像はどこに行ってしまったのであろうか?そして「海上自衛隊函館基地隊」。掃海部隊が駐留しており、津軽海峡および宗谷海峡の海峡警備の拠点である。北海道における海上自衛隊の代表的な基地隊であり、アメリカ海軍艦船の寄港も多い。門柱には「海上自衛隊箱館警務分遣隊」と。左手には護衛艦「はまゆき」の主錨が展示されていた。「箱館運上所跡欧米5か国との通商条約に基づき、安政6年( 1859年)、箱館は横浜、長崎とともに開港し国際貿易港となった。これにともない、税関の前身である運上所が設けられた。開港翌年の入港外国船は、商船30隻、捕鯨船21隻、軍艦13隻の計64隻であった。貿易では、輸入はほとんどなく、韓出は中国向けの昆布が4分の1を占め、そのほか、いりこ、するめ、干あわびなど海産物が上位をしめていた。明治5年( 1872年)、運上所は税関と改称された。昭和43年( 1968年)、海岸町中央埠頭に港湾合司庁舎が完成し、税関も同庁舎に移転した。なお、明治44年( 1 91 1年)に築された庁舎は、木造ルネサンス風の洋風建築であったが、昭和47年( 1972年)に取り壊された。 函館市」そして「箱館運上所跡」の正面の「基坂」のグリーンベルトにあったのが「三蹤碑(さんしょうひ)」。グリーンベルトの真ん中にある赤御影石の地球儀の上に青銅の鳳凰が羽を広げた大きな石碑が「明治天皇御上陸碑」。台座となる塔の部分と地球儀は花崗岩製。その上に乗る羽を広げた青銅製の鳳凰は、宝来町にある高田屋嘉兵衛銅像の作者としても知られる函館出身の彫刻家・梁川剛一氏が手がけたもので、まるで生きているかのような躍動感と存在感が。「明治天畠上陸記念碑赤御影石の地球儀の上に、青銅の鳳凰が羽を広げた碑は、明治天皇が明治9年( 1876年)、東北・北海道巡幸で来函の際の、旧税関桟橋への上陸を記したものである。同14年( 1881年)に再び来道の際、小樽から陸路函館へ巡幸し、ここから乗船して青森へ向かった。明治9年の下船・乗船と同14年の乗船で、計3回となることから、「三蹤碑」とも呼ばれている。この碑は、函館出身の彫刻家・梁川剛ーの作で、昭和10年( 1935年) 9月7日に除幕された。同16年( 1941年)に7月20日を「海の記念日」と定めたのは、明治天皇の明治9年( 1876年)の巡幸の際、7月1 8日に離函し、20日に横浜に帰着したことを記念したものである。平成8年( 1996年)から国民の祝日「海の日」となった。」そしてその先に「基坂(もといざか)」と「函館山」が。交差点の角にあったのが、不動産仲介業「相馬(株)」の建物。1913(大正2)年築のルネサンス風事務所建屋。ぺディメント(西洋式切妻破風)など特異な意匠。基坂と電車通りの交差点に建ち、西部の街並みのランドマーク的存在。伝統的建造物。電車通り側にある入口。ズームで。木造2階建ての鉄板葺き屋根に突き出た窓(ドーマー窓)は、ルネッサンス様式。軒先や窓枠などに目を凝らすと、随所に洒落た装飾が見受けられます。そして「函館市北方民族資料館」 北海道函館市末広町21−7。資料館の入口。アイヌ民族や北方民族に関する資料館。こちらは「基坂」側の入口。そして路面電車「函館市電」。路面電車が走りはじめた1913(大正2)年の函館は、北海道の表玄関として活況を呈しており、それまでの馬車鉄道に代わって颯爽と登場した姿は、街で注目の的であったと。今でも、市民の日常の足として、また観光客には移動の足として、広く親しまれていると。そして「基坂」を登って行く。「基坂」と書かれた柱の横には「はこだて観光案内」が。「基坂(もといざか)通」と刻まれた石碑。函館山山麓から函館港方面にのびる坂の一つである基坂は、明治時代に坂を下った所に里数を測る基点となる里程元標(りていげんぴょう)の木柱が立っていたため名付けられた。明治40年(1907)8月に起きた大火で、基坂にあった主要施設の殆どが焼失してしまい、大火後から数年に渡り基坂では旧函館区公会堂をはじめ豪華絢爛な建物が次々と建設されていった。現存する建物で旧北海道庁函館支庁/明治42年(1909)築、旧イギリス領事館/大正2年(1913)築、 相馬株式会社/大正3年(1914)築など。石畳の「基坂」を上って行く。「諸術調所跡諸術調所とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地の開拓と警備に必要な人材育成を目指して、安政3年( 1856年)に設立された。教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎で、蘭学はもとより、測量・航海・造船・砲術・築城・化学などを教え、亀田丸でロシアまで操縦航海するなと実践を重んじた教育を行った。元治元年( 1864年)、斐三郎が江戸開成所(現・東京大学の前身)の教授に転出するまで、門人多くを教育し、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度創設者)など明治日本の動脈を作った優秀な門下生を輩出した。同志社の創設者「新島襄」が箱館からアメリカへ密航したのも、諸術調所に入るために箱館にやってきたのに、斐三郎が江戸へ出てしまっていたための行動であったとも言われている。内外共に多難な幕末期、開明的で進取果敢の精神に満ちた人々と学舎があって、その成果を全国に及ぼした事実は、市民の誇りとするところであり、その魂は常に新しい時代の開拓のために生き続けるだろう。」花壇の中に像が並ぶ。パブリックアート「ハイカラさん」。西洋風のドレスをまとった明治期の貴婦人がモデル。日傘を手にしてベンチに座る女性のすました表情が印象的で、高さは約1.5メートル。「ハイカラさん」岡本銕二(てつじ)作文明開化華やかし時代にタイムスリップしてみませんか”Let's sit together”作品のベンチには、貴婦人の横に大人1人が座れるスペースがあった。作者は「一緒に写真を撮るなど、実際に作品に触れながら鑑賞を楽しんでほしい」と。基坂通のハイカラさんの先にも彫刻が。「旅を続ける男」 峯田義郎作左ひざの上には小鳥が乗っていた。そして像にしては珍しい?サングラス姿。「旅を続ける男」 峯田義郎「人間(ヒト)は 何故 旅を続けるのだろうか」と刻まれていた。道路の反対側には「函館市元町末広町伝統的建造物群保存地区保存地区は、弥生町、大町、末広町、元町あよび豊川町の各一部て、面積約1 4 . 5へつタールの範囲てす。函館は、安政6年(1859年)に長崎・横浜とともに、我ガ国最初の開港場として開かれ、以来、外国買易や北洋漁業の基地として、また、北海道の玄関口として繁栄してきたまちてす。この保存地区は、その中心的な役割を果たしてきたところてあり、現在でも、旧外国公館や各宗教施設、洋風の公共施設や煉瓦造の倉庫群、掘割りなどのほか函館独特の上下和洋折衷様式の町家や洋風・和風の住宅等か混在して、異国情緒豊かな町並みを形成しています。函館市では、こうした町並みを、末長く後世に伝え残すため、昭和63年12月に函館市西部地区歴史的景観条例により「伝統的建造物群保存地区」を定めました。平成元年4月には北海道で初めて、国の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定を受け、貴重な町並みの保護保存に努めています。」「異国への夢」佐藤正和作黒船が来航した時代、船員となって 世界を旅する夢を抱く箱館の少年。佐藤正和は、1973 北海道函館市生まれ。「基坂」周囲の観光案内図そして「旧イギリス領事館(開港記念館)」1913(大正2)年築、1934年まで領事館として使用。1992年改装して開港記念館として一般開放。2009年、全面リニューアル。内部にはティールーム、英国雑貨店併設。1859(安政6)年の開港とともに、アメリカ、ロシアに次いで函館では3番目に開設された領事館。最初は当時、現在の弥生小学校付近にあった称名寺内に仮設、1863(文久3)年に現在のハリストス正教会(函館市元町3)付近に新築した後は、幾度かの大火に見舞われ、現在の建物は1913(大正2)に竣工したものです。1934(昭和9)年に領事館としての役目を終えて閉鎖され、1992(平成4)年に復元されて以降は、開港記念館として一般開放されている。函館市指定文化財(有形文化財)。旧イギリス領事館の窓枠の青と白壁の建物。「函館市旧イギリス領事館(開港記念館)営業案内板」「旧イギリス領事館(開港記念館)箱館にイギリス類館が新かれたのは、安改6年( 1859年)日本最初の貿易港として開港した時のことで、箱館ではアメリカ、ロシアに次いで3番目の領事館として、初代領事ホジソンが称名寺に開設した。文久3年( 1863年)に現在の元町のハリストス正教会の西隣に領事館を新築したが、数度の火災にあった。この建物は、イギリス政府工務省上海工事局の設計により、大正2年(1913年)に竣工したものであり、昭和9年(1934年)の閉鎖まで領事館として使用されていた。平成4年( 1992 ) 8月からは、開港記念ホール、開港の歴史を伝える展示室、旧外国公館の雰回気の中でお茶やお菓子を楽しめるカフェを設け、一般公開している。 函館市」」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.16
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次に「函館市青函連絡船記念館 摩周丸」に向かう。途中の道路脇にはホタテの貝殻がすだれ状に。何かの目的で天日乾燥しているのか、それとも箱館の風物詩としての展示か?左手に函館朝市 どんぶり横丁市場。「朝市 函館の朝は早い」案内板。函館の朝は、ここ朝市から始まるといわれるように、朝市の人々の朝は早い。まだ夜も明けぬ午前3時半ば、昔ながらの裸電球に日が灯り、商いの準備が始まって行く。ここ函館朝市は、戦後の物不足の時代から、函館市民の食生活を支え続け市民の台所として親しまれてきました。その昔朝市は、現在の函館市役所裏手に近隣農家のおばさんたちが農作物を持ち寄り、野菜を中心とした露店の集まりが始まりました。やがて段々とその規模は大きくなり、昭和32年(1957)、現在の場所へと移り、野菜ばかりではなく陸揚げされたばかりの海産物を地元の漁師達が持ち寄った乾物屋や花屋、やがては衣料品・雑貨などを扱う商人達までもが集いはじめ、今では北海道一と呼ばれる「函館朝市」が誕生したのです。今でも変わらず市場内は日の出とともに、徐々に活気を帯びて行き、、威勢のいい売り声がどこからともなく響いて来ます。いい食材を求め、早朝は、地元郷土料理店などの仕人れ客が目立ちますが、やがて午前7時を過ぎると観光客や一般客でにぎわい、そんな朝の光景が幾度となく続き函館朝市の歴史を築いてきたのです.今でもこの広いドームの中には、朝市発祥当時をしのばせる農家のおばさん達や、地元漁師の方々が旬の野菜や新鮮な海の幸を並べ、素朴で人情味あふれる函館弁とともの、皆様のお越しをお待ちしております。」そして「函館市青函連絡船記念館 摩周丸」の入口表示が。1988(昭和63)年3月13日の青函連絡船最後の日まで運航していた摩周丸を実際の乗り場であった旧函館第二岸壁に係留・保存して公開しているのであった。明治41年から昭和63年まで就航した青函連絡船の一隻、二代目摩周丸を係留し公開しているのだと。摩周丸の船尾を見る。津軽丸型連絡船の5番艦で昭和40年建造。就航期間は22年9か月、運行回数は3万5493回、その距離は約400万キロメートルに達する。操舵室・無線室が現役そのままに再現されており、船内には、歴史や船の構造が分かる展示コーナーや体験コーナーなどがある。青函連絡船では、1925(大正14)年から鉄道車両ごと船で運ぶ「貨車航送」が始まり、船の中にレールが敷かれ、陸上のレールと接続して、海上輸送をしていました。その積み込み口が、函館駅側から見える船の後部にあるのだと。よって船尾を開放すると内部に車両甲板があり、線路が船内に敷かれているのであろう。「ともえ大橋」。ベイエリアの湾岸に沿って走る、全長1,924mの高架道路が1997年開通。摩周丸は、八甲田丸・大雪丸・羊蹄丸・十和田丸・空知丸・檜山丸・石狩丸とともに、青函連絡船の最後になる航海を飾った一艘。前方には函館山が見えた。船首側まで進む。全長:132m型幅: 17.9m旅客定員:1200名。乗組員:50名車両搭載数:48両(ワム換算値)航海速度:18.2ノット(時速33km)昭和40年6月30日に処女航海し、青森-函館間を3時間50分で結んでいたと。ズームで。4階に操舵室・無線通信室があると。箱館ドック内には津軽海峡を縦断し大間~箱館を往復する「津軽海峡フェリー」が停泊中。オーバーホール中のようであった。日が次第に西に傾き函館湾は「光る海」に変身中。遠く北の方向には「北海道駒ヶ岳」の山頂の勇姿が。前方の「ふれあいイカ広場」にはヨットの帆の如きモニュメントが。ヨットではなく「イカモニュメント」と呼ばれている模様。平成6年(1994年)2月に3パイのイカが群れ合う姿を表したモニュメントが設置され開設されたのだと。そして巨大な錨も。摩周丸のすぐ横にあるのが、この貴重な「改造型」と呼ばれる錨。青函連絡船の錨には、当初は一般の船舶でも使われているJIS型と呼ばれるものが使われていたが、1954(昭和29)年の台風で洞爺丸遭難という大惨事に見舞われ、国鉄は錨の改造に着手した。1963(昭和37)年ごろにJIS型錨を改造して、把駐力を高める試験を実施。その際に使われた「改造型」と呼ばれる錨が、1992(平成4)年、旧函館桟橋に函館シーポートプラザ(当時)がオープンした際に移され、今も展示されているのだと。特に説明等はなかったが、現存しているものはこれ1つだけという珍品中の珍品であると。前方の「シーボート公園」の中にも像が立っていた。小寺真知子作「青・海・テティス(海の女神)」。小寺真知子(1950-2012)は函館市出身の彫刻家。北海道教育大学卒業後、イタリアに留学。ローマを拠点に活動した。函館には多くの小寺作品が設置されている。テティスはギリシア神話に出てくる海の女神で、アキレウスの母。「光る海」を背景に手を広げるテティス(海の女神)。そして箱館駅前に駐めた車に戻る。途中、「函館朝市」手前のシーフード・海鮮料理店・海光房 (Kaikoubou)店頭の水槽には元気に泳ぎ回るスルメイカ?の姿が。以前、函館を訪れた折、このイカの活き造りを食べたが、動く脚をワサビ醤油に付け口に入れたが、吸盤が口の中にくっついて苦戦したことを想い出したのであった。ホタテ貝。左側に目があるようなので、ヒラメであろうか?巨大なミズダコも。函館市の汚水マンホール蓋。五角形は100名城の一つ「五稜郭」の縄張りで中の建物は、国の重要文化財の旧函館区公会堂をデザイン。 左「HAKODATE」の下に「おすい」、右に「旧函館区公会堂」の文字。コンビニエンスストア・ハセガワストア ベイエリア(左)とラッキーピエロ ベイエリア本店(右)の賑やかな看板。「西波止場」はショッピングモール。そして「金森(かねもり)商船株式会社」のビル。石碑と「赤レンガ倉庫」の案内板。金森商船株式会社が管理・運営を行う「施設案内板」。金森赤レンガ倉庫は、北海道函館市にある赤レンガ倉庫群の名称。金森商船株式会社が管理・運営を行っているのだ。金森商船は、大分県出身の実業家、初代渡邉熊四郎が明治時代に開業した「金森洋物店」が起源。現在はショッピングモールやビアホール・レストランが入居する、函館の観光名所となっている。この地域一帯は重要伝統的建造物群保存地区、街並みは北海道遺産に選定されている。函館市末広町14番12号。「箱館ベイエリア~西部地区周辺マップ」「金森赤レンガ倉庫群」。明治末期に函館で最初の営業倉庫として建造された金森[かねもり]倉庫群。港に面して赤レンガの倉庫が立ち並ぶ様は函館を代表する風景の一つ。5棟の倉庫が改装され、金森赤レンガ倉庫の名で利用されている。倉庫の外観はそのままに、ショッピング街の金森洋物館、函館の味覚が味わえるレストラン、多目的イベントホールとして活用され、観光客でにぎわう。夜はライトアップと電飾で彩られ、昼間とまた違った表情になる。トレードマークの「曲尺」に「森」の字は、金森洋物店の商標である。人力車の姿も。「函館港と倉庫群安政元年(1854年)4月、米国のペリー提督が5隻の艦船を率いてこの港に姿を現わし、箱館の住民を大いに驚かせたが、ペリー著「日本遠征記」に”世界の最良港の一つ”と記されているように、舟が出入りしやすく、安全な港として国際的に名を知られた港である。箱館港は、北海道の玄関口であるばかりでなく、安政6年(1859年)長崎、横浜とともに日本最初の貿易港として開港され、欧米文化が上陸した港である。また、江戸時代後期に高田屋嘉兵衛が国後、択捉両島の漁場を開拓して以来、北洋漁業の根拠地として発達した港でもある。この赤レンガの金森倉庫は、明治40年(1907年)頃の建築。レンガを2枚半の厚さに積み上げた外壁、木骨の柱で、函館港の歴史を語り継ぐシンボル的存在であり、時折り、テレビ、映画のロケーションの場にもなっている。」「日本最初の気候測量所跡この辺りは、新島襄の海外渡航を助けた福士成豊(日本で最初に西洋型の船を造った続豊治の次男)が明治5年(1872年)ブラキストンの機械を譲り受け、日本で最初の気象観測をする「函館気候測量所」を開設した所である。」「金森赤レンガ倉庫」の建物の間を抜けて進む。倉庫内にはレストラン、食料品店、土産物店があったが、今回は時間の制約もあり倉庫内は立ち寄らなかった。「金森赤レンガ倉庫」案内板。営業倉庫として函館で初めて倉庫業を行った。初代・渡邉熊四郎は、1863年、24歳の時に長崎からここ函館にやってきました。その後、1869年旧金森洋物店(現市立郷土資料館)・旧金森船具店で輸入雑貨や船具の販売等、数々の業績を残しました。特に社会、文化事業に果たした役割は大きく、学校の建設、公園や水道施設の整備など、多くの公共事業に私財を投じました。その熊四郎がこの地に倉庫業を始めたのは1887年。当時の倉庫は、1907年の大火で焼け落ち、その後すぐに再建工事を行いました。現在の倉庫は1909年に完成した建物です。そして「古稀庵」。国選定の重要伝統的建造物群保存地区となっている北海道函館市末広町にある建物。1909年(明治42年)に海産物商「渡辺商店」の店舗として建築。木造二階建、和洋折衷様式の建物であり、能登半島から大工を呼んで建築に当たらせ、ヒノキが使われている。また、建物に付属して土蔵造二階建の蔵も建築され、こちらも伝統的建造物となっている。そして「箱館高田屋嘉兵衛資料館」。「箱館発展の恩人」と称される豪商・高田屋嘉兵衛は、私財を投じて箱館の基盤整備事業を実施し、造船所を建設した。その関連資料と北前船にまつわる資料が展示されている。しかしこの日は閉館中であった。「高田屋嘉兵衛江戸時代末期の豪商、回漕業者、高田屋嘉兵衛は明和6年( 1769年)淡路島に生れた。28才のとき、北前船「辰悦丸」て箱館(函館)に来航、以後、箱館を本拠地として北洋漁業の開拓、本州各地との交易の発展に尽力した。幕府はその功績を認め寛政12年( 1800年)嘉兵衛に苗字帯刀を許した。当時の寒村箱館か港として発展できたのは嘉兵衛の力によるところか大きい。更に嘉兵衛は、いわゆるゴローニン事件解決の立役者であった。1812年ロシアの海軍将官ゴローニンか北方領土侵犯の疑いにより捕えられたとき、ロシヤは報復としてエトロフ島回航中の嘉兵衛を捕え投獄した。嘉兵衛は少しも臆せす、国土劫掠の非を難し、両国融和の道を説いた。ロシヤは嘉兵衛の勇気に感服し謝罪した。嘉兵衛は箱館奉行に懇請、ゴローニンを釈放させ、以後両国の平和友好が促進された。幕府は円満解決の功績を称え賞詞を与えた。文政10年( 1827年)波乱とロマンにみちた59才の生涯を閉した。」「箱館高田屋嘉兵衛資料館」は閉館中。そして「旧茶屋亭」。函館赤れんが倉庫街のそばにあるレトロモダンなカフェ。明治末期に建てられた和洋折衷建築が、異国情緒あふれる函館らしさを醸し出しているのだと。そして1本の電信柱。これが「日本最古のコンクリート電柱」「日本最古のコンクリート電枉この電柱は、大正12年( 1923年) 10月、当時の函館水電会社(現北海道電力)が健てたもので、日本最古のコンクリート電柱である。高さ10メートルのこの電柱は、現場打ち工法で、底辺が47センチメートル四方、上辺が19.5センチメートル四方の鉄筋コンクリート造りで、角錐形という珍しいものである。火災が頻繁に発生した当時の函館では、この頃から耐火建築が増えはじめたが、この電柱もそのあらわれであり、木柱が普通であった当時から今日まで、耐用年数を越えてもなお現役として街の移り変わりを見守っている。また後に同形の電柱(昭和46年に撤去し、平成8年に再建)が建物をはさんで建てられたため、「夫婦電柱」と呼ばれて市民の話題となった。」現場打ち工法のコンクリート電柱にびっくりしたのであった。そして函館山に向かう「開港通り」、国道279号・函館市電通りの先に「二十間坂」が見えた。その名の通り、道幅が二十間(約36メートル)ある。何度も函館を襲った大火に備えて整備されたもの。冬期にはライトアップされ、明治館前まで続くイルミネーションを楽しめる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・
2020.11.15
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そしてJR駅レンタカー 新函館北斗駅営業所で約1000ccのトヨタROOMYをレンタルしこの日の函館の街の観光に向けてスタート。国道227号に向かって進む。国道227号を函館駅方面に向って進む。今回も運転は旅友Sさんが担当して下さった。私は助手席で補助ナビゲーター。北斗市七重浜にて右折。前方には函館湾が見えて来た。この日は日曜日でもあり街中に近づくにつれて車の数も増えて来た。そして最初に訪ねたのが、「土方歳三最期の地」。北海道函館市若松町33−6。横の駐車場に車を駐め散策開始。入口にあったのが「猿田彦塚の碑」。「猿田彦塚の碑昔、この辺りは一本木と呼ばれ、箱館村と亀田村との境になっていました。猿田彦塚は、文化14年(1817)、一本木付近に建立され、「天保九年御巡見要用録」という記録書には、箱館村と亀田村との境界標であったと記されています。この塚は以前、旧若松小学校西側の鶴若稲荷神社の境内にありましたが、鶴若稲荷は昭和20年に疎開のため移転し、取り壊された跡には家屋が建ち、塚は無くなり見つかりませんでした。しばらくして、昭和31年に付近の民家の庭から字を刻んだ猿田彦塚の破片の一部が発見されました。ここにある二つの碑は、発見した石の破片を使用して昭和33年に猿田彦塚を復元したものです。塚の表面には「猿田彦大神、鈿女命、右箱左亀」また、側面には建立年と、向って左の小碑に一部復元してある文字が刻まれていました。猿田彦と天鈿女命(あめのうずめのみこと)とは夫婦であり、猿田彦は道案内の神として知られている。函館市」そしてここ「若松緑地公園」の南側にあったのが「土方歳三最期の地」碑。石碑とその隣に「一本木関門」が。土方歳三は箱館奪回を目指し、50名の兵を率いて「一本木の関門(現・若松町)」を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが、銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。「土方歳三最期の地」碑。碑の前には多くの献花が、土方歳三の人気の高さが感じられたのであった。近づいて。「土方歳三」の写真。「土方歳三最期の地新撰組副長として京都の町に勇名をはせた土方歳三は、鳥羽伏見の戦いの後、新撰組を率いて各地を転戦して北上し、仙台で旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が指揮する脱走軍艦隊と合流した。明治元年(1868年)10月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立。土方は、その陸軍奉行並の要職についた。翌2年4月、新政府軍の箱館総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現北斗市)だけは最後まで落ちなかった。しかし、同年5月11日、ついに箱館も新政府軍の手に落ちた。土方は、箱館奪回を目指し、約50名の兵を率いて一本木(現若松町)の関門を出て、箱館の市中に向かい、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ、波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。函館市」ネットには司馬遼太郎氏著『燃えよ剣』より以下引用文が。『ついに函館市街のはしの栄国橋まできたとき、地蔵町のほうから駈け足で駈けつけてきた増援の長州部隊が、この見なれぬ仏式軍服の将官を見とがめ、士官が進み出て、「いずれへ参られる」と、問うた。「参謀府へゆく」歳三は、微笑すれば凄味があるといわれたその二重瞼の眼を細めていった。むろん、単騎斬りこむつもりであった。「名は何と申される」長州部隊の士官は、あるいは薩摩の新任参謀でもあるのかと思ったのである。「名か」歳三はちょっと考えた。しかし函館政府の陸軍奉行、とはどういうわけか名乗りたくはなかった。「新選組副長土方歳三」といったとき、官軍は白昼に竜が蛇行するのを見たほどに仰天した。歳三は、駒を進めはじめた。士官は兵を散開させ、射撃用意をさせた上で、 なおもきいた。「参謀府に参られるとはどういうご用件か。降伏の軍使ならば作法があるはず」「降伏?」歳三は馬の歩度をゆるめない。「いま申したはずだ。新選組副長が参謀府に用がありとすれば、斬り込みにゆくだけよ」あっ、と全軍、射撃姿勢をとった。歳三は馬腹を蹴ってその頭上を跳躍した。が、馬が再び地上に足をつけたとき、鞍の上の歳三の体はすさまじい音をたてて地にころがっていた。なおも怖れて、みな、近づかなかった。が、歳三の黒い羅紗服が血で濡れはじめたとき、はじめて長州人たちはこの敵将が死体になっていることを知った。歳三は、死んだ。』と。「若松緑地公園」の池には水がなかったがこれもコロナ禍の影響か。「土方歳三 掲示塔」函館に縁の深いの人々が円筒状の「掲示塔」で紹介されていた。五稜郭築造150年祭の記念事業として実施されている「函館リトファスゾイレ/ヒストリア・ハコダディ」であるとのこと。リトファスゾイレとは、ドイツ語で円筒形掲示塔のこと。函館の幕末から開港・明治までの歴史上の人物にスポットを当て、五稜郭や西部地区など観光客が多い場所を中心に函館市内各所に設置し、函館の激動の歴史を紹介しているのだ。こうした手法による歴史展示は、国内では初めてのものだと。「構造体には、ボイド管という工事用の建築資材を採用していると。建築工事でコンクリート円柱を建てる際、このボイド管を型枠として中にコンクリートを流し込み、あとでボイド管をはがすのですが、強度・耐久性に優れているので、そのまま掲示塔に使えると着目したのです。今回の事業では、直径700~900mmの3種類のボイド管を使用しています。」とこれもネット情報から。真っ赤な地に白抜きの文字で「旧幕府軍陸軍奉行並・函館市中取締裁判局頭取 土方歳三」と。歴史解説部分は絵入りで。「箱館戦争」絵図。「新政府軍函館総攻撃 土方歳三 激闘の中戦死を遂げる1869 (明治2 )年5月11日(旧暦)、早朝午前3時から新政府軍の箱館総攻撃が実施された。新政府軍陸軍部隊は箱館山の裏側の寒川付近から山上へ登頂し、薬師山から愛宕山、七面山を下り箱館市街地へ殺到し、短時間で箱館市街地の制圧に成功して、箱館守備隊の旧幕府軍は弁天台場へ孤立する状態となった。また、箱館港内へは早朝から新政府軍艦甲鉄、朝陽、春日が進攻し、弁天台場や旧幕府軍艦(回天・蟠龍)へ砲撃する海戦となった。一時は、旧幕府軍艦蟠龍が新政府軍艦朝陽を爆沈させたが、その後に旧幕府軍艦の2艦は操船不能となり、乗組員は上陸し弁天台場や五稜郭に敗走した。旧幕府海軍は全滅状態となり、函館港内も新政府軍の制圧下に置かれた。また七重浜方面の戦闘も新政府軍が圧勝することとなり、旧幕府軍兵士は五稜郭へ敗走した。旧幕府軍は五稜郭、千代ケ面への連絡路も断たれた。『箱館戦争図』は、この新政府軍箱館総攻撃が決行された当日の状況が詳細に描かれた絵図である。明治元年から2年にかけて行われた箱館戦争は、この最大の決戦を境に終結を迎えることになった。総攻撃の翌日から降伏勧告の交渉が開始され、5月18日に旧幕府軍が降伏して箱館戦争は終結した。」「旧幕府軍陸軍奉行並・箱館市中取締裁判局頭取 土方歳三 1835~18691835(天保6年)武州多摩郡石田村生まれ。1863 (文久3)年、幕府兵募集に参加し上京。同郷の近藤勇と新選組を結成し、副長を務めた。戊辰戦争時には鳥羽・伏見の戦い、東北戦争で各地を転戦し、仙台で旧・幕府軍に合流して蝦夷地へ渡り、函館戦争へ参戦した。蝦夷地上陸直後の1868 (明治元)年10月22日、函館進攻へ出撃。鷲ノ木から砂原、鹿部、川汲峠、湯川村経由の間道部隊を率いて、箱館へ進軍した。引き続き11月には、松前・江差の攻略部隊を率いて進軍して、蝦夷地平定に大きく貢献した。蝦夷地仮政権の陸軍奉行並およびの戦闘に奮戦した。同年5月11日(旧暦)、箱館や弁天台場を奪回・救出のため、一本木関門の突破をはかり、箱館市中へ向う途中で銃弾を受けて戦死した。享年35歳。」「旧幕府軍 陸軍奉行並添役 大野右仲(うちゅう)1837 (天保7 )年、唐津藩士の家生まれ。1856 (安政3 )年、晶平坂学問所て学び、戊辰戦争では、小笠原長行に随行して会津入リ、この後に仙台で新選組へ入隊した。旧幕府軍に合流して夷地へ渡り、箱館戦争へ参戦した。箱館戦争では、陸軍奉行並添役に就任し、土方歳三の補佐役を務めた。大野の著書「函館戦記」には、1869 (明治2 )年5月11日、土方歳三と一本木関門へ向い、土方に箱館方面への進撃を命じられ、その後に千代ヶ岡陣屋へ引き返した時点で、大島寅雄、安富才助らから土方の戦死を知らされたことが記されている。大野はこの後、相馬主計と行動を共にして弁天台場で降伏した。戦争終結後に新政府に出仕し、久美浜県権参事、豊岡県権参事および千葉、長野、青森各県の要職を歴任した。1911 (明治44 )年に死去した。享年76歳。」「陸軍奉行並添役 安富才助1839 (天保10年)生まれ。1864 (元治元)年新選組へ入隊。新選組では、伍長、諸士調兼監察方を歴任。戊辰戦争時は、会津で土方らと合流し副長を努め、蝦夷地へ渡った。箱館戦争では、陸軍奉行並土方歳三の直属の部下となり、各地の戦闘に随行した。1869(明治2 )年5月11日(旧暦)、安富才助が五稜郭から一本木関門へ向かい、土方歳三が被弾して戦死したことを知り、この後に土方隼人への書状の中で、「同五月十一日、箱館瓦解の時、町外れ一本木関門にて、諸兵隊の指揮を取り、遂に同所にて討死にせられ・・」と記して、立川主税に託したとされる。土方家に現存する、土方歳三の戦死通知であった。1870(明治3 )年放免となった後、1873 (明治6 )年に死去した。享年35歳」「函館大戦争之図 永島孟斎 筆」この錦絵は、箱館戦争における最大の決戦となった、明治2(1869)年5月11日の新政府軍箱館総攻撃時の旧幕府軍の戦闘の様子が描かれています。明治元(1868)年に蝦夷地南部を占領した旧幕府軍に対して、新政府軍は反撃を開始します。明治2(1869)年4月9日に乙部へ上陸、その後に江差を制圧、一路、箱館方面に向けて進撃し、4月17日に福山城を奪回します。新政府軍は、4月24日に箱館港入口付近での旧幕府軍との海戦勝利の後、旧幕府軍が敗走した箱館に対して、5月11日早朝から総攻撃を決行し、短時間で制圧しました。旧幕府軍の幹部は、箱館・弁天台場の奪回・救出に出撃を決定し、副総裁松平太郎を筆頭に陸軍奉行並土方歳三、額兵隊、見国隊、神木隊、士官隊などで一本木関門突破を謀り、また、陸軍奉行大鳥圭介、衝鋒隊古屋作左衛門、伝習歩兵隊大川正次郎などが桔梗・大川方面の防戦にあたった5月11日の旧幕府軍の動向が、錦絵に描かれています。「旧幕府軍 軍監並(衝鋒隊 軍監)今井信郎(のぶお)1841 (天保12 )年生まれ。幕臣で、直心影流榊鍵吉の門下生となり、講武所師範代を務めた。1867 (慶応3 )年、京都見廻組の与カ組頭に就任し、京都近江屋での坂本龍馬暗殺事件に関わったといわれている。この後、江戸へ帰り古屋佐久左衛門と衝鋒隊を組織し、戊辰戦争では越後・会津を転戦した後、旧幕府軍へ合流し蝦夷地へ渡り、箱館戦争へ参戦した。蝦夷地上陸直後に衝鋒隊副隊長として、土方歳三率いる間道部隊に加わり、鷲ノ木から川汲峠を越えて箱館へ進軍し、蝦夷地仮政権では軍監並歩兵頭並海陸軍裁判役へ就任した。今井は、古屋とともに衝鋒隊を率いて、森村鷲ノ木、鹿部、川汲方面を守備し、新政府軍攻撃時には大野ニ股ロの戦闘へ参戦した。1869 (明治2 )年5月1 1日(旧暦)の新政府軍箱館総攻撃時には、大川・桔梗野方面での戦闘に奮戦したが、五稜郭へ敗走した。今井は、箱館戦争時の戦記である「蝦夷之夢」を記していて、その中に「五稜郭よりは副総裁松平太郎、陸軍副都督土方歳三、額兵隊、見国隊、神木隊、彰義隊を率い箱館を取り返さんと進撃、一本木関を守りたる長州、福山の兵を破って、市街に衝き入り血戦し、異国橋辺にて土方歳三、ニ関源ニ、大館昇一郎、後藤松三郎討死し、」と土方歳三の戦死場所は「異国橋辺」としている。」少し離れて再び「土方歳三 掲示塔」を見る。公園の後ろにあったのは「函館市 総合福祉センター・あいよる21」。そして車に戻り函館駅に向かい、駅前の駐車場に入る。JR函館駅前の赤いモニュメント。工業デザイナー、林昌平氏による作品・「OYAKO」。2003年8月~12月に「ふれあい」をテーマに全国から公募され、寄せられた272点の応募作品の中から選ばれたものであると。親がお腹の下に我が子を隠して守る姿を形にしている。最も基本で原始的なふれあいである親子、そして親の防御本能を題材に選んだという。「まず触って、内側に入ってみてほしい。いろいろな表情が楽しめます」と作者は語っているのだと。「はこだて観光案内」。函館市は、北海道南部(道南地方)に位置し、札幌市・旭川市に次ぐ北海道第3位の人口(約25万人)を有する中核市。北海道南端の渡島半島南東部に位置し、天然の良港である函館港によって北海道と本州を結ぶ交通結節点、道南地域の中心都市として発展してきた。毎年500万人近い観光客が訪れる観光都市となっており、市町村の魅力度ランキング調査で京都市に続き2位にランクインする都市になっているのだと。函館都市圏は観光業の他に、水産業や食品関連産業、医療福祉を主要産業としてきたが、一方で人口減少が著しく、2014年(平成26年)4月1日から市域のすべてが「過疎地域」に指定されているのだと。「函館市民憲章」碑。 (昭和52年5月3日 制定) 一、真心あふれる函館市民、あたたかいまち 一、健康で働く函館市民、にぎわうまち 一、文化を誇る函館市民、はぐくむまち 一、自然を生かす函館市民、きれいなまち 一、郷土を愛する函館市民、のびゆくまち 安全都市宣言(昭和36年3月6日 制定) 核兵器廃絶平和都市宣言(昭和59年8月6日 制定) 国際観光都市宣言(平成元年8月1日 制定) スポーツ健康都市宣言(平成4年10月10日 制定) いきいき長寿都市宣言(平成6年12月10日 制定)。函館駅前の花壇も色彩豊かに。「函館市国道元標」を探して交差点方向に向かって進み、函館駅を振り返る。「函館駅前」交差点の角に何かがあるのを発見。左手前方のキラリス函館(Kiralis Hakodate)内には科学博物館「はこだてみらい館」があるとのこと。これが「函館市国道元標」。そしてその先には「函館市電」の姿が。「函館の路面電車は、温泉旅館や別荘などが立ち並んでいた「函館の奥座敷」湯の川温泉と、当時の函館区内の都市交通を担うため、1897(明治30)年に開業した「亀函馬車鉄道」が元になっている。馬車鉄道はは馬が客車を牽くもので、あまり速度が出ず、軌道上で乾いた馬糞が風に舞う「馬糞風」などの問題を抱えていた。開業時に技術協力を受けた東京馬車鉄道は、1903(明治36)年に路面電車に切り替え。函館でも、電力会社「函館水電」が馬車鉄道の会社を買収し、電車用の車庫の建設、架線工事、電車の購入などを進めた。1913(大正2)年6月29日、最初の路線となる東雲町(後の労働会館前、1992年廃止)~湯の川間が路面電車での運行に切り替えられ、翌年12月までに全線が切り替えられた。路面電車の運行開始は札幌や秋田・仙台より早く、東京より北では初めてのことであった。」とウィキペディアより。「函館市 国道元標」と。国道元標とあり「道路元標」とは表現されていなかった。日本橋にあったのは、たしか「日本国 道路元標」であったが。「函館市国道元標北海道の玄関函館市は、また、北海道における国道の起点にもなっている。前方交差点中央にある国道元標より、北方向へは、一般国道5号が長万部町・小樽市を経由して札幌市に至り、東方向へは、一般国道278号が恵山町を経由して森町で5号に合流する。さらに、南方向へは、一般国道279号が 1.8 km 先の函館市末広町から津軽海峡を渡り、青森県の野辺地町へと向かっている。いずれの国道も歴史と伝統を誇る幹線道路であり、函館近郊の代表する区間は、5号「赤松街道」278号「漁火通」、279号「海峡通」の愛称で呼ばれ多くの人々に親しまれている。」函館駅前交差点南西側の北洋銀行前には裸婦像が。秋山沙走武(すすむ)作「陽」、1996.5.12設置。台座込みで高さは2.8m。そして函館市雨水マンホール蓋。「函館市の魚「イカ」をデザインしたマンホール蓋です。 波間に仲良く並んだ3匹のイカ。足が9本しかないように見えますが、実はバランスをとるため、後ろに1本隠れているんです。 イカは函館市で水揚げされる魚種の中で漁獲量が最も多く、とれたてをさばいた「いか刺し」や「いかソーメン」は函館ならではの料理です。 イカ釣り漁船の「漁火(いさりび)」は函館の夜景に一層の彩りを加え、函館港まつりでは多くの市民が「いか踊り」で盛り上がるなど、函館市民にとってイカは身近で親しみのある魚。 」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.14
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この日は10月18日(日)、いつもの旅友Sさんに誘われ阪急交通社の『【GoToトラベルキャンペーン適用】 往復北海道新幹線利用! 函館フリープラン 4日間』👈リンクの旅に行って来ました。3泊4日、往復新幹線指定席、ホテル代、4日間のレンタカー付きで46,500円/人Go To キャンペーン割引(35%)付で-16275円/人なので総計30,225円/人。そして現地函館の地域共通クーポン券7,000円が付き、よって実質は23,225円/人の超格安旅行。東京駅から新函館北斗駅への「片道」乗車券は12,100円、新幹線指定席は11,330円の合計23,430円ですので、それよりも安い嬉しいツアーだったのです。東京駅出発9:36発のはやぶさ13号の切符が送付されて来ました。当日、旅友とは9:15に東京駅・東北新幹線北口改札口で待ち合わせて無事合流。7,000円分の「地域共通クーポン券」。9:36発の新函館北斗行きの、はやぶさ13号は全車指定の10両編成。はやぶさ13号が23番線ホームに入線。指定席は2号車15番A&B席。定刻9:36に東京駅を出発し新函館北斗駅までの4時間弱の移動のスタート。右手に筑波山が姿を現した。仙台駅に向かって順調に進む。空は快晴。仙台市民病院が右手に。広瀬川を渡る。仙台手前のNTTドコモ仙台ビルの電波塔が右手に。そして定刻に仙台駅に到着。時間は11:06。北上山地のほぼ中央に位置する、日本百名山のひとつ早池峰山(標高1917m)であろうか?そして盛岡駅手前に。NTTコム盛岡ビルの紅白の鉄塔が。姫神山(ひめかみさん)が右手に見えた。姫神山は、岩手県盛岡市にある山である。独立峰でピラミッド型をした山容が特徴。標高1123.8m。日本二百名山の一つである。山麓の渋民村(現・盛岡市渋民)出身の歌人石川啄木がこよなく愛したことで知られる山。新青森駅に近づいていくと、右手前方に青森ベイブリッジが見えた。1994年に全線供用開始した、青森県のランドマーク。全長は1,219mで、「青森(AOMORI) 」の頭文字「A」をかたどったデザインが特徴的。時間は12:34、東京駅を出て3時間。そして東京駅で買った幕の内弁当を楽しむ。新青森駅を出て津軽半島を青函トンネルに向けて北上する。新青森駅から新函館北斗駅までの148.8 kmは、JR北海道が運営しているのだと。未開業区間のうち新函館北斗駅 - 札幌駅間・約211.5 kmは2030年(令和12年)度末に開業する予定であるとのこと。進むにつれて陸奥湾が右手に時々姿を現す。そして青森県今別町から青函トンネルに入る。青函トンネルは、津軽海峡を横断し本州と北海道を結ぶ延長53.85kmの長大海底鉄道トンネル。北海道新幹線が通る海峡線新中小国信号場~木古内間約85kmは、標準軌(軌間1435mm)の新幹線と、狭軌(軌間1067mm)の在来線が線路を共用する、いわゆる「三線軌条」となっており、このうち約54kmを占める青函トンネルは、すれ違い時の風圧を考慮して現在は160km/hに抑えられていたのだと。しかし、貨物列車の運行が少ない今年の12月31日から翌年1月4日までの各日、6時から15時30分まで青函トンネルを通過する新幹線上下各7本が210km/h走行すると。これにより東京~新函館北斗間の到達時間は、現行の最速3時間58分から3分程度短縮されるのだと。3分短縮する目的は、意味は??「昭和29年、台風による青函連絡船洞爺丸沈没という世界的にも大きな海難事故を契機として建設が促進された。海底部の掘削では4度の大出水事故による水没の危機を初めとした難工事の連続でしたが、様々な技術開発や工事関係者の努力と奮闘の末、昭和58年に先進導坑、昭和60年には本坑が貫通し、1988年(昭和63年)3月13日に津軽海峡線として開業した。開業後28年を経た平成28年3月には、北海道新幹線(新青森・新函館北斗間)が開業し、青函トンネルはその一部となりました。日本の国土を一体化させた意義は大きく、日本の20世紀遺産20選にも選ばれている。」とネットから。そしてあっという間の20分で北海道側の出口の北海道上磯郡知内町に。そして木古内駅の手前に。右手に津軽海峡が見えた。右手に函館山の姿が現れた。五稜郭タワーも。そして新函館北斗駅へと新幹線は更に北上。そして定刻に新函館北斗駅に到着。時間は13:34過ぎ。改札を出ると正面に鮮やかなそして色彩豊かなオブジェが。花々をイメージしたものであろうか?ズームで。新函館北斗駅舎を出て駅レンタカーに向かう。JR新函館北斗駅舎を振り返る。駅舎の右側は「北斗市観光交流センター」になっていた。駅のすぐ横にこの日から3連泊する「ホテル・ラ・ジェント・プラザ函館北斗」を確認。「カール・レイモンゆかりの地~ 1930年代の新函館北斗駅前には、当時日本最大のハムソーセージ工場がありました ~本物のハムソーセージづくり昭和10年の頃、後に新函館北斗となる本郷の駅前に、当時としては日本最大規模のハムソーセージ工場があった。その主こそ、ドイツからやってきた食肉加工技師カール・レイモンである。1919年に初めて日本を訪れたレイモン。その動機はサムライの国を見てみたいという素直なものであった。食肉加工や缶詰の技術を見込まれ、仕事で函館~カムチャッカ間を往復するようになったレイモンは、ステーキの美味しい勝田旅館の娘、勝田コウと恋に落ちる。海外へ駆け落ちしてまで一緒になった情熱家のレイモンは、許されて函館へもどると、1925年に本場のマイスターの技で本物のハムソーセージづくりを始める。函館駅前の若松町、五稜郭と規模を大さくしながら場所を移し昭和8年、本郷駅前に3千坪の土地を買い、牛35頭、豚310頭、羊30匹を飼い畜産施設や食肉処理工場を構えた。近隣農家にも畜産技術を伝えたため、地元農業は大いに振興した。それはレイモンが幾たびも北海道に提唱した畜産中心に循環型の自給自足を実現する産業構造「北海道開発プラン」をミニチュア版として実践してみせたものである。また、動物好きだったレイモンがライオンや熊、鹿、猿などを飼っていた一角は、地元の小中学生が遠足で訪れるなど、道内最初の動物園であったと言われている。当時の政策によリ1938年に工場を強制買収され、事業も禁じられるという苦難に遭うも戦後なた函館の地でハムソーセージづくりを再開したカール・レイモン。平和を愛した彼は、ヨーロッパは一つになるべきという意見書を欧州評議会に送っている。その一部は採用され、現在のEU旗にもレイモンのアイデアが活きていることが、感謝状からうかがい知れる。1987年に亡くなる迄の生涯を本物のハムソーセージづくりに捧げたカール・レイモン。彼の遺志と伝統の製法は(株)カール・レイモンに受け継がれている。」異国情緒あふれる函館元町でドイツ伝統のハム・ソーセージを作ったカール・レイモン。 【https://gift.pal-system.co.jp/shop/g/g1000-089-595/】よりそして「JR駅レンタカー 新函館北斗駅営業所」に到着したのであった。 ・・・つづく・・・
2020.11.13
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「お台場海浜公園管理事務所」を訪ねる。港区台場一丁目4番地、1Fにいた職員に訪ねると海上バス待合所・2階に設置されているとのこと。説明に従い進むと2Fのスタンプ置き場を発見。続日本百名城スタンプ「124 品川台場」を頂きました。「黒船来航と品川御台場の構築嘉永6年(1853) 6月3日のペリー来航は、江戸幕府を長い「鎖国」の眠りから覚ますことになった。ペリー退帆後、幕的はすぐさま江戸湾の海防強化の検討に人り、勘定吟味役格江川太郎左衛門英龍(堪庵)らによる江戸湾巡視の、内海防備のための御台場築造を決定した。築造計画は、西洋の築城書、砲術書などを参考にして、南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の御台場を築しようとするものてあった。工事は嘉永6年(1853) 8月末に着手され、昼夜兼行で進められた。土取人夫などは第一・第ニ・第三台場築造時で5,000人にも及び、総築造軽費は75万両という膨大なものとなった。第一・第ニ・第三台場は翌年7月に、第五・第六台場と途中で加えられた陸続きの御台山下台場は12月に竣工した。第四・第七台場は築造に着手したが、工事半ばで中止し、第八台場以降は末着手に終わった。最終的に6基完成した御台場は、徳川家康家に近い親藩・譜代とそれに準ずる家格を持つ大名によって、慶応4年(1868 )の幕府崩壊直前まで江戸湾防備の拠点として警備が行われた。」「品川御台場その後完成した6基の御台場は、明治6年(1873)に海軍省の管轄になり明冶8年( 1875 )に海第省から陸軍車に移管された.その後第三台場は第六台場とともに大正4年東京市に払い下けられ、同13年東京府知事によって史跡の仮指定を受け、同15年国指定史跡となる。その後、東京湾に浮かぶ6つの御台場は.、2つの史跡を残して埋め立てられたり、撤去されて姿を消していった.今なお当時の面影をしのはせる第三台場は、都立台場公園として人びとに親しまれている。」「品川御台場構築図」。南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の御台場を築しようとするものてあったのだと。「品川御台場その後完成した6基の御台場は.明治6年(1873)に海軍省の管轄となり、明治8年( 1875 )に海軍省から陸第省に移籍された。その後.第三台場は第六台場とともに、大正4年東京市に払い下げられ.同13年東京府知事によって史跡の仮指定を受け、同15年国指定史跡となる。その後、東京薄に浮かぶ6つの御台場は. 2つの史跡を残して埋め立てられたり、撤去されて姿を消していった.今なお当時の面影をしのばせる第三台場は、都立台場公園として人びとにしたしまれている。」現在の第三台場(台場公園)「現代によみがえる江戸湾と品川御台場フジテレビの球体望台から見える東京の風景を江戸時代に置き換える、という㈱フジテレビジョンによるプロジェクトのもと完成した高精度のCGパノラマ写真です。数多くの絵3と文書を一点すっ照らし合わせながら忠実に復元されました。現代と江戸時代との対比をおしみ下さい.」「東京湾の風景・江戸と現代」「第三台場」とその後ろに「レインボーブリッジ」を見る。「お台場海浜公園水上バスのりば」と「レインボーブリッジ」。スタンプをGETした後は、「第三台場」に向かって徒歩で進む。「お台場海浜公園」案内図。㈱フジテレビジョンのビル・FCGビル(エフシージービル)を振り返る。設計は丹下健三・都市・建築研究所が担当し、丹下健三が手掛けた巨大プロジェクトの中で最後に直接指揮をとった建築物。台場地区を象徴するランドマークとなっている。建物は縦横の比率を、ハイビジョンテレビの画面の縦横の比率と同じ16:9となっていると。2棟のビルの間にそびえる球体は直径 32m あり、「はちたま」という愛称。「お台場ランニングコース(4.0km)」案内図。再び「シーリアお台場一番街 1&2号棟」。「おだいばビーチ」を歩く。「第三台場」と「レインボーブリッジ」をズームで。「シーリアお台場一番街 1&2号棟」を見上げる。「第三台場」入口にあった「お台場海浜公園」案内図。海辺にはカルガモが。ズームで。くちばしは黒く、先端部は黄色、脚は橙赤色でよく目立つのであった。再びフジテレビのビルを見る。入口にあった「関東大震災、東京大空襲 犠牲者慰霊碑」。「東京は、関東大震災及び第二次世界大戦末期の空襲により甚大なる犠牲を被った。二度の被災により隅田川河口近くに位置したここ旧防波堤にも、漂着した犠牲者が数多くみられたという。これら諸霊に対し、故富川栄氏の呼びかけに共鳴した地元の心ある人々により、長い歳月に亘りたゆみなき供養が続けられてきた。いま、当地周辺は未来都市に発展すべくまちづくりがすすめられている。そして、ここお台場海浜公園も新たな海上公園として再整備することとなった。これを受け平成五年九月二七日当地での最後の慰霊祭が行われ、その後は都の施設にて慰霊が続けられることになった。この事実を後世に伝えるべくここに記録する。」「1853年、ペリーで知られる黒船の来航に億えて江戸幕府が品川沖に築いた砲台跡地です。1926年には「品川台場」として国の史跡に指定されました。公園内は青々とした芝生が茂っており、レインポーブリッジを最も近くで見ることができる穴場スポット。春は桜の名所となります。お台場に遊びに来た際には、歴史に触れあえる「台場公園」へぜひ足を運んでみて下さい。」「第三台場」への階段が前方に。階段を上がった場所から「レインボーブリッジ」を見る。「台場公園案内」。「都立台場公園のあらまし台場公園(第三台場)「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永六年(一八五三年)八月に着工、一年三カ月の間に六基が完成しました。現在は大正十五年(一九ニ六年)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。このうち第三台場は、昭和三年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放されています。周囲には、海面から五~七メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。また内側の平担なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などがあります。」「お台場海浜公園」図。「品川台場」内を見下ろす。水上バスが「お台場海浜公園水上バスのりば」に向かう。水上バス「ヒミコ」と「ホタルナ」は、アニメーターの松本零二氏がデザインを監修。メタリックな素材を用いた宇宙船のようなフォル厶で、今にも空へ飛び立ちそう。台場の南端の土塁上に、「砲台跡」が2基並んでいた。これは往時のものではなく、後世に作られたレプリカのようだ。ここが台場公園として開園したのは昭和3年(1928年)だそうなので、あるいは、そのときに作られたものであろうか?。左に「GRAND NIKKO」、手前に「ヒルトン東京お台場」。品川南埠頭方面を見る。再び「レインボーブリッジ」。眼下に見えたのが「品川台場」の「かまど」。先程スタンプを貰った「お台場海浜公園管理事務所」そして「フジテレビビル」が見えた。右手に「第六台場跡」。「レインボーブリッジ」下の右手に「東京タワー」が見えた。「東京タワー」をカメラで追う。更にズームで。「フジテレビビル」の上空には離陸した飛行機も。「はちたま」をズームして。「第六台場跡」をズームで。再び「THE TOKYO TOWERS MID TOWER」を見る。「品川台場」の土塁内側に降りる。南端角地に「かまど場」と呼ばれる土塁で囲まれた敷地が2区画あったと。「かまど跡」を近くから。平坦部中央には陣屋(兵舎)が置かれていたのだと。長さ45m、幅11m程の木造建ての陣屋であったと。陣屋(兵舎)の柱。南西の土塁内側に3基、南東の土塁内側に2基の弾薬庫が埋め込まれていたと。奥行き1、5m程の石材に囲まれた弾薬庫。そして「おだいばビーチ」に沿った遊歩道を歩き、駐車場に向かう。品川南埠頭方面を見る。そして駐車場に戻り帰路に。「お台場中央交差点」江東区青海1丁目にある「パレットタウン大観覧車」を見る。「東京ゲートブリッジ」を見る。そして「東京港臨海トンネル」に入る。そして暗くなった国道15号、国道1号を往路と同じルートで戻る。そして国道1号沿いの「かつや戸塚原宿店」でこの日も「カツ丼」を楽しんだ後に我が家までSさんに送っていただいたのであった。 ・・・END・・・
2020.11.03
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都内の続日本百名城・お台場に向かうために、東京湾アクアラインを利用することとした。国道297号を利用し北上し、「市原鶴舞IC」から圏央道(首都圏中央連絡自動車道)に入る。圏央道(首都圏中央連絡自動車道)は、日本の首都圏において神奈川県横浜市金沢区から東京都・埼玉県・茨城県を経由して千葉県木更津市に至り、東京都心からおおむね半径40 - 60kmの位置を環状に結ぶ高規格幹線道路(国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路))である。2025年には全線が開通予定であると。我が家の近くの「横浜湘南道路」は2024年(令和6年)の開通予定であると。 【https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/index00000036.html】より途中、左手に「高滝湖」にかかる赤いアーチ橋・県道168号線「加茂橋」。千葉県木更津市に入り「真里谷第一トンネル」が前方に。東京湾アクアライン・海ほたるまで25kmの案内標識。「木更津JCT」まで2.1kmの案内板。ここから、それぞれ館山そして千葉方面に分岐しているのだ。交通量も次第に増えて来た。そして「東京湾アクアブリッジ」に入る。東京湾を横断し、神奈川県川崎市と千葉県木更津市を結ぶ、東京湾アクアライン。川崎市側9.5kmは海底トンネル(東京湾アクアトンネル)だが、ここ木更津市側4.4kmは「東京アクアブリッジ」という長大橋で、トンネルと橋が直結される場所が人工島の「海ほたるパーキングエリア」。橋長さ4384m、実はこの橋が日本最長の橋。ネットから上空からの写真を。 【https://www.sankei.com/life/news/171216/lif1712160025-n1.html】より「海ほたる」まで1.2km。10km先の川崎浮島JCT案内板。そして前方に「海ほたる」が姿を現した。「海ほたる」は、トンネルと橋梁との接続を目的に設置された盛土式の人工島で、島の天端幅が100m、長さ方向が650mとなっており、島内には、豪華客船をイメ-ジした、海上に浮かぶ世界にも珍しいパーキングエリアとして休憩施設が設置されている。ここでは、横浜ベイブリッジ、東京タワ-、新宿の超高層ビル群、幕張メッセ等がよく見え、富士山まで望める360度の展望が楽しめるのだ。この日は時間の関係で立ち寄らずに通過。「東京湾を横断し、川崎市から木更津市を車でたった30分でつなげるアクアラインは、平成9年の開通当初、通行料金を「片道4千円」と設定。料金の割高さから利用者が伸び悩み、開通直後の1年間は、交通量が1日平均約1万1千台と、供用開始前の約2万5千台という予測を大きく下回った。なかなか点火しない需要を“爆発”させようと、森田知事が試みたのが、通行料を800円に引き下げることだった。21年の知事選の公約に掲げ、初当選後、満を持して首相官邸に足を運び、麻生太郎首相(当時)に直談判。「できるわけねえだろう」。渋る麻生首相に「できないなら、アクアラインをぶっ壊してくれ」と粘った。その後、親交の深い菅義偉官房長官の口添えもあり、21年8月、社会実験としてETC搭載普通車の通行料800円引き下げが開始。社会実験後も引き下げは続けられたが、森田知事は「実現したときは半分うれしかったが、成果が出なければ大変だと、半分は身が引き締まる思いだった」と振り返る。」とネットから。そして海底トンネルの「東京湾アクアトンネル」へ。川崎側の約9.5kmがトンネル(東京湾アクアトンネル)で、背の高い巨大な船も東京湾内を問題なく通行することができ、また、木更津側はもともと浅瀬であり、橋梁化することで建設コストを安くすることができたのだと。川崎浮島JCT手前の案内板。前方に地上への出口が。首都高速方面に進む。首都高速湾岸線で多摩川下を渡り、湾岸環八料金所を通過。「空港中央」方面に進む。左手に進むと、空港第一ターミナル方面に。東京国際空港(羽田空港)新管制塔が前方に。日本一高い115.7mの新管制塔。赤い羽田スカイアーチ(はねだスカイアーチ)は、東京国際空港(羽田空港)の第一ターミナルと第二ターミナルの間にある橋梁。羽田空港のシンボル的存在。新管制塔を見上げる。「東京湾トンネル」に入る。首都高速湾岸線を降り、臨海副都心方面に進む。「臨海副都心」出口へ。そして「お台場海浜公園」横の駐車場に到着し、「お台場」の散策開始。前方に白亜の「レインボーブリッジ」の勇姿が。「シーリアお台場一番街」緑と水に囲まれた自然豊かな高級マンション「シーリアお台場』。なかでも最もレインポープリッジに近いタワー棟「一番街」の二棟 ・32階建 (地下1階)。正面に勝どきのタワーマンション賃貸「THE TOKYO TOWERS MID TOWER」帆船を思わす独特のデサインが特徴的な大規模ツインタワー。まずは、続日本百名城・「お台場」のスタンプをGETすべく、お台場海浜公園管理事務所に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.02
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大多喜城を後にして、「大多喜城駅」を訪ねる事とする。「メキシコ通り」を「大多喜城駅」に向かって進むと「房総の小江戸」と書かれた扁額のある巨大な門を通過。この「大手門」は、昭和57年に建設され、町民から名称募集を行い「大手門」と命名したものとのこと。高さ8.5m、幅9.3m、奥行き6.1mの威風堂々の佇まい。ここが、大多喜城への玄関口。「メキシコ通り」は、今から約400年前に御宿海岸の沖合いで遭難したスペインのフィリピン総督ドン・ロドリゴ一行を時の城主が庇護し帰国させ、その答礼として昭和53年(1978年)に来日したメキシコ大統領が当町を訪問し、これを記念して整備された道であるとのこと。そして「大多喜城駅」前に到着。「房総の小江戸 大多喜絵図」。大多喜駅の駅舎前の「歓迎」の塔。大多喜駅の駅舎。時計台に風見鶏。大多喜駅は、千葉県夷隅郡大多喜町大多喜にある、いすみ鉄道いすみ線の駅である。全ての車両は当駅を拠点に運用される。関東の駅百選に選定されている。駅舎入口横には美しく彫り抜かれた竹灯篭が並んでいた。穴を開けるのにどのくらいの時間がかかったのであろうか?改札口横では本多忠勝像が迎えてくれていた。反対側から。「開運・勝利の神将 本多忠勝像1548~1610、徳川四天王、十六神将の一人、上総大多喜藩 初代藩主生涯五十七度の合戦に出陣し、一度も傷を受けなかった強運の持ち主この像は発泡スチロールで出来ている」と。いすみ鉄道いすみ線の一両編成の列車がホームに入って来た。「本多忠勝」の顔出しパネルがホームに。隣は 正室の於久(おひさ)であろうか。駅名表示板・いすみ鉄道「大多喜」。千葉県夷隅郡大多喜町大多喜264。そして「大多喜駅」を後にして、車で20分ほどの場所にある「曼殊沙華寺」に向かって走る。大多喜城ゴルフクラブの奥の山道を進みトンネルを通過。そして15分強で「曼殊沙華寺」に到着。参道横には「曼殊沙華」・「彼岸花」が。ピークは既に過ぎていたが。参道の入口には青紫色のノアサガオ(野朝顔)と「曼殊沙華」のコラボが。この近くは既にエピローグに。近づいて。赤いトタン屋根の「本堂」。正式名称は「浄宗寺」千葉県夷隅郡大多喜町三条。左の小さな鐘は「呼び戻しの鐘」であると。江戸に出て行った息子が帰ってくるようにと念じながらこの鐘を撞いたところ、息子が帰ってきたと伝えられているとのこと。墓石?周りの「曼殊沙華」。「曼殊沙華寺江戸から来た旅人が、この地(寺)で命を落とした際、住職は旅人の故郷に咲き誇っていた「曼殊沙華」を植え供養しました。住職亡きあとも、住民が球根を植え、年ごとに花は増え、秋のお彼岸になると、寺一帯に曼殊沙華が咲き誇ります。これから曼殊沙華寺と呼ばれるようになったという。」境内の「曼殊沙華」を愛でる。真紅の「曼殊沙華」。別の角度から。曼珠沙華寺の隣りにある「白山神社」。「社殿」の前には朽ちた御神木?が。「八幡社」。「魅惑の口元 願いを叶えてくれた神様 白山神社だいぶ昔のお話しです。この村に若いお嫁さんが嫁いできました。器量良しで働き者で、村一番のお嫁さんと評判でした。しかし、1年もすると「あのお嫁さん、笑顔を一度も見せたことがないねえ。」と皆が不思議に思うようになりました。「子どもができたみたいだよ。」と、村人が話すようになり、そのころから時々神社にお参りに来るお嫁さんの姿を見かけるようになりました。深々と頭を下げ、お祈りが終わるといつも神社の境内をきれいに掃除して帰っていきます。近所の人たちは安産祈願のお参りだろうと別に気にも止めませんでした。やがて女の子が生まれてもなお、お参りは続きました。子どもを背負って落葉を掃き、草をむしり、子どもと一緒に神様にお願いをしていました。子どもが3歳を過ぎたある日のこと、いつものように掃除をして帰りかけた時、近くに住む知り合いの老婆が参詣にきました。一人ではしゃいでいる子どもを見て「おーおー、大きくなったのう。かわいくなったのう。それに歯並びがきれいだこと。」と褒めました。子どもを抱きよせたお嫁さんは、「おばあさん、ありがとう。」と言い、初めて笑顔になりました。そして話してくれました。「私は歯並びが悪いのを子どものころから一人で悩んでいました。人前で大口をあけて笑ったことなど一度もありません。子どもが授かったと分かった時に十人並みの口元にしてほしいと、神様にお願いしてまいりました。毎回お賽銭をあげることもできない私は境内の掃除をしただけですが、それでも神様は私の願いを叶えてくださいました。ありがたいことです。」この話しを聞いた村人は「私たちは今までお嫁さんを誤解していたようだ。すまないことをした。これからは皆で神社の掃除をしよう。」と老婆が音頭をとり、毎月1日と15日に当番を決めて境内の掃除をするようになりました。~おしまい~」「魅惑の口元 歯の神様 白山社」案内板。白山社が歯の神様なのは、昔は歯槽膿漏が多く、口臭から「はくさ」が訛って「はくさん」となり、白山神社が信仰の対象となったのだとネットから。「社殿」。再び「曼殊沙華」を追う。境内の槇の生け垣にはカラスウリの実が。カラスウリはこの実が有名で、花はあまり印象に残らないようです。カラスウリの花は、日が暮れると開花し、朝には閉じてしまう一夜花。真白なレースのような不思議な美しい花を咲かせるのです。カラスウリの名前はカラスが食べるからだと言われていますが、鳥がこの実を食べているところは見ないと。またはカラスウリの葉が大きく生育旺盛なので、絡みついた木を枯らしてしまうことから、枯らす瓜がカラスウリになったという説もあるのだと。墓地の中の「曼殊沙華」。再び「曼殊沙華寺」の」寺号標を。次の目的地の都内・お台場に向かい再び大多喜駅方面に戻る。「大多喜駅入口交差点」角にある四ツ門公園は、城内から数えて4番目の門があった場所。四ツ門公園は平成14年に整備設置されたと。シンボリックなミニチュア櫓が目立ったが、案内版の横には「上総大多喜城 四ツ門跡」と書かれた碑も建っていた。「本多忠勝・忠朝」を大河ドラマに の幟も風雨に耐えて。千葉県大多喜町では、行政・民間協働にて、戦国の世を駆け抜けた徳川四天王の一人「本多忠勝」とその次男「本多忠朝」の大河ドラマ誘致に取り組んでいるのだが・・・。2017年5月にここ大多喜城を訪ねた際にも、真新しいこの幟があちこちに立っていたのである。あれから3年以上、進展はあるのだろうか?途中、下から「大多喜城」のBEST SPOTを求めて進む。県道172号線で車を止める。ズームで。そして10月16日のテレビ放送画面から。こちらも。この様な写真を撮りたかったが、撮影場所の事前チェックが出来ていなかったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.01
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千葉県立中央博物館大多喜城分館の3Fは「城とその周辺」をテーマに城下町の人々の暮らしぶりを示す商業用具や調度品などを展示していた。そして千葉県立中央博物館大多喜城分館の4Fからの北側の眺め。写真は同行の旅友から頂きました。千葉県立大多喜高等学校のグランドが右手下に。東側は千葉県立大多喜高等学校の校舎が。南側は「夷隅川(いすみがわ)」。大多喜町を夷隅川が流れ、その一部を「御禁止川」👈リンク と書いて「おとめがわ」と読むのだと。西側には白壁の研修館が見える。大多喜城と城下町のジオラマ模型を展示。周辺の文化財も名称入りで紹介。「総南地域の歴史散歩」案内。そして再び1Fに戻ると青空に映えた「大多喜城」の写真パネルが。房総半島の大名や城について説明した下記の図表が展示されていた。「房総の大名」案内。「千葉県の城」の多さに驚く。「江戸城の昔と今」。この地図は430円で販売されているようであった。「江戸(嘉永)時代大名紋章及城郭図」。同じく540円で。続日本百名城「大多喜城」認定証。第43回(2017)大多喜お城まつり👈リンク の城主・本多忠勝公は前年に引き続き俳優の藤岡弘氏が演じたようだ。いすみ市出身のタレント渡辺正行さんが、城主・本多忠勝公の次男の忠朝役で参加したのだと。二人の勇姿とサインが掲示されていた。続日本百名城「大多喜城」のスタンプを頂きました。そして「大多喜城」の御城印の入った袋。「大多喜城」の「御城印」。この写真の後に、自ら年月日を記入しました。そして「大多喜城」を後にして坂を下る。左手にあったのが「二の丸公園」。「鐘つき堂(梵鐘)があります。」と。「鐘つき堂」。「梵鐘 鐘楼由来記この梵鐘の原型は 享保14年(1729) 伝えによれば、無縁の菩薩を弔うため大田喜城下の老若男女が連日大田喜領内の村々を托鉢し、浄財を募り江戸の名工小幡内匠藤原勝行によって制作され、城下新町無縁堂の丘に鐘楼を建立し鐘声は美音にして、大田喜城下を中心に4里四方響きわたり、大多喜八景無縁堂晩鐘として名をなした名鐘であった。昭和18年太平洋戦争の急を救う一助として供出され、その後 昭和58年 尾本信平 尾本芳次 尾本要三 尾本安正の4氏によって復元し鐘楼建設基金と併せ大多喜町に寄贈されたものである。 鋳造にあたって大多喜町久保 渡辺包夫氏所蔵の無縁堂梵鐘の拓本をもとに三井金属工芸株式会社の手により完成したもので元の鐘楼は昭和18年に梵鐘供出後 老朽化し廃絶した。この度、復元された梵鐘を保存するため 大多喜町堀之内熊野山妙光寺住職および檀徒の厚意により同寺の鐘楼が大多喜町に寄進され 新たに旧大多喜城内二の丸公園に移築されたものである。工事にあたっては 次の方々より浄財を募り完成されたものである。」「梵鐘」。駐車場の近くに、穴が空いた岩盤があった。人がやっと通れる程の穴が続いていた。「大多喜水道城下町大多喜は、昔から良い飲み水に恵まれず、人々の苦労は絶えませんでした。最後の城主である松平(大河内)正質の頃ようやく水道の工事が具体化し、明治2 ( 1859 )年月に工事を始め、翌明治3年5月に完成しました。この水道によって、城下200戸が潤い、20ヘクタールの水田の灌厩が行われました。水源=ここから西へ約2の水流全長=約5 8km (うち約4kmはトンネル)責任者=柳原 小尚半左衛門工事=上原三上七五郎 小苗 高橋四郎左衛門」穴の中を覗くと向こう側も出口から光が。一見目立たないひっそりとした穴からも歴史の香りを感じられたのであった。駐車場に戻り、土産物屋で「柚子味噌」を購入し、車を大多喜駅に向けて走らせたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.31
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更に2階展示室「城と武士」の見学を続ける。「徳川十六将図 徳川四天王」。家康を中心に初期の功臣十六名を描く。十六名を選んで画に仕立てる事は江戸時代に流行した形式。家康を薬師如来に見立て、それを守護する四天王・十二神将になぞらえて十六神将としたという説もある。彼らは徳川家康が江戸幕府を開くにあたって大きく貢献したとされる武将で、三河国平定の時期から徳川家康に仕える者が多く選ばれています。このうち最初の4人を特別に徳川四天王と呼ぶ。十六神将とは本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政・松平康忠・高木清秀・内藤正成・大久保忠世・大久保忠佐・服部正成・鳥居直忠・鳥居元忠・蜂屋貞次・平岩親吉・渡辺守綱・米津常春だが、松平康忠に替わり松平家忠、蜂屋貞次に替わり植村家政を入れる場合もあるのだと。「松平家紋所付御膳大河内松平家の家紋「三ッ反扇」が付く御膳。城下の菩提寺に伝わるもの。」「後三年合戦絵詞」。応徳3(1086)年に東北地方で起きた「後三年の役」と呼ばれる戦乱の模様を描いた絵巻物。同合戦は、東北地方に勢力を誇っていた清原一族の内紛に端を発し、源義家の介入も加わり争乱が拡大し、結果的に清原氏の没落と奥州藤原氏の台頭の契機となった戦乱である。原本の『後三年合戦絵詞』(国指定重要文化財)は、現在東京国立博物館が所蔵し、上・中・下三巻十五段の構成で、源義家と清原家衡・武衡の戦いを中心に、義家の出陣から戦後処理までを描いている。館蔵の本資料は、巻子一巻のみであり、内容は上巻に限られ、詞書はなく絵のみである。「後三年合戦絵詞 江戸時代「後三年の役」は、平安時代後期に東北地方で起こった戦乱である。本絵巻はこの合戦を描いたもので、大鎧をまとい太刀を佩いた武士や、徒歩で長刀を持った武士の戦う様子などが描かれている。原本は南北朝時代ごろの成立と伝えられるが、本品は江戸時代に写されたものである。」「後三年の役は奥州を支配していた清原一族の内紛に、陸奥守の源義家が介入し、凄惨な争いが繰り広げられました。絵詞には残酷な場面がありますので閲覧には注意してください。」「三ツ扇紋付黄羅紗陣羽織 」。「大多喜町指定文化財 三ツ扇紋付黄羅紗陣羽織 江戸時代後期大多喜城主松平氏所用。江戸時代には貴重な輸入品であった毛織物の羅紗を素材にしたもの。松平氏の紋所「三ツ反扇」を配してある。」「大多喜城主大河内松平氏元禄16年(1703)、松平正久が相模国甘縄から大多喜城に移り、以後9代約170年にわたって、松平氏がニ万石で城主でした。城下は交通の要衝・文化の中心で、多くの人々が往来しました。十返舎一九の「諸国道中記金の草鞋」にも当時の宿の賑わいが描かれています。7代藩主正義は学問を重んし、文政12年(1829)に藩校「明善堂」を開いています。天保の末、大多喜城は火事になり、藩の財政も苦しくなっています。8代藩主正和は夷隅の海岸に砲台を築き、房総警備に努めています。9代藩主正質は幕閣に入り、慶應4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは老中格として幕府軍の指揮を執ります。代々の藩主は、書画に秀で、特に正和は「梅閣」と号し、南画を得意として、和歌にも優れていました。」「茶糸威亀甲畳具足」。「大多喜町指定文化財 茶糸威亀甲畳具足 戦国時代大多喜藩主松平氏所用の畳具足。亀甲金を鎖綴りにし、折り畳んで持ち運びやすくなっており、松平家の武器帳にも記載されている。」「領地目録(模写)」。「領地目録(模写) 江戸時代大河内松平家第四代当主正升時代(天明8年:1788 )の領地目録。領地は現在の大多喜町を中心に、夷隅町・大原町・御宿町、さらに、愛知県・奈良県の一部におよんでいる。」「火縄銃上段:全長115.8cm。5匁玉。鉄砲が伝えられたとされる種子島の隣、薩摩国で造られた薩摩筒。 種子島伝来の影響が見られる。 カラクリ部分を裏から島津家家紋「○に十」のネジで止めている。」。中段:火細銃( 10匁筒) 全長104cm。10匁筒であるが、「第摩藩田中勝之助光傑作」の銘があることから、 薩摩筒ともいう。下段:火縄銃 全長123.5cm。7匁筒。「鉄砲の伝来と普及火縄式の発火装置を持つ鉄砲がヨーロッパで考案されたのは、14世紀末~ 15世紀初頭といわれています。日本には、天文12年(1543 )に種子島に漂着したポルトガル人が伝えたという説が一般的です。伝来当初、鉄砲は狩猟や有力者の間の贈答品に主に使われていました。しかし、合戦での有効性が認められると、各大名は、こぞって新兵器である鉄砲の導入に努めます。伝来後わずか半世紀で、日本中のあらゆるところで鉄砲が使用されるようになります。その後ヨーロッパの鉄砲は、発火装置に様々な改良が加えられ、発達していきました。しかし日本では、幕末に欧米から移入された様々な銃に変わるまで、約300年の間、一貫して火縄式の鉄砲が使われていました。」「象嵌が施された火縄銃火縄銃には、象嵌が施されているものがる。象嵌とは金属に模様を刻み、そこへ金や銀などの材料をはめ込む技術のことを指す。ここでは、象嵌が施された火縄銃を紹介」「火縄銃各部の名称」。「火縄銃は、口径で分類することができる。口径は玉の重さ(玉目)で表し. 1匁の玉目は現在の3.75gとなり、5円硬貨と同じ重さである 。パチンコ玉は5.5gである。そのほか、産地や用途などで火縄銃を分類する。」上段:火縄銃(阿波筒) 全長105.5cm。50匁=187.5グラムという大きな口径の火縄銃。 上部に「以葵」などの象嵌のほか、「ニ重巻張元治元年甲子秋九月阿州臣笠井信忠造」の 銘がある.「阿州」=阿波国で製造されたため阿波筒ともいう。」下段:火縄銃(堺筒) 全長109cm。玉目は10匁。「火器砲術絵巻」。棒火矢(ぼうびや)や地雷などさまざまな火器類の種類を記したもの。「火器砲術絵巻 江戸時代末棒火矢や地雷などさまざまな火器類の発射までの工程を記したもの。2巻のうち。紙本著色。」「小柄(こづか)」。「小柄 江戸時代小柄は、小刀の柄であり、小柄小刀が正しい呼称。細工用あるいはペーパーナイフなどとして用いられた小刀の柄が装飾的となり、笄、目貫とともに三所物の一つとなった。」「笄(こうがい)」「笄 江戸時代笄は元来髪掻きであり、烏帽子などからはみ出した髪を整えたり頭をかいたりするための道具。刀装金具として用いられるようになり、武士は刀の鞘に挿して利用した。」「鐔(つば)」「鐔の名称」。「鐔(つば) 江戸時代刀剣の柄と刀身との間に挟んで、柄を握る手を防護する部位、もしくは部具の名称。実用性を重視した素朴な物から、工芸的に優れた手の込んだ物までさまざまである。」「刀、脇差、短刀」。上段:「黒蝋塗鞘打刀拵(くろろぬりさやうちがたなこしらえ) (江戸時代) 拵とは外装のことで、刀剣を保護し使用しやすくするためのものであるが、 持ち主の威容を整え、その身分や家柄を表示するものでもあった。 江戸時代において黒蝋塗の拵は、武士が公式の場で指す物であり、 本来は柄巻の糸(組紐)も黒糸が正式となる。」下段左:「紅葉散短刀拵(もみじちらしたんとうこしらえ) (江戸時代) 鞘の鯉ロと柄の縁が、ぴったりと合うように造られた鍔のない合ロ拵。 漆第りの鞘の上に赤と黒(銀)の大小の紅葉が散りばめられている。 彫金を施した小柄が添えられた華麗な短刀拵である。」下段右:「黒蝦塗鞘脇差拵(くろろぬりさやわきざしこしらえ) (江戸時代) 大多喜藩最後の藩主・松平正質(まさただ)が所用したといわれている。 鍔には扇が3点かたどられており、松平家の家絞である三つ扇紋を連想させる。 また、頭や縁、目貫には鶏があしらわれ、小柄が付属する。 刀身は近江大椽藤原忠広作。」「弾型」、「10匁弾、5匁弾、1匁弾」や「口薬入れ」等鉄砲製作道具一式。「弾型」:溶けた鉛をペンチのような玉型へ流し込んで円弾をつくります。 ありました。二匁から三匁位が一番多く使われました。「火薬入れ」:日本は湿気が多いので火薬を保管したり運んだりするのに気をつかいました。 キャップ式のふたになっています。「口薬入れ」:口薬は火皿の穴に盛り、引金を引くと着火するためのもので、着火をよくする ため粉状になっていました。早合【はやごう】:射撃の速度を上げるために、一本の筒に玉と火薬をセットしておくものの ことを早合といいます。胴乱【どうらん】:火薬、玉、口薬入れ、早合などを入れる小さなカバンで、腰に付けたり紐で 肩から掛けたりしました。「鉄砲を造る戦国時代から江戸時代にかけて、日本を代表する鉄砲生産地であったのが、和泉国堺(大阪府堺市)と近江国国友(現滋賀県長浜市)である。軍備の強化をはかった戦国大名たちは、これら鉄砲鍛冶を雇い、彼らはそのまま各地に土着した。鉄砲は、大別すると銃身、銃床、金具の部分からなる。銃ロは先ロ、銃尾を元ロ、銃ロ部分は柑子という。銃身は胴金と目釘で銃床に固定し、銃身部には複数の目当てがあった。引き金を引くと火抉みが落下して、火皿のロ薬(導火薬)に着火し、装填された玉薬(火薬)に引火して玉が発射されるが、この一連の装置をカラクリという。カラクリにはさまざまな工夫が必要とされた。また、鉄砲を撃つにも、火縄のほか、火薬を入れる玉薬入れ、玉と玉薬をセットして詰めた早合、それを入れる胴乱などさまざまな小道具が必要であった。」「一宮藩の大筒」「一宮藩の大筒(複製)全長138cm。上総一宮藩第2代藩主である加納久徴が海防を目的として武蔵国川口宿の鋳物師増田安次郎に鋳造させたもの。「天保十五年八月」とともに「鋳工増田安次郎藤原重益」の銘が刻まれている。」「洋式銃」、「スナイドル銃」、「短筒」。「幕末と近代の鉄砲19世紀初めのヨーロッパはナポレオン戦争( 1803 ~1815 )の真っ只中にあり、新興国アメリカもやがて南北戦争( 1861 ~ 1865 )へと進むことになる。欧米では、続いておこる戦争を背景に新式銃の開発がさかんになった。新式銃の開発主眼は主に3点に集約できる。①射撃準備時間を短くすること。②射程の延長と命中精度を向上させること、③射撃間隔を短くし、伏せた体勢からも射撃ができること、であった。①により、着火する方法が火縄式から燧石式(フリントロック式)、さらには雷汞(起爆薬)を利用した雷管式(管打式)と改良された。②により、銃身にらせん状の溝=ライフル(施条)を切り、椎の実形の鉛弾を使用することとなった。③により、前装式(前込式)を後装式(元込式)へ改め、装填時間が大いに短縮された。代表的な銃としては、①ゲべール銃、②ミニエー銃、エンフィールド銃、③スナイドル銃、シャスポー銃などがある。また、後装式で連発が可能なライフ銃として、スペンサー銃が開発された。欧米諸国において新式銃が開発されると、幕末から明治にかけて動乱が続き、政情不安であった日本が、旧式銃や余剰銃器の供給先として注目されたのである。」2Fから1Fへの階段の壁のポスター。「特別展 相模川のみほとけ」。「神奈川県のほぼ中央を流れる相模川の流域には、古代から仏教文化が栄え、たくさんの仏像が伝えられています。鎌倉幕府が開かれてからも、この地域の寺社は源頼朝や北条政子をはじめとする人々からの信仰を集め、仏像に祈りが捧げられてきました。中世には臨済宗の蘭渓道隆や夢窓疎石、時衆の他阿真教が往来したことも見逃せません。同特別展はそのような相模川流域の仏像が一堂に会するはじめての機会です。現在も地域の人々の信仰をあつめ、普段はみることのできない貴重な仏像も多く含まれます。この機会に仏像の美に触れ、相模川流域の育んできた文化と歴史におもいを馳せるのはいかがでしょうか。」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.30
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大多喜城の天守を外から見上げた後は天守閣の中へ。この天守は、現在は「千葉県立中央博物館 大多喜城分館」になっていたのだ。入場料は大人200円であったが、65歳以上は無料と有り難かった。「家紋博物館の屋根の瓦には、二つの家紋が使われています。最初の城主となった本田家の紋「丸に立葵(たちあおい)」と、最後の城主の松平家の紋「三つ扇(みつおうぎ)」です。武家の家紋は、権力の象徴であるとともに合戦の際には敵・味方の識別やすくする為に作られた物です。家紋は家を代表するものとして、明治維新まで大きな権威を持っていました。」本田家の紋「丸に立葵(たちあおい)」「大多喜城」パンフレットをいただく。4階建ての天守・「千葉県立中央博物館大多喜城分館」。1F:受付・展示室・ミュージアムショップ 「千葉県の城」、「房総の大名」をパネル紹介2F:展示室 房総の城と武士をテーマに城郭や武士に関する資料を展示3F:展示室 城下町の人々のくらしぶりを示す商工業用具や調度品、信仰資料や古文書を展示4F:展示室 大多喜城と城下町の模型を展示、周辺の文化財を写真パネルで紹介「歴代の城主」をパンフレットから。大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である。以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、元和5年(1619年)9月、藩主阿部正次が拠点を移したことにより大多喜藩は一時的に廃藩となったため、城は荒廃した。寛文11年12月(1672年)、阿部正春が1万6千石で入城した際、幕府から「大多喜城は城跡になってしまっているので、追々再建するように」という命令が下ったものの、「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」という当時の記録の通り、大多喜藩の規模縮小に伴い、荒廃した状態で長く支配が行われていたようである。阿部家以降の城主は多少の増築などは行ったようである。ただし山頂の天守などは荒廃していたようである。天保13年(1842年)には天守が焼失し、天守の代わりに2層の「神殿」と称する建築が天保15年(1844年)8月に建てられていたと考えられている。明治3年12月(1871年)に城は取り壊され、その後本丸も削平されたという。「千葉県立中央博物館 大多喜城分館」と書かれた入口。まずは2階の展示室へ。展示室「城と武士」。房総の城と武士をテーマに城郭や武士に関する資料を展示していた。「紺糸威最上胴具足(こんいとおどしもがみどうぐそく」が堂々と。「紺糸威最上胴具足 江戸時代江戸時代中期から後期にかけて流行した復古調の具足。大多喜城主・大河内松平氏所用と伝えられる具足の一つである。」「大多喜城の成立」、「中世大多喜城はどこにあったのか?」「大多喜城の成立大多喜の地にいつ、誰が城を築いたのか、それを今に伝える資料は残されていません。しかし、戦国時代の1 6世紀前半には真里谷城(木更津市)を拠点とする戦国大名・武田氏の流れをくむ武田信清が城主であったとする伝承が城下の東長寺や舟子八物神社に残されています。さらに伝承では天文十三年( 1544 )、上総国進出をもくろむ安房国の戦国大名・里見氏の影響下にあった正木時茂が刈屋川の合戦で武田朝信を破って、大多喜の地に入ったと伝えています。大多喜に入った正木時茂は「小田喜衆」と呼はれる地元の勢力をまとめ、里見氏の東上総地域優攻の最前線を担ったほか、小田原の北条氏に対抗するために上杉謙信などとの外交交渉も行っていたことが知られています。」「当地敷地(大多喜城本丸跡)から出土した遺物」。「かわらけ」、「耳からわけ」。「古銭」、「小札」、「鉄砲玉」等。「古銭日本では江戸時代に国産の寛永通宝が使用される以前は中国より輸入された「渡来銭」が中心であった。「皇宗通宝」(宋銭)は12世紀頃「永楽通宝」「洪武通宝」(明銭)は15世紀頃に持ち込まれたが工戸時代に流通しており、これらが使用された時期は特定できない。」「小札甲胃の胴などに使われた小さな板で、何枚も連結して用いられた。出土品は「伊予札」と言い尹予国(愛媛県)の職人によって考案されたものである。甲胃を軽くかっ安価に作ることができ、室町時代に流行したが、江戸時代でも使われている。」「陶磁器これらがしようされていた年代を特定することは難しいが、いずれも中世から制作されている様式の食器である。」「題目板碑栗山台地区で出土した、安房鴨川産の蛇紋岩製の板碑。五輪塔と合わせ、当地が歴史的文化的に安房地域と深い関係があったことを物語る資料である。」。南無妙法蓮華経と刻まれているようだ。「兜」がニ刎 (はね)。「兎形変兜(うさぎなりかわりかぶと)」「兎形変兜 江戸時代張懸(はりかけ)で兎の全身を表現している。前立のように長く立つ耳は、内面に金箔を押し、裏面には毛を植えている。兎は俊敏で後退しないことから武将に好まれたデザインであるが、このように写実的に表現する例は少ない。」「采配脇立付筋兜(さいはいわこだてつきすじかぶと) 江戸時代椎形(しいなり)の黒漆塗り筋兜の横に、戦陣で指揮をとる時に使う采配を脇立として立てたものである。本品では、金箔を押した紙の采配を模している。三つの立ち銀杏の前立が付く。」「紺糸威最上胴(こんいとおどしもがみどう)」「紺糸威最上胴(こんいとおどしもがみどう) 江戸時代室町後期から製作された当世具足の一つで、紺糸を素懸威(かかけおどし)にした五枚胴型式で、出羽・最上地方で最初に用いられたので最上胴と呼ばれている。素懸威とは、鎧の威方の一種で糸目を荒くし所々に2筋ずつ並べて綴ったものをいう。」「刀剣」展示。「刀剣の種類大刀:平安時代中期まで用いられた直刀様式の刀剣太刀:長さ2尺( 60.6cm)以上あり、刃を下に向け腰から吊りさげる様式刀: 長さ2尺( 60.6cm)以上あり、刃を上に向け腰に差す様式脇差:長さ1尺(30.3cm)以上、2尺( 60.6cm)未満のもので刃を上に向け腰に差す様式短刀:長さ1尺( 30.3cm)未満のもの薙刀:長い柄をつけてなぎ切るのに使用するもの剣 :両刃のもので平安時代以降は寺社の奉納用に多くつくられた「太刀」。「太刀(近村上)長さ2尺1寸5分( 65.2cm )反り7分9厘( 2.4cm ) (平安時代末期)一説に、近村は、三条宗近の子、兄吉家の養子となって備前国(岡山県)に住んだと伝わっている。銘は「近村」または、「近村上」と切った。細身で腰反りの強い古雅な姿である。」「脇差」。「脇差 (近江大掾藤原忠広(おうみたいしようふしわらただひろ))長さ1尺6寸7分( 50. 6cm )、反り3分( 0. 9cm) (江戸時代)ニ代忠広の作。大多喜藩主松平正質の所用だったという伝承がある。黒蝦塗りの鞘が付属する。江戸時代初期に肥前国(佐賀県)において製作された刀。忠広は初代から十代まであり、本作は、寛永18年( 1613 )に近江大掾を受領したニ代の作品である。」「脇差」がニ振り。上段は「協差(大慶直胤/文化志知年仲春上旬)長さ1尺5寸8分( 47.9cm) 反り2分( 0.6cm)iv>直胤は、出羽国山を生まれ、水心子主秀に師事した。本作は、鍛えは板目肌立ち、刃文は直刃に焼いてある。茎は刃上がり小尻で、鎺(はばき)下に三日月の刻印があり、作者銘は細い鏨(たがね)で楷書に切り花押を据え、裏銘は製作年を切ってある。」下段は「脇差(法橋藤原来金道(らいきんみち)長さ1尺9分(33cm )、反り1分7厘( 0. 5cm) (江戸時代)来金道家ニ代目の和泉守が出家した後の作。寛永期( 1624 ~ 1644年)前後に製作されたものと思われる。身幅の広い平造りの姿で、鍛えは板目肌、帽子は尖って返る「三品帽子」、刃文は湾れ(のたれ)に焼いている。茎(なかご)は生(う)ぶで、指し表に作者銘を切ってある。「太刀(刀)の名称」、「刀装(拵)の名称」。「刀紋の種類」「十文字槍」。「十文字槍(山城守國重)長さ7寸6分6厘( 23.2cm ) (江戸時代)江戸水田派の國重と思われる。短めの直槍の表裏両面に鎬が立ち、両側に鎌がついた十文字形。重ねが薄いので突いても引いても良く切れる殺傷力の高い優れた武器である。鍛えは板目よく詰み、刃文は直刃に焼いている。」「大多喜城主本多氏徳川家康の古くからの家臣である本多忠勝は、天正18年(1590 )に十万石を与えられ、初代城主となり忠勝は領内で検地を行い、城下町の整備にも努めました。さらに菩提寺である良信寺(現在の良玄寺)も開山させています。また、現在も行なわれている六斎市は忠勝の命令で始められたといわれています。その後関ヶ原の戦いの功により、慶長6年(1601 )に伊勢国(三重県)の桑名へと移っていきます。この時、次男の忠朝が新たに大名に取り立てられ、ニ代目の城主となります。忠朝は元和元年(1615 )の大坂夏の陣で討死してしまいます。三代目の城主となったのは、忠朝の甥の政朝です。政朝は元和3年(1617)に播磨国(兵庫県)龍野へと移り、三代約28年に渡る本多氏の支配は終わることになりました。」歴代の本田氏・大多喜城主の書状。「大多喜城主本多忠勝書状天正1 8年(1590 )に大多喜に入封した本多忠勝は、菩提寺である良信寺(現良玄寺)を建立し、東漸寺の住職了学を招いた。書状は、東漸寺に寺領として100石を寄進するというものである。」「大多喜城主本多政朝寄進状忠勝が桑名へ転封後、城主となった忠朝は、忠勝と同様、良信寺に対して100石を寄進した」。「大多喜城主本多忠朝寄進状忠朝を継いで城主となった政朝(資料は「忠光」)が良玄寺に対して100石を寄進した際の寄進状」。「本田忠勝」画像。鹿角脇立付の兜をかぶり黒の甲冑を付けて。「大多喜町良玄寺所蔵の紙本著色本多忠勝画像(千葉県指定有形文化財)を模写し、屏風仕立てとしたものである。鹿角脇立付の兜をかぶり、白毛采配を手にし、床机に座る姿は、威厳に満ちている。」「本多忠勝画像由来記」。「本多忠勝画像由来記元禄4年( 1 691 ) 1 1月1 8日、本多家6代の本多政武(忠国)により記された忠勝画像由来記を後年、生実(現千葉市生実)大巌寺46代の上人が嘉永2年( 1849 )に書き写したもの。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.29
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そして漸く大多喜城の駐車場に到着。「千葉県立大多喜県民の森案内図 二十一世紀の森」。ここは大多喜城に隣接した森で、入り口には芝生広場やBBQの施設、森の中にはキャンプ場等もあり子供達と一緒に自然とふれあうにはもってこいの場所であると。駐車場横の土産物店と蕎麦店。千葉県夷隅郡大多喜町大多喜484。車を駐め大多喜城に向かって坂道を上って行く。「大多喜城趾」と刻まれた石柱。車両はこの先は進入禁止。「千葉県立中央博物館 大多喜城分館千葉県指定史跡の上総大多喜城本丸跡に建設された天守閣づくりの特色ある歴史博物館です。常設展では「房総の城と城下町」を主題とした展示を公開しています.そのほか、この地方に残されている優れた文化遺跡を紹介する役割も果たしています。また、資料の調査・研究・保管・展示を行い.県民の障害学習に寄与することを目指しています。「大多喜城の歴史上総大多喜城は、戦国時代に築かれ、小田原北条氏の滅亡に伴い、徳川四天王の一人てある本多忠勝がこの地に十万石で封じられました。城主は、本多氏三代のあと、阿部氏等の譜代大名が入りましたが、元禄16年( 1703 )の松平氏の入城以降は9代続き、最後の城主松平正質 (まさただ)の代に明治維新を迎えました。」「本日は開館です。」料金は大人200円とのことだが、65歳以上は無料と。「掲示板」。マスクの着用をお願いします。「空堀(からぼり)城には、敵が攻めにくいように堀を作りました。堀のななで水のないものを空堀といいます。山城の堀は空堀が多く、平城は低いところに作られているため、ほとんどが水堀でした。空堀の底は土や石なので、落ちるとケガをするため、水堀よりかえって攻めにくいといわれています。大多喜城の空堀は、西側の守りに多く作られています。」「箱堀」は両岸を切立(きったて)にして、箱のようにつくった堀。「薬研堀」は薬研の形に似て、V字形に底が狭くなっている堀。「大多喜城二之丸公園」が坂道の途中の右側に。ここは帰路に訪ねた。「千葉県立総南博物館」と旧称が刻まれた石柱。さらに天守に向かって上って行く。漸く天守の姿が前方に現れた。天守下の広場の入口に到着。左手にも掲示板が。「房総の城と城下町」をテーマに、房総の中世から近世にかけての武具や調度品、城郭資料を中心に展示していると。右手に「研修館」が。そして天守下に到着。「土塁(どるい)土塁は、堀とともに城を守る大切な備えです。土塁は堀と組み合わせて作られ、堀を堀り上げた土で、土塁を作る方法がとられています。土塁は、城内が見えないように作られていました。勾配は、敵が入りにくいように、城の外側を急勾配に作ります。大多喜城では、この本丸跡の周囲に、土塁が見られます。」「大多喜城」は1590年上総国が徳川家康に与えられ、本多忠勝が城主となり大多喜藩が成立した。本多忠勝は本丸・二ノ丸・三ノ丸を配置し、南は夷隅川(いすみがわ)に落ち込む急崖、西は空堀、東と北は水堀という外敵からの攻撃を強固に防ぐ近世城郭に改築した。その後幕末まで大多喜藩の拠点として役割を果たしたが、1619年以降大多喜藩の一時廃藩や規模縮小により荒廃した。城は取り壊されたが、1966年に「本丸跡」が千葉県指定史跡となり、天守を再建したのだと。二ノ丸跡に残る「大井戸」も千葉県指定史跡に、大多喜城内建造物として唯一の遺構である「薬医門」は千葉県指定有形文化財に指定されている。再建された大多喜城は圧倒的なただずまいで存在感を放ち、敷地内からは城下町や現在県立大多喜高校である二ノ丸跡を見下ろしていたのであった。この後天守の中を見学。そしてその後に天守下の広場を散策。前方奥に東屋が見えた。「石垣日本で最初の本格的な石垣造りの城は安土城でそれ以降、大名が城造りで最も力を入れるのが石垣造りです。石は一般に、安山岩・花崗岩・片麻岩が多く使われ、近くに良質な石がない場合は遠くから運んで造りました。石の積み方は、野面積み・打込みはぎ・切込みはぎの三種類に大きく分けられます。当博物館の石垣は、野面積みと打込みはぎの中間の方法で造られています。」ネットから。 【https://www.takamaruoffice.com/8095】より「塀城内は、それぞれの役割によって区分されていました。その区切に様々な塀が工夫され作られていました。大き<分けて「板塀」と「土塀」がありますが、「板塀」は火災や鉄砲に対して役立たないため、城では、ほとんど「土塀」が作られました。」「薬医門」。 【https://livedoor.blogimg.jp/daiyuu9224/imgs/0/9/0992654b.jpg】より「薬医門 千葉県指定史跡)大多喜城内で使われていた門の一つです明冶のはしめにお城がとりこわされるとこの門も城下の民家にはらい下げられました。その後、学校の門として再びこの地に移されました。昭和四十七年に大修理がなされ現在に残された大多喜城ただ一つの建物です。(大多喜高校玄関東側)大多喜高校駐車場を見下ろす。駐車場手前に「大多喜城 本丸跡附大井戸」が見えた。「大井戸」をズームで。「大井戸 千葉県指定史跡大多喜城内にあった三十数個の井戸の一つです。初代城主の本多忠勝の時に掘られたといわれ周囲約十七メートル、深さニ十メートルで、日本で最も大きな井戸の一つにあげられます当時は八個の滑車と十六個のつるべ桶があり水がつきることなくわき出ることから「底知らずの井戸」と呼はれました。(大多喜高校駐車場内)」井戸の水位と一段低い運動場の面とをくらべてみましょう。「上総大多喜城絵図上総大多喜城は、初代城主本多忠勝によって築かれ、西から東に張り出す丘陵を利用し、本丸・ニの丸・三の丸を配置し、西は尾根を切る空堀、南は夷隅川に落込む急崖、東と北は水堀という要害堅固の城です。この城絵図は明治元年( 1868 )、最後の城主松平正質の時、作図されたものです。」「大多喜メモリアルルート案内図」。現在は千葉県立中央博物館大多喜城分館として、1835年(天保6年)の図面を基にして天守が再建されていた。なお、大多喜城に天守があったかどうかは学会でも議論されているのだと。大多喜城天守入口前から見上げる。大多喜高校駐車場そしてグランドを再び別の場所から見下ろす。大多喜城天守を裏側から見上げる。散策していると、前方に撮影カメラ、マイクを持つ集団がいることに気がつく。赤いシャツの男性をカメラが追っているのであった。よく見ると、コント赤信号の渡辺正行氏、いわゆる「リーダー」なのであった。「リーダー」はこの県立大多喜高校の出身であることを、以前この地を訪ねたときに知っていたので、声をかけると答えてくれたのであった。地元の「大多喜城」を紹介する番組を撮影しているようなのであった。「研修館」の壁の前に座り込む「リーダー」。その後、スケッチブックに「大多喜城」の姿?を描き出したのであった。「リーダー」にいつ放送されるのかと訪ねるとテレビ東京で10月16日(金)夕方であると。そして連れの女性が、番組案内をくれたのであった。そして16日・当日の放送では、リーダーの後ろで、私も後ろ姿で出演したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.28
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「本佐倉城跡」を後にし、次に近くにあった「伝説 酒の井」に立ち寄る。「伝説 酒の井」は「酒々井(しすい)」の地名の元になった場所。入口には木の門と立派な松の木が。木門には「酒々井山円福院神宮寺」と書かれた寺号標が掲げられていた。真言宗吉祥寺末寺、本尊は阿弥陀如来と伝わると。現在、建物はなかった。室町時代には存在していた寺で江戸時代後期まで住職がいたのだと。酒々井宿の麻賀多神社を支配していた神宮寺であったと。「伝説 酒の井碑ある親孝行の息子が、毎日酒を買って年老いた父親に飲ませ喜ばせていました。ところが、ある日酒を買うお金に困ってしまいました。「父に酒を買うこどかてきないことは、なんて親不孝なんだ。」ど、孝行息子はひどく心を痛めながら歩いていました。井戸水をくみ上げ飲んてみると、それはなんと酒だったのです。孝行息子はたいそう喜び、それからは毎日この井戸から酒をくんで帰り父親を喜ばせました。この酒の井戸のうわさは、世間にも知られましたが、他の人がくんて飲んてもただの水でした。酒の井戸かあることから村の名も「酒々井」と呼ばれるようになり、この碑が記念として建てられたと伝えられています。注この碑は下総式板碑といわれ、﨨倉時代から室町時代に盛行した供養碑であります。碑面をよくみると、蓮花ど梵字キリーク(阿弥陀如来種子)があります。」正面に二基の石碑が。「伝説 酒の井碑」。こちらが、昔からの石碑であろう。かなり風化しており、ほとんど判読不能。この碑が説明文の注にあるように下総式板碑といわれ、鎌倉時代から室町時代に盛行した供養碑であります。碑面をよくみると、蓮花と梵字キリーク(阿弥陀如来種子)があるとのことだが・・・。「種子(しゅじ)」👈リンク とは密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)のこと。当時の井戸は現存していないが、レプリカとして井戸が再現されていた。緑のボタンを押すと音声案内がながれるのであった。映画『酒の井伝説』👈リンク も創られているようであった。スイッチを押すと音声とともに、酒が!いや水が出て来ました。これが酒だったら私にも夢の井戸なのであったが。「酒の井しだれ桜」。「酒の井しだれ桜かって古井戸あり酒泉ごとく湧きいずると伝わりし故事をとどめんがため」と。「伝説 酒の井」の手前の隣接した場所にあった石碑群。古い墓や庚申塚のようなものなどが置かれていた。この後にしばし歩いて県道137号沿いにあった「島田長右衛門家・島田政五郎家」を訪ねた。「酒々井町登録有形文化財 島田長右衛門家・島田政五郎家酒々井町酒々井地区は、戦国時代には本佐倉城の城下町として、また江戸時代には佐倉藩の城下町、旧成田街道の宿場町、佐倉七牧(徳川幕府直轄の野馬牧場)の野馬会所(管理事務所)・野馬払い場の所在する地として栄えた場所です。島田長右衛門家は江戸時代に幕府野馬御用を勤めていた家で広い敷地を有し、かっては宅地裏に野馬会所と野馬払い場が続いていました。隣接する島田政五郎家は島田長右衛門家の分家であり、やはり宅地裏に野馬払い場が続いていました。現在の建物は明治10 ~ 20年頃に建てられた店舗兼住宅で、道路に面する店舗は南北棟、住宅棟は店舗と直行する町屋づくりになっています。当時の商家の邸宅として「日本博覧図千葉県編」(明治27年刊行)にも掲載されていました。両家は現在においても歴史ある酒々井地区の中核的な建物として歴史的景観を形成しています。」近づいて。交通量の多い道路の車に気をつけながら斜めから。道路を渡り正面から。そして道路沿いの黄色い樹を発見。なんと金木犀の花が鈴なり!!香りも鈴なり!!印旛郡酒々井町(しすいまち)の汚水マンホールの蓋。町の木である大小の梅の木を8本 デザイン。中央に町章としすい、おすいの文字。中央の酒々井町章の三角形は、千葉県を表し、円は、北総台地と人の和を表し、 県の酒々井町の位置に、町名の頭文字「酒」を配したものであるとのこと。町名の頭文字「酒」は気が付かなかったのであったが。そして「処宝山 勝蔵院」を訪ねた。千葉県印旛郡酒々井町酒々井127。「本堂」。處宝山勝蔵院長現寺、真言宗文殊寺(廃寺)末寺、現在は真言宗吉祥寺末寺、本尊は不動明王。もと東台不動山(現、中央台3丁目)にあった不動堂を佐倉藩主戸田能登守忠真が父忠昌の遺志を受け継ぎ元禄十二年(1699)に現在の地に移転建立した。今に残る本堂・木造不動明王坐像(町指定文化財)、仁王像はこの時に造られたものであると。歴史を感じさせる狛犬そして石灯籠も。「木造不動明王坐像」。酒々井町指定文化財の「勝蔵院本堂」と「木造不動明王坐像」の案内板。「勝蔵院本堂本堂は宝形(ほうぎょう)造り、トタン葺きの「三間堂」で一間の向拝がつく。向拝柱にかかる水引虹梁(こうりょう)には蟇股(かえるまた)が置かれ、木階(もくかい)は三段てある。軒は一軒で半繁棰(はんしげたるき)である。柱間は正面と側面は土壁囲いとなっている。内部は内、外陣に分かれ、いずれも天井は棹縁天井(さおぶちてんじょう)とし、中央正面のみ板床とし、他は畳效きとなっている。この本堂には、元禄十ニ年(一六九九)の棟礼(むねふだ)があリ構架(こうか)の手法、構造材の風蝕度(ふうしょくど)、損壊状况等からみて、元禄年間の改築と観られ町内では数少ない古建築として貴重である。」「木造不動明王坐像像高 一・三メートル江戸時代初期のころ、江戸の仏師によって造像された大作て佐倉城主堀田上野介正信の寄進によるとも伝えられている(『古今佐倉真佐子』)この仏像は寄せ木造リの大作て江戸時代の様式が表現された力感の溢れている作であリ、宿場時代はこの不動明王のある勝蔵院が中心となって繁栄したものであり、歴史的にも大きな意義をもっていた。」そして山門内の仁王像(金剛力士)・阿形像。元禄12年(1699)建立。 仁王像・吽形像。そして車に戻り、次の目的地である「大多喜城」に向かって県道77号を進む。県道76号・国道409号に入り八街市の総武本線の踏切を渡る。東金市に入り国道126号の高架下を走り台方ICを右折。国道128号に入り茂原方面に向かって進む。茂原市内を進む。道路脇に「アマビエ様」が。「アマビヱ様江戸時代末期、肥後の国今の熊本。疫病が流行ったとき海岸に現われ「私は海中に住むアマヒヱ様、私の姿を写し人に見せよ」と言って海中に姿を消したという。京都大学所蔵の互版には、疫病が治ったとの記載はないが、見た人の間で治ると信じられたのかもしれない。一日も早い新型コロナウイルスの収束を願いながらチェーンソーで膨りました。」道路脇の草むらには彼岸花の赤い帯が。大多喜町に入り県道172号の「いずみ鉄道」のガードを潜る。そして「大多喜城 0.8km」の案内表示が見えて来た。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.27
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更に「本佐倉城跡」の散策を続ける。「城山」を西に進むと、左手にも「土塁」跡が。そしてその先にはⅣ郭との間の大きな空堀が下方に。.そして「奥ノ山」に向かって丸太階段を上って行った。「奥ノ山」入口に到着。「奥ノ山奥ノ山は別名妙見郭とも呼ばれています。発掘調査によって15m四方の基礎が見つかっており、妙見宮の跡と思われます。本佐倉城の城主はここで元服しており、妙見様は千氏の守護神とされています。」「奥ノ山」が主郭であったと。「妙見宮」があった場所。「奥ノ山」碑。「奥ノ山」の北側。「房総の魅力500選」「本佐倉城跡(根古屋城)文明年間( 1469~86)に千葉輔胤(ちばすけたね)が築城。天正18( 1590 )に姻戚関係にあった小田原の北条氏と共に滅亡するまで、千葉氏の宗家として百有余年間( 9代)続きました。深い掘り跡の一部や郭跡が確認でき、当時の様子を現代に伝えています。」「妙見宮跡」碑。妙見宮は千葉氏の信仰の対象で、当主となるべき嫡子は妙見宮で元服式を行うのが習わしであったと。「奥ノ山」を見渡す。「倉跡」。「倉跡」碑。「その名の通り倉庫群が存在したと考えられます。確認調査によって掘立柱建物が広範囲に分布することが分かっています。また炭化した米が多く見つかっています。その他には、供膳具や調理具、貯蔵具なども多く見つかっていることから、倉庫だけでなく人の生活するための空間も存在したことが考えられます。」「南奥虎口」「南奥虎口」案内板。「京成電鉄」が見えた。「南奥虎口」の木戸があった場所を振り返る。東山虎口の土塁に登ると城北が一望できた。「ビューポイントここからは城北側が一望できるだけでなく、遥か遠くには筑波山が臨めます。開発によって現在は遠くなってしまった印旛沼も京成線のすぐ北側まで迫っていました。印旛沼の汀線と本佐倉城までの間は温地となり、敵の侵入を容易ではなかったであろう。案内通りに「筑波山」が見えた。山の上に見えたのが「順天堂大学」学校法人順天堂が創立150周年を記念して、順天堂発祥の地である千葉県印旛郡に建設したキャンパス。ビューポイントから千葉氏の「真向き月星紋」の家紋入りの矢盾を見下ろす。そして駐車場まで戻る。「国史跡本佐倉城跡案内所」は建設中?のようであった。開所はいつなのであろうか?この場所に、この認定証も展示されるのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.26
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「続日本百名城」・「本佐倉城跡」のスタンプをGETした「大佐倉駅」を後にし、ナビに従い「本佐倉城跡」に向かって農道を進む。左手に案内板が。「カンカンムロ横穴群(おうけつぐん)」案内板。千葉県印旛郡酒々井町にある横穴墓群。同町で唯一の町指定史跡であるとのこと。かつて印旛沼だった低地に面した厳島山という丘の斜面に造られた横穴墓群で、7基現存する。昔、厳島山に弁財天が祀られていた。ある時、結婚を控えた若者が、挙式に用いる碗や膳が足らず、困って弁天に祈ったところ洞穴(横穴墓?)の中から何者かの声がした。食器を借りたいと柏手を打って願うと「翌朝取りに来い。」と言われた。翌朝若者が見に行くと声のとおり碗と膳があった。若者は借りた食器を返したが、この出来事は評判となり食器を借りる者が相次いだ。しかしある男が借りた食器を返さずしまい込んだところ、食器はいつの間にか消えさり、それ以後、どんなに頼んでも洞穴から食器が現れることはなくなり、柏手をしても「カンカン」と空しい音が響くだけになり「カンカンムロ」と呼ばれるようになったとのこと。しかし、斜面の横穴は見つけることができなかった。「カンカンムロ横穴群新堀地区厳島山の北西部、大佐倉方面に向かって半島状に張り出した台地の雑木や篠やぶに覆われた中腹の急斜面にこの横穴群があり、土崩れで埋まったものを含めて七個の横穴がある。通称「カンカンムロ」あるいは「厳島の隠れ里」と呼ばれて椀貸し伝説によって知られていた。昭和二十二年、國學院大學小出義治氏によって一号横穴が発掘調査された。その報告によると出土遺物は勾玉、直刀、青銅椀、須恵器、人骨などであリ、築造年代は七世紀後半か八世紀初頭であろうとのことである。現存する当町唯一の横穴群として町の史跡の指定を受けている。」写真は「新堀カンカンムロ1号横穴出土の銅椀 口径13cm」であると。そして更に進むと右手の「本佐倉城(もとさくらじょう)」入口にあった、「国史跡 本佐倉城跡」碑。電柱にも案内が。「本佐倉城跡」👈リンク 歓迎ボード・「本佐倉城跡へようこそ」。駐車場に車を駐め散策開始。正面に「本佐倉城跡」が姿を現した。登城口手前にある、「国指定史跡 本佐倉城跡」石碑。「本佐倉城跡」案内ボード。「本佐倉城跡データ規模:東西約700m 南北約800m 面積約35万m2国指定:平成10年9月1 1日内郭群:Ⅰ郭(城山) Ⅱ郭(奥ノ山) Ⅲ郭(倉跡) Ⅳ郭(無名郭) Ⅴ郭(東山・東山馬場) Ⅵ郭(東光寺ビョウ) Ⅶ郭(セッティ山)外郭群: Ⅷ郭(荒上) Ⅸ郭(向根古谷) Ⅹ郭(根古谷)城下町: 佐倉宿・酒々井宿・浜宿湊・鹿島宿「国指定史跡 本佐倉城跡本佐倉城は、下総守護千葉氏が文明年間( 1469~1486年)に築城し、天正18年(1590年)に滅亡するまでの約100年間、当主9代が居城した戦国時代の城です。当時水上交通の大動脈であった印旛浦に面し、主要街道が交差する陸上文通の要衝の地に築かれました。県内最大級である面積約35万m2の規模を誇る本佐倉城は10の郭から構成され、防御性の高い内郭群は域主のための郭、広大な外郭群は家臣の屋敷地と考えられ、さらにその周囲には域下町が形されました。本佐倉城は「土の城」です。すべて土の造成によって構築された大規糢な空堀や土塁。櫓台に守られた郭群や虎口は、現在も明瞭に姿をとどめ戦国時代の城の迫力と息吹を感じさせます。」裏面には、日本語以外に五ヶ国語で。しばらくは、この五ヶ国語はお休みモード!!「本佐倉城跡鳥瞰図(部分)」と「本佐倉城の歴史」、「千葉氏の歩み」をネットから。「本佐倉城の歴史本佐倉城は文明年間( 1469~1486)に千葉氏の居城として千葉輔胤によって城されました。輔胤は享徳三年(1454)に始まる関東の動乱による千葉氏内紛の中で下総守護千葉氏の家督を継いだ人物で、千葉氏代々の居城であった「千葉城」が戦場となり荒廃したため、「本佐倉城」築いて新たな千葉氏の居域としました。以後百余年、天正十八年(1590)に豊臣秀吉にり千葉氏が滅ぼされるまで、当主九代が居城し下総の首府として栄えました。貴重な文化財として国史跡に指定され(平成10年9月11日)、その保存整備が進められています。」「千葉氏の歩み輔胤が下総の支配者となった時期は戦乱の最中であり、輔胤や二代孝胤は古河公方足利氏と連携して関東管領上杉氏や大田道灌、武蔵千葉氏と戦いを繰り返していました。居城が印旛沼に面した水運交通の要衝である「佐倉」に移ると城下に市場や町屋が集められました。孝胤の子である勝胤の時代(16世紀前半)は軍事的緊張の中で浜宿勝胤寺などを建立して城下の整備を行うほか直臣らと連歌会を催すなど佐倉は都市的な発展を遂げていました。弘治元年(1555)までに伝統的権威であった古河公方、管領上杉氏が後北条氏により排除されると後北条氏は千葉氏の取り込みを図ります。弘治三年( 1557 )に六代城主の親胤が城中で暗殺される事件が起きて以降、千葉氏は後北条氏の強い影響を受けます。この中で親胤を継いた胤富は領国支配を積極的に進め、後北条氏とともに上杉謙信、里見氏と戦うなど千葉氏の勢力の保持に努めました。天正十三年(1585)に八代城主の邦胤が城内で家臣によって殺されると後北条氏は軍事介入により千葉氏を後北条氏の支配下に置きます。邦胤の子重胤は人質として小田原城に送られました。天正十八(1590)年、豊臣秀吉による小田原攻めにより、千葉氏は後北条氏とともに滅亡し本佐倉城は千葉氏の居城としての役割を終えることになります。」「大佐倉駅」にあった「本佐倉城跡 散策マップ」。散策ルートも案内されていた。「国指定史跡 本佐倉城跡(内郭群)全体図」2013年時点の研究に基づいた案内板が設置されており、それぞれの「内郭群」が説明されており解りやすいのであった。「本佐倉城 鳥瞰イラスト図」をネットから 【http://mirai660.net/castle/motosakurajyoh_model.html】「本佐倉城(縄張り・城址)」をネットより。 【http://mirai660.net/castle/motosakurajyoh_model.html】より「東山馬場」碑。広い面積を有し馬場と考えられるが、建築跡などは見つかっていないと。現在ではここがメインの出入口である。案内に従って進む。ここ以降は「車両通行止め」。東山馬場から4郭方面に向かって進むと右手に、ここの城主の千葉氏の「真向き月星紋」の「矢盾」が並べられていた。「Ⅳ郭虎口」案内板。ここはⅣ郭虎ロです。現道となっている堀底道を登って行くと、上りきった所に塀跡と、塀跡の先には門跡が見つかりました。写真は発握調査当時のもので、推測で塀と門を復元しています。そして前方で道が二本に別れていた。「大堀切は城山と奥ノ山を分ける堀切です。Ⅳ郭虎口から続く通路は、大堀切の手前で左に折れ、高低差2m程のスロープを登ります。登りきった所が平坦面になっていて、木戸跡が見つかっています。」この坂の上の平らな場所が「木戸」のあった場所。再び分かれ道が前方に。左手が城山、右手が奥ノ山方面。左手の城山入口方面へと進む。「城山通路この通路は城山へ登るための唯一の通路で通路幅は180cm、何度も蛇行して城山虎ロへと向かいます。この場所から城山虎口までの高低差は7mあり、その急な勾配は容易く城山へは登らせません。」急な坂道を「城山虎口」へと進む。右手には竹林が。涼し気な竹林を見ながら進む。前方が開けて来た。「城山虎口城山虎ロは左折れの坂虎ロの形態をとります。左に直角に曲がる手前に門跡が見つかりました。門の左右には塀が連結し、門を入った目の前は土の壁と、その上にはやはり塀がめぐっていた事が発掘調査によって分かっています。」「城山虎口」案内板。「城山」石柱。「城山門跡この場所は平成18年度の発掘調査により門跡が見つかりました。この門をくぐるとその先は主殿となります。また、門の手前で通路がニ方向に分かれ、一方は門の方向へ、もう一方は奥ノ山へ渡る木橋(推定)方向へ向かいます。」「城山」の遺跡配置図をネットから。「土塁」跡。「城山」の北方向を見る。「城山遺跡の案内図」。「城山」の北東方面を見る。「主殿」跡。「城山」跡の東側を見る。「園池」跡。「茶室」跡。「城山」発掘調査案内。「建物」跡。駐車場とSさんの愛車を見下ろす。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.25
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この日は10月6日(火)、この日は旅友のSさんに誘われて、千葉にある「続日本百名城」の「本佐倉城趾」と「大多喜城」、そして帰路に東京都内にあるこれも「続日本百名城」である「品川台場」を訪ねたのであった。Sさんが早朝5:30に愛車で我が家に迎えに来てくださいました。そして国道1号を横浜方面に向かう。「横浜駅前」を通過。国道15号・第一京浜の鶴見駅近くを進む。東の空は朝の陽光にオレンジ色に染まって。京浜急行・子安駅近くの子安橋交差点付近のビルの窓も朝の陽光を反射して。時間は6:02。国道15号・多摩川に架かる六郷橋を渡る。「京急蒲田駅」前を通過。大森東交差手を右折し東京都道316号・日本橋芝浦大森線に入り京浜運河を渡る。そして「東京都臨海道路」に入る。前方に「東京ゲートブリッジ」が見えて来た。この道路を走るのは二人共初めて。「東京ゲートブリッジ(Tokyo Gate Bridge)」を渡る。「東京ゲートブリッジ」は、東京港第三航路(東京東航路)を跨ぎ中央防波堤外側埋立地と江東区若洲を結ぶ橋梁である。建設地が東京国際空港(羽田空港)に近く航空機の飛行ルート上にあるため、航空法により橋の高さに制限(98.1m以下)が課されている一方、東京東航路を通る大型船舶が航行可能な桁下の高さ54.6mを確保すべく、吊り橋や斜張橋ではなく、三角形に繋いだ鋼材を組み合わせて橋桁の荷重を分散するトラス構造が採用された。また、支間長は440mで、日本国内のトラス橋としては生月大橋(同400m)を上回り、港大橋(同510m)に次ぐ規模である とウィキペディアより。そして進んでいくと、道路の上に巨大な鉄骨そして金網の張られた構造物が現れた。Iphonesでネットを調べて見ると、すぐ隣が若洲ゴルフリンクスというゴルフ場があり誤ってゴルフ場から飛び出してしまうゴルフボールから走っている車を守るものなのだと。そして新木場にて右折し湾岸道路を進む。荒川、旧江戸川、江戸川を次々と渡って行き、中瀬交差点を左折し勝田台方面に向かう。京成大和田駅横の踏切を渡る。ここは、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災により、京成電車に乗っていた私がこの駅で足止めをくらい、近くの小学校の体育館にて一夜を過ごした場所なのであった。そして国道296号にて進み、千葉県佐倉市城内町にある「国立歴史民俗博物館」の近くを通過。そして漸く、最初の目的地の京成本線・「大佐倉駅」に到着。時間は9:07、我が家から約3.5時間かかったのであった。この駅に「続日本百名城」の「本佐倉場城跡」のスタンプ置き場になっていたのであった。スタンプをGET。「本佐倉城跡てくてく歩き」案内。「御城印『本左倉城』」案内。「御城印『本左倉城』」。「京成電鉄 スタンプラリー」案内。このスタンプも頂きました。「本佐倉駅」改札。無人駅かと思いましたが、1名の駅員が。ホームに成田空港行きの特急列車が停車。「名所・旧跡」紹介。「名所・旧跡紹介」部分をズームで。 ・・・つづく・・・
2020.10.24
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「横十間川」を渡り「法性寺」を訪ねた後は、この日のゴール地点の「東京スカイツリー」を目指して進む。右手にあったのが、「北十間川」に架かる「十間橋」。正面に「東京スカイツリー」。だんだんと「東京スカイツリー」が大きくなる。・東京スカイツリーの高さは、634m、展望回廊450m、展望デッキ350m・高さの由来は、「むさし」。武蔵国、宮本武蔵など日本人に馴染みが深い。・スカイツリーは世界2位の高さの建造物。1位は、ドバイのブルジュ・ハリファ・828 m右手に「東京スカイツリーイーストタワー」。東京スカイツリータウンに位置する超高層ビルで、オフィスのほか商業施設などからなる複合オフィスビル。地上31階建て、高さは158m。そして「東京スカイツリー」に到着。東京スカイツリーの高さの由来は、旧国名の武蔵国(むさしのくに)から来ている。東京スカイツリーから展望できるエリアと武蔵国のエリアが近いことと、むさしという言葉は日本人にはなじみの深いことばということで覚えやすい言葉ということから634mになったと言われているのです。手前を流れる川は「北十間川」。「北十間川」に架かる「おしなり橋」から「東京スカイツリー」を見上げる。「おしなり橋」の先にあったのが「ソラマチひろば」。「ソラマチひろば」の噴水。今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、噴水内への立ち入りは禁止。「噴水ひろば」。子どもたちが水遊びをするための噴水で、毎年の暑いこの時期になると子どもたちが大はしゃぎで水遊びをする姿が見られはずであるが・・・・。「ソラマチひろば」には、御影石と思われる大きな「石のオブジェ」があり、周りには、下からライトアップされるようになっていた。「石のオブジェ」「そらまち広場」にはミスト発生装置が稼働中。この前でしばしの休憩。「TOKYO SKYTREE」入口から「SKYTREE GALLERY」内部に入る。右側にスカイツリーからの眺望の巨大写真が。「東京スカイツリー」と白き富士山の姿。展望デッキ(フロア350・345・340) の姿が。カラフルな紐で「東京スカイツリー」の姿やマスコットの姿が。世界の主なタワーの高さ比べ。スカイツリーが一番、634m。チョット古い情報であるが。 【https://honkawa2.sakura.ne.jp/7222.html】よりライトアップ 幟、雅、粋。江戸で育まれてきた心意気の「粋」、美意識の「雅」、賑わいの「幟」という3つのオペレーションが1日毎に現れる新しいスタイルのライティングで、今日に続く明日、明日の先に続く未来を表現していると。「隅田川デジタル絵巻」👈リンク を暫し楽しむ。「東京スカイツリーの一階に描いた壁画(全長約40m、高さ約3m )。壁に埋めこまれた13枚のディスプレイも絵の一部となっており、ディスプレイ部分は、アニメーションしている。伝統的に、日本美術における目線は単焦点でなく全てにフォーカスがあたるように設計されていて、さまざまな時間軸を含んだ非常に情報量が多いものである。実在と架空、歴史と未来が混在した東京を、人間の限界を超えた、圧倒的な手描きのオプジェクト数の超高情報量で描いている。都市には主役はいない。一人ひとリの物語の集合が、都市を興味深い存在に形作っている。日本美術には、16世紀初頭から江戸時代に形成されたとされる「洛中洛外図や「江戸図屏風」のように、中心がなく、フラットで、すべてにフォーカスがあたり、人々の物語まで含んだ非常に情報量が多い作品が残されている。そうした日本美術表現の延長にあるものとして、そして、浮世絵など江戸時代に盛んだった版画の手法を、現代のテクノロジーで再構築して応用することによって、まさに中心がなくフラットで細部の情報量が多い東京を超高情報量で描いたのが本作である。テクノロジーの進化は、人間そのものを進化させているはすだ。そうした信念に基づき、江戸から東京、そして未来へと連続していく東京の姿を描き出している。」全長約40m、高さ約3mの壁画。壁に埋めこまれた13枚のディスプレイも絵の一部となっており、ディスプレイ部分は、アニメーションしている。「東京スカイツリー」の建設の姿。「減速継手で排水の落下スピードを緩める工夫!東京スカイツリーで最も高いところにあるトイレは地上4 5 0 mの天望回廊にあります。直線の排水管ではスビードが出過ぎてしまうので、それを防ぐための抵抗の役割として、管の内部に突起がある「減速継手」を設け、排水の落下スピードを緩めています。減速継手は過剰スピードを抑え、管のつまり、悪臭、流水音を防ぐ働きをします。また、減速ガイドと旋回カイドは排水が減速・旋回しながら落下をするように促し管内圧力変動を抑制します。」「東京スカイツリー実寸サイズの約1/150!!」「東京スカイツリー」の高さごとの断面形状が。「▲から●へ変化する珍しい構造!」東京スカイツリーの足元は三角形で、高くなるにしたがって円形に変わります。この形状により限られた敷地でもしつかり足元を支え、風の影響等を最小限にとどめることができるとともに、展望台から360度の眺望を楽しむことができます。また、見る方向で形が変わる「そり」と「むくり」を持つ独自の形状となっています。「展望デッキ(350m)までエレベーターでどのくらいの時間がかかるの?約50秒で到着!40人乗りのエレベーターとして、最大分速600mという速さは国内最高速です。スカイツリーのエレベーターは、一般的なものよりガイドレールを長くすることによってつなぎ目の数を減らしたり、風の抵抗を減らす工夫を行っています。その結果立てた500円玉が倒れない静かさを実現しています。」「館内で見られる特別な模様はなに?「江戸小紋」に使われる伝統的な模様!」「東京スカイツリーの避雷針東京スカイツリー頂部には広域放送アンテナがついた「ゲイン塔」があります。これは、その先端に位置する原寸大の「避雷針」です。」そして2F、3の土産物売り場を散策し、「東京スカイツリー」を後にし「北十間川」沿いに歩き「押上(スカイツリー前)駅」に到着。そしてここから、乗り換えなしで小田急線の「中央林間駅」経由で帰宅したのであった。この日の歩数は「21,654歩」であった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.10.23
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「龍眼寺(萩寺)」を後にして、「亀島小学校記念公園」に立ち寄る。昭和56年「江東区立亀島小学校」が地元の強い要望によりこの地に創立された。以来21年を経過した平成14年、学童の減少により廃校となった。小学校跡地の一部を公園として開園するにあたり、その名を後世に伝えるため、公園の名称を「亀島小学校記念公園」としたのだと。「江東区立亀島小学校記念碑昭和58年4月江東区立亀島小学校は東京都交通局柳島営業所車庫の跡地に第一亀戸小学校・香取小学校から分離し創立された。以来21年間、976名の有能な人材を輩出する。平成14年4月第一亀戸小学校と統合し、その校歴を第一亀戸小学校に引き継ぐ。校歌「藤の香高き」 三浦一郎 作詞 辻田幸徳 作曲 1.藤の香高き亀戸に 明るき校舎 陽に映える 心も体も逞しく 大きく育つ私たち 明日の日本に飛び立とう 学ぼう我等 亀島小 2.梅の香匂う亀戸に 文化の光が呼びかける みんな仲良く手を繋ぎ 豊かに育つ私たち 明日の世界に羽ばたこう 進もう我等 亀島小 」公園の藤棚の下のベンチで水分補給の休憩。そして「浅草通り」に出て右に折れ、「北十間川」に沿って進むと「柳島総鎮守 天祖神社」の案内板があった。「天祖神社」の一の鳥居。江東区亀戸3丁目38−35。「天祖神社(福禄寿)由来天祖神社は、社伝によれば推古天皇の治世(593~628)の創建で、その後、衰退していたのを応永十年(1403)に復興したと伝えられています。天正年間(1573~1591)に疫病が流行し、この時織田信長の使者が参向して流鏑馬を献じたところ、疫病は治まったと言われています。今日では子供の健やかな成長を祈って、毎年9月16日に子供歩射が行われています。亀戸七福神のひとつ(福禄寿)として親しまれています。」社号標「天祖神社」。「石灯籠」。「手水舎」「二の鳥居」。岩の上に鎮座する「狛犬」(左)。狛犬(右)。「拝殿」。社伝によれば推古天皇の治世(593~628)創建で、その後衰退していたのを応永十年(1403)に復興したと伝えられている。天正年間(1573~91)に疫病が流行し、この時織田信長の使者が参向して流鏑馬を献じたところ、疫病は治まったといわれている。今日では子供の健やかな成長を祈って、毎年9月16日に子供歩射が行われている。神像は聖徳太子の作だということだ。古くは「柳島総鎮守神明宮」と称し、明治5年新政府により、柳島村社天祖神社と改称させられた。当時は神仏分離令が発布され、神明宮が伊勢神宮の分霊であるため、「天皇の先祖の神」を称える意味により、全国統一の名称として『天祖神社』と呼ぶよう強制したものだ。境内に、「亀戸七福神・福禄寿」、区指定有形民俗文化財の力石、愛らしい「童」像・道祖神像、力石がある。近づいて。御祭神は天照大御神。社額「天祖神社」。「古神札納所」。「太郎稲荷神社」の朱の一の鳥居。石の鳥居が続く。「境内社 太郎稲荷神社」碑。「 太郎稲荷神社」社殿。九州柳川の三柱神社の境内に鎮座する太郎稲荷大明神は、京都伏見稲荷の分霊で五穀の神=倉稲魂の神と神の御使=霊狐を祀ってる。戸次道雪は太郎稲荷に篤い信仰を捧げ、出陣に際しては援軍の御幣を奉じて連戦連勝の加護を受けた。関が原の敗退の時、筑後川の対岸で道に迷った立花宗茂は、闇夜の幽光に先導されて浅瀬を渡り無事に帰着している。奥州棚倉に転封された宗茂の留守の間、父道雪の志を受け継ぎ、肥後腹赤村(はらかむら)で熱心に稲荷明神を守護神として信奉していた誾千代姫の夢枕に稲荷明神が現れ「宗茂守護のためしばらく姫の許を離れる」と告げられたので、夫宗茂の帰国を確信した。そのお告げは実現され奥州棚倉藩藩主から20年振りの柳川帰国が実現した。立花家では江戸の上屋敷(西町)と下屋敷(浅草田圃)にそれぞれ勧請して邸内社として祀り、一般にも開放したので参詣する人で賑わったという。幕末上屋敷(東上野一丁目周辺)にあったものを、江戸末期に天祖神社境内に移し現在に至っている。」多くの可愛らしい童像が楽しませてくれた。「童 かがやき」。「童 ありがとう」&「童 ひびき」。人望福徳の神「福禄寿」案内板。「亀戸七福神」の「福禄寿」社。「復興記念之碑」。そして脇門から出て振り返る。そして再び浅草通りに戻り、来た道を引き返す。前方に東京スカイツリーを見ながら「柳島橋」を渡る。下を流れる川は「横十間川」。広重『名所江戸百景』「柳しま」。絵の下の川が横十間川、絵の中央の川が「北十間川」、左上の山は筑波山。右に見える太鼓橋がここ「柳島橋」であろう。左端がこの後すぐに「妙見山 法性寺」。そして「柳島橋」を渡ると直ぐ左にあったのが「妙見山 法性寺」。「北辰妙見大菩薩」と刻まれた高さ170cmの石標。右側面に「妙見山法性寺」、左側面に「宝暦2壬申(1752)6月15日坂本町講中 □□町講中」とある。この石標は、以前は道標をかねて浅草通りに面して立てられていたとのこと。「昔ばなし 柳塚」碑。「昔ばなし柳塚この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑と考えられます。剥落が激しいため建立年代や人名などが読み取りにくい部分が多いですが、社長・頭取・監査・会計等の役職名が記されています。江戸時代、睦会と称して運営されていた落語は、明治17年(1884)三遊派・柳派に分裂して覇を競うようになりました。明治22年(1889)には三遊派の記念碑「三遊塚」が区内の木母寺に建立されています。やがて大正6年(1917)になって、寄席が会社組織となり、300人余りの芸人が月給制度の下に統一されたため、派閥は解消されましたが、統一に反対する150人もの芸人が睦会を結成して対峙しました。」広重の浮世絵にも描かれている「柳島妙見法性寺」。「江戸名称図会 柳嶋 妙見堂」。「葛飾北斎辰政翁顕彰碑」。「葛飾北斎翁描 柳嶋妙見山関係の絵の中から」。「柳嶋 妙見堂」。「内陣」。様々な石碑が並んでいた。ここには「侠客上萬の墓」がありとても珍しく目を引いたのであった。「豊国先生瘞筆(えいひつ)之碑 」。「初代歌川豊国筆塚(断片)初代歌川豊国(一七六九~一八ニ五)は、江戸時代後期に活躍し、歌川派を浮世絵界最大の一派に成長させる基盤を作った人物です。豊国は江戸芝神明前に生まれ、俗名は倉橋熊吉、父倉橋熊五郎は人形作りの職人でした。そのつながりから浮世絵の世界に人ったのが十四、五歳の頃と伝えられ、歌川豊春の門人となりました。雅号は一陽斎で、役者絵と美人画において新境地を拓き、門人には初代国貞(三代豊国)、国安、国芳をはじめ多数ありましたこの石碑は、豊国の三回忌を経た文政十一年(一八ニ八)に初代豊国の門人達と地本屋仲間、団扇屋仲間により建てられました。碑に記される内容は、現在も豊国の伝記の基本資料として位置づけられるものです。碑文には、この碑が豊国の遺筆数百枚を埋めた上に建てられたことが記されています。碑の撰文は狂歌堂真顔(碑では狂歌堂四方真顔)、書と篆額は山東京山(山東庵樵者京山)、碑刻は窪世祥が受け持ちました。失われた原文は飯島虚心『浮世絵師歌川列伝』などにより知ることかでき、初代豊国の業績や、絵師と文人との交流を知る手かかりとしても貴重な内容を伝えてくれます当初は境内の松の奥、墓域の側にありましたが、閉東大震災で複数に損壊した後失われ現存するのはここで見られる断片のみです。」「近松門左衛門碑」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.22
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そして次に訪れたのが「龍眼寺(萩寺)」。亀戸3丁目34番2号にある天台宗の寺「慈雲山 無量院 龍眼寺」。「山門」。「龍眼寺(布袋尊)龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられています。当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。また。境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。」「萩寺史跡」。萩の名所で〝萩寺〟と俗称され、江戸の人気スポットだった。『江戸名所図会』には、萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれている。また境内の万治二年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているものの中でも最古のものだ。寺標「龍眼寺」。史跡碑の裏の壁には松尾芭蕉の (右) 「濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩」榎本其角 (左) 「つき見とも 見えずや露あり 庭の萩」 山門右手のところには、大納言家長郷(右) 「ききしより 見る目ぞまさる この寺の 庭に散りしく 萩の錦は」が彫られていた。「木造聖観音菩薩立像」案内板。「木造聖観音菩薩立像 一躯 平成12年3月27日指定聖観音菩薩立像は龍眼寺の本尊です。像高は104cmで、一木から頭・体を木取りした後、干割れを防ぐためにそれぞれを前後に割り、内側をくり抜いて再び接合した割矧造りです。頭部は耳後ろで前後の材を矧ぎ合わせ、胴体に差し込まれています。本像は東武に宝髻を結い、左手は臂を曲げて胸前で蓮華をとり、右手は軽く臂を曲げて下げ、蓮華座上に腰をひねって立っています。像容は顔がまるく穏やかな表情がうかがえ、着衣は浅い彫りのなだらかな起伏によって表現されており、ゆったりとしています。本像は江東区にとっては数少ない平安時代末期から鎌倉時代初期の作と考えられ、大変貴重です。」「木造聖観音菩薩立像」の写真。「庚申塔 万治二年在銘」。「庚申塔 万治二年在銘」案内板。「庚申塔 万治二年在銘 平成19年3月26日指定庚申塔は庚申信仰という民間信仰に基づいて建てられたものです。庚申信仰とは、人の体内には三尸という虫が棲んでおり、60日ごとにめぐってくる庚申の夜、人々が眠っている間に体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の扉を訴えるので寿命を縮めるといわれ、この夜は眠らず過ごし健康と長寿を願うというものです。本庚申塔は万治二年(1659)の銘をもち、庚申塔の中でも比較的早い段階に属し、区内では最古のものです。正面上部に三つの種子が刻まれ、その下に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が並んでいます。銘文は三猿の下にあり、姓を持つ10組の夫婦が現世と来世の二世安楽を願って奉納したことが分かります。龍眼寺は、江戸時代の中ごろに沢山の萩が植えられたことから萩寺の名で親しまれ、萩の季節には多くの人々で賑いました。この辺りは江戸時代には柳島村に含まれ、庚申塔が建てられた万治二年は、柳島村の成立した所期にあたります。代々柳島村の村役人をつとめた大沢八郎右衛門と同じ姓を持つ人名が刻銘に見られることから、奉納者は柳島村の草分け的な存在であったと考えられます。また、女性が加わっていることもこの時期の庚申塔としては珍しく、大きな特徴といえます。」「庚申塔 」写真と「刻銘」案内をズームして。「經日寂寞無人聲讀踊比經典」と刻まれた石碑であると、高校時代の親友からコメントを頂きました。中国における仏教経典の総集の「大蔵経」の一部であると。「地蔵堂」と手前に「歌碑」。「供養碑(句碑)」。「供養碑(句碑)ゆきし子は 永劫老いず 楠若葉 一亭」「森総彦 句碑」「森総彦 句碑青梅や 小さき息を 大切に 総彦」「地蔵堂」を正面から。「子育地蔵尊」と書かれた提灯が一対。扁額「 子護八起地蔵尊(ねごやおきじぞうそん)」。「布袋堂」。「亀戸七福神七福神唯一の実在の人・中国唐時代 布袋尊清廉度量・家庭・交際 圓満 吉凶を司る弥勒菩薩のの化身といわれる多くの信仰を集めている。「落合直文の歌碑」国文学者・歌人として知られる。萩をこよなく愛し、雅号を「萩之舎」と称し、しばしばこの萩寺に来遊した。直文は明治36年暮43歳で没し、青山墓地に葬られた。大正12年秋、門弟たちがこの寺に歌碑を建てた。昭和20年アメリカ軍の無差別空爆により破損したが、戦後再建された。 「落合直文の和歌萩寺の萩 面白し つゆの身の おくつきところ こことさだめむ 直文」「石田波郷・石塚友二句碑」「石田波郷・石塚友二句碑槇の空 秋押し移り ゐたりけり 波郷たかむなの 疾迅わが背 越す日かな 友二」「千載庵仲成歌碑聞しより 来て見や □野の染付は いふもさらなり 萩のにしき手 千載庵仲成」「不動堂」。扁額は「不動明王」。「内陣」。そして「本堂」。本堂の形は聖徳太子の夢殿を模した八角堂となっていた。「本堂天台宗 慈雲山無量院龍眼寺本 尊 聖観世音菩薩 江東区有形文化財・現在の区内最古の仏像応永二年(1396)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え、帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現れ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより聖観世音菩薩を授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳原寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めて、その後現在の「龍眼寺」に改めた。御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖堂(八正堂)という。八聖道(八正堂)とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。 一、正見 正しい見解 二、正思 正しい思い 三、正語 正しいことぼ 四、正業 正しい行為 五、正命 正しい生活 六、正精進 正しい努力・勤め 七、正念 正しい信念・気づかい 八、正定 正しい精神統一 「本道 内陣」。御本尊の聖観世音菩薩が安置され、現在も厄除・眼病平癒の観音様として信仰を集めている。「寺務所・客殿」。「芭蕉句碑」。ぬれて行 人もおかしや 雨の萩 芭蕉「寺務所」「萩」の花は未だ。「石灯籠」。「布袋尊」「百寿 句碑」。「百寿 句碑春盛る□□□□□□□の花 百寿」こんなことってあるの???「春盛る 梅は後ろよ 蘒の花」では?「羅舎一堂句碑」「羅舎一堂句月や秋 あきや夜にして 十五日 羅舎一堂」境内の池には御簾(みす)の日除けが。池の太鼓橋には巨大な白の錦鯉が悠然と。池には大きな錦鯉が沢山泳いでいたのであった。「夢佛庵くに□句碑」夢佛庵は不明だが、「江戸名所図会」の撰文を書いている人物と。「夢佛庵くに□句碑夏痩を 驚く秋の 寝覚哉 夢佛庵くに□」。「龍眼寺の柳」「龍眼寺の柳應永二年(1396)開基良博大和尚が、此処亀戸柳島村に村人の依頼により「柳源寺」を建立、後に「龍眼寺」(時代不明)と改められた。又元珍大和尚・元禄六年(1693)萩を好み、全国より集め、「萩寺」と呼ばれ、文人墨客が集まり江戸の多く人々に親しま江戸名所絵図、江戸砂子等にも描かれている。」写真はピンボケであったが、柳の説明がなかったが・・・???「冬嶺・市町句碑」「冬嶺・市町句碑」□を□や 色越□□錦や 萩見□ 冬嶺「ひと色を千々の錦や萩見寺」露の世に □□□や 萩の上 市町「露の世にこぼさぬ露や萩の上」「地蔵堂」を左に見ながら「龍眼寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.21
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更に亀戸天神の境内散策を楽しむ。境内左側の散策道を歩く。「紅梅殿」。「紅梅殿御本社と時を同じくして寛文二年(1662)に太宰府天満宮の御神木「飛梅」の実生を勧請し、社殿前に奉斎したのを起源とし、昭和63年に現在地に再建される。」藤棚越しに「太鼓橋(女橋)」を見る。藤が咲くと・・・。境内にある江戸懐石『若福』店の壁には「水車」が。藤棚越しに「太鼓橋(男橋)」を見る。「わかふくの甘味豆富好きでありんす」我も【食べたかったでありんす!!】「梅とろろ粘り貰って合格祈願」。そしてUターン。左手には梅の木々が並んでいた。同じく「清水君碑」、これも再建か、明治三十ニ年の文字が。「国産マッチの創始者 清水誠の頌碑人類は、原始以来火を自由に使うことによって 今日の文明を築いてきた。日本の近代文明もまた西欧からマッチの製法を輸入し、これを改良工夫した先人の努力によって飛躍的に発展したのである。その創始の時が今から丁度百年前でありその創始者が清水誠氏である。清水氏は弘化二年(1845)金沢で生まれ、明治3年幕命を受けてフランスに留学しパリ工芸大学に学んだ。専攻は造船学だったが、明治7年たまたま在仏中の宮内次官吉井友美氏の勧めによって、マッチの製造を決意して帰朝した。翌8年4月には本務の造船技師のかたわら東京三田の仮工場で早くもマッチの製造に着手した。明治9年9月本所柳原町に工場を新設して新燧社を興し、同12月には官職をやめてその経営に没頭した。翌10年9月には初めて国産マッチを上海に輸出し、好評を博した。明治11年7月再びフランスに渡り、ドイツ、スウェーデンのマッチ事業を視察して帰り、以来ますますの改良に苦心し増産につとめた。その後打ち続く不況に見舞われ 逐に21年には業界から引退して郷里金沢に帰った。しかしその後もなおマッチ製造機の改良に情熱を燃やし、29年新鋭機の特許をとり翌20年大阪に出てその製造に従事した。明治32年2月8日病をえて没した。時に年54才である。大正4年政府はその功績を賞して従五位を遺贈した。なお没後間もなく当亀戸天神社の境内に追慕顕彰の碑が建てられたが今次の戦災によって破損したままになっていた。今年あたかも国産マッチ創始百年に当たり、業界の有志によって新しく再建されることになった。ここにその由来を誌し先人の功をたたえ、一文を草して頌辞とする。」「中江兆民翁之碑」。中江は弘化四年(1847)土佐藩士の子として生まれ、明治初年佐賀1丁目5番の辺りに、わが国最初のフランス語塾を開いた。明治4年フランスに留学。同7年帰国後フランス語塾を再開した。フランス文学、特にルソーの研究家、また自由民権運動の指導者、理論家としても広く知られている。同14年東陽自由新聞を創刊、政府を攻撃し、同23年第1回普通選挙に当選。同31国民党を組織し、政界で大いに活躍したが、同34年56歳で死亡した。中江兆民と亀戸天神との繋がりはどのような??「亀戸天神社 神庫」「亀戸天神社 神庫(左)」「亀戸天神社 神庫(右)」。そして「拝殿」前まで戻り最後に東側の散策道を歩く。両側には梅の木が並んでいた。「歌川豊国の碑」。「歌川豊国の碑幹はみな老を忘れて梅の花 楳堂「二世、三世ノ肖像ヲ田鶴年鐫ガ鐫刻ス 合企 豊原國周 豊原國貞」明治26年11月 三世香蝶楼国貞の発起により市川団十郎、尾上菊五郎等や錦絵問屋、浮世絵師の補助によって建立されました。」太鼓橋(女坂)を見る。右手にあっのが「花園社」。「内陣」。社額「花園社」。「花園社ご祭神は菅原道真公の御奥方で、菅公の父君是善公の門人であり、菅公ご幼少の時の師である儒者の島田忠臣の御女にあらせられ、御名も宜来子(のぶきこ)と申し、相殿に御子達十四方をお祀りしています。寛文年中(1661~1672)亀戸天神社の創建と時を同じくして筑紫(福岡県)の地より勧請し、以来花園神社、花園大明神とも号されて、安産・子宝・育児の神・立身出世の守護神として信仰されています。安産御守護・岩田帯・安産祈願絵馬は、ご本社でお頒ちしております。」「神苑の梅東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ道真公が京の都を離れる時に詠んだ歌として有名です。そして、その梅が京から一晩のうちに道真公が住む屋敷まで飛んできたと言う「飛梅伝説」も有名な話ですが、この飛梅が太宰府天満宮の御神木となっており、道真公を祀る神社に株分けされたと云われていますので、道真公を祀る神社が梅に包まれる由縁とも言えます。」「聖廟九百年御忌句碑(芭蕉の句碑)」 戦後行方不明になっていたのだが、昭和53年2月25日境内藤棚の土中から33年ぶりに発見された。この句碑は、享和二年(1802)2月25日亀戸天神の祭神菅原道真公九百年祭の御忌に、当時亀戸天神付近に多く住んでいた芭蕉門下、雪中庵関係者が芭蕉百年忌を合わせて記念して奉納したもの。小松石製で高さは122cm。表に芭蕉の句を完来の筆跡、裏を白酔の筆跡で次の句が刻まれている。「聖廟九百年御忌句碑しはらくは花の上なる月夜哉 芭蕉翁芭蕉が、貞享四年(1687)十年吉野紀行の旅に出て、翌年春、吉野の満開の桜とその上に浮かぶ月を吟じた句。碑の表には、雪中庵一世嵐雪、二世吏登、三世蓼太の句も刻まれている。 錦帳の鶏世を学の戸やほととぎす 服部嵐雪 明月やそぞろに走る秋の雲 桜井吏登 かり初に降り出す雪の夕かな 大島蓼太碑の裏には雪中庵四世完来の句とその一門の普成・午心の句が刻まれている。 松の月日の松影よもすがら 四世雪中庵完来 しら雪やをのずからなるひと夜松 夜雪庵普成 白妙や花のあらしも松風も 葎雪午心菅原道真公の御神忌九百年にあたる享和二年(1802)二月二十五日 芭蕉門下の人々が芭蕉百年忌にあわせて建立する。梅林が続いていた。【梅が咲くと・・・】。手入れが終わった藤棚であろうか。【藤が咲くと・・・】。再び太鼓橋(男橋)を。【藤が咲くと・・・】。そして太鼓橋(男橋)の袂から東京スカイツリーを見上げながら、次回は「藤まつり」の時期にと思いながら、「亀戸天神社」を後にしたのであった。そして「亀戸天神社」を後にし、蔵前橋通りに出てここを右折して進むと右手にあったのが「船橋屋」。「船橋屋」のくず餅は江戸から伝わる元祖発酵和菓子です。元祖くず餅・「船橋屋」は江戸文化二年(1805年)に亀戸天神参道に創業した発酵和菓子「くず餅・あんみつ」の老舗。そして前方に「横十間川」に架かる「天神橋」が。ここ「天神橋」の手前を右に折れ、「横十間川」沿いを進む。右手にあったのが「長寿寺」。江東区亀戸3-10-2、瑞亀山長寿寺。「大堀富子女史哀悼碑」、この人物は?、この寺との関係は?「寺務所」か。「本堂」。臨済宗永源寺派の長寿寺は、瑞亀山と号す。長寿寺は、川叟宗勤大和尚が文明元年(1496)円命寺と号して柳島に創建、天文19年(1550)南本所大川端へ移転、市橋下総守の先祖伊豆守(天正13年1585年寂、法名延命寺殿節翁宗竹大居士)が開基となったといいます。延宝9年(1681)本所石原町に移転、元禄4年(1691)柳島へ再転、元文6年(1741)円命寺は井伊直該の法号にちなみ瑞亀山長寿寺に改めたと。荒川辺八十八ヶ所霊場78番札所。そして「横十間川」沿いに歩くと、前方に「東京スカイツリー」の勇姿が再び。左手に行くと「春日通り」。橋の名は「栗原橋(くりはらはし)」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.20
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更に、亀戸天神の境内散策を楽しむ。「弁天社」が右手に。もともとは大宰府天満宮の志賀社を祀ったもので、志賀社は海など広く水を守る神でしたが、亀戸天神が江戸の名所となり、なぜか上野不忍池に見立てて「弁天堂」と呼ばれたことから、弁天社となったのだと。龍の彫り物。「弁天社寛文五年(1665)太宰府天満宮(福岡県)心字池畔に鎮まり座す志賀社を勧請したのを始めとしますが、時代の推移と共に、七福神の一つであり、無量の福徳を与える弁財天(水の神・音楽の神)の信仰と習合し、一般には「弁天様」と親しまれた。て、福徳福智を増し天災地変を消除する開運出世・芸能成就の神として信仰されてきました。その間幾度か災害に罹りその都度復興されましたが、近年殊に社殿の破損も著しく、菅原道真公御神忌1100年大祭に伴う記念事業に併せ、地元宮元会役員一同を始めとする崇敬者各位の御奉賛により、装いも新たに修復されたものであります。」「太鼓橋(女橋)」から「心字池」と藤棚を見る。「太鼓橋(女橋)」から「亀戸天神社」の「拝殿」を見る。「太鼓橋(女橋)」の先の左手の藤棚。その先にあったのが「五歳の菅公像」。昭和52年の御神忌1075年に大祭記念として奉納された立像。台座に5歳の時の和歌が刻まれていた。「美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある」。近寄って。「五歳の菅公昭和52年の御神忌1075年に大祭記念として奉納された立像。台座に5歳の時の和歌が刻まれています。 美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある」そして一番奥の左手の藤棚。「鷽の碑(うそのひ)」「鷽」「幸運を招く鷽(うそ) 一月二十四、二十五日」「拝殿」に向かい合う場所にも石碑が並んでいた。左手にあったのが「累卵塔」。累卵とは、卵を積み重ねることで、崩れ易く極めて危険な状態をたとえていう言葉で、明治20年3月に明治天皇の主治医を務めた千葉愛石が天神を崇敬すると共に人命の危うさを示そうとして献納した。誌は高橋泥舟、画は山岡鉄舟の作。この碑の裏面には大政奉還を行った最後の将軍徳川慶喜と深く関わった〝幕末三舟〟と称された勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の名前が刻まれている。平成2年江東区有形文化財(歴史資料)として登録された。「梅松両社落成記念三翁句碑」。「梅松両社落成記念三翁句碑 正 面 面のまゆむすひあぐるや松花 三祖 浪華旧徳椎木才麿 左側面 香の風やあるしかしこしむめの花 二祖 難波松寿軒井原西鶴 右側面 神松や千とせちかくもわかみとり 七祖 玉池谷素外文化八年(1811)に本社前の紅梅殿と老松社の社が再建された記念に建立されたものです。この両社とも、先の戦火に羅り焼失いたしましたが、紅梅殿は昭和62年の当宮御鎮座325年に当りこれが記念に心字池の西の畔に再興されました。」「御神牛」。牛に近づいて。「御神牛菅原道真公と牛との御神様は原道真公牛の物神は殊の外深く、古来よリ信仰されて来ました。道真公は、承和十ニ年「乙丑の年」六月ニ十五日にお生まれになリ、太宰府の配所でお亡くなリになった際、ご遺体を乗せた車を引く黒牛が臥して動かなくなり、これは道真公の御心による事として、その場を墓所と定め、社殿が建立さたのが太宰府天満宮の起源とされています。また、道真公が京都から太宰府へ下向の途中、白牛によって危難から救われたいう故事も伝えられています。この神牛の坐像は昭三十六年、御鎮座三百年祭にあたリ御社殿の復興とともに奉納されたものです。」「絵馬掛所(えまかけどころ)」。「亀戸天神 藤の絵馬」。「鷽と卯槌の絵馬」うそ鳥は「鷽」の字が学問の「學」に似ていることから、受験生のお守りとして人気があると。「卯槌」は、平安時代に正月初卯の日に糸所から朝廷に奉ったもので、貴族間でもお互いに贈り合ったのだと。「手水舎」新型コロナの感染拡大防止のため利用禁止と。亀戸天神・「拝殿」。社額「亀戸天神社」。「内陣」。本殿の右隣りには「札所」そしてその奥に「社務所」。「札所」を訪ねる。書き置きの「御朱印」を頂きました。「文房至宝」碑。「文房至宝碑由来中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ、読み書き算盤の寺子屋時代から明治の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた。今や文房具はOA機器にいたる迄、その範疇を広げ四宝から至宝に至って、戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった11月3日(文化の日)を文具の日と定め、平成2年11月12日天皇陛下御即位を記念して全国業者相寄り、東宰府亀戸天満宮の境内に文房至宝の碑を建立する。」「御嶽神社(みたけじんじゃ)」。「卯の神として知られ、本殿の東側に建てられています。菅原道真公(すがわらみちざねこう)の学問の先生を祀(まっ)ってあり、特に1月の初卯、ニの卯、三の卯は卯槌(うずち)、卯の神札(おふだ)が配られます。又暦(こよみ)の十ニ支の卯にも関係します。卯とは、時間で午前6時頃を表し、方角は東を示し色々な事がはじまり、広がっていく事を意味します。卯の日はその年によって異なります。火災除、雪除、商売繁盛、開運の神様です」。「御嶽神社と菅原道真公御祭神 比叡山延暦寺第13代座主 法性坊尊意僧正御社殿 寛文九年十一月二十一日に九州大宰府御嶽山より勧請し建立され、古くは亀戸妙義社 とも称されました。現在の御社殿は、菅原道真公御神忌1075年大祭の記念事業の 一つとして、昭和51年に再建されたものです。祭 日 初 卯 正月の初卯日 卯日祭 毎月の卯の日由 緒 法性坊は、道眞公(天神様)の数学、御折の師で、道眞公が薨去の後は大宰府天満宮の 社殿造営に関わられ、社前に一念三千の心字池を構えて三世一念の太鼓橋を架けられる など道眞公とのご関係は殊に深く、よって当宮境内に奉祀されました。 法性坊は智徳世にすぐれ、ご在世の内にも奇特多い高僧として知られ、天慶三年(930) 二月の卯日の卯の刻に亡くなられたことから、春の陽気を迎えるはじめとして卯槌、 卯の神札を求め、福徳・才智・愛敬を願い、除病・延命を祈りました。」亀戸天神「拝殿」と東京スカイツリー。「塩原太助奉納 石灯籠」。「塩原太助奉納 石燈籠 天明元辛丑年(1781)八月十七日太助は、本所相生町(墨田区両国)で薪炭商営み、辛苦を重ね豪商をなした。」「亀戸天神社 社務所」。「舞殿」。再び「拝殿」を見る。「拝殿」前から「太鼓橋(女橋)」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.19
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「普門院」を後にして「亀戸天神社」を目指して進むと正面に「亀戸天神社」の境内が姿を現した。右手に「東側入口」が。そして蔵前橋通りからの「亀戸天神社」入口。「亀戸天神由来江戸時代から学問の神様として信仰を集め、梅や藤の名所として庶民から親しまれてきました。寛文2年(1662)、九州太宰府天満宮の神職が、飛梅の木で菅原道真の像を作り祀ったのが創建といわれています。毎年1月24日、25日に「うそ替え神事」が行われ、前年のウソを納め、新しいウソを求めると「凶もウソとなり吉にトリ替わる」といわれており、檜の一刀彫のウソに人気があり、たくさんの人々でにぎわっています。」正面に亀戸天神の朱塗りの鳥居が。扁額「亀戸天満宮」。亀戸天神社の通称は亀戸天神、亀戸天満宮または東宰府天満宮。「藤の花育成基金」のお願い。鳥居の前を右に曲がると様々な石碑が並んでいた。新東京八名勝「亀戸天神」碑。1932年に報知新聞社が東京市拡張を記念する目的と報知新聞社の新聞発行二万号の記念とを兼ねて行った「新東京八名勝」選び。選定方法は広く市民から募集し、投票によって決められた。その時選定されたのは次の八名勝である(区名は当時のまま記載)。池上本門寺(大森区)、西新井大師(足立区)、北品川 天王社(品川神社)(品川区)、日暮里 諏訪神社(荒川区)、赤塚の松月院(板橋区)、目黒の祐天寺(目黒区)、洗足池(大森区)、亀戸天神(江東区)。「大鳥居完成記念」碑。「珺琚(くんきょ)先生之碑」刻銘は正面と背面にあり、正面上部に「珺琚先生之碑」、その下に業績が刻まれています。本名は久保寺正久、通称は正之進て、珺琚は号です。江戸時代後期の数学者として知られています。寛政7生( 1795 )に久保寺交美のニ男として生まれ、12 ~ 13歳の時に兄正福とともに至化誠賛流の数学者古川氏清の門に入りました。著書も多く、「趣数小補」(文化14年・1817 )、「算法極数録』(文政2生・1819 )、「ー席ー題」 (文政13年・1830 )などが代表とされます。この碑は、彼の弟子中村時萬、内藤忠辰が中心となって建てにものです。「歌碑」であろうか。「楷の木」「楷(かい) 別名トネリバハセノキ(爛心木)中国(支那)原産のウルシ科の落葉高木で、曲阜の孔子廟に弟子の子貢が自ら植えたと伝わり、幹も枝もまっすぐ伸びるのが特長である。大正4年白沢保美博士が、その種子を中国から持ちかえり苗に育てたのが、我が国に渡来した初めといわれる。楷は、雌雄異株である上、各所に分散しているために、また花が咲くまでに30年余要するということから日本では種子を得ることができなかった。この楷は、昭和45年秋金沢文庫(神奈川県)にある雌木から人口交配により得た種子が翌年春発芽したものである。」「筆塚」。「筆塚筆塚は、書家や書道に励む人等が筆の労に感謝するとともに、一層の上達を願って廃筆を納めたものです。当宮では、「宮居に遠き人之為に、吉書初め(書初め)に用筆を文政四年(1821)より毎年12月朔日から晦日迄出す」と伝えられ、今も「梅ヶ枝筆」を授与しています。特に、天神さまの御忌日 2月25日には神苑の梅の木で調製した筆を授与いたします。筆塚祭(書道上達祈願祭)毎年7月25日執行廃筆、清書の焼納(お焚き上げ)を行います。」「河野寅吉氏彰徳碑碑誌河野寅吉氏安政五年(1858)生 洋傘溝骨製造技術開発の祖大正4年歿 その紀功碑震災戦禍に遭い保全己に難なり 時於明治100年乃ち有志発願し茲に之を再建す 旧碑は原形を縮少し併設したり 以て銘す草創は無なり到境は無限なり探求と断絶の間孤心切切敢として條件の限界を超克洋傘骨産業史に黎明の灯をかかぐその開業精神千古に凛たり爰に先緒を後世に顕彰し斯業発展の永遠の道標と為さんと也 昭和戊申五月」「心字池」の東側から朱の「太鼓橋(男橋)」を見る。亀戸天神社の藤は、早春の梅とともに亀戸天神社を代表する花。特に藤は東京の花の名所として名高く、江戸時代から「亀戸の五尺藤」「亀戸の藤浪」として広く親しまれている。15棚50株の藤の盛りの華麗な美しさが、朱の太鼓橋と心字池の水面とのコントラストによって一段と際立ち、見事さを誇るのである。同じ場所近くのフジの花をネットから。【藤が咲くと・・・】「太鼓橋(男橋)」の橋の裏側に「心字池」の水面のゆらぎが映って美しかった。笠松紫浪「亀戸天神太鼓橋」「太鼓橋(男橋)」を再び正面から。「大鳥居をくぐると心字池があり、3つの橋が架けられ、九州太宰府天満宮の境内にならって造られています。これは池と橋を人の一生に見立てた「三世一念の理」と言って、最初の太鼓橋(男橋)は生きてきた過去を、つぎの平橋(ひらばし)は今が見える現在を、つぎの太鼓橋(女橋)は希望の未来をあらわし、3つの橋を渡るごとに心が清められ、神前へと進みます。心字池と太鼓橋はその形により、神様に近づく道具公の波乱の生涯と重ね合わせて造られたように感じられます。」「太鼓橋(男橋)」手前の台座。この絵から考えると、昔の灯籠の台座なのであろう。「大鳥居をくぐると心字池があり、3つの橋が架けられ、九州太宰府天満宮の境内にならって造られています。これは池と橋を人の一生に見立てた「三世ー念の理」と言って、最初の太鼓橋(男橋)は生きてきた過去を、次の平橋(ひらばし)は今が見える現在を、次の太鼓橋(女橋)は希望の未来をあらわし、3つの橋を渡るごとに心が清められ、神前へと進みます。心字池と太鼓橋はその形により、神様に近づく道具公の波乱の生涯と重ね合わて造られたように感じられます。」「太鼓橋(男橋)」から東京スカイツリーの姿。見事な藤棚が拡がっていた。【藤が咲くと・・・】。「太鼓橋(男橋)」から「心字池」の西側(左側)を見る。正面に見えたのが亀戸天神社「拝殿」。「心字池」に架かる藤の花の観賞用桟橋。藤の巨木・老木が藤棚とともに。【藤が咲くと・・・】。藤棚とその奥右手に「花園社」【藤が咲くと・・・】。「琴柱灯籠(ことじどうろう)」大烏居をくぐり、太鼓橋と平橋を渡ってすぐ左側に心字池から柔らかな曲線の脚で支えられた琴柱灯籠があります。この名前は、琴の弦を支える琴柱の形に似ていることに由来します。藤や梅の木に隠れて目立たない位置にありますが、天神様の灯籠は、金沢兼六園最大の人気スポットである有名な琴柱灯籠よりさらに大きく立派なものです。(この灯籠奉納の石碑には琴字橙籠と記入されています。)」太鼓橋(女橋)と「琴柱灯籠」。再び「心字池」に架かる藤の花の観賞用桟橋。藤棚を見ながら、咲いている藤の花を想像して。朱の「平橋」を見る。【藤が咲くと・・・】右手に「太鼓橋(女橋)」、そして「心字池」。藤棚の上に東京スカイツリーがニョッキリと。【藤が咲くと・・・】。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.18
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江東区亀戸3丁目を「光明寺」に向かって歩く。「亀命山 遍照院 光明寺」に到着。亀戸3丁目42番1号にある天台宗の寺。入って右手に地蔵堂、正面は鉄筋コンクリートの本堂、本堂左は庫裏。本堂の裏は墓地が」あった「光明寺由来光明寺は天台宗で、第命山退照院と号し創建は弘治元年(1555)と伝えられています。境内には、寛永5年(1628)という区内でも古い年号をもつ宝筺印塔、延宝4年( 1676 )の庚申塔、越後国(新潟県)新発田藩主溝ロ宣広奉納の寛永寺旧蔵石造燼第、役者絵・美人画に独特の境地を開き、浮世絵の第一人者と賞されたニ世歌川豊国(国貞 1786 ~ 1864 )の墓などかあります。」入口にあった「二世 歌川豊國の墓」碑。自称に従った表記で、実際は三世豊国こと歌川国貞のことであると。役者絵・美人画に独特の境地を開き、浮世絵の第一人者と賞された歌川国貞(1786~1864)の墓。入って直ぐ右手に「地蔵堂」。扁額「地蔵堂」。「内陣」には3体の地蔵様が。堂の前には「延命地蔵尊」と刻まれた石碑も。「戦災殉難者之碑」。「本堂」光明寺は天台宗で、創建は弘治元年(1555)と伝えられています。本堂前にあった「水子地蔵尊」。境内から東京スカイツリーを見上げる。「光明寺歴主之墓」・歌川豊国(国貞)墓(江東区登録文化財)。「歌川豊国」肖像 元治元年 死絵の内の一作。代表作の「吉原時計亥の刻」。そして次の「普門院」に向かう。「普門院(開運毘沙門天)由来普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永二年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合う辺り(現足立区千住)城中に創建され、元和二年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。」境内入口は登山道の入口のごとく、鬱蒼とした森が。「伊藤左千夫の墓」碑。明治時代の歌人・小説家。元治元年(1864)千葉県に生まれ、長じて上京し法律を志したが、眼を病み、治療のため一時帰国した。大正2年49歳の時亡くなった。いかにも若い死だった。明治18年再上京、同22年本所茅場町で牧場を営み、同33年正岡子規に入門し、師の没後は根岸短歌会の中心的な歌人として、『馬酔木』『アララキ』の誌上で活躍した。歌風は子規の写実主義を強調したおおらかな万葉調で、写生文の小説にも優れ、代表作に『野菊の墓』がある。同45年に大島6丁目に居を構え、門下からは島木赤彦・中村憲吉・斉藤茂吉・土屋文明などを輩出した。「大島伯鶴之墓」碑。明治から昭和時代の講談師。初代伯鶴の子。六代目一龍斎貞山(いちりゅうさいていざん)とラジオ、レコードを通じて人気を二分した。得意の演題に「寛永三馬術」「笹野名槍伝(ささのめいそうでん)」「快男児」などがある。右側の碑には、辞世の句が刻まれていた。『伯鶴は永々嘘をつきました いずれあの世で舌は無いもの』と。寺号標「福聚山 普門院」。左手に持経観音(じきょうかんのん)。観音菩薩は三十三の姿を持ち、人間たちに仏教の教えを説き救済するために変身するといわれています。そのひとつが持経観音。岩に坐り、右手に経巻を持ちます。左手は膝の上に置く姿で、この観音の持つ経典には、如来の説法の内容がすべて込められており、声聞(しょうもん:仏弟子)を教化(きょうけ:人々を仏道に導く)する姿を現しています。『観音経』に『まさに声聞のみをもって得度すべきものには、すなわち声聞の身を現じて、ために法を説く』とあります。廃寺?の如き荒れた「本堂」。本尊・大日如来像のほか、元本尊の聖観音菩薩像を安置する。御府内八十八ヶ所霊場札所。「毘沙門堂(びしゃもんどう)」。毘沙門天像を安置する。亀戸七福神の札所。多くの墓石や石仏が並んでいた。「戦災殉難者供養之碑(せんさいじゅんなんしゃくようのひ)」。昭和二十年(1945)3月10日の東京大空襲による多くの殉難者を悼むために亀戸駅前の焦土に建てた供養碑。昭和二十九年(1954)の都市区割整理により普門院の境内に移されたと。碑への入口には緑の石仏も。そして、墓地内に入って直ぐ右に折れると「伊藤左千夫の墓」案内表示が。墓石の文字は、書家で洋画家でもあった中村不折の手で「伊藤左千夫之墓」と刻まれていた。しかい、一輪の花・野菊?のみで寂しい墓であったのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.17
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「亀戸香取神社」の散策を楽しんだ後は、浅草通りに向かって歩いていくと、左手にあったのが「龍光寺」。寺号標「龍光寺」。正面に「本堂」。真言宗智山派寺院の龍光寺は、医王山と号す。龍光寺は、弘治2年(1556)に僧元栄が、江戸横山町に創建、後当地へ移転したと。南葛八十八ヶ所霊場46番、荒川辺八十八ヶ所霊場74番札所。「三界萬霊塔」。三界とは、無色界(むしきかい)、色界(しきかい)、欲界(よくかい)の三つをさす。この三つの世界、すべての精霊に対して供養しているのであると。小さな祠。南葛八十八ヶ所霊場第46番、第66番。内部に「遍照金剛」と書かれた襷の2仏が。壁には御朱印が貼られていた。境内の石仏。「生滅滅己、寂滅為楽」と刻まれた石仏。左右が浅草通り、正面に「北十間川」に架かる「福神橋」。「福神橋」を渡りながら「北十間川」の「旧中川」方向を見る。「北十間川」を渡ると向かいの角の緑地には人物像があった。「大沢梅次郎像」。明治22年、この地の旧家小山家に生まれ、大正6年28歳で町会議員となり、ついで同13年から昭和2年まで吾嬬町長におされ、同3年東京府会議員となり、以来、市会・都議会議員として、終戦を挟む前後1年、東京都議会議長を務め、同34年9月に没するまで、地方政治に徹した人物と。この碑は大沢梅次郎氏が吾嬬町長時代の大正14年に建てたものであると。そして再び「福神橋」を渡り戻る。「福神橋」から東京スカイツリーを見る。ズームで。上から地上450mの位置にある「東京スカイツリー天望回廊」と地上350mの位置にある「東京スカイツリー天望デッキ」地上350mの位置にある「東京スカイツリー天望デッキ」をズームで。地上450mの位置にある「東京スカイツリー天望回廊」。そして「北十間川」沿いを進む。「現在地」は江東区亀戸3丁目51−10の 浅草通り。そして前方には「境橋」が。「境橋」の横断歩道の先に小さな祠が現れた。「祐天堂」。祐天堂は、江東区亀戸にある祐天上人による六字名号供養塔を守る堂宇。祐天上人は、江戸時代初期の浄土宗名僧で増上寺36世を勤めた後、元禄12年生実大厳寺住持となり、江戸と千葉を往来していたと考えられ、当地に死骸の多い事を憂い、供養したと。また、境内には木下川やくしみち道標も保存されている。「六字名号供養塔 祐天堂由来昭和41年に設けられた当時の説明板等によりますと、その由来は、元禄年間に祐天上人が千葉方面に往来の途中、この付近の川の中や川岸に多くの水死者のあるのを見て、非常に心を痛め、その霊を懇に回向されました。その際に、これらの仏に戒名を与え祐天上人、自らが筆を取って石にその戒名を記された供養塔をここに残されました。後年、この供養塔を奉った祠が、この祐天堂であります。それ以来、この付近では水死者もなく、またこの付近の子供たちが水辺で遊んでいても溺れたためしが無かったと言い伝えられ、この付近に住む人々によって、水難除、安産、子供の守護の祠として崇め奉られ今日に至ります。(近年では、この祠に、交通安全祈願をなさる方も多いと聞きます。)また、毎年7月24日を由縁の日と定め、祐天上人の遺徳を仰ぎ精霊の供養を営む日と定められてまいりました。」堂横にあった「木下川 やくし道道標」。「木下川 やくし道道標高さ71cmのこの道標は、ここ境橋から、木下川薬師堂(葛飾区東四ツ木1丁目)へ至る木下川薬師道(現在の仲居掘通り)を示すものです。 刻銘は、正面 木下川 やくしみち 右側面 本石町 寶暦十一年辛巳孟春 左側面 あつまもりあつまもりとは、吾妻権現社のことで境橋を渡った右手、北十間川沿いにありました。本石町は日本橋の町名で、この道標の建てられた寶暦十一年(1761)頃には、きっと江戸町人の参詣が盛んだったことがうかがえます。」再び東京スカイツリーを。「北十間川」の対岸には「花王 すみだ事業場」の建物があった。浅草通りを少し戻った場所にあったのが「梅屋敷跡」。「江東区登録史跡 梅屋敷跡梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。元は本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵としていましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、8代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々で賑わい、その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、特に「名所江戸百景」の中の太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。明治43年大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。ここに残る石標柱は、江東区創立10周年を記念して、昭和33年に建てられたものです。」浅草通り側の歩道に「臥龍梅跡」と刻まれた石碑があった。文字の向きが何故か「浅草通り」の車道側に向いていたが。「梅屋敷跡」を後にし、右に折れて狭い路地を進んで行った。右手にあったのが「梅屋敷伏見稲荷神社」。江東区亀戸3丁目にはかつて梅屋敷として栄えた梅の名所があった。梅屋敷を訪ねた水戸光圀は、一株の梅がまるで龍が地を這う様に咲いていたため、賞美のあまり臥龍梅と命名したと伝えられている。明治43年の洪水と工場の排煙などから梅の大部分が枯れてしまい、廃園となってしまったが、その跡地に残されたのがこの稲荷神社。扁額「梅屋敷伏見稲荷神社」。「内陣」。この後も住宅街の狭い路地を進んで、なんとか「入神明宮跡」案内板に辿り着く。「江東区登録史跡 入神明宮跡入神明宮は、小高く盛り上がった塚の上に建てられた神社でした。由緒は、昔、このあたり一帯が海で、海上を往来する船の安全のために神明宮が祀られたといわれています。神木の榎は、枯れたときに「天下太平」の文字の虫喰いが生じたので太平榎と称し、また漁師が網を干したところから網干榎とも呼ばれました。江東区は、大部分が江戸時代以降の埋め立てで、古くは、亀戸のあたりに亀の形をした島があったと伝えられています。明治40年この辺りから中世初頭の漁網のおもり(土埵)が発見され、当時、すでに人々が暮らしていたことを物語っています。明治に入り、天祖神社と改称しながらも、永く当地に祀られていましたが、昭和62年に香取神社(亀戸3丁目)に合祀されました。」「「江戸名所図会」入神明宮 大平榎」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.16
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更に「香取神社」境内の散策を続ける。「病気平癒身代わり像」のお水掛け。「恵比寿神像」と「大国天像」に水鉢の水をかけ、身体の痛い場所を洗い清めます。「恵比寿神像」と「大国天像」。柄杓が置かれていて、神像に水掛け祈願が出来るのだ。痛いところを洗い清めて、1年の無事と健康を祈願するのだと。とりあえず、2像の頭から水をかけさせて頂きました。「恵比寿神像」。七福神中で唯一の日本の神様。いざなみ、いざなぎの二神の第三子といわれ、満三歳になっても歩かなかったため、船に乗せられ捨てられてしまい、やがて漂着した浜の人々の手によって手厚く祀れれたのが、信仰のはじまりと伝えられている。左手に鯛をかかえ右手に釣竿を持った親しみ深いお姿の、漁業の神で、特に商売繁昌の神様としても信仰が厚い。「大国天像」。大黒天は、大自在天の化身ともいわれ、大国主命と神仏習合したものである。一度仏となったが、人々に福徳を授けるために再びこの世に現れたという。大地を掌握する神様(農業)でもある。大きな袋を背負い、打出小槌をもち、頭巾をかぶられた姿が一般によく知られていて財宝、福徳開運の神様として信仰されている。痛いところをこのタワシで擦ってやると、更にご利益があると。「亀が井」亀戸の地名のもとになった井戸だが、遺構ではなく復元されたものであると。「若水や 福を汲み上げ 亀が井戸」と添え書きが。「亀戸」の地名由来にもなった「亀ヶ井」を2003年に復元したもの。かつてこの地には臥龍梅庭内に「亀ケ井」と呼ばれる井戸があったと。亀島もしくは亀津島が亀戸という地名になったのは、この「亀ケ井」と混同され亀井戸と呼ばれるようになったという説もあるのだと。そして「拝殿」。飛鳥時代の天智天皇4年、藤原鎌足により創建されたといわれる。建武年間(1334~37)香取伊賀守矢作連正基が始めて当社に奉仕し、香取神社初代神職となり、応安4年(1372)社殿再建、降って大永3年(1524)修造を営み、後寛永3年(1627)4月8日本殿改築に着手、同年9月24日竣工、文政年間(1818~29)拝殿造営、明治5年11月16日村社に定められました。昭和20年3月9日第二次世界大戦にて本殿炎上、同23年8月社殿再建。更に昭和63年10月19日現在の社殿が建立されました。御祭神は香取大神」のほか、相殿に鹿島神宮の祭神・「武甕槌神」も祀り、武道の御神徳から現在ではスポーツの神として崇敬を集めるのだと。拝殿神額は往年の「香取太神宮」の文字が残る。『江戸名所図会』においては「香取太神宮」として紹介されているのだと。スポーツ振興の神としても有名で、国際舞台で活躍する多くのアスリートも参拝する神社としても有名。拝殿の横に、水泳選手で闘病中の池江璃花子選手の病気平癒祈願が設置されていた。「池江璃花子 必ず 有言実行!!」と。参拝客が池江璃花子への思いを込めたとみられる多くの絵馬も掛かっていた。そして白血病からの復帰を目指す競泳女子の池江璃花子が、このほどプールでの練習を再開。昨年1月の三菱養和スプリント以来、1年7か月ぶりのレースとなる東京都特別水泳大会(8月29日、東京辰巳国際水泳場)の50メートル自由形へ出場とのニュースが。50m自由形では24秒21の日本記録を持つ池江ではあるが。どんな泳ぎを見せるのか、いや、大会で泳ぐ姿が見られるのが嬉しいのである。そして、10月1日、東京辰巳国際水泳場で行われた日本学生選手権の50m自由形で25秒62の4位となり「このインカレを目標として1年間頑張ってきた。感慨深い」と話したのであった。「拝殿の内陣」★御祭神:経津主神(ふつぬしのかみ):刀剣の威力を神格化した神、海上守護・国家鎮護の神[相殿]武甕槌神(たけみかづちのかみ):雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神、 武道・競技の必勝、事業の創始、旅行安全の神[相殿]大己貴命(おおなむち)※[別名]大国主命:国造りの神、農業神、商業神、医療神そしてこの後に明治通りから見た「本殿」。由緒:西暦665年、中臣鎌足公が東国下向の際、当地に来訪。香取大神を勧請し、太刀ひと振りを納め、旅の安泰を祈った。これが、創立の起因であると「勝石」。「勝石」の上にある剣。「勝石」の由来が書かれた石。「勝石の由来亀戸香取神社は天智天皇四年(六六五年)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納めて、旅の安泰と御神徳を仰ぎ奉りましたのが起こりであります。御鎮座一三五〇年記念事業の一環として、この故事に基づいて太刀一振りを冠した「勝石」を建立いたしました。ご参拝の皆様に香取大神の御神徳が授かりますよう氏子并びに崇敬者が心をこめての寄進によるものです。四年に一度の神幸大祭に際し平成二十八年七月二十四日、関係者相寄り盛大に除幕式が挙行されました。勝石に触れ、願いを掛けることによって勝運と幸運を授かるお力どころ(パワースポット)として、末永く崇敬を集められますことを祈念申し上げております。」社務所を訪ねる。「御朱印」を頂きました。ちなみに、東京都江東区は、その昔、下総國・葛飾郡でした。下総國の一之宮は、千葉県香取市に鎮座し、正一位勲一等の神階を持つ『香取神宮』です。「社務所」の前にあった2基の石塔。境内から「拝殿」を再び見る。「参道」、「二の鳥居」方向。東門脇の石碑には「日露戦役 紀念百度碑」と刻まれていた。裏面には、「明治三十八年十月建之 發起者 若連」と記されていた。そして「舞殿」の明治通り側の壁に掲げられていた「香取神社」のご祈祷案内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.15
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昨日は、仕事の支援に南アルプス市に行って来ました。久々の秋の晴天を背景に、甲府駅前の「武田信玄像」です。この武田信玄公像は、武田信玄公奉賛会が信玄公の遺徳をしのび、県民の気運を高揚することを目的に、県内外の有志1,080人から集めた浄財で建設した。昭和43年4月8日に建設を開始、翌年4月12日(信玄公の命日)に完成し、甲府に寄付された。当時の設置場所は、かつて、甲府駅前にあった噴水の南側でしたが、甲府駅前広場の整備に伴い、昭和60年11月に現在の場所に移設された。総高6.2m、塩山御影石でできた台座は3.1m、武田信玄像は3.1m。銅像の彫刻者は宮地寅彦氏、重量5000kgとのこと。--------------------------------------------------------------------------------------------------「東覚寺」を後にして、再び明治通りに出る。次に目指したのは、120m先にある「香取神社」。前方左手の歩道橋の先に「香取神社」の杜が見えた。そして「香取神社」の「二の鳥居」に到着。一之鳥居は200m程南の蔵前橋通りに面した場所にあるようだ。ここから、二之鳥居まで商店が続いていると。寺院や神社の参道で見かけるタイプとは異なり、郵便局まである、ごく普通の商店街と。「香取神社香取神社は、社伝によれば665年の創建で、藤原鎌足(614~669)が亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願ったのが始まりといわれ、以来亀戸村の総鎮守として信仰を集めています。平安時代の中期、関東で起こった平将門の乱(935~940)を平定した藤原秀郷が、戦勝の返礼として弓矢を奉納した故事にちなみ、毎年5月5日に勝矢祭が行われています。亀戸七福神のうち恵比寿・大国神で親しまれています。」「二の鳥居」前左には洒落たトイレがあった。トイレの壁には勝負事の神様らしいデザイン・「勝矢の印」が。天慶の昔、平将門が乱を起こした際、追討使俵藤太秀郷はこの亀戸香取神社に参籠し戦勝を祈願した。乱をめでたく平定した後、弓矢を奉納し勝矢と命名したのだと。亀戸香取神社 配置案内板は色が褪せて。「香取神宮 御由緒」。一、鎮座地 東京都江東区亀戸三丁目五十七番二十ニ号一、御祭神 経津主神 相殿に武甕槌神・大己貴神 香取神社の御祭神経津主神は千早振る神代の昔天照大神のご命令により、鹿島大神と共に 豊葦原瑞穂国(日本の国)の平定に手柄を立てられた威霊優れた国家鎮護の神として 仰がれる我国武将の祖神であります。然も御本宮が神武天皇の御代に東国下総に鎮座され ましたことは非常に意義あることで、日本国の守護を固めた事になり、更に農業に深い 関係があり、国土開発に多大の功績のあった産業の祖神でもあります。 故に大和朝廷におかれても殊に崇敬が篤く、中臣氏(後の藤原氏)は香取・鹿島両宮を 氏神として忠誠を捧げ崇敬を尽されたのであります。 一、御由緒 当社の創立は天智天皇四年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を 寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の単体を祈り神徳を仰ぎ奉りました のが創立の起因であります。 天慶の昔、平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに 臨んだところ、目出度く乱を平げたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名 されました。現在でもこの故事により勝矢祭が5月5日(武者行列)に執り行われております。 以来益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、御神徳が四方に及びましたので、 葛飾神社香取太神宮と称え奉るに至りました。 元禄十年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡十二社の 中にも数えられております。一、御神徳 前にもたように大神は天より国土平定に当られ、日本建国の礎を築かれた功神であり、 歴代の天皇をはじめ源頼朝・徳川家康・秀忠・頼房等の武将の篤い崇敬を受け、 又塚原ト伝や千葉周作をはじめ多くの剣豪の崇敬も篤く、現代でも式道修業の人々は 大神を祖神と崇めております。 最近ではスポーツ振興の神とし、広く氏子内外を問わず参拝されております。 その他交通安全・家内安全・厄除・開運祈願等御神徳の随に毎日このような趣旨による 御祈願を受け付けて御奉仕しております。「スポーツの神 香取神社」長い「参道」を「拝殿」に向かって歩く。平安時代中期、下総国佐倉(千葉県佐倉市)出身の平将門は、関東で勢力を持ち、京都の天皇に対して「新皇」を自称して東国の独立を図ります。(平将門の乱)この戦の折、討伐使の俵藤太秀郷(たわらのとうだ ひでさと、藤原秀郷)は、香取神社を訪れ戦の勝利を祈願した。見事に将門を討ち取り、戦に勝利した俵藤太秀郷は、弓矢(勝矢)を奉納。(将門は弓矢で額を射られて打たれている)この古事から、毎年5/5のこどもの日には勝矢祭が執り行われるようになったと。「木遣音頭碑」が中央に。木遣とは材木や石材など重い物を運ぶ作業のことであり、その際に掛け声をかけて音頭をとりながら歌った鳶職の作業唄が木遣音頭。木遣りと言えば、江戸の火消し文化を伝える江戸消防記念会による「江戸の鳶木遣」が都の無形文化財に指定されている。なぜ火消しが鳶職の作業唄を伝えているのかというと、かつての江戸の町火消しの多くは、鳶職だったからと。右側の石碑。全て漢字で書かれていたが「木遣音頭碑」に関連した石碑か?右側の石碑も同様か?「紀?念」の文字が。この小さな社は?「神楽殿」が右側に。「手水舎」と右手前に「亀戸大根之碑」。「水場」。社宝の「紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆 一幅」案内板。「紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆 一幅道祖神荼図は、木紙を掛け軸に表装したものてす。本紙は縦三三・六cm、横四〇・六cm。表装は縦一五八・〇cm、横四七・〇cmです。香取神社の道祖神は、毎年正月一四日、氏子の子供たちか宝船をかつぎ、亀戸から両国の辺りまて練り歩いたものて、享保のころから始まり、明治初期まで続きました。その光景は「江戸名所図会』の挿し絵に載せられ、「東都歳事記」にも記載されています。本図は人物や宝船を墨で描き、朱、青て淡彩を施しています。作者は浮世絵師・歌川広重(一七九七ー一八五八)で、嘉永五年(一八五ニ)以降、広重の円熟期に描かれた作品とみられます本図は、江戸時代の香取神社の古い行事の様子をよく伝え、作者が著名な広重てあること、また戦災を免れて区内に伝えられたことなどから、貴重な作品といえます。」「紙本淡彩道祖神祭図」。境内には「神官香取家墓地」もあった。境内にある。建武年間(1334)に香取伊賀守矢作連正基が初めて奉仕して神職になったという。墓地は社務所の左手前で玉垣に囲まれていた。墓域内には16の石造物があるのだが、墓石と確認できるものは10基余り。年号は最も古いものが寛永十年、新しいものは享和三年(1803)のものがあると。また昭和6年に亀戸竜光寺にあった同家の墓を改装したことを示す合葬墳塋(がっそうふんけい)も同域内にあり、この碑の近くにある墓は竜光寺から移されたものだと。神社境内に墓があるのは、あまり見たことがなかったのではと。 「神道式墓地」。多くの墓石が並んでいたのであった。再び「亀戸大根之碑」。大根の形をした碑を正面から。「江戸・東京の農業 亀戸大根このあたりで大根づくりが始まったのは、記録によると文久年間(1861~64)の頃とされ、当香取神社周辺が栽培の中心地で、以来、明治時代にかけて盛んに栽培されてきました。当地は荒川水系によってできた肥沃な粘土質土壌であったため、肉質が緻密で白く冴えて肌の大根づくりに大変適していました。亀戸大根は、根が30cm程度の短い大根で、先がクサビ状にとがっているのが特長。明治の頃は「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれましたが、大正初期になって産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。しかし宅地化が進んだ大正時代の終り頃から産地は江戸川区小岩や葛飾区高砂などに移っていきました。秋から冬にかけてタネをまいて早春に収穫となる亀戸大根は、当時は他に大根などの全くない時期で、新鮮な野菜の出始めの頃なので根も葉も共に浅漬けにして美味しいことから、江戸っ子から大いに重宝がられました。」東側鳥居。境内東側の明治通りに沿って「境内末社」が並んでいた。右側から「水神社」、「三峯神社」、「熊野神社」。「水神社」 一、御祭神 水波能女神(みずはのめのかみ) 一、例祭日 6月15日 一、御由緒 天明六年(1787)香取神社13代神職香取正武がその年の洪水を記念し 災害防止氏子住民の安体を祈願し石祠をもって建設した。江戸名所絵図にもみえる。「三峯神社」 一、御祭神 國常立命・伊弉諾尊・伊弉冊尊・日本武尊 一、例祭日 1月19日 一、御由緒 享保年間(1716~1735)の創立。有名な亀戸梅屋敷園主 安藤喜右衛門が 園内にお祀りしていたのを明治の末当、香取神社に移した。 火防・盗難除の御利益あらたかで梅屋敷講を受継いだ亀戸三峯講の多くの崇敬者も ふえ近年本社参詣も盛んである。「熊野神社」 一、御祭神 家津御子大神ほか天神地祇十三社 一、例祭日 8月10日 一、御由緒 熊野の神の総本社で曾ては「蟻の熊野詣で」の諺通り貴賎老男女をとわず全国から 参詣者があつまり信仰絶大にして盛況を極めた。 当社は元梅屋敷隣りの北の方に位し、熊野入りと称して亀戸村の水利を司どっていた。 大正13年北十間川通りが拡張されるに伴い香取神社の境内に移転鎮祭した。「恵比寿神」、「大國神」。「福神社」 一、御祭神 事代主神(恵比寿神) 大国主神(大国主神) 一、例祭日 10月15日 一、御由緒 元々御本社の相殿に奉賽されていた大國主神と併せて明治年間に至り七福神の内の 恵比須大国神として境内に鎮祭した。 事代主神は大國主神の御子神である。正月ともなると亀戸七福神の内恵比須大国様と して多くの参詣を得ている。 一、御神徳 富徳円満・商売繁昌の守護神として御神徳あらたかである。「稲足神社(いなたりじんじゃ)」「稲足神社」 一、御祭神 面足神・惶根神・相殿に金山毘古神・宇賀御魂神 一、例祭日 九月十五日 一、御由緒 寛文九年(1670)創立 明治以前は普門院の主管であったが、明治元年香取神社神職の奉仕となる。 明治35年香取神社隣接地に所在していたが境内に移転。 琴平神社は宝暦年間香取12代神職香取政幸の鎮祭する処で稲荷神社は元渡辺稲荷神社と 称え、明治12年当社に合祀。 一、御神徳 供に産業発展・家運隆昌の御神徳あらたかである。「天祖神社」「天祖神社(入神明宮(いりのしんめいぐう)」 一、御祭神 天照大御神(伊勢神宮の御内宮) 一、例祭日 九月十五日 一、御由緒 昭和六十三年の香取神社改築に伴い移転され境内神社として 祀られるようになった。 当神社の創立は江東区内では最も古く口伝によるとこの地が 四辺海の囲まれていた頃漁船がしばしば風浪の危難に会う毎に 伊勢の大神を祈念すると災害が免かれたという事で太平榎塚に 小祠を営み鎮祭されたという。 江戸名所図絵に書かれている神明宮は当社である。 当境内から多量の硾(いわ)が出土(明治四十年)し考古学的にも 有益な資料とみることができる。現在香取神社にて保管。「境内末社」を振り返る。反対側には「社務所」が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.14
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一昨日(10月11日)の我が家の裏からの夕焼けの光景です。秋が深まるにつれ、日が沈むのも早くなって来ました。この季節の素晴らしい景色と言えば「夕焼け(ゆうやけ)」。古来より「夕焼けの翌日は晴れ」という「ことわざ」がありますが、これは比較的正しいのだと。日本上空では、「偏西風」の影響により雨雲は南西から北東へと移動して行く。そのため、夕方に西の空が晴れ渡った「夕焼けの翌日」に雨雲が来る可能性はグンと低くなると。この「夕焼けの翌日は晴れ」から派生した「ことわざ」があります。その「ことわざ」が「夕焼けに鎌を研げ」。これは「夕焼け」がでると晴れるため、翌日の農作業に備えよということから出来た「ことわざ」だと。--------------------------------------------------------------------------------------------------「浄心寺」を後にし、蔵前橋通りに合流する。「亀戸4丁目」交差点手前から東京スカイツリーを見る。左手にあったのが「亀戸升本 本店」。「亀戸大根とあさり鍋亀戸大根(別名お多福大根)江戸時代から大正まで當地で栽培された大根でこぶりできめ細かく葉も柔らかいのが特徴の江戸野菜です 當時は漬物として庶民に親しまれていましたが江戸前のあさり鍋に相性が良く當店のあさり鍋には使われています。當店の亀戸大根とあさり鍋は當時のままの品質を守り続けております。」亀戸大根の姿が水墨画で。こちらが本物の「亀戸大根」。亀戸大根は亀戸香取神社周辺で、江戸時代から栽培されている大根である。根は30㎝程度と比較的短く、先端に行くほど細くなり、クサビ状に尖っているのが特徴だ。根が小さいわりに葉は大きい。皮は白くきめ細やかで美しく、ほんのりとした苦みがある。かつてはお多福大根、おかめ大根と呼ばれていたが、大正時代初期に地名から亀戸大根と名付けられた。江戸東京野菜の1つとして登録されているのだ。そしてその先「亀戸4丁目」交差点の角にあったのが「亀戸梅屋敷」。大きな駐車場が手前に。「蔵前橋通り」と「明治通り」が交差する「亀戸4丁目」交差点。「亀戸梅屋敷」案内板。亀戸梅屋敷のシンボル「やぐら」。2013(平成25)年3月に開業した亀戸の新名所「亀戸梅屋敷」。江戸時代、亀戸に建っていた「梅屋敷」と呼ばれる別荘をモチーフに建設された。梅屋敷は浮世絵師・歌川広重が描き、画家・ゴッホが模写したことでも有名だ。ここは亀戸の地域交流の拠点として、買う、食べる、楽しむ、休むといった地域住民や観光客の交流の場となっている。亀戸から選りすぐった名産品などのほか、浮世絵の原画や江戸切子の展示、各種イベントなどが楽しめる場所と。名作「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」を舞台に現代の店やブランド、商品を紹介する広告ボードが。「名所東京百景 亀戸」は亀戸案内図。「人情の街 亀戸 五商店街」案内が歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」の絵の上に紹介されていた。1.亀戸十三間通商店街2.亀戸天神通り商店街3.亀戸香取勝運商店街4.亀戸五丁目中央通り商店街5.五ノ橋豊国通り商店會こちらが歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」。各店の案內が同じく「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」をBASEに描かれていた。「GODAIテニスカレッジ&ゴルフアカデミー」「雪国越後三大つるし雛」。「おしあげ煎餅本舗」。「エクセルシティーホテル」。「スカイダック 日の丸自動車興行」。「大雄開発」。「亀戸升本」。広告ボードを振り返る。施設内には観光案内所や物産店があったが、未だ店は開店していなかった。時間は8:53。「江戸切子」のショウルーム。江戸切子とは、1834年から現代まで続くガラス細工のことで、国から伝統的工芸品の指定を受けている。綺麗なデザインと高い品質が特徴で、職人さんが集まる「江戸切子協同組合」が中心になって製造を続けていると。亀戸梅屋敷「顔出しパネル」。「亀戸 梅屋敷 福亀」。「福亀」。撫でてあげるとご利益あるのか?「亀の島 戸こしえ由来 梅の木が 屋形船映ゆ 敷地漂う自然の変化に耐えながら可憐に咲くその姿梅の木は人と人との情が通い合う街名所江戸百景に称賛される人情味あふれる憩いの交流が夢と希望をたくさん納めて亀戸梅屋敷に漂う」入口方向から亀戸梅屋敷を見る。そして、次に「亀戸4丁目」交差点を渡り、明治通りを北に向かい、右に折れた所にあった「東覚寺」を訪ねた。「東覚寺(弁財天)由来東覚寺は享禄四年(1531)玄覚法印の創建と伝えられている。明治34年覚王寺を合併しました。覚王寺は江東区猿江2‐15付近にあり、御府内八十八ヶ所霊場第73番札所で、それを示す碑が東覚寺に残されています。当時の不動明王は、東大寺別当良弁の作で、大山寺(神奈川県)本尊と同木同作といわれ江戸時代より亀戸不動として信仰をあつめてきました。また亀戸七福神の1つ(弁財天)として親しまれています。」「東覚寺」を正面から。亀戸4丁目24番1号にある真言宗智山派の寺。享禄四年(1531)玄覚法印の創建。本尊は不動明王、また亀戸七福神の弁財天が安置されている。この寺は明治34年に深川の覚王寺という寺と合併した歴史があり、その覚王寺の札所碑と思われると。「不動明王」と彫られていることから「不動明王標柱」とも呼ばれていると。境内に入ると右手にあったのが「弁天堂」。近くによって。中には「弁財天」のお姿が。「是心軒一露居士碑」。是心軒一露(ぜしんけんいちろ)という人物は江戸時代中期の華道家で松月堂古流を創始した人とのこと。「石造宝篋印塔」で江東区登録文化財に指定。台座には見事な姿が刻まれていた。「本堂」寺宝に、江東区登録文化財の「金森頼時奉納石造燈籠(寛永寺蔵)」「天保十年在銘の石造五輪塔」「元禄十三年在銘の石造五輪塔」「弘法大師千五十年忌石造宝篋印塔」があり、その他に「厨子入木造不動三尊像」「明治32年在銘の是心軒一露居士碑」「不動明王標柱」「覚王寺札所碑」「庚申塔」「観音逆修供養塔」「寛文九年在銘の観音供養塔」があると。扁額「東覚寺」。「本堂」からは「五色の綱」が。入口の隙間から「本堂」の内陣を。「本堂」正面を別の角度から。「本堂」からは「五色の綱」が鰐口に。「本堂」前には、小さいながら枯山水庭園が箱庭のように施されていた。右手にあった「寺務所」。「墓地」。墓地の奥の正面にあったのが「観音逆修供養塔」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.13
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昨日10月11日の我が家に近い公園の朝の光景です。台風14号の風で、金木犀の花が全て落ちてしまっていました。道路に落ちた花の集まりが絨毯の如くに、黄金色に輝いていた。赤みのオレンジ色とは異なり、言葉の通り輝いていたのであった。そして銀杏も落下し車に潰されて。拾って持ち帰りたかったが、生憎ビニール袋を持っていなかったので。--------------------------------------------------------------------------------------------------「常光寺」を後にし亀戸4丁目の住宅地を進む。前方に東京スカイツリーが正面に見えた。そして直ぐに「亀戸 石井神社(いしいじんじゃor いわいじんじゃ) 」に到着。亀戸4丁目37番にある小社。「亀戸 石井神社」社号標。境内にあった「石井神社由緒」碑。「当社は嵯峨天皇の御代弘仁二年(811)九月弘法大師により発現せられたる社にして、級長彦命・津長井命・岡象女命の三柱を奉齊し亀井戸卿、中図子の鎮守社にして毎年9月28日を以て例祭日となし当日、薩摩芋数拾俵町内住民より献じ、後これを参拝者及び里童に授け與う。別名おしゃもじ様の芋祭りと称す。熱病除、百日咳除けにおしゃもじを拝受して特殊霊験顕著なりしは数多き崇敬者ありし事で知るべし。」「手水場」なのであろうか。蓋つき天水桶のようであったが、蓋をつけてしまうと、雨水を溜められないような・・・。それともこの炎暑で蒸発防止なのか?「狛犬」と「拝殿」。子供が足元に。古い狛犬で、目と口に色を付けてあった。毬を持って。「石井神社 再建の趣旨」碑。「拝殿」飯杓子を奉納する神社は、石棒を神体とすることが普通であるが、これは石棒を祭る神社を石神(しゃくじん)とよび、「しゃくじん」が「しゃくし」となり、飯杓子を奉納することになった。また石神を「せきしん」とよぶこともあって、「せき」が咳の病と同音であるから咳の神にもなった。昭和20年の戦災で、社殿を焼失し、いまは小祠となっている。神社の飯杓子奉納のことは、文政3年(1820年)刊行の、大石千引著「野万舎随筆」に、「咳神、葛飾の亀戸村に、オシャモジという神の祠有り、神前に杓子を夥しくつめり、依て其故よしを土人に問けるに、咳病を煩う人、此神に願たてぬれば、さはやぐ事すみやかなり。此故に報賽に杓子を奉納するといへり。」と述べ、その由来の古いことがわかる。御祭神:級長彦命(しなつひこのみこと)=風の神、 津長井命(つながいのみこと)=井戸の神、 罔象女神(みつはのめのかみ)=水の神内部には奉納された巨大な「しゃもじ」と、ご本殿が安置されていた。この神社は、かつて通称「おしゃもじさま」とか「おしゃもじ稲荷」と呼ばれ、咳の病を治す神様として信仰されているとのこと。蔵前橋通りに出て右に進む。直ぐ右手にあったのが「寳蓮寺(宝蓮寺)」。「本尊 江戸三虚空蔵」と刻まれた石碑。「正木ひろし墓碑弁護士、正木ひろし(旲)は、1896年(明治29年)9月29日、東京・本所で義氵旲(よしきよ)の二男として生まれる。1923年(大正12年)東京大学法学部を卒業。中学の英語、美術の教師、雑誌記者を経て弁護士を開業。反権力、正義の弁護士として多くの冤罪事件を手がけ、日本のペリーメイスンといわれた。主な事件は、チャタレー裁判、菅生、首なし、丸正事件などで、八海事件は「真昼の暗黒」の題名で映画化された。また、戦時中は月刊誌「近きより」を個人で発行して反戦、反軍国主義の論陣をはり、多くの著書も残した。熱烈な無教会派のキリスト徒で、美術を愛し画家になることが「生来」の夢だった。1975年(昭和50年)没79歳。当寺は正木家の菩提寺。墓碑の「正木ひろし」は直筆で、墓石は岩手県の橋本八百二画伯から寄贈された紅石である。正木ひろし先生没後20周年記念事業の一環として、ここに建立する。」「正木ひろし 墓」。墓碑の正木ひろしは直筆であるとのこと。寺標「寳蓮寺」。「南無大師遍照金剛」像(弘法大師像)。「本堂」。真言宗智山派寺院の寶蓮寺は、東林山華蔵院と号す。嘉元元年(1303年)に創建した当初江戸横山町にあったが、後当地へ移転した。荒川辺八十八ヶ所霊場73番札所。扁額「東林山」。「無縁仏供養塔」であろうか。「供養塔 石碑」。「水子地蔵尊」。宝蓮寺境内の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(江東区登録文化財)。台座の銘文。境内には蓮の花が。田中銀之助 九重? の文字がある石碑。「蔵前橋通り」を横断し真っ直ぐ進む。右手に折れると左手に大きな朱の山門が姿を現した。所在地 江東区亀戸4-17-11浄土宗 「鏡智山 寶蔵院 浄心寺」。赤い山門が印象的。寺標「浄土宗 赤門 浄心寺」。左手には「六地蔵」が並んでいた。「六道能化地蔵願王菩薩」碑。六地蔵とは地獄・餓鬼・畜生・人・天の六道において衆生の苦しみを救うという六体の地蔵菩薩のこと。左から1. 宝珠 錫杖を持っておられるのは 大定智悲地蔵で地獄道を救う、2. 宝珠与願印(宝珠を持ち、掌を見せて下に下げる印) のお地蔵様は 大徳清淨地蔵で餓鬼道を救う 。3 .宝珠 如意宝珠を持つお地蔵様は大光明地蔵で 畜生道を救う。4 宝珠 梵篋の地蔵は清淨無垢地蔵で 修羅道を救う。 5 宝珠 施無畏印(掌を見せて上にあげる印) の地蔵は大清淨地蔵(持地菩薩)で人間道を救う。6 宝珠 経巻を持する地蔵は大堅固地蔵で 天道をすくう右手にあったのは「子安観音像」か。「本堂」。鑑蓮社吟誉至山不通が元和元年(1615)に創建したと。「寺務所」。「寺務所」と「本堂」の渡り廊下。その奥に墓地の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.12
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そして「亀戸水神社」への住宅街を進む。左手にあるはずの「元天神塚」を探すが見つからず。実は現在個人の所有地内にあり、一般公開はされていないがこの奥にあることを発見。植栽の枝の間にカメラを突っ込んで撮影したのであった。菅原大鳥居信祐が最初に神像を祀った地付近に残る石祠。現存する石祠自体は、亀戸天神遷座後の1864(文久4)年2月の造立である。その後荒廃し、1928(昭和3)年3月に亀戸香取神社に合祀された。空襲被害も被ったものの、崇敬者らの支えにより保存されている。現在個人の所有地内にあり、一般公開はされていない。更に進むと右手のAzaleAのビルの前にあった田中銀之助寿像。「撰文田中銀之助氏は自治会長として13年余 亀戸町会連合会として11年余 青少年対策亀戸地区委員長 江東清掃協力会ゝ長 老人クラブ◯れい会ゝ長等8年以上夫々歴任し更に水神小学校PTA会長14年 又亀戸水神奉賛会ゝ長15年 亀戸水神講元30余年等ゝ各方面に亘り責任者として地域社会の為貢献されたことは枚挙にいとまがありません。特に亀五会館の建設には精魂を打込み、他に誇り得る立派なものを完成し、更に水神宮の再建 小学校の教育施設の充実に、又日立亀戸工場跡地利用につき田中総理への直訴、亀戸5丁目公園の設置等多方面に亘る奉仕活動は今なお〇〇として◯者を◯き活躍をつづけておられる姿は唯々頭の下がる思いであります。このたび金婚を迎えられましたのでこの機会に半跏像を贈り永くこの〇功〇を顕彰したいと存じます。」そして「亀戸水神社」に到着。亀戸4丁目11番18号、亀戸水神道と六阿弥陀道の追分にあった。ご案内図「亀戸あさくさ古道」を訪ねて。「亀戸の古道は、淺間神社・亀戸天神・六阿弥陀(常光寺)・浅草といった名所を結ぶ、江戸時代以来の道です。浅間神社境内に保存されている道標は、かつて竪川沿いの元佐倉道に置かれ、房総から逆井の遮しで江戸を訪れた人々に道を案内していました。道は、水神社でニ筋に分かれ、亀戸の鎮守香取神社、臥龍梅で有名な梅屋敷(跡)、萩寺と呼ばれる龍眼寺などへ行く道ともつながっていました。」「亀戸 水神宮」社号標。石鳥居前から社殿を見る。「亀戸 水神森」碑。「亀戸水神宮の由緒日本國水神さまと言はれているお社は、恐らく数百社の多さに達するであろう。この神は普通一口に水神さまと呼ばれている。「そのほんとうの神名を知っている人は少ないと思う。この神は「ミズハノメ神」であって、古事記には「弥津波能売神」と書き、日本書紀には「岡象女神」と書かれていて、伊装那岐伊那美ニ神の御子神を畏れて天照大神の御姉神に当らせられる。父母の神は、我大八洲國を造り給うた國土経営の神であってあらゆる神徳を備えられているが、この中特に「水」に関する一切の御神徳と受けて居られるのが、この水神即ち、「ミズハノメ神」である。この水神宮は前記の御祭神を奉祀し、新田開墾の初め土民が堤上に水神を勧請して水害を逸れん為祈願したものであり、その創立は享禄年間(約440年前)であると思われる。」「亀戸 水神宮」の「社殿」。「扁額」は「水神宮」。「内陣」。「亀五神輿庫」。「社殿」左にあった「水神森若人の歌」碑 作詞 田中〇〇○。 1.水神森の若者は 御名を尊び頂いて 明るく清く誠心で 家業に励み誇あり 2.水神さまの神徳は あまねく今も照すなり 我等若人 皆共に 心豊かに希望あり 3.水神宮の信仰者は 老も若きも幼きも 神の御加護につつまれて 永久にかがやき栄あれ 「神苑再建記念碑」も社殿左にあった。 ここは「蔵前橋通り」の「江東新橋西詰」交差点。東武亀戸線と丸八通りの跨線橋・「江東新橋」を見る。そして次に訪ねたのが北西に入った場所にあった「常光寺」。「常光寺由来常光寺は、江戸六阿弥陀巡礼のうち、第六番目の霊場として栄え、『新編武蔵風土寄稿』には、『本尊六阿弥陀行基の作にして長六寸許、脇立に観音勢至を安す、これ六阿弥陀第六番目にして、春秋彼岸は殊に参詣のもの多し』とあります。江戸六阿弥陀への彼岸もうでは、江戸時代の庶民の信仰と行楽として盛んに行われていました。亀戸七福神(寿老人)ひとつとして親しまれています。」「六阿弥陀道道標」案内板。「六阿弥陀道道標 延宝七年在銘亀戸四ー四八ー三 常光寺平成一四年三月ニ九日指定本道標は江戸六阿弥陀詣の巡拝路である六阿弥陀道を示すものです。江戸六阿弥陀詣とは、江戸時代、春秋の彼岸に六ヶ寺の何弥陀仏を巡拝するもので、その巡拝地は順に上豊島村西福寺(北区)、下沼田村延命院(足立区)、西ヶ原無量寺(北区)、田端村与楽寺(北区)、下谷広小路常楽院(調布市に移転)、亀戸村常光寺となっていました。江戸六阿弥陀には奈良時代を発祥とする伝承がありますが、文献上の初見は明暦年間(一六五五~五八)であることから、六何弥陀詣は明暦大火後の江戸市中拡大、江戸町方住民の定着にともなう江戸町人の行楽行動を示すものといえます。本道標は、塔身・基礎より構成され、塔身の正面に「南無阿弥陀佛」、左側面に「自是(これより)右六阿弥陀道」と陰刻があります。また、右側面の刻銘から、延宝七年(一六七九)ニ月一五日、江戸新材木町(現中央区日本橋堀留町一丁目)の「同行六十人」により建てられたものとわかります。本道標は、江戸六阿弥陀詣に関する最古の道標であるとともに、区内に現存する道標としても最古のものです。また、江戸で広まり亀戸にも札所のあった六阿弥陀信仰とその礼所巡礼といった地域的特色を示すものとしても貴重な道標といえます。」「六阿弥陀詣でにぎわう常光寺(「江戸名所図会」と六阿弥陀道道標(左上写真)」曹洞宗寺院の常光寺は、西帰山と号す。江戸六阿弥陀巡礼6番目の霊場、江戸を出て最初の巡礼地として栄え、「新編武蔵風土記稿」に「本尊六阿弥陀行基の作にして長六寸許、脇立に観音勢至を安す、これを六阿弥陀第六番目にして、春秋彼岸は殊に参詣のもの多い」と記載されている。現在は、亀戸七福神の寿老人として親しまれている寺院。「本堂」。「本堂」手前左手の「無量壽塔」。徐々にズームして。二仏と中央に石造宝篋印塔。左は東南アジア系の顔をした仏像。青面金剛立像であろうか。中央は石造宝篋印塔。右は石地蔵尊像。石地蔵尊像も江東区登録文化財。「無量壽塔」前の石仏。台座の文字。夫婦の供養塔なのであろうか。台座に「万人講中」と刻まれた石仏。「寿老人堂」。扁額「壽老人堂」。内部の扉は閉ざされていて「壽老人」には会えなかった。「石造り灯篭」。これもまた江東区登録文化財。立派な「客殿」。本堂を別の場所から。最後に「六阿弥陀道道標延宝7年在銘(江東区登録文化財)」右面には「自是右六阿弥陀道」と刻まれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.11
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しばらく中断していた「江東区・大島(おおじま)、亀戸を歩く」の続きをアップ致します。この日は8月19日(水)、前回の「江東区・大島(おおじま)、亀戸を歩く」はJR亀戸駅の南側の「小名木川」までの範囲を中心にした散策であったがこの日はJR亀戸駅の北側の散策を行ったのであった。前回と同じ電車で新宿駅へ、そしてこの日は総武線で亀戸駅に。亀戸駅の北口に出て振り返る。「亀戸駅前広場」の時計塔。時計の下にある、「叫べ「ダメ。ゼッタイ。」」は、共に副都心を形成している隣りの錦糸町から広がった薬物乱用防止標語であると。地元のライオンズクラブが寄付したもののようなのだが、喫煙所、麻薬撲滅、手足の生えた地球、和太鼓、時計、謎の屋根と積み重ねられており、要素が多すぎて・・・???駅前らしく、園内は全体が石貼り舗装された広場状になっており、その中央に噴水池が。噴水池の中央には、親亀・子亀・孫亀に羽が生えた、これも謎のモニュメントが。後ろ側からも見る。案内板からは、この亀は、江東区を守る四神の一つと数えられているようです。その他に「青龍」(東大島駅前広場)、「朱雀」(若洲公園)、「白虎」(豊洲ニ丁目)。「玄武(げんぶ)天の四方の方角をつかさどる神のうち、北の方角を守護するといわれる。中国占代の思想に山来する『四神(ししん)』 のひとつ」と。この像には、亀戸地区が未来に向かって羽ばたくようにという願いが込められているのだと。その昔、ナンセンストリオの『♪♪親ガメの背中に子ガメ~ 子ガメの背中に孫ガメ~孫ガメの背中にひぃ孫ガメ乗せて~♪♪』の歌を想い出したのであったが。そして公園内のその先にあったのが「荒川の水位を表すモニュメント」。周りの柱部分にはこの付近を襲った洪水の水位が刻まれ、中央の表示板部分には現在の荒川の水位が表示されるという仕組みになっており、日頃の暮らしの中では気づきにくい水害の危険性を教えてくれているのであった。「荒川水位表示モニュメントこの宅ニュメントは、荒川の水位を示しています。発光ダイオードの水位グラフと、水盤の水面が現在の荒川の水位を示します。水盤上のオプジェは、川から顔をのぞかせた亀をイメージし、左右のアルミパネルには.荒川周辺に仕む生き物たちを彫刻しています。」大正6年津波 +4.21m昭和54年第20号台風 +3.30m昭和24年キティ台風 +3.15m昭和33年第11号台風 +2.89m「大正6年津波」はネット情報によると以下のごとし。「1917年(大正6年)9月30日に沼津付近に上陸した台風は上陸後も発達を続け、東京通過時は952ヘクトパスカルにまで成長していました。これは東京で観測された気圧としては現在も最低記録となっています。この史上最強の台風が「一年で最も平均潮位の高い10月」の「潮位の上がる満月の日」の「満潮を迎える明け方」という最も悪条件が重なるタイミングで通過したため、海面は通常より2メートルほど上昇して津波の如くに高潮が住宅地に押し寄せたのだと。」亀の下から水が溢れる場所が現在の荒川の水位であると。よって時間?単位で上下に変化しているようであった。ネットから、下記のページに遭遇。 【https://www.mlit.go.jp/river/bousai/library/pdf/jirei/jirei03.pdf】そしてその横には「ロケット館」の表示が。その中にあったのは、単なる公衆トイレ。”亀戸の副都心の促進を願って”「はね亀」亀戸の亀も、親亀、子亀、、孫亀揃って促進を願って大空に向かい羽ばたいています。「ロケット館」この地が、未来を結ぶ発射基地として、展開されることを願っています。」と。トイレ=発射基地はなんとなく解る?? のだが・・・・。その奥にあったのが「かめ・うさぎ児童公園」。ここまでずっと亀が中心だったのに、急に兎が。しかし、あくまでも亀戸の主役は亀。通常は「うさぎとかめ」と呼ばれる物語を題材にしていますが、園名はもちろん?「かめ・うさぎ」の順になっていた。先に呼ばれる方が主役、後から呼ばれる方は引き立て役という暗黙のルールか。なかなか、理解が難しい公園の中の名称なのであった。そして「横十間川(よこじっけんがわ)」に向かって西に進む。前方に見えて来たのが「横十間川」に架かる「錦糸橋」。この「横十間川」を超えると江東区から墨田区になるのであった。横十間川は、東京都墨田区・江東区を流れる運河。天神川や釜屋堀、横十間堀、横十間堀川ともよばれる。1659年 - 徳山重政・山崎重政両名(翌年本所奉行に任命)によって開削された。名称の由来は、江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことから。別名の天神川は、亀戸天神の横を流れることに由来するのだと。「錦糸橋」の上から「横十間川」とビルの裏に現れた東京スカイツリーの上部を見る。ズームで。歩道に描かれたタイル画。右手にあった緑地帯。第1回まちなみ景観賞受賞記念碑 平成2年度 江東区 と。そして右手にあったのが「亀戸銭座跡」碑とモニュメント。「亀戸銭座跡」碑。「この付近に幕府の鋳銭所がおかれ亀戸銭座と称し寛文八年から明治六年まで各種の寛永通宝銭を鋳造しその銭の表には寛永通宝うらには文の字のあるものや二十一本または十一本の浪模様のあるものなどがある。」と他の3面に刻まれていた。このモニュメントは、寛文8年に亀戸銭座で造られた「寛永通宝」をモデルに作成したもの。江戸時代に銅銭が本格的に鋳造されたのは、寛永13年(1636年)に始まる。そのため、幕末までに造られた銅銭は全て寛永通宝と称し、「寛永通宝」の文字が打ち出されている。寛文3年(1663年)から天和3年(1683年)まで、亀戸2丁目の住宅・都市整備公団団地のある付近で、寛永通宝銭が造られ、「亀戸銭座」と称しました。そこに、「亀戸銭座跡」のこの標柱が立っていると。寛永通宝の裏面は無印のものが多いのだが、造られた場所の文字などが入ることがあり、この時造られた銅銭には「文」の文字が入っており、「背文銭」といわれていると。この寛永通宝のモニュメントの裏にも「文」の文字が入っていた。また、明和5年(1768年)にここで造られた真鍮銭には、21本の波模様があるので「波銭」という。明和6年(1769年)に造られた真鍮銭には、11本の波があり、その「寛永通宝」の文字は、福住に住んでいた書家三井親和の筆跡であると。レリーフには、「銭座絵巻」(享保13年(1728年))より、「銭座で行われていた銅貨製造工程のうち、平研(銅貨の表面を磨く)作業をしている図」(日本銀行貨幣博物館所蔵)の絵を参考にしたものが描かれているのだと。そして近くにあったのが「日清紡績創業の地」碑。「日清紡績株式会社は明治40年1月創立後、東京府南葛飾郡亀戸町の当敷地2万余坪に、最新鋭設備を誇る本社工場を、建設した。最盛期には、紡機107,800錘, 織機360台を擁した本工場は 、昭和16年軍の要請により陸軍被 服本廠が使用するに至るまで、45年に亘り主力工場として綿糸布を生産し、広く内外の需要に応えると共に、幾多の人材を輩出した。この間明治43年、大正6年、 昭和13年の三たび横十間川の洪水で浸水し、大正12年には関東大震 災に逢ったが、従業員の献身的努力によりこの職場を守り得た。昭和20年大戦下の空襲により焼土と化したが、運動場として整備し主として勤労青少年の体育に寄与してきた。偶々昭和42年東京都浄水場、日本住宅公団用地として提供するに至り、当社の手を離れた。今般この地に記念碑を建立し会社創業関係者の遺徳と、生死苦楽を共にした多数従業員各位の功績を偲ぶものである。」現在の日清紡ホールディングス(株)は、資本金約276億、売上高連結:約5,096億の一部上場の大企業。そして帰路にもタイル画が。そして「亀戸中央商店街」を歩く。早朝のため、殆どの店はまだ閉まっていた。いろいろと言われている東京都のコロナ「感染防止徹底浅間」。「亀戸市場」も開店準備中。大きな「尾花沢西瓜」。そして右手に寺が、しかし民家の入口の如し。「法徳寺」浄土真宗本願寺派寺院の寺で、昭和6年に創建したと。「親鸞聖人像」。「本堂」。法徳寺所蔵の文化財は「絹本着色親鸞上人坐像(江東区登録文化財)」。扁額「法徳寺」。「法徳寺」前の「亀戸五丁目第二公園」には「酔芙蓉」の花が咲いていた。我が家のものは一重であるが、この「酔芙蓉」は八重咲き。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.10
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「龍岡城 桝形」を後にして県道120号を北上し、佐久市の「平賀」交差点を右折し国道254号に向かって進む。国道254号に合流し右折して進むと道路の両脇にコスモスの花が姿を現した。国道254号は、東京都文京区から埼玉県・群馬県を経由し、長野県松本市に至る一般国道である。国道254号沿い約9kmにわたって佐久市の花コスモスが咲き乱れ、ドライブで立ち寄る人気の観光スポットとなっていると、テレビで知ったのであった。50万本のコスモスの花が咲く「コスモス街道」。佐久市内山にあった「コスモス広場」に車を駐め、コスモスの花を楽しんだのであった。数十年も前に地元の老人クラブの方々がコスモスを街道沿いに植えて以来、ボランティアによってコスモスの植え付けや整備がされているとのこと。様々なピンクの色合いそして白のコスモスが満開で迎えてくれたのであった。.カメラの設定を変えて。観光客の姿はそれほど多くなく。三密は十分避けられて。西洋ミツバチを発見。ズームで。日のあたった瞬間に近寄って。三脚を準備しているオジサンの姿が。そして再び車に戻り、次の目的地の「内山牧場 」に向かってコスモス街道を進む。コスモス街道の上には巨石が剥き出しで。そして群馬県に入り、国道254号を進んでいくと「山荘あらふね」の看板がありこの先の左折して山道を暫く登って行く。狭い坂道を旅友の巧みな運転で進み、再び長野県に入り更に進むと漸く「山荘あらふね」駐車場に到着。車を降り「山荘あらふね周辺案内図」を見ると、目的の内山牧場内の「大コスモス園」は更に先にあることに気がつく。「あらふね湖」の見える場所まで行ったが、「大コスモス園」の姿は見えず再び車に戻り更に坂を上っていったのであった。そして漸く「大コスモス園」に到着。観光客の姿は殆どなく、コスモスの花の満開はこれからの様子であった。こちらも白とピンクの「大コスモス園」が広がっていた。アザミの花も。山の斜面にもコスモスは咲いていたが、雑草が多く、今年はこの新型コロナの影響で「大コスモス園」の種まきは縮小した模様であった。そしてこの日の帰路は、国道254号で下仁田に出ることとする。群馬県甘楽郡下仁田町大字下仁田の「下仁田」交差点を通過。道の駅「しもにた」に立ち寄る。名物の下仁田ネギとコンニャク芋の間に、顔だしパネルが何故か逆さまにSETされていた。上下逆転すると面白い写真が撮れるのだと書いてあったが・・・。上信越自動車道をパスしてひたすら一般道を進む。鏑川に架かる「比佐理橋」を渡る。埼玉県児玉郡神川町大字八日市の国道254号の並木。イチョウの樹であったのだろうか?「荒川」に架かる「玉淀大橋」を渡る。暗くなり始め、埼玉県大里郡寄居町大字露梨子の「露梨子」交差点を通過。埼玉県鶴ヶ島市から国道407号に入る。暗くなり激しい雨も降り出して入間市を進む。国道16号で横田基地の横を通過し八王子に向かって進む。そしてこの日も国道16号沿いの「かつや 相模原橋本店」に立ち寄り夕食を楽しむ。「ロースカツ定食」をオーダー。この後、国道129号→県道508号→県道46号で寒川まで戻り茅ヶ崎のSさん宅に到着したのであった。この日の走行距離は420kmとのことでした。Sさん、大変お疲れさまでした。
2020.10.07
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千曲川の支流、雨川を1.5キロほど遡ったあたりの山村に龍岡城があった。入口のあたりは古くからの住宅があるが、あとは田圃に囲まれていた。城下町とは思えない静かな、田園地帯。ここは、「大手門」のあったところで今は小学校の入口。「大手門橋」を渡る。「龍岡城 五稜郭」案内板。「龍岡城五稜郭所在地 佐久市田口3000番地 指定 国指定史跡信州に一万二千石、三河に四千石の封地を持つ三河奥殿藩の松平氏は、宝永以来百六十年間 三河に本拠を持ち、佐久には陣屋を置いて、領内二十二か村の統治をつづけてきたが、11代乗謨になって、幕末激動の状勢に応じて信州に居館を移すことを計画し、元治元年(1864)三月着工、慶応三年(1867)竣工、地字名をとって龍岡城と称した。用地一万余坪は田野口村より、石材木材などは領内より献納、総費用四万円余であった。藩主乗謨は学才識見ともにすぐれ、幕府の陸軍奉行、老中格、陸軍総裁などの要職につき明治に入っては、佐野常民と共に、赤十字社の前身である博愛社を創設し、副社長、又、賞勲局総裁など歴任した。築城にあたっては、稜堡式築城法を用い、いわゆる五稜郭が成立した。そしてこれより四年前完成した函館五稜郭址とともに、わが国城址の中においてただ二つの貴重な洋式城郭である。廃藩後明治五年、城はとりこわしとなったが、さいわい濠と石塁、建物の一部大台所を残している。注 松平乗謨、田口藩最後の藩主で明治初年 大給恒と改姓名説明に添えられている図。右上のブルーの無い場所は現在、埋め立てられ水堀の無い部分。「龍岡城跡」配置案内図をネットから。 【http://hanatanbou2.web.fc2.com/saku_tatuoka_zyo.htm】よりこの石碑には何が書かれていたのだろうか?官軍と幕軍最期の戦いである箱館戦争の舞台、函館五稜郭の完成した四年後の慶應3年に完成した。函館と同じ、日本で2つ目の西洋式の五稜郭であり、わが国で、実用の城としいは最後に作られた城であると。二つの五稜郭のモデルはフランスはリール市内に在るヴォーバン城で、規模としては面積で函館の4分の1の小さなもの。五稜郭の形から桔梗城とも呼ばれていると。洋式の星型の城の一端が堀の形からうかがえるのであった。「田口小学校校歌」が刻まれた石碑。「田口小学校校歌」をネットより。 【aguchi.sakushi.ed.jp/songs.html】より右手に「田口招魂社(たぐちしょうこんしゃ)」。社号標「田口招魂社」。「殿様と田口招魂社の由来家康公の家臣、初代松平乗次公は三河国大給に在り、大坂夏、冬の陣に功績を大いにあげた。四代乗真公の大給藩は山間僻地の為額田郡奥殿村に移し奥殿藩と称す。その頃信濃国佐久に領地壱万六千国、下図三塚村に陣屋を置く。宝永六年 田野口に陣屋を移し田野口藩と称す。天明二年 七代乗友公新海神社に寺○鉢奉納寛政二年 松平家菩提寺大梁山蕃松院落雷にて全焼天保十年 三郎次郎「後大給恒公」麻布藩邸に出生嘉永五年 乗謨(恒)十一代藩主となる文久三年 田野口藩築城始まる慶応二年 江戸より小銃四十○とどく 幕閣老中○○総裁慶応三年 五稜郭落成明治元年 竜岡藩と改称 同二月 松平姓を出身地名をとり大給に改める 同四月 太政官より北出兵命令 同十月 北越より出兵凱旋明治二年 藩籍奉還明治四年 五稜郭を毀す。石垣、台所、招魂社残存明治四年 大給公上京 公は幼少より天資総明熱誠果断英智を活用して博愛社賞勲局設置に建議し後総裁、枢密顧問に任ずる等功績は甚大である。明治四十三年 七十二歳で薨去(正二位勲○伯○)戊辰の役で戦士した尊い犠牲者の霊魂を招魂神社を建立例祭し再来継承現在に至る。昭和二十八年 神殿、拝殿を改築 基金 奉賛会 昭和五十一年 整備事業、基金 旧田口村区例大祭 四月十三、四日 此の頃桜花爛漫の名勝地英霊は次の通り北越戦争 四柱 日清戦争 一柱 日露戦争 十一柱 大東亜戦争 一八八柱 公務死亡 三柱合計 ニ〇七柱」「手水舎」。「拝殿」。社務所であったのだろうか?拝殿の横の建物は渡り廊下で繋がっていた。正面の建物が「御台所」。小学校のグランドと校舎。「頌徳碑(しょうとくひ)」「御台所明治4年(1871)の廃藩置県により龍岡藩は廃藩、それに伴い龍岡城も廃城となり、多くの施設が破却、払い下げの対象となりました。その中で御台所櫓だけは農耕具置場に転用する事を条件に唯一城内に残され、城内は農地となりましたが、明治6年(1873)に田野口村の尚友学校が開校し明治8年(1875)に龍岡城の城跡に移転すると御台所櫓は校舎として利用されました。その後も現在の佐久市立田口小学校の施設として利用され、昭和4年(1929)に保存の為に現在地に移転しました。御台所櫓は江戸時代末期の建物で、名称の通り藩主やその家族の食事を賄う炊事施設と家臣の詰め所を兼ね、中央は大きく吹き抜け、天井が無く、屋根の構造が剥き出しとなり2階の吹き抜け部には手摺が廻っています。木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、1階外壁は下見板張縦押縁押え、2階から上部の外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ。」「田口小学校」校舎入口。五稜郭の中にあるのがこの佐久市立田口小学校。近くのお寺にあった藩校が始まりで1875年に現在の城郭内に移転したとのこと。140年超の歴史を誇る。田口小学校のプールが御台所の奥の下に。ここまでが外堀が残っていたが、反対側は埋め立てられていた。「龍岡城 黒門跡」。再び「大手門」まで戻り堀を見る。堀の石垣には「武者返し」が設けられていた。「大手門跡」に架かる橋から再び「五稜郭 であいの館」を見る。「大手門」左側の堀。再び城内に入り「通用門橋」に向かって散策する。「飛翔」と刻まれた石碑は卒業記念碑?。ここにも石碑が。「田口小学校」校庭と「御台所」を「黒門」とは反対側の東側の「通用門橋」の前から見る。東側の堀にかかる「通用門橋」。北側の堀。稜堡土塁には桜が植えられ並木となっていた。南側(体育館側)の堀。「通用門橋」渡り城内を振り返る。「通用門橋」の南側の堀を別の角度から。「通用門橋」の北側の堀に沿って「大手門」に向かって歩く。「大手門」方面に向かう角から歩いて来た道を振り返る。そして「大手門」まで戻り、「五稜郭 であいの館」の横まで戻る。車に戻り暫し北西に進むと大きな鳥居のあった場所で停車。鳥居の扁額の位置には「桝形大鳥居修理」の銘板が掲げられていた。この場所は龍岡城の北の入口にあたる桝形で、当時の石垣がいまも良好な状態で保存されていた。「史蹟 龍岡城阯」。「歴史の里周辺案内図」。「新海三社神社」も訪ねたかったが・・・。「史蹟 龍岡城址」案内板。「史跡 龍岡城址本城は旧龍岡藩主松平乗謨がその居城として築いたもので、元治元年(一八六四)三月着工、慶應三年(一八六七)四月竣工した。明治四年(一八七一)龍岡藩の廃藩にともない廃城となり、建物も一部除いて撤去されたが、石垣や堀は、築城当時の状態をとどめている。西洋式城郭の様式をとり入れた五つの角をもつ星形の城郭は、函館の五稜郭と同様であって、城郭史上特異な位置を占めているばかりでなく、幕末における海外文化の移入のあとを示すものとして歴史上価値のある遺跡である。昭和九年(一九三四年)五月、国の史跡に指定された。またこの場所は、龍岡城の北の入り口にあたり、敵の侵入を防御し、攻撃的機能も兼ね備えた鉤の手状の枡形として良好な状態で保存されており、貴重な遺構である。」桝形の石垣とその手前に石碑が。何と刻まれていたのであろうか?ピンぼけ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.06
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「野辺山駅」を後にして再び国道141号線・佐久甲州街道を北上し、「龍岡城」を目指して進む。野辺山高原サラダ街道から男山( 1,851m)が正面に。小海町(ここは標高1020m)に入る。左に曲がり進むと「松原湖」方面へ。前方右手にあったのが「佐久総合病院 小海分院」。「佐久穂町役場」入口前を通過。「高野町」交差点を右折し、県道437号線の千曲川に架かる「栄橋」を渡る。南佐久の千曲川の清流・千曲川に架かるこの橋は、全長86.6mの鉄筋コンクリートローゼ桁橋で、昭和初期に長野県に赴任した若い技術者によって設計され、竣工は1938年(昭和13年)と記録されている。美しい曲線を見せる橋の橋台にはレトロな装飾柱が立っていて、当時の人々の、橋への思いを知ることができるのだ。 2013年(平成25年)に補修工事が行われ、この橋の記念講演が開かれたといいます。 土木学会選奨の「土木遺産」 となっている。そして県道2号線・川上佐久線を北上する。正面に、「浅間山」の姿が現れた。左手には「稲荷山公園 コスモタワー」が見えた。このコスモタワーは高さ35メートルの展望台で、109段の階段を上り切ると佐久地方を一望できると。また、からくり時計の機能を備えており、決まった時間になるといつもとは違ったコスモタワーを見ることができるのだと。こちらが「コスモタワー」の全景であるとネットから。 【https://www.wikiwand.com/ja/%E8%87%BC%E7%94%B0%E7%94%BA】よりそして「龍岡城跡五稜郭」の案内表示が。「龍岡城跡五稜郭」と「日本で一番海から遠い地点」案内板が。1996年(平成8年)に茨城県つくば市の「地図と測量の科学館」で催された「なんでも相談コーナー夏休み相談会」において筑波大学の学生から「海からもっとも遠い地点はどこですか?」という質問がなされた。この問題に答えるために国土地理院によって調査が行われ、その結果長野県佐久市田口字榊山209-1(北緯36度10分35.87秒東経138度34分51.35秒座標: 北緯36度10分35.87秒 東経138度34分51.35秒、標高約1,200メートル)の地点が海から最も遠い地点として特定されたのだと。回り込み「五稜郭 であいの館」の入口門の前を通過。「佐久市歴史の里 五稜郭 であいの館」案内柱。そして駐車場に車を駐め、「五稜郭 であいの館」の中へ入る。続日本100名城スタンプとパネル展示や資料、発掘品が展示されていた。入館は無料。ここでパンフレットや地図を頂きました。「五稜郭 龍岡城」ジオラマ。手前がこの後に場内入った表門。「松平乗謨(大給 恒 おぎゅうゆずる 1839~1910)公年譜大給松平家の第11代目。改名前は松平乗謨(まつだいら のりかた)。家督相続後、三河(いまの愛知県)にあった居所を信濃(いまの長野県)に移し、龍岡城(五稜郭)を築いた。江戸幕府では大番頭、若年寄、陸軍奉行、老中格、陸軍総裁などを歴任し活躍した。明治に入って名前を大給恒と改め、新政権で活躍。メダル取調御用掛であった際には世界の勲章について研究し、後に「文化勲章以外の勲章は大給によって作られた」とまで言われた。1877年の西南戦争の際に傷病兵を敵味方分け隔てなく救済する必要性を感じ佐野常民と共に博愛社を設立し、副総裁に就任した。」大給松平氏の系譜。以下ウィキペディアより。「大給藩大給松平家は徳川家康の5代前の松平家当主・松平親忠の次男・松平乗元より始まる一族で、代々松平宗家に譜代の家臣として仕えた。第5代当主・松平真乗の次男で徳川秀忠に仕えた松平真次は、大坂の陣の功などにより加増を受ける際、知行地として先祖ゆかりの三河加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を望み、6000石の旗本としてこの地に陣屋を構えた。真次の子・松平乗次は、大坂定番となって摂津国・河内国・丹波国などで1万石を加増され、1万6000石の大名となった。宝永元年(1704年)、第3代藩主・松平乗真の代に、近畿地方など領地1万2000石に代り、信濃国佐久郡田野口に同石高の領地が与えられた。また乗真は、大給が山間にあって交通の便も悪く手狭となったことを理由とし、正徳元年(1711年)4月28日、藩庁を領内の奥殿に移転した。奥殿藩奥殿移転後も、享保年間には矢作川の洪水、飢饉を原因とする年貢半減を求める強訴などが起こった。天明年間にも天候不順から凶作となり、そのために藩内で暴動が起こった。このような中で第7代藩主となった松平乗利は有能な名君で、90歳以上の者に対しては長寿を称えるということから毎年、米を100苞与えた。さらに文武を奨励して演武場、藩校・明徳館などを創設している。天保4年(1833年)の凶作時には、窮民に対する救済も万全に行なうなど、他の歴代藩主と比較して賞賛されるほどの藩政を行なっている。乗利の跡を継いだ松平乗謨(のりかた)のもとで幕末期を迎える。幼少より学問を好んだ乗謨は、海陸御備向を経て、文久3年(1863年)1月に大番頭に、同年8月には若年寄に抜擢された。文久3年(1863年)、乗謨は信濃国への陣屋移転・新築許可を江戸幕府から得る。奥殿藩の領地の大部分があった信濃国佐久郡田野口への移転は念願であり、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て届け出たものである。幕末の国内情勢緊迫の中で、東海道沿いにあって動乱に巻き込まれることが懸念される手狭な奥殿から退避する意味もあったという。なお、三河国の領民の多くはこの移転に反対して、嘆願書を差し出すなど騒動が生じている。田野口藩(龍岡藩)信濃国への藩庁移転後、この藩は田野口藩と呼ばれる。西洋の築城術に関心を寄せていた乗謨は、新しい陣屋を稜堡式城郭(星形要塞)とすることを計画、元治元年(1863年)より田野口村で築城を開始した。田野口陣屋(龍岡城)は、函館の五稜郭とともに日本に2例のみの星形要塞である。慶応3年(1867年)4月には城郭内の御殿が竣工したが[5]、城郭としては未完成のまま明治維新を迎えたという。藩政においてはいちはやくフランス式の軍制を導入し、龍岡城内に設けた練兵場で訓練を行った。乗謨は、慶応元年(1865年)に陸軍奉行、慶応2年(1866年)に老中・陸軍総裁に任じられ、江戸幕府を支えるために奔走した。慶応4年(1868年)、戊辰戦争に際し乗謨は陸軍総裁・老中を辞任、新政府に帰順した。新政府軍に参加し、北越戦争で戦死した藩士の墓が蕃松院(佐久市田口)にある。なお、藩の名称は、慶応4年(1868年)5月28日に龍岡藩に改称されている。明治4年(1871年)、財政破綻のために廃藩を申請し、廃藩置県に先立って廃藩となる。なお、乗謨は明治維新後に大給恒(おぎゅう・ゆずる)と改名、日本赤十字社の前身である博愛社を創設、賞勲局総裁などを務めるなど明治政府の下でも活動した。明治17年(1884年)に子爵、明治40年(1907年)に伯爵に昇った。」世界かんがい施設遺産「五郎兵衛用水」ポスター。2018年に世界かんがい施設遺産になった「五郎兵衛用水」は、江戸初期に完成した全長約20㎞の灌漑用水。「龍岡藩主・大給恒の生涯(1839~1910)」のタイトルがあった写真入りの年表。三河奥殿藩の第7代藩主・松平乗利の長男として江戸藩邸で生まれた。幼少から聡明な人だったと。1863年大給松平氏最後の藩主である松平乗謨は、三河国奥殿藩藩の分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋の新築許可を江戸幕府から得た。松平乗謨は、江戸幕府の軍備の遅れを憂い、西洋式の火砲、築城技術を熱心に学んだ。1907年の69歳の時、伯爵に叙され、1910年、旭日桐花大綬章を贈られているのだと。「五稜郭ゆかりのまち 函館市」と「ゆかりのまち 岡崎市」「岡崎市との結びつき三河藩主松平乗謨(のちの大給恒)が、元治元年(1864年)田野口に龍岡城を築城した縁により、昭和5 8年7月「ゆかりのまち」として臼田町と協定を結び、以後物産でも交流を深めています。」和凧「臼田町 五稜郭と松平乗謨」。「臼田町」とあるのは、現在、龍岡城址がある「佐久市田口」は、市町村合以前は「臼田町田口」だったからであろう。「信州 佐久日本に二つしかない 龍岡城五稜郭」桜のポスター。「龍岡城五稜郭 表門」と「五稜郭御殿平面図」。「大手御門弐拾分壱正面之図」。当時そして現在の「龍岡城 五稜郭 」の写真と図面。「龍岡城五稜郭俯瞰図」。龍岡城五稜郭は周辺を治めていた田野口藩の藩主・松平乗謨(のりかた)が1867年(慶応3年)に築造。西洋技術を用いた星形城郭の「五稜郭」と称されるのは函館と共通する一方、面積は4分の1程度にとどまり、戦乱の舞台ともならなかったため知名度もいまひとつ劣るのだが。明治時代の「歴代賞勲局正副総裁(長官)一覧」賞勲局(しょうくんきょく)は、内閣府の内部部局のひとつ。勲章・褒章など栄典に関する事務を所管する。大給恒は伊藤博文、西園寺公望他の下で副総裁を勤めていたと。「自ら図案を創る大給恒は世界各国の勲章制度を研究、その結果「日本の勲章はあくまで日本古来の伝統をもとにしなけれはならない」とし、外国の勲章にはない独特の図案の考案に自ら筆をとり苦心を重ねた。」当時の写真。和凧「星の町臼田 五稜郭と松平乗謨」紅葉時のドローン写真。右手に「龍岡城(五稜郭)竣工図」続日本百名城の「龍岡城 認定証」。「田口村村役場鬼瓦」のタイトルがあった古い鬼瓦の展示品。かつての「田口村村役場」の正面玄関にあった鬼瓦と紹介されていた。龍岡城五稜郭の瓦五稜郭の御台所の瓦。大給松平家の蔦の紋が入っている。続日本百名城「129 龍岡城」のスタンプを頂きました。「佐久市歴史の里 五稜郭 であいの館」の内部見学を終え、外に出て振り返る。こちらが「五稜郭 龍岡城」表門入口。右手に「大給恒(おぎゅうゆずる)」の胸像が。近づいて。佐野常民と共に日本赤十字社の前身である博愛社の設立と育成に貢献した。佐野が「日赤の父」と呼ばれたのに対し、大給恒は「日赤の母」と呼ばれていると。「本城は文久三年旧龍岡藩主松平乗謨(後名伯爵大給恒)其の居城として九月工を起し慶応二年十二月竣工、我国に於ける欧式築城中五稜型の典型である。 明治四年廃藩とともに廃城となり建造物は撤去せられ其の一部が小学校舎として使用されている。塁壕に破壊せられたる所あるを以って修理を加え其の旧規を存す。注意一、塁壕を破損せざること。一、工作物、樹木等を損傷せざること。一、其の現状を変更せざること。」「史跡 龍岡城址」石碑と前方に「大手門橋」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.05
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「野辺山宇宙電波観測所」を後にして、「JR野辺山駅」を訪ねた。駅に向かって左手には「八ヶ岳中信高原国立公園」と記された標柱が。「国鉄最高地点野辺山駅 標高1345.67米」と書かれていた。そして「国鉄」いう表記がまだ残っている標柱なのであった。「JR野辺山駅」。反対側から。まるで教会のようなメルヘンチックな建物。「野辺山駅」。「JR最高駅野辺山 標高1345m67」の看板。野辺山駅前の広場。小海線発車時刻表。1~2時間に1本の電車。コスモスの花と小海線の写真。八ヶ岳を背景に野辺山駅を描いた絵画。「~塚本和也が愛した風景~」八ヶ岳の下の小海線を走る蒸気機関車の姿が写真で。塚本和也氏jは鉄道写真家で「JR鉄道最高地点」にあった蒸気機関車・C5626の車輪を寄付した人物とのこと。「さわって のぞいて まわしてみよう」・手を触れると温度差発電で万華鏡内のLED が点滅。・ゆっくり回すときれいな模様が変化。・ゆっくり万華鏡内を覗くと星がいくつも見えて来る。・色・形・石で星座の世界を表現致。無人駅の改札口。自動券売機も1台。野辺山駅は3番線まであり、1番線は小諸方面に向かう列車、2番線から発車する列車が、清里や小淵沢に向かうのだ。全線単線、無電化の小海線なのであった。駅名表示板「野辺山」には八ヶ岳の姿が。野辺山駅スタンプ。そして運良く小諸方面に向かう列車が入線。多くの観光客がリュックを背負いマスク姿で。列車内の路線案内パネル。再び駐車場方面に歩く。駅前の「おみやげ」屋。店内の様子。ソフトクリームを楽しむ。「野辺山宇宙電波観測所」の美しい夕景をとらえた写真。シャインマスカットは一房1950円。1粒60円以上か?そして駅前の公園も散策。「銀河公園案内図」。若山牧水の歌碑。「若山牧水は昭和三年(一九ニ八)静岡県なる沼津千本松にて逝去せしものなれど歿年に至るまで、ほぼ全国を徒歩にて跋渉するとする旅をいつくしみし生涯なりき。当地に来渉せしは大正十二年十月二十八日出発 富士裾野を経て山梨県長野県を巡り十一月八日松原湖より当地に至りたるものにて同十一日川上村大深山より十文字峠を経て、秩父にくだるまでの旅を、後日「木枯紀行」なる紀行文にまとめ世に遺せしものなり。・・・以下解読不能」「はりはりと わが踏み裂くや うちわたす 枯野がなかの 路の水を」1「枯れて立つ 野辺のすすきに 結べるは 氷にまがふ あららけき霜」「大空の 深きもなかに 聳えたる 峰のたかきに 雪降りにけり」「わが行くや 見る限りなる 霜の野の すすき枯れ伏し 眞しろき野辺を」「わが袖の 触れつつ落つる 路ばたの すすきの霜は 音立てにけり」「人いまだ ゆかぬ枯野の 今朝の霜を 踏みてわがゆく ひたに真直ぐに」「ふくろうの森 機関車ひろば」この「C5696」は昭和12年に北海道で活躍しその後、新潟や長野に配属。昭和48年に廃車になりましたが、昭和50年にSL列車ホテルとして「高原のポニー」の愛称で親しまれました。昭和62年に老朽化によりホテルの役割も終わり、平成元年からこの公園で保存されています。ちなみに、静岡県の大井川鐵道ではC56が現役で活躍しています。「由来この蒸気機関車は昭和十ニ年三月より北海の原野を走り昭和ニ十五年八月から中込機関区に転属し戦後の混乱期に貨客混合列車として登場、小海線の輸送に活躍した。国鉄の合理化により昭和四十八年六月廃車となる。同年十一月十七日に長野鉄道管理局より貸与を受け野辺山高原へ永住することになった。昭和五十年八月四日より「高原列車SLホテル」として全国のSLファンに親しまれてきたが客車などの老朽化に伴い昭和六十二年三月に業務を廃止し平成元年九月歴史民俗自然公園へ移転し、永久保存されることになりました。」「銀河公園」から「野辺山駅」を見る。「銀河公園」の色彩豊かな遊具。「道祖神碑」。「八ヶ岳中信高原 国定公園 野辺山」碑。「豫科練之碑」。「開發記念碑」。そして車に戻り、次の目的地「龍岡城」に向かう。車窓から「野辺山駅」横の「おみやげ」屋を振り返る。そして「銀河公園」と「蒸気機関車C5696」も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.04
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最初に「JINさん月観測所」の写真です。昨夜の満月と火星とのランデブーです。そして満月。ティコ(Tycho)クレーター。直径85キロのティコクレーターはクレーターのまわりに放射状に広がる、白い模様が見られる。これは「光条」(英語ではレイ: ray)と呼ばれているのだ。さらにズームで。そしてアポロ8号のクルーが撮った月の縁に昇る地球・「地球の出」。BS4K放送の映像から。今から52年前の1968年12月24日に史上初めて月から撮影された蒼き「地球の出」。-------------------------------------------------------------------------------------------そして「月」から「宇宙」へさらに「野辺山宇宙電波観測所」の見学を続ける。見学者向けのミニアンテナがあり、実際に動かすことができた。(18)ミニアンテナで宇宙からの電波をとらえよう。実際の宇宙に飛んでいる衛星に電波を当てて、音を鳴らすというもの。ネットから。正面から。10m「ミリ波干渉計」を前方に再び見る。「20.電波ヘリオグラフ 名古屋大学 太陽を見つめる84台のひまわり」 ●ヘリオ=「太陽の」、グラフ=「撮像装置」ヘリオはギリシャ語で「太陽の」、グラフは「撮像装置」という意味です。つまり「電波ヘリオグラフ」は、電波で太陽を撮像するための装置です。電波ヘリオグラフは、毎日8時間、連続して太陽を観測し、黒点や活動領域、また、その周りで起きる爆発現象(太陽フレア)を調べることができます。電波は、雲の邪魔を受けないので曇りの日でも、雨の日でも、太陽の観測ができます。」Data 電波ヘリオグラフがとらえた太陽の画像東西・南北にアンテナを配置することで、電波写真( 2次元の電波強度分布)を取得することができます。太陽から届く電波を、84台のバラボラアンテナで集めてコンビューターで処理すると、口径490 mのアンテナで観測したときと同じ画像を得ることができます。このような仕組みを千渉計と呼びます。●アンテナがたくさん!!電波ヘリオグラフの特徴は、たくさんの「アンテナ」からできていることです。直径80cmのパラボラアンテナが全部で84台あり、南北に220m、東西に490mにわたり、逆T字の形に整列して配置しています。全てのアンテナが刻一刻と太陽を追いかけています。Topic ヘリオグラフは働き者電波ヘリオグラフは、たいへん働き者です。雨でも暑りでも観測できますので、7時45分から1 5時30分(どちらも日本時間)まで毎日休まずに観測を続けています。太陽はとてもダイナミックな天体なので、「天気に左右されず、いつも観測ができる」ことは、大事な現象を見落とさない、という点でとても重要です。過去10年問の稼働率は、99 %以上! !「10mミリ波干渉計」12号機。「電波ヘリオグラフ」84台のアンテナをつないで太陽の画像を撮る電波望遠鏡。名古屋大学太陽地球環境研究所が運用しているようだ。「10mミリ波干渉計」を再びズームで。「ヘリオグラフ観測棟」手前にあった説明板。「45m電波望遠鏡」を再び見る。「21.太陽の活動●電波で見る太陽太陽表面の上には約1万度の彩層と約100万度のコロナという大気があります。太陽を電波で観測すると1万度から100万度の高温物質と黒点を一度に見ることができます。黒点の近くでは太陽フレアという爆発現象がしばしば発生します。また、プロミネンスと呼ばれる1万度のガスのかたまりが太陽コロナの中に浮かぶことがあり、時にはこの雲が宇宙へ飛び出すこともあります。これをプロミネンス放出現象と呼びます。電波では、このような現象も観測することができます。●太陽活動と地球への影響太陽からは太陽風と呼ばれる風が地球へ吹いています。太陽フレアなどで太陽大気の一部が地球の方へ放出されると突風が地球にやってきます。これは、オーロラの原因となるほか、停電や通信の混乱、人工衛星などの故障の原因になります。人類が宇宙へ進出する現代、長期的にも短期的にも、太陽活動を調べることは、ますます重要になっています。」Data 電波で見る太陽活動の変化長期的な変化太陽黒点の数は1 1年周期で増減します。黒点が多い時(極大期)には太陽の活動が大変活発で太陽フレアがたくさん発生し太陽からの電波強度も大きくなります。「22.野辺山太陽電波観測所のあゆみ●電波天文は太陽の観測から1949年、日本初の本格的な電波天文観測は旧東京大学東京天文台(三鷹)での太陽電波の観測でした。1951年には旧名古屋大学空電研究所(豊川)が3.75GHz強度観測を開始。以後、この2施設が太陽電波の観測をリードします。●野辺山の時代へ三鷹での観測環境の悪化に伴い、1969年、旧東京天文台は野辺山太陽電波観測所を開設し、160MHz複合型電波干渉計、17GHz電波干渉計、動スペクトル計などを使った観測を始めました。17GHz電波干渉計は、1978年、アンテナ配列と受信機に大改造が施され、1秒ごとに太陽の微細構造を観測できる装置として世界的に活躍しました1988年、国立天文台の発足に伴い、国立天文台太陽電波部門と旧名古屋大空電研究所が合流。野辺山が太陽電波研究の拠点となってゆきます。●世界が認めた研究拠点1992年、電波ヘリオグラフが観測を開始。1994年、豊川の強度偏波計群(写真右から4台)が野辺山へ移設。インターネットにより毎日の観測データを世界へ公開したり、定期的に研究会を開催するなど、世界の研究者とのネットワーク作りや共同研究を積極的に行い、野辺山は太陽電波研究のメッカと称されました。●継続はカなり1990年以降、太陽観測専用の人工衛星などの登場で、太陽観測の環境はとても充実しました。その中で、電波ヘリオグラフと強度偏波計により蓄積された数十年にもおよぶデータはとても貴重で広く活用されています。2015年、観測環境の多様化により、太陽電波観測所は45年の長い歴史に幕を下ろし、電波ヘリオグラフは名古屋大学へ、太陽電波強度偏波計は宇宙電波観測所へ運用を移行しました。新しい体制のもと、これからも野辺山のデータは世界中の研究者へ届けられてゆきます。」「23.野辺山太陽電波観測所のあゆみ●計画から建設まで宇宙からの電波を観測する大型電波望遠鏡の建設は1965年頃から検討されていましたが、設計や建設用地を探すなど、実現までに約110年の歳月を費やしました。●世界一の望遠鏡を作ろう!1977年、標高が高く水蒸気量の少ない野辺山が建設地に選ばれました。「世界一の望遠鏡を作ろう」を合言葉に建設が始まり、1982年に野辺山宇宙電波観測所が開所。45m電波望遠鏡、ミリ波干渉計の完成によって、日本の電波天文学を一気に世界トップレベルに押し上げました。以降、「宇宙を漂う分子の発見」や「プラックホールの確証をつかむ」など、数々の成果をあげています。●サブミリ波への挑戦1990年代、ミリ波よりさらに波長の短いサブミリ波観測への関心が高まると、野辺山ではAST E (アステ)を建設。2002年にチリへ移設し、試験観測を開始。以後、モンスター銀河の発見などサプミリ波宇宙の研究で成果を上げています。その技術やサブミリ波観測の実績は、アルマ望遠鏡へ活かされています。●研究・開発・教育の拠点として新しい研究や装置開発のアイディアを試すことができる国内唯一の大型施設。研究者と技術者が一緒に試行錯誤できる環境は、若い世代の育成に欠かせません。研究、開発、教育など、電波天文学を推めるため、野辺山は大きな役割を担っています。」」「日本初の電波望遠鏡」。戦後まもなくの1949年に国立天文台三鷹に作られたもので、パラボラ形ではなくような金属棒を使っている。現代のように自動的に追尾する機構はなかったので、スタッフが1週間に1度、手作業で位置合わせしていたという。「24.日本初の電波望遠鏡200メガヘルツ電波望遠鏡●これは、国立天文台(旧東京大学東京天文台)で最初に作られた200メガヘルツ電波望遠鏡を復元したものです。1949年(昭和24年)に畑中武夫教授が中心となり、当時の郵政省物理研究所(現在の情報通信研究機構)の協力を得て、国立天文台三鷹の敷地内に建設しました。」当時は第ニ次世界大戦の終結間もない時期であり電波望製作に必要な機材を集めるのに大変な苦労をしたようです。また、自動的に天体を追尾する装置がないので、軸は30分に1回、赤緯は1週間に1回手動であわせなければなりませんでした。畑中教授らは苦心の末、この望遠鏡で太陽電波だけでなく天の川銀河からの電波も確認することができました。日本の電波天文学の発展は、この望遠鏡によって始まったのです。」正面から。日本初の電波望遠鏡と45m電波望遠鏡。「太陽電波強度偏波計」「25.太陽電波強度偏波計●いろいろな周波数で太陽を調べる太陽電波強度偏波計では、7つの異なる周波数で太陽電波を受信し、その電波の強度と偏波(電波の振動の方向)を観測しています。電波の強度と偏波をいろいろな周波数で同時に測ることで太陽の活動の様子を詳しく調べることができます。●大きさの異なるアンテナアンテナの大きさの違いは、受信する周波数の違いに相当します。大きいアンテナほど低い周波数に対応しています。●世界でも稀な長期間の観測アンテナごとに観測を始めた時期が異なりますが、3.75GHzアンテナは、1951年に観測を開始してから今日まで、約60年もの間休ますテータを取り続けています。継続して観測することで、太陽活動の長期的な変動を知ることができます。」更に解説パネルに興味のある方は下記リンクにアクセス願います。「野辺山宇宙観測所 解説パネル」👈リンク「太陽電波強度偏波計」とその奥に「ミリ波干渉計」が。八ヶ岳を背景に、左に「10mミリ波干渉計」そして右に「45m電波望遠鏡」。「10mミリ波干渉計」と八ヶ岳・赤岳。さらにズームで。こちらは体験コーナー。「パラボラでお話しよう」と書かれていた。だいぶ離れたところにもう一台。緑色のパラボラに向かって何かしゃべると、向かい合って離れたもう片方のパラボラから声が聞こえて来ると。再び10m「ミリ波干渉計」を別の方向から見る。「特別公開2020」の案内ポスター。オンライン特別公開が8月29日(土)9:30に配信されると。「平塚市博物館 プラネタリウム」ポスター。最新のデジタル投影機とプロジェクターを使い、美しい星空と宇宙を飛び回るかのような臨場感あふれる映像を投影する。番組では、解説員の生解説による今夜の夜空や、話題の天文現象や天文の基礎知識、最新の天文学の成果などを紹介するらしい。そして野辺山宇宙電波観測所の見学を終え、再び「矢出川公園」近くにに立てられていた案内板を見る。「恵みの森筑波大学演習林事務所の敷地( 14ha )を「恵みの森」として一般開放しています。●山菜採り/きのこ狩り/昆虫採集/野草摘みなど、個人で楽しむ量に限り自由です●森林浴や散歩道としてもご利用ください。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.03
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野菜畑の間を進むと、小型パラボラアンテナが並んでいる場所が姿を現す。そして八ヶ岳も雲が晴れて稜線全体が姿を現した。右から最高峰・赤岳 (2,899 m) 、その左手前に牛久山(2,280m)、旭岳(2,672m)、そして権現岳(2,715m)。正面にあったのが「南牧村農村文化情報交流館」。電波観測の野辺山ならではの宇宙を学べるシアター、南牧村を飛行機のフライトシュミレーターで上空から見られる施設があるのだと。村の図書館も併設。屋上展望台からは八ヶ岳や野辺山観測レーダーが一望できると。駐車場から。最上階に屋上展望台の姿が。駐車場の横にあったのが「信州野辺山高原 矢出川公園 標高1,342メートル」と書かれた標柱。矢出川公園は野辺山宇宙電波観測所に隣接し、サクラソウ、アサマフウロなど貴重な植物の自生場所であると。4月下旬から10月上旬まで、コナシ(ズミ)の原生林の下、およそ150種類の山野草が咲く遊歩道の散策が楽しめると。とりわけ春には、全国的に自生が少なくなっていると言われるサクラソウが群生し、多種類のスミレやニリンソウと共に樹林下を彩るのだと。受付手前にあった「野辺山派遣隊之碑」。正面には、「三重海軍航空隊 野辺山派遣隊」の文字があり、背面に碑文が記されていた。それによると、この碑は1995(平成7)年8月に三重空野辺山若草会が建設したもので、1945(昭和20)年5月、わが国初のロケット戦闘機の搭乗員を養成するために、三重海軍航空隊から野辺山に1196名の予科練習生を派遣したという。隊員らは、「幕舎に起居しグライダーにより連日猛烈な操縦滑空訓練に励んでいたが」、8月15日の戦争終結によって解隊となった。1988年月に「史実を後世に伝え平和を祈念する」ために「三重空野辺山若草会」を結成し、野辺山駅前に「予科練之碑」を建立した。さらに、戦後50年を機に、その跡地にも、この碑を建てたというものであるとのころ。「野辺山宇宙電波観測所」の「受付」。新型コロナの影響か?セルフ受付。住所、氏名を記載し投函箱へ。「野辺山宇宙電波観測所」配置案内図。左手前に10m「ミリ波干渉計」6基、その先に巨大な45m「電波望遠鏡」がある。「野辺山宇宙電波観測所」ポスターには巨大なパラボラアンテナの姿が。「45メートル電波望違鏡 アンテナ方式 カセグレン変形クーデ方式 アンテナご径 45メートル 鏡面誤差 0.1ミリメートル 観測周波数 1~150ギガヘルツ 解像力最高 0.004 完成 1982年1982年に完成、運用を開始した野辺山45メートル電波望遠銀は、世界最大級のミリ波望遠観として、日本の電波天文学を世界レベルへと押し上げました。光では見えない暗黒の字宙に、多数の分子や大質量プラックホールを発見するなど輝かしい成果を挙げています。観漏開始より現在、そしてこれからも、45メートル電波望遠鏡は字宙の望に挑み続けます。」そして多くの説明板が並んでいた。「1.国立天文台の主な観測施設国立天文台本部は東京都三鷹市にあり、研究目的に応じて日本だけでなく、世界各地に観測所や観測センターを設けています。現代の天文学では、光、赤外線、電波、重力波などさまさまな観測方法があり、観測に適した場所を選んでいます。」1、水沢 VLBI 観測所(岩手県奥州市):VERA(ベラ)2、国立天文台本部(東京都三鷹市)3、岡山天体物理観測所(岡山県浅口市竹林寺山):188cm 反射望遠鏡4、野辺山宇宙電波観測所:45m電波望遠鏡、太陽電波強度偏波計5、チリ観測所(チリ・アタカマ高地):アルマ望遠鏡、ASTE(アステ)6、ハワイ観測所(ハワイ・マウナヶア山):すばる望遠鏡、TMT推進室「2.世界の電波望遠鏡●世界各国に、さまざまな「電波望遠鏡」👈リンク があります。主なものをご紹介します。」1、エフェルスベルグ電波望遠鏡:ドイツ 口 径:100m(単一鏡)、周波数:センチ波、設立年:1972年 備 考:GBT設立以前の世界最大の可動式電波望遠鏡2、IRAM 30m 望遠鏡:スペイン 口 径:30m(単一鏡)、周波数:ミリ波、設立年:1984年 備 考:45m 電波望遠鏡の長年のよきライバル 3、パークス 64m 電波望遠鏡:オーストラリア 口 径:64m(単一鏡)、周波数:センチ波、設立年:1961年 備 考:バルサーのほぼ半分を発見している。アポロ11号との通信も担当4、JCMT:アメリカ(ハワイ) 口 径:15m(単一鏡)、周波数:サブミリ波、ミリ波、設立年:1987年 備 考:サブミリ波を観測できる望遠鏡として世界最大。国立天文台が一翼を担う東 アジアが天文台が運営している 5、LMT:メキシコ 口 径:50m、周波数:ミリ波、設立年:2011年 備 考:45m 電波望遠鏡を抜き、ミリ波を観測できる望遠鏡としては世界最大。45m 電波望遠鏡の新しい強力なライバル6、アレシボ天文台:プエルトリコ 口 径:305m(単一鏡)、周波数:メートル波など、設立年:1963年 備 考:単体では世界最大の望遠鏡(固定式)。連星パルサーの発見7、VLA(Very Large Array):アメリカ 口 径:25m・27台(Y字型干渉計)、周波数:メートル波、センチ波、 設立年:1980年 備 考:映画「コンタクト」の撮影地としても有名8、GBT(Robert C. Byrd Green Bank Telescope):アメリカ 口 径:100-110m(単一鏡)、周波数:センチ波、設立年:2000年 備 考:世界最大の可動式電波望遠鏡「3.電波天文学のあゆみ●電波天文学のはじまり アメリ力のベル研究所の技術者であるジャンスキーは、無線通信の障害になる 雑音を調べているとき、空のある方向から電波が来ていることに気づきました。 この雑音を調べたところ、天の川の中心方向からの電波であることに気づいたのです。●世界初の電波望遠鏡 ジャンスキーの発見の重要性に気づいたのは、天文学者ではなぐアメリカの電気技師の リーバーでした。自宅に直径9.4 mのパラボラアンテナを自作して、宇宙からの電波を 観測し始めました。 リーバーは、天の川銀河の電波地図を初めて作成しました。●その後の発展 第2次世界大戦後、レーダー技術の平和利用として電波天文学は急速に発展し、 光ではわからなかった様々な宇宙の姿を解き明かしてきました。 宇宙誕生(ビッグバン)の名残となる電波の発見など、電波天文学でのノーベル賞は 5個を数えます。」1、エフェルスベルグ電波望遠鏡:ドイツ 口 径:100m(単一鏡)、周波数:センチ波、設立年:1972年 備 考:GBT設立以前の世界最大の可動式電波望遠鏡2、IRAM 30m 望遠鏡:スペイン 口 径:30m(単一鏡)、周波数:ミリ波、設立年:1984年 備 考:45m 電波望遠鏡の長年のよきライバル 3、パークス 64m 電波望遠鏡:オーストラリア 口 径:64m(単一鏡)、周波数:センチ波、設立年:1961年 備 考:バルサーのほぼ半分を発見している。アポロ11号との通信も担当4、JCMT:アメリカ(ハワイ) 口 径:15m(単一鏡)、周波数:サブミリ波、ミリ波、設立年:1987年 備 考:サブミリ波を観測できる望遠鏡として世界最大。国立天文台が一翼を担う東 アジアが天文台が運営している 5、LMT:メキシコ 口 径:50m、周波数:ミリ波、設立年:2011年 備 考:45m 電波望遠鏡を抜き、ミリ波を観測できる望遠鏡としては世界最大。45m 電波望遠鏡の新しい強力なライバル6、アレシボ天文台:プエルトリコ 口 径:305m(単一鏡)、周波数:メートル波など、設立年:1963年 備 考:単体では世界最大の望遠鏡(固定式)。連星パルサーの発見7、VLA(Very Large Array):アメリカ 口 径:25m・27台(Y字型干渉計)、周波数:メートル波、センチ波、 設立年:1980年 備 考:映画「コンタクト」の撮影地としても有名8、GBT(Robert C. Byrd Green Bank Telescope):アメリカ 口 径:100-110m(単一鏡)、周波数:センチ波、設立年:2000年 備 考:世界最大の可動式電波望遠鏡もう少し、説明板もレンズのごとく磨いておいて欲しいのだったが・・・。「太陽の坐」という名の日時計。「年中暇なしのお日さま ちょっとこの椅子に座って 一服しませんか?」と、記してあった。この写真ではわかりにくいが、日中の日の移ろいに応じて、針の部分が指す影が時を刻む仕掛けとなっているのであった。そして次から次へと説明板が置かれていたが、門外漢の私にはチンプンカンプンなのであったがとりあえず、説明の要旨のみを転載させていただきますので興味のある方のみ読んで頂きたく。「4.電波」 電波は目では見えない電磁波●電波は、光と同じ電磁波のなかま 電磁波は秒速約30万kmですすむ光などの波のことです。波長によっていろいろな種類に 分けられ、性質が異なります。その中で人間の目で見ることのできる電磁波を「可視光線」 と呼びます。「電波」は最も波長の長い電磁波で、テレビや携帯電話など私たちの生活で も利用されていますズームして。●電波は、光と同じ電磁波のなかま 電磁波は秒速約3 0万kmですすむ光などの波のことです。波長によっていろいろな種類に 分けられ、性質が異なります。その中で人間の目で見ることができる電磁波を「可視光線」と 呼びます。「電波」は最も波長の長い電磁波で、テレビや携帯電話など私たちの生活でも 利用されています。」「5.宇宙からの電波 この瞬間も宇宙から電波が降り注いでいる●電波は宇宙からのメッセージ 太陽、星、銀河などの目に見える天体だけでなく、宇宙に漂うガスなどの目に見えない 天体も電波を出しています。この電波をとらえることにより宇宙の別の姿が見えてきます。 宇宙には私たちの肉眼では見えない電波の世界が広がっているのです。●見えないものが見えてくる 光学望遠鏡と電波望遠鏡で銀河を比較してみましよう。 左の写真ではたくさんの星が見えています。一方、右の写真では、星ではなく、 星の材料となるガスが見えています。 何もないと思われていた星と星の間の暗黒の部分には、実は、たくさんのガスがあることが 電波の観測でわかりました。」6基の10mパラボラアンテナが並ぶ。6台のアンテナをケーブルでつないで同時に観測することで、最大で直径約600mの電波望遠鏡に相当する解像力で天体画像を描き出すのだと。主に天体の様子を細かく調べることに威力を発揮して来た。アンテナは専用の移動用台車を使い、最適な観測位置へと場所を変えることができるのだと。現在、科学運用は終了しているとのこと。直径10mの「ミリ波干渉計」パラボラアンテナ群。メインの移動には台車が用いられる仕組みなのであろう。重量は30トン/基あるのだと。「6.電波をとらえる工夫●見えない電波が見えるまで 電波の観測はどのように行われているのでしよう?天文学者は、電波望遠鏡を使って 集めた宇宙からのメッセージをどのように解読しているのでしよう?目に見えない電波を 見るために、さまざまな機器を使い工夫を重ねています。」 ズームして。1、パラボラアンテナ:電波を集める。宇宙からのとても弱い電波を受け止め、できるだけ 多く集める。 2、受信機:電波を受信する。電波を電気信号にします。 3、信号変換:処理のしやすい信号に変換する。アナログ信号をデジタル信号に変換します。 4、分光計:電波の強さを調べる。電波を周波数ごとに選り分け、周波数ごとに信号の強さを 調べます。 5、コンピューター:解析する。観測データを手元のパソコンに保存して解析します。 ここで、グラフや画像を作成します。 6、これらが、ようやく目で見られるようになった観測データです。天文学者は、 このデータをさらに詳しく分析し、宇宙のなぞを探っています。 銘板には1980年(40年前)に製造、三菱電機㈱製作と。八ヶ岳・阿弥陀岳であっただろうか?山頂をズームにて。「7.単一鏡と干渉計●単一鏡 文字通り、ひとつの鏡(バラボラ面)で観測する望遠鏡です。バラボラの直径が大きいほ ど解像度が高くなります。●干渉計 複数のアンテナをつないで観測する方法です。 小さいアンテナを広い範囲に展開することで直径の大きな アンテナと同じ働きを得ることができます。」●観測の役割分担 望遠鏡にはそれそれに特性があり、研究のテーマにより使い分けます。 まず単一鏡で広い範囲を調べ、干渉計を使ってその中の特定の範囲を詳しく調べるのが 一般的です。」干渉計とVLBI 干渉計:手をつないで一緒に観測 VLBI :タイミングを合わせて観測ここ以降の案内板の説明内容には、ついて行けない自分がいたのであったが。「8.国立天文台の干渉計●野辺山ミリ波干渉計 宇宙からの電波を観測する干渉計は、野辺山ミリ波干渉計を基にして発展しました。 テータを後で合成するVLBIの技術をつかって、天体までの距離を正確に測定する VERAと日本を含めた東アジア、北米、ヨーロッパが共同で建設した究極の電波 干渉計であるアルマ望遠鏡です。」●VERA(ベラ) ー 天文広域精測望遠鏡 ー 直径2,300kmの電波望遠鏡! 4ヶ所の観測局で同時に同じ星を観測します。●アルマ望遠鏡 ー アタカマ大型ミリ波サブリン波望遠鏡 ー「9.45m電波望遠鏡●第一線で30年日本初の大型電波望遠鏡として11982年に建設されてから30年以上、さまさまな研究成果をあげてきました。ミリ波観測の電波望遠鏡では、世界トップクラスの大きさ。複数の受信機を搭載し、観測の目的に応じて受信機を簡単に切り替えることができるのも大きな利点です。遠隔地からの観測を可能にするリモート化や性能向上への取り組みなど、現在もなお、進化を続けています。」愛称は「ヨンゴー」、45m電波望遠鏡のことを、野辺山観測所のスタッフは親しみを込めて 45(ヨンゴー)と呼んでいます。●45m電波望遠鏡の1年 12月~5月 :共同利用観測 空気が乾燥し、電波を観測するのに良い条件が揃う。 6月 ~ 9月 :メンテナンス 大気中の水蒸気が量が増えるのでシーズンオフ。 10月~11月:立ち上げ測定 共同利用観測に備え試験観測を行う。Topic : 4つの改良でパワーアップ!30年もの間活躍してきた 45m電波望遠鏡の性能劣化に対して、2015年大規模な改修を行った。 ①パラボラの精度がアップ! ②天体に焦点を合わせる精度がアップ! ③電波を受信器に届ける効率がアップ! ④高性能の受信機で観測効率アップ!「10.観測装置の開発 より高性能を求めて●高性能の観測装置宇宙からの電波はとても弱いので、観測装置には高性能、高感度が求められます。また、新しい観測装置は、従来にない新しい観測を可能にします。そのため、観測装置の開発や改良も電波天文学では重要な研究テーマです。●野辺山での受信機開発アンテナの性能は、建設当初から大きく変わることはありませんが、受信機の性能は、技術革新により何倍も良くなります。野辺山では当初より、独自の受信機開発に取り組み、これまでに数多くの優れた受信機を生み出しています。」Topic:新型受信機 FORESTTopic:野辺山からチリへ ASTE(アステ)「11.観測環境を守る●便利な時代と電波天文電波天文の観測では、人工的な電波がノイズとなり観測を妨げる場合があります。また、天体からの電波と同じ波長の人工的な電波を望遠鏡が受信してしまうと、どちらから届いた電波なのか見分けがつかなくなることもあります。」●目で見ても、電波で見ても美しい空星の名所として知られる野辺山は、電波の空も美しい所です。山に囲まれているため、人工的な電波が遮られ、観測を妨げるノイズが少ないのです。しかし、最近はさまさまな人工電波の登場で、電波天文の観測がだんだん難しくなっています。国立天文台では、電波天文周波数小委員会を設置し、産業界と環境を守る活動を続けています。」Topic:大発見! でも、実は・・・・・・・オーストラリアのバークス天文台で、宇宙からのものとされる謎の電波が検出されました。ペリュトンと名付けられたこの謎の電波は、17年もの間、研究所の議論を呼んでいましたが、最近の詳しい調査により、電子レンジが出す電波だったことがわかりました正面に45m電波望遠鏡が動いていた。空に向かってジワジワと動く。180度の垂直方向で停止。別の説明板によると、6月~ 9月はメンテナンス期間であると。大気中の水蒸気量が増えるこの季節は観測に適さないので、いわばシーズンオフ。この間に大規模なメンテナンスや装置の改良を行います と。「12.電波で見る宇宙●野辺山が観測する天体野辺山では、宇宙から届く電波(ミリ波、センチ波)を観測することにより、星の材料となるガスやちりの分布、宇宙にある分子、太陽の活動などを調べています。観測の対象は、身近な天体である太陽から1 00億光年かなたの宇宙までと多岐にわたります。宇宙から届く電波は、目では見えない新しい宇宙の姿を描き出しています。」Topic 野辺山で観測しているテーマ●太陽の活動 ●星・惑星の誕生●宇宙に漂う分子 ●銀河面サーベイ●銀河とブラックホール ●初期宇宙「13.宇宙に漂う分子●分子から見える宇宙広大な宇宙空間には、私たちの身の回りと同じように、さまざまな分子が存在しています。宇宙空間には、どのような分子があり、どのような化学反応が起こっているのか。これらを調べることは、生命の痕跡の発見や銀河系誕生のメカニズムを解き明かす手がかりとなります。●分子の発見電波望遠鏡による観測で、これまでに180種類以上もの分子が発見されています。地球上では存在できない不安定な分子が多数ある一方、水、塩、酢、アルコールなど私たちの生活になじみの深い分子もあることがわかっています。」「14.星・惑星の誕●星のゆりかごを見るオリオン座にあるオリオン大星雲を45 m電波望遠鏡で観測すると、一酸化炭素分子ガスがたくさんあることがわかりました。分子ガスは星の材料だと考えられています。このことから、ここでは星がたくさん生まれていると考えられ、星の誕生を研究する上で重要な観測領域となっています。●星からガスへ、ガスから星へ分子ガスが集まって誕生した星は、やがて宇宙空間にさまざまな物質をばらまいて一生を終えます。ばらまかれた物質は、また集まって分子ガスのかたまりとなり、新しい星を生み出します。宇宙では、このような物質の循環が、長い年月をかけて何度も繰り返されています。」「15.銀河とブラックホール●銀河の中心にひそむブラックホール45m電波望遠鏡とアメリカのVLBA電波望遠鏡を用いて水蒸気の出す電波を観測したところ、M106という銀河の中心に秒速1000kmで高速回転するガスの円盤があることがわかりました。この観測結果からM106の中心には、太陽の3900万倍もの質量をもつ巨大ブラックホールがあることがわかったのです。発表した1995年当時、ブラックホールの存在を観測で明らかにしたのは、これが初めてのことでした。今では、ほとんどの銀河の中心核には、巨大ブラックホールがあるといわれています。」「16.初期宇宙にせまる●より遠くの宇宙は、より過去の宇宙光や電波は宇宙を一定の速度で旅してやっと地球に届きます。1光年の距離にある天体からの」電波は1年かけて地球に届くので、私たちはその天体の1年前の姿を見ていることになります。私たちが見ている宇宙はすべて過去の姿なのです。野辺山では、100億光年かなたの宇宙から届く電波を観測しています。それは1 OO億年前の初期宇宙からのメッセージ。宇宙の成り立ちをひも解くカギとなる情報です。●初期宇宙はどんな世界?遠い宇宙の観測により見えてきた初期宇宙は、数多くの銀河が生まれる創生期の宇宙。そこには大量のガスに包まれ、すさまじい勢いで星を生み出しているモンスターのような銀河(モンスター銀河)が発見されています。銀河は暗黒物質(ダークマター)が多いところに誕生し、中でも暗黒物質が特に過密なところでモンスター銀河が誕生すると考えられています。」「17銀河面サーベイ●電波写真でわかる分子ガスの分布電波天文では多くの場合、分子ガスが集まっている場所を観測するのですが、広大な宇宙のどこに分子ガスが集中しているかを特定するのはとても難しいです。そのため、ガスの分布がわかる地図を作るのも、重要な研究のひとつです。」●FUGIN(ふうじん)プロジェクトForest Ultra-wide Galactic plane survay Nobeyama野辺山では、国内外の大学と共同で、天の川銀河の電波写真を撮り、分子ガスの分布の様子を表そうというプロジェクトを推進しています。2014年にスタートしたこのFUGINプロジェクト。完成すると、世界ーのピクセル数を誇る高い解像度で、満月約600個分に相当する広い範囲の「電波の地図」を手にすることができます。」Topic FUGlNから始まる新たな研究●宇宙での物質の滝●天の川全体の分子雲の構造●光やX線等での観測との比較45m電波望遠鏡の前に到着。「IEEEマイルストーン銘板2016年8月、野辺山45m電波望遠鏡がIEEEマイルストーンに認定されました。IEEE(アイトリプルイー)とは、世界160カ国以上に42万人の会員を持つ、電気、電子、情報、通信等の分野における世界最大の学会のことです。IEEEマイルストーンとは、これらの分野における革新的な技術の中で、開発から25年以上経過し、地域社会や産業の発展に多大な貢献をした歴史的業績を認定する制度です。野辺山45m電波望遠鏡は、国立天文台(当時は東京天文台)と三菱電機株式会社によリ1982年に完成しました。以来、巨大ブラックホールの発見など画期的な成果を挙げ、現在に至るまで世界第一線の電波望遠鏡として活躍し続けています。この銘板は、2017年6月にIEEEマイルストーン認定に伴って贈呈されたものです。野辺山45m電波望遠鏡の業績が記され、国立天文台三鷹キャンパス内見学室と野辺山キャンバスの45m電皮望遠鏡敷地に展示されています。IEEEマイルストーン認定の理由45m電波望遠鏡は、ミリ波帯での観測では世界最大級の口径を誇るアンテナにて、高感度と高精度を実現した望遠鏡です。1982年の完成から今日に至るまで、宇宙物理学や星間化学の進歩に大きく貢献してきました。宇宙にある分子、メーザー、プラズマからの電波を観測することによって、プラックホールの発見や新分子の検出など、我々の銀河系や他の銀河に存在する星間物質の理解を深めてきました。45m電波望遠鏡は、それまでのミリ波電波望遠鏡に比べて4倍以上の大きな口径を持ちます。そのため、ミリ波での観測に必要な指向精度と鏡面精度を実現するのが大きな課題でした。指向精度については、「マスターコリメータ」と呼ばれる望遠鏡の構造とは独立な構造をもつ工ンコータ方式を開発することで達成しました。鏡面精度を悪くする自重変形については「ホモロカス変形法」を導入することで抑え、熱変形についてはアルミハニカムをはさんだ(CFRP (炭素繊維強化プラスチック)鏡面バネルの製作とアンテナ後面部の日除け/ゞネル設置と内部空気循環の導入によリ抑え込むことができました。また、野辺山宇宙電波観測所では45m電波望遠鏡を運用開始した1982年よリー般見学を開始しました。以来、今日までに、見学者が300万人を超えるなど、社会的にも大きな貢献をしています。」パラボラアンテナを見上げる。「ぷち展望台」は「作業中 立入禁止」と。銘板「東京大学東京天文台 大型宇宙電波望遠鏡観測装置 45m電波望遠鏡」。完成年月:1981年12月 製造会社:三菱電機株式会社(19)45m電波望遠鏡のしくみ45m電波望遠鏡は1982年に完成しましたが、その後も性能向上をめざして毎年改良を行い、今日でもミリ波と呼ばれる波長の短い電波では世界でトップクラスの観測装置です。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.02
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国道141号線を北上していき、長野県南牧村に入り、右斜めに折れ進むと左手にあったのが、「JR鉄道最高地点」の木製の標柱。長野県南佐久郡南牧村大字野辺山214−34。標高1375mと。最高地点があるのは、野辺山~清里間の線路と、国道141号の旧道が交差する踏切。線路北側にJR鉄道最高地点の標柱、南側に「日本鉄道最高地点の石碑」が立っていた。JRが「鉄道最高地点」といわず、「JR鉄道最高地点」と称しているのは、立山黒部貫光の室堂駅(標高2450m)の方がはるかに標高が高いためであるとのこと。立山黒部貫光の立山トンネルトロリーバスは、架線から電気を得て走る「無軌条電車」で、実は鉄道の扱い。ロープウェイ(鉄道事業法では「普通索道」 )を含めれば、駒ヶ岳ロープウェイ千畳敷駅(標高2612m)が最高所。つまりは、通常の「線路を走る鉄道」での最高点がこの野辺山の踏切ということになるのだと。これが[JR」と頭に付いている理由と。木製の標柱の前には、レールと大きな車輪そして朱の鳥居の神社が。「鉄道最高地点神社標高1375mの野辺山高原の地点はJR鉄道最高地点となります。2005年「JR最高地点を愛する会」がこの地に神社を建立しました。ご神体は、実際に活躍した「レール」、神社のシンボルは「車輪」。これは、ニつの車輪の様に夫婦が仲よく力をわせていく様にとの想い。また、標高の数字(1375)は「ひとみなこうふく」「ひとみなごうかく」ど読める事から日々の暮らしの中で最高地点を目指して頂きたいと祈願しての建立です。雄大な八ケ岳を臨むこの神社で、皆様に幸福、合格が訪れますことを析っております。」神社の朱の鳥居の先には、歴史を感じさせる鳥居も。そしてその奥には御神体のレールと車輪が。「絵馬」奉納所。右手に「和風レストラン」JR最高地点に隣接する標高1375メートルに因んだ山小屋風の建物が特徴の和風レストラン。八ヶ岳を臨む。雲が足早に流れて。「赤岳」。「赤岳」山頂には山小屋・赤岳頂上山荘が。日本百名山、八ヶ岳主峰赤岳の頂上、標高2899.2mの山小屋。360°の思わず息をのむ大展望が目の前にとのこと。「赤岳」山頂左下の険しい突起・大天狗そして小天狗。「レストラン最高地点 蕎麦製粉所」。標柱の前の車輪そして「C5626」と書かれた銘板が。「SL-C56型26号 主動輪八ヶ岳高原を走ったC56型蒸気機関車「高原のボニー」という愛称で多くの方々に広く愛されていました。戦前は小海線にて客車や貨車を牽引し活躍しましたが、戦時中はタイで輸送任務を担っていました。戦後、鉄道研究家で鉄道写真家の塚本和也氏により主動輪のみが日本に帰還しました。平成28年7月「平和」への思いを多くの方に伝えるため、かっての活躍の地南牧村へ寄贈されました。来歴昭和11年2月 製造(汽車製造株式会社)昭和11年11月 小海線機関区に配属 小海線で活躍する昭和14年3月 岩見沢機関国転属 北海道で活躍する昭和16年 アジア・太平洋戦争、南方の戦場へ出征昭和50年頃 廃車となる昭和52年5月 動輪1基が日本に帰還。塚本和也氏宅の庭で保管される平成28年7月 塚本和也氏より南牧村へ寄贈される。77年ぶりの里帰り。 野辺山駅前に設置平成30年10月 鉄道最高地点に移設し永久保存」高原列車の代名詞ともいえるJR小海線(こうみせん)は、中央本線小淵沢駅(山梨県北杜市)としなの鉄道に接続の小諸駅(長野県小諸市)間の全長78.9km、29駅を結ぶ小海線。日本の鉄道の上位9駅までを独占する標高の高い駅が続き、野辺山駅(のべやまえき)近くで1374.906mのJR鉄道最高地点(長野県南牧村)を走っているのです。1時間に1本あるかなしかのJR小海線。時刻表がこの踏切近くに置いてくれればと・・・。そして踏切を渡り駐車場側にあった石碑。「野辺山高原 JR鉄道最高地点 標高1375米」と刻まれた石碑。記念撮影の絶好のスポットになっていた。石碑には「幸せの鐘」が吊るされていた。権現岳の山頂であっただろうか?そして次の訪問場所の「国立天文台 野辺山電波観測所」に向かう。国道141号線・清里ラインの脇には「高原野菜直売 わたなべ」が。そして「←野辺山宇宙電波観測所」の案内板に従い、この先を左折して収穫がほぼ終わったレタス畑の中の道を進んで行ったのであった。「←野辺山宇宙電波観測所」の宇宙と電波の間に3文字分の空白が追加されていたが、調べてみると昔は「野辺山宇宙・太陽電波観測所」の名称であったようだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.01
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この日は9月14日(月)、テレビで長野県佐久市にあるコスモス街道のコスモスの花が満開であるとのことで、旅友を誘って日帰りドライブで行って来ました。併せて、JR小海線の「JR鉄道最高地点」、国立天文台「野辺山宇宙電波観測所」そして続日本百名上の「龍岡城」も訪ねたのでした。前回と同様に6時に茅ヶ崎のお宅に我が車で行き、旅友の車に乗り換え出発。全空きと同様に134号を小田原方面に進み平塚市の「花水川橋」を渡る。そして西湘バイパスに入り「大磯西IC」で降りる。国道1号の「川匂神社入口」交差点を通過し押切坂を下る。先日のテレビで「国道1号線」ではなく「国道1号」であることを知ったのであった。国道の路線名や起終点、経由地を規定した「一般国道の路線を指定する政令」において、各国道の路線名は「〇号」と、「線」が付けられていないのだと。したがって国道においては、「国道1号」などと「線」を付けない表現が正当であるのだと。前回と同様に「岡入口」交差点を右折。東海道線の「曽我街道架道橋(ガード)」を通過。「御殿場線」下を通過。かながわ景勝50選「曽我梅林」の「中河原梅林」横を進む。県道72号線・松田国府津線から国道255号線に入ると神奈川県足柄上郡大井町にある高層ビルが見えた。かつては第一生命保険の本社ビル。現在は「未病バレー BIOTOPIA(ビオトピア)」内のテナントビルとして、ブルックスホールディングス大井事業所の所在地となっているのだと。BIOTOPIA(ビオトピア)とは「BIO」(いのち輝く社会の実現)と「UTOPIA」(未病改善の取り組みを実現する理想的な里)を表していると。me-byo valley(未病バレー)という言葉には神奈川県西地域全体から未病改善を「集積」「創造」「発信」し、健康な社会を実現するための場所にしていきたいという思いを込めているのだと。BIOTOPIA(ビオトピア)では自然の恵みが集まる「食」、身体を整える「運動」、五感を解放する「癒し」、これらをコンセプトに子供から大人まで全世代が楽しく「未病」改善体験ができるとのこと。籠場インターから国道246号に入るが暫しの渋滞に巻き込まれる。右の高架が東名高速道路。前方左の山の頂上にあるのが株式会社トヤマの本社工場。国道246号から「吾妻山トンネル」手前の高架橋を右手に見る。東名高速道路上り車線下を通過。新鮎沢橋を渡り静岡県小山町に入る。「静岡県へようこそ」と。国道246号・裾野バイパスから工事中の第2東名を見る。国道246号・「菅沼」交差点を右折し県道151号線・須走小山線に入る。坂を登っていくと濃霧が。県道151号から138号に入り山中湖に向けて坂道を進むと左手にあった案内板。「藤原光親卿遺跡承久役殉難五の一人正二位權中納言按察使藤原光親卿は承久三年(西歴1221年)七月十三日鎌倉護送の任に当たれる執權北條義時の家人武田信光によって当所よリ上方三百メートルの地点に於いて斬首、昭和三年今上天皇載冠式に際し、從一位を贈らる。」永久の変(永久3年)のとき、後鳥羽上皇が北条氏の討伐の企てに際し、藤原光親卿は極力時期尚早を上奏しましたが聞き入れられず、義時追討の案文を書いた。謀議はいち早く鎌倉にもれ、謀議に参加した光親卿は捕われの身となり、甲斐武田五郎信光により、鎌倉護送の途中の篭坂峠において斬首された。毎年5月に地元の人々により、慰霊祭がとり行われていると。「藤原光親卿墓所」の標柱そして山中湖畔に向かって進む。国道138号・「富士見バイパス南」のポールの上には、山頂に雪を冠った富士山を形どったパネルが。「北口本宮冨士浅間神社」の鳥居が左手に。「富士山」の稜線が一瞬だけ。「東恋路」交差点を右折して河口湖方面に進む。県道707号を河口湖に向かって進む。正面の山が黒岳(御坂黒岳)(標高1792m)。右手に「不動茶屋」と「河口湖北原ミュージアム」。「河口湖大橋」を渡るがこの日も富士山の姿は雲に隠れて。「追坂トンネル」を抜ける。国道20号・甲州街道に入り西に進む。左手に三つのドームがある建物は「ドン・キホーテ いさわ店」。甲州街道をひたすら進み韮崎市の「船山橋北詰」交差点を右折して「清里駅」を目指す。左手奥に見えたのが「韮崎平和観音」。昭和36年、市民の平和や登山者らの安全を祈願して市街を一望できる七里岩南端に建立された。製作には2年2ヶ月かかり、昭和36年10月13日に高さ16.61m、体重305tの像。JR中央線の下を潜る。前方に「韮崎高校」の案内板が。サッカーの中田英寿の母校であると旅友から。国道141号・清里ラインを進む。八ヶ岳の「編笠山」が見えて来た。そして前方にユニークな形の歩道橋が姿を現した。「道の駅 にらさき」と書かれた案内板が。左手には日帰り温泉施設「ゆ~ぷるにらさき」。巨大な球体が印象的な建物・「ゆ~ぷるにらさき」。道路を挟んで向かい側が「道の駅にらさき」となっていた。「道の駅にらさき」から八ヶ岳を見る。清里ラインには、小振りなサルスベリが開花中。小須田牧場手前にあった水車小屋。山梨県北杜市から長野県南牧村に入る。 ・・・つづく・・・
2020.09.30
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